事件番号 平成19年(ワ)第3595号
損害賠償等請求事件
原告 亀井 志乃
被告 寺嶋 弘道
準備書面(Ⅱ)―2
(乙1号証 寺嶋弘道「陳述書」への反論)
平成20年5月14日
札幌地方裁判所民事第1部3係 御中
原告 亀井志乃 印
はじめに
本訴訟における原告は、平成18年度に民間の財団法人北海道文学館に嘱託職員として働いていた民間人であり、被告は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員であって、訴訟の焦点は公務員である被告が民間人である原告に対して繰り返し人格権侵害の違法行為を働いたことにあります。故に私は「訴状」においても「準備書面」においても、被告が原告に働いた人格権侵害の行為事実の確定と、その行為の違法性の指摘に集中してきました。その間私は、被告の人格を論じ、被告の人間性を批判し非難する表現は謹んできました。それが訴訟におけるルールだと考えたからです。
しかるに、去る4月16日の法廷において渡された被告の「陳述書」は本訴訟の基本的な争点には一切言及せず、いわば故意に無視する形で、問題を上司と部下との関係にすり替え、その記述は原告の業務態度や遂行能力及び原告に人格に関する中傷に終始していました。しかもその内容たるや、虚偽や事実の歪曲、根拠なき断定に満ちています。
被告のこのような書き方が、本訴訟事件の争点を明確にする上で果たしてどれだけ有効であるか、極めで疑わしい。とは言え、被告の意図は明らかに原告に関するネガティヴな印象を裁判官に与えることにあり、原告としてはとうてい看過し得ないところです。のみならず、被告の「陳述書」に書き込まれた原告に関する数々の中傷的言辞は、裁判の過程で行われた新たな人格権侵害行為であり、原告にはこれを告訴する権利があると考えます。
よって、私は本「準備書面(Ⅱ)-2」を、Ⅰ、被告の「陳述書」における虚偽、事実の歪曲、根拠なき断定等とそれに対する反論、Ⅱ、被告の「陳述書」において新たに行われた原告に対する人格権の侵害の指摘、の順で記述し、Ⅲ、結び、として人格権の侵害に対する原告の態度を述べることに致します。
Ⅰ、被告の「陳述書」における虚偽、事実の歪曲、根拠なき断定等とそれに対する反論
まず虚偽の代表的な1例を挙げてみます。
「毛利館長の訓辞に先立つ4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名で、協議内容は平成18年度の学芸部門の事務分掌について意見を交換し、問題点等を整理することでした。2時間を超えたこの会議では一人ひとりの担当業務を確認し、その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。/原告も確認し、組織決定されたこの事務分掌に明記された私の職務の第一は、『学芸部門の統括および業務課との調整』です。」(2ページ、29~36行目。/は改行)
この記述には明らかな間違いが少なくとも2つ含まれています。第一に、私は4月13日(木)には文学館に出勤していません。当日は私の非出勤日だったからです。それ故「出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名」ということはありえないことです(甲56号証「平成18年度職員勤務割振」)。
第二に、仮に4月13日に、私を含まない、「学芸部門の職員による打合会」が開かれたとしても、その結果「平成18年度学芸業務の事務分掌」が決まったということもありえないことです。なぜなら、平成18年4月1日は土曜日、2日は日曜日でしたが、文学館は開館し、業務を行っていたからです。川崎業務課長や永野主査、被告の着任式は4月4日(火)に行われましたが、4月1日も2日も開館する以上、誰がどの事務分掌につくか、分担が決まっていないはずがありません。被告の「陳述書」によれば、4月13日の打合会で事務分掌を決定し、4月1日に遡って施行したことになっていますが、では、4月1日から4月13日まで、誰がどういう事務分掌で業務を行っていたのか。実際に公共の博物館業務に従事してきた人間ならば、新年度が始まって2週間近くも事務分掌が決まっていないなどということはあり得ないし、あってはならないことである程度のことは十分に承知しているはずです。被告が「陳述書」で述べたことは全くナンセンスというほかはありません。
事実を言えば、4月1日の時点で既に事務分掌が決まっていました。平成18年4月1日からの分掌をどうするか。この問題については、平成17年12月27日(火)に「課内打ち合わせ」の会議が開かれ、もちろん私も出席していましたが、その時「2006年度学芸課事務分掌(案)」が議題となりました(甲59号証)。この「案」と「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)とは表の形式が違いますが、前者が後者の原型だったことは一見して明らかでしょう。一つの違いは、「案」の段階では、かなり年配の学芸課長が着任するという情報があり、それを前提として事務分掌が図られたことです。その時点では、新たに着任する年長の学芸課長に全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役をやっていただくことが前提となっていました。その後、3月に入ってから、新たに着任するのは年長の学芸課長ではなく、道職員の寺嶋学芸主幹であることが分かり、12月27日の「案」の議論を踏まえた、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(甲60号証。日付なしの分掌表)が作成されました。3月末までに職員に配布されていたのはこの表です。4月1日からの開館に支障が生じなかったのは、この分掌表があったからにほかなりません。
この表の第1項は、「学芸部門の統括及び業務課との調整に関すること」とあり、主担当は寺嶋、副担当は鈴木となっていました。つまり、被告が着任する以前の、3月中に合意された分掌表におけるこの文言は、先ほどの経緯から分かるように、「学芸関係の職員の全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役」というほどの意味だったわけです。
被告の「陳述書」によれば、4月13日に「学芸部門の職員による打合会」を開き、――ただし私は出席していません――「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)を作ったことになっています。4月1日の日付がはいったこの分掌表と、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(甲60号証)を較べてみれば分かるように、前者は後者を微修正したにすぎません。その程度のことにもかかわらず、なぜ被告はわざわざ「学芸部門の職員による打合会」を開いたことにしなければならなかったのか。しかも、なぜ微修正した分掌表に平成18年4月1日の日付を入れ、「その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」と言わねばならなかったのか。まことに不思議なことです。
そもそも事務分掌に定められた業務を過去に遡って施行するとは、一体どういうことでしょうか。事務分掌に定められた業務を過去に遡ることは、新たに制定された法律を過去に遡って適用することとは、事柄の本質が異なります。思うに被告は、この「平成18年度学芸業務の事務分掌」を、自分が会議に加わり、自分の意思が反映した取り決めとして仮構したかったのでしょう。そのためには、決定年月日を平成18年4月13日にするわけにはいかない。もし誰かが、では4月1日から13日まではどのように運営していたのかと質問したりすれば、たちまち返答に困ってしまうからです。その質問を躱すために、「その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」という奇妙な理屈をつけたのでしょうが、この一事をもってしても被告の作為は明白になってしまいました。
さらに加えて言えば、道立文学館及び財団法人北海道文学館は、年度途中に決まったことを、年度当初から決まっていたかのように日付を入れる公文書を作文する傾向がある。これも一種の公文書偽造だと思いますが、ともあれこの組織の公文書は用心して取り扱う必要があります。今回の場合は、年度当初に決まっていたことを年度途中で修正し、しかもそれ(修正されたもの)が年度当初から実施されてきたかのように取り繕う。これもまた公文書偽造の一種ではないかと思います。
1)「1 職場での私の立場と原告との関係」について
以上のことを確認し、改めて「陳述書」の順序に従って、問題点を検討することに致します。
なお以下の記述において、1)、2)……の小見出しは、被告の「陳述書」の小見出しに準じました。また、被告「陳述書」からの引用文は青文字を用いて、その頭に①、②等の番号を付し、それに対する原告の疑問・反論・批判は黒字で記述するという方法を取っています。
①指揮命令をどうするか、連携・協働をどう進めるかについては、毛利正彦館長(当時)とも4月当初から数度にわたって協議を行い、4月18日(火)、毛利館長、安藤孝次郎副館長(当時)、平原一良学芸副館長(当時)、川崎信雄業務課長に私を加えた幹部間の打ち合わせで、前年度まで置かれていた学芸課の体制と同様、駐在職員3名と指定管理者である財団の業務課学芸班の学芸職員2名とで改めて学芸班を編成し、私がその統括の任にあたるということで組織体制については最終的な整理がなされました。」(2ページ、3~9行目)
被告は「財団法人北海道文学館事務局等規定の運用について」(乙2号証)が作られた経緯をこのように説明していますが、この箇所でまず確認しておかなければならないことは、4月18日(火)に開かれたという「幹部間の打ち合わせ」に神谷忠孝理事長が参加していないことです。
「同日夕刻の全体職員会議において、毛利館長から原告を含む全職員に対して当該年度の運営方針について所信の表明があり、その際、学芸班の新体制についても告知がなされ、職員全員で指定管理者制度導入の初年度を乗り切ってほしい旨の訓辞があったものです。」(2ページ13~16行目)
4月18日当日の「幹部間の打ち合わせ」から「全職員に対しての告知」までの間、どの程度の時間の開きがあったか不明ですが、少なくとも理事長も理事会もまったく関与していなかったことは明らかです。従って上記「打ち合わせ」によって作文された「財団法人北海道文学館事務局等規定の運用について」は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」(乙2号証「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」に含まれる)の第6条「この規程の改正は、理事会で決定しなければならない」及び第7条「この規程に定めるもののほか、事務局その他の組織に関し必要な事項は、理事長が定める」の、どちらの要件も満たしていません。
また、上記「幹部間の打ち合わせ」の内容は、この日以降に行われた平成18年度の理事会(第1回・平成18年5月30日、第2回・平成19年3月23日)のいずれにおいても議題にのぼったことがない(甲61号証の1・2)。つまり、事後的にも、正式には承認されていなかったことになります。
「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」が形式的にも内容的にも手続き的にも何ら合理性がないことは、すでに「準備書面(Ⅱ)-1」で詳述しましたので、ここでは最小限必要なことの指摘に止めておきますが、「規程の定めにかかわらず」の「かかわらず」の意味が、「規程の定めを無視する」であるにせよ、また「規程の定めを廃止する」であるにせよ、また「規程の定めを停止する」であるにせよ、「規程の定めを棚上げする」であるにせよ、「規程の定めと無関係に」であるにせよ、いずれにしてもこの言葉は明らかに現行の規程の否定または拒否を意味している。おそらくそのために、毛利館長以下の幹部職員はこの「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」を神谷理事長抜きで作文し、理事会に諮ることを避けたのでしょう。しかし以上の理由から判断して、上記「幹部間の打ち合わせ」の内容は、正式な決定事項としては認められず、その効力を持たないことは明らかです。
たぶん被告は、この「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」における「業務課、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言と、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)の「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」とを自分の都合がいいように解釈して、自分を「原告の事実上の上司」と主張し、「原告を監督する立場」、「実質的な指導監督者であった私」と自己規定したのでしょう。しかし「財団法人北海道文学館事務局組織規定の運用について」が手続き的にも内容的にも違法なものであり、「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」は全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役という意味以上でもなければ、それ以外でもない。そういう経緯に照らしてみれば明らかなように、被告の主張と自己規定は何ら合理的な根拠を持たず、違法なものでしかありません。
2)「2 原告の担当業務とその実態」について
①「一方、原告の業務は、関係部分を抜粋すると次の10項目となります。
(1)定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管 (副担当)
(2)常設展示の企画調整、展示更新 (副担当)
(3)特別企画展「石川啄木」の企画、実施 (副担当)
(4)ファミリー文学館「関屋敏隆絵本原画展」の企画、実施 (副担当)
(5)企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の企画、実施 (主担当)
(6)収蔵資料目録、調査研究報告書の編集、発行 (主担当)
(7)館報および展覧会に関わる目録、図録、広報印刷物の編集、発行 (各事業担当)
(8)文学資料の解読、翻刻 (主担当)
(9)文学および文学資料に関する専門的、技術的な調査研究 (全員)
(10)文学資料の保管、展示等に関する技術的研究 (全員)」
(2ページ39行目~3ページ9行目)
被告は、平成18年度における原告の事務分掌を上のように整理しています。確かに「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)に拠る限りで言えば、平成18年度当初の学芸業務における原告の担当項目はここに挙げられた10項目でした(甲3号証による)。
しかし、それはあくまでも「事務分掌」表における担当項目にすぎず、被告は故意に原告の業務範囲を矮小化していると言わざるをえません。
私の記録によれば、被告が「学芸部門の職員による打合会がもたれた」という4月13日の翌日、すなわち4月14日(金)10時30分頃に、私は被告と平原一良副館長(当時)の2人に会議室に呼び出され、「前日、課内での話し合いがあったので、今日はその『おさらい』として原告に伝える」と言われて、――このことをもってしても、私が4月13日の打合会に出席していたという被告の主張が虚偽であったことは明らかです――「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」(甲60号証 番号4:主担当・A学芸員 副担当・O司書)も原告が手伝うようにとの依頼を受けました(甲62号証)。この事により、私は、この年度当初の予定になかった、新刊図書の収集・整理・保管というO司書とA学芸員の毎日のルーティンワークの一部を肩代わり(具体的には寄贈雑誌のデータベース登録作業)することになりました。こうした変更の結果が反映されているのが、甲3号証の「平成18年度 学芸業務の事務分掌」における「収集・保管」の分野です。ここでは項目が4つから6つに増やされ(甲60号証参照)、「番号8:定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」の担当に原告が新たに付け加えられています(主担当・A学芸員 副担当・原告)。さらにまた、こうした変更の絡みで、原告は結果的に、閲覧室における来客対応をA学芸員・O司書との3交代で手伝うこととなりました。
もしこの業務が新たにつけ加わっていなければ、10月28日、被告が閲覧室勤務に就いている原告のところに来て、フォト・コンテスト問題を云々する場面は起こらなかったはずです。
②「今般の訴状において、原告が自分の業務成果として期している第(5)項目の企画展「人生を奏でる二組のデュオ展」(以下、「二組のデュオ展」はそのうちの一業務にすぎず、担当者として取り組まなければならない主担当業務だけを取り上げても、第(6)項の収蔵目録・報告書の発行、および第(8)項の文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、平成19年3月に当館を退職しているというのが実情です。」(3ページ15~20行目)
これは私の業務を矮小化しただけでなく、事実を歪曲してなされた名誉毀損というほかはありません。それ故私は、自分の名誉のために次の事実を挙げておき、被告が証人台に立った時には、被告は如何なる根拠をもって「確たる成果や業績報告のないまま」、「資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打ち合わせることなく」と断定したのか、しっかりと質問したいと考えています。
a) まず「文学資料の解読・翻刻」について言えば、当該年度(平成18年度)における原告の「文学資料の解読・翻刻」に関して最大の業績と言えるものは「人生を奏でる二組のデュオ展」で展示した肉筆資料の解読・翻刻であり、それは同展の図録(甲63号証)にも再録してあります。この展覧会では17点の書簡資料を公開しましたが、そのうち、H氏より借用した木田金次郎関係書簡9点中6点と、K氏より借用した里見弴の中戸川吉二宛書簡4点はこれまで未発表の資料であり、私が全文解読の作業を行いました。また、木田金次郎関係書簡の残り3点もこれまで部分的にしか紹介されておらず、私が全文を解読して紹介しました。さらに、北海道立文学館所蔵の有島武郎書簡3点のうち1点も、全集未収録で解読はなされておらず、今回はじめて、その翻刻が私によってなされたことになります。
この作業には、日常業務の合間をぬっての不断の努力が伴っており、しかもその結果は、展覧会と図録を通じて世に公表されています。それと共に、この図録は、刊行された平成19年(2007)2月17日(展覧会オープンの当日)に、私が文学館職員の全員に配布しました。
被告が平成18年度に手がけた展覧会事業は、既にフレームに入った状態にまで仕上げられた作品や、日本近代文学館がレンタル用にセット化したものを借りてきて、展示室に配置するだけの作業で済みました。図録の場合も、セット化された資料の画像を配列するだけであり、「池澤夏樹展」に至っては『koyote』という市販雑誌の池澤夏樹特集号をまとめて購入し、それを図録と称する誤魔化しをやっていました。それに対して、私が主担当として手がけた「二組のデュオ展」は新たに発掘した資料とその翻刻が、展示及び図録の半ばを占めています。身内の文学者や知人の文学者の書簡を大切に私蔵している個人から安心してこちらに貸していただくには、どれほど誠意を尽くさなければならないか。親しい文学者や肉親に送った手紙の、ほとんど暗号化した略字体を解読し、翻字をするのは、どれほど集中力と根気が必要か。被告は多分、想像したこともなければ、理解する気持ちもなかったのでしょう。
私はそのようにして行った資料研究の成果を、展覧会と図録という形で結実させました。被告は単に形式的な事業報告がなされたかったことをあげつらって、「確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え」と私の仕事を無視した言い方をしていますが、私が勤務していた2年半の間、「二組のデュオ展」のような文学館独自の企画展が行われた場合、特に改めて報告会などはなされず、しかも担当者の努力や業績は、展示内容や図録によって他の職員に充分に認知されていました。
b) 被告は自分が出すべき図録を市販雑誌でお茶をに濁してしまった。その引け目のため、「二組のデュオ展」の図録を開いてみる勇気がなかったのかもしれません。回覧された成果に目を通すこともできなかったようです。私は「二組のデュオ展」の図録(甲63号証)のために、「知られざる有島からの自立の物語―早川三代治宛書簡に見られる木田金次郎の芸術志向―」と、「釧路の作家・中戸川吉二」という2本の小論文を書き下ろしています。このうち、「釧路の作家・中戸川吉二」の方は、平成19年(2007)1月6日に釧路新聞社から原稿依頼を受け、平原副館長の了承を得た上で、同年2月5日・2月12日・2月19日の3回にわたって釧路新聞紙上に発表しました。私はその紙面を職場において回覧しましたし、「二組のデュオ展」が終わったあとはコピーして報告書に入れ、その報告書もまた全職員の回覧に供しました。そして原告の退職後、川崎業務課長がその報告書をとりまとめて、北海道教育委員会にも提出しています。(甲64号証)
このように、解読・翻刻作業を含めた資料研究は成果も多岐にわたり、発表・公表の形態も様々だったわけですが、私はそれらを秘密裡に行っていたわけではない。オファーがあればその時点で平原副館長の了承をとり、結果はすべて回覧している。回覧した資料が文学館に残っているからこそ、道教委に報告もされているわけです。
それにもかかわらず被告は、私の業務に関して「確たる成果や業務報告のないまま」と決めつけている。被告は私の業務に極度に無関心であるか、あるいは故意に無視(ネグレクト)しているか、いずれにせよこの決めつけ方は、私に対する名誉毀損というほかはありません。
おまけに被告は、「まず第一に第(8)項の文学資料の解読・翻刻が一つとしてなされていませんでした。」と事実無根のことを言挙げして、そこからいきなり「文学館業務に対する原告の姿勢、なかんずく組織への貢献心を疑わざるをえません」(乙1号証3ページ25~26行目)という極論を引き出してくる。この強引な理屈は、他人の実績には目もくれず、組織に対する忠誠心や貢献度だけを勤務評定的にチェックする、いかにも中間管理職的な論理というほかはありませんが、被告が好んで振り回す「組織」論や「組織人」の正体がこれであること、それをしっかりと認識しておきたいと思います。
ちなみに、北海道立文学館指定管理者・財団法人北海道文学館が道に提出した平成18年度の『業務報告書』には、被告が主担当だった「池澤夏樹展」の「実施報告書」が入っていません。何故でしょうか。
c) 以上に挙げたもののほか、私の作業がすでに完了しているにもかかわらず、平成18年度での発表の機会が失われた業績の一つに、「与謝野晶子百首屏風」の解読・翻刻があります。
「与謝野晶子百首屏風」とは、平出修(作家・弁護士。大逆事件で幸徳秋水の弁護を引き受けた)の後輩にあたる人物が、平出の所持していた屏風を買い取り、それを北海道立文学館に寄託したものです(甲65号証の1)。文学館は、平成17年(2005)11月2日に開催された開館10周年記念行事の一環としてその屏風を常設展示室において一般公開し、その後、同年12月17日に同館研修室(1階和室)に一時的に収納していました。
屏風はそれまで未公表・未公開のものであり、晶子の直筆で103首の短歌が散らし書きされています。だがその筆字は、所持者によっても、文学館の職員によっても、未だ解読されていませんでした。
平原学芸副館長(当時)は、「屏風はいったん展示から引き下げるが、寄託して下さった方のご厚意に応えるためにも、字はきちんと解読し、その上で改めて展示し直さなければならない」と言い、同年12月、私にその解読・翻刻作業を依頼しました。私はデジタルカメラでその全表面を撮影し(甲65号証の2)、外勤で藤女子大学図書館に通い、しばしば現物の屏風そのものも参照しながら、約3ヶ月かけて103首の与謝野晶子短歌すべてを解読しました(甲65号証の3)。あとは、その研究内容の発表をどのような形で行うかを決定するだけというところにまで、作業は進めておきました。
平成18年(2008)4月1日(土)、私は、A学芸員と共に、文学館に顔を出した被告を案内して館内を一巡しました。(私は、この日、被告が道立文学館に出勤したことを認めるが、しかし、この日は被告の「着任日」ではなかった。その理由は、被告側「準備書面(2)」に対する原告の「準備書面(Ⅱ)-1」及び甲37号証の1・2・3参照。)この時、私は被告を研修室にも案内し、「与謝野晶子百首屏風」について説明して、これから再公開する必要がある旨を被告に告げておきました。また、この当日もしくは4月4日(火)の着任式があった前後に、私は事務室において、平原学芸副館長(当時)に作業の進捗状態を説明し、屏風の小冊子(パンフレット)案を記した書類(甲65号証の1)を学芸副館長に渡しました。その時、被告も平原学芸副館長のそばにいて、私と学芸副館長とのやりとりを聞いていたはずです。
ところが、「与謝野晶子百首屏風」の件は、その後、平原学芸副館長(6月からは副館長)と被告とによって完全に無視された形となり、そして屏風自体、いつしか、私には一言の連絡もなく、梱包されて収蔵庫にしまい込まれてしまいました。このことは、私がいま急に言い出したことではありません。雇い止めの問題が起こった時のアピール文で既に言及をしています(甲50号証4ページ)。
このように他人の業績を無視し、成果を隠してしまう。これが大学ならば、間違いなくアカデミック・ハラスメントとして問題にされるところでしょう。被告や平原副館長が行ったことは、今後はミュージアム・ハラスメントと呼ばれるようになるかもしれません。
さて、次は被告が無断で「石川啄木展」に介入した、業務妨害の件ですが、被告はこんなふうに自己弁明にこれ努めています。
③「原告が今になって主張している第(3)項の特別企画展「石川啄木」(以下、「石川啄木展」)の業務内容についても、主担当のS社会教育主事(駐在職員)によってほぼすべての準備が着実に進められていたため、平原副館長の指示により作業量の多い資料の返却業務について私と原告が応援に入り、主担当を含めた3人で出張作業を分担したものです。」(3ページ28~32行目)
被告は、何かにつけて「平原学芸副館長(当時)と相談して」、「平原副館長の依頼で」と、平原副館長の名前を出してきますが、「平原副館長の指示により作業量の多い資料の借用返却業務に私と原告が応援に入り」という、その「指示」は何日頃に出たのでしょうか。この書き方から判断する限り、平原副館長の「指示」が出たのは7月に入る前後のことのように思えます。なぜなら私は、主担当のS社会教育主事から、「自分と被告は東京の日本近代文学館まで資料を借用に出かけるため、釧路へ行ってくる余裕がない。釧路のKさんのところまで「金田一京助筆の色紙」を借りに行って欲しい」という意味の依頼を受け、7月11日(火)に釧路まで日帰りで出張しているからです(甲45号証参照)。被告とS社会教育主事が東京へ出かけたのも同じころだったと言えるでしょう。(「啄木展」のオープニングは7月22日(土))。
ところが被告は、すでに5月12日(金)の時点で、私とA学芸員を事務室に呼び、「「啄木展」のところで予算を大幅に超過している。あとどれだけ予算を使えるか、急遽、「二組のデュオ展」の支出予定を教えてくれ」という意味のことを頼んでいます(原告の「準備書面」)。このことから判断するに、被告はもう既に5月12日以前に、平原学芸副館長(副館長に昇進するのは6月)から「啄木展」にかかわるよう「指示」を受けていたことになります。もしそうでないならば、被告は独断で「啄木展」に手を出したことになるわけです。いずれにせよ、被告が5月上旬の時点で「石川啄木展」にかかわっていたことは間違いありません。
私が「石川啄木展」にかかわることができたのは、7月11日、釧路のK氏が所持する「金田一京助筆の色紙、12枚」(ただしケース入・1セット)を借りに行き、9月1日に返却に行ったことだけでした。被告は資料の借用と返却の時だけ「啄木展」にかかわり、あたかも、作業を公平に分担したような書き方をしていますが、実情は全く異なっていました(甲66号証。啄木図録、P63)。
被告は先の文章に続けて、「したがって、私も原告と同様な範囲で業務参加したのみであり、「展示資料の借用、図録作成、展示設営のコンセプト作り、ポスター作成など主要な業務を、原告をまったく無視する形で進めてしまった」というのは、まったく独りよがりな、自分自身の関心事だけを副担当業務として主張しているにすぎません。実際、1年半前の当時の原告からそうした積極的な申し出や要望が私や他の職員に寄せられたことはなく、職を離れた今になって当然のように主張しているのは、業務意欲の存在を正当化するまやかしにすぎません。」(3ページ。42~48行目)と言っていますが、全くナンセンスというほかはありません。なぜなら、「展示資料の借用、図録作成、展示設営のコンセプト作り、ポスター作成」は主担当、副担当を問わず、展覧会担当者の最大の関心事であって、私個人の「独りよがりな、自分自身の関心事」ではないからです。また私は、これらの仕事は副担当の業務だとは一言も主張していません。被告の歪曲です。
被告は同じくこの箇所で、「実際、1年半前の当時の原告からそうした積極的な申し出や要望が私や他の職員に寄せられたことはなく、」と開き直った言い方をしていますが、私は、「啄木展」オープンのまだ2ヶ月以上も前に、主担当でもなければ副担当でもない被告から、いきなり「啄木展のところで予算(啄木展の当初予算は370万円強)を大幅に超過してしいる」と切り出され、平然と横車を押し通そうとする被告の態度と、話の内容に二の句がつげませんでした。被告は職員に対してだけでなく、学芸員実習の学生にも、誰彼かまわず「ホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)」を説いてまわっていましたが、被告が実践する「ホウレンソウ」とは、こういうことだったのかもしれません。それだけでなく、被告が予算の超過支出を切り出した5月12日の3日前、5月9日に私は、小樽の啄木忌の講演会を聞くために早退したいと申し出ましたが、ただそれだけのために、5月10日、被告から執拗にトリビアルな質問を受けていました。こういうことが立て続けに起こっている状況のなかで、私にどういう言い方が可能だったでしょうか。被告は自分の態度を棚に上げて、私の側に非があったかのように言っていますが、これも事実の歪曲と言うしかありません。
なお、結びの「職を離れた今になって当然のように主張しているのは、業務意欲の存在を正当化するまやかしにすぎません。」という言い方は、どう理解していいのか。解釈に苦しみます。正当な業務意欲を持っていたことを正当に主張することは、「まやかし」なのでしょうか。
④「逆に、副担当業務であり、かつ業務命令を受けながら結果的に着手せず済ませてしまった仕事が、「訊ねてみたい北海道の文学碑」と題された「文学碑データベース」の更新作業です。このデータベースは検索用の端末機を、前年度から常設展示室入り口ロビーに、7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に配備して入館者が自由にデータ閲覧できるようにしている映像展示資料の一つです。」(3ページ39行目~4ページ3行目)
文学碑データベースの検索機の問題については、被告は何か特別にこだわる理由を持っていたらしく、このようにこだわったいたわけですが、まず明白な間違いを一つ指摘しておきます。先ほども述べましたように、私はS社会教育指導主事の依頼で、7月11日には、釧路のK氏のところへ資料を借りに出かけていました(甲67号証)。私は予め「出張用務願」(甲45号証)を業務課に提出しており、7月11日当日は、その予定通り自宅から釧路に直行し、ほぼ一日を出張業務に費やしています。借用してきた資料を納めておくために、当日午後8時30分過ぎに文学館に立ち寄りましたが、その時は被告には会っていません。被告が言うような、「7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に配備して」ということはあり得なかったわけです。
もっとも、被告は原告の要望があったのは7月11日以前のことだ、と主張するかもしれません。もしそうならば、被告は、何日に、どのような理由で、私が検索機を常設展示室内に移すように要望したのか、証拠に基づいて証明する必要があります。
念のため検索機が設置された経緯を簡単に説明しておきますと、平成17年11月2日に北海道文学館の開館10周年と記念行事と常設展リニューアルが行われましたが、それに先立ち、リニューアルの一環として北海道内の文学碑のデータベースを作ることになり、平原学芸副館長の依頼で、私が作成に取りかかることになりました。データの収集に関しては、従来の北海道文学ガイドブックや北海道文学史を参考にするだけでなく、神谷理事長の名前で道内の各市町村に協力を依頼し(乙8号証)、私自身もカメラを持って文学碑の写真を撮りに出かけました。こうして750点近い文学碑のデータが集まり、検索機に入力して、11月2日には来館者に披露し、また、北海道立文学館と財団法人北海道文学館の共編『ガイド 北海道の文学』(平成17年11月2日)に、「データベース 北海道の文学碑」として載せました(甲68号証)。これによって、私の文学碑データベース作成の作業は完了したことになり、その後は、各市町村から新たな情報が入った場合、私が更新をするという申し合わせになっていました。これは10月28日の事柄に関係するわけですが、平成18年度にも引き続き私が文学碑データベース充実の作業に従事するという意味の「業務命令」は出ていません。被告の作文です。もし被告が「神谷忠孝財団理事長や毛利館長にも原告が担当しての更新業務の着手を報告済みでしたし」(乙第1号証4ページ13~14行目)と主張するのであれば、誰が、いつ理事長や館長にその事について報告したのか、具体的に証拠を挙げつつ立証しなければなりません。被告は先に引用した文章の次の段落で、「しかしながら、このデータベースの更新作業は、その後半年のあいだ私や他の職員に対して相談や報告がなかったのはもちろん、何らの立案や検討が行われることもなく、私が進捗状況を原告に確認した10月28日(土)の時点において、今般の訴状に原告が自記しているとおり「いいえ、特に何もやってませんでした」という状況にあったのです。」(4ページ、9~13行目)と、鬼の首でも取ったかのごとく、得々と書いています。しかし、原告の「訴状」には、「文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、原告は更新を行っていなかった。原告は「いいえ、特に何もやっていませんでした」と答えた。」と書いています。被告は検索機に関する申し合わせや、「訴状」の文脈を踏まえず、むしろ故意に無視して、極めて作為的な書き方をしていると言わざるをえません。
