天皇「発言メモ」の読み方(その2)
わが「作家」たちの能力
〇名乗り出た丸谷才一
この3,4日、テレビ各局は、昭和天皇の言葉と称する富田朝彦のメモに言及することを控えている。あのメモの表現や、発表の経緯から見て、どうも眉唾っぽいところがある。これは迂闊に乗れないぞ。そんな反省が生れ、慎重になり始めたのだろう。
それはそれで結構なのだが、このまま口をつぐんで、知らぬ顔の半兵衛を決められるのは困る。むしろ今こそ、総力を挙げて、あのメモが書かれた状況や、20年近く経った現在、にわかに公表に踏み切った経緯などを、「徹底検証」してもらいたい。そうする責任があるのじゃないか。
そう考えていたところ、丸谷才一という「作家」が、〈じつは、あのメモ、しぶる日経新聞の記者の尻を叩いて、私が発表に踏み切らせたのですよ〉と、手柄顔で名乗り出てきた。
『週刊文春』が8月3日号で、「総力取材「昭和天皇メモ」の衝撃」という特集を組み、「小泉首相 それでも行くか「8・15靖国参拝」」というテーマを立てて、「識者7人の審判」を求めた。丸谷はその「識者」の一人だったわけだが、彼自身が語るところによれば、「富田朝彦さんとは、彼の奥さんと私の妻が津田塾時代に寮で同部屋だった縁から、家族ぐるみの付き合いをしていました」という。
その縁を知った日経新聞の記者が、富田メモについて意見を求めたらしいのだが、丸谷はその時のことをこんなふうに語っている。
《引用》
記者がもってきたメモはワープロで打ちなおされたものでした。A級戦犯を合祀した松平宮司のことを「親の心、子知らず」と言っている部分は面白いから、絶対に引用しなさいよ、と言ったら、彼(日経新聞の記者)は「天皇陛下に批判されることは、非常に不名誉なことだし、社内では恐れる声もある」と不安がっていた。あれだけの超特ダネを掴んでおきながら、記事にするのをためらっている日経新聞に不思議な思いがしましたね。
富田さんは有能な官僚で、篤実な方でしたから、軽いゴシップ的な事柄など書き残していないでしょう。その富田さんがメモに書き付けてまで手帳に残した昭和天皇の言葉ですから、極めて重大なことだと認識していたのでしょう。
これによれば、日経の記者も丸谷才一も、昭和天皇の「親の心、子知らず」が、特定の人間を名指しで「批判」した言葉と受け取られることを、十分に承知していた。そうであればこそ、日経記者はその影響を考慮して、公表をためらっていたのだが、丸谷はその反対、「面白いから、絶対に引用しなさいよ」とけしかけたのである。
この得々とした自慢話の口調から察するに、彼はその言葉の公表がどんな影響を及ぼすかについては、まるで無頓着だった。というより、彼は、ああいう言葉に対して反論も釈明もできない立場に苦しむ人間が出るだろうことを予想して、それを面白がりたかったのである。
だってそうだろう、そもそも「親の心、子知らず」なんで言葉が、本当に昭和天皇の口から出たかどうか、疑わしい。にもかかわらず、昭和天皇の言葉だという触れ込みで公表して、一体どんな「面白い」ことが起るというのか。私には見当もつかない。だが丸谷は、「だから慎重に」とは考えず、こんな「超特ダネ」を放っとく手はない、もっと面白がろうぜ、とばかりに日経記者にはっぱをかけていたのである。
〇おかしな靖国神社論
面白がってこういう唆しをやる人間が、総理大臣の靖国神社参拝に賛成するはずがない。
《引用》
僕は総理大臣という立場の人間が、靖国神社に参拝するのはおかしいと思っています。昭和天皇がA級戦犯の合祀をどう考えていようが、総理大臣は参拝すべきではない。
靖国神社は軍国主義と結びついて出来たものですが、敵を祭る発想がない。昔の日本人は蒙古襲来、朝鮮侵略のときも敵味方を弔(とむら)っています。これならわかる。あの戦争のころ、僕は兵隊だったけれど、死んだら靖国神社に祀られて、うれしいなんて思ったことは一度もないですから。
