北海道から沖縄独立を考える

北海道から沖縄独立を考える
亀井秀雄のチャージ(10)

○北海道独立論の時代
 昭和45年(1970年)前後、つまり私が35歳にさしかかったころ、北海道の文化人や文学者がしきりに「北海道独立論」を唱えていた。
 この人たちは北海道2世か3世で、自分を「流れもの」の末裔と考えるより、開拓者の子孫と考えることを好み、北海道の独特な風土と、開拓者の精神によって形成された、独自な精神風土を自負していた。 私が北海道へ渡った昭和30年ころ、北海道育ちの人たちはごく当たり前のように、本州を「内地」と呼んでいた。要するに北海道は「外地」(実際は準外地扱い)と意識されていたわけで、じじつ朝日、毎日、読売などの「全国紙」は一日遅れで配達された。単行本の値段も「北海道価格」の表示があり、5%割高だった。そのことを母親に話したところ、母は「ふーん、そうかねえ、それじゃラジオも一日遅れかい」と訊いた。「まあその点はだいじょうぶ、電波はその日のうちに着くからね」。
 
 それから10数年が経ち、北海道にも地元に根を下ろした文化人や文学者が育ち、もはや「外地」ではないという意識から、「内地」と「外地」を、「本州」と「北海道」とに呼び分けはじめたのである。

○国籍の問題
  かれらの気持ちは分からないでもないが、しかし俺の国籍はどうなるんだろう?
 「北海道」という地名は日本政府が統治する意志を表明した呼び方で、もし仮に北海道が独立したとすればこの名前を排し、「蝦夷国」と名乗るかもしれない。だが、私は戸籍を北海道に移していなかった。とするならば、俺と俺の家族は「日本」に国籍を持つことになり、蝦夷国では外国人扱い、日本国へ送還されることになるのか、それとも日本人として国籍を捨てて、蝦夷国人の国籍を取得しなければならないのだろうか。
 私は北海道を出たくはなかった。が、本心を言えば、私は日本国の一部である北海道の大学に入学したのであって、蝦夷国の大学を選んだわけではない。独立論が盛んだったころ、私は北大で国文学の助教授になったばかりだったが、「これからは蝦夷国の大学では「国文学」講座が消え、オレは日本文学という外国文学を教えることになるのかな?」。そう考えると自分の位置の曖昧さが見えてきて、わが身のあり方がやや滑稽だった。

  私は北海道独立論を唱えている人たちが、国籍の問題に気がついていないらしいことに驚いた。もちろんそれは文学のあり方に関する問題意識にも通ずる。蝦夷国として独立しておきながら、依然として日本語を主要言語と考え、しかも自分が書くものの読者や、評価を日本国人や日本の文壇に期待する。結局は日本依存の体質から抜けきらず、ちと虫がよすぎる話ではないか。

○独立の国際的要件
  私はそんなふうに考えて来た人間なので、沖縄独立論なる言説がチラホラ聞こえてくるにつけて、国籍の問題が気になってならない。

 だが、その前に考えておかなければならない問題が一つある。それは、ただ道民なり県民なりの意志を問い、賛成多数の結果、世界に独立を宣言したとしても、それだけでは独立したことにならないことである。世界の国々がその独立を承認し、通商条約を結び、大使を交換して、はじめて独立を実現したと言うことができる。
 
 あのころ、北海道が蝦夷国として独立を宣言したとしても、直ちにそれを独立国家として承認をしてくれるのは、たぶんソ連と朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国くらいなものだっただろう。いや、自力で領土を守る戦力を持たない国というのは、国際的な力関係からみれば主権の真空地帯のようなもので、ソ連は独立承認、条約締結などというまだるっこしい手続きなど簡単に無視して、軍隊を蝦夷国に派遣し、あっさりと占領してしまう。その公算の方がはるかに大きかった。北方四島を占領して手放さない手口から見て、理屈は何とでもつけただろう。
 もし沖縄県が県民の意志を問い、琉球国として独立を宣言したとしても事情は変わらない。独立を承認するのは、中華人民共和国とソ連と朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国と、それに、ひょっとしたら中華民国が加わるかもしれない。だが、日本国は承認せず、独立宣言が無効であることを世界にアピールする。アメリカももちろん承認せず、世界の大半は態度を保留し、国連は琉球国を国連の一員として迎えることを控えるだろう。
 ただ、この場合、主権の真空状態は回避されるかもしれない。なぜなら、たとえ琉球国がアメリカに対して軍事基地の撤廃を求めたとしても、アメリカは日本と結んだ日米安全保障条約の有効性を主張して、沖縄県の基地から軍隊を撤退することを拒否するはずだからである。ばかりでなく、仮に中華人民共和国が軍隊を琉球国へ進出させようとしても、アメリカはあくまでも日本国の領土を守るという名目で、阻止、反撃の行動を起こすはずだからである。  奇妙なことだが、琉球国は、そもそもその存在が独立運動のきっかけであり、自国の領土内にとどまってほしくないアメリカ軍のおかげで、領土を守られていることになる。これはかなり皮肉な「平和のパラドックス」だろう。
 
 しかし、こんな状態で、琉球国はどのように国際的な地位を得、自国民の経済活動を維持、発展させ、その生命と財産を守ることができるだろうか。

○再び「国籍の問題]
  ここでもう一度国籍の問題にもどってみよう。
 日本国は琉球国の独立を認めない方針を堅持し、沖縄県に住む人たちを日本国籍の日本人として待遇することになるだろう。だが、琉球国はその逆を行かなければならない。なぜなら、一国の政府は徴税権を与えられて、国民から税金を徴収し、その収入で国家の機関を運営するわけだが、琉球国は徴税権を行使するためにも自国の国民を確定し、把握しておかなければならないからである。
 そこで琉球国は自国内に住んでいる人に琉球国人となることを求めることになるが、現在沖縄県に住んでいる人たちが全員それに従うとは限らない。琉球国は沖縄県人の住民投票によって誕生したとしても、住民の何割かは独立に反対だった。反対した人たちの何割かは琉球国籍となることを拒否して、日本国籍を選ぶだろう。琉球国はその人たちをどう扱うか。日本国籍に固執する人たちにも徴税権を及ぼすか、それとも国外退去を命ずるか。前者ならば国内に内部分裂の危機を抱え込むことになり、後者ならば人口の減少と、琉球国内に所有していた財産の保障という問題を抱え込むことになる。

  琉球国はさらに手を打って、日本国やそれ以外の外国に住む日本人に対して、――特に沖縄県出身の人たちに対して――琉球国籍を選ぶように働きかけると思われるが、外国で活躍している沖縄出身の人たちは、おそらく拒否する。琉球国という、自分が住む国の政府がまだ独立国として認めるか否かが分からない国の国籍を選び、私は日本国の国民じゃないなどと言い出したら、たちまち不法滞在、不法就労の罪で拘束され、国外追放か強制送還される。それは火を見るより明らかだからである。
 日本国内で活躍している沖縄県出身者は数多いが、たぶん大半の人が琉球国人となることを拒むだろう。琉球国にもどっても活躍の場はごく限られているし、せっかく日本国内で積み上げた信用、人気、財産を失う羽目になりかねないからである。

○通貨の問題
 それともう一つ、忘れてならないのは通貨の問題。
 琉球国として独立宣言をしておきながら、まさか「通貨は日本円です」というわけにはいくまい。琉球国としてメンツにかけても独自な通貨を発行しなければならないわけだが、国際的な貨幣価値はおそらく限りなくゼロ(零)に近い。東アジアの幾つかの国は琉球国を承認し、通商条約を結んで、さあ、貿易というところまで扱ぎつけたとしても、琉球国が「では、我が国のほうは新しい通貨で決済させていただきます」と言い出したとたん、貿易はご破算になってしまうだろう。経済的な基盤のぜい弱な国の、しかも国際的な流通性がほとんどない通貨など、紙切れ同然でしかないからである。
 結局は日本の円か、アメリカのドルか、または中華人民共和国の元で支払うことになるだろうが、逆に自分のほうに入って来る通貨は中華人民共和国の元か、大韓民国のウォンばかり。運よく埋蔵量が無尽に近い金鉱でも発見されて、金で決済できるならば助かるのだが、さしあたりそんな幸運に恵まれる見込みがないとすれば、たちまち手持ちの円やドルは枯渇して、これでは国家は成り立たない。
 つまるところ、琉球政府発行の通貨は琉球国内でしか通用せず、私の妻が中学時代、高校時代を過ごした北海道の小さな炭鉱の「山札」(やまさつ。前回の「わが歴史感覚」参照)と変わらない。外国との交際を維持するには、日本国で活躍している沖縄県出身の人が故郷へ送る送金と、米軍基地のアメリカ兵が落とすドルを頼みとするしかなく、これでは何のために独立したのか分からなくなってしまう。

○離島の帰趨
 それやこれやを考えて、さて、沖縄県の独立の是非を問う住民投票の問題にもどってみると、はたして沖縄県に属する島々が全て投票行動に参加するだろうか。そもそも県民の意志を問う投票などには参加しない、そういうことを島民投票によって決議してしまう島も出て来るのではないか。そんな疑問が湧いてくる。
 那覇市のある沖縄島を沖縄本島と呼び、先島諸島や宮古諸島や八重山諸島を離島と呼ぶのが妥当であるか否かは、私の判断を越えているが、数えきれないほどたくさんの島々から成り立っている。安岡章太郎の『離島にて』に、こんな会話の場面があった。場所は西表島である。(『世界』1979年㋂号)      

  「何だか、これは人っけのないところだな、人間臭さってものがまるっきりない……」
 私は、何の気なしにそんなことを言った。と、なぜかS君は、私の顔を覗くように眺めて, そのまま横を向いた。車内が妙にシンとなって沈黙の空気がながれかけたとき、やっと道路から牛が全部退いてくれて、Oさんはアクセルを踏むと、
 「そうですよ」と、バック・ミラーのなかから話しかけてきた。「ほんの二た昔ほど前まで、人間の住むところじゃなかった、死の島などといいましてね……」
 「人が住まない?」    
 「そう、そういう場所が八重山には多いんですよ……。石垣島だって船越から北は人の住まんとこでね、『船越へ行ってきた』といえば死にそこなったということです。船越から北へ長く突き出した半島が平久保ですが、死ぬということを『平久保へ行く』と、わたしの母なんか言っとったですよ」    
 「ほう、平久保が『死ぬ』で、船越が『死にそこなう』か……。で、Oさんは西垣島の南のほうの南の方のご出身ですか」    
 するとS君が、私の質問をひったくるようにこたえた。   
 「いやいや、Oさんの家は竹富島なんだ。石垣からこっちへくる途中に最初に見えたあの島です。面積は西表島の五十分の一ぐらいの小っぽけな島なのですが、二千年もまえからひらけて、石垣も西表も、八重山の島は全部、竹富の植民地みたいなもんです。石垣なんかいまは石垣市ですが、ついこの間まで竹富町石垣島だったんですから……」    
 「へえ……。じゃ、竹富は他とは格が違うんですね」私は若干、卑屈な心づかいを意識しながらいった。   
 「昔はそういうことになりましょうな」とOさんは、心なしか以前より慎重にハンドルをまわしながらこたえた。「要するに、石垣も西表もマラリアや風土病が多くてなかなか人間が住みつけなかったんですな。それでも石垣は、強制移民やら流人やらを何度も送りこんで、どうやら住めるようになりましたが、西表は慶長年間から何回移民をやって村を開墾させても、自然の力に負けて結局、明治以後はどの村も皆、つぎつぎ廃村になってしまって……」
 車は、いつか山の中を走っていた。道の両側から、密林と呼ぶにふさわしい鬱蒼たる森が真っ暗く覆いかぶさるように迫ってくる。私はOさんのいった「自然の力に負けて」という言葉が、極めて実感をおびていることを了解した。繁茂した植物は、ここでは何か魔性の生きもののように、周囲の精気を吸いとって、深く息づいていりようにおもわれるのである。

 竹富島は2000年も前から開けていて、その歴史は大和朝廷よりも古いわけだが、たぶん風土病がなかった(または、少なかった)からだろう。周辺の島々に植民し、かつては王国に近い共同体を形成していたのかもしれない。そこへ首里の琉球王朝の勢力が伸びてきて、石垣島を流刑地にしたり、強制的に移民を送り込んだりしたらしいのだが、西表島に関しては「慶長年間から何回()移民をやって村を開墾させ」た、という。
  慶長年間と言えば、鹿児島の薩摩藩が琉球に侵攻して、琉球王朝を支配した時代である。西表島の開墾を命じたのは薩摩藩だったと思われるが、竹富島の島民の眼には、命令を受けた琉球王朝の強権ぶりのほうがより強く印象づけられたかもしれない。 沖縄の島々は多様な風土的条件のもと、複雑な支配・被支配、差別・被差別の歴史を持ち、感情の襞もまた複雑多様だろう。 それらの島々の人たちにとって、薩摩藩も日本国も迷惑な権力だったかもしれないが、琉球王朝がそれよりマシだったと言い切れるかどうか。むしろ琉球国という括りと共に蘇ってくる琉球王朝の記憶と、自分たちの暮らしの安定性と将来性とを勘案して、琉球国への帰属をためらう島は少なくない。明治政府の琉球処分の時代、琉球諸島は有無を言わせずに一括処分、いわば一蓮托生の運命共同体として従わざるをえなかっただろうが、現在もし独立の問題が起こったならば、幾つもの選択肢が考えられるからである。私はそう判断している。  

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わが歴史感覚

わが歴史感覚

――亀井秀雄のチャージ(その9)――

 

○占領のうっとうしさ

 戦後70年間、日本が戦争に巻き込まれず、平和に過ごすことが出来た。これは、憲法第9条と言う平和憲法のおかげだ。そういう意見がある。つい先日まで続いた安全保障関連法案の是非をめぐる議論のなかでも、そんな意見を述べる人間がいた。

 なにを甘ったれたことを……、苦虫を噛む思いで、私がテレビを見ている。

 

 私が国民学校の3年生のとき、日本が戦争に負けた。昭和268月、日本は連合国の大半の国と講和条約を結び、翌年の昭和274月、講和条約が発効して、まがりなりにも独立国となった。その年、私は中学校を卒業して、前橋高等学校へ入った。

 その間、日本はアメリカを中心とする連合軍に占領されている状態にあった。連合軍が占領している日本を攻めようなんて考える国がなかった。それだけのことであろう。日本はサンフランシスコ講和条約を結んだ直後、アメリカ合衆国と安全保障条約を結んだ。やはり日本を攻撃しようなんて考える国はなかったのである。

 

 自分の国が占領された状態にあることは、子供心にもうっとうしいことだった。

 この気分は多くの人たちが感じていたらしい。講和条約までの日本の映画は、善良な人たちを苦しめる悪党たちを、アメリカ兵がジープで駆けつけて、取り押さえてくれる。そんなストーリーの作品が多かった。いわばアメリカ兵は心優しい、正義の味方だったわけだが、講和条約の発効後、映画の題名は忘れたが、アメリカの悪質なバイヤーを日本の若者が殴り倒すシーンがあり、すると観客が一斉にどよめいて、拍手喝さいをした。うっぷんが晴れた、というところであろう。

 これは私が大学に入ってからの経験で、講和条約が発効して3年以上も経っているのだが、それでもまだそういう雰囲気があったのである。

 

 発足したばかりの警察予備隊(のち自衛隊)の下士官や将校のなかには、旧日本軍の将兵が多かった。

 戦後、日本へ復員してきても、思うような仕事に恵まれない。そういう生活上の問題もあっただろう。だが、占領軍に居座られるうっとうしさから解放されるならば、自分たちが銃を持つのも厭わない。そう覚悟を決めた人たちがいた事実を私は知っている。

 

 占領下の無戦争状態を、どこの脳天気が「平和」などと呼び始めたのか。

 

○昭和30年代の「戦災」の危機

 高校3年生になった時、担任が進路希望を確かめた。私が北海道大学へ入るつもりだと答えたところ、思わず「ばか、止めろ、もったいない」と言った。級友も「なんで、そんな田舎大学に入る気になったんだ」と不思議がった。

