「判決とテロル」資料4:亀井志乃「準備書面(Ⅱー3)ー平原一良「陳述書」への反論ー
事件番号 平成19年(ワ)第3595号
損害賠償等請求事件
原告 亀井 志乃
被告 寺嶋 弘道
準備書面(Ⅱ)―3
(乙12号証 平原一良「陳述書」への反論)
平成20年5月14日
札幌地方裁判所民事第1部3係 御中
原告 亀井志乃 印
はじめに
本訴訟における原告は、平成18年度に民間の財団法人北海道文学館に嘱託職員として働いていた民間の一市民ですが、被告は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員であり、それ故訴訟の焦点は公務員である被告が民間人である原告に対して繰り返し人格権侵害の違法行為を働いたことにあります。故に私は「訴状」においても「準備書面」においても、被告が原告に働いた人格権侵害の行為事実の確定と、その行為の違法性の指摘に集中してきました。その間私は、被告の人格を論じ、被告の人間性を批判し非難する表現は謹んできました。それが訴訟におけるルールだと考えたからです。
しかるに、去る4月16日の法廷において渡された平原一良氏の「陳述書」は本訴訟の基本的な争点には一切言及せず、いわば故意に無視して、原告の業務態度や遂行能力及び原告に(ママ)人格の(ママ)関する中傷に終始していました。しかもその内容たるや、虚偽や事実の歪曲に満ちています。
平原一良氏のこのような書き方が、本訴訟事件の争点を明確にする上で果たしてどれだけ有効であるか、極めで疑わしい。とは言え、平原一良氏の意図は明らかに被告と口裏を合わせる形で、原告に関するネガティヴな印象を裁判官に与えることにあり、原告としてはとうてい看過し得ないところです。
よって、私は本「準備書面(Ⅱ)-3」において、平原一良氏の「陳述書」における事実の歪曲や虚偽を一つひとつ摘出して、その記述の根拠なき所以を明らかにし、よって以て平原一良氏の陳述に対する反論としたいと考えます。
なお、本「準備書面(Ⅱ)-3」における、1)、2)……等の小見出しは、平原一良氏の「陳述書」の小見出しに準じ、同「陳述書」からの引用文は「 」内に青文字で示し、それに対する私の反論は黒文字を用います。また、平原一良氏の呼称に関しては、過日の「陳述書」を書いた時点における平原一良北海道立文学館副館長を指す時には、「平原一良氏」または「平原氏」と表記することとし、それ以前の時点にける同氏を指す時には、その時の役職名を付して表記することに致します。
Ⅰ、平原一良氏の「陳述書」に対する反論
1)「2 平成18(2006)年3月まで」について
1ページ9~14行目
「平成13(2001)年の春先、私(当時、事業課長)は、北海道立文学館(以下、当館と呼びます)で開催された会議に来られた亀井秀雄氏(市立小樽文学館長・当財団理事)から「ボランタリーなかたちで構わないので、いま自宅に居る娘(亀井志乃氏。以下、必要に応じ同氏と呼びます)にしばらく文学資料の整理の仕事などをさせてはくれまいか」との依頼を受け、理事長以下幹部に相談して了解を得て、同年初夏から初冬にかけ、亀井志乃氏に寄贈資料の整理に当たってもらいました。」
まず明らかな誤りを指摘しておけば、平成13(2001)年、私が北海道立文学館のボランティアとして寄贈資料のデータベース作成に行くようになったのは3月のことです。初日は3月7日であり、その週からすぐに、週2日のペースで通うようになりました(甲81号証の1)。また、最初に同文学館を訪れて平原一良事業課長(当時)から作業内容の概要を説明されたのは同年2月16日のことです(甲81号証の2)。
付言すれば、私の父である亀井秀雄と平原事業課長とがボランティアの件について会話したのも、春先ではなく、同年2月の理事会が始まる前のことでした。
以上の記録、および甲70号証として提出した私の履歴書を合わせてみれば明白なように、私は、同年2月の段階ではまだ北海道大学文学部北方文化論講座に非常勤職員(事務補助員)として勤務していました。したがって、亀井秀雄と平原事業課長との間にどのような会話があったとしても、亀井秀雄が「自宅に居る娘に仕事をさせてくれないか」云々と依頼したことはあり得ません。
また、道立文学館における資料整理の積み残しはこの時以前からの懸案であって、平原事業課長も、しばしば理事らにボランティア作業員の必要性を口にしていました。決してこの時、突然に、かつ一方的に、亀井秀雄から仕事の話が持ち出されたわけではありません。
私は当時、平成12年度の年度末に、北大の非常勤職員の期限切れ(3年間)を控えていました。また私にとって、文化施設で働くことは、かねてからの念願でもありました。後日、ボランティアの件を父親から伝え聞いた私は、自分が将来どんな文化施設で働くようになるかはわからないが、しかし道立文学館での仕事は一つのよい経験になりそうだと思い、改めて文学館にお願いしてみることにしました。ボランティアの話は、こうして具体化したわけです。
ボランティア作業は、平成13(2001)年3月7日(水)から、同年10月30日(火)まで行われました(甲81号証の3)。また、同年11月22日(木)、私は〈作業の御礼に〉とのことで平原事業課長(当時)に「サンマルク」(レストラン)に招待され、工藤正廣北海道大学教授(当時。現財団法人北海道立文学館理事)と夕食を共にしています(甲81号証の4)。
このように、私の文学館でのボランティア作業は“初夏から初冬(の半年程度)”ではなく、8ヶ月にわたっています。また、この話が起こった当時、私は無職で家にいたわけではありません。
1ページ14~15行目
「この間、同氏へは当財団から月ごとに交通費実費が支給されました。」
これはまったく事実に反しています。
平成13(2001)年4月に財団から私の銀行口座に振込があったとき、その名目は、「半年分(3月~8月)の交通費」でした。しかし同じ頃、失業保険受給手続きのため岩見沢ハローワークに行った私は、「失業認定申告書」にその金額を書き込んだ際、ハローワークの職員から「札幌に週2回、半年分の交通費としては少し多すぎるし、端数もあるようだが?」と不審がられました(甲82号証の1・2)。また、これに先だって交通費についての説明を受けた際に、私は、平原事業課長(当時)から「実は、亀井さんに交通費を渡す事は、文学館内では伏せられている(甲82号証の2)。これは、支出項目をどこにするかとか色々なことで、問題が生じそうだからである。ただ、私はその点について気にすることはない」という意味のことを言われていました。
しかし私は、収入のことについては一応明確な形にしておきたかったので、平原事業課長を通じて文学館事務に明細書を依頼し(甲82号証の2)、後日、ハローワークに提出しました。3ヶ月後からは失業保険も無事受給できました。ただこの時、なぜ私のボランティアに伴う交通費支出に不明瞭なプラスアルファがついていたのか/つけたのかということについては、平原事業課長自身からは何らの説明もありませんでした。
なお、残りの「交通費」(9月・10月分)は、同年11月16日以降、私の口座に振り込まれています(甲82号証 の3)。
1ページ16~18行目
「この整理作業は、北海道立文学館1階の和室で行われましたが、他の財団スタッフは直接かかわることなく、同氏ひとりで進めてもらいました。他のスタッフらとの仕事上の接触は、最低限必要な場合を除いてほとんどなく、」
確かに私が一人でいる時間は多かったが、折りに触れて学芸員(当時は事業課所属)からコンピューターの使用法やデータベースソフトについて教えてもらったりもしていましたし、事務職員(当時は管理課所属)とも、作業の上で様々な交流がありました。(甲82号証の4・5・6・7)
1ページ19~20行目
「したがって、特記すべき人間関係上の軋轢もなく淡々と作業が進み、区切りのついた同年末に同氏と当財団との関係は終了しました。」
既に「1ページ8~13行目」の項で既に反論しておきましたように、作業の区切りがついたのは同年末ではなく同年10月31日のことです。
また、その時、「同氏と当財団との関係」は「終了」したのではありません。甲81号証の4にもあるように、11月の会食の際、平原事業課長(当時)から私は、ボランティアの際データベース化した和田徹三資料についての解説を、文学館の紀要に書いて欲しいと依頼されています。翌年(平成14年)私は、家族とアメリカに滞在し、帰国したのち、再び平原事業課長から要請を受け、「和田徹三旧蔵書籍解説」を道立文学館に寄稿しています。この文章は、文学館紀要「2002年 資料情報と研究」に収録されました(甲83号証)。
2ページ12~20行目
「しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高くなりました。博士号を有する研究者としてのプライドを備えた同氏への妬視が含まれていると判断し得る声もありましたが、必ずしもそうではないケースも認められました。ともかくも、常設展示リニューアルと道立文学館開館10周年記念行事を控えた大事な時期でしたから、そうした声を届けてくるスタッフを諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労した記憶があります。常設展示のリニューアル作業が進む過程の大詰めの時期においては、学芸・業務両課スタッフ総動員で展示設営をこなし、同氏も最終段階では展示室での作業に加わるなど、積極的な参加の姿勢が見られました。」
ここに言う「リニューアル作業」とは、平成17(2005)年11月2日(水)に開催された北海道立文学館開館10周年記念行事の一環として、常設展をリニューアルすることとなり、それに向けた作業のことです。この年度は、私は財団の嘱託職員に採用されており、常設展のリニューアルに関して言えば、主担当の平原学芸副館長をサポートする、副担当の立場にいました。
平原氏によれば、この作業の間、「複数の女性スタッフ」から私について「異議あり」という言葉がしばしば氏のもとに届いていたということですが、「複数の女性スタッフ」とは誰を指すのか、平原氏は明記していません。また「異議あり」とは私の仕事ぶりについてなのか、そもそも私が嘱託職員として勤務していることについてなのか、曖昧であり、私としては何とも判断のしようがありません。
ただ、こういう曖昧で、思わせぶりな書き方は、平原氏の記述の信憑性を疑わせる効果しかもたらさないでしょう。なぜなら、「リニューアル作業が佳境を迎える夏頃から」というのはまったく実態に合わないからです。実体を言えば、常設展リニューアルに向けての作業は春・夏の間はほとんど進んでいませんでした。初めて具体的に作業が開始されたのは同年9月22日(木)からです(甲84号証)。
また、リニューアルにともなう私の作業は、「最終段階で」「展示室の作業に加わ」っただけではない。これもまた実態に反する記述であり、私の行っていた作業を不当に軽視したものと言わざるをえません。
このあたりの事情は、私の勤務実態や、他の職員との関係だけでなく、平原学芸副館長の勤務の実態を知る上でも非常に重要な点だと思われるので、以下に、平成16年度の冬から平成17年度、そして常設展リニューアルまでの流れを箇条書きにしておくことに致します。
①平成16年12月22日(水)、常設展示見直し部会(第1回)が行われた(甲85号証 部会資料抜粋)。部会で中心となり、参加者に趣旨説明をしたのは平原一良学芸副館長(当時)であった(甲85号証 「常設展見直し部会の皆さまにご協力いただきたい事柄」)。しかし、見直し部会はこの1回きりで、その後、二度と再び開かれることはなかった。
②平成17年度に入り、事務分掌において、平原学芸副館長は「常設展展示替えに関すること」の主担当になった(乙9号証)。亀井が副担当であった。
亀井は、平原学芸副館長から「見直し部会の先生方(協力者)から送られて来る見直し案をもとに、「常設展示『北海道文学の流れ』更新案」の年表を作成して欲しい」と依頼され、作業にとりかかった。見直し案は6月前後からぽつりぽつりと各所より届く程度であったが、亀井はそれらを詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表としてまとめた(甲86号証)。作業進行の過程では、そのつど平原学芸副館長にも目を通してもらった。しかし、学芸副館長からそれ以上の指示はなく、結局、これらの年表はリニューアルにまったく生かされなかった。
③また、平成17年春頃、亀井は、リニューアルにともなって各コーナーのキャプションを日本語英語の二カ国語表記にしてはどうかと思い立ち、平原学芸副館長に提案した。学芸副館長もその時点では快諾し、英文は亀井が下書きすること・文章のチェックは「平原学芸副館長が知り合いの、大学の英語の先生にお願いする」ということに話がまとまったので、亀井は他の作業の傍ら、自分の作業を進めた(甲87号証)。しかしこの英文キャプションは、リニューアルオープンを間近に控えた同年10月16日(日)に、平原学芸副館長から突然、亀井に、「英語チェックをするはずだった先生は、ご家庭内に事情が生じたため、チェックは出来なくなった」と告げられ、キャプション作成作業はそのままストップした。そして、この二カ国語表記キャプション案は、その後再び日の目をみることはなかった。
④亀井は②、③の基礎作業を進めていたが、しかしこの時期、他方では、具体的な常設展プロジェクトは何も動かなかった。亀井及びH学芸課長(当時)・K業務主査(当時)はしばしば平原学芸副館長に進捗状況を問い合わせたが、いつも「○○先生からの展示案がまだなので、僕から連絡しておくからちょっと待って」等という返事が戻って来るだけであった。見直し部会も開かれなかった。
⑤9月17日(土)に平原学芸副館長から、常設展の内照パネル(内側からライトで照らすタイプのプラスチック写真パネル)に使う写真数枚に関する指示が出(甲88号証)、同月22日に漸く常設展の具体的な準備が始まった(甲84号証)。しかしその時も、亀井に、内照パネルの写真に合うような文学作品のテキストを抜粋しておくよう指示が出ただけだった。9月29日(木)の課内打合せで、やっと展示替えの作業分担案が平原学芸副館長から示された(甲80号証「常設展示室替えに関わる作業と分担について」及び「常設展示室 展示換え作業について」)。
