わが歴史感覚
わが歴史感覚
――亀井秀雄のチャージ(その9)――
○占領のうっとうしさ
戦後70年間、日本が戦争に巻き込まれず、平和に過ごすことが出来た。これは、憲法第9条と言う平和憲法のおかげだ。そういう意見がある。つい先日まで続いた安全保障関連法案の是非をめぐる議論のなかでも、そんな意見を述べる人間がいた。
なにを甘ったれたことを……、苦虫を噛む思いで、私がテレビを見ている。
私が国民学校の3年生のとき、日本が戦争に負けた。昭和26年8月、日本は連合国の大半の国と講和条約を結び、翌年の昭和27年4月、講和条約が発効して、まがりなりにも独立国となった。その年、私は中学校を卒業して、前橋高等学校へ入った。
その間、日本はアメリカを中心とする連合軍に占領されている状態にあった。連合軍が占領している日本を攻めようなんて考える国がなかった。それだけのことであろう。日本はサンフランシスコ講和条約を結んだ直後、アメリカ合衆国と安全保障条約を結んだ。やはり日本を攻撃しようなんて考える国はなかったのである。
自分の国が占領された状態にあることは、子供心にもうっとうしいことだった。
この気分は多くの人たちが感じていたらしい。講和条約までの日本の映画は、善良な人たちを苦しめる悪党たちを、アメリカ兵がジープで駆けつけて、取り押さえてくれる。そんなストーリーの作品が多かった。いわばアメリカ兵は心優しい、正義の味方だったわけだが、講和条約の発効後、映画の題名は忘れたが、アメリカの悪質なバイヤーを日本の若者が殴り倒すシーンがあり、すると観客が一斉にどよめいて、拍手喝さいをした。うっぷんが晴れた、というところであろう。
これは私が大学に入ってからの経験で、講和条約が発効して3年以上も経っているのだが、それでもまだそういう雰囲気があったのである。
発足したばかりの警察予備隊(のち自衛隊)の下士官や将校のなかには、旧日本軍の将兵が多かった。
戦後、日本へ復員してきても、思うような仕事に恵まれない。そういう生活上の問題もあっただろう。だが、占領軍に居座られるうっとうしさから解放されるならば、自分たちが銃を持つのも厭わない。そう覚悟を決めた人たちがいた事実を私は知っている。
占領下の無戦争状態を、どこの脳天気が「平和」などと呼び始めたのか。
○昭和30年代の「戦災」の危機
高校3年生になった時、担任が進路希望を確かめた。私が北海道大学へ入るつもりだと答えたところ、思わず「ばか、止めろ、もったいない」と言った。級友も「なんで、そんな田舎大学に入る気になったんだ」と不思議がった。
前橋高等学校は、戦前の前橋中学校の時代から仙台の第二高等学校(戦後は東北大学の一部)へ進む生徒が多く、私が前橋高校の生徒だった頃も、前橋高校は東北大学入学者数ランキングの10番以内に入っていた。東北各県の進学校にしてみれば、まことに迷惑な学校だったかもしれないが、東北大学は前橋高校のお得意さんだったのである。
ともあれ、そのような次第で、担任にとっても、級友にとっても、東北大学へ進むことは常識的に分かりやすかっただろうが、「お前、何が悲しくて、津軽海峡の向うの大学へ行こうなんて、調子っぱずれなことを思い立ったんだ」と不思議がった。
しかし私としては、今のままの自分でいることが嫌だった。きびしい環境の中で自分を作りなおしたい。「東大に入ろうと、東北大にはいろうと、またお前たちと顔を合わせて、馴れ合いながら生きるなんて、まっぴらご免だね」。そういう気分だった。
昭和30年、私は北大へ入学したが、大学生の分際で、急行を使うなんて贅沢は許されない、――当時は、特急も新幹線もなかった。――上野駅から各駅停車の夜行列車に乗り込んで、札幌駅まで27時間ほどかかる。東北大学の仙台より3倍も、4倍も遠かった。
青函連絡船の三等は、船底に畳を敷いた大広間で、それでも船員が注文を聞いて、掛けうどんか、掛けそばをとどけてくれる。それをお汁かわりにして、持参の握り飯を食うわけだが、さて、ひと眠りしようと、ボストンバッグを枕に身体を伸ばしていると、船は大波に揺れて、乗客の身体が一斉にずずっと低い方へ寄せ集められ、今度は、反対側へ寄せ集められる。