 前橋高等学校は、戦前の前橋中学校の時代から仙台の第二高等学校(戦後は東北大学の一部)へ進む生徒が多く、私が前橋高校の生徒だった頃も、前橋高校は東北大学入学者数ランキングの10番以内に入っていた。東北各県の進学校にしてみれば、まことに迷惑な学校だったかもしれないが、東北大学は前橋高校のお得意さんだったのである。

 ともあれ、そのような次第で、担任にとっても、級友にとっても、東北大学へ進むことは常識的に分かりやすかっただろうが、「お前、何が悲しくて、津軽海峡の向うの大学へ行こうなんて、調子っぱずれなことを思い立ったんだ」と不思議がった。

 しかし私としては、今のままの自分でいることが嫌だった。きびしい環境の中で自分を作りなおしたい。「東大に入ろうと、東北大にはいろうと、またお前たちと顔を合わせて、馴れ合いながら生きるなんて、まっぴらご免だね」。そういう気分だった。

 

 昭和30年、私は北大へ入学したが、大学生の分際で、急行を使うなんて贅沢は許されない、――当時は、特急も新幹線もなかった。――上野駅から各駅停車の夜行列車に乗り込んで、札幌駅まで27時間ほどかかる。東北大学の仙台より3倍も、4倍も遠かった。

 青函連絡船の三等は、船底に畳を敷いた大広間で、それでも船員が注文を聞いて、掛けうどんか、掛けそばをとどけてくれる。それをお汁かわりにして、持参の握り飯を食うわけだが、さて、ひと眠りしようと、ボストンバッグを枕に身体を伸ばしていると、船は大波に揺れて、乗客の身体が一斉にずずっと低い方へ寄せ集められ、今度は、反対側へ寄せ集められる。

 その前の年の9月、洞爺丸という青函連絡船が台風に見舞われて沈没すると悲劇的な事故があり、その代替船はまことに小さい。揺れが激しかった。不安が湧いてくる。

 

 すると、船内アナウンスが「ただいま機雷が見えましたので、接触を避けるためしばらくこの場に止まります。ご了承下さい」と危険を告げてきた。

 昭和30年ころまでは、旧日本軍が敷設した機雷や、ソ連軍が敷設した機雷が漂い出して、津軽海峡を流れて来る。そんなことが、しばしばあった。津軽海峡を「ショッパイ川」と呼ぶ人もいるが、もちろん川ではないからさっさと流れ去ってくれるわけではない。海流の加減で複雑な動きをし、連絡船は衝突を避けて、ぐるぐると、これまた複雑な運動を繰り返す。

 乗客はアナウンスを聞いて、しーんと鳴りを潜めてしまった。

 薄暗い裸電球に照らされた室内の高いところに丸い窓があり、波が当たっている。要するに私たち三等船客は海面の下にいるわけだ。「万が一機雷が当たって爆発したら、俺たちはひとたまりもない、たちまち海の藻屑だな。しかしまあ、機雷は船長の視野のなかに入っているのだから、うまくやり過ごしてくれるだろう」。

そんなことを考えながら30分待ち、1時間待ち、ようやく機雷の危険が去ったアナウンスがあり、「これから真っすぐに函館を目指します」。ほっとしたように乗客のざわめきが蘇ってきた。

 

 たびたびではないが、そんなことも経験した。

 

 もし機雷が爆発して海底に横たわることになれば、10年も前に終わったはずの戦争に巻き込まれたことになるだろう。幸い「戦災」をまぬがれることができたわけだが、もちろん憲法第9条のおかげではない。

 ホルムズ海峡は津軽海峡より地形的にも、政治的にもはるかに難しい海峡らしい。そこへ機雷が仕掛けられ、日本のタンカーの乗組員の生命と大切な資源が危機に晒されている。日本政府は海峡を管理している国に(もしそういう国があれば)抗議を申し込み、埒が明かなければ利害の一致する国と連携して機雷の除去に乗り出す。当たり前のことじゃないか。

 

○敗戦難民

 私の妻は樺太で生まれ、昭和23年まで樺太で育った。敗戦後2年半以上も樺太に留め置かれたのは、海軍から復員した父親が、川上炭山という炭鉱で働いていたためだった。進駐してきたソ連軍としては、基幹産業の炭鉱を直ちに廃鉱にするなんてことができるはずがない。少しずつ日本人を日本へ送り返したが、炭鉱で働く人間とその家族は一番遅くまで足止めをくってしまったのである。

 

 妻の両親は宮城県とつながりがあったから、日本へ移り住むことは「引き揚げ」だったが、樺太で生まれ育った妻にとっては強制移住だった。妻は「引き揚げ」という言い方を好まず、「私は敗戦難民なの」と言っている。

 

 ノーマ・フィールドさんと私たち家族が会食をしている時、たまたまその話が出た。ノーマさんは「そのお話、書いていただきたいわ。ぜひお書き下さいな」と、ほとんど猫なで声で勧めた。妻は笑って「私は文章を書くのが苦手ですから」と婉曲にことわった。

 

○敗戦難民の戦後

 敗戦難民の妻の一家は、いったん宮城県の古川に身を寄せたが、間もなく父親が北海道の芦別市の小さな炭鉱で働くことになり、家族も移り住んだ。芦別市には大手の鉱山会社が幾つも進出し、大規模な採掘事業を行っていたが、従業員は早くに満州や樺太から「引き揚げて」きた人たちに占められていた。昭和23年の末にようやく移住してきた人間の働き口は、露天掘りに毛の生えた程度の小さな炭鉱しかなかった。

 しょっちゅう不況に見舞われ、会社は給料の一部を、「山札」という炭鉱内でしか通用しない金券で払った。炭鉱の人たちは日用品を買うときには、小さな共同購入の店では「山札」を使い、日本円の給料は芦別市の商店街の買い物に残して置いた。だが、日本円で支払われる給料の額は少なく、高等学校の授業料を払うのさえ容易なことではなかった。

 

 妻が高等学校の3年生も終わる頃、担任の先生が「君の学力なら特に受験勉強をしなくても、北海道の学芸大学(現・北海道教育大学)ならばどこでも入れる。学芸大学は奨学金の制度があるし、少しアルバイトをすれば大学へ通えるのではないか」と勧めてくれた。

 妻が家で相談をすると、両親は「家には妹もいれば、弟もいる。お前だけが子供ではない」と猛反対だった。妻は諦めて担任の先生に報告をすると、先生は「それならば」と校長と相談し、おかげで新しく出来る図書館の実習助手に採用してもらえた。

 

 妻はそこで4年間実習助手を勤め、5年目に私が北大を出たばかりの国語の教師として赴任した。それから2年後二人は結婚をした。

 

○他人ごとではないシリア難民

 戦後の日本には、朝鮮からの難民、満州からの難民、台湾からの難民、北方四島からの難民など、たくさんの難民がおり、その人たちが日本へ渡る途中でなめた辛酸や、日本へ移ってからの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。その人たちに較べれば、樺太から渡ってきた人たちの苦労はややマシだったかもしれない。だが、まだ小学校の生徒だった妻は家計に無頓着な父と、耳の聞こえない母を助け、幼い妹や弟の面倒を見ながら真岡まで移動し、船で函館へ渡った。その苦労は並大抵のものではなかった。

 

ただ、妻には『赤毛のアン』のアンみたいに、むずかしい事態を悪くない方へ、悪くない方へと捉えなおす、切り替えの才能があり、親切にしてくれた近所の若い青年やおばさんのありがたく、嬉しかった回想へと話が移ってゆく。一人で遊ぶことが多く、気に入った草花に自分の好きな名前をつけ、話しかけたり、楽しい物語を考えて時を過ごしたという。ノーマ・フィールドさんがいくら勧めてくれても、つらく悲惨な話は苦手なのである。

 しかし困っている人たちへの同情心が欠けているわけではない。むしろ同情が深すぎるのだろう。シリアの難民の姿をテレビで見ては、涙を拭いている。

 

○平和のパラドックス

 妻と私は、戦争と平和のはざまで物心ついた世代と言えるだろう。私たちにとって、戦争と平和は対立する二つの極ではない。戦争と平和は相対的で、複雑に入り組んでおり、平和を守るために戦わなければならない。それが平和のパラドックスというものだ。

 「平和ボケ」という言葉を私は好まないが、もしその言葉に該当する人間がいるとすれば、それは平和のパラドックスを知らない、あるいは理解しようとしない者たちだろう。

 あるテレビ局の街頭インタビューを見ていると、一見セレブっぽい、若作りの中年女性がインタビューアーを流し目で見上げながら、「でも、アメリカさんが守って下さることになっているんでしょ」。……駄目だな、これは。

 

○平和条約未締結国の存在

 大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の人たちにとって、現在の状態を「平和」と呼ぶとすれば、それは「長い休戦」の別名でしかないだろう。

 この二つの「国」はまだ平和条約を結んでいない。また、平和条約を結ぶことはほとんど不可能に近いと思う。

 そう思う理由は二つあり、一つは、もし平和条約を結ぶとすれば、それはお互いを独立国と認めたことになり、「統一」という大義を捨てることになってしまうからである。

 もう一つは、朝鮮戦争の休戦協定はアメリカと朝鮮民主主義人民共和国との間で結ばれた協定であり、大韓民国は入っていなかったからである。その意味では、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は依然として敵対関係にある。先日のように両国の武力衝突が起こりかねない可能性は常に潜在しており、また、そうであればこそ朝鮮民主主義人民共和国はアメリカ合衆国に対話を求め続けてきたのだろう。朝鮮民主主義人民共和国の立場から見れば、休戦協定の相手国との交渉によって現状の打開を計るほかはないからである。

 

 日本はまだロシアと平和条約を結んでいない。平和条約を結ぶには、それに先立ってロシアが北方四島を占領している状態を解消しなければならず、しかしロシアは北方四島の返還を拒んでいるからである。

 

○歴史感覚

 私が北大に入った頃は、北方四島に蟠踞するソ連軍は北海道の脅威だった。根室をはじめとする道北の漁業関係者は、いつ銃撃されるか分からない危険な状態の中で操業しなければならなかった。日本の陸上自衛隊の3分の1近くの部隊が北海道に駐屯している、と聞いた。ソ連軍が仮想敵国だったのである。

 私の長兄が両親に、「秀雄家族を群馬に呼んだらどうか」と相談したことがあったらしい。私は毎年、母方の祖母に鮭を送っていたが、ある年の夏、妻と娘を連れて帰省し、祖母を訪ねて、北海道のことなど話をしていたところ、「秀ちゃん、いつも鮭を送ってもらって、とっても嬉しいんだけど、もう気は使わないでおくれ」と言い出した。

 驚いて理由を訊くと、「だって、またロシアがあれこれ煩いことを言ってるそうじゃないか。わたしゃ、ロシアに金を払って捕らしてもらった鮭なんか食べたくない。鮭ぐらい食べなくったって、困りゃしないんだから」。

 祖母は明治20年生まれだから、167歳の娘盛りのころ、日露戦争で村から出征する、しっかりした若者たちを、ほれぼれとした眼差しで見送り、戦局の推移に一喜一憂していたのだろう。その頃の気合が蘇ってきたのである。それが歴史感覚というものだろう。

 「大丈夫だよ、お祖母さん。日本でだって鮭は捕れるんだし、どこで捕れた鮭か、魚屋で確かめてから送るよ」。

 

○ガチョウ足行進の軍事パレード

 歴史感覚と言えば、中華人民共和国の軍事パレードの兵士の行進を見て、一党独裁政治のDNAを感じ取った人は少なくなかっただろう。

 兵士が整列して行進する時、膝を曲げないで、足をピョンピョンと跳ね上げるように進む。あの独特な行進の仕方はGoose-Step、つまり「ガチョウ足行進」とか、「アヒル足行進」とかと呼ばれているが、ドイツのプロシャ時代にも行われていたかどうか、私は正確な知識を持たない。ただ、ヒトラーのナチス党が行進する時の歩行スタイルだったことはよく知られている。このスタイルはスターリン時代のソヴィエトロシア時代にも用いられ、朝鮮民主主義人民共和国の軍事パレードにも採用され、そして中華人民共和国も用いたわけである。

 

 いや、ナチスドイツと中華人民共和国では、イデオロギー的には右と左、対極的なのではないか。そういう疑問もあるかもしれないが、もともとナチスとはNationalsozialistiche Deutche Arbeiterpartei国家社会主義ドイツ労働者党)の略称であって、れっきとした労働者主体の社会主義国家なのである。

 その意味で、あのガチョウ足行進は共産党なり労働党なりの一党独裁専制主義のDNAを表象するものと言えるだろう。

 ソ連の共産党の理論的支柱だったレーニン主義はマルクス主義の鬼っ子であるが、ヒトラーのナチズムはその対抗としてあらわれて来た鬼っ子で、朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国は前者のヴァージョンと見ることができる。

 ただ、YouTubeなどで、ナチス党の行進を迎えるドイツ国民の熱狂的な歓迎ぶりや、ヒトラーのカリスマ性を見ることができるが、それに較べて、中華人民共和国民の姿は軍事パレードの沿道にはほとんど見られない。習近平国家主席兼中央軍事委員会主席の表情はどことなく心となげで、カリスマ性は感じさせない。

 国家社会主義ならぬ、国家資本主義の顔と言うべきかもしれない。

 

○寂しい顔ぶれ

 それかあらぬか、軍事パレード当日、習主席と並んで立っていたのはロシア連邦のプーチン大統領と大韓民国の朴大統領だった。

 ベトナム共産党の党首やキューバ共産党の党首も招待されていたのかもしれないが、マスメディアは報道しなかったように思う。ロシア共産党の党首のことも報道されなかった。これが30年前ならば、ソ連共産党の党首は当然招待されていたはずだがな、……そんなことを考えながら、さてそれでは、日本共産党の党首はどうなのかな。気がついてみると、志位さんは日本にいた。まさか招待されなかったわけではあるまい。「戦争法案」反対で忙しかったのだろう。

 各国の共産党の連帯を演出する発想はもう不要だ。そういう考えが世界の共産党に広がっているのか。それとも中華人民共和国は、日本へ押しかけてきて便器を買いあさる、無作法な成金層、いや、「富裕層」の育成に党是を変えてしまったのか。いずれにせよ、寂しい顔ぶれだった。

 

 

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安保国会の「戦争」概念

安保国会の「戦争」概念 ――亀井秀雄のチャージ(その8)――

○素朴な疑問

  私は昨年から、時間の大半を家の中で過ごす生活に入り、国会のテレビ中継を見る機会も多くなった。  民主党の細野豪志さんと、辻元清美さんは、顔の造作がよく似ているな。兄妹と言っても通るくらいだ。 似ていると言えば、教育評論家の「尾木ママ」こと尾木直樹さんと、東大名誉教授で、今はどこかの私立大学の学長をしているらしい姜尚中さんも、顔の造作がそっくり。ただ、姜尚中さんの顔は何だかネクラそうで、あれでは学生、テンションがなかなか上がらないだろうな。 そんなふうに、連想が勝手に飛んでいくありさまだが、それにしても、野党の国会議員、どういう概念で「戦争」という言葉を使っているのだろうか。

○「戦争」の概念

 与党が提出した安全保障関連法案を共産党が「戦争法案」と呼び、社民党が「戦争下請け法案」と呼び、民主党も「戦争法案」と呼び、「むかし日共・民青、いま日共・民主ってところかな」と思ってみていると、マスメディアが拡声器の役目をこれ務めて、一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う。国会議事堂周辺に「戦争法案反対」の声が湧き上がった気配であるが、さすがに民主党の面々は、「よその党が言い出した言葉を安直に受け売りするのは、これは国会議員として、ちと見識に欠けた、恥ずべき言動ではないか」と反省したらしく、最近はあまり「戦争法案」云々とは言わなくなった。  

  が、それはともかく、この人たちが言う「戦争」とは、〈利害と立場を異にする国家が互いに宣戦を布告すると同時に武力攻撃を加える〉という、大日本帝国が日清戦争でやり、日露戦争でやり、大東亜戦争でやった、あの「戦争」をモデルとした概念であろう。「憲法9条を壊すな」とか、「徴兵制度の復活を許すな」とかいう声が一緒に聞こえてくるが、そのことからも、この人たちの「戦争」概念の由来を知ることができる。

