2009年4月20日 (月)

「判決とテロル」資料1:亀井志乃「準備書面」(20年3月5日付)

〔私は現在、「この世の眺め――亀井秀雄のアングル―」というブログに、「判決とテロル」を連載中だが、その資料として、亀井志乃の「準備書面」(3月5日付)、及び「準備書面(Ⅱ)―1」「準備書面(Ⅱ)―2」「準備書面(Ⅱ)―3」の、4本の文章を紹介することにした。これからも繰り返しその文章に言及し、時には参照をしていただくことになるかもしれないからである。これを参照していただければ、私の引用が決して恣意的でないことも分かっていただけるだろう。
 亀井志乃は平成19年12月21日に「訴状」を札幌地方裁判所に提出した。それに対して、平成20年2月13日の第Ⅰ回口頭弁論で、被告の代理人・太田三夫弁護士から、「原告の訴状は、事実と評価とを別けていないので、反論を書きにくい」という意味の注文がつき、裁判長は亀井志乃に、「被害の事実」と「違法性の指摘」とに別けて書き直すことを指示した。亀井志乃はそれを受けて、「訴状」を書き直し、平成20年3月5日、「準備書面」を提出した。
 昨夜この紹介を始めた時、私は「訴状」も紹介するつもりだった。だが、内容的には3月5日付「準備書面」とほとんど変わらない。読んで下さる人には、かえって煩雑かもしれない。そう考えて「訴状」のほうは省くことにした。
 3月5日付「準備書面」のほうを選んだもう一つの理由は、被告代理人・太田弁護士の「準備書面(2)」(4月9日付)の構成が、3月5日付「準備書面」の各項目に対する反論の形を取っていたからである。亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」(5月14日付)は、それに対する再反論だった。
 そんなわけで、もし亀井志乃の「準備書面」(3月5日付)と「準備書面(Ⅱ)―1」とを合わせて読んでいただけるならば、被告代理人弁護士・太田三夫署名の「準備書面(2)」の実態もよく分かり、亀井志乃の認識の深まりも見えてくると思う。
 裁判は不思議な効果をもたらす。議論が並行しているだけのようでありながら、双方の実相が如実に現れてくるからである。亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―2」と「同(Ⅱ)-3」は、寺嶋弘道被告の「陳述書」と、平原一良副館長の「陳述書」に対する反論であるが、今度読み直してみて、道立文学館に巣くっている連中の正体だけでなく、人格権侵害の根底に潜んでいるものがありありと見えてきた。それと同質のものが法廷や判決のなかにも作用しているのである。
 亀井志乃の3月5日付「準備書面」の最初の事例は、それだけを単独で取り出してみれば、「こういう嫌みを言うやつは、どこにもいるからな」という程度のことに思われるかもしれない。だが、その嫌みが執拗な嫌がらせにまでエスカレートし、明らかに業務妨害の様相を呈するに至って、「ああ、あれが始まりだったのだ」と過去に遡って、初発の事例が特定される。それとともに、その構造と本質が見えてくる。その意味で、亀井志乃の認識は「前進的―遡及的―前進的」な発見のダイナミックな構造を備えていた、と言えるだろう。
 今回紹介する4本の文章はいずれも長文であるが、以上のような関心で読んでいただければありがたい。2009年4月20日〕

事件番号 平成19年(ワ)第3595号
損害賠償等請求事件
原告 亀 井 志 乃
被告 寺 嶋 弘 道
             準 備 書 面
                              平成20年3月5日
札幌地方裁判所民事第1部3係 御中
                            原告 亀井志乃 印

 本書面では、平成20年2月13日の第1回口頭弁論において、裁判長からご指示をいただきましたとおり、第1、原告が被告から受けた被害について、被害を受けた年月日の順序に従い、(a)被害の事実 (b)違法性 に別けて述べます。
 その後、第2、原告が被告に謝罪文を請求する理由を述べます。

第1、原告が被告から受けた被害
(1)平成18年4月7日(金曜日)
(a)被害の事実

 原告は被告の前の勤務先が道立近代美術館だったことを知り、「近々道立近代美術館へ行って、木田金次郎の作品を見せてもらい、学芸員の話を聞かせてもらいたいと思っているところです」と予定を語った。すると被告は突然、「いきなり訪ねていったって、美術館の学芸員は忙しいんだ。ただ話をだらだらしたって、相手になってくれる人間はいないよ。そんな時間はないんだ」と言いつのった。
 原告は平成18年度の企画展「人生を奏でる二組のデュオ」(期間・平成19年2月17日~3月18日)の主担当であり、木田金次郎は企画展で取り上げる主要な作家・画家の一人だった。それゆえ原告は、3月18日から道立近代美術館のK学芸員としばしばコンタクトを取り、4月5日には、ほぼ面会する日時も決まっていた。 
 また原告は、木田金次郎の展示に関する大まかな構想を、すでに「2006年度展示原案(コンセプト稿)人生を奏でる二組のデュオ」(2005年6月16日 前学芸課長に提出 甲25号証)という文書にまとめてあり、その文書を被告に、「実は、この内容に関することでK学芸員にお話を伺うことになっています。このように、構想もすでに立っています」と見せようとした。ところが被告は手にも取らずに、「いいじゃん、いいじゃん、やれば。やんなさい」と嘲笑的な口調で言い、無関心な態度を示した。
 なお、念のために付記すれば、以上のことは、4月4日(火)に被告が駐在道職員として道立文学館に着任した、その4日目の事柄である
(b)違法性
、北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託として働く一市民の原告が業務遂行のため道立近代美術館を訪れる行動を、ただ道立近代美術館の学芸員を煩わせ、迷惑をかけるだけの行動であるかのように貶める言い方で、原告の行動予定を評し、原告の意欲を阻害した。これは「地方公務員法」第30条に反し、かつ北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項に反する点で「地方公務員法」第32条及び「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条、第4条、第7条に反する違法行為である。
、北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託として働く一市民の原告の構想に対して、説明を聞こうともせず、関心を持つに値しないもののごとく、侮蔑的な態度であしらった。これは前項と合わせて、「民法」第710条に該当する不法行為である。

(2)平成18年5月2日(火曜日)
(a)被害の事実(甲13号証を参照のこと)

 原告は平成17年度、平原一良学芸副館長(当時、のち副館長)の依頼で、北海道の文学碑に関するデータベースを作った。平成18年4月7日、(1)の事柄があった直前、原告は被告に文学碑データ検索機を見せたが、その時被告は「ケータイ(携帯端末機)で一般の人たちに写真を撮ってもらい、いい写真をえらんで、検索機にのせますからどんどん募集して下さいと言って、画像を集めればよい」、「そうすれば、館の人間がわざわざ写真を撮りに行かなくとも、画像は向こうから集まってくる」というアイデアを口にした。 
 それから約1ヶ月後の5月2日(火曜日)、原告は被告から「文学碑の写真のことについて話をしとかなきゃいけない」と声をかけられ、館長室で、学芸副館長を交え、三人で話し合った。被告が持ち出した話は「文学碑検索機のデータベースの、画像がないものについて写真を集めたい。原告が企画書を書き、中心となって、その仕事を進めて欲しい」という内容で、写真の集め方は明らかにケータイ・フォトコンテストを前提にしていた。
 しかし、そのデータベースは市販のパソコンソフトを利用したものではなく、業者に発注してプログラミングしてもらったものであり、使用画像の大きさ・画素数や、データ1件の画像数を1枚とする等のフォーマットが、あらかじめ決まっていた。
 フォトコンテストを行なうとすれば、まだ画像のない文学碑のフォトだけでなく、むしろ人気の高い文学碑のフォトがたくさん集まる可能性が高い。また、携帯端末機に付随する写真機の性能によっては、画像の画素数もまちまちとなる。それらの応募画像を検索機に載せることになれば、再び業者にフォーマットを作り変えてもらわなければならず、少なからぬ経費が必要となる。また、コンテスト自体、おそらく文学館にとって大きなイベントとなり、予算をつけなければならない。(以上、この段落の内容については甲14号証を参照のこと
 原告には、果たして嘱託職員の自分がそういう企画の中心的なポジションにつくことが出来る立場なのかどうか、という疑問があり、念のため予算問題やスケジュール問題を確認しておこうと、「私はそういうことが出来る立場では…」と言いかけた。
 ところが、その途端、被告が原告の言葉を遮り、「そういう立場って、いったいどういうことだ。最後までちゃんと言ってみなさい!」 と問い詰めはじめた。原告は、自分の立場は嘱託職員であることを説明した。だが被告は、「職員ではないとはどういうことか。立派な職員ではないか。財団の一員ではないか」と主張をした。
 原告は学芸副館長に、原告の立場を被告に説明してくれるように頼んだ。学芸副館長は「前年度までは確かにそうだったが、この春からは、亀井さんは館のスタッフとなった。そして我々は仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担をしようということになった」と言った。しかし原告は、前年度の3月に、安藤副館長から、従来通りの嘱託員に関する規約を示され、「亀井さんは、実績さえあげてくれればいい人だから」と言われ、それ以後誰からも、原告の身分が変わったと伝えられたことはなかった。学芸副館長がいう「スタッフ」という役職名は財団法人北海道文学館の規程のどこにも見られない。その意味で、学芸副館長の説明は嘱託職員の実態を適切に説明したものとは言えなかった。
 原告は嘱託職員の立場を、「一定の専門的な能力を評価され、時間契約によって文学館の業務を手伝い、あるいは文学館の業務の一部を請け負って、求められた成果を挙げる」立場と理解していた。そのため、改めてその立場を確認しながら、「原告の立場で(前年度から文学碑データベースの作成を請け負ってきたものとして)意見を言えばいいのか」と聞いた。だが、学芸副館長と被告は、「意見」ではなく、「アイデア」を出してほしいと言い、「アイデア」だけでなく「プラン」も立ててほしいと言った。しかし結局、副館長と被告の主張は、概念規定も曖昧なまま「テーブルプラン」「アイデアのコンテンツ」など言葉の言い換えに終始し、何をどこまで原告にしてもらいたいのか曖昧なまま、話し合いは終わった。
(b)違法性
、北海道教育委員会の駐在道職員である被告が思いついたケータイ・フォトコンテストは、平成18年度の過密スケジュールに追われている財団法人北海道文学館の業務課と学芸班の両方に大きな負担を強いる企画である。駐在道職員の被告は、年度途中に、財団法人北海道文学館の嘱託である原告に、原告が業務を担当することを前提として、企画作りを強圧的な態度で要求した。これは、財団に対しては、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱して、「地方公務員法」第32条に反して行われた干渉行為であり、他の業務を抱えた原告に対しては業務強制の人権侵害の違法行為である。
、財団法人北海道文学館の「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在)によれば、特別企画展「石川啄木―貧苦と挫折を越えて」(期間・平成18年7月22日~8月27日 以下、「啄木展」と略)の主担当は鈴木浩社会教育主事であり、副担当は原告であった。被告はその「事務分掌」を無視して「啄木展」に介入し、原告を疎外し、他方、自分が思いついたケータイ・フォトコンテストの企画作り(原告の実施を前提とする)を原告に押しつけようとした。これは前項で指摘した規律違反であるだけでなく、原告に対しては業務の不当なすり替えであると共に、「啄木展」副担当という責任を原告に果たさせまいとした点で、「刑法」第234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。
、原告の財団法人北海道文学館における立場は、「一定の専門的な能力を評価され、時間契約によって文学館の業務を手伝い、あるいは文学館の業務の一部を請け負って、求められた成果を挙げる」嘱託の立場である。被告はそのことを理解しようとせず、嘱託職員では負いきれない、あるいは嘱託職員が負ってはならない責任が伴う業務を押しつけようとした。これは北海道教育委員会の職員である被告が財団と原告との間に結ばれた労働契約を無視した点で、「地方公務員法」第29条に問われるべき違法な越権行為である。
、被告は、原告が嘱託職員としての立場と、平成17年度に依頼されて「文学碑データベース」を作成した経験に基づいて意見を述べようとしたところ、その発言をいきなりさえぎって、原告に「財団の一員」としての自覚が欠けているかのごとく詰問した。これは嘱託職員には正職員とは異なる立場と権利があることを無視し、意見表明の自由を封じ、原告には職員としての欠格性があるかのごとく誹謗中傷した点で、憲法が保障する基本的人権を侵害した違法行為であり、また「民法」第710条に該当する不法行為である。

(3)平成18年5月10日(水曜日)
(a)被害の事実(甲4号証を参照のこと)

 平成18年5月9日(火曜日)の朝の打合せ会で、原告は、5月13日に小樽の啄木忌で行なわれる講演会に出席するため午後から早退したい意向を述べ、安藤孝次郎副館長(当時)、平原一良学芸副館長(当時)を含めた出席職員全員の了解を受けた。この日(9日)被告は休暇を取って欠席だった。
 ところが翌10日の朝、被告は、事務室において、年休を持たない嘱託職員の原告に対して、「あなたは〈年休〉を何時間取ると思っているのか」という内容の質問を始めた。しかし原告は年度当初、安藤副館長から嘱託職員には年休がない旨を告げられていた。それゆえ原告は、被告に、自分は「年休」を取るわけではないと説明したが、被告はあくまでも原告の休みは「年休」であると主張した。そこで原告は安藤副館長に相談して、原告には「年休」がないことを説明してもらった(甲26号証)。
 ところが同日の午後4時半頃、事務室において、被告は再び原告に近づき、「それでは(年休がないなら)何で休むかについては僕が聞いておかなくてはならないね」と質問した。原告が、休みの場合は通常「私事」と書くだけだ、と説明したところ、「それじゃ、何で休むかは聞かない。でも、業務に差し支えないかどうかは確認しなければならない」と言った。しかし、通常は休暇届けを台帳に記載する以外に、わざわざ理由その他の申告を求められることはない。原告がその点を指摘すると、被告は5月2日の「原告は嘱託ではない、立派な財団職員だ」という主張を蒸し返し、原告の退勤時間を30分もオーバーする5時半頃まで足止めをした。
(b)違法性
、原告は年休を持たない嘱託職員であるが、財団法人北海道文学館と契約した勤務時間以外の時間における行動については、財団からは制約を受けず、自由に使ってよい権利を持っている。北海道教育委員会の職員である被告が原告の権利を理解せず、原告の勤務時間外のプライバシーに干渉するのは、憲法が保障する基本的人権を侵害する違法行為である。
、原告の13日の午後に早退したい希望は、朝の打合せ会で了解された。これは、文学館の業務に差し支えないと判断されたからである。それゆえ被告は、原告の早退が被告自身の業務に差し支える場合を除き、原告の早退を云々する必要も権利も持たないはずである。だが被告は、原告の退勤時間が迫った時刻にその問題を蒸し返し、1時間以上も問い詰めて、退勤時間外の行動を拘束した。これは被告が自分の関心を業務論一般にすり替えながら、原告のプライバシーに対する干渉を止めなかった点で、基本的人権侵害の違法行為であると共に、「地方公務員法」第29条に該当する不法行為である。
、北海道教育委員会の職員である被告が、財団の嘱託として働く一市民の原告に対して、執拗に「原告は嘱託ではない、立派な財団職員だ」という考えを強制した。嘱託職員の立場と権利を無視し、フルタイムの正職員とおなじ労働と責任を強制したことは、憲法が保障する基本的人権を無視し、財団と被告が結んだ契約外の労働の強制した点で、「民法」第709条に該当する不法行為である。
、原告は嘱託職員であり、労災に入っていない。それゆえ、平成17年度までは、安藤副館長および当時の業務課長から「亀井さんは5時になったら退勤して下さい」という扱いを受けてきた。
 被告は、原告に対してそのような配慮をすることなく、退勤時間以後も原告を拘束した。これは北海道教育委員会の職員である被告が、原告と財団の間に結ばれた契約を無視した点で、「地方公務員法」第29条に該当する違法な越権行為である。また、原告の自由を拘束したことは、憲法が保障する基本的人権の侵害であり、「民法」710条に該当する不法行為である。

(4)平成18年5月12日(金曜日)
(a)被害の事実(甲27号証・甲28号証を参照のこと)

 この日、閲覧室で勤務していた原告は、内線電話で、被告から「今年担当の展覧会について打合せをしたい」と呼ばれ、事務室に向かった。打合せには、A学芸員(駐在道職員のうちの1人)が同席した。なお、原告は企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の主担当であり、A学芸員は副担当だった。
 それゆえ、原告は企画展に関する打合せと思っていたが、実際はそうではなく、被告より一方的な形で展覧会事業の予算配分の変更を通告された。その理由は、概略すれば、次の2点だった。

① 現在、「写・文交響―写真家・綿引幸造の世界から」展(期間・平成18年4月29日~6月4日 以下、「綿引展」と略)、「デルス・ウザーラ―絵物語展」(期間・平成18年6月10日~7月9日)、「啄木展」(期間・平成18年7月22日~8月27日)についてはすでに予算が執行されているが、「啄木展」のところで予算を大幅に超過している
② 指定管理者制度の下では、予算は4年間の間に使い回ししてよいことになっていたが、やはり単年度計算でなくてはならないということに一昨日(5月10日)に決まった。そのため、特別企画展「啄木展」と「池澤夏樹のトポス」展(期間・平成18年10月14日~11月26日 以下、「池澤展」と略)とであとどれだけ予算が使えるかを出すために、急遽、他の展示の担当者たちに、支出予定の内訳を算定してもらわなければならない。

 被告はそういう事情説明をした上で、「支出予定の内訳は、来週までに作成し、文学館のサーバー内の所定の場所にアップしておくように」と原告らに命令した(甲29号証)。
 だが、平成18年4月1日の日付を持つ「平成18年度 学芸業務の事務分掌」に明記されている如く、特別企画展「啄木展」の主担当はS社会教育主事(駐在道職員のうちの1人)であり、原告が副担当だった。ところが被告は、原告に何のことわりもなく、主担当のS社会教育主事と準備に取りかかり、日本近代文学館からの展示資料の借用などの主要な業務を、原告を全く無視する形で進めた。その結果、「啄木展」の当初予算の3,712,000円を大幅に超過してしまった(甲28号証)。
 原告は「啄木展」の業務からほとんど疎外されており、予算超過についても、この時まで一切知らされていなかった。だが被告は、予算超過の事情を説明することはなかった。被告はまた「池澤展」の主担当であり、その展示事業費として3,612,000円の予算がついていたが、なぜ「啄木展」の予算超過を「池澤展」の予算で調整しないのか、その点の説明もなかった。
 そして被告は、「〈企画展〉の財布は一つしかない。だから、原告が主担当の『人生を奏でる二組のデュオ』展の予算1,516,000円は他の2つの展示『書房の余滴―中山周三旧蔵資料から』(期間・平成18年12月9日~24日 以下、「中山展」と略)と『聖と性、そして生―栗田和久写真コレクションから』(期間・平成19年1月13日~1月27日 以下、「栗田展」と略)とでシェアしなければならない」と主張した
(b)違法性
、被告は嘱託という契約職員である原告の重要な業務の一つを奪った。これは北海道教育委員会の公務員(被告)が、民間の財団法人北海道文学館に嘱託で働いている市民(原告)に対して行った、「刑法」第234条に該当する業務妨害であると共に、原告と財団との間に結ばれた契約を侵害する「地方公務員法」第29条、第32条に該当する違法な越権行為である。
、北海道教育委員会の職員である被告は、4月11日、自分が副担当の「綿引幸造」展で、ポスター作成に失敗して、ポスター300枚の作り直しをし(甲30号証)、啄木展では5月12日の段階ですでに当初予算を大幅に超える支出を行うなど、「地方公務員法」第33条に違反し、「地方公務員法」第28条または第29条に問われるべき失敗を重ねた。
 もし年間の展覧会事業に割り当てられた予算の再配分が必要ならば、財団職員の副館長あるいは業務課長からその必要性と理由の説明がなされるべきである。ところが被告は、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱し、自らが再配分の権利を持っているかのごとき言い方で、原告の企画展に割り当てられ予算の支出に干渉した。これは「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第7条に違反する行為である。
 また、被告は敢えて倫理規程の違反を犯してでも原告の予算の一部を流用して自己の失敗を隠蔽し、自分の責任が問われることを回避しようとした。これは原告に対してなされた、「刑法」第233条、234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。
 その結果原告は当初予算を切り詰め、展示構想を縮小するという不当な実害を蒙った。

(5)平成18年7月11日(火曜日)・平成18年9月1日(金曜日)・平成18年9月8日(金曜日)
(a)被害の事実

 原告が特別企画展の「啄木展」にかかわることができたのは、主担当のS社会教育主事の依頼で、7月11日(火曜日)に、特別企画展全体の中では付随的な位置づけでしかない資料を僅かに1点のみ借用するため、釧路まで日帰りで往復したことだけだった。
 また、原告は、その資料の返却のため、9月1日(金曜日)に再び釧路に赴いた。そこで原告は、その資料の貸与者だった釧路啄木研究学会事務局長・K氏に招かれ、氏が港文館(元釧路新聞社屋)で行っていた石川啄木に関するレクチャーに参加させてもらった。これはエキストラの勉強チャンスであり、財団法人北海道文学館の考え方では、出張先の研究状況等に関する情報を「復命書」に書いておくことが望ましいとされていた。そこで原告は、その考え方に従って「復命書」を作成し、業務課に提出した。
 だが被告は、出張命令書(甲12号証の2)に書かれた「用務」に関する報告以外は書くべきではないと、文学館業務の実態を無視した形式論理を原告に押しつけて、平成18年9月8日(金曜日)、原告に書き直しを命じた(甲11号証甲12号証の1)。
 同様な書き直し命令は、同じく平成18年9月8日、(6)で言及するニセコ出張の「復命書」に関しても行われた。
(b)違法性
、「復命書」は業務課に提出すべき書類であり、原告は財団の書式と財団の慣例に従って書き、業務課に受理された。北海道教育委員会の駐在職員であり、学芸班に属する被告が、財団の業務課において受理された文書をキャンセルさせ、原告に書き直しを命ずるのは、「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第5条に反する、不当な越権行為である。また、財団の業務課と原告に対する業務妨害の違法行為である。
、被告が原告を、「復命書」の書き方を知らない無知な人間扱いをしたことは、原告の人格と能力を貶め、名誉を毀損したことにより、「民法」第710条に該当する不法行為である。

(6)平成18年8月29日(火曜日)
(a)被害の事実(甲31号証を参照のこと)

 この日、原告は自分が主担当として責任を持つ企画展「人生を奏でる二組のデュオ」に関して、朝の打合せ会で、翌8月30日にニセコの有島記念館に出張し、展覧会の勉強のため展示品を見ておきたいと言い、出席職員の了解を得た。
 ところが打合せ会が終わるやいなや、被告は自席から、「そのことは平原さんは知ってるの」と原告に質問した。その日、平原副館長(安藤副館長の退職後、学芸副館長から昇任)は急な怪我で、たまたま欠勤していた。原告が「平原さんは知りません」と答えると、被告は「平原さんが知らなければ、誰があなたに対して、そういう動きをしていいと承認するの」と問い詰め始めた。
 しかし、財団法人北海道文学館においては、通常、展覧会の主担当が高額の出張旅費を要さない日帰り程度の出張をする場合は、朝の打合せ会で事前にその旨を告げ、出席者が特に文学館業務に差し支えないと考え、了解するならば、それで手続きが済んだことになっていた。この日以前、他の職員もそうしてきた。それゆえ、出張の予定を告げた職員が、他の職員から「そのことについては事前に誰が知っているのか」と問われること自体、きわめて異例のことだった。原告が知っている限りでは、かつてないことであった。
 被告はさらに、原告に、「平原さんが知らなければ、誰があなたに対して、そういう動きをしていいと承認するの」と詰問した。すると、近くの席にいた川崎信雄業務課長が、「それは主幹(被告の駐在道職員としての肩書)です」と答えた。すると被告は一瞬、虚を突かれたように黙り込んでしまった。だが、次には、原告に対して、かさにかかって「そういう動きのことは、前もって私に言うべきだ」、「私が学芸班内における動きを知らないというのはおかしい」と言いつのった。そして原告が、では、どういう手続きをとったらいいのかと尋ねてもそれには答えず、「手続きがどうのこうのという問題じゃない」、「組織で働く人間として、そもそもなっていない」、「スタンドプレーと言われないようにしなさい」と執拗に叱責した。
 だが、原告がさらに「では、今回の出張に、私はこれから一体どういう手続きをとったら行けるのか」と質問を続けると、被告は結局、「行ってはいけないとは言っていない。行っていいんだ」と怒鳴った。
(b)違法性
、これは被告が原告を誹謗中傷するための無法な言いがかりである。なぜなら、それは、被告が近距離出張の手続きに関して、朝の打合せ会の慣例以外にどういう手続きがあるのか全く知らず、原告の質問に答えられなかったことで明らかだからである。
 それにもかかわらず、被告は、一定の手続きが決まっているかのごとく言い立てて、原告を詰問し、川崎業務課長の言葉を口実に、俄かに勢いづいて、自分が副館長に次ぐ管理職であるかのように、自分の立場を強調しながら、原告を責め立て、誹謗中傷の言葉を浴びせかけた。これは北海道教育委員会の公務員が、自らを財団の管理職であるかのごとく装って、財団の嘱託である市民の名誉と人格を毀損した、人格権侵害の違法行為であり、「地方公務員法」第28条または第29条に問われるべき違法行為であると共に、「地方公務員法」第38条、及び「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第5条に反する違法行為である。
、被告は、「人生を奏でる二組のデュオ」展の主担当である原告の行動を、誰の承認も得ない身勝手な行動であるかのような言い方で牽制した。これは「刑法」第234条に問われるべき、原告に対する業務妨害の違法行為である。
ハ、被告は、もし原告の行為に疑問点があるならば、朝の打合せ会の中でそれを指摘し、他の職員の意見も聞くべきであったが、それをせずに、打合せ会が終わった直後、他の職員にも聞えよがしに、原告に落ち度があったかのような言い方をした。これは周囲の人間に原告の人格と能力に関する信用を失墜させたことにより、「刑法」第233条に問われるべき、名誉毀損の違法行為である。

(7)平成18年9月13日(水曜日)
(a)被害の事実(甲6号証を参照のこと)

 原告は9月12日(火曜日)、自分が主担当の企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の準備のための出張予定について、職員に周知しておいてもらうため、事務室での朝の打合せ会で「これからの動き(資料提供協力先)9月後半~12月前半」(甲5号証)という文書を配布し、外勤・出張の可能性がある所とその時期について説明をした。その席では、誰からも質問や異論は出なかった。
 ところが翌13日の昼12時頃、被告は二階の事務室に通ずる階段の上で原告をつかまえて、「昨日の出張の件については、業務課との方はもう話がついているの?」と聞いてきた。原告が「いえ、昨日、初めてお話ししたことですから」と答えると、被告は「そういう問題ではない。打合せ会は、すでに決まったことを報告するところだから、こうしたことを話すところではない」と詰問を始め、原告が「朝の打合せ会はそういう性格のものと決まったのですか」と質問すると、被告は「そうなんだ」と答えた。そして「どのような出張予定になっているのか、あらかじめペーパーをこっちに提出しなさい。原告がどう動くかについては、自分と業務課長が協議して決めることだ」と言った。
 道立文学館は、平成17年度まではほぼ毎月1回、学芸課の課内打合せ会議を開いたが、平成18年度に入って以来、そのような会議が持たれたこともなく、会議が持たれる予定も聞いたことがない。原告はやむを得ず朝の打合せ会で行動予定を告げることにしてきた。原告は被告の主張に納得できなかったので、同日午後1時頃、平原副館長に出会った時、展覧会の主担当者の動きは学芸主幹と業務課長が決めることなのかと尋ねてみた。すると副館長は、「そのようなことはない。どこへ行くかは原告が(出張予定の)先方と相談して決めることで、被告はそれを聴き、『こういうことで学芸の人間が動くからよろしく』と業務課に伝えるだけだ」と答え、「この件については、被告によく話をしておくから」と言った。 
 さらにこの日の午後3時頃、原告は念のために、朝の打合せ会の性格について、いつも司会をつとめるS社会教育主事に確かめてみた。主事の返事は、「どんなことを言っていいとかいけないとか、何も決まりや申し合わせはありません」ということだった。
(b)違法性
、被告は、もし原告の行為に疑問点があるならば、朝の打合せ会の中でそれを指摘すべきであったが、それをせずに、不特定多数の外来者が上り下りする階段の踊り場で、原告の行動を咎める詰問を行った。これは原告が業務のルールを知らない無知な人間であるかのように印象づけて、能力と人格の信用を失わせ、名誉を毀損したことにより、「民法」第710条及び「刑法」第233条に問われるべき、人格権侵害の違法行為である。
、文学館の展覧会事業は主担当が中心となり、副担当と相談しながら主体的に準備を進める。だが被告はこのルールを無視し、被告自身と業務課長に原告の行動の決定権があるかのように偽って、原告の行動に制約を加えようとした。これは虚偽の理由づけによって、原告の業務を妨害した、「刑法」第233条に問われるべき、悪質な違法行為である。
、被告は朝の打合せ会の性格を偽って、原告が朝の打合せ会の性格について無知なためにルール違反を犯したかのように咎め立てた。これは原告の名誉を毀損し、人格を貶めたことにより、「民法」第710条に問われるべき、人格権侵害の違法行為である。

(8)平成18年9月26日(火曜日)
(a)被害の事実(甲32号証の1を参照のこと)

 原告は事務室における朝の打合せ会で、「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)と題した予定表を配布し、「人生を奏でる二組のデュオ」展の準備に関係する今後の出張予定とおおよその足取りを説明しようとした。すると、被告がそれを遮って、「あ、そのことについては、このあと打合せ会をやるから」と言ったため、朝の打合せ会の直後、原告と被告と川崎業務課長の3人で、事務室の来客ソファーの所で話し合った。(この日の朝の打合せ会は出席者が少なく、学芸班の原告とO司書と被告、及び業務課の川崎課長のみであった)。
 原告が「出張予定(亀井)」の説明を終えると、被告は「それじゃあ、あとで、自分の展覧会についてどのくらいの支出を考えているか、ちょっとさ、まとめて出して」と言った。原告は、念のために、あらかじめ「展覧会支出予定」(甲32号証の3)という文書を作って来ていたので、「それでは、今、一応そのことについて作ったものを手元に持っているので、コピーしてお渡ししますね」と言い、事務室内のコピー機の方に立っていった。
 すると、被告が突然、「それは、打合せの後でしょう!」と声を荒げた。原告はその意味が分からず、「どこと打合せした後なんですか?」と訊いた。被告は「相手側とどんな話になるか、決めてからでしょう!」と、更に語気を強めた。原告は、「じゃ、これはまだいいんですか?」と、コピーをやめようとした。ところが被告は、「よくないよ、いいんでしょう!」と怒鳴った。原告は、被告が一体何を言いたいのか、戸惑っていると、被告は「だから、相手先と打合せしてからって言ったら、行かなきゃならないでしょう! だから、今コピーしていいんだよ!」と、更に声を強めて、辻褄の合わないことを言った。
 その後、原告がコピーを渡すと、被告はやや落ち着きを取り戻し、原告が主担当の企画展について、「この展覧会には、予算はあまりついていないんだよね」、「他の展覧会との間で、金額を調整しないとならない」、「本州へ行く出張旅費なんて、全然考えられていなかったしね」と、原告の予算を削り、原告の出張を制限する意味の発言を続けた。これらの点については、川崎業務課長が「まあ、この範囲内(150万円以内)で収まるなら、これでいいでしょう」と言い、打合せは終了した。
(b)違法性
、被告は、自分のほうから打合せ会を申し出ながら、原告に対して一方的に矛盾した指示を次々と出し、原告が対応に戸惑っていると、あたかも原告が呑み込みの悪い人間であるかのように、苛立った態度で怒鳴りつけた。これは原告の能力を貶め、名誉を毀損した、「民法」第710条に該当する、人格権侵害の違法行為である。
、被告は、財団の嘱託である原告が主担当の企画展に割り当てられた予算の執行に容喙した。これは被告が、北海道教育委員会から駐在道職員に指示された業務事項を逸脱して原告の権限を侵すことであり、「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第7条に反し、「地方公務員法」第29条に問われるべき越権行為であり、業務妨害の違法行為である。
、被告は、財団の嘱託である原告が自分の企画展に割り当てられた予算の範囲内で本州へ出張することに干渉し、なぜ本州への出張が必要かを確かめることなく、出張を制限しようとした。これは被告が、北海道教育委員会から駐在道職員に指示された業務事項を逸脱して原告の業務に干渉したことにより、「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第7条に反し、「地方公務員法」第29条に問われるべき業務妨害の違法行為である。

(9)平成18年10月3日(火曜日)
(a)被害の事実(甲8号証を参照のこと)

 原告はこの日の午前10時頃より、事務室における朝の打合せ会において、「〈人生を奏でる二組のデュオ展〉・出張予定(10月)」(甲7号証)と題した文書を配布し、「9月12日にお話しをした出張予定がだいたい固まったので、大まかに説明しておきたい」という意味の発言をした。誰も何も言わなかったので説明し、締めくくりに、「ほぼ、このようなところです。よろしいでしょうか?」と声をかけたが、誰からも質問や意見は出なかった。
 ところが、その打合せ会が終わった直後、同じ事務室内において、被告は、原告と目が合うと、いきなり「なぜ、先に話し合いをしないの」、「何度同じことを言わせるの」、「こんなところで予定を言って、“よろしいでしょうか”って言ったって、誰も、いいなんて言えないんだよ!」と怒鳴り始めた。
 原告は、「誰も何もおっしゃらないので、そのまま説明だけさせてもらったのですが」と述べたが、被告は「あんた、みんなに、いいって言って欲しいんでしょう。だったら、やることちゃんとやんなさい!」と言いつのった。原告が、「ならば、話し合いというのは、いつしたらいいんでしょうか?」と尋ねると、被告は「いつでもいいんだよ!」と原告を怒鳴りつけた。
(b)違法性
、北海道教育委員会の職員である被告は、朝の打合せ会の中で、原告を含む職員に対して、朝の打合せ会の性格について問題を提起し、ルールを確認し合ったことは一度もない。にもかかわらず、朝の打合せ終了直後、他の職員がいる前で、聞えよがしに、財団の嘱託として働いている原告を「何度同じ事言わせるの」と咎め立てした。これは、あたかも原告には学習能力がないかのごとく印象づけて、原告の名誉と社会的信用を毀損した、「民法」第710条及び「刑法」第233条に問われるべき不法行為である。
、北海道教育委員会の職員である被告は朝の打合せ会で、財団の嘱託として働いている原告に対して「やることちゃんとやんなさい!」と罵言を浴びせた。これは、原告があたかも自分の任務を果たさずにただ要求ばかりしている、無能で自己中心的な人間であるかのごとく印象づけて、原告の名誉と社会的信用を毀損することを意図した行為である点で、「民法」第710条及び「刑法」第233条に問われるべき人格権侵害の不法行為である。

(10)平成18年10月7日(土曜日)
(a)被害の事実(甲9号証を参照のこと)

 原告は企画展の準備のため、明治大学の図書館に資料閲覧の諾否を問い合わせた。同図書館は快く応じ、「お出でになる時、できれば現在の仕事先の紹介状をお持ち下さい」という返事だった(甲35号証)。ただしこの用件での出張の可否は、(9)の項で述べた時のことがあって以来棚上げになっていた。
 しかし10月6日(金曜日)、原告が出勤すると、出張の書類はN業務主査が整えて、被告の許可をもらっておいてくれた。原告はN主査に礼を言い、明治大学へ持参する紹介状について、事務室で二人で相談した。すると、少し離れた自席に座っていた被告が、「それは、こちらから職員の派遣願を出すことになる」と言った。被告は原告に対して、一方的に「それでいいね?」と言い、「書類、出来上がったら私に見せて」と言った。
 原告は北海道大学大学院文学研究科で博士の学位を取ったのち、文学部言語情報学講座の助手を勤めただけでなく、文学部図書室の非常勤職員だったこともあり、大学図書館が言うところの〈閲覧希望者が持参する紹介状〉の書式には通じていた。普通は、簡潔に用件と、持参した者が確かに紹介状を発行した組織に属するという意味の文言と、所属長の判があれば十分である。それゆえ原告は、被告がなぜ〈紹介状〉とは別の書類を作らなければならないと言い出したのか、内心疑問に思った。
 しかし原告は、その時は敢えて反論せず、被告が言う「職員派遣願」を作成することにして、文学館のサーバーに残されていた事業課主査(当時)の、小樽文学館に対する職員派遣依頼書類(平成12年11月16日付)(甲10号証の3)を参考にした。起案に必要な「決定書」の書式はA学芸員が見せてくれた。また、下書きの段階でN業務主任と川崎業務課長に目を通してもらった(甲10号証の4)。業務課長は「文章は私の見たところ、申し分ないと思う。ただ、細かいところはNさんに聞くといいよ」と言った。原告は更にN主査の添削を受け(甲10号証の5)、6日の退勤間際に書類が出来たので、被告に直接渡して帰った。
 翌日の10月7日(土曜日)は被告の休みの日であった。被告は、原告の書類を手直ししたものを、原告の机上に戻していなかった。被告の机の上にもなかった。
 ところが、原告の退勤間際の4時50分頃、被告が突然事務室に現れた。そして原告を、「教えてあげるから、ちょっとおいで」と自席に呼びつけた。被告は原告の目の前で、書類(甲10号証の1)に鉛筆で書きなぐるように手を加えながら、その都度教え込むような口調で、「開催要項をつけなければならない」、「展覧会概要として会期、会場、主催者、観覧料等を知らせなければならない」と注文をつけ、その間、原告に対して「観覧料は分かる?」と質問し、原告が「はい、分かっています」と答えると、「じゃあ、それは要らないな」と目の前で〈観覧料〉という文字を消してみせるなど、原告を嬲
(なぶ)るような言い方を繰り返した。そして、レイアウトや標題を訂正するのみならず、「申し上げる次第です」を「申し上げます」、「伺う日時」を「調査日時」とするなど、約17箇所にもわたる細かい修正を行い、それを原告に返して、書き直しを求めた。
 結局全面的な手直しとなったので、原告が被告に「では、休み明けの提出でいいですか?」と聞いたところ、被告は「いいんじゃないの、休み明けに出来て承認されれば、向こうに送るのに間に合うし」と言った。原告は驚き、「なぜ送るんですか。持って行く書類が必要なんです」と言ったが、被告は「送るんだよ!これは公文書なんだから。先に、相手側に送っておくんだよ!」などと原告を怒鳴りつけた。
 原告は「先方が求めたのは〈紹介状〉であり、自分が持参しなければ〈本人確認〉の意味をなさない」という意味の説明をしたが、被告は耳を貸そうとせず、原告が事前に郵送することを承諾するまで、原告を帰さなかった。原告が被告から解放されたのは午後5時半過ぎだった。
(b)違法性
、北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託である原告が主体的に進めている明治大学図書館との交渉に容喙して、相手側の求めている「紹介状」ではなく、「職員派遣願」の作成を原告に強いた。また、被告は「職員派遣願」の趣旨を資料調査閲覧願いではなく、資料借用願いと勘違いして、原告に「開催要項」まで作らせて「職員派遣願」に添付させた。これは原告の業務遂行に対する干渉であり、「刑法」第234条に問われるべき業務妨害である。
、北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託である原告が財団法人北海道文学館の書式に則って書類を作成し、業務課が認めたにもかかわらず、財団の書き方とは異なる書き方を原告に強いた。これは北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱した業務課に対する越権行為である。また、原告に対して財団のルールに従わない書き方を強制したことは、「地方公務員法」第29条に該当する、違法な強制行為である。
、被告が原告に強いた書類の書き方は、駐在の道職員である被告の位置を「合議」の欄から「主管」の欄に変えさせるものであった。
 これは被告が北海道教育委員会の公務員であると同時に民間の財団法人北海道文学館の職員を兼任しているかのごとく印象づける不正な行為である。被告は原告に不正な書き方を強制することによって、財団の公文書の中で自分が財団の職員として記載されている事実を作り、財団の管理職であることの既成事実化を図った。これは「地方公務員法」第38条に違反する行為であり、この不正行為への加担を原告に強要した点で、二重に違法行為である。
、北海道教育委員会の職員である被告は、無知な人間に「教えてやる」かのごとき言葉で、財団の嘱託である一市民の原告を拘束して書類の書き直しを強制し、書類の事前発送を承諾させた。これは原告の能力を貶め、無知な人間扱いをして名誉を傷つける行為であり、「民法」第710条に該当する、人格権侵害の違法行為である。
、被告は、時間契約の嘱託職員である原告の退勤時間が過ぎたにもかかわらず、原告を拘束した。これは北海道教育委員会の公務員が、原告と財団との間に結ばれた契約を無視した、「地方公務員法」第32条に反し、かつ同法第29条に問われるべき不法な行為であり、原告の自由を拘束する憲法違反の不法行為である。

(11-1)平成18年10月28日(土曜日)
(a)被害の事実(甲17号証を参照のこと)

 原告が朝から1人で閲覧室の業務を行っていると、午前11時頃、被告が閲覧室に来て印刷作業をし、帰り際に、原告に対して、「文学碑の仕事はどうなっているの」と聞いた。文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、原告はデータの更新を行っていなかった。原告は「いいえ、特に何もやっていませんでした」と答えた。すると、被告は、「やってないって、どういうこと。文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの? もう、雪降っちゃうよ」と、原告を急き立てた。更に被告は、「5月2日の話し合いで、原告が文学碑のデータベースをより充実させ、問題点があれば見直しをはかり、さらに、原告が碑の写真を撮ってつけ加えてゆく作業をすることに決まった」、「これらは、原告が主体となって執り行うべき業務である。それを現在まで行わなかったのは、原告のサボタージュに当たる」という二点を挙げて、原告を責めた。
 しかし、5月2日の話題((2)の項参照)はケータイ・フォトコンテスト、または文学碑写真の公募という点に終始し、被告が言うような決定や申し合わせはなされていなかった。そこで原告は、「そのようなことは決まっていません」と反論したが、被告はあくまで「決まっていた」と主張し、「どうするの。理事長も館長も、あんたがやるって思ってるよ」と言った。 それを聞いて原告は、おそらく誤った情報が理事長や館長に伝わっているのだろうと思い、「分りました。では、私が理事長と館長にご説明します」と言った。被告は慌てて「なぜ、あんたが理事長や館長に説明しなきゃなんないの」と言い、原告の行動を阻止した。
(b)違法性
、被告は、閲覧室という不特定多数の来観者に開かれた空間で、原告の業務態度を非難した。これは原告が定められた業務に手抜きをするいい加減な人間であるかのような印象を与えて、名誉を毀損し、社会的信用を失わせる行為であり、「民法」第710条及び「刑法」第233条に該当する人格権侵害の違法行為である。
、被告は、原告が行うべきこととは決まっていなかった用件を持ち出して、原告がサボタージュを行っていると決めつけた。これは事実無根な言いがかりをつけて、原告の業務遂行態度を非難したことにより「民法」第710条に該当する、極めて悪質な名誉毀損の人格権侵害の違法行為である。
、被告は、原告が理事長や館長に事情説明をして誤解を解き、自己の名誉を守ろうとする極めて正当な行動を阻止した。これは、自分の行動の正当性を主張しようとする原告の権利を侵害して、憲法が保障する基本的人権の実現を妨げる、人格権侵害の違法行為である。

(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉
(a)被害の事実(甲17号証を参照のこと)

 (11-1)の項でのやりとりのあと、原告は、一対一の押し問答に終始すべきではないと思い、「もう昼にもなるので、事務室へ行ってお話をうかがいましょう」とカウンターを立った。被告も続いてすぐに事務室に上がった。
 そして昼食後、原告は、改めて被告の言い分を聞こうとした。ところが被告は、「もう二度も話したから、その通りのことだ」と言い、なぜか主張の詳細を事務室では口にしようとしなかった。「要するに認識の相違だ」とも言ったが、原告の「文学碑に関してそのような仕事は決まっていなかった」という主張は、依然、認められないとのことだった。
 原告は責任ある立場の職員に立ち会ってもらいながら、これまでの経緯を明らかにしようと考え、「では、その問題について、副館長(先の学芸副館長)も業務課長も揃ったところで、説明させていただきます」と言った。ところが被告は、「いいかい。たかが、だよ。たかがデータベースの問題でしょう。それを、なんであんたが、副館長や業務課長に説明しなきゃなんないの」と、今度は一転、データベース問題の重要さそのものを否定した。そして命令口調で、「説明したいんなら、まず、私に説明しなさい。」、「何かやるときには、まず、私に言いなさい」と言い、原告が「二人の間に認識の違いがあるというのだから、そのことについて、他の方に意見をうかがいたいのだ」と言うと、「説明して分ってもらいたいなら、わたしにまず説明しなさい。私がこの学芸班を管理しているんだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよ」と、自分の立場を押しつけた。
 原告は、自分の雇用に関わる問題にまで発展しかねないと思ったので、机の中に入れていた録音機を取り出し、「話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい」と言った。すると被告は、今度は話を続けることなく、急に「あんたひどいね。ひどい」、「あんた、普通じゃない」と、あたかも原告が普通ではない
(アブノーマル)人間であるかのような言葉を発した。原告は、被告に、「私に話したいことがあるなら、記録を取られるからといって、なぜ、話さないのか。誰がいたとしても、一対一の時のように、はっきり言えばいいではないか」と言った。そして、「私は、この問題について、これからも追求してゆくつもりだ。そのことは、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しましたから」と言い、午後の勤務のために事務室を出た。
(b)違法性
、原告は副館長や業務課長の立ち会いの下で事実確認を行い、サボタージュといういわれのない名誉毀損を正そうとしたが、被告はそれを妨げた。これは原告が自己の名誉を守ろうとする、極めて正当な権利に対する侵害であり、憲法が保障する基本的人権の実現を妨げる、人格権侵害の違法行為である。
、北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託として働く一市民の原告に対して、あたかも自分が原告の管理者であるかのように主張した。
 すなわち、被告は、自分が公務員でありながら、同時に民間の財団法人の管理職に就いていることを原告が受け入れ、原告が自らを部下の立場に置くように強要した。これは「地方公務員法」38条及び「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第4条に反する、不正な身分関係強制の違法行為である。
、北海道教育委員会の公務員である被告は、身分の不安定な原告の弱い立場につけこみ、被告自身が原告の使用者ではないにもかかわらず、将来の雇用に関する原告の不安を煽るような恫喝的な言葉を吐きかけた。これは被告が自己の身分を偽って原告に対して行った、「地方公務員法」第29条に該当する、悪質な脅迫行為である。
、被告は、原告が被告の主張を正確に記録するために録音機を出したところ、原告の性格を誹謗する言葉を吐きかけた。これは原告の名誉を毀損したことにより「民法」第710条に該当する、人格権侵害の違法行為である。

(12)平成18年10月31日(火曜日)
(a)被害の事実

 原告は被告の度重なる業務妨害や誹謗中傷の実態を訴えて、職場環境の改善を求めるため、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明、及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)というアピール文を、財団理事長、北海道立文学館館長、副館長、業務課長、及び被告本人に渡して、事態の認識と、適切な解決を要請した。
 だが、被告は急遽、痔疾の手術のために入院してしまい、原告の「被告以下、それぞれの関係者から、反論もしくは別の視点からの意見も提出されることもあるだろう。また、内容をお認めになる場合もあるだろう。そうしたご意見・ご回答は、すべて文書の形で、原告にお渡しいただきたい」、「文書でのご意見・ご回答は、11月10日(金)までにお渡しいただきたい」という要望を無視し、何の対応もしなかった。
(b)違法性
、被告は、原告が被告から蒙った業務妨害や誹謗中傷の訴えを黙殺し、無視し続けた。被告のこのような態度自体も、憲法が保障する基本的人権の回復をはかる原告の行為を無視する違法行為である。

(13)平成18年12月6日(水曜日)
(a)被害の事実

 原告は12月2日(土曜日)、川崎業務課長から、12月6日(水曜日)に毛利正彦館長(当時)による職員面談があるからと、「自己申告書」という書類を渡され、必要事項を書いて、5日(火曜日)に提出した。
 そして12月6日午前11時30分頃、館長室に呼ばれ、毛利正彦館長(当時)から、平成19年度の雇用を更新しないという財団法人北海道文学館の方針を告げられた。
 財団は更に、原告の異議申し立てを無視して、12月12日、北海道立文学館公式ホームページ等において、正職員の学芸員と司書を採用する募集要項(「学芸員、司書の募集について」甲19号証)を公示した。募集要項には、「1971(昭和46)年4月1日以降に生れた者」という年令制限が設けてあり、その制限を越えた年令の原告は改めて応募する機会を与えられず、平成19年3月31日をもって職を失った。被告は原告に対して、「自分は財団の人事と関係ない」と言っていたが、「平成19年度 財団法人北海道文学館職員採用選考」に関する「決定書」(12月12日決定)では、被告は募集要項決定の合議に加わっていた(甲20号証)。
(b)違法性
、財団法人北海道文学館が行った正職員採用の募集要項は、高齢者雇用安定法が指示する「年齢制限を設けた理由の明示」に従わない、違法な募集要項だった。原告はこの違法な募集要項のため、財団と再雇用の契約を結ぶ機会も、この募集に応募する機会も失った。被告はこの違法な募集要項の決定に加わり、財団法人北海道文学館の違法行為に加担した。これは「地方公務員法」第29条に該当する違法行為である。
、被告は北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱して、財団法人北海道文学館の人事にかかわり、財団の違法な募集要項の決定に加わった。これは「地方公務員法」第38条に反する違法行為である。

(14)平成19年1月31日(水曜日)
(a)被害の事実

 1月27日(土曜日)、「中山展」が終わり(次に予定されていた「栗田展」が中止されたため期間延長)、その撤収作業が28日(日曜日)と30日(火曜日)に行われた。 そして翌日の31日から、原告は自分が主担当の企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の展示準備を始める予定だった。この予定については、職員の了解も取っていた。30日(火曜日)の朝の打合せ会において、2月の予定に関する変更の連絡は一切なかった(甲21号証)。
 ところが31日、原告が午前中に自宅から小樽文学館へ直行し、借用資料を受けとって、午後から道立文学館へ戻ったところ、「人生を奏でる二組のデュオ」展の副担当のA学芸員が原告のもとに来て、「なんだか、急に写真展が開かれるようになったようですね。特別展示室の入口が塞がれて、準備できないんです」と知らせてきた。驚いて確かめに行くと、特別展示室の入口は移動壁が凹字型に組まれ、すでに「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」(期間・平成19年2月3日~2月8日 以下「イーゴリ展」と略)(甲22号証)という展示の写真額が展示されていた。
 一般に文学館の展示作業は、入口を起点として、来館者の目線を想定しながら展示物の配置を決めて行く。その入口を塞がれては、展示準備に入ることができない。
 原告とA学芸員は、奥のほうで出来る仕事(例えばガラスケース内の展示装備)だけでも先に進めておくことはできないかと考え、特別展示室脇の電気室の入口から特別展示室に入ろうとした。だが、配電盤に上には、被告の名前を付した「照明はライティングレールのみ点灯に変更しました」という付箋が貼ってあった(甲23の1~3号証)。それは、特別展示室入り口のライティングレール上のみは展示写真を照らすために灯りが点くが、それ以外は特別展示室内の照明は使えない設定にされてしまったことを意味した。
 以上の、特別展示室の入口を移動壁で塞いで写真展覧会の写真額をそこに掛ける行為、および配電盤の照明設定を変更し、その上から付箋を貼って、暗黙のうちに、照明設定の再変更もしくは復元を禁止する意志を知らせる行為を行ったのは被告であった。そのことは、2月6日(火曜日)の朝の打合せ会で、被告が自分から発言を求め、「イーゴリ展をやることになりました…もう、やっております」と事後承諾を求めたことからも明らかである。
 特別展示室入口を塞いだイーゴリ展は2月9日に撤去されたが、原告は2月9日、岩内の木田金次郎記念館と道立近代美術館から作品を借用し、10日は札幌市営地下鉄の各駅にポスターを貼る仕事を予定していた。このため2月11日まで特別展示室での設営に取りかかることができなかった。原告はやむをえず、2月17日の展覧会オープン前日まで、文学館の休館日を除く原告の非出勤日を返上して、全143点に及ぶ展示品の展示作業を行った。14・15・16日の3日間は、作業は10時近くまで及んだ。14日夜と15日夜は天候状態も悪かったので、やむなくホテルに泊まりながら展示作業に当たった(甲24号証の1~2)。17日のオープンを控えた16日、原告が展示を完成して帰宅したのは午後11時過ぎだった。
(b)違法性
、被告は平成19年1月13日から始まる予定の「栗田展」の主担当だったが、18年12月に中止を決定してしまった。被告は自分の失態を取り繕うため、文学館の年間計画になかった「イーゴリ展」を、他の職員に何のことわりもなく割り込ませ、翌週の火曜日の朝の打合せ会で事後承諾を求めた。これは被告が、北海道教育委員会が指示した駐在道職員の業務事項を逸脱して、財団の年間計画を恣意的に変更してしまう、不当な越権行為であり、「地方公務員法」第28条または29条に該当する悪質な行為である。
、被告は、原告が19年1月31日から特別展示室の展示準備に入る予定だったことを知っていたにもかかわらず、その直前に、イーゴリ展のために特別準備室の入口を塞ぎ、原告が準備作業に入れないようにした。
これは原告の準備を大幅に遅らせて、企画展の開催日(2月17日)に間に合わないかもしれないという危機的な状況に追い詰めた点で、「刑法」第234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。
、原告は被告によって準備を遅延させられたため、2月11日以後、毎夜、午後10過ぎまで文学館に残って準備作業を行い、14日と15日は札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた。その結果、労災に入っていない嘱託職員の原告は、契約勤務時間外の災害については何の保証もない状態で、過重な契約時間外労働とそれに伴う出費を5日間にわたって強いられた。これは原告が被告の妨害によって「労働基準法」第32条に反する長時間労働を余儀なくされ、また、財団側がその事実に関しては、「労働安全衛生法」第71条の2項に反して何の配慮もしなかったことを意味する。そういう結果をもたらし、原告に不当な過重負担を強いたのは、被告が原告に対して行った「刑法」第234条に該当する悪質な業務妨害である。

第2、謝罪文を請求する理由
1、名誉毀損の事実

① 北海道立文学館は不特定の来観者や外来者が多数訪れる、市民に開かれた公共の空間である。この空間において、前章で述べたごとく、平成18年9月13日(水曜日)、被告は自分の無知を原告に転嫁する卑劣なやり方で、原告の業務態度をあげつらい、原告が業務の初歩的な手続きさえ知らない、無知な人間であるかのように咎め立てて、原告の人格と能力の社会的信用を失墜させ、名誉を毀損した。
 また、平成18年10月28日(土曜日)、被告は原告に対して、同様にこの空間において、事実無根の事柄を口実とし、サボタージュの汚名を着せて、原告の人格と能力の社会的信用を失墜させ、名誉を毀損した。
 いずれも「民法」第710条に該当する不法行為である。

② 北海道立文学館は、非常勤の嘱託である原告が立場の異なる財団正職員及び駐在道職員と協働して働く場であり、業者その他の業務に関係する人たちが絶えず出入りする公共性の高い空間である。それらの職員や業者等の原告に対する評価は、次年度における原告の雇用契約に重大な影響を及ぼす。この空間において、前章で述べたごとく、平成18年8月29日(火曜日)、被告は同席の人間に聞えよがしの音量をもって、事実無根の手続き論を口実に、原告が文学館業務の欠格者であり、スタンドプレー狙いの人間であるかのように印象づける中傷誹謗の罵声を浴びせかけ、原告の人格と能力の社会的信用を失墜させ、名誉を毀損した。
 また、平成18年9月26日(火曜日)、同様にこの空間において、被告は原告に矛盾混乱した指示を出し、戸惑っている原告に対して、同席の人間に聞えよがしの音量をもって、あたかも呑み込みの悪い人間であるかのように印象づける罵声を浴びせかけ、原告の人格と能力の社会的信用を失墜させ、名誉を毀損した。
 また、平成18年10月3日(火曜日)、同様にこの空間において、被告は原告の行動に言いがかりをつけ、同席の人間に聞えよがしの音量をもって、あたかも原告には学習能力が欠けているかのように印象づける中傷誹謗の罵声を浴びせかけ、原告の人格と能力の社会的信用を失墜させ、名誉を毀損した。
 また、平成18年10月28日(土曜日)、同様にこの空間において、被告は同席の人間に聞こえる音量をもって、原告を普通ではない
(アブノーマル)人間と決めつけ、人格的信用を失墜させる言葉を浴びせて、原告の人格と名誉を毀損した。
 いずれも「民法」第710条に該当する不法行為である。

2、謝罪文の請求
 上記のごとき被告の言動により、原告は多大の精神的苦痛を被り、かつ人格と能力に関する社会的信用を損傷させられて、財団法人北海道文学館の嘱託の職を失った。以上の事柄に関して、原告は被告に対して、署名捺印した謝罪文を書き、原告に手交することを請求する。

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「判決とテロル」資料2:亀井志乃「準備書面(Ⅱ)-1」ー被告「準備書面(2)」への反論ー

事件番号 平成19年(ワ)第3595号
損害賠償等請求事件
原告 亀 井 志 乃
被告 寺 嶋 弘 道
            準 備 書 面(Ⅱ)-1
札幌地方裁判所民事第1部3係 御中
                             平成20年5月14日 
                             原告 亀井志乃 印

はじめに
 原告は去る平成20年4月9日(水曜日)、被告代理人弁護士・太田三夫氏よりファックスにて、「準備書面(2)」を送付されました。その内容は虚偽と事実の歪曲に満ちており、とうてい原告の「訴状」及び「準備書面」に対する反論たりえないものでしたので、原告は直ちに太田三夫弁護士より送付された「準備書面(2)」に対する反論に取りかかりました。ところが同年4月13日(水曜日)に開かれた法廷において、原告が太田三夫弁護士より渡された『証拠物写』の中に、被告の「陳述書」と(財)北海道文学館副館長・専務理事平原一良氏の「陳述書」が入っていました。田口紀子裁判長が「この通り陳述なさいますか」と確かめたのに対して、太田三夫弁護士は「はい」と答えました。よって、原告はこの2通の「陳述書」について、「準備書面(2)」を補強するために述べられたものであり、「準備書面(2)」に準ずるものとして受け取ることにしました。この2通の「陳述書」の内容は、まさしく「準備書面(2)」の補強にふさわしく、これもまた虚偽と事実の歪曲に満ちていました。
 原告はこれより「準備書面(2)」及び2通の「陳述書」に対する反論を述べる予定ですが、「準備書面(2)」及び2通の「陳述書」は三位一体のものとはいえ、3者の間にはそれぞれ異なる性質が見られます。よって原告は、原告による反論を3種に別け、「準備書面(Ⅱ)-1」を「準備書面(2)」に対する反論、「準備書面(Ⅱ)-2」を被告の「陳述書」に対する反論、「準備書面(Ⅱ)-3」を平原一良氏の「陳述書」に対する反論の形で、順次述べて行きたいと思います。よろしくご承知置き下さい。

