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欧米人が見た朝鮮国の日本人――マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(10)―

欧米人が見た朝鮮国の日本人
――マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(10)―

○日本軍上陸の光景
 前々回、私は「それでは、当時の欧米人が朝鮮国における日本人をどう見ていたであろうか」と書いて、文章を結んだ。だが前回は、「ちょっと一休み」して、論文集『主体と文体の歴史』(
ひつじ書房)の出版を報告した。今回は、改めて前々回の疑問にもどりたいと思うが、さて、どこから始めるか。
 前々回私は、イギリスの女性旅行家、イザベラ・バードが『朝鮮奥地紀行』(
朴尚得訳、平凡社東洋文庫、1993年。原著はKorea & Her Neighbours。1898年/明治31年)の中で、日本人を mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼んだことを紹介した。朴尚得はこの蔑称を「小人〔日本人〕」と翻訳したわけだが、今回は、その箇所を引用することから始めたいと思う。
 イザベラ・バードは1894年(明治27年)4月にソウルを発って、漢江を遡り、元山を経て、6月19日に釜山に着いた。そこらかソウルを目指し、6月21日の早朝、済物浦(後の仁川港)で次のような場面を見た。
〔引用〕
 上陸してみて私は、あのひどく鈍かった港が変貌したのを見出した。通りには、秩序正しく行進する日本軍の足音が響いていた。莚や秣(まぐさ)を積んだ荷馬車の列が、道を塞いでいた。日本人居留地の大通りにある家が全て兵舎に変わり、兵隊でいっぱいになっていた。ライフル銃と装具が、バルコニーにきらりと光っていた。元気なくぼうっとしている、通りをぶらつくか、小さい丘に坐り込んでいる朝鮮人の群衆が、自分たちの港が外国人の野営地に変容するのを放心してじいっと見つめていた。最初の軍隊の上陸からわずか二時間経過した時、私がロシアの若い将校と一緒に野営地を訪問した時、そこに茣蓙敷きの床と排水溝のある、それぞれ二十人収容している、通風を良くした鐘形のテントの帆布の下に、一千二百名もの男たちが居た。食事は漆塗りの箱で出されていた。馬小屋が急造されていた。騎兵隊と多量の銃砲が、中央に置かれていた。丈が十四手尺〔一・四二メートル〕あり、役に立つ動物である、列をなして山のような大量の砲台を運ぶ馬どもが素晴らしい状態におかれ、最新のインド様式の荷鞍を装備していた。砲弾と榴散弾を二百名の男たちと百頭の馬で、日本領事館からソウルに向けて運搬中であった。殆ど音を立てないで静かに作業していた。小綺麗な通りがある野営地は規律正しく、手入れが良く静かであった。町では歩哨が、通行人を呼び止めて誰何していた。あらゆる男が、あたかもその義務とその意味を知っているかのように見えた。威張りちらす者はいなかった。良く武装し、実戦向きの服装をしている小人〔日本人〕がその成し遂げようと意図している目的のために、朝鮮で目立っていた。下線は亀井)

 イザベラ・バードは日本軍が済物浦に上陸し、ソウルへ砲弾を送る作業を着実に進めている光景を目にしたわけだが、しかし彼女はそのこと自体には驚いていない。彼女は旅行中に、東学党の「乱」の噂を聞いていた。また、日本と清朝が1885年(明治18年)の4月に、「天津条約」を結んでいることも承知していた。その条約には、「将来韓国に重大な変乱がおこった場合に、日清両国もしくはその一国が出兵するとき、たがいに行文知照(文書をもって通知)し、事がおさめればすぐに撤兵する」(山辺健太郎『日韓併合小史』)という意味の条文が含まれていた。
 この条約を、ただ字面(じづら)だけで見るならば、日本と清国が朝鮮国の頭越しに、勝手に朝鮮国派兵の条約を結んでしまったように見える。だが、これは前年の1884年(明治17年)の12月に起こった「甲申政変」の結果であって、簡単に言えば、金玉均、朴泳孝ら、いわゆる親日派の政治家が、国家の改革を図り、日本の竹添公使の後援を予定してクーデターを起こした。が、朝鮮国の国王の重臣・金廷哲が清国に軍隊の出動を要請したために、あえなく清国軍隊に壊滅させられてしまった。このとき、清国軍は日本人と日本軍をも攻撃対象としたが、ソウルに駐在していた日本軍はわずかに約140名、それに対して、清国が動かした軍隊は1500名。戦力に10対1の差があった。山辺健太郎によれば、「日清両軍の衝突は六日午後三時にはじまり、勝敗は三時間できまり、公使と日本軍は公使館にひきあげた。この前に清国軍の優勢がわかると、一番ひどく動揺したのが国王であった。朝鮮兵も動揺して潰走し、なかには日本兵をめがけて射撃してくるものがでてくるしまつである中略ソウル在住の日本人と公使館関係者の百余名、日本兵百四十余名、計二百六十名は、やがてソウルから仁川にのがれ、十二月十一日便船を得て日本にむけ引揚げたが、金玉均らも一行といっしょだった。しかし竹添公使だけは仁川にとどまっていた」(岩波新書『日韓併合小史』)。
 しかし清国は朝鮮国のクーデター派と日本人を追い払った後、軍を引き上げていったわけではない。朝鮮国王の要請という名目を得て、朝鮮国に大軍を駐留させたままだったのである。
 さて、この後始末をどうするか。そこで清国の李鴻章と日本の伊藤博文が話し合って、上記のような天津条約を結んだのである。

 以上、事情説明のために少し言葉を費やしてしまったが、それからおよそ10年後の1892年(明治25年)の暮れ、朝鮮国ではいわゆる東学党の「乱」が起こり、その対応に手を焼いた朝鮮国王は、1894年(明治27年)、清国の袁世凱に援護を求めた。これが6月3日のことである。袁世凱はこの要請を受けて、出兵を決意し、「天津条約」に従って日本に出兵を通知した。日本もまた清国へ出兵を通告した。これが6月7日のことであった。
 このような経緯があり、そこでイザベラ・バードは6月の21日、済物浦で、日本軍の上陸の光景を見たわけである。

○日本と清国の駆け引き
 ただし、この時点ではまだ戦争は起こっていない。
 次いでに6月7日以降の動きも簡単に紹介しておくならば、大鳥圭介公使は6月9日に仁川に上陸し、翌10日、日本海軍の陸戦隊420名に護られて、ソウルに入京した。この派兵に関して、日本の政府は6月9日、マスメディアに対して、「朝鮮国内に内乱蜂起し、勢ますます猖獗を極む、同国政府は力能くこれを鎮圧し得ざるの状況に迫れり、よりて同国に在る本邦公使館領事館及び国民のため、軍を派遣す
」(『時事新報』明治27年6月10日)と出兵理由を明らかにした。つまり日本の出兵理由は、日本人の保護ということだったわけで、「甲申政変」の記憶がそうさせたのであろう。

 他方、清国軍は既に8日から12日にかけて、第一次派遣隊2100名を、牙山港に上陸させ、忠清道一帯に布陣したが、その出兵理由は、朝鮮国王より「反乱軍を鎮圧してほしい」という要請があったから、ということであった。しかも6月10日には、――つまり、日本の大鳥圭介公使と海軍陸戦隊がソウルに入った日には――ソウルを目指していた東学党と農民の叛乱軍が、政府軍に弊政改革案を提起して、全州和約が成立し、反乱軍は全州から引き揚げていった。「したがって、ソウルに入京した大鳥公使の目前にあったものは、平穏な市民生活であった」(藤村道生『日清戦争』)。
 要するに大鳥公使は肩すかしを食ってしまったわけで、「
大鳥公使は朝鮮政府から民乱鎮圧の公式依頼をとりつけ、後続の大島混成旅団の長期駐留を合法化することをめざしていたが、それを要求する根拠はうしなわれていた。逆に督弁交渉通商事務(外相)趙秉畯(ちょうへいしゅん)は、大鳥公使に民乱の平定を告げ、陸戦隊の入城に抗議した」(同前)。
 翌日には各国外交団からも、日本軍出兵理由のついて厳しい質問があり、「
大鳥自身もソウルの状況を視察した結果、多数の軍隊の上陸は外交上の難問を惹起すると判断した。かれは、当日日本国政府にたいし、『京城は平穏。民乱の状況は変化なし。おって電報するまで残余の大部隊派遣は見合わせよ』と打電した」(同前)という。
 たしかに大鳥公使は出兵理由の説明に窮してしまっただろう。ソウルの様子を見る限り、日本人の保護を要するほど切迫した状況は見えなかったからである。そこで、本国政府に向けて「
京城は平穏」と電報を打ったわけだが、この大鳥圭介は明治維新直前の戊辰戦争では、幕府側の歩兵奉行として参戦し、会津から函館と転戦、函館の五稜郭軍が敗れて、新政府軍に降り、獄に繋がれた。司馬遼太郎の『燃えよ 剣』では、土方歳三とソリが合わない、秀才意識芬々たる、嫌味な男に描かれている。が、それはそれとして、彼は後に許されて新政府に出仕し、明治22年に駐清国特命全権公使に任命され、26年7月、朝鮮公使を兼任することになった。国際世論は日本軍のソウル駐在には決して好意的でない。軍事や外交の苦労人である大鳥圭介は、日本(軍)の立場の難しさを直ぐに察して、先のような電報を打ったのである。

 ただし、大鳥公使の立場からすれば、たしかに日本はソウルに日本軍を駐留させる理由を失ったと言えるが、この出兵が「天津条約」に基づくものである以上、日本だけが一方的に軍隊を引き揚げなければならない理由はない。彼はそう考えたのだろう、6月12日、朝鮮における清国の外交代表たる袁世凱に共同撤兵の話を持ちかけた。袁世凱はその話を李鴻章に伝え、判断を求めたところ、「現状においては、日本を防ぐことが民乱鎮圧よりもいっそう重要である。必要ならば清国軍を引き揚げても日本軍の撤兵を実現せよ」という指示が返ってきた。「大鳥公使と袁世凱の)会談は円滑に進行し、ひとまず、両軍の現状維持をきめ、日本軍は一戸(いちのへ)大隊八〇〇名を限度に増兵せず、清国軍も牙山、全州に駐留して移動をみあわせるという点で同意が成立した」(同前)。
 ところが、その合意が成立した日、日本の大本営はさらに第五師団の残部を朝鮮に派遣することを決定してしまった。日本政府の陸奥宗光外相は必ずしも大鳥公使の動きに好意的ではなかったらしい。また、仮に陸奥が好意的であったとしても、大鳥公使と袁世凱との合意を理由に大本営の決定にブレーキをかけることは難しかった。大日本帝国憲法においては、出兵や用兵は大本営の権限に属する統帥事項だったからである。
 「
しかし、ソウルにおける共同撤兵交渉はその後も円滑に進行し、一五日にいたって、日本は在朝鮮兵力の四分の三を撤兵し、二五〇名を仁川にとどめる、ソウルから離れている清国軍は五分の四を撤兵して四〇〇名とし、民乱がおさまるのをまって両国とも全部撤収することに意見がまとまり、あとは公文をとりかわすのみとなった」(同前)。
 こうして見ると、戦争を回避できる可能性があったのだが、しかし大鳥公使はかれの一存で交渉を進めていた。裏づけのない交渉だったのである。
 もっとも、もし仮に大鳥圭介が事前に政府の了解を得ようとしたとしても、政府は認めなかったであろう。政府は、〈あれだけの大軍を派遣しておきながら、外交上の成果もなく、ただ引き揚げるだけなのか〉という「国民世論」を考慮しなければならなかったからである。それだけではない。もし両国の合意がなって、平和裡に兵を引き揚げたとすれば、おそらく国際世論は〈けっきょく朝鮮半島における内乱の危機を終息させたのは、清国の圧力があったからだ〉という方向に傾き、清王朝の李王朝に対する宗主国としての権威を高める結果となるだろう。朝鮮国の独立を支持応援する日本の立場からみて、そういう結果は何としても防がなければならなかったのである。

 そこで日本政府は、〈日清両国が派遣した軍隊は当分の間そのまま駐留させ、その上で日清両国が共同して朝鮮国の「改良」の推進に当たろう〉という趣旨の「朝鮮内政改革案」を、清朝政府に提案した。これが明治27年6月16日のことである。
 それに対して、清朝政府は6月21日、日本政府の提案を拒否する旨の返事をした。清朝政府の立場からすれば、日本と共同で朝鮮国の「改良」に当たることは、朝鮮国に対する宗主国の立場を失うことになりかねないからであろう。それが6月21日、つまりイザベラ・バードが済物浦で日本兵士の上陸を目撃した日だったのである。

○対照的な日本軍隊と「朝鮮人の群衆」
 それにしても、イザベラ・バードが済物浦で目撃した日本軍兵士と、「
朝鮮人の群衆」の姿は、あまりにも対照的だった。当時の日本と朝鮮国との国情の違いをあからさまに表象する光景だったと言っても過言ではないだろう。
 彼女が見た日本軍の兵士は、「
秩序正しく行進」し、「あらゆる男が、あたかもその義務とその意味を知っているかのように見えた。威張りちらす者はいなかった。良く武装し、実戦向きの服装をしている小人〔日本人〕がその成し遂げようと意図している目的のために、朝鮮で目立っていた」。その他の箇所でも彼女は、「厳しい訓練と行儀の良い振舞の驚異的な実例である小人〔日本人〕の大部隊」という言い方をしていた。
 このとき日本軍兵士に与えられた出動目的は「朝鮮国における日本人の保護」ということだっただろうが、個々の具体的な場面における行動は上官が指示した作戦目標に従っていたはずで、イザベラ・バードの目に映った日本軍兵士はその目的と目標をよく理解し、小気味いいほど規律正しく、てきぱきと行動していたのである。
 それに対して彼女の目に映った朝鮮国の民衆は、「
元気なくぼうっとしている、通りをぶらつくか、小さい丘に坐り込んでいる朝鮮人の群衆が、自分たちの港が外国人の野営地に変容するのを放心してじいっと見つめていた」。この人たちは、〈これは一体どういう事態なのか、いま自分の国で何が起ころうとしているのか〉について、よく分かっていないのではないか。彼女の目に、「朝鮮人の群衆」はそう映ったらしいのである。

 これは多分当時の朝鮮国におけるジャーナリズムの発達の状態や、民衆のリテラシー(識字率)の問題と関係するだろう。「いま自分の国で何が起こっているのか」。それを民衆が理解するには、最低でも政府の公報が必要であり、すでに日本では、外国の情報や政府の方針を国民に広く伝える、活字印刷の「官報」が発行されていた。また各地方の新聞は官報の内容だけでなく、それを論評する記事を載せていた。新聞の値段は決して安いものではなかったが、町々に「新聞縦覧所」が出来、ごく安い料金で何種類もの新聞に目を通すことができる。「新聞縦覧所」のない土地では、余裕のある家が新聞を定期購読し、関心のある人はそれを借りて読む。村役場へ行けば、政府発行の「官報」を読むことができたのである。
 幾つかの記録を見れば、朝鮮国政府も「官報」を出していたことが分かるが、これは明治政府の「官報」とは違い、江戸時代の幕府が各行政機関に伝達した「お触書」のようなものであったらしい。ただし、江戸時代の「お触書」は漢字を交えた仮名文字の文章、つまり候文(
そうろうぶん)で書かれており、寺子屋で教える程度のリテラシーがあれば、庶民でも読むことができる。もちろん明治に入ってからは、全国民を対象とする基礎教育が義務化され、イザベラ・バードが朝鮮国を旅した明治27年頃には、日本の高等小学校を出た人たちは現在の高等学校の学生よりも高いリテラシーを身につけていた。では、朝鮮国のリテラシーはどうであっただろうか。
 イザベラ・バードは漢江を溯る旅の途中で次のようなことに気がついた。
《引用》
  
部落とは区別される漢江上の村々に学校がある。しかしその学校は、民衆には開放されていない。家族連合同好会が協力して、教師をひとり雇う。生徒は学者階級の者だけである。文理にある中国の学問〔儒学〕だけが教えられる。これは、あらゆる朝鮮人の大望である官職への手段になっている。諺文(オヌムヌ)は軽蔑され、教育ある階級の書き言葉には使われない。しかしながら私は、川上に居る下層階級の非常に多くの男の人たちが、朝鮮固有の筆記文字〔諺文〕を読める事に気付いた。

 「諺文」とは現在のハングルのことであるが、下層社会の男性の間では広く行き渡っていた。これは注目すべきことであろう。この諺文に基づくジャーナリズムが何時から始まったのか。諺文に拠る義務教育が始まったのは何時からか。これらのことは、朝鮮国の近代化に関する重要な指標となるからである。
 だが、日本と清国が朝鮮半島に兵を出した頃、朝鮮国の支配階級で重んじられていたのは「
中国の学問〔儒学〕だった。つまり支配階級の言語は儒学の学習に基づく漢文だったわけで、朝鮮国政府が出す「官報」もこの言語によって書かれていたとすれば、民衆は「官報」の伝える情報から疎外されていたのである。
 このように支配階級の政治動向から疎外され、新聞もなければ、もちろんラジオもテレビもなかった状況で、いま自分の国で何が起こっているのか分からず、放心した面持ちで日本軍の上陸を眺めている。そういう無気力な民衆がイザベラ・バードの描いた朝鮮国人の姿だった。

○朝鮮国人は「人種の滓」?
 イザベラ・バードは更に、「
朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え、その状況を希望を持てないものと見做すようになっていた」と、二重に人種差別的なことを書いていた。
 彼女は19世紀の西洋的知識人の通例として、「人種」を科学的な概念と思い込んでいたのであろう。この場合の「人種」は、地球上の人間を白色人種、黄色人種、黒色人種と類別する観念で、中には黄色人種と黒色人種の間に「銅色人種」を入れる人類学者もいたが、この類別は進化論と結びつき、白色人種は最も進化した優れた人種、黒色人種はその反対と見られていた。イザベラ・バードはそういう観念に基づいて「
人種の滓」と言ったわけだが、「」とはまことにひどい言葉で、日本語では「役立たず、最も下等なもの、くず」を意味する。バードが英語でどういう単語を使ったかは分からないが、the dregs of mankind(人間のくず)、the dregs of the society(社会のくず)という言い方があり、たぶんdregsという言葉を使ったのであろう。
 ともあれ、以上のような意味で、人種論は、フィジカルな形質によって人間を類別する際の、「自然科学的な」根拠だったわけだが、それだけではない。フランスのイポリット・テーヌは『イギリス文学史』(
1863~4年)の序文で、各国の文学の特質を決定する「本源的原動力」として、人種(le race)と環境(le millieu)と時代(le moment)の三つをあげ、イギリス文学の特徴を巧みに説明してみせた。この方法は19世紀後半の文学史や歴史学に大きな影響を及ぼし、特に注意すべきは、〈各国の文学はその国を形成する人種または民族の心性や精神的能力を反映するものだ〉という観念を生んだことである。そしてこの観念から、文学史とは国民性の発現の歴史を記述する学問なのだという考え方が生まれたわけである。
 この考え方は現在でも俗流文化人類学の形で根強く残っており、何かと言えば人種論や民族論でお互いを類別し、差別し合う風潮を生んでしまった。このことは日本人の安直な韓国人論や、韓国人の安直な日本人論の盛行という現象を一つ取りあげてみても、よく納得が行くだろう。
 国民論や民族論はこのように、他国民や他民族に対する差別を生んでしまう危険を孕んでいるわけだが、イザベラ・バードはその点に関する反省もなしに、西洋人が作った人種論的な見方で朝鮮国人を捉えていた。そのこと自体が差別的だったわけだが、「
人種の滓」、つまり最低の人種として蔑視していたのである。

○朝鮮国に関する「信託統治」必要論
 なぜイザベラ・バードはそのような極論にまで走ってしまったのか。
 彼女の朝鮮国人に対するネガティヴな視線は、単に無気力な「放心」状態に陥っている民衆だけに向けられていたわけではない。民衆の悲惨を放置したまま、権力争いの「党争」に明け暮れ、売官を恥ともしない支配階級の腐敗にこそ向けられていたわけだが、「この国はもう救いようがない」という感想は彼女だけのものではなかったらしい。彼女の『朝鮮奥地紀行』に序文を寄せた、朝鮮総領事のウォルター・C・ヒリアはその序文の中で次のように言っている。
《引用》
 
少しでも朝鮮を知る人には、今やこの国の国家としての存立に絶対必要な条件は、どのような形式のものであれ、後見(信託統治)である事が明らかになっている。朝鮮が、日本の力によって得た名目上の独立は、まったく名ばかりであった。その間朝鮮は、手の打ちようが無いほど腐敗した行政の重荷を背負って引き続き苦労していた。尊大にもその属国取り扱いの特徴になっている、現地の地方的利害に無関心のふりをして中国が行ってきた助言者、案内人の役割は、清国軍が朝鮮から排除された後、日本が引き受けた。朝鮮行政のもっとも目立った悪弊を改革する日本の努力は、少し乱暴だったが、疑いなくまじめで誠実なものであった。しかしビショップ夫人(イザベラ・バード)が明らかにしたように、経験不足であった(太字は原文では傍点)