 私はその概念が間違っているとは思わない。『日本国憲法』が作られた歴史的な文脈と、憲法第9条の「国権の発動たる戦争」という文言における、「国権の発動たる」という連体修飾句に照らしてみれば、この「戦争」はただ抽象的に戦争一般を指しているわけではない。「国家の統治権を他国に及ぼそうとする戦争」の意味であり、言葉を換えれば、「国家の統治権を他国に及ぼすために、武力による威嚇又は武力を行使する」戦争を意味しているからである。

 ただ、以上のとらえ方が正しいならば、共産党以下の「戦争法案」なる言葉はリアリティを失ってしまう。政府が出した安全保障関連法案の中に、「自国の統治権を他国に及ぼすために、武力による威嚇又は武力を行使する」戦争を志向する文言は見当たらないからである。議論を分かりにくくしているのは、野党の強引な意味づけにあるのではないか。

○前世紀の遺物

 しかし実は、20世紀後半から今日に至るまで、二つの国が宣戦を布告して互いに武力攻撃を加える戦争は起こっていない。いわゆる朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、湾岸戦争も宣戦布告とともに始まった戦争ではなかった。その意味で、日本がいう大東亜戦争、アメリカがいう太平洋戦争は、宣戦布告に始まった、あの古典的な戦争の、いわば史上最後の戦争だったのである。

  ただし、武力行使を伴う紛争はけっして減っていない。ここ6~70年の間、むしろ増えているのではないか。その中には、ウクライナ東部における親ロシア派住民と、その人たちの独立→ロシア編入の動きを阻止しようとするウクライナ政府との武力衝突があり、これをウクライナ内部の紛争(内紛/内乱)と捉えるべきか、それともロシア政府がからむ国際紛争と捉えるべきか、判断に迷う紛争もある。  こうしてみると、憲法第9条の「戦争」概念はますますリアリティを失い、半ば空文化してしまっていることが分かるだろう。  この憲法第9条を世界遺産に登録しようと運動をしている人たちがいるらしい。これが世界遺産に値するかどうかは分からないが、前世紀の遺物であることはまちがいない。

○憲法第9条の現在的な意味

 では、この憲法第9条に、今世紀の実情と、自衛隊を保有している現実とを踏まえたリアリティを、どのように与えることができるか。私は以下のように改めるべきだと考え、また、現行の憲法の文言は以下のように解釈することが可能だと考える。

    日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、他国に統治権を及ぼ  そうと、武力を背景に威嚇し、または武力を行使することは、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  (2)日本国民は前項の精神に基づき、他国がその統治権を日本国へ及ぼそうと企てて行う武力的威嚇、または武力の行使は、断固としてこれを拒否する。

   (3)日本国民は前項を行うに必要な武力を保持する。

    (附則)日本国政府は本条の精神を理解し、本条の方針を共有する国と同盟関係を結ぶことができる。

○山口二郎さんは山口県で立候補?

 インターネットのニュースによれば、8月30日、安保関連法案反対の集会で、法政大学教授の山口二郎さんが演壇に立ち、「安倍に言いたい。お前は人間じゃない。たたき斬ってやる」と凄んで見せた、という。何ともえげつない威嚇表現だが、しかし実際は某テレビ局の時代劇から借りて来たセリフらしい。そこらが御愛嬌と言えばいえるのだが、山口さん、いまだに他人のセリフを安直に借りて来る癖(へき)がなおらないのだろう。私はHP『亀井秀雄の発言』に載せた、「マスメディアの「テロリズム」№3」でその点を指摘しておいた。

 もっとも、山口さんは「たたき斬ってやるとは言っても、実際に暴力を振るうわけじゃない。民主的な方法でやる」という意味の補足をしたらしい。「民主的な方法でたたき斬る」とはどういうことか。これがなかなかむずかしい。思うに、〈次の衆議院選挙で山口さんが安倍晋三さんの選挙区で立候補し、安倍さんを落選させて、政界からの引退を余儀なくさせる〉というのが、最良の方法だろう。ひょっとしたら山口さん、もう着々と準備を進めているのかもしれない。

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歴史研究者の言語感覚

歴史研究者の言語感覚

――亀井秀雄のチャージ(その6)――

 

○歴史研究者の無責任な誇張

 『日本経済新聞』が今年の86日にネット配信した、「高校で近現代史必修に、文科省、次期指導要領で骨格案」という記事によれば、日本や世界の近現代史を学ぶ「歴史総合」という科目が新しく出来るらしい。

 大変に結構な話のようだが、今どきの歴史研究者がどの程度信用できるか、疑問なしとしない。日本の近現代史を専攻している歴史研究者の井上勝生が岩波書店の『図書』20156月)で、こんなことを書いていた。

 

   日清戦争の時、日本軍に対し、朝鮮の東学農民軍数十万名が各地で蜂起する。日本軍は、農民軍を大きく包囲し、朝鮮西南隅に追い込んで殲滅した。朝鮮東学農民軍の蜂起は、日清戦争史から消されているが、戦争中最大となる犠牲者を出した。

 

どうしてこんなに曖昧で、しかも誇張に満ちた書き方をしたのだろう。東学農民軍なる武装集団が日本軍に対して蜂起した、という言い方も曖昧だが、それはさておくとしても、「数十万人」と言えば、10万人から99万人までの幅がある。それを日本軍が「大きく包囲」したと言うわけだが、「包囲」という作戦は相手に倍する兵力を持たなければ成り立たない。「東学農民軍」が99万人とすれば、日本軍は200万近い軍隊を動員したことになるはずだが、日清戦争全体を通じて日本が動員した兵力は25万人弱と言われている。

しかも、日本軍全体が「東学農民軍」に対応したわけではない。その大半は支那大陸における清国軍との戦闘に宛てられ、「東学農民軍」の攻撃に応戦したのはわずかに5000足らず。どうやって「包囲」したのだ?!

井上勝生は「日本軍は、……朝鮮西南隅に追い込んで殲滅した」と言うが、「殲滅」とは皆殺しを意味する。数十万の「東学農民軍」を本当に皆殺しにしたのか。

 

○「数万人」から「数十万人」へ

井上勝生は「日清戦争史から消されているが」と書いているが、比較的入手しやすい、藤村道生の『日清戦争』(岩波新書、1973)では、ちゃんと取り上げている。

 

  日本軍は、10月中旬、鎮川に農民数万人が結集したとの情報をえていたが、26日安保兵站支部が襲撃されて戦闘態勢をとり、公州の防御を固めた。中心となったのは南小四郎少佐のひきいる後備第19大隊1000と、中清道監司朴斉純指揮下の政府軍3500、地方営兵6000で、別に清州には白木誠太郎中尉のひきいる一個小隊と日本式装備の教導中隊が進出して東方からの攻撃に備えた。1118日、日本軍と政府軍は木川、細城山を奇襲攻撃し、金福用のひきいる農民軍は潰滅した。南方から進出した全琫準の部隊は、19日から公州を攻撃したが、日本軍の近代的武器による集中火力と巧妙な作戦のため公州を占領できず、第一次攻撃は失敗に終った。農民軍は金開南軍の応援をもとめて第二次攻撃の準備にとりかかったが、その間日本軍は政府軍とともに中清北道の掃討作戦をおこなった。

農民軍の第二次公州攻撃は124日からはじまり、6日間にわたってはげしい攻防戦がくりかえされた。

 

 井上勝生は「東学農民軍数十万」と言い、藤村道生は「農民数万人」と言う。まるまる一桁違う。藤村道生が『日清戦争』を書いて以来、研究が進み、東学農民軍なる武装集団は数十万人に膨れ上がったのであろうか。それとも「農民数万人」が軍隊化されるにつれて、馳せ参じた人間が10倍に増えたのであろうか。「数万人」という言い方もかなり曖昧だが、何だか「南京大虐殺」と同じで、歴史研究者なる人間は、やたらと「犠牲者」の数を増やしたがるらしい。

 

藤村道生によれば、日本軍は南少佐の率いる第19大隊1000名と、白木中尉の率いる1個小隊のみで、その他の「政府軍3500」と、「地方営兵6000」と、「日本式装備の教導中隊」は朝鮮政府の軍隊だった。

 日本は戦闘が続くにつれて、後備第18大隊と、後備第6連隊を投入したらしいが、大江志乃夫の『天皇の軍隊』(小学館、1982)によれば、日本の大隊は4中隊より成る。1連隊は3大隊で編成された。これは昭和に入ったころのことで、日清戦争のころとは異なるかもしれないが、大枠はそれほど変わらなかったであろう。

 明治23年の「陸軍定員令」によれば、歩兵中隊の定員は136名。1大隊はその4倍の544名となるわけだが、戦時編成の時は増員されていたはずで、藤村道生の記述を信ずれば約1000名。1連隊は約3000となる。

このことを参考に考えれば、日本が投入した兵士はわずかに5000名強。朝鮮政府の兵士9500強の半分程度だった。仮に日本軍と朝鮮軍とが共同作戦を行ったとしても、15千名足らず。井上勝生によれば、この程度の数で、数万、ないしは数十万の「東学農民軍」を包囲したことになる。

包囲されたのはどちらだったのだ?

 

 井上勝生の文章は、『明治日本人の植民地支配――北海道から朝鮮へ』という自分の著書に関する、自作解説として書かれたものらしい。しかし、まさかこんな胡散臭い書き方をしたわけではあるまい。井上は「与えられた紙数に限りがあったので、言葉が足りなかった」と弁明するかもしれないが、紙数の制限が厳しかったならば、その範囲で確実な事実を書くべきであって、〈日本軍は、数に於いては自軍に数倍、あるいは数十倍する東学農民軍を各個に撃破し、最後は朝鮮半島の西南隅に拠って抵抗を続ける残存兵力を包囲し、これを壊滅させた〉とでも書くべきだっただろう。

ついでに、この間朝鮮軍がどんな働きをしたかも、書き添えてもらいたい。もちろん、逮捕された「東学農民軍」の首謀者を裁き、刑を決定し、執行したのは朝鮮国の政府だったのか、それとも日本軍だったのか、そのことも加えて。

 そうしてこそ、井上が言う「犠牲者」という言葉が生きてくる。

 もし戦闘で死んだ者を言うのならば、それは「犠牲者」ではなく、「戦死者」のはずである。

 

○徴兵された「高齢の後備兵」?

 井上勝生はまたこんなことも言っていた。

 

  「討滅部隊」は、四国四県から徴兵された。部隊の記事、墓や碑、兵卒の従軍日記を探し歩き、凄惨をきわめた殲滅の現場を再現した。部隊兵卒は高齢の後備兵、小作や蒟蒻屋で、「徴兵逃れ」を策す余裕もない「貧しき兵卒たち」であった。

 

井上勝生が「再現した」という、「凄惨をきわめた殲滅の現場」については、私が意見を述べる材料を持たない。だが、「後備兵」と呼ばれる兵士はいなかったのではないか。井上勝生は「後備大隊の兵士」という意味で、「後備兵」を使ったのかもしれないが、後備大隊の兵士だからと言って、「高齢者」だったとは限らない。

「後備大隊」の「後備」は「後ろ備え」の意味であって、前線で戦う部隊の後方を守り、また、兵站(車両・軍需品の前送・補給、後方の連絡船の確保)の任務に当たる。「後備」の部隊には、新規に徴兵した高齢の兵士を充てる、なんてことはしなかったのではないか。

たしかに当時は徴兵令が布かれていた。しかし、20歳の「成人」に達した男子を片っ端から徴兵したわけではなく、「徴兵検査」があり、兵士としての適性に応じて、甲種合格、乙種合格、丙種合格、丁種合格等に分けられた。甲種合格者は現役兵として入営し、2年間、兵士としての教育と訓練を受ける。乙種合格者は補充兵役に組み込まれ、甲種合格者の人員が不足した場合には、志願、または抽選によって入営した。

2年間の兵役義務を果たして除隊した人たちは、予備役に編入され、現役兵に不足が生じた場合、再度招集されて兵役に就いた。

日本が日清戦争で動員した将兵は25万弱(清朝は100万弱)。平時の常備軍は7500程度だったらしく、一挙に3倍強に膨れ上がったわけで、当然、補充招集を行うことになったが、その対象となったのは乙種合格者か、もしそうでないならば予備役に編入されていた、軍隊経験者たちであっただろう。

もっとも、以上の徴兵令が布かれたのは明治22年のことであって、日清戦争を見込んで補充招集を行った明治27年ころ、予備役の元兵士たちは、おそらくまだ30歳には達していなかった。仮に予備役の元兵士たちが補充招集を受けたとしても、その人たちは壮年と言うべきであって、「高齢者」は失礼だろう。

いずれにせよ、「高齢者」を「徴兵」したなんてことはなかった、と思う。「乙種合格者」か「予備役の除隊兵士」を「補充招集」したのではないか。

 

○「負の歴史」とは何か

 井上勝生は自分の著書、『明治日本人の植民地支配――北海道から朝鮮へ』を、「消された「負の歴史」を再生させたいと願いつつ書いた」そうである。

 「消された「負の歴史」」とは何だろう。井上勝生は「誰が消した」のか、その「誰」を明示していない。ただ、彼のいう「負の歴史」がもし日本の植民地支配や、日清戦争を指すならば、それらのことは消されていない。つまり、誰も消そうとはしていない。誰かが消した、あるいは消そうとしたなどということは、井上勝生の妄想ではないか。

 そうしてみると、井上勝生がいう「負の歴史」とは、「東学農民軍」と日本軍との衝突ということになるわけだが、そのことについては藤村道生が書いているし、陳舜臣が『江は流れず 小説日清戦争』(中央公論社、昭和56年)でかなり詳細に語っている。読んだ人は多かったと思う。

 

そんなわけで、結局井上勝生が言いたかったのは、「東学農民軍」と日本軍との衝突は「負の歴史」だということだったらしい。しかし、誰にとって「負の」歴史なのだろうか。

「負の遺産」という言葉は聞いたことがある。しかし寡聞にして私は、「負の歴史」という言葉は聞いたことがない。私には初耳だった。あえて忖度すれば、「ある人間にとって、不名誉な汚点と感じざるをえない、自国の歴史」とか、「マイナスの結果しかもたらさなかった歴史」とかいうことかもしれない。

井上勝生にとって、それは以下のことを指すのだろう。〈朝鮮国内で起こった、東学の教義を奉ずる農民の武装蜂起を鎮圧するために、清国が軍隊を派遣したのと同時に、日本も軍隊を朝鮮半島に派遣し、「東学農民軍」を壊滅させ、その後、日清戦争に勝った日本政府は朝鮮国の独立を清朝政府に認めさせた〉。

 では、現在の大韓民国国民と北朝鮮民主主義人民共和国国民にとって、以下のことは「正の歴史」だったのか。〈朝鮮国の政府は、東学の教義を奉ずる農民の武装蜂起を、自力で鎮圧できず、清国に鎮圧軍の派遣を依頼した。その結果、日本が清国との条約に基づいて、日本もまた軍隊を派遣する、という事態を招き、日本軍の協力を得て、あるいは日本軍の主導のもとに、農民の武装蜂起の農民軍を壊滅させた。その後、日清戦争に勝った日本の後押しによって、大韓帝国という独立国になった〉。私の見るところ、これもまた現在の大韓民国国民と北朝鮮民主主義人民共和国国民にとっては「負の歴史」なのではないか。

 

 ただ、東学の教義を奉じて武装蜂起した農民軍が掲げたスローガンの中に、「斥倭」、つまり「日本の影響、または侵入を退ける」という項目が入っていた。東学農民軍はまさにその一点において、反日闘争の輝かしい原点であり、現在の大韓民国国民と北朝鮮民主主義人民共和国国民にとっては、「正の歴史」であるのだろう。また、その一点において、日本軍による「東学農民軍」の潰滅は、井上勝生にとって、「負の歴史」のなかで最も忌むべき「負の歴史」ということになっているのかもしれない。

 

○歴史研究は怖い

 歴史研究者は怖い。歴史学が用いるキーワードの大半は比喩なのだが、ほとんどの歴史研究者はそのことに気がついていない。気がついていないから、大げさな言い回しを弄ぶことになってしまうのである。

 

 

§オピニオン・ランチャー社から

電子書籍版「テクストの無意識」4編の読みどころ

「太宰治の津軽」

 太宰治が、久しぶりに訪れた津軽で、故郷の良さを再発見し、ラストでは昔自分の子守をしてくれた懐かしい〈たけ〉(越野タケ)と出会う。「津軽」は、そうした心温まる回想記として読まれてきた。だが太宰は、実際には、再会したタケとほとんど一言も言葉を交わしていないという。その意味では、この作品は非常によく出来た太宰の〈創作〉と言える。

 またその一方で、この「津軽」は実は小山書店の〈新風土記叢書〉の一つであり、シリーズ本来の趣旨としては、津軽に関する地理や風土・産物・人情などを紹介する一種のガイド本となるはずであった。ではなぜ、太宰は、そのような出版社側のコンセプトを敢えてはずして、この本を、自分をめぐる故郷の人々を前景化した〈小説〉にしてしまったのか? 