このことを確認して、検索機の位置問題にもどりますと、開館10周年記念行事に合わせて、平原学芸副館長は業者に頼んで、検索機を常設展示室の奥に設置しました。併せて、平原学芸副館長は常設展示室の入口を入ったすぐのところに読書コーナーを設けて、文学書を置き、常設展に入ったお客さんが自由に読めるようにしました。これは必ずしも悪い試みではなかったと思いますが、間もなくして、受付の女性から、「これでは困る」という意見が出されました。というのは、常設展示の入口を入ったところに置いてある本を読んだ来館者が、そのまま観覧料を払わずに展示を見て周り、帰りしなにも受付に観覧料を払わない可能性が考えられ、これにどう対処するかという問題が出てきたからです。その意見については、H学芸課長と学芸課職員が協議した結果、検索機と読書コーナーを常設展示室内からロビーに移すことにしました。
検索機の位置について、私が知っているのはここまでです。その検索機が何日に常設展示室に移し変えられたか、その事情は全く知りません。ただ、少なくとも「7月11日(火)からは原告の要望を受けて常設展示室内に配備して」ということはあり得ないことは、先ほど紹介した私の行動からも明らかでしょう。なお、参考までに、この日の直前の私の動きを紹介しますと、7月8日(土)の午後からは外勤のため三岸好太郎美術館に行き、その後は館にもどらず直帰しています(甲46号証 原告手帖)。9日(日)は非勤務日、10日(月)は休館日のため連休でした(甲56号証参照)。したがって、7月11日直前の私の何らかの言動を、被告が、私の端末機に関する要望と聞き間違った(そして、日にちを記憶違いした)という可能性はほとんどない。そう言うことができます。
そして最後に、「このデータベースは検索用の端末機を、前年度から常設展示室入り口ロビーに、7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に配備して入館者が自由にデータ閲覧できるようにしている映像展示資料の一つです。」という被告の文章は、一体どういう構文なのか、大変に分かりにくい。「前年度から常設展示室入り口ロビーに」という文言は、どこにつながるのか。これは、「7月11日(火)からは原告の要望を受け常設展示室内に」を飛び越えて、「配備して」とつながるのでしょうか。そうすると「入館者が自由にデータ閲覧できるようにしている」という文言は、「前年度から常設展示室入り口ロビーに、……配備して」を受けることになるのか、それとも「原告の要望を受け常設展示室内に配備して」を受けているのか、何だか大変ややこしい。被告が証人台に立った折には、念のため聞いてみたいところです。
ただ、現実問題として言えば、「常設展示室内入り口ロビー、……に配備して」であるほうが、来館者には便利なように思われます。
3)「3 学芸業務に対する原告の経験」について
①「前年度までの業務は、収蔵資料の解読翻刻、収蔵資料の整理登録作業、常設展の更新、文学碑データベースの作成などであり、整理業務、研究業務が中心でした。すなわち、業務上取り扱う資料のほとんどは当館の所蔵資料であり、その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分であったということです。」(4ページ33~36行目)
被告は自分が直接に見聞きしたはずがない、私の過去の業務に関して、事実に反することを、このように極めて断定的に書いています。
前年度まで(平成16年7月16日から平成18年3月31日まで)の私の業務はほとんど事務室内、および隣接する資料整理室(この2つの部屋の間に隔壁はない)で行われており、被告の陳述は全く事実に反しています。
被告は平成18年(2006)年4月14日(金)に、自分と平原学芸副館長(当時)が私に出した依頼によって、はじめて私が勤務場所を閲覧室と収蔵庫に移さざるを得なかった事実を、ここで故意に歪曲している。「新刊図書の収集、整理、保管の業務を日常的に手伝ってくれ」という依頼があったたからこそ、私は、登録雑誌を持って始終収蔵庫に出入りしなければならなくなったわけです。また、閲覧室における来客対応にあたることになったからこそ、1日中閲覧室で過ごすという状況も珍しくなくなったのです。そのような依頼を受ける以前は、資料の整理登録やデータベース作成も事務室の自席にあるパソコンで行えば済んだのであり、私は他の学芸職員や事務職員と変わらず、同じ場所で、共に勤務時間を過ごしていました。
被告は、そのような前年度までの状況を知り得ないはずにもかかわらず、きわめて断定的にこの箇所を記述している。被告があくまでこの点を主張するならば、そのような原告の勤務状況をどのように知ったのか、その証拠を明示しなければなりません。
②「18年度に担当した『二組のデュオ展』などの展覧会事業の実務経験はまったくなく」(4ページ38~39行目)
被告はさらに、原告の過去の業務について嘘を重ねています。
私は平成17年(2005)2月に開催された企画展「北の風土の批評精神 発生と展開~風巻景次郎から小笠原克へ~」(2月26日~3月27日)において、展示担当だったO学芸員(当時)の依頼により、展示資料の翻刻・データ入力及び展示作業のアシスタントを行っています(甲69号証 図録『北の風土の批評精神』)。この展覧会の担当は、本来は平原一良学芸副館長(当時)とO学芸員でしたが、平原学芸副館長が主に図録の構成や印刷所との交渉を担当していたため、資料翻刻等の下準備や現場での展示作業は、すべてO学芸員と原告とが協力して行いました。
私はこの年度(平成16年度)の7月から文学館勤務を始めたため、展示事業のいわゆる主・副担当としては名前が残っていません。しかし、その業務を証明する一つの証拠として、「平成17年度学芸員資格無試験認定受験者調書」(甲70号証)があります。この学芸員資格申請のため文部科学省に提出した書類には、「北の風土の批評精神」展での原告の担当部分と成果とが明記されていますが、この書類の提出に当たって、提出者の博物館施設における勤務を証明する文書を添付する必要があり、私はそれを北海道立文学館に依頼し、平原学芸副館長(当時)とM業務課長(当時)の2人がこれに目を通し、内容について了承しています。
私はその他にも、平成16年度の企画展「仙花紙からの出発~雑誌にみる「戦後」の姿~」(平成16年12月4日~12月26日 担当はH学芸員(当時))、平成17年度の企画展「現代少年少女詩・童謡詩展」(平成17年4月23日~6月12日 担当はH学芸課長(当時)・S社会教育主事)、ファミリー文学館「春を待つ子どもたち~いわさきちひろ複製画展~」(平成18年2月25日~3月21日 担当はA司書(当時))においても、展示室において展示業務の手伝いをし、各担当者から実務や展示技術について詳細に教わりました。「北の風土の批評精神展」をも含むこれらの経験は、原告自身が展覧会を担当する上で、非常に役立っています。
多分被告は、道立文学館の刊行物や公式記録の類を手に取ることなく、ただ自分の思い込みだけで、私を貶めたい衝動に駆られて書いていたのでしょう。その結果、被告は、平成17年度が道立文学館にとってどういう年であったかを見落としてしまったようです。この年は、道立文学館の開館10周年に当たり、常設展示の全面的なリニューアルを行うことになりました。リニューアルの主担当は平原学芸副館長であり、私が副担当でした。11月2日のリニューアル・オープン直前、職員全員がどんなに忙しい思いをしたか、その時の平原学芸副館長の仕事ぶりはどうであったかについては、平原副館長の「陳述書」に対する私の反論「準備書面(Ⅱ)-3」で詳細に書いておきましたので、ここでは繰り返しません。ただ、勤務時間の3分の1も文学館内にいたことがない平原学芸副館長に代わって、私は他の職員と協力して、何とか11月2日にリニューアル・オープンに間に合うように努力し、そのためには非出勤日を返上し、夜も9時まで残って作業を続けたこと、これだけは確認させていただきます。
平成17年度に何があったのか、まるで無関心な被告はいとも気軽に、私の業務に関して、先ほどの文章に続けて「その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分で、」と断言していましたが、私は以上の他にも、平成17年度には、H学芸課長(当時)から依頼を受けて、2006年2月15日(水)の1日間、北海道立文学館における学芸員実習のうち「歌田資料の配架準備」についての実習指導を担当しています(甲71号証「2005年度 北海道立文学館学芸員実習について」)。
以上の証拠からもわかるように、原告の業務が「一人で黙々と処理すればよい作業」ばかりであったとか、「展覧会事業の実務経験はまったくなく」という言辞は、事実と完全に相違しています。
この箇所に関しても、被告は、私の前年度までの勤務状況を直接には知り得ないはずにもかかわらず、きわめて断定的に記述している。被告があくまでこの点を主張するというのであれば、私の勤務状況を何によって知ったのか、証拠をあげつつ論証しなければなりません。
被告は以上のごとく虚偽の断定を重ねた挙句、次のように私の事務能力や理解力を貶める言葉を発しています。
③「したがって出張のように渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり、そしてそれらのために内部調整を進めながら事務事業を遂行するということに理解が及んでいなかったのです。」(5ページ1~3行目)
私としては、事実をもってこのような侮蔑的な個人評を覆すしかないわけですが、私は平成17年度末、文学館紀要として位置づけられている刊行物『2006 資料情報と研究』(甲72号証)の編集を担当しました。この時はほぼ私1人で、印刷会社・福島プリントと、仕様・用紙・発行部数等の打合せを行い(甲73号証の1・2)、もちろん経費の事では、福島プリントと同時に業務課とも打合せを行い、必要な書類も作成しています。文学館内部の執筆者、神谷理事長・平原学芸副館長(当時)・H学芸課長(当時)と常に意思疎通をはかると共に、文学館から転出していたA前学芸課長(現・北海道教育委員会生涯学習部文化課主査)とも密接に連絡を取り合い(甲73号証の3)、編集作業を進めました。その傍ら、私自身、論文「共鳴する空間―中戸川吉二と里見弴の北海道/東京―」を書き下ろしました(甲73号証の4)。この紀要は、平成18年3月25日に刊行されたわけですが、それは被告が〈文学館に着任した〉と主張している同年4月1日の、わずか6日前のことであり、被告は当然それを手に取っているはずでず。
④「さらには、そのようにして組織で仕事を進めるという意識も薄かったのではないかと思います。当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても、連帯意識や協調性に乏しく組織社会における適性を欠くものでした。」(5ページ3~6行目)
遂に被告は証拠となる事実を挙げることなく、原告の社会的適性の欠如という名誉毀損の言葉を発するに至ってしまいました。
被告がここで言う「当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても」という言葉は、先ほど引用した「5ページ1~3行目」の文脈を合わせて勘案するに、私が渉外事務や、経費支出を要する事務について未経験であり、「組織で仕事を進める」という経験にもきわめて乏しかった、ということを主張しようとしているのだと思われます。
その主張がいかに事実無根の独断であったかは以上に証明したところですが、被告は自分に立証責任が生ずるだろうことを顧みず、いわば自分の独断に煽られる形で、原告が北海道立文学館に勤務する前の就業経験にまで言及して、原告の「組織社会における適性」の欠格を強調する言葉を吐いています。そうである以上、被告は自分の言葉に責任を持たねばならず、そのためには、以下に挙げる原告の経歴と業務内容とを調査・熟知した上で、被告自身の主張を裏づける証拠を具体的に挙げなければならないでしょう。(参照・甲70号証 履歴書)
a)私は平成元年度および2年度、北海道釧路東高等学校において国語科教諭として勤務しました(平成3年より北海道大学文学部大学院に入学のため退職)。その間、茶道部顧問を務め、部費の会計も担当しています。また平成2年度には進路指導部(分掌)に入り、日常的に学校を訪れる民間企業人事部役員への対応にあたっていました。
b)私は平成9年3月に、北海道大学大学院文学研究で文学博士の学位を取得しました。私自身の専門は日本の近代文学の研究ですが、同年5月、北海道大学大学院文学研究科言語情報学講座の教授に頼まれて講座助手となりました。当時、新たに編成されたばかりの言語情報学講座においては、まだ所属する院生も若く、助手のなり手がいなかったためです。講座助手は将来的には大学や研究所の研究職に就くことが予定されたポストですが、その主な仕事は大学院生や学部学生の共同研究室の管理や、学生・院生の研究の相談と助言、教授や助教授の講義のサポートなどです。その間、講座の会計業務や、文学部会計掛との交渉・折衝を行ってきました。
c)ただし、この助手ポストは翌年の3月一杯で、文部省に返上することになりました。文部省が全国の国立大学に教官ポストの削減を求め、北海道大学としては教授・助教授の数を減らすわけには行かず、助手のポストを犠牲にせざるを得なかったためです。その結果私は言語情報学講座の助手を辞めることになりましたが、北海道大学の配慮で、平成10年度から平成12年度まで、文学部の事務補助員として勤務することになりました(期限は3年)。平成10年度は文学部図書掛に、そして平成11・12年度は文学部北方文化論講座に勤務したわけですが、北方文化論講座でも、この時期助手ポストが文部省に返上されていたため、実質的には原告が事務助手の役割を果たすことになり、職務内容は、言語情報学講座助手の時代とほぼ同様でした。
なお、私が北海道立文学館のボランティアとしてデータベース作成作業に入ったのは、この直後の時期のことです。
d)さらに私は上記事務補助員時代、平成11年度よりほぼ毎年、北海道教育大学釧路校より要請を受け、集中講義の非常勤講師を務めていています。北海道立文学館研究員だった時期には、同校も配慮して私に依頼をして来ませんでしたが、昨年(平成19年)8月には授業が復活し、今年度も継続する予定です。
ちなみに、もし私が言語情報学講座の助手時代に北海道教育大学釧路校から非常勤講師の依頼があったとすれば、私は講座制度上の上司である教授を通して、講師依頼受諾の可否を教授会に諮ってもらったはずです。なぜなら、国立大学の公務員である助手が他大学の講師を兼任することは、教授会の承認なしには許されないことだからです。承認を必要とするのは助手だけでなく、教授も助教授も同様でした。また、大学の勤務時間は午後5時までとなっていましたが、他大学の夜間の講義の非常勤講師となる場合も、同様な許可が必要でした。公務員には職務専念義務があるからです。
しかし、私が助手ではなく、非常勤の事務職員となってからは、以上の手続きは必要ありませんでした。非常勤の事務職員は公務員ではなく、ですから勤務契約時間外の行動に関しては、大学に許可を求める必要がなかったからです。もちろん何日か大学の勤務を休むわけですから、講座の教授や学生たちに事前の了解を取ることにしていましたが、基本的には自分の休暇を取って釧路の大学まで教えに出かけることは、私の自由でした。
この助手の立場と非常勤事務職員の立場の違いは、財団法人北海道文学館における正職員と嘱託職員の違いに極めて近い。このことは、平成18年度の6月一杯まで副館長だったA氏はよく理解してくれていたと思いますが、その後副館長となった平原一良氏と被告は、A氏を通して話をしてもらっても、私が説明しても一向に理解できない。理解できないまま、私の組織に対する帰属意識が希薄であるとか、勤務態度に協調性がないとか、見当違いな人格非難を繰り返しているわけです。
なお、私が大学の助手や事務職員の時代に学んだことの一つに、公務員の倫理規定があります。講座の要請で、外部から第三者評価委員会の委員に来てもらったりする場合、委員に出す食事の経費は千円までと、上限が決まっていました(当時)。それ以上のものを出せば、饗応になってしまいます。被告は日本近代文学館へ資料の借用と返却に出かけ、池澤夏樹氏と札幌や帯広で行動を共にし、いずれに対しても資料のレンタル代や、講師謝金などで、かなり高額の道負担金、あるいは財団の自主財源金を払っています。もし被告がその際、日本近代文学館の理事長・職員や池澤夏樹氏から、万が一にも饗応を受けたり、または財団がその人たちを接待する会食の場に陪席したりすれば、もちろんそれは公務員の倫理規定に違反することになります。私の考えによれば、以上のようなケジメをきちんと守る意識があってこそ、職場の人間同士だけでなく、外部の業者や市民との信頼関係を構築することが可能になるはずです。
e)以上、私は、北海道立文学館に勤務する以前にも、様々な組織の中で、そのセクションの職員と協力・連携し合いながら業務を遂行してきました。経験的にも、単に教育職のみに従事した場合よりは、はるかに外部業者との接触・交渉も多かった。その時々の役割に応じて会計業務を任されていたことは言うまでもありません。