⑥10月4日(火)に常設展示室がクローズとなり、展示設営が開始されることとなった。この月、職員勤務割振(甲89号証)で予定されていた学芸副館長の勤務日は21日間だった。だが、この頃、平原学芸副館長は図録『ガイド 北海道の文学』の執筆編集を理由にして、道立文学館に出勤しないことが時々あり、出勤日にも勤務時間中フルにいることは少なかった。現場への指示も滞りがちだった(以下の記録は、甲90号証 2005年度原告手帖の記述に基づく)。
10月5日(水) 平原学芸副館長が午前は外勤、午後は会議だったため、課内打合せ延期。
同8日(土) 平原学芸副館長、3時頃に一旦出勤してすぐにまた退出。H学芸課長打合せ出来ず。
同9日(日) 平原学芸副館長欠勤。指示来ず。学芸課作業停止。
同12日(水) 平原学芸副館長・H学芸課長・O学芸員(当時)・私の4人で作業打合せ。しかし、学芸副館長とO学芸員が話を前へ進めないので、途中から学芸課長が進行役をつとめる。
同15日(土) 平原学芸副館長、サードワーク(検索機業者)にアポイントを忘れていたので、代わりに亀井が連絡をとる。
同16日(日) 亀井、学芸副館長より「英語チェックのK先生、家庭の事情で×」と告げられる。英語キャプション作業実質停止。(前述)
同18日(火) 亀井、非出勤日。A司書(当時)より「みんな少し壊れてきています」(作業進捗しないため)との携帯メール受ける(甲91号証)。
同19日(水) 学芸副館長午前中休み。午後から出勤するも、「短歌・俳句の出品リストが先生方から来ていない」との理由で作業停止。
同20日(木) 学芸副館長外勤、出勤は夕方。朝、「今日の展示作業はストップ」とH学芸課長に指示あり。
同22日(土) 学芸副館長、午前11時頃に出勤。S社会教育主事に「今日は特に常設展の動きはなし」と指示。
同23日(日) 学芸副館長欠勤。「自宅で図録の校正をする」と連絡。
同26日(水) 学芸副館長、午後3時前頃に出勤。学芸課職員、この日はじめて、学芸
副館長より展示壁面設計を渡される。学芸副館長は、図録校正で徹夜した事を理由に午後4時半に帰宅。
同27日(木) 学芸副館長、午前10時前に昌文堂(業者)と打合せ予定。しかし遅刻。
同29日(土) 学芸副館長、昼前頃出勤。常設展の指示を出して夕方前に帰宅。
同31日(月) 亀井がデータを作成した文学碑検索機、サードワーク(業者)により常設展示室に設置。サードワークO氏は午後1時に文学館に到着、しかし学芸副館長は45分の遅刻。また、O氏・私と共に検索機を試用した平原学芸副館長は、O氏の前で「まぁ、こんなもの、こけおどかしだけどな。じいさまたち(道立文学館理事ら)が喜ぶんだよな」と発言。
11月1日(火) 展示準備最終日。亀井はこの日は非出勤日だったが、出勤して展示設営を行った。亀井は午後9時まで、他の職員は午後11時まで残って作業にあたった。学芸副館長は時折現場に来て指示を出していたが、夕方からは小説家の吉村昭氏を出迎えにゆき、そのまま接待にあたり、直帰した。
以上の記録から読み取れるように、
(a)リニューアル作業が佳境に入ったのは平成17年夏頃ではなく、リニューアルオープン直前の10月26日からだった。
(b)当時の平原一良学芸副館長の出勤状況は変則的であり、10月4日から11月1日までの間には、欠勤・遅刻・早退した日がきわめて多かった。
(c)その間、私は、水・木・土・日の勤務曜日にフルに出勤し、他の学芸職員とも携帯メールで緊密に連絡を交わしながら(甲91・92号証 A司書メール)準備作業および現場作業を手伝っていた。平原学芸副館長の代わりに外部業者との連絡・応対に当たることもあった。10月31日(月)・11月1日(火)は、現場の状況があまりにも切迫していたため、私は休日出勤して作業に当たった。通常は嘱託の時間外勤務についてチェックが厳しい業務課職員も、この時ばかりは私の休日返上や時間外勤務について異論をはさまなかった。
当時の実態は以上の如くです。それゆえ、平原現副館長の記すところの「リニューアル作業が佳境を迎える」頃に「複数の女性スタッフから、同氏(亀井氏)の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高く」なったのは、夏ではなく同年10月以降(正確には26日以降)のはずです。また、平原学芸副館長(当時)が「そうした声」を受け、猛忙を極めていたはずの「スタッフ」を「諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労」していた場所は、実際の状況に即すれば、道立文学館内であるという可能性はきわめて低い。とするならば、外勤先か、あるいは平原氏の自宅においてだったことになるわけですが、その点は極めて曖昧です。
もし、平原現副館長があくまでも「上記の内容に相違ないことを誓います」(乙12号証末尾)と主張するのであれば、平原氏自身の記録と書証に基づいて、正確に、いつ、誰から、どのようなシチュエーションにおいて、私に対する「異議あり」の声が平原学芸副館長(当時)に届いたのかを明らかにしなければなりません。それが出来ないならば、平原氏は根拠の曖昧な不特定の人の風評に基づいて、私の人格を貶めたことになります。
2ページ22~29ページ
「同氏の担当する文学碑データベース作成作業も一段落するころ、学芸課内では平成18(2006)年度以降の事業素案を検討するためたびたび課内ミーティングが行われました。同年度から導入される指定管理者制度下における新たな展開を想定し、4ヵ年間の事業案の作成作業を進める必要があり、私も参加しながら、学芸課長以下のスタッフで協議を重ね、幾つかの展示メニューが用意されました。これらの案は当財団の企画検討委員会(理事・評議員十余名で構成、財団スタッフも参加)における検討を経て煮詰められていくのですが、そのメニューのなかに亀井志乃氏の企画展『二組のデュオ』案も含まれていました。」
ここでも平原氏は、事実とは大きく異なることを書いています。というのは、「文学碑データベース作業」と「平成18年度以降の事業素案検討」という2つのプロジェクトの時間的な関係の捉え方が不正確だからです。
「文学碑データベース作業」は、平成17(2005)年7月に素案作りが始まり、7月16日付で各市町村への調査依頼の書類が決裁され(乙8号証)、同月17日に書類は発送されました(甲93号証の1)。8月中には、私が外勤に出て札幌市内の諸方にある文学碑の写真を撮影しています(甲93号証の2)。その後、私は、返送されて来る各市町村からの調査回答に加えて、文献等にあたりながら、同年10月12日(水)にデータベース作成を完了(データ総数747件)。結果をCD-Rに記録しています(甲90号証)。このデータは、11月2日に発行された図録『ガイド 北海道の文学』に「データベース 北海道の文学碑」として収録されました(甲68号証)。
従って、「同氏の担当する文学碑データベース作成作業も一段落するころ」というのは、現実に即していえば、平成17年10月12日以降でなければなりません。
ところが他方、学芸課内で、初めて「平成18年度以降の事業素案検討」が話題になったのは、同年6月8日(水)の学芸課内打合せの席でのことでした(甲94号証)。打合せ後、私が、嘱託である自分も案を出してもよいのかとH学芸課長に尋ねたところ、「いいですよ、なるべく沢山欲しいところなので」という返事だったので、私は6月16日(木)、「人生を奏でる二組のデュオ」展を含む5つの展示案を学芸課長に提出しました。その後、7月20日(水)・8月25日(木)の課内打合せの際に繰り返しH学芸課長から他の学芸職員に対して展示案提出をうながす発言があり、そして9月16日(金)には集まった展示案が課内打合せの席で紹介され(甲95号証)、9月29日(木)の企画検討委員会に向けて内容が絞り込まれました。
つまり、「学芸課内では平成18(2006)年度以降の事業素案を検討するためたびたび課内ミーティングが行われ」たのは、平成17年6月8日から9月16日までの間のことだったわけです。
従って、平原現副館長が、それぞれのプロジェクトが進行していた日時を明記しないまま、あたかも「文学碑データベース作成作業も一段落」したあとの短期間の話し合いの中で、「亀井志乃氏の企画展『二組のデュオ』案も含まれ」ることになったかのごとく書いているのは、時間的な前後関係を故意に混乱させた記述としか言いようがありません。
また、平原氏は、この直後の部分(乙12号証2ページ29~30行目)で、「このテーマは近代文学研究者の立場にもあった同氏がかねてから構想をあたためていたものと思われます」と、この展示案に私が執着する特別な理由があったかのような含みのある書き方をしており――多分次の段落の「予定にない氏の行動」(同上2ページ36行目)の伏線に使うつもりだったのでしょうが――、しかし「二組のデュオ展」は、この時点の私にとっては、あくまでも5つ出したアイデアのうちの1つでしかありませんでした。それが、平成18年度の企画展案の1つに加わることとなったのは、H学芸課長の構想および判断の結果です。
2ページ31~36行目
「事業素案検討のため、上記の委員会が開催されたのは平成17年9月29日のことでした。会議の席上、『学芸課の素案は個々の案についての説明文が不十分であり、粗い』との苦言がひとりの委員から厳しい口調で呈されました。その直後にとった亀井志乃氏の行動が私の印象に強く残っています。同氏は突然挙手し、『私の案は詳しい内容ができています。今コピーをとってきて、ご覧にいれます』と発言し、その場を出てコピーを用意して戻り、委員をはじめ出席者全員に配布しはじめたのです。」
平原現副館長の説明は、一見、客観的にこの時の状況を叙述しているようですが、「ひとりの委員からの発言」を故意に簡略化している。また、その委員の批判は展示案全般に呈されたものではなかったにもかかわらず、その点も筆を省いてしまっています。
まず平原氏が名前を明記していない「苦言」を呈した「ひとりの委員」について言えば、それは工藤正廣理事(当時北海道大学教授)でした。
また、この時、「2006(H18)年度の展示事業候補案」(甲96号証)として上がっていたのは、「石川啄木 ―貧苦と挫折を超えて―」「福永武彦/池澤夏樹~父子2代作家展~」「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎・里見弴と中戸川吉二~」「遙かなるサハリン~極北をめざした作家たち~」「知床の自然を描く~関屋敏隆絵本原画展~」の5つの展示案でした。
これらのうち、私が出した「二組のデュオ展」以外の展示案を説明しますと、「啄木展」と「福永・池澤展」は、平成17年6月頃から平原学芸副館長(当時)自らが強く推す原案であり、この時期にはすでに日本近代文学館(啄木資料所蔵先)や池澤夏樹氏にも内々で話を通していました。また、「〈サハリン〉展」は前年度まで学芸課長を務めていたA学芸員(当時、北海道教育委員会の文化課に異動)がかねてより案を練っていた企画です(ただし、この案は後に平成19年度にまわされ、しかも実際には19年度の事業からもはずされ、今年の平成20年度予定にも入っていません)。他方、関屋敏隆展は、毎年行われる〈ファミリー文学館〉(カテゴリーは「展覧会事業」ではなく「教育普及事業」)の一環であり、資料(原画)は剣淵町の「絵本の館」から借用することにほぼ決まっていました。
企画検討委員会では以上の平成18年度案と、それに加えて平成19(2007)年度以降の素案31タイトルが資料(甲96号証)の中で示されたわけですが、工藤正廣理事はそれを見て「だいたい、こんなものやってどうする、っていうのがずらっとならんでいるよ」、「『人生を奏でる二組のデュオ』とか! 『文学者の職業事情』とか、こんな思いつきみたいなものやったって、客なんか来ねえんだよ! もっと別なものにしなきゃ駄目だ!」と頭ごなしに、否定的な言い方をしました。なお、「文学者の職業事情」(フルタイトルは「あの作家もこんな仕事をしていました~文学者に見る近代北海道の職業事情~」)も、私が提出した案の一つでした。
資料には、誰が提示した案かということはまったく記入されていませんでした。しかしながら、如何なる偶然か、工藤理事が「こんなもの」と指摘した素案2つは、両方とも私の案だったわけです。
本来であれば、この場での説明責任は平原学芸副館長にあります。学芸課長や業務課長らは道派遣職員であり、財団役員を兼任していないので、理事会や企画検討委員会などでは基本的にオブザーバーとして列席するだけでした。ですから、平原学芸副館長に、もし職員を代表して原案を提案した責任者としての自覚があれば、「こんなもの」呼ばわりする発言をたしなめる見識があってしかるべきでしょう。しかし平原学芸副館長に、工藤理事からの批判に対して答えようとする様子はありません。私も立場上はオブザーバーでしたが、槍玉に上がっている2つが自分の出した案であり、しかもただの「思いつき」ではなく企画書も書いたものであったため、少なくともその点は出席者に理解しておいてもらわなければと思い、挙手して発言の許可を求め、とりあえず事務室の自席にあった「デュオ展」の企画書(甲25号証)の控えをコピーして来て、企画検討委員会の皆さんに見てもらうことにしました。
その時点では、私の行動や企画書の内容に対して疑問や意見を出すものは誰もいません。当の工藤正廣理事はしばらく無言でいたあと、委員会の席を中座し、しかし閉会まで戻って来ませんでした。(この点については、あとで、出席していた職員も不審がっていました。ただ、委員会後の懇親会には出席していたと聞き及んだ記憶があります。)
私が「二組のデュオ展」の企画書コピーを企画検討委員会の席上で配ったのは、以上のような状況と理由とによるものであって、決して平原現副館長が書いているような「他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容案を用意している、と同氏(亀井)は主張したかったのでしょうが」(乙第12号証 平原一良「陳述書」3ページ2~3行目)などといった動機からではありません。