 様々に起こる疑問をもとに読み解いてゆくと、このテキストの持つ意外な仕掛けや豊穣な意味が見えてくる。四十年以上にわたって表現論・テキスト論の最前線を走り続けて来た亀井秀雄が、自ら電子書籍出版社を立ち上げ世に送る〈オピニオン・ランチャー叢書〉第一弾! 

 

「大江健三郎の『沖縄ノート』」

 太平洋戦争末期に起こった、沖縄における〈集団自決〉という悲劇。大江健三郎は『沖縄ノート』の中で、自決は軍の命令のもとに行われたとし、名前は明示しないながらも、その命令を下した軍人も確かにいることを示唆していた。そのことに対し、かつて沖縄の島々に配属された守備隊長らが、人格権(名誉権)を傷つけられたと大江を告訴したが、結果は大江側の勝利となった。良識的には妥当な結果が出たように見えるこの裁判。だが、〈誰が自決命令を下したかについて、特定の個人を名指ししているような記述はない〉とされた大江のテキストの中には、ある種の巧妙なレトリックが隠されていた――?

 〈裁判〉という名の言説の絡み・もつれを読み解く事に関しては非常な粘りを見せる亀井秀雄の、〈オピニオン・ランチャー叢書〉第二弾!

 

「中野重治「雨の降る品川駅」における伏字と翻訳の問題」

 中野重治の詩「雨の降る品川駅」は、日本のプロレタリア詩の中でも最も優れた作品の一つという高い評価を得てきた。日本を逐われて父母の国へ帰る朝鮮人を品川の駅で見送る詩人の悲しみと心情の高まりが、感動的に表現されているからである。

 だが、この詩には、書かれた時代や発表された際の伏字等の違いに起因する三種類のバージョンが存在する。また、誰がその伏字を行ったか、そして戦後にどのような過程を経てそれが〈完成〉されたかについても興味深い背景がある。亀井秀雄の〈オピニオン・ランチャー叢書〉第三弾は、伏せられ、隠され、また当てはめられてゆく、〈詩の言葉〉という迷路の探求編である。

 

「「赤い靴はいてた女の子」をめぐる言説」

 野口雨情の童謡詩「赤い靴」から着想を得た銅像の建立は、本論が書かれた平成二十四年時点で、全国で十カ所に及んでいた(またちなみに、2010年・平成22年には、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市に、山下公園の少女像と同型の像が建てられた)。

 この、奇妙なほどの〈童謡の物語化〉の広がりの原因は、一つには、昭和五十三年にテレビで「赤い靴はいてた女の子」のドキュメンタリーが放映されたからであり、また、文化人類学者の山口昌男が、雨情の童謡の中から〈青い眼をした人形と赤い靴はいてた女の子〉を取り上げ、戦前の不幸な日米関係の象徴として論じたからである。結果、「赤い靴」の女の子は少女「きみ」として実話的に捉えられることとなり、“この世で一緒になれなかった可哀想な一家”の物語は、次第にリアリティをまして増殖してゆくこととなった。

 しかし、果たして雨情の童謡は、そのように〈実話読み〉すべき内容のものなのであろうか。そして、山口昌男が〈青い眼をした人形〉と〈赤い靴はいてた女の子〉を、ある意味無理にでも結びつけて論じた理由とは? 亀井秀雄の〈オピニオン・ランチャー叢書〉第四弾!

 

 

 

 

 

 

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日本文学協会の奇怪な「近代文学史」観

日本文学協会の奇怪な「近代文学史」観

――亀井秀雄のチャージ(その6)――

 

○回復のきざし

 ようやく体調が回復するきざしが見えてきた。

 

 私は昨年の春、市立小樽文学館の館長を辞め、勤めに拘束されない身分となった。長年気になっていた庭を自分の好きなように作ってみたい。そのためにはまず下ごしらえだ。そう考えて庭を均し、土を作ろうと、夏の間は二日に一回くらいの割合で、二時間ほどは庭に出た。

 ところが、秋に入って、ひつじ書房から『増補 感性の変革』の校正刷りが来るようになった。待ちに待っていた仕事なので、机に向かう時間が長くなり、おのずから体を動かすことが少なくなった。少しムキになった校正に集中しすぎたのが悪かったらしい。正月を越え、今年の春、三校が終わる頃には、心臓が弱って息切れがしやすい。足がむくんできた。腕と足の筋肉がみるみる落ちてしまった。

 家の門の前に、道を挟んでゴミを置くケージがある。朝、そこへゴミを捨てに行って来るだけで呼吸が荒くなる。無様にむくんだ足をさすりながら、そろそろ俺も覚悟を決めなければならないかな、と思った。

 

 岩見沢の市立病院の呼吸器科と循環器内科で診てもらい、札幌の循環器専門の病院で診てもらって、心臓の三尖弁と右心房の不調と分かり、しかし手術の話は出て来ない。生活習慣と食事の改善で対応することにした。その甲斐があって、足のむくみも大分引いて、食欲も少し出てきた。が、523日の講演はキツかった。

市立小樽文学館では伊藤整生誕110年を記念する特別企画展示をやっていて、この日私が講演をする約束を、昨年のうちにしていた。そのことが4月、文学館のホームページに載ると、さっそく聴講予約の電話が入り、ありがたいことに横浜からも電話があったという。

それほど期待してくれる人がいるのに、まさかドタキャンをするわけにはいかない。昨年までは平気で往復していた小樽へ出るために、私は前日に家を出て、小樽に泊まった。幸い講演はつつがなく終わって、この日も小樽泊まり、翌日は岩見沢に帰るつもりだったが、疲れ切って体が動かない。もう一泊して家にもどった。

 この時は本当にキツかった。

 

 しかし最近は一日に20分くらいは歩けるようになり、食欲も進んで体重も少しずつ増えている。あと5年くらいは頑張りたい。

 

○日本文学協会の歪んだ文学史観

 ただ、その間、私は気分的に落ち込んでいたわけではない。むしろ昂揚していた。

一昨年、ひつじ書房から『主体と文体の歴史』を出してもらい、今年は『増補 感性の変革』を出してもらい、校正の作業を通して克明に自分の仕事を読み直す機会を得た。自分がどれだけの仕事をしてきたか、静かな深い自信が湧いてきた。

 今度の校正をしている間に、日本文学協会近代部会編の『読まれなかった〈明治〉――新しい文学史へ―』(双文社出版、201411)が出た。せっかく送って下さった人には申し訳ないが、ざっとめくってみて、私は日本文学協会の不勉強ぶりにあきれた。問題意識といい、取り上げた作品といい、論じ方といい、この程度のことはすでに20年、いや30年も前から常識化しいるのではないか。どこが「新しい文学史」なのか。

 

 『読まれなかった〈明治〉』の「まえがき」に、こんなこと言葉が見られる。

 

   これまで「小説神髄」の歴史的意義は文学観の刷新という観点からのみ語られてきたが、しかし後世に決定的な影響を与えたのは、文学ジャンルや文学スタイルを進化論(発展進歩史観)によって説明し、文学を階層化し、序列化した点にあるだろう。その結果、現実や人間心理を「ありのまま」に写す写実主義の「小説」が文学史の頂点に位置づけられたのと対照的に、伝統的な物語性や虚構性は「遅れたもの」「劣ったもの」として、社会的、政治的批評性は「二義的」なものとして軽視されることになった。このことは近代日本人の中から、文学の持つ本来的な豊かさを評価する眼を奪い、日本人の文学観を非常に狭隘かつ脆弱なものにしてしまったように思われる。

 

これが日本文学協会の近代部会メンバーの現在的問題意識らしいが、もし本当に近代の文学観と文学史を根本から刷新したいと思うならば、『小説神髄』の読み方そのものの刷新から始めなければならいのではないか。

かりに日本人の文学観が「文学の持つ本来的な豊かさを評価する眼を奪」われ、日本人の文学観が「非常に狭隘かつ脆弱なもの」になってしまったとしても、それは逍遥の『小説神髄』がもたらした影響のためではない。戦後の日本の自称評論家や、自称近代文学研究者の『小説神髄』を読む眼が決定的に貧しかったため、『小説神髄』や、それと前後して逍遥が書いた小説が内包する豊かさを読み取れなかっただけなのである。

 

私は『「小説」論――『小説神髄』と近代―』(岩波書店、1999)のなかで、ヨーロッパの小説論の歴史に照らしても、いかに逍遥の小説論が突出していたか、を明らかにした。また、逍遥にそれを可能とさせたものは本居宣長の「もののあはれ」論や、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』とその中で展開された小説稗史論や、そのた江戸期のさまざまな物語類であることを明らかにしておいた。『明治文学史』(岩波書店、2000)では、逍遥の『細君』のなかに、小説的描写法の可能性を発見した。その他、逍遥が『小説神髄』と前後して発表した小説についての論考を『増補 感性の変革』に収めておいた。そういう仕事をしてきた人間として、自信をもって以上のことを断言できる。

 

また私は、以下のことを断言してはばからない。先のごとき評論家や研究者は、『小説神髄』のなかに「ヨーロッパ近代文学」の理解の未熟、未消化を見つけ出し、対比効果的に二葉亭四迷の社会批評性や、北村透谷の文学非功利説の「近代性」を称揚してきた。そういう手合いによって、「伝統的な物語性や虚構性は「遅れたもの」「劣ったもの」として、社会的、政治的批評性は「二義的」なものとして軽視」する、偏頗な文学(史)観が流布されてきたのである。

この研究者のなかに、日本文学協会の研究者も含まれていること、言うまでもない。自分たちの貧しさを逍遥に押しつけるのはいけない。

 

○無理やりな関連づけ

 

「まえがき」の書き手は、続けてこんなことを言っている。

 

  またこの逍遥の理論的枠組みから文学史を顧みると、当然ながら日本の「近代文学」は明治十八年の坪内逍遥の「小説神髄」の理論的提唱と、主人公の孤独な内面を「写実的」に描いた明治二十年の二葉亭四迷の「浮雲」と、二十三年の森鷗外の「舞姫」という作品の登場によって始まることになる。今日定説となったこのような文学史を整備したのは、日本の「半封建的」な風土への批判とそこからの個の自立を唱えた近代的自我史観だった。そういう意味で「近代的自我史観」も発展史観を基軸に置き、リアリズムを重視し、主人公の意識の進歩性を評価し、「政治」と「文学」を二項対立的に捉えるなど、本質的に逍遥の理論的枠組みを超えるものではなかった。そのために、戦後に於いても逍遥の理論的枠組みの外部にある、物語り的なもの、伝統的なもの、社会的・政治的なもの、大衆的なものをもった文学作品は依然文学にとって二義的な評価しか与えられなかった。

 

本当だろうか。「日本の「近代文学」は明治十八年の坪内逍遥の「小説神髄」の理論的提唱と、主人公の孤独な内面を「写実的」に描いた明治二十年の二葉亭四迷の「浮雲」と、二十三年の森鷗外の「舞姫」という作品の登城によって始まる」などという「定説」は、ずいぶん昔に雲散霧消してしまった。また、かりにまだこの「定説」が残っているとしても、果たしてそれは「逍遥の理論的枠組み」から文学の歴史を顧みることによって作られた「定説」なのだろうか。

この「まえがき」の書き手は、今日の「定説」を作った逍遥の理論的枠組みと、「日本の「半封建的」な風土への批判とそこからの個の自立を唱えた近代的自我史観」とを同等なものと見なしている。いや、「同等」と言っては語弊がある、むしろ後者は前者の延長・継承・発展、あるいは再解釈と言うべきではないか。そういう反論もあるかもしれないが、しかし血縁関係を認めている事実は変わらないだろう。だが、逍遥の理論的枠組みのなかには、「主人公の意識の進歩性を評価する」とか、「「政治」と「文学」とを二法対立的に捉える」とかいう発想は全く含まれていなかった。

それに、逍遥がいう「ありのまま」を、その文脈のなかで読み返してみれば、「リアリズムの重視」と言えるかどうか、極めて疑わしい。

 

逍遥は演劇について、「真物を模擬する」とか、「里ヤリチイ不ラス釵ムシング(リアリティ・プラス・サムシング)」とかいう言い方をしていたが、これはリアリズムを主張するためではなかった。

逍遥は、小説と実録とを区別して、小説の小説たるゆえんを次のように説いている。

 

 およそ小説と実録とはその外貌につきてみれば、少しも相違のなきものなり。ただ、小説の主人公は実録の主とおなじからで、全く作者の意匠に成りたる虚空仮説の人物なるのみ。されども、いつたん出現して小説中の人となりなば、作者といへどもほしいままに之を進退なすべからず。あたかも他人のやうに思ひて自然の趣をのみ写すべきなり。(引用の都合上、句読点をつけ、幾つかの漢字をかな書きに変え、振り仮名を省略した

 

 分かるように彼は小説を「作者の意匠に成りたる虚空仮説」の世界の、「虚空仮説」の人物を描くジャンルと考えていた。もしリアリズムを、社会的現実を「写実的」に描くという意味に解するならば、逍遥がいう「ありのまま」「写す」は、それとはまったく異なる。

 そもそも『小説神髄』にはリアリズムなんて言葉は出てこない。ましてリアリズムの主張などはしていなかったのである。

 

○次回は伊藤整の文学史観から

 こんなふうに検討し始めると、きりがないほど色んな疑問点が出てくる。要するに「まえがき」の書き手が「近代的自我史観」やら、「リアリズム」やら、「主人公の意識の進歩性の評価」やら、「政治と文学の二項対立的捉え方」やらを関連づけるやり方は、まるで無茶苦茶なのである。

 

 523日、私が市立小樽文学館でおしゃべりした講演のタイトルは「挑戦的な文学史観――文学史家・伊藤整の達成―」だった。日本文学協会の『読まれなかった〈明治〉』を意識したわけではなく、それ以前にタイトルは連絡しておいたのだが、こうして整理してみると、期せずして私は『読まれなかった〈明治〉』がいう「近代的自我史観」を批判していた。そのことに気がついた。

 次回は伊藤整の近代文学史観を紹介しつつ、『読まれなかった〈明治〉』がいう「近代的自我史観」を検討してみたい。

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ありがたい反響

ありがたい反響
――亀井秀雄のチャージ(その5)――

○「テクストの無意識」の読みどころ
 今月の4日に楽天ブックスにアップした「テクストの無意識」シリーズは、発売した翌日に早速「中野重治「雨の降る品川駅」における伏字と翻訳の問題」を購入して下さる人がいて、順調に滑り出した。
 電子書籍を発行するについては、編集から表紙、宣伝まで請け負ってくれるプロの編集者(?)がいるらしいが、オピニオン・ランチャー社では何事も経験と、手作りでやってみた。その割にはうまく行ったほうかもしれない。
 ただ、宣伝が足りないのではないか、と指摘してくれる人もいる。そうかもしれない。論文のタイトルだけでは内容・特徴がなかなか伝わらない。シリーズをアップする直前、全部を読み通してくれた人が、次のように「読みどころ」をまとめてくれた。私から見ても、我が意を得た、適切な宣伝文で、「楽天ブックス亀井秀雄」に表示される表紙をクリックすれば読むことが出来るが、ここに再録させてもらう。


 
太宰治の津軽
 太宰治が、久しぶりに訪れた津軽で、故郷の良さを再発見し、ラストでは昔自分の子守をしてくれた懐かしい〈たけ〉(越野タケ)と出会う。「津軽」は、そうした心温まる回想記として読まれてきた。だが太宰は、実際には、再会したタケとほとんど一言も言葉を交わしていないという。その意味では、この作品は非常によく出来た太宰の〈創作〉と言える。
 またその一方で、この「津軽」は実は小山書店の〈新風土記叢書〉の一つであり、シリーズ本来の趣旨としては、津軽に関する地理や風土・産物・人情などを紹介する一種のガイド本となるはずであった。ではなぜ、太宰は、そのような出版社側のコンセプトを敢えてはずして、この本を、自分をめぐる故郷の人々を前景化した〈小説〉にしてしまったのか? 
 様々に起こる疑問をもとに読み解いてゆくと、このテキストの持つ意外な仕掛けや豊穣な意味が見えてくる。四十年以上にわたって表現論・テキスト論の最前線を走り続けて来た亀井秀雄が、自ら電子書籍出版社を立ち上げ世に送る〈オピニオン・ランチャー叢書〉第一弾! 