 ヒリアがこれを書いたのは日清戦争の後であるが、その時点においてもヒリアの眼に映った朝鮮国は、「手の打ちようが無いほど腐敗した」状態にあり、「国家としての存立に絶対必要な条件は、どのような形式のものであれ、後見(信託統治)である」と見えていたのである。

 多分これは当時の欧米人の共通した認識だったのであろう。

○マッケンジーの「独立喪失」不可避論
 スコットランド系カナダ人のジャーナリスト、F・A・マッケンジーの『朝鮮の悲劇』(
渡部学訳。平凡社東洋文庫、昭和47年。原題はThe Tragedy of Korea. 1908 )は、日露戦争後の1908年(明治41年)に刊行され、日本の朝鮮政策に対して厳しい批判に充ちているが、その序文で彼は次のように書いている。
《引用》
 
偏見のない観察者なら誰でも、朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついに自らの独立を喪失するに至ったことを、否定することはできない。だが同時にまた、この半島に対する日本の政策が、老獪な宮廷派の陰謀と頑迷とによって、多くの困難をなめたということも、同じように真実である。しかし、こういうあらゆる障害を十分斟酌した場合でも、この朝鮮の国土の日本政府占領後に示されたその諸行動を目撃したわれわれは、悲痛な失望の感を表明するほかはない。事態は今や、その事実に対するイギリス国民の義務の問題にまで立ち至っているという段階に達している。私一個人としては、われわれは、われわれ自身およびわれわれの同盟国日本に対して、次のことを果たす義務があると確信する。すなわち、弱小国に対する厳粛な条約義務の破棄に基づく、そして、憎むべき蛮行、無益の殺傷、信頼してよりかかってくる無防備な農民の私的財産権の大規模な収奪、等々により築き上げられた帝国主義的膨張政策というものは、われわれの本性に背を向けるものであり、かつまた、最近われわれがとくに捧げている尊敬と善意をその当該国からはぎ取ってしまうことになりかねない、こういうことを明らかに知らせるということを。

 マッケンジーが『朝鮮の悲劇』を書いた動機は、「しかし、こういう」以下に語られているわけだが、そういう手厳しい日本批判を企てた人間であるにもかかわらず、彼もまた「朝鮮が、その古びた国家統治の腐敗と懦弱のおかげで、ついに自らの独立を喪失するに至ったこと」を不可避的な事態と見ていたのである。朝鮮国がその独立を失った原因は、朝鮮国の内部にあったのだ、というわけで、今日ふうに言えば「自己責任だ」と言っていたことになるだろう。

○日露戦争中の日本軍と日本人
 ついでに彼が日本人や日本の軍隊をどう見ていたか、それをよく示す箇所も引用しておこう。先ほどはイザベラ・バードが目撃した日清開戦以前の日本軍を紹介したが、これはマッケンジーが日露戦争中に見た日本軍と日本人は次のようであった。
《引用》
  
日本軍は、当初、非常な節制のもとに行動した。彼らは、自分たちに敵対した韓国官吏たちを処罰せずにそのままにしておき、そのうちの幾人かはただちに日本側の仕事に採用したりもした。北方へ進撃中の部隊は、厳格な規律を保ち、住民をも丁寧に取り扱った。徴発した食料にも公正な代価で支払い、運搬人として軍役に動員した数千人の労務者に対しても、おうようにしかも敏速に補償を行なって彼らを驚かせた。日本の賃金支払率が非常に高かったので、日本が物質的に労働市場に影響を与えるというほどであった。林権助(当時の駐韓公使)氏は、韓国皇帝を安心させるようできるだけのことをし、日本は韓国の利益と強化のほかは何ものも望まない、という約束を繰り返し与えた。また、時を移さず、伊藤公が天皇の勅使としてソウルに派遣され、各国の駐在公使以上に力強く友誼と協力の宣言を繰り返し再確認したのであった。
  
これらすべてが、韓国民の心に影響を与えずにはおかなかった。北部の住民たちは、ロシア人に好意を持っていなかった。ロシア人には規律と自制とが欠けていたからである。彼らはとくに、しばしば起こるロシア軍兵士と韓国女性との衝突によって不和を来した。私は、戦争の初期に、主として北部地方をずっと旅行したが、その最初の数週間の間、私はどこでも、韓国の国民から日本軍に対する友好的話題ばかりを聞かされた。労務者や農民たちも友好的であった。彼らは、日本が自国の地方官僚どもの圧政をただしてくれるようにと望んでいたからである。また、上流階級の人びとの大部分、とくになにほどか外国の教育をうけたような人たちは、日本の約束を信じ、かつ従来の経験から推して、自国の遠大な改革の実施は、外国の援助なしには遂行し難いと確信しており、そのため日本に心を寄せていた。ところが、戦勝につぐ戦勝がつづくにつれて、日本軍の態度はしだいに懇切さを減じていった。日本軍についてやって来た日本人小商人どもはかなりの数にのぼり、彼らには軍隊のような自制心はさっぱり見られなかった。彼らは、剣を手にして歩き回り、欲するままに徴発し、気の向くままに行動した。