もし平原一良氏が、あくまでも上記引用部分の記述通りだったと主張するなら、工藤正廣理事の発言内容をより明確に叙述し、工藤理事が中座した時までの経緯を、事実に即して具体的かつ合理的に説明することが必要です。少なくとも私にはそう要求する権利がある。そう言って差し支えないでしょう。なぜなら、平原氏は先に引用した文章に続いて、「予定にない同氏の行動は、私の目にはずいぶんと奇矯なものと映りました。会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な同氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。」(2ページ36行目~3ページ3行目)と、私が非常識で自己顕示欲の強い人間であることを印象づけようとする書き方をしているからです。
3ページ12~16行目
「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました。」
まず一つ確認しておけば、亀井秀雄のブログ問題と、私による本提訴の内容には何ら関わりがありません。
しかし平原一良氏および北海道立文学館・財団法人北海道文学館は、平成17年度常設展リニューアル時期以来、「亀井秀雄のブログ」(「この世の眺め ―亀井秀雄のアングル―」)に非常なこだわりを持ち続けているようなので、以下にその経緯を箇条書きしておきます。
1)平成18(2006)年3月15日(水)
私は毛利館長(当時)から館長室に呼び出され、亀井秀雄のブログを削除するよう娘である私から頼んで欲しいと言われた(甲97号証 手帖)。
私は、亀井秀雄のブログにおける言説活動は亀井秀雄個人の見識と信念に基づいて行っているものであり、別人格である私がその言説活動をやめるように頼むことはできないと言って断った。だが、毛利館長はその点にこだわり、結局私は、業務時間中に1時間ほども館長室に足止めされた。
2) 平成19(2007)年1月17日
平成19(2007)年、前年12月より雇止め問題が生じていた私は、質問書を館長ほか文学館の管理職等に渡し、文書による回答を求めていた。すると1月17日、毛利館長から「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」なる文書(甲53号証)を手渡された。
それには、「こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動はきわめて不誠実であり、強く抗議します。」という一文が記されていた。
3)平成17年7~8月
同年7月24日より開始された労働審判の席上においても、財団法人北海道文学館側は亀井秀雄のブログの存在を、私の主張をはねつける理由として上げたようである(入れ替え制のため直接には聞いていない)。だが、審判員諸氏は、それは申し立て内容とは問題が異なるとして、特に取り上げることはしなかった。
4) 平成20(2008)年2月21日
私は、同年12月21日にパワーハラスメントを対象にした調停を札幌簡易裁判所で起こしたが、不成立に終わったため、同日提訴に踏み切った。すると、第1回口頭弁論が終わった直後の平成20(2008)年2月21日に、亀井秀雄のもとに、プロバイダであるニフティ株式会社から「閲覧された方より、亀井秀雄のブログ上に掲載されている内容により迷惑を被っているので削除してほしい旨のご連絡があった」とのメールが入った。だが、ニフティ側としては、「連絡者から申告のあった情報からでは弊社会員規約に明確に反すると判断できる箇所が確認できないため、特段の対応をとる考えはない」とのことであった。「迷惑を被っている」と言った人物が誰かだったかは特定できないが、当時の状況からいって、道立文学館関係の人間である可能性はきわめて高い。
5)平成20年4月8日
私は、3月5日付で、被告から蒙った被害状況を準備書面にまとめて提出した。もちろんその中で、ブログについては全く言及していない。ところが平原一良氏は、自身の「陳述書」の中で、財団の私に対する扱いと、亀井秀雄のブログの書き方との間に、何か相関関係があるかのように仄めかす書き方をしている。
毛利館長や平原副館長は、これまで一度として、亀井秀雄のブログのどこが道立文学館に対する「根拠のない誹謗・中傷」なのか具体的に指摘したことはありません。平原氏の今回の「陳述書」も、亀井秀雄のブログのどの部分が攻撃的で、どのような書き方が「あられもない」のか、全く説明していません。平成18年3月頃に一度館長が亀井秀雄に対して、非公式に、しかし一方的に、「ブログを削除してくれ」という要求を持ち出したようですが、それ以来、両者の間で話し合いや討論の場が持たれたことはないようです。亀井秀雄は財団法人北海道文学館の理事で、理事会にも必ず出席しており、もし平原氏の言うように「当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました。」(3ページ10行目)というのであるならば、話し合いの機会はいくらでもあったはずです。
それでいて、道立文学館側の幹部職員、もしくは平原副館長は、私が文学館内において私が不当な扱いを受けていると問題提起し、あるいは裁判所において同様な問題を提起すると、必ず亀井秀雄のブログをあげつらって来る。多分この人たちは、私の問題提起とまともに向き合うことができず、事態を歪曲し、問題提起をはぐらかすために、亀井秀雄のブログから蒙った「被害」や「迷惑」を捏造して、自分たちの私に対する不当な態度を正当化する策戦に出たのでしょう。
もし、平原現副館長、あるいは財団法人北海道文学館が、これ以上亀井秀雄のブログを問題にしたいのであれば、改めて亀井秀雄の文章のどこが問題で、どのような被害をこうむったのかを明らかにした上で、亀井秀雄を提訴する手続きをとるべきです。そして、ブログ問題はブログ問題として決着をつけるべきです。その手続きも取らずに、これ以上本提訴のやりとりの中でブログ問題を持ち出すならば、それはとりもなおさず、単なる裁判引き延ばしのための論点すり替えでしかない。また、ひいては、私の肉親を標的とした誹謗・中傷にほかなりません。
3ページ18~20行目
「ただ、学芸課内での分掌をめぐって、同氏に委ねた寄贈資料の開封整理作業や閲覧室番業務(ローテーションに従い複数で担当)に不満を覚えているようであるとの話は、一部学芸課員から耳にしていました。」
この箇所には、2点、現実と異なることが書かれています。
第一に、私はこの時、「寄贈資料の開封整理作業」は行っていません。常設展リニューアル後に平原学芸副館長(当時)から依頼されていたのは、与謝野晶子百首屏風の翻刻でした(甲65号証の1、乙1号証準備書面への反論参照)。私は、屏風が常設展リニューアルの際にお披露目展示が終わったあと、12月から翌平成18年3月末まで、その解読作業にかかりきっていました(甲65号証の2・3)。屏風は一双きりで、研修室(1階和室)に広げた状態で立てられていたので、別に「開封整理」する必要はありませんでした。
第二に、私が平成17年度に、「閲覧室番業務」に対して「不満を覚え」ることは、事実上不可能なことです。なぜなら、平成14(2002)年度より平成17年度末に至るまで、閲覧室は職員無人体制だったからです。その証拠として、H学芸課長(当時)が作成した「引き継ぎ事項について」という文書(甲47号証の1)を挙げることができますが、H学芸課長は平成18年3月の課内会議で、その文書を配布し、「必要時に来館者の連絡を受けて職員が赴くという今の体制は、サービスの観点からいっても問題があるので、早急な対応が望まれる」旨の問題提起をしています。つまり、平成17年度までは、閲覧室は無人状態だったわけです。そして実際に職員がローテーションを組んで閲覧室対応に当たるようになったのは、繰り返しになりますが、平成18年4月14日に平原学芸副館長(当時)と被告から、私がA学芸員とO司書の手伝いをするように依頼を受けてからのことです。(甲62号証)
そのような次第で、平成17年度には文学館内部に存在していなかった「閲覧室番業務」に関して、私が「不満を覚える」などという芸当はできるはずもありません。仮に私は「不満」を覚えたいと思っても、残念ながら「不満」を覚えることはできなかったわけです。
もし平成17年11月2日(常設展リニューアルオープン)以降のある時点で、「(亀井が)寄贈資料の開封整理作業や閲覧室番業務に不満を覚えているようである」と平原氏の耳に入れた「一部学芸課員」なる者が本当に実在するならば、平原氏は、その人物(あるいは人物たち)が誰であるかということを明らかにし、さらに具体的な話の内容を、証拠物及び記録を挙げて明確に説明しなくてはならないでしょう。平原氏にそれができないならば、氏は曖昧な風聞を根拠として私の業務態度を貶めたことになります。
2)「3 平成18(2006)年4月以降」について
3ページ27~30行目
「当年度からは、それまでの当財団へ道教育委員会から一部職員を派遣するスタイルから、『駐在職員』を配置するというスタイルに変わりました。これは、指定管理者制度の導入による結果ですが、管理者として指定された当財団としては十分な内部協議を経て受け入れたスタイルです。」
この引用部分は、「平成18年度から道職員が駐在する体制になることは、文学館内部でも職員が納得するまで話し合いがもたれたのであり、亀井がその理念や構想を理解していないのだとしたら、問題は亀井のほうにある」という方向に話を持って行くための布石だろうと推測できます。しかしここにも、平原一良氏の一流の論理のすり替えと虚偽とが表れていると言わざるをえません。
事実としては、「駐在職員を配置する」というスタイルが妥当かどうかについて、いかなる内部協議も経ていなかった、と私は記憶しています。職員たちには、はじめは「指定管理者制度になれば、いままでの派遣職員はいったん全員引き上げられる」と伝えられ、また指定管理者選定前後の時期には、「新体制のもと、道職員は〈駐在職員〉として配置される」と伝えられて来た。しかも、それらの情報は会議という過程を経ず、すべて、避けようもない〈上〉(道教委)の方針であるかのように、上意下達の形で伝わってきました。
そしておそらく、その方針の結果、学芸課長や受付係など、長年にわたって文学館に勤務してきた道派遣職員が、選択の余地なく、異動あるいは退職を余儀なくされてしまいました。業務課も3名が異動となりました。その一方では、S社会教育主事とA司書(平成18年度より学芸員)は、いつのまにかそのまま「駐在職員」として居られることに決まり、職員たちは(残った本人たちも含めて)ご都合主義的な〈上〉の方針に不透明なものを感じていた。これが、私が見ていた、当時の文学館内部の実態です。
もし平原氏が「当時、館内においては十分な内部協議が行われて来た」とあくまで主張するならば、「内部協議」に参加した人々の名、役職、および開催日時を明示し、当時の資料や議事録・メモ類と合わせて、話し合いの過程を具体的に説明しなければなりません。
4ページ12~15行目
「5月2日、私は、寺嶋氏と亀井志乃氏(以下、適宜亀井氏と呼びます)とともに、文学碑データベースの更なる充実化を図ることをテーマに話し合いをもちました。寺嶋氏からも充実化のための方法をめぐり新たな提案もなされ、亀井氏が担当であることを確認するとともに、今後工夫しながら進めていこうという結論に達して話し合いが終わりました。」
平成18年5月2日に私が被告に呼び出され、平原学芸副館長(当時)も交えて話をしたのは、「ケータイフォトコンテストによる画像収集」の件についてでした。これは、私の「準備書面」の(2)の(a)「被害の事実」に記している通りです(甲13号証参照)。ところがその話し合いで、私がそうした企画を立てる前提として自分の立場を確かめておこうと、「私はそういうことが出来る立場では…」と言いさしたところ、いきなり被告が「そういう立場って、いったいどういうことだ。最後までちゃんと言ってみなさい!」と激昂しはじめました。その後は、私が何をたずねようとも、被告と学芸副館長の2人が、「意見だけでなく、アイデアを出してほしい」「アイデアは皆でもむ」「皆でもむが、全員でなくてもいい。僕(学芸副館長)と寺嶋さん(被告)が見て良さそうだということになれば進めて欲しい」(以上、甲13号証参照)などと、辻褄が合わなくなるのも構わずに話の焦点をずらし、結局、私の立場も、私に何をどこまでして欲しいのかも曖昧にしたまま、話を終えてしまった。これも、私「準備書面」の(2)―(a)に記している通りです。
この時の話し合いの詳細は、すでに、私が平成18年10月31日に平原副館長(当時)に手渡した文書「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)の中に記しておきました。だが私は、その文書の記述内容に関して、平原氏本人および被告から、10月31日以降、一度たりとも否定されたり、訂正要求を出されたりしたことはありません。にもかかわらず、平原氏は今になって、私が先の文書で記述しておいた内容と異なる結論に達していたかのように書いている。事実の卑劣な歪曲と言うほかはありません。
4ページ16~18行目
「ただ、その折に、スタッフが強調(ママ。亀井志乃の引用ミス)して仕事を進めていくべきだとの一般的な話題の展開のなかで、亀井志乃氏は『私は財団のスタッフなのか』との言葉を思いがけなくも発しました。」
私は、そのような言葉を発したことはありません。
「ノート『道立文学館覚え書』」(甲13号証)及び甲17号証「去る10月28日に発生した文学碑データベース作業サボタージュ問題についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」で、私は次のように記しています。
「私は、私の置かれた立場について、学芸副館長に、主幹への説明を求めた。それは、平原副館長こそ、私を〈嘱託〉として館に呼んだ当人であり、これまでの経緯を最も良く知る人物だと思ったからである。
しかし、学芸副館長は、〈前年度までは確かにそうだったが、この春からは、亀井さんは館のスタッフとなった。そして我々は、仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担しようという事になった〉と言った。