被告は、私に関する「組織社会における適性」の欠格を指摘していますが、そうである以上は、上記の原告の経歴を全て踏まえた上で、私がどの期間、どの職務の時に「連帯意識や協調性に乏しく」、「組織社会における適性を欠」くと見られるような勤務ぶりであったのか、証拠を挙げつつ明らかにしなければなりません。もし被告によって具体的な指摘がなされないのであれば、被告は自分が知り得ない事について、当て推量で原告の人格を誹謗中傷し、裁判という場において、偽証と知りつつ、故意に原告を貶めようとしたことになる。そのことの是非については、被告が証人台に立ったとき、しっかりと確認したいと思います。
⑤「実際、展覧会業務に関する原告の経験のなさは、『二組のデュオ展』の準備業務の遅延や作品借用の際のトラブルとなって露呈してしまいました。原告がホテル宿泊を強いられたと主張しているこの展覧会の展示作業においては、2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの、原告がなすべき展示設計や解説パネルが出来上がっておらず、連日、皆待機を余儀なくされていたというのがその実情でした。」(5ページ20~26行目)
この記述も全く実情に即していません。私はすでに、平成19年(2007)2月8日(木)以前の段階で展示設計を終えていました。――なお、直前に割り込んできた「イーゴリ展」の会期は2月3日(土)~8日(木)。――私は2月8日(木)が非出勤日であり、翌9日には岩内・木田金次郎美術館に絵画の借用に行かなければならなかったため、副担当のA学芸員とFAXで連絡を取り合い、取り急ぎ移動壁の配置と、展示ケースやパネルの配置、挨拶文とコーナーサインの掲示を頼んでいます(甲74号証)。
この頃、キャプションはすでに刷り上がっており、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるまでの段階まで来ていました。解説パネルやコーナーサインの内容も、パソコンへの打ち込みは完了していました。なぜなら原告は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していたからです(甲75号証の1)。そして、展示設計をしながら展示品を絞り込み、解説文を作り、同じキャプションや解説文を図録にも流用しました(甲75号証の2・3)。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと配慮したからです。
それだけでなく、私は平成19年1月18日夕刻に、印刷会社・アイワードに図録原稿を入稿しています(甲48号証の2 手帖参照)。1月18日に入稿して校正も経ているからこそ、図録は展覧会オープン当日の2月17日に完成し、納品されたわけです。
それ故「原告がなすべき展示設計や解説パネルが出来上がっておらず」という被告の主張は、まったく事実に反しています。被告は「連日、皆待機を余儀なくされた」と言っていますが、「待機」の意味が、「準備が整うまで、なすこともなく、腕をこまねいて待っている」のことならば、そういう意味の「待機」は全くありませんでした。そもそも「2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの」という言い方も不正確な言い方で、確かに14日、15日、16日は財団職員のO司書、N主査、N主任が遅くまで残って設営作業を手伝ってくれました。このような協力は「二組のデュオ展」に限ったことではなく、平原副館長の「陳述書」に対する反論で詳述する予定ですが、平原一良学芸副館長(当時)が主体となって行った「常設展」リニューアル作業でも行われたことであり、例外的なことではありません。「二組のデュオ展」では川崎業務課長も不測の事態に備えて午後8時近くまで残ってくれました。この設営作業の間、顔を出さなかったのは被告と平原副館長だけでした。
ただ、駐在道職員に関して言えば、A学芸員は「二組にデュオ展」の副担当であり、主担当の私と共に責任を負っていたわけですから、「加勢」とか「待機」には当たりません。もう一人のS社会教育主事は、15日には個人的な事情があって皆より早めに帰りましたが、手伝ってくれたことは間違いありません。そして少なくとも私の立場からみる限り、原告とA学芸員の準備不足のために、財団職員の3名とS社会教育主事がなすこともなく腕をこまねいて「待機」していることはなかったと思います。
なお、もう一言付言しておけば、215.42平方メートルの特別展示室をフルに使用した、展示品143点に及ぶ展覧会において、もしも被告が主張している如く、オープニング(2月17日)直前の15日・16日の段階で「連日、皆待機を余儀なくされた」のならば、その当然の帰結として、17日のオープニングには展示は間に合わないという事態が出来(しゅったい)したはずです。しかも被告は、構想者であり主担当である原告が、「応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってし」まったと言う(乙1号証5ページ31行目)。では、残された人々によって、展示の完成は、いかにして可能となったのだろうか。この興味深い点について、ぜひとも原告は、証人台に立つ被告の口から、証拠に基づく状況の再構成による詳細な説明を聞きたいと考えています。
⑥「逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした。」(5ページ31~33行目)
こういう見え透いた嘘をついてまで被告は私を貶めたいのか、とただただ呆れるばかりですが、もちろん私が展示設営を手伝ってくれた他の職員を残して先に帰宅したという事実はありません。
このことは原告の「準備書面(Ⅱ)―1」でもある程度言及しておきましたが、私が「二組のデュオ展」における主担当であることは、北海道立文学館の警備員にも周知の事実でした。また、通常の仕事の段取りとして、その日の展示作業が終わった際には、現場責任者(主担当)が警備員(1階警備員室に勤務)に「今日の作業は終わりました」と挨拶に行き、警備員はそこで階下に下りて、特別展示室を消灯し、シャッターを閉めるという手順になっていました。ですから最後は、主担当の原告が必ず警備員に連絡しなければならない。もし何らかの都合で副担当が連絡に行ったり、或いは主担当が不在、もしくは先に帰ってしまったなどという常ならぬ状況があったとすれば、必ずや警備員の注意をひくはずです。第一私は14日と15日は札幌のホテルに泊まっています。ホテルに宿を取っている人間が、手伝ってくれている職員を残して、先に帰ってしまう理由があるでしょうか。
もしあくまでも被告が、私が他の職員を残し、展示設営現場を放棄して先に帰宅したと主張するのであれば、他の職員の証言・証拠に加えて、当時の警備員からの証言・証拠をも提示する必要があると考えます。
⑦「また、この『二組のデュオ展』では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。」(5ページ34~37行目)
被告が言う「道内美術館」とは、一体どこにあるのでしょうか。私は「二組のデュオ展」に際して、平成19年(2007)2月9日に、絵画の現物を木田金次郎美術館と北海道立近代美術館から借用し、北海道立文学館に搬入していますが、被告が言うところの「道内美術館」には行ったことはありません。
それに私は、上記のどちらの美術館の職員からも、「作品図版カード」なるものの持参を求められたことはありません。実際の手続きは以下の如くでした。
a)私は木田金次郎美術館のO学芸員と平成18年(2006)5月25日から電話で連絡をとりはじめ(甲76号証の1)、6月3日には最初の出張におもむいて、「二組のデュオ展」のコンセプトの大略を伝えました(甲76号証の2)。美術品の借用・輸送に関する凡その方法も、この時、O学芸員から説明を受けています。
そして、9月からは再びO氏とメールのやりとりを開始し(甲76号証の3)、11月29日には再び木田金次郎美術館に出張しました(甲76号証の4)。この時には、借用したい絵画を、北海道立文学館に所蔵されていた木田金次郎の画集からコピーして持参し、所蔵を確認して、O学芸員からは貸出には問題がない旨の返事をもらっています。さらにその後、フィルム画像借用・著作権の許諾問題等で12月21日・12月26日・1月26日・2月3日とメールで打合せを重ね(甲76号証の5)、2月9日、絵画を借用することになったわけです。
借用に際しては、O学芸員が予め「木田金次郎美術館 収蔵作品管理ファイル」(甲76号証の6)のコピーを用意し、私と共に作品の状態をチェックしてそのコピーに記入したあと、さらにそれをコピーして、私に渡してくれました。これは、その時点での作品の〈状態の記録〉を正しく私と共有するためです。そしてO学芸員は、「返却の際にはこちらをお持ちください」と私に言いました。
私は、O学芸員の求めどおり、同年3月20日の作品返却の際には「木田金次郎美術館 収蔵作品管理ファイル」のコピーを木田金次郎美術館に持参して、再び共に作品の状態をチェックし、「大丈夫です。OKです」と告げられたのち、篤く御礼を述べて館を辞去しました。
以上、約10ヶ月の間、私はO学芸員から「作品図版カード」を持参するようにとの指示は受けていません。またそれがないからという理由で、交渉に問題は生じたこともありませんでした。
b)私は平成18年(2006)11月26日以降から、北海道立近代美術館の学芸第一課所属・T学芸員と、木田金次郎作品の貸借についての問い合わせを開始しています(甲77号証の1)。
まず展示予定作品の「風景(下谷あたり)」について、展覧会図録に図版を入れる予定があったため、同年12月19~20日にその所蔵を確認し(甲77号証の2・3)、翌年の平成19年(2007)1月16日に、同作品の35㎜カラーポジスライドフィルムを借用しました(甲77号証の4)。またそれと平行して、12月28日、T学芸員が私に、現物貸借の際に必要な書類の書式をメールに添付して送付してくれましたので、私はそれに所定の事項を記入し、1月23日に申請書を近代美術館に郵送しました。
また、T学芸員が私に、1月23日付のメールで、「借用書のほうは、集荷時にお持ちください」と指定してきましたので(甲77号証の5)、私は2月9日の借用当日に借用書(甲77号証の6)を持参しましたが、T学芸員は、それ以外には特に何も原告が持参することを求めて来ませんでした。その後の3月20日の作品返却を含め、交渉の全体を通じても特に問題は生じていません。
上のように、私はどちらの美術館の職員からも、一度も「作品図版カード」なるものの持参を求められたことはありません。そもそも借用する側が、借用する以前の時点で用意し持参する「作品図版カード」とはいかなるものか。被告の主張から判断するに、その「作品図版カード」は北海道立文学館の側が予め所持していなければならないことになります。しかし私は、他の職員からそういうものが存在することを教えられたことはありませんし、借用に出かける際には持参するように注意されたこともありませんでした。
もし被告があくまでも、「原告はこうした場合「作品図版カード」を持参すべきであった」、もしくは「原告が「作品図版カード」を持参しなかったことで「道内美術館」からクレームがついた」と主張するのであるならば、被告は、私が持参すべきだった「作品図版カード」の現物を提示し、合わせて、道内のどこの美術館の誰からクレームがついたのか、被告が「お詫びの電話を入れ」「釈明した」相手は何という人だったのかを明らかにしなければなりません。もしそれができなければ、被告は、私の学芸研究員として自覚と知識を貶め、名誉を毀損するために、虚偽の陳述を行ったことになります。この点についても、私は被告が証人台に立った際、しっかりと確認をする予定です。
次は10月28日のケータイ・フォトコンテスト問題です。
⑧「先に触れた『文学碑データベース』更新業務について、訴状において『フォトコンテスト自体、おそらく文学館にとって大きなイベントとなり、予算をつけなければならない。原告には、果たして嘱託職員の自分がそういう企画の中心的なポジションにつくことが出来る立場なのか』と記していますが、実際5月2日(火)には、そのとおり中心的立場で予算積算を含めて企画立案するよう平原学芸副館長から指示を受けたにもかかわらず、結果としてその検討を行っていなかったということが10月28日(土)に判明したのです。この時原告はひどく慌てた様子でしたが、問題を5月2日の振り出しに戻して責任を回避しようといきり立ち、逆上してしまったというのがその日の原告の行動です。」(6ページ2~11行目)
平成18年10月28日に起きた出来事については、原告の「訴状」の「第2 違法事実」の1―③、および原告の「準備書面」の(11―1)・(11―2)に書いてある通りです。私は特に興奮も逆上もせず、いったん事務室に上った後は、「準備書面」(11―2)の(a)「被害の事実」の5行目にある如く、被告が昼食をとり終わるのを待って、落ち着いて改めて被告の言い分を聞こうとしました。しかるに被告の方が、「もう二度も話したから、その通りのことだ」と言って話し合いを打ち切ろうとしました。
なお、この時の被告と私の言葉のやりとりが〈昼食〉の時間をはさんだものであった――つまり、仮にどちらかが精神的に高ぶっていたにせよ、冷静になれるだけの充分な時間的インターバルが置かれていた――ことについては、原告の「訴状」及び「準備書面」だけでなく、私が出来事の直後に最初に道立文学館側に提示したアピール文「去る10月28日に発生した 〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び 北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)の冒頭部分においてもすでに記載があります。この点について、これまで私が誰かから反論されたことはありませんし、否定をされたことは一度もありません。
しかし被告は、自分のほうがいきり立っていたにもかかわらず、どうしても私のほうが感情的だったことにして、責任をすり替えてしまいたいようです。
⑨「こうした激情が会話を阻害するのは言うにおよばず、一方的に話を打ち切り背を向けてしまう原告の態度を見て、冷静な議論が必要だと私はこの時気づいたのでした。」(6ページ15~17行目)
平成18年10月28日のこの出来事において、私が特に烈しい激情にかられたという事実はありません。むしろ被告があくまで私の抗弁や釈明をまったく相手にしない態度に終始したので、やむを得ず私は、今後この問題が蒸し返された場合、お互いにどのような主張をしていたかを記録しておこうと、録音機を出し、「話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい」(原告の「準備書面」11―2)と言いました。その途端に被告の声は、自信なさそうに小さく、低くなってしまいました。そのことを被告は、「その前から自分は冷静に話していたのだ」と取り繕いたいのかもしれません。被告は臆したのか、冷静だったのか、その録音のテープは私の手元に残っていますし、音声データはいつでも再生できます(甲49号証 録音テープからの再生記録参照)。それを聞いていただければ直ちに明らかですが、話を打ち切ったのは被告のほうであって、私が「激情」にかられて「一方的に話を打ち切」ったわけではありません。それまで笠にかかって「私がこの学芸班を管理しているのだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよ」と言い募り、管理者である自分に逆らったらこの組織にはいられなくなるぞという意味の恫喝を口走っていた被告が、録音機を前に置かれた途端に、急にトーンダウンして、話を切ってしまった。そこで私は、「私は、この問題について、これからも追求してゆくつもりだ。その事は、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しましたから」(甲17号証)という意味のことを言って話の結びとしました。それがその時の実情です。
4)「4 仕事に対する原告の意識」について
①「前年度までの仕事が主に別室で進められていたという習慣もあってのことか、原告は18年4月以降も事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく」(6ページ20~21行目)
この記述も、既に3)の「『3 学芸業務に対する原告の経験』について」で指摘しておいた如く、事実に反しています。前年度まで、私の業務はほとんど事務室内、および隣接する資料整理室(この2つの部屋の間に隔壁はない)で行われており、他の職員と接触のない〈別室〉の作業というのは逆にほとんどありませんでした。
平成18年度初頭から、私が勤務場所を主に閲覧室と収蔵庫に移さざるを得なかったのは、これも既に2)の「原告の担当業務とその実態」について」の①で指摘しておいた如く、同年4月14日に、被告と平原学芸副館長(当時)に呼ばれて、「『新刊図書の収集、整理、保管に関する』事務分掌は、表の上では担当はA学芸員、O司書になっているが、それを私が手伝う形にして欲しい」と言われて(甲62号証参照)、閲覧室・共同研究室の運営や文学資料の閲覧に関する業務にもかかわることになったからです。結局3人でローテンションを組んで閲覧室業務に当たることになったわけですが、私が肩代わりをすることもしばしばありました(甲109号証参照)。