大江健三郎の『沖縄ノート』
 太平洋戦争末期に起こった、沖縄における〈集団自決〉という悲劇。大江健三郎は『沖縄ノート』の中で、自決は軍の命令のもとに行われたとし、名前は明示しないながらも、その命令を下した軍人も確かにいることを示唆していた。そのことに対し、かつて沖縄の島々に配属された守備隊長らが、人格権(名誉権)を傷つけられたと大江を告訴したが、結果は大江側の勝利となった。良識的には妥当な結果が出たように見えるこの裁判。だが、〈誰が自決命令を下したかについて、特定の個人を名指ししているような記述はない〉とされた大江のテキストの中には、ある種の巧妙なレトリックが隠されていた――?
 〈裁判〉という名の言説の絡み・もつれを読み解く事に関しては非常な粘りを見せる亀井秀雄の、〈オピニオン・ランチャー叢書〉第二弾!

中野重治「雨の降る品川駅」における伏字と翻訳の問題
 中野重治の詩「雨の降る品川駅」は、日本のプロレタリア詩の中でも最も優れた作品の一つという高い評価を得てきた。日本を逐われて父母の国へ帰る朝鮮人を品川の駅で見送る詩人の悲しみと心情の高まりが、感動的に表現されているからである。
 だが、この詩には、書かれた時代や発表された際の伏字等の違いに起因する三種類のバージョンが存在する。また、誰がその伏字を行ったか、そして戦後にどのような過程を経てそれが〈完成〉されたかについても興味深い背景がある。亀井秀雄の〈オピニオン・ランチャー叢書〉第三弾は、伏せられ、隠され、また当てはめられてゆく、〈詩の言葉〉という迷路の探求編である。

「赤い靴はいてた女の子」をめぐる言説
 野口雨情の童謡詩「赤い靴」から着想を得た銅像の建立は、本論が書かれた平成二十四年時点で、全国で十カ所に及んでいた(またちなみに、2010年・平成22年には、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市に、山下公園の少女像と同型の像が建てられた)。
 この、奇妙なほどの〈童謡の物語化〉の広がりの原因は、一つには、昭和五十三年にテレビで「赤い靴はいてた女の子」のドキュメンタリーが放映されたからであり、また、文化人類学者の山口昌男が、雨情の童謡の中から〈青い眼をした人形と赤い靴はいてた女の子〉を取り上げ、戦前の不幸な日米関係の象徴として論じたからである。結果、「赤い靴」の女の子は少女「きみ」として実話的に捉えられることとなり、“この世で一緒になれなかった可哀想な一家”の物語は、次第にリアリティをまして増殖してゆくこととなった。
 しかし、果たして雨情の童謡は、そのように〈実話読み〉すべき内容のものなのであろうか。そして、山口昌男が〈青い眼をした人形〉と〈赤い靴はいてた女の子〉を、ある意味無理にでも結びつけて論じた理由とは? 亀井秀雄の〈オピニオン・ランチャー叢書〉第四弾!

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オピニオン・ランチャー社発売成功

オピニオン・ランチャー社発売成功
――亀井秀雄のチャージ(その4)――

○出版に成功
 昨日(2月4日)、楽天ブックスの電子書籍から、私の4冊の本が無事に出版された。
 全くの素人がマニュアルを見ながら、手探りで進め、はたして上手くゆくかどうか、不安だっただけに、無事出版を確認できて、ほっと安心した。正直なところいささか疲れた。

○難点が一つ
 ただ、1点、お詫びしなければならないことがある。
 楽天ブックス電子書籍用のタブレット、Koboの使い勝手がはなはだ悪い。もちろん各ページの紙面はきれいに表示される。だが、てきぱきと次のページへ移らない。次のページへ移る操作をすると、しばらく画面が真っ白になり、壊れたのだろうか?と思い始めた頃に、ようやく次のページが表示される。
 これは、電子ブックのもとになるEpubファイルが原因である。本当は、文字の大きさも行送り・改行も、読む媒体(機械)に合わせられるリフロータイプのEpubにしたかったのだが、InDesignで作成したファイルをEpubに変換したとたん、文字の太さも行間もあちこちでイメージしていたものと異なる上に、原版ではきちんとしていたはずのローマ数字が横倒しになったりと、ひどい状態になってしまった。「これは、ひとえに、InDesignの扱いにまだ慣れていない自分の技量のせいだ」と娘は反省していたが、しかしこれを直すには、また、〈文字スタイル〉や〈段落スタイル〉の設定など、細かいところを一から見直し、手を加えてゆかねばならない。それでは、いったい出版がいつになるか、見当もつかない。
 それでも娘が工夫を重ねて、フィックス(固定レイアウト)Epubに変換し直してみたところ、何とか見た目だけは狙い通りになった。とりあえず、これでいってみようと、楽天ブックスにアップロードし、それ自体はうまくいった。ところが、上に述べたように、このタイプのEpubだと、Koboでの表示にやたらと時間がかかってしまう。これでは、よほど辛抱強い人でも、読み通す気がなくなってしまうだろう。なんとも申し訳ない。

○解決法
 ただし、解決法がないわけではない。お手元のパソコンかタブレットで「楽天Koboアプリ」を検索していただき、ダウンロードしていただければ、やや文字は小さめではあるが、普通に表示され、ページめくりにもそれほど時間はかからない。iPadのように割とパワーのあるタブレットなら、おそらく指でのピンチアウト(拡大)もスムースに出来るだろう。Koboよりも、かえってこの方が使い勝手がいいかもしれない。
 
 一方で、お手元のiPodやiPhone、スマートフォンをつかう方法もあるが、なにぶんにも画面が小さすぎる。最近のスマートフォンなら大きめに出来ていて何とかなるかもしれないが、あまりお勧めはできない。

○「縦書き」に特化したソフトを
 なぜ、こんなことになってしまったのか。たぶん電子書籍のソフトを作る人たちは、「横書き」を前提にしているからだろう。
 私たちは、当初、アマゾンのキンドル版で出版することを考えていたのだが、アマゾンはアメリカの会社だから、キンドル版向けのEpubを作るとなると、どう情報を検索してみても、こぞって、「横書きの方が作成が楽」という話になっていた。が、娘が札幌のパソコンスクールで短期の〈InDesign講座〉に通って、InDesignソフトで何とか縦書きの電子書籍を作ることができるまでになり、去年の暮れまでには「版下」が出来ていた。

 だが、キンドル・ダイレクト・パブリッシング(以下キンドル)に登録しようとしたところで、大きなつまづきが待ち構えていた。
 アマゾンはアメリカの会社なので、ただ普通に登録して出版しただけだと、日本からもアメリカからも税金を二重取りされてしまうことになり、結果、著作権料がほとんど消えてしまうことになりかねない。だから、キンドルに登録する際には、アメリカの方で免税が受けられるように書類を出さなければならないし、たいていは、アマゾンのサイトでキンドル登録をしてゆく過程で、その書類の書式もダウンロードできる仕組みになっている(ただ、その後もそれを郵送しなければならないとか、面倒な一手間二手間がまだあるが)。
 ところが、その目的の書類書式のダウンロードページに、どうしても行き着けない。

  原因は、わがオピニオン・ランチャー社が〈合同会社〉だからである。合同会社は、設立条件については比較的ハードルが低く、立ち上げやすい会社形式であるが、これは、日本の場合、普通に〈会社〉のカテゴリーの中に入る。しかし、アメリカでは、この合同会社(Limited Liability Company) は他の会社と違い、パートナーシップ(組合)と同じような扱いになるという(他にも課税方法の違いなどあるらしいが、細かいところはよくわからない)。つまり、提出する書類の方も、個人出版とも株式会社出版とも別形式になるようなのだ。
 しかし他方、こちらは日本の会社なのだから、〈日本で営業しているので免税してほしい〉という書類を第一に出さなければならない。だが、肝心のその書類がダウンロードできない。ネットを検索しても、ガイドブックの類いを読んでも、基本は〈個人出版のすすめ〉であり、そうでなければ株式会社のみを念頭においているので、合同会社のことは一言半句出てこない。困じ果ててアマゾン・ジャパンに問い合わせをしてみたが、そういう事は専門の税理士に尋ねてください、という内容の返事しか返ってこなかった。

 そこで急遽、今年に入ってから楽天ブックスに変え、こちらは日本の会社だから、条件その他の説明が分かりやすい。ただ、楽天Koboの〈ライティングライフ〉を立ち上げた人たちも、最初に念頭においていたのは「横書き」中心の表記だったのだろう。時代の趨勢は「横書き」へ向かっているという判断なのだろうが、やはり日本文、特に昔の文章の引用部は、「縦書き」でないとはなはだ読みにくいという事情がある。ルビや圏点、傍線やゴチック体なども表記には必須だ。そこで、多少高機能すぎるかも知れないソフトを使ってでも、縦書きの画面を作ることにチャレンジし、何とか成功(?)はしたわけである。
 ページめくりに、Koboタブレットの反応が鈍いのは、固定レイアウトEpubが画像に近い(つまりデータサイズが大きめ)という理由もあるのかも知れないが、以上のような「縦書き」に対応する機能がお粗末なためではないか。そんな気がしてくる。

 Koboタブレットの制作者がその種の問題に目を向けて、使いやすい対応ソフトを開発するなどの環境改良をしてくれる。そのことを切に期待している。もしそれを怠るならば、別な会社が縦書きの日本文のために機能を特化したソフトを開発し、まだまだこれから需要が増えるだろう「縦書き日本文」のマーケットを席捲することになるだろう。

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オピニオン・ランチャー社事業開始

オピニオン・ランチャー社事業開始
――亀井秀雄のチャージ(その3)――

○『増補 感性の変革』のこと
 ずいぶん長い間ご無沙汰をしてしまった。
 「オピニオン・ランチャー社」の立ち上げを報告してから、もう半年になる。「なんだ、年寄り扱いされるのがイヤで、カラ元気のホラを吹いただけなのか」。そんな印象を持たれた人も多いと思う。それはやむを得ない。

 ただ、その間全く怠けていたわけでない。ランチャー社立ち上げの報告の時もちょっと言及しておいたと思うが、ひつじ書房が一昨年の『主体と文体の歴史』に続いて、もう一冊論文集を出してくれることになった。

 内容は、『感性の変革』を核として、『感性の変革』で扱った時代の文学に関する論文15編を加えた、Ⅳ部構成の『増補 感性の変革』。
 『感性の変革』は、2002年(平成14年)、ミシガン大学が英訳本を出してくれた。そのとき私は、英語圏の読者のために、400字原稿用紙180枚近い「解説」をつけたが、その日本語文も入れてある。おかげで『主体と文体の歴史』とおなじく、550ページ近い大冊となった。

  その校正が12月初めまでかかり、それから1ヶ月ほど、骨休めのつもりでぼんやりしていたのだが、今の出版社は仕事が早い。昨年の暮れも詰まった、12月29日に再校のゲラが届いた。元日のお屠蘇もそこそこに――と言うと、やや誇張に過ぎるが――さっそく校正にかかり、漸く1月28日に終わって、ひつじ書房にお返しした。間もなく念校が始まると思うが、とにかく一息つくことができた。『増補 感性の変革』は春までには出ると思う。ぜひご一読いただきたい。

○楽天ブックス・電子書籍の出版
 さて、他方、オピニオン・ランチャー社から出す予定の電子書籍については、昨年の暮れには「テクストの無意識」と題するシリーズの4冊の版下が既に出来ていた。
 その4冊を昨日(2月1日)、楽天ブックスの電子書籍ストアにアップした。楽天の側でチェックし、問題がなければ、4日(2月)から発売される。

 当初はアマゾンのキンドル版で出すつもりで、年賀状にもそう書いたのだが、幾つかの事情があり、楽天ブックスの電子書籍で出版することにした。年賀状を受け取った方々には誤った通知をしてしまい、まことに申し訳ない。ご海容をお願いする。

 今度出版した4冊は、

 「太宰治の津軽」
 「大江健三郎の『沖縄ノート』」
 「中野重治『雨の降る品川駅』における伏字と翻訳の問題」
 「『赤い靴をはいた女の子』をめぐる言説」

『増補 感性の変革』が明治文学を中心に論じたのに対して、こちらは昭和文学を対象としており、ここ数年の間に執筆したばかりである。

  この4冊を総称して、「テクストの無意識」シリーズ。
 ヴォルフガング・イーザーが提唱した「テクストの「空所」」という概念は多くの研究成果をもたらしたが、それはあくまでも「読む行為」を解明する理論だった。
 本シリーズはそれとは違って、作者の表現操作おけるトリックやレトリックに焦点を合わせて、その表現操作にひそんでいる無意識を明らかにする。と同時に、どのような時代的な無意識を反映しているかを明らかにした。
 こちらも是非ご一読いただきたい。

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日本人はこの戦争には負けない

亀井秀雄のチャージ(その2)

ーー日本人はこの戦争には負けないー

○0点を取った記憶
 私は昭和12年の2月生まれで、昭和18年、数え7歳で国民学校に入り、3年生の夏、日本の敗戦を知った。

 
 
 その頃、どんな教科書を使ったか、よく覚えていない。当時は、何事にも倹約を旨としていたから、私のように兄や姉を持つ子供は、ほとんど「お下がり」で済まされていた。新品のものを買ってもらえることは滅多になかった。教科書も多分2歳年上の姉のお下がりだったはずで、愛着がなかったのであろう。

 ただ、文房具のことはよく覚えている。帳面は粗悪なザラ紙だった。鉛筆は、親指と人差し指と中指でつまんで書かねばならないほど、短くなるまで使った。消しゴムなんて気の利いたものはなく、どこからかタイヤの欠片を手に入れて、間違ったところを消そうとした。だが、粗悪なザラ紙はただ黒く汚れるばかり。少し強くこすると、たちまち紙が破れてしまった(もう一つ、飛行機の防弾ガラスの破片も手に入れた。これで紙をこすると、とてもいい匂いがした)。

 多分3年生の春だったと思う。先生がこれから「かけ算」の試験をすると言って、はがき大のザラ紙を配った。先生が「3×2は?」と聞いたら、答えの「6」だけを紙に書く。そういう試験だった。
 私たちは朝礼が終わったあと、教室へ入るあいだ、必ず歩調を揃えて声高く「九九」を暗唱することになっていた。だから、かけ算の試験は決して難しくない。
 ところが、私は変な勘違いをして、先生の問いかけに合わせて「3×2=」、「3×5=」と書き始めた。答えはその後で書けばよい、と思いこんでしまったのである。もちろんそんなことをやっていては、先生の質問に追いつけない。それに、ザラ紙の答案用紙の表だけでは間に合わず、裏返しをして「7×3=」とやっていた。「あっ、間違えた」と思って、急いで「消しゴム」を使うと、たちまち紙面が薄汚れてしまう。結局私の点数は0点だった。
 私は正直にその答案を母に見せた。母はショックを受けたらしく、「うちの子が0点を取るなんて……」とため息をついたまま、黙ってしまった。それを見て、私はショックを受けた。
 私自身は答案を見ても驚かなかった。私は先生の問いかけに答えられなかったわけではなく、ただ答えの書き方を間違っただけだ。そう考えて、0点に納得していたのである。

 ただ、私のこういうトンチンカンな癖はついに直らなかった。大学生の時も、高校教師と時も、大学教師の時も、時々間抜けな間違いを冒し、後で苦笑いをしたり、冷や汗をかいたりした。

○「戦争」の理解
 私はそういう子供だったが、子供なりに「日本人はこの戦争には負けない」という考え方を理解していたように思う。

 「日本人はこの戦争には負けない」とは、こういうことである。
 日本はいま大事な戦争を戦っている。世界を押さえつけている米英を負かして、弱い国々を助け出し、皆で一緒に手を組んでゆくために戦っている。米英はすごい武器を持っている。ひょっとしたら、「戦闘」では日本は負けるかもしれない。だが、信念では米英に負けない。「戦闘」では日本が負け、日本人は皆死んで、一人も残らないことになるかもしれないが、たとえそうなっても、信念は残る。そうなれば、米英はこの信念と戦うことなるわけだが、信念を銃で撃ったり、爆弾を落としたりして、打ち負かすことはできない。だから日本は信念で米英に勝っているのだ。

 今から考えると、ずいぶんと屈折した、ある意味では倒錯した考え方だったように思う。しかし私は子供の時、この戦争はそういう戦争だと思っていた。戦後は、戦後なりの厳しい言論統制があり、「この戦争はそういう戦争だ」なんて種類の発言は禁句だった。だから、戦後になって、私が「そういう戦争だった」と知る機会はなかったはずで、多分私は、戦争中の色んな言説の断片を寄せ集めて、おぼろげながら上のような考え方をするようになっていたのだろう。
 今思えば、これが私なりに理解した「一億玉砕」の思想だったわけで、私の頭のなかでは「一億玉砕」と「不敗神話」とが、こういう形で結びついていたのである。

 靖国神社とは、私にとって、そういう信念を抱いて死んでいった人たちの霊を祀る神社、少なくともそういう信念を抱いて死んでいった人たちの霊をも祀る神社なのである。

○新憲法の理解
 以上のような私の理解は、「3×2=」と同じたぐいの、トンチンカンな勘違いだったのかもしれない。しかし、今の私は、自分のそういう癖が気に入っている。
 私が新憲法を学んだのは、昭和24年、新制中学校に入ってからだった。私の同世代の多くは、戦争放棄、平和憲法の理想に感動したと言う。しかし、私は自分の記憶のどこを探っても、そういう理想に感銘を受けた覚えはない。中学校の社会科の先生は角田先生と言ったが、私は角田先生の「民法」の説明には目が覚める思いだった。私は家族のあり方や、相続の考え方など、「民法」の具体的な説明を通して、「人権」と「平等」の思想を、深い感銘をもって理解した。(8月15日深夜)

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欧米人が見た朝鮮国の日本人――マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(10)―

欧米人が見た朝鮮国の日本人
――マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(10)―

○日本軍上陸の光景
 前々回、私は「それでは、当時の欧米人が朝鮮国における日本人をどう見ていたであろうか」と書いて、文章を結んだ。だが前回は、「ちょっと一休み」して、論文集『主体と文体の歴史』(
ひつじ書房)の出版を報告した。今回は、改めて前々回の疑問にもどりたいと思うが、さて、どこから始めるか。
 前々回私は、イギリスの女性旅行家、イザベラ・バードが『朝鮮奥地紀行』(
朴尚得訳、平凡社東洋文庫、1993年。原著はKorea & Her Neighbours。1898年/明治31年)の中で、日本人を mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼んだことを紹介した。朴尚得はこの蔑称を「小人〔日本人〕」と翻訳したわけだが、今回は、その箇所を引用することから始めたいと思う。
 イザベラ・バードは1894年(明治27年)4月にソウルを発って、漢江を遡り、元山を経て、6月19日に釜山に着いた。そこらかソウルを目指し、6月21日の早朝、済物浦(後の仁川港)で次のような場面を見た。
〔引用〕
 上陸してみて私は、あのひどく鈍かった港が変貌したのを見出した。通りには、秩序正しく行進する日本軍の足音が響いていた。莚や秣(まぐさ)を積んだ荷馬車の列が、道を塞いでいた。日本人居留地の大通りにある家が全て兵舎に変わり、兵隊でいっぱいになっていた。ライフル銃と装具が、バルコニーにきらりと光っていた。元気なくぼうっとしている、通りをぶらつくか、小さい丘に坐り込んでいる朝鮮人の群衆が、自分たちの港が外国人の野営地に変容するのを放心してじいっと見つめていた。最初の軍隊の上陸からわずか二時間経過した時、私がロシアの若い将校と一緒に野営地を訪問した時、そこに茣蓙敷きの床と排水溝のある、それぞれ二十人収容している、通風を良くした鐘形のテントの帆布の下に、一千二百名もの男たちが居た。食事は漆塗りの箱で出されていた。馬小屋が急造されていた。騎兵隊と多量の銃砲が、中央に置かれていた。丈が十四手尺〔一・四二メートル〕あり、役に立つ動物である、列をなして山のような大量の砲台を運ぶ馬どもが素晴らしい状態におかれ、最新のインド様式の荷鞍を装備していた。砲弾と榴散弾を二百名の男たちと百頭の馬で、日本領事館からソウルに向けて運搬中であった。殆ど音を立てないで静かに作業していた。小綺麗な通りがある野営地は規律正しく、手入れが良く静かであった。町では歩哨が、通行人を呼び止めて誰何していた。あらゆる男が、あたかもその義務とその意味を知っているかのように見えた。威張りちらす者はいなかった。良く武装し、実戦向きの服装をしている小人〔日本人〕がその成し遂げようと意図している目的のために、朝鮮で目立っていた。下線は亀井)

 イザベラ・バードは日本軍が済物浦に上陸し、ソウルへ砲弾を送る作業を着実に進めている光景を目にしたわけだが、しかし彼女はそのこと自体には驚いていない。彼女は旅行中に、東学党の「乱」の噂を聞いていた。また、日本と清朝が1885年(明治18年)の4月に、「天津条約」を結んでいることも承知していた。その条約には、「将来韓国に重大な変乱がおこった場合に、日清両国もしくはその一国が出兵するとき、たがいに行文知照(文書をもって通知)し、事がおさめればすぐに撤兵する」(山辺健太郎『日韓併合小史』)という意味の条文が含まれていた。
 この条約を、ただ字面(じづら)だけで見るならば、日本と清国が朝鮮国の頭越しに、勝手に朝鮮国派兵の条約を結んでしまったように見える。だが、これは前年の1884年(明治17年)の12月に起こった「甲申政変」の結果であって、簡単に言えば、金玉均、朴泳孝ら、いわゆる親日派の政治家が、国家の改革を図り、日本の竹添公使の後援を予定してクーデターを起こした。が、朝鮮国の国王の重臣・金廷哲が清国に軍隊の出動を要請したために、あえなく清国軍隊に壊滅させられてしまった。このとき、清国軍は日本人と日本軍をも攻撃対象としたが、ソウルに駐在していた日本軍はわずかに約140名、それに対して、清国が動かした軍隊は1500名。戦力に10対1の差があった。山辺健太郎によれば、「日清両軍の衝突は六日午後三時にはじまり、勝敗は三時間できまり、公使と日本軍は公使館にひきあげた。この前に清国軍の優勢がわかると、一番ひどく動揺したのが国王であった。朝鮮兵も動揺して潰走し、なかには日本兵をめがけて射撃してくるものがでてくるしまつである中略ソウル在住の日本人と公使館関係者の百余名、日本兵百四十余名、計二百六十名は、やがてソウルから仁川にのがれ、十二月十一日便船を得て日本にむけ引揚げたが、金玉均らも一行といっしょだった。しかし竹添公使だけは仁川にとどまっていた」(岩波新書『日韓併合小史』)。
 しかし清国は朝鮮国のクーデター派と日本人を追い払った後、軍を引き上げていったわけではない。朝鮮国王の要請という名目を得て、朝鮮国に大軍を駐留させたままだったのである。
 さて、この後始末をどうするか。そこで清国の李鴻章と日本の伊藤博文が話し合って、上記のような天津条約を結んだのである。

 以上、事情説明のために少し言葉を費やしてしまったが、それからおよそ10年後の1892年(明治25年)の暮れ、朝鮮国ではいわゆる東学党の「乱」が起こり、その対応に手を焼いた朝鮮国王は、1894年(明治27年)、清国の袁世凱に援護を求めた。これが6月3日のことである。袁世凱はこの要請を受けて、出兵を決意し、「天津条約」に従って日本に出兵を通知した。日本もまた清国へ出兵を通告した。これが6月7日のことであった。
 このような経緯があり、そこでイザベラ・バードは6月の21日、済物浦で、日本軍の上陸の光景を見たわけである。

○日本と清国の駆け引き
 ただし、この時点ではまだ戦争は起こっていない。
 次いでに6月7日以降の動きも簡単に紹介しておくならば、大鳥圭介公使は6月9日に仁川に上陸し、翌10日、日本海軍の陸戦隊420名に護られて、ソウルに入京した。この派兵に関して、日本の政府は6月9日、マスメディアに対して、「朝鮮国内に内乱蜂起し、勢ますます猖獗を極む、同国政府は力能くこれを鎮圧し得ざるの状況に迫れり、よりて同国に在る本邦公使館領事館及び国民のため、軍を派遣す
」(『時事新報』明治27年6月10日)と出兵理由を明らかにした。つまり日本の出兵理由は、日本人の保護ということだったわけで、「甲申政変」の記憶がそうさせたのであろう。

 他方、清国軍は既に8日から12日にかけて、第一次派遣隊2100名を、牙山港に上陸させ、忠清道一帯に布陣したが、その出兵理由は、朝鮮国王より「反乱軍を鎮圧してほしい」という要請があったから、ということであった。しかも6月10日には、――つまり、日本の大鳥圭介公使と海軍陸戦隊がソウルに入った日には――ソウルを目指していた東学党と農民の叛乱軍が、政府軍に弊政改革案を提起して、全州和約が成立し、反乱軍は全州から引き揚げていった。「したがって、ソウルに入京した大鳥公使の目前にあったものは、平穏な市民生活であった」(藤村道生『日清戦争』)。
 要するに大鳥公使は肩すかしを食ってしまったわけで、「
大鳥公使は朝鮮政府から民乱鎮圧の公式依頼をとりつけ、後続の大島混成旅団の長期駐留を合法化することをめざしていたが、それを要求する根拠はうしなわれていた。逆に督弁交渉通商事務(外相)趙秉畯(ちょうへいしゅん)は、大鳥公使に民乱の平定を告げ、陸戦隊の入城に抗議した」(同前)。
 翌日には各国外交団からも、日本軍出兵理由のついて厳しい質問があり、「
大鳥自身もソウルの状況を視察した結果、多数の軍隊の上陸は外交上の難問を惹起すると判断した。かれは、当日日本国政府にたいし、『京城は平穏。民乱の状況は変化なし。おって電報するまで残余の大部隊派遣は見合わせよ』と打電した」(同前)という。
 たしかに大鳥公使は出兵理由の説明に窮してしまっただろう。ソウルの様子を見る限り、日本人の保護を要するほど切迫した状況は見えなかったからである。そこで、本国政府に向けて「
京城は平穏」と電報を打ったわけだが、この大鳥圭介は明治維新直前の戊辰戦争では、幕府側の歩兵奉行として参戦し、会津から函館と転戦、函館の五稜郭軍が敗れて、新政府軍に降り、獄に繋がれた。司馬遼太郎の『燃えよ 剣』では、土方歳三とソリが合わない、秀才意識芬々たる、嫌味な男に描かれている。が、それはそれとして、彼は後に許されて新政府に出仕し、明治22年に駐清国特命全権公使に任命され、26年7月、朝鮮公使を兼任することになった。国際世論は日本軍のソウル駐在には決して好意的でない。軍事や外交の苦労人である大鳥圭介は、日本(軍)の立場の難しさを直ぐに察して、先のような電報を打ったのである。

 ただし、大鳥公使の立場からすれば、たしかに日本はソウルに日本軍を駐留させる理由を失ったと言えるが、この出兵が「天津条約」に基づくものである以上、日本だけが一方的に軍隊を引き揚げなければならない理由はない。彼はそう考えたのだろう、6月12日、朝鮮における清国の外交代表たる袁世凱に共同撤兵の話を持ちかけた。袁世凱はその話を李鴻章に伝え、判断を求めたところ、「現状においては、日本を防ぐことが民乱鎮圧よりもいっそう重要である。必要ならば清国軍を引き揚げても日本軍の撤兵を実現せよ」という指示が返ってきた。「大鳥公使と袁世凱の)会談は円滑に進行し、ひとまず、両軍の現状維持をきめ、日本軍は一戸(いちのへ)大隊八〇〇名を限度に増兵せず、清国軍も牙山、全州に駐留して移動をみあわせるという点で同意が成立した」(同前)。
 ところが、その合意が成立した日、日本の大本営はさらに第五師団の残部を朝鮮に派遣することを決定してしまった。日本政府の陸奥宗光外相は必ずしも大鳥公使の動きに好意的ではなかったらしい。また、仮に陸奥が好意的であったとしても、大鳥公使と袁世凱との合意を理由に大本営の決定にブレーキをかけることは難しかった。大日本帝国憲法においては、出兵や用兵は大本営の権限に属する統帥事項だったからである。
 「
しかし、ソウルにおける共同撤兵交渉はその後も円滑に進行し、一五日にいたって、日本は在朝鮮兵力の四分の三を撤兵し、二五〇名を仁川にとどめる、ソウルから離れている清国軍は五分の四を撤兵して四〇〇名とし、民乱がおさまるのをまって両国とも全部撤収することに意見がまとまり、あとは公文をとりかわすのみとなった」(同前)。
 こうして見ると、戦争を回避できる可能性があったのだが、しかし大鳥公使はかれの一存で交渉を進めていた。裏づけのない交渉だったのである。
 もっとも、もし仮に大鳥圭介が事前に政府の了解を得ようとしたとしても、政府は認めなかったであろう。政府は、〈あれだけの大軍を派遣しておきながら、外交上の成果もなく、ただ引き揚げるだけなのか〉という「国民世論」を考慮しなければならなかったからである。それだけではない。もし両国の合意がなって、平和裡に兵を引き揚げたとすれば、おそらく国際世論は〈けっきょく朝鮮半島における内乱の危機を終息させたのは、清国の圧力があったからだ〉という方向に傾き、清王朝の李王朝に対する宗主国としての権威を高める結果となるだろう。朝鮮国の独立を支持応援する日本の立場からみて、そういう結果は何としても防がなければならなかったのである。

 そこで日本政府は、〈日清両国が派遣した軍隊は当分の間そのまま駐留させ、その上で日清両国が共同して朝鮮国の「改良」の推進に当たろう〉という趣旨の「朝鮮内政改革案」を、清朝政府に提案した。これが明治27年6月16日のことである。
 それに対して、清朝政府は6月21日、日本政府の提案を拒否する旨の返事をした。清朝政府の立場からすれば、日本と共同で朝鮮国の「改良」に当たることは、朝鮮国に対する宗主国の立場を失うことになりかねないからであろう。それが6月21日、つまりイザベラ・バードが済物浦で日本兵士の上陸を目撃した日だったのである。