ただし、私は、この時に至るまで、私の扱いが前年度に比べて少しでも変わったとは、誰からも、一言も説明をされていない。
〈スタッフ〉という言葉も、文学館のどういう規約にもそうした役職名があるわけではなく、ただ単に学芸副館長が英単語を使ってみただけと思われる。」(甲17号証より)
つまり、この場で「スタッフ」なる言葉を発したのは私ではなく、平原学芸副館長(当時)の方だったわけです。私はその説明を黙って聞いているだけでした。ただ私はそれを聞きながら、平原学芸副館長の、言葉だけを外来語にすり替えてあたかも制度自体が変わったかのように言い繕おうとするご都合主義に、疑問を抱かずにはいられませんでした。その印象もあって、上記のように記録しておいたわけです。
被告は、私が「私は職員ではありません」とたびたび口にしていたと言い(乙1号証7ページ6行目)、平原現副館長は、私が「私は財団のスタッフなのか」と言ったという。繰り返しになりますが、私は当時も、本訴訟においても、自分が財団法人北海道文学館に嘱託職員として雇用されていたことを否定的に考えたり、職員でないことにこだわったりしたことは一度もありませんでした。当然のことながら、そんな考えやこだわりを口にすることなどあるはずがありません。
私が一貫して主張しているのは、「一口に同じ職場の職員といっても、正職員・非常勤職員・嘱託職員・派遣職員・アルバイト等の別がある。また、道立文学館には、北海道教育委員会からの駐在職員もいる。おのおの、保証されている立場も対外的な責任の範囲も異なる。業務を遂行する上では、互いが互いの分(ぶん)や守備範囲を理解しつつ、円滑に仕事が進められるよう配慮し合うのが当然ではないか。にもかかわらず、その職場の中で単に自意識的に〈自分は上位者である〉と思っている者が、立場も責任範囲も異なる他の職員に自分の意志や業務を押しつけるような行為は、果たして許されるのであろうか」ということでした。
しかし、平原一良氏ならびに被告は、結局、私の問題意識を一度も理解せず、いまだに私が「職員であるか・ないか」「スタッフであるか・ないか」と二者択一的こだわっているとしか理解できないようです。上記引用箇所が、如実にそのことを物語っていると言えるでしょう。
4ページ29~30行目
「そのうち、亀井氏は、寺嶋氏が席に居るときには、事務室に極力とどまらずに席を空けていることがたびたびであることに気づきました。」
この点に関する私の反論は、被告の「陳述書」(乙1号証)6ページ19~20行目に対する反論と変わりません。平原氏は、まるで私が意識して勝手に事務室を離れてしまっていたかのように記述しています。多分平原氏はこのように書くことで、私が事務室以外の場所で働かざるを得なくなったのは、自分と被告とが私にA学芸員とO司書を手伝うように依頼した結果にほかならないことを隠そうとしたのでしょう。
「3ページ18~20行目」の項の反論で述べたように、平成17年度の末に、H学芸課長から、閲覧室に職員がいないのはサービスの面やセキュリティの面で問題があるとの指摘がありました。平成18年度に入って閲覧室勤務の体制が組まれ、4月14日には、平原学芸副館長と被告の依頼で、私がO司書とA学芸員の仕事を応援することになり、閲覧室担当の3人が、それぞれ時間の合間をぬって閲覧室を覗いたり、その日の担当者が忙しければ代わって来客に対応したりするようになった(甲109号証参照)。これはむしろ当然の心がけであるはずです。ところが平原氏は、まるで私が被告を避けて事務室を空けていたかのように、下種の勘ぐりを働かせている。被告がひがみ根性で平原氏に訴え、平原氏が被告に代わって私を自侭者に仕立てたつもりかもしれませんが、情けない嫌がらせだと評するほかはありません。
4ページ34~5ページ2行目
「火曜日朝のミーティング(館のスタッフが事務連絡やその週の動向を伝え合います)の場で、亀井氏が『明日ニセコに調査のため出張に行ってきます』と切り出し、私を含むスタッフは困惑しました。事前の打ち合わせなどがないままでしたので、その場で亀井氏を叱責することなどはせず、後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました。」
平原氏は例によって日時をぼかす書き方を取っていますが、私の〈ニセコ行き〉が問題となった状況および「火曜日朝のミーティング」と記されていることから推して、平成18年8月29日(火)のことを指していると思われます(原告「準備書面」第1(6)―(a) 12~14ページ)。
しかし、実はこの日、平原副館長はミーティングの場で、私が発言するのを目の当たりにして「困惑」できるはずがありません。なぜなら、すでに私の「準備書面」の当該箇所でも指摘したとおり、「平原副館長(中略)は急な怪我で、たまたま欠勤していた」(13ページ6~7行目)からです。
実はこの直後の9月1日、平原副館長と私が交わしたメールの記録が私のメールソフトに残っていました(甲44号証)。以下、そのメールの中の平原副館長自身の記述を引用しながら、詳細を説明しておきます。
【From「平原 一良」メールの引用】
私の怪我については、月曜日(休館日)ではありましたが、たっての希望で観覧を受け入れたBさん一行が到着されたときに、バスから降りてきたお年寄りを避けようと身をかわした際に、チェーンに引っかかって前のめりに倒れこんだ結果のことでした。左ひざや顎を打撲し、右腕関節の靱帯を傷め、前歯が欠け、口中を切ってしまったのですが、勢いよく転んだわりには軽傷の範囲(?)で済みました。ご心配をおかけしました。昨日(※8月31日)から出勤しています。
では。
つまり平原副館長は、8月28日月曜日、バスで到着した団体客の前で、右腕の靱帯を傷め、前歯が欠け、顔面からも口中からも血が流れ出るほどの傷を負って(目撃していた職員談による)、即刻病院に運び込まれて治療を受け、同月29日・30日の2日間、文学館を欠勤していました。当然の帰結として、29日の朝の打合せ会(ミーティング)には出席してはいなかったし、それ故、私の言動に困惑することは出来るはずもありませんでした。
また、このメールに先行するメールの中で、私は「結果的に事後承諾の形となり、申し訳ございませんでした」(甲44号証後半 原告メール引用部)と平原副館長に謝罪し、平原副館長の方は「余計な前置きはともかく、今回のことについては、どうかあまり気にせずに、と申し上げておきます」(甲44号証)と、むしろ私をなぐさめる言葉を記しています。
そのようなわけで、もし平原一良氏が、あくまでも自分の陳述書(乙12号証)末尾にあるように「上記の内容に相違ないことを誓い」つつ、「突然ニセコ行きの話を持ち出した亀井に困惑した」と主張するならば、前日に顔面および腕を打撲して館を欠勤し、その後私に物わかりのよい上司としてメールを打っていた〈平原 一良〉と、火曜日朝のミーティングで私のふるまいに困惑し叱責したい衝動をこらえていた平原一良とは、どのようにして同一人物としてアイデンティファイすることが可能なのだろうか。もし29日の朝、平原一良氏が出勤していたとして、氏は文学館事務室のどのあたりに存在していたのだろうか。私は、この日、平原副館長の姿を見た記憶がない! そんなドッペルゲンガー・ミステリー的な疑問に囚われざるをえません。
こうした私の疑問に対し、平原氏が合理的な説明をもって答えることはかなり大変なことと思いますが、平原氏が以上のように主張するからには、それなりの根拠があるのでしょう。ぜひ合理的な説明が聞きたいと思います。
5ページ8~17行目
「10月31日(11月1日だったかもしれません)、亀井志乃氏は、会議室で仕事をしていた私を突然訪れ、『これを読んでください』と分厚い文書をテーブルの上に置きました。標題を見ると「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」とあり、瞬時にこれは穏当ではないと感じました。たまたま、亀井氏とのコミュニケーションがとれずに悩んでいると寺嶋氏が来ていたときのことでした。既に数日前にも寺嶋氏は、亀井氏との人間関係をなんとか修復したい私の許を訪れていました。これは大切な機会かもしれないと思った私は、亀井氏に、『穏やかな標題ではありませんね。ここで話をしていきませんか』と言葉をかけました。亀井氏は厳しい口調で『そんな必要はありません』とひと言発し、会議室を出ていきました。」
平原氏の言う「分厚い文書」とは、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)のことかと思います。僅かに13ページの文書を「分厚い」とは大げさな言い方だとは思いますが、確かにこれを渡したのは10月31日火曜日のことです。(原告「準備書面」第1(12)―(a))。私はこの日、普段は文学館に出勤していない神谷忠孝理事長を除くすべての幹部職員と被告とに、この文書を手渡しました。
ただ、上記引用部において平原氏が描写した状況や、再現している科白は、いずれも事実とは大きく異なっています。この時、私が発したのは、「そんな必要はありません」ではなく、「まず、どうぞそれ(甲17号証の文書)をお読みください」という言葉でした。
私が会議室に入っていった時、平原副館長は確かにパソコンの前に居り、被告はそのそばに立っていました。しかし、会話の内容は被告の悩み事の相談などではなく、業務上の件のように見受けられました。というのは、その時期は被告が主担当だった「池澤夏樹展」の最中であり、池澤氏と懇意な間柄である平原副館長が池澤氏との連絡役を務めていたからです。
また、私が先の文書(甲17号証)を手渡した時も、両者の態度には何ら真剣に受けとめた様子は見られませんでした。平原副館長は「ちょ、ちょっと待って下さいよ、こりゃあ。このタイトルはねぇ~、穏やかじゃないですよ~」と言い、被告はにやにやしながら「何、これ。ちょっとさ、ねぇ、話し合おうよ~」と言っていました。
私はそれまでにも、口頭によって、幾度となく被告に自分の考えを述べようとしてきた経緯があります。にもかかわらず、
1)疑問を口にしただけで被告に怒鳴られ(平成18年5月2日 原告の「準備書面」第1(2)・甲13号証)、2)早退の承認を打合せ会ですでに受けていたにもかかわらず被告にしつっこく絡まれ(同年5月10日 同「準備書面」第1(3)・甲4号証)、3)ニセコに出張に行く話も業務課長に承認された後に被告から絡まれ(同年8月29日 同「準備書面」第1(6)・甲31号証)、4)急に「朝の打合せ会は決まったことの報告だけをするところだ」と言い出し、私が疑問を呈しても「いや、そうなんだ」と説明もなく頭ごなしに言われ(同年9月13日 同「準備書面」第」(7)・甲6号証)、5)業務課長を交えた協議の席で作成してきた出張予定表をコピーしようとしたところ、怒鳴られた上に、意図の不明な言葉に振り回され(同年9月26日 同「準備書面」第1(8)・甲32号証の1)、6)出張予定がだいたい固まったことを打合せ会で説明しただけで怒鳴られ(同年10月3日 同「準備書面」第1(9)・甲8号証)、7)明治大学図書館から求められているのは「紹介状」を持参することなのだと説明しても耳を貸してもらえず、「書類を送るんだよ!」と怒鳴られ(同年10月7日 同「準備書面」第1(10)・甲9号証)、8)5月の話し合いで決まっていたのは私が碑の写真を撮りに行くことなどではなかったはずだ、と説明したが、「決まっていた」と絶対にゆずらず、館長・理事長および業務課長に説明したいと言っても「なんであんたが説明しなきゃなんないの」と言われ、このままでは話が錯綜しそうだから録音メモをとっておこうとしたところ「あんた、ひどい」「あんた、普通じゃない」と決めつけられてしまいました(同年10月28日 同「準備書面」第1(11-1)・(11-2)・甲17号証)。
では、これ以外に会話が普通に成立した局面があるかといえば、4月4日以降に平成18年度の業務が行われるようになってから、私の発話に対して被告がごく通常の意味での会話(いわゆる“ことばのキャッチボール”)となるような返答を行ったことは皆無に等しい。
他方、平原副館長(4~5月は学芸副館長)のこの間の態度は、いわば〈見て見ぬふり〉という姿勢でつらぬかれていました。
1)8月29日のニセコ行きのケースでは、私には一見もの分かりのいいメールを送りながら被告に対する対応は何もせず、2)9月13日には「別に、亀井さんが出張に行くのは被告や業務課長が決めることではない」、「この件については、被告によく話をしておくから」と言いながら(甲6号証)、3)結果的には何も私のフォローに当たることをやってくれた様子はなく、10月3日には私が自分(平原副館長)の面前で被告から怒鳴りつけられるのを目の当たりにしながら、小声で「まあ一応、寺嶋さんと話を煮つめて、それからあげるってことにして…」(甲8号証)とつぶやいて口をつぐみ、どっちつかずの対応に終始していました。
以上のような経緯から、私は、被告と平原副館長に対しては、通常の意味での「会話」も「話し合い」も成立せず、まして第3者を交えない場では、話し合いの事実自体が隠蔽される恐れがあると、その場で判断しました。それに自分の主張点は、文書(甲17号証)の中に記してあります。まずはこれに目を通してもらい、事態への認識を共有してからでなければ、〈話し合い〉は始まらない。そこで私は、「まず、どうぞそれをお読み下さい」といって、会議室を出たわけです。決して、「話合いの必要はない」などというニュアンスの言葉を発したわけではありません。私が返答を求め、事態に対する対応の継続を望んでいたことは、甲17号証の結びの部分で、「以上の点については、寺嶋弘道主幹以下、それぞれの関係者から、反論もしくは別の視点からの意見も提出される事もあろう。また、内容をお認めになるという場合もあるだろう。そうしたご意見・ご回答は、すべて文書の形で、亀井にお渡しいただきたい。これは、亀井としても、より正確な記録を残しながら、今後の対応を続けていきたいためである。」と記しておいたことからも明らかなはずです。
