日本文学協会の奇怪な「近代文学史」観
日本文学協会の奇怪な「近代文学史」観
――亀井秀雄のチャージ(その6)――
○回復のきざし
ようやく体調が回復するきざしが見えてきた。
私は昨年の春、市立小樽文学館の館長を辞め、勤めに拘束されない身分となった。長年気になっていた庭を自分の好きなように作ってみたい。そのためにはまず下ごしらえだ。そう考えて庭を均し、土を作ろうと、夏の間は二日に一回くらいの割合で、二時間ほどは庭に出た。
ところが、秋に入って、ひつじ書房から『増補 感性の変革』の校正刷りが来るようになった。待ちに待っていた仕事なので、机に向かう時間が長くなり、おのずから体を動かすことが少なくなった。少しムキになった校正に集中しすぎたのが悪かったらしい。正月を越え、今年の春、三校が終わる頃には、心臓が弱って息切れがしやすい。足がむくんできた。腕と足の筋肉がみるみる落ちてしまった。
家の門の前に、道を挟んでゴミを置くケージがある。朝、そこへゴミを捨てに行って来るだけで呼吸が荒くなる。無様にむくんだ足をさすりながら、そろそろ俺も覚悟を決めなければならないかな、と思った。
岩見沢の市立病院の呼吸器科と循環器内科で診てもらい、札幌の循環器専門の病院で診てもらって、心臓の三尖弁と右心房の不調と分かり、しかし手術の話は出て来ない。生活習慣と食事の改善で対応することにした。その甲斐があって、足のむくみも大分引いて、食欲も少し出てきた。が、5月23日の講演はキツかった。
市立小樽文学館では伊藤整生誕110年を記念する特別企画展示をやっていて、この日私が講演をする約束を、昨年のうちにしていた。そのことが4月、文学館のホームページに載ると、さっそく聴講予約の電話が入り、ありがたいことに横浜からも電話があったという。
それほど期待してくれる人がいるのに、まさかドタキャンをするわけにはいかない。昨年までは平気で往復していた小樽へ出るために、私は前日に家を出て、小樽に泊まった。幸い講演はつつがなく終わって、この日も小樽泊まり、翌日は岩見沢に帰るつもりだったが、疲れ切って体が動かない。もう一泊して家にもどった。
この時は本当にキツかった。
しかし最近は一日に20分くらいは歩けるようになり、食欲も進んで体重も少しずつ増えている。あと5年くらいは頑張りたい。
○日本文学協会の歪んだ文学史観
ただ、その間、私は気分的に落ち込んでいたわけではない。むしろ昂揚していた。
一昨年、ひつじ書房から『主体と文体の歴史』を出してもらい、今年は『増補 感性の変革』を出してもらい、校正の作業を通して克明に自分の仕事を読み直す機会を得た。自分がどれだけの仕事をしてきたか、静かな深い自信が湧いてきた。
今度の校正をしている間に、日本文学協会近代部会編の『読まれなかった〈明治〉――新しい文学史へ―』(双文社出版、2014年11月)が出た。せっかく送って下さった人には申し訳ないが、ざっとめくってみて、私は日本文学協会の不勉強ぶりにあきれた。問題意識といい、取り上げた作品といい、論じ方といい、この程度のことはすでに20年、いや30年も前から常識化しいるのではないか。どこが「新しい文学史」なのか。
『読まれなかった〈明治〉』の「まえがき」に、こんなこと言葉が見られる。
これまで「小説神髄」の歴史的意義は文学観の刷新という観点からのみ語られてきたが、しかし後世に決定的な影響を与えたのは、文学ジャンルや文学スタイルを進化論(発展進歩史観)によって説明し、文学を階層化し、序列化した点にあるだろう。その結果、現実や人間心理を「ありのまま」に写す写実主義の「小説」が文学史の頂点に位置づけられたのと対照的に、伝統的な物語性や虚構性は「遅れたもの」「劣ったもの」として、社会的、政治的批評性は「二義的」なものとして軽視されることになった。このことは近代日本人の中から、文学の持つ本来的な豊かさを評価する眼を奪い、日本人の文学観を非常に狭隘かつ脆弱なものにしてしまったように思われる。
これが日本文学協会の近代部会メンバーの現在的問題意識らしいが、もし本当に近代の文学観と文学史を根本から刷新したいと思うならば、『小説神髄』の読み方そのものの刷新から始めなければならいのではないか。
かりに日本人の文学観が「文学の持つ本来的な豊かさを評価する眼を奪」われ、日本人の文学観が「非常に狭隘かつ脆弱なもの」になってしまったとしても、それは逍遥の『小説神髄』がもたらした影響のためではない。戦後の日本の自称評論家や、自称近代文学研究者の『小説神髄』を読む眼が決定的に貧しかったため、『小説神髄』や、それと前後して逍遥が書いた小説が内包する豊かさを読み取れなかっただけなのである。
私は『「小説」論――『小説神髄』と近代―』(岩波書店、1999年)のなかで、ヨーロッパの小説論の歴史に照らしても、いかに逍遥の小説論が突出していたか、を明らかにした。また、逍遥にそれを可能とさせたものは本居宣長の「もののあはれ」論や、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』とその中で展開された小説稗史論や、そのた江戸期のさまざまな物語類であることを明らかにしておいた。『明治文学史』(岩波書店、2000年)では、逍遥の『細君』のなかに、小説的描写法の可能性を発見した。その他、逍遥が『小説神髄』と前後して発表した小説についての論考を『増補 感性の変革』に収めておいた。そういう仕事をしてきた人間として、自信をもって以上のことを断言できる。
