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北海道から沖縄独立を考える

北海道から沖縄独立を考える
亀井秀雄のチャージ(10)

○北海道独立論の時代
 昭和45年(1970年)前後、つまり私が35歳にさしかかったころ、北海道の文化人や文学者がしきりに「北海道独立論」を唱えていた。
 この人たちは北海道2世か3世で、自分を「流れもの」の末裔と考えるより、開拓者の子孫と考えることを好み、北海道の独特な風土と、開拓者の精神によって形成された、独自な精神風土を自負していた。 私が北海道へ渡った昭和30年ころ、北海道育ちの人たちはごく当たり前のように、本州を「内地」と呼んでいた。要するに北海道は「外地」(実際は準外地扱い)と意識されていたわけで、じじつ朝日、毎日、読売などの「全国紙」は一日遅れで配達された。単行本の値段も「北海道価格」の表示があり、5%割高だった。そのことを母親に話したところ、母は「ふーん、そうかねえ、それじゃラジオも一日遅れかい」と訊いた。「まあその点はだいじょうぶ、電波はその日のうちに着くからね」。
 
 それから10数年が経ち、北海道にも地元に根を下ろした文化人や文学者が育ち、もはや「外地」ではないという意識から、「内地」と「外地」を、「本州」と「北海道」とに呼び分けはじめたのである。

○国籍の問題
  かれらの気持ちは分からないでもないが、しかし俺の国籍はどうなるんだろう?
 「北海道」という地名は日本政府が統治する意志を表明した呼び方で、もし仮に北海道が独立したとすればこの名前を排し、「蝦夷国」と名乗るかもしれない。だが、私は戸籍を北海道に移していなかった。とするならば、俺と俺の家族は「日本」に国籍を持つことになり、蝦夷国では外国人扱い、日本国へ送還されることになるのか、それとも日本人として国籍を捨てて、蝦夷国人の国籍を取得しなければならないのだろうか。
 私は北海道を出たくはなかった。が、本心を言えば、私は日本国の一部である北海道の大学に入学したのであって、蝦夷国の大学を選んだわけではない。独立論が盛んだったころ、私は北大で国文学の助教授になったばかりだったが、「これからは蝦夷国の大学では「国文学」講座が消え、オレは日本文学という外国文学を教えることになるのかな?」。そう考えると自分の位置の曖昧さが見えてきて、わが身のあり方がやや滑稽だった。

  私は北海道独立論を唱えている人たちが、国籍の問題に気がついていないらしいことに驚いた。もちろんそれは文学のあり方に関する問題意識にも通ずる。蝦夷国として独立しておきながら、依然として日本語を主要言語と考え、しかも自分が書くものの読者や、評価を日本国人や日本の文壇に期待する。結局は日本依存の体質から抜けきらず、ちと虫がよすぎる話ではないか。

○独立の国際的要件
  私はそんなふうに考えて来た人間なので、沖縄独立論なる言説がチラホラ聞こえてくるにつけて、国籍の問題が気になってならない。

 だが、その前に考えておかなければならない問題が一つある。それは、ただ道民なり県民なりの意志を問い、賛成多数の結果、世界に独立を宣言したとしても、それだけでは独立したことにならないことである。世界の国々がその独立を承認し、通商条約を結び、大使を交換して、はじめて独立を実現したと言うことができる。
 
 あのころ、北海道が蝦夷国として独立を宣言したとしても、直ちにそれを独立国家として承認をしてくれるのは、たぶんソ連と朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国くらいなものだっただろう。いや、自力で領土を守る戦力を持たない国というのは、国際的な力関係からみれば主権の真空地帯のようなもので、ソ連は独立承認、条約締結などというまだるっこしい手続きなど簡単に無視して、軍隊を蝦夷国に派遣し、あっさりと占領してしまう。その公算の方がはるかに大きかった。北方四島を占領して手放さない手口から見て、理屈は何とでもつけただろう。
 もし沖縄県が県民の意志を問い、琉球国として独立を宣言したとしても事情は変わらない。独立を承認するのは、中華人民共和国とソ連と朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国と、それに、ひょっとしたら中華民国が加わるかもしれない。だが、日本国は承認せず、独立宣言が無効であることを世界にアピールする。アメリカももちろん承認せず、世界の大半は態度を保留し、国連は琉球国を国連の一員として迎えることを控えるだろう。
 ただ、この場合、主権の真空状態は回避されるかもしれない。なぜなら、たとえ琉球国がアメリカに対して軍事基地の撤廃を求めたとしても、アメリカは日本と結んだ日米安全保障条約の有効性を主張して、沖縄県の基地から軍隊を撤退することを拒否するはずだからである。ばかりでなく、仮に中華人民共和国が軍隊を琉球国へ進出させようとしても、アメリカはあくまでも日本国の領土を守るという名目で、阻止、反撃の行動を起こすはずだからである。  奇妙なことだが、琉球国は、そもそもその存在が独立運動のきっかけであり、自国の領土内にとどまってほしくないアメリカ軍のおかげで、領土を守られていることになる。これはかなり皮肉な「平和のパラドックス」だろう。
 
 しかし、こんな状態で、琉球国はどのように国際的な地位を得、自国民の経済活動を維持、発展させ、その生命と財産を守ることができるだろうか。

○再び「国籍の問題]
  ここでもう一度国籍の問題にもどってみよう。
 日本国は琉球国の独立を認めない方針を堅持し、沖縄県に住む人たちを日本国籍の日本人として待遇することになるだろう。だが、琉球国はその逆を行かなければならない。なぜなら、一国の政府は徴税権を与えられて、国民から税金を徴収し、その収入で国家の機関を運営するわけだが、琉球国は徴税権を行使するためにも自国の国民を確定し、把握しておかなければならないからである。
 そこで琉球国は自国内に住んでいる人に琉球国人となることを求めることになるが、現在沖縄県に住んでいる人たちが全員それに従うとは限らない。琉球国は沖縄県人の住民投票によって誕生したとしても、住民の何割かは独立に反対だった。反対した人たちの何割かは琉球国籍となることを拒否して、日本国籍を選ぶだろう。琉球国はその人たちをどう扱うか。日本国籍に固執する人たちにも徴税権を及ぼすか、それとも国外退去を命ずるか。前者ならば国内に内部分裂の危機を抱え込むことになり、後者ならば人口の減少と、琉球国内に所有していた財産の保障という問題を抱え込むことになる。

  琉球国はさらに手を打って、日本国やそれ以外の外国に住む日本人に対して、――特に沖縄県出身の人たちに対して――琉球国籍を選ぶように働きかけると思われるが、外国で活躍している沖縄出身の人たちは、おそらく拒否する。琉球国という、自分が住む国の政府がまだ独立国として認めるか否かが分からない国の国籍を選び、私は日本国の国民じゃないなどと言い出したら、たちまち不法滞在、不法就労の罪で拘束され、国外追放か強制送還される。それは火を見るより明らかだからである。
 日本国内で活躍している沖縄県出身者は数多いが、たぶん大半の人が琉球国人となることを拒むだろう。琉球国にもどっても活躍の場はごく限られているし、せっかく日本国内で積み上げた信用、人気、財産を失う羽目になりかねないからである。

○通貨の問題
 それともう一つ、忘れてならないのは通貨の問題。
 琉球国として独立宣言をしておきながら、まさか「通貨は日本円です」というわけにはいくまい。琉球国としてメンツにかけても独自な通貨を発行しなければならないわけだが、国際的な貨幣価値はおそらく限りなくゼロ(零)に近い。東アジアの幾つかの国は琉球国を承認し、通商条約を結んで、さあ、貿易というところまで扱ぎつけたとしても、琉球国が「では、我が国のほうは新しい通貨で決済させていただきます」と言い出したとたん、貿易はご破算になってしまうだろう。経済的な基盤のぜい弱な国の、しかも国際的な流通性がほとんどない通貨など、紙切れ同然でしかないからである。
 結局は日本の円か、アメリカのドルか、または中華人民共和国の元で支払うことになるだろうが、逆に自分のほうに入って来る通貨は中華人民共和国の元か、大韓民国のウォンばかり。運よく埋蔵量が無尽に近い金鉱でも発見されて、金で決済できるならば助かるのだが、さしあたりそんな幸運に恵まれる見込みがないとすれば、たちまち手持ちの円やドルは枯渇して、これでは国家は成り立たない。
 つまるところ、琉球政府発行の通貨は琉球国内でしか通用せず、私の妻が中学時代、高校時代を過ごした北海道の小さな炭鉱の「山札」(やまさつ。前回の「わが歴史感覚」参照)と変わらない。外国との交際を維持するには、日本国で活躍している沖縄県出身の人が故郷へ送る送金と、米軍基地のアメリカ兵が落とすドルを頼みとするしかなく、これでは何のために独立したのか分からなくなってしまう。

○離島の帰趨
 それやこれやを考えて、さて、沖縄県の独立の是非を問う住民投票の問題にもどってみると、はたして沖縄県に属する島々が全て投票行動に参加するだろうか。そもそも県民の意志を問う投票などには参加しない、そういうことを島民投票によって決議してしまう島も出て来るのではないか。そんな疑問が湧いてくる。
 那覇市のある沖縄島を沖縄本島と呼び、先島諸島や宮古諸島や八重山諸島を離島と呼ぶのが妥当であるか否かは、私の判断を越えているが、数えきれないほどたくさんの島々から成り立っている。安岡章太郎の『離島にて』に、こんな会話の場面があった。場所は西表島である。(『世界』1979年㋂号)      

  「何だか、これは人っけのないところだな、人間臭さってものがまるっきりない……」
 私は、何の気なしにそんなことを言った。と、なぜかS君は、私の顔を覗くように眺めて, そのまま横を向いた。車内が妙にシンとなって沈黙の空気がながれかけたとき、やっと道路から牛が全部退いてくれて、Oさんはアクセルを踏むと、
 「そうですよ」と、バック・ミラーのなかから話しかけてきた。「ほんの二た昔ほど前まで、人間の住むところじゃなかった、死の島などといいましてね……」
 「人が住まない?」    
 「そう、そういう場所が八重山には多いんですよ……。石垣島だって船越から北は人の住まんとこでね、『船越へ行ってきた』といえば死にそこなったということです。船越から北へ長く突き出した半島が平久保ですが、死ぬということを『平久保へ行く』と、わたしの母なんか言っとったですよ」    
 「ほう、平久保が『死ぬ』で、船越が『死にそこなう』か……。で、Oさんは西垣島の南のほうの南の方のご出身ですか」    
 するとS君が、私の質問をひったくるようにこたえた。   
 「いやいや、Oさんの家は竹富島なんだ。石垣からこっちへくる途中に最初に見えたあの島です。面積は西表島の五十分の一ぐらいの小っぽけな島なのですが、二千年もまえからひらけて、石垣も西表も、八重山の島は全部、竹富の植民地みたいなもんです。石垣なんかいまは石垣市ですが、ついこの間まで竹富町石垣島だったんですから……」    
 「へえ……。じゃ、竹富は他とは格が違うんですね」私は若干、卑屈な心づかいを意識しながらいった。   
 「昔はそういうことになりましょうな」とOさんは、心なしか以前より慎重にハンドルをまわしながらこたえた。「要するに、石垣も西表もマラリアや風土病が多くてなかなか人間が住みつけなかったんですな。それでも石垣は、強制移民やら流人やらを何度も送りこんで、どうやら住めるようになりましたが、西表は慶長年間から何回移民をやって村を開墾させても、自然の力に負けて結局、明治以後はどの村も皆、つぎつぎ廃村になってしまって……」
 車は、いつか山の中を走っていた。道の両側から、密林と呼ぶにふさわしい鬱蒼たる森が真っ暗く覆いかぶさるように迫ってくる。私はOさんのいった「自然の力に負けて」という言葉が、極めて実感をおびていることを了解した。繁茂した植物は、ここでは何か魔性の生きもののように、周囲の精気を吸いとって、深く息づいていりようにおもわれるのである。

 竹富島は2000年も前から開けていて、その歴史は大和朝廷よりも古いわけだが、たぶん風土病がなかった(または、少なかった)からだろう。周辺の島々に植民し、かつては王国に近い共同体を形成していたのかもしれない。そこへ首里の琉球王朝の勢力が伸びてきて、石垣島を流刑地にしたり、強制的に移民を送り込んだりしたらしいのだが、西表島に関しては「慶長年間から何回()移民をやって村を開墾させ」た、という。
  慶長年間と言えば、鹿児島の薩摩藩が琉球に侵攻して、琉球王朝を支配した時代である。西表島の開墾を命じたのは薩摩藩だったと思われるが、竹富島の島民の眼には、命令を受けた琉球王朝の強権ぶりのほうがより強く印象づけられたかもしれない。 沖縄の島々は多様な風土的条件のもと、複雑な支配・被支配、差別・被差別の歴史を持ち、感情の襞もまた複雑多様だろう。 それらの島々の人たちにとって、薩摩藩も日本国も迷惑な権力だったかもしれないが、琉球王朝がそれよりマシだったと言い切れるかどうか。むしろ琉球国という括りと共に蘇ってくる琉球王朝の記憶と、自分たちの暮らしの安定性と将来性とを勘案して、琉球国への帰属をためらう島は少なくない。明治政府の琉球処分の時代、琉球諸島は有無を言わせずに一括処分、いわば一蓮托生の運命共同体として従わざるをえなかっただろうが、現在もし独立の問題が起こったならば、幾つもの選択肢が考えられるからである。私はそう判断している。  

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