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歴史研究者の言語感覚

歴史研究者の言語感覚

――亀井秀雄のチャージ(その6)――

 

○歴史研究者の無責任な誇張

 『日本経済新聞』が今年の86日にネット配信した、「高校で近現代史必修に、文科省、次期指導要領で骨格案」という記事によれば、日本や世界の近現代史を学ぶ「歴史総合」という科目が新しく出来るらしい。

 大変に結構な話のようだが、今どきの歴史研究者がどの程度信用できるか、疑問なしとしない。日本の近現代史を専攻している歴史研究者の井上勝生が岩波書店の『図書』20156月)で、こんなことを書いていた。

 

   日清戦争の時、日本軍に対し、朝鮮の東学農民軍数十万名が各地で蜂起する。日本軍は、農民軍を大きく包囲し、朝鮮西南隅に追い込んで殲滅した。朝鮮東学農民軍の蜂起は、日清戦争史から消されているが、戦争中最大となる犠牲者を出した。

 

どうしてこんなに曖昧で、しかも誇張に満ちた書き方をしたのだろう。東学農民軍なる武装集団が日本軍に対して蜂起した、という言い方も曖昧だが、それはさておくとしても、「数十万人」と言えば、10万人から99万人までの幅がある。それを日本軍が「大きく包囲」したと言うわけだが、「包囲」という作戦は相手に倍する兵力を持たなければ成り立たない。「東学農民軍」が99万人とすれば、日本軍は200万近い軍隊を動員したことになるはずだが、日清戦争全体を通じて日本が動員した兵力は25万人弱と言われている。

しかも、日本軍全体が「東学農民軍」に対応したわけではない。その大半は支那大陸における清国軍との戦闘に宛てられ、「東学農民軍」の攻撃に応戦したのはわずかに5000足らず。どうやって「包囲」したのだ?!

井上勝生は「日本軍は、……朝鮮西南隅に追い込んで殲滅した」と言うが、「殲滅」とは皆殺しを意味する。数十万の「東学農民軍」を本当に皆殺しにしたのか。

 

○「数万人」から「数十万人」へ

井上勝生は「日清戦争史から消されているが」と書いているが、比較的入手しやすい、藤村道生の『日清戦争』(岩波新書、1973)では、ちゃんと取り上げている。

 

  日本軍は、10月中旬、鎮川に農民数万人が結集したとの情報をえていたが、26日安保兵站支部が襲撃されて戦闘態勢をとり、公州の防御を固めた。中心となったのは南小四郎少佐のひきいる後備第19大隊1000と、中清道監司朴斉純指揮下の政府軍3500、地方営兵6000で、別に清州には白木誠太郎中尉のひきいる一個小隊と日本式装備の教導中隊が進出して東方からの攻撃に備えた。1118日、日本軍と政府軍は木川、細城山を奇襲攻撃し、金福用のひきいる農民軍は潰滅した。南方から進出した全琫準の部隊は、19日から公州を攻撃したが、日本軍の近代的武器による集中火力と巧妙な作戦のため公州を占領できず、第一次攻撃は失敗に終った。農民軍は金開南軍の応援をもとめて第二次攻撃の準備にとりかかったが、その間日本軍は政府軍とともに中清北道の掃討作戦をおこなった。

農民軍の第二次公州攻撃は124日からはじまり、6日間にわたってはげしい攻防戦がくりかえされた。

 

 井上勝生は「東学農民軍数十万」と言い、藤村道生は「農民数万人」と言う。まるまる一桁違う。藤村道生が『日清戦争』を書いて以来、研究が進み、東学農民軍なる武装集団は数十万人に膨れ上がったのであろうか。それとも「農民数万人」が軍隊化されるにつれて、馳せ参じた人間が10倍に増えたのであろうか。「数万人」という言い方もかなり曖昧だが、何だか「南京大虐殺」と同じで、歴史研究者なる人間は、やたらと「犠牲者」の数を増やしたがるらしい。

 

藤村道生によれば、日本軍は南少佐の率いる第19大隊1000名と、白木中尉の率いる1個小隊のみで、その他の「政府軍3500」と、「地方営兵6000」と、「日本式装備の教導中隊」は朝鮮政府の軍隊だった。