なお、平原氏はこの10月31日のこととして「たまたま、亀井氏とのコミュニケーションがとれずに悩んでいると寺嶋氏が来ていたときのことでした。」と記していますが、これは今回の準備書面で初めて持ち出された主張です。私は11月10日(金)に、上記文書(甲17号証)対する回答の件で毛利館長(当時)と平原副館長に館長室に呼び出されたが、両名は、10月31日に被告が副館長に私に関する悩み事を相談していたなどという話は一言も出しませんでした。
この時の館長と副館長の両名は、「いやあ、寺嶋さんも亀井さんの能力を高く評価していましたよ」「寺嶋さんも悩んでいたんですよ」、「彼も、なかなかうまくコミュニケーションがとれないんで、だんだん、あんな風(に暴言を吐くよう)になっちゃったんじゃないかなあ」などと、とってつけたような理屈を口にしていましたが(甲50号証「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」7~8ページ)、彼らの言葉自体、被告が私に暴言を吐き続けていたことを裏づけるだけのものだったと言えます。(なお、原告「準備書面」の繰り返しになりますが、被告は「だんだん」暴言を吐くようになったのではなく、その行為は4月当初からでした。)
さらにもう一点、10月31日に「ちょっとさ、ねぇ、話し合おうよ~」と言っていた被告について付言しておかなければならない。
この発言を見る限り、被告は、私との「話し合い」を求めていたかに見えるかもしれません。しかし、上記の文書(甲17号証)に目を通したと思われる時間の後、被告は私に対して一声もかけず、そばに寄ることもありませんでした。
また、この同じ日、「被告は、痔疾のため、急遽、11月6日から17日まで入院する」という旨が職員に発表されましたが(甲98号証 ノート)、この件に関するアナウンスを行ったのは平原一良副館長です。
被告は、10月31日から入院するまでの1週間、平常通り勤務を行っていましたが、その間、被告は口頭および文書、いずれの形でも私の文書に回答を行いませんでした。それでも私は、被告の病状は絶対安静を要するような容態でない以上、入院先からの回答もあり得ると考え、回答期限(11月10日)まで被告からの対応を待つことにしました。しかし、この時以降、私に対応したのは毛利館長(当時)および平原副館長のみであり、この両名が被告の肩代わりをする形となりました。
5ページ20~21行目
「その後、亀井氏は当財団役員諸氏に波状的に上記文書ほかを数次にわたって送付し、いわゆる『パワーハラスメント』の問題について訴えました。」
これも大変不正確な言い方で、誤解を招きやすい、いや、誤解を意図したとしか思われない書き方です。正しく言えば、私は「上記文書」(甲17号証)を、道立文学館の幹部職員および被告に手渡し、神谷理事長にのみ送付しただけです。パワー・ハラスメント問題関係の文書は、甲17号証のほかには、「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(甲18号証)があるのみで、渡した範囲も、甲17号証の場合とまったく同じです。
平原氏はこの件と、この1ヶ月後の平成18年12月から始まった私の雇止め問題の時のケースを故意に混同してみせることによって、あたかも私がいきなり、常識を超えた広範囲の人たちに、被害を訴える文書を送り続けたかのような印象を与えようとしているのでしょう。
私は12月6日(水)に、毛利館長(当時)から次年度の雇い止めを通告され、その理由を納得できませんでしたので、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。甲50号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、被告本人に渡しました。その3日後の12月15日、私は、住所の分かる範囲の財団理事と評議員に「北海道文学館におけるハラスメントと不当な解雇通告を訴える」(甲99号証)という3ページのアピール文を郵送し、道立文学館の中で現在どんな不当なことが起こっているかを理解してもらうために、参考資料として甲17号証と、甲18号証及び「毛利館長が通告した『任用方針』の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。甲50号証)を同封しました。
さらに甲50号証に対する毛利館長の回答(12月27日付。甲51号証)があまりにも不誠実であり、納得できないことばかりでしたので、「毛利館長が通告した『任用方針』の撤回を再度要求する」(平成19年1月6日付。甲52号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、川崎業務課長及び被告本人に渡しました。そしてその翌日の7日、やはり住所の分かる範囲の財団理事と評議員に、「パワー・ハラスメントの不当解雇問題の中間報告」という1ページの報告文を郵送し、「『館長 毛利正彦』の名による回答と、それに対する疑問と批判」(甲52号証参照)という文書を同封しました。
平原氏は、このような私のアピール活動を「波状的」「数次にわたって」と誇張しているわけですが、私が住所の分かる範囲の財団理事と評議員にアピール文を送ったのは以上のごとく、僅かに2回だけです。平原氏他、財団の幹部職員と被告が受け取ったのも、パワー・ハラスメント関係のものが2度、解雇問題に関係するものが2度で、しかも前2回と後の2回の間には、1ヶ月以上の間が開いていました。平原氏は自分たちがまともに対応できなかった引け目を、「当財団役員諸氏」が蒙っただろう迷惑(あるいは困惑)にすり替えて、自分たちの対応の下手さを糊塗しようとしたのでしょう。
5ページ22~23行目
「事情を知る女性職員からも見聞した限りの情報を得るべく努めました。誰もが寺嶋氏に同情的でした。」
私が、被告から蒙ったパワー・ハラスメントをアピールして以来、毛利館長(当時)は聞き取り調査をしたことをほのめかし、「誰もハラスメントにあたるようなことはないと言っていた」と主張していましたが、しかし、職員のどの範囲の人々に事情を訊いたのかも、いつ調査が行われたのかも、一度も明らかにしたことはありません。館長の回答は、以下のようなものでした(甲50号証)。
「また、ハラスメント問題の口頭による回答そのものについても、毛利館長は『皆に聞いたが、誰もハラスメントに当たるようなことはないと言っていた』、『みんな、亀井さんがそこまで反応する事はないといっていた』と言ったが、事務室で確かめたところ、A学芸員も、S社会教育主事も、O司書も、館長からは何も訊かれておらず、事情も知らないという返事だった。私が数日後、毛利館長にその事を問いただすと、『いやあ、まあ、それはあんた……』と言葉をにごして、にやにやしているのみであった。」
(「毛利正彦館長が通告した『任用方針』の撤回を要求する」甲50号証より)
また、上記のような「聞き取り調査」については、平成19年度に法務局人権擁護係が道立文学館に調査に入ってからも、文学館側は一言も明確な回答や資料を法務局に提示することができなかったようです。文学館側職員が述べていたのは、単に「ハラスメントというほどひどいことはなかった」という曖昧な「程度問題」という主張ででしかありませんでした(甲100号証)。またこの点に関しては、労働審判の席においても、財団側は有効な証拠・証言は提出できなかったようです。
私は平成19年1月16日の時点で、財団幹部職員及び被告本人に、「今までの対応から察するに、毛利館長以下の幹部職員はまだそのような調査を行っていないと見受けられます。早急に私の挙げた具体的な事例に即して調査を行って下さい。この調査の一番の対象は寺嶋学芸主幹であるはずです。その場合は馴れ合いにならないように、外部の第三者を交えて行って下さい。第三者を選定する時は、選定委員の中に私も加えていただきます。」(「『館長 毛利正彦』の名による回答と、それに対する疑問と批判」※甲52号証と内容共通)と要望を出しておきました。それに対する毛利館長の回答は、「平成19年度における再任用にかかわっての要求・質問等には、昨年12月27日に回答いたしました。これ以上、あなたの要求にお答えするつもりはありません。」(平成19年1月17日付「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」甲53号証)という一方的な対話打ち切り宣告でした。
平原氏ももちろん財団の私に対するこのような対応にかかわっていたはずです。すなわち、財団も平原氏も私がパワー・ハラスメントのアピールをして以来、もしきちんと調査をしていたならば、いくらでも調査方法とその結果を私に伝える機会を持っていたはずです。ところが、客観性の高い調査に関する私の要望を一方的に蹴ってしまいながら、今頃になって「事情を知る女性職員からも見聞した限りの情報を得るべく努めました。誰もが寺嶋氏に同情的でした。」と、古証文の出し遅れのような事を言いたて、自分たちの怠慢と不誠実を取り繕おうしている。恥ずべき不見識と評するほかはありません。
ちなみに、平原氏は「陳述書」の前半から、何回か私に関して「異議あり」の声が挙がったとか、非難の声が聞こえてきたとかいう意味のことを書いていますが、これも上記と同様、不見識な行為です。なぜなら私は、平成18年10月31日のアピールの時点で、既に次のようなことをお願いしていたからです。
「・亀井には、実際これまで、身勝手な無責任な行為、またはサボタージュ行為等によって、館の職員もしくは来客に迷惑をかけた例がある(ボランティア時代からを含めても可)
・亀井には、多少上司が圧力をかけてでも、その未然防止につとめなければならないような問題的な性癖・行動がある。あるいは明らかに(普通ではない)と認められるような異常性がある
というようご意見のある場合には、是非とも、具体的な事例や証言を添えて、亀井当人にお渡し下さるよう、切にお願いしたい。」(甲17号証より)
私はこのようにお願いしていたのですが、平原氏からも、氏に私の非難を語った人からも、何の反応もありませんでした。今頃になって私に関する風評を持ち出す目的は何か。その点に関する分析は、「Ⅱ、結び」の章で詳論致します。
しかしともあれ、真実を明らかにする行為に、遅すぎるということはありません。もしここで平原一良氏が、改めて「平成18年10月31日以降、北海道立文学館の職員にパワーハラスメントの有無に関する聞き取り調査を行った」と主張するのであれば、今回の証言は訴訟に関する書証(乙12号証)であることを十分にわきまえた上で、いつ・誰に対して聞き取りを行ったのかを明らかにし、その聞き取り内容についても記録等に基づいて明らかにすべきです。それが出来なければ、平成20年の今頃の時期になってからの平原氏の主張には何らの信憑性もないことになります。
それにしても、なぜ平原氏は、「事情を知る」「女性職員」に限って聞き取りを行ったのでしょうか。外勤・出張・書類作成に際しての被告の私に対する言動については、その時々の経緯から見て、川崎信雄業務課長が一番よく知っているはずです。また10月28日に、私が事務室で被告から「あんた、普通じゃない」という言葉を浴びせられた状況は、S社会教育主事も目の当たりにしていました(甲17号証 2ページ5行目)。
それなのに、なぜ、平原副館長は「女性職員」に限って聞き取り調査を行っているのか。その、具体的かつ合理的な理由は何か。その点についても明確な説明を期待しています。
5ページ24~28行目
「やがて、12月を迎え、当財団の新たな体制構築のために次年度の職員募集を考えてはどうかとの話し合いが当財団幹部の間で話し合われるようになりました。具体的な募集要項の作成などが川崎課長の手でなされ、当館ホームページでも公開されました。その前後に、亀井志乃氏がこの職員募集問題を自分の任用問題と重ね合わせてとらえ、館長室に怒鳴り込む場面などがありました。」
まず事実問題として、私は、館長室に「怒鳴り込」んでいった事実はありません。
平成19年度に正職員の学芸員・司書を新たに採用するという趣旨の書類は、甲20号証としても挙げたとおり、平成18年12月12日に決定を見ました。その内容は、S社会教育主事によって同日に道立文学館公式ホームページに掲載され(甲19号証)、私はそのことに12日から13日までの間に気づき、13日にその内容を刷りだしています(甲19号証参照)。ところが、その内容は年齢制限を設け、しかも単年度雇用になっている。平成18年12月6日に毛利館長が私に雇い止めを通告した時の理由は、財団としては10年先、20年先まで働いてくれる人を正職員として採用したいということだったのですが、単年度採用というのは矛盾するのではないか。この日、私はたまたま毛利館長と顔を合わせたので、その質問を含む公募の問題にふれたところ、毛利館長は「それは財団の方針で、もう決まったことだ。それを亀井さんからまかり成らんなどと言われる筋はない」、「説明はもう済んでいる。それを納得しないかどうかは、あんたの問題だからね」と、問答無用の態度で話題を打ち切ってしまいました(「北海道文学館におけるハラスメントと不当な解雇通告を訴える」。甲99号証)。よほど疚しいところがあったのでしょう。平原氏が先のようなことを書いたのは、このことを耳にしたからでしょうが、毛利館長が事実を逆の形で平原副館長に伝えたか、もしそうでないならば、平原氏が事実と逆の形で脚色したにちがいありません。たぶん後者だろうことは、「その前後」などと日時を曖昧にした書き方からも推測できます。仮に私が怒鳴り込みたかったとしても、まさか公募が財団のホームページに載る前に怒鳴り込むなどという芸当はできるはずもないからです。
それに私は12月14日、東京在住のK氏(作家・中戸川吉二の孫娘)に資料貸借の件でお会いするため、東京に出張する予定になっていました(甲79号証)。11月30日頃からご本人とメールで打合せをはじめ、借用書の決裁手続きもとり、特に12月12・13の両日は、出張の準備やK氏への連絡でかかりきりの状態でした。
また、14日に日帰り出張から帰って来たあとも、借用してきた写真画像をスキャンしたり、書籍資料の内容を確認したりしなければならず(甲101号証参照)、次にはまた早急に、木田金次郎(画家)の遺族にも電話連絡等を行わなければならない用事が待っていました(甲102号証)。しかも、年末年始の休館期は目前に迫っています。