これが先の文章に続く、丸谷の結論だった。「昭和天皇がA級戦犯の合祀をどう考えていようが」などと、いかにも客観的な立場で発言しているように見せているが、ああいうメモが公表されれば、小泉の靖国参拝に対する反対論が勢いづくのは百も承知だっただろう。それをアテ込んで、「総理大臣は参拝すべきではない」と踏ん張って見せる。この人、性格悪そう。
とはいえ、彼は彼なりに、総理大臣が靖国神社に参拝できる条件を考えてはみたらしい。「靖国神社は軍国主義と結びついて出来たものですが、敵を祭る発想がない。昔の日本人は蒙古襲来、朝鮮侵略のときも敵味方を弔(とむら)っています。これならわかる」と。
「これならわかる」とは、一体なにが「わかる」のか。最大限好意的にこの文章を解釈すれば、〈靖国神社が敵味方の区別なく弔う神社ならば、総理大臣の参拝は理解できる〉というほどの意味に取ることができるだろう。
しかし「祭る」ことと、「弔う」ことは性質が異なる。「祭る」や「祀る」は、死者の魂を神として崇めることだが、「弔う」は人の死をいたみ、亡き人の冥福を祈ることだからである。丸谷は両者を同じ行為と見なしているが、「敵を祭る発想がない」ことと、「敵味方を弔う」ことは、必ずしも矛盾しない。仮に靖国神社に「敵を祭る発想がない」としても、そこに参拝し、「敵味方を弔う」ことが妨げられているわけではないのである。
こうしてみると、丸谷が言う「これならわかる」とは、一体なにが「わかる」のか、さっぱり分からない。
ただ一つ、私なりに分かることがある。それは、彼が「あの戦争のころ、僕は兵隊だったけれど、死んだら靖国神社に祀られて、うれしいなんて思ったことは一度もないです」と、戦争中、自分は反軍国主義の思想(心情?)を持つ兵隊だったように印象づけたがっていることである。
〇靖国神社のいわれ
丸谷才一は私より10歳以上も年上で、この世代ならば、「靖国神社は軍国主義と結びついて出来たもの」ではないことくらい、百も承知のはずである。
いまさら私が解説するまでもないことだが、靖国神社の前身たる招魂社は、明治2年(1869)、王政復古を呼号する朝廷軍に加わって戊辰戦争を戦い、命を落とした人の魂を祭り、鎮める社(やしろ)として作られた。
それが明治12年(1879)、靖国神社と改称されたわけだが、改称の理由の一つは、その2年前、西南戦争があり、祀るべき魂の範囲や、戦争の意味づけが変ってきたからであろう。
そして多分それと前後して、戊辰戦争以後という時期設定の見直しが始まった。王政復古の戦争で死んだ人の魂を祀るのならば、尊皇攘夷と王政復古の魁(さきがけ)となって非命に倒れた人の魂はどうなるのか。議論はそう進んでいったからである。
その結果、ペリー来航の嘉永6年(1953)にまで溯ることになり、吉田松陰も坂本竜馬も祀られることになった。当然これは、祀られる人の「死」の概念の変更を伴っていた。なぜなら、吉田松陰の死も、坂本竜馬の死も、いずれも戦死ではないからである。
殉難者という言葉が何時から用いられるようになったか、今のところ、私には知識がない。おそらく明治前期にはなかったのではないかと思うが、ただ、例えそうだったとしても、松陰や竜馬を祀る議論と共に、殉難者に類する概念が始まった。そう考えて差支えないだろう。
ともあれ、このような変更の結果、清川八郎の魂も、相楽総三の魂も祀られることになったわけだが、以上のことを「軍国主義と結びついて出来たもの」と見ることは、とうてい出来ない。
松陰や竜馬を祀ることは、跡継ぎがいないため、途絶えてかけていた吉田家や坂本家を再興し、身寄り縁者から若者を選んで家名を継いでもらうことを意味した。とりわけ生前の功績を顕彰して、贈位し、金品を下賜する場合は、それを受け取る後嗣が必要だったのである。
戦死者のなかにも、こうして家名を残し、家系を繋げることができた人が多かっただろう。それを家族制度と批判することは容易だが、名誉を受け、「家永続の願い」(柳田国男)が叶う。これは遺族にとって、せめてそうあって欲しいと思う、掛け替えのない慰めと喜びだったのである。(2006年7月30日)
〇靖国神社は「謝罪」の場?
ついでに、『週刊文春』が選んだ「識者」の一人、石田衣良という「作家」の談話を挙げておこう。今どきの日本の「作家」のレベルがよく分かる。
《引用》
さらに、謝罪の方法としてぼくが提案をしたいのは、日本、中国、韓国の三国共同プロジェクトとして、靖国神社とは別の追悼施設を作ることです。天皇陛下がまったく顔を見せてはいない施設にずっと焦点が当たり続けているのはおかしなこと。誰もが参拝できる施設を作るべきです。三国で話し合い、東京のどこかに建てることが出来たら、つまらない空港なんか作るより、ずっと有意義だと思います。
これは結論の部分であるが、石田はこれ以前、「謝罪」のことなど一言も語っていない。また、『週刊文春』の特集も「謝罪」をテーマにしているわけではない。
当然のことながら、まず石田は、なぜ小泉首相の靖国参拝と「謝罪」が関連するのか、――そもそも石田が言う「謝罪」とは、誰が誰に対して行う、何について謝罪なのか――それを説明しなければならない。だが、彼はそれを飛ばし、まるで「謝罪」が自明の話題だったみたいに、「謝罪の方法」を「提案」し始めたのである。
ひょっとして石田は靖国神社を「謝罪」の場所と思い込んでいるのかもしれない。
もちろん人が靖国神社に足を運ぶ動機は千差万別であり、なかには「謝罪」のために出向く人もいるだろう。
ただ、制度としての靖国神社は、石田も一面では認めているように追悼の施設であり、慰霊と鎮魂の施設なのである。「誰もが参拝できる施設を作るべきです」などと石田は、賢げなことを言っているが、靖国神社は誰を排除しているわけでもない、「誰もが参拝できる施設」なのです。
いや、ボクが言ってるのは、そういう意味じゃない。天皇陛下が出向こうとしないことを問題にしているのだ。「天皇陛下がまったく顔を見せてはいない施設にずっと焦点が当たり続けているのはおかしなこと」。石田の、この舌足らずな言い方を、強いて解釈するならば、多分そう言いたいのだろう。
しかし石田さん、あなたはあの富田メモをマに受けているらしいが、東条英機を首相に選んだのは昭和天皇であり、松岡洋右も白鳥敏夫も昭和天皇の親任を受けてドイツなりイタリアなりに赴任しているのですよ。
〇「指名」と「親任」の意味
いま私の手元には、昭和天皇が東条英機に組閣を命じたドキュメントがない。やむを得ず、その代わりに、原敬(はら・たかし)の『原敬日記』第8巻(乾元社、昭和25年8月)から、大正7年9月27日の記述を引用させてもらう。
《引用》
午前十時半参内拝謁せしに、寺内内閣総理大臣辞職せしに因り卿に内閣の組織を命ずとの御沙汰あり、不肖の身を以て内閣組織の大命を拝し恐懼の至に堪へざるも謹んで御受致すべき旨言上し、猶ほ閣僚の詮考を致し奏上すべきに付数日の御猶予を願ふて退出せり。
原敬は大正時代の代表的な政治家で、大正7(1918)年、日本で最初の政党内閣を組閣したことで知られている。彼は爵位を持たなかったため、平民宰相と呼ばれて、人気が高かったが、自分が総裁を務める政友会の絶対多数を背景に、強引に政策を進める手法が目立った。そのため彼の政治を怨嗟する人も多く、大正10年、東京駅で、大塚駅員の中岡艮一(こんいち)に暗殺された。
『原敬日記』は言うまでもなく彼の残した日記を刊行したものだが、上に引用したのは、彼が大正天皇から〈内閣総理大臣に任命するから、内閣を組織するように〉と命じられた箇所である。
分かるように、『大日本帝国憲法』時代の内閣総理大臣は、天皇が指名することになっていた。もちろん天皇が単独で人選することはなく、明治維新に功績のある元勲や、内閣制度の発足当時から深く政治の中枢にかかわってきた元老と相談し、その助言を得て任命した。だが、少なくとも天皇の意志による任命の形式を取っており、これは昭和天皇が東条英機を内閣総理大臣に任命した場合も変わりなかっただろう。
現在の『日本国憲法』においても、「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」(第6条)。ただしこの任命に、天皇の意志が介入することはない。まず初めに、「内閣総理大臣は、国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ」(第67条)ということが行なわれ、この指名を受けて天皇が「内閣総理大臣を任命する」のである。その点が『大日本帝国憲法』の時代と決定的に異なる。
何だか要らざる贅言(ぜいげん)を重ねている気がしないでもないが、話を元にもどせば、昭和天皇は『大日本帝国憲法』時代の統治行為として、東条英機を内閣総理大臣に指名し、東条が組閣した閣僚を承認した。
またこの時代、各国に派遣される大使は、対外的には天皇陛下を代理する者と位置づけられていた。それ故、天皇は、大使として派遣する者を宮中に呼んで、自ら直接に任命した。この行為を親任と言い、天皇より親任された者を親任官と呼んだ。富田メモにある、松岡洋右と白取(白鳥)敏夫が親任官だったことは言うまでもない。
〇「A級(戦犯)」は天皇のボキャブラリーか?