 マッケンジーが知り合った、親ロシア派の朝鮮国官吏たちは、「戦争が自国の領土内で始められることも、日本軍がロシアを追い出すことも不可能だと考えていた」という。つまり、日本にはロシアと戦うだけの国力もなければ勇気もなく、万一戦争を挑んだとしてもロシアに勝てるはずがない、とタカを括っていたらしいのだが、実は日清戦争の前も、同様な見方で、日本が清国に戦争を挑むはずがない、とタカを括っていた。この頃の朝鮮国人は大国依存症に取りつかれていたのだろう。
 ところが、日本はロシアに宣戦を布告して、着々と戦果を上げるだけでなく、朝鮮国人の信頼を得る上でも目を見張るばかりの成果を上げていく。マッケンジーが書きたかったことは、「
ところが、戦勝につぐ戦勝がつづくにつれて」以下、つまり「日本軍についてやって来た日本人小商人ども」の非道な行為だった。更に彼は、戦争が続くにつれて、朝鮮国に駐在する日本の官憲や軍隊までが「日本人小商人ども」に引きずられ、無恥な行為に走ってしまった事実を指摘していくわけだが、少なくとも開戦当初の日本軍の規律と、現地人に対する行き届いた配慮については、――ひょっとしたら、これほど規律正しく、現地人の人心を得た軍隊は、世界の戦史に照らしてもごく稀な例だったのではないか――これを高く評価せずにはいられなかったのである。

○イザベラ・バードの思わせぶりな書き方
 イザベラ・バードも日本軍のウラとオモテを描いている。
《引用》
  
平壌は襲撃されはしなかった。市内で実際の戦闘は無かった。逃走した清国人と占領した日本人の双方が、朝鮮人の友人のふりをしていた。この破壊と荒廃の全ては、敵によってでなく、朝鮮に独立と改革を与えるために戦わなくてはならない、と公言した者どもがもたらしたのである。「倭人(ウオジエヌ)(小人)は朝鮮人を殺さない」という事が次第に知られるようになった。それで、多くの人びとが帰って来た(中略)
  
日本兵が入って来て、住民の大多数が逃げてしまったのを見た時、その兵士らは、柱や家の木造部分を引き剥がした。しばしば屋根も燃料に使った。或は家の床に火を付けて燃えるに任せた。その時、家は火事になり、消滅した。日本兵らは、戦闘後の三週間以内に、避難民が残した財産を略奪した。モフィト氏の家からも七百ドル相当の価値のある物を奪い取った。彼の召し使いが抗議文を書いたけれども、その略奪は役人の立ち合いのもとに是認された。このような状況の下で、朝鮮でもっとも繁栄していた都市〔平壌〕は破壊された。そのようなのが「緑の木」〔順境〕における戦争の結果であるならば、「乾いたもの」〔逆境〕における結果はどのようなものになるのだろうか?
  
その後の占領中、日本軍は立派に振る舞った。町や近隣で買った用品の全てに良心的に代金が支払われた。そこの人びとは日本軍を激しく憎んでいたが、平穏で良好な秩序が維持されるのは容認した。人びとは日本軍が退去すると、日本人が訓練し、武装させた朝鮮人の連隊訓練隊(クンレンタイ)にひどく苦しめられるだろうと大層心配していた。その訓練隊はすでに略奪を始め、人びとを叩いていた。それでその民間での権威は無視され始めていた。本通りは、私が二度目に訪れた時、賑わっている様子であった。たくさん築き上げ、たくさん取り壊していた。というのは日本の商人が望ましい商売用地を全て手に入れ、朝鮮人の暗くて低い小さな店を大きくて明るく風通しの良い、綺麗な日本式の建物に変えていたからである。日本品、特にあらゆる型と値段の灯油ランプをどっさり仕入れていた。デフリーズ・アンド・ヒンクスの特許を恥知らずにも侵害していた(下線は亀井)

 今回の最初に引用したのは、イザベラ・バードが見た日清戦争開戦前の日本軍の様子だったわけだが、ここに描かれたのは日清戦争中の出来事である。
 そして、彼女が描きたかったのは、日本軍のウラの顔だったらしいのだが、どうもここには腑に落ちない表現が見られる。
 その一つは、「
逃走した清国人と占領した日本人の双方が、朝鮮人の友人のふりをしていた。この破壊と荒廃の全ては、敵によってでなく、朝鮮に独立と改革を与えるために戦わなくてはならない、と公言した者どもがもたらしたのである」という表現であるが、朝鮮国が清国とも日本とも戦争した事実はない。それ故、そもそも朝鮮国の「敵」などは存在しなかったはずである。そうであるならば、平壌に破壊をもたらしたのは「朝鮮人の友人のふりをしていた」清国人と日本人だったことになる。ただ、両者いずれもが「朝鮮に独立と改革を与えるために戦わなくてはならない、と公言」していたわけではない。朝鮮国の独立と改革を戦争の大義としたのは日本であって、宗主国の立場を主張する清国がそんなことを「公言」するはずはなかったからである。
 とするならば、平壌に荒廃をもたらしたのは日本人の軍隊だったことになるわけだが、なぜイザベラ・バードは日本を名指ししないで、先のような思わせぶりな書き方をしたのであろうか。

 日本に対する気後れがあったのだろうか。多分そんなことはなかっただろう。『朝鮮奥地紀行』は英語圏の読者を対象に英語で書かれていたからである。これを英語圏の中で考えてみよう。少しでも朝鮮国の情勢に関心を持つ人間ならば、かねて日本が朝鮮国に関してどのようなことを主張してきたか、よく知っていたはずで、イザベラ・バードの持って回ったような言い方には、かえって違和感を覚えたことであろう。

○バードの記述を整理してみれば
 イザベラ・バードの書き方には、時々、前後関係の説明に曖昧な点があり、うっかりすると勘違いしかねない。念のため整理してみるならば、次のようになる。