 日本は戦闘が続くにつれて、後備第18大隊と、後備第6連隊を投入したらしいが、大江志乃夫の『天皇の軍隊』(小学館、1982)によれば、日本の大隊は4中隊より成る。1連隊は3大隊で編成された。これは昭和に入ったころのことで、日清戦争のころとは異なるかもしれないが、大枠はそれほど変わらなかったであろう。

 明治23年の「陸軍定員令」によれば、歩兵中隊の定員は136名。1大隊はその4倍の544名となるわけだが、戦時編成の時は増員されていたはずで、藤村道生の記述を信ずれば約1000名。1連隊は約3000となる。

このことを参考に考えれば、日本が投入した兵士はわずかに5000名強。朝鮮政府の兵士9500強の半分程度だった。仮に日本軍と朝鮮軍とが共同作戦を行ったとしても、15千名足らず。井上勝生によれば、この程度の数で、数万、ないしは数十万の「東学農民軍」を包囲したことになる。

包囲されたのはどちらだったのだ?

 

 井上勝生の文章は、『明治日本人の植民地支配――北海道から朝鮮へ』という自分の著書に関する、自作解説として書かれたものらしい。しかし、まさかこんな胡散臭い書き方をしたわけではあるまい。井上は「与えられた紙数に限りがあったので、言葉が足りなかった」と弁明するかもしれないが、紙数の制限が厳しかったならば、その範囲で確実な事実を書くべきであって、〈日本軍は、数に於いては自軍に数倍、あるいは数十倍する東学農民軍を各個に撃破し、最後は朝鮮半島の西南隅に拠って抵抗を続ける残存兵力を包囲し、これを壊滅させた〉とでも書くべきだっただろう。

ついでに、この間朝鮮軍がどんな働きをしたかも、書き添えてもらいたい。もちろん、逮捕された「東学農民軍」の首謀者を裁き、刑を決定し、執行したのは朝鮮国の政府だったのか、それとも日本軍だったのか、そのことも加えて。

 そうしてこそ、井上が言う「犠牲者」という言葉が生きてくる。

 もし戦闘で死んだ者を言うのならば、それは「犠牲者」ではなく、「戦死者」のはずである。

 

○徴兵された「高齢の後備兵」?

 井上勝生はまたこんなことも言っていた。

 

  「討滅部隊」は、四国四県から徴兵された。部隊の記事、墓や碑、兵卒の従軍日記を探し歩き、凄惨をきわめた殲滅の現場を再現した。部隊兵卒は高齢の後備兵、小作や蒟蒻屋で、「徴兵逃れ」を策す余裕もない「貧しき兵卒たち」であった。

 

井上勝生が「再現した」という、「凄惨をきわめた殲滅の現場」については、私が意見を述べる材料を持たない。だが、「後備兵」と呼ばれる兵士はいなかったのではないか。井上勝生は「後備大隊の兵士」という意味で、「後備兵」を使ったのかもしれないが、後備大隊の兵士だからと言って、「高齢者」だったとは限らない。

「後備大隊」の「後備」は「後ろ備え」の意味であって、前線で戦う部隊の後方を守り、また、兵站(車両・軍需品の前送・補給、後方の連絡船の確保)の任務に当たる。「後備」の部隊には、新規に徴兵した高齢の兵士を充てる、なんてことはしなかったのではないか。

たしかに当時は徴兵令が布かれていた。しかし、20歳の「成人」に達した男子を片っ端から徴兵したわけではなく、「徴兵検査」があり、兵士としての適性に応じて、甲種合格、乙種合格、丙種合格、丁種合格等に分けられた。甲種合格者は現役兵として入営し、2年間、兵士としての教育と訓練を受ける。乙種合格者は補充兵役に組み込まれ、甲種合格者の人員が不足した場合には、志願、または抽選によって入営した。

2年間の兵役義務を果たして除隊した人たちは、予備役に編入され、現役兵に不足が生じた場合、再度招集されて兵役に就いた。

日本が日清戦争で動員した将兵は25万弱(清朝は100万弱)。平時の常備軍は7500程度だったらしく、一挙に3倍強に膨れ上がったわけで、当然、補充招集を行うことになったが、その対象となったのは乙種合格者か、もしそうでないならば予備役に編入されていた、軍隊経験者たちであっただろう。