②「そのため職員との会話の機会もまばらであったという日常でしたが、やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。」(6ページ21~23行目)
この「陳述書」は、北海道立文学館において学芸主幹として平成18年度から勤務し、平成20年の現在も勤務を続けている被告の文章ということになっています。しかしこの箇所は、とうてい道立文学館の他の職員の日常業務を熟知した人物の書いた文章とは思えません。私が事務室において執務することが少なくなったのは、先に述べた事情のためであって、他の職員もそのことは承知していました。当然のことながら、私が事務室の自席を離れ、閲覧室や収蔵庫で仕事をすることが多くなったからと言って、「職員との会話の機会もまばら」になったということはあり得ないことです。その理由を、以下に順次挙げて行きます。
a)A学芸員は前年度(平成17年度)まで司書であり、しかも文学館に来る前は千歳市の図書館の司書でした。北海道の定期刊行物については特に詳しかったったので、私は、新着雑誌のデータベース入力について、A学芸員から日常的に多くの事を教わりました。登録し終わった図書を収蔵庫に配架する際も、A学芸員と、それぞれ自分の分担の図書を運びながら、一緒に作業することがしばしばありました。また、閲覧室の来客対応についても、それぞれが自分の業務の状態に応じて交代することが多く、利用者から文学的な事項についての質問があった時には、A学芸員に頼まれて私が調査をし、回答をする事もありました。書誌的な質問があれば、逆に、私がA学芸員に頼ることもありました。このように、阿部学芸員と原告とは、主に閲覧室や収蔵庫で会話をしていたのであり、事務室の自席に座り込んで他の職員とおしゃべるすることだけが職場における会話であるはずがありません。
b)O司書とも、状況はほぼ阿部学芸員との場合と同様でした。O司書は、前年度までは財団の学芸員であり、また、財団法人北海道文学館の立ち上げの頃から協力してきた、古くからのベテラン職員でしたので、いわゆる〈北海道文学〉の歴史に関わることや、財団所蔵の資料と書誌的知識については、私はO司書から教わるところが多々ありました。
以上のことから分かるように、要するに被告は、自分自身が平原学芸副館長(当時)と共に、私に対して「O司書とA学芸員を手伝ってくれ」と依頼しておきながら、その結果この3人が協力しながら業務を行うようになったという事実を完全に見落とし、ただ事務室における現象的な状況をあげつらっているにすぎません。
c)S社会教育主事は道立文学館公式ホームページを更新する担当者であり、更新の際には閲覧室のカウンター奥に置かれたパソコンを使用していました。また、写真画像をスキャナーで読み込む時や、A3以上のサイズの印刷物を刷り出す時などにも閲覧室の機材を利用しており、そうした時には、閲覧室にいる私と普通に言葉を交わしていました。平成18年7月1日にS社会教育主事が原告に釧路のK氏から資料を借りてきて欲しいと依頼したのも(「2)「原告の担当業務とその実態」について」の③)、閲覧室への訪れる機会を利用してのことだったわけです。
d)N業務主任も、O司書と同様、財団法人北海道文学館の立ち上げの時期から関わるベテラン職員で、資料や書類に関して以前からの経緯を知るためには、N主任の知識が欠かせませんでした。また、N主任は、北海道立文学館開館当時から「わくわく子どもランド」等の小児・児童向けイベントを一手に引き受け担当していました(会場は主に地下1階の講堂)。その他、文学館では幾つかの外部の文化・文学団体(小規模な児童文学研究会や短歌会など)に対して閲覧室奥の共同研究室2つをほぼ定期的に利用提供していましたが、その直接の担当者もN主任でした。
このように、N業務主任は毎日の仕事の中で、2階の事務室を離れ、地下1階の講堂や1階の閲覧室に立ち寄ることがしばしばありました。私の方からも、収蔵庫などで、古い資料の所在等についてN主任に尋ねることがありました。それだけでなく、N業務主任は地下1階展示室受付の業務を行う受付職員(人材派遣会社より派遣)の指導役でもあり、従って、事務室以外の場所でも私とはごく普通に顔を合わせ、日常的な会話も交わしていました。特に共同研究室の依頼が外部から入った時には、私は必ずN業務主任に連絡を行っていました。
e)N業務主査も、またN業務主任と同様、会計収支の関連事項・紙幣の両替・来客からの質問や問い合わせ等の仕事で展示室受付まで下りてきて、受付職員と共に対応にあたることが多々ありました。また、外部業者と対応したり、文学館利用者からの質問やクレームがあれば、先ず真っ先にそれを受けて動くのもN業務主査でした。ですから、デスクワークに支障のない範囲でこまめに館内を廻っているのが普通という業務状況であり、入口ホールや廊下などで私と顔を合わせることも多く、N主査の方が閲覧室に立ち寄って私と会話をしてゆくこともありました。
以上のように、文学館という文化施設で勤務している以上、各職員が事務室内だけで執務しているという状況はあり得ません。いわゆる幹部職員(管理職)は、外部からの重要な連絡事項等に即応するため、なるべく事務室近辺を離れないようにしていましたが、他の職員は皆、それぞれの立場と責任に応じて館内を動きながら職務を果たしている。私が閲覧室や収蔵庫にいるのもその一環です。そして、各人の動きが交錯する接点で、会話やコミュニケーションが自然に行われていた。これが文学館における職員の業務の実態です。
この実態を踏まえて、先ほどの被告の記述を検討してみましょう。被告が言いたいのは、私が「事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく」、「職員との会話の機会もまばらで」、それが原因となって「同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました」というところにあるらしいのですが、「原告が事務室で執務することが少ない」ことと、「職員との会話の機会がまばらであったという日常」ということが、どのような関連によって結びつくのか。その点が説明されていません。それだけでなく、被告は「原告の自席不在の執務態度を非難する声」の発話主体を故意にぼかした言い方をしていますが、一体どんな人たちから「原告の自席不在の執務態度を非難する声が」が上がったのか、その点を明らかにしていません。もし非難の声を発した人たちが、文学館内の職員であったとすれば、それは先に名前を挙げたA、O、S、N、Nの諸氏と、平原副館長、川崎業務課長、それに被告自身だったことになるわけですが、実際に非難の声を上げたのは誰と誰なのか、あるいは以上の全員だったのか。被告はそれを明らかにする責任があります。
私の疑問はそれだけに終わりません。もし実際に誰かから私の「執務態度を非難」する声が上がっていたとするならば、それは何故か。先に述べたように、A学芸員をはじめとする5人の職員も、しばしば事務室内の自席を離れて業務を行っていました。にもかかわらず、なぜ私だけが「事務室内の学芸班の自席で執務」しないという理由で、非難を受けることになったのか。
被告はこれらの疑問点について、他の職員からの具体的な証拠・証言もあげつつ明確に説明する責任があります。なぜなら、被告の言うところがもし事実無根であるならば、それは私に対する名誉毀損となるだけでなく、A学芸員をはじめとする5名の職員の誰か、あるいは全員の名誉をも毀損したことになりかねないからです。被告が証人台に立った折には、以上の疑問点、問題点について明確な返答を要求するつもりです。
③「職場に対する帰属意識の希薄さを私が最も強く感じたのは、原告がたびたび口にした『私は職員ではありません』という発言です。」(7ページ5~6行目)
これは全くの事実の歪曲というほかはありません。私はそのような発言をした事は一度もありません。そもそも私が財団法人北海道文学館の「職員」であった事実を大前提としなければ、今回の民事訴訟や前回の労働審判だけでなく、平成16年7月16日からの勤務の事実そのものの根拠が消滅してしまうことになるでしょう。このような言葉を私が自ら発するということはあり得ないことです。
私が「訴状」の「第2、違法の事実」1―③、及び「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の「(2)平成18年5月2日(火曜日)」、同じく「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の「(3)平成18年5月10日(水曜日)」で主張しているのは、文脈からも分かるように、雇用者も被雇用者も共に「嘱託」という職員の立場と権利を明確に了解した上で、改めて業務の範囲を考えなければならないだろう、ということです。
さらに厳密に言えば、私のほうが「財団職員であるか、ないか」を問題にしていたのではありません。被告のほうが「立派な財団職員だ」という主張を押しつけようとしてきたので、私は、「嘱託」にはその立場に伴う独自の責任があることや、またそれとは表裏一体の関係として「嘱託」には道職員とも、ある意味では財団職員とも異なる権利があることを説明しようとしただけです。ところが被告は、私がその点に言及しようとすると、急に私の言葉を遮って、「立派な財団職員」論や、組織人論を述べ立てる。ついに私は困り果てて、一体被告はどれだけ「嘱託」の立場を理解しているのか、安藤副館長に相談せずにはいられませんでした(甲26号証)。
しかし結局、今日に至るまで、被告は以上のことが理解できなかったようです。それは今回の被告の「陳述書」(乙1号証7ページ6行目・同8ページ38行目)を見ても明らかですが、被告は文学館の職員について、財団職員であるか否か、の二者択一的な認識しか持てず、同じ雇用者のもとにあってもその中には正職員・非常勤職員(たまたま平成18年度にはこの立場の者はいませんでしたが)・嘱託職員があり、また受付における派遣職員があり…等々といった細かい違いを理解することができなかった。現在でもまだ出来ないのではないかと思います。
ただ、なぜここで被告は事実に反することを述べ立て、「職場に対する帰属意識の希薄さを私が最も強く感じたのは、原告がたびたび口にした『私は職員ではありません』という発言です。」と書き込んだのか、その理由は分かるような気がします。多分被告は、後に「任用問題が発生して以降急に、原告はそれらの文章の中で自らを『財団職員である』と記述しはじめるなど、原告の言動や文章表現には感情の露見や言説の取り繕いがしばしばみられますが、」(8ページ38~39行目)と書いて私の矛盾を露呈させる、その伏線を仕掛けておくつもりだったのでしょう。しかしもちろん私は、任用問題にかかわる文書の中で、「財団職員である」などと主張したことは一度もありません。
④「例をあげれば、『石川啄木展』開幕前日の7月21日(金)の勤務に関して、時間外勤務を原告から拒否された一件を挙げることができます。この日は『カルチャーナイト』という札幌市全域で展開された共通イベントの日で、当館もこれに連携して夜間開館し、原告が副担当である「石川啄木展」のプレオープン、常設展の一般公開をはじめ、舞踊公演や手作り講座などのイベントを夜間に集中して開催する計画となっていました。職員総掛かりで人員配置を検討していた川崎業務課長からの要請により、私は事前に当日の残業と手当ての支給を伝達したのですが、原告は、『私は職員ではありませんから』と言って勤務を拒否し、当日も平然と帰宅してしまったのです。むろん、時間外勤務は個々人の私的な用件や都合が尊重されて当然ですが、原告にとっては、自分に関心のない業務に従事したり組織全体で事業を実施することなど、意識の一部にさえなかったのかもしれません。」(7ページ9~19行目)
平成18年7月21日の勤務に関して、私が被告から残業するように指示された事実はありません。これもまた被告の悪意ある虚言(そらごと)と言うべきでしょう。
ただ、この虚言(そらごと)は、平成18年10月13日(金)と14日(土)にあった事実を、7月21日(金)にすり替えた、時間的トリックと考えられますので、参考までに、私のノート「道立文学館覚え書」における10月13日(金)および同月14日(土)の記述内容(甲78号証)を紹介しておきます。
10月13日は、池澤夏樹展のオープニングセレモニーのある日でした。この日私は、忙しい他の職員たちにかわって午後3時頃から事務室で電話番をしていましたが、午後5時の退勤時間近くになって、急に被告から「今、下(地下1階展示室近辺)に人手が足りなくて、事務室が空くから、管理課がしばらく残ってくれないかって言っているんだが…」と声をかけられました。私は、文学館に「管理課」なるものは存在しないので、被告の言葉をいぶかしく思いましたが、多分「業務課」の言い間違いだと思い直しました。ただ、その日は夜から岩見沢に用事があったので、被告にその旨を伝えて退勤しました。なお、この日、5時に退勤することは、予め川崎業務課長及びN業務主査にも伝えてありました。
その翌日の14日、私がN業務主査と顔を合わせた時、私が前日のことに関して何も言わないうちに、N主査が「昨日は5時になっても忙しくて、すぐに上に上がってこれなかったの。ごめんなさいね」と言ってくれたので、この言葉によって、やはり業務課は私に居残りなど求めていなかったのだ、ということが明らかになりました。(以上、甲78号証 ノート)
被告の「陳述書」(乙1号証)7ページ9~19行目における主張は、この時の経緯を記憶違いしているか、または意図的に内容をすり替えているのだと思われます。
ただ、以上のことはそれとして、被告の「今、下(地下1階展示室近辺)に人手が足りなくて、事務室が空くから、管理課がしばらく残ってくれないかって言っているんだが…」という言葉には、被告の考え方の特徴がよく現われている。そう考えられますので、もう少し検討しておきたいと思いますが、それは嘱託(もしくは非常勤職員)と時間外勤務との関係についての被告の考え方のことです。
言うまでもないことですが、事務系の職員にとって、労働者災害補償保険(労災)に加入していない臨時職員・非常勤職員等が、勤務時間外に職場の中で事故に逢うという事態は、極力避けたい事柄です。もし雇用者側の都合で勤務時間外まで非常勤職員を残らせ、その結果事故に逢ったということにでもなれば、深刻な補償問題が生じるのは必至だからです。雇用者は保険金でそれを賠償することができない。最悪の場合は、雇用者側が労働基準法違反に厳しく問われることになりかねません。
私は、かつて北大の文学部図書掛に勤務した頃や、北海道立文学館に勤め始めた頃、自発的に居残りを申し出たことがありましたが、当時の責任者(図書掛長や業務課長)から、丁寧に、しかしきっぱりと断られました。そして上記のような事柄を学んだわけですが、課長等のこうした判断こそ、労働者に対する真の配慮であり、また常識的な遵法意識であると、私は考えています。
ですから、平成18年度の道立文学館において、業務課が嘱託職員の時間外勤務を前提にイベントの人員配置を考えるなどということは、通常、とうてい考えられないことです。
被告が「業務課」を「管理課」と間違えたのは単なるケアレス・ミスであったかもしれませんが、少なくとも被告は10月13日、業務課が嘱託職員の私の残業を希望している旨のことを私に伝えています。果たして本当に業務課は私の残業を希望したのか。この点について、被告は、川崎業務課長自身の証言ないし証拠を提示する必要があります。もしそれができないならば、被告は何の根拠もなしに、「原告は、『私は職員ではありませんから』と言って勤務を拒否し、当日も平然と帰宅してしまったのです。…(中略)…原告にとっては、自分に関心のない業務に従事したり組織全体で事業を実施することなど、意識の一部にさえなかったのかもしれません。」と、私の人格を中傷したことになる。私はこの点に関しても、証人台に立つ被告の説明を求めるつもりです。
さらに私の疑問を続けるならば、被告は「事前に当日の残業と手当の支給を伝達」したそうですが、本来想定されるはずのない〈嘱託職員の残業〉に対する「手当」とは、会計上、どの項目からどのような名目で支出される予定だったのか。また、その際の予定金額はいくらだったのか。この興味ある問題に関しても、証人台における被告の明解な説明を期待しています。
また、なぜ川崎業務課長はそのことを私に直接言わず、被告に取り次いでもらう必要があったのか。私は組織上、業務課学芸班の職員でした。他方、被告の肩書きは学芸主幹であって、会計事務を担当しているわけではありません。被告はどのような権利があって、「手当の支給」を私に伝達したのか。私はそのような伝達を聞いていませんが、被告は伝達した事実を証明できるのか。
被告があくまで「陳述書」の如く主張するならば、以上の諸点について、具体的な証拠を上げて説明しなければなりません。
⑤「さらにこの一件は、原告の時間外勤務に対する姿勢も明らかにしています。時間外勤務を自己中心的にとらえ、事前の協議や勤務命令の有無にかかわらず、『勤務時間が終わったら速やかに帰って』(訴状)しまおうとしたことを示しています。今般、原告が職を離れた今になって、1年前の『二組のデュオ展』に関わる時間外労働に対する損害を雇用者ではない私に請求しているのも当を得ていませんが、当時も、さらにその後も、雇用者たる財団に対して原告から時間外勤務の申し出や請求があったことはなく、また同じく時間外勤務である休日出勤を振り替えるよう川崎業務課長から指示されていたにもかかわらず、その手続きも行っていません。」(7ページ20~27行目)
嘱託職員の契約時間外勤務に関する被告の認識がいかに間違っているか。この箇所は見事なまでに被告自身の認識不足を露呈してしまったと言えるでしょう。
ただ、私がこの箇所について指摘したいのはその点だけでなく、この箇所が嘘で固めた書き方になっていることです。
a)財団法人北海道文学館では、嘱託職員の時間外勤務について「事前の協議」をしたこともなければ、私が時間外勤務の「業務命令」を受けたこともありません。
b)私は「訴状」の中で、自分の文章として「勤務時間が終わったら速やかに帰って」と書いたことはありません。「原告は、当時の副館長から『勤務時間が終わったら速やかに帰って下さい』という配慮を受けてきた。」(訴状9ページ)と書いています。分かるように、「勤務時間が終わったら速やかに帰って」云々は、当時の副館長の安藤孝次郎氏の言葉であり、それを私の言葉のように引用するのは、不正確であるだけでなく、不当なすり替えです。
c)私は「二組のデュオ展」に関わる時間外労働に対する損害を被告に請求したことはありません。財団に請求したこともありません。「二組のデュオ展」に関わる時間外労働を「被害の事実」の一つに挙げ、次のようにその違法性を指摘しました。
「原告は被告によって準備を遅延させられたため、2月11日以後、毎夜、午後10過ぎまで文学館に残って準備作業を行い、14日と15日は札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた。その結果、労災に入っていない嘱託職員の原告は、契約勤務時間外の災害については何の保証もない状態で、過重な契約時間外労働とそれに伴う出費を5日間にわたって強いられた。これは原告が被告の妨害によって『労働基準法』第32条に反する長時間労働を余儀なくされ、また、財団側がその事実に関しては、『労働安全衛生法』第71条の2項に反して何の配慮もしなかったことを意味する。そういう結果をもたらし、原告に不当な過重負担を強いたのは、被告が原告に対して行った『刑法』第234条に該当する悪質な業務妨害である。」
被告は法廷においても、この違法性の指摘を免れることはできないでしょう。
d)「(原告は)雇用者たる財団に対して原告から時間外勤務の申し出や請求があったことはなく」の箇所について言えば、私から自発的に時間外勤務を申し出、逆に当時の業務課長から断られたことは、既に述べてあります。しかし、平成17年の常設展のリニューアルに際しては、敢えて非出勤日を返上し、夜遅くまで作業をしたこと、このことについても既に述べておきました。
e)私は平成18年12月14日(木)に、中戸川吉二に関する資料を貸して下さるKさんと会うため、東京まで日帰り出張をしたことがあります(甲79号証)。この日は木曜日で、私の出勤日ではなかったのですが、Kさんの都合によりこの日に会うことに決め、朝の6時に家を出て、夜の10時過ぎに帰宅することになりました。私はこのことについて、事前に業務課の了解を取り、併せて翌15日を振り替えの休日にしてもらいたいと申し出ました。しかし業務課のN主査の返事は、「自宅から東京までと、東京から自宅までの時間は、移動に要する時間だから勤務時間に数えることはできません。実質的な勤務時間と認められるのは、Kさんに会ってお話する正味2時間だけです。だから、15日も出勤してもらいたい」ということでした。
被告は先の文章において、「(原告が)休日出勤を振り替えるよう川崎業務課長から指示されていた」と言っていますが、いつの時点のことなのか、明記されていません。ですから、これ自体に反論することはできませんが、ただ、「二組のデュオ展」の資料返却作業が一段落した平成19年(2007年)3月22日以降に、川崎業務課長から「休日の振替」を示唆されたことについては記憶しています。しかしこの時点では、すでに同年4月1日から私が道立文学館で勤務を継続できないことは確実になっており、あと9日ほどで残務の処理をしてゆかねばならない状況でした。しかも、非出勤日を除けば、勤務日は6日程度しか残っていない。毎日のルーティンワークである新着雑誌の登録作業も、勤務の最終日まで続けねばならない。そんな時期に休日振替を取っても、積み残しの仕事がますます多くなるだけでプラスの意味はほとんどない。そう私は判断し、敢て手続きを取りませんでした。
私は、東京までの日帰り往復を勤務時間に数えない杓子定規なやり方に釈然としないものを感じていました。しかしそれ以上に釈然としないのは、平成18年度の最後の大きな事業である「二組のデュオ展」が終わり、いわば使い捨ての形で私が雇い止めにされるまでの、残り僅か6日間の間に、「休日の振替を取ってもいい」と言い、私がそれをことわると、「川崎業務課長から指示されていたにもかかわらず、その手続きも行っていません。」と、私の手落ちであったかのようにあげつらう、被告の卑劣なやり方です。この姑息な事態のすり替えが、被告の「陳述書」のライトモティーフだったと言えるでしょう。
⑥「今般の訴状において記述されている明治大学図書館での資料調査に関わる文書処理の一件も、今触れた時間外勤務拒否の事例と同様の視点から、原告の組織人としての自覚の欠如を明らかにしています。すなわちこの事案は、「紹介状」を携えて個人的に研究調査をするという業務態様を改め、文学館という組織の行う研究調査業務の担当者を先方の調査先に通知し、組織として協力を要請する「職員派遣」の公文書に変更したものでした。所属長から所属長あてに事前送付しますので、調査当日の対応や協力体制の面で個人利用以外の便宜を期待することができます。『被告がなぜ“紹介状”とは別の書類を作らなければならないと言い出したのか、少しいぶかしく思った』(訴状)などという原告の文言は、文書変更理由への無理解ばかりでなく、組織として業務を遂行する意識の欠如を自ら証しています。」(7ページ31~40行目)
この問題に関しては原告の「準備書面(Ⅱ)-1」で詳しく反論しましたので、できるだけ重複は避けたいと思いますが、しかし基本的なことは確認しておきたいと思います。日本の大学の図書館は、その大半が、個人的に訪れた市民に対して閲覧の便宜を図ってくれます。外国人留学生は言うまでもなく、旅行中の外国人であっても、パスポートで本人確認ができれば閲覧の便宜を図ってくれます。ですから、ある人が職場の責任者の署名捺印を持つ紹介状を図書館に持って行く、あるいは図書館から紹介状の提示を求められるということは、すでに、その人が個人の資格でゆくのではないことの証拠にほかなりません。すなわち、「「紹介状」を携えて個人的に研究調査する」という被告の言い方は、ナンセンスなのです。
ただ、この時の明治大学図書館のケースでは、私がマイクロフィルムを閲覧させてもらう関係上、図書館側はマイクロリーダーを確保するために予約が必要(リーダーの機械は台数に限りがある)だと言って来たのであり、当日の本人確認のために「紹介状」が必要だったにすぎません(甲33号証参照)。まだ明治大学図書館から展示のために資料を借用するわけでもない時点で、「組織として協力を要請する」のだから「公文書」が要るなどという理屈は、実質的に無駄な文書を作らせてしまったことについての単なる言い訳でしかないと言うべきでしょう。
また、被告はこの箇所で、「すなわちこの事案は、『紹介状』を携えて個人的に調査研究するという業務態様を改め、文学館という組織の行う研究調査業務の担当者を先方の調査先に通知し、組織として協力を要請する『職員派遣』の公文書に変更したものでした」と主張していますが、いったい何時の時点で、「紹介状を携えて個人的に調査研究する」業務様態から、「組織として協力を要請する『職員派遣』の公文書に変更した」のか。
この変更は明らかに財団法人北海道文学館の業務様態の変更となるわけですが、北海道教育委員会の職員である被告は、如何なる資格で財団の業務様態の変更にかかわったのか。またこの時、それを「変更」した主体は誰(または、どの組織・どの管理職、等)なのか。「変更」と言っている以上、何か変更しなくてはならない必要性があり、それをきっかけとして「変更」したと思われるが、それは何だったのか。そして、その「変更」はどのような手続きを経てオーソライズされたと、被告は主張するのか。これらの点に関して、被告の文面はきわめて曖昧です。
被告が答えるべき点はそれだけに止まりません。もし被告があくまでも「文学館という組織の行う研究調査業務の場合、担当者のことを『職員派遣』という公文書であらかじめ通知するとうことに決まっていた」と主張するのであるならば、同じ出張の期間内に行くことになっていた国立国会図書館や鎌倉文学館に対しては、なぜそうした文書を作らせて送らせなかったのか。
また、私は、「二組のデュオ展」に際しては、北海道大学附属図書館からも写真図版を借用しています。その事前調査として外勤もしており、実際に借用手続きもしています(甲48の2・3)。その際、被告ないしは財団法人北海道文学館は、なぜ先の「職員派遣」文書と同様の文書を作らせなかったのか。
被告があくまで「陳述書」(乙一号証)の当該箇所のように主張するのならば、当然起こるべき以上のような疑問点にも逐一答えなければなりません。
5)「5 私と原告の関係変化と関与の実態」について
①「平成18年度の前半まで、つまり10月31日付けのサボタージュ問題と題された一方的な文書が突然、私や財団幹部職員に送りつけられるまでは、私と原告とは上述のような、上司と部下の関係にありました。」(8ページ5~7行目)
まず被告が言う「サボタージュ問題と題された」文書についてですが、多分これは、私の「去る10月28日に発生した 〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」という文書のタイトルを、被告が勝手に省略したものと思われます。以下は記述はその判断で進めて行くことにしますが、この文書は被告および財団法人北海道文学館の幹部職員に「送りつけられ」たのではありません。10月31日(火)に私が直接手渡したものです。ふだん文学館に出勤しない神谷忠孝理事長にのみ郵送しました(甲18号証 「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」)。私は当日、被告が平原一良副館長と2階会議室(実質的には平原副館長の執務室)にいる時に、この文書を手渡しました。被告は、その点を故意に事実と違えて記し、私の行為が直接性を欠いた無礼なものであったかのように読む者に印象づけようとしています。
また、被告はここで「上述のような、上司と部下の関係」と主張していますが、言うところの意味が全く分かりません。なぜなら、被告がここまで書いてきた「陳述書」(乙1号証)の内容及び表現は、どの角度から見ても、被告がまともな「上司」であったことを証する箇所を見出すことができないからです。被告は原告を非常識かつ常軌を逸した人間としか見ていない。そのこと自体が既に被告と原告との関係における人間的な関係の崩壊を自ら語ってしまっている。もっと端的に言えば、被告は他人と連携、協働の関係を結ぶ上で、何か大切なものを欠いている、と考えるほかはないでしょう。「私と原告とは上述のような関係にありました」と言うのであれば、まだしも前段部と合わせて文意の受けとめようもありますが、被告みずからここまで原告との間の関係崩壊を述べ立てていながら、まだ「上司と部下の関係」だったということにこだわっている被告の発想は、私の理解を超えています。
②「そもそも私への抗議や他の職員への相談もなしに突然、文書により疑義の表明を行うこの手法さえ異常に思えます。」(8ページ7~8行目)
「そもそも私への抗議もなしに」と被告は主張していますが、そもそも原告の「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の(1)~(11―2)までに書いた出来事の中で私が被告に対し抗弁した内容のすべてが、いわば「被告に対する抗議」なのです。それだけでなく、被告は「他の職員への相談もなしに」と主張していますが、私は平成18年5月11日の時点で安藤副館長(当時)に相談し(甲26号証)、同年9月13日に平原副館長(当時)とS社会教育主事に相談してきました(甲6号証)。それを被告はまともに取り上げようとしなかった。私のアピール文が「突然」に思えたとすれば、その責任は私ではなく、被告のほうにあります。
③「しかし、当館としては問題の解決を図り業務を円滑に進めるため、ただちに執行体制の見直しが図られることになりました。前述文書による原告の改善要求を受け、私は原告を監督する立場から離れ、また原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し、業務内容については平原副館長が直接指揮をとるという事務の流れに変更されたのです。そして、この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることになり、私は直接の接触を控えるように毛利館長から指示を受けていました。
ゆえに突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました。財団の新採用職員の募集に原告の任用が関係しているとして財団幹部職員や私に提出された12月12日付けの任用方針撤回要求書を原告に差し戻した際に、私は財団の人事とは無関係であり職員募集についても関与していない旨をひと言告げた程度で、」(8ページ15~26行目)
私のアピール文が手渡されて、「ただちに執行体制の見直しが図られ」と言っていますが、どういう人たちの間で、どのレベルの会議で執行体制の見直しが図られたのか、私自身は何の報告も聞いていません。ただ、平成18年11月10日、私が毛利館長及び平原副館長と話し合った結果合意された4点の「取り決め」(「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」甲18号証)を「見直し」の一環と考えるならば、この見直しは「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)への復帰であった。換言すれば、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)の廃棄だったことになります。つまりその時点で、被告が言う「事実上の上司」の架空性が露わになり、破産してしまったことを意味します。被告は上記引用文で「11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく」と、信じられないほど情けないことを言っていますが、要するにこれは被告が自分の架空の立場を失い、その結果、私に対するどのような接触もできなくなってしまった事実を告白したことにほかなりません。
しかし、被告がここで告白したのはそれだけではありません。被告は毛利館長に、私との対応を任せるという形で、財団法人北海道文学館と私に対する人権侵害の共犯関係の入っていたことを告白してしまったわけです。その理由は原告の「準備書面(Ⅱ)-1」で詳述しましたが、もう一度繰り返します。
〔以下引用〕
「c)原告は話し合いの内容を、「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(甲18号証)という文書にまとめ、被告にも渡した。その中に記載された4項目の「取り決め」の内容から分かるように、館長と副館長は、被告の原告に対するパワー・ハラスメントの事実を認めなければ申し出るはずがないことを申し出ている。また二人は、被告の原告に対するパワー・ハラスメントの事実を認めなければ原告の要求を受け入れるはずがない「取り決め」をしている。原告はこの時の二人の言葉を、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。甲50号証)においても記録しておいたが、それを読めば分かるように、館長と副館長は被告の非を認める発言をしている。原告はこの文書も理事長、館長、副館長のほか、被告本人にも渡してある。
d)その後、原告の任用問題が起こり、原告は財団の任用方針に疑問を覚えたので、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付。甲50号証)を、神谷理事長、毛利館長、平原副館長、及び被告本人に手渡した。その際原告は改めて、「11月10日に、毛利館長と平原副館長との話し合いにおいて、先に要求しておいた2点が認められた。ということは、論理必然的に、毛利館長と平原副館長は、寺嶋主幹が私に対してパワー・ハラスメントを行なっていたことを認めたことになる。そのことを、あらためて確認させていただきます。」と再確認を行った。ところが毛利館長は12月27日(火)に、原告が渡しておいた「回答用紙」に、「先にもお伝えしましたが、私共としては、いわゆる「パワーハラスメント」があったとは考えておりません。」と回答を書いてきました(甲51号証。毛利自筆の「回答」)。原告としてはとうてい納得できる回答ではなかったので、原告は再度、「毛利館長が通告した「任用方針」の撤回を再度要求する」(平成19年1月6日。甲52号証)を神谷理事長、毛利館長、平原副館長、川崎業務課長および被告本人に手渡し、「もし毛利館長と平原副館長が「私共としては、いわゆる「パワーハラスメント」があったとは考えておりません」と主張したいのならば、私の挙げた具体的な事例に即して調査を行い、その調査結果を具体的に挙げて――何時、誰を対象に、どのような調査方法で行ったか、その結果をどのようなものであったか、を文章化して――結論を示すべきです。(中略)今までの対応から察するに、毛利館長以下の幹部職員はまだそのような調査を行っていないと見受けられます。早急に私の挙げた具体的な事例に即して調査を行って下さい。この調査の一番の対象は寺嶋学芸主幹であるはずです。その場合は馴れ合いにならないように、外部の第三者を交えて行って下さい。第三者を選定する時は、選定委員の中に私も加えていただきます。」と要求した。それに対する毛利館長の回答は、「これ以上、あなたの要求・質問にはお答えするつもりはありません。」(「亀井志乃嘱託員からの再度の要求・質問について」平成19年1月17日。甲53号証)という、一方的な回答拒否、対話打ち切りの通告だった。この財団側の対応は単に不誠実というだけでなく、人権侵害の問題の調査を求める一人の市民の要求を集団的、強権的に無視、黙殺してしまった点で、原告に加えられた新たな人権侵害行為であるが、被告は財団側のこのような不誠実な対応と人権侵害行為の陰に隠れて、自己の責任を免れようとした。言葉を換えれば財団側の不誠実な対応と人権侵害行為をそのまま自己の対応に利用する形で、財団と共犯関係にあったことになる。」
「財団法人北海道文学館は平成18年12月12日、北海道立文学館公式ホームページ等において、正職員の学芸員と司書を採用する募集要項(甲19号証)を公示した。この募集要項は年齢制限を設けた理由を明示せず、高齢者雇用安定法が指示する「年齢制限を設けた理由の明示」に従わない、違法な募集要項だった。
(2)同第3段
被告はこの違法な募集要項を決定した「平成19年度財団法人北海道文学館職員採用選考」に関する「決定書」(12月12日決定。甲20号証)の「合議」の欄に押印している。これは北海道教育委員会の職員である被告が、民間の財団法人の人事に関する方針の決定に加わったことを意味し、公務員として違法な行為である。しかも財団法人の募集要項は違法なものであり、公務員である被告はコンプライアンスの観点からそれを阻止しなければならない立場にあった。それにもかかわらず、被告はそれを阻止せずに、違法行為に加担した。その意味で二重に違法行為を行ったことになる。かつ被告は、この募集要項が実施されるならば、原告が応募の機会を失うことを承知していたはずであるが、あえて公務員としての分限を越えて、原告を失職に追い詰める違法行為に加担した。
これは前項で指摘した、財団の人権侵害行為との共犯関係に新たに加えられた、被告と財団との共犯的違法行為である。」 〔引用終わり〕
分かるように、被告は「私は財団の人事とは無関係であり職員募集についても関与していない」などと白を切ることはできないのです。
⑤「このように原告と距離を置いていた私に対して、原告が今般の訴状において、1月から2月にかけての『イゴーリ展』や『二組のデュオ展』を題材として、『人格権侵害』『業務妨害』『嫌がらせ』『執拗なつきまとい』だと主張するのは、まったくの妄想であり作り事です。むしろ原告自身に起因する展覧会業務の準備不足や日程管理の失敗、業務管理の未熟さを、自身のあらぬ想像によって責任転嫁している何ものでもありません。なによりも今般の訴状から明らかなように、10月以前の、日時や会話を一方的に特定した特異な記述方法に比べ、11月以降の表記内容は私との接触事例が何一つ具体的に書かれていませんので、『執拗なつきまとい』などはなかったという私の主張を、この訴状自体が正当化してくれるはずです。」(8ページ30~38行目)
この箇所以降は、被告が表記するところの「イゴーリ展」とは、「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」展、通称「イーゴリ展」の誤記であろうと思います。そう判断した上で、私は以下のように反論を致します。
a)私は、「訴状」の「イーゴリ展」に関する箇所(「第2、違法の事実」の⑤、及び「第3、違法性の重大さ」の3において、被告が「人格権侵害」「嫌がらせ」「執拗なつきまとい」をしたとは一言も書いていません。「訴状」の「第2、違法の事実」の⑤は事実をありのまま記したに過ぎず、「訴状」の「第3、違法性の重大さ」の2においても「入り口を塞ぎ、原告の業務遂行を妨げた」「原告に大幅な時間外勤務と出費を強いた」と書いているだけです。
b)私は、「訴状」9ページ目の下から4行目「第4、損害」の項目では、確かに「以上の如く、被告の人権侵害行為は…(中略)…不快なストーカー的『つきまとい』の様相を呈していた」と記しています。しかしこれは、「第4」と項目を改めているところからも明白なように、平成18年度における被告から蒙った被害の全体を通じて、原告がそれをどのような損害と受けとめていたかという〈総論〉であり、決して「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」展での出来事をのみ指しているわけではありません。
それ故被告は、あくまでも上記引用文のごとく主張するのであれば、私の「訴状」のいかなる箇所が「作り事」であり、いかなる点が「妄想」であるかを証明する必要があります。
私の「訴状」の該当箇所は、丁寧に文意をたどり、各項目の内容を整理しながら読んでいれば、上記引用部のような読み違いをすることはあり得ないはずです。その表現は、改行や行空け等によって視覚的に分節化し、内容を整理しやすく工夫してあります。にもかかわらず、この部分について上記のように主張する被告は、よほど不注意かつ粗雑に私の文書に目を通していたか、もしそうでなければ、被告の「陳述書」を読む者に対して、故意に原告が妄想的人間であるかのように印象づけようと目論んでいるとしか思えません。いずれにせよ、被告の上記引用文のような書き方それ自体が、人権無視または人格権侵害的行為であると判断せざるをえません。
⑥「任用問題が発生して以降急に、原告はそれらの文書の中で自らを『財団職員である』と記述し始めるなど、原告の言動や文章表現には感情の露見や言説の取り繕いがしばしばみられますが、この訴状も原告の被害妄想によって記述されたヒステリックな作文に終始しています。」(8ページ38行目~9ページ1行目)
この文脈では、「それらの文書」がどのような範囲の文書を指すのか不明ですが、ここでは一応、被告が、私の「訴状」と、それ以前に私が北海道立文学館の幹部職員および理事に配布した文書を前提としていると仮定して、以下に反論を進めてゆくことにします。
a)今般の民事訴訟における「訴状」に至るまで、私が自分を、「財団職員である」と規程したことはなく、また、そのように規程しているかのように読み取れる書き方をした箇所もありません。本訴訟の眼目は、そのようなところにあるわけではないからです。
ただ、強いて上げるならば、私の「訴状」や「準備書面」ではなく、まだ平成18年度中に財団幹部職員や被告本人に渡した文書の中の、次の2箇所に、原告と「財団職員」という規程との関係について触れた部分があります。しかしこれはもちろん、被告が上記引用文において主張しているような意味あいにおいてではありません。
①「また、もし〈当文学館においてパワー・ハラスメントが行われていた〉事を認める文書が亀井に渡された場合、あるいは、11月10日までに何らの回答が得られず、従って亀井の結論内容が認められたものと判断した場合には、亀井側からは、次の二点を要求したい。1.現在の事務室における席の位置を変える事/亀井の座席を、現在の学芸班の位置から変更したい。/なぜなら、亀井は、本来、報酬を受けて仕事を請け負う嘱託職員であり、また、強いて財団職員の一員と考えるとすれば、今年度の所属は業務課だからである(「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」平成18年4月1日付文書を参照のこと)。」(甲17号証「去る10月28日に発生した文学碑データベース作業サボタージュ問題についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」 傍線は引用時)
②「これらの事実を勘案するに、亀井が、学芸班の中に席をおかなければならない積極的な理由は何もない。それよりもむしろ、学芸の仕事に関与している者が皆〈学芸班〉という同じ場所に集められることで、道職員・財団職員・さらに財団の嘱託職員といったそれぞれの立場の違いが(おそらくは故意に)曖昧化されてしまった事。まさに、そこにこそ、今回問題となったパワー・ハラスメントの主要な一因があると考えられる。」(甲18号証「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」。傍線は引用時)
b)被告は、原告の訴状を「原告の被害妄想によって記述されたヒステリックな作文に終始」していると主張しているが、具体的にどの部分が「ヒステリックな作文」にあたるのか、まったく指摘も引用もしていません。
なお、私が被告の言葉としてカギ括弧で括った部分は、私が記録と記憶とによって再現した描写であり、被告はそこに描写されて被告自身のヒステリックな姿に耐えられず、私の書き方のほうをヒステリックと決めつけることにしたのでしょう。しかし、私は記録と記憶によって、被告の言動自体がきわめてヒステリックであったという事実を写したものであり、被告がその点を否定するのであれば、被告自身が記録・記憶ないし証拠によってその場面を再現しつつ反証しなければなりません。
⑦「2月3日(土)から6日間の日程で外部団体への貸館事業として開催された『イゴーリ展』による業務妨害の提起に至っては、発想自体が博物館職員だったとは思えない愚劣なもので、そのような事実が博物館としてあり得るはずがありません。次回展である『二組のデュオ展』との間には一週間という十分な展示作業期間が確保されていましたし」(9ページ2~6行目)
被告のこの書き方も文脈が辿りにくく、文意が曖昧なのですが、とりあえず被告の用語と文脈に従うならば、「道立文学館の中で何者かが「イゴーリ展」(「イーゴリ展」?)による「二組のデュオ展」の妨害を皆に提起したが、その発想は博物館職員だったとは思えない愚劣なものであった」というふうに読めます。そしてその方が、事態の真相に近いであろうと私は考えますが、一応ここは、被告が、私の「訴状」への反論として、私を非難するために書いたつもりであろうと推定されますので、以下、その推定に従って原告側の駁論を展開して行くことに致します。
a)「一週間という充分な展示作業期間」とありますが、被告は、何を根拠として「二組のデュオ展」の展示設営作業が〈一週間で十分〉と考えていたのか、その根拠が全く示されていません。
展示品143点、展示室面積215.42㎡というマテリアルな面はここではさておくとしても、もともと北海道立文学館においては、展示換えには平均12日前後を見込んでおくのが通例でした。単なる貸し館展示で、持ち込み側が展示品の搬入も作業もほとんど全て行うという場合には、稀に5~7日間で済ませることもありますが、前の展示の撤収も考えると、日程的にはかなり無理がある。まして文学館側でほとんどの準備が行われる場合は、最低12日間を見込んでおく。年間日程を組む業務課も当然このことについては配慮をしていました。一例として、平成18年度当初に予定されていた各展覧会前の作業期間を以下に掲げてみましょう(甲16号証 2006年度事業カレンダー参照)。
1)綿引幸造展の前 28日間(※年度初日よりカウント。前年度の展示終了時から数えると38日間となる)
2)デルス・ウザーラ展の前 5日間(※北海道北方博物館交流協会への貸し館)
3)石川啄木展の前 12日間
4)関屋敏隆展の前 12日間
5)池澤夏樹展の前 12日間
6)中山周三展の前 12日間
7)栗田写真コレクション展の前 19日間(※但しこの展覧会は実行されず、中山展がその分だけ会期延長となった)
8)人生を奏でる二組のデュオ展の前 20日間
ところが、「二組のデュオ展」の前に「イーゴリ展」が入ってしまったことで、「イーゴリ展」と「二組のデュオ展」との合間が8日間(但し、原告の外勤日や非出勤日を除くと原告が作業出来る日は実質3日間)に短縮されてしまいました。その事情については、原告の「準備書面」の「第1、原告が被告から受けた被害」の(14)、及び「準備書面(Ⅱ)-1」の「15「(13)平成19年1月31日(水曜日)」について」で詳述した通りです。
なお、付記すれば、平成17年以前は、1年間に開催される展覧会は6~7本程度であったため(平成17年7本・平成16年6本)、各展覧会の準備期間は、当然、平成18年度よりも長く、また平成10年以前の展覧会は、年間4本程度でした。
b)展覧会と展覧会の間は、作業日の他に、かならず〈予備日〉を見込んでいます。一つには、実際の現場での作業はどうしても遅れがちになるので、〈予備日〉の余裕分で時間的しわよせを吸収してゆくためであり、もう一つは、どんなに注意して解説パネルやキャプションを仕上げても、誤記誤植等のケアレス・ミスは常にあり得るため、それをチェックして訂正し、観客に披露する段階では間違いのないよう万全を期すためです。(「常設展示室 展示換え作業について」甲80号証)
こうした心得を、私は、A元学芸課長およびH前学芸課長より教わってきました。文学館では開館以来、展示準備については以上のような考えでやって来ていました。
被告はこのような文学館における展示ノウハウや心得を知らず、現在も、知る気もなければ理解もしていないらしい。そのことを端的に示しているのが、先ほど引用した被告の文章です。「二組のデュオ展」との間には一週間という十分な展示作業期間が確保されていました」と言い切ってしまう発想は、とうてい文学館の職員の発想とは思えません。
⑧「未使用の展示室を一般に貸し出し有効利用するという財団の決定は、指定管理者としての公益性に照らしてみても適切であったと考えます。」(9ページ6~7行目)
被告はここで、一つ大事な点を言い落としていますが、それは、「イーゴリ展」は平成19年2月の行事予定表に入っていなかったことです(甲21号証)。もしそれ以前に財団による決定をみていたのならば、当然予定表に入っているはずです。北海道立文学館では、財団の企画展であれ、他の団体に対する貸し館であれ、行事があれば、予定表には必ず入れていました。そうでなければ、それぞれの日の〈日程〉や〈職員の動き〉が分からなくなるからです(甲54号証・甲105号証・甲106号証)。
しかも「イーゴリ展」は、準備期間がきわめて短かった(平成19年1月31日~2月2日)。そのため、ポスターを刷ったり、各新聞社に連絡する等の広報活動をほとんど(おそらくはまったく)やっていません。チラシ(甲22号証)は一応文学館の輪転機で刷りましたが、公共施設に送付する時間も予算もなかったため、館の中だけに置いていました。2月の閑散期という条件も重なって、こんなやり方では広報的な役割はほとんど期待できません。仮に誰かが伝え聞いたとしても、その頃には展覧会自体が終わってしまいます(期間:同年2月3日~8日)。
その上、観覧無料でした(甲22号証)。この展覧会は、広報性がきわめて低かったので、常設展に観客を呼び込む役割も果たさなかったとしか考えられません。被告は「指定管理者としての公益性」を主張していますが、このような展覧会の「公益性」とはいったい如何なるもので、具体的には誰を「益」することになるのか。被告の書き方にはその点への視点が欠けている。要するに被告の「公益性」云々は、強引に「イーゴリ展」を割り込ませた言い訳でしかありません。
⑨「実際、この『イゴーリ展』(「イーゴリ展」?)で使用した展示室の面積は展示室入り口付近の25㎡で、全体(215㎡)の一割を越える程度に過ぎず、万が一、次回展のために展示作業が必要になったとしても、移動隔壁によって残りの大半の室内は作業可能であり、また非常口を兼ねた作業用の搬出入口も確保され、もちろん室内照明も点灯調整が可能でした。すなわち電気を点けてただ作業をすればよいだけであって」(9ページ7~12行目)
これも被告が後からつけた言い訳でしかありません。なぜなら私は、展示室入口の25㎡をふさがれてしまったため、「二組のデュオ展」の展示設計で予定していた移動隔壁(正しくは稼働パネル)の前半部分が全く使えなくなってしまったからです(甲57号証参照)。
そのため、どんなに難しい状況が発生したか。それは以下の如くでした。
a)稼働パネルは、レールに沿って順序よく引き出すことが必要であり、先に動かされた部分が固定されてしまえば、そのすぐ後ろの部分における隔壁のレール移動にも影響します。出口近辺(入口と出口は同じ場所)の隔壁設営も難しくなる。被告は「移動隔壁によって残りの大半の室内は作業可能であり」などと主張していますがが、稼働パネルが半端に使われてしまったからこそ、残りの室内の展示設営が困難になってしまったのです。
b)展示は、観客入口の出発点から目線の高さにカラー糸を張り、その糸を基準にしてパネルの中心を決め、さらにパネル同士の横間隔を微調整しながら設置を進めて行きます。そうして壁面が仕上がって、はじめてガラスケースもあるべき位置に設置できるわけです。どれほど展示の設計図が詳細をきわめていようとも、最終的な位置は、現場における位置間隔に即するしかありません。ですから、展示室の最初の部分が3m21㎝5㎜もふさがってしまっていれば(乙11号証)、壁面の設営は途中からするしかなく、しかしそのようなやり方では、結局、後になって、冒頭部との間隔の開け方、兼ね合いに齟齬が生じ、作業が二度手間となる危険性が高い。また実際、展示設営を展示室の中途部分から行ったという前例は、私の知る限り1例もありませんでした。