ですから、この頃の私には、ホームページの内容が不満だからといって、貴重な勤務時間を割いて毛利館長(当時)の部屋に「怒鳴り込」んでゆく時間的な余裕もなければ、精神的な余裕もない。1分1秒でも惜しかったというのが、当時の偽らざる実情でした。
もしあくまでの平原氏が「ホームページで職員募集を行ってから、亀井が館長室に怒鳴り込んで行った」と主張するのであれば、ぜひとも日時を特定し、毛利館長の証言ないし証拠と合わせて、具体的にどのような事柄が館長室で起こったのかを明らかにしなければなりません。それができなければ、平原氏は事実を歪曲して私の人格を貶めたことになります。
5ページ29~32行目
「このころ、幹部間の協議を経て、亀井志乃氏は学芸スタッフの座るブロックから、同じ事務室内の業務課のブロックへと席を移し、業務上の相談などは私が直接受けるという緊急避難的な対策がとられました。これ以上、事務室内の空気をおかしくしたくないと判断した結果でした。」
平原氏は上記引用部分において、「幹部間の協議を経て」「緊急避難的」「これ以上、事務室内の空気をおかしくしたくない」などと、まるで私の座席移動が文学館幹部職員の判断で行われていたように書いていますが、全く事実に反しています。いわば架空の存在でしかない「学芸班」の座席ブロックを離れ、本来の位置である業務課側の席(乙5号証)に戻してもらうことは、10月28日以降、私が真っ先に強く望んだことでした。その点を明らかにするため、以下、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)より該当箇所を引用します。(傍線は引用者)
「○また、もし〈当文学館においてパワー・ハラスメントが行われていた〉事を認める文書が亀井に渡された場合、あるいは、11月10日までに何らの回答が得られず、従って亀井の結論内容が認められたものと判断した場合には、亀井側からは、次の二点を要求したい。
1.現在の事務室における席の位置を変える事
亀井の座席を、現在の学芸班の位置から変更したい。
なぜなら、亀井は、本来、報酬を受けて仕事を請け負う嘱託職員であり、また、強いて財団職員の一員と考えるとすれば、今年度の所属は業務課だからである(「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」平成18年4月1日付文書を参照のこと)。
故に、本来の雇用形態が目に見えるような位置に席を戻してもらいたい。それには、元の受付職員の席か、業務課内の席が適当と思われる。」(甲17号証より)
この要求が実現したのは、要するに、私の主張の方が筋の通った話であり、幹部職員の何人も、この要求を否む理論を持たなかったからにほかなりません。
5ページ32~37行目
「このような動きが内部で進むなか、亀井氏の父君による当財団への仮借ない糾弾がブログで再開されました。毛利館長が亀井志乃氏に訊ねたところ、同氏もそれを知っているとのことでした。更にブログでは、上記の『ハラスメント』問題についてばかりではなく、亀井志乃氏の任用問題などについても、父君によるあられもない言及がなされるようになりました。そこでアップされている情報のうちには、当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました。」
平原氏はまたしても亀井秀雄のブログを持ち出してきましたが、「3ページ12~16行目」の項と同じ理由から、本訴訟とは直接の関係がなく、私はこれに答えなければならない義務も責任もありません。
ただ平原氏の書き方は、「そこでアップされている情報のうちには、当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました。」と、私が何か守秘義務に違反してきたかのような仄めかしを含んでいます。これは平成19年1月17日、毛利館長が私に手交した、「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」なる文書(甲53号証)の、「こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動はきわめて不誠実であり、強く抗議します。」と同質の、関係妄想的ロジックと言えるでしょう。つまり、私が亀井秀雄の名を借りで文学館内部の問題を暴き立てている、あるいは亀井秀雄が私の情報を基に文学館に嫌がらせをしているという関係妄想のロジックです。私は毛利館長の「抗議」に関して、「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」(平成19年1月21日。甲103号証)という文書の中で、次のように文章分析を行い、内容を批判しました。少し長くなりますが、この種の関係妄想的言いがかりに終止符を打つため、あえて引用をいたします。
「1、 この文章は、文章の構成が稚拙で、内容は混乱に満ちています。念のために引用しましょう。
「こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。」(下線は引用者)
なぜこの文章の構成が稚拙かと言いますと、毛利正彦氏は、私が下線を引いた箇所全体を、「あなたの行動」にかかる連体修飾句としているからです。4行にも及ぶ長い1文の中で、主語を文末近くに置く。その主語に長大な連体修飾句をつけている。
しかも、「あなたの行動」という主語の述語は、「極めて不誠実であり」まででしかない。それに続く「強く抗議します。」の主語は明示されていません。
2、このように文脈を整理してみますと、毛利正彦氏が言う「私ども」(毛利正彦文学館長を含む、北海道文学館の幹部職員?)に対して、私(亀井)が質問や要求を出すことは、「財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つける」ことになるらしい。毛利正彦氏は、私がこれまで渡した文書のどこから、そういう認識を導き出したのでしょうか。
神谷忠孝理事長もこの「返答」を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、私の文章から該当箇所を具体的に例示して下さい。(中略)
3、次に、毛利正彦氏の作文した長大な連体修飾句によれば、私・亀井志乃が「一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていることになるらしいのですが、私はそのようなことをしていません。毛利正彦氏は何を根拠にそう言うのか。もしそれを示すことができなければ、毛利正彦氏こそ「根拠のない誹謗・中傷」を行っていることになる。
そもそも寺嶋弘道学芸主幹の私に対する言動こそ「根拠のない誹謗・中傷」のくりかえしだった。その点を忘れてはなりません。また、その点から目を逸らさせるような言い方は許されません。
4、さて、毛利正彦氏の文章の拙さには目をつぶって、毛利正彦氏はじつは私の父・亀井秀雄を主語として、「一方ではインターネット上の父親のブログで」以下を言いたかったのだ、と考えてみましょう。
確かに私の父・亀井秀雄は、「この世の眺め――亀井秀雄のアングル――」というブログで、平成18年の12月28日から何回か、北海道文学館の問題に言及しています。しかし私の見るところ、父・亀井秀雄は根拠のあることを書いているだけであって、決して「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ているわけではない。もし毛利正彦氏が、亀井秀雄は「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていると考えるならば、毛利正彦氏が自分たちの具体的な、根拠ある事実を挙げて、それを証明しなければならないでしょう。
また、神谷忠孝理事長も毛利正彦氏のそのような見方を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、具体的な事例を挙げ、それに即して亀井秀雄が「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」たことを証明して下さい。それができないならば、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄に対して「根拠のない誹謗・中傷」を行ったことになります。
5、また、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄のブログについて、「父娘関係をあえて伏せたまま」などと、何か不当な書き方をしているかのごとく匂わせていました。しかし、父・亀井秀雄は、北海道文学館の管理職的な立場の3人については実名を明かすが、それ以外の職員の姓名については、ローマ字書きにした場合の頭文字で表記する、という方針で書いているだけのことです。
私の父・亀井秀雄は、私が平成18年10月31日、寺嶋弘道学芸主幹のパワー・ハラスメントをアピールした時期、ブログでその問題に言及することはしませんでした。北海道文学館の幹部職員のまっとうな対応を期待していたからでしょう。
また、私の父・亀井秀雄は、平成18年12月6日、私が来年度の雇用に関して、毛利正彦文学館長から実質的な解雇通告を受けた時も、ブログで取り上げることはしませんでした。私がその通告に対して、12月12日、北海道文学館の幹部職員に、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」を渡した時も、ブログで言及することは控えていました。まだ何ほどか北海道文学館の幹部職員の誠意を期待する気持ちが残っているからだ、と私は理解しています。
しかし、平成18年12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長が私に対して、極めて不誠実な「回答書」を返した。その翌日から、父・亀井秀雄はブログで北海道文学館の批判を開始しました。
私としては、至極当然な対応だと思っています。
ただ、父・亀井秀雄はこの事態に対する一定のスタンスを保つため、寺嶋弘道学芸主幹以下の職員の名前は出さない方法を取ったものと理解しています。しかし、年が明けて、平成19年1月17日、毛利正彦氏から私に渡された「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」は、明かに私を愚弄するだけでなく、父・亀井秀雄を愚弄する文言で書かれていました。多分父・亀井秀雄は、今後は、全ての人間を実名で名指しする書き方に変えることでしょう。」(「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」平成19年1月21日。甲103号証より。ゴチックは引用者)
私のこの意見は、現在も変わりません。もし平原氏が亀井秀雄のブログに関することで何事かを糾弾したいのであれば、まず、対象を、私か亀井秀雄かどちらかに絞ること。またさらに、最低限、ブログの記述の中でどの箇所が「財団への糾弾・攻撃」であり、どの箇所が「あられもない言及」にあたるのか等々をはっきりさせた上で、改めて、平原氏本人が訴訟を起こすべきです。
もしそれをせずに、上記引用文のようなほのめかしを行い、それをいやしくも「陳述書」(書証の一つ)などと称するのであれば、それは私および亀井秀雄に対する誹謗中傷であり、裁判の場を借りた悪質な嫌がらせと見なすほかはありません。
6ページ1~2行目
「亀井志乃氏の任用をめぐる問題については、既に裁判所において和解の結論に達したことでもありますから、ここでは割愛します。」
この「和解」という文言も、平成19年8月29日の労働審判(平成19年(労)第18号)において「調停成立」となってから、平原一良副館長および文学館の幹部職員・理事らが好んで使うレトリックですが、これも意識的に歪められた現実認識というべきでしょう。
この日の第2回労働審判手続日調書に書かれたのは「調停成立」(標題)及び「当事者間に次のとおり調停成立」という言葉であって、決して「和解」ではない。「和解」という単語が出ているのはただ1箇所、「相手方は、申立人に対し、本件和解金として、○○万円の支払義務があることを認め」(傍線は引用者)という部分だけです。要する審判委員会は、審判(判決)を下す代わりに、相手方(財団法人北海道文学館)に対して、「申立人(私)に解決金を払う義務があります」と伝えたわけです。
そもそも審判の経緯が、「話し合いによる円満な和解」などという性質のものでは全くありませんでした。第1回目の審判(平成19年7月24日)では相手方はあくまで財団側の理論(亀井の雇止めは合法で当然)に固執し、ところが同年8月22日、突然、審判員の頭越しに、申立人の代理人・T弁護士のもとに直接「前回期日において労働審判委員会から勧告のありました和解案について、相手方は受諾致します」(傍線は引用者)と前置きされた「和解案」なるものが届けられました(相手方代理人は太田三夫弁護士)。
しかし、その「和解案」は、「当事者双方は、本件和解案を第三者に口外してはならない」、「当事者双方は、今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行わない」、「申立人と相手方は(中略)本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。」など、明らかに申立人(私)が今後パワー・ハラスメント問題で訴訟を起こすことを牽制・阻止する意図が感じられる、一方的な条件が列挙されていたので、申立人側は、この条件での「和解案」を受け入れることは出来ないと断りました。すると、翌23日、相手方代理人から、今度は「相手方としては申立人修正案では和解(調停)は無理です。」という奇妙な言い分の文書が届きました。申立人と代理人は、相手側の蟲のいい言い分にあきれ、常識を疑いました。あたかも「申立人は審判員を通じ、頭を下げて〈和解〉を申し入れてきたようだが、相手方としては、こんな「申立人修正案」では〈和解〉などしてはやれない」と言わんばかりの、思い上がった内容だったからです。