もっとも、以上の徴兵令が布かれたのは明治22年のことであって、日清戦争を見込んで補充招集を行った明治27年ころ、予備役の元兵士たちは、おそらくまだ30歳には達していなかった。仮に予備役の元兵士たちが補充招集を受けたとしても、その人たちは壮年と言うべきであって、「高齢者」は失礼だろう。

いずれにせよ、「高齢者」を「徴兵」したなんてことはなかった、と思う。「乙種合格者」か「予備役の除隊兵士」を「補充招集」したのではないか。

 

○「負の歴史」とは何か

 井上勝生は自分の著書、『明治日本人の植民地支配――北海道から朝鮮へ』を、「消された「負の歴史」を再生させたいと願いつつ書いた」そうである。

 「消された「負の歴史」」とは何だろう。井上勝生は「誰が消した」のか、その「誰」を明示していない。ただ、彼のいう「負の歴史」がもし日本の植民地支配や、日清戦争を指すならば、それらのことは消されていない。つまり、誰も消そうとはしていない。誰かが消した、あるいは消そうとしたなどということは、井上勝生の妄想ではないか。

 そうしてみると、井上勝生がいう「負の歴史」とは、「東学農民軍」と日本軍との衝突ということになるわけだが、そのことについては藤村道生が書いているし、陳舜臣が『江は流れず 小説日清戦争』(中央公論社、昭和56年)でかなり詳細に語っている。読んだ人は多かったと思う。

 

そんなわけで、結局井上勝生が言いたかったのは、「東学農民軍」と日本軍との衝突は「負の歴史」だということだったらしい。しかし、誰にとって「負の」歴史なのだろうか。

「負の遺産」という言葉は聞いたことがある。しかし寡聞にして私は、「負の歴史」という言葉は聞いたことがない。私には初耳だった。あえて忖度すれば、「ある人間にとって、不名誉な汚点と感じざるをえない、自国の歴史」とか、「マイナスの結果しかもたらさなかった歴史」とかいうことかもしれない。

井上勝生にとって、それは以下のことを指すのだろう。〈朝鮮国内で起こった、東学の教義を奉ずる農民の武装蜂起を鎮圧するために、清国が軍隊を派遣したのと同時に、日本も軍隊を朝鮮半島に派遣し、「東学農民軍」を壊滅させ、その後、日清戦争に勝った日本政府は朝鮮国の独立を清朝政府に認めさせた〉。

 では、現在の大韓民国国民と北朝鮮民主主義人民共和国国民にとって、以下のことは「正の歴史」だったのか。〈朝鮮国の政府は、東学の教義を奉ずる農民の武装蜂起を、自力で鎮圧できず、清国に鎮圧軍の派遣を依頼した。その結果、日本が清国との条約に基づいて、日本もまた軍隊を派遣する、という事態を招き、日本軍の協力を得て、あるいは日本軍の主導のもとに、農民の武装蜂起の農民軍を壊滅させた。その後、日清戦争に勝った日本の後押しによって、大韓帝国という独立国になった〉。私の見るところ、これもまた現在の大韓民国国民と北朝鮮民主主義人民共和国国民にとっては「負の歴史」なのではないか。

 

 ただ、東学の教義を奉じて武装蜂起した農民軍が掲げたスローガンの中に、「斥倭」、つまり「日本の影響、または侵入を退ける」という項目が入っていた。東学農民軍はまさにその一点において、反日闘争の輝かしい原点であり、現在の大韓民国国民と北朝鮮民主主義人民共和国国民にとっては、「正の歴史」であるのだろう。また、その一点において、日本軍による「東学農民軍」の潰滅は、井上勝生にとって、「負の歴史」のなかで最も忌むべき「負の歴史」ということになっているのかもしれない。

 

○歴史研究は怖い

 歴史研究者は怖い。歴史学が用いるキーワードの大半は比喩なのだが、ほとんどの歴史研究者はそのことに気がついていない。気がついていないから、大げさな言い回しを弄ぶことになってしまうのである。

 

 