その前の年の9月、洞爺丸という青函連絡船が台風に見舞われて沈没すると悲劇的な事故があり、その代替船はまことに小さい。揺れが激しかった。不安が湧いてくる。
すると、船内アナウンスが「ただいま機雷が見えましたので、接触を避けるためしばらくこの場に止まります。ご了承下さい」と危険を告げてきた。
昭和30年ころまでは、旧日本軍が敷設した機雷や、ソ連軍が敷設した機雷が漂い出して、津軽海峡を流れて来る。そんなことが、しばしばあった。津軽海峡を「ショッパイ川」と呼ぶ人もいるが、もちろん川ではないからさっさと流れ去ってくれるわけではない。海流の加減で複雑な動きをし、連絡船は衝突を避けて、ぐるぐると、これまた複雑な運動を繰り返す。
乗客はアナウンスを聞いて、しーんと鳴りを潜めてしまった。
薄暗い裸電球に照らされた室内の高いところに丸い窓があり、波が当たっている。要するに私たち三等船客は海面の下にいるわけだ。「万が一機雷が当たって爆発したら、俺たちはひとたまりもない、たちまち海の藻屑だな。しかしまあ、機雷は船長の視野のなかに入っているのだから、うまくやり過ごしてくれるだろう」。
そんなことを考えながら30分待ち、1時間待ち、ようやく機雷の危険が去ったアナウンスがあり、「これから真っすぐに函館を目指します」。ほっとしたように乗客のざわめきが蘇ってきた。
たびたびではないが、そんなことも経験した。
もし機雷が爆発して海底に横たわることになれば、10年も前に終わったはずの戦争に巻き込まれたことになるだろう。幸い「戦災」をまぬがれることができたわけだが、もちろん憲法第9条のおかげではない。
ホルムズ海峡は津軽海峡より地形的にも、政治的にもはるかに難しい海峡らしい。そこへ機雷が仕掛けられ、日本のタンカーの乗組員の生命と大切な資源が危機に晒されている。日本政府は海峡を管理している国に(もしそういう国があれば)抗議を申し込み、埒が明かなければ利害の一致する国と連携して機雷の除去に乗り出す。当たり前のことじゃないか。
○敗戦難民
私の妻は樺太で生まれ、昭和23年まで樺太で育った。敗戦後2年半以上も樺太に留め置かれたのは、海軍から復員した父親が、川上炭山という炭鉱で働いていたためだった。進駐してきたソ連軍としては、基幹産業の炭鉱を直ちに廃鉱にするなんてことができるはずがない。少しずつ日本人を日本へ送り返したが、炭鉱で働く人間とその家族は一番遅くまで足止めをくってしまったのである。
妻の両親は宮城県とつながりがあったから、日本へ移り住むことは「引き揚げ」だったが、樺太で生まれ育った妻にとっては強制移住だった。妻は「引き揚げ」という言い方を好まず、「私は敗戦難民なの」と言っている。
ノーマ・フィールドさんと私たち家族が会食をしている時、たまたまその話が出た。ノーマさんは「そのお話、書いていただきたいわ。ぜひお書き下さいな」と、ほとんど猫なで声で勧めた。妻は笑って「私は文章を書くのが苦手ですから」と婉曲にことわった。
○敗戦難民の戦後
敗戦難民の妻の一家は、いったん宮城県の古川に身を寄せたが、間もなく父親が北海道の芦別市の小さな炭鉱で働くことになり、家族も移り住んだ。芦別市には大手の鉱山会社が幾つも進出し、大規模な採掘事業を行っていたが、従業員は早くに満州や樺太から「引き揚げて」きた人たちに占められていた。昭和23年の末にようやく移住してきた人間の働き口は、露天掘りに毛の生えた程度の小さな炭鉱しかなかった。
しょっちゅう不況に見舞われ、会社は給料の一部を、「山札」という炭鉱内でしか通用しない金券で払った。炭鉱の人たちは日用品を買うときには、小さな共同購入の店では「山札」を使い、日本円の給料は芦別市の商店街の買い物に残して置いた。だが、日本円で支払われる給料の額は少なく、高等学校の授業料を払うのさえ容易なことではなかった。
妻が高等学校の3年生も終わる頃、担任の先生が「君の学力なら特に受験勉強をしなくても、北海道の学芸大学(現・北海道教育大学)ならばどこでも入れる。学芸大学は奨学金の制度があるし、少しアルバイトをすれば大学へ通えるのではないか」と勧めてくれた。
妻が家で相談をすると、両親は「家には妹もいれば、弟もいる。お前だけが子供ではない」と猛反対だった。妻は諦めて担任の先生に報告をすると、先生は「それならば」と校長と相談し、おかげで新しく出来る図書館の実習助手に採用してもらえた。
妻はそこで4年間実習助手を勤め、5年目に私が北大を出たばかりの国語の教師として赴任した。それから2年後二人は結婚をした。
○他人ごとではないシリア難民
戦後の日本には、朝鮮からの難民、満州からの難民、台湾からの難民、北方四島からの難民など、たくさんの難民がおり、その人たちが日本へ渡る途中でなめた辛酸や、日本へ移ってからの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。その人たちに較べれば、樺太から渡ってきた人たちの苦労はややマシだったかもしれない。だが、まだ小学校の生徒だった妻は家計に無頓着な父と、耳の聞こえない母を助け、幼い妹や弟の面倒を見ながら真岡まで移動し、船で函館へ渡った。その苦労は並大抵のものではなかった。
ただ、妻には『赤毛のアン』のアンみたいに、むずかしい事態を悪くない方へ、悪くない方へと捉えなおす、切り替えの才能があり、親切にしてくれた近所の若い青年やおばさんのありがたく、嬉しかった回想へと話が移ってゆく。一人で遊ぶことが多く、気に入った草花に自分の好きな名前をつけ、話しかけたり、楽しい物語を考えて時を過ごしたという。ノーマ・フィールドさんがいくら勧めてくれても、つらく悲惨な話は苦手なのである。
しかし困っている人たちへの同情心が欠けているわけではない。むしろ同情が深すぎるのだろう。シリアの難民の姿をテレビで見ては、涙を拭いている。
○平和のパラドックス
妻と私は、戦争と平和のはざまで物心ついた世代と言えるだろう。私たちにとって、戦争と平和は対立する二つの極ではない。戦争と平和は相対的で、複雑に入り組んでおり、平和を守るために戦わなければならない。それが平和のパラドックスというものだ。
「平和ボケ」という言葉を私は好まないが、もしその言葉に該当する人間がいるとすれば、それは平和のパラドックスを知らない、あるいは理解しようとしない者たちだろう。
あるテレビ局の街頭インタビューを見ていると、一見セレブっぽい、若作りの中年女性がインタビューアーを流し目で見上げながら、「でも、アメリカさんが守って下さることになっているんでしょ」。……駄目だな、これは。
○平和条約未締結国の存在
大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国の人たちにとって、現在の状態を「平和」と呼ぶとすれば、それは「長い休戦」の別名でしかないだろう。
この二つの「国」はまだ平和条約を結んでいない。また、平和条約を結ぶことはほとんど不可能に近いと思う。
そう思う理由は二つあり、一つは、もし平和条約を結ぶとすれば、それはお互いを独立国と認めたことになり、「統一」という大義を捨てることになってしまうからである。
もう一つは、朝鮮戦争の休戦協定はアメリカと朝鮮民主主義人民共和国との間で結ばれた協定であり、大韓民国は入っていなかったからである。その意味では、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は依然として敵対関係にある。先日のように両国の武力衝突が起こりかねない可能性は常に潜在しており、また、そうであればこそ朝鮮民主主義人民共和国はアメリカ合衆国に対話を求め続けてきたのだろう。朝鮮民主主義人民共和国の立場から見れば、休戦協定の相手国との交渉によって現状の打開を計るほかはないからである。
日本はまだロシアと平和条約を結んでいない。平和条約を結ぶには、それに先立ってロシアが北方四島を占領している状態を解消しなければならず、しかしロシアは北方四島の返還を拒んでいるからである。
○歴史感覚
私が北大に入った頃は、北方四島に蟠踞するソ連軍は北海道の脅威だった。根室をはじめとする道北の漁業関係者は、いつ銃撃されるか分からない危険な状態の中で操業しなければならなかった。日本の陸上自衛隊の3分の1近くの部隊が北海道に駐屯している、と聞いた。ソ連軍が仮想敵国だったのである。
私の長兄が両親に、「秀雄家族を群馬に呼んだらどうか」と相談したことがあったらしい。私は毎年、母方の祖母に鮭を送っていたが、ある年の夏、妻と娘を連れて帰省し、祖母を訪ねて、北海道のことなど話をしていたところ、「秀ちゃん、いつも鮭を送ってもらって、とっても嬉しいんだけど、もう気は使わないでおくれ」と言い出した。
驚いて理由を訊くと、「だって、またロシアがあれこれ煩いことを言ってるそうじゃないか。わたしゃ、ロシアに金を払って捕らしてもらった鮭なんか食べたくない。鮭ぐらい食べなくったって、困りゃしないんだから」。
祖母は明治20年生まれだから、16、7歳の娘盛りのころ、日露戦争で村から出征する、しっかりした若者たちを、ほれぼれとした眼差しで見送り、戦局の推移に一喜一憂していたのだろう。その頃の気合が蘇ってきたのである。それが歴史感覚というものだろう。
「大丈夫だよ、お祖母さん。日本でだって鮭は捕れるんだし、どこで捕れた鮭か、魚屋で確かめてから送るよ」。
○ガチョウ足行進の軍事パレード
歴史感覚と言えば、中華人民共和国の軍事パレードの兵士の行進を見て、一党独裁政治のDNAを感じ取った人は少なくなかっただろう。
兵士が整列して行進する時、膝を曲げないで、足をピョンピョンと跳ね上げるように進む。あの独特な行進の仕方はGoose-Step、つまり「ガチョウ足行進」とか、「アヒル足行進」とかと呼ばれているが、ドイツのプロシャ時代にも行われていたかどうか、私は正確な知識を持たない。ただ、ヒトラーのナチス党が行進する時の歩行スタイルだったことはよく知られている。このスタイルはスターリン時代のソヴィエトロシア時代にも用いられ、朝鮮民主主義人民共和国の軍事パレードにも採用され、そして中華人民共和国も用いたわけである。
いや、ナチスドイツと中華人民共和国では、イデオロギー的には右と左、対極的なのではないか。そういう疑問もあるかもしれないが、もともとナチスとはNationalsozialistiche Deutche Arbeiterpartei(国家社会主義ドイツ労働者党)の略称であって、れっきとした労働者主体の社会主義国家なのである。
その意味で、あのガチョウ足行進は共産党なり労働党なりの一党独裁専制主義のDNAを表象するものと言えるだろう。
ソ連の共産党の理論的支柱だったレーニン主義はマルクス主義の鬼っ子であるが、ヒトラーのナチズムはその対抗としてあらわれて来た鬼っ子で、朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国は前者のヴァージョンと見ることができる。
ただ、YouTubeなどで、ナチス党の行進を迎えるドイツ国民の熱狂的な歓迎ぶりや、ヒトラーのカリスマ性を見ることができるが、それに較べて、中華人民共和国民の姿は軍事パレードの沿道にはほとんど見られない。習近平国家主席兼中央軍事委員会主席の表情はどことなく心となげで、カリスマ性は感じさせない。
国家社会主義ならぬ、国家資本主義の顔と言うべきかもしれない。
○寂しい顔ぶれ
それかあらぬか、軍事パレード当日、習主席と並んで立っていたのはロシア連邦のプーチン大統領と大韓民国の朴大統領だった。
ベトナム共産党の党首やキューバ共産党の党首も招待されていたのかもしれないが、マスメディアは報道しなかったように思う。ロシア共産党の党首のことも報道されなかった。これが30年前ならば、ソ連共産党の党首は当然招待されていたはずだがな、……そんなことを考えながら、さてそれでは、日本共産党の党首はどうなのかな。気がついてみると、志位さんは日本にいた。まさか招待されなかったわけではあるまい。「戦争法案」反対で忙しかったのだろう。
各国の共産党の連帯を演出する発想はもう不要だ。そういう考えが世界の共産党に広がっているのか。それとも中華人民共和国は、日本へ押しかけてきて便器を買いあさる、無作法な成金層、いや、「富裕層」の育成に党是を変えてしまったのか。いずれにせよ、寂しい顔ぶれだった。
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