労働審判委員会は相手方(財団法人北海道文学館)が勝手に申立人と「和解」交渉を始めようとしたことについて少し奇異に感じたようですが、ともかく「調停による解決」を求め、相手方(財団側)に対して「本件和解金として、○○万円を支払いなさい」と穏便な解決案を提示しました。相手方はそれでもまだ第2回目の審判において自分たちの和解条件に執着していましたが、結局は先ほどのような「和解」諸条件を全て引っ込めざるを得ず、シンプルな形の「調停成立」となりました。財団側の言い分には正当性がなかったということの、顕著な証拠と言えるでしょう。決して申立人と相手方“双方”が歩み寄った結果、円満な解決が手打ち式風に行われたわけではありません。
平原氏はそのあたりの事情を一切語らず「ここでは割愛します。」と核心を語ることから逃げていますが、財団側の身勝手な理論が阻止された事実を書かないのは、明らかに自分たちの不利な点を隠蔽する意図があったからだと見ることができます。
6ページ10~11行目
「この種の持ち込み貸し館の企画は珍しいことではなく、過去にも例のあることでしたが、そのへんの事情を十分に知らない亀井志乃氏は、(父君のブログによりますと)これを寺嶋氏による『自分の展示』への妨害だと受け取ったようでした。」
年度当初の予定にない外部からの持ち込みの〈貸し館〉展覧会が存在することは、私も充分承知しています。例を挙げれば、工藤正廣理事が持ち込んだ「タンザニアの美と詩」展(成17年6月21~30日。主催:タンザニア連合共和国大使館、タンザニア文化交流実行委員会)や、原子修理事が企画を持ち込んだ「~北の潮騒が聞こえる~ 利尻…詩と海藻押し葉展」(平成18年1月21日~2月5日。主催:利尻海藻おしばの里づくり実行委員会、NPO法人アーティスティック・アコード・アソシエーション)などがあります。
特に「海藻押し葉展」の方は、真冬の閑散期で来館者も少なかったので、私は担当者ではなかったものの、「海藻押し葉しおり作り」イベントに自ら参加し、観客に作成を勧めるなどの協力もしてきました。
それと共に私は、業務の進捗状況を知らない財団理事らが年間予定にない展覧会を突然持ち込んでくる事で、学芸職員も業務課も口には出さねどどれほど迷惑に思っていたか。そういう現場の状況をつぶさに目撃してきました。
ただし、どんなに「突然」だと皆が困惑するような持ち込み企画でも、平成17年度までは、少なくとも10日から2週間以上前には皆に知らされていたし、段取りも話し合われていました。「タンザニアの美と詩」展は開催13日前(6月8日)に学芸課内打合せの議題に挙がっていた(甲104号証)。「海藻押し葉展」は、前の月の課内打合せ(平成17年12月27日)ですでに事業予定に入っていました(甲59号証参照)。また、開催月の「行事予定表」にも組み込まれていました(甲105・106号証)。
ですから、「イーゴリ展」のように、開催日(平成18年2月3日)の4日前に作成・配布された「行事予定表」(甲21号証)にも記されておらず、次回展覧会の主担当にも副担当にも一言のことわりもなく設営されてしまった「持ち込み貸し館の企画」は、平原氏の言うところの「珍しいことではなく」どころではありません。むしろ、展示企画の入れ方としては前代未聞のことだったのです。
もう一つ、細かい点ですが、私は「人生を奏でる二組のデュオ展」のことを、「自分の展示」などと公私混同した表現で言いあらわしたことはありません。私は、例え企画原案自体は自分が作ったものでも、展示事業の実行自体は道立文学館から委嘱されたものだという事をわきまえて仕事を進めてきました。また、平原氏の文章中には、「(父君のブログによりますと)」とありますが、亀井秀雄が執筆したブログの中で、そのような短絡的な表現が用いられた箇所は一つもないはずです。
私が確かめた限りでいえば、
「それまで亀井志乃の構想や準備の進め方には関心がなく、展示予定のリストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきた。その連中が、急に〈展示は皆のものだから〉と言い出し、では、手助けをするかと言えば、そうではない。依然として構想や内容には関心を示すことなく、だが、まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉を織り交ぜながら、杓子定規に「決まり」を適用して、彼女の行動や経費に細かいチェックを入れてくる。」(「北海道文学館のたくらみ(9)」)
と書いているだけでした。
「まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉」という表現から分かるように、平原氏たちのほうが公私混同的に私の仕事ぶりを評していたわけです。私が展示予定のリストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきたのは、言うまでもなく平原氏でした。
平原氏の私の仕事に対する高括りと、自らの不勉強が宮様の前で恥を晒す結果となった。それが3月9日の事件だったと言えるでしょう。
ともあれ、平原一良氏はこのように、ごく些細な表現の操作で、私(および、ついでに亀井秀雄の方も)は公私のけじめもつかない/つけられない人物であるかのように、この「陳述書」(乙12号証)を読む人に印象づけようとしている。これがきわめて隠微な形での誹謗中傷であり、人格権侵害行為であることは言うまでもありません。もし平原氏があくまで「亀井秀雄のブログの中には、亀井志乃が言った言葉として「自分の展示」という表現がある」と主張するのであれば、具体的に、当該箇所を含む前後の部分を、書かれた年月日も特定できる形で証拠として提示すべきです。
6ページ14~18行目
「準備過程の終盤、図録の最終校正を私も見たいと同氏に伝え、諒とされました。校正紙を預かり、若干の赤を入れて同氏に返したところ、その日の夜になって、私の自宅宛に電話があり、同氏から謝意を伝えられました。」
私が展覧会図録の校正に関して、平原副館長に電話を入れた事実はありません。
平原氏は「準備過程の終盤」と書いていますが、この場合、図録の「最終校正」を何月何日のこととして書いているのか、その点が不明です。図録原稿入稿(平成19年1月18日)以来、校正に関しては、テキスト校正も色校正も、どちらも複数回行っています。色校正の時でも、テキストはそのつど念のためにチェックしてきました。平原氏はこのうちのいずれを「最終校正」の時と主張しているのか、日時などを明らかにしなくてはなりません。
私にとっての最終校正は、同年2月14日(水)の色校正の時でした。これがカラーならびにテキストの最終校正日でしたが、この日は、校正が終わり次第すぐに版下を印刷所にまわす予定になっていたため、私は午前10時から外勤で印刷会社アイワードに行き、担当のM氏と協力しながら、最終チェックを行っています(甲107号証)。終了したのは正午頃でした。私はM氏に校正刷りを託して、即刻道立文学館に戻り、午後から展示室の作業に当たりました。よって、この時の校正作業には、平原副館長はまったく関わっていません。
図録原稿の入稿以降、初校が出たのは同年1月25日のことですが、この時は、私は校正刷りをコピーして、副担当のA学芸員と、平原副館長に手渡しました。副館長には、一応、図録の構成に目を通しておいてもらおうと思ったからです。
しかし平原副館長は他の業務で多忙と見え、初校の締切日である2月2日までには校正が間に合いませんでした。私は、自分とA学芸員の校正結果を合わせて、アイワード・M氏に校正刷りを渡しておきました。平原副館長の校正が戻ってきたのは、その数日後のことです。その際の校正でチェックされていた箇所は、第2校の時に修正しました。なお、図録の内容や構成については、平原副館長からは意見やクレームは出ませんでした。
このような経緯があったため、私はその後、図録校正に関しては、もっぱらA学芸員と協力して行うことにしました。A学芸員は、締切期日前に必ず余裕をもって校正を終えてくれるので、私としては非常に心強かった。
展覧会図録作成にともなう校正作業の経緯は、以上の如くです。よって、私が、校正作業のいつの時点であれ、平原副館長に電話で礼を述べた事実はありません。
6ページ21~22行目
「企画展『二組のデュオ』の展示準備は学芸スタッフばかりでなく業務課スタッフの手も借りて進められました。直前まで展示パネルが仕上がっていませんでしたし、キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことでオープンに漕ぎ着けたのです。」
私はこの箇所を、平成17年度の常設展リニューアル作業における平原氏自身のパロディとして読んでしまいました。しかし笑って看過するわけにもいきまん。被告「陳述書」(乙1号証)「5ページ20~26行目」に対する反論と重なることになりますが、以下に、もう一度整理して説明しておきます。
私は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していました(甲75号証の1)。人物紹介や作品解説のテキストも、パソコンへの打ち込みは完了していました。そして、それらのテキストを、解説パネルやコーナーサインにも流用しています。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと、私があらかじめ配慮したからです。それ故に、図録のキャプション及び解説と、実際の展示で使用されたキャプション(カード)及びパネルの解説とは、ほとんど同じ内容となっています(甲75号証の2・3参照)。写真図版にしても同様です。図録で用いられた写真と展示写真とは、サイズが違うだけで、全く同一の画像です。
また、私は、平成19年2月8日以前の段階では、展示設計もほぼ終えていたし(甲74号証参照)、キャプションもすでに刷り上がっていました。キャプションもコーナーサインも、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるばかりとなっていました。
ですから実際には、「直前まで」(これも、平原氏はいつの時点を指して言っているのか不明ですが)「展示パネルが仕上がっていませんでしたし」ということはありませんでした。第一、すでに同年1月18日にアイワードに入稿してしまっているキャプションについて(甲48号証の2参照)、「学芸スタッフ」が改めて「打ち込み」を「手伝」ったという説明もリアリティに欠けています。仮に万が一キャプション(カード)作成作業が遅れていたとしても、デジタルテキストさえ手元にあれば、それをそのまま刷り出す方が、改めて「打ち込み」をするよりはるかに早く出来上がるはずだからです。
もし平原氏が、あくまで「亀井の担当展覧会は作業が大幅に遅れ、パネルもキャプションもほとんど他の学芸スタッフが作ったようなものだ」と主張するのならば、当然私が作成・準備していた図録原稿と実際の展示キャプションは大きく相違するはずなので、その違いを指摘する必要があります。
展覧会で作成・使用した展示キャプションとパネルは、現在、北海道立文学館2階の機械室の奥にすべて保管されています(どの展覧会においても、文学館内で作成・使用されたパネル類は保管される)。それらのテキストと図録のテキストとをひき較べれば、同一人物または同一コンセプトのもとで作成されたか、それとも多くの人の手が加わった雑多な性質のものなのか、一目で分かります。平原氏はその方法で、自説の真実性を簡単に証明することが出来るはずです。
なお、前項「6ページ14~18行目」への反論で述べた通り、図録校正は2月14日に終わっていました。校正刷りは、それ以前に、とうに回収されて印刷所に渡されていました。製本された図録が納品されたのは展覧会オープン当日の2月17日のことです。この事実から分かるように、平原氏や被告が主張するごとく、もし私が徒らに作業を遅らせるばかりで、パネル作成も何もせず、しかも他の職員を残して早帰りするほど非協力的だったとするのならば、他の「学芸スタッフ」が図録原稿どおりにテキストを打ち込むことは、まず不可能に近かったはずです。平原氏は、この点を十分に勘案した上で、自説の合理的な説明を試みられたい。どのような説明が得られるか、私は期待して待っています。
3)「4 おわりに」について
6ページ27行目~7ページ3行目
「この企画展の会期半ば(3月9日)に、宮家からお二人(お二方。亀井志乃の引用ミス)のご来館があり、常設展示と企画展のそれぞれをご覧いただき、私が説明役の任に当たりました。事前に北海道警察本部との間でご来館時の流れを検討し、役割分担を毛利館長らとも打合せ、職員にも伝えてその時に臨みました。常設展示の説明が終わり、企画展へとお二方にお運びいただき、私が説明を開始して数分後に、警護官らが不自然な動きを見せたので、私はそちらへと目を向けました。すぐ間近に亀井氏が迫っており、警護官が動きかけたので、咄嗟に私は『当館の職員で、この展示を担当した者でございます』と説明して、その場をとりつくろいました。亀井氏は、その直後から上気した様子で一部のコーナー解説を始めるなど、最後まで展示室にとどまりました。当初の予定にない突然のことでした。自分の手がけた展示をなんとしても自分で説明したい、事前の打合せなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動で、私はもちろん幹部職員は冷や汗をかいたのでしたが、いま顧みると極めて非常識な行動であり、自らの業績を顕示したいとの欲求を抑制できない人物には、十分にあり得る出来事だったと思わざるを得ません。」
平原氏が述べるところの「宮家からお二人のご来館」とは、平成19年3月9日(金)における常陸宮同妃両殿下のご来館を指しているものと思われます。両殿下の企画展ご観覧に際しては、確かに私は、特別展示室内においてご一同に同行致しました。しかし私がご一同に「迫っ」たり、「上気した様子で一部のコーナー解説を始め」たりした事実は全くありません。まず宮様が御出でになった経緯を説明しておきます。
【経緯】