§オピニオン・ランチャー社から

電子書籍版「テクストの無意識」4編の読みどころ

「太宰治の津軽」

 太宰治が、久しぶりに訪れた津軽で、故郷の良さを再発見し、ラストでは昔自分の子守をしてくれた懐かしい〈たけ〉(越野タケ)と出会う。「津軽」は、そうした心温まる回想記として読まれてきた。だが太宰は、実際には、再会したタケとほとんど一言も言葉を交わしていないという。その意味では、この作品は非常によく出来た太宰の〈創作〉と言える。

 またその一方で、この「津軽」は実は小山書店の〈新風土記叢書〉の一つであり、シリーズ本来の趣旨としては、津軽に関する地理や風土・産物・人情などを紹介する一種のガイド本となるはずであった。ではなぜ、太宰は、そのような出版社側のコンセプトを敢えてはずして、この本を、自分をめぐる故郷の人々を前景化した〈小説〉にしてしまったのか? 

 様々に起こる疑問をもとに読み解いてゆくと、このテキストの持つ意外な仕掛けや豊穣な意味が見えてくる。四十年以上にわたって表現論・テキスト論の最前線を走り続けて来た亀井秀雄が、自ら電子書籍出版社を立ち上げ世に送る〈オピニオン・ランチャー叢書〉第一弾! 

 

「大江健三郎の『沖縄ノート』」

 太平洋戦争末期に起こった、沖縄における〈集団自決〉という悲劇。大江健三郎は『沖縄ノート』の中で、自決は軍の命令のもとに行われたとし、名前は明示しないながらも、その命令を下した軍人も確かにいることを示唆していた。そのことに対し、かつて沖縄の島々に配属された守備隊長らが、人格権(名誉権)を傷つけられたと大江を告訴したが、結果は大江側の勝利となった。良識的には妥当な結果が出たように見えるこの裁判。だが、〈誰が自決命令を下したかについて、特定の個人を名指ししているような記述はない〉とされた大江のテキストの中には、ある種の巧妙なレトリックが隠されていた――?

 〈裁判〉という名の言説の絡み・もつれを読み解く事に関しては非常な粘りを見せる亀井秀雄の、〈オピニオン・ランチャー叢書〉第二弾!

 

「中野重治「雨の降る品川駅」における伏字と翻訳の問題」

 中野重治の詩「雨の降る品川駅」は、日本のプロレタリア詩の中でも最も優れた作品の一つという高い評価を得てきた。日本を逐われて父母の国へ帰る朝鮮人を品川の駅で見送る詩人の悲しみと心情の高まりが、感動的に表現されているからである。

 だが、この詩には、書かれた時代や発表された際の伏字等の違いに起因する三種類のバージョンが存在する。また、誰がその伏字を行ったか、そして戦後にどのような過程を経てそれが〈完成〉されたかについても興味深い背景がある。亀井秀雄の〈オピニオン・ランチャー叢書〉第三弾は、伏せられ、隠され、また当てはめられてゆく、〈詩の言葉〉という迷路の探求編である。

 

「「赤い靴はいてた女の子」をめぐる言説」

 野口雨情の童謡詩「赤い靴」から着想を得た銅像の建立は、本論が書かれた平成二十四年時点で、全国で十カ所に及んでいた(またちなみに、2010年・平成22年には、横浜市と姉妹都市のアメリカ・カリフォルニア州サンディエゴ市に、山下公園の少女像と同型の像が建てられた)。

 この、奇妙なほどの〈童謡の物語化〉の広がりの原因は、一つには、昭和五十三年にテレビで「赤い靴はいてた女の子」のドキュメンタリーが放映されたからであり、また、文化人類学者の山口昌男が、雨情の童謡の中から〈青い眼をした人形と赤い靴はいてた女の子〉を取り上げ、戦前の不幸な日米関係の象徴として論じたからである。結果、「赤い靴」の女の子は少女「きみ」として実話的に捉えられることとなり、“この世で一緒になれなかった可哀想な一家”の物語は、次第にリアリティをまして増殖してゆくこととなった。

 しかし、果たして雨情の童謡は、そのように〈実話読み〉すべき内容のものなのであろうか。そして、山口昌男が〈青い眼をした人形〉と〈赤い靴はいてた女の子〉を、ある意味無理にでも結びつけて論じた理由とは? 亀井秀雄の〈オピニオン・ランチャー叢書〉第四弾!

 

 

 

 

 

 

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