このように天皇が首相として任命した者や、自身の代理として親任した者の中から、戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯の判決を受け、処刑される者が出た。それは昭和天皇にとって痛恨の極みだったと思う。
だが彼らは、彼らが直接に責任を負う昭和天皇に対して罪を犯したわけではない。もし昭和天皇が、彼らに罪ありと判断したならば、直ちに罷免したはずである。その意味で、この人たちは昭和天皇にとって/対して戦犯だったわけではない。
その点を制度的、理論的に区別しておく必要がある。
私の考えでは、昭和天皇が東条英機以下の人たちを「A級(戦犯)」と呼ぶはずがなく、また呼びうる道理もない。なぜなら、彼らをそう呼ぶことは、『大日本帝国憲法』下の定めに従って彼らを指名し、親任した行為の法的正当性を、自ら否定するのに等しいことだからである。
〇石田衣良の「想像力」
A級戦犯として処刑されたのは、以上のような指名や親任を経て、責任ある立場に就いた人たちであるが、石田衣良は彼らの「気持ち」をこんなふうに想像している。
《引用》
さらに、A級戦犯の方々の気持ちを想像すると、もし自分たちの存在によって日本という国の国益が損なわれていると知ったら、「自分たちのことは別にいいから。祀ってくれなくてもいいし、来なくたっていいよ」と多分おっしゃると思います。「大事なのは私たちではなくて、日本という国のことだから」と。それが分からないような人なら、A級戦犯の地位までいっていないはずですよ。一部の、国内でだけ威勢のいい人たちは、先走りすぎていて想像力が足りないように思います。
お利巧な中学生が、自分たちに都合がいい「気持ち」をでっち上げるために、相手を物分りのいい人に仕立てている。そんな蟲のいい「想像」であるが、何を根拠にすれば、こんなに身勝手な想像が出来るのか。そこが分らない。
おまけに、「A級戦犯の地位まで」などという無神経な言葉を平気で使っている。そんな「地位」はないんだよ。
石田は極東国際軍事裁判の論理と判決を正当なものと信じ込み、昭和天皇や処刑された人たちも、自分と同じく、納得づくで判決を受け容れたと考えているらしい。そうでなければ、こんな薄っぺらな思いつきをペラペラ喋るはずがない。もし東条英機以下の霊が口をきけるならば、「どうして私たちが、自分の存在を、国益を損ねているものと考えなければならないのかね」と反問するかもしれない。そのように考え直してみる程度の「想像力」さえ、石田には「足りない」のだろう。
〇奇怪な提案
さて、そこで石田の提案であるが、念のためもう一度引用しよう。
《引用》
さらに、謝罪の方法としてぼくが提案をしたいのは、日本、中国、韓国の三国共同プロジェクトとして、靖国神社とは別の追悼施設を作ることです。……誰もが参拝できる施設を作るべきです。三国で話し合い、東京のどこかに建てることができたら、つまらない空港なんか作るより、ずっと有意義だと思います。
ちょっと見には「三方一両得」の大岡裁き、これで四方八方が丸く収まる、結構な提案のようだが、でもねえ石田さん、「日本、中国、韓国の三国共同プロジェクト」と言う以上、それは三国が共同で「謝罪」する施設ということになりますね。では、「日本、中国、韓国の三国」は誰に対して、どんなことを「謝罪」するのですか? また、何故それを東京に作らなければならないのですか? そんな訳の分らない施設なんか作るより、空港を作るほうが「ずっと有意義だと思います」。
それとも石田衣良は、日本が中国と韓国に謝罪する追悼施設を、「日本、中国、韓国の三国共同プロジェクト」として東京に作ることを考えているのだろうか。
そして、そういう追悼施設ならば、平成の今上天皇は「心」にわだかなりなく謝罪に赴くことができる。石田はそう考えているのだろうか。
どうもそうらしい。