○対照的な日本軍隊と「朝鮮人の群衆」
 それにしても、イザベラ・バードが済物浦で目撃した日本軍兵士と、「
朝鮮人の群衆」の姿は、あまりにも対照的だった。当時の日本と朝鮮国との国情の違いをあからさまに表象する光景だったと言っても過言ではないだろう。
 彼女が見た日本軍の兵士は、「
秩序正しく行進」し、「あらゆる男が、あたかもその義務とその意味を知っているかのように見えた。威張りちらす者はいなかった。良く武装し、実戦向きの服装をしている小人〔日本人〕がその成し遂げようと意図している目的のために、朝鮮で目立っていた」。その他の箇所でも彼女は、「厳しい訓練と行儀の良い振舞の驚異的な実例である小人〔日本人〕の大部隊」という言い方をしていた。
 このとき日本軍兵士に与えられた出動目的は「朝鮮国における日本人の保護」ということだっただろうが、個々の具体的な場面における行動は上官が指示した作戦目標に従っていたはずで、イザベラ・バードの目に映った日本軍兵士はその目的と目標をよく理解し、小気味いいほど規律正しく、てきぱきと行動していたのである。
 それに対して彼女の目に映った朝鮮国の民衆は、「
元気なくぼうっとしている、通りをぶらつくか、小さい丘に坐り込んでいる朝鮮人の群衆が、自分たちの港が外国人の野営地に変容するのを放心してじいっと見つめていた」。この人たちは、〈これは一体どういう事態なのか、いま自分の国で何が起ころうとしているのか〉について、よく分かっていないのではないか。彼女の目に、「朝鮮人の群衆」はそう映ったらしいのである。

 これは多分当時の朝鮮国におけるジャーナリズムの発達の状態や、民衆のリテラシー(識字率)の問題と関係するだろう。「いま自分の国で何が起こっているのか」。それを民衆が理解するには、最低でも政府の公報が必要であり、すでに日本では、外国の情報や政府の方針を国民に広く伝える、活字印刷の「官報」が発行されていた。また各地方の新聞は官報の内容だけでなく、それを論評する記事を載せていた。新聞の値段は決して安いものではなかったが、町々に「新聞縦覧所」が出来、ごく安い料金で何種類もの新聞に目を通すことができる。「新聞縦覧所」のない土地では、余裕のある家が新聞を定期購読し、関心のある人はそれを借りて読む。村役場へ行けば、政府発行の「官報」を読むことができたのである。
 幾つかの記録を見れば、朝鮮国政府も「官報」を出していたことが分かるが、これは明治政府の「官報」とは違い、江戸時代の幕府が各行政機関に伝達した「お触書」のようなものであったらしい。ただし、江戸時代の「お触書」は漢字を交えた仮名文字の文章、つまり候文(
そうろうぶん)で書かれており、寺子屋で教える程度のリテラシーがあれば、庶民でも読むことができる。もちろん明治に入ってからは、全国民を対象とする基礎教育が義務化され、イザベラ・バードが朝鮮国を旅した明治27年頃には、日本の高等小学校を出た人たちは現在の高等学校の学生よりも高いリテラシーを身につけていた。では、朝鮮国のリテラシーはどうであっただろうか。
 イザベラ・バードは漢江を溯る旅の途中で次のようなことに気がついた。
《引用》
  
部落とは区別される漢江上の村々に学校がある。しかしその学校は、民衆には開放されていない。家族連合同好会が協力して、教師をひとり雇う。生徒は学者階級の者だけである。文理にある中国の学問〔儒学〕だけが教えられる。これは、あらゆる朝鮮人の大望である官職への手段になっている。諺文(オヌムヌ)は軽蔑され、教育ある階級の書き言葉には使われない。しかしながら私は、川上に居る下層階級の非常に多くの男の人たちが、朝鮮固有の筆記文字〔諺文〕を読める事に気付いた。

 「諺文」とは現在のハングルのことであるが、下層社会の男性の間では広く行き渡っていた。これは注目すべきことであろう。この諺文に基づくジャーナリズムが何時から始まったのか。諺文に拠る義務教育が始まったのは何時からか。これらのことは、朝鮮国の近代化に関する重要な指標となるからである。
 だが、日本と清国が朝鮮半島に兵を出した頃、朝鮮国の支配階級で重んじられていたのは「
中国の学問〔儒学〕だった。つまり支配階級の言語は儒学の学習に基づく漢文だったわけで、朝鮮国政府が出す「官報」もこの言語によって書かれていたとすれば、民衆は「官報」の伝える情報から疎外されていたのである。
 このように支配階級の政治動向から疎外され、新聞もなければ、もちろんラジオもテレビもなかった状況で、いま自分の国で何が起こっているのか分からず、放心した面持ちで日本軍の上陸を眺めている。そういう無気力な民衆がイザベラ・バードの描いた朝鮮国人の姿だった。

○朝鮮国人は「人種の滓」?
 イザベラ・バードは更に、「
朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え、その状況を希望を持てないものと見做すようになっていた」と、二重に人種差別的なことを書いていた。
 彼女は19世紀の西洋的知識人の通例として、「人種」を科学的な概念と思い込んでいたのであろう。この場合の「人種」は、地球上の人間を白色人種、黄色人種、黒色人種と類別する観念で、中には黄色人種と黒色人種の間に「銅色人種」を入れる人類学者もいたが、この類別は進化論と結びつき、白色人種は最も進化した優れた人種、黒色人種はその反対と見られていた。イザベラ・バードはそういう観念に基づいて「
人種の滓」と言ったわけだが、「」とはまことにひどい言葉で、日本語では「役立たず、最も下等なもの、くず」を意味する。バードが英語でどういう単語を使ったかは分からないが、the dregs of mankind(人間のくず)、the dregs of the society(社会のくず)という言い方があり、たぶんdregsという言葉を使ったのであろう。
 ともあれ、以上のような意味で、人種論は、フィジカルな形質によって人間を類別する際の、「自然科学的な」根拠だったわけだが、それだけではない。フランスのイポリット・テーヌは『イギリス文学史』(
1863~4年)の序文で、各国の文学の特質を決定する「本源的原動力」として、人種(le race)と環境(le millieu)と時代(le moment)の三つをあげ、イギリス文学の特徴を巧みに説明してみせた。この方法は19世紀後半の文学史や歴史学に大きな影響を及ぼし、特に注意すべきは、〈各国の文学はその国を形成する人種または民族の心性や精神的能力を反映するものだ〉という観念を生んだことである。そしてこの観念から、文学史とは国民性の発現の歴史を記述する学問なのだという考え方が生まれたわけである。
 この考え方は現在でも俗流文化人類学の形で根強く残っており、何かと言えば人種論や民族論でお互いを類別し、差別し合う風潮を生んでしまった。このことは日本人の安直な韓国人論や、韓国人の安直な日本人論の盛行という現象を一つ取りあげてみても、よく納得が行くだろう。
 国民論や民族論はこのように、他国民や他民族に対する差別を生んでしまう危険を孕んでいるわけだが、イザベラ・バードはその点に関する反省もなしに、西洋人が作った人種論的な見方で朝鮮国人を捉えていた。そのこと自体が差別的だったわけだが、「
人種の滓」、つまり最低の人種として蔑視していたのである。

○朝鮮国に関する「信託統治」必要論
 なぜイザベラ・バードはそのような極論にまで走ってしまったのか。
 彼女の朝鮮国人に対するネガティヴな視線は、単に無気力な「放心」状態に陥っている民衆だけに向けられていたわけではない。民衆の悲惨を放置したまま、権力争いの「党争」に明け暮れ、売官を恥ともしない支配階級の腐敗にこそ向けられていたわけだが、「この国はもう救いようがない」という感想は彼女だけのものではなかったらしい。彼女の『朝鮮奥地紀行』に序文を寄せた、朝鮮総領事のウォルター・C・ヒリアはその序文の中で次のように言っている。
《引用》
 
少しでも朝鮮を知る人には、今やこの国の国家としての存立に絶対必要な条件は、どのような形式のものであれ、後見(信託統治)である事が明らかになっている。朝鮮が、日本の力によって得た名目上の独立は、まったく名ばかりであった。その間朝鮮は、手の打ちようが無いほど腐敗した行政の重荷を背負って引き続き苦労していた。尊大にもその属国取り扱いの特徴になっている、現地の地方的利害に無関心のふりをして中国が行ってきた助言者、案内人の役割は、清国軍が朝鮮から排除された後、日本が引き受けた。朝鮮行政のもっとも目立った悪弊を改革する日本の努力は、少し乱暴だったが、疑いなくまじめで誠実なものであった。しかしビショップ夫人(イザベラ・バード)が明らかにしたように、経験不足であった(太字は原文では傍点)

 ヒリアがこれを書いたのは日清戦争の後であるが、その時点においてもヒリアの眼に映った朝鮮国は、「手の打ちようが無いほど腐敗した」状態にあり、「国家としての存立に絶対必要な条件は、どのような形式のものであれ、後見(信託統治)である」と見えていたのである。

 多分これは当時の欧米人の共通した認識だったのであろう。

○マッケンジーの「独立喪失」不可避論
 スコットランド系カナダ人のジャーナリスト、F・A・マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(
渡部学訳。平凡社東洋文庫、昭和47年。原題はThe Tragedy of Korea. 1908 )は、日露戦争後の1908年(明治41年)に刊行され、日本の朝鮮政策に対して厳しい批判に充ちているが、その序文で彼は次のように書いている。
《引用》
 
偏見のない観察者なら誰でも、朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついに自らの独立を喪失するに至ったことを、否定することはできない。だが同時にまた、この半島に対する日本の政策が、老獪な宮廷派の陰謀と頑迷とによって、多くの困難をなめたということも、同じように真実である。しかし、こういうあらゆる障害を十分斟酌した場合でも、この朝鮮の国土の日本政府占領後に示されたその諸行動を目撃したわれわれは、悲痛な失望の感を表明するほかはない。事態は今や、その事実に対するイギリス国民の義務の問題にまで立ち至っているという段階に達している。私一個人としては、われわれは、われわれ自身およびわれわれの同盟国日本に対して、次のことを果たす義務があると確信する。すなわち、弱小国に対する厳粛な条約義務の破棄に基づく、そして、憎むべき蛮行、無益の殺傷、信頼してよりかかってくる無防備な農民の私的財産権の大規模な収奪、等々により築き上げられた帝国主義的膨張政策というものは、われわれの本性に背を向けるものであり、かつまた、最近われわれがとくに捧げている尊敬と善意をその当該国からはぎ取ってしまうことになりかねない、こういうことを明らかに知らせるということを。

 マッケンジーが『朝鮮の悲劇』を書いた動機は、「しかし、こういう」以下に語られているわけだが、そういう手厳しい日本批判を企てた人間であるにもかかわらず、彼もまた「朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついに自らの独立を喪失するに至ったこと」を不可避的な事態と見ていたのである。朝鮮国がその独立を失った原因は、朝鮮国の内部にあったのだ、というわけで、今日ふうに言えば「自己責任だ」と言っていたことになるだろう。

○日露戦争中の日本軍と日本人
 ついでに彼が日本人や日本の軍隊をどう見ていたか、それをよく示す箇所も引用しておこう。先ほどはイザベラ・バードが目撃した日清開戦以前の日本軍を紹介したが、これはマッケンジーが日露戦争中に見た日本軍と日本人は次のようであった。
《引用》
  
日本軍は、当初、非常な節制のもとに行動した。彼らは、自分たちに敵対した韓国官吏たちを処罰せずにそのままにしておき、そのうちの幾人かはただちに日本側の仕事に採用したりもした。北方へ進撃中の部隊は、厳格な規律を保ち、住民をも丁寧に取り扱った。徴発した食料にも公正な代価で支払い、運搬人として軍役に動員した数千人の労務者に対しても、おうようにしかも敏速に補償を行なって彼らを驚かせた。日本の賃金支払率が非常に高かったので、日本が物質的に労働市場に影響を与えるというほどであった。林権助(当時の駐韓公使)氏は、韓国皇帝を安心させるようできるだけのことをし、日本は韓国の利益と強化のほかは何ものも望まない、という約束を繰り返し与えた。また、時を移さず、伊藤公が天皇の勅使としてソウルに派遣され、各国の駐在公使以上に力強く友誼と協力の宣言を繰り返し再確認したのであった。
  
これらすべてが、韓国民の心に影響を与えずにはおかなかった。北部の住民たちは、ロシア人に好意を持っていなかった。ロシア人には規律と自制とが欠けていたからである。彼らはとくに、しばしば起こるロシア軍兵士と韓国女性との衝突によって不和を来した。私は、戦争の初期に、主として北部地方をずっと旅行したが、その最初の数週間の間、私はどこでも、韓国の国民から日本軍に対する友好的話題ばかりを聞かされた。労務者や農民たちも友好的であった。彼らは、日本が自国の地方官僚どもの圧政をただしてくれるようにと望んでいたからである。また、上流階級の人びとの大部分、とくになにほどか外国の教育をうけたような人たちは、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から推して、自国の遠大な改革の実施は、外国の援助なしには遂行し難いと確信しており、そのため日本に心を寄せていた。ところが、戦勝につぐ戦勝がつづくにつれて、日本軍の態度はしだいに懇切さを減じていった。日本軍についてやって来た日本人小商人どもはかなりの数にのぼり、彼らには軍隊のような自制心はさっぱり見られなかった。彼らは、剣を手にして歩き回り、欲するままに徴発し、気の向くままに行動した。

 マッケンジーが知り合った、親ロシア派の朝鮮国官吏たちは、「戦争が自国の領土内で始められることも、日本軍がロシアを追い出すことも不可能だと考えていた」という。つまり、日本にはロシアと戦うだけの国力もなければ勇気もなく、万一戦争を挑んだとしてもロシアに勝てるはずがない、とタカを括っていたらしいのだが、実は日清戦争の前も、同様な見方で、日本が清国に戦争を挑むはずがない、とタカを括っていた。この頃の朝鮮国人は大国依存症に取りつかれていたのだろう。
 ところが、日本はロシアに宣戦を布告して、着々と戦果を上げるだけでなく、朝鮮国人の信頼を得る上でも目を見張るばかりの成果を上げていく。マッケンジーが書きたかったことは、「
ところが、戦勝につぐ戦勝がつづくにつれて」以下、つまり「日本軍についてやって来た日本人小商人ども」の非道な行為だった。更に彼は、戦争が続くにつれて、朝鮮国に駐在する日本の官憲や軍隊までが「日本人小商人ども」に引きずられ、無恥な行為に走ってしまった事実を指摘していくわけだが、少なくとも開戦当初の日本軍の規律と、現地人に対する行き届いた配慮については、――ひょっとしたら、これほど規律正しく、現地人の人心を得た軍隊は、世界の戦史に照らしてもごく稀な例だったのではないか――これを高く評価せずにはいられなかったのである。

○イザベラ・バードの思わせぶりな書き方
 イザベラ・バードも日本軍のウラとオモテを描いている。
《引用》
  
平壌は襲撃されはしなかった。市内で実際の戦闘は無かった。逃走した清国人と占領した日本人の双方が、朝鮮人の友人のふりをしていた。この破壊と荒廃の全ては、敵によってでなく、朝鮮に独立と改革を与えるために戦わなくてはならない、と公言した者どもがもたらしたのである。「倭人(ウオジエヌ)(小人)は朝鮮人を殺さない」という事が次第に知られるようになった。それで、多くの人びとが帰って来た(中略)
  
日本兵が入って来て、住民の大多数が逃げてしまったのを見た時、その兵士らは、柱や家の木造部分を引き剥がした。しばしば屋根も燃料に使った。或は家の床に火を付けて燃えるに任せた。その時、家は火事になり、消滅した。日本兵らは、戦闘後の三週間以内に、避難民が残した財産を略奪した。モフィト氏の家からも七百ドル相当の価値のある物を奪い取った。彼の召し使いが抗議文を書いたけれども、その略奪は役人の立ち合いのもとに是認された。このような状況の下で、朝鮮でもっとも繁栄していた都市〔平壌〕は破壊された。そのようなのが「緑の木」〔順境〕における戦争の結果であるならば、「乾いたもの」〔逆境〕における結果はどのようなものになるのだろうか?
  
その後の占領中、日本軍は立派に振る舞った。町や近隣で買った用品の全てに良心的に代金が支払われた。そこの人びとは日本軍を激しく憎んでいたが、平穏で良好な秩序が維持されるのは容認した。人びとは日本軍が退去すると、日本人が訓練し、武装させた朝鮮人の連隊訓練隊(クンレンタイ)にひどく苦しめられるだろうと大層心配していた。その訓練隊はすでに略奪を始め、人びとを叩いていた。それでその民間での権威は無視され始めていた。本通りは、私が二度目に訪れた時、賑わっている様子であった。たくさん築き上げ、たくさん取り壊していた。というのは日本の商人が望ましい商売用地を全て手に入れ、朝鮮人の暗くて低い小さな店を大きくて明るく風通しの良い、綺麗な日本式の建物に変えていたからである。日本品、特にあらゆる型と値段の灯油ランプをどっさり仕入れていた。デフリーズ・アンド・ヒンクスの特許を恥知らずにも侵害していた(下線は亀井)

 今回の最初に引用したのは、イザベラ・バードが見た日清戦争開戦前の日本軍の様子だったわけだが、ここに描かれたのは日清戦争中の出来事である。
 そして、彼女が描きたかったのは、日本軍のウラの顔だったらしいのだが、どうもここには腑に落ちない表現が見られる。
 その一つは、「
逃走した清国人と占領した日本人の双方が、朝鮮人の友人のふりをしていた。この破壊と荒廃の全ては、敵によってでなく、朝鮮に独立と改革を与えるために戦わなくてはならない、と公言した者どもがもたらしたのである」という表現であるが、朝鮮国が清国とも日本とも戦争した事実はない。それ故、そもそも朝鮮国の「敵」などは存在しなかったはずである。そうであるならば、平壌に破壊をもたらしたのは「朝鮮人の友人のふりをしていた」清国人と日本人だったことになる。ただ、両者いずれもが「朝鮮に独立と改革を与えるために戦わなくてはならない、と公言」していたわけではない。朝鮮国の独立と改革を戦争の大義としたのは日本であって、宗主国の立場を主張する清国がそんなことを「公言」するはずはなかったからである。
 とするならば、平壌に荒廃をもたらしたのは日本人の軍隊だったことになるわけだが、なぜイザベラ・バードは日本を名指ししないで、先のような思わせぶりな書き方をしたのであろうか。

 日本に対する気後れがあったのだろうか。多分そんなことはなかっただろう。『朝鮮奥地紀行』は英語圏の読者を対象に英語で書かれていたからである。これを英語圏の中で考えてみよう。少しでも朝鮮国の情勢に関心を持つ人間ならば、かねて日本が朝鮮国に関してどのようなことを主張してきたか、よく知っていたはずで、イザベラ・バードの持って回ったような言い方には、かえって違和感を覚えたことであろう。

○バードの記述を整理してみれば
 イザベラ・バードの書き方には、時々、前後関係の説明に曖昧な点があり、うっかりすると勘違いしかねない。念のため整理してみるならば、次のようになる。

① まず清国軍が平壌に入り、駐屯していた。
② 平壌での戦闘はなかったが、清国兵は逃走した。
③ 日本軍が代わって平壌に入った。「
朝鮮の独立と改革のために戦わなくてはならない」と公言していた日本軍が破壊をもたらし、荒廃させた。
④ 「
倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」という事が次第に知られるようになり、平壌から他所へ避難していた多くの人びとが帰って来た。
⑤ 平壌に入った日本兵は、住民の大多数が逃げてしまったのを見て、破壊と略奪を始めた。
⑥ その後の占領中、日本軍は立派に振る舞った。
⑦ 平壌の住民は日本軍を激しく憎んでいたが、日本軍によって平穏で良好な秩序が維持されることは容認した。
⑧ 日本軍が去った後に、日本人が訓練した朝鮮人の連隊が入ってきた。
⑨ 朝鮮人の連隊は平壌の住人から、ひどく苦しめられるのではないかと怖れられ、事実、朝鮮人の連隊は略奪を始めた。
⑩ 二度目に平壌を訪れた時は、日本人商人が商売用地を買い占め、日本風の大きな家を建てて盛大に商売を営み、外国の製品のパクリもやっていた。

 もしこの順序の通りに事態が進んだとすれば、〈平壌から避難した人びとは、「倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」ということを知って戻ってきた。日本兵は住民の大多数が逃げてしまったのを見て、建物を壊し、略奪を始めた〉ということになるわけだが、こんな矛盾したことが実際に起こったとは思えない。
 また、イザベラ・バードの書き方は、〈日本軍が近づいて来るのを知って、清国兵も平壌の住民も平壌から逃げ出した〉という印象を与える書き方になっているが、果たしてそうなのであろうか。
 このような矛盾や疑問の解答になりそうなことを、別な箇所で、彼女自身が書いている。彼女の一行が慈山(
チヤサヌ)郡の竜淵(オウチヌガン)里に着いた時のことである。
《引用》
  
びとは、清国兵からうけた苦難の辛い話をしてくれた。清国兵は恥知らずにも略奪し、代金を支払わないで欲しい物を奪い取り、女性を虐待した。朝鮮人は恐怖のために、慈山付近の渡し場のある竜淵里を見捨てた。そこはこの前、私たちが大同(テドン)江を渡った所であり、五十三名の清国兵が持ち堪えていた重要な駐屯地であった。二名の日本の斥候が川の向こう岸に現われ、発砲した。清国の分遣隊は挫けて逃走した! 慈山では他所でのように、人びとは日本人に対する激しい憎しみを述べ、独りも生かしてはおけない、と言いさえもした。しかし全ての他所でのように人びとは、日本兵の品行の良さとその兵站部が必要品の代金を支払う規則正しさに対して、不本意ながら証拠を持っていた。下線は亀井)

 たった二名の日本兵の斥候と撃ち合いになり、清国兵の分遣隊が逃げ出してしまった。何とも情けない話であるが、それだけ兵隊の装備に差があり、兵士としての訓練の練度にも差があったのであろう。だがそれはともあれ、これを見ると、略奪を働き、女性に暴行を加えたのは清国兵であり、それを怖れて住民は逃げてしまったのである。

 イザベラ・バードはこの後、何回か、駐屯地から移動する日本の分遣隊とすれ違った。兵士たちは毛皮で裏づけられた深い襟付きの灰色の重いアルスター外套を着て、厚いフェルトの手袋をはめ、まるで観兵式の時のように粛々と行進していた。「食事に休憩する時は万事用意されていて、銃を組み立てて食べる以外にする事は何一つなかった! 農婦たちがいつものように副業で外出していた」。兵士が農民から、むりやり食事に必要な物を調達するようなことはなかった。農家の女性は日本兵を警戒する様子もなく外出していたのである。

○平壌市内はどうなっていたか
 もう少し検討を進めてみよう。
 たしかにイザベラ・バードが言うように、平壌市内での戦闘はなかった。だが、これは必ずしも破壊が行われなかったことを意味しない。そのことは彼女が清国軍の最高司令官の左宝貴将軍の戦死について書いたところから、窺うことができる。
 平壌に駐屯していた清国軍の左将軍は市内に立てこもって戦うことを避け、「
訓練と装備で清国軍の精華」と称された精鋭部隊を率いて、城外の平原で日本軍を迎え撃つことにした。1894年(明治27年)9月15日のことである。だが、戦闘は日本軍の制するところとなり、左将軍は日本兵の銃撃に斃れてしまった――のちに日本人は優れた敵将の死を悼んで、死に場所と推定される地点に塔を建てて、「左宝貴、奉天師団最高司令官 死去地」()、「平壌で日本軍と戦闘中 死す」()と刻んだ。現在もこの塔が建っているかどうかは、不明。――そのため、清国軍は統制と士気を失い、「一部の者は城壁内の砦に逃げ帰った」。左将軍は出撃に当たって、平壌守備のために部隊の一部を割き、残していったのだろう。「その夜の間に銃やその他の武器を全て捨てて、左将軍の残存部隊と歩兵全員、そして負傷していなかった兵士たちは、見捨てられて人が住んでいない、物音のしない都市〔平壌〕を通り抜け、普通門から激しく押し出して浅瀬を渡り、低い丘に帯状に囲まれ、北京街道と交差している平原に出て来た」。
 つまり、まず清国軍が駐屯し、それを怖れ、住民の多くは平壌を見捨てて、他所へ避難していたのである。平壌駐屯の清国軍は、左将軍の威令が行き渡り、よく統制が取れて、破壊や略奪行為はなかったかもしれない。そのように考えることも出来ないではないが、しかし、「
倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」ことが知れ渡って、住民がもどって来た。ということは、つまり、日本軍の進出以前に駐屯していた軍隊が朝鮮国人を殺害したことを意味するだろう。「倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」云々の箇所はそう解釈できるわけだが、ともあれ、左将軍の死により、混乱が起こり、平壌に逃げ帰った兵士と、残存部隊とは命からがら市内を抜けて、敗走していったのである。その間、破壊も略奪もなかったとは、とうてい考えられないことであろう。

○イザベラ・バードのジレンマ
 先に引用したイザベラ・バードの文章は、以上のように読み解いてゆくべきだと思うが、もう一つ、何回か彼女の文章を引用している間に、面白い特徴があることに気がついた。彼女の描く朝鮮国人は豊臣秀吉の侵冦以来、ずっと日本人を憎み続けており、それ故彼らが日本軍を受け入れる態度は、「
その後の占領中、日本軍は立派に振る舞った。町や近隣で買った用品の全てに良心的に代金が支払われた。そこの人びとは日本軍を激しく憎んでいたが、平穏で良好な秩序が維持されるのは容認した」という具合だった。
平穏で良好な秩序が維持されるのは容認した」とは妙な言い回しであるが、「まあ、日本軍によって良好な秩序が維持されていることだけは、大目に見て、認めておこう」というところであろうか。
 先ほど引用した、慈山郡の出来事に関する文章のなかにも、「
しかし全ての他所でのように人びとは、日本兵の品行の良さとその兵站部が必要品の代金を支払う規則正しさに対して、不本意ながら証拠を持っていた」という言い方が出て来た。「不本意ながら証拠を持っていた」とはこれまた奇妙な言い回しであるが、「日本兵の品行の良さと、金払いの良さについては、証拠もあることだし、まあ、しぶしぶだけど認めてやってもよいか」というところなのだろう。
 次は、京畿(
キヨンウイ)道と黄海(ホアンヘ)道の間の境界線、塔?(タオジヨル)を越えて、黄海道に出た時のことである。
《引用》
  
私が通りを歩いていると、ひとりの日本兵が肩で私に触れ、国籍や何処から来たか、何処に行くのか、などと私に尋ねた。少しも礼儀正しくない、と私は思った。私が自分の部屋に行き着いた時、十二名の日本兵が来た。そして、徐々に私が居る戸の周りを塞いだ。それで、私は戸を閉じられなくなって戸の内側に立ち詰めでいた。きちんとしたひとりの軍曹が、軽く帽子を挙げて私に会釈した。そして奥の李氏が居る部屋に進んでいった。李氏に私が何処から来たのか、何処に行くのかと尋ねた。返事を聞いてから答えた。「結構です」と。軽く帽子を挙げて私に会釈して出て行った。その部下たちも一緒に引き下がった。これが、数回あった家宅捜索の第一回目のことである。彼らは通常大層丁寧であったけれども、家宅捜索をする権利に関して、また国を支配する権力が誰に属しているかに関して、問題点を仄めかしていた。そこでは他所でのように、朝鮮の人びとは強い恨みを抱いて日本人を憎んでいたが、日本人が大層穏やかであり、手に入れた物全てに代金を支払ったのを已む無く認めていた。もし日本兵が洋服を着ていなかったならば、私は彼らが戸の周りを塞いで私に無礼を働いた、とは考えなかった事であろう(下線は亀井)

 どうやらイザベラ・バードが理解する朝鮮国人は、根深く日本人を憎んでいて、日本人の美点を率直に認めることはしない。功績を感謝することもしない。マッケンジーの描いた朝鮮国人は、少なくとも日露戦争の開戦当初は、日本人の美点を率直に認め、賞賛し、大きな期待を抱いていたわけだが、イザベラ・バードの理解する朝鮮国人は日本人の良い点をしぶしぶ認めはするが、決して心を許していない。「日本憎し、日本人憎し」が骨の髄までしみ通っている気配なのである。

 それとともに、このように整理してみると、彼女が日本兵を mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼んだ理由が、おぼろげながら分かるような気がする。
 多分彼女は日本兵が嫌いだったのであろう。この感情が日本人一般にまで及んでいたかどうかは速断を避けなければならないが、少なくとも日本兵に反感を抱いていたことだけは、「
もし日本兵が洋服を着ていなかったならば、私は彼らが戸の周りを塞いで私に無礼を働いた、とは考えなかった事であろう」という一文から推測できる。この「洋服」は軍服のことであろうが、なぜ日本兵が軍服を着ていなければ、自分に対して無礼を働いたとは考えなかったにちがいない、ということになるのか。そもそも兵士が西洋風な軍服を止めたとして、では、どんなものを着ればよいのか。そんなふうに色々とツッコミどころ満載なのであるが、それはそれ、これはこれ、とにかくイザベラ・バードは日本兵に好感を持てなかったのであろう。
 しかし、日本軍、日本兵のどの点を取って見ても、批判すべきアラは見えない。近代的な軍隊の兵士としては、ヨーロッパの兵士に劣らず、いや、それ以上に優秀だ。背丈の低い、黄色人種の、この優等生ぶりが、小面憎かったのかもしれない。そんなジレンマのため、彼女は朝鮮国の人びとの言葉に托して、日本兵のおかげで良好な秩序が維持される事実を「
容認」したり、日本兵の品行の良さと金払いのよさを「不本意ながら」、「已む無く認め」たり、これはどう考えても上から目線の、思い上がった態度であるが、ともかくそういう見方で評価してやることにしたのであろう。日本兵が立派に規律を守っていることを認めながら、mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼ばずにいられなかった理由も、おそらくそこにあったのである。

○情けない朝鮮国軍
 ただし、こと朝鮮国軍の振る舞いに関しては、これはとうてい「
容認」できなかったにちがいない。
 日本軍は住民が安心して戻れるように、平壌の治安を回復し、朝鮮国の訓練隊に後事を託して、平壌を去ったわけだが、代わりに入ってきた朝鮮国の訓練隊は、入城する前から平壌の住民に怖れられ、入城するや略奪と暴行を開始した。おそらく自国の国民を保護する責任感を欠いた、情けない軍隊だったのである。

○次回のテーマ
 ただし、当時の朝鮮国民の名誉(?)のために、念のために付言しておくならば、イザベラ・バードは確かに「
朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え」と言っていたが、続けて次のように書いている。
《引用》
 
しかしプリモルスクで、私は、自分の意見をかなり修正する根拠となるものを見た。自らを富裕な農民階級に高めた朝鮮人、またロシアの警察官、開拓者や軍の将校から等しく勤勉と善行の持ち主だ、という素晴らしい評判を受けた朝鮮人たちは、例外的に勤勉で倹約する質朴な人では無い事を心に留めておかなくてはなるまい。彼らはたいてい飢饉から逃れて来て飢えに苦しんだ人びとであった。そして彼らの繁栄とその全般的な振舞は朝鮮に居る同国人が、もしいつか正直な行政と稼ぎの保証がなされるならば、徐々に人間になれる事であろう、という希望を私に与えてくれた(太字は原文では傍点)

 つまり彼女は当時の「朝鮮国人」ならぬ、ロシア領に移住した「朝鮮人」を見て、やがて朝鮮国人も「人種の滓」の状態を脱して、「徐々に人間になる」、つまり人類の仲間に入って行く希望を見出した。朝鮮国人からすれば、こんな不快な「希望」なんて一向にありがたくなかっただろうが、ともかくそれが彼女の精一杯の好意だった。では、彼女がロシア領で見かけた「朝鮮人」はどのような人たちだったのか。また、何ものかが、一方では朝鮮国人を「人種の滓」状態にまで追い詰め、他方ではロシア領にまで追いやったわけだが、その何ものかを、彼女はどのように見ていたか。次回はそれを取りあげてみたい。

 
 
 

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