① まず清国軍が平壌に入り、駐屯していた。
② 平壌での戦闘はなかったが、清国兵は逃走した。
③ 日本軍が代わって平壌に入った。「
朝鮮の独立と改革のために戦わなくてはならない」と公言していた日本軍が破壊をもたらし、荒廃させた。
④ 「
倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」という事が次第に知られるようになり、平壌から他所へ避難していた多くの人びとが帰って来た。
⑤ 平壌に入った日本兵は、住民の大多数が逃げてしまったのを見て、破壊と略奪を始めた。
⑥ その後の占領中、日本軍は立派に振る舞った。
⑦ 平壌の住民は日本軍を激しく憎んでいたが、日本軍によって平穏で良好な秩序が維持されることは容認した。
⑧ 日本軍が去った後に、日本人が訓練した朝鮮人の連隊が入ってきた。
⑨ 朝鮮人の連隊は平壌の住人から、ひどく苦しめられるのではないかと怖れられ、事実、朝鮮人の連隊は略奪を始めた。
⑩ 二度目に平壌を訪れた時は、日本人商人が商売用地を買い占め、日本風の大きな家を建てて盛大に商売を営み、外国の製品のパクリもやっていた。

 もしこの順序の通りに事態が進んだとすれば、〈平壌から避難した人びとは、「倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」ということを知って戻ってきた。日本兵は住民の大多数が逃げてしまったのを見て、建物を壊し、略奪を始めた〉ということになるわけだが、こんな矛盾したことが実際に起こったとは思えない。
 また、イザベラ・バードの書き方は、〈日本軍が近づいて来るのを知って、清国兵も平壌の住民も平壌から逃げ出した〉という印象を与える書き方になっているが、果たしてそうなのであろうか。
 このような矛盾や疑問の解答になりそうなことを、別な箇所で、彼女自身が書いている。彼女の一行が慈山(
チヤサヌ)郡の竜淵(オウチヌガン)里に着いた時のことである。
《引用》
  
びとは、清国兵からうけた苦難の辛い話をしてくれた。清国兵は恥知らずにも略奪し、代金を支払わないで欲しい物を奪い取り、女性を虐待した。朝鮮人は恐怖のために、慈山付近の渡し場のある竜淵里を見捨てた。そこはこの前、私たちが大同(テドン)江を渡った所であり、五十三名の清国兵が持ち堪えていた重要な駐屯地であった。二名の日本の斥候が川の向こう岸に現われ、発砲した。清国の分遣隊は挫けて逃走した! 慈山では他所でのように、人びとは日本人に対する激しい憎しみを述べ、独りも生かしてはおけない、と言いさえもした。しかし全ての他所でのように人びとは、日本兵の品行の良さとその兵站部が必要品の代金を支払う規則正しさに対して、不本意ながら証拠を持っていた。下線は亀井)

 たった二名の日本兵の斥候と撃ち合いになり、清国兵の分遣隊が逃げ出してしまった。何とも情けない話であるが、それだけ兵隊の装備に差があり、兵士としての訓練の練度にも差があったのであろう。だがそれはともあれ、これを見ると、略奪を働き、女性に暴行を加えたのは清国兵であり、それを怖れて住民は逃げてしまったのである。

 イザベラ・バードはこの後、何回か、駐屯地から移動する日本の分遣隊とすれ違った。兵士たちは毛皮で裏づけられた深い襟付きの灰色の重いアルスター外套を着て、厚いフェルトの手袋をはめ、まるで観兵式の時のように粛々と行進していた。「食事に休憩する時は万事用意されていて、銃を組み立てて食べる以外にする事は何一つなかった! 農婦たちがいつものように副業で外出していた」。兵士が農民から、むりやり食事に必要な物を調達するようなことはなかった。農家の女性は日本兵を警戒する様子もなく外出していたのである。

○平壌市内はどうなっていたか
 もう少し検討を進めてみよう。
 たしかにイザベラ・バードが言うように、平壌市内での戦闘はなかった。だが、これは必ずしも破壊が行われなかったことを意味しない。そのことは彼女が清国軍の最高司令官の左宝貴将軍の戦死について書いたところから、窺うことができる。
 平壌に駐屯していた清国軍の左将軍は市内に立てこもって戦うことを避け、「
訓練と装備で清国軍の精華」と称された精鋭部隊を率いて、城外の平原で日本軍を迎え撃つことにした。1894年(明治27年)9月15日のことである。だが、戦闘は日本軍の制するところとなり、左将軍は日本兵の銃撃に斃れてしまった――のちに日本人は優れた敵将の死を悼んで、死に場所と推定される地点に塔を建てて、「左宝貴、奉天師団最高司令官 死去地」()、「平壌で日本軍と戦闘中 死す」()と刻んだ。現在もこの塔が建っているかどうかは、不明。――そのため、清国軍は統制と士気を失い、「一部の者は城壁内の砦に逃げ帰った」。左将軍は出撃に当たって、平壌守備のために部隊の一部を割き、残していったのだろう。「その夜の間に銃やその他の武器を全て捨てて、左将軍の残存部隊と歩兵全員、そして負傷していなかった兵士たちは、見捨てられて人が住んでいない、物音のしない都市〔平壌〕を通り抜け、普通門から激しく押し出して浅瀬を渡り、低い丘に帯状に囲まれ、北京街道と交差している平原に出て来た」。
 つまり、まず清国軍が駐屯し、それを怖れ、住民の多くは平壌を見捨てて、他所へ避難していたのである。平壌駐屯の清国軍は、左将軍の威令が行き渡り、よく統制が取れて、破壊や略奪行為はなかったかもしれない。そのように考えることも出来ないではないが、しかし、「
倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」ことが知れ渡って、住民がもどって来た。ということは、つまり、日本軍の進出以前に駐屯していた軍隊が朝鮮国人を殺害したことを意味するだろう。「倭人(小人)は朝鮮人を殺さない」云々の箇所はそう解釈できるわけだが、ともあれ、左将軍の死により、混乱が起こり、平壌に逃げ帰った兵士と、残存部隊とは命からがら市内を抜けて、敗走していったのである。その間、破壊も略奪もなかったとは、とうてい考えられないことであろう。