○被告側「準備書面(2)」に対する反論
第1 被告代理人弁護士提出にかかる平成20年4月9日付「準備書面(2)」に対する原告の否認・反論
 被告代理人弁護士提出の「準備書面(2)」(以後、被告「準備書面(2)」と呼ぶ)は一つの基本的な事実に関する認識を欠いており、そのため原告の主張(平成20年3月5日付け「準備書面」)に対する否認・反論としては何ら根拠を持たず、かつ錯誤に満ちている。文意の通らない、あるいは文意の曖昧な書き方も見受けられる。故に被告の主張を認めることはできない。
 以下、(イ)基本的な事実の確認と被告の根拠なき自己主張の指摘、(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘(ハ)原告が主張する15項目に対する被告の反論に対する反論、の順序で反論する。

(イー1)基本的な事実の確認
 被告は道の施設である道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員、いわゆる「駐在道職員」であり、このことは被告自身も「準備書面(2)」の中で認めている。駐在道職員とは、業務の机が道立文学館の中にあり、常時文学館に駐在して与えられた業務を執り行なう道の職員のことであり、その立場や義務は他の道職員と変わらない。道立文学館に駐在することに伴う特別な権限や立場を与えられているわけではないのである。
 それでは、なぜ財団法人北海道文学館が指定管理者として管理と運営に当っている道立文学館に、北海道教育委員会の職員が駐在することになったのか。
 その理由は、財団法人北海道文学館と北海道との間で結ばれた『北海道文学館の管理に関する協定書』(平成18年3月。以後、『協定書』と呼ぶ。
甲34号証)の中に、次のような条文があるからである。
 
第14条 甲(北海道)は、本施設の事業を円滑に実施するため、乙(財団法人北海道文学館)が行う文学資料の収集、保管、展示、その他これと関連する事業に関する専門的事項について意見を述べるものとする。
 2 乙は前項の規定による意見を尊重するものとする。この場合において、乙は、甲に対し、当該専門的事項に関する業務の遂行について協力を求めることができる。
 3 甲は、乙から前項の協力を求められたときは、本施設に配置する学芸員に当該専門的事項に関する業務の全部又は一部を遂行させることができる。この場合において、乙は、当該学芸員が遂行する業務に係る経費を負担するものとする。
 4 乙は、指定管理業務の遂行に当たり、甲が行う調査研究が円滑に行われるよう配慮するものとする。
5 前各項までに定めるもののほか、本施設の事業を円滑に実施するために必要な事項は、甲及び乙が、別記6に定める方法により定期に協議して定める。

ちなみに、この第5項で言う「別記6」とは、「日常的な各部門間の情報の共有化や定期的な職員全体会議(職員全員参加)の開催により、円滑な館の管理運営を行っていくほか、必要に応じて適宜協議の場をもち、協働連携を図ることとする。」となっている。

 以上のような協定に基づいて、財団法人北海道文学館の神谷忠孝理事長が平成18年3月31日、北海道教育委員会教育長宛に、「北海道立文学館の管理に関する協定書第14条第2項に定める『当該専門的事項に関する業務』に係る協力について(依頼)」(甲35号証)と題する文書を送り、「このことについて、別添に掲げる業務に関して、北海道教育委員会が駐在させる学芸員に協力を求めたいので、その可否について回答願います。」と依頼した。それに対して、北海道教育委員会教育長・相馬秋夫は財団法人北海道文学館理事長・神谷忠孝に「北海道立文学館の管理に関する協定書第14条第2項に定める『当該専門的事項に関する業務』に係る協力について(回答)」(甲36号証)と題する文書を送り、「平成18年3月31日付けで依頼のあったこのことについて、承諾します。」と回答をした。(北海道教育委員会に保管されている「決定書」によれば、決定年月日はH18・3・31)。
 以上のような交渉を経て、北海道教育委員会は、従来から道立文学館に学芸員相当として派遣していたS社会教育主事(道職員)をそのまま駐在させ、ついでにA司書(道職員)を学芸員に変え、寺嶋弘道学芸主幹を道立近代美術館から移して学芸員として駐在させることになった。

 以上の経緯から分かるように、駐在道職員の任務は、財団法人北海道文学館が行う事業のうち、専門的事項に関して協力することであり、それ以外のことではない。神谷理事長が先の依頼状で言うところの「別添の業務」(甲35号証)によれば、駐在道職員が「指定管理者(財団法人北海道文学館)の求めに応じて行う専門的事項」は、大きく
 1 資料の収集、保存、管理、閲覧に関すること
 2 事業の企画及び実施に関すること
 3 解説資料、図録、要覧等の刊行物の作成に関すること
 4 広報活動に関すること
 5その他事業の専門的事項に関すること
に分かれ、更にそれが17項目に細分化されている。だがその中に、駐在道職員が財団職員の上司となることを認めるような文言は、一言も書かれていない。公務員の制度として許されていないからである。

(イー2)被告の根拠なき自己主張
 ところが被告「準備書面(2)」は
、「指揮監督する立場に被告は着任した」「事実上の上司として」「被告は、学芸班を統括する立場にあることから」「原告に対して事前に上司と相談してあらかじめ必要な協議を行い、命令を受ける必要がある旨指導した」「事実上の上司である被告の指導であって」「事実上の上司である被告の上記のような指導は適切かつ必要な行為であり」「学芸業務を主管する学芸班の総括者である被告」「文学館の学芸班の責任者である被告」「いずれも事実上の上司である被告として適切かつ必要な助言等であり」と、繰り返し被告が原告に対して指揮監督する立場にあり、学芸業務を主管する学芸班の総括者であり、事実上の上司であることを強調し、被告の原告に対する行為を「指導」と意味づけ、正当化しようとしている。そのためには、常軌を逸した主張」「文書事務の初歩的・基本的な知識のない原告」と、原告の人格と能力を貶め、原告の名誉を毀損することも辞さない書き方をしている。
 だが被告「準備書面(2)」は、被告が如上の立場にあることを制度的に保証し、または許容する規程が、如何なる文書のなかで、如何なる文言で表現されているかについて、全く一言も説明していない。被告はまず自分が如上の立場にあり得ることを保証し、または許容する公文書を証拠物として提出すべきである。その公文書の提示なしに自分が如上の立場にあると主張することは、それ自体が違法な行為なのである。
 もし北海道庁、または北海道教育委員会の内部に、「北海道の公務員は民間の財団法人の中で、財団法人の職員を指揮監督する立場に就くことを許し、財団法人で働く民間人の上司となることができる」旨のことを規程した公文書があるとすれば、それは北海道庁または北海道教育委員会が地方公務員法に違反したことを意味する。
 また、もし財団法人北海道文学館の中に、「当財団法人は、道立文学館に駐在する公務員に、当財団法人の職員を指揮監督する立場に就くことを許し、当財団法人で働く民間人の上司となることを許す」旨のことを規程した文書があるとすれば、それは駐在道職員に違法な行為を許すことを意味し、これまた違法な行為なのである。
 
 また、被告は繰り返し「指揮監督する立場」「事実上の上司」「学芸班を統括する立場」「学芸業務を主幹する学芸班の総括者」「文学館の学芸班の責任者」と自己の立場を主張しているが、制度的、組織的に全く根拠を持たない。平成18年4月1日付けの「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(
甲2号証)が示すごとく、被告は北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループの一員として道立文学館の駐在する学芸員であって、財団の業務課に属する〈学芸班〉との関係は「協働・連携」とされており、「指揮監督の立場」ではありえない。いわんや財団の職員によって構成される学芸班を「総括する立場」に立ち、学芸班の責任者となることはできない。「学芸業務を主幹する学芸班の総括者」という主張に至っては、そもそも「主幹」の意味が不明である。
 財団北海道文学館には職員各自の職務分担を決めた「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(
甲3号証)があり、「事務処理内容」の1、「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」には被告が主担当に、S社会教育主事(駐在道職員)が副担当に割り当てられている。被告の「統括する立場」という言い方はここから借りたのかもしれない。だが、「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」は、あくまでも他の分掌と横並びに列記された「事務処理」分掌の一つに過ぎず、「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)との関連で捉えるならば、「財団の学芸班と北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループとの業務の調整をはかり、まとめ役を務める」という意味以外の意味は出てこない。
 この事務分掌の主要な任務は、『協定書』(
甲34号証)の「別記6」に言う「日常的な各部門間の情報の共有化や定期的な職員全体会議(職員全員参加)の開催により、円滑な館の管理運営を行っていくほか、必要に応じて適宜協議の場をもち、協働連携を図ることとする。」であろう。だが被告は、原告が先に提出した「準備書面」から読み取れるごとく、また本「準備書面(Ⅱ)-1」において後に詳述するごとく、全くその任務を怠ってきた。
 以上の如く、被告の自己主張には何ら法的、制度的、組織的な根拠を持たず、それ故「法的な上司」「制度上の上司」「組織上の上司」ということはできなかった。被告はやむをえず、「事実上の上司」という言い方を乱発することになったと思われるが、「事実上」とは如何なる意味なのか。被告「準備書面(2)」を見る限り、そのことに関する説明もなければ、証明もない。ただ一つ明らかなのは、被告はこの概念の曖昧な言葉を極めて恣意的に用いながら、原告の業務に介入し、干渉し、妨害して、それを「指導」と称し、自己の行為の正当化を図ってきたことである。

(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点
 被告側は平成20年4月16日の法廷において「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(
乙2号証)という文書を提出した。この文書と被告「準備書面(2)」との関係については何の説明もなかったが、「証拠説明書(乙号証)」の立証趣旨に「財団と被告ら駐在職員との組織体制について。被告が原告に対して上司であること。」と説明されており、それ故ここではとりあえずこの文書が、「事実上の上司」という被告の主張の根拠をなすべく提出されたものとして受け取っておく。
 ただ、この文書は形式、概念、手続き等にわたって疑問点、問題点が多く、「事実上の上司」という被告の主張を裏づけるものとは見なしがたい。以下、その理由を列挙する。
A 書式上の形式的条件について
a)文書の日付が明記されていない。
b)如何なる組織の文書なのか不明である。
c)適用の期限が明らかではない。現在の学芸主幹が駐在している間にかぎり、の意味なのか、学芸主幹という肩書を持つ北海道教育委員会の職員が駐在する間は、という意味なのかが明らかではない。
B 概念について
a) 「* 財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言のおける*印は何を意味するか。もし「但し書き」ならば、法律や規程における「但し書き」は、「一の条を前段と後段に区切った時において、後段が前段の例外となっている場合を「但し書き」と言い、但し書きの原則となっている前段を本文と言う」とされている。だが、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の*印の個所には、原則を示す本文がない。本文の原則に「但し書き」が付くのは、本文を機械的に適用した場合、本文制定の趣旨が損なわれるか、または不当な不利益を蒙る者が出る怖れのある時、それを是正する処置を定めるためであるが、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の*印の個所は如何なる不都合、不利益を是正するために付したのか。何一つ説明が見られない。
b)「規程の定めにかかわらず」の「かかわらず」の意味が明らかではない。「規程の定めを無視する」意味なのか、「規程の定めを廃止する」意味なのか、「規程の定めを停止する」意味なのか、「規程の定めを棚上げする」意味なのか、「規程の定めと無関係に」という意味なのか。いずれにせよ、この文言は明らかに現行の規程の適用の否定または拒否を意味している。現行の規程を否定または拒否する主体は何か。その主体に否定または拒否する権限は与えられているのか。
c)「かかわらず」がb)にあげた意味のいずれであれ、この言葉は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の「運用」という概念となじまない。「運用」とは現行の規程をいかに現実の実情に即して効果的、合理的に適用するかということであって、規程の否定または拒否とは相反する行為だからである。
d)「規程の定め」の概念が明確ではない。「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」全体
を指すのか。同規程の第3条を指すのか。いずれにせよ、誰にとっての不都合や不利益
が生じたために、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」全体あるいは同規程の第3条の直接の適用を避けようとしたのか。
C 手続きについて
a)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」(
乙2号証)の第7条は「この規程に定るもののほか、事務局その他の組織に関し必要な事項は、理事長が定める。」となっている。だが、平成20年4月16日に提出された被告の「陳述書」(乙1号証)によれば、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は平成18年4月18日の全体職員会議に先立って、毛利館長、安藤副館長、平原学芸副館長、川崎業務課長、及び被告本人の間で決められたものであって、規程に定められた手続きを経てオーソライズされたものではない。その意味で、先の*の「規程の定めにかかわらず」という文言に表出された規程の否定または拒否の発想は、第7条にまで及んでいたと見ることができ、これは理事長によって代表される理事会の主体性の否定につながる。言葉を換えれば、上記5名は理事長及び理事会を無視して、財団法人北海道文学館を恣意的に運営できるように組織を変えてしまったのである。「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」はこのように違法なやり方で作られたものであり、その中に盛り込まれた「上司」の概念に何の合理性も正当性もないことは明らかである。
b)平成18年4月18日付けの「平成18年度第1回 北海道文学館全体職員会議」(
乙3号)の記録において、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は議題になっていない。この会議において紹介されたとの記録も見られない。
c)「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(
甲2号証)との関係が明らかではない。
d)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」と、北海道立文学館及び(指定管理者)財団法人北海道文学館の名によって公表された『平成18年度年報』(
乙4号証)の組織図とは異なっている。これは、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」が公に出来ない、違法な性質のものだからであろう。
e)学芸主幹の上司は誰なのか。組織上、一職員たる学芸主幹に上司が存在しないことはあり得ない。北海道教育委員会のどのような規程に基づいて、北海道教育委員会の職員が財団法人北海道文学館の事務局組織の中で財団職員の部下となり、財団職員の上司となることを認められたのか。北海道教育委員会の規程及び被告に対する適用の手続きが明らかでない。
 以上の如く、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」そのものが合理性を欠いており、これをもって被告が原告の「事実上の上司」であったとする主張の裏づけにはならない。「(イー1)基本的な事実の確認」及び「(イー2)被告の根拠なき自己主張」で指摘した如く、被告が原告の「事実上の上司」であったという主張は、法的、制度的、組織的な根拠を欠いている。そしてこの「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」で明らかになったことは、被告が原告の「事実上の上司」であったという主張は規程上の裏づけをも欠いており、それだけでなく、規程上の正式な手続きを経ない違法なものでしかないということである。
 
 上述の如く、被告の被告自身の立場に関する主張は全く合理的な根拠を欠いた、違法な主張であることは明らかである。被告が言う「事実上の上司」とは、正しくは「公にできない、違法な上司」と言い換えられなければならない。原告は、この違法な主張に基づいてなされた被告側「準備書面(2)」における主張を全て否認する。

(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘
 被告「準備書面(2)」において、被告は道立文学館に「着任」した日について、次のように書いている。
 
「被告が駐在道職員として文学館に着任したのは4月4日(火)ではなく4月1日(土)である。この日付の勘違いによって明らかなのは、今般の準備書面の記載内容が原告のあいまいな記憶に基づく後日の作為的な記述であるということである。/着任日には、被告は平原一良学芸副館長(当時)から平成18年度の事務事業について説明を受けており、『二組のデュオ展』を含め当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである。したがって被告には『二組のデュオ展』の進行を阻害する意図などあり得るはずもなく、原告の主張は後日の言いがかりにすぎないものであり、被告の言動には法令違反の事実はいささかも認められない。」引用文中、/は改行を示す。以下同じ)
 この文章の前段は被告の記憶の誤り、すなわち錯覚であって、原告が先の「準備書面」で言及しておいたように、被告が着任したのは4月4日であった(
甲37号証の1・2・3)。この日付の勘違いによって明らかなのは、今般の被告「準備書面(2)」の記載内容が被告のあいまいな記憶に基づく後日の作為的な記述であるということである。
 ただし、ここで指摘しておきたいのは、そのことだけではない。むしろ後段の「着任日には」から「着任したのである」までの記述についてであって、以下に分析するがごとく被告の文章の文意が極めて曖昧なことである。
A、まず指摘したいのは、
平原一良学芸副館長(当時)から平成18年度の事務事業について説明を受けた」ことと、いずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任した」こととの間の文章のつながり、あるいは因果関係が不明瞭である、という点である。普通に文章を読みなれた者ならば、誰しも以下のような疑問を禁じえないだろう。
a)「平原一良学芸副館長(当時)から平成18年度の事務事業について説明を受けた」ことが、被告が「指揮監督する立場に着任した」ことの裏づけとなったのか。すなわち、被告は平原一良学芸副館長(当時)によって「指揮監督する立場」に任命されたのか。もしそうならば、平原一良学芸副館長(当時)は被告に「指揮監督する立場」を与える権限を持っていたことにあるが、被告はそう主張をしていると解釈してよいか。
b)被告は誰かによって「いずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場」に任命され、その立場で平原一良学芸副館長(当時)と会い、「平成18年度の事務事業について説明を受けた」のか。もしそうならば、誰が如何なる権限に基づいて、被告に「いずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場」を与えたのか。

B、次に指摘しなければならないのは、文意が通らず、概念が曖昧な言い方をしていることである。
a)「指揮監督する立場に着任した」における「立場」とは地位、あるいは身分を指すのか。その場合、北海道教育委員会の職階制における地位または身分なのか。それとも財団法人北海道文学館における地位または身分なのか。
b)「指揮監督する立場に着任した」における「立場に」とは、「立場の人間として着任した」の意味なのか。それとも「着任してその立場に任ぜられた」あるいは「着任してその立場に就くよう求められた」の意味なのか。

C、第3に指摘できることは、被告の主張する立場は「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(平成18年4月1日現在。甲2号証)、及び「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在。甲3号証)とどう対応しているのかが不明なことである。
a)「いずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場」とは、「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」のどこに位置づけられるのか。
b) 被告が北海道教育委員会の学芸主幹であることと、「いずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場」とは如何なる関係にあるのか。

D、第4に指摘できることは、「指揮監督」という言葉が無限定に使われていることである。
a)被告がいう「指揮監督」は、先に言及した『協定書』第14条のどの文言と対応するのか。
b)被告がいう「指揮監督」は、先に言及した「指定管理者(財団法人北海道文学館)の求めに応じて行う専門的事項」におけるどの事項と対応するのか。

 被告側「準備書面(2)」は、上記の疑問に答えられる書き方になっていない。
 被告側「準備書面(2)」は、被告と原告との関係が北海道教育委員会の職員と財団法人北海道文学館で嘱託として働く民間人との関係であること、及び本訴訟の争点は公務員の民間人に対する人格権侵害(人権侵害、業務妨害)であることには一切言及していない。故意に無視して、上司と部下の関係であったかのようにすり替えようとしている。その結果、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」で指摘したように制度的、法的、組織的、規程的に根拠のない、違法な主張を繰り返さざるをえなかった。そのようなすり替えを強引に行おうとした文章上の作為が、ここで指摘した文意の不明瞭、概念の曖昧さとして端的に露呈してしまったのである。

(ハ)原告が主張する15項目に対する被告の反論に対する反論
被告側「準備書面(2)」の原告側「準備書面」に対する反論は全てにわたって虚偽と事実の歪曲に満ちており、原告はこれを全面的に否認する。以下、被告側「準備書面(2)」の項目の順序に従い、――必要に応じて順序を変える場合もある――その理由を述べる。

1 「(1)平成18年4月7日(金曜日)」について
(2)同第2段
 被告と道立近代美術館のK学芸員とが如何なる関係にあったかは、本訴訟の争点に直接かかわらない故、原告の関知するところではない。ただ、被告に対するK学芸員の「相談」が被告の原告に対する態度に何らかの影響を与えたと主張するのであるならば、
① 原告がK学芸員の送った手紙を証拠物として提出し、原告の手紙の如何なる部分が
「内容が散漫としていて調査事項が不明瞭」であったかを証明しなければならない。
② 被告がK学芸員から相談を受けた日時、場所を可能なかぎり明示しなければならない。
 もし以上のことができないならば、被告側「準備書面(2)」におけるこの個所の記述は、要するに被告がK学芸員の言葉によってある種の予断を触発され、偏見をもって原告に対した事実を露呈したことにしかならない。それだけでなく、被告は、原告に対する自分の態度の責任を、K学芸員に押しつけたことになる。
 被告は
「したがって、近代美術館への原告の訪問調査を否定するいかなる理由も被告にはなく、むしろ調査が適切に遂行されるように指導する立場であった。」と言うが、原告は「被告が原告の訪問調査を否定した」という意味のことは書いていない。被告の誤読である。被告が原告を「指導する立場」になかったことは、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述しておいた。そもそも「指導する立場にあった」という文言は「指導した」ことを意味しない。

(1)「(a)被害の事実」の第1段
 被告は、「この時の被告の発言は、原告が同館を訪れ指導を受ける場合には、事前に先方の都合を聞き、調査事項や内容を整理し、あらかじめ相手方に依頼しておくことが適切である旨を告げたものであって、被告から原告に対し通常の指導を行ったのみの適切な行為である。」と言うが、もし本当に被告が、前段で言うごとく、K学芸員から被告の手紙の内容を聞いていたならば、このような記述はありえない。なぜなら、原告がK学芸員の送った手紙はまさに「事前に先方の都合を聞き、調査事項や内容を整理し、あらかじめ相手方に依頼しておく」内容のものだったからである(
甲38号証)。その点でこの段と前段との記述は整合せず、被告の記述自体の信憑性が疑われる。
 被告が原告を「指導する立場」になかったことは、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述しておいた。被告が原告に対して、「いきなり訪ねていったって、美術館の学芸員は忙しいんだから、ただ話をだらだらしたって、相手になってくれる人間はいないよ。そんな時間はないんだ」と言い募ることは、「指導」であるどころか、「助言」でさえなく、如何なる意味でも駐在先の文学館における学芸関系の職員に対する「適切」な言動とは言いがたい。
 この会話があった4月7日は、被告が道立文学館に着任して僅かに4日目のことであった。仮に被告の「指導」という言い方に従うとしても、被告が言うが如き「通常の指導」など生まれるはずのない時期である。被告は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」という文書を前提にして、自分を原告に対する「指導」を許された人間として正当化しようとしているらしいが、――それが法的、制度的、組織的、規程的に違法なものでしかないことは既にしておいた――それが被告たちによって作成されたのは4月18日のことである。これらの前後整合しない、錯乱した記述は、被告の主張が後日の作文でしかないのではないかを疑わせる十分な材料と言えよう。
 被告は
「双方の発言の子細は(原告の)準備書面のとおりではない。」と主張するが、それならば被告は、自分の証拠に基づいて「発言の子細」を明示しなければならない。それができなければ、被告が原告に対して「いきなり訪ねていったって、美術館の学芸員は忙しいんだから、ただ話をだらだらしたって、相手になってくれる人間はいないよ。そんな時間はないんだ」と言い募った事実を否定することはできないのである。

3)同第3段
 被告は、
被告は文学館に着任早々、年間事業計画及び各展覧会の企画内容について引き継ぎを受けており、」と言うが、「着任早々」とは何日のことか明らかではない。また、誰から「引き継ぎをうけた」のかも明らかではない。平原学芸副館長から年間事業計画及び各展覧会の企画内容の説明を受けることは「引き継ぎ」ではない。「引き継ぎ」と言う以上、それは被告には前任者がいたことを意味する。被告はこれらの点を明らかにし、その上で、原告の企画の如何なる点を評価して「『いいじゃない、やりなさい』と積極的に肯定した」のかを明らかにすべきである。そのことによって初めて原告の主張に対する被告の反論に一定の客観的な裏づけが生まれる。だが、この段における被告の反論はその裏づけを欠いている。
 被告は、
「『二組のデュオ展』の展示原案が文書としてまとめられていたこと、及び4月7日当日原告から示されたことは認めるが、その余は否認する。」と言うが、もし原告の「ところが被告は手にも取らずに、『いいじゃん、いいじゃん、やれば。やんなさい』と嘲笑的な口調で言い、無関心な態度を示した。」(原告「準備書面」)という記述を否認するのであれば、自分の側の証拠を提出し、それに基づいて否認の理由を明らかにしなければならない。

(4)同第4段
 被告が4月1日の土曜日、文学館に顔を出したことは認める。しかしそのことが直ちに「着任」を意味するわけではない。着任式が行われたのは4月4日である(
甲37号証の1・2・3)。被告は、被告が駐在道職員として文学館に着任したのは4月4日(火)ではなく4月1日(土)である。この日付の間違いによって明らかなのは、今般の準備書面の記載内容が原告のあいまいな記憶に基づく後日の作為的な記述であるということである。」と主張するが、事実はその反対で、被告の記憶のほうが曖昧であったことは、既に指摘しておいた。
 また、この段における「着任日には」から「着任したのである」までの記述は文意が不明であり、概念が曖昧であることに関しては、「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で明らかにしておいた。
 被告は更に続けて、
したがって被告には『二組のデュオ展』の進行を阻害する意図などあり得るはずもなく」と主張しているが、原告は原告側「準備書面」で「被告が『二組のデュオ』の進行を阻害した」とは言っていない。被告の誤読である。
 以上の如く、平成18年4月7日(金曜日)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、原告側「準備書面」の誤読や認識違いのため信ずるに足りぬものであり、かつ、被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がない、違法なものであった。故に、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

2 「(2)平成18年5月2日(火曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段、第3段
 被告が「ケータイによる文学碑写真コンテスト」を口にしたのは、4月7日、原告が被告に文学碑データ検索機を見せた際であった。その後、4月28日に日本博物館協会から「ケータイ・フォトコンテスト」のポスターが届き、それをきっかけに被告は「あの企画は進めなければならない」と言っていた(
甲17号証)。このような経緯の後、被告は5月2日に「文学碑検索機のデータベースの、画像がないものについて写真を集めたい」と言ったのであり、その方法に関しては、ケータイ・フォトコンテスト以外の方法は挙げなかった。被告は、「「ケータイ・フォトコンテストを前提にしていた」わけではなく、例として提示しただけである」と言うが、以上のような経緯から判断しても、被告の提案が「ケータイ・フォトコンテストを前提にしていた」ことは明らかである。
 なお被告は、前回の「準備書面(1)」では
「被告と原告の間で、文学碑データベースの話をしたことは認める。ただし、細部については否認ないし不知である。」と主張していたが、今回の「準備書面(2)」ではケータイ・フォトコンテストを話題にした事実を認め、かつ原告の「準備書面」の第1段、第2段、第3段について「内容は事実として認める」と訂正している。これは被告が、この日の話題が画像収集の方法に関することだったことを認めたことを意味する。このことは後に重要な意味を持ってくることなので、確認しておきたい。

(2)同第4段
 被告は
「その打ち合わせの際、実施に当たっては引き続き検討しなければならないいろいろな課題があることが明らかとなったので、引き続き原告にその解決に向けどのようなことが必要となるかを継続的に検討して企画書としてまとめるよう、原告に対して平原学芸副館長とともに指示した」と曖昧な言い方をしているが、5月2日の話し合いの、どのようなプロセスの中で、どのような「いろいろな課題」が明らかになったのかを説明していない。その説明ができなければ、この記述は虚偽に転じてしまう。
 以下にその理由を示すならば、
a)そもそも被告が持ち出した話題は、「文学碑検索機のデータの、画像がないものについて写真を集めたいので、原告に〈ペーパー〉を書いてほしい」ということだった(
甲17号証)。写真の集め方については、少なくとも被告が話を切り出した時点では、ケータイ・フォトコンテストを前提としていたことは、先に指摘しておいたとおりである。それ故原告はそれに伴う問題点として、業者にフォーマットを作り変えてもらうことやコンテスト実施のための予算の問題と、他の職員のスケジュールの問題を念頭に置いて、「私はそういうことができる立場では……」と言いかけたのだが、その途端、原告の言葉を遮り、話題を原告の身分問題に曲げてしまった。だが、錯綜する議論の中で原告は予算問題とスケジュール問題を指摘している。
b)被告が言う「いろいろな課題」は、予算問題とスケジュール問題の2つの問題を指すはずであり、そうである以上、
引き続き原告にその解決に向けどのようなことが必要となるかを継続的に検討して企画書としてまとめるよう、原告に対して平原学芸副館長とともに指示した。」という記述は事実に合わない。原告は予算問題とスケジュール問題の「解決に向けどのようなことが必要となるかを継続的に検討して企画書としてまとめるよう」求められた事実はなかったからである。原告は被告と平原学芸副館長から「指示」を受けたわけでもない。原告が受けたのは「(画像を集める)アイデアを出してほしい」という要望だけであった。何日までにアイデアを出すかについては、何の話もなかった(甲17号証)。
c)被告は先の文章に続けて、
準備書面第4段に書かれたフォトコンテストの課題について個々の議論をしたわけではなく、市民参加による画像データの収集についてはフォト・コンテスト以外にもさまざまな方法が考えることから、検討可能な複数の案をまとめるように原告に伝えた。むろん企画によっては経費発生も予想されることから、事業経費についても大まかに想定するように指示したのである。」と言うが、そもそもフォトコンテストの課題について個々の議論ができなかったのは、被告が原告の発言を遮って、十分な説明をさせなかったからにほかならない。被告は、「フォト・コンテスト以外にもさまざまな方法が考えることから、検討可能な複数の案をまとめるように原告に伝えた」わけではない。それまで固執していたフォト・コンテスト方式を、「私は、コンテストに別にしなくてもいいと考えている」と引っ込めたにすぎない(甲17号証)。「事業経費についても大まかに想定する」という「指示」はなかった。
 ただ、5月2日の話し合いについて、被告は、話題は画像収集の実施についてではなく、画像収集の方法に関するアイデアを出してほしいということに終始したことを認めた。このことは確認しておく。
 
(2)同第5段、第6段、第7段
 被告は、
この打ち合わせの時、原告から自分が担当であってよいのかについて質問があったので、前年度まで原告がこの文学碑データベースの作成を担当していたこと、常設展の映像展示物の更新作業であることから常設展副担当の原告に継続して担当するように指示した。」と言うが、この文の主語が明らかではない。もし被告が主語ならば、被告に「指示する」権限はない。そもそも被告は話し合いの場において、「前年度まで原告がこの文学碑データベースの作成を担当していたこと、常設展の映像展示物の更新作業であることから常設展副担当の原告に継続して担当するように」という意味の発言を一度もしなかった。この個所は被告の自己合理化のために後日に作文したものである。
 被告は、原告が「私はそういうことが出来る立場では……」と言いかけた途端、原告の発言を遮って、「そういう立場って、いったいどういうことだ。最後までちゃんと言ってみなさい!」と、声を荒げて問い詰めてきた。被告は、
原告から、自分は財団職員ではないとの発言があったため」と言うが、これは虚偽の主張であって、原告は「自分は財団職員ではない」という意味の発言をしたことはない。原告は、身分上の問題に関しては、「自分は嘱託の身分である」旨の返事をしただけである。
 被告はそれに対して、「職員ではないとはどういうことか。立派な職員ではないか。財団の一員ではないか」と声を荒げて力説するのみであったが、このような主張は、嘱託という身分に伴う社会的不利益や、それを代償として持ち得る権利とをことさら曖昧にして、「立派な財団職員」という美名によって(正職員に与えられる権利を伴わない)義務意識だけを押しつけようとするレトリックであり、それ故そのように主張すること自体がすでに「立派な」人権侵害なのである。
 被告はさらに、
なお、第7段中葉の安藤副館長の前年度3月の発言については、被告は不知である。」と言うが、無責任もはなはだしい。次の「(2)同第8段」で被告は平原副館長という言い方をしていたが、この時点の副館長は安藤孝次郎氏であった。財団における嘱託職員がどういう立場にあるかを被告が知りたければ、被告は安藤副館長に確かめればよい。平原学芸副館長と口を揃えて〈内鮮一体・五族協和〉のような、見せかけ反差別主義の強制的一体化論などを喋喋する必要はなかったのである。「自分が着任する前に原告と安藤副館長とがどんな話をしたか、自分には関係ない」と言い切るこの言葉からも、いかに被告の顔が平原学芸副館長にだけ向けられていたかを読み取ることができるだろう。
 
(2)同第8段
 この個所の被告の記述は虚偽と矛盾が錯綜しており、以下それを解きほぐしながら、幾つかの項目に別けて反論をする。
a)原告が平成18年度、どのような業務についていたかについて、「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(
甲3号証)で説明するならば、原告の事務分掌は、
8「定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」の副担当(主担当はA学芸員/駐在道職員)
10「常設展示の企画調整、展示更新に関すること」の副担当(主担当はS社会教育主事/駐在道職員
13特別企画展「石川啄木」の副担当(主担当はS社会教育主事)
14「ファミリー文学館[知床の自然を描く―関屋敏隆絵本原画展]の企画、実施に関すること」の副担当(主担当はA学芸員)
18 企画展「人生を奏でる二組のデュオ」展の主担当(副担当はA学芸員)
28「収蔵資料目録、調査研究報告書の編集、発行に関すること」の主担当(副担当はO司書)
34「文学資料の解読、翻刻に関すること」の主担当(副担当はA学芸員)
であった。
 ただし、8「定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」は、年度当初の「事務分掌」表にはなかった(
甲60号証参照)。ところが4月14日、原告は平原学芸副館長に呼ばれ、「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」については、表の上では担当はA学芸員、O司書になっているが、それを原告が手伝う形にして欲しいと言われて(甲62号証参照)、結局なしくずしに8「定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」の業務が増え(甲60号証甲3号証とを比較参照)、また、それとのからみで、
20「閲覧室・共同研究室の運営および文学資料の閲覧に関すること」(主担当はO司書、副担当はA学芸員)
21「文学資料の貸し出しおよび特別利用に関すること」(同前)
に関しても、4月中旬から協力することになった(
甲3号証が作られた経緯及び平成18年4月1日に日付を持つ経緯については、被告の「陳述書」2ページ参照)。
 このように原告は、被告が引用した「文学館嘱託員任用にかかる取扱要領」に記された業務だけを遂行していたわけではない。また、文学碑検索機のデータベース作成に関して言えば、平成17年11月の道立文学館開館10周年の行事を目途として完了し、10周年記念行事の一環として来観者に公開した。平成18年度は各市町村から新たに情報が入った場合、原告が更新をすることになっていた。
b)被告は、
稼働したばかりの文学碑データベースについては毛利正彦館長(当時)からもその充実を被告は指示されていたので、事前に館長、副館長ら財団幹部職員とも協議し、更新業務の担当を原告に継続させるとの了解を得た上で、」と言うが、被告が館長から指示を受けた日時や場面が明記されていない。また、館長、副館長ら財団幹部職員と協議した日時や場面も明記されていない。被告は「この日、平原副館長とともに原告に対して業務の開始を指示したものであり、なんら法令に違反するところはない。」と主張するが、その主張を裏づけるためにも、上記の2点を証拠物に基づいて具体的に明記すべきである。それができなければ、被告は根拠のない主張をしたことになる。
c)なお2点注意をしておくならば、平成18年5月2日の時点における副館長は安藤孝次郎氏であって、平原一良氏ではない。原告は平成18年10月31日付のアピール文(
甲17号証)を神谷理事長、毛利館長(当時)、平原副館長、川崎業務課長、及び被告本人に渡したが、11月10日、毛利館長、平原副館長と話し合った折にも、その後においても、被告が言う「事前に館長、副館長ら財団幹部職員とも協議し、更新業務の担当を原告に継続させるとの了解を得た」というような経緯については、毛利館長から聞いたことがなく、それ以外の人からも一言の言及もなかった。この2点から判断しても、被告の主張の信憑性は極めて疑わしい。
d)さらに注意を促すならば、原告は、被告が「平原副館長とともに原告に対して業務の開始を指示した」ことについて、「法令に違反する」とは言っていない。存在しなかった「指示」について、そのコンプライアンスの是非を論ずることはできないからである。原告は道立文学館の過密スケジュールの中で、上記のような事務分掌に従事していた。その原告に対して、年間スケジュールにない、ケータイ・フォトコンテストによる画像収集の話が持ち込まれた。そのことについて、原告は、原告側「準備書面」において、「北海道教育委員会の駐在道職員である被告が思いついたケータイ・フォトコンテストは、平成18年度の過密スケジュールに追われている財団法人北海道文学館の業務課と学芸班の両方に大きな負担を強いる企画である。駐在道職員の被告は、年度途中に、財団法人北海道文学館の嘱託である原告に、原告が業務を担当することを前提として、企画作りを強圧的な態度で要求した。これは、財団に対しては、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱して、「地方公務員法」第32条に反して行われた干渉行為であり、他の業務を抱えた原告に対しては業務強制の人権侵害の違法行為である。」と指摘したのである。
e)また、被告は、被告側「準備書面(2)」において、
原告の主張は今般の訴訟に際して作為的に記されたものにすぎず、さらに業務命令をも隠蔽しようとする意図が明白であって断じて認めることができない。」と言うが、5月2日の話し合いにおいては如何なる意味においても「業務命令」はなかった。いったい誰から出た、どのような業務に関する「命令」だったのか。被告が自分の思いつきを年間スケジュールに割り込ませようとしたことを、被告が「業務命令」と呼んだとすれば、それは被告の強弁である。原告が、存在しなかった「業務命令」を隠蔽する動機を持つはずがない。「作為的な」記述を行っているのは被告のほうである。
f)また、被告側「準備書面(2)」は、この段の結びにおいて、
なお、原告は準備書面のなかで、本データベースの更新作業を特別企画展『石川啄木―貧苦と挫折を越えて』(以下、「石川啄木展」という)の業務妨害だと今になって主張しているが、この日の打ち合わせにおいては、石川啄木展も他の展覧会事業についても話題にはならなかったものであり、原告の主張は事実に反する。」と言うが、支離滅裂と評するしかない。
 第1に、5月2日の話題は「データベースの更新」ではなく、「ケータイ・フォトコンテストによる画像収集」であった。
 第2に、原告は、原告が「石川啄木展」の副担当であった事実を挙げて、「被告はその『事務分掌』を無視して『啄木展』に介入し、原告を疎外し、他方、自分が思いついたケータイ・フォトコンテストの企画作り(原告の実施を前提とする)を原告に押しつけようとした。これは前項で指摘した規律違反であるだけでなく、原告に対しては業務の不当なすり替えであると共に、『啄木展』副担当という責任を原告に果たさせまいとした点で、『刑法』第234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。」(原告「準備書面」)と指摘したのである。
 被告は、自分自身が
「本データベースの更新作業を特別企画展『石川啄木―貧苦と挫折を越えて』(以下、「石川啄木展」という)の業務妨害だと今になって主張している」という短絡的なとらえ方を行いながら、あたかも原告がそのように短絡的な言い方をしたかのように作文している。これは、被告が「事務分掌」を無視して啄木展に介入し、原告を疎外してしまった事実を隠蔽するための作為と見るほかはない。
 第3に、5月2日の話し合いにおいて、啄木展やその他の展覧会事業のことが話題に出なかったのは、5月2日の話し合いの話題の中心がケータイ・フォトコンテストによる画像収集の可能性や是非の問題にあったからである。別なことが話題になっている場で、原告が啄木展やその他の展覧会事業のことを話題にしなかったからと言って、被告が「事務分掌」を無視して啄木展に介入し、原告を疎外してしまった事実が消えるわけではない。原告がその事実を肯定していたことを意味するわけでもない。
 そして第4に、被告は
「この日の打ち合わせにおいては、石川啄木展も他の展覧会事業についても話題にならなかったものであり、原告の主張は事実に反する。」と言うが、この「事実」が何を指しているのか。もしこの「事実」が、この日の打ち合わせにおいては、石川啄木展も他の展覧会事業についても話題にならなかった」ことを指すのならば、その「事実」に反する原告の発言とは何か。先ほども言ったように、原告はその日、「啄木展やその他の展覧会事業のことを話題にしなかった」。そのこととこの「事実」とは、どこが反するのか。
 ただ、5月2日にケータイ・フォトコンテストが話題になった時、職員の多くが過密スケジュールに追われ、とてもケータイ・フォトコンテストなどというイベント性の強い企画を割り込ませる余裕はなかった(
甲16号証参照)。しかも被告は自分が主担当でもなければ副担当でもない「石川啄木展」に介入し、副担当の原告を疎外してしまった。そういう状況とのからみで、原告は、先に引用したような原告「準備書面」で、被告の違法性を指摘したのである。
 以上の如く、平成18年5月2日(火曜日)に原告が被告から被った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、信憑性の乏しい記述に終始し、かつ、文意の不明な箇所もなしとしない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

3「(3)平成18年5月10日(水曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段、第3段
 被告側「準備書面(2)」は、被告を「事実上の上司」としているが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述した如く、被告は法的、制度的、組織的、規程的の如何なる面によっても原告の「上司」たりえない。被告が言う「事実上の」は、「公開をはばかる、違法な」という言い方に置き換えるべきであり、被告はその違法性を糊塗するために「事実上の」という文言と思われるが、いずれにせよ被告が恣意的に用いている用語にすぎない。よって、被告が自分を「事実上の上司」と称して主張する自己正当化は全て無効である。
 なお、被告の勘違いを指摘しておくならば、
a)原告が出席しようとしたのは小樽啄木会が主催する「啄木忌」で行われる講演会であって、市立小樽文学館が主催する文芸講演会ではない。原告は平成15年、小樽啄木会に依頼されて、「心のスナップショット――石川啄木と同世代の青年たち―」という講演を行った(
甲39号証の1・2)。以来、小樽啄木会から毎年、招待状が届き、出席していた。会の性質から判断して、出張ではなく、早退としたのである。被告は「小樽で催される文芸講演会への出席であれば文学館の業務となるはずであり、」と主張するが、しかし被告は、5月10日の時点では、「啄木忌の講演であっても学術講演会扱いにできるから、出張の手続きをしたほうがいい」という意味のことを一言半句も言わなかった。ただ「なぜ休暇を取るのか」「何時間休暇を取るのか」というトリビアルなことに執拗にこだわっていた。そのことは、原告の「準備書面」を読んだ現在においてもまだ小樽の啄木忌の講演を「文芸講演会」と勘違いしていることでも明らかである。なぜ今になって「文芸講演会への出席であれば」などと言い出したのか。原告の休暇の取り方について執拗にこだわり、干渉しようとしたことを、「事実上の上司」の「指導」という虚構の行為に見せかけるための作文としか考えられない。
b)嘱託託員の休暇は、通常、休暇処理簿に記載するだけで、「あらかじめ館長に申請」(被告側「準備書面(2)」)することはしていない。また、その理由についても、これまた通常、個人的な都合であれば、「私事」と書くだけだった。
c)休暇処理簿への記載は必ずしも時間単位と決められていたわけではなく、分単位でも差支えなかった。休暇時間の計算は業務課が行ってくれた。
d)被告は、
原告から自分は嘱託員であるから休暇は自由に取得できる旨の発言があったため、」と言うが、原告は「自分は嘱託員であるから休暇は自由に取得できる」意味の発言は一度もしていない。被告は、如何なる会話の流れの中で原告がそのような発言をしたか、被告側の証拠物によって証明すべきである。被告はこの個所の第1段落で、5月10日に休暇の取得について話をしたことは認めるが、会話の文言やその意図は否認する。」と主張していたが、「否認」の理由を明らかにするためにも、被告側の証拠に基づいて会話の流れを再現することが必要であろう。
e)嘱託職員には年休がない、ということの意味は、嘱託職員には有給年次休暇日として決められている休みの枠がなく、それ故使わなかった有給年次休暇日を次年度に繰り越すこともできない、という意味である。
 被告は安藤副館長からe)について説明を受けたはずである(
甲26号証参照)。しかも原告からb)c)の説明を受けており、それで十分に原告に対する用事は済んだはずである。被告は、この日の翌日が原告の勤務日ではない(原告の勤務日は火曜日、水曜日、金曜日、土曜日とされていた)ことから、被告は早期に原告の理解を得ることが必要と考え十分説明し理解を得るよう努めたところであり、そのため若干原告の勤務時間を超過することとなった(原告の勤務時間は9時15分から17時までとされていた)とはいえ、」と言うが、原告が13日の早退について職員の了解を得たのは9日(火)のことであり、12日(金)には出勤する。すでに9日に皆の了解を得たことについて、被告が「早期に原告の理解を得ることが必要」と焦る理由はどこにあったのか。また、一体どのようなことについて、原告の理解を得るつもりだったのか。被告がb)c)e)のことを理解していれば、原告の早退に関して、原告の理解を得なければならないことはなかったはずであり、いわんや「早期に」などと焦る理由も必要もなかったはずである。
ところが被告は、原告の退勤時間が近づいた午後4時半ころ、再び原告のもとにやってきて、午後5時半ころまで足止めをした。退勤後に約束や用事を持つ人間にとって、30分は決して「若干」ではない。しかも、原告の足止めをして語った内容は、「原告は嘱託ではない、立派な財団職員だ」という、5月2日以来の主張の蒸し返しだった。このような主張を押しつけることは、「2「(2)平成18年5月2日(火曜日)」について」の項で指摘した如く、それ自体がすでに人権侵害なのであるが、もしそういう主張を押しつけることが「早期に原告の理解を得ること」の動機だったとすれば、被告による原告の足止めは一そう悪質、不当な行為だったと言うほかはない。
 被告は、
これらのことをとらえ、原告に対する『プライバシーに対する干渉』であり、『退勤時間以後も原告を拘束し』『フルタイムの正職員とおなじ労働と責任を強制した』と主張するのは常軌を逸した主張と言わざるをえない。」と言うが、上述の如く原告の主張は全く正当である。
 のみならず、原告は「退勤時間以後も原告を拘束し」たことをもって、「フルタイムの正職員とおなじ労働と責任を強制した」とは言っていない。文脈が異なる。原告は、「北海道教育委員会の職員である被告が、財団の嘱託として働く一市民の原告に対して、執拗に『原告は嘱託ではない、立派な財団職員だ』という考えを強制した。嘱託職員の立場と権利を無視し、フルタイムの正職員とおなじ労働と責任を強制したことは、憲法が保障する基本的人権を無視し、財団と被告が結んだ契約外の労働の強制した点で、『民法』第709条に該当する不法行為である」(原告「準備書面」)と指摘したのである。
 被告は原告の主張に関して「常軌を逸した」という人格誹謗の形容句を使っているが、そういう言葉を無自覚、無反省に使ってしまう無神経な発想こそが人権侵害を生んでしまったことに被告は気がつくべきであろう。
 以上の如く、平成18年5月10日(水曜日)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

4「(4)平成18年5月12日(金曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段及び①、②、第3段
 被告は、
被告が文学館の平成18年度の展覧会事業について年間の執行計画の見込みを立てるため、原告を含む3名の展覧会担当者に今後の支出予定額を照会した事実は認める。」というが、各展覧会事業に関する予算額は、平成18年3月3日(金)に開かれた理事会において既に決定されていた(甲40号証)。それ以後、5月12日に至るまで、展覧会事業の執行計画の見直しを図らなければならないほど、臨時に大きな支出を要するような事態は起こっていなかった。なぜこの時期、被告は、被告自身も「文学館の支出事務は財団の業務課が担当しており、被告はその事務処理に直接関与する立場にない」ことを認めているにもかかわらず、わざわざ原告とA学芸員を呼んで、展覧会事業の予算執行計画の照会を行わなければならなかったのか。その理由は、被告自身が予算の執行に失敗したからにほかならない。
(2)同第4段、第5段、第6段
 この個所の被告の記述は、虚偽と事実の歪曲に満ちているので、幾つかの項目に別けて反論をする。
a)被告は、
文学館においては、毎年度、文学館の事業量や職員体制などを勘案してそれぞれの展覧会の『主担当』『副担当』を決めて、全職員総掛かりで準備・実施している。」と言うが、不正確である。それぞれの展覧会事業の一つひとつに全職員が総掛かりで取り組んでいるわけではない。なぜなら、文学館の根幹とも言うべき日常的な学芸業務として、新たに購入または寄贈された資料の整理、登録、利用希望者への対応、肉筆資料の解読と翻刻、調査研究書の編集と発行などがあり、それらの業務に従事している職員が、各自の業務を中断して、展覧会事業に総掛りで取り組むことはあり得ないからである。「主担当と副担当とが責任をもって準備を進め、展示室の設営の段階で、手の空いている職員が主担当、副担当の作業に手を貸すやり方で実施している」と言うべきである。被告はそういう実態には言及せず、「全職員総掛かりで準備・実施している」と不正確な言い方をしたが、それは被告が事務分掌を無視して「石川啄木展」に深くかかわった行為を正当化する伏線であろう。
b)被告は、
被告は、学芸班を統括する立場にあることから、」と言うが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述した如く、被告が言う「学芸班」は架空なものでしかない。故に架空な「学芸班」を前提とした被告の「立場」も何ら正当な根拠を持たない。また、この「立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。被告は先の言葉に続けて、自ら協力したり、他の職員の協力を指示したりすることが重要な職務である。」と主張しているが、原告の知るかぎり、被告が「自ら協力した」事実はない。ただし、被告が主担当でもなければ副担当でもない「石川啄木展」に、被告が勝手に介入した事実はある
c)被告は
「『石川啄木展』においても、その準備は駐在道職員のS教育主事によって着実に進捗していた状況にあり、被告はもっぱら業務の進行状況を確認し必要に応じて指導と助言を行っていたものであって、そのことをもって『原告の重要な業務の一つを奪った』とし、『業務妨害である』という原告の主張は根拠のない暴論と言わざるをえない。」と言うが、被告は原告が「石川啄木展」の副担当であった事実を言い落としている。被告は、先には「全職員総掛かり」という不正確な言い方をし、ここでは「石川啄木展」が原告の「事務分掌」の一つであった事実を隠してしまったのである。
d)同じ駐在道職員である被告とS社会教育主事とが、北海道教育委員会の職階制上でどのような関係にあるかは、原告の関知するところではない。しかし原告は、被告がS社会教育主事に対して「指導と助言」をした点を挙げて、それをもって「原告の業務を奪った」とし、「業務妨害である」と主張したわけではない。被告は原告の「準備書面」を故意に読み違えている。原告は、「石川啄木展」の主担当でもなければ副担当でもない被告が、原告に何のことわりもなく「石川啄木展」に介入し、原告を疎外したことを「原告の業務を奪った」と主張したのである。原告に課せられ、原告が行うべき業務を、原告に遂行させなかったことを指して、「業務妨害」と指摘したのである。
e)被告はS社会教育主事と共に、ジュラルミン・ケースを持って、東京の日本近代文学館まで展示資料の借用に出張し、返却の際にもまた一緒に東京へ行くなど(甲41号証)、単なる「指導と助言」以上に、「石川啄木展」に深くかかわっていたことは明らかである。「石川啄木展」の当初予算は3,712,000円だった。被告はこの数字には言及しなかったが、5月12日の時点で、早くも予算執行が大幅に予算を超過してしまったことを明言している。その責任は全てS社会教育主事だけにある、と考えることはできない。
f)被告は、
第4段から第6段において、原告は展覧会の予算額等を挙げてこの5月12日に執行計画を議論したかのように記述しているが、被告が原告に対して求めたのは今後の執行予定額を整理するよう指示したのであり、原告の推論に基づく意見の列記は認めることができないものである。」と言うが、そもそも被告は原告に「指示」できる立場ではなかった。だが、その問題は差し置くとしても、被告が原告に対して「今後の執行予定額を整理」しておいてもらいたい旨を依頼するに際しては、その理由を説明したはずであり、被告が述べた理由は原告が列記したとおりのことであった。決して原告が「推論」で列記したのではない(甲27号証)。念のために、原告の「準備書面」からその個所を引用すれば、原告が列記したのは次の2点であった。

① 現在、「写・文交響―写真家・綿引幸造の世界から」展(期間・平成18年4月29日~6月4日 以下、「綿引展」と略)、「デルス・ウザーラ―絵物語展」(期間・平成18年6月10日~7月9日)、「啄木展」(期間・平成18年7月22日~8月27日)についてはすでに予算が執行されているが、「啄木展」のところで予算を大幅に超過している。
②指定管理者制度の下では、予算は4年間の間に使い回ししてよいことになっていたが、やはり単年度計算でなくてはならないということに一昨日(5月10日)に決まった。そのため、特別企画展「啄木展」と「池澤夏樹のトポス」展(期間・平成18年10月14日~11月26日 以下、「池澤展」と略)とであとどれだけ予算が使えるかを出すために、急遽、他の展示の担当者たちに、支出予定の内訳を算定してもらわなければならない。
 
 被告がこの2点を否定したかった一つの理由は、
甲28号証によって証明される如く、大幅な予算超過の支出をしてしまったことであろう。もう一つの理由は、「やはり単年度計算でなくてはならないということに一昨日(5月10日)決まった。」(甲27号証参照)と言った事実を、原告に記録されてしまったからである。5月12日の時点で「一昨日」と言えば、5月10日に当たるが、「3「(3)平成18年5月10日(水曜日)」について」の個所で見てきたように、被告はこの日、原告が13日に早退することについて執拗にこだわっていた。被告は「一昨日(5月10日)決まった」と言ったわけだが、この日に会議はなかった。被告は5月10日、どのような会議において、「やはり単年度計算でなくてはならないということ」に決まったのか、説明ができなかったのであろう。
 もし被告が、あくまでも原告の記述は「推論」にすぎないと主張したいのならば、被告自身の証拠物に基づいて主張すべきである。
g)被告はこの日、以上の2点だけでなく、「〈企画展〉の財布は一つしかない。だから、原告が主担当の『人生を奏でる二組のデュオ』展の予算1,516,000円は、他の2つの展示『書房の余滴―中山周三旧蔵資料から』(期間・平成18年12月9日~24日 以下、「中山展」と略)と『聖と性、そして生―栗田和久写真コレクションから』(期間・平成19年1月13日~1月27日 以下、「栗田展」と略)とでシェアしなければならない」と主張していた(原告「準備書面」)。ところが、被告は今回の「準備書面(2)」でこの発言には言及していない。それは被告にとって都合の悪い発言だったからであろう。なぜなら、「二組のデュオ展」は財団法人北海道文学館が道から受け取る管理・運営資金(平成18年度は142,914,000)、いわゆる「道負担金」によって実施される展覧会である(
甲40号証)が、「中山展」と「栗田展」は財団法人北海道文学館の自主財源によって行われる財団企画事業だったからである(甲40号証甲42号証)。すなわち「財布は二つ」であり、経理の上では厳密に区別しなければならないのであるが、被告は「財布は一つ」という言い方で、道負担金と財団自主財源とを一緒にしてしまい、自分が主担当の「栗田展」のために、原告に「二組のデュオ展」の予算の一部を割かせようとしたのである。
h)また、被告は、
またこの後、実際に原告が作成した支出予定表は空欄の多い未整理なものであり、あまり役立つ資料ではなかった。」と言うが、被告は、原告がサーバーに載せた「展覧会支出予定内訳 【人生を奏でる二組のデュオ 展】」(甲29号証)の読み方を知らなかったのであろう。原告が出した「展覧会支出予定内訳 【人生を奏でる二組のデュオ 展】」の17項目のうち、空欄にしておいたのは「ポスター・ちらし」「チケット」「屋内外看板(サイン)」「設営経費」の4項目だけであった。展覧会事業に通じた者ならば直ちに分かるように、最もフレキシブルに支出予定額を調整できる項目なのである。被告は「あまり役立つ資料ではなかった」と言うが、役に立てられるか否かは被告の能力の問題である。
i)被告は自分が業務課の仕事にまで介入したことについて、
文学館の支出事務は財団の業務課が担当しており、被告はその事務処理に直接関与する立場にはないが、適切な予算執行を考慮し、先の見通しを持って事務事業を遂行することは、財団職員、駐在職員の如何を問わず組織人として当然のことであり、なんら法令に違反するものではない。」と弁解しているが、「組織人」とは如何なる概念か、曖昧である。公務員としての職務に励み分限をわきまえるという鉄則を無視し、他人の権利を侵し、組織に損失を与えて、責任を取ろうともしない人間が、被告の言う「組織人」とすれば、そのような人間が存在すべきであるとも、必要だとも考えられない。のみならず、被告の予算執行が「適切な予算執行を考慮」したものであったとはとうてい考えることができない。
j)被告は、
また、企画展『写真家・綿引幸造の世界から』のポスター増刷等、財団の決定した支出行為を挙げて、原告に対する『極めて悪質な業務妨害』であり、『実害を蒙った』と、被告の責に帰そうとするのは理にかなっておらず、まったく不当な主張である。」と言うが、これまた誤読あるいは意図的な歪曲と言うほかはない。第1に、被告が言う「ポスター増刷」の実態は、増刷ではなく、作り直しである。第2に、被告はなぜ綿引展のポスター作り直しが必要になったか、その原因を隠している。第3に、原告は、「ポスター増刷(実態は「作り直し」)等、財団の決定した支出行為」を挙げて、原告に対する「極めて悪質な業務妨害」だとは言っていない。
 原告は、北海道教育委員会の職員である被告が、4月11日、自分が副担当の「綿引幸造」展で、ポスター作成に失敗して、ポスター300枚の作り直しをしたこと(
甲30号証)、及び啄木展では5月12日の段階ですでに当初予算を大幅に超える支出を行うなどを挙げて、「『地方公務員法』第33条に違反し、『地方公務員法』第28条または第29条に問われるべき失敗を重ねた」(原告「準備書面」)と指摘したのである。
 さらに原告は、「もし年間の展覧会事業に割り当てられた予算の再配分が必要ならば、財団職員の副館長あるいは業務課長からその必要性と理由の説明がなされるべきである。ところが被告は、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱し、自らが再配分の権利を持っているかのごとき言い方で、原告の企画展に割り当てられた予算の支出に干渉した」(同前)事実を挙げて、「これは『北海道職員の公務員倫理に関する条例』第3条~第7条に違反する行為である」(同前)と主張したのである。
 その上で原告は、被告が敢えて倫理規程の違反を犯してでも原告の予算の一部を流用して自己の失敗を隠蔽し、自分の責任が問われることを回避しようとしたことを挙げて、「これは原告に対してなされた、『刑法』第233条、234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である」と主張し、「その結果原告は当初予算を切り詰め、展示構想を縮小するという不当な実害を蒙った」こと(同前)を挙げたのである。
 以上の如く、平成18年5月12日(金曜日)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

5「(6)平成18年7月11日(火曜日)・平成18年9月1日(金曜日)・平成18年9月8日(金曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段、第3段
 被告は、原告が財団法人北海道文学館の書式に則って業務課に提出した「復命書」の書き直しを強いた。被告は自己の行為を、「原告に対し指導したもの」と主張するが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述した如く、被告は原告を指導する立場にはなかった。それ故、「原告を指導する立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。
 被告は、
復命書は直属の部署(本件の場合は学芸班)を経て決裁権者(本件の場合は副館長)まで順次回付されるものであって、第2段末尾の業務課に提出したとあるのは正しくない。」というが、「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)が示すように、原告の直属の部署は業務課であり、「復命書」を業務課に提出したのはまさしく正当な手順を踏んだ行為であった。被告は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」を前提として、復命書は直属の部署(本件の場合は学芸班)を経て決裁権者(本件の場合は副館長)まで順次回付されるものであって、」と主張したものと思われるが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」で指摘した如く、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は内容的にも手続き的にも何ら合理性のない違法な文書であり、被告が言うが如き「学芸班」は架空なものでしかない。
 また、被告は、
この書き直しの指示については、被告に回付された時点で、業務課担当のN主査に照会し、その回答に沿って修正を指導したものである。」と言うが、これは被告の越権行為であるばかりでなく、言うところの内容も信憑性に乏しい。なぜなら、原告が、道駐在職員の1人である(そして前年の平成17年度より道立文学館に勤務している)S社会教育主事に「復命書」の草稿を見せた時は、S主事は「これでいいでしょう、ただ、釧路で2日目には資料調査したのですから、その事も一応書いておかれるといいでしょう」と言っていたし、その「復命書」が被告に赤ペンで修正されて戻ってきた時には、S主事はそれを見て「去年は、業務課では、出張先であった事はなるべく書いて下さいという方針でしたけれどね…」という意味の事を言い、不審気な様子だったからである(甲11号証参照)。
 北海道教育委員会の職員である被告は、如何なる権限に基づいて財団の業務課の業務に介入したのか。また、被告は如何なる日時に、如何なる点をN主査に照会し、如何なる回答を得たか。それらを証拠に基づいて明示すべきである。
(2)同第4段
 被告は、
ニセコへの主張(出張?)に係る復命書についても同様の指導を行ったものであり、なんらの違法性はない。」と言うが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」で指摘した如く、被告は原告を指導する立場にはなかった。それ故、「原告を指導する立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。
 以上の如く、平成18年7月11日(火曜日)・平成18年9月1日(金曜日)・平成18年9月8日(金曜日)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

6「(6)平成18年8月29日(火曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段
 ニセコ町の有島武郎記念会では当時、「有島武郎肉筆手紙展」という特別企画展(6月10日~9月3日)を行っており(
甲43号証)、原告は一度見学をしておきたいと考えていた。ところが原告は、「石川啄木」展の主担当・S社会教育主事から、啄木展が終わる8月27日頃、釧路在住の啄木研究家・K氏より借用した金田一京助の色紙を返却に行って欲しいと依頼された。――原告が「石川啄木」展にかかわることができたのは、この色紙貸借の1件だけだった。――原告がK氏に問い合わせたところ、9月1日(金)が都合がよいとの返事だったので、その日に訪れる約束をした。
 有島記念館の企画展の終わりも近づいており、原告は釧路出張とニセコ出張(日帰りの外勤)が続くのを避けたいと考え、ニセコ出張を8月30日に繰り上げることにし、8月29日の朝の打合せ会では以上の事情を説明し、職員の了解を得た(
甲31号証)。
 このことについて、被告は「突然の申し出」と言うが、そもそもS社会教育主事の依頼が「突然」だったのである。また、原告の行動が非難されるに当たらないことは、平原一良副館長も原告宛メールの中で認めている(
甲44号証)。
(2)同第3段
 被告は
「通常は出張予定日の1週間前までに上司に業務内容を告げて相談し、」と言うが、これは当時の財団法人北海道文学館の実情を知らない者の言い分である。通常、財団法人北海道文学館においては、原告が出張を希望する場合、原告が出張の概要を書いた「出張用務願」(特に書式は決まっていない)を業務課に提出し(甲45号証参照)、業務課がその内容を見て問題ないと判断すれば、「分かりました」と受理する。業務課では、財団法人北海道文学館の書式である「旅行命令(又は依頼)簿 兼旅費概算(又は清算)請求書」(甲12号証の2参照)に、原告が提出した「出張用務願」の内容に基づいて、N主査が日程と経路から旅費を算出し、「用務」「用務地」「日程」「旅費」等の欄に必要な事項を記入して、原告に確認を求める。原告は確認して捺印する(甲12号証を参照)。これで出張手続きは完了するのである。被告は「原告は事務の流れを知らなかった」という意味のことを言っているが、事務の流れを知らなかったのはこの被告側「準備書面(2)」を作文した人間である。
 ニセコ出張は、いわば日帰りの外勤であり、原告は7月8日、三岸好太郎美術館へ、同じく展覧会に関する予備調査・研究のために外勤に出向いた(
甲46号証)。この時、川崎業務課長はクレームをつけるようなことは何も言わなかった。8月29日の場合も、原告の予定を了解し、「それでは出張計画を出して下さい」と言った。被告がなぜ8月29日の朝の打合せ直後に原告の行動にこだわり、組織人論をぶち、「〈スタンドプレー〉と言われないようにしなさい」といきり立ったのか、原告には理解できない。
(3)同第4段、第5段
 被告は、再び
原告は資料調査のため有島記念館へ主張(出張?)する計画を前日の打合せ会において初めて申し立て」たことについて、「事務の円滑な流れを妨げることになる」と言い、原告に対する自己の行動を「原告に対し指導したもの」と主張するが、「(イー1)基本的な事実の確認」、「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で指摘した如く、被告は原告を指導する立場にはなかった。それ故、「原告を指導する立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。
 前段でも述べたごとく、出張の手続きを知らず、「事務の円滑な流れを妨げた」のは被告のほうであった。
 被告は、
これらの指導を行うにあたって、被告には、原告を誹謗中傷したり、名誉を毀損しようとの意図はなく、まして被告の業務を妨害しようとしたわけではないことは言うまでもない。」と言うが、問題は意図の有無ではなく、行為の有無である。被告は出張手続きを指導したかのごとく取り繕っているが、この日の被告は「手続きがどうのこうのという問題じゃない」、「組織で働く人間として、そもそもなっていない」、「スタンドプレーと言われないようにしなさい」と論点をずらしながら、原告に対する人格中傷の言葉を吐きかけ、原告がさらに「では、今回の出張に、私はこれから一体どういう手続きをとったら行けるのか」と質問を続けると、被告は結局、「行ってはいけないとは言っていない。行っていいんだ」という、投げ遣りで、無責任な言葉で怒鳴りつけた(原告「準備書面」)。これはとうてい「指導」とは言えず、「助言」とさえも言えない。傲慢で嗜虐的な嫌がらせと言うべきであろう。
 以上の如く、平成18年8月29日(金曜日)に原告が被告から被った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

7「(7)平成18年9月13日(水曜日)について
(1)「(a)被害の事実」の第1段
 財団法人北海道文学館において、出張手続きがどのように行われるかについては、既に述べておいたごとく、原告が出張を希望する場合、原告が「出張用務願」(特に書式は決まっていない)を業務課に提出し、業務課がその内容を見て問題ないと判断すれば、「分かりました」と受理する。業務課では、財団法人北海道文学館の書式である「旅行命令(又は依頼)簿 兼旅費概算(又は清算)請求書」に、原告が提出した出張概要に基づいて、N主査が日程と経路から旅費を算出し、「用務」「用務地」「日程」「旅費」等の欄に必要な事項を記入して、原告に確認を求める。原告は確認して捺印する(
甲12号証の2を参照)。これで出張手続きは完了するのである。また、原告の「準備書面」においても、「財団法人北海道文学館においては、通常、展覧会の主担当が高額の出張旅費を要さない日帰り程度の出張をする場合は、朝の打合せ会で事前にその旨を告げ、出席者が特に文学館業務に差し支えないと考え、了解するならば、それで手続きが済んだことになっていた。」と説明しておいた。被告は、これとは異なる手続きが行われていた事実をしめす証拠を挙げていない。
 原告が朝の打合せ会で「これからの動き(資料提供協力先)9月後半~12月前半」(
甲5号証)を配布したことを、被告は「これもまた突然の文書配布であり」と、原告の非常識を咎める言い方をしているが、原告は9月後半から12月前半にかけて「外勤・出張の必要が生じる可能性のあるところ」を紹介したにすぎない。朝の打合せ会の性格と、原告がその機会を利用せざるを得ない事情については、原告は「準備書面」で次のように述べておいた。

「道立文学館は、平成17年度まではほぼ毎月1回、学芸課の課内打合せ会議を開いたが、平成18年度に入って以来、そのような会議が持たれたこともなく、会議が持たれる予定も聞いたことがない。原告はやむを得ず朝の打合せ会で行動予定を告げることにしてきた。原告は被告の主張に納得できなかったので、同日午後1時頃、平原副館長に出会った時、展覧会の主担当者の動きは学芸主幹と業務課長が決めることなのかと尋ねてみた。すると副館長は、「そのようなことはない。どこへ行くかは原告が(出張予定の)先方と相談して決めることで、被告はそれを聴き、『こういうことで学芸の人間が動くからよろしく』と業務課に伝えるだけだ」と答え、「この件については、被告によく話をしておくから」と言った。/さらにこの日の午後3時頃、原告は念のために、朝の打合せ会の性格について、いつも司会をつとめるS社会教育主事に確かめてみた。主事の返事は、「どんなことを言っていいとかいけないとか、何も決まりや申し合わせはありません」ということだった。」

 被告はこれを読んだはずであるが、被告の言うところは、それについて何の反論にもなっていない。
 
(2)同第2段
 被告は、「この日の昼、階段ホールで被告が原告と話をしたことは認めるが、会話の文言やその意図するところは否認する。」と言うが、否認は証拠に基づいて行わなければならない。
 被告は、被告が階段ホールで原告に声をかけたことに関して、
旅費の執行予定については業務課担当者の了解が得られているかどうかという点であり、未調整であるのなら早急に打ち合わせの必要がだと伝えた」と説明している。だが被告は当日、そのようなことを一言も言わなかった。被告の言うことは後日の作文である。後日の作文でしかない証拠は、原告が配布したのは「これからの動き(資料提供協力先)9月後半~12月前半」(甲5号証)という、ごく大まかな「外勤・出張の必要が生じる可能性のあるところ」だったにもかかわらず、被告は「旅費の執行予定」と勘違いしていることからも明らかであろう。実際に被告が原告に向かって言ったのは、「どのような出張予定になっているか、ペーパーを提出せよ。原告がどう動くかは、川崎課長と協議して決める」という意味のことだった。だからこそ、「原告は被告の主張に納得できなかったので、同日午後1時頃、平原副館長に出会った時、展覧会の主担当者の動きは学芸主幹と業務課長が決めることなのかと尋ねてみた。すると副館長は、「そのようなことはない。どこへ行くかは原告が(出張予定の)先方と相談して決めることで、被告はそれを聴き、『こういうことで学芸の人間が動くからよろしく』と業務課に伝えるだけだ」と答え、「『この件については、被告によく話をしておくから』と言った。」ということが生じたのである。被告がもし本当に、「旅費の執行予定については業務課担当者の了解が得られているかどうかという点であり、未調整であるのなら早急に打ち合わせの必要が打ち合わせが必要だと伝えた」と主張するのであるならば、被告の記録に基づいて主張すべきである。
 また、被告はこの個所において、自分の行為を原告に対する「指導」として自己正当化しているが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述した如く、被告は原告を指導する立場にはなかった。それ故、「原告を指導する立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。
 また、被告は
特に本件は、複数の道外出張を含むため、原告の担当する『二組のデュオ展』の事業費全般に関わる案件であり、業務課長や予算担当者との事前協議が必須である。」と言うが、「二組のデュオ展」には年度当初から1,516,000円の予算がついていた(甲40号証)。その範囲内で原告が予算を執行するには、「6「(6)平成18年8月29日(火曜日)」について」の「(2)同第3段」で述べた手続きで十分なのである。
 また、原告が「二組のデュオ展」を構想するにあたって、道外在住者や道外の文学館との協力を考えているということは、平成18年3月29日の課内打合せの中で確認済みであった(
甲47号証の1・2)。被告を除く全ての学芸職員、および平原学芸副館長(当時)がこの打合せに出席していた。
 それに、被告が言う
「予算担当者」が誰を指すか不明である。財団法人北海道文学館の組織の中にはそのような名称のポストは存在しない。もし被告が自分を「予算担当者」と考えていたとすれば、財団業務課の領域に踏み込んだ越権行為であるだけでなく、身分の僭称である。
(3)同第3段、第4段
 問題は被告が原告に対して如何なる「理解を求めた」かではなく、如何なる行為を行ったかである。被告が言う「組織人」は、「公務員としての職務に励み分限をわきまえるという鉄則を無視し、他人の権利を侵し、組織に損失を与えて、責任を取ろうとしない人間」の意味にしか取れないことは、「4「(4)平成18年5月12日(金曜日)」について」の「(2)同第4段、第5段、第6段」の個所で指摘しておいた。
 また、被告は
「職員用の閉ざされた階段ホールでのこの日の立ち話が、」と言うが、主に職員利用する階段であっても、業者も利用すれば、文学館の内部構造に通じている理事や評議員も利用する。「閉ざされた階段ホール」というような空間はありえない。
 以上の如く、平成18年9月13日(水曜日)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

8「(8)平成18年9月26日(火曜日)について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段、第3段、第4段
 原告は9月26日(火)の朝の打合せ会で、被告と川崎業務課長に、「出張予定(亀井)」(
甲32号証の2)を渡し、朝の打合せ会の終了後に「二組のデュオ展」の準備に関係する今後の出張予定とおおよその足取りについて協議したい旨の説明をしようとした。ところが、被告がそれを遮って、「あ、そのことについては、このあと打合せをやるから」と言った。この日の朝の打合せ会の出席者は、原告と被告と川崎業務課長とO司書の4名だけだったので、朝の打合せ会が簡単に終わった後、原告と被告と川崎業務課長の3人は事務室のソファーの所で話し合った。被告は、またしても突然に配布した」と言うが、協議のための資料を被告と川崎業務課長に手交したのである。また、「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)を見れば、9月13日に配布し、職員の了解を得た「これからの動き」(甲5号証)における「外勤・出張の必要が生じる可能性のあるところ」と「これからの連絡次第により出張の可能性があるところ」をより具体的に説明したものであることを、被告は直ちに理解できたはずである。その意味で原告は、全く新しい、別な用件を「突然」に持ち出したわけではない。
 被告は5月12日(金)、原告に「展覧会支出予定内訳」(
甲29号証)をサーバーの所定の場所にアップしておくように依頼し、原告がそれに応じたにもかかわらず、被告は「原告が作成した支出予定表は空欄の多い未整理なもので、あまり役に立つ資料ではなかった。」と言い、きちんと読まなかった不誠実を自ら暴露している。丁寧に読めば9月26日の「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)の出張予定費が、「展覧会支出予定内訳」(甲29号証)の「出張費(調査等)」より遥かに抑えたものになっていたことに気がついたはずである。
 被告は、原告のそういう誠意と努力を理解しようとせず、原告の「出張予定(亀井)」に関する説明が終わると、「それじゃあ、あとで、自分の展覧会についてどのくらいの支出を考えているか、ちょっとさ、まとめて出して」と話題を展覧会のほうにずらし、原告が予め作っておいた「展覧会支出予定」(
甲32号証の3)を見せようとすると、「それは、打ち合わせの後でしょう!」と訳の分からないことを言い出した。
 被告は
「しかし、前項7の9月13日以降、この事案について業務課との間で協議がなされていなかったため、原告の計画した出張予定を展覧会事業費の総体の中で実現可能かについて検討したものである。」と言うが、それは後日の言い逃れで会って、この日の被告の発言はそのようなものではない。次から次へと原告に辻妻の合わないことを言い立てて、原告が戸惑っていると、あたかも原告が呑み込みの悪い人間であるかのごとくに怒鳴り立てた(原告「準備書面」)。これはとうてい話し合いによって合意を作り出そうと心掛ける人間に態度とは言えない。そもそも「展覧会事業費の総体」を狂わせてしまったのは、「石川啄木展」に介入してS社会教育主事と大幅な予算超過をしてしまった被告自身である。
 川崎業務課長が「まあ、この範囲内(150万円以内)で収まるなら、これでいいでしょう」と言ったのは、原告の「出張予定(亀井)」が当初予算(150万円強)の範囲に収まるだろうと見込まれたからにほかならない。それだけでなく、その場の雰囲気と発話のニュアンスから見て、川崎業務課長の言葉は明らかに、被告が自分の責任(「石川啄木展」の予算超過)を考えず、原告の予算にまで手を出そうとする越権行為をたしなめるものだった。被告は今に至るまで、そのことに思い当っていないらしい。
 以上の如く、平成18年9月26日(火)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

9「(9)平成18年10月3日(火曜日)について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段、第3段
 原告は10月3日の朝の打合せ会で、「〈人生を奏でる二組のデュオ展〉・出張予定(10月)」(
甲7号証)を配布し、職員の了解を得た。この予定表は、9月13日(水)に配布し、職員の了解を得た「これからの動き(資料提供協力先)9月後半~12月前半」(甲5号証)を具体化したものであった。準備が具体化している状況を他の職員に知っておいてもらうのは当然かつ適正な行為である。出張の手続きについては、既に述べたごとく、財団法人北海道文学館においては、原告が出張を希望する場合、原告が「出張用務願」(特に書式は決まっていない)を業務課に提出し、業務課がその内容を見て問題ないと判断すれば、「分かりました」と受理する。業務課では、財団法人北海道文学館の書式である「旅行命令(又は依頼)簿 兼旅費概算(又は清算)請求書」に、原告が提出した出張概要に基づいて、N主査が日程と経路から旅費を算出し、「用務」「用務地」「日程」「旅費」等の欄に必要な事項を記入して、原告に確認を求める。原告は確認して捺印する(甲12号証の2を参照)。これで出張手続きは完了するのである。被告がそれとは異なる手続きがあったと主張するならば、主張を裏づける証拠を提出すべきである。
 被告は、
この日配布された文書は、具体的な日程が決定事項として記載されたものであったが、事前に同僚職員や業務責任者との日程調整を行い、支出担当者の了解を経た上で上司に承認を求めるべきであって、原告の行動は円滑な事務執行を考慮したものではなかった。」と言うが、支離滅裂である。第一に、「〈人生を奏でる二組のデュオ展〉・出張予定(10月)」は「予定」であって、「決定」ではない。もし「決定」ならば、原告は上記の手続きに入っている。第二に、そもそも相手方(資料の閲覧や借用に関する)の時間的な都合を確かめずに、「事前に同僚職員や業務責任者との日程調整を行う」などという手順はありえない。原告は相手方の都合を確かめた上で、「予定」を立て、この日職員に紹介し、日程上問題ないとして、了解を得たのである。このように順序立てて説明しただけでも、被告の言う手続きがいかに非実際的で、ナンセンスなものであるかが分かるだろう。被告の非実際的で、空論的な手続き論は、被告が原告の仕事にケチをつけ、嫌がらせを続けてきた事実を誤魔化すため、「準備書面(2)」の段階で思いついた作文にすぎないことを如実に物語っている。そして第三に、原告の上司は川崎業務課長であって、被告ではない。
 原告の行動について言えば、原告の行為は9月13日の時点で確認した範囲を越えてはいない。もう一度確認しておけば、
「道立文学館は、平成17年度まではほぼ毎月1回、学芸課の課内打合せ会議を開いたが、平成18年度に入って以来、そのような会議が持たれたこともなく、会議が持たれる予定も聞いたことがない。原告はやむを得ず朝の打合せ会で行動予定を告げることにしてきた。原告は被告の主張に納得できなかったので、同日午後1時頃、平原副館長に出会った時、展覧会の主担当者の動きは学芸主幹と業務課長が決めることなのかと尋ねてみた。すると副館長は、『そのようなことはない。どこへ行くかは原告が(出張予定の)先方と相談して決めることで、被告はそれを聴き、『こういうことで学芸の人間が動くからよろしく』と業務課に伝えるだけだ』と答え、『この件については、被告によく話をしておくから』と言った。/さらにこの日の午後3時頃、原告は念のために、朝の打合せ会の性格について、いつも司会をつとめるS社会教育主事に確かめてみた。主事の返事は、『どんなことを言っていいとかいけないとか、何も決まりや申し合わせはありません』ということだった。」(原告「準備書面」)。
 それにもかかわらず、被告は繰り返し、現実に行われていたことを証明できない手続き論を述べ立てている。それは平原副館長が被告に「よく話をして」おかなかったか、あるいは被告がうわの空で聞いていたかのいずれかであって、原告の問題ではない。
 また、被告は、この個所において、自分を「事実上の上司」と呼び、原告に対する干渉行為を「指導」と正当化しようとしているが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述した如く、被告は原告を指導する立場にはなかった。それ故、「原告を指導する立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。
 のみならず、被告はこの日、原告に対して、朝の打合せ会が終わった直後、同じ事務室内において、すなわち他の職員が見ている所で、いきなり「なぜ、先に話し合いをしないの」、「何度同じことを言わせるの」、「こんなところで予定を言って、“よろしいでしょうか”って言ったって、誰も、いいなんて言えないんだよ!」と怒鳴り始めた。原告は、「誰も何もおっしゃらないので、そのまま説明だけさせてもらったのですが」と述べたが、被告は「あんた、みんなに、いいって言って欲しいんでしょう。だったら、やることちゃんとやんなさい!」と言いつのった。原告が、「ならば、話し合いというのは、いつしたらいいんでしょうか?」と尋ねると、被告は「いつでもいいんだよ!」と原告を怒鳴りつけた(原告「準備書面」)。これはとうてい「指導」と言えるものではなく、「助言」とさえも言えない。相手の人格を認めない、嗜虐的な中傷と言うべきであろう。
 被告は
「会話の文言やその意図するところは否認する。」と言うが、根拠ある材料をもって会話を再現することはしなかった。「否認する」というだけでは、「否認」の効力を持たない。
 以上の如く、平成18年10月3日(火)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

10「(10)平成18年10月7日(土曜日)について
(1)「(a)被害の事実」の第1段
 被告は、
原告からの伝聞として、明治大学から紹介状を求められたことは認める。」と言うが、文意が不明である。誰が明治大学から紹介状を求められたのか。「原告から伝聞した」とは、どういうことなのか。考えられる、唯一まともな文章は、「原告が明治大学から紹介状求められたことを被告は伝聞した。」であろうが、被告は「伝聞」したのではない。原告とN主査の会話を小耳に挟んで口を入れたのである。
(2)同第2段
 明治大学図書館が求めたのは「紹介状」と「身分証明書」であり、それを本人が持参することだった(
甲33号証)。原告は業務課に属し、原告の紹介状は業務課で作成する。原告はN主査に明治大学からの依頼について説明し、「紹介状をよろしくお願いします」と言った。だが、平成18年度の4月から財団に勤務し、まだ半年ほどだったN主査は一瞬ためらい、「紹介状という書式があったかしら」と言いさした。そこへすかさず被告が口を挟んだのである。被告は、「N主査が自分の所管事務に直接関わらない本件について相談されたために困惑している様子だったため、」と言うが、「紹介状」の発行はN主査の所管事務である。N主査は自分の所管事務に関わらないことを相談されて「困惑」していたわけではない。被告は「紹介状」云々を小耳に挟んで、「職員の派遣願い」と勘違いした。勘違いをしたこと自体を原告は咎めるつもりはないが、被告は自分の勘違いに気がついたら、固執すべきでなかった。
(3)第3段(「同第3段」?)
 被告が一般的な紹介状の書式について十分に承知していたか否かは本訴訟に直接かかわらない故、原告の関知するところではない。
(4)第4段、第5段、第6段(「同第4段、第5段、第6段」?)
 原告は明治大学図書館だけでなく、国立国会図書館、鎌倉文学館での調査を予定していた(
甲7号証を参照)。また原告は、12月2日には市立小樽文学館と市立小樽美術館の両方に資料調査に行き、また翌年1月には北海道大学附属図書館に外勤に行き、資料(写真画像)の借用について打合せをしている(甲48号証の1・2・3)。被告は、財団の職員が職務上、他の施設・機関等に出向き、資料の貸与や調査等を行う場合には、財団の代表者からあらかじめ相手方施設等に対し、職員を派遣するのでご協力願いたい旨の文書によって依頼するのが通例であり、」と言うが、北海道大学図書館等に出かける際に、業務課から、予め「職員の派遣願い」を送るよう助言を受けることはなかった。10月19日から21日までの出張においても、明治大学図書館だけでなく、国立国会図書館、鎌倉文学館にも「職員の派遣願い」を出すべきだという発言は、業務課からはなく、被告本人からもなかった。被告の言うところは一貫性がなく、その場かぎりの理屈に終始している。
 また、被告は、
原告の資料調査は企画展準備のための出張であり、公務(?)として執行されるものである。したがって、紹介状を携えて個人的に調査するのではなく、」と言うが、現在の大学図書館の状況を知らない者の言い草であって、大学の図書館は紹介状を持たない個人に対しても閲覧や貸出の便宜をはかってくれる。所属する職場の責任者の紹介状を携えていれば、それは個人としてではなく、公務(財団の仕事は、正しくは「業務」と呼ぶべきだろう)として訪れたことを意味する。その「紹介状」を持参すればよい、と言う明治大学図書館に対して――しかも国立国会図書館や鎌倉文学館を無視して――更に「職員の派遣願い」を事前に送っておくべきだという被告の主張は、無駄な書類作りを原告に強いる行為だった。
 また、被告は、原告が財団保有の文書(
甲10号証の3)を参考にして作成し、業務課によって添削してもらった文書(甲10号証の5)について、瑣末な文言の書き換えを強制した(甲10号証の1)。これは駐在道職員の「文学館グループ」に属する被告の越権行為である。被告はそのことについて、またしても自己を「事実上の上司」と呼び、原告に対する嫌がらせに等しい干渉行為を「指導」として正当化しようとしているが、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で指摘した如く、被告は原告を指導する立場にはなかった。それ故、「原告を指導する立場」を前提とした、被告の自己正当化の主張も何ら正当な根拠を持たない。
 被告は、瑣末な文言の書き換えを強制したことについて、
財団では、文書の作成に当たっては、「分かりやすく、親しみのある表現」によることとしており、事実上の上司である被告の上記のような指導は適切かつ必要な行為であり、」と述べ立てている。だが一方、被告は「原告からの伝聞として、明治大学から紹介状を求められたことは認める。」というような主述の整わない文章を書き、財団の業務を「公務」と呼び、後に改めて指摘するが、本件において作成された職員派遣の協力要請文書は、調査日時が10月20日であったため速やかに施行されねばならなかった。」という、これまた意味不明な文章を書いている。これらの文章のどこが「分かりやすく、親しみのある表現」なのか。再考を促したいところである。
 また、被告は
本件の決定書の作成における「合議」を「主管」に修整した点については、学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告を起案者として、起案文書を回付するよう財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領に基づくものであり、年度内のすべての起案文書が同様の体裁となっている。」と言うが、もし被告が言う「学芸班」が「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)における「学芸班」を意味するものであるならば、そのような組織は根拠を持たない、架空なものでしかない。なぜなら「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」なる文書自体が何ら合理性も正当性を持たないからであり、そのことは「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」で明らかにしておいた。被告自身による「学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告」という自己規定も根拠が曖昧なことは、「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で明らかにしておいた。被告は自己の行為を正当化するために、財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領」なるものを持ち出しているが、そのような「要領」を明記した「合意書」を被告は証拠物として提出していない。すなわち証拠によって裏づけられていない。
 ところが先の「職員の派遣願い」について、被告が原告に書き換えを強いた箇所を見ると、「業務課学芸班研究員 亀井志乃」を「当館学芸班研究員 亀井志乃」に直させ、「(業務課)」を「(学芸班)」に直させている。それほど被告は、架空の「学芸班」に執着していたのである。
 また、被告は、
これらの指導にあたって、被告は原告の業務を妨害しようとする意図はなく、また原告の名誉や人格権を侵害する行為は一切行っていない。」と言うが、「職員の派遣願い」という不必要な文書だけでなく、それに添付する「開催要項」の作成までも強いること自体がすでに業務妨害なのである。また原告が作成し、業務課の目を通して問題ないとされた文書について、高圧的、嘲笑的な言辞をもって書き直しを強いることは原告の名誉や人格権を侵害する行為以外の何物でもない。
(5)同第7段、第8段
 被告は、
本件において作成された職員派遣の協力要請文書は、調査日時が10月20日であったため速やかに施行されねばならなかった。」と言うが、原告は「紹介状」を10月20日に持参すればよかった。明治大学図書館もそれを求めている。原告が持参するのであれば、10月10日以降に作成しても十分に間に合う。そもそも被告の「……協力要請文書は、……速やかに施行されねばならなかった。」という文章は、文意が曖昧である。仮に「施行」は「実行」の誤記だったと考えてもまだ文意が通らず、好意的に考えれば「送付」と書くつもりだったのではないかと推定できるが、なぜ10月7日に急遽その文書を作成しなければならなかったのか、理由が分からない。
 多分その理由は、被告がこの日は休みだったにもかかわらず、原告の退勤間際にわざわざ文学館へ顔を出し、原告を5時半頃まで足止めしたことを正当化したかったのであろう。被告はこの日、原告を足止めして、高圧的な態度で協力要請文書の作成を強制し、威嚇的な口調で原告を文書郵送の命令に従わせた。被告は、
ゆえに、被告は文書作成の趣旨を十分に説明し、原告の理解を得るように努めたところであり、そのため若干原告の勤務時間を超過することになったとはいえ、そのことをとらえて『原告の自由を拘束しする(する?)憲法違反の不法行為である』と主張するのは常軌を逸した主張と言わざるをえない。」と言うが、退勤後に用事や約束を持つ人間にとって週末5時過ぎの30分は決して「若干」ではない。それに加えて、被告は、原告による「被害の事実」の記述とそれに対する「違法性」の指摘に反論できないため、常軌を逸した主張である」と論点を逸らしている。だが、当日は休みであった被告が、原告の退勤時を狙ったとしか考えられない時間に顔を出して、30分も足止めし、自分の見当違いな主張を強制し、原告が折れるまで帰そうとしなかった。この被告の行動の意図は不可解であるが、被告が原告に行った行為が人権侵害の行動であることは論を俟たない。しかも被告は自分の人権侵害の行動は棚に上げ、原告の主張に対しては「常軌を逸した主張」と、原告の人格を誹謗する言葉を吐きかけている。これは裁判の過程において、被告と被告代理人によって行われた、原告に対する人格権侵害の行為である。
 以上の如く、平成18年10月7日(土)に原告が被告から被った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。のみならず、裁判の過程で行われた、被告と被告代理人の原告に対する人格権侵害の違法性も追加されなければならない。

11「(11-1)平成18年10月28日(土曜日)について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第1段
 被告は
「この日、閲覧室において被告が原告に文学碑データベースの話をしたことは事実として認めるが、発言の細部については否認する。」と言うが、正確ではない。正しくは「被告は5月2日(火)に、原告に、ケータイ・フォトコンテストによる文学碑の画像収集について話をした。だがこの日は、その事実を、文学碑データベース充実の話にすり替えて原告を非難した。そのことを事実として認める。」と言うべきである。また被告は、発言の細部については否認する。」と主張しているが、それならば、被告側の証拠に基づいて「細部」を再現すべきである。
 また、被告は、先には
「閲覧室において被告が原告に文学碑データベースの話をした」と言い、次には「この時の被告の発言は、5月2日の打ち合わせにおいて原告が担当者となって一般公募による写真収集の企画案をまとめることになっていた、とのべたものであり、」と述べている。これはフォト・コンテストの企画案のことであろう。ところが、次に被告は、被告は、5月2日から半年近く経過しても原告から検討の進捗状況について何らの報告もなかったことや、間もなく降雪により文学碑が埋もれてしまうことなどから、この日原告に対し、企画検討の進捗状況を問い質したものである。」と述べている。これらの発話内容は事実に反し、かつ前後矛盾している。以下その点を列挙する。
a)5月2日の話し合いに関して、「2「(2)平成18年5月2日(火曜日)」について」の「(2)同第4段」で指摘したごとく、原告が平原学芸副館長(当時)と被告から受けた要望は、「(画像を集める)アイデアを出してほしい」ということだけであった。何日までにアイデアを出すかについては、何の話もなかった(
甲17号証)。ところが、10月28日に被告が原告に問い詰めたのは、「やってないって、どういうこと。文学碑のデータベースを充実させるのはあんたの仕事でしょ。どうするの? もう雪降っちゃうよ。」ということであった(原告「準備書面」)。この言い方は、原告が文学碑の写真を撮りに行く、あるいは雪が降る前に市民から文学碑の写真を集めることを急き立てる言葉だった、と受け取ることができるが、被告はそのように原告を急き立てながら、しかし「準備書面(2)」においては、この時の被告の発言は、5月2日の打ち合わせにおいて原告が担当者となって一般公募による写真収集の企画案をまとめることになっていた、とのべたものであり、」と、写真収集の企画案にすり替えてしまったのである。
b)被告は、「2「(2)平成18年5月2日(火曜日)」について」の「(2)同第4段」では、
その打ち合わせの際、実施に当たっては引き続き検討をしなければならないいろいろな課題があることが明らかとなったので、引き続き原告にその解決に向けどのようなことが必要となるかを継続して検討し企画書をまとめるよう、原告に対して平原学芸副館長とともに指示した。」と書いた。しかし原告は当該個所の反論において、そのような事実はなかったことを明らかにしておいた。つまり被告は虚偽の記述をしていたわけだが、その虚偽の記述自体の中にも矛盾が見られる。なぜなら被告は、5月2日に関する個所では、いろいろな課題が明らかになったので、引き続き原告にその解決に向けどのようなことが必要となるかを継続して検討し企画書をまとめるよう、原告に対して」と書き、しかし10月28日の個所では、一般公募による写真収集の企画案をまとめることになっていた。」と書いている。先の「企画書」と、ここに言う「企画案」とは明らかに性格が異なる。前者の「企画書」は課題解決のためのものであり、後者の「企画案」は写真収集の方法に関するものだからである。この矛盾によって、被告の主張が虚偽であることが一そう明らかとなったと言えるだろう。
c)仮に5月2日の「企画書」、又は10月28日「企画案」を作ることが、原告と被告及び平原副館長との間で合意されていたとしても、それは被告の
「間もなく降雪により文学碑が埋もれてしまうことなどから、この日原告に対し、企画検討の進捗状況を問い質したものである。」という説明と矛盾する。10月28日に被告が原告に主張したのは、「原告が文学碑の写真を撮ってつけ加えてゆくことが決まっていた」ことだったからである(甲17号証)。「原告が文学碑の写真を撮ってつけ加えてゆくことが決まっていた」ということ自体が被告の虚偽なのであるが、原告が「企画書」あるいは「企画案」を作成することと、原告が写真を撮りに行くこととは作業の性質が異なる。被告が虚偽に虚偽を重ねた矛盾が、ここに露呈してしまったと言うべきである。
 また、被告は、
文学館の学芸班の責任者である被告にとって、文学碑データベースの充実はできるだけ早期に解決を要する懸案事項であり、神谷忠孝理事長や毛利館長にも原告による業務着手を報告してあったことから、その進捗状況を原告に問い合わせたものであり、適切かつ当然の行為である。」と言うが、この個所も虚偽に満ちている。その点も以下に列挙する。
d)「2「(2)平成18年5月2日(火曜日)」について」の「(2)同第8段」で指摘した如く、被告は、
稼働したばかりの文学碑データベースについては毛利正彦館長(当時)からもその充実を被告は指示されていたので、事前に館長、副館長ら財団幹部職員とも協議し、更新業務の担当を原告に継続させるとの了解を得た上で、」と言うが、被告が館長から指示を受けた日時や場面が明記されていない。また、館長、副館長ら財団幹部職員と協議した日時や場面も明記されていない。原告は、被告の原告に対する度重なる高圧的な態度をアピールした、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(平成18年10月31日(火)付け。甲17号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、川崎業務課長、及び被告本人に渡し、11月10日(金)、毛利館長、平原副館長と話し合いを持ったが、毛利館長は(被告が)事前に館長、副館長ら財団幹部職員とも協議し、更新業務の担当を原告に継続させるとの了解を得た」という意味のことは全く口にしなかった。平原副館長も口にしなかった。この話し合いの結果を、原告は「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(平成18年11月14日(火)付。甲18号証)にまとめた。その記述のついても、毛利館長や平原副館長から訂正の要求はなかった。神谷理事長は原告のアピールについては沈黙を守ったままだった。この点から考えても、被告の「事前に館長、副館長ら財団幹部職員とも協議し、更新業務の担当を原告に継続させるとの了解を得た上で、」という主張の信憑性は極めて乏しい。
e)被告は自らを文学館の学芸班の責任者と呼んでいるが、被告が言う「学芸班」は規程上の根拠を持たない架空なものでしかないことは、「(イー1)基本的な事実の確認」「(イー2)被告の根拠なき自己主張」「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」及び「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で詳述しておいた。
f)被告は原告に対する自分の態度を「適切かつ当然の行為」と主張するが、被告の原告に対する態度は根拠なき非難に終始し、公務員が市民に対する態度としては不適切かつ不当なものであった。
g)被告は「どうするの。理事長も館長も、あんたがやると思ってるよ」と原告を責め、原告が「わかりました。では、私が理事長と館長にご説明します」と自分の意志を表明したところ、被告は「なぜ、あんたが理事長や館長に説明しなきゃなんないの」と言い、原告の意志を阻んだ。もし、被告の
「文学碑データベースの充実はできるだけ早期に解決を要する懸案事項であり、神谷忠孝理事長や毛利館長にも原告による業務着手を報告してあった」という主張が事実であったならば、原告が神谷理事長や毛利館長に事情説明をするのを阻む理由はないはずである。なぜなら、もし被告の言うことが正しければ、理事長や館長が被告の言う通りのことを原告に伝え、原告は納得せざるをえなかったはずだからである。だが被告は慌てて、原告が理事長や館長に会うこと阻んだ。ということはすなわち、被告の「どうするの。理事長も館長も、あんたがやると思ってるよ」という言葉が虚言であり、実際には理事長や館長には何も伝えていなかったからにほかならない。
h)原告が、もし理事長や館長が原告の業務について誤解しているならば、誤解を解いて自己の名誉を護らなければならないと考え、行動を起こすことは、日本国憲法に保障された権利であり、第12条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力にとって、これを保持しなければならない。」とある。被告は、権利を護るための原告の努力を阻んだのである。それにもかかわらず、
これらの(被告の)行為が名誉毀損や人格権の侵害だという原告の主張は認められない。」と開き直っている。恐るべきコンプライアンスの欠如と言うほかはない。
 以上の如く、平成18年10月28日(土)に原告が被告から被った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

12「(11-2)平成18年10月28日(土曜日)(同日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段
 被告が、1階の来館者入口に近く、いつでも一般の来観者が入って来る可能性のある、入口が開け放たれていた閲覧室で、原告に対して、5月2日の事実を取り違えた内容の言いがかりをつけた。原告は被告の勘違いを訂正しようとしたが、被告が自分の取り違えに固執したため、来観者が来る可能性、及び話を聞かれる可能性のある空間で、1対1の言い合いを続けるのは好ましくないと考え、「もう昼にもなるので、事務室へ行ってお話をうかがいましょう」と言ってカウンターを立った。このことについて、被告は、
この時の原告の態度は被告との話を一方的に打ち切り、勝手に閲覧室を退出した」と言うが、事実に反する。被告は原告の非礼な態度を注意しようとしたが、原告の姿はすでになく、また、論点がずれると感じ気持ちを押しとどめたものである。」と被告は言うが、これもまた事実に反する。被告は階段を数段離れた位置を保ちつつ、原告の後に随いてきた。「原告の姿はすでになく、」などということはあり得ない。そもそも「被告は原告の非礼な態度を注意しようとしたが、原告の姿はすでになく、また、論点がずれると感じ気持ちを押しとどめたものである。」という言い方は文意明瞭とは言い難い。「論点がずれると感じ」は「非礼な態度を注意しようとしたが」を受け、「気持ちを押しとどめた」は「非礼な態度を注意しようとした気持ちを……」と受けるらしい。それならば、それなりの意味は通ずるが、しかしこれは文字通り論点のすり替えであって、もともと非礼だったのは被告のほうである。だが、被告にはその反省がなく、自分は原告の非礼を咎める権利を持っていると勝手に思い込んでいる。そういう被告の思い上がりが、人権侵害を惹き起したのである。
 被告は、
第4段末尾の『午後の勤務のために事務室を出た』時の状況も同様に勝手に退室していったものである。」と言うが、原告には閲覧室勤務があった。原告が平原副館長や川崎業務課長の立ち会いのもとで事情説明をしようとしたところ、被告はまたしても原告の行動を阻み、自分が学芸班を管理しているのだと、何ら合理的、合法的な裏づけのない自己主張を始めた。原告が被告の主張を音声記録に残そうと録音機を取り出したところ、被告は急に言葉少なになり、原告の性格を非難する言葉をぼそぼそと呟き、しかも最後は自分から話を打ち切っている(甲49号証。マイクロカセットテープレコーダーによる録音記録)。そうこうしているうちに昼休みも終わり近くなり、原告は閲覧室勤務にもどった。被告が言うように「勝手に退室した」わけではない。
(2)同第2段、第3段、第4段
 被告は、
原告は今般の訴状及び準備書面において、被告の発言を「 」で示し、いかにも被告がそのとおり発言したかのように主張し、」と言うが、原告はすでに「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(平成18年10月31日(火)付。甲17号証)の時点で、被告の発話を引用している。その引用を被告が不正確だと考えたのならば、原告に訂正を申し込む機会はあったはずである。また、今般の被告側「準備書面(2)」において、被告は自分の証拠に基づいて自己の発話を再現する機会があったはずだが、被告はそれを怠っている。それを怠って、原告の引用が不正確であるかのごとく主張するのは、適切な反論とは言えない。
 被告は更に、
あるいはまた、書面の作成において原告自ら振り仮名を振って『アブノーマル』と読ませるなど作為的な文言を列記し、被告の発言を歪めている。併せて、そのことによって、被告の発言を『傲慢な口調で』『恫喝的な言葉を発した』とか『被告の性格を誹謗する言葉を吐きかけた』などと一方的、感情的に原告が受け止めていることを、正当化しようとしている。」と、原告の書き方を批判している。
 しかし、「普通じゃない」という言葉が、「慣例的に行われているのではない、例外的である」という意味に使われる場合にはunusual を使い、「人間の言動が正常ではない、異常である」という意味で使われる場合にはabnormalを使うことは、それこそ普通の(usual)用法である。被告は原告に向かって「あんたひどいね。ひどい」「あんた、普通じゃない」という言葉を吐いた。その「普通じゃない」という発話にアブノーマルと振り仮名したのは、被告の発話がunusual の意味ではなく、abnormalの意味だったことを明確にするためであり、よく行われる(usual)ところの正常な(normal)表現行為である。
 被告は、被告側「準備書面(2)」の記述において、既に2度、原告の主張に関して
「常軌を逸した」という形容句を用いている。これもまた、「世間で普通の行われている範囲からはずれた」、「エキセントリックな」、「アブノーマルな」の意味であり、被告は「準備書面(2)」においてさえ、このように原告の人格を誹謗・中傷する言葉を発してきた。被告の原告に対する、そのように傲慢な態度が、10月28日の事務室における発言にも露呈していたと見るべきであろう。
 また、被告は、
しかし、被告は、同人から指導を受けた際の原告のこれまでの態度、姿勢などから、冷静に対応するよう努めていたところであり、むしろ、原告は『私が理事長や館長に説明します』とか『私は、この問題について、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しました』などと極めて感情的、反抗的な態度に終始していたところであり、」と主張するが、被告の原告に接する言動は「指導」どころか、「助言」とさえも言えない、高圧的、侮蔑的な態度であった。常に冷静に対応しようと努めてきたのは原告の方であった。1対1の会話では水掛け論となってしまい、埒が明かないと考えたからこそ、原告は「では、私が理事長と館長にご説明します」と言ったのである。原告が録音機を取り出したのは、すでに午後の閲覧室勤務の時間が迫っており、後日ケータイ・フォトコンテストをめぐる5月2日の話し合いの問題が再燃する場合に備えて、原告と被告のそれぞれの主張を音声記録にとどめておこうと録音機を出したのである。ところが、この場面を問題にする被告は、原告の発話を正確に引用することさえもできず、原告の言葉の意味を取り違えている。原告は、自分自身の言葉を記録し、後々までも責任を持つつもりだ、という意味で、「私は、この問題については、これからも追及するつもりだ。そのことは、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しましたから」と言ったのである。
 また、被告は、
まして自分自身でサボタージュと言い出しておきながら、それを『いわれのない名誉毀損』だとする原告の主張は、組織の一員として業務を進めるよう原告に対して指導した被告の言葉を、雇用不安を煽る悪質な脅迫行為だとする原告の主張は、断じて認められない。」と言うが、被告が言う「組織の一員」が、「公務員としての職務に励み分限をわきまえるという鉄則を無視し、他人の権利を侵し、組織に損失を与えて、責任を取ろうとしない人間の一人」の意味にしか取れないことは既に指摘しておいた。被告が言う「指導」がいかにまやかしであるかについても、すでに指摘しておいた。被告は抽象的な組織論や、架空の立場による「指導」論にすり替えることなく、自分の記録に基づいて10月28日に事務室で交わされた原告と被告との応酬を再現すべきである。その上で、原告の「北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託として働く一市民の原告に対して、あたかも自分が原告の管理者であるかのように主張した。/すなわち、被告は、自分が公務員でありながら、同時に民間の財団法人の管理職に就いていることを原告が受け入れ、原告が自らを部下の立場に置くように強要した。」(原告「準備書面」)という指摘、及び「北海道教育委員会の公務員である被告は、身分の不安定な原告の弱い立場につけこみ、被告自身が原告の使用者ではないにもかかわらず、将来の雇用に関する原告の不安を煽るような恫喝的な言葉を吐きかけた。」(同前)という指摘について、反論が可能ならば反論すべきであろう。
 以上の如く、平成18年10月28日(土)に原告が被告から蒙った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

13「(12)平成18年10月31日(火曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段
 被告は、毛利館長の指示により、原告との接触を控えることにしたと言うが、原告が「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(
甲17号証)でアピールしたのは、駐在道職員である被告の原告に対する態度が極めて高圧的であり、パワー・ハラスメントに当たるのではないか、という問題であった。そのアピールを受けた時、なぜ被告は自分の問題として受け止め、自分で対応しようとしなかったのか。被告は、それまでの原告に対する自分の態度に問題はない言い切れる自信があったならば、積極的に自分から原告に対応することができたはずである。被告が自分の取るべき態度を、毛利館長の指示を口実に回避してきたこと自体が、原告のアピールの内容が正しかったことを裏づける証拠にほかならない。そのことを確認した上で、更に被告の問題を次に指摘しておく。
a)北海道教育委員会の職員である被告は、原告のアピール文が出るまでは、あたかも民間財団の管理者の如くに振る舞い、原告の外勤・出張や書類作成に干渉を重ねてきた。だが、アピール文以後は財団幹部職員の陰に隠れて、責任を回避し続けた。自分に責任がある事態と向き合おうとしなかった。これは一個の人間として、とりわけ北海道の公務員たる人間として、恥ずべき態度であろう。
b)被告は、「財団においては、被告の説明を認め、かつ、複数の職員からも事情聴取した結果、パワーハラスメントがあったとは考えられないと判断し、館長及び副館長から直接原告に対してその旨回答したものと思われる。」と言うが、館長と副館長は原告との話し合いにおいて、事情調査の方法及び内容に関して何ら説明できなかった。
c)原告は話し合いの内容を、「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(
甲18号証)という文書にまとめ、被告にも渡した。その中に記載された4項目の「取り決め」の内容から分かるように、館長と副館長は、被告の原告に対するパワー・ハラスメントの事実を認めなければ申し出るはずがないことを申し出ている。また二人は、被告の原告に対するパワー・ハラスメントの事実を認めなければ原告の要求を受け入れるはずがない「取り決め」をしている。原告はこの時の二人の言葉を、「毛利正彦館長が通告した『任用方針』の撤回を要求する」(甲50号証)においても記録しておいたが、それを読めば分かるように、館長と副館長は被告の非を認める発言をしている。原告はこの文書も理事長、館長、副館長のほか、被告本人にも渡してある。
d)その後、原告の任用問題が起こり、原告は財団の任用方針に疑問を覚えたので、「毛利館長が通告した『任用方針』の撤回を要求する」(
甲50号証)を、神谷理事長、毛利館長、平原副館長、及び被告本人に手渡した。その際原告は改めて、「11月10日に、毛利館長と平原副館長との話し合いにおいて、先に要求しておいた2点が認められた。ということは、論理必然的に、毛利館長と平原副館長は、寺嶋主幹が私に対してパワー・ハラスメントを行なっていたことを認めたことになる。そのことを、あらためて確認させていただきます。」と再確認を行った。ところが毛利館長は12月27日(火)に、原告が渡しておいた「回答用紙」に、「先にもお伝えしましたが、私共としては、いわゆる『パワーハラスメント』があったとは考えておりません。」と回答を書いてきた(甲51号証)。原告としてはとうてい納得できる回答ではなかったので、原告は再度、「毛利館長が通告した『任用方針』の撤回を再度要求する」(甲52号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、川崎業務課長および被告本人に手渡し、「もし毛利館長と平原副館長が『私共としては、いわゆる『パワーハラスメント』があったとは考えておりません』と主張したいのならば、私の挙げた具体的な事例に即して調査を行い、その調査結果を具体的に挙げて――何時、誰を対象に、どのような調査方法で行ったか、その結果をどのようなものであったか、を文章化して――結論を示すべきです。(中略)今までの対応から察するに、毛利館長以下の幹部職員はまだそのような調査を行っていないと見受けられます。早急に私の挙げた具体的な事例に即して調査を行って下さい。この調査の一番の対象は寺嶋学芸主幹であるはずです。その場合は馴れ合いにならないように、外部の第三者を交えて行って下さい。第三者を選定する時は、選定委員の中に私も加えていただきます。」と要求した。それに対する毛利館長の回答は、「これ以上、あなたの要求・質問にはお答えするつもりはありません。」(「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」平成19年1月17日。甲53号証)という、一方的な回答拒否、対話打ち切りの通告だった。この財団側の対応は単に不誠実というだけでなく、人権侵害の問題の調査を求める一人の市民の要求を集団的、強権的に無視、黙殺してしまった点で、原告に加えられた新たな人権侵害行為であるが、被告は財団側のこのような不誠実な対応と人権侵害行為の陰に隠れて、自己の責任を免れようとした。言葉を換えれば財団側の不誠実な対応と人権侵害行為をそのまま自己の対応に利用する形で、財団と共犯関係にあったことになる。
e)被告は原告からこれらの文書を渡され、当然読んでいたはずであり、それにもかかわらず、
財団においては、被告の説明を認め、かつ、複数の職員からも事情聴取した結果、パワーハラスメントがあったとは考えられないと判断し、」と主張するのは、事実を偽る作文と言わざるをえない。なぜなら、財団はただの一度も「被告の説明を認め、かつ、複数の職員からも事情聴取した結果」を客観的な形で、原告に示したこともなければ、一般に公表したこともないからである。
f)被告がこの二つの文書に記載された事柄を覆したいならば、被告が毛利館長から事情聴取を受けた日時、場所、事情聴取の内容の記録を提出しなければならない。
g)被告は、
むしろ、被告は、原告からアピール文が提出されるまで、被告の行為がいわゆるパワーハラスメントに該当する旨の申立を一度も受けておらず、」と言うが、原告が「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の(1)~(11-2)までに書いた出来事の過程で原告が被告に対して抗弁した内容のすべてが、――その中には安藤副館長や平原学芸副館長を通して事情説明をしてもらったことも含まれる――被告のパワー・ハラスメントに対するアピールなのである。被告はそれを全て、自分に都合のいいその場限りの理屈で合理化し、無視し続けた。これは人権侵害を糊塗するために行われた更なる人権侵害と言うべきであり、基本的人権の回復をはかる原告の行為を故意に無視した違法行為である。
 以上の如く、被告は、平成18年10月31日(火)のアピールに始まる原告の人権回復の訴えに対して、更なる人権侵害の態度をもって対応した。この事実に関する原告の指摘に対する被告の反論は、証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

14「(13)平成18年12月6日(水曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段、第2段
 財団法人北海道文学館は平成18年12月12日、北海道立文学館公式ホームページ等において、正職員の学芸員と司書を採用する募集要項(
甲19号証)を公示した。この募集要項は年齢制限を設けた理由を明示せず、高齢者雇用安定法が指示する「年齢制限を設けた理由の明示」に従わない、違法な募集要項だった。
(2)同第3段
 被告はこの違法な募集要項を決定した「平成19年度財団法人北海道文学館職員採用選考」に関する「決定書」(12月12日決定。
甲20号証)の「合議」の欄に押印している。これは北海道教育委員会の職員である被告が、民間の財団法人の人事に関する方針の決定に加わったことを意味し、公務員として違法な行為である。しかも財団法人の募集要項は違法なものであり、公務員である被告はコンプライアンスの観点からそれを阻止しなければならない立場にあった。それにもかかわらず、被告はそれを阻止せずに、違法行為に加担した。その意味で二重に違法行為を行ったことになる。かつ被告は、この募集要項が実施されるならば、原告が応募の機会を失うことを承知していたはずであるが、あえて公務員としての分限を越えて、原告を失職に追い詰める違法行為に加担した。
 これは前項で指摘した、財団の人権侵害行為との共犯関係に新たに加えられた、被告と財団との共犯的違法行為である。
  以上の如く、平成18年12月6日(水)に始まる、財団法人北海道文学館の違法な原告解雇の策略に被告は加担した。この事実に関する原告の指摘に対する被告の反論は、証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。

15「(13)平成19年1月31日(水曜日)」について
(1)「(a)被害の事実」の第1段
 被告側「準備書面(2)は、
「『二組のデュオ展』の展示準備を31日から行うとの職員の了解の取られていたわけではない。少なくとも被告は知らなかった。」と言うが、1月30日に「中山周三展」の撤収が終わり、翌日から「二組のデュオ展」の準備に入ることは、職員の皆が承知していた。道立文学館では前回の展示の撤収が終わった時点で次の展示の準備に入り、そうしなかった前例はないからである。被告が「知らなかった」とすれば、被告は文学館着任後10カ月経ってもまだ文学館の仕事の進め方を理解していなかった証拠にほかならない。
 また、被告が以上の慣例を知らなかったことは、2月の行事予定表はなかった「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」(期間・平成19年2月3日~2月8日)を無断で割り込ませたことを正当化する理由にはならない。
(2)同第2段、第3段
 被告は、
特別展示室の入り口付近で『ロシア人のみた日本~シナリオ作家イーゴリのまなざし』が開催されたことは事実として認めるが、」と言うが、不正確である。乙11号証の図にある如く、「イーゴリ展」の実行者は特別展示室の入口を移動壁でコの字型に塞いでしまったのである。
(3)同第4段、第5段
 被告は、自分が特別展示室の配電盤に付箋を貼ったことを認めた上で、
ただし、この付箋は毎朝、展示室の照明を起動する機械設備警備係への周知のメモであり、また、この設定の変更は展示室の他の照明までも使えない状況にしていたわけでなく、いつでも点灯が可能なものであった。」と言うが、この説明は不正確であるばかりでなく、虚偽も含まれている。第1に文学館の警備員の中に「機械設備警備係」なる肩書きの人物は存在しない。第2に、「照明を起動する」の意味が不明である。第3に、被告が配電盤に貼った「照明はライティングレールの点灯のみに設定しました 寺嶋」という付箋のメモは、決して被告が主張するが如く、この設定の変更は展示室の他の照明までも使えない状況にしていたわけでなく、いつでも点灯が可能だ」という意味を伝えるメモとは言えない。むしろその反対である。展示室の照明点灯は配電盤ではなく、その真向かいの壁面にある複数個のスイッチによって行う。被告はそのスイッチによる照明の点灯や消灯が出来ないように配電盤の設定を変えてしまったのである。それ故被告の付箋メモは、「ライティングレールの点灯以外は控えて下さい」という意味を伝えていると言うべきであろう。被告はこのようなメモによって、他の人が展示室の照明を使うのを牽制し、手が出せないようにしてしまったのである。
 「イーゴリ展」が実行された経緯については、本訴訟に直接関係することではなく、原告の関知するところではない。ただ、被告の手によって実行されたことは明らかな事実であり、原告にとって重要な意味を持つ。
 また、被告は、
財団は、イーゴリ氏及び同実行委員会から文学館において『イーゴリ展』を実施したい旨の相談を受け、協議の結果、平成18年12月中には、平成19年2月3日から同月8日までの間、同実行委員会に施設の一部を貸し出す旨内定し、職員にも周知している。」と言うが、極めて疑わしい。平成18年12月中には内定していたのであれば、「平成18年度 北海道文学館 2月行事予定」(甲21号証)に記載されたはずであるが、記載されていない。予定表はその月の職員の動きや館内の使用状況を皆に周知してもらうためのものであり、貸館だからといって表に加えないなどということはあり得ないのである(甲54号証・甲55号証参照)。しかも被告は、2月6日(火)の朝の打合せ会で、「イーゴリ展をやることになりました……もう、やっております」と、職員に事後承諾を求めている。この事実は、原告の「準備書面」で指摘しておいた。被告が2月6日(火)に職員の事後承諾を求めたという事実は、被告自らが、前年の12月中旬から一度も職員に周知をはかったことがない事実を認めたことにほかならない。
 また、被告は
「『イーゴリ展』は2月9日には撤収されており、『二組のデュオ展』の会場設営のためには7日間の期間があり、他の企画展では事前準備を会場以外の場所で行い、会場設営には通常長くても5日間程度しか要しないことから、決して原告に過剰な負担を強いるものではなかった。」と言うが、全く実情に合わない。被告によれば、「他の企画展では事前準備を会場以外の場所で行う」ことになっているが、これは文学館の展示業務を知っている者の言葉とは思えない。ただ、強いて被告の側に立って考えてみれば、被告が平成18年度に着任して担当した企画展「写・文 交響~写真家・綿引幸造の世界から~」の場合、作品はすでに綿引幸造氏のアトリエでフレームに入った状態にまで出来上がっていた。彼が担当したもう一つの企画展「〈デルス・ウザーラ〉絵物語展」も、北海道北方博物館交流協会という財団法人が主催し、何を展示するか等については予め決まっていた。要するに被告はすでに出来上がった作品を搬入し、展示室に配列しただけであって、それならば5日程度の作業で間に合っただろう。(被告は更にもう一つ、企画展「聖と性、そして生~栗田和久・写真コレクションから~」(甲55号証参照)を担当することになっており、これも写真を借りてくるだけの作業だったが、被告が中止してしまった)。
 しかし、「二組のデュオ展」のようにさまざまなところから展示資料や作品を借り、オリジナルな構想に従って配置を決め、説明のパネルを用意する展示の場合は、準備は文学館内で行い、2週間近い準備期間を予定する。被告が言うような「会場設営には通常長くても5日間程度しか要しない」などということはあり得ないのである。また、仮に原告が2月10日(土)から設営作業に入ったとしても、実際に作業ができるのは、僅かに2月10日(土)、14日(水)、16日(金)の3日間だけであった。なぜなら、嘱託職員の原告の勤務日は週に火曜日、水曜日、金曜日、土曜日の4日間だけであり、2月11日(日)は非勤務日、12日(月)は建国記念日で原告は休日、13日(火)は12日の振替休日による休館、15日(木)は非勤務日だったからである(
甲56号証参照。なお、17日は「二組のデュオ展」のオープニング)。被告は「会場設営には通常長くても5日間程度しか要しない」と非常識なことを主張しているが、仮にこの非常識な言い分を前提にしてさえも、原告に与えられた日数は5日間より2日少ない、3日間でしかなかった。この一事をもってしてだけでも、被告の原告の展示業務に対する妨害意図は明らかであろう。
 被告はさらに、
実際、この『イゴーリ展(「イーゴリ展」?)で使用した展示室の面積は25㎡程度であり、特別展示室全体(215㎡)の一割を越える程度に過ぎず、たとえ次回展のために展示作業が必要になったとしても、移動隔壁によって残りの大半の室内は作業可能であり、また非常口を兼ねた作業用の運搬出入り口も確保され、もちろん室内照明も点灯調整が可能であった。すなわち電気を点けて展示作業をすることはいくらでもできたのである。」と主張するが、被告はここでも肝心な点を誤魔化している。確かに「この『イゴーリ展』で使用した展示室の面積は25㎡程度」であったが、被告は25㎡程度の面積を「イゴーリ展」に割くために、特別展示室の入口を移動隔壁(正しくは稼働パネル)で塞いでしまったのである(乙11号証)。原告の「準備書面」で指摘しておいた如く、一般に文学館の展示作業は、来館者の目線を想定しながら展示物の配置を決めて行く。もう少し具体的に言えば、展示は観客入口の出発点から目線の高さにカラー糸を張り、その糸を基準にしてパネルの中心を決め、さらにパネル同士の横間隔を微調整しながら設置を進める。壁面の設定が仕上がって後、ガラスケースをあるべき位置に設置できるのである。被告はこの作業手順の起点を塞いでしまったのである。そしてこのために、原告は、「二組のデュオ展」の設計通りに稼働パネルを配置することが出来なくなってしまった(甲57号証参照)。
 また、被告は、
確かに被告は『イーゴリ展』について同実行委員会から展覧会の運営について相談を受けていたことは事実であるが、同展開催のために当該期間、文学館の施設の一部を貸与することを認めたのは財団であって、被告が『直前に突然』文学館の年間計画になかった同展を『割り込ませて』原告の業務遂行を妨害したとの原告の主張は、全く事実に反する。」と弁解にこれ努め、違法な正職員公募方法の問題以来、俄かに財団の主体性を前面に押し出し、自分の責任をその陰に隠そうとしているが、被告が「イーゴリ展」の実行者であった事実は否定できないはずである。イーゴリ展の展示品は写真が28点ほどあるに過ぎなかった。それを展示するには、ロビーの壁面で十分に間に合ったはずだが、なぜ特別展示室の入口をコの字型に凹ませて塞ぐ必要があったのか。なぜ配電盤の設定を変えなければならなかったのか。それらの点が合理的に説明できないかぎり、被告の行為は原告の設営作業を故意に遅らせるための妨害だったと見るほかはないであろう。

(4)同第6段
 「イーゴリ展」は2月9日に撤収されたが、原告はこの日は、岩内の木田金次郎美術館と道立近代美術館まで展示作品の借用に出かけ、翌10日には札幌市営地下鉄の各駅にポスターを貼る仕事があった。これは、札幌市営地下鉄3路線の各駅の掲示板にポスターを貼って行く作業であり、原告を含む3名の職員がこの作業にあたらなければならなかった。11日(日)は原告の非出勤日であったが、前述の如く作業日の余裕がなく、時間的に追い詰められた状態だったため、原告は11日(日)、12日(月)、15日(木)の非出勤日を返上する形で出勤し、14日(水)、15日(木)、16日(金)の3日間は、作業は午後10時近くまで及んだ。特に14日と15日の夜は、その年2月最大の低気圧通過による猛吹雪だったため(
甲58号証の1)、岩見沢市から通う原告はJRのダイヤの混乱を懸念して、札幌市のホテルに泊まった。
 原告は嘱託職員であり、労災に入っていない。それ故財団は、原告に契約時間外の勤務を強いないように配慮する義務があり、被告もすでに平成18年5月10日の時点で原告の勤務条件を理解したはずだった。それにもかかわらず被告は、原告が契約時間外の超過勤務や札幌での宿泊を余儀なくされたことについて、次のように主張している。
原告は「二組のデュオ展」に係る会場設営の期間が短くなったため、時間外勤務を強いられ、さらに札幌市内のホテルに宿泊した旨主張している。しかし、原告から被告や財団に対して、時間外勤務の申し出やホテルに宿泊し出費がかさむ旨の申し出は、この時点はもちろん、これまで一切出されていない。したがって、被告や財団が原告に対し時間外勤務を命令した事実はないし、また、札幌市内のホテルに宿泊することを命じたり承認したりした事実はない。」要するに被告は、労働基準法に違反する勤務を原告に強いる状況を作っておきながら、原告が自分の判断で非出勤日を返上し、午後10近くまで作業を行い、ホテルに泊まったのであるから、被告に責任はないと開き直ったのである。これは、一人の労働者を過酷な勤務条件の中に追い詰めながら、その労働者が自殺しても、あれは自分から死んだので、こちらに責任はないと言い張るのと同じ論法である。この被告の主張は、被告が犯した労働基準法違反や人権侵害を平然と肯定した発言として銘記されるべきであろう。
 続けて被告は、原告の住む岩見沢市と道立文学館の距離や、JRのダイヤに言及し、
平成18年度1年間で約22万5千円もの通勤手当を支給していた。」と恩着せがましい言い方をしているが、これは被告の原告に対する業務妨害や労働基準法違反の問題の本質とは関係ない。
 さらに被告は、次のように結んでいるが、これは被告の本音が見え隠れしている表現と言えるだろう。
したがって、原告は、被告の妨害により『午後10時過ぎまで文学館に残って準備作業を行い』、そのため『札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた』と主張しているが、その原因を『午後10時過ぎまでの時間外勤務』だけに帰するのは不当である。」たしかに原告は、札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた原因を、「午後10時過ぎまでの勤務時間外」だけに求めたわけではない。被告も「被告の妨害により」と書きこんでいたように、そもそも原告が午後10時近くまで残業をし、ホテルに2泊せざるをえなかった根本の「原因」を作ったのは、「被告の妨害」だったのである。それに加えて、2月中旬は最も天候が悪く、吹雪などによりJRのダイヤが混乱し、しばしば列車の運休事故が発生する。しかも平成19年の2月14、15、16日は低気圧が連続して通過し(甲58号証の2)、各地で吹雪や突風による被害が起こっていた(甲58号証の1・3)。それ故原告は、ダイヤの混乱によって作業が滞ることを恐れて、札幌市内のホテルに泊まったのである。
 以上の如く、平成19年1月30日(水)に原告が被告から被った「被害の事実」に対する被告の反論は証拠物を欠き、かつ、誤った認識に基づくものでしかない。故に被告が自己の行為を正当化する論理には何ら合理的な根拠がなく、原告が「準備書面」において被告の行為に関して行った「違法性」の指摘は依然として有効である。
 
第3 謝罪文を請求する理由
 被告側「準備書面(2)」は、「1 名誉毀損の事実」について、
全て否認ないし争う。」と書いているが、「否認」の理由を何一つ挙げていない。「否認」を主張する証拠物も示していない。何について「争う」のかについても何一つ書いていない。
 被告側「準備書面(2)」は、「2 謝罪文の請求」について、
否認する」と書いているが、「否認」する理由を何一つ挙げていない。
 それ故原告は、原告が「準備書面」で挙げた「1、名誉毀損の事実」について、被告は何一つ否認できなかったし、反論もできなかったと判断する。原告が「準備書面」で挙げた「1、名誉毀損の事実」は依然として有効である。
 また被告は、
原告が文学館の職を失ったのは、雇用期間の満了によるものであり、被告の言動とは全く無関係である。」と言うが、この主張は2つの点で誤っている。
 第一に、原告は「準備書面」において、「上記のごとき被告の言動により、原告は多大の精神的苦痛を被り、かつ人格と能力に関する社会的信用を損傷させられて、財団法人北海道文学館の嘱託の職を失った。以上の事柄に関して、原告は被告に対して、署名捺印した謝罪文を書き、原告に手交することを請求する。」と主張したのであるが、被告は「被告の言動により、原告は多大の精神的苦痛を被り、かつ人格と能力に関する社会的信用を損傷させられた」事実については全く言及していない。
 第2に、平成19年7月に原告の申し立てによって行われた労働審判において、S裁判官を長とする労働審判委員会は申立人(原告)の請求趣旨を認めて、相手方(財団法人北海道文学館)が和解金を申立人に支払う調停案を示し、申立人と相手方の双方が同意した。労働審判委員会が申立人の請求趣旨を認めた理由は幾つか考えられるが、その一つは、財団法人北海道文学館が申立人を解雇した手続きには正当性がないと判断したからであった。「14「(13)平成18年12月6日(水曜日)」について」で述べておいた如く、本訴訟の被告は財団法人北海道文学館が犯した違法な原告解雇に関わっていたのである。

第4 被告側「準備書面(2)」の結語について
 被告側「準備書面(2)」は
「以上の通り、原告の主張には何ら理由がないから速やかに棄却されるべきである。」と言うが、以上述べてきた如く、被告側「準備書面(2)」の主張には全く何らの合理的、合法的な理由がない。よって、被告は速やかに自身の違法行為を認め、原告が「訴状」で請求した通り、謝罪文を書き、また損害金として金○○万円及びこれに対する平成19年4月1日より支払い済みに至るまで民法所定の年5分の割合により遅延損害金を支払うべきである。のみならず、公開を旨とする本裁判の過程において、被告は「準備書面(2)」及び「陳述書」の中で公然と原告の人格と能力を誹謗し、原告の名誉を毀損する人格権の侵害を繰り返し行っている。被告によって行われた、この原告に対する人格権侵害の賠償金に関しては、被告本人の法廷尋問の後、慎重に検討した上で、別個に請求する。
                                      以上

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2009年4月19日 (日)

「判決とテロル」資料3:亀井志乃「準備書面(Ⅱ)ー2」ー寺嶋弘道「陳述書」への反論ー

事件番号 平成19年(ワ)第3595号
損害賠償等請求事件
原告 亀井 志乃
被告 寺嶋 弘道
         準備書面(Ⅱ)―2
      (乙1号証 寺嶋弘道「陳述書」への反論)
                           平成20年5月14日
札幌地方裁判所民事第1部3係 御中
                           原告 亀井志乃 印

はじめに
 本訴訟における原告は、平成18年度に民間の財団法人北海道文学館に嘱託職員として働いていた民間人であり、被告は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員であって、訴訟の焦点は公務員である被告が民間人である原告に対して繰り返し人格権侵害の違法行為を働いたことにあります。故に私は「訴状」においても「準備書面」においても、被告が原告に働いた人格権侵害の行為事実の確定と、その行為の違法性の指摘に集中してきました。その間私は、被告の人格を論じ、被告の人間性を批判し非難する表現は謹んできました。それが訴訟におけるルールだと考えたからです。
 しかるに、去る4月16日の法廷において渡された被告の「陳述書」は本訴訟の基本的な争点には一切言及せず、いわば故意に無視する形で、問題を上司と部下との関係にすり替え、その記述は原告の業務態度や遂行能力及び原告に人格に関する中傷に終始していました。しかもその内容たるや、虚偽や事実の歪曲、根拠なき断定に満ちています。
 被告のこのような書き方が、本訴訟事件の争点を明確にする上で果たしてどれだけ有効であるか、極めで疑わしい。とは言え、被告の意図は明らかに原告に関するネガティヴな印象を裁判官に与えることにあり、原告としてはとうてい看過し得ないところです。のみならず、被告の「陳述書」に書き込まれた原告に関する数々の中傷的言辞は、裁判の過程で行われた新たな人格権侵害行為であり、原告にはこれを告訴する権利があると考えます。
 よって、私は本「準備書面(Ⅱ)-2」を、Ⅰ、被告の「陳述書」における虚偽、事実の歪曲、根拠なき断定等とそれに対する反論、Ⅱ、被告の「陳述書」において新たに行われた原告に対する人格権の侵害の指摘、の順で記述し、Ⅲ、結び、として人格権の侵害に対する原告の態度を述べることに致します。

Ⅰ、被告の「陳述書」における虚偽、事実の歪曲、根拠なき断定等とそれに対する反論

 まず虚偽の代表的な1例を挙げてみます。
「毛利館長の訓辞に先立つ4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名で、協議内容は平成18年度の学芸部門の事務分掌について意見を交換し、問題点等を整理することでした。2時間を超えたこの会議では一人ひとりの担当業務を確認し、その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。/原告も確認し、組織決定されたこの事務分掌に明記された私の職務の第一は、『学芸部門の統括および業務課との調整』です。」2ページ、29~36行目。/は改行)
 この記述には明らかな間違いが少なくとも2つ含まれています。第一に、私は4月13日(木)には文学館に出勤していません。当日は私の非出勤日だったからです。それ故「出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名」ということはありえないことです(
甲56号証「平成18年度職員勤務割振」)。
 第二に、仮に4月13日に、私を含まない、「学芸部門の職員による打合会」が開かれたとしても、その結果「平成18年度学芸業務の事務分掌」が決まったということもありえないことです。なぜなら、平成18年4月1日は土曜日、2日は日曜日でしたが、文学館は開館し、業務を行っていたからです。川崎業務課長や永野主査、被告の着任式は4月4日(火)に行われましたが、4月1日も2日も開館する以上、誰がどの事務分掌につくか、分担が決まっていないはずがありません。被告の「陳述書」によれば、4月13日の打合会で事務分掌を決定し、4月1日に遡って施行したことになっていますが、では、4月1日から4月13日まで、誰がどういう事務分掌で業務を行っていたのか。実際に公共の博物館業務に従事してきた人間ならば、新年度が始まって2週間近くも事務分掌が決まっていないなどということはあり得ないし、あってはならないことである程度のことは十分に承知しているはずです。被告が「陳述書」で述べたことは全くナンセンスというほかはありません。
 事実を言えば、4月1日の時点で既に事務分掌が決まっていました。平成18年4月1日からの分掌をどうするか。この問題については、平成17年12月27日(火)に「課内打ち合わせ」の会議が開かれ、もちろん私も出席していましたが、その時「2006年度学芸課事務分掌(案)」が議題となりました(
甲59号証)。この「案」と「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)とは表の形式が違いますが、前者が後者の原型だったことは一見して明らかでしょう。一つの違いは、「案」の段階では、かなり年配の学芸課長が着任するという情報があり、それを前提として事務分掌が図られたことです。その時点では、新たに着任する年長の学芸課長に全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役をやっていただくことが前提となっていました。その後、3月に入ってから、新たに着任するのは年長の学芸課長ではなく、道職員の寺嶋学芸主幹であることが分かり、12月27日の「案」の議論を踏まえた、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(甲60号証。日付なしの分掌表)が作成されました。3月末までに職員に配布されていたのはこの表です。4月1日からの開館に支障が生じなかったのは、この分掌表があったからにほかなりません。
 この表の第1項は、「学芸部門の統括及び業務課との調整に関すること」とあり、主担当は寺嶋、副担当は鈴木となっていました。つまり、被告が着任する以前の、3月中に合意された分掌表におけるこの文言は、先ほどの経緯から分かるように、「学芸関係の職員の全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役」というほどの意味だったわけです。
 被告の「陳述書」によれば、4月13日に「学芸部門の職員による打合会」を開き、――ただし私は出席していません――「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。
甲3号証)を作ったことになっています。4月1日の日付がはいったこの分掌表と、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(甲60号証)を較べてみれば分かるように、前者は後者を微修正したにすぎません。その程度のことにもかかわらず、なぜ被告はわざわざ「学芸部門の職員による打合会」を開いたことにしなければならなかったのか。しかも、なぜ微修正した分掌表に平成18年4月1日の日付を入れ、「その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」と言わねばならなかったのか。まことに不思議なことです。
 そもそも事務分掌に定められた業務を過去に遡って施行するとは、一体どういうことでしょうか。事務分掌に定められた業務を過去に遡ることは、新たに制定された法律を過去に遡って適用することとは、事柄の本質が異なります。思うに被告は、この「平成18年度学芸業務の事務分掌」を、自分が会議に加わり、自分の意思が反映した取り決めとして仮構したかったのでしょう。そのためには、決定年月日を平成18年4月13日にするわけにはいかない。もし誰かが、では4月1日から13日まではどのように運営していたのかと質問したりすれば、たちまち返答に困ってしまうからです。その質問を躱すために、「その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」という奇妙な理屈をつけたのでしょうが、この一事をもってしても被告の作為は明白になってしまいました。
 さらに加えて言えば、道立文学館及び財団法人北海道文学館は、年度途中に決まったことを、年度当初から決まっていたかのように日付を入れる公文書を作文する傾向がある。これも一種の公文書偽造だと思いますが、ともあれこの組織の公文書は用心して取り扱う必要があります。今回の場合は、年度当初に決まっていたことを年度途中で修正し、しかもそれ(修正されたもの)が年度当初から実施されてきたかのように取り繕う。これもまた公文書偽造の一種ではないかと思います。

1)「1 職場での私の立場と原告との関係」について
 以上のことを確認し、改めて「陳述書」の順序に従って、問題点を検討することに致します。
 なお以下の記述において、1)、2)……の小見出しは、被告の「陳述書」の小見出しに準じました。また、被告「陳述書」からの引用文は青文字を用いて、その頭に①、②等の番号を付し、それに対する原告の疑問・反論・批判は黒字で記述するという方法を取っています。
 
①指揮命令をどうするか、連携・協働をどう進めるかについては、毛利正彦館長(当時)とも4月当初から数度にわたって協議を行い、4月18日(火)、毛利館長、安藤孝次郎副館長(当時)、平原一良学芸副館長(当時)、川崎信雄業務課長に私を加えた幹部間の打ち合わせで、前年度まで置かれていた学芸課の体制と同様、駐在職員3名と指定管理者である財団の業務課学芸班の学芸職員2名とで改めて学芸班を編成し、私がその統括の任にあたるということで組織体制については最終的な整理がなされました。」2ページ、3~9行目)
 被告は「財団法人北海道文学館事務局等規定の運用について」(
乙2号証)が作られた経緯をこのように説明していますが、この箇所でまず確認しておかなければならないことは、4月18日(火)に開かれたという「幹部間の打ち合わせ」に神谷忠孝理事長が参加していないことです。
「同日夕刻の全体職員会議において、毛利館長から原告を含む全職員に対して当該年度の運営方針について所信の表明があり、その際、学芸班の新体制についても告知がなされ、職員全員で指定管理者制度導入の初年度を乗り切ってほしい旨の訓辞があったものです。」2ページ13~16行目)
 4月18日当日の「幹部間の打ち合わせ」から「全職員に対しての告知」までの間、どの程度の時間の開きがあったか不明ですが、少なくとも理事長も理事会もまったく関与していなかったことは明らかです。従って上記「打ち合わせ」によって作文された「財団法人北海道文学館事務局等規定の運用について」は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」(
乙2号証「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」に含まれる)の第6条「この規程の改正は、理事会で決定しなければならない」及び第7条「この規程に定めるもののほか、事務局その他の組織に関し必要な事項は、理事長が定める」の、どちらの要件も満たしていません。
 また、上記「幹部間の打ち合わせ」の内容は、この日以降に行われた平成18年度の理事会(第1回・平成18年5月30日、第2回・平成19年3月23日)のいずれにおいても議題にのぼったことがない(
甲61号証の1・2)。つまり、事後的にも、正式には承認されていなかったことになります。
 「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」が形式的にも内容的にも手続き的にも何ら合理性がないことは、すでに「準備書面(Ⅱ)-1」で詳述しましたので、ここでは最小限必要なことの指摘に止めておきますが、「規程の定めにかかわらず」の「かかわらず」の意味が、「規程の定めを無視する」であるにせよ、また「規程の定めを廃止する」であるにせよ、また「規程の定めを停止する」であるにせよ、「規程の定めを棚上げする」であるにせよ、「規程の定めと無関係に」であるにせよ、いずれにしてもこの言葉は明らかに現行の規程の否定または拒否を意味している。おそらくそのために、毛利館長以下の幹部職員はこの「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」を神谷理事長抜きで作文し、理事会に諮ることを避けたのでしょう。しかし以上の理由から判断して、上記「幹部間の打ち合わせ」の内容は、正式な決定事項としては認められず、その効力を持たないことは明らかです。

 たぶん被告は、この「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」における「業務課、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言と、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)の「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」とを自分の都合がいいように解釈して、自分を「原告の事実上の上司」と主張し、「原告を監督する立場」、「実質的な指導監督者であった私」と自己規定したのでしょう。しかし「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」が手続き的にも内容的にも違法なものであり、「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」は全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役という意味以上でもなければ、それ以外でもない。そういう経緯に照らしてみれば明らかなように、被告の主張と自己規定は何ら合理的な根拠を持たず、違法なものでしかありません。

2)「2 原告の担当業務とその実態」について
①「一方、原告の業務は、関係部分を抜粋すると次の10項目となります。
(1)定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管  (副担当)
(2)常設展示の企画調整、展示更新                     (副担当)
(3)特別企画展「石川啄木」の企画、実施                  (副担当)
(4)ファミリー文学館「関屋敏隆絵本原画展」の企画、実施        (副担当)
(5)企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の企画、実施          (主担当)
(6)収蔵資料目録、調査研究報告書の編集、発行             (主担当)
(7)館報および展覧会に関わる目録、図録、広報印刷物の編集、発行 (各事業担当)
(8)文学資料の解読、翻刻                           (主担当)
(9)文学および文学資料に関する専門的、技術的な調査研究      (全員)
(10)文学資料の保管、展示等に関する技術的研究            (全員)」

(2ページ39行目~3ページ9行目)
 被告は、平成18年度における原告の事務分掌を上のように整理しています。確かに「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。
甲3号証)に拠る限りで言えば、平成18年度当初の学芸業務における原告の担当項目はここに挙げられた10項目でした(甲3号証による)。
 しかし、それはあくまでも「事務分掌」表における担当項目にすぎず、被告は故意に原告の業務範囲を矮小化していると言わざるをえません。
 私の記録によれば、被告が「学芸部門の職員による打合会がもたれた」という4月13日の翌日、すなわち4月14日(金)10時30分頃に、私は被告と平原一良副館長(当時)の2人に会議室に呼び出され、「前日、課内での話し合いがあったので、今日はその『おさらい』として原告に伝える」と言われて、――このことをもってしても、私が4月13日の打合会に出席していたという被告の主張が虚偽であったことは明らかです――「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」(
甲60号証 番号4:主担当・A学芸員 副担当・O司書)も原告が手伝うようにとの依頼を受けました(甲62号証)。この事により、私は、この年度当初の予定になかった、新刊図書の収集・整理・保管というO司書とA学芸員の毎日のルーティンワークの一部を肩代わり(具体的には寄贈雑誌のデータベース登録作業)することになりました。こうした変更の結果が反映されているのが、甲3号証の「平成18年度 学芸業務の事務分掌」における「収集・保管」の分野です。ここでは項目が4つから6つに増やされ(甲60号証参照)、「番号8:定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」の担当に原告が新たに付け加えられています(主担当・A学芸員 副担当・原告)。さらにまた、こうした変更の絡みで、原告は結果的に、閲覧室における来客対応をA学芸員・O司書との3交代で手伝うこととなりました。
 もしこの業務が新たにつけ加わっていなければ、10月28日、被告が閲覧室勤務に就いている原告のところに来て、フォト・コンテスト問題を云々する場面は起こらなかったはずです。

②「今般の訴状において、原告が自分の業務成果として期している第(5)項目の企画展「人生を奏でる二組のデュオ展」(以下、「二組のデュオ展」はそのうちの一業務にすぎず、担当者として取り組まなければならない主担当業務だけを取り上げても、第(6)項の収蔵目録・報告書の発行、および第(8)項の文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、平成19年3月に当館を退職しているというのが実情です。」(3ページ15~20行目)
 これは私の業務を矮小化しただけでなく、事実を歪曲してなされた名誉毀損というほかはありません。それ故私は、自分の名誉のために次の事実を挙げておき、被告が証人台に立った時には、被告は如何なる根拠をもって「確たる成果や業績報告のないまま」、「資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打ち合わせることなく」と断定したのか、しっかりと質問したいと考えています。
a) まず「文学資料の解読・翻刻」について言えば、当該年度(平成18年度)における原告の「文学資料の解読・翻刻」に関して最大の業績と言えるものは「人生を奏でる二組のデュオ展」で展示した肉筆資料の解読・翻刻であり、それは同展の図録(
甲63号証)にも再録してあります。この展覧会では17点の書簡資料を公開しましたが、そのうち、H氏より借用した木田金次郎関係書簡9点中6点と、K氏より借用した里見弴の中戸川吉二宛書簡4点はこれまで未発表の資料であり、私が全文解読の作業を行いました。また、木田金次郎関係書簡の残り3点もこれまで部分的にしか紹介されておらず、私が全文を解読して紹介しました。さらに、北海道立文学館所蔵の有島武郎書簡3点のうち1点も、全集未収録で解読はなされておらず、今回はじめて、その翻刻が私によってなされたことになります。
 この作業には、日常業務の合間をぬっての不断の努力が伴っており、しかもその結果は、展覧会と図録を通じて世に公表されています。それと共に、この図録は、刊行された平成19年(2007)2月17日(展覧会オープンの当日)に、私が文学館職員の全員に配布しました。
 被告が平成18年度に手がけた展覧会事業は、既にフレームに入った状態にまで仕上げられた作品や、日本近代文学館がレンタル用にセット化したものを借りてきて、展示室に配置するだけの作業で済みました。図録の場合も、セット化された資料の画像を配列するだけであり、「池澤夏樹展」に至っては『koyote』という市販雑誌の池澤夏樹特集号をまとめて購入し、それを図録と称する誤魔化しをやっていました。それに対して、私が主担当として手がけた「二組のデュオ展」は新たに発掘した資料とその翻刻が、展示及び図録の半ばを占めています。身内の文学者や知人の文学者の書簡を大切に私蔵している個人から安心してこちらに貸していただくには、どれほど誠意を尽くさなければならないか。親しい文学者や肉親に送った手紙の、ほとんど暗号化した略字体を解読し、翻字をするのは、どれほど集中力と根気が必要か。被告は多分、想像したこともなければ、理解する気持ちもなかったのでしょう。
 私はそのようにして行った資料研究の成果を、展覧会と図録という形で結実させました。被告は単に形式的な事業報告がなされたかったことをあげつらって、「確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え」と私の仕事を無視した言い方をしていますが、私が勤務していた2年半の間、「二組のデュオ展」のような文学館独自の企画展が行われた場合、特に改めて報告会などはなされず、しかも担当者の努力や業績は、展示内容や図録によって他の職員に充分に認知されていました。
b) 被告は自分が出すべき図録を市販雑誌でお茶をに濁してしまった。その引け目のため、「二組のデュオ展」の図録を開いてみる勇気がなかったのかもしれません。回覧された成果に目を通すこともできなかったようです。私は「二組のデュオ展」の図録(
甲63号証)のために、「知られざる有島からの自立の物語―早川三代治宛書簡に見られる木田金次郎の芸術志向―」と、「釧路の作家・中戸川吉二」という2本の小論文を書き下ろしています。このうち、「釧路の作家・中戸川吉二」の方は、平成19年(2007)1月6日に釧路新聞社から原稿依頼を受け、平原副館長の了承を得た上で、同年2月5日・2月12日・2月19日の3回にわたって釧路新聞紙上に発表しました。私はその紙面を職場において回覧しましたし、「二組のデュオ展」が終わったあとはコピーして報告書に入れ、その報告書もまた全職員の回覧に供しました。そして原告の退職後、川崎業務課長がその報告書をとりまとめて、北海道教育委員会にも提出しています。(甲64号証
 このように、解読・翻刻作業を含めた資料研究は成果も多岐にわたり、発表・公表の形態も様々だったわけですが、私はそれらを秘密裡に行っていたわけではない。オファーがあればその時点で平原副館長の了承をとり、結果はすべて回覧している。回覧した資料が文学館に残っているからこそ、道教委に報告もされているわけです。
 それにもかかわらず被告は、私の業務に関して「確たる成果や業務報告のないまま」と決めつけている。被告は私の業務に極度に無関心であるか、あるいは故意に無視(ネグレクト)しているか、いずれにせよこの決めつけ方は、私に対する名誉毀損というほかはありません。
 おまけに被告は、「まず第一に第(8)項の文学資料の解読・翻刻が一つとしてなされていませんでした。」と事実無根のことを言挙げして、そこからいきなり
「文学館業務に対する原告の姿勢、なかんずく組織への貢献心を疑わざるをえません」乙1号証3ページ25~26行目)という極論を引き出してくる。この強引な理屈は、他人の実績には目もくれず、組織に対する忠誠心や貢献度だけを勤務評定的にチェックする、いかにも中間管理職的な論理というほかはありませんが、被告が好んで振り回す「組織」論や「組織人」の正体がこれであること、それをしっかりと認識しておきたいと思います。
 ちなみに、北海道立文学館指定管理者・財団法人北海道文学館が道に提出した平成18年度の『業務報告書』には、被告が主担当だった「池澤夏樹展」の「実施報告書」が入っていません。何故でしょうか。
c) 以上に挙げたもののほか、私の作業がすでに完了しているにもかかわらず、平成18年度での発表の機会が失われた業績の一つに、「与謝野晶子百首屏風」の解読・翻刻があります。
 「与謝野晶子百首屏風」とは、平出修(作家・弁護士。大逆事件で幸徳秋水の弁護を引き受けた)の後輩にあたる人物が、平出の所持していた屏風を買い取り、それを北海道立文学館に寄託したものです(
甲65号証の1)。文学館は、平成17年(2005)11月2日に開催された開館10周年記念行事の一環としてその屏風を常設展示室において一般公開し、その後、同年12月17日に同館研修室(1階和室)に一時的に収納していました。
 屏風はそれまで未公表・未公開のものであり、晶子の直筆で103首の短歌が散らし書きされています。だがその筆字は、所持者によっても、文学館の職員によっても、未だ解読されていませんでした。
 平原学芸副館長(当時)は、「屏風はいったん展示から引き下げるが、寄託して下さった方のご厚意に応えるためにも、字はきちんと解読し、その上で改めて展示し直さなければならない」と言い、同年12月、私にその解読・翻刻作業を依頼しました。私はデジタルカメラでその全表面を撮影し(
甲65号証の2)、外勤で藤女子大学図書館に通い、しばしば現物の屏風そのものも参照しながら、約3ヶ月かけて103首の与謝野晶子短歌すべてを解読しました(甲65号証の3)。あとは、その研究内容の発表をどのような形で行うかを決定するだけというところにまで、作業は進めておきました。
 平成18年(2008)4月1日(土)、私は、A学芸員と共に、文学館に顔を出した被告を案内して館内を一巡しました。(私は、この日、被告が道立文学館に出勤したことを認めるが、しかし、この日は被告の「着任日」ではなかった。その理由は、被告側「準備書面(2)」に対する原告の「準備書面(Ⅱ)-1」及び
甲37号証の1・2・3参照。)この時、私は被告を研修室にも案内し、「与謝野晶子百首屏風」について説明して、これから再公開する必要がある旨を被告に告げておきました。また、この当日もしくは4月4日(火)の着任式があった前後に、私は事務室において、平原学芸副館長(当時)に作業の進捗状態を説明し、屏風の小冊子(パンフレット)案を記した書類(甲65号証の1)を学芸副館長に渡しました。その時、被告も平原学芸副館長のそばにいて、私と学芸副館長とのやりとりを聞いていたはずです。
 ところが、「与謝野晶子百首屏風」の件は、その後、平原学芸副館長(6月からは副館長)と被告とによって完全に無視された形となり、そして屏風自体、いつしか、私には一言の連絡もなく、梱包されて収蔵庫にしまい込まれてしまいました。このことは、私がいま急に言い出したことではありません。雇い止めの問題が起こった時のアピール文で既に言及をしています(
甲50号証4ページ)。
 このように他人の業績を無視し、成果を隠してしまう。これが大学ならば、間違いなくアカデミック・ハラスメントとして問題にされるところでしょう。被告や平原副館長が行ったことは、今後はミュージアム・ハラスメントと呼ばれるようになるかもしれません。

 さて、次は被告が無断で「石川啄木展」に介入した、業務妨害の件ですが、被告はこんなふうに自己弁明にこれ努めています。
③「原告が今になって主張している第(3)項の特別企画展「石川啄木」(以下、「石川啄木展」)の業務内容についても、主担当のS社会教育主事(駐在職員)によってほぼすべての準備が着実に進められていたため、平原副館長の指示により作業量の多い資料の返却業務について私と原告が応援に入り、主担当を含めた3人で出張作業を分担したものです。」(3ページ28~32行目)
 被告は、何かにつけて「平原学芸副館長(当時)と相談して」、「平原副館長の依頼で」と、平原副館長の名前を出してきますが、「平原副館長の指示により作業量の多い資料の借用返却業務に私と原告が応援に入り」という、その「指示」は何日頃に出たのでしょうか。この書き方から判断する限り、平原副館長の「指示」が出たのは7月に入る前後のことのように思えます。なぜなら私は、主担当のS社会教育主事から、「自分と被告は東京の日本近代文学館まで資料を借用に出かけるため、釧路へ行ってくる余裕がない。釧路のKさんのところまで「金田一京助筆の色紙」を借りに行って欲しい」という意味の依頼を受け、7月11日(火)に釧路まで日帰りで出張しているからです(
甲45号証参照)。被告とS社会教育主事が東京へ出かけたのも同じころだったと言えるでしょう。(「啄木展」のオープニングは7月22日(土))。
 ところが被告は、すでに5月12日(金)の時点で、私とA学芸員を事務室に呼び、「「啄木展」のところで予算を大幅に超過している。あとどれだけ予算を使えるか、急遽、「二組のデュオ展」の支出予定を教えてくれ」という意味のことを頼んでいます(原告の「準備書面」)。このことから判断するに、被告はもう既に5月12日以前に、平原学芸副館長(副館長に昇進するのは6月)から「啄木展」にかかわるよう「指示」を受けていたことになります。もしそうでないならば、被告は独断で「啄木展」に手を出したことになるわけです。いずれにせよ、被告が5月上旬の時点で「石川啄木展」にかかわっていたことは間違いありません。
 私が「石川啄木展」にかかわることができたのは、7月11日、釧路のK氏が所持する「金田一京助筆の色紙、12枚」(ただしケース入・1セット)を借りに行き、9月1日に返却に行ったことだけでした。被告は資料の借用と返却の時だけ「啄木展」にかかわり、あたかも、作業を公平に分担したような書き方をしていますが、実情は全く異なっていました(
甲66号証。啄木図録、P63)。
 被告は先の文章に続けて、
したがって、私も原告と同様な範囲で業務参加したのみであり、「展示資料の借用、図録作成、展示設営のコンセプト作り、ポスター作成など主要な業務を、原告をまったく無視する形で進めてしまった」というのは、まったく独りよがりな、自分自身の関心事だけを副担当業務として主張しているにすぎません。実際、1年半前の当時の原告からそうした積極的な申し出や要望が私や他の職員に寄せられたことはなく、職を離れた今になって当然のように主張しているのは、業務意欲の存在を正当化するまやかしにすぎません。」(3ページ。42~48行目)と言っていますが、全くナンセンスというほかはありません。なぜなら、「展示資料の借用、図録作成、展示設営のコンセプト作り、ポスター作成」は主担当、副担当を問わず、展覧会担当者の最大の関心事であって、私個人の「独りよがりな、自分自身の関心事」ではないからです。また私は、これらの仕事は副担当の業務だとは一言も主張していません。被告の歪曲です。
 被告は同じくこの箇所で、「実際、1年半前の当時の原告からそうした積極的な申し出や要望が私や他の職員に寄せられたことはなく、」と開き直った言い方をしていますが、私は、「啄木展」オープンのまだ2ヶ月以上も前に、主担当でもなければ副担当でもない被告から、いきなり「啄木展のところで予算(啄木展の当初予算は370万円強)を大幅に超過してしいる」と切り出され、平然と横車を押し通そうとする被告の態度と、話の内容に二の句がつげませんでした。被告は職員に対してだけでなく、学芸員実習の学生にも、誰彼かまわず「ホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)」を説いてまわっていましたが、被告が実践する「ホウレンソウ」とは、こういうことだったのかもしれません。それだけでなく、被告が予算の超過支出を切り出した5月12日の3日前、5月9日に私は、小樽の啄木忌の講演会を聞くために早退したいと申し出ましたが、ただそれだけのために、5月10日、被告から執拗にトリビアルな質問を受けていました。こういうことが立て続けに起こっている状況のなかで、私にどういう言い方が可能だったでしょうか。被告は自分の態度を棚に上げて、私の側に非があったかのように言っていますが、これも事実の歪曲と言うしかありません。
 なお、結びの「職を離れた今になって当然のように主張しているのは、業務意欲の存在を正当化するまやかしにすぎません。」という言い方は、どう理解していいのか。解釈に苦しみます。正当な業務意欲を持っていたことを正当に主張することは、「まやかし」なのでしょうか。

④「逆に、副担当業務であり、かつ業務命令を受けながら結果的に着手せず済ませてしまった仕事が、「訊ねてみたい北海道の文学碑」と題された「文学碑データベース」の更新作業です。このデータベースは検索用の端末機を、前年度から常設展示室入り口ロビーに、7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に配備して入館者が自由にデータ閲覧できるようにしている映像展示資料の一つです。」3ページ39行目~4ページ3行目)
 文学碑データベースの検索機の問題については、被告は何か特別にこだわる理由を持っていたらしく、このようにこだわったいたわけですが、まず明白な間違いを一つ指摘しておきます。先ほども述べましたように、私はS社会教育指導主事の依頼で、7月11日には、釧路のK氏のところへ資料を借りに出かけていました(
甲67号証)。私は予め「出張用務願」(甲45号証)を業務課に提出しており、7月11日当日は、その予定通り自宅から釧路に直行し、ほぼ一日を出張業務に費やしています。借用してきた資料を納めておくために、当日午後8時30分過ぎに文学館に立ち寄りましたが、その時は被告には会っていません。被告が言うような、「7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に配備して」ということはあり得なかったわけです。
 もっとも、被告は原告の要望があったのは7月11日以前のことだ、と主張するかもしれません。もしそうならば、被告は、何日に、どのような理由で、私が検索機を常設展示室内に移すように要望したのか、証拠に基づいて証明する必要があります。
 
 念のため検索機が設置された経緯を簡単に説明しておきますと、平成17年11月2日に北海道文学館の開館10周年と記念行事と常設展リニューアルが行われましたが、それに先立ち、リニューアルの一環として北海道内の文学碑のデータベースを作ることになり、平原学芸副館長の依頼で、私が作成に取りかかることになりました。データの収集に関しては、従来の北海道文学ガイドブックや北海道文学史を参考にするだけでなく、神谷理事長の名前で道内の各市町村に協力を依頼し(
乙8号証)、私自身もカメラを持って文学碑の写真を撮りに出かけました。こうして750点近い文学碑のデータが集まり、検索機に入力して、11月2日には来館者に披露し、また、北海道立文学館と財団法人北海道文学館の共編『ガイド 北海道の文学』(平成17年11月2日)に、「データベース 北海道の文学碑」として載せました(甲68号証)。これによって、私の文学碑データベース作成の作業は完了したことになり、その後は、各市町村から新たな情報が入った場合、私が更新をするという申し合わせになっていました。これは10月28日の事柄に関係するわけですが、平成18年度にも引き続き私が文学碑データベース充実の作業に従事するという意味の「業務命令」は出ていません。被告の作文です。もし被告が「神谷忠孝財団理事長や毛利館長にも原告が担当しての更新業務の着手を報告済みでしたし乙第1号証4ページ13~14行目)と主張するのであれば、誰が、いつ理事長や館長にその事について報告したのか、具体的に証拠を挙げつつ立証しなければなりません。被告は先に引用した文章の次の段落で、しかしながら、このデータベースの更新作業は、その後半年のあいだ私や他の職員に対して相談や報告がなかったのはもちろん、何らの立案や検討が行われることもなく、私が進捗状況を原告に確認した10月28日(土)の時点において、今般の訴状に原告が自記しているとおり「いいえ、特に何もやってませんでした」という状況にあったのです。」(4ページ、9~13行目)と、鬼の首でも取ったかのごとく、得々と書いています。しかし、原告の「訴状」には、「文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、原告は更新を行っていなかった。原告は「いいえ、特に何もやっていませんでした」と答えた。」と書いています。被告は検索機に関する申し合わせや、「訴状」の文脈を踏まえず、むしろ故意に無視して、極めて作為的な書き方をしていると言わざるをえません。
 このことを確認して、検索機の位置問題にもどりますと、開館10周年記念行事に合わせて、平原学芸副館長は業者に頼んで、検索機を常設展示室の奥に設置しました。併せて、平原学芸副館長は常設展示室の入口を入ったすぐのところに読書コーナーを設けて、文学書を置き、常設展に入ったお客さんが自由に読めるようにしました。これは必ずしも悪い試みではなかったと思いますが、間もなくして、受付の女性から、「これでは困る」という意見が出されました。というのは、常設展示の入口を入ったところに置いてある本を読んだ来館者が、そのまま観覧料を払わずに展示を見て周り、帰りしなにも受付に観覧料を払わない可能性が考えられ、これにどう対処するかという問題が出てきたからです。その意見については、H学芸課長と学芸課職員が協議した結果、検索機と読書コーナーを常設展示室内からロビーに移すことにしました。
 検索機の位置について、私が知っているのはここまでです。その検索機が何日に常設展示室に移し変えられたか、その事情は全く知りません。ただ、少なくとも「7月11日(火)からは原告の要望を受けて常設展示室内に配備して」ということはあり得ないことは、先ほど紹介した私の行動からも明らかでしょう。なお、参考までに、この日の直前の私の動きを紹介しますと、7月8日(土)の午後からは外勤のため三岸好太郎美術館に行き、その後は館にもどらず直帰しています(
甲46号証 原告手帖)。9日(日)は非勤務日、10日(月)は休館日のため連休でした(甲56号証参照)。したがって、7月11日直前の私の何らかの言動を、被告が、私の端末機に関する要望と聞き間違った(そして、日にちを記憶違いした)という可能性はほとんどない。そう言うことができます。
 そして最後に、「このデータベースは検索用の端末機を、前年度から常設展示室入り口ロビーに、7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に配備して入館者が自由にデータ閲覧できるようにしている映像展示資料の一つです。」という被告の文章は、一体どういう構文なのか、大変に分かりにくい。「前年度から常設展示室入り口ロビーに」という文言は、どこにつながるのか。これは、「7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に」を飛び越えて、「配備して」とつながるのでしょうか。そうすると「入館者が自由にデータ閲覧できるようにしている」という文言は、「前年度から常設展示室入り口ロビーに、……配備して」を受けることになるのか、それとも「原告の要望を受け常設展示室内に配備して」を受けているのか、何だか大変ややこしい。被告が証人台に立った折には、念のため聞いてみたいところです。
 ただ、現実問題として言えば、「常設展示室内入り口ロビー、……に配備して」であるほうが、来館者には便利なように思われます。

3)「3 学芸業務に対する原告の経験」について
①「前年度までの業務は、収蔵資料の解読翻刻、収蔵資料の整理登録作業、常設展の更新、文学碑データベースの作成などであり、整理業務、研究業務が中心でした。すなわち、業務上取り扱う資料のほとんどは当館の所蔵資料であり、その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分であったということです。」4ページ33~36行目)
 被告は自分が直接に見聞きしたはずがない、私の過去の業務に関して、事実に反することを、このように極めて断定的に書いています。
 前年度まで(平成16年7月16日から平成18年3月31日まで)の私の業務はほとんど事務室内、および隣接する資料整理室(この2つの部屋の間に隔壁はない)で行われており、被告の陳述は全く事実に反しています。
 被告は平成18年(2006)年4月14日(金)に、自分と平原学芸副館長(当時)が私に出した依頼によって、はじめて私が勤務場所を閲覧室と収蔵庫に移さざるを得なかった事実を、ここで故意に歪曲している。「新刊図書の収集、整理、保管の業務を日常的に手伝ってくれ」という依頼があったたからこそ、私は、登録雑誌を持って始終収蔵庫に出入りしなければならなくなったわけです。また、閲覧室における来客対応にあたることになったからこそ、1日中閲覧室で過ごすという状況も珍しくなくなったのです。そのような依頼を受ける以前は、資料の整理登録やデータベース作成も事務室の自席にあるパソコンで行えば済んだのであり、私は他の学芸職員や事務職員と変わらず、同じ場所で、共に勤務時間を過ごしていました。
 被告は、そのような前年度までの状況を知り得ないはずにもかかわらず、きわめて断定的にこの箇所を記述している。被告があくまでこの点を主張するならば、そのような原告の勤務状況をどのように知ったのか、その証拠を明示しなければなりません。

②「18年度に担当した『二組のデュオ展』などの展覧会事業の実務経験はまったくなく(4ページ38~39行目)
 被告はさらに、原告の過去の業務について嘘を重ねています。
 私は平成17年(2005)2月に開催された企画展「北の風土の批評精神 発生と展開~風巻景次郎から小笠原克へ~」(2月26日~3月27日)において、展示担当だったO学芸員(当時)の依頼により、展示資料の翻刻・データ入力及び展示作業のアシスタントを行っています(
甲69号証 図録『北の風土の批評精神』)。この展覧会の担当は、本来は平原一良学芸副館長(当時)とO学芸員でしたが、平原学芸副館長が主に図録の構成や印刷所との交渉を担当していたため、資料翻刻等の下準備や現場での展示作業は、すべてO学芸員と原告とが協力して行いました。
 私はこの年度(平成16年度)の7月から文学館勤務を始めたため、展示事業のいわゆる主・副担当としては名前が残っていません。しかし、その業務を証明する一つの証拠として、「平成17年度学芸員資格無試験認定受験者調書」(
甲70号証)があります。この学芸員資格申請のため文部科学省に提出した書類には、「北の風土の批評精神」展での原告の担当部分と成果とが明記されていますが、この書類の提出に当たって、提出者の博物館施設における勤務を証明する文書を添付する必要があり、私はそれを北海道立文学館に依頼し、平原学芸副館長(当時)とM業務課長(当時)の2人がこれに目を通し、内容について了承しています。
 私はその他にも、平成16年度の企画展「仙花紙からの出発~雑誌にみる「戦後」の姿~」(平成16年12月4日~12月26日 担当はH学芸員(当時))、平成17年度の企画展「現代少年少女詩・童謡詩展」(平成17年4月23日~6月12日 担当はH学芸課長(当時)・S社会教育主事)、ファミリー文学館「春を待つ子どもたち~いわさきちひろ複製画展~」(平成18年2月25日~3月21日 担当はA司書(当時))においても、展示室において展示業務の手伝いをし、各担当者から実務や展示技術について詳細に教わりました。「北の風土の批評精神展」をも含むこれらの経験は、原告自身が展覧会を担当する上で、非常に役立っています。
 多分被告は、道立文学館の刊行物や公式記録の類を手に取ることなく、ただ自分の思い込みだけで、私を貶めたい衝動に駆られて書いていたのでしょう。その結果、被告は、平成17年度が道立文学館にとってどういう年であったかを見落としてしまったようです。この年は、道立文学館の開館10周年に当たり、常設展示の全面的なリニューアルを行うことになりました。リニューアルの主担当は平原学芸副館長であり、私が副担当でした。11月2日のリニューアル・オープン直前、職員全員がどんなに忙しい思いをしたか、その時の平原学芸副館長の仕事ぶりはどうであったかについては、平原副館長の「陳述書」に対する私の反論「準備書面(Ⅱ)-3」で詳細に書いておきましたので、ここでは繰り返しません。ただ、勤務時間の3分の1も文学館内にいたことがない平原学芸副館長に代わって、私は他の職員と協力して、何とか11月2日にリニューアル・オープンに間に合うように努力し、そのためには非出勤日を返上し、夜も9時まで残って作業を続けたこと、これだけは確認させていただきます。
 平成17年度に何があったのか、まるで無関心な被告はいとも気軽に、私の業務に関して、先ほどの文章に続けて「その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分で、」と断言していましたが、私は以上の他にも、平成17年度には、H学芸課長(当時)から依頼を受けて、2006年2月15日(水)の1日間、北海道立文学館における学芸員実習のうち「歌田資料の配架準備」についての実習指導を担当しています(
甲71号証「2005年度 北海道立文学館学芸員実習について」)。
 以上の証拠からもわかるように、原告の業務が「一人で黙々と処理すればよい作業」ばかりであったとか、「展覧会事業の実務経験はまったくなく」という言辞は、事実と完全に相違しています。
 この箇所に関しても、被告は、私の前年度までの勤務状況を直接には知り得ないはずにもかかわらず、きわめて断定的に記述している。被告があくまでこの点を主張するというのであれば、私の勤務状況を何によって知ったのか、証拠をあげつつ論証しなければなりません。

 被告は以上のごとく虚偽の断定を重ねた挙句、次のように私の事務能力や理解力を貶める言葉を発しています。
③「したがって出張のように渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり、そしてそれらのために内部調整を進めながら事務事業を遂行するということに理解が及んでいなかったのです。」5ページ1~3行目)
 私としては、事実をもってこのような侮蔑的な個人評を覆すしかないわけですが、私は平成17年度末、文学館紀要として位置づけられている刊行物『2006 資料情報と研究』(
甲72号証)の編集を担当しました。この時はほぼ私1人で、印刷会社・福島プリントと、仕様・用紙・発行部数等の打合せを行い(甲73号証の1・2)、もちろん経費の事では、福島プリントと同時に業務課とも打合せを行い、必要な書類も作成しています。文学館内部の執筆者、神谷理事長・平原学芸副館長(当時)・H学芸課長(当時)と常に意思疎通をはかると共に、文学館から転出していたA前学芸課長(現・北海道教育委員会生涯学習部文化課主査)とも密接に連絡を取り合い(甲73号証の3)、編集作業を進めました。その傍ら、私自身、論文「共鳴する空間―中戸川吉二と里見弴の北海道/東京―」を書き下ろしました(甲73号証の4)。この紀要は、平成18年3月25日に刊行されたわけですが、それは被告が〈文学館に着任した〉と主張している同年4月1日の、わずか6日前のことであり、被告は当然それを手に取っているはずでず。

④「さらには、そのようにして組織で仕事を進めるという意識も薄かったのではないかと思います。当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても、連帯意識や協調性に乏しく組織社会における適性を欠くものでした。」5ページ3~6行目)
 遂に被告は証拠となる事実を挙げることなく、原告の社会的適性の欠如という名誉毀損の言葉を発するに至ってしまいました。
 被告がここで言う「当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても」という言葉は、先ほど引用した「5ページ1~3行目」の文脈を合わせて勘案するに、私が渉外事務や、経費支出を要する事務について未経験であり、「組織で仕事を進める」という経験にもきわめて乏しかった、ということを主張しようとしているのだと思われます。
 その主張がいかに事実無根の独断であったかは以上に証明したところですが、被告は自分に立証責任が生ずるだろうことを顧みず、いわば自分の独断に煽られる形で、原告が北海道立文学館に勤務する前の就業経験にまで言及して、原告の「組織社会における適性」の欠格を強調する言葉を吐いています。そうである以上、被告は自分の言葉に責任を持たねばならず、そのためには、以下に挙げる原告の経歴と業務内容とを調査・熟知した上で、被告自身の主張を裏づける証拠を具体的に挙げなければならないでしょう。(参照・
甲70号証 履歴書)
a)私は平成元年度および2年度、北海道釧路東高等学校において国語科教諭として勤務しました(平成3年より北海道大学文学部大学院に入学のため退職)。その間、茶道部顧問を務め、部費の会計も担当しています。また平成2年度には進路指導部(分掌)に入り、日常的に学校を訪れる民間企業人事部役員への対応にあたっていました。
b)私は平成9年3月に、北海道大学大学院文学研究で文学博士の学位を取得しました。私自身の専門は日本の近代文学の研究ですが、同年5月、北海道大学大学院文学研究科言語情報学講座の教授に頼まれて講座助手となりました。当時、新たに編成されたばかりの言語情報学講座においては、まだ所属する院生も若く、助手のなり手がいなかったためです。講座助手は将来的には大学や研究所の研究職に就くことが予定されたポストですが、その主な仕事は大学院生や学部学生の共同研究室の管理や、学生・院生の研究の相談と助言、教授や助教授の講義のサポートなどです。その間、講座の会計業務や、文学部会計掛との交渉・折衝を行ってきました。
c)ただし、この助手ポストは翌年の3月一杯で、文部省に返上することになりました。文部省が全国の国立大学に教官ポストの削減を求め、北海道大学としては教授・助教授の数を減らすわけには行かず、助手のポストを犠牲にせざるを得なかったためです。その結果私は言語情報学講座の助手を辞めることになりましたが、北海道大学の配慮で、平成10年度から平成12年度まで、文学部の事務補助員として勤務することになりました(期限は3年)。平成10年度は文学部図書掛に、そして平成11・12年度は文学部北方文化論講座に勤務したわけですが、北方文化論講座でも、この時期助手ポストが文部省に返上されていたため、実質的には原告が事務助手の役割を果たすことになり、職務内容は、言語情報学講座助手の時代とほぼ同様でした。
 なお、私が北海道立文学館のボランティアとしてデータベース作成作業に入ったのは、この直後の時期のことです。
d)さらに私は上記事務補助員時代、平成11年度よりほぼ毎年、北海道教育大学釧路校より要請を受け、集中講義の非常勤講師を務めていています。北海道立文学館研究員だった時期には、同校も配慮して私に依頼をして来ませんでしたが、昨年(平成19年)8月には授業が復活し、今年度も継続する予定です。
 ちなみに、もし私が言語情報学講座の助手時代に北海道教育大学釧路校から非常勤講師の依頼があったとすれば、私は講座制度上の上司である教授を通して、講師依頼受諾の可否を教授会に諮ってもらったはずです。なぜなら、国立大学の公務員である助手が他大学の講師を兼任することは、教授会の承認なしには許されないことだからです。承認を必要とするのは助手だけでなく、教授も助教授も同様でした。また、大学の勤務時間は午後5時までとなっていましたが、他大学の夜間の講義の非常勤講師となる場合も、同様な許可が必要でした。公務員には職務専念義務があるからです。
 しかし、私が助手ではなく、非常勤の事務職員となってからは、以上の手続きは必要ありませんでした。非常勤の事務職員は公務員ではなく、ですから勤務契約時間外の行動に関しては、大学に許可を求める必要がなかったからです。もちろん何日か大学の勤務を休むわけですから、講座の教授や学生たちに事前の了解を取ることにしていましたが、基本的には自分の休暇を取って釧路の大学まで教えに出かけることは、私の自由でした。
 この助手の立場と非常勤事務職員の立場の違いは、財団法人北海道文学館における正職員と嘱託職員の違いに極めて近い。このことは、平成18年度の6月一杯まで副館長だったA氏はよく理解してくれていたと思いますが、その後副館長となった平原一良氏と被告は、A氏を通して話をしてもらっても、私が説明しても一向に理解できない。理解できないまま、私の組織に対する帰属意識が希薄であるとか、勤務態度に協調性がないとか、見当違いな人格非難を繰り返しているわけです。
 なお、私が大学の助手や事務職員の時代に学んだことの一つに、公務員の倫理規定があります。講座の要請で、外部から第三者評価委員会の委員に来てもらったりする場合、委員に出す食事の経費は千円までと、上限が決まっていました(当時)。それ以上のものを出せば、饗応になってしまいます。被告は日本近代文学館へ資料の借用と返却に出かけ、池澤夏樹氏と札幌や帯広で行動を共にし、いずれに対しても資料のレンタル代や、講師謝金などで、かなり高額の道負担金、あるいは財団の自主財源金を払っています。もし被告がその際、日本近代文学館の理事長・職員や池澤夏樹氏から、万が一にも饗応を受けたり、または財団がその人たちを接待する会食の場に陪席したりすれば、もちろんそれは公務員の倫理規定に違反することになります。私の考えによれば、以上のようなケジメをきちんと守る意識があってこそ、職場の人間同士だけでなく、外部の業者や市民との信頼関係を構築することが可能になるはずです。
e)以上、私は、北海道立文学館に勤務する以前にも、様々な組織の中で、そのセクションの職員と協力・連携し合いながら業務を遂行してきました。経験的にも、単に教育職のみに従事した場合よりは、はるかに外部業者との接触・交渉も多かった。その時々の役割に応じて会計業務を任されていたことは言うまでもありません。
 被告は、私に関する「組織社会における適性」の欠格を指摘していますが、そうである以上は、上記の原告の経歴を全て踏まえた上で、私がどの期間、どの職務の時に「連帯意識や協調性に乏しく」、「組織社会における適性を欠」くと見られるような勤務ぶりであったのか、証拠を挙げつつ明らかにしなければなりません。もし被告によって具体的な指摘がなされないのであれば、被告は自分が知り得ない事について、当て推量で原告の人格を誹謗中傷し、裁判という場において、偽証と知りつつ、故意に原告を貶めようとしたことになる。そのことの是非については、被告が証人台に立ったとき、しっかりと確認したいと思います。

⑤「実際、展覧会業務に関する原告の経験のなさは、『二組のデュオ展』の準備業務の遅延や作品借用の際のトラブルとなって露呈してしまいました。原告がホテル宿泊を強いられたと主張しているこの展覧会の展示作業においては、2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの、原告がなすべき展示設計や解説パネルが出来上がっておらず、連日、皆待機を余儀なくされていたというのがその実情でした。」5ページ20~26行目)
 この記述も全く実情に即していません。私はすでに、平成19年(2007)2月8日(木)以前の段階で展示設計を終えていました。――なお、直前に割り込んできた「イーゴリ展」の会期は2月3日(土)~8日(木)。――私は2月8日(木)が非出勤日であり、翌9日には岩内・木田金次郎美術館に絵画の借用に行かなければならなかったため、副担当のA学芸員とFAXで連絡を取り合い、取り急ぎ移動壁の配置と、展示ケースやパネルの配置、挨拶文とコーナーサインの掲示を頼んでいます(
甲74号証)。
 この頃、キャプションはすでに刷り上がっており、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるまでの段階まで来ていました。解説パネルやコーナーサインの内容も、パソコンへの打ち込みは完了していました。なぜなら原告は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していたからです(
甲75号証の1)。そして、展示設計をしながら展示品を絞り込み、解説文を作り、同じキャプションや解説文を図録にも流用しました(甲75号証の2・3)。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと配慮したからです。
 それだけでなく、私は平成19年1月18日夕刻に、印刷会社・アイワードに図録原稿を入稿しています(
甲48号証の2 手帖参照)。1月18日に入稿して校正も経ているからこそ、図録は展覧会オープン当日の2月17日に完成し、納品されたわけです。
 それ故「原告がなすべき展示設計や解説パネルが出来上がっておらず」という被告の主張は、まったく事実に反しています。被告は「連日、皆待機を余儀なくされた」と言っていますが、「待機」の意味が、「準備が整うまで、なすこともなく、腕をこまねいて待っている」のことならば、そういう意味の「待機」は全くありませんでした。そもそも「2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの」という言い方も不正確な言い方で、確かに14日、15日、16日は財団職員のO司書、N主査、N主任が遅くまで残って設営作業を手伝ってくれました。このような協力は「二組のデュオ展」に限ったことではなく、平原副館長の「陳述書」に対する反論で詳述する予定ですが、平原一良学芸副館長(当時)が主体となって行った「常設展」リニューアル作業でも行われたことであり、例外的なことではありません。「二組のデュオ展」では川崎業務課長も不測の事態に備えて午後8時近くまで残ってくれました。この設営作業の間、顔を出さなかったのは被告と平原副館長だけでした。
 ただ、駐在道職員に関して言えば、A学芸員は「二組にデュオ展」の副担当であり、主担当の私と共に責任を負っていたわけですから、「加勢」とか「待機」には当たりません。もう一人のS社会教育主事は、15日には個人的な事情があって皆より早めに帰りましたが、手伝ってくれたことは間違いありません。そして少なくとも私の立場からみる限り、原告とA学芸員の準備不足のために、財団職員の3名とS社会教育主事がなすこともなく腕をこまねいて「待機」していることはなかったと思います。
 なお、もう一言付言しておけば、215.42平方メートルの特別展示室をフルに使用した、展示品143点に及ぶ展覧会において、もしも被告が主張している如く、オープニング(2月17日)直前の15日・16日の段階で「連日、皆待機を余儀なくされた」のならば、その当然の帰結として、17日のオープニングには展示は間に合わないという事態が出来(しゅったい)したはずです。しかも被告は、構想者であり主担当である原告が、「応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってし」まったと言う(
乙1号証5ページ31行目)。では、残された人々によって、展示の完成は、いかにして可能となったのだろうか。この興味深い点について、ぜひとも原告は、証人台に立つ被告の口から、証拠に基づく状況の再構成による詳細な説明を聞きたいと考えています。

⑥「逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした。」5ページ31~33行目)
 こういう見え透いた嘘をついてまで被告は私を貶めたいのか、とただただ呆れるばかりですが、もちろん私が展示設営を手伝ってくれた他の職員を残して先に帰宅したという事実はありません。
 このことは原告の「準備書面(Ⅱ)―1」でもある程度言及しておきましたが、私が「二組のデュオ展」における主担当であることは、北海道立文学館の警備員にも周知の事実でした。また、通常の仕事の段取りとして、その日の展示作業が終わった際には、現場責任者(主担当)が警備員(1階警備員室に勤務)に「今日の作業は終わりました」と挨拶に行き、警備員はそこで階下に下りて、特別展示室を消灯し、シャッターを閉めるという手順になっていました。ですから最後は、主担当の原告が必ず警備員に連絡しなければならない。もし何らかの都合で副担当が連絡に行ったり、或いは主担当が不在、もしくは先に帰ってしまったなどという常ならぬ状況があったとすれば、必ずや警備員の注意をひくはずです。第一私は14日と15日は札幌のホテルに泊まっています。ホテルに宿を取っている人間が、手伝ってくれている職員を残して、先に帰ってしまう理由があるでしょうか。
 もしあくまでも被告が、私が他の職員を残し、展示設営現場を放棄して先に帰宅したと主張するのであれば、他の職員の証言・証拠に加えて、当時の警備員からの証言・証拠をも提示する必要があると考えます。

⑦「また、この『二組のデュオ展』では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。」5ページ34~37行目)
 被告が言う「道内美術館」とは、一体どこにあるのでしょうか。私は「二組のデュオ展」に際して、平成19年(2007)2月9日に、絵画の現物を木田金次郎美術館と北海道立近代美術館から借用し、北海道立文学館に搬入していますが、被告が言うところの「道内美術館」には行ったことはありません。
 それに私は、上記のどちらの美術館の職員からも、「作品図版カード」なるものの持参を求められたことはありません。実際の手続きは以下の如くでした。
a)私は木田金次郎美術館のO学芸員と平成18年(2006)5月25日から電話で連絡をとりはじめ(
甲76号証の1)、6月3日には最初の出張におもむいて、「二組のデュオ展」のコンセプトの大略を伝えました(甲76号証の2)。美術品の借用・輸送に関する凡その方法も、この時、O学芸員から説明を受けています。
 そして、9月からは再びO氏とメールのやりとりを開始し(
甲76号証の3)、11月29日には再び木田金次郎美術館に出張しました(甲76号証の4)。この時には、借用したい絵画を、北海道立文学館に所蔵されていた木田金次郎の画集からコピーして持参し、所蔵を確認して、O学芸員からは貸出には問題がない旨の返事をもらっています。さらにその後、フィルム画像借用・著作権の許諾問題等で12月21日・12月26日・1月26日・2月3日とメールで打合せを重ね(甲76号証の5)、2月9日、絵画を借用することになったわけです。
 借用に際しては、O学芸員が予め「木田金次郎美術館 収蔵作品管理ファイル」(
甲76号証の6)のコピーを用意し、私と共に作品の状態をチェックしてそのコピーに記入したあと、さらにそれをコピーして、私に渡してくれました。これは、その時点での作品の〈状態の記録〉を正しく私と共有するためです。そしてO学芸員は、「返却の際にはこちらをお持ちください」と私に言いました。
 私は、O学芸員の求めどおり、同年3月20日の作品返却の際には「木田金次郎美術館 収蔵作品管理ファイル」のコピーを木田金次郎美術館に持参して、再び共に作品の状態をチェックし、「大丈夫です。OKです」と告げられたのち、篤く御礼を述べて館を辞去しました。
 以上、約10ヶ月の間、私はO学芸員から「作品図版カード」を持参するようにとの指示は受けていません。またそれがないからという理由で、交渉に問題は生じたこともありませんでした。
b)私は平成18年(2006)11月26日以降から、北海道立近代美術館の学芸第一課所属・T学芸員と、木田金次郎作品の貸借についての問い合わせを開始しています(
甲77号証の1)。
 まず展示予定作品の「風景(下谷あたり)」について、展覧会図録に図版を入れる予定があったため、同年12月19~20日にその所蔵を確認し(
甲77号証の2・3)、翌年の平成19年(2007)1月16日に、同作品の35㎜カラーポジスライドフィルムを借用しました(甲77号証の4)。またそれと平行して、12月28日、T学芸員が私に、現物貸借の際に必要な書類の書式をメールに添付して送付してくれましたので、私はそれに所定の事項を記入し、1月23日に申請書を近代美術館に郵送しました。
 また、T学芸員が私に、1月23日付のメールで、「借用書のほうは、集荷時にお持ちください」と指定してきましたので(
甲77号証の5)、私は2月9日の借用当日に借用書(甲77号証の6)を持参しましたが、T学芸員は、それ以外には特に何も原告が持参することを求めて来ませんでした。その後の3月20日の作品返却を含め、交渉の全体を通じても特に問題は生じていません。
 上のように、私はどちらの美術館の職員からも、一度も「作品図版カード」なるものの持参を求められたことはありません。そもそも借用する側が、借用する以前の時点で用意し持参する「作品図版カード」とはいかなるものか。被告の主張から判断するに、その「作品図版カード」は北海道立文学館の側が予め所持していなければならないことになります。しかし私は、他の職員からそういうものが存在することを教えられたことはありませんし、借用に出かける際には持参するように注意されたこともありませんでした。
 もし被告があくまでも、「原告はこうした場合「作品図版カード」を持参すべきであった」、もしくは「原告が「作品図版カード」を持参しなかったことで「道内美術館」からクレームがついた」と主張するのであるならば、被告は、私が持参すべきだった「作品図版カード」の現物を提示し、合わせて、道内のどこの美術館の誰からクレームがついたのか、被告が「お詫びの電話を入れ」「釈明した」相手は何という人だったのかを明らかにしなければなりません。もしそれができなければ、被告は、私の学芸研究員として自覚と知識を貶め、名誉を毀損するために、虚偽の陳述を行ったことになります。この点についても、私は被告が証人台に立った際、しっかりと確認をする予定です。

 次は10月28日のケータイ・フォトコンテスト問題です。
⑧「先に触れた『文学碑データベース』更新業務について、訴状において『フォトコンテスト自体、おそらく文学館にとって大きなイベントとなり、予算をつけなければならない。原告には、果たして嘱託職員の自分がそういう企画の中心的なポジションにつくことが出来る立場なのか』と記していますが、実際5月2日(火)には、そのとおり中心的立場で予算積算を含めて企画立案するよう平原学芸副館長から指示を受けたにもかかわらず、結果としてその検討を行っていなかったということが10月28日(土)に判明したのです。この時原告はひどく慌てた様子でしたが、問題を5月2日の振り出しに戻して責任を回避しようといきり立ち、逆上してしまったというのがその日の原告の行動です。」6ページ2~11行目)
 平成18年10月28日に起きた出来事については、原告の「訴状」の「第2 違法事実」の1―③、および原告の「準備書面」の(11―1)・(11―2)に書いてある通りです。私は特に興奮も逆上もせず、いったん事務室に上った後は、「準備書面」(11―2)の(a)「被害の事実」の5行目にある如く、被告が昼食をとり終わるのを待って、落ち着いて改めて被告の言い分を聞こうとしました。しかるに被告の方が、「もう二度も話したから、その通りのことだ」と言って話し合いを打ち切ろうとしました。
 なお、この時の被告と私の言葉のやりとりが〈昼食〉の時間をはさんだものであった――つまり、仮にどちらかが精神的に高ぶっていたにせよ、冷静になれるだけの充分な時間的インターバルが置かれていた――ことについては、原告の「訴状」及び「準備書面」だけでなく、私が出来事の直後に最初に道立文学館側に提示したアピール文「去る10月28日に発生した 〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び 北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(
甲17号証)の冒頭部分においてもすでに記載があります。この点について、これまで私が誰かから反論されたことはありませんし、否定をされたことは一度もありません。

 しかし被告は、自分のほうがいきり立っていたにもかかわらず、どうしても私のほうが感情的だったことにして、責任をすり替えてしまいたいようです。
⑨「こうした激情が会話を阻害するのは言うにおよばず、一方的に話を打ち切り背を向けてしまう原告の態度を見て、冷静な議論が必要だと私はこの時気づいたのでした。」6ページ15~17行目)
 平成18年10月28日のこの出来事において、私が特に烈しい激情にかられたという事実はありません。むしろ被告があくまで私の抗弁や釈明をまったく相手にしない態度に終始したので、やむを得ず私は、今後この問題が蒸し返された場合、お互いにどのような主張をしていたかを記録しておこうと、録音機を出し、「話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい」(原告の「準備書面」11―2)と言いました。その途端に被告の声は、自信なさそうに小さく、低くなってしまいました。そのことを被告は、「その前から自分は冷静に話していたのだ」と取り繕いたいのかもしれません。被告は臆したのか、冷静だったのか、その録音のテープは私の手元に残っていますし、音声データはいつでも再生できます(
甲49号証 録音テープからの再生記録参照)。それを聞いていただければ直ちに明らかですが、話を打ち切ったのは被告のほうであって、私が「激情」にかられて「一方的に話を打ち切」ったわけではありません。それまで笠にかかって「私がこの学芸班を管理しているのだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよ」と言い募り、管理者である自分に逆らったらこの組織にはいられなくなるぞという意味の恫喝を口走っていた被告が、録音機を前に置かれた途端に、急にトーンダウンして、話を切ってしまった。そこで私は、「私は、この問題について、これからも追求してゆくつもりだ。その事は、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しましたから」(甲17号証)という意味のことを言って話の結びとしました。それがその時の実情です。
 
4)「4 仕事に対する原告の意識」について
①「前年度までの仕事が主に別室で進められていたという習慣もあってのことか、原告は18年4月以降も事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく(6ページ20~21行目)
 この記述も、既に3)の「『3 学芸業務に対する原告の経験』について」で指摘しておいた如く、事実に反しています。前年度まで、私の業務はほとんど事務室内、および隣接する資料整理室(この2つの部屋の間に隔壁はない)で行われており、他の職員と接触のない〈別室〉の作業というのは逆にほとんどありませんでした。
 平成18年度初頭から、私が勤務場所を主に閲覧室と収蔵庫に移さざるを得なかったのは、これも既に2)の「原告の担当業務とその実態」について」の①で指摘しておいた如く、同年4月14日に、被告と平原学芸副館長(当時)に呼ばれて、「『新刊図書の収集、整理、保管に関する』事務分掌は、表の上では担当はA学芸員、O司書になっているが、それを私が手伝う形にして欲しい」と言われて(
甲62号証参照)、閲覧室・共同研究室の運営や文学資料の閲覧に関する業務にもかかわることになったからです。結局3人でローテンションを組んで閲覧室業務に当たることになったわけですが、私が肩代わりをすることもしばしばありました(甲109号証参照)。

②「そのため職員との会話の機会もまばらであったという日常でしたが、やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。」6ページ21~23行目)
 この「陳述書」は、北海道立文学館において学芸主幹として平成18年度から勤務し、平成20年の現在も勤務を続けている被告の文章ということになっています。しかしこの箇所は、とうてい道立文学館の他の職員の日常業務を熟知した人物の書いた文章とは思えません。私が事務室において執務することが少なくなったのは、先に述べた事情のためであって、他の職員もそのことは承知していました。当然のことながら、私が事務室の自席を離れ、閲覧室や収蔵庫で仕事をすることが多くなったからと言って、「職員との会話の機会もまばら」になったということはあり得ないことです。その理由を、以下に順次挙げて行きます。
a)A学芸員は前年度(平成17年度)まで司書であり、しかも文学館に来る前は千歳市の図書館の司書でした。北海道の定期刊行物については特に詳しかったったので、私は、新着雑誌のデータベース入力について、A学芸員から日常的に多くの事を教わりました。登録し終わった図書を収蔵庫に配架する際も、A学芸員と、それぞれ自分の分担の図書を運びながら、一緒に作業することがしばしばありました。また、閲覧室の来客対応についても、それぞれが自分の業務の状態に応じて交代することが多く、利用者から文学的な事項についての質問があった時には、A学芸員に頼まれて私が調査をし、回答をする事もありました。書誌的な質問があれば、逆に、私がA学芸員に頼ることもありました。このように、阿部学芸員と原告とは、主に閲覧室や収蔵庫で会話をしていたのであり、事務室の自席に座り込んで他の職員とおしゃべるすることだけが職場における会話であるはずがありません。
b)O司書とも、状況はほぼ阿部学芸員との場合と同様でした。O司書は、前年度までは財団の学芸員であり、また、財団法人北海道文学館の立ち上げの頃から協力してきた、古くからのベテラン職員でしたので、いわゆる〈北海道文学〉の歴史に関わることや、財団所蔵の資料と書誌的知識については、私はO司書から教わるところが多々ありました。
 以上のことから分かるように、要するに被告は、自分自身が平原学芸副館長(当時)と共に、私に対して「O司書とA学芸員を手伝ってくれ」と依頼しておきながら、その結果この3人が協力しながら業務を行うようになったという事実を完全に見落とし、ただ事務室における現象的な状況をあげつらっているにすぎません。
c)S社会教育主事は道立文学館公式ホームページを更新する担当者であり、更新の際には閲覧室のカウンター奥に置かれたパソコンを使用していました。また、写真画像をスキャナーで読み込む時や、A3以上のサイズの印刷物を刷り出す時などにも閲覧室の機材を利用しており、そうした時には、閲覧室にいる私と普通に言葉を交わしていました。平成18年7月1日にS社会教育主事が原告に釧路のK氏から資料を借りてきて欲しいと依頼したのも(「2)「原告の担当業務とその実態」について」の③)、閲覧室への訪れる機会を利用してのことだったわけです。
d)N業務主任も、O司書と同様、財団法人北海道文学館の立ち上げの時期から関わるベテラン職員で、資料や書類に関して以前からの経緯を知るためには、N主任の知識が欠かせませんでした。また、N主任は、北海道立文学館開館当時から「わくわく子どもランド」等の小児・児童向けイベントを一手に引き受け担当していました(会場は主に地下1階の講堂)。その他、文学館では幾つかの外部の文化・文学団体(小規模な児童文学研究会や短歌会など)に対して閲覧室奥の共同研究室2つをほぼ定期的に利用提供していましたが、その直接の担当者もN主任でした。
 このように、N業務主任は毎日の仕事の中で、2階の事務室を離れ、地下1階の講堂や1階の閲覧室に立ち寄ることがしばしばありました。私の方からも、収蔵庫などで、古い資料の所在等についてN主任に尋ねることがありました。それだけでなく、N業務主任は地下1階展示室受付の業務を行う受付職員(人材派遣会社より派遣)の指導役でもあり、従って、事務室以外の場所でも私とはごく普通に顔を合わせ、日常的な会話も交わしていました。特に共同研究室の依頼が外部から入った時には、私は必ずN業務主任に連絡を行っていました。
e)N業務主査も、またN業務主任と同様、会計収支の関連事項・紙幣の両替・来客からの質問や問い合わせ等の仕事で展示室受付まで下りてきて、受付職員と共に対応にあたることが多々ありました。また、外部業者と対応したり、文学館利用者からの質問やクレームがあれば、先ず真っ先にそれを受けて動くのもN業務主査でした。ですから、デスクワークに支障のない範囲でこまめに館内を廻っているのが普通という業務状況であり、入口ホールや廊下などで私と顔を合わせることも多く、N主査の方が閲覧室に立ち寄って私と会話をしてゆくこともありました。
 以上のように、文学館という文化施設で勤務している以上、各職員が事務室内だけで執務しているという状況はあり得ません。いわゆる幹部職員(管理職)は、外部からの重要な連絡事項等に即応するため、なるべく事務室近辺を離れないようにしていましたが、他の職員は皆、それぞれの立場と責任に応じて館内を動きながら職務を果たしている。私が閲覧室や収蔵庫にいるのもその一環です。そして、各人の動きが交錯する接点で、会話やコミュニケーションが自然に行われていた。これが文学館における職員の業務の実態です。
 この実態を踏まえて、先ほどの被告の記述を検討してみましょう。被告が言いたいのは、私が「事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく」、「職員との会話の機会もまばらで」、それが原因となって「同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました」というところにあるらしいのですが、「原告が事務室で執務することが少ない」ことと、「職員との会話の機会がまばらであったという日常」ということが、どのような関連によって結びつくのか。その点が説明されていません。それだけでなく、被告は「原告の自席不在の執務態度を非難する声」の発話主体を故意にぼかした言い方をしていますが、一体どんな人たちから「原告の自席不在の執務態度を非難する声が」が上がったのか、その点を明らかにしていません。もし非難の声を発した人たちが、文学館内の職員であったとすれば、それは先に名前を挙げたA、O、S、N、Nの諸氏と、平原副館長、川崎業務課長、それに被告自身だったことになるわけですが、実際に非難の声を上げたのは誰と誰なのか、あるいは以上の全員だったのか。被告はそれを明らかにする責任があります。
 私の疑問はそれだけに終わりません。もし実際に誰かから私の「執務態度を非難」する声が上がっていたとするならば、それは何故か。先に述べたように、A学芸員をはじめとする5人の職員も、しばしば事務室内の自席を離れて業務を行っていました。にもかかわらず、なぜ私だけが「事務室内の学芸班の自席で執務」しないという理由で、非難を受けることになったのか。
 被告はこれらの疑問点について、他の職員からの具体的な証拠・証言もあげつつ明確に説明する責任があります。なぜなら、被告の言うところがもし事実無根であるならば、それは私に対する名誉毀損となるだけでなく、A学芸員をはじめとする5名の職員の誰か、あるいは全員の名誉をも毀損したことになりかねないからです。被告が証人台に立った折には、以上の疑問点、問題点について明確な返答を要求するつもりです。

③「職場に対する帰属意識の希薄さを私が最も強く感じたのは、原告がたびたび口にした『私は職員ではありません』という発言です。(7ページ5~6行目)
 これは全くの事実の歪曲というほかはありません。私はそのような発言をした事は一度もありません。そもそも私が財団法人北海道文学館の「職員」であった事実を大前提としなければ、今回の民事訴訟や前回の労働審判だけでなく、平成16年7月16日からの勤務の事実そのものの根拠が消滅してしまうことになるでしょう。このような言葉を私が自ら発するということはあり得ないことです。
 私が「訴状」の「第2、違法の事実」1―③、及び「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の「(2)平成18年5月2日(火曜日)」、同じく「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の「(3)平成18年5月10日(水曜日)」で主張しているのは、文脈からも分かるように、雇用者も被雇用者も共に「嘱託」という職員の立場と権利を明確に了解した上で、改めて業務の範囲を考えなければならないだろう、ということです。
 さらに厳密に言えば、私のほうが「財団職員であるか、ないか」を問題にしていたのではありません。被告のほうが「立派な財団職員だ」という主張を押しつけようとしてきたので、私は、「嘱託」にはその立場に伴う独自の責任があることや、またそれとは表裏一体の関係として「嘱託」には道職員とも、ある意味では財団職員とも異なる権利があることを説明しようとしただけです。ところが被告は、私がその点に言及しようとすると、急に私の言葉を遮って、「立派な財団職員」論や、組織人論を述べ立てる。ついに私は困り果てて、一体被告はどれだけ「嘱託」の立場を理解しているのか、安藤副館長に相談せずにはいられませんでした(
甲26号証)。
 しかし結局、今日に至るまで、被告は以上のことが理解できなかったようです。それは今回の被告の「陳述書」(
乙1号証7ページ6行目・同8ページ38行目)を見ても明らかですが、被告は文学館の職員について、財団職員であるか否か、の二者択一的な認識しか持てず、同じ雇用者のもとにあってもその中には正職員・非常勤職員(たまたま平成18年度にはこの立場の者はいませんでしたが)・嘱託職員があり、また受付における派遣職員があり…等々といった細かい違いを理解することができなかった。現在でもまだ出来ないのではないかと思います。
 ただ、なぜここで被告は事実に反することを述べ立て、「職場に対する帰属意識の希薄さを私が最も強く感じたのは、原告がたびたび口にした『私は職員ではありません』という発言です。」と書き込んだのか、その理由は分かるような気がします。多分被告は、後に
「任用問題が発生して以降急に、原告はそれらの文章の中で自らを『財団職員である』と記述しはじめるなど、原告の言動や文章表現には感情の露見や言説の取り繕いがしばしばみられますが、」8ページ38~39行目)と書いて私の矛盾を露呈させる、その伏線を仕掛けておくつもりだったのでしょう。しかしもちろん私は、任用問題にかかわる文書の中で、「財団職員である」などと主張したことは一度もありません。

④「例をあげれば、『石川啄木展』開幕前日の7月21日(金)の勤務に関して、時間外勤務を原告から拒否された一件を挙げることができます。この日は『カルチャーナイト』という札幌市全域で展開された共通イベントの日で、当館もこれに連携して夜間開館し、原告が副担当である「石川啄木展」のプレオープン、常設展の一般公開をはじめ、舞踊公演や手作り講座などのイベントを夜間に集中して開催する計画となっていました。職員総掛かりで人員配置を検討していた川崎業務課長からの要請により、私は事前に当日の残業と手当ての支給を伝達したのですが、原告は、『私は職員ではありませんから』と言って勤務を拒否し、当日も平然と帰宅してしまったのです。むろん、時間外勤務は個々人の私的な用件や都合が尊重されて当然ですが、原告にとっては、自分に関心のない業務に従事したり組織全体で事業を実施することなど、意識の一部にさえなかったのかもしれません。」7ページ9~19行目)
 平成18年7月21日の勤務に関して、私が被告から残業するように指示された事実はありません。これもまた被告の悪意ある虚言(そらごと)と言うべきでしょう。
 ただ、この虚言(そらごと)は、平成18年10月13日(金)と14日(土)にあった事実を、7月21日(金)にすり替えた、時間的トリックと考えられますので、参考までに、私のノート「道立文学館覚え書」における10月13日(金)および同月14日(土)の記述内容(
甲78号証)を紹介しておきます。
 10月13日は、池澤夏樹展のオープニングセレモニーのある日でした。この日私は、忙しい他の職員たちにかわって午後3時頃から事務室で電話番をしていましたが、午後5時の退勤時間近くになって、急に被告から「今、下(地下1階展示室近辺)に人手が足りなくて、事務室が空くから、管理課がしばらく残ってくれないかって言っているんだが…」と声をかけられました。私は、文学館に「管理課」なるものは存在しないので、被告の言葉をいぶかしく思いましたが、多分「業務課」の言い間違いだと思い直しました。ただ、その日は夜から岩見沢に用事があったので、被告にその旨を伝えて退勤しました。なお、この日、5時に退勤することは、予め川崎業務課長及びN業務主査にも伝えてありました。
 その翌日の14日、私がN業務主査と顔を合わせた時、私が前日のことに関して何も言わないうちに、N主査が「昨日は5時になっても忙しくて、すぐに上に上がってこれなかったの。ごめんなさいね」と言ってくれたので、この言葉によって、やはり業務課は私に居残りなど求めていなかったのだ、ということが明らかになりました。(以上、
甲78号証 ノート)
 被告の「陳述書」(
乙1号証)7ページ9~19行目における主張は、この時の経緯を記憶違いしているか、または意図的に内容をすり替えているのだと思われます。

 ただ、以上のことはそれとして、被告の「今、下(地下1階展示室近辺)に人手が足りなくて、事務室が空くから、管理課がしばらく残ってくれないかって言っているんだが…」という言葉には、被告の考え方の特徴がよく現われている。そう考えられますので、もう少し検討しておきたいと思いますが、それは嘱託(もしくは非常勤職員)と時間外勤務との関係についての被告の考え方のことです。
 言うまでもないことですが、事務系の職員にとって、労働者災害補償保険(労災)に加入していない臨時職員・非常勤職員等が、勤務時間外に職場の中で事故に逢うという事態は、極力避けたい事柄です。もし雇用者側の都合で勤務時間外まで非常勤職員を残らせ、その結果事故に逢ったということにでもなれば、深刻な補償問題が生じるのは必至だからです。雇用者は保険金でそれを賠償することができない。最悪の場合は、雇用者側が労働基準法違反に厳しく問われることになりかねません。
 私は、かつて北大の文学部図書掛に勤務した頃や、北海道立文学館に勤め始めた頃、自発的に居残りを申し出たことがありましたが、当時の責任者(図書掛長や業務課長)から、丁寧に、しかしきっぱりと断られました。そして上記のような事柄を学んだわけですが、課長等のこうした判断こそ、労働者に対する真の配慮であり、また常識的な遵法意識であると、私は考えています。
 ですから、平成18年度の道立文学館において、業務課が嘱託職員の時間外勤務を前提にイベントの人員配置を考えるなどということは、通常、とうてい考えられないことです。
 被告が「業務課」を「管理課」と間違えたのは単なるケアレス・ミスであったかもしれませんが、少なくとも被告は10月13日、業務課が嘱託職員の私の残業を希望している旨のことを私に伝えています。果たして本当に業務課は私の残業を希望したのか。この点について、被告は、川崎業務課長自身の証言ないし証拠を提示する必要があります。もしそれができないならば、被告は何の根拠もなしに、「原告は、『私は職員ではありませんから』と言って勤務を拒否し、当日も平然と帰宅してしまったのです。…(中略)…原告にとっては、自分に関心のない業務に従事したり組織全体で事業を実施することなど、意識の一部にさえなかったのかもしれません。」と、私の人格を中傷したことになる。私はこの点に関しても、証人台に立つ被告の説明を求めるつもりです。
 さらに私の疑問を続けるならば、被告は「事前に当日の残業と手当の支給を伝達」したそうですが、本来想定されるはずのない〈嘱託職員の残業〉に対する「手当」とは、会計上、どの項目からどのような名目で支出される予定だったのか。また、その際の予定金額はいくらだったのか。この興味ある問題に関しても、証人台における被告の明解な説明を期待しています。
 また、なぜ川崎業務課長はそのことを私に直接言わず、被告に取り次いでもらう必要があったのか。私は組織上、業務課学芸班の職員でした。他方、被告の肩書きは学芸主幹であって、会計事務を担当しているわけではありません。被告はどのような権利があって、「手当の支給」を私に伝達したのか。私はそのような伝達を聞いていませんが、被告は伝達した事実を証明できるのか。
 被告があくまで「陳述書」の如く主張するならば、以上の諸点について、具体的な証拠を上げて説明しなければなりません。

⑤「さらにこの一件は、原告の時間外勤務に対する姿勢も明らかにしています。時間外勤務を自己中心的にとらえ、事前の協議や勤務命令の有無にかかわらず、『勤務時間が終わったら速やかに帰って』(訴状)しまおうとしたことを示しています。今般、原告が職を離れた今になって、1年前の『二組のデュオ展』に関わる時間外労働に対する損害を雇用者ではない私に請求しているのも当を得ていませんが、当時も、さらにその後も、雇用者たる財団に対して原告から時間外勤務の申し出や請求があったことはなく、また同じく時間外勤務である休日出勤を振り替えるよう川崎業務課長から指示されていたにもかかわらず、その手続きも行っていません。」7ページ20~27行目)
 嘱託職員の契約時間外勤務に関する被告の認識がいかに間違っているか。この箇所は見事なまでに被告自身の認識不足を露呈してしまったと言えるでしょう。
 ただ、私がこの箇所について指摘したいのはその点だけでなく、この箇所が嘘で固めた書き方になっていることです。
a)財団法人北海道文学館では、嘱託職員の時間外勤務について「事前の協議」をしたこともなければ、私が時間外勤務の「業務命令」を受けたこともありません。
b)私は「訴状」の中で、自分の文章として「勤務時間が終わったら速やかに帰って」と書いたことはありません。「原告は、当時の副館長から『勤務時間が終わったら速やかに帰って下さい』という配慮を受けてきた。」(訴状9ページ)と書いています。分かるように、「勤務時間が終わったら速やかに帰って」云々は、当時の副館長の安藤孝次郎氏の言葉であり、それを私の言葉のように引用するのは、不正確であるだけでなく、不当なすり替えです。
c)私は「二組のデュオ展」に関わる時間外労働に対する損害を被告に請求したことはありません。財団に請求したこともありません。「二組のデュオ展」に関わる時間外労働を「被害の事実」の一つに挙げ、次のようにその違法性を指摘しました。
「原告は被告によって準備を遅延させられたため、2月11日以後、毎夜、午後10過ぎまで文学館に残って準備作業を行い、14日と15日は札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた。その結果、労災に入っていない嘱託職員の原告は、契約勤務時間外の災害については何の保証もない状態で、過重な契約時間外労働とそれに伴う出費を5日間にわたって強いられた。これは原告が被告の妨害によって『労働基準法』第32条に反する長時間労働を余儀なくされ、また、財団側がその事実に関しては、『労働安全衛生法』第71条の2項に反して何の配慮もしなかったことを意味する。そういう結果をもたらし、原告に不当な過重負担を強いたのは、被告が原告に対して行った『刑法』第234条に該当する悪質な業務妨害である。」
 被告は法廷においても、この違法性の指摘を免れることはできないでしょう。
d)「(原告は)雇用者たる財団に対して原告から時間外勤務の申し出や請求があったことはなく」の箇所について言えば、私から自発的に時間外勤務を申し出、逆に当時の業務課長から断られたことは、既に述べてあります。しかし、平成17年の常設展のリニューアルに際しては、敢えて非出勤日を返上し、夜遅くまで作業をしたこと、このことについても既に述べておきました。
e)私は平成18年12月14日(木)に、中戸川吉二に関する資料を貸して下さるKさんと会うため、東京まで日帰り出張をしたことがあります(
甲79号証)。この日は木曜日で、私の出勤日ではなかったのですが、Kさんの都合によりこの日に会うことに決め、朝の6時に家を出て、夜の10時過ぎに帰宅することになりました。私はこのことについて、事前に業務課の了解を取り、併せて翌15日を振り替えの休日にしてもらいたいと申し出ました。しかし業務課のN主査の返事は、「自宅から東京までと、東京から自宅までの時間は、移動に要する時間だから勤務時間に数えることはできません。実質的な勤務時間と認められるのは、Kさんに会ってお話する正味2時間だけです。だから、15日も出勤してもらいたい」ということでした。
 被告は先の文章において、「(原告が)休日出勤を振り替えるよう川崎業務課長から指示されていた」と言っていますが、いつの時点のことなのか、明記されていません。ですから、これ自体に反論することはできませんが、ただ、「二組のデュオ展」の資料返却作業が一段落した平成19年(2007年)3月22日以降に、川崎業務課長から「休日の振替」を示唆されたことについては記憶しています。しかしこの時点では、すでに同年4月1日から私が道立文学館で勤務を継続できないことは確実になっており、あと9日ほどで残務の処理をしてゆかねばならない状況でした。しかも、非出勤日を除けば、勤務日は6日程度しか残っていない。毎日のルーティンワークである新着雑誌の登録作業も、勤務の最終日まで続けねばならない。そんな時期に休日振替を取っても、積み残しの仕事がますます多くなるだけでプラスの意味はほとんどない。そう私は判断し、敢て手続きを取りませんでした。
 私は、東京までの日帰り往復を勤務時間に数えない杓子定規なやり方に釈然としないものを感じていました。しかしそれ以上に釈然としないのは、平成18年度の最後の大きな事業である「二組のデュオ展」が終わり、いわば使い捨ての形で私が雇い止めにされるまでの、残り僅か6日間の間に、「休日の振替を取ってもいい」と言い、私がそれをことわると、「川崎業務課長から指示されていたにもかかわらず、その手続きも行っていません。」と、私の手落ちであったかのようにあげつらう、被告の卑劣なやり方です。この姑息な事態のすり替えが、被告の「陳述書」のライトモティーフだったと言えるでしょう。

⑥「今般の訴状において記述されている明治大学図書館での資料調査に関わる文書処理の一件も、今触れた時間外勤務拒否の事例と同様の視点から、原告の組織人としての自覚の欠如を明らかにしています。すなわちこの事案は、「紹介状」を携えて個人的に研究調査をするという業務態様を改め、文学館という組織の行う研究調査業務の担当者を先方の調査先に通知し、組織として協力を要請する「職員派遣」の公文書に変更したものでした。所属長から所属長あてに事前送付しますので、調査当日の対応や協力体制の面で個人利用以外の便宜を期待することができます。『被告がなぜ“紹介状”とは別の書類を作らなければならないと言い出したのか、少しいぶかしく思った』(訴状)などという原告の文言は、文書変更理由への無理解ばかりでなく、組織として業務を遂行する意識の欠如を自ら証しています。」7ページ31~40行目)
 この問題に関しては原告の「準備書面(Ⅱ)-1」で詳しく反論しましたので、できるだけ重複は避けたいと思いますが、しかし基本的なことは確認しておきたいと思います。日本の大学の図書館は、その大半が、個人的に訪れた市民に対して閲覧の便宜を図ってくれます。外国人留学生は言うまでもなく、旅行中の外国人であっても、パスポートで本人確認ができれば閲覧の便宜を図ってくれます。ですから、ある人が職場の責任者の署名捺印を持つ紹介状を図書館に持って行く、あるいは図書館から紹介状の提示を求められるということは、すでに、その人が個人の資格でゆくのではないことの証拠にほかなりません。すなわち
「「紹介状」を携えて個人的に研究調査する」という被告の言い方は、ナンセンスなのです。
 ただ、この時の明治大学図書館のケースでは、私がマイクロフィルムを閲覧させてもらう関係上、図書館側はマイクロリーダーを確保するために予約が必要(リーダーの機械は台数に限りがある)だと言って来たのであり、当日の本人確認のために「紹介状」が必要だったにすぎません(
甲33号証参照)。まだ明治大学図書館から展示のために資料を借用するわけでもない時点で、「組織として協力を要請する」のだから「公文書」が要るなどという理屈は、実質的に無駄な文書を作らせてしまったことについての単なる言い訳でしかないと言うべきでしょう。
 また、被告はこの箇所で、「すなわちこの事案は、『紹介状』を携えて個人的に調査研究するという業務態様を改め、文学館という組織の行う研究調査業務の担当者を先方の調査先に通知し、組織として協力を要請する『職員派遣』の公文書に変更したものでした」と主張していますが、いったい何時の時点で、「紹介状を携えて個人的に調査研究する」業務様態から、「組織として協力を要請する『職員派遣』の公文書に変更した」のか。
 この変更は明らかに財団法人北海道文学館の業務様態の変更となるわけですが、北海道教育委員会の職員である被告は、如何なる資格で財団の業務様態の変更にかかわったのか。またこの時、それを「変更」した主体は誰(または、どの組織・どの管理職、等)なのか。「変更」と言っている以上、何か変更しなくてはならない必要性があり、それをきっかけとして「変更」したと思われるが、それは何だったのか。そして、その「変更」はどのような手続きを経てオーソライズされたと、被告は主張するのか。これらの点に関して、被告の文面はきわめて曖昧です。
 被告が答えるべき点はそれだけに止まりません。もし被告があくまでも「文学館という組織の行う研究調査業務の場合、担当者のことを『職員派遣』という公文書であらかじめ通知するとうことに決まっていた」と主張するのであるならば、同じ出張の期間内に行くことになっていた国立国会図書館や鎌倉文学館に対しては、なぜそうした文書を作らせて送らせなかったのか。
 また、私は、「二組のデュオ展」に際しては、北海道大学附属図書館からも写真図版を借用しています。その事前調査として外勤もしており、実際に借用手続きもしています(
甲48の2・3)。その際、被告ないしは財団法人北海道文学館は、なぜ先の「職員派遣」文書と同様の文書を作らせなかったのか。
 被告があくまで「陳述書」(
乙一号証)の当該箇所のように主張するのならば、当然起こるべき以上のような疑問点にも逐一答えなければなりません。

5)「5 私と原告の関係変化と関与の実態」について
①「平成18年度の前半まで、つまり10月31日付けのサボタージュ問題と題された一方的な文書が突然、私や財団幹部職員に送りつけられるまでは、私と原告とは上述のような、上司と部下の関係にありました。」8ページ5~7行目)
 まず被告が言う「サボタージュ問題と題された」文書についてですが、多分これは、私の「去る10月28日に発生した 〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」という文書のタイトルを、被告が勝手に省略したものと思われます。以下は記述はその判断で進めて行くことにしますが、この文書は被告および財団法人北海道文学館の幹部職員に「送りつけられ」たのではありません。10月31日(火)に私が直接手渡したものです。ふだん文学館に出勤しない神谷忠孝理事長にのみ郵送しました(
甲18号証 「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」)。私は当日、被告が平原一良副館長と2階会議室(実質的には平原副館長の執務室)にいる時に、この文書を手渡しました。被告は、その点を故意に事実と違えて記し、私の行為が直接性を欠いた無礼なものであったかのように読む者に印象づけようとしています。
 また、被告はここで
「上述のような、上司と部下の関係」と主張していますが、言うところの意味が全く分かりません。なぜなら、被告がここまで書いてきた「陳述書」(乙1号証)の内容及び表現は、どの角度から見ても、被告がまともな「上司」であったことを証する箇所を見出すことができないからです。被告は原告を非常識かつ常軌を逸した人間としか見ていない。そのこと自体が既に被告と原告との関係における人間的な関係の崩壊を自ら語ってしまっている。もっと端的に言えば、被告は他人と連携、協働の関係を結ぶ上で、何か大切なものを欠いている、と考えるほかはないでしょう。「私と原告とは上述のような関係にありました」と言うのであれば、まだしも前段部と合わせて文意の受けとめようもありますが、被告みずからここまで原告との間の関係崩壊を述べ立てていながら、まだ「上司と部下の関係」だったということにこだわっている被告の発想は、私の理解を超えています。

②「そもそも私への抗議や他の職員への相談もなしに突然、文書により疑義の表明を行うこの手法さえ異常に思えます。」8ページ7~8行目)
 「そもそも私への抗議もなしに」と被告は主張していますが、そもそも原告の「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の(1)~(11―2)までに書いた出来事の中で私が被告に対し抗弁した内容のすべてが、いわば「被告に対する抗議」なのです。それだけでなく、被告は「他の職員への相談もなしに」と主張していますが、私は平成18年5月11日の時点で安藤副館長(当時)に相談し(
甲26号証)、同年9月13日に平原副館長(当時)とS社会教育主事に相談してきました(甲6号証)。それを被告はまともに取り上げようとしなかった。私のアピール文が「突然」に思えたとすれば、その責任は私ではなく、被告のほうにあります。

③「しかし、当館としては問題の解決を図り業務を円滑に進めるため、ただちに執行体制の見直しが図られることになりました。前述文書による原告の改善要求を受け、私は原告を監督する立場から離れ、また原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し、業務内容については平原副館長が直接指揮をとるという事務の流れに変更されたのです。そして、この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることになり、私は直接の接触を控えるように毛利館長から指示を受けていました。
 ゆえに突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました。財団の新採用職員の募集に原告の任用が関係しているとして財団幹部職員や私に提出された12月12日付けの任用方針撤回要求書を原告に差し戻した際に、私は財団の人事とは無関係であり職員募集についても関与していない旨をひと言告げた程度で、」
8ページ15~26行目)
 私のアピール文が手渡されて、
ただちに執行体制の見直しが図られ」と言っていますが、どういう人たちの間で、どのレベルの会議で執行体制の見直しが図られたのか、私自身は何の報告も聞いていません。ただ、平成18年11月10日、私が毛利館長及び平原副館長と話し合った結果合意された4点の「取り決め」(「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」甲18号証)を「見直し」の一環と考えるならば、この見直しは「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)への復帰であった。換言すれば、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)の廃棄だったことになります。つまりその時点で、被告が言う「事実上の上司」の架空性が露わになり、破産してしまったことを意味します。被告は上記引用文で「11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく」と、信じられないほど情けないことを言っていますが、要するにこれは被告が自分の架空の立場を失い、その結果、私に対するどのような接触もできなくなってしまった事実を告白したことにほかなりません。
 しかし、被告がここで告白したのはそれだけではありません。被告は毛利館長に、私との対応を任せるという形で、財団法人北海道文学館と私に対する人権侵害の共犯関係の入っていたことを告白してしまったわけです。その理由は原告の「準備書面(Ⅱ)-1」で詳述しましたが、もう一度繰り返します。

〔以下引用〕
原告は話し合いの内容を、「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(
甲18号証)という文書にまとめ、被告にも渡した。その中に記載された4項目の「取り決め」の内容から分かるように、館長と副館長は、被告の原告に対するパワー・ハラスメントの事実を認めなければ申し出るはずがないことを申し出ている。また二人は、被告の原告に対するパワー・ハラスメントの事実を認めなければ原告の要求を受け入れるはずがない「取り決め」をしている。原告はこの時の二人の言葉を、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。甲50号証)においても記録しておいたが、それを読めば分かるように、館長と副館長は被告の非を認める発言をしている。原告はこの文書も理事長、館長、副館長のほか、被告本人にも渡してある。
その後、原告の任用問題が起こり、原告は財団の任用方針に疑問を覚えたので、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。
甲50号証)を、神谷理事長、毛利館長、平原副館長、及び被告本人に手渡した。その際原告は改めて、「11月10日に、毛利館長と平原副館長との話し合いにおいて、先に要求しておいた2点が認められた。ということは、論理必然的に、毛利館長と平原副館長は、寺嶋主幹が私に対してパワー・ハラスメントを行なっていたことを認めたことになる。そのことを、あらためて確認させていただきます。」と再確認を行った。ところが毛利館長は12月27日(火)に、原告が渡しておいた「回答用紙」に、「先にもお伝えしましたが、私共としては、いわゆる「パワーハラスメント」があったとは考えておりません。」と回答を書いてきました(甲51号証。毛利自筆の「回答」)。原告としてはとうてい納得できる回答ではなかったので、原告は再度、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を再度要求する」(平成19年1月6日。甲52号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、川崎業務課長および被告本人に手渡し、「もし毛利館長と平原副館長が「私共としては、いわゆる「パワーハラスメント」があったとは考えておりません」と主張したいのならば、私の挙げた具体的な事例に即して調査を行い、その調査結果を具体的に挙げて――何時、誰を対象に、どのような調査方法で行ったか、その結果をどのようなものであったか、を文章化して――結論を示すべきです。(中略)今までの対応から察するに、毛利館長以下の幹部職員はまだそのような調査を行っていないと見受けられます。早急に私の挙げた具体的な事例に即して調査を行って下さい。この調査の一番の対象は寺嶋学芸主幹であるはずです。その場合は馴れ合いにならないように、外部の第三者を交えて行って下さい。第三者を選定する時は、選定委員の中に私も加えていただきます。」と要求した。それに対する毛利館長の回答は、「これ以上、あなたの要求・質問にはお答えするつもりはありません。」(「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」平成19年1月17日。甲53号証)という、一方的な回答拒否、対話打ち切りの通告だった。この財団側の対応は単に不誠実というだけでなく、人権侵害の問題の調査を求める一人の市民の要求を集団的、強権的に無視、黙殺してしまった点で、原告に加えられた新たな人権侵害行為であるが、被告は財団側のこのような不誠実な対応と人権侵害行為の陰に隠れて、自己の責任を免れようとした。言葉を換えれば財団側の不誠実な対応と人権侵害行為をそのまま自己の対応に利用する形で、財団と共犯関係にあったことになる。」
 「財団法人北海道文学館は平成18年12月12日、北海道立文学館公式ホームページ等において、正職員の学芸員と司書を採用する募集要項(
甲19号証)を公示した。この募集要項は年齢制限を設けた理由を明示せず、高齢者雇用安定法が指示する「年齢制限を設けた理由の明示」に従わない、違法な募集要項だった。
(2)同第3段
 被告はこの違法な募集要項を決定した「平成19年度財団法人北海道文学館職員採用選考」に関する「決定書」(12月12日決定。
甲20号証)の「合議」の欄に押印している。これは北海道教育委員会の職員である被告が、民間の財団法人の人事に関する方針の決定に加わったことを意味し、公務員として違法な行為である。しかも財団法人の募集要項は違法なものであり、公務員である被告はコンプライアンスの観点からそれを阻止しなければならない立場にあった。それにもかかわらず、被告はそれを阻止せずに、違法行為に加担した。その意味で二重に違法行為を行ったことになる。かつ被告は、この募集要項が実施されるならば、原告が応募の機会を失うことを承知していたはずであるが、あえて公務員としての分限を越えて、原告を失職に追い詰める違法行為に加担した。
 これは前項で指摘した、財団の人権侵害行為との共犯関係に新たに加えられた、被告と財団との共犯的違法行為である。」                  〔引用終わり〕

 分かるように、被告は「私は財団の人事とは無関係であり職員募集についても関与していない」などと白を切ることはできないのです。

⑤「このように原告と距離を置いていた私に対して、原告が今般の訴状において、1月から2月にかけての『イゴーリ展』や『二組のデュオ展』を題材として、『人格権侵害』『業務妨害』『嫌がらせ』『執拗なつきまとい』だと主張するのは、まったくの妄想であり作り事です。むしろ原告自身に起因する展覧会業務の準備不足や日程管理の失敗、業務管理の未熟さを、自身のあらぬ想像によって責任転嫁している何ものでもありません。なによりも今般の訴状から明らかなように、10月以前の、日時や会話を一方的に特定した特異な記述方法に比べ、11月以降の表記内容は私との接触事例が何一つ具体的に書かれていませんので、『執拗なつきまとい』などはなかったという私の主張を、この訴状自体が正当化してくれるはずです。」8ページ30~38行目)
 この箇所以降は、被告が表記するところの「イゴーリ展」とは、「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」展、通称「イーゴリ展」の誤記であろうと思います。そう判断した上で、私は以下のように反論を致します。
a)私は、「訴状」の「イーゴリ展」に関する箇所(「第2、違法の事実」の⑤、及び「第3、違法性の重大さ」の3において、被告が「人格権侵害」「嫌がらせ」「執拗なつきまとい」をしたとは一言も書いていません。「訴状」の「第2、違法の事実」の⑤は事実をありのまま記したに過ぎず、「訴状」の「第3、違法性の重大さ」の2においても「入り口を塞ぎ、原告の業務遂行を妨げた」「原告に大幅な時間外勤務と出費を強いた」と書いているだけです。
b)私は、「訴状」9ページ目の下から4行目「第4、損害」の項目では、確かに「以上の如く、被告の人権侵害行為は…(中略)…不快なストーカー的『つきまとい』の様相を呈していた」と記しています。しかしこれは、「第4」と項目を改めているところからも明白なように、平成18年度における被告から蒙った被害の全体を通じて、原告がそれをどのような損害と受けとめていたかという〈総論〉であり、決して「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」展での出来事をのみ指しているわけではありません。
 それ故被告は、あくまでも上記引用文のごとく主張するのであれば、私の「訴状」のいかなる箇所が「作り事」であり、いかなる点が「妄想」であるかを証明する必要があります。
 私の「訴状」の該当箇所は、丁寧に文意をたどり、各項目の内容を整理しながら読んでいれば、上記引用部のような読み違いをすることはあり得ないはずです。その表現は、改行や行空け等によって視覚的に分節化し、内容を整理しやすく工夫してあります。にもかかわらず、この部分について上記のように主張する被告は、よほど不注意かつ粗雑に私の文書に目を通していたか、もしそうでなければ、被告の「陳述書」を読む者に対して、故意に原告が妄想的人間であるかのように印象づけようと目論んでいるとしか思えません。いずれにせよ、被告の上記引用文のような書き方それ自体が、人権無視または人格権侵害的行為であると判断せざるをえません。

⑥「任用問題が発生して以降急に、原告はそれらの文書の中で自らを『財団職員である』と記述し始めるなど、原告の言動や文章表現には感情の露見や言説の取り繕いがしばしばみられますが、この訴状も原告の被害妄想によって記述されたヒステリックな作文に終始しています。」8ページ38行目~9ページ1行目)
 この文脈では、
それらの文書」がどのような範囲の文書を指すのか不明ですが、ここでは一応、被告が、私の「訴状」と、それ以前に私が北海道立文学館の幹部職員および理事に配布した文書を前提としていると仮定して、以下に反論を進めてゆくことにします。
a)今般の民事訴訟における「訴状」に至るまで、私が自分を、「財団職員である」と規程したことはなく、また、そのように規程しているかのように読み取れる書き方をした箇所もありません。本訴訟の眼目は、そのようなところにあるわけではないからです。
 ただ、強いて上げるならば、私の「訴状」や「準備書面」ではなく、まだ平成18年度中に財団幹部職員や被告本人に渡した文書の中の、次の2箇所に、原告と「財団職員」という規程との関係について触れた部分があります。しかしこれはもちろん、被告が上記引用文において主張しているような意味あいにおいてではありません。
 
①「また、もし〈当文学館においてパワー・ハラスメントが行われていた〉事を認める文書が亀井に渡された場合、あるいは、11月10日までに何らの回答が得られず、従って亀井の結論内容が認められたものと判断した場合には、亀井側からは、次の二点を要求したい。1.現在の事務室における席の位置を変える事/亀井の座席を、現在の学芸班の位置から変更したい。/なぜなら、亀井は、本来、報酬を受けて仕事を請け負う嘱託職員であり、また、強いて財団職員の一員と考えるとすれば、今年度の所属は業務課だからである(「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」平成18年4月1日付文書を参照のこと)。」(
甲17号証「去る10月28日に発生した文学碑データベース作業サボタージュ問題についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」 傍線は引用時)

②「これらの事実を勘案するに、亀井が、学芸班の中に席をおかなければならない積極的な理由は何もない。それよりもむしろ、学芸の仕事に関与している者が皆〈学芸班〉という同じ場所に集められることで、道職員・財団職員・さらに財団の嘱託職員といったそれぞれの立場の違いが(おそらくは故意に)曖昧化されてしまった事。まさに、そこにこそ、今回問題となったパワー・ハラスメントの主要な一因があると考えられる。」(甲18号証「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」。傍線は引用時)

b)被告は、原告の訴状を「原告の被害妄想によって記述されたヒステリックな作文に終始」していると主張しているが、具体的にどの部分が「ヒステリックな作文」にあたるのか、まったく指摘も引用もしていません。
 なお、私が被告の言葉としてカギ括弧で括った部分は、私が記録と記憶とによって再現した描写であり、被告はそこに描写されて被告自身のヒステリックな姿に耐えられず、私の書き方のほうをヒステリックと決めつけることにしたのでしょう。しかし、私は記録と記憶によって、被告の言動自体がきわめてヒステリックであったという事実を写したものであり、被告がその点を否定するのであれば、被告自身が記録・記憶ないし証拠によってその場面を再現しつつ反証しなければなりません。

⑦「2月3日(土)から6日間の日程で外部団体への貸館事業として開催された『イゴーリ展』による業務妨害の提起に至っては、発想自体が博物館職員だったとは思えない愚劣なもので、そのような事実が博物館としてあり得るはずがありません。次回展である『二組のデュオ展』との間には一週間という十分な展示作業期間が確保されていましたし(9ページ2~6行目)
 被告のこの書き方も文脈が辿りにくく、文意が曖昧なのですが、とりあえず被告の用語と文脈に従うならば、「道立文学館の中で何者かが「イゴーリ展」(
「イーゴリ展」?による「二組のデュオ展」の妨害を皆に提起したが、その発想は博物館職員だったとは思えない愚劣なものであった」というふうに読めます。そしてその方が、事態の真相に近いであろうと私は考えますが、一応ここは、被告が、私の「訴状」への反論として、私を非難するために書いたつもりであろうと推定されますので、以下、その推定に従って原告側の駁論を展開して行くことに致します。
a)「一週間という充分な展示作業期間」とありますが、被告は、何を根拠として「二組のデュオ展」の展示設営作業が〈一週間で十分〉と考えていたのか、その根拠が全く示されていません。
 展示品143点、展示室面積215.42㎡というマテリアルな面はここではさておくとしても、もともと北海道立文学館においては、展示換えには平均12日前後を見込んでおくのが通例でした。単なる貸し館展示で、持ち込み側が展示品の搬入も作業もほとんど全て行うという場合には、稀に5~7日間で済ませることもありますが、前の展示の撤収も考えると、日程的にはかなり無理がある。まして文学館側でほとんどの準備が行われる場合は、最低12日間を見込んでおく。年間日程を組む業務課も当然このことについては配慮をしていました。一例として、平成18年度当初に予定されていた各展覧会前の作業期間を以下に掲げてみましょう(
甲16号証 2006年度事業カレンダー参照)。

1)綿引幸造展の前  28日間(※年度初日よりカウント。前年度の展示終了時から数えると38日間となる)
2)デルス・ウザーラ展の前  5日間(※北海道北方博物館交流協会への貸し館)
3)石川啄木展の前 12日間
4)関屋敏隆展の前 12日間
5)池澤夏樹展の前 12日間
6)中山周三展の前 12日間
7)栗田写真コレクション展の前 19日間(※但しこの展覧会は実行されず、中山展がその分だけ会期延長となった)
8)人生を奏でる二組のデュオ展の前 20日間
 
ところが、「二組のデュオ展」の前に「イーゴリ展」が入ってしまったことで、「イーゴリ展」と「二組のデュオ展」との合間が8日間(但し、原告の外勤日や非出勤日を除くと原告が作業出来る日は実質3日間)に短縮されてしまいました。その事情については、原告の「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の(14)、及び「準備書面(Ⅱ)-1」の「15「(13)平成19年1月31日(水曜日)」について」で詳述した通りです。
 なお、付記すれば、平成17年以前は、1年間に開催される展覧会は6~7本程度であったため(平成17年7本・平成16年6本)、各展覧会の準備期間は、当然、平成18年度よりも長く、また平成10年以前の展覧会は、年間4本程度でした。
b)展覧会と展覧会の間は、作業日の他に、かならず〈予備日〉を見込んでいます。一つには、実際の現場での作業はどうしても遅れがちになるので、〈予備日〉の余裕分で時間的しわよせを吸収してゆくためであり、もう一つは、どんなに注意して解説パネルやキャプションを仕上げても、誤記誤植等のケアレス・ミスは常にあり得るため、それをチェックして訂正し、観客に披露する段階では間違いのないよう万全を期すためです。(「常設展示室 展示換え作業について」
甲80号証
 こうした心得を、私は、A元学芸課長およびH前学芸課長より教わってきました。文学館では開館以来、展示準備については以上のような考えでやって来ていました。
 被告はこのような文学館における展示ノウハウや心得を知らず、現在も、知る気もなければ理解もしていないらしい。そのことを端的に示しているのが、先ほど引用した被告の文章です。「二組のデュオ展」との間には一週間という十分な展示作業期間が確保されていました」と言い切ってしまう発想は、とうてい文学館の職員の発想とは思えません。

⑧「未使用の展示室を一般に貸し出し有効利用するという財団の決定は、指定管理者としての公益性に照らしてみても適切であったと考えます。」9ページ6~7行目)
 被告はここで、一つ大事な点を言い落としていますが、それは、「イーゴリ展」は平成19年2月の行事予定表に入っていなかったことです(
甲21号証)。もしそれ以前に財団による決定をみていたのならば、当然予定表に入っているはずです。北海道立文学館では、財団の企画展であれ、他の団体に対する貸し館であれ、行事があれば、予定表には必ず入れていました。そうでなければ、それぞれの日の〈日程〉や〈職員の動き〉が分からなくなるからです(甲54号証・甲105号証・甲106号証)。
 しかも「イーゴリ展」は、準備期間がきわめて短かった(平成19年1月31日~2月2日)。そのため、ポスターを刷ったり、各新聞社に連絡する等の広報活動をほとんど(おそらくはまったく)やっていません。チラシ(
甲22号証)は一応文学館の輪転機で刷りましたが、公共施設に送付する時間も予算もなかったため、館の中だけに置いていました。2月の閑散期という条件も重なって、こんなやり方では広報的な役割はほとんど期待できません。仮に誰かが伝え聞いたとしても、その頃には展覧会自体が終わってしまいます(期間:同年2月3日~8日)。
 その上、観覧無料でした(
甲22号証)。この展覧会は、広報性がきわめて低かったので、常設展に観客を呼び込む役割も果たさなかったとしか考えられません。被告は「指定管理者としての公益性」を主張していますが、このような展覧会の「公益性」とはいったい如何なるもので、具体的には誰を「益」することになるのか。被告の書き方にはその点への視点が欠けている。要するに被告の「公益性」云々は、強引に「イーゴリ展」を割り込ませた言い訳でしかありません。