で、平成の今上天皇は毎年そちらには謝罪に赴くが、靖国神社には出かけないと? 石田の言うところを整理してゆくと、どうしてもそうなる。思うにこれが、石田の考える、日本の国益にかなった天皇の追悼行為なのである。
どうやら石田衣良の魂胆、語るにオチた感じだが、こういう賢いご意見には一つ、致命的な盲点がある。それは、一たん「日本、中国、韓国の三国共同プロジェクト」などということを始めたら、不可避的に排他と排除の理論を生んでしまう、そこに気がついていないことである。(7月31日)
○「愛・蔵太の少し調べて書くblog」との出会い
ところで、さて、私は7月25日、このブログに「天皇「発言メモ」の読み方」を載せた。特に目新しいことを書いたわけではないが、驚いたことに、翌日から急にアクセス数が増えてきた。普段の7,8倍から、一挙に20倍近くまで跳ね上がった。〈ああ、やっぱり私と同じく、なんか今ひとつ腑に落ちないな、と疑問を感じた人も多いのだな〉。私はそう考え、励まされた。
私はただ初発の違和感を大事にして、疑問を立て、問題点を洗い出してみるだけなのだが、そういうやり方に思いがけず沢山の人が関心を持ってくれた。そのことに励まされたのである。
それにしても私のような地味なブログにもこれほどアクセスがあるのだから、ネットの上では相当に活発な意見交換が行われているにちがいない。そう考えて、googleで検索してみたところ、「愛・蔵太の少し調べて書くblog」が見つかった。私が見たのは27日の夜であるが、日経が「スクープ」して以来の新聞やテレビの反応を、時系列的に克明に辿っていて、特に自分の考えを強く打ち出しているわけではないが、再考を促すだけの強い説得力があった。
私は内容だけでなく、その姿勢からも大切なことを学んだ。
また、この「愛・蔵太の少し調べて書くblog」を通して、「きょうのこりあ」の「A級戦犯合祀メモと小沢一郎」や、「楽韓Web」の「日経新聞 昭和天皇A級戦犯合祀に不快感 疑惑まとめ」を知った。いずれも富田朝彦の手帳の該当ページの画像を、webから探し出し、拡大して、新聞やテレビがカットしてしまった箇所を復元し、分析を進めている。
その分析を踏まえて、「きょうのこりあ」はマス・メディアの扱い方を批判し、「楽韓Web」は徳川義寛『侍従長の遺言 昭和天皇との50年』との類似を指摘していたが、〈新聞やテレビの編集部もこれらのブログを見ているだろう。これだけ質の高い批判や意見に耐えられる報道ができるかどうか、そこがこれからの見所だな〉。私は感心し、そんな興味が湧いてきた。
ただ、私のブログにもどって言えば、アクセス数にも波があり、28日には普段の5,6倍程度に「落ち着いて」きた。
その後また急激に増えたのだが、ともあれこの頃から、テレビのほうでも、富田メモを話題にすることが目に見えて少なくなった。
そこで29日の朝、〈まあ、あれだけきちんとデータを踏まえた批判がネットで出てきたのだから、テレビ局としても迂闊なことは言えない。トーンダウンせざるを得ないよネ〉。そんなことを家族と語り、この日は文学館へ出る日だったので、そろそろあのメモを取り上げた週刊誌が出る頃だが……と、小樽に着いてから『週刊文春』の8月3日号と、『週刊朝日』の8月4日増大号を買ってみた。
ありがたいことに、私のものを読んでくれている人がいて、〈立花隆が日経のHPで、「立花隆の「メディアソシオ‐ポリティクス」」というタイトルの「ニュース解説」をやってるけど、凄いことを書いてますよ〉と教えてくれた。
○『週刊朝日』の取り繕い
『週刊朝日』8月4日号の表紙は、大きく「天皇も不快な靖国参拝」と打ち出している。いかにも大特集をやってるみたいで、さっそく買って見たのだが、これが全くの羊頭狗肉。「天皇も不快な靖国参拝」に対応する、『週刊朝日』自身の記事は一つもない。ただ一本、「山崎拓が語る「北朝鮮」「ポスト小泉」そして「昭和天皇も望まなかった靖国参拝」」というインターヴュ記事があるだけだった。