札幌市では、毎年3月に大倉山・宮の森等で「宮様スキー大会国際競技会」が開催されます。ご臨席された宮家の方々は、大会スケジュールの空き時間に市内の文化施設等を御覧になるのが通例となっており、北海道立文学館も毎年ではありませんが、比較的よくご観覧ルートとして選ばれてきました。平成18年には桂宮殿下が、そして平成19年には常陸宮同妃両殿下がお見えになることとなりました。ご来館は、非公式にはすでに前年から決まっていました。
平成19年の1月頃、いよいよ常陸宮殿下のご来館が正式に決まったとのことで、ある日事務室では、展示室のご案内の件が話題となりました。私もその雑談に加わっており、ふと「企画展の方で、私もご一緒するなんてことは出来るんでしょうか、どうなんでしょう」と口にしたところ、川崎業務課長は「もちろん。亀井さんが、ご説明すればいいんでしょう。自分の手がけた企画なんだし」と言い、同席していたN業務主査も、その点に特に不審も異義もないようでした。しかしその後は、事務室内や職員間において、ご案内の件の話題が出ることはありませんでしたし、打合せが持たれることもありませんでした。私は猛忙のうちに展覧会準備を完了し、「人生を奏でる二組のデュオ」展の会期を迎えました。
3月9日当日、私は通常通り出勤し、雑誌登録・収蔵庫業務・閲覧室業務等のルーティンワークを行っていました。午前11時30分からは、「二組のデュオ展」に個人として資料を貸してくださったH夫妻がわざわざ千葉から来られたので(甲108号証)、私は小1時間ほど対応に当たり、その後、事務室で遅い昼食を取りました。
この間、文学館内で何らかの打合せが行われた様子はなく、また、仮に行われたとしても、誰も私を呼びに来ず、内容を知らせる者もいませんでした。昼食後、私は再び業務に戻り、しばらく経った午後2時45分頃、常陸宮同妃両殿下がご到着との報せが入りました。
私は、展示責任者として一応近くに待機していようと、地階展示室前ロビーに降りてゆきました。すると、当日の受付係を担当していたNさん(派遣会社からの派遣職員)が、「あ、亀井さん、今日はご説明の係なんですね」と声をかけてきました。私は「いえ、特に何もそんなお話はないんですよ。ただ、念のために待機してようと思って…」と答えましたが、その時、Nさんは少し驚いたような、釈然としない表情をしていました。
その時、私は、受付係はじめ文学館職員全員の胸に、見なれないバッジがついていることに気がつきました。確か、日章旗と北海道の旗が交差したデザインで、一目で宮様をお迎えする行事のためのバッジと分かります。私はそのバッジを渡されていませんでしたが、一応胸には文学館職員であることを示す記名プレート(通常のイベント用のもの)をつけていたので、とりあえず地階展示室ロビーにとどまって様子を見ることにしました。
私は、常設展示室ではご一行には同行せず、入口付近でご観覧の様子を遠目から拝見していました。展示室には文学館の代表として神谷忠孝理事長・毛利正彦館長(当時)・平原一良副館長が同道していましたが、説明は、もっぱら平原副館長によって行われました。常陸宮同妃両殿下が常設展のご観覧を終えられた時、すでに時計は3時15分になろうとしていました。ご退館の予定時刻(午後3時25分)まであと10分ほどしかありません。私は、多分「二組のデュオ展」の方の説明はきわめて簡略であろうと思いましたが、それでも宮殿下からご質問があった時にはお答えしなければならない場面もあろうかと思い、ご一行の一番後から少し離れてついていきました。
特別展示室に入ってまもなくの右側壁面に、青年期の有島武郎の絵画・写真等が展示されているコーナーがありました。またそこには、有島武郎とワルト・ホイットマン(アメリカの詩人)についての説明パネルが掛けられています。平原副館長は常陸宮同妃両殿下と共にその前に立ち、「有島武郎は、アメリカ留学から日本へ帰国する途中、ロンドンでワルト・ホイットマンと出会ったのです」と説明をしました。それを聞いた瞬間、私は思わず口の中で小声で「え」と言ってしまった。
その理由の一つは、有島武郎が尊敬していたワルト・ホイットマンは、生粋のアメリカ詩人であり、ロンドンに行ったことはなく、また有島がアメリカに留学する11年前にすでに亡くなっていたからです。有島がロンドンで会ったのは亡命中のロシアの思想家・クロポトキンでした。
もう一つの理由は、両殿下と副館長の目線の先に、まさにホイットマンの事について解説した大きなパネル(A3判程度)があったからです。平原副館長の口にした内容は、その解説の中身と大きく食い違っています(甲63号証参照)。
私はすぐに口を閉じて俯いてしまいましたが、しかしすでに常陸宮同妃両殿下も、館の幹部職員や随員・警護官らも、私の声に気づいて振り向いていました。そこで、私は、「…有島武郎はホイットマンの詩と出会ったのです…」と、パネルの内容に合わせて、ごく簡略に平原副館長の発言のフォローを試みました。
私が思わず声を発してから、パネルの説明をしてそのコーナーを離れるまでは、時間的にはほとんど数分もかかりませんでした。その後も、主な説明は平原副館長が行いましたが、ただ、「早川三代治関係書簡」や中戸川吉二の生涯と小説、里見弴と中戸川との関係など、一般にはあまり知られていない事柄については、平原副館長も苦手だった様子で、私に話を振ってきたりしたので、そういう時には私がご説明役を受け持つ形となりました。両殿下のみならず、宮内庁随員の方々や、警護官の諸氏も展示にはそれぞれに関心を持って見て下さっているようでした。バッジをつけていない私が説明するのを咎める様子の者も、時間の経過を気にして急かせる様子の者もいません。結局、常陸宮同妃両殿下ご一行はご退館予定時刻を20分ほど超過した午後3時45分頃に、道立文学館をお出になられました。
以上が、「宮家からお二人のご来館」があった際の経緯の概要です。
私は、「何かご質問があった時のために」と心がけてご一行の後ろから付いて入っていっただけであり、平原氏が叙述する如く「警護官らが不自然な動きを見せ」なければならないほどの勢いで、「すぐ間近」まで「迫っ」たわけではありません。そもそも随員・警護官らは、両殿下や文学館職員幹部を取り囲んで守っていたのではなく、その後ろから付き従っていました。それ故、仮に「警護官らが不自然な動きを見せ」たとしても、両殿下に最も近い位置におり、壁面のほうに顔を向けていた平原副館長の目に、彼等の動きがすぐに入ったということは考えられない。シチュエーションから見ても不自然なことです。
また、私が発言せざるを得なくなった理由は、平原副館長自身の説明の間違いによるものでしたが、訂正の際も、私は、平原副館長が間違っていた事には一言も触れないように言葉を選びました。
この最初の平原副館長の説明ミス、及び展示後半の説明に関する私へのバトンタッチは、全て平原副館長自身の準備不足に起因する。そう言って差し支えないでしょう。なぜなら、「6ページ14~18行目」および「6ページ21~22行目」の項で述べたように、展示キャプション・解説と図録キャプション・解説は同内容のものを使用しており、また図録は企画展がオープンした2月17日に刊行され、道立文学館に納品されました(甲63号証 図録奥書参照)。そして私はその日、届いた図録を即座に全職員に配布しておいたからです。
つまり、平原副館長が常陸宮同妃両殿下ご来館までの日にちの間、一度でも図録に目を通していたら、ホイットマンをクロポトキンと間違えるような(つまり時代背景そのものを錯誤するような)大ミスは未然に防げたはずです。それだけでなく、こうしたミスをしたことは、平原副館長が会期中ほとんど特別展示室には入らなかったこと、あるいは、入ったとしてもキャプションやパネルに丁寧に目を通すことはほとんどなかったことを物語っていると言えるでしょう。これは、仮にも自分が副館長という立場で勤務している文学館で行われている展示に対して、オープンから21日間ものあいだ無関心でいたということであり、管理職としては到底あるまじき態度としか言いようがありません。
平原氏は「陳述書」(乙12号証)のこの前の部分で、「遅々として進まないこの企画展の準備に気を揉んでいたのは私ばかりではありませんでした」(6ページ13~14行目)と書いていましたが、要するに準備の遅れには気を揉むが、完成してしまえばあとは関知せずということだったようです。
3月9日当日、私は仕事をしながら何度かは事務室に入りましたが、その間何らかの「打合せ」の様子を見たり、平原副館長がその内容を「職員にも伝え」たりしているのを見ることはありませんでした。また、宮殿下ご観覧の施設の職員であることを示すバッジも、私にだけは渡されませんでした。その上、平原氏は、私が特別展示室へ入る事を「当初の予定にない突然のこと」「事前の打合せなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動」と記しています。しかし、企画展の主担当がその展覧会場に入ることが「当初の予定に」すら「ない」というのは、通常考えられない、異例なことと言うべきでしょう。
平原氏が故意にバッジを私に渡さなかったのかどうか。「ご来館時の流れを検討し、役割分担を毛利館長とも打合せ、職員にも伝えてその時に臨みました」という、その「役割」を私には与えず、職員の打合せにも私を呼ばなかったのは、故意だったのか偶然だったのか、その辺の詮索は控えるとしても、平原氏が、実際に私が取ったわけでもない行為をまことしやかに書き連ね、「当初の予定にない突然のこと」「事前の打合せなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動」と評する、この書き方は異様なことと言わざるをえません。
しかしながら、私が上記のように経緯を説明しても、平原一良氏は、当該引用箇所で述べたことがあくまで事実であると主張するかも知れません。もしあえてその主張を通したいのであれば、平原氏は北海道警察あるいは宮内庁に問い合わせをし、傍証となる書証もしくは証言を得て札幌地方裁判所に提出してもらいたい。これは私の名誉に関する事柄だからです。両殿下のいらっしゃる所で「警護官らが不自然な動きを見せ」、副館長が「当館の職員で、この展示を担当した者でございます」と取り繕わねばならないような異常な動きをした者がもし本当にいたとすれば、道警も宮内庁もその事実を重く見ないはずがない。記録をしていないことはありえないでしょう。本来ならば、その直後に理事長あるいは館長が責任を問われたはずですが、それはなかったようです。これは、道警や宮内庁にとって特に注意すべきことは起こらなかった証拠と言えそうです。いずれにせよ、平原氏からは、私が書いた「経緯」に関する意見をしっかりと聞きたいと考えています。
Ⅱ、結び
以上のように検証してみると、平原一良道立文学館副館長の「陳述書」(乙12号証)の内容には、事実と異なる記述が数多く見られます。そしてそれは単純な記憶違いと言って済まされない事柄ばかりです。
なぜなら平原氏の記述は、私が文学館の職員としてきわめて能力が低く、しかも社会的にも不適応な人間であったと読む者に思わせるようにと、文脈的に一貫して整えられているからです。
その顕著な例としては、私がいわゆる今風の〈ひきこもり〉であり、人格障害者的な人物であるかのように記述を畳みかけてゆく手法を挙げることができます。平原氏の陳述によれば、私は当初からその父によって「家に居る娘を仕事に使ってくれ」と押しつけられた人間であり(1ページ9~14行目)、もともと人と接する事は少なく(同16~19行目)、嘱託職員として働き始めるとまもなく「非協調的」として一部スタッフから不満の声があがり(2ページ9~10行目)、常設展リニューアルの頃には、周囲のスタッフからますます私を非難の声があがって平原氏がなだめるのに苦労するほどであり(同14~16行目)、自分の欠点を指摘される事は絶対的に拒否し(2ページ31行目~3ページ9行目)、自分の職務に対する認識力もなく(4ページ17行目)、職場の規律も守らず、周囲の空気も読めず(4ページ33行目~5ページ2行目)、職場の雰囲気をおかしくし(5ページ28~31行目)、担当の展示業務を満足にこなす能力もなく(6ページ13~24行目)、しかし自己肥大的なプライドだけは高く、ついに皇室の方々に、はしたなくも不敬なふるまいをするまでに至る(6ページ30行目~7ページ3行目)。人格描写のポイントをピックアップしてゆくと、実に典型的な境界性人格障害者、あるいは自己愛性人格障害者の像が浮かんで来る。
平原氏は「大学や大学院で研究者・職員としての経験のみを有する人物にはままありがち」(5ページ3~4行目)などと、一見、私の学歴・職歴の高さも一定程度評価している振りはしていますが、これは要するに、社会通念の中での〈挫折したエリートの人格障害者〉のステレオタイプなイメージを、そっくりなぞっているに過ぎません。また、こうしたイメージは、被告の「陳述書」における「原告にとって研究とは個人の研究を意味し」(乙1号証8ページ1行目)・「自らの研究と自らの関心ある業務だけを行い」(同9ページ17行目)といった箇所のイメージと密接につながっている。その意味では、乙1号証と乙12号証は、きわめて緊密な相互補完的関係にあると言えます。
ただし、本準備書面のこれまでの部分で反論してきたように、以上に挙げた平原一良氏の記述は、すべて虚偽であるか、または証拠の裏づけがない。これは、乙1号証にしても同様です。
それ故、もしも平原氏が以上の私の反論に対して再反論し、しかも有効な書証あるいは人証をもって主張の内容の信憑性を裏付けることが出来なければ、平原一良氏は、「以上の内容に相違ないことを誓います。」と明記して署名捺印した「陳述書」において、虚偽を記載し、私に対して事実無根の悪質な人格誹謗と中傷を行い、単に私の裁判における敗訴を企図したのみならず、被告と共謀して、私が重度の人格障害者として今後永久に社会的に葬り去られん事を積極的に画策したのだと結論せざるをえません
私は、この点について強く指摘し、もし平原氏が自己の主張の裏づけを果たせなかった場合には、氏の「陳述書」を私に対する法廷における悪質なセカンド・ハラスメントと見なし、その違法性を追求してゆく所存です。
以上
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