⑨「実際、この『イゴーリ展』(「イーゴリ展」?)で使用した展示室の面積は展示室入り口付近の25㎡で、全体(215㎡)の一割を越える程度に過ぎず、万が一、次回展のために展示作業が必要になったとしても、移動隔壁によって残りの大半の室内は作業可能であり、また非常口を兼ねた作業用の搬出入口も確保され、もちろん室内照明も点灯調整が可能でした。すなわち電気を点けてただ作業をすればよいだけであって(9ページ7~12行目)
 これも被告が後からつけた言い訳でしかありません。なぜなら私は、展示室入口の25㎡をふさがれてしまったため、「二組のデュオ展」の展示設計で予定していた移動隔壁(正しくは稼働パネル)の前半部分が全く使えなくなってしまったからです(
甲57号証参照)。
 そのため、どんなに難しい状況が発生したか。それは以下の如くでした。
a)稼働パネルは、レールに沿って順序よく引き出すことが必要であり、先に動かされた部分が固定されてしまえば、そのすぐ後ろの部分における隔壁のレール移動にも影響します。出口近辺(入口と出口は同じ場所)の隔壁設営も難しくなる。被告は「移動隔壁によって残りの大半の室内は作業可能であり」などと主張していますがが、稼働パネルが半端に使われてしまったからこそ、残りの室内の展示設営が困難になってしまったのです。
b)展示は、観客入口の出発点から目線の高さにカラー糸を張り、その糸を基準にしてパネルの中心を決め、さらにパネル同士の横間隔を微調整しながら設置を進めて行きます。そうして壁面が仕上がって、はじめてガラスケースもあるべき位置に設置できるわけです。どれほど展示の設計図が詳細をきわめていようとも、最終的な位置は、現場における位置間隔に即するしかありません。ですから、展示室の最初の部分が3m21㎝5㎜もふさがってしまっていれば(
乙11号証)、壁面の設営は途中からするしかなく、しかしそのようなやり方では、結局、後になって、冒頭部との間隔の開け方、兼ね合いに齟齬が生じ、作業が二度手間となる危険性が高い。また実際、展示設営を展示室の中途部分から行ったという前例は、私の知る限り1例もありませんでした。
c)展示室の照明を点灯する時に用いられるのは、通常、配電盤ではなく、ごく普通の形のスイッチ(複数個)の方です。スイッチは配電盤の真向かいの壁にあり、当然のことながら、職員や警備員はスイッチによって照明をつけたり消したりする。誰も、普段は、いちいち配電盤の方の細かく小さな切り替えスイッチを使ったり、照明設定を変えたりはしません。なぜ被告は、この時、通常のスイッチによる点灯と消灯が出来ないように配電盤の設定を変更したのか。あるいは、スイッチだけでは点灯も消灯もできないと思わせるような付箋を、配電盤の上に貼ったのか。そもそも「イーゴリ展」に限って、なぜ配電盤の設定を変えなければならなかったのか。これらの点について、被告は何一つ合理性のある説明をしていません。
d)稼働パネルには下の方に10㎝のすきまがあり、また、天井のレールから吊った状態で動かす仕組みのため、上部にも6㎝のすきまがあります(
甲57号証・乙11号証)。そのため、パネルの向こう側で灯りをつけて作業をすると、光や音は観客のいる側に洩れてゆきます。これが、展示室の入口をシャッターで閉めている場合と大きく異なるところであり(シャッターは完全に下まで閉まる)、私とA学芸員が、最終的に「今、ここでの展示設営作業は出来ない」と判断したのも、実はこの点にありました。被告は「すなわち電気を点けてただ作業をすればよいだけであって」などと述べていますが、稼働パネルでイーゴリ展の写真展示壁を作るというやり方自体が、現実的には、観客に迷惑をかけないやり方での準備作業を不可能にしてしまったのです。
 以上の諸点に照らして、「イーゴリ展」を実施した被告のやり方が、「二組のデュオ展」の設営作業を遅延させる意図をもって行われたことに疑問の余地はない。私はそう主張します

⑩「原告が平成18年4月の私の着任早々の時点から私の言動を注視し記録に取っていたという不可解な事実が(9ページ19~21行目)
 これまで本準備書面で上げてきた私の記録や証拠を見ても分かるように、私は、別に、被告だけの「言動を注視し記録に取っていた」わけではありません。ノートの記述は他の職員にも及んでおり、関心の内容は多岐にわたっています。ただ、今回の訴訟には関わりない部分だと思っていたので、特に証拠として提出しなかっただけのことです。
 そもそも私が記録を取り始めた目的は、一つには、文学館業務に関わることではなるべく心覚えを取っておこうということであり、さらには、記録しておかなければ後でトラブルに発展するかも知れない疑問点や不審点は、特に注意深く記しておきたい。そういう動機から発したものでした。
 今回の訴訟で証拠物として提出した記録は、被告の言動に関する箇所を取り出したものであり、たまたまその記録量が多くなったのは、それだけ被告の言動には疑問点や不審点が多かったからにすぎません。「原告が平成18年4月の私の着任早々の時点から私の言動を注視し記録に取っていたという不可解な事実が」などと、自意識過剰な被害者意識に囚われることなく、自分の言動が他者にとっていかに「不可解」であったかの反省材料とすべきでしょう。
 
Ⅱ、被告の「陳述書」において新たに行われた原告に対する人格権の侵害の指摘
 以上のように被告の「陳述書」は虚偽と事実の歪曲と根拠なき独断に満ちており、とうてい信を置くことはできません。しかも被告はその記述の間、私について、きわめてネガティブな資質の持ち主であることを強調する言葉を、随所に織り込んでいました。被告の言説によるところの原告のネガティブ性は、大別すると次の11点に分けられます。

1.業務遂行能力の欠如 2.協調性およびコミュニケーション能力の欠如 3.組織への帰属意識の欠如 4.業務に対する理解力の欠如 5.自己中心的性格 6.虚言 7.自己肥大 8.情緒不安定性・攻撃性 9.妄想性 10.異常性格・ストーカー性 11.反社会性

 被告が叙述した、私に関する、これらの否定的特性は、単に文脈から読み取れるというだけではありません。この「陳述書」の中において、被告は私に関して、能力蔑視的、人格侮蔑的、名誉毀損的な言辞を、はばかることなく多発している。以下にその箇所を抜き出してみます。

1 業務遂行能力の欠如(5箇所)
①第(6)項の収蔵目録・報告書の発行、および第(8)項の文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、平成19年3月に当館を退職しているというのが実情です。(3ページ18~20行目) 
②まず第1に第(8)項の文学資料の解読・翻刻業務が原告の中心的な任務であったにもかかわらず、平成18年度は当館に対して業務報告の一つとしてなされていませんでした。(3ページ23~25行目)
③18年度に担当した「二組のデュオ展」などの展覧会事業の実務経験はまったくなく、「文学碑データベース」の写真公募のようなイベント性を伴う普及事業の経験もありませんでした。(4ページ38行目~5ページ1行目)
④実際、展覧会業務に関する原告の経験のなさは、「二組のデュオ展」の準備業務の遅延や作品借用の際のトラブルとなって露呈してしまいました。(5ページ20~21行目)
⑤通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。(5ページ35~37行目)

2 協調性およびコミュニケーション能力の欠如(8箇所)
①副担当業務についての原告の姿勢も積極性や協調性は見られず、(3ページ27行目)
②その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分であったということです。(4ページ35~36行目)
③当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても、連帯意識や協調性に乏しく組織社会における適性を欠くものでした。(5ページ4~6行目)
④出張命令権者や経理担当者や業務統括者の理解や了承を得ながら仕事を進めるという考えのなかったことを自ら証しています。(5ページ9~10行目)
⑤嘱託員であることを請負業であるかのように解しているこの思い違いは、原告と他の職員との間に軋轢を生む大きな原因となっていました。(5ページ10~12行目)
⑥つまるところ原告は、いわゆるホウレンソウ(報告・連絡・相談)のないまま仕事を進めてしまうタイプの職員でした。したがって、職員の間に不満や不平が募っていったのも当然のことで、(5ページ13~15行目)
⑦やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。(6ページ22~23行目)
⑧原告もまた事務室での仕事の進み方や館の業務や行事の動向、さらに各職員の日常の思いや考えなどから遊離していたのも事実で、こうした点が原告の協調性や帰属意識を希薄なものにしていたのだと思います。(6ページ33~35行目)

3 組織への帰属意識の欠如(5箇所)
①この点をもってしても文学館業務に対する原告の姿勢、なかんずく組織への貢献心を疑わざるをえません。(3ページ25~26行目)
②さらには、そのようにして組織で仕事を進めるという意識も薄かったのではないかと思います。(5ページ3~4行目)
③職場に対する帰属意識の希薄さを私が最も強く感じたのは、原告がたびたび口にした「私は職員ではありません」という発言です。(7ページ5~6行目)
④今般の訴状において記述されている明治大学図書館での資料調査に関わる文書処理の一件も、今触れた時間外勤務の拒否の事例と同様の視点から、原告の組織人としての自覚の欠如を明らかにしています。(7ページ31~33行目)
⑤博物館業務の中で調査研究はとりわけ重要な業務ですが、原告にとって研究とは個人の研究を意味し、組織の中で研究を推進するという考えには至っていなかったのです。(7ページ40行目~8ページ2行目)

4 業務に対する理解力の欠如(4箇所)
①したがって出張のように渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり、そしてそれらのために内部調整を進めながら事務事業を遂行するということに理解が及んでいなかったのです。(5ページ1~3行目)
②そもそも、原告には事前打ち合わせを要するなどという考えがなかったのかも知れませんが、としても、そうしたことが組織で仕事を進める上で障害となることに理解がおよんでいなかったに違いありません。(6ページ28~31行目)
③原告にとっては、自分に関心のない業務に従事したり組織全体で事業を実施することなど、意識の一部にさえなかったのかもしれません。(7ページ17~19行目)
④「被告がなぜ‘紹介状’とは別の書類を作らなければならないと言い出したのか、少しいぶかしく思った」(訴状)などという原告の文言は、文書変更理由への無理解ばかりでなく、組織として業務を遂行する意識の欠如を自ら証しています。(7ページ37~40ページ)

5 自己中心的性格(9箇所)
①まったく独りよがりな、自分の関心事だけを副担当業務として主張しているに過ぎません。(3ページ34~35行目)
②原告が最初にサボタージュと言い出しながら、私がそのように断じたとして非難する今般の原告の姿勢は、自己防衛の露呈した架空の言説となって訴状に記されています。(4ページ19~21行目)
③このように原告は自分自身に対する強い思いの持ち主ですから、(4ページ24行目)
④しかし、それを訴状にあるとおり「干渉」として自己中心的にとらえてしまうことに、今般の事件のそもそもの原因があったのではないかと考えます。(5ページ17~19行目)
⑤逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした。(5ページ31~33行目)
⑥こうした激情が会話を阻害するのは言うにおよばず、一方的に話を打ち切り背を向けてしまう原告の態度を見て、(6ページ15~17行目)
⑦今般の訴状が、事実を誤認し曲解したまま、原告の身勝手な憶測、推察、想像によって脚色され演出されて書かれているのも、職場でのこうした孤立した原告の勤務態度が影響していると考えます。「原告のみを狙って繰り返された」(訴状)というのは、まさに孤高の被害者を決め込む原告の思い込みです。(6ページ40行目~7ページ4行目)
⑧原告は「私は職員ではありませんから」と言って勤務を拒否し、当日も平然と帰宅してしまったのです。(7ページ15~16行目)
⑨時間外勤務を自己中心的にとらえ、事前の協議や勤務命令の有無にかかわらず、「勤務が終わったら速やかに帰って」(訴状)しまおうとしていたことを示しています。(7ページ20~22行目)

6 虚言(2箇所)
①職を離れた今になって当然のように主張しているのは、業務意欲の存在を正当化しようとするまやかしにすぎません。(3ページ37~38行目)
②「時間契約によって働く嘱託職員」(訴状)であることだけを最優先していた原告が、今になって時間外勤務を主張しているという矛盾は、つまり、今般の提訴が正当だと見せかけるための方便として時間外勤務に言及しているにすぎないことを示しています。(7ページ27~30行目)

7 自己肥大(2箇所)
①このように原告は実際のところ学芸業務について経験が乏しかったにもかかわらず、「文学館の仕事にキャリアを持つ」(訴状)と自負するほど自尊心の強い性格だったのだと思います。(5ページ37~40行目)
②研究者にありがちなこの自尊心の強さは、自らの失敗や業務の遅延を隠匿し他へ転嫁する態度となって表れています。(6ページ1~2行目)

8 情緒不安定性・攻撃性(5箇所)
①原告に「あなた」と呼びかけたことさえ「あんた」と呼び下したように記されていることからも分かるとおり、意図的な用語転換による防衛心と敵意がここに表明されています。(4ページ21~23行目)
②この時原告はひどく慌てた様子でしたが、問題を5月2日の振り出しに戻して責任を回避しようといきり立ち、逆上してしまったというのがその日の原告の行動です。(6ページ9~11行目)
③原告の場合、少々の不備や不完全さえも許容できず、この10月28日には、5月当初の議論のすれ違いを理由に業務命令自体を抹消しようとし、さらに自身の責任に多少話が及ぶと普段の冷静さとは裏腹に激昂してしまったのです。(6ページ13~15行目)
④こうした実態を無視してなお、私が「妨害」したと主張するのであれば、それは、周囲の状況を見ることのできない自分本位の人物による、私に対する盲目的な個人攻撃にほかなりません。(9ページ12~14行目)
⑤今般の訴状において、原告が事実を曲解し、あるいは被害を想像して意図的に記述した原告の主張は、私に対する誹謗と中傷を含む悪意に満ちたものであり、決して認めることができません。(9ページ27~29行目)

9 妄想性(3箇所)
①このように原告と距離を置いていた私に対して、原告が今般の訴状いおいて、1月から2月にかけての「イゴーリ展」や「二組のデュオ展」を題材として、「人格権侵害」「業務妨害」「嫌がらせ」「執拗なつきまとい」だと主張するのは、まったくの妄想であり作り事です。(8ページ30~33行目)
②むしろ原告自身に起因する展覧会業務の準備不足や日程管理の失敗、業務管理の未熟さを、自身のあらぬ想像によって責任転嫁している何ものでもありません。(8ページ33~35行目)
③任用問題が発生して以降急に、原告はそれらの文書の中で自らを「財団職員である」と記述し始めるなど、原告の言動や文章表現には感情の露見や言説の取り繕いがしばしばみられますが、この訴状も原告の被害妄想によって記述されたヒステリックな作文に終始しています。(8ページ38行目~9ページ1行目)

10 異常性格・ストーカー性(6箇所)
①そもそも私への抗議や他の職員への相談もなしに突然、文書により疑義の表明を行うこの手法さえ異常に思えます。(8ページ7~8行目)
②真摯な抗議をすることなく、こっそりと半年間も言動記録をとって不快だったと過去形で訴えるのは信義則に反し、権利の濫用であると考えます。(8ページ12~14行目)
③私は直接の接触を控えるよう毛利館長から指示を受けていました。(8ページ19~20行目)
④2月3日(土)から6日間の日程で外部団体への貸館事業として開催された「イゴーリ展」による業務妨害の提起に至っては、発想自体が博物館職員だったとは思えない愚劣なもので、(9ページ2~4行目)
⑤そうした基本的なことを頭だけで理解し、自らの研究と自らの関心のある業務だけを行い、公の施設としての組織的な事務執行に異を唱え、実質的な指導監督者であった私だけを一方的に攻撃する原告の態度は、社会規範に照らしてみても常軌を逸した行動です。(9ページ16~19行目)
⑥原告が平成18年4月の私の着任早々の時点から私の言動を注視し記録に取っていたという不可解な事実が、(9ページ19~21行目)

11 反社会性(1箇所)
①命権者の相違や雇用形態の差異を超えて一つの博物館を運営するという制度の理念を理解することなく、博物館の業務を自己中心的にとらえ、組織としての業務執行を無視する原告の態度こそ、連携と協働を阻害する要因になるものだったと言わねばなりません。(9ページ23~26行目)
  
 被告は「陳述書」に以上の如く人身攻撃的な言葉を書き連ねていました。一人の人間が他の人間に対して、これだけ多量の能力蔑視的、人格侮蔑的、名誉毀損的な言葉を、はばかることなく浴びせかけるという事実は、それだけで十二分に発話者における人格権侵害の違法性を証するに足ります。そのような発話者である被告が、平成18年度、道立文学館の中で私に吐きかけた言葉が、如何にどぎついハラスメントであったかを、被告自らが上記のような形で立証してしまった。そう言っても過言ではありません。
 しかも被告は、その結びとして「以上、今般の損害賠償等請求事件にあたって、原告の主張に対する私の考えを原告の勤務の実態に即して記しました。」(9ページ30~31行目 傍線は引用者)と記し、署名・捺印しています。そうである以上、被告は当然、先のように列挙したネガティブな「原告の勤務の実態」は具体的かつ確実に証明され得る、という確信のもとに、この文章を提出したはずです。それ故被告は、「原告の勤務の実態」として記述した内容と、原告に関する評価に用いた表現との両面にわたって、それらが真実であることを証明しなければなしません。
 
 それに対する原告側の反論は本準備書面の中ですでに主張したので、ここでは繰り返しません。原告側の主張を裏づける書証および物証は、本「準備書面(Ⅱ)-2」と合わせて提出致します。
 
Ⅲ、結び
 以上、私は、Ⅰ章においては、被告の「陳述書」がいかに虚偽、事実の歪曲、根拠なき断定に満ちているかを指摘し、かつその一つひとつについて反論し、あるいは反証を挙げてきました。
 また、Ⅱ章においては、被告はわずか9ページの被告の「陳述書」において、50回にも及ぶ回数で、原告に関する能力蔑視的、人格侮蔑的、名誉毀損的な言辞を発している事実を例示致しました。
 このことを踏まえて、私は改めて次のことを被告に要求致します。すなわち被告は、以上に引用した如き原告のパーソナリティおよび資質についての描写に責任を持ち、原告が本「準備書面」で行った反論、および被告側「準備書面(2)」に対する反論、更には乙12号証(平原一良「陳述書」)に対する反論に対して、必ず更なる反証によって覆さなければならない。
 もし被告が、被告の証言・書証・物証・他の人証によって原告の反論を覆すことができず、自らの主張を合理的に説明することが出来なかった場合には、私は、以上に引用した被告の文章を全て、本訴訟の場における新たな人格権侵害の証拠としてつけ加えることを裁判の場で主張したい。なぜなら、もし上記引用に掲げられた文章に何らの裏付けも客観的真実も存しないならば、それは紛れもなく、被告によってなされたセカンド・ハラスメントにほかならないからです。

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「判決とテロル」資料4:亀井志乃「準備書面(Ⅱー3)ー平原一良「陳述書」への反論ー

事件番号 平成19年(ワ)第3595号
損害賠償等請求事件
原告 亀井 志乃
被告 寺嶋 弘道
                準備書面(Ⅱ)―3
           (乙12号証 平原一良「陳述書」への反論)
                           平成20年5月14日
札幌地方裁判所民事第1部3係 御中
                           原告 亀井志乃 印

はじめに
 本訴訟における原告は、平成18年度に民間の財団法人北海道文学館に嘱託職員として働いていた民間の一市民ですが、被告は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員であり、それ故訴訟の焦点は公務員である被告が民間人である原告に対して繰り返し人格権侵害の違法行為を働いたことにあります。故に私は「訴状」においても「準備書面」においても、被告が原告に働いた人格権侵害の行為事実の確定と、その行為の違法性の指摘に集中してきました。その間私は、被告の人格を論じ、被告の人間性を批判し非難する表現は謹んできました。それが訴訟におけるルールだと考えたからです。
 しかるに、去る4月16日の法廷において渡された平原一良氏の「陳述書」は本訴訟の基本的な争点には一切言及せず、いわば故意に無視して、原告の業務態度や遂行能力及び原告に
(ママ)人格の(ママ)関する中傷に終始していました。しかもその内容たるや、虚偽や事実の歪曲に満ちています。
 平原一良氏のこのような書き方が、本訴訟事件の争点を明確にする上で果たしてどれだけ有効であるか、極めで疑わしい。とは言え、平原一良氏の意図は明らかに被告と口裏を合わせる形で、原告に関するネガティヴな印象を裁判官に与えることにあり、原告としてはとうてい看過し得ないところです。
 よって、私は本「準備書面(Ⅱ)-3」において、平原一良氏の「陳述書」における事実の歪曲や虚偽を一つひとつ摘出して、その記述の根拠なき所以を明らかにし、よって以て平原一良氏の陳述に対する反論としたいと考えます。

 なお、本「準備書面(Ⅱ)-3」における、1)、2)……等の小見出しは、平原一良氏の「陳述書」の小見出しに準じ、同「陳述書」からの引用文は「 」内に青文字で示し、それに対する私の反論は黒文字を用います。また、平原一良氏の呼称に関しては、過日の「陳述書」を書いた時点における平原一良北海道立文学館副館長を指す時には、「平原一良氏」または「平原氏」と表記することとし、それ以前の時点にける同氏を指す時には、その時の役職名を付して表記することに致します。

Ⅰ、平原一良氏の「陳述書」に対する反論
1)「2 平成18(2006)年3月まで」について
1ページ9~14行目

「平成13(2001)年の春先、私(当時、事業課長)は、北海道立文学館(以下、当館と呼びます)で開催された会議に来られた亀井秀雄氏(市立小樽文学館長・当財団理事)から「ボランタリーなかたちで構わないので、いま自宅に居る娘(亀井志乃氏。以下、必要に応じ同氏と呼びます)にしばらく文学資料の整理の仕事などをさせてはくれまいか」との依頼を受け、理事長以下幹部に相談して了解を得て、同年初夏から初冬にかけ、亀井志乃氏に寄贈資料の整理に当たってもらいました。」
 まず明らかな誤りを指摘しておけば、平成13(2001)年、私が北海道立文学館のボランティアとして寄贈資料のデータベース作成に行くようになったのは3月のことです。初日は3月7日であり、その週からすぐに、週2日のペースで通うようになりました(
甲81号証の1)。また、最初に同文学館を訪れて平原一良事業課長(当時)から作業内容の概要を説明されたのは同年2月16日のことです(甲81号証の2)。
 付言すれば、私の父である亀井秀雄と平原事業課長とがボランティアの件について会話したのも、春先ではなく、同年2月の理事会が始まる前のことでした。
 以上の記録、および
甲70号証として提出した私の履歴書を合わせてみれば明白なように、私は、同年2月の段階ではまだ北海道大学文学部北方文化論講座に非常勤職員(事務補助員)として勤務していました。したがって、亀井秀雄と平原事業課長との間にどのような会話があったとしても、亀井秀雄が「自宅に居る娘に仕事をさせてくれないか」云々と依頼したことはあり得ません。
 また、道立文学館における資料整理の積み残しはこの時以前からの懸案であって、平原事業課長も、しばしば理事らにボランティア作業員の必要性を口にしていました。決してこの時、突然に、かつ一方的に、亀井秀雄から仕事の話が持ち出されたわけではありません。
 私は当時、平成12年度の年度末に、北大の非常勤職員の期限切れ(3年間)を控えていました。また私にとって、文化施設で働くことは、かねてからの念願でもありました。後日、ボランティアの件を父親から伝え聞いた私は、自分が将来どんな文化施設で働くようになるかはわからないが、しかし道立文学館での仕事は一つのよい経験になりそうだと思い、改めて文学館にお願いしてみることにしました。ボランティアの話は、こうして具体化したわけです。
 ボランティア作業は、平成13(2001)年3月7日(水)から、同年10月30日(火)まで行われました(
甲81号証の3)。また、同年11月22日(木)、私は〈作業の御礼に〉とのことで平原事業課長(当時)に「サンマルク」(レストラン)に招待され、工藤正廣北海道大学教授(当時。現財団法人北海道立文学館理事)と夕食を共にしています(甲81号証の4)。
 このように、私の文学館でのボランティア作業は“初夏から初冬(の半年程度)”ではなく、8ヶ月にわたっています。また、この話が起こった当時、私は無職で家にいたわけではありません。

1ページ14~15行目
「この間、同氏へは当財団から月ごとに交通費実費が支給されました。」
 これはまったく事実に反しています。
 平成13(2001)年4月に財団から私の銀行口座に振込があったとき、その名目は、「半年分(3月~8月)の交通費」でした。しかし同じ頃、失業保険受給手続きのため岩見沢ハローワークに行った私は、「失業認定申告書」にその金額を書き込んだ際、ハローワークの職員から「札幌に週2回、半年分の交通費としては少し多すぎるし、端数もあるようだが?」と不審がられました(
甲82号証の1・2)。また、これに先だって交通費についての説明を受けた際に、私は、平原事業課長(当時)から「実は、亀井さんに交通費を渡す事は、文学館内では伏せられている(甲82号証の2)。これは、支出項目をどこにするかとか色々なことで、問題が生じそうだからである。ただ、私はその点について気にすることはない」という意味のことを言われていました。
 しかし私は、収入のことについては一応明確な形にしておきたかったので、平原事業課長を通じて文学館事務に明細書を依頼し(
甲82号証の2)、後日、ハローワークに提出しました。3ヶ月後からは失業保険も無事受給できました。ただこの時、なぜ私のボランティアに伴う交通費支出に不明瞭なプラスアルファがついていたのか/つけたのかということについては、平原事業課長自身からは何らの説明もありませんでした。
 なお、残りの「交通費」(9月・10月分)は、同年11月16日以降、私の口座に振り込まれています(
甲82号証 の3)。

1ページ16~18行目
「この整理作業は、北海道立文学館1階の和室で行われましたが、他の財団スタッフは直接かかわることなく、同氏ひとりで進めてもらいました。他のスタッフらとの仕事上の接触は、最低限必要な場合を除いてほとんどなく、」
 確かに私が一人でいる時間は多かったが、折りに触れて学芸員(当時は事業課所属)からコンピューターの使用法やデータベースソフトについて教えてもらったりもしていましたし、事務職員(当時は管理課所属)とも、作業の上で様々な交流がありました。(
甲82号証の4・5・6・7

1ページ19~20行目
「したがって、特記すべき人間関係上の軋轢もなく淡々と作業が進み、区切りのついた同年末に同氏と当財団との関係は終了しました。」
 既に「1ページ8~13行目」の項で既に反論しておきましたように、作業の区切りがついたのは同年末ではなく同年10月31日のことです。
 また、その時、「同氏と当財団との関係」は「終了」したのではありません。
甲81号証の4にもあるように、11月の会食の際、平原事業課長(当時)から私は、ボランティアの際データベース化した和田徹三資料についての解説を、文学館の紀要に書いて欲しいと依頼されています。翌年(平成14年)私は、家族とアメリカに滞在し、帰国したのち、再び平原事業課長から要請を受け、「和田徹三旧蔵書籍解説」を道立文学館に寄稿しています。この文章は、文学館紀要「2002年 資料情報と研究」に収録されました(甲83号証)。

2ページ12~20行目
「しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高くなりました。博士号を有する研究者としてのプライドを備えた同氏への妬視が含まれていると判断し得る声もありましたが、必ずしもそうではないケースも認められました。ともかくも、常設展示リニューアルと道立文学館開館10周年記念行事を控えた大事な時期でしたから、そうした声を届けてくるスタッフを諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労した記憶があります。常設展示のリニューアル作業が進む過程の大詰めの時期においては、学芸・業務両課スタッフ総動員で展示設営をこなし、同氏も最終段階では展示室での作業に加わるなど、積極的な参加の姿勢が見られました。」
 ここに言う「リニューアル作業」とは、平成17(2005)年11月2日(水)に開催された北海道立文学館開館10周年記念行事の一環として、常設展をリニューアルすることとなり、それに向けた作業のことです。この年度は、私は財団の嘱託職員に採用されており、常設展のリニューアルに関して言えば、主担当の平原学芸副館長をサポートする、副担当の立場にいました。
 平原氏によれば、この作業の間、「複数の女性スタッフ」から私について「異議あり」という言葉がしばしば氏のもとに届いていたということですが、「複数の女性スタッフ」とは誰を指すのか、平原氏は明記していません。また「異議あり」とは私の仕事ぶりについてなのか、そもそも私が嘱託職員として勤務していることについてなのか、曖昧であり、私としては何とも判断のしようがありません。
 ただ、こういう曖昧で、思わせぶりな書き方は、平原氏の記述の信憑性を疑わせる効果しかもたらさないでしょう。なぜなら、「リニューアル作業が佳境を迎える夏頃から」というのはまったく実態に合わないからです。実体を言えば、常設展リニューアルに向けての作業は春・夏の間はほとんど進んでいませんでした。初めて具体的に作業が開始されたのは同年9月22日(木)からです(
甲84号証)。
 また、リニューアルにともなう私の作業は、「最終段階で」「展示室の作業に加わ」っただけではない。これもまた実態に反する記述であり、私の行っていた作業を不当に軽視したものと言わざるをえません。
 このあたりの事情は、私の勤務実態や、他の職員との関係だけでなく、平原学芸副館長の勤務の実態を知る上でも非常に重要な点だと思われるので、以下に、平成16年度の冬から平成17年度、そして常設展リニューアルまでの流れを箇条書きにしておくことに致します。

①平成16年12月22日(水)、常設展示見直し部会(第1回)が行われた(甲85号証 部会資料抜粋)。部会で中心となり、参加者に趣旨説明をしたのは平原一良学芸副館長(当時)であった(甲85号証 「常設展見直し部会の皆さまにご協力いただきたい事柄」)。しかし、見直し部会はこの1回きりで、その後、二度と再び開かれることはなかった。
②平成17年度に入り、事務分掌において、平原学芸副館長は「常設展展示替えに関すること」の主担当になった(
乙9号証)。亀井が副担当であった。
 亀井は、平原学芸副館長から「見直し部会の先生方(協力者)から送られて来る見直し案をもとに、「常設展示『北海道文学の流れ』更新案」の年表を作成して欲しい」と依頼され、作業にとりかかった。見直し案は6月前後からぽつりぽつりと各所より届く程度であったが、亀井はそれらを詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表としてまとめた(
甲86号証)。作業進行の過程では、そのつど平原学芸副館長にも目を通してもらった。しかし、学芸副館長からそれ以上の指示はなく、結局、これらの年表はリニューアルにまったく生かされなかった。
③また、平成17年春頃、亀井は、リニューアルにともなって各コーナーのキャプションを日本語英語の二カ国語表記にしてはどうかと思い立ち、平原学芸副館長に提案した。学芸副館長もその時点では快諾し、英文は亀井が下書きすること・文章のチェックは「平原学芸副館長が知り合いの、大学の英語の先生にお願いする」ということに話がまとまったので、亀井は他の作業の傍ら、自分の作業を進めた(
甲87号証)。しかしこの英文キャプションは、リニューアルオープンを間近に控えた同年10月16日(日)に、平原学芸副館長から突然、亀井に、「英語チェックをするはずだった先生は、ご家庭内に事情が生じたため、チェックは出来なくなった」と告げられ、キャプション作成作業はそのままストップした。そして、この二カ国語表記キャプション案は、その後再び日の目をみることはなかった。
④亀井は②、③の基礎作業を進めていたが、しかしこの時期、他方では、具体的な常設展プロジェクトは何も動かなかった。亀井及びH学芸課長(当時)・K業務主査(当時)はしばしば平原学芸副館長に進捗状況を問い合わせたが、いつも「○○先生からの展示案がまだなので、僕から連絡しておくからちょっと待って」等という返事が戻って来るだけであった。見直し部会も開かれなかった。
⑤9月17日(土)に平原学芸副館長から、常設展の内照パネル(内側からライトで照らすタイプのプラスチック写真パネル)に使う写真数枚に関する指示が出(
甲88号証)、同月22日に漸く常設展の具体的な準備が始まった(甲84号証)。しかしその時も、亀井に、内照パネルの写真に合うような文学作品のテキストを抜粋しておくよう指示が出ただけだった。9月29日(木)の課内打合せで、やっと展示替えの作業分担案が平原学芸副館長から示された(甲80号証「常設展示室替えに関わる作業と分担について」及び「常設展示室 展示換え作業について」)。
⑥10月4日(火)に常設展示室がクローズとなり、展示設営が開始されることとなった。この月、職員勤務割振(甲89号証)で予定されていた学芸副館長の勤務日は21日間だった。だが、この頃、平原学芸副館長は図録『ガイド 北海道の文学』の執筆編集を理由にして、道立文学館に出勤しないことが時々あり、出勤日にも勤務時間中フルにいることは少なかった。現場への指示も滞りがちだった(以下の記録は、
甲90号証 2005年度原告手帖の記述に基づく)。
 
10月5日(水) 平原学芸副館長が午前は外勤、午後は会議だったため、課内打合せ延期。
同8日(土) 平原学芸副館長、3時頃に一旦出勤してすぐにまた退出。H学芸課長打合せ出来ず。
同9日(日) 平原学芸副館長欠勤。指示来ず。学芸課作業停止。
同12日(水) 平原学芸副館長・H学芸課長・O学芸員(当時)・私の4人で作業打合せ。しかし、学芸副館長とO学芸員が話を前へ進めないので、途中から学芸課長が進行役をつとめる。
同15日(土) 平原学芸副館長、サードワーク(検索機業者)にアポイントを忘れていたので、代わりに亀井が連絡をとる。
同16日(日) 亀井、学芸副館長より「英語チェックのK先生、家庭の事情で×」と告げられる。英語キャプション作業実質停止。(前述)
同18日(火) 亀井、非出勤日。A司書(当時)より「みんな少し壊れてきています」(作業進捗しないため)との携帯メール受ける(
甲91号証)。
同19日(水) 学芸副館長午前中休み。午後から出勤するも、「短歌・俳句の出品リストが先生方から来ていない」との理由で作業停止。
同20日(木) 学芸副館長外勤、出勤は夕方。朝、「今日の展示作業はストップ」とH学芸課長に指示あり。
同22日(土) 学芸副館長、午前11時頃に出勤。S社会教育主事に「今日は特に常設展の動きはなし」と指示。
同23日(日) 学芸副館長欠勤。「自宅で図録の校正をする」と連絡。
同26日(水) 学芸副館長、午後3時前頃に出勤。学芸課職員、この日はじめて、学芸
副館長より展示壁面設計を渡される
。学芸副館長は、図録校正で徹夜した事を理由に午後4時半に帰宅。
同27日(木) 学芸副館長、午前10時前に昌文堂(業者)と打合せ予定。しかし遅刻。
同29日(土) 学芸副館長、昼前頃出勤。常設展の指示を出して夕方前に帰宅。
同31日(月) 亀井がデータを作成した文学碑検索機、サードワーク(業者)により常設展示室に設置。サードワークO氏は午後1時に文学館に到着、しかし学芸副館長は45分の遅刻。また、O氏・私と共に検索機を試用した平原学芸副館長は、O氏の前で「まぁ、こんなもの、こけおどかしだけどな。じいさまたち(道立文学館理事ら)が喜ぶんだよな」と発言。
11月1日(火) 展示準備最終日。亀井はこの日は非出勤日だったが、出勤して展示設営を行った。亀井は午後9時まで、他の職員は午後11時まで残って作業にあたった。学芸副館長は時折現場に来て指示を出していたが、夕方からは小説家の吉村昭氏を出迎えにゆき、そのまま接待にあたり、直帰した。

 以上の記録から読み取れるように、
(a)リニューアル作業が佳境に入ったのは平成17年夏頃ではなく、リニューアルオープン直前の10月26日からだった。
(b)当時の平原一良学芸副館長の出勤状況は変則的であり、10月4日から11月1日までの間には、欠勤・遅刻・早退した日がきわめて多かった。
(c)その間、私は、水・木・土・日の勤務曜日にフルに出勤し、他の学芸職員とも携帯メールで緊密に連絡を交わしながら(
甲91・92号証 A司書メール)準備作業および現場作業を手伝っていた。平原学芸副館長の代わりに外部業者との連絡・応対に当たることもあった。10月31日(月)・11月1日(火)は、現場の状況があまりにも切迫していたため、私は休日出勤して作業に当たった。通常は嘱託の時間外勤務についてチェックが厳しい業務課職員も、この時ばかりは私の休日返上や時間外勤務について異論をはさまなかった。
 
 当時の実態は以上の如くです。それゆえ、平原現副館長の記すところの「リニューアル作業が佳境を迎える」頃に「複数の女性スタッフから、同氏(亀井氏)の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高く」なったのは、夏ではなく同年10月以降(正確には26日以降)のはずです。また、平原学芸副館長(当時)が「そうした声」を受け、猛忙を極めていたはずの「スタッフ」を「諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労」していた場所は、実際の状況に即すれば、道立文学館内であるという可能性はきわめて低い。とするならば、外勤先か、あるいは平原氏の自宅においてだったことになるわけですが、その点は極めて曖昧です。
 もし、平原現副館長があくまでも
「上記の内容に相違ないことを誓います」乙12号証末尾)と主張するのであれば、平原氏自身の記録と書証に基づいて、正確に、いつ、誰から、どのようなシチュエーションにおいて、私に対する「異議あり」の声が平原学芸副館長(当時)に届いたのかを明らかにしなければなりません。それが出来ないならば、平原氏は根拠の曖昧な不特定の人の風評に基づいて、私の人格を貶めたことになります。

2ページ22~29ページ
「同氏の担当する文学碑データベース作成作業も一段落するころ、学芸課内では平成18(2006)年度以降の事業素案を検討するためたびたび課内ミーティングが行われました。同年度から導入される指定管理者制度下における新たな展開を想定し、4ヵ年間の事業案の作成作業を進める必要があり、私も参加しながら、学芸課長以下のスタッフで協議を重ね、幾つかの展示メニューが用意されました。これらの案は当財団の企画検討委員会(理事・評議員十余名で構成、財団スタッフも参加)における検討を経て煮詰められていくのですが、そのメニューのなかに亀井志乃氏の企画展『二組のデュオ』案も含まれていました。」
 ここでも平原氏は、事実とは大きく異なることを書いています。というのは、「文学碑データベース作業」と「平成18年度以降の事業素案検討」という2つのプロジェクトの時間的な関係の捉え方が不正確だからです。
 「文学碑データベース作業」は、平成17(2005)年7月に素案作りが始まり、7月16日付で各市町村への調査依頼の書類が決裁され(
乙8号証)、同月17日に書類は発送されました(甲93号証の1)。8月中には、私が外勤に出て札幌市内の諸方にある文学碑の写真を撮影しています(甲93号証の2)。その後、私は、返送されて来る各市町村からの調査回答に加えて、文献等にあたりながら、同年10月12日(水)にデータベース作成を完了(データ総数747件)。結果をCD-Rに記録しています(甲90号証)。このデータは、11月2日に発行された図録『ガイド 北海道の文学』に「データベース 北海道の文学碑」として収録されました(甲68号証)。
 従って、「同氏の担当する文学碑データベース作成作業も一段落するころ」というのは、現実に即していえば、平成17年10月12日以降でなければなりません。
 ところが他方、学芸課内で、初めて「平成18年度以降の事業素案検討」が話題になったのは、同年6月8日(水)の学芸課内打合せの席でのことでした(
甲94号証)。打合せ後、私が、嘱託である自分も案を出してもよいのかとH学芸課長に尋ねたところ、「いいですよ、なるべく沢山欲しいところなので」という返事だったので、私は6月16日(木)、「人生を奏でる二組のデュオ」展を含む5つの展示案を学芸課長に提出しました。その後、7月20日(水)・8月25日(木)の課内打合せの際に繰り返しH学芸課長から他の学芸職員に対して展示案提出をうながす発言があり、そして9月16日(金)には集まった展示案が課内打合せの席で紹介され(甲95号証)、9月29日(木)の企画検討委員会に向けて内容が絞り込まれました。
 つまり、「学芸課内では平成18(2006)年度以降の事業素案を検討するためたびたび課内ミーティングが行われ」たのは、平成17年6月8日から9月16日までの間のことだったわけです。
 従って、平原現副館長が、それぞれのプロジェクトが進行していた日時を明記しないまま、あたかも「文学碑データベース作成作業も一段落」したあとの短期間の話し合いの中で、「亀井志乃氏の企画展『二組のデュオ』案も含まれ」ることになったかのごとく書いているのは、時間的な前後関係を故意に混乱させた記述としか言いようがありません。
 また、平原氏は、この直後の部分(
乙12号証2ページ29~30行目)で、「このテーマは近代文学研究者の立場にもあった同氏がかねてから構想をあたためていたものと思われます」と、この展示案に私が執着する特別な理由があったかのような含みのある書き方をしており――多分次の段落の「予定にない氏の行動(同上2ページ36行目)の伏線に使うつもりだったのでしょうが――、しかし「二組のデュオ展」は、この時点の私にとっては、あくまでも5つ出したアイデアのうちの1つでしかありませんでした。それが、平成18年度の企画展案の1つに加わることとなったのは、H学芸課長の構想および判断の結果です。

2ページ31~36行目
「事業素案検討のため、上記の委員会が開催されたのは平成17年9月29日のことでした。会議の席上、『学芸課の素案は個々の案についての説明文が不十分であり、粗い』との苦言がひとりの委員から厳しい口調で呈されました。その直後にとった亀井志乃氏の行動が私の印象に強く残っています。同氏は突然挙手し、『私の案は詳しい内容ができています。今コピーをとってきて、ご覧にいれます』と発言し、その場を出てコピーを用意して戻り、委員をはじめ出席者全員に配布しはじめたのです。」
 平原現副館長の説明は、一見、客観的にこの時の状況を叙述しているようですが、「ひとりの委員からの発言」を故意に簡略化している。また、その委員の批判は展示案全般に呈されたものではなかったにもかかわらず、その点も筆を省いてしまっています。
 まず平原氏が名前を明記していない「苦言」を呈した「ひとりの委員」について言えば、それは工藤正廣理事(当時北海道大学教授)でした。
 また、この時、「2006(H18)年度の展示事業候補案」(
甲96号証)として上がっていたのは、「石川啄木 ―貧苦と挫折を超えて―」「福永武彦/池澤夏樹~父子2代作家展~」「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎・里見弴と中戸川吉二~」「遙かなるサハリン~極北をめざした作家たち~」「知床の自然を描く~関屋敏隆絵本原画展~」の5つの展示案でした。
 これらのうち、私が出した「二組のデュオ展」以外の展示案を説明しますと、「啄木展」と「福永・池澤展」は、平成17年6月頃から平原学芸副館長(当時)自らが強く推す原案であり、この時期にはすでに日本近代文学館(啄木資料所蔵先)や池澤夏樹氏にも内々で話を通していました。また、「〈サハリン〉展」は前年度まで学芸課長を務めていたA学芸員(当時、北海道教育委員会の文化課に異動)がかねてより案を練っていた企画です(ただし、この案は後に平成19年度にまわされ、しかも実際には19年度の事業からもはずされ、今年の平成20年度予定にも入っていません)。他方、関屋敏隆展は、毎年行われる〈ファミリー文学館〉(カテゴリーは「展覧会事業」ではなく「教育普及事業」)の一環であり、資料(原画)は剣淵町の「絵本の館」から借用することにほぼ決まっていました。
 企画検討委員会では以上の平成18年度案と、それに加えて平成19(2007)年度以降の素案31タイトルが資料(
甲96号証)の中で示されたわけですが、工藤正廣理事はそれを見て「だいたい、こんなものやってどうする、っていうのがずらっとならんでいるよ」、「『人生を奏でる二組のデュオ』とか! 『文学者の職業事情』とか、こんな思いつきみたいなものやったって、客なんか来ねえんだよ! もっと別なものにしなきゃ駄目だ!」と頭ごなしに、否定的な言い方をしました。なお、「文学者の職業事情」(フルタイトルは「あの作家もこんな仕事をしていました~文学者に見る近代北海道の職業事情~」)も、私が提出した案の一つでした。
 資料には、誰が提示した案かということはまったく記入されていませんでした。しかしながら、如何なる偶然か、工藤理事が「こんなもの」と指摘した素案2つは、両方とも私の案だったわけです。
 本来であれば、この場での説明責任は平原学芸副館長にあります。学芸課長や業務課長らは道派遣職員であり、財団役員を兼任していないので、理事会や企画検討委員会などでは基本的にオブザーバーとして列席するだけでした。ですから、平原学芸副館長に、もし職員を代表して原案を提案した責任者としての自覚があれば、「こんなもの」呼ばわりする発言をたしなめる見識があってしかるべきでしょう。しかし平原学芸副館長に、工藤理事からの批判に対して答えようとする様子はありません。私も立場上はオブザーバーでしたが、槍玉に上がっている2つが自分の出した案であり、しかもただの「思いつき」ではなく企画書も書いたものであったため、少なくともその点は出席者に理解しておいてもらわなければと思い、挙手して発言の許可を求め、とりあえず事務室の自席にあった「デュオ展」の企画書(
甲25号証)の控えをコピーして来て、企画検討委員会の皆さんに見てもらうことにしました。
 その時点では、私の行動や企画書の内容に対して疑問や意見を出すものは誰もいません。当の工藤正廣理事はしばらく無言でいたあと、委員会の席を中座し、しかし閉会まで戻って来ませんでした。(この点については、あとで、出席していた職員も不審がっていました。ただ、委員会後の懇親会には出席していたと聞き及んだ記憶があります。)
 私が「二組のデュオ展」の企画書コピーを企画検討委員会の席上で配ったのは、以上のような状況と理由とによるものであって、決して平原現副館長が書いているような
「他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容案を用意している、と同氏(亀井)は主張したかったのでしょうが乙第12号証 平原一良「陳述書」3ページ2~3行目)などといった動機からではありません。
 もし平原一良氏が、あくまでも上記引用部分の記述通りだったと主張するなら、工藤正廣理事の発言内容をより明確に叙述し、工藤理事が中座した時までの経緯を、事実に即して具体的かつ合理的に説明することが必要です。少なくとも私にはそう要求する権利がある。そう言って差し支えないでしょう。なぜなら、平原氏は先に引用した文章に続いて、
予定にない同氏の行動は、私の目にはずいぶんと奇矯なものと映りました。会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な同氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。」2ページ36行目~3ページ3行目)と、私が非常識で自己顕示欲の強い人間であることを印象づけようとする書き方をしているからです。
 
3ページ12~16行目

「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました。」
 まず一つ確認しておけば、亀井秀雄のブログ問題と、私による本提訴の内容には何ら関わりがありません。
 しかし平原一良氏および北海道立文学館・財団法人北海道文学館は、平成17年度常設展リニューアル時期以来、「亀井秀雄のブログ」(「この世の眺め ―亀井秀雄のアングル―」)に非常なこだわりを持ち続けているようなので、以下にその経緯を箇条書きしておきます。
1)平成18(2006)年3月15日(水)
 私は毛利館長(当時)から館長室に呼び出され、亀井秀雄のブログを削除するよう娘である私から頼んで欲しいと言われた(
甲97号証 手帖)。
 私は、亀井秀雄のブログにおける言説活動は亀井秀雄個人の見識と信念に基づいて行っているものであり、別人格である私がその言説活動をやめるように頼むことはできないと言って断った。だが、毛利館長はその点にこだわり、結局私は、業務時間中に1時間ほども館長室に足止めされた。
2) 平成19(2007)年1月17日
 平成19(2007)年、前年12月より雇止め問題が生じていた私は、質問書を館長ほか文学館の管理職等に渡し、文書による回答を求めていた。すると1月17日、毛利館長から「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」なる文書(
甲53号証)を手渡された。
 それには、
こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動はきわめて不誠実であり、強く抗議します。」という一文が記されていた。
3)平成17年7~8月
 同年7月24日より開始された労働審判の席上においても、財団法人北海道文学館側は亀井秀雄のブログの存在を、私の主張をはねつける理由として上げたようである(入れ替え制のため直接には聞いていない)。だが、審判員諸氏は、それは申し立て内容とは問題が異なるとして、特に取り上げることはしなかった。
4) 平成20(2008)年2月21日
 私は、同年12月21日にパワーハラスメントを対象にした調停を札幌簡易裁判所で起こしたが、不成立に終わったため、同日提訴に踏み切った。すると、第1回口頭弁論が終わった直後の平成20(2008)年2月21日に、亀井秀雄のもとに、プロバイダであるニフティ株式会社から「閲覧された方より、亀井秀雄のブログ上に掲載されている内容により迷惑を被っているので削除してほしい旨のご連絡があった」とのメールが入った。だが、ニフティ側としては、「連絡者から申告のあった情報からでは弊社会員規約に明確に反すると判断できる箇所が確認できないため、特段の対応をとる考えはない」とのことであった。「迷惑を被っている」と言った人物が誰かだったかは特定できないが、当時の状況からいって、道立文学館関係の人間である可能性はきわめて高い。
5)平成20年4月8日
 私は、3月5日付で、被告から蒙った被害状況を準備書面にまとめて提出した。もちろんその中で、ブログについては全く言及していない。ところが平原一良氏は、自身の「陳述書」の中で、財団の私に対する扱いと、亀井秀雄のブログの書き方との間に、何か相関関係があるかのように仄めかす書き方をしている。
 
 毛利館長や平原副館長は、これまで一度として、亀井秀雄のブログのどこが道立文学館に対する「根拠のない誹謗・中傷」なのか具体的に指摘したことはありません。平原氏の今回の「陳述書」も、亀井秀雄のブログのどの部分が攻撃的で、どのような書き方が「あられもない」のか、全く説明していません。平成18年3月頃に一度館長が亀井秀雄に対して、非公式に、しかし一方的に、「ブログを削除してくれ」という要求を持ち出したようですが、それ以来、両者の間で話し合いや討論の場が持たれたことはないようです。亀井秀雄は財団法人北海道文学館の理事で、理事会にも必ず出席しており、もし平原氏の言うように
「当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました。」3ページ10行目)というのであるならば、話し合いの機会はいくらでもあったはずです。
 それでいて、道立文学館側の幹部職員、もしくは平原副館長は、私が文学館内において私が不当な扱いを受けていると問題提起し、あるいは裁判所において同様な問題を提起すると、必ず亀井秀雄のブログをあげつらって来る。多分この人たちは、私の問題提起とまともに向き合うことができず、事態を歪曲し、問題提起をはぐらかすために、亀井秀雄のブログから蒙った「被害」や「迷惑」を捏造して、自分たちの私に対する不当な態度を正当化する策戦に出たのでしょう。
 もし、平原現副館長、あるいは財団法人北海道文学館が、これ以上亀井秀雄のブログを問題にしたいのであれば、改めて亀井秀雄の文章のどこが問題で、どのような被害をこうむったのかを明らかにした上で、亀井秀雄を提訴する手続きをとるべきです。そして、ブログ問題はブログ問題として決着をつけるべきです。その手続きも取らずに、これ以上本提訴のやりとりの中でブログ問題を持ち出すならば、それはとりもなおさず、単なる裁判引き延ばしのための論点すり替えでしかない。また、ひいては、私の肉親を標的とした誹謗・中傷にほかなりません。

3ページ18~20行目
「ただ、学芸課内での分掌をめぐって、同氏に委ねた寄贈資料の開封整理作業や閲覧室番業務(ローテーションに従い複数で担当)に不満を覚えているようであるとの話は、一部学芸課員から耳にしていました。」
 この箇所には、2点、現実と異なることが書かれています。
 第一に、私はこの時、「寄贈資料の開封整理作業」は行っていません。常設展リニューアル後に平原学芸副館長(当時)から依頼されていたのは、与謝野晶子百首屏風の翻刻でした(
甲65号証の1乙1号証準備書面への反論参照)。私は、屏風が常設展リニューアルの際にお披露目展示が終わったあと、12月から翌平成18年3月末まで、その解読作業にかかりきっていました(甲65号証の2・3)。屏風は一双きりで、研修室(1階和室)に広げた状態で立てられていたので、別に「開封整理」する必要はありませんでした。
 第二に、私が平成17年度に、「閲覧室番業務」に対して「不満を覚え」ることは、事実上不可能なことです。なぜなら、平成14(2002)年度より平成17年度末に至るまで、閲覧室は職員無人体制だったからです。その証拠として、H学芸課長(当時)が作成した「引き継ぎ事項について」という文書(
甲47号証の1)を挙げることができますが、H学芸課長は平成18年3月の課内会議で、その文書を配布し、「必要時に来館者の連絡を受けて職員が赴くという今の体制は、サービスの観点からいっても問題があるので、早急な対応が望まれる」旨の問題提起をしています。つまり、平成17年度までは、閲覧室は無人状態だったわけです。そして実際に職員がローテーションを組んで閲覧室対応に当たるようになったのは、繰り返しになりますが、平成18年4月14日に平原学芸副館長(当時)と被告から、私がA学芸員とO司書の手伝いをするように依頼を受けてからのことです。(甲62号証
 そのような次第で、平成17年度には文学館内部に存在していなかった「閲覧室番業務」に関して、私が「不満を覚える」などという芸当はできるはずもありません。仮に私は「不満」を覚えたいと思っても、残念ながら「不満」を覚えることはできなかったわけです。
 もし平成17年11月2日(常設展リニューアルオープン)以降のある時点で、「(亀井が)寄贈資料の開封整理作業や閲覧室番業務に不満を覚えているようである」と平原氏の耳に入れた「一部学芸課員」なる者が本当に実在するならば、平原氏は、その人物(あるいは人物たち)が誰であるかということを明らかにし、さらに具体的な話の内容を、証拠物及び記録を挙げて明確に説明しなくてはならないでしょう。平原氏にそれができないならば、氏は曖昧な風聞を根拠として私の業務態度を貶めたことになります。

2)「3 平成18(2006)年4月以降」について
3ページ27~30行目

「当年度からは、それまでの当財団へ道教育委員会から一部職員を派遣するスタイルから、『駐在職員』を配置するというスタイルに変わりました。これは、指定管理者制度の導入による結果ですが、管理者として指定された当財団としては十分な内部協議を経て受け入れたスタイルです。」
 この引用部分は、「平成18年度から道職員が駐在する体制になることは、文学館内部でも職員が納得するまで話し合いがもたれたのであり、亀井がその理念や構想を理解していないのだとしたら、問題は亀井のほうにある」という方向に話を持って行くための布石だろうと推測できます。しかしここにも、平原一良氏の一流の論理のすり替えと虚偽とが表れていると言わざるをえません。
 事実としては、「駐在職員を配置する」というスタイルが妥当かどうかについて、いかなる内部協議も経ていなかった、と私は記憶しています。職員たちには、はじめは「指定管理者制度になれば、いままでの派遣職員はいったん全員引き上げられる」と伝えられ、また指定管理者選定前後の時期には、「新体制のもと、道職員は〈駐在職員〉として配置される」と伝えられて来た。しかも、それらの情報は会議という過程を経ず、すべて、避けようもない〈上〉(道教委)の方針であるかのように、上意下達の形で伝わってきました。
 そしておそらく、その方針の結果、学芸課長や受付係など、長年にわたって文学館に勤務してきた道派遣職員が、選択の余地なく、異動あるいは退職を余儀なくされてしまいました。業務課も3名が異動となりました。その一方では、S社会教育主事とA司書(平成18年度より学芸員)は、いつのまにかそのまま「駐在職員」として居られることに決まり、職員たちは(残った本人たちも含めて)ご都合主義的な〈上〉の方針に不透明なものを感じていた。これが、私が見ていた、当時の文学館内部の実態です。
 もし平原氏が「当時、館内においては十分な内部協議が行われて来た」とあくまで主張するならば、「内部協議」に参加した人々の名、役職、および開催日時を明示し、当時の資料や議事録・メモ類と合わせて、話し合いの過程を具体的に説明しなければなりません。

4ページ12~15行目
「5月2日、私は、寺嶋氏と亀井志乃氏(以下、適宜亀井氏と呼びます)とともに、文学碑データベースの更なる充実化を図ることをテーマに話し合いをもちました。寺嶋氏からも充実化のための方法をめぐり新たな提案もなされ、亀井氏が担当であることを確認するとともに、今後工夫しながら進めていこうという結論に達して話し合いが終わりました。」
 平成18年5月2日に私が被告に呼び出され、平原学芸副館長(当時)も交えて話をしたのは、「ケータイフォトコンテストによる画像収集」の件についてでした。これは、私の「準備書面」の(2)の(a)「被害の事実」に記している通りです(
甲13号証参照)。ところがその話し合いで、私がそうした企画を立てる前提として自分の立場を確かめておこうと、「私はそういうことが出来る立場では…」と言いさしたところ、いきなり被告が「そういう立場って、いったいどういうことだ。最後までちゃんと言ってみなさい!」と激昂しはじめました。その後は、私が何をたずねようとも、被告と学芸副館長の2人が、「意見だけでなく、アイデアを出してほしい」「アイデアは皆でもむ」「皆でもむが、全員でなくてもいい。僕(学芸副館長)と寺嶋さん(被告)が見て良さそうだということになれば進めて欲しい」(以上、甲13号証参照)などと、辻褄が合わなくなるのも構わずに話の焦点をずらし、結局、私の立場も、私に何をどこまでして欲しいのかも曖昧にしたまま、話を終えてしまった。これも、私「準備書面」の(2)―(a)に記している通りです。
 この時の話し合いの詳細は、すでに、私が平成18年10月31日に平原副館長(当時)に手渡した文書「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(
甲17号証)の中に記しておきました。だが私は、その文書の記述内容に関して、平原氏本人および被告から、10月31日以降、一度たりとも否定されたり、訂正要求を出されたりしたことはありません。にもかかわらず、平原氏は今になって、私が先の文書で記述しておいた内容と異なる結論に達していたかのように書いている。事実の卑劣な歪曲と言うほかはありません。

4ページ16~18行目
「ただ、その折に、スタッフが強調(ママ。亀井志乃の引用ミス)して仕事を進めていくべきだとの一般的な話題の展開のなかで、亀井志乃氏は『私は財団のスタッフなのか』との言葉を思いがけなくも発しました。」
 私は、そのような言葉を発したことはありません。
 「ノート『道立文学館覚え書』」(
甲13号証)及び甲17号証「去る10月28日に発生した文学碑データベース作業サボタージュ問題についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」で、私は次のように記しています。

 「私は、私の置かれた立場について、学芸副館長に、主幹への説明を求めた。それは、平原副館長こそ、私を〈嘱託〉として館に呼んだ当人であり、これまでの経緯を最も良く知る人物だと思ったからである。
  しかし、学芸副館長は、〈前年度までは確かにそうだったが、この春からは、亀井さんは館のスタッフとなった。そして我々は、仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担しようという事になった〉と言った。
  ただし、私は、この時に至るまで、私の扱いが前年度に比べて少しでも変わったとは、誰からも、一言も説明をされていない。
  〈スタッフ〉という言葉も、文学館のどういう規約にもそうした役職名があるわけではなく、ただ単に学芸副館長が英単語を使ってみただけと思われる。」(
甲17号証より)

 つまり、この場で「スタッフ」なる言葉を発したのは私ではなく、平原学芸副館長(当時)の方だったわけです。私はその説明を黙って聞いているだけでした。ただ私はそれを聞きながら、平原学芸副館長の、言葉だけを外来語にすり替えてあたかも制度自体が変わったかのように言い繕おうとするご都合主義に、疑問を抱かずにはいられませんでした。その印象もあって、上記のように記録しておいたわけです。
 被告は、私が「私は職員ではありません」とたびたび口にしていたと言い(
乙1号証7ページ6行目)、平原現副館長は、私が「私は財団のスタッフなのか」と言ったという。繰り返しになりますが、私は当時も、本訴訟においても、自分が財団法人北海道文学館に嘱託職員として雇用されていたことを否定的に考えたり、職員でないことにこだわったりしたことは一度もありませんでした。当然のことながら、そんな考えやこだわりを口にすることなどあるはずがありません。
 私が一貫して主張しているのは、「一口に同じ職場の職員といっても、正職員・非常勤職員・嘱託職員・派遣職員・アルバイト等の別がある。また、道立文学館には、北海道教育委員会からの駐在職員もいる。おのおの、保証されている立場も対外的な責任の範囲も異なる。業務を遂行する上では、互いが互いの分(ぶん)や守備範囲を理解しつつ、円滑に仕事が進められるよう配慮し合うのが当然ではないか。にもかかわらず、その職場の中で単に自意識的に〈自分は上位者である〉と思っている者が、立場も責任範囲も異なる他の職員に自分の意志や業務を押しつけるような行為は、果たして許されるのであろうか」ということでした。
 しかし、平原一良氏ならびに被告は、結局、私の問題意識を一度も理解せず、いまだに私が「職員であるか・ないか」「スタッフであるか・ないか」と二者択一的こだわっているとしか理解できないようです。上記引用箇所が、如実にそのことを物語っていると言えるでしょう。

4ページ29~30行目
「そのうち、亀井氏は、寺嶋氏が席に居るときには、事務室に極力とどまらずに席を空けていることがたびたびであることに気づきました。」
 この点に関する私の反論は、被告の「陳述書」(乙1号証)6ページ19~20行目に対する反論と変わりません。平原氏は、まるで私が意識して勝手に事務室を離れてしまっていたかのように記述しています。多分平原氏はこのように書くことで、私が事務室以外の場所で働かざるを得なくなったのは、自分と被告とが私にA学芸員とO司書を手伝うように依頼した結果にほかならないことを隠そうとしたのでしょう。
 「3ページ18~20行目」の項の反論で述べたように、平成17年度の末に、H学芸課長から、閲覧室に職員がいないのはサービスの面やセキュリティの面で問題があるとの指摘がありました。平成18年度に入って閲覧室勤務の体制が組まれ、4月14日には、平原学芸副館長と被告の依頼で、私がO司書とA学芸員の仕事を応援することになり、閲覧室担当の3人が、それぞれ時間の合間をぬって閲覧室を覗いたり、その日の担当者が忙しければ代わって来客に対応したりするようになった(
甲109号証参照)。これはむしろ当然の心がけであるはずです。ところが平原氏は、まるで私が被告を避けて事務室を空けていたかのように、下種の勘ぐりを働かせている。被告がひがみ根性で平原氏に訴え、平原氏が被告に代わって私を自侭者に仕立てたつもりかもしれませんが、情けない嫌がらせだと評するほかはありません。

4ページ34~5ページ2行目
「火曜日朝のミーティング(館のスタッフが事務連絡やその週の動向を伝え合います)の場で、亀井氏が『明日ニセコに調査のため出張に行ってきます』と切り出し、私を含むスタッフは困惑しました。事前の打ち合わせなどがないままでしたので、その場で亀井氏を叱責することなどはせず、後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました。」
 平原氏は例によって日時をぼかす書き方を取っていますが、私の〈ニセコ行き〉が問題となった状況および「火曜日朝のミーティング」と記されていることから推して、平成18年8月29日(火)のことを指していると思われます(原告「準備書面」第1(6)―(a) 12~14ページ)。
 しかし、実はこの日、平原副館長はミーティングの場で、私が発言するのを目の当たりにして「困惑」できるはずがありません。なぜなら、すでに私の「準備書面」の当該箇所でも指摘したとおり、「平原副館長(中略)は急な怪我で、たまたま欠勤していた」(13ページ6~7行目)からです。
 実はこの直後の9月1日、平原副館長と私が交わしたメールの記録が私のメールソフトに残っていました(
甲44号証)。以下、そのメールの中の平原副館長自身の記述を引用しながら、詳細を説明しておきます。

【From「平原 一良」メールの引用】
 私の怪我については、月曜日(休館日)ではありましたが、たっての希望で観覧を受け入れたBさん一行が到着されたときに、バスから降りてきたお年寄りを避けようと身をかわした際に、チェーンに引っかかって前のめりに倒れこんだ結果のことでした。左ひざや顎を打撲し、右腕関節の靱帯を傷め、前歯が欠け、口中を切ってしまったのですが、勢いよく転んだわりには軽傷の範囲(?)で済みました。ご心配をおかけしました。昨日(※8月31日)から出勤しています。
 では。

 つまり平原副館長は、8月28日月曜日、バスで到着した団体客の前で、右腕の靱帯を傷め、前歯が欠け、顔面からも口中からも血が流れ出るほどの傷を負って(目撃していた職員談による)、即刻病院に運び込まれて治療を受け、同月29日・30日の2日間、文学館を欠勤していました。当然の帰結として、29日の朝の打合せ会(ミーティング)には出席してはいなかったし、それ故、私の言動に困惑することは出来るはずもありませんでした。
 また、このメールに先行するメールの中で、私は「結果的に事後承諾の形となり、申し訳ございませんでした」(
甲44号証後半 原告メール引用部)と平原副館長に謝罪し、平原副館長の方は「余計な前置きはともかく、今回のことについては、どうかあまり気にせずに、と申し上げておきます甲44号証)と、むしろ私をなぐさめる言葉を記しています。
 そのようなわけで、もし平原一良氏が、あくまでも自分の陳述書(
乙12号証)末尾にあるように「上記の内容に相違ないことを誓い」つつ、「突然ニセコ行きの話を持ち出した亀井に困惑した」と主張するならば、前日に顔面および腕を打撲して館を欠勤し、その後私に物わかりのよい上司としてメールを打っていた〈平原 一良〉と、火曜日朝のミーティングで私のふるまいに困惑し叱責したい衝動をこらえていた平原一良とは、どのようにして同一人物としてアイデンティファイすることが可能なのだろうか。もし29日の朝、平原一良氏が出勤していたとして、氏は文学館事務室のどのあたりに存在していたのだろうか。私は、この日、平原副館長の姿を見た記憶がない! そんなドッペルゲンガー・ミステリー的な疑問に囚われざるをえません。
 こうした私の疑問に対し、平原氏が合理的な説明をもって答えることはかなり大変なことと思いますが、平原氏が以上のように主張するからには、それなりの根拠があるのでしょう。ぜひ合理的な説明が聞きたいと思います。

5ページ8~17行目
「10月31日(11月1日だったかもしれません)、亀井志乃氏は、会議室で仕事をしていた私を突然訪れ、『これを読んでください』と分厚い文書をテーブルの上に置きました。標題を見ると「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」とあり、瞬時にこれは穏当ではないと感じました。たまたま、亀井氏とのコミュニケーションがとれずに悩んでいると寺嶋氏が来ていたときのことでした。既に数日前にも寺嶋氏は、亀井氏との人間関係をなんとか修復したい私の許を訪れていました。これは大切な機会かもしれないと思った私は、亀井氏に、『穏やかな標題ではありませんね。ここで話をしていきませんか』と言葉をかけました。亀井氏は厳しい口調で『そんな必要はありません』とひと言発し、会議室を出ていきました。」
 平原氏の言う「分厚い文書」とは、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(
甲17号証)のことかと思います。僅かに13ページの文書を「分厚い」とは大げさな言い方だとは思いますが、確かにこれを渡したのは10月31日火曜日のことです。(原告「準備書面」第1(12)―(a))。私はこの日、普段は文学館に出勤していない神谷忠孝理事長を除くすべての幹部職員と被告とに、この文書を手渡しました。
 ただ、上記引用部において平原氏が描写した状況や、再現している科白は、いずれも事実とは大きく異なっています。この時、私が発したのは、「そんな必要はありません」ではなく、「まず、どうぞそれ(
甲17号証の文書)をお読みください」という言葉でした。
 私が会議室に入っていった時、平原副館長は確かにパソコンの前に居り、被告はそのそばに立っていました。しかし、会話の内容は被告の悩み事の相談などではなく、業務上の件のように見受けられました。というのは、その時期は被告が主担当だった「池澤夏樹展」の最中であり、池澤氏と懇意な間柄である平原副館長が池澤氏との連絡役を務めていたからです。
 また、私が先の文書(
甲17号証)を手渡した時も、両者の態度には何ら真剣に受けとめた様子は見られませんでした。平原副館長は「ちょ、ちょっと待って下さいよ、こりゃあ。このタイトルはねぇ~、穏やかじゃないですよ~」と言い、被告はにやにやしながら「何、これ。ちょっとさ、ねぇ、話し合おうよ~」と言っていました。
 
 私はそれまでにも、口頭によって、幾度となく被告に自分の考えを述べようとしてきた経緯があります。にもかかわらず、
1)疑問を口にしただけで被告に怒鳴られ(平成18年5月2日 原告の「準備書面」第1(2)・
甲13号証)、2)早退の承認を打合せ会ですでに受けていたにもかかわらず被告にしつっこく絡まれ(同年5月10日 同「準備書面」第1(3)・甲4号証)、3)ニセコに出張に行く話も業務課長に承認された後に被告から絡まれ(同年8月29日 同「準備書面」第1(6)・甲31号証)、4)急に「朝の打合せ会は決まったことの報告だけをするところだ」と言い出し、私が疑問を呈しても「いや、そうなんだ」と説明もなく頭ごなしに言われ(同年9月13日 同「準備書面」第」(7)・甲6号証)、5)業務課長を交えた協議の席で作成してきた出張予定表をコピーしようとしたところ、怒鳴られた上に、意図の不明な言葉に振り回され(同年9月26日 同「準備書面」第1(8)・甲32号証の1)、6)出張予定がだいたい固まったことを打合せ会で説明しただけで怒鳴られ(同年10月3日 同「準備書面」第1(9)・甲8号証)、7)明治大学図書館から求められているのは「紹介状」を持参することなのだと説明しても耳を貸してもらえず、「書類を送るんだよ!」と怒鳴られ(同年10月7日 同「準備書面」第1(10)・甲9号証)、8)5月の話し合いで決まっていたのは私が碑の写真を撮りに行くことなどではなかったはずだ、と説明したが、「決まっていた」と絶対にゆずらず、館長・理事長および業務課長に説明したいと言っても「なんであんたが説明しなきゃなんないの」と言われ、このままでは話が錯綜しそうだから録音メモをとっておこうとしたところ「あんた、ひどい」「あんた、普通じゃない」と決めつけられてしまいました(同年10月28日 同「準備書面」第1(11-1)・(11-2)・甲17号証)。
 では、これ以外に会話が普通に成立した局面があるかといえば、4月4日以降に平成18年度の業務が行われるようになってから、私の発話に対して被告がごく通常の意味での会話(いわゆる“ことばのキャッチボール”)となるような返答を行ったことは皆無に等しい。
 
 他方、平原副館長(4~5月は学芸副館長)のこの間の態度は、いわば〈見て見ぬふり〉という姿勢でつらぬかれていました。
1)8月29日のニセコ行きのケースでは、私には一見もの分かりのいいメールを送りながら被告に対する対応は何もせず、2)9月13日には「別に、亀井さんが出張に行くのは被告や業務課長が決めることではない」、「この件については、被告によく話をしておくから」と言いながら(
甲6号証)、3)結果的には何も私のフォローに当たることをやってくれた様子はなく、10月3日には私が自分(平原副館長)の面前で被告から怒鳴りつけられるのを目の当たりにしながら、小声で「まあ一応、寺嶋さんと話を煮つめて、それからあげるってことにして…」(甲8号証)とつぶやいて口をつぐみ、どっちつかずの対応に終始していました。
 
 以上のような経緯から、私は、被告と平原副館長に対しては、通常の意味での「会話」も「話し合い」も成立せず、まして第3者を交えない場では、話し合いの事実自体が隠蔽される恐れがあると、その場で判断しました。それに自分の主張点は、文書(
甲17号証)の中に記してあります。まずはこれに目を通してもらい、事態への認識を共有してからでなければ、〈話し合い〉は始まらない。そこで私は、「まず、どうぞそれをお読み下さい」といって、会議室を出たわけです。決して、「話合いの必要はない」などというニュアンスの言葉を発したわけではありません。私が返答を求め、事態に対する対応の継続を望んでいたことは、甲17号証の結びの部分で、「以上の点については、寺嶋弘道主幹以下、それぞれの関係者から、反論もしくは別の視点からの意見も提出される事もあろう。また、内容をお認めになるという場合もあるだろう。そうしたご意見・ご回答は、すべて文書の形で、亀井にお渡しいただきたい。これは、亀井としても、より正確な記録を残しながら、今後の対応を続けていきたいためである。」と記しておいたことからも明らかなはずです。

 なお、平原氏はこの10月31日のこととして「たまたま、亀井氏とのコミュニケーションがとれずに悩んでいると寺嶋氏が来ていたときのことでした。」と記していますが、これは今回の準備書面で初めて持ち出された主張です。私は11月10日(金)に、上記文書(甲17号証)対する回答の件で毛利館長(当時)と平原副館長に館長室に呼び出されたが、両名は、10月31日に被告が副館長に私に関する悩み事を相談していたなどという話は一言も出しませんでした。
 この時の館長と副館長の両名は、「いやあ、寺嶋さんも亀井さんの能力を高く評価していましたよ」「寺嶋さんも悩んでいたんですよ」、「彼も、なかなかうまくコミュニケーションがとれないんで、だんだん、あんな風(に暴言を吐くよう)になっちゃったんじゃないかなあ」などと、とってつけたような理屈を口にしていましたが(
甲50号証「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」7~8ページ)、彼らの言葉自体、被告が私に暴言を吐き続けていたことを裏づけるだけのものだったと言えます。(なお、原告「準備書面」の繰り返しになりますが、被告は「だんだん」暴言を吐くようになったのではなく、その行為は4月当初からでした。)

 さらにもう一点、10月31日に「ちょっとさ、ねぇ、話し合おうよ~」と言っていた被告について付言しておかなければならない。
 この発言を見る限り、被告は、私との「話し合い」を求めていたかに見えるかもしれません。しかし、上記の文書(
甲17号証)に目を通したと思われる時間の後、被告は私に対して一声もかけず、そばに寄ることもありませんでした。
 また、この同じ日、「被告は、痔疾のため、急遽、11月6日から17日まで入院する」という旨が職員に発表されましたが(
甲98号証 ノート)、この件に関するアナウンスを行ったのは平原一良副館長です。
 被告は、10月31日から入院するまでの1週間、平常通り勤務を行っていましたが、その間、被告は口頭および文書、いずれの形でも私の文書に回答を行いませんでした。それでも私は、被告の病状は絶対安静を要するような容態でない以上、入院先からの回答もあり得ると考え、回答期限(11月10日)まで被告からの対応を待つことにしました。しかし、この時以降、私に対応したのは毛利館長(当時)および平原副館長のみであり、この両名が被告の肩代わりをする形となりました。

5ページ20~21行目
「その後、亀井氏は当財団役員諸氏に波状的に上記文書ほかを数次にわたって送付し、いわゆる『パワーハラスメント』の問題について訴えました。」
 これも大変不正確な言い方で、誤解を招きやすい、いや、誤解を意図したとしか思われない書き方です。正しく言えば、私は「上記文書」(
甲17号証)を、道立文学館の幹部職員および被告に手渡し、神谷理事長にのみ送付しただけです。パワー・ハラスメント問題関係の文書は、甲17号証のほかには、「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(甲18号証)があるのみで、渡した範囲も、甲17号証の場合とまったく同じです。
 平原氏はこの件と、この1ヶ月後の平成18年12月から始まった私の雇止め問題の時のケースを故意に混同してみせることによって、あたかも私がいきなり、常識を超えた広範囲の人たちに、被害を訴える文書を送り続けたかのような印象を与えようとしているのでしょう。
 私は12月6日(水)に、毛利館長(当時)から次年度の雇い止めを通告され、その理由を納得できませんでしたので、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。
甲50号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、被告本人に渡しました。その3日後の12月15日、私は、住所の分かる範囲の財団理事と評議員に「北海道文学館におけるハラスメントと不当な解雇通告を訴える」(甲99号証)という3ページのアピール文を郵送し、道立文学館の中で現在どんな不当なことが起こっているかを理解してもらうために、参考資料として甲17号証と、甲18号証及び「毛利館長が通告した『任用方針』の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。甲50号証)を同封しました。
 さらに
甲50号証に対する毛利館長の回答(12月27日付。甲51号証)があまりにも不誠実であり、納得できないことばかりでしたので、「毛利館長が通告した『任用方針』の撤回を再度要求する」(平成19年1月6日付。甲52号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、川崎業務課長及び被告本人に渡しました。そしてその翌日の7日、やはり住所の分かる範囲の財団理事と評議員に、「パワー・ハラスメントの不当解雇問題の中間報告」という1ページの報告文を郵送し、「『館長 毛利正彦』の名による回答と、それに対する疑問と批判」(甲52号証参照)という文書を同封しました。
 平原氏は、このような私のアピール活動を「波状的」「数次にわたって」と誇張しているわけですが、私が住所の分かる範囲の財団理事と評議員にアピール文を送ったのは以上のごとく、僅かに2回だけです。平原氏他、財団の幹部職員と被告が受け取ったのも、パワー・ハラスメント関係のものが2度、解雇問題に関係するものが2度で、しかも前2回と後の2回の間には、1ヶ月以上の間が開いていました。平原氏は自分たちがまともに対応できなかった引け目を、「当財団役員諸氏」が蒙っただろう迷惑(あるいは困惑)にすり替えて、自分たちの対応の下手さを糊塗しようとしたのでしょう。

5ページ22~23行目
「事情を知る女性職員からも見聞した限りの情報を得るべく努めました。誰もが寺嶋氏に同情的でした。」
 私が、被告から蒙ったパワー・ハラスメントをアピールして以来、毛利館長(当時)は聞き取り調査をしたことをほのめかし、「誰もハラスメントにあたるようなことはないと言っていた」と主張していましたが、しかし、職員のどの範囲の人々に事情を訊いたのかも、いつ調査が行われたのかも、一度も明らかにしたことはありません。館長の回答は、以下のようなものでした(
甲50号証)。

 「また、ハラスメント問題の口頭による回答そのものについても、毛利館長は『皆に聞いたが、誰もハラスメントに当たるようなことはないと言っていた』、『みんな、亀井さんがそこまで反応する事はないといっていた』と言ったが、事務室で確かめたところ、A学芸員も、S社会教育主事も、O司書も、館長からは何も訊かれておらず、事情も知らないという返事だった。私が数日後、毛利館長にその事を問いただすと、『いやあ、まあ、それはあんた……』と言葉をにごして、にやにやしているのみであった。」
(「毛利正彦館長が通告した『任用方針』の撤回を要求する」
甲50号証より)

 また、上記のような「聞き取り調査」については、平成19年度に法務局人権擁護係が道立文学館に調査に入ってからも、文学館側は一言も明確な回答や資料を法務局に提示することができなかったようです。文学館側職員が述べていたのは、単に「ハラスメントというほどひどいことはなかった」という曖昧な「程度問題」という主張ででしかありませんでした(甲100号証)。またこの点に関しては、労働審判の席においても、財団側は有効な証拠・証言は提出できなかったようです。
 私は平成19年1月16日の時点で、財団幹部職員及び被告本人に、「今までの対応から察するに、毛利館長以下の幹部職員はまだそのような調査を行っていないと見受けられます。早急に私の挙げた具体的な事例に即して調査を行って下さい。この調査の一番の対象は寺嶋学芸主幹であるはずです。その場合は馴れ合いにならないように、外部の第三者を交えて行って下さい。第三者を選定する時は、選定委員の中に私も加えていただきます。」(「『館長 毛利正彦』の名による回答と、それに対する疑問と批判」※
甲52号証と内容共通)と要望を出しておきました。それに対する毛利館長の回答は、「平成19年度における再任用にかかわっての要求・質問等には、昨年12月27日に回答いたしました。これ以上、あなたの要求にお答えするつもりはありません。」(平成19年1月17日付「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」甲53号証)という一方的な対話打ち切り宣告でした。

 平原氏ももちろん財団の私に対するこのような対応にかかわっていたはずです。すなわち、財団も平原氏も私がパワー・ハラスメントのアピールをして以来、もしきちんと調査をしていたならば、いくらでも調査方法とその結果を私に伝える機会を持っていたはずです。ところが、客観性の高い調査に関する私の要望を一方的に蹴ってしまいながら、今頃になって「事情を知る女性職員からも見聞した限りの情報を得るべく努めました。誰もが寺嶋氏に同情的でした。」と、古証文の出し遅れのような事を言いたて、自分たちの怠慢と不誠実を取り繕おうしている。恥ずべき不見識と評するほかはありません。
 
 ちなみに、平原氏は「陳述書」の前半から、何回か私に関して「異議あり」の声が挙がったとか、非難の声が聞こえてきたとかいう意味のことを書いていますが、これも上記と同様、不見識な行為です。なぜなら私は、平成18年10月31日のアピールの時点で、既に次のようなことをお願いしていたからです。
 
「・亀井には、実際これまで、身勝手な無責任な行為、またはサボタージュ行為等によって、館の職員もしくは来客に迷惑をかけた例がある(ボランティア時代からを含めても可)
 ・亀井には、多少上司が圧力をかけてでも、その未然防止につとめなければならないような問題的な性癖・行動がある。あるいは明らかに(普通ではない)と認められるような異常性がある
というようご意見のある場合には、是非とも、具体的な事例や証言を添えて、亀井当人にお渡し下さるよう、切にお願いしたい。」(
甲17号証より)
 
 私はこのようにお願いしていたのですが、平原氏からも、氏に私の非難を語った人からも、何の反応もありませんでした。今頃になって私に関する風評を持ち出す目的は何か。その点に関する分析は、「Ⅱ、結び」の章で詳論致します。
 
 しかしともあれ、真実を明らかにする行為に、遅すぎるということはありません。もしここで平原一良氏が、改めて「平成18年10月31日以降、北海道立文学館の職員にパワーハラスメントの有無に関する聞き取り調査を行った」と主張するのであれば、今回の証言は訴訟に関する書証(
乙12号証)であることを十分にわきまえた上で、いつ・誰に対して聞き取りを行ったのかを明らかにし、その聞き取り内容についても記録等に基づいて明らかにすべきです。それが出来なければ、平成20年の今頃の時期になってからの平原氏の主張には何らの信憑性もないことになります。
 それにしても、なぜ平原氏は、「事情を知る」「女性職員」に限って聞き取りを行ったのでしょうか。外勤・出張・書類作成に際しての被告の私に対する言動については、その時々の経緯から見て、川崎信雄業務課長が一番よく知っているはずです。また10月28日に、私が事務室で被告から「あんた、普通じゃない」という言葉を浴びせられた状況は、S社会教育主事も目の当たりにしていました(
甲17号証 2ページ5行目)。
 それなのに、なぜ、平原副館長は「女性職員」に限って聞き取り調査を行っているのか。その、具体的かつ合理的な理由は何か。その点についても明確な説明を期待しています。

5ページ24~28行目
「やがて、12月を迎え、当財団の新たな体制構築のために次年度の職員募集を考えてはどうかとの話し合いが当財団幹部の間で話し合われるようになりました。具体的な募集要項の作成などが川崎課長の手でなされ、当館ホームページでも公開されました。その前後に、亀井志乃氏がこの職員募集問題を自分の任用問題と重ね合わせてとらえ、館長室に怒鳴り込む場面などがありました。」
 まず事実問題として、私は、館長室に「怒鳴り込」んでいった事実はありません。
 平成19年度に正職員の学芸員・司書を新たに採用するという趣旨の書類は、
甲20号証としても挙げたとおり、平成18年12月12日に決定を見ました。その内容は、S社会教育主事によって同日に道立文学館公式ホームページに掲載され(甲19号証)、私はそのことに12日から13日までの間に気づき、13日にその内容を刷りだしています(甲19号証参照)。ところが、その内容は年齢制限を設け、しかも単年度雇用になっている。平成18年12月6日に毛利館長が私に雇い止めを通告した時の理由は、財団としては10年先、20年先まで働いてくれる人を正職員として採用したいということだったのですが、単年度採用というのは矛盾するのではないか。この日、私はたまたま毛利館長と顔を合わせたので、その質問を含む公募の問題にふれたところ、毛利館長は「それは財団の方針で、もう決まったことだ。それを亀井さんからまかり成らんなどと言われる筋はない」、「説明はもう済んでいる。それを納得しないかどうかは、あんたの問題だからね」と、問答無用の態度で話題を打ち切ってしまいました(「北海道文学館におけるハラスメントと不当な解雇通告を訴える」。甲99号証)。よほど疚しいところがあったのでしょう。平原氏が先のようなことを書いたのは、このことを耳にしたからでしょうが、毛利館長が事実を逆の形で平原副館長に伝えたか、もしそうでないならば、平原氏が事実と逆の形で脚色したにちがいありません。たぶん後者だろうことは、「その前後」などと日時を曖昧にした書き方からも推測できます。仮に私が怒鳴り込みたかったとしても、まさか公募が財団のホームページに載る前に怒鳴り込むなどという芸当はできるはずもないからです。
 それに私は12月14日、東京在住のK氏(作家・中戸川吉二の孫娘)に資料貸借の件でお会いするため、東京に出張する予定になっていました(
甲79号証)。11月30日頃からご本人とメールで打合せをはじめ、借用書の決裁手続きもとり、特に12月12・13の両日は、出張の準備やK氏への連絡でかかりきりの状態でした。
 また、14日に日帰り出張から帰って来たあとも、借用してきた写真画像をスキャンしたり、書籍資料の内容を確認したりしなければならず(
甲101号証参照)、次にはまた早急に、木田金次郎(画家)の遺族にも電話連絡等を行わなければならない用事が待っていました(甲102号証)。しかも、年末年始の休館期は目前に迫っています。
 ですから、この頃の私には、ホームページの内容が不満だからといって、貴重な勤務時間を割いて毛利館長(当時)の部屋に「怒鳴り込」んでゆく時間的な余裕もなければ、精神的な余裕もない。1分1秒でも惜しかったというのが、当時の偽らざる実情でした。
 もしあくまでの平原氏が「ホームページで職員募集を行ってから、亀井が館長室に怒鳴り込んで行った」と主張するのであれば、ぜひとも日時を特定し、毛利館長の証言ないし証拠と合わせて、具体的にどのような事柄が館長室で起こったのかを明らかにしなければなりません。それができなければ、平原氏は事実を歪曲して私の人格を貶めたことになります。

5ページ29~32行目
「このころ、幹部間の協議を経て、亀井志乃氏は学芸スタッフの座るブロックから、同じ事務室内の業務課のブロックへと席を移し、業務上の相談などは私が直接受けるという緊急避難的な対策がとられました。これ以上、事務室内の空気をおかしくしたくないと判断した結果でした。」
 平原氏は上記引用部分において、「幹部間の協議を経て」「緊急避難的」「これ以上、事務室内の空気をおかしくしたくない」などと、まるで私の座席移動が文学館幹部職員の判断で行われていたように書いていますが、全く事実に反しています。いわば架空の存在でしかない「学芸班」の座席ブロックを離れ、本来の位置である業務課側の席(
乙5号証)に戻してもらうことは、10月28日以降、私が真っ先に強く望んだことでした。その点を明らかにするため、以下、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)より該当箇所を引用します。(傍線は引用者)

「○また、もし〈当文学館においてパワー・ハラスメントが行われていた〉事を認める文書が亀井に渡された場合、あるいは、11月10日までに何らの回答が得られず、従って亀井の結論内容が認められたものと判断した場合には、亀井側からは、次の二点を要求したい。
 1.現在の事務室における席の位置を変える事
 亀井の座席を、現在の学芸班の位置から変更したい。
  なぜなら、亀井は、本来、報酬を受けて仕事を請け負う嘱託職員であり、また、強いて財団職員の一員と考えるとすれば、今年度の所属は業務課だからである(「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」平成18年4月1日付文書を参照のこと)。
  故に、本来の雇用形態が目に見えるような位置に席を戻してもらいたい。それには、元の受付職員の席か、業務課内の席が適当と思われる。」(
甲17号証より)

 この要求が実現したのは、要するに、私の主張の方が筋の通った話であり、幹部職員の何人も、この要求を否む理論を持たなかったからにほかなりません。

5ページ32~37行目
「このような動きが内部で進むなか、亀井氏の父君による当財団への仮借ない糾弾がブログで再開されました。毛利館長が亀井志乃氏に訊ねたところ、同氏もそれを知っているとのことでした。更にブログでは、上記の『ハラスメント』問題についてばかりではなく、亀井志乃氏の任用問題などについても、父君によるあられもない言及がなされるようになりました。そこでアップされている情報のうちには、当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました。」
 平原氏はまたしても亀井秀雄のブログを持ち出してきましたが、「3ページ12~16行目」の項と同じ理由から、本訴訟とは直接の関係がなく、私はこれに答えなければならない義務も責任もありません。
 ただ平原氏の書き方は、「そこでアップされている情報のうちには、当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました。」と、私が何か守秘義務に違反してきたかのような仄めかしを含んでいます。これは平成19年1月17日、毛利館長が私に手交した、「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」なる文書(
甲53号証)の、こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動はきわめて不誠実であり、強く抗議します。」と同質の、関係妄想的ロジックと言えるでしょう。つまり、私が亀井秀雄の名を借りで文学館内部の問題を暴き立てている、あるいは亀井秀雄が私の情報を基に文学館に嫌がらせをしているという関係妄想のロジックです。私は毛利館長の「抗議」に関して、「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」(平成19年1月21日。甲103号証)という文書の中で、次のように文章分析を行い、内容を批判しました。少し長くなりますが、この種の関係妄想的言いがかりに終止符を打つため、あえて引用をいたします。
 
「1、 この文章は、文章の構成が稚拙で、内容は混乱に満ちています。念のために引用しましょう。

こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。」下線は引用者)
 なぜこの文章の構成が稚拙かと言いますと、毛利正彦氏は、私が下線を引いた箇所全体を、「あなたの行動」にかかる連体修飾句としているからです。4行にも及ぶ長い1文の中で、主語を文末近くに置く。その主語に長大な連体修飾句をつけている。
 しかも、「あなたの行動」という主語の述語は、「極めて不誠実であり」まででしかない。それに続く「強く抗議します。」の主語は明示されていません。
2、このように文脈を整理してみますと、毛利正彦氏が言う「私ども」(毛利正彦文学館長を含む、北海道文学館の幹部職員?)に対して、私(亀井)が質問や要求を出すことは、「財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つける」ことになるらしい。毛利正彦氏は、私がこれまで渡した文書のどこから、そういう認識を導き出したのでしょうか。
 神谷忠孝理事長もこの「返答」を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、私の文章から該当箇所を具体的に例示して下さい。(中略)
 3、次に、毛利正彦氏の作文した長大な連体修飾句によれば、私・亀井志乃が「一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていることになるらしいのですが、私はそのようなことをしていません。毛利正彦氏は何を根拠にそう言うのか。もしそれを示すことができなければ、毛利正彦氏こそ「根拠のない誹謗・中傷」を行っていることになる。
  そもそも寺嶋弘道学芸主幹の私に対する言動こそ「根拠のない誹謗・中傷」のくりかえしだった。その点を忘れてはなりません。また、その点から目を逸らさせるような言い方は許されません。
4、さて、毛利正彦氏の文章の拙さには目をつぶって、毛利正彦氏はじつは私の父・亀井秀雄を主語として、「一方ではインターネット上の父親のブログで」以下を言いたかったのだ、と考えてみましょう。
  確かに私の父・亀井秀雄は、「この世の眺め――亀井秀雄のアングル――」というブログで、平成18年の12月28日から何回か、北海道文学館の問題に言及しています。しかし私の見るところ、父・亀井秀雄は根拠のあることを書いているだけであって、決して「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ているわけではない。もし毛利正彦氏が、亀井秀雄は「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていると考えるならば、毛利正彦氏が自分たちの具体的な、根拠ある事実を挙げて、それを証明しなければならないでしょう。
 また、神谷忠孝理事長も毛利正彦氏のそのような見方を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、具体的な事例を挙げ、それに即して亀井秀雄が「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」たことを証明して下さい。それができないならば、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄に対して「根拠のない誹謗・中傷」を行ったことになります。
5、また、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄のブログについて、「父娘関係をあえて伏せたまま」などと、何か不当な書き方をしているかのごとく匂わせていました。しかし、父・亀井秀雄は、北海道文学館の管理職的な立場の3人については実名を明かすが、それ以外の職員の姓名については、ローマ字書きにした場合の頭文字で表記する、という方針で書いているだけのことです。
  私の父・亀井秀雄は、私が平成18年10月31日、寺嶋弘道学芸主幹のパワー・ハラスメントをアピールした時期、ブログでその問題に言及することはしませんでした。北海道文学館の幹部職員のまっとうな対応を期待していたからでしょう。
 また、私の父・亀井秀雄は、平成18年12月6日、私が来年度の雇用に関して、毛利正彦文学館長から実質的な解雇通告を受けた時も、ブログで取り上げることはしませんでした。私がその通告に対して、12月12日、北海道文学館の幹部職員に、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」を渡した時も、ブログで言及することは控えていました。まだ何ほどか北海道文学館の幹部職員の誠意を期待する気持ちが残っているからだ、と私は理解しています。
 しかし、平成18年12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長が私に対して、極めて不誠実な「回答書」を返した。その翌日から、父・亀井秀雄はブログで北海道文学館の批判を開始しました
 私としては、至極当然な対応だと思っています。
 ただ、父・亀井秀雄はこの事態に対する一定のスタンスを保つため、寺嶋弘道学芸主幹以下の職員の名前は出さない方法を取ったものと理解しています。しかし、年が明けて、平成19年1月17日、毛利正彦氏から私に渡された「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」は、明かに私を愚弄するだけでなく、父・亀井秀雄を愚弄する文言で書かれていました。多分父・亀井秀雄は、今後は、全ての人間を実名で名指しする書き方に変えることでしょう。」(「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」平成19年1月21日。
甲103号証より。ゴチックは引用者)
 
 私のこの意見は、現在も変わりません。もし平原氏が亀井秀雄のブログに関することで何事かを糾弾したいのであれば、まず、対象を、私か亀井秀雄かどちらかに絞ること。またさらに、最低限、ブログの記述の中でどの箇所が「財団への糾弾・攻撃」であり、どの箇所が「あられもない言及」にあたるのか等々をはっきりさせた上で、改めて、平原氏本人が訴訟を起こすべきです。
 もしそれをせずに、上記引用文のようなほのめかしを行い、それをいやしくも「陳述書」(書証の一つ)などと称するのであれば、それは私および亀井秀雄に対する誹謗中傷であり、裁判の場を借りた悪質な嫌がらせと見なすほかはありません。

6ページ1~2行目
「亀井志乃氏の任用をめぐる問題については、既に裁判所において和解の結論に達したことでもありますから、ここでは割愛します。」
 この「和解」という文言も、平成19年8月29日の労働審判(平成19年(労)第18号)において「調停成立」となってから、平原一良副館長および文学館の幹部職員・理事らが好んで使うレトリックですが、これも意識的に歪められた現実認識というべきでしょう。
 この日の第2回労働審判手続日調書に書かれたのは「調停成立」(標題)及び「当事者間に次のとおり調停成立」という言葉であって、決して「和解」ではない。「和解」という単語が出ているのはただ1箇所、「相手方は、申立人に対し、本件和解金として、○○万円の支払義務があることを認め」(傍線は引用者)という部分だけです。要する審判委員会は、審判(判決)を下す代わりに、相手方(財団法人北海道文学館)に対して、「申立人(私)に解決金を払う義務があります」と伝えたわけです。
 そもそも審判の経緯が、「話し合いによる円満な和解」などという性質のものでは全くありませんでした。第1回目の審判(平成19年7月24日)では相手方はあくまで財団側の理論(亀井の雇止めは合法で当然)に固執し、ところが同年8月22日、突然、審判員の頭越しに、申立人の代理人・T弁護士のもとに直接「前回期日において労働審判委員会から勧告のありました和解案について、相手方は受諾致します」(傍線は引用者)と前置きされた「和解案」なるものが届けられました(相手方代理人は太田三夫弁護士)。
 しかし、その「和解案」は、「当事者双方は、本件和解案を第三者に口外してはならない」、「当事者双方は、今後互いに、相手方を誹謗中傷する様な一切の行為は行わない」、「申立人と相手方は(中略)本和解書に定める外他に何らの債権債務のないことを相互に確認する。」など、明らかに申立人(私)が今後パワー・ハラスメント問題で訴訟を起こすことを牽制・阻止する意図が感じられる、一方的な条件が列挙されていたので、申立人側は、この条件での「和解案」を受け入れることは出来ないと断りました。すると、翌23日、相手方代理人から、今度は「相手方としては申立人修正案では和解(調停)は無理です。」という奇妙な言い分の文書が届きました。申立人と代理人は、相手側の蟲のいい言い分にあきれ、常識を疑いました。あたかも「申立人は審判員を通じ、頭を下げて〈和解〉を申し入れてきたようだが、相手方としては、こんな「申立人修正案」では〈和解〉などしてはやれない」と言わんばかりの、思い上がった内容だったからです。
 労働審判委員会は相手方(財団法人北海道文学館)が勝手に申立人と「和解」交渉を始めようとしたことについて少し奇異に感じたようですが、ともかく「調停による解決」を求め、相手方(財団側)に対して「本件和解金として、○○万円を支払いなさい」と穏便な解決案を提示しました。相手方はそれでもまだ第2回目の審判において自分たちの和解条件に執着していましたが、結局は先ほどのような「和解」諸条件を全て引っ込めざるを得ず、シンプルな形の「調停成立」となりました。財団側の言い分には正当性がなかったということの、顕著な証拠と言えるでしょう。決して申立人と相手方“双方”が歩み寄った結果、円満な解決が手打ち式風に行われたわけではありません。
 平原氏はそのあたりの事情を一切語らず「ここでは割愛します。」と核心を語ることから逃げていますが、財団側の身勝手な理論が阻止された事実を書かないのは、明らかに自分たちの不利な点を隠蔽する意図があったからだと見ることができます。

6ページ10~11行目
「この種の持ち込み貸し館の企画は珍しいことではなく、過去にも例のあることでしたが、そのへんの事情を十分に知らない亀井志乃氏は、(父君のブログによりますと)これを寺嶋氏による『自分の展示』への妨害だと受け取ったようでした。」
 年度当初の予定にない外部からの持ち込みの〈貸し館〉展覧会が存在することは、私も充分承知しています。例を挙げれば、工藤正廣理事が持ち込んだ「タンザニアの美と詩」展(成17年6月21~30日。主催:タンザニア連合共和国大使館、タンザニア文化交流実行委員会)や、原子修理事が企画を持ち込んだ「~北の潮騒が聞こえる~ 利尻…詩と海藻押し葉展」(平成18年1月21日~2月5日。主催:利尻海藻おしばの里づくり実行委員会、NPO法人アーティスティック・アコード・アソシエーション)などがあります。
 特に「海藻押し葉展」の方は、真冬の閑散期で来館者も少なかったので、私は担当者ではなかったものの、「海藻押し葉しおり作り」イベントに自ら参加し、観客に作成を勧めるなどの協力もしてきました。
 それと共に私は、業務の進捗状況を知らない財団理事らが年間予定にない展覧会を突然持ち込んでくる事で、学芸職員も業務課も口には出さねどどれほど迷惑に思っていたか。そういう現場の状況をつぶさに目撃してきました。
 ただし、どんなに「突然」だと皆が困惑するような持ち込み企画でも、平成17年度までは、少なくとも10日から2週間以上前には皆に知らされていたし、段取りも話し合われていました。「タンザニアの美と詩」展は開催13日前(6月8日)に学芸課内打合せの議題に挙がっていた(
甲104号証)。「海藻押し葉展」は、前の月の課内打合せ(平成17年12月27日)ですでに事業予定に入っていました(甲59号証参照)。また、開催月の「行事予定表」にも組み込まれていました(甲105・106号証)。
 ですから、「イーゴリ展」のように、開催日(平成18年2月3日)の4日前に作成・配布された「行事予定表」(
甲21号証)にも記されておらず、次回展覧会の主担当にも副担当にも一言のことわりもなく設営されてしまった「持ち込み貸し館の企画」は、平原氏の言うところの「珍しいことではなく」どころではありません。むしろ、展示企画の入れ方としては前代未聞のことだったのです。
 もう一つ、細かい点ですが、私は「人生を奏でる二組のデュオ展」のことを、「自分の展示」などと公私混同した表現で言いあらわしたことはありません。私は、例え企画原案自体は自分が作ったものでも、展示事業の実行自体は道立文学館から委嘱されたものだという事をわきまえて仕事を進めてきました。また、平原氏の文章中には、「(父君のブログによりますと)」とありますが、亀井秀雄が執筆したブログの中で、そのような短絡的な表現が用いられた箇所は一つもないはずです。
 私が確かめた限りでいえば、
「それまで亀井志乃の構想や準備の進め方には関心がなく、展示予定のリストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきた。その連中が、急に〈展示は皆のものだから〉と言い出し、では、手助けをするかと言えば、そうではない。依然として構想や内容には関心を示すことなく、だが、まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉を織り交ぜながら、杓子定規に「決まり」を適用して、彼女の行動や経費に細かいチェックを入れてくる。」(「北海道文学館のたくらみ(9)」)
と書いているだけでした。
 「まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉」という表現から分かるように、平原氏たちのほうが公私混同的に私の仕事ぶりを評していたわけです。私が展示予定のリストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきたのは、言うまでもなく平原氏でした。
 平原氏の私の仕事に対する高括りと、自らの不勉強が宮様の前で恥を晒す結果となった。それが3月9日の事件だったと言えるでしょう。
 
 ともあれ、平原一良氏はこのように、ごく些細な表現の操作で、私(および、ついでに亀井秀雄の方も)は公私のけじめもつかない/つけられない人物であるかのように、この「陳述書」(
乙12号証)を読む人に印象づけようとしている。これがきわめて隠微な形での誹謗中傷であり、人格権侵害行為であることは言うまでもありません。もし平原氏があくまで「亀井秀雄のブログの中には、亀井志乃が言った言葉として「自分の展示」という表現がある」と主張するのであれば、具体的に、当該箇所を含む前後の部分を、書かれた年月日も特定できる形で証拠として提示すべきです。
 
6ページ14~18行目

「準備過程の終盤、図録の最終校正を私も見たいと同氏に伝え、諒とされました。校正紙を預かり、若干の赤を入れて同氏に返したところ、その日の夜になって、私の自宅宛に電話があり、同氏から謝意を伝えられました。」
 私が展覧会図録の校正に関して、平原副館長に電話を入れた事実はありません。
 平原氏は「準備過程の終盤」と書いていますが、この場合、図録の「最終校正」を何月何日のこととして書いているのか、その点が不明です。図録原稿入稿(平成19年1月18日)以来、校正に関しては、テキスト校正も色校正も、どちらも複数回行っています。色校正の時でも、テキストはそのつど念のためにチェックしてきました。平原氏はこのうちのいずれを「最終校正」の時と主張しているのか、日時などを明らかにしなくてはなりません。
 私にとっての最終校正は、同年2月14日(水)の色校正の時でした。これがカラーならびにテキストの最終校正日でしたが、この日は、校正が終わり次第すぐに版下を印刷所にまわす予定になっていたため、私は午前10時から外勤で印刷会社アイワードに行き、担当のM氏と協力しながら、最終チェックを行っています(
甲107号証)。終了したのは正午頃でした。私はM氏に校正刷りを託して、即刻道立文学館に戻り、午後から展示室の作業に当たりました。よって、この時の校正作業には、平原副館長はまったく関わっていません。
 図録原稿の入稿以降、初校が出たのは同年1月25日のことですが、この時は、私は校正刷りをコピーして、副担当のA学芸員と、平原副館長に手渡しました。副館長には、一応、図録の構成に目を通しておいてもらおうと思ったからです。
 しかし平原副館長は他の業務で多忙と見え、初校の締切日である2月2日までには校正が間に合いませんでした。私は、自分とA学芸員の校正結果を合わせて、アイワード・M氏に校正刷りを渡しておきました。平原副館長の校正が戻ってきたのは、その数日後のことです。その際の校正でチェックされていた箇所は、第2校の時に修正しました。なお、図録の内容や構成については、平原副館長からは意見やクレームは出ませんでした。
 このような経緯があったため、私はその後、図録校正に関しては、もっぱらA学芸員と協力して行うことにしました。A学芸員は、締切期日前に必ず余裕をもって校正を終えてくれるので、私としては非常に心強かった。
 展覧会図録作成にともなう校正作業の経緯は、以上の如くです。よって、私が、校正作業のいつの時点であれ、平原副館長に電話で礼を述べた事実はありません。

6ページ21~22行目
「企画展『二組のデュオ』の展示準備は学芸スタッフばかりでなく業務課スタッフの手も借りて進められました。直前まで展示パネルが仕上がっていませんでしたし、キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことでオープンに漕ぎ着けたのです。」
 私はこの箇所を、平成17年度の常設展リニューアル作業における平原氏自身のパロディとして読んでしまいました。しかし笑って看過するわけにもいきまん。被告「陳述書」(
乙1号証)「5ページ20~26行目」に対する反論と重なることになりますが、以下に、もう一度整理して説明しておきます。
 私は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していました(
甲75号証の1)。人物紹介や作品解説のテキストも、パソコンへの打ち込みは完了していました。そして、それらのテキストを、解説パネルやコーナーサインにも流用しています。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと、私があらかじめ配慮したからです。それ故に、図録のキャプション及び解説と、実際の展示で使用されたキャプション(カード)及びパネルの解説とは、ほとんど同じ内容となっています(甲75号証の2・3参照)。写真図版にしても同様です。図録で用いられた写真と展示写真とは、サイズが違うだけで、全く同一の画像です。
 また、私は、平成19年2月8日以前の段階では、展示設計もほぼ終えていたし(
甲74号証参照)、キャプションもすでに刷り上がっていました。キャプションもコーナーサインも、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるばかりとなっていました。
 ですから実際には、「直前まで」(これも、平原氏はいつの時点を指して言っているのか不明ですが)「展示パネルが仕上がっていませんでしたし」ということはありませんでした。第一、すでに同年1月18日にアイワードに入稿してしまっているキャプションについて(
甲48号証の2参照)、「学芸スタッフ」が改めて「打ち込み」を「手伝」ったという説明もリアリティに欠けています。仮に万が一キャプション(カード)作成作業が遅れていたとしても、デジタルテキストさえ手元にあれば、それをそのまま刷り出す方が、改めて「打ち込み」をするよりはるかに早く出来上がるはずだからです。
 もし平原氏が、あくまで「亀井の担当展覧会は作業が大幅に遅れ、パネルもキャプションもほとんど他の学芸スタッフが作ったようなものだ」と主張するのならば、当然私が作成・準備していた図録原稿と実際の展示キャプションは大きく相違するはずなので、その違いを指摘する必要があります。
 展覧会で作成・使用した展示キャプションとパネルは、現在、北海道立文学館2階の機械室の奥にすべて保管されています(どの展覧会においても、文学館内で作成・使用されたパネル類は保管される)。それらのテキストと図録のテキストとをひき較べれば、同一人物または同一コンセプトのもとで作成されたか、それとも多くの人の手が加わった雑多な性質のものなのか、一目で分かります。平原氏はその方法で、自説の真実性を簡単に証明することが出来るはずです。
 なお、前項「6ページ14~18行目」への反論で述べた通り、図録校正は2月14日に終わっていました。校正刷りは、それ以前に、とうに回収されて印刷所に渡されていました。製本された図録が納品されたのは展覧会オープン当日の2月17日のことです。この事実から分かるように、平原氏や被告が主張するごとく、もし私が徒らに作業を遅らせるばかりで、パネル作成も何もせず、しかも他の職員を残して早帰りするほど非協力的だったとするのならば、他の「学芸スタッフ」が図録原稿どおりにテキストを打ち込むことは、まず不可能に近かったはずです。平原氏は、この点を十分に勘案した上で、自説の合理的な説明を試みられたい。どのような説明が得られるか、私は期待して待っています。

3)「4 おわりに」について
6ページ27行目~7ページ3行目

「この企画展の会期半ば(3月9日)に、宮家からお二人(お二方。亀井志乃の引用ミス)のご来館があり、常設展示と企画展のそれぞれをご覧いただき、私が説明役の任に当たりました。事前に北海道警察本部との間でご来館時の流れを検討し、役割分担を毛利館長らとも打合せ、職員にも伝えてその時に臨みました。常設展示の説明が終わり、企画展へとお二方にお運びいただき、私が説明を開始して数分後に、警護官らが不自然な動きを見せたので、私はそちらへと目を向けました。すぐ間近に亀井氏が迫っており、警護官が動きかけたので、咄嗟に私は『当館の職員で、この展示を担当した者でございます』と説明して、その場をとりつくろいました。亀井氏は、その直後から上気した様子で一部のコーナー解説を始めるなど、最後まで展示室にとどまりました。当初の予定にない突然のことでした。自分の手がけた展示をなんとしても自分で説明したい、事前の打合せなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動で、私はもちろん幹部職員は冷や汗をかいたのでしたが、いま顧みると極めて非常識な行動であり、自らの業績を顕示したいとの欲求を抑制できない人物には、十分にあり得る出来事だったと思わざるを得ません。」
 平原氏が述べるところの「宮家からお二人のご来館」とは、平成19年3月9日(金)における常陸宮同妃両殿下のご来館を指しているものと思われます。両殿下の企画展ご観覧に際しては、確かに私は、特別展示室内においてご一同に同行致しました。しかし私がご一同に「迫っ」たり、「上気した様子で一部のコーナー解説を始め」たりした事実は全くありません。まず宮様が御出でになった経緯を説明しておきます。
【経緯】
 札幌市では、毎年3月に大倉山・宮の森等で「宮様スキー大会国際競技会」が開催されます。ご臨席された宮家の方々は、大会スケジュールの空き時間に市内の文化施設等を御覧になるのが通例となっており、北海道立文学館も毎年ではありませんが、比較的よくご観覧ルートとして選ばれてきました。平成18年には桂宮殿下が、そして平成19年には常陸宮同妃両殿下がお見えになることとなりました。ご来館は、非公式にはすでに前年から決まっていました。
 平成19年の1月頃、いよいよ常陸宮殿下のご来館が正式に決まったとのことで、ある日事務室では、展示室のご案内の件が話題となりました。私もその雑談に加わっており、ふと「企画展の方で、私もご一緒するなんてことは出来るんでしょうか、どうなんでしょう」と口にしたところ、川崎業務課長は「もちろん。亀井さんが、ご説明すればいいんでしょう。自分の手がけた企画なんだし」と言い、同席していたN業務主査も、その点に特に不審も異義もないようでした。しかしその後は、事務室内や職員間において、ご案内の件の話題が出ることはありませんでしたし、打合せが持たれることもありませんでした。私は猛忙のうちに展覧会準備を完了し、「人生を奏でる二組のデュオ」展の会期を迎えました。
 3月9日当日、私は通常通り出勤し、雑誌登録・収蔵庫業務・閲覧室業務等のルーティンワークを行っていました。午前11時30分からは、「二組のデュオ展」に個人として資料を貸してくださったH夫妻がわざわざ千葉から来られたので(
甲108号証)、私は小1時間ほど対応に当たり、その後、事務室で遅い昼食を取りました。
 この間、文学館内で何らかの打合せが行われた様子はなく、また、仮に行われたとしても、誰も私を呼びに来ず、内容を知らせる者もいませんでした。昼食後、私は再び業務に戻り、しばらく経った午後2時45分頃、常陸宮同妃両殿下がご到着との報せが入りました。
 私は、展示責任者として一応近くに待機していようと、地階展示室前ロビーに降りてゆきました。すると、当日の受付係を担当していたNさん(派遣会社からの派遣職員)が、「あ、亀井さん、今日はご説明の係なんですね」と声をかけてきました。私は「いえ、特に何もそんなお話はないんですよ。ただ、念のために待機してようと思って…」と答えましたが、その時、Nさんは少し驚いたような、釈然としない表情をしていました。
 その時、私は、受付係はじめ文学館職員全員の胸に、見なれないバッジがついていることに気がつきました。確か、日章旗と北海道の旗が交差したデザインで、一目で宮様をお迎えする行事のためのバッジと分かります。私はそのバッジを渡されていませんでしたが、一応胸には文学館職員であることを示す記名プレート(通常のイベント用のもの)をつけていたので、とりあえず地階展示室ロビーにとどまって様子を見ることにしました。
 私は、常設展示室ではご一行には同行せず、入口付近でご観覧の様子を遠目から拝見していました。展示室には文学館の代表として神谷忠孝理事長・毛利正彦館長(当時)・平原一良副館長が同道していましたが、説明は、もっぱら平原副館長によって行われました。常陸宮同妃両殿下が常設展のご観覧を終えられた時、すでに時計は3時15分になろうとしていました。ご退館の予定時刻(午後3時25分)まであと10分ほどしかありません。私は、多分「二組のデュオ展」の方の説明はきわめて簡略であろうと思いましたが、それでも宮殿下からご質問があった時にはお答えしなければならない場面もあろうかと思い、ご一行の一番後から少し離れてついていきました。
 特別展示室に入ってまもなくの右側壁面に、青年期の有島武郎の絵画・写真等が展示されているコーナーがありました。またそこには、有島武郎とワルト・ホイットマン(アメリカの詩人)についての説明パネルが掛けられています。平原副館長は常陸宮同妃両殿下と共にその前に立ち、「有島武郎は、アメリカ留学から日本へ帰国する途中、ロンドンでワルト・ホイットマンと出会ったのです」と説明をしました。それを聞いた瞬間、私は思わず口の中で小声で「え」と言ってしまった。
 その理由の一つは、有島武郎が尊敬していたワルト・ホイットマンは、生粋のアメリカ詩人であり、ロンドンに行ったことはなく、また有島がアメリカに留学する11年前にすでに亡くなっていたからです。有島がロンドンで会ったのは亡命中のロシアの思想家・クロポトキンでした。
 もう一つの理由は、両殿下と副館長の目線の先に、まさにホイットマンの事について解説した大きなパネル(A3判程度)があったからです。平原副館長の口にした内容は、その解説の中身と大きく食い違っています(
甲63号証参照)。
 私はすぐに口を閉じて俯いてしまいましたが、しかしすでに常陸宮同妃両殿下も、館の幹部職員や随員・警護官らも、私の声に気づいて振り向いていました。そこで、私は、「…有島武郎はホイットマンの詩と出会ったのです…」と、パネルの内容に合わせて、ごく簡略に平原副館長の発言のフォローを試みました。
 私が思わず声を発してから、パネルの説明をしてそのコーナーを離れるまでは、時間的にはほとんど数分もかかりませんでした。その後も、主な説明は平原副館長が行いましたが、ただ、「早川三代治関係書簡」や中戸川吉二の生涯と小説、里見弴と中戸川との関係など、一般にはあまり知られていない事柄については、平原副館長も苦手だった様子で、私に話を振ってきたりしたので、そういう時には私がご説明役を受け持つ形となりました。両殿下のみならず、宮内庁随員の方々や、警護官の諸氏も展示にはそれぞれに関心を持って見て下さっているようでした。バッジをつけていない私が説明するのを咎める様子の者も、時間の経過を気にして急かせる様子の者もいません。結局、常陸宮同妃両殿下ご一行はご退館予定時刻を20分ほど超過した午後3時45分頃に、道立文学館をお出になられました。
 以上が、「宮家からお二人のご来館」があった際の経緯の概要です。

 私は、「何かご質問があった時のために」と心がけてご一行の後ろから付いて入っていっただけであり、平原氏が叙述する如く「警護官らが不自然な動きを見せ」なければならないほどの勢いで、「すぐ間近」まで「迫っ」たわけではありません。そもそも随員・警護官らは、両殿下や文学館職員幹部を取り囲んで守っていたのではなく、その後ろから付き従っていました。それ故、仮に「警護官らが不自然な動きを見せ」たとしても、両殿下に最も近い位置におり、壁面のほうに顔を向けていた平原副館長の目に、彼等の動きがすぐに入ったということは考えられない。シチュエーションから見ても不自然なことです。
 また、私が発言せざるを得なくなった理由は、平原副館長自身の説明の間違いによるものでしたが、訂正の際も、私は、平原副館長が間違っていた事には一言も触れないように言葉を選びました。
 この最初の平原副館長の説明ミス、及び展示後半の説明に関する私へのバトンタッチは、全て平原副館長自身の準備不足に起因する。そう言って差し支えないでしょう。なぜなら、「6ページ14~18行目」および「6ページ21~22行目」の項で述べたように、展示キャプション・解説と図録キャプション・解説は同内容のものを使用しており、また図録は企画展がオープンした2月17日に刊行され、道立文学館に納品されました(
甲63号証 図録奥書参照)。そして私はその日、届いた図録を即座に全職員に配布しておいたからです。
 つまり、平原副館長が常陸宮同妃両殿下ご来館までの日にちの間、一度でも図録に目を通していたら、ホイットマンをクロポトキンと間違えるような(つまり時代背景そのものを錯誤するような)大ミスは未然に防げたはずです。それだけでなく、こうしたミスをしたことは、平原副館長が会期中ほとんど特別展示室には入らなかったこと、あるいは、入ったとしてもキャプションやパネルに丁寧に目を通すことはほとんどなかったことを物語っていると言えるでしょう。これは、仮にも自分が副館長という立場で勤務している文学館で行われている展示に対して、オープンから21日間ものあいだ無関心でいたということであり、管理職としては到底あるまじき態度としか言いようがありません。
 平原氏は「陳述書」(
乙12号証)のこの前の部分で、遅々として進まないこの企画展の準備に気を揉んでいたのは私ばかりではありませんでした(6ページ13~14行目)と書いていましたが、要するに準備の遅れには気を揉むが、完成してしまえばあとは関知せずということだったようです。
 3月9日当日、私は仕事をしながら何度かは事務室に入りましたが、その間何らかの「打合せ」の様子を見たり、平原副館長がその内容を「職員にも伝え」たりしているのを見ることはありませんでした。また、宮殿下ご観覧の施設の職員であることを示すバッジも、私にだけは渡されませんでした。その上、平原氏は、私が特別展示室へ入る事を「当初の予定にない突然のこと」「事前の打合せなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動」と記しています。しかし、企画展の主担当がその展覧会場に入ることが「当初の予定に」すら「ない」というのは、通常考えられない、異例なことと言うべきでしょう。
 平原氏が故意にバッジを私に渡さなかったのかどうか。「ご来館時の流れを検討し、役割分担を毛利館長とも打合せ、職員にも伝えてその時に臨みました」という、その「役割」を私には与えず、職員の打合せにも私を呼ばなかったのは、故意だったのか偶然だったのか、その辺の詮索は控えるとしても、平原氏が、実際に私が取ったわけでもない行為をまことしやかに書き連ね、「当初の予定にない突然のこと」「事前の打合せなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動」と評する、この書き方は異様なことと言わざるをえません。

 しかしながら、私が上記のように経緯を説明しても、平原一良氏は、当該引用箇所で述べたことがあくまで事実であると主張するかも知れません。もしあえてその主張を通したいのであれば、平原氏は北海道警察あるいは宮内庁に問い合わせをし、傍証となる書証もしくは証言を得て札幌地方裁判所に提出してもらいたい。これは私の名誉に関する事柄だからです。両殿下のいらっしゃる所で「警護官らが不自然な動きを見せ」、副館長が「当館の職員で、この展示を担当した者でございます」と取り繕わねばならないような異常な動きをした者がもし本当にいたとすれば、道警も宮内庁もその事実を重く見ないはずがない。記録をしていないことはありえないでしょう。本来ならば、その直後に理事長あるいは館長が責任を問われたはずですが、それはなかったようです。これは、道警や宮内庁にとって特に注意すべきことは起こらなかった証拠と言えそうです。いずれにせよ、平原氏からは、私が書いた「経緯」に関する意見をしっかりと聞きたいと考えています。

Ⅱ、結び
 以上のように検証してみると、平原一良道立文学館副館長の「陳述書」(
乙12号証)の内容には、事実と異なる記述が数多く見られます。そしてそれは単純な記憶違いと言って済まされない事柄ばかりです。
 なぜなら平原氏の記述は、私が文学館の職員としてきわめて能力が低く、しかも社会的にも不適応な人間であったと読む者に思わせるようにと、文脈的に一貫して整えられているからです。
 その顕著な例としては、私がいわゆる今風の〈ひきこもり〉であり、人格障害者的な人物であるかのように記述を畳みかけてゆく手法を挙げることができます。平原氏の陳述によれば、私は当初からその父によって「家に居る娘を仕事に使ってくれ」と押しつけられた人間であり(1ページ9~14行目)、もともと人と接する事は少なく(同16~19行目)、嘱託職員として働き始めるとまもなく「非協調的」として一部スタッフから不満の声があがり(2ページ9~10行目)、常設展リニューアルの頃には、周囲のスタッフからますます私を非難の声があがって平原氏がなだめるのに苦労するほどであり(同14~16行目)、自分の欠点を指摘される事は絶対的に拒否し(2ページ31行目~3ページ9行目)、自分の職務に対する認識力もなく(4ページ17行目)、職場の規律も守らず、周囲の空気も読めず(4ページ33行目~5ページ2行目)、職場の雰囲気をおかしくし(5ページ28~31行目)、担当の展示業務を満足にこなす能力もなく(6ページ13~24行目)、しかし自己肥大的なプライドだけは高く、ついに皇室の方々に、はしたなくも不敬なふるまいをするまでに至る(6ページ30行目~7ページ3行目)。人格描写のポイントをピックアップしてゆくと、実に典型的な境界性人格障害者、あるいは自己愛性人格障害者の像が浮かんで来る。
 平原氏は
「大学や大学院で研究者・職員としての経験のみを有する人物にはままありがち」5ページ3~4行目)などと、一見、私の学歴・職歴の高さも一定程度評価している振りはしていますが、これは要するに、社会通念の中での〈挫折したエリートの人格障害者〉のステレオタイプなイメージを、そっくりなぞっているに過ぎません。また、こうしたイメージは、被告の「陳述書」における「原告にとって研究とは個人の研究を意味し乙1号証8ページ1行目)・自らの研究と自らの関心ある業務だけを行い(同9ページ17行目)といった箇所のイメージと密接につながっている。その意味では、乙1号証と乙12号証は、きわめて緊密な相互補完的関係にあると言えます。

 ただし、本準備書面のこれまでの部分で反論してきたように、以上に挙げた平原一良氏の記述は、すべて虚偽であるか、または証拠の裏づけがない。これは、乙1号証にしても同様です。

 それ故、もしも平原氏が以上の私の反論に対して再反論し、しかも有効な書証あるいは人証をもって主張の内容の信憑性を裏付けることが出来なければ、平原一良氏は、「以上の内容に相違ないことを誓います。」と明記して署名捺印した「陳述書」において、虚偽を記載し、私に対して事実無根の悪質な人格誹謗と中傷を行い、単に私の裁判における敗訴を企図したのみならず、被告と共謀して、私が重度の人格障害者として今後永久に社会的に葬り去られん事を積極的に画策したのだと結論せざるをえません
 私は、この点について強く指摘し、もし平原氏が自己の主張の裏づけを果たせなかった場合には、氏の「陳述書」を私に対する法廷における悪質なセカンド・ハラスメントと見なし、その違法性を追求してゆく所存です。

以上
 

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2007年8月 6日 (月)

資料11「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」

〔「北海道文学館のたくらみ(18)」では、厚生労働大臣告示の「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」に言及した。ただ、煩を避けるため、「有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準」そのものよりも、その「基準」に関する労働局の解説のほうを引用した。ここに、「有期労働契約の締結、更新および雇止めに関する基準」そのものを紹介しておく。〕

有期労働契約の締結、更新及び雇止めに関する基準(平成15年厚生労働省告示357号)

趣旨
 有期契約労働者について適切な労働条件を確保するとともに、有期労働契約が労使双方にとって良好な雇用形態として活用されるようにするためには、有期労働契約の締結、更新及び雇止めに際して発生するトラブルを防止し、その迅速な解決が図られるようにすることが必要であることから、厚生労働大臣が「有期労働契約の締結及び更新・雇止めに関する基準」を定めることとし、当該基準に関し、行政官庁が必要な助言及び指導を行うことができることとしたものであること。

(契約締結時の明示事項等)
第1条
 使用者は、期間の定めのある労働契約(以下「有期労働契約」という。)の締結に際し、労働者に対して、当該契約の期間の満了後における当該契約に係る更新の有無を係る更新の有無を明示しなければならない。
2 前項の場合において、使用者が当該契約を更新する場合がある旨明示したときは、使用者は、労働者に対して当該契約を更新する場合又はしない場合の判断の基準を明示しなければならない。
3 使用者は、有期労働契約の締結後に前2項に規定する事項に関して変更する場合には、当該契約を締結した労働者に対して、速やかにその内容を明示しなければならない。

(雇止めの予告)
第2条
 使用者は、有期労働契約(雇入れの日から起算して1年を超えて継続勤務している者に係るものに限り、あらかじめ当該契約を更新しない旨明示されているものを除く。次条第2項において同じ。)を更新しないこととしようとする場合には、少なくとも当該契約の期間の満了する日の30日前までに、その予告をしなければならない。

(雇止めの理由の明示)
第3条
 前条の場合において、使用者は、労働者が更新しないこととする理由について証明書を請求したときは、遅滞なくこれを交付しなければならない。
2 有期労働契約が更新されなかった場合において、使用者は、労働者が更新しなかった理由について証明書を請求したときは、遅滞なくこれを交付しなければならない。

(契約期間についての配慮)
第4条
 使用者は、有期労働契約(当該契約を1回以上更新し、かつ、雇入れの日から起算して1年を超えて継続勤務している者に係るものに限る。)を更新しようとする場合においては、当該契約の実態及び当該労働者の希望に応じて、契約期間をできる限り長くするよう努めなければならない。

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2007年5月13日 (日)

資料10「黒塗り開示文書」

開示文書画像(クリックすると拡大画像が表示されます)

・団体A

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・団体B

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2007年3月20日 (火)

資料9「北海道文学館の隠蔽体質」

〔今回は亀井秀雄が文学館や文学館役員に出した要望書や書簡を一括して紹介した。量的にはかなり長いが、2度に別けて掲載すると、かえって流れが見えなくなってしまう。そのため、読んで下さる方々には負担をかけることになるが、あえて5種類の文章を載せることにした。
5種類の文章のうち、一番新しい
【資料E】を最初に持ってきた。まずこれを読めば、全体の流れがよく分かってもらえるのでないか。そう考えたからである。私自身はあまりはっきりと自覚していなかったのだが【資料E】で指摘したように、私の【資料A】は文学館の幹部職員にとってよほど迷惑なものだったらしい【資料A】で指摘した問題は、私のホームページ「亀井秀雄の発言」(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)の「文学館の見え方・その9――資料と展示の問題―」でも再論したが、その頃から文学館の幹部職員は私に対する警戒心を強めていった【資料D】の問い合わせに対して、神谷忠孝と親しい身﨑壽がどんな返事をよこしたか、「文学館のたくらみ(11)」で紹介しておいた。しかも【資料E】で述べたように、彼らは何とかして資料の開示の引き延ばそうとしている。亀井志乃の問題はそれ固有の原因があるのだが、以上のような経緯と、彼らが亀井志乃を排除しようとした策略とは、無関係ではない。
なお
【資料E】で言及した、亀井志乃の「経費一覧」の紹介は、ここでは省略した。ただ、念のためにその概略を紹介すれば、亀井志乃は「出張費」「資料貸借料他」「原稿料」「輸送費」「図録代」「ポスター・ちらし・チケット」「看板代」「展示用パネル」「送付料」の項目を立てて、個々の支出を明示し、備考欄に支出先を書いている。支出の合計は1,120,470円。観覧料、図録等販売などによる収入は未整理。特に難しい作業とも思えないのだが、なぜか幹部職員は寺嶋弘道が担当した特別展などの事業実績を見せたがらない。2007年3月20日〕                          

【資料E】
財団法人北海道文学館
理事各位
評議員各位
                            理事 亀井秀雄
 初めてお手紙差し上げる非礼をお許し下さい。
 さっそく用件に入らせてもらいますが、来る3月23日の理事会、評議員会で私が発言することが多いかもしれません。議論を混乱させないため、予め事情をお知らせすることにいたしました。
 まず簡単に経緯を紹介致しますと、私は一昨年の10月
【資料A】のような要望書を神谷忠孝理事長に送りました。指定管理者の問題が大詰めに差しかかっていた頃のことです。ご覧いただいてお分かりのように、私はごく基本的なことを、常識的な線で述べただけなのですが、この要望書は2005年10月14日の理事会・評議会に紹介されませんでした。

 その後、財団法人北海道文学館は指定管理者となり、昨年5月に理事会・評議会が開かれました。それに先立って、私は神谷理事長に宛てて【資料B】のような回答要望書を送りました。その意図は【資料B】の「質問に対する回答の要望」に述べてありますので、ここでは繰り返しません。理事会・評議会では【資料B】の「北海道立文学館・平成18年度「指定管理特別会計」についての質問」だけが、理事と評議員に配布されました。
 ただ、質問に対する毛利正彦館長の説明はごく簡単なもので、質問の①については、「今年度は北海道ゆかりの文学に関する資料の収集と整理を重点目標とする」、②の特別企画展については、石川啄木展、池澤夏樹展のいずれも、観覧者4000名を見込んでいる、という程度でした。もちろん納得できる説明ではありませんでしたが、無理に答えを引き出すつもりはなかったので、「では、こういう質問があったことを記録に止めておいて欲しい。年度末の結果を待つ」と言って、質問を打ち切りました。

 さて、その年度末が近づき、私はつい最近の3月3日【資料C】の手紙を平原一良副館長と川崎信雄業務課長に出しました。お分かりのように、平原副館長への問い合わせは【資料A】に関連すること、川崎業務課長への問い合わせは【資料B】に関することです。
 ところが3月7日に平原副館長から速達の葉書が届き、3月8日は平原副館長も川崎業務課長も用事が立て込んでいて、依頼のあった資料を用意できないとのことでした。私はやむを得ず、それでは15日にうかがいたいと返事をしました。ところが再び、14日に平原副館長から葉書が届いて、15日も忙しくて資料の用意はできない、「また、私共二人の判断のみでは決め難いと考え、館長に相談しました。ご使用の目的を予め当方にお伝え願ってからでは如何かとのことでした。」と書いてありました。
 しかし私の考えでは、平原副館長に依頼した資料は、1時間もかからないでコピーが取れるはずです。1週間も、10日もかかるはずがない。
 また、川崎業務課長に依頼したことも
【資料B】の3枚目ので分るように、それぞれの事業結果の数字を書き込めばよい。参考までに、亀井志乃が担当し、文字通りつい先日の3月18日に終った企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の経費一覧を同封しておきました。資料の返却はこれからなので、まだ数字が埋まっていないところもありますが、担当者が責任をもって経費の記録を取っていれば、展示が終った翌日でもこの程度の整理はつく。亀井志乃は48ページの図録を出し、なおかつ当初予算より約50万円少ない実費で、展示を実現しました。何ヶ月も前に終了した啄木展や池澤展について、当初予算と実際の経費との収支決算を含めて、事業結果の正確な整理が出来ていないはずがありません。
 
 私は15日には資料をもらえないだろうことは分っていましたが、当日、文学館へ出かけました。妻と「人生を奏でる二組のデュオ」を見る予定を立てていたからです。たまたま平原副館長と会いましたので、「理事の私が文学館の経営にかかわる資料を見たいと希望している。その理事に対して、使用目的を問うのは無礼ではないか」と言いました。平原副館長は20日までに資料を用意しておくと約束しました。ところが昨日(3月19日)、三度平原副館長から葉書が届き、「館長に相談したところ、やはり使用目的などもよくお聞きしたうえで判断したいとのことでした。」とありました。
 どうやら毛利館長も平原副館長も川崎業務課長も何かを必死で隠したがっているらしい
【資料A】以来の私の関心が、文学館の幹部職員にはよほど都合が悪いのでしょう。
 文学館が亀井志乃を邪魔にし始めたのも、その辺に理由があったのかもしれません。

 日本の情報公開法が成立する頃、私は北大の情報公開に関する委員会のメンバーでした。ですから、法律成立までの議論にはある程通じているのですが、日本の情報公開法も、北海道の情報公開条例も、公文書の開示請求の手続きに「目的」の記入を求めていません。行政が、開示請求者に「目的」を書かせ、そんな目的では公文書をお見せ出来ませんなどとやったら、情報公開法の趣旨、目的、精神が失われてしまうからです。
 行政が職務のために作成し、または外部から取得した文書は全て公文書とする。行政が内部基準を設けて、これは公文書、これは非公文書などと腑分けしてはならない。公文書開示の利用目的は問わない。これが現在の趨勢ですが、毛利館長や平原副館長は、「使用目的などもよくおうかがいして」などと時代に逆行することを言っている。
 もし文学館の中に「使用目的」が問われる文書があるとすれば、それは文学館が所蔵する文学者のプライバシーにかかわる資料のほうでしょう。この点については、私は、早急に原則を作る必要があると考えています。
 
 私の知りたいことなど、特に急ぐことでもないではないか。そう言われる人もいるかもしれません。しかし、3月23日の議題は「平成19年度事業計画(案)」「平成19年度収支予算(案)」になっています。平成18年度の決算と事業結果の承認を飛ばして、平成19年度の事業と予算を決定しようという、常識では考えられない変則的なことをやろうとしているわけです。そうである以上、最低のところでも私が
【資料B】で質問したことに答えられる準備をしていなければならないでしょう。
 私はそう考えます。
 平成19年3月20日

【資料A】                     2005年10月12日
財団法人北海道文学館
 理事長 神谷忠孝殿
                            理事 亀井秀雄
一昨昨日、「平成17年度第2回理事会・評議会の開催」に関する案内を受掌しました。10月14日は、既に予定を組んでしまっているため、出席できません。ただ、問題はおそらく財団法人北海道文学館の存在理由にかかわる事柄と愚考しますので、懸念するところを、以下に3点挙げておきます。出席の皆さんに披露し、十分に議論していただきたく、後日、議論の内容をうかがいたく存じます。
               
               記
①「議案第1号」及び「道教委との折衝・協議の経緯」から判断するに、この「議案」は、財団法人北海道文学館以外の財団法人や民間企業が指定管理者となる場合がある。というより、その可能性が極めて大きい。そういう「喫緊な」事態に発するものと思われますが、如何でしょうか。

もしそうでなければ、今回のテーマに関して、これほど慌しい形で「理事会・評議員会」を開く必要はないからです。この慌しさは、北海道教育委員会に対する返答のタイム・リミットが迫っているため、と受取るほかはありません。

②「議案」の文言から判断するかぎり、財団法人北海道文学館は資料の所有者であるが、これを「北海道教育委員会の要請に応じ北海道に寄託」し、その上で、所定の手続きを経て選ばれた指定管理者と、「(資料の取扱いに関して)事前、事後の具体的な協議、連携」に入る。私はそう読み取りましたが、このプロセスの中で、「文学資料の所有者としての(財団法人北海道文学館の)主体的な意見、意向」がどのように「尊重」され、反映させることができるのか。
言葉を換えれば、「適切な資料管理」や「ノウハウ」に関する「協議、連携」以外に、どのような活動が可能なのか。その辺のところが見えてきません。

 もし仮に指定管理者となった財団法人なり、民間企業なりが、財団法人北海道文学館の所有する資料を一切使わない展示やイヴェントを企画したとすれば、「資料の所有者である当財団と協議、連携」を行わねばならない義務や責任を解除される。
その場合、財団法人北海道文学館の存在理由はどうなるか。これは決して極論ではなく、理論的にも現実的にもありうることだと、私は考えています。
もしそうなれば、財団法人北海道文学館は北海道に寄託した資料の「所有権」だけを抱えて、漂流を始める。あるいは立ち枯れの状態に陥ってしまうことになるでしょう。

③財団法人北海道文学館が「保有」する資料は、23万5千点に上るそうですが、この中に「寄託」されたものも含まれているのかどうか、その点についても説明が欠けているように思います。
恐らく23万5千点の資料の中には、財団が購入したものだけでなく、北海道の予算で購入して財団に寄贈、または寄託したものもある。それだけでなく、本人や遺族から財団に寄贈または寄託されたものもあれば、北海道立文学館のほうに寄贈または寄託されたものもある。財団が「保有」するに至った経緯は、決して一様でなく、以上のような複数の経緯が考えられるわけですが、それらを一律に「所有」として扱っていいのかどうか、疑問がないわけではありません。「寄贈」と「寄託」が異なるように、「保有」と「所有」とは概念が異なるからです。

その点を踏まえながら、個々の「資料」に関して、どのような経緯で「保有」するに至ったか、それは誰にとっての/何のための資料なのか、それはどこに帰属するのが妥当なのか、などのことを確認することが必要でしょう。それと併せて、財団法人北海道文学館はその資料をどのように価値判断し、如何に活用することができるのかを、明確に把握する必要があると考えます。
文学館の「主体性」は、絶えず資料の価値を問い直す判断力と、それを活用する能力にかかっているはずだからです。

【資料B】
 質問に対する回答の要望
                            平成18年5月24日
財団法人北海道文学館
理事長 神谷忠孝殿
                            理事 亀井秀雄
Ⅰ、要望
『北海道文学館報』第65号(2006年4月25日)掲載の「指定管理業務特別会計」に関する、私の「北海道立文学館・平成18年度「指定管理特別会計」についての質問」(別紙)について、誠意ある回答を要望します。

Ⅱ、理由
 過日(平成18年3月3日)に開催された評議員会・理事会において、評議員の一人から、次のような主旨の質問が出されました。「平成18年度から、道立文学館の管理と運営に関して指定管理者制度が導入されることになり、今日、財団法人北海道文学館が指定された旨の報告を受けた。ただ、財団が4年後も再び指定を受け、更にその4年後も指定を受けて……というように、継続的に管理と運営に当ることができるためには、どのような中期的、長期的目標と見通しをもって、平成18年度からの事業に取り組むつもりなのか。今日の事業計画案の説明からは、さっぱり見えてこない。将来にわたる構想をうかがいたい」。
 私もこれは極めて重要な指摘と疑問だと思い、回答を期待しましたが、神谷理事長からは何一つ明確な説明がありませんでした。
 しかしこれは財団の今後のあり方に関する、ゆるがせに出来ない問題であり、再度私から質問したいと思います。回答が抽象的、一般論的な名分論や、理念論に流れてしまうことがないように、平成18年度の「指定管理特別会計」に即した質問の形を取ることにしました。

Ⅲ、取扱い
 去る平成17年10月14日に開かれた「理事会・評議会」の議題は、「北海道が平成18年から実施する指定管理者制度導入に伴う、財団法人北海道文学館保有の文学資料に取扱いについて」でした。私は既に予定を組んでおり、この会議には出席できないため、神谷理事長に意見書を送り、「出席の皆さんに披露し、十分に議論していただきたく、後日、議論の内容をうかがいたく存じます」と希望しました。ところが、21日に毛利正彦館長から電話があり、館長の「手落ち」により、私の意見書を披露せずに済ませてしまったという、簡単には信じにくい説明がありました。今回は、私は出席する予定ですが、予め私の質問事項(別紙)を送っておくことにしました。会議当日、コピーを出席者に配布してもらいたいと思います。理由は、簡にして要を得た質問をして、時間を節約するためであり、併せてこのような質問があったことを記憶と記録にとどめてもらうためです。

  北海道立文学館・平成18年度「指定管理特別会計」についての質問
                           理事 亀井秀雄
                          平成18年5月24日
①道が道立文学館の運営のために出資する、いわゆる道負担金は、今後4年間で総額569,370,000円(『北海道新聞』2006年1月6日)となったが、なぜ今年度、142,914,000円を支出することにしたのか。
 4年間の全体的な目標とプログラムはどうなっているのか。そのなかで、今年度をどう位置づけて、この金額を割り当てたのか。

②今年度の142,914,000円は、前年度の168,080,000円に比して、25,166,000円減となるが、事業費は全体で5,322,000円増となっている。何故か。しわ寄せはどこに行ったのか。
イ、事業費のうち、「資料収集保存等事業費」が2,735,000円増えて、9,220,000円となっているが、どのような理念とコンセプトに基づいて資料収集と保存を進める予定なのか。それは、どのような文学館の将来計画に基づくことなのか。
 ロ、「展示会事業費」は、特別企画展①3,712,000円(678,000円増)。特別企画展②3,612,000円(560,000円増)。企画展は1,516,000円(375,000円増)となっている。(増額分は計1,613,000円)。これらの展示を、初年度の事業として構想した理由は何か。
  特別企画展①(7月22日~8月27日。37日間)を「石川啄木~貧苦と挫折を超えて~」とした理由は何か。来年度が啄木の来道100年に当るが、なぜ敢えて今年、啄木展を組んだのか。3,712,000円の支出項目は何か。どの程度の数値目標(観覧者数、収入額)を設定しているか。どのような結果(将来につながる効果)を企図しているか。
  特別企画展②(10月14日~11月26日。44日間)を「池澤夏樹のトポス~旅する作家と世界の出会い~」とした理由は何か。なぜ池澤夏樹なのか。3,612,000円の支出項目は何か。どの程度の数値目標(観覧者数、収入額)を設定しているか。どのような結果(将来につながる効果)を企図しているか。
  企画展予算1,516,000円は、次の四つの企画展を合わせての予算なのか。「写・文 交響~写真家・綿引幸造の世界から~」(4月29日~6月4日。37日間)、「書房の余滴~中山周三旧蔵資料から~」(12月9日~同24日。16日間)、「聖と性、そしてまた生~栗田和久・写真コレクションから~」(1月13日~同27日。15日間)、「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二展~」(2月17日~3月18日。30日間)。それぞれの支出項目、数値目標(観覧者数、収入額)、結果(将来につながる効果)はどうなっているか。

③「広報・啓発事業費」1,000,000円(591,000円増)、「刊行物編集・刊行事業費」1,350,000円(520,000増)となっているが、具体的にどのような事業を行うのか。

④前年度に組んであった「調査研究事業費」459,000円が、今年度全額削除になった理由は何か。
          

【資料C】
財団法人北海道文学館
副館長
平原一良殿
                            理事 亀井秀雄
拝復
 過日お送り下さった「平成17年度 拡大運営検討委員会」の議事録のコピーを、昨日たしかに受掌致しました。ご手配、ありがとう存じました。
 委員会の議論も方向も分り、大変参考になりました。

 ところで、ご厚意に甘えるようで、大変に心苦しいのですが、先日お話を伺いながら、是非次の資料を拝見したくなりました。

① 道立文学館の開館に際して、財団法人北海道文学館が北海道教育委員会と交わした、道立文学館の使用・管理・資料の帰属に関する契約書
② 財団法人北海道文学館が道立文学館の指定管理者の候補者にエントリーする際に、教育庁生涯学習部文化課に提出した「業務計画書」
③ 財団法人北海道文学館が指定管理者に選定された後、財団法人北海道文学館が北海道教育委員会と交わした、道立文学館の使用・管理・資料の帰属に関して取り交わした契約書

以上の3点です。
 私は3月8日午後1時に道立文学館にお伺いする予定です。その時、以上の3点の文書のコピーを頂戴できれば、これほどありがたいことはありません。
 
 ご多忙のところ、お手を煩わせてはなはだ恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。
                                  敬具
平成19年3月3日                    

財団法人北海道文学館
業務課長
川崎信雄殿
                           理事 亀井秀雄
拝啓
 北海道文学館の運営については、お世話になっています。

 さて、私は昨年(平成18年)の5月に開かれた理事会に先立って、神谷忠孝理事長に宛てて、同封の「資料一」の質問状を送っておきました。理事会で説明を受けるためです。
 理事会では、たしかに私の質問状は紹介されましたが、ほとんど答弁らしい答弁はありませんでした。よって私は、私の質問を記録にとどめておいてもらい、年度末に結果を報告してもらうことにしました。
 
 今年度も3月に入り、各事業について支出と収入の結果が明らかになり――企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の収入以外は――経理上の整理もついたことと拝察致します。
 その結果をお教えいただきたく、それぞれの事業の収支表を6枚お送り致します。
 3月8日(木)午後1時に、結果を記入していただいた収支表をいただきにお伺い致したく存じます。お手数を煩わせて申し訳なく存じますが、よろしくお願い致します。

 もし私に分らない点がありましたら、質問をさせていただきたく存じます。質問の中心は、池澤夏樹展の一環として道立近代美術館で行われた講演や、帯広で行われた講演会の支出と収入は、会計上どのように扱ったか等に関することになるかと思います。
 ご多忙中のところ、まことに恐縮に存じますが、よろしくお願い申し上げます。
敬具
平成19年3月3日
                                    
  特別企画展①「石川啄木~貧苦と挫折を超えて~」
【支出】
資料借入費(借入先;                )   ¥
輸送代(運送会社名;                )   ¥
出張費(出張先及び人数;             )   ¥
講師謝礼(講師名;                  )   ¥
講師旅費(講師住所;                )   ¥
図録代(印刷会社名及び部数           )   ¥
広告宣伝費 看板代(看板店            )   ¥
      ポスター(印刷会社名及び枚数     )   ¥
      チラシ(印刷会社及び枚数       )   ¥
      新聞広告等(新聞社名         )   ¥
観覧券(印刷会社及び枚数            )   ¥
設営費 展示用パネル(              )   ¥
    作業人件費 (                 )   ¥
郵送代(封筒、切手等               )   ¥
                              合計 ¥                
【収入】
観覧者総数
  招待券(無料)観覧者数
  高齢者(無料)数
  有料観覧者数                   ¥
講演
  聴講者数                      ¥
図録                           ¥
                           合計¥

【資料D】  
北海道立文学館指定管理者候補選定委員会
委員長
身崎 壽様
 拝啓
 ご無沙汰をしていました。ご健勝にお過ごしのことと存じます。

 さて、私は以前から、公立の文化施設に指定管理者制度が導入された時の諸問題に関心を持ち、少し心がけて調べていたところ、北海道教育委員会のホーム・ページで同封のような報告を見つけました。

 内容が抽象的なのでいろいろ分らない点があるのですが、特に「選定理由」と「学識経験者委員の主な意見(又は総評)」に記載された、次の二つの文言がうまく理解できませんでした。恐れ入りますが、お手元の資料、あるいはご記憶に基づいて、お教えいただきたく存じます。

①「北海道にゆかりの深い文学者や文芸作品を中心とした、時代を超えた多様な視点からの問題提起的で魅力的な文学に関する展示(平成18年度)」とありますが、
イ、 これは平成18年度のどのような展示計画を指したものでしょうか。
ロ、 その展示計画のどのような点を「時代を超えた多様な視点」「問題提起的」と評価したのでしょうか。
②「北方文学に影響を与えたサハリン関連文学に関する展示(平成19年度)」とありますが、
 イ、これは平成19年度のどのような展示計画を指したものでしょうか。
 ロ、「北方文学」とは、どのような文学を指す言葉なのでしょうか。
 ハ、「サハリン関連文学」とは、どのような文学を指すのでしょうか。

ご多忙のところ、恐縮に存じますが、ご回答のほど、よろしくお願い申し上げます。
   
                                 敬具 

                                 亀井秀雄

平成19年2月9日

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2007年2月26日 (月)

資料8「神谷理事長の早急な行動を求める」

〔北海道文学館嘱託職員の亀井志乃は、2007年2月6日、理事長の神谷忠孝からの書簡を受け取った。これは、「神谷忠孝理事長の回答を要求する」(資料7参照)の返事と推定される。
亀井志乃はそれを受けて、2月9日、「神谷理事長の早急な行動を求める」を、神谷忠孝に送った。また、翌々日の11日、毛利正彦文学館長、平原一良副館長、川崎信雄業務課長、寺嶋弘道学芸主幹に宛てて、「神谷忠孝理事長の「回答」について」を送った。
次に、
(イ)神谷忠孝書簡
(ロ)「神谷理事長の早急な行動を求める」
(ハ)「神谷忠孝理事長の「回答」について」
を紹介する。〕

(イ)神谷忠孝書簡
(2月5日、消印)
 前略 平成十九年一月二十二日消印の理事長宛文書を受け取りました。二月六日までに回答書を直接渡してくださいとの要望ですが、本務校の入試業務に専心しているため手紙で回答します。
 この件については、一月十七日に毛利正彦館長から回答させた通りです。
  平成十九年二月四日
   財団法人北海道文学館理事長
         神谷忠孝 印
亀井志乃殿

(ロ)神谷理事長の早急な行動を求める

北海道文学館理事長 神谷忠孝殿
                  財団法人北海道文学館嘱託職員
                  業務課 学芸班 研究員
                                亀井志乃

 過日お送りした「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」(平成19年1月21日付け)に対する神谷忠孝理事長のご返書を、平成19年2月6日に、確かに受掌致しました。
 直接にお手渡しいただけなかったのは残念ですが、期日をお守り下さったことに感謝致します。
 ご返書を拝見した結果、かねて私が主張し、要求していた次の2点に関して、神谷理事長からは一言半句の異論も反論もなく、よって神谷理事長は全て承知されたものと判断致しました。

1、駐在道職員の寺嶋弘道学芸主幹は長期間、亀井志乃嘱託職員に対してパワー・ハラスメントを繰り返してきた。
2、毛利正彦文学館長が平成18年12月6日に、亀井志乃嘱託職員に通告した来年度の任用方針を白紙撤回し、亀井志乃の意向と実績評価に基づく人事構想を策定する。

 この2点のほか、幾つかの質問事項もありますが、この2点を解決する過程で回答を得られる事項も多いと思います。年度末の折柄、この2点の解決に向けて早急に行動を起して下さるようお願い致します。

 なお、念のために申し添えるならば、過日お送りした「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」は、平成19年1月17日に毛利正彦文学館長から手渡された「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」に対する批判を含んでいます。
 神谷理事長は当然それをお読みになったはずですが、私の批判に対する一言半句の異論も反論もなく、毛利館長の文書は神谷理事長自身の「回答」であったことを確言しておられる。これは、神谷理事長が私の批判を認めたことを意味します。
 また、毛利館長が私に渡した「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」には、私が挙げた事実に対して何一つ反証がなく、私の理論に対して何一つ反論がなされていません。これは、私が挙げた事実や理論に基づく私の主張や要求に対して、全く異議がなかったことを意味します。今回の神谷理事長のご返書は、異議がないことを追認し、確定したことになります。
 平成19年2月8日
 
(ハ)神谷忠孝理事長の「回答」について

北海道立文学館館長            毛利正彦殿
北海道立文学館副館長           平原一良殿
北海道立文学館業務課長         川崎信雄殿
駐在道職員・北海道立文学館学芸主幹 寺嶋弘道殿
                    財団法人北海道文学館嘱託職員
                    業務課 学芸班 研究員
                                  亀井志乃

 過日、神谷忠孝理事長にお送りした「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」に対して、去る2月6日、神谷忠孝理事長より郵便による「回答」がありました。
 その文言は、神谷理事長は次の2点を承知していると判断できるものでした。
 
1、駐在道職員の寺嶋弘道学芸主幹は長期間、亀井志乃嘱託職員に対してパワー・ハラスメントを繰り返してきた。
2、毛利正彦文学館長が平成18年12月6日に、亀井志乃嘱託職員に通告した来年度の任用方針を白紙撤回し、亀井志乃の意向と実績評価に基づく人事構想を策定する。

 
よって、2月9日、この2点の解決に向けて早急に行動を起こすよう、神谷理事長に要望する文書を郵送しました。
 左様にご承知置き下さい。
 平成19年2月10日

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2007年1月28日 (日)

資料7「神谷理事長の回答を要求する」

〔北海道文学館嘱託職員・亀井志乃は、2007年1月17日、毛利正彦文学館長から「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」と題する文書を渡された。亀井志乃は1月21日、それを神谷忠孝理事長に返送すると共に、「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」(以後、「神谷理事長の回答を要求する」と略記)を送った。数日後、毛利正彦文学館長、平原一良副館長、川﨑信雄業務課長、寺嶋弘道学芸主幹にも、毛利正彦の文書と「神谷理事長の回答を要求する」を送った。
次に、
①毛利正彦文学館長の「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」
②亀井志乃の「「神谷理事長の回答を要求する」
を紹介する。〕

「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」

 財団と館の意思として申上げます。
 平成19年度におけるあなたの再任用にかかわっての要求・質問等には、昨年12月27日に回答いたしました。これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません。
 こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。

平成19年1月17日
亀井志乃嘱託員 様
                                                (財)北海道文学館 副理事長
                      北海道立文学館 館長
                                毛利正彦

②「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」

北海道文学館理事長 神谷忠孝殿

                                             財団法人北海道文学館嘱託職員
                     業務課 学芸班 研究員
                                  亀井志乃

 私は過日、平成19年1月6日の日付けを持つ「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を再度要求する」という主意書と、「再回答書」を、神谷忠孝理事長、毛利正彦文学館長、平原一良副館長、川﨑信雄教務課長、寺嶋弘道学芸主幹の5人にお渡ししました。
 その理由は、平成18年12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長より私に渡された「回答書」の内容が納得できなかったからです。なぜ納得できないかについては、「「館長 毛利正彦」の名による回答と、それに対する疑問と批判」に書き、これも平成19年1月6日付けの主意書と一緒にお渡ししてあります。
 私は「再回答書」の期限を平成19年1月16日とさせていただきました。また、上記の人たちのうち、誰かが5人を代表して回答する場合は、神谷忠孝理事長の責任において回答してもらいたい旨、明記しておきました。

 しかし、平成19年1月16日に至っても、誰からも回答がありませんでした。ただ、翌日の1月17日、私は毛利正彦文学館長より館長室に呼ばれ、同封のような「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」というタイトルの文書を渡されました。
 毛利正彦文学館長としては、これが私の「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を再度要求する」に対する返答のつもりだったようですが、私にはとうてい返答の体をなしているとは思われません。よって、これは上記の5人にお返しし、改めて神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求いたします。
 回答は平成19年2月6日(火)までに、私に直接お渡し下さい。

 しかし、なぜ私が「返答の体をなしていない」と判断したか。毛利正彦氏は私の文章を読まないか、もし読んだとしても、私の文章を理解できないで、見当はずれの「返答」を書いている。しかも毛利正彦氏の文章は、文辞が整わない上に、理論的に混乱しているからです。
 以下、更にそれらの点を、(A)回答資格者、(B)主文(前段)、(C)副文(後段)の3点に別けて説明します。
 
(A)回答資格者について
1、私は前回、「館長・毛利正彦氏が「財団及び館」を代表して、「財団及び館としての考え方」を回答できる根拠は何ですか。」と質問しました。しかし、今回の「返答」では、その点の回答がありません。
 毛利正彦氏としては、「(財)北海道文学館 副理事長」と「北海道立文学館 館長」という肩書きを二つ並べて、その回答とするつもりだったのかもしれません。
 しかし、それは私の質問や要求とは性質や次元が異なります。念のため、前回の私の質問と要求を引用いたしましょう。

 「去る12月27日、私は館長室に呼ばれましたが、その少し前に、川﨑業務課長から「人事に関する決定権は神谷理事長にある」と教えられました。確かにこの事自体は、財団の規定に照らしても客観的な事実であろうと考えられます。
 そうしますと、パワー・ハラスメントから解雇通告に至る一連の問題の私に対する説明責任は神谷忠孝理事長にあることになります。換言すれば、一連の問題に関して、これまで主に毛利正彦館長が私に対応してきましたが、それは館長の越権行為であることになります。それ故、これまで毛利館長が私に対応してきたことは、その説明がすべて神谷理事長の意向・決定に基づくという事が証明されない限り、全て無効であると言わざるを得ません。

 その証明をお示し下さい。その証明がないならば、毛利館長が私に行った説明は全て無効となり、私の白紙撤回の要求は極めて正当な要求だったことになります。」
「これまで毛利正彦文学館長が亀井に対応してきたことは、全て神谷忠孝理事長の意向・決定に基づくことを証明して下さい。」

   
 もう一度言いますが、(財)北海道文学館副理事長/北海道立文学館館長・毛利正彦氏が私に渡した「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」は、その質問に対して何も答えていません。

2、以上により、私は、「毛利正彦氏は私の文章を読まないか、もし読んだとしても、私の文章を理解できないで、「返答」を書いている。」という心証を得たのですが、もう一例を挙げましょう。
 去る1月17日、毛利正彦氏は私に上記の「返答」を渡した際、「亀井さん、もっと規約を勉強しなさい。神谷理事長は理事長だからと言って、何でもかんでも決められるわけではないってことは、規約にちゃんと書いてあるでしょう。」と、要らぬおせっかいの補足を語っていました。それに対して私は、〈私は神谷忠孝理事長が自分で何でも決めているわけではない、と考えたから、前回のような質問をしたのだ〉という意味の反論をしようとしましたが、毛利正彦氏は私の発言を遮って「とにかく亀井さんには、もっと勉強してほしいんだなぁ」と繰り返しました。
 この点についても、前回の私の質問を引用します。
   
 「ただし私は、規定の上では「人事に関する決定権は神谷理事長にある」からと言って、この規定が神谷理事長に、「人事に関する決定権」を独占的、独裁的に許している、とは考えていません。この規定が意味するところは、次のようなものと考えられます。「人事に関する方針を議する、何らかの合議体があり、その合議体で決めた方針が、理事長の意志として表現される。この合議体の決定を経ない〈理事長の意志〉はあり得ないし、あってはならない。その合議体の決定は、〈理事長の意志〉として表現されて、はじめて効力を持つ。」
 私は、財団・北海道文学館における、この合議体は理事会だと考えますが、いかがでしょうか。
 そこで改めて質問致します。神谷忠孝理事長の「人事に関する決定権」の正当性を保証するものは何でしょうか。
 それに関連して、もう一つお訊ね致します。神谷忠孝理事長の「人事に関する決定権」が恣意的、独裁的に行使されるのを防ぐために、――例えば人選が私情や個人的な利害によって行われるのを防ぐために――当然、権限の幅が設定されていると思いますが、それはどのように設定されているのでしょうか。」

 もうお分かりでしょう。私は、〈神谷忠孝理事長が何でも自分で決定する/決定できる、とは思わない〉と考えたからこそ、このような質問をしたわけです。ところが毛利正彦氏はそれを無視して、「勉強しなさい」を繰り返している。「毛利正彦氏は私の文章を読まないか、もし読んだとしても、私の文章を理解できないで、「返答」を書いている。」と判断せざるをえません
   

 それとも、毛利正彦氏は、〈自分は北海道立文学館の館長であり、それ故、たとえ財団・北海道文学館における身分は副理事長であっても、理事長である神谷忠孝氏の立場と権限を侵しても差し支えない〉と考えているのでしょうか。また、神谷忠孝理事長はそれを容認して、毛利正彦氏の言動、言行を支持しているのでしょうか。
  その辺のお考えも是非知りたいところです。

(B)主文(前段)について
 1、利正彦氏は、(財)北海道文学館副理事長及び北海道立文学館館長の肩書きをもって私に、「平成19年度におけるあなたの再任用にかかわっての要求・質問等には、昨年12月27日に回答いたしました。これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません。」と通告してきました。
 しかし、繰り返し言いますが、私が1月6日にお渡しした文書をじっくり、丁寧にお読みください。私は、私の「再任用にかかわっての要求・質問」をしたわけではありません。
 私は平成18年12月12日付けの「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」において、「毛利館長が(亀井に)述べた任用方針の説明、およびここに至るまでの経緯に鑑み、毛利館長を含む「我々」の任用方針は意思決定の正当性を欠き、内容的にも極めて不当な解雇通告であり、よって白紙撤回をし、改めて当事者の意向と実績評価に基づく人事構想を策定することを要求いたします。」と要求しました。
 ところが、12月27日の「回答書」は、私が問題にした「来年度の任用方針に関する意思決定の正当性についての疑問」には答えていない。だからこそ私は、平成19年1月6日の「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を再度要求する」において、次のように要求したわけです。

 「これでは回答になっていません。前に私がお渡しした、12月12日付の「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」と、それに添えた「面談記録」をもう一度よくお読みください。私が白紙撤回を要求したのは、「毛利館長を含む「我々」の任用方針は意思決定の正当性を欠き、内容的にも極めて不当な解雇通告である」と判断したからです。毛利館長を含む「我々」は、私のこの判断に含まれる論理と主張に答えなければなりません。
   その論理と主張に答えず、「嘱託員の任用要領」を持ち出すのは、問題のすり替えでしかありません。故に、12月6日に毛利正彦館長から伝達のあった任用方針の撤回を再度要求すると共に、今回のこの回答の撤回も要求致します。」

 
 私の言うことはお分かりいただけると思います。日本の刑法には「死刑」がある。死刑の判決は裁判長が下す。しかしだからと言って、裁判長が直ちに死刑の判決を下し得るわけではありません。裁判を通じての事情聴取や事実認定があり、それに基づいて複数の裁判官が合議をし、裁判長の名で判決を表明するわけですが、それら一連のプロセスが裁判に関する法的な手続きに適っていなければならない。適っていてはじめて、判決の合法性が成立する。
 しかし、判決の合法性は直ちに判決の正当性や、法運用の適切性を意味するわけではありません。プロセスの合法性や、過去の判例との整合性を問う検証があり、新しい証拠に基づいて再審を求める控訴があり、社会一般に通念による批判があり、それらをクリアして漸く判決の正当性や、法運用の適切性が認知されるわけです。
 毛利正彦氏の回答は、〈財団・北海道文学館の「嘱託員の任用要領」は単年度雇用制を取っており、雇用の決定は理事長が下す。その規則に則っている限り、「我々」の決定は正当なのだ〉という理屈に基づいているようです。しかし、規則適用の正当性や、規則運用の適切性を保証する一定の手続きを欠いた、そんな理屈が、民主的な市民社会で通用するはずがありません。私が疑問に思い、質問したのは、そういう決定のプロセスと合法性についてなのです。
 その点についても、もう一度繰り返しましょう。

 「「財団の意向を反映し代表する我々」とは、毛利館長自身の言葉です。こういう言い方をした以上、毛利館長は、「財団」と「我々」とは相対的に独立した組織であることを認めたことになります。なぜなら、相対的に独立した組織であればこそ、「反映し代表する」という関係が成立するはずだからです。
 また、もし毛利館長が言う「我々」が「財団の意向を反映し代表する」と言い得るとすれば、それは一定の手続きを経て財団が決定した方針を遂行する場合だけです。今さら言うまでもないでしょうが、財団法人・北海道文学館の運営主体は理事会であり、「財団の意向」とは理事会の議を経て決定された方針を意味するはずです。財団が決めない方針を「財団の意向」として行うことは逸脱、または越権行為であり、直ちに停止しなければなりません。
 仮に毛利館長が言う「我々」が、理事長、副理事長(館長)、専務理事(副館長)、常務理事(業務課長)の4人であるとすれば、この4人の「責任」は理事会の決定した方針に基づき、それを遂行することにあります。
  
 以上は、毛利館長が言う「我々」4人のほか、寺嶋学芸主幹もよく口にする「組織」論のイロハですが、ここまで説明すれば、もうお分かりのことと思います。私が前回お訊ねしたのは、何月何日の理事会において、どういう議題に関する議を経て、どんな決定がなされたか、ということです。念のためもう一度言いますが、その裏づけなしには、毛利館長の言う「我々」が「財団の意向を反映し代表する」と主張することはできません。
  
 では、改めて質問致します。財団法人・北海道文学館の理事会は来年度の任用方針について、何月何日の理事会で、どういう議題に関する議を経て決定したのですか。理事会の議事録のコピーを添えて、お答え下さい。」

 毛利正彦氏が、(財)北海道文学館副理事長及び北海道立文学館館長の肩書きをかざして私に渡した、「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」はこの質問に答えていない。神谷忠孝理事長といえども、その点はお認めにならざるをえないでしょう。

2、(財)北海道文学館副理事長にして北海道立文学館館長である毛利正彦氏は、先ほど紹介した主文において、「これ以上、あなたの要求・質問にお答えするつもりはありません。」と答えています。また、口頭でも、「あんたへの回答は、この前の、12月27日の返事でつきていると私は思うよ。財団は、何より、いま現にやらなければならない仕事をやっていかなくちゃならないんだ」と、私に言い渡しました。
 しかし私は、一方的に解雇通告を受けた被雇用者として、その理由と経緯について質問をする権利を持っており、毛利正彦氏または(財)北海道文学館理事長の神谷忠孝氏はそれに答える責任と義務を負っています。にもかかわらず、このように回答拒否の姿勢を示すことは、自分(たち)の責任と義務の放棄であり、私の権利の侵害を意味します。
 1月17日にも、私はその点を指摘して、「現に生活権を侵害されているのは、こちらなんですよ。なのに、それがわずらわしいとか言う理由で、回答を打ち切られなければならないんですか。」と言いました。ところが、毛利正彦氏は「誰もわずらわしいなんて言葉を使っていないでしょう」などと、卑小な揚げ足取りで逆ねじを喰らわせ、はぐらかしてしまいました。
 こういうタイプの人物は、得てして私が先ほど挙げた喩えに関しても、「誰もあんたを死刑にするなんて言ってませんよ」などと揚げ足を取って、はぐらかしかねない。しかし神谷忠孝理事長はまっすぐに道理には道理をもって質問に答え、要求に対応して下さるだろう、と信じています。

(C)副文(後段)について
1、この文章は、文章の構成が稚拙で、内容は混乱に満ちています。念のために引用しましょう。

  「こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。」(下線は引用者)

 なぜこの文章の構成が稚拙かと言いますと、毛利正彦氏は、私が下線を引いた箇所全体を、「あなたの行動」にかかる連体修飾句としているからです。4行にも及ぶ長い1文の中で、主語を文末近くに置く。その主語に長大な連体修飾句をつけている。
しかも、「あなたの行動」という主語の述語は、「極めて不誠実であり」まででしかない。それに続く「強く抗議します。」の主語は明示されていません。

2、このように文脈を整理してみますと、毛利正彦氏が言う「私ども」(毛利正彦文学館長を含む、北海道文学館の幹部職員?)に対して、私(亀井)が質問や要求を出すことは、「財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つける」ことになるらしい。毛利正彦氏は、私がこれまで渡した文書のどこから、そういう認識を導き出したのでしょうか。
 神谷忠孝理事長もこの「返答」を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、私の文章から該当箇所を具体的に例示して下さい。
 私の立場から言えば、寺嶋弘道学芸主幹の私に対する言動こそ「個人の名誉と人権を不当に傷つける」パワー・ハラスメント以外の何ものでもありません。私は具体的な事例を挙げて、そのことをアピールしました。ところが、毛利正彦氏を含む文学館の幹部職員はそれに対する具体的な反証、反論を示すことなく、一方的に「パワー・ハラスメントはなかった」と結論し、外部の第三者にまでそのように説明している。これは寺嶋弘道学芸主幹と共犯的な関係を結んで、私の名誉と人権を不当に傷つける行動と言うほかはありません。毛利正彦氏はその点を頬かぶりして、あたかも自分たちのほうが被害者であるかのような言い方をしている。これは事態の本質を誤魔化そうとする、姑息なすり替えです。
 
3、次に、毛利正彦氏の作文した長大な連体修飾句によれば、私・亀井志乃が「一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていることになるらしいのですが、私はそのようなことをしていません。毛利正彦氏は何を根拠にそう言うのか。もしそれを示すことができなければ、毛利正彦氏こそ「根拠のない誹謗・中傷」を行っていることになる。
 そもそも寺嶋弘道学芸主幹の私に対する言動こそ「根拠のない誹謗・中傷」のくりかえしだった。その点を忘れてはなりません。また、その点から目を逸らさせるような言い方は許されません。

4、さて、毛利正彦氏の文章の拙さには目をつぶって、毛利正彦氏はじつは私の父・亀井秀雄を主語として、「一方ではインターネット上の父親のブログで」以下を言いたかったのだ、と考えてみましょう。
 確かに私の父・亀井秀雄は、「この世の眺め――亀井秀雄のアングル――」というブログで、平成18年の12月28日から何回か、北海道文学館の問題に言及しています。しかし私の見るところ、父・亀井秀雄は根拠のあることを書いているだけであって、決して「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ているわけではない。もし毛利正彦氏が、亀井秀雄は「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」ていると考えるならば、毛利正彦氏が自分たちの具体的な、根拠ある事実を挙げて、それを証明しなけばならないでしょう。
 また、神谷忠孝理事長も毛利正彦氏のそのような見方を支持するのであるならば、毛利正彦氏に代わって、具体的な事例を挙げ、それに即して亀井秀雄が「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」たことを証明して下さい。それができないならば、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄に対して「根拠のない誹謗・中傷」を行ったことになります。

5、また、毛利正彦氏は私の父・亀井秀雄のブログについて、「父娘関係をあえて伏せたまま」などと、何か不当な書き方をしているかのごとく匂わせていました。しかし、父・亀井秀雄は、北海道文学館の管理職的な立場の3人については実名を明かすが、それ以外の職員の姓名については、ローマ字書きにした場合の頭文字で表記する、という方針で書いているだけのことです。
 私の父・亀井秀雄は、私が平成18年10月31日、寺嶋弘道学芸主幹のパワー・ハラスメントをアピールした時期、ブログでその問題に言及することはしませんでした。北海道文学館の幹部職員のまっとうな対応を期待していたからでしょう。
 また、私の父・亀井秀雄は、平成18年12月6日、私が来年度の雇用に関して、毛利正彦文学館長から実質的な解雇通告を受けた時も、ブログで取り上げることはしませんでした。私がその通告に対して、12月12日、北海道文学館の幹部職員に、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」を渡した時も、ブログで言及することは控えていました。まだ何ほどか北海道文学館の幹部職員の誠意を期待する気持ちが残っているからだ、と私は理解しています。
 しかし、平成18年12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長が私に対して、極めて不誠実な「回答書」を返した。その翌日から、父・亀井秀雄はブログで北海道文学館の批判を開始しました。
 私としては、至極当然な対応だと思っています。
 ただ、父・亀井秀雄はこの事態に対する一定のスタンスを保つため、寺嶋弘道学芸主幹以下の職員の名前は出さない方法を取ったものと理解しています。しかし、年が明けて、平成19年1月17日、毛利正彦氏から私に渡された「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」は、明かに私を愚弄するだけでなく、父・亀井秀雄を愚弄する文言で書かれていました。多分父・亀井秀雄は、今後は、全ての人間を実名で名指しする書き方に変えることでしょう。

 以上が、毛利正彦氏の「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」を、私が「返答の体をなしていない」と考える理由です。

 そのことを説明して、さて、改めて神谷忠孝理事長に要求致します。私が平成19年1月6日付けで、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を再度要求する」と一緒にお渡しした「再回答書」の「質問事項」と「要求事項」の返事を、平成19年2月6日(火)までに、私に直接お渡し下さい。

 平成19年1月21日

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資料6「理事・評議員への第二次アピール・2種」

〔北海道文学館嘱託職員・亀井志乃は、資料4で紹介したアピールに次いで、平成19年1月7日、理事と評議員に宛てて、①「パワー・ハラスメントと不当解雇問題の中間報告」を送った。
また、資料4を送った後、新たに住所や仕事先の分かった評議員に宛てて、平成19年1月11日、②「北海道文学館におけるハラスメントと不当な解雇を訴える」を送った。

内容に重複するところも多いが、記録のため、アピールの挨拶文を紹介しておきたい。〕

「パワー・ハラスメントと不当解雇問題の中間報告」    

財団法人・北海道文学館 役員各位

                    財団法人北海道文学館嘱託職員
                     業務課 学芸班 研究員
                               亀 井 志 乃

 明けましておめでとうございます。今年の元旦は、珍しく爽やかな晴天に恵まれました。皆様にはご健勝にてよいお年をお迎えのこととお慶び申上げます。
 私もおかげさまで、元気に新しい戦いの年を迎えることができました。

 毛利正彦文学館長と平原一良副館長とは相変わらず言葉の意味をすり替えながら擬事実の捏造に勤しんでいるようです。暮の27日、私が「館長 毛利正彦」の名による回答書を受け取り、「それでは、こちら(文書)は確かに受けたまわっておきます」と言って退室したところ、二人は第三者に、「亀井は館の方針を了承した」と説明していると聞きました。
 同じく暮の20日、運営検討委員会が開かれました。この会議は何かを決定する会議ではないのですが、毛利館長は「何人かの委員から質問が出、館として説明させていただいた」という事実(?)を挙げて、「来年度の任用方針が承認された」と意味づけて、私には「亀井の雇用問題は“解決済み”」と伝え、第三者にまでそのように伝えているようです。
 パワー・ハラスメントの問題についても、私が挙げた具体的な事例を調査することなく、「いじめがあったとは認識しておりません」のパターンにしがみついています。

 12月の中旬に皆様にお送りしたアピールに対して、何人かの人がお返事を下さいました。その中には「長すぎる」とか「細かすぎて読む気がなくなった」とかいう苦情もありました。「文学館内部のことは我々の関知することではない。当事者で解決してくれ」と、言外に不快感を漂わせた返事を下さった方もいます。そういう人たちにとって、上のような毛利館長や平原副館長の説明は、できれば信じていたい言葉かもしれません。
 しかし、そういう方であっても、とにかくペンを取って書いて下さるだけのお気持ちはあった。無関心に放置されてしまうよりは、遥かにありがたいことだと感謝しています。

 ただ、私個人としては、条理はきちんと通しておきたい。2、3の方からは、事態を憂慮し、お気持ちの籠った励ましのお手紙もいただいています。おかげさまで、怯むことなく立ち向かう勇気をいただきました。心からお礼を申し上げます。
 今回お送りするのは、去る12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長から渡された「回答書」に対して、私の疑問と批判を述べ、再度回答を要求した文書です。それをお読みになるだけでも、事態がどう進んでいるか、ご理解いただけることと思います。が、前にお送りした「面談記録」と一緒にお読みいただければ、さらに立体的にお分かりいただけると思います。
 ぜひご一読の上、事の成り行きをお心にお止め下さいますようお願い申し上げます。

平成19年1月7日

「北海道文学館におけるハラスメントと不当な解雇を訴える」   

財団法人・北海道文学館 評議員各位

                    財団法人北海道文学館嘱託職員
                    業務課 学芸班 研究員
                               亀 井 志 乃

 明けましておめでとうございます。今年の元旦は、珍しく爽やかな晴天に恵まれました。皆様にはご健勝にてよいお年をお迎えのこととお慶び申上げます。
 私もおかげさまで、元気に新しい戦いの年を迎えることができました。

 さて、突然お手紙を差上げる失礼をお許しください。
 私は現在、北海道文学館で、財団の嘱託職員として働いております亀井志乃と申します。私は平成16年7月、嘱託職員に採用されて以来、自分の立場を弁えつつ、任された仕事に励んできました。ところが、去る12月6日、毛利正彦館長より突然、来年度からの任用予定がないこと、つまり今年度一杯で解雇する旨の通告を受けました。

 この一方的な通告は、現在の雇用問題に関する市民的ルールに反する行為と思いますが、更に不可解なのは、私がその理由の説明を求めたところ、毛利館長は「財団の事情」「理事の人たちのかねてからの意向」と言うのみで、明瞭な説明ができませんでした。誰がどういう立場と権限で来年度の任用方針を決めたのか、という意味の質問に対しても、「財団の意向を反映し代表する我々」と答えるのみで、具体的に決定主体とその権限を明らかにすることはしませんでした。

 私の解釈では、この不当な生活権の侵害は、駐在道職員・寺嶋弘道学芸主幹の私に対するパワー・ハラスメントと無関係ではありません。
 私は昨年の4月以来、寺嶋主幹から執拗にパワー・ハラスメントを受け、10月31日、それが堪えがたいまでに苦痛であることを、寺嶋弘道主幹だけでなく、神谷忠孝理事長、毛利正彦館長、平原一良副館長、川崎信雄業務課長にアピールしました。しかし5人は、私が文書による回答を求めた問いかけに答えることなく、また、抜本的な解決を図る取り組みも見せずに、12月6日、毛利館長による突然の解雇通告を突きつけてきました。
 それ以後、私は毛利正彦文学館長を始めとする幹部職員に来年度の任用方針の白紙撤回を求めているのですが、彼らは文学館のホームページに来年度の新規採用の公募要項「学芸員、司書の募集について」を出してしまい、また、一部の理事や評議員に「亀井は来年度の任用方針を了承した」などと説明をし、なしくずしに自分たちの方針を既成事実化しようとしています。

 じつは私は、昨年の12月と今年に入ってからと、2度、理事や評議員のうち、お住まいやお勤め先の分かる方々に、同封の資料をお送りして、以上のような経緯をアピールしました。その方の中には、「細かすぎて読む気がなくなった」とか、「文学館内部のことは我々の関知することではない。当事者で解決してくれ」とかと、言外に不快感をにじませて、関心を持つこと自体を拒むような手紙を下さった人もいます。
 しかし中には、事態を大変に心配され、そして私が住所未詳としておいた評議員の方のお住まいやお勤め先を、「自分の分かる範囲で」とお教えくださった方もいらっしゃいます。それに勇気づけられて、先生にもお送りさせていただくことに致しました。どうか事情をお察しの上、突然の押しつけがましい行為をご海容下さいますようお願い申上げます。

 何分にも資料が4種類もあり、参考資料①から読み始めるのに躊躇いを覚える方もいらっしゃるかと存じます。先ず参考資料③の「面談記録」を読み、次に、一番新しい「パワー・ハラスメントと不当解雇問題の中間報告」の中の「「館長 毛利正彦」の名による回答と、それに対する疑問と批判」をお読み下されば、事態の概要と問題点がお分かりいただけることと存じます。
 せめてその2部だけでもお眼通しいただきたく、その上で、現在、北海道文学館のなかで何が起っているか、引き続きご関心をお持ちいただけるならば、幸いこれに過ぎるものはありません。
                                     敬具

平成19年1月11日
 

 

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