また私は、以下のことを断言してはばからない。先のごとき評論家や研究者は、『小説神髄』のなかに「ヨーロッパ近代文学」の理解の未熟、未消化を見つけ出し、対比効果的に二葉亭四迷の社会批評性や、北村透谷の文学非功利説の「近代性」を称揚してきた。そういう手合いによって、「伝統的な物語性や虚構性は「遅れたもの」「劣ったもの」として、社会的、政治的批評性は「二義的」なものとして軽視」する、偏頗な文学(史)観が流布されてきたのである。
この研究者のなかに、日本文学協会の研究者も含まれていること、言うまでもない。自分たちの貧しさを逍遥に押しつけるのはいけない。
○無理やりな関連づけ
「まえがき」の書き手は、続けてこんなことを言っている。
またこの逍遥の理論的枠組みから文学史を顧みると、当然ながら日本の「近代文学」は明治十八年の坪内逍遥の「小説神髄」の理論的提唱と、主人公の孤独な内面を「写実的」に描いた明治二十年の二葉亭四迷の「浮雲」と、二十三年の森鷗外の「舞姫」という作品の登場によって始まることになる。今日定説となったこのような文学史を整備したのは、日本の「半封建的」な風土への批判とそこからの個の自立を唱えた近代的自我史観だった。そういう意味で「近代的自我史観」も発展史観を基軸に置き、リアリズムを重視し、主人公の意識の進歩性を評価し、「政治」と「文学」を二項対立的に捉えるなど、本質的に逍遥の理論的枠組みを超えるものではなかった。そのために、戦後に於いても逍遥の理論的枠組みの外部にある、物語り的なもの、伝統的なもの、社会的・政治的なもの、大衆的なものをもった文学作品は依然文学にとって二義的な評価しか与えられなかった。
本当だろうか。「日本の「近代文学」は明治十八年の坪内逍遥の「小説神髄」の理論的提唱と、主人公の孤独な内面を「写実的」に描いた明治二十年の二葉亭四迷の「浮雲」と、二十三年の森鷗外の「舞姫」という作品の登城によって始まる」などという「定説」は、ずいぶん昔に雲散霧消してしまった。また、かりにまだこの「定説」が残っているとしても、果たしてそれは「逍遥の理論的枠組み」から文学の歴史を顧みることによって作られた「定説」なのだろうか。
この「まえがき」の書き手は、今日の「定説」を作った逍遥の理論的枠組みと、「日本の「半封建的」な風土への批判とそこからの個の自立を唱えた近代的自我史観」とを同等なものと見なしている。いや、「同等」と言っては語弊がある、むしろ後者は前者の延長・継承・発展、あるいは再解釈と言うべきではないか。そういう反論もあるかもしれないが、しかし血縁関係を認めている事実は変わらないだろう。だが、逍遥の理論的枠組みのなかには、「主人公の意識の進歩性を評価する」とか、「「政治」と「文学」とを二法対立的に捉える」とかいう発想は全く含まれていなかった。
それに、逍遥がいう「ありのまま」を、その文脈のなかで読み返してみれば、「リアリズムの重視」と言えるかどうか、極めて疑わしい。
逍遥は演劇について、「真物を模擬する」とか、「里ヤリチイ不ラス釵ムシング(リアリティ・プラス・サムシング)」とかいう言い方をしていたが、これはリアリズムを主張するためではなかった。
逍遥は、小説と実録とを区別して、小説の小説たるゆえんを次のように説いている。
およそ小説と実録とはその外貌につきてみれば、少しも相違のなきものなり。ただ、小説の主人公は実録の主とおなじからで、全く作者の意匠に成りたる虚空仮説の人物なるのみ。されども、いつたん出現して小説中の人となりなば、作者といへどもほしいままに之を進退なすべからず。あたかも他人のやうに思ひて自然の趣をのみ写すべきなり。(引用の都合上、句読点をつけ、幾つかの漢字をかな書きに変え、振り仮名を省略した)
分かるように彼は小説を「作者の意匠に成りたる虚空仮説」の世界の、「虚空仮説」の人物を描くジャンルと考えていた。もしリアリズムを、社会的現実を「写実的」に描くという意味に解するならば、逍遥がいう「ありのまま」「写す」は、それとはまったく異なる。
そもそも『小説神髄』にはリアリズムなんて言葉は出てこない。ましてリアリズムの主張などはしていなかったのである。
○次回は伊藤整の文学史観から
こんなふうに検討し始めると、きりがないほど色んな疑問点が出てくる。要するに「まえがき」の書き手が「近代的自我史観」やら、「リアリズム」やら、「主人公の意識の進歩性の評価」やら、「政治と文学の二項対立的捉え方」やらを関連づけるやり方は、まるで無茶苦茶なのである。
5月23日、私が市立小樽文学館でおしゃべりした講演のタイトルは「挑戦的な文学史観――文学史家・伊藤整の達成―」だった。日本文学協会の『読まれなかった〈明治〉』を意識したわけではなく、それ以前にタイトルは連絡しておいたのだが、こうして整理してみると、期せずして私は『読まれなかった〈明治〉』がいう「近代的自我史観」を批判していた。そのことに気がついた。
次回は伊藤整の近代文学史観を紹介しつつ、『読まれなかった〈明治〉』がいう「近代的自我史観」を検討してみたい。
| 固定リンク
« | トップページ | 歴史研究者の言語感覚 »
「文化・芸術」カテゴリの記事
- 北海道から沖縄独立を考える(2015.10.18)
- わが歴史感覚(2015.09.29)
- 安保国会の「戦争」概念(2015.09.16)
- 歴史研究者の言語感覚(2015.08.31)
- 日本文学協会の奇怪な「近代文学史」観(2015.07.31)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント