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日本人はこの戦争には負けない

亀井秀雄のチャージ(その2)

ーー日本人はこの戦争には負けないー

○0点を取った記憶
 私は昭和12年の2月生まれで、昭和18年、数え7歳で国民学校に入り、3年生の夏、日本の敗戦を知った。

 
 
 その頃、どんな教科書を使ったか、よく覚えていない。当時は、何事にも倹約を旨としていたから、私のように兄や姉を持つ子供は、ほとんど「お下がり」で済まされていた。新品のものを買ってもらえることは滅多になかった。教科書も多分2歳年上の姉のお下がりだったはずで、愛着がなかったのであろう。

 ただ、文房具のことはよく覚えている。帳面は粗悪なザラ紙だった。鉛筆は、親指と人差し指と中指でつまんで書かねばならないほど、短くなるまで使った。消しゴムなんて気の利いたものはなく、どこからかタイヤの欠片を手に入れて、間違ったところを消そうとした。だが、粗悪なザラ紙はただ黒く汚れるばかり。少し強くこすると、たちまち紙が破れてしまった(もう一つ、飛行機の防弾ガラスの破片も手に入れた。これで紙をこすると、とてもいい匂いがした)。

 多分3年生の春だったと思う。先生がこれから「かけ算」の試験をすると言って、はがき大のザラ紙を配った。先生が「3×2は?」と聞いたら、答えの「6」だけを紙に書く。そういう試験だった。
 私たちは朝礼が終わったあと、教室へ入るあいだ、必ず歩調を揃えて声高く「九九」を暗唱することになっていた。だから、かけ算の試験は決して難しくない。
 ところが、私は変な勘違いをして、先生の問いかけに合わせて「3×2=」、「3×5=」と書き始めた。答えはその後で書けばよい、と思いこんでしまったのである。もちろんそんなことをやっていては、先生の質問に追いつけない。それに、ザラ紙の答案用紙の表だけでは間に合わず、裏返しをして「7×3=」とやっていた。「あっ、間違えた」と思って、急いで「消しゴム」を使うと、たちまち紙面が薄汚れてしまう。結局私の点数は0点だった。
 私は正直にその答案を母に見せた。母はショックを受けたらしく、「うちの子が0点を取るなんて……」とため息をついたまま、黙ってしまった。それを見て、私はショックを受けた。
 私自身は答案を見ても驚かなかった。私は先生の問いかけに答えられなかったわけではなく、ただ答えの書き方を間違っただけだ。そう考えて、0点に納得していたのである。

 ただ、私のこういうトンチンカンな癖はついに直らなかった。大学生の時も、高校教師と時も、大学教師の時も、時々間抜けな間違いを冒し、後で苦笑いをしたり、冷や汗をかいたりした。

○「戦争」の理解
 私はそういう子供だったが、子供なりに「日本人はこの戦争には負けない」という考え方を理解していたように思う。

 「日本人はこの戦争には負けない」とは、こういうことである。
 日本はいま大事な戦争を戦っている。世界を押さえつけている米英を負かして、弱い国々を助け出し、皆で一緒に手を組んでゆくために戦っている。米英はすごい武器を持っている。ひょっとしたら、「戦闘」では日本は負けるかもしれない。だが、信念では米英に負けない。「戦闘」では日本が負け、日本人は皆死んで、一人も残らないことになるかもしれないが、たとえそうなっても、信念は残る。そうなれば、米英はこの信念と戦うことなるわけだが、信念を銃で撃ったり、爆弾を落としたりして、打ち負かすことはできない。だから日本は信念で米英に勝っているのだ。

 今から考えると、ずいぶんと屈折した、ある意味では倒錯した考え方だったように思う。しかし私は子供の時、この戦争はそういう戦争だと思っていた。戦後は、戦後なりの厳しい言論統制があり、「この戦争はそういう戦争だ」なんて種類の発言は禁句だった。だから、戦後になって、私が「そういう戦争だった」と知る機会はなかったはずで、多分私は、戦争中の色んな言説の断片を寄せ集めて、おぼろげながら上のような考え方をするようになっていたのだろう。
 今思えば、これが私なりに理解した「一億玉砕」の思想だったわけで、私の頭のなかでは「一億玉砕」と「不敗神話」とが、こういう形で結びついていたのである。

 靖国神社とは、私にとって、そういう信念を抱いて死んでいった人たちの霊を祀る神社、少なくともそういう信念を抱いて死んでいった人たちの霊をも祀る神社なのである。

○新憲法の理解
 以上のような私の理解は、「3×2=」と同じたぐいの、トンチンカンな勘違いだったのかもしれない。しかし、今の私は、自分のそういう癖が気に入っている。
 私が新憲法を学んだのは、昭和24年、新制中学校に入ってからだった。私の同世代の多くは、戦争放棄、平和憲法の理想に感動したと言う。しかし、私は自分の記憶のどこを探っても、そういう理想に感銘を受けた覚えはない。中学校の社会科の先生は角田先生と言ったが、私は角田先生の「民法」の説明には目が覚める思いだった。私は家族のあり方や、相続の考え方など、「民法」の具体的な説明を通して、「人権」と「平等」の思想を、深い感銘をもって理解した。(8月15日深夜)

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オピニオン・ランチャー社の立ち上げ

亀井秀雄のチャージ(その1)
――オピニオン・ランチャー社の立ち上げ――

○勤めの仕事からは引退
 私は今年の3月一杯で小樽文学館の館長を辞めた。
 私は昭和34年、22歳で高校教師となり、9年後に北海道大学の教員となって、平成12年の3月に定年退職をした。そして、2ヶ月ほど間を置いて、市立小樽文学館の館長となり、この3月に身を引くことにしたわけだが、合わせて55年間勤めを持っていた勘定になる。
 
 

 身を引こうと決意した直接の理由は肺の機能が落ち、体力がめっきりと低下してしまったことである。私は2009年の9月に肺ガンで、右肺の下半分を摘出する手術を受けた。幸い癌の発見が早かったので、術後の経過は悪くなく、半年後には職場に復帰した(もっと早く復帰できたのだが、北海道の厳寒の季節の空気は刺すように冷たい。肺の受けるダメージが大きいだろうと、大事をとって翌年の4月から文学館へ出ることにした)。
 肺活量が減って、息切れがしやすい。これはやむを得ないことだが、2年、3年と経つうちに、脚力が落ちてきた。私が住んでいる幌向という地区のJR駅は、跨線橋型にレールホームを跨いでおり、ホームへ出るためにはいったん跨線橋型の階段を上り、待合室の改札口を通って、階段を下りなければならない。この階段を上るのがキツくなってきた。
 もちろん手術をしてからは階段の上り下りにも息切れがしやすくなったのだが、近来とみに息切れが激しくなり、階段を上りきったところで一息入れないと、足が前へ出ない。身体の仕組みというものは不思議なもので、息切れは朝の出勤時のほうが激しい。帰りのほうが疲れているはずなのに、割合順調に階段を上ることができる。しかし、下りる時は、足許が心もとなく、手すりにつかまってゆっくりゆっくりと下りる。
 その姿は外からも見える。私は自宅から駅までの往復は、ハイヤーを頼っていたのだが、運転手の千葉さんが、「先生、階段の上り下りが大儀そうですね」。
 
 

 身の引き際かな、と考えたもう一つの理由は、耳が遠くなったことで、会議などの場合は、それぞれの人が言語明瞭に話すから、これは問題がない。だが、雑談などの場合、口の中で言葉を舐るような話し方をする人がいる。これが聞き取りにくい。特にその人が早口だったりすると、もうお手上げ。つい最近も税務署に用事があって出かけたのだが、税務署員の言葉が聞き取りにくかった。税務署員としては、まさか個人的な収入の話を言語明瞭、声高に話すわけにもゆかず、おのずから小声で早口の説明にならざるをえなかったのだろう。その心配りは分かるのだが、結局何回も聞き返す羽目になり、余計な手間をかけてしまった。
 ともあれ、そんな次第で、大事な話をうっかり聞き漏らす失態を犯すよりは……、と考えて、引退を決意したわけである。

○置きみやげの『小樽「はじめて」の文学史』
 自分の体力が目減りしてゆくのを、そんなふうに実感しながら、去年の後半は『小樽「はじめて」の文学史――明治・大正篇―』という仕事に集中した。
 もともとこの仕事は、今年の1月の下旬に始まる「小樽文学史」という企画展の、その展示構想と各項目のキャプションのために書いた。その原稿を文学史的記述に書き直したもので、わずか400字詰め原稿用紙200枚程度でしかない。しかし、意外に根気の要る仕事だった。もちろんこれまでに書かれた「北海道文学史」のように、既成の「近代文学史」を参照枠として、それと辻褄の合う事象を摘記し、〈東京で名の知れた、これこれの文学者が北海道に渡ってきて大いに文学的刺激を与えた〉とか、〈誰それが東京へ出て中央文壇に認められた〉とかいう類のエピソードを折り込んで、一丁できあがり、というやり方ならば、簡単に仕上げることができる。
 しかしそのテの「地方文学史」ではなくて、小樽という地域の人たちがどんなふうに文学的表現を享受し、みずから文学的表現を試みるようになったか。その過程を、社会的条件(書物の流通形態や、読書環境の変化、表現ツールの普及など)との関連でとらえる「地域文学史」は、これまで誰もやらなかった。これは、そういう小樽文学史が今まで書かれなかったというだけではない、およそ日本のなかで、そういう発想の文学史を誰も書いていないのである。
 
 

 私はそういう前人未踏(!?)の文学史にチャレンジしたわけで、書き上げた時は精根尽きる思いだった。私は週に2回出勤すればよいという、勤務条件の大変ゆるやかな嘱託の館長だった。隠居仕事にはちょうどよい閑職とも言えるが、私はこの仕事が嫌いではなく、積極的に講座を開いては、その準備のために北大や小樽商大の図書館へ通ったり、時には何回も東大の図書館まで資料を見に出かけたりした。また、家にいるときには講座のためにレジュメを作ったり、原稿を用意したり、結局日常のほとんどは文学館の仕事のために費やしてした。おかげで、北大の教授時代には思っても見なかった新しい分野にも関心を広げることができ、こういう仕事場を提供してくれた小樽市には感謝している。
 『小樽「はじめて」の文学史』も同様に資料調査が大変だったが、実感的に言えば、池田寿夫の旧蔵書を寄付してもらった記念の展示と3回の文学講座、そして今回の文学史の資料調べと原稿執筆が一番集中していたように思う。
 
 

 ただし、「前人未踏」とはいっても、すべてが私のアイデアではない。読者論や読書環境論の視点は和田敦彦さんや、永峰重敏さんの著書からヒントをもらい、小樽の文化運動については亀井志乃の『〈緑人社〉の青春』からヒントを得ている。もし私自身の独創があるとすれば、それは貸本屋や古本屋の歴史を繰り込んだ「流通史」の視点にある。細かい事実については、地域史家の渡辺真吾さんが目を通して下さり、その点は安心している。
 
 

 こうして出来上がった『小樽「はじめて」の文学史』は、幸い評判が悪くない。何人もの研究者から、「自分もこのような地域文学史を書いてみたい」、「大いに刺激を受けた」といった手紙を貰った。『小樽「はじめて」の文学史』は市販しているわけではない。毎年小樽文学館の館報を送っている人たちに配布しただけなのだが、これほど沢山の反響があるとは思わなかった。多分残部がまだあるはずで、小樽文学館に問い合わせてみれば、400円~500円の実費で別けてくれるのではないか。
 

○楽しかった『日本人の「翻訳」――言語資本の形成をめぐって―』
 『小樽「はじめて」の文学史』の原稿が終わる頃、岩波書店から『日本人の「翻訳」――言語資本の形成をめぐって―』の校正刷りが届くようになった。
 岩波書店は10年以上も前から、「新 日本古典文学大系 《明治篇》」の刊行を始め、昨年ようやく全30巻が完結したが、私は各巻の月報に「明治期の翻訳における言語・文化」というタイトルの連載を書かせてもらった。岩波書店がそれを単行本にまとめて出版してくれることになったのである。
 私は平成12年に北大を辞めるとき、つくづく大学の教師という人種の身勝手さに愛想が尽き、二度と大学に勤める気にはなれなかった。ただ、横浜という居留地で発生した独特な言葉や、そこから見えてくる日本人の「翻訳」行為には関心が残ったので、定年後の楽しみのために少しずつ個人的に資料を集めていた。定年退職の年には、置きみやげのつもりで、北大文学部の紀要(43巻3号、平成12年3月31日)に「一八六〇年代・横浜雑居ことば」を発表した。その延長で、「ピジン語の生まれる空間――横浜居留地の雑種語―」(テッサ・モーリス=スズキ・吉見俊哉編『グローバリゼーションの文化政治』平凡社、2004年)という論文も書いている。
 そんなわけで、岩波書店から「日本の開化期における言語や文化の問題を翻訳という視点から書いてもらえないか」という誘いがあった時は、「願ったり叶ったり」とばかりに、喜んで引き受けた。私には本当に楽しい仕事だった。

○校正時の苦心
 ただ、連載の枚数には制約があり、一回につき400字詰め原稿用紙10枚程度という条件だった。途中、一回だけ、10枚を越えて書かせてもらったことがあり、最終回は「思い切って書き込んで下さい」という許可を貰って、いつもの倍近く長い文章を書かせて貰った。
 しかし、それ以外はおおむね1回10枚の約束を守ったが、これはなかなか窮屈な制約で、そのため具体的な事例の挙げ方が足りなかったり、説明の言葉を端折ってしまったりした。それに、10年に及ぶ連載の間には、あらたに発見した資料もあり、構想も微妙にズレてくる。今度の校正はそれらを補修する作業でもあったが、これもまた楽しかった。ただ、補修があまり多すぎると、初発の時の面白さが削がれてしまいかねない。その辺のかね合いを考慮しながら校正を進め、本文とは別に、原稿用紙25枚ほどの長い「はじめに」(序文)をつけさせてもらった。

○ありがたい反響
 この本の前半は誰が読んでも面白く、興味がもてると思う。だが、後半はこれまでの研究者がほとんど関心を持たなかった事柄を取り上げ、また、視点も従来の研究者が思っても見なかっただろう関心に基づいている。そのため、かえって国民国家論などというお決まりのテーマで「日本語の近代化」問題や「国語」問題を論じてきた「専門家」には手も足も出ないのではないか。この推測は当たっているらしく、いまだにその人たちの反応は現れない。が、幸い何人かの人がブログで丁寧な紹介をして下さった。アマゾン・コムの『日本人の「翻訳」――言語資本の形成をめぐって―』のページには、「2件のカスタマーレビュー」とあり、クリックしてみると、二人の人が長い読後感を書いて下さっている。
 ありがたいことだと思う。

○恵まれた締めくくり
 私は昨年、ひつじ書房から論文集『主体と文体の歴史』を出してもらった。今年に入って『小樽「はじめて」の文学史』を残すことができ、岩波書店から『日本人の「翻訳」――言語資本の形成をめぐって―』を出してもらった。
 私は30年ほど前に、講談社から『感性の変革』という評論を出してもらった時、〈評論で出来ることはここまでかな〉と考え、文壇の外に出た。14年ほど前、北大を辞めたとき、学会の外へ出ることにした。その意味で私は制度的な帰属場所を持たない人間となったわけだが、自分が文学研究者である自覚を失うことはなかった。ただ、体力の限界を感じて小樽文学館長を辞めることは、長年携わってきた仕事の締めくくり、という節目を迎えたことを意味する。この締めくくりをひつじ書房と岩波書店に飾ってもらったわけで、俺は恵まれた人間だなと、心から感謝している。

○退職後の体調
 さて、文学館を辞めてから4ヶ月。
 4月、5月の間は、山々の峰にまだ雪が残っていて、風が冷たく、私は気管支炎を恐れて家に籠もっていた。ところが、6月の中旬から割合に暖かい天気が続き、おそるおそる庭に出てみたところ、これが身体に大変によい。なぜ「おそるおそる」かと言えば、昨年のこの頃、30分ほど庭いじりをするだけで、もう疲れを覚え、妻と娘に「あとはまかせたよ」と言って、家に引っ込んでしまったからである。
 今年もまた同じことかな。そう用心しながら庭へ出てみたのだが、4月5月の間に身体の芯に溜まっていた疲労が抜けたのだろう、特に疲れを感じるなんてことはなくなった。もちろん初めの数日間は身体のあちこちの筋肉が痛み、立ち居に難儀するほどだったが、ロキソニンを飲んで、昼寝をすれば、すぐに軽くなる。4、5日するうちに、すっかり身体が庭仕事になじんで、現在では雨の日以外、毎日のように、午前中1時間半から2時間ほど庭に出て遊んでいる。食欲も増えた。駅の跨線橋型の階段も、息が弾むのはやむを得ないが、この春までのように大儀ではなくなった。「なんだ、俺、まだまだ元気なんじゃないか」。
 
 

 私は『主体と文体の歴史』と『日本人の「翻訳」』の校正をし、『小樽「はじめて」の文学史』を書いた時、「どうやら俺はまだ当分の間、現役レベルの文章を書くことができそうだな」という感触を得ていた。それに加えて体力の回復を実感し、新たな意欲がわいてきたのでる。

○オピニオン・ランチャー社の立ち上げ
 そんなわけで、私はこの度、オピニオン・ランチャーという出版社を立ち上げることにした。
 ただし、個人の小さな出版社を起こしてみたいという考えは、小樽文学館を辞める以前から持っていた。私は「亀井秀雄の発言」というホームページを開き、文学館に勤めている間に考えたことや、講演・講座の原稿を載せてきたが、その中には高い評価を受けたものもある。単行本に入っていない論文のなかにも、私なりの判断では、現在もまだ読むに耐えるだろう論文がある。それらを電子書籍や、紙書籍の形で出版してみたいと考えていたのである。
 その頃は「発言社」という社名を考えていたのだが、それではあまりにも芸がないという家族の意見で、オピニオン・ランチャー社とした。また、個人出版社ではなく、法人組織にしておいたほうがいい、と助言して下さる人がいて、「それならば家族3人の、文字通り家内出版社ということにしよう」と、今年に入って、「合同会社 オピニオン・ランチャー」という社名を法務局や税務署へ届けておいた。

○歴史書の構想
 紙書籍としては、『御訴訟申上候(ごそしょうもうしあげそうろう)』という書き下ろしの歴史書を予定している。
 私は群馬県の赤城山の南山麓の村に生まれたが、私の生家に江戸時代の百姓文書が10通ほど残っていた。それによれば、戦国時代の末期から江戸時代の初期にかけて、上州山田郡の小平村という山村に「内記」という人物がいた。ただし、戦国時代の身分は分からない。戦国時代末期、小平村を領有していたのは、渡良瀬川上流の渓谷に盤踞して、黒川衆と呼ばれた地侍の集団だったが、秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、黒川衆は北条に付いて戦った。そのため、北条一族が滅びたのちは武器を捨てて、百姓とならざるをえなかったわけだが、「内記」はその一人だったとも考えられる。あるいは、初めから百姓だったかもしれない。
 ともあれ、北条氏が秀吉によって滅ぼされた翌年、徳川家康が関東に入部し、さっそく各地に代官を派遣して検地にとりかかった。北関東に派遣された代官は大久保石見守と言い、のちに佐渡の金山の奉行となったことで知られているが、「内記」は検地に協力したのだろう、大久保石見守から山守名主の地位と身分を許された。ただし、残された文書によれば、家康の関東入部以前から「内記」は山守の仕事をやっていた。してみるならば、彼は改めて大久保長安から山守名主の地位と身分を安堵(保証・承認)されたことになる。ともあれ、そういう地位身分の人間の家系がどんな運命を辿ったか、「内記」の子孫が書いた訴訟文を細かに検討してみると、歴史の綾が見えてくる。それを書いてみたい。

○「山札」をめぐる葛藤
 ちなみに、「山守」とは山林を維持管理することだが、具体的には、百姓が勝手に山へ入って秣(まぐさ)を刈り、薪(たきぎ)を取るのを防ぐ役割だった。もし各自の自由に任せておくならば、たちまち山が荒れはてしまうからである。それを防ぐために、山守は「山札」を発行して、山へ入るのを許可し、代わりに銭を徴収する。徴収した銭は運上銭として代官所に納める。そういう仕事だったのである。
 
 

 ただし、徴収した銭の何割かが山守のふところに入るわけではない。残らず代官所へ収めてしまう。ずいぶん割の合わない勤めのようだが、その代わり、山札を渡した百姓を年に二日だけ自分の家で使役することができる。「内記」の時代には200枚ほど山札を発行する権利を認められており(のちには440枚)、1年につき延べ400人の百姓を使役できたわけである。しかも、山札を請けた百姓は小平村のほか17ヶ村にも及んでおり、見方によれば、17ヶ村の百姓に対する支配権を持っていたことにもなる。もちろん「内記」の家には「抱(かかえ)」と呼ばれる下人が何人もいた。かなり規模の大きい百姓だったのだろう。
 
 

 大久保石見守の指揮によって行われた検地の記録はほとんど散逸してしまったが、運良く小平村の「御縄入水帳」(検地帳)だけが残り、『大間々町誌 別巻二 近世資料編』(大間々町誌刊行委員会、平成7年3月)に収録されている。それを見ると、筆頭に「内記」の名前が出てくるが、この検地帳を分析した「大間々町の近世」(『大間々町誌 通史編 上巻』大間々町誌刊行委員会、平成10年10月)という論文によれば、小平村の田・畠・屋敷を合わせた総面積のうち、「内記」はその14パーセントほどを所持していたという。言うまでもなく村一番の土地持ちだった。
 
 

 この簡単な説明からも分かるように、トラブルはこの山札をめぐって起こった。山札を請けた百姓には厳しい掟が課せられるのだが、それを破る百姓がいる。大胡領から流れてきた牢人が山守の地位を狙って代官と結託したり、もともと山札は自分たちがお上から預かったものだったと主張する百姓の集団が出てきたり、それに加えて、どうやら「内記」の家系の世襲的な権威を喜ばない代官や旗本がいる。その攻防は70年近く続くのだが、その経緯を私は、古文書の翻刻と注釈という形で書いてみたいと思っている。
 
 

 なお、江戸時代末期については、「弘化2年(1845年)の民権運動」と「忠三郎控帳より」という文章にまとめ、このブログに載せておいた。今度の単行本では、これらの文章と、新しく書き下ろしたものとを合わせて一冊にしたいと考えている。
 

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