多分『週間朝日』の編集部は、大きな特集を組むつもりだったのだろう。ところが、少し頭が冷えたところで、〈う~ん。考えてみれば、どうも今ひとつ信用しきれないところがあるな〉、そんな躊躇いが生れて、『週刊朝日』独自の「富田メモ」に関する調査、取材、解釈、意味づけは全て取り下げて、上記の記事一本に絞ってしまった。
山崎拓はインターヴュ記者にかなり煽られたらしく、「天皇陛下が(参拝に)いらっしゃらない理由がメモによって明らかにされた」、「靖国神社に祀られているのは英霊なんです。英霊の定義は、天皇陛下万歳と心の中で叫んで散華された一般兵士のことを言うんです。内閣総理大臣万歳と言って死んでいった者はいないんです。……みんな天皇陛下万歳と心の中で叫んで死んでいったんです。これで神になって靖国神社に帰れるとね。そこに天皇陛下がお参りに来られないなんてことは、英霊としてこれほど心外なことはないでしょう」などと、一知半解の知識を振り回し、政治家って奴はこんな程度の認識で靖国神社問題に嘴を入れてるのか、と空恐ろしくなってしまうほどだが、本人は一向に気がつかず、泣き落としの大熱弁。
これはこれで編集部の言いたいことを代弁してくれてるわけだし、結構カタルシスを覚える読者もいることだろう。もし後でメモの信憑性が問題になったら、〈いや、あれは山崎先生がおっしゃったことで……〉とやり過ごせばいいんだから。
そんな経緯が読みとれるような内容なのだが、ただグラビア表紙だけはもう印刷に入ってしまった。これから差し替えることになれば、経費が嵩む。ま、仕方ないか。そこで、ノースリーブの広末涼子ちゃんの胸のあたりに、ドーンと大きく「天皇も不快な靖国参拝」が残った。この推測、多分当たっていると思う。
○衝撃的な日本の「作家」のレベル
それに対して『週刊文春』は、14ページも使って「総力取材」の記事4本を載せているが、富田メモの引用文を昭和天皇の発言と見ることには、何の疑問も感じなかったらしい。その結果、メモの裏づけを取るよりも、メモを入手した日経新聞のA記者の追っかけに「総力」を挙げることになり、その記事によれば、A記者が最初に接触したのは、「昭和天皇独白録」をまとめた「作家の半藤一利氏」だった。その後彼は、「秦郁彦日大講師や富田氏と親交のあった作家の丸谷才一氏に取材し」たらしい。
なるほど、それで半藤一利の談話があちこちの新聞に載り、『週刊文春』は「識者」の一人として丸谷才一を選んだわけだ。それにしても、この二人といい、前に取り上げた山中恒や石田衣良といい、今どきの日本の「作家」は文献資料の扱いや読み方のレベルがあまりにも低い。想像力も貧困。
これが今の日本の文学レベルかなと、むしろそのほうが私には「衝撃的」だった。
○立花隆と小泉純一郎:その差別と同一性
さて、最後に、知人が教えてくれた立花隆の文章だが、富田メモで小泉純一郎が窮地に追い詰められたと見たのだろう、「さあ、どうする小泉!」なんてはしゃいでいる。あんまり下司なので引用する気もしない。蓼喰う虫も好きずき、後味の悪い文章を読むのが好きだという、変った趣味の人もいるかもしれないが、そういう人は、日経のHP、「立花隆の「メディアソシオ‐ポリティクス」」の第78回、「靖国参拝論議に終止符 天皇の意志と小泉の決断」をどうぞ。
小泉は郵政民有化をめぐる選挙では、なりふり構わぬあくどい手段で政敵を追い詰めて、狐顔に得意そうな薄ら笑い、だが半開きのまぶたの奥に光る酷薄な目は、決して笑っていなかった。あの粘っこい嗜虐的な感じは、寒気を誘うほどだったが、立花はちらちらと相手の表情を窺いながら、さあ困ってるぞ、弱ってきたぞとはしゃいでいる。そのしつっこさにも、何だか嫌~な嗜虐性が感じられる。
案外この二人、容貌と体型は正反対だが、性格的には似たもの同士なのかもしれない。(8月1日)
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