c)展示室の照明を点灯する時に用いられるのは、通常、配電盤ではなく、ごく普通の形のスイッチ(複数個)の方です。スイッチは配電盤の真向かいの壁にあり、当然のことながら、職員や警備員はスイッチによって照明をつけたり消したりする。誰も、普段は、いちいち配電盤の方の細かく小さな切り替えスイッチを使ったり、照明設定を変えたりはしません。なぜ被告は、この時、通常のスイッチによる点灯と消灯が出来ないように配電盤の設定を変更したのか。あるいは、スイッチだけでは点灯も消灯もできないと思わせるような付箋を、配電盤の上に貼ったのか。そもそも「イーゴリ展」に限って、なぜ配電盤の設定を変えなければならなかったのか。これらの点について、被告は何一つ合理性のある説明をしていません。
d)稼働パネルには下の方に10㎝のすきまがあり、また、天井のレールから吊った状態で動かす仕組みのため、上部にも6㎝のすきまがあります(甲57号証・乙11号証)。そのため、パネルの向こう側で灯りをつけて作業をすると、光や音は観客のいる側に洩れてゆきます。これが、展示室の入口をシャッターで閉めている場合と大きく異なるところであり(シャッターは完全に下まで閉まる)、私とA学芸員が、最終的に「今、ここでの展示設営作業は出来ない」と判断したのも、実はこの点にありました。被告は「すなわち電気を点けてただ作業をすればよいだけであって」などと述べていますが、稼働パネルでイーゴリ展の写真展示壁を作るというやり方自体が、現実的には、観客に迷惑をかけないやり方での準備作業を不可能にしてしまったのです。
以上の諸点に照らして、「イーゴリ展」を実施した被告のやり方が、「二組のデュオ展」の設営作業を遅延させる意図をもって行われたことに疑問の余地はない。私はそう主張します
⑩「原告が平成18年4月の私の着任早々の時点から私の言動を注視し記録に取っていたという不可解な事実が」(9ページ19~21行目)
これまで本準備書面で上げてきた私の記録や証拠を見ても分かるように、私は、別に、被告だけの「言動を注視し記録に取っていた」わけではありません。ノートの記述は他の職員にも及んでおり、関心の内容は多岐にわたっています。ただ、今回の訴訟には関わりない部分だと思っていたので、特に証拠として提出しなかっただけのことです。
そもそも私が記録を取り始めた目的は、一つには、文学館業務に関わることではなるべく心覚えを取っておこうということであり、さらには、記録しておかなければ後でトラブルに発展するかも知れない疑問点や不審点は、特に注意深く記しておきたい。そういう動機から発したものでした。
今回の訴訟で証拠物として提出した記録は、被告の言動に関する箇所を取り出したものであり、たまたまその記録量が多くなったのは、それだけ被告の言動には疑問点や不審点が多かったからにすぎません。「原告が平成18年4月の私の着任早々の時点から私の言動を注視し記録に取っていたという不可解な事実が」などと、自意識過剰な被害者意識に囚われることなく、自分の言動が他者にとっていかに「不可解」であったかの反省材料とすべきでしょう。
Ⅱ、被告の「陳述書」において新たに行われた原告に対する人格権の侵害の指摘
以上のように被告の「陳述書」は虚偽と事実の歪曲と根拠なき独断に満ちており、とうてい信を置くことはできません。しかも被告はその記述の間、私について、きわめてネガティブな資質の持ち主であることを強調する言葉を、随所に織り込んでいました。被告の言説によるところの原告のネガティブ性は、大別すると次の11点に分けられます。
1.業務遂行能力の欠如 2.協調性およびコミュニケーション能力の欠如 3.組織への帰属意識の欠如 4.業務に対する理解力の欠如 5.自己中心的性格 6.虚言 7.自己肥大 8.情緒不安定性・攻撃性 9.妄想性 10.異常性格・ストーカー性 11.反社会性
被告が叙述した、私に関する、これらの否定的特性は、単に文脈から読み取れるというだけではありません。この「陳述書」の中において、被告は私に関して、能力蔑視的、人格侮蔑的、名誉毀損的な言辞を、はばかることなく多発している。以下にその箇所を抜き出してみます。
1 業務遂行能力の欠如(5箇所)
①第(6)項の収蔵目録・報告書の発行、および第(8)項の文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、平成19年3月に当館を退職しているというのが実情です。(3ページ18~20行目)
②まず第1に第(8)項の文学資料の解読・翻刻業務が原告の中心的な任務であったにもかかわらず、平成18年度は当館に対して業務報告の一つとしてなされていませんでした。(3ページ23~25行目)
③18年度に担当した「二組のデュオ展」などの展覧会事業の実務経験はまったくなく、「文学碑データベース」の写真公募のようなイベント性を伴う普及事業の経験もありませんでした。(4ページ38行目~5ページ1行目)
④実際、展覧会業務に関する原告の経験のなさは、「二組のデュオ展」の準備業務の遅延や作品借用の際のトラブルとなって露呈してしまいました。(5ページ20~21行目)
⑤通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。(5ページ35~37行目)
2 協調性およびコミュニケーション能力の欠如(8箇所)
①副担当業務についての原告の姿勢も積極性や協調性は見られず、(3ページ27行目)
②その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分であったということです。(4ページ35~36行目)
③当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても、連帯意識や協調性に乏しく組織社会における適性を欠くものでした。(5ページ4~6行目)
④出張命令権者や経理担当者や業務統括者の理解や了承を得ながら仕事を進めるという考えのなかったことを自ら証しています。(5ページ9~10行目)
⑤嘱託員であることを請負業であるかのように解しているこの思い違いは、原告と他の職員との間に軋轢を生む大きな原因となっていました。(5ページ10~12行目)
⑥つまるところ原告は、いわゆるホウレンソウ(報告・連絡・相談)のないまま仕事を進めてしまうタイプの職員でした。したがって、職員の間に不満や不平が募っていったのも当然のことで、(5ページ13~15行目)
⑦やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。(6ページ22~23行目)
⑧原告もまた事務室での仕事の進み方や館の業務や行事の動向、さらに各職員の日常の思いや考えなどから遊離していたのも事実で、こうした点が原告の協調性や帰属意識を希薄なものにしていたのだと思います。(6ページ33~35行目)
3 組織への帰属意識の欠如(5箇所)
①この点をもってしても文学館業務に対する原告の姿勢、なかんずく組織への貢献心を疑わざるをえません。(3ページ25~26行目)
②さらには、そのようにして組織で仕事を進めるという意識も薄かったのではないかと思います。(5ページ3~4行目)
③職場に対する帰属意識の希薄さを私が最も強く感じたのは、原告がたびたび口にした「私は職員ではありません」という発言です。(7ページ5~6行目)
④今般の訴状において記述されている明治大学図書館での資料調査に関わる文書処理の一件も、今触れた時間外勤務の拒否の事例と同様の視点から、原告の組織人としての自覚の欠如を明らかにしています。(7ページ31~33行目)
⑤博物館業務の中で調査研究はとりわけ重要な業務ですが、原告にとって研究とは個人の研究を意味し、組織の中で研究を推進するという考えには至っていなかったのです。(7ページ40行目~8ページ2行目)
4 業務に対する理解力の欠如(4箇所)
①したがって出張のように渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり、そしてそれらのために内部調整を進めながら事務事業を遂行するということに理解が及んでいなかったのです。(5ページ1~3行目)
②そもそも、原告には事前打ち合わせを要するなどという考えがなかったのかも知れませんが、としても、そうしたことが組織で仕事を進める上で障害となることに理解がおよんでいなかったに違いありません。(6ページ28~31行目)
③原告にとっては、自分に関心のない業務に従事したり組織全体で事業を実施することなど、意識の一部にさえなかったのかもしれません。(7ページ17~19行目)
④「被告がなぜ‘紹介状’とは別の書類を作らなければならないと言い出したのか、少しいぶかしく思った」(訴状)などという原告の文言は、文書変更理由への無理解ばかりでなく、組織として業務を遂行する意識の欠如を自ら証しています。(7ページ37~40ページ)
5 自己中心的性格(9箇所)
①まったく独りよがりな、自分の関心事だけを副担当業務として主張しているに過ぎません。(3ページ34~35行目)
②原告が最初にサボタージュと言い出しながら、私がそのように断じたとして非難する今般の原告の姿勢は、自己防衛の露呈した架空の言説となって訴状に記されています。(4ページ19~21行目)
③このように原告は自分自身に対する強い思いの持ち主ですから、(4ページ24行目)
④しかし、それを訴状にあるとおり「干渉」として自己中心的にとらえてしまうことに、今般の事件のそもそもの原因があったのではないかと考えます。(5ページ17~19行目)
⑤逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした。(5ページ31~33行目)
⑥こうした激情が会話を阻害するのは言うにおよばず、一方的に話を打ち切り背を向けてしまう原告の態度を見て、(6ページ15~17行目)
⑦今般の訴状が、事実を誤認し曲解したまま、原告の身勝手な憶測、推察、想像によって脚色され演出されて書かれているのも、職場でのこうした孤立した原告の勤務態度が影響していると考えます。「原告のみを狙って繰り返された」(訴状)というのは、まさに孤高の被害者を決め込む原告の思い込みです。(6ページ40行目~7ページ4行目)
⑧原告は「私は職員ではありませんから」と言って勤務を拒否し、当日も平然と帰宅してしまったのです。(7ページ15~16行目)
⑨時間外勤務を自己中心的にとらえ、事前の協議や勤務命令の有無にかかわらず、「勤務が終わったら速やかに帰って」(訴状)しまおうとしていたことを示しています。(7ページ20~22行目)
6 虚言(2箇所)
①職を離れた今になって当然のように主張しているのは、業務意欲の存在を正当化しようとするまやかしにすぎません。(3ページ37~38行目)
②「時間契約によって働く嘱託職員」(訴状)であることだけを最優先していた原告が、今になって時間外勤務を主張しているという矛盾は、つまり、今般の提訴が正当だと見せかけるための方便として時間外勤務に言及しているにすぎないことを示しています。(7ページ27~30行目)
7 自己肥大(2箇所)
①このように原告は実際のところ学芸業務について経験が乏しかったにもかかわらず、「文学館の仕事にキャリアを持つ」(訴状)と自負するほど自尊心の強い性格だったのだと思います。(5ページ37~40行目)
②研究者にありがちなこの自尊心の強さは、自らの失敗や業務の遅延を隠匿し他へ転嫁する態度となって表れています。(6ページ1~2行目)
8 情緒不安定性・攻撃性(5箇所)
①原告に「あなた」と呼びかけたことさえ「あんた」と呼び下したように記されていることからも分かるとおり、意図的な用語転換による防衛心と敵意がここに表明されています。(4ページ21~23行目)
②この時原告はひどく慌てた様子でしたが、問題を5月2日の振り出しに戻して責任を回避しようといきり立ち、逆上してしまったというのがその日の原告の行動です。(6ページ9~11行目)
③原告の場合、少々の不備や不完全さえも許容できず、この10月28日には、5月当初の議論のすれ違いを理由に業務命令自体を抹消しようとし、さらに自身の責任に多少話が及ぶと普段の冷静さとは裏腹に激昂してしまったのです。(6ページ13~15行目)
④こうした実態を無視してなお、私が「妨害」したと主張するのであれば、それは、周囲の状況を見ることのできない自分本位の人物による、私に対する盲目的な個人攻撃にほかなりません。(9ページ12~14行目)
⑤今般の訴状において、原告が事実を曲解し、あるいは被害を想像して意図的に記述した原告の主張は、私に対する誹謗と中傷を含む悪意に満ちたものであり、決して認めることができません。(9ページ27~29行目)
9 妄想性(3箇所)
①このように原告と距離を置いていた私に対して、原告が今般の訴状いおいて、1月から2月にかけての「イゴーリ展」や「二組のデュオ展」を題材として、「人格権侵害」「業務妨害」「嫌がらせ」「執拗なつきまとい」だと主張するのは、まったくの妄想であり作り事です。(8ページ30~33行目)
②むしろ原告自身に起因する展覧会業務の準備不足や日程管理の失敗、業務管理の未熟さを、自身のあらぬ想像によって責任転嫁している何ものでもありません。(8ページ33~35行目)
③任用問題が発生して以降急に、原告はそれらの文書の中で自らを「財団職員である」と記述し始めるなど、原告の言動や文章表現には感情の露見や言説の取り繕いがしばしばみられますが、この訴状も原告の被害妄想によって記述されたヒステリックな作文に終始しています。(8ページ38行目~9ページ1行目)
10 異常性格・ストーカー性(6箇所)
①そもそも私への抗議や他の職員への相談もなしに突然、文書により疑義の表明を行うこの手法さえ異常に思えます。(8ページ7~8行目)
②真摯な抗議をすることなく、こっそりと半年間も言動記録をとって不快だったと過去形で訴えるのは信義則に反し、権利の濫用であると考えます。(8ページ12~14行目)
③私は直接の接触を控えるよう毛利館長から指示を受けていました。(8ページ19~20行目)
④2月3日(土)から6日間の日程で外部団体への貸館事業として開催された「イゴーリ展」による業務妨害の提起に至っては、発想自体が博物館職員だったとは思えない愚劣なもので、(9ページ2~4行目)
⑤そうした基本的なことを頭だけで理解し、自らの研究と自らの関心のある業務だけを行い、公の施設としての組織的な事務執行に異を唱え、実質的な指導監督者であった私だけを一方的に攻撃する原告の態度は、社会規範に照らしてみても常軌を逸した行動です。(9ページ16~19行目)
⑥原告が平成18年4月の私の着任早々の時点から私の言動を注視し記録に取っていたという不可解な事実が、(9ページ19~21行目)
11 反社会性(1箇所)
①命権者の相違や雇用形態の差異を超えて一つの博物館を運営するという制度の理念を理解することなく、博物館の業務を自己中心的にとらえ、組織としての業務執行を無視する原告の態度こそ、連携と協働を阻害する要因になるものだったと言わねばなりません。(9ページ23~26行目)
被告は「陳述書」に以上の如く人身攻撃的な言葉を書き連ねていました。一人の人間が他の人間に対して、これだけ多量の能力蔑視的、人格侮蔑的、名誉毀損的な言葉を、はばかることなく浴びせかけるという事実は、それだけで十二分に発話者における人格権侵害の違法性を証するに足ります。そのような発話者である被告が、平成18年度、道立文学館の中で私に吐きかけた言葉が、如何にどぎついハラスメントであったかを、被告自らが上記のような形で立証してしまった。そう言っても過言ではありません。
しかも被告は、その結びとして「以上、今般の損害賠償等請求事件にあたって、原告の主張に対する私の考えを原告の勤務の実態に即して記しました。」(9ページ30~31行目 傍線は引用者)と記し、署名・捺印しています。そうである以上、被告は当然、先のように列挙したネガティブな「原告の勤務の実態」は具体的かつ確実に証明され得る、という確信のもとに、この文章を提出したはずです。それ故被告は、「原告の勤務の実態」として記述した内容と、原告に関する評価に用いた表現との両面にわたって、それらが真実であることを証明しなければなしません。
それに対する原告側の反論は本準備書面の中ですでに主張したので、ここでは繰り返しません。原告側の主張を裏づける書証および物証は、本「準備書面(Ⅱ)-2」と合わせて提出致します。
Ⅲ、結び
以上、私は、Ⅰ章においては、被告の「陳述書」がいかに虚偽、事実の歪曲、根拠なき断定に満ちているかを指摘し、かつその一つひとつについて反論し、あるいは反証を挙げてきました。
また、Ⅱ章においては、被告はわずか9ページの被告の「陳述書」において、50回にも及ぶ回数で、原告に関する能力蔑視的、人格侮蔑的、名誉毀損的な言辞を発している事実を例示致しました。
このことを踏まえて、私は改めて次のことを被告に要求致します。すなわち被告は、以上に引用した如き原告のパーソナリティおよび資質についての描写に責任を持ち、原告が本「準備書面」で行った反論、および被告側「準備書面(2)」に対する反論、更には乙12号証(平原一良「陳述書」)に対する反論に対して、必ず更なる反証によって覆さなければならない。
もし被告が、被告の証言・書証・物証・他の人証によって原告の反論を覆すことができず、自らの主張を合理的に説明することが出来なかった場合には、私は、以上に引用した被告の文章を全て、本訴訟の場における新たな人格権侵害の証拠としてつけ加えることを裁判の場で主張したい。なぜなら、もし上記引用に掲げられた文章に何らの裏付けも客観的真実も存しないならば、それは紛れもなく、被告によってなされたセカンド・ハラスメントにほかならないからです。
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