○イザベラ・バードのジレンマ
 先に引用したイザベラ・バードの文章は、以上のように読み解いてゆくべきだと思うが、もう一つ、何回か彼女の文章を引用している間に、面白い特徴があることに気がついた。彼女の描く朝鮮国人は豊臣秀吉の侵冦以来、ずっと日本人を憎み続けており、それ故彼らが日本軍を受け入れる態度は、「
その後の占領中、日本軍は立派に振る舞った。町や近隣で買った用品の全てに良心的に代金が支払われた。そこの人びとは日本軍を激しく憎んでいたが、平穏で良好な秩序が維持されるのは容認した」という具合だった。
平穏で良好な秩序が維持されるのは容認した」とは妙な言い回しであるが、「まあ、日本軍によって良好な秩序が維持されていることだけは、大目に見て、認めておこう」というところであろうか。
 先ほど引用した、慈山郡の出来事に関する文章のなかにも、「
しかし全ての他所でのように人びとは、日本兵の品行の良さとその兵站部が必要品の代金を支払う規則正しさに対して、不本意ながら証拠を持っていた」という言い方が出て来た。「不本意ながら証拠を持っていた」とはこれまた奇妙な言い回しであるが、「日本兵の品行の良さと、金払いの良さについては、証拠もあることだし、まあ、しぶしぶだけど認めてやってもよいか」というところなのだろう。
 次は、京畿(
キヨンウイ)道と黄海(ホアンヘ)道の間の境界線、塔?(タオジヨル)を越えて、黄海道に出た時のことである。
《引用》
  
私が通りを歩いていると、ひとりの日本兵が肩で私に触れ、国籍や何処から来たか、何処に行くのか、などと私に尋ねた。少しも礼儀正しくない、と私は思った。私が自分の部屋に行き着いた時、十二名の日本兵が来た。そして、徐々に私が居る戸の周りを塞いだ。それで、私は戸を閉じられなくなって戸の内側に立ち詰めでいた。きちんとしたひとりの軍曹が、軽く帽子を挙げて私に会釈した。そして奥の李氏が居る部屋に進んでいった。李氏に私が何処から来たのか、何処に行くのかと尋ねた。返事を聞いてから答えた。「結構です」と。軽く帽子を挙げて私に会釈して出て行った。その部下たちも一緒に引き下がった。これが、数回あった家宅捜索の第一回目のことである。彼らは通常大層丁寧であったけれども、家宅捜索をする権利に関して、また国を支配する権力が誰に属しているかに関して、問題点を仄めかしていた。そこでは他所でのように、朝鮮の人びとは強い恨みを抱いて日本人を憎んでいたが、日本人が大層穏やかであり、手に入れた物全てに代金を支払ったのを已む無く認めていた。もし日本兵が洋服を着ていなかったならば、私は彼らが戸の周りを塞いで私に無礼を働いた、とは考えなかった事であろう(下線は亀井)

 どうやらイザベラ・バードが理解する朝鮮国人は、根深く日本人を憎んでいて、日本人の美点を率直に認めることはしない。功績を感謝することもしない。マッケンジーの描いた朝鮮国人は、少なくとも日露戦争の開戦当初は、日本人の美点を率直に認め、賞賛し、大きな期待を抱いていたわけだが、イザベラ・バードの理解する朝鮮国人は日本人の良い点をしぶしぶ認めはするが、決して心を許していない。「日本憎し、日本人憎し」が骨の髄までしみ通っている気配なのである。

 それとともに、このように整理してみると、彼女が日本兵を mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼んだ理由が、おぼろげながら分かるような気がする。
 多分彼女は日本兵が嫌いだったのであろう。この感情が日本人一般にまで及んでいたかどうかは速断を避けなければならないが、少なくとも日本兵に反感を抱いていたことだけは、「
もし日本兵が洋服を着ていなかったならば、私は彼らが戸の周りを塞いで私に無礼を働いた、とは考えなかった事であろう」という一文から推測できる。この「洋服」は軍服のことであろうが、なぜ日本兵が軍服を着ていなければ、自分に対して無礼を働いたとは考えなかったにちがいない、ということになるのか。そもそも兵士が西洋風な軍服を止めたとして、では、どんなものを着ればよいのか。そんなふうに色々とツッコミどころ満載なのであるが、それはそれ、これはこれ、とにかくイザベラ・バードは日本兵に好感を持てなかったのであろう。
 しかし、日本軍、日本兵のどの点を取って見ても、批判すべきアラは見えない。近代的な軍隊の兵士としては、ヨーロッパの兵士に劣らず、いや、それ以上に優秀だ。背丈の低い、黄色人種の、この優等生ぶりが、小面憎かったのかもしれない。そんなジレンマのため、彼女は朝鮮国の人びとの言葉に托して、日本兵のおかげで良好な秩序が維持される事実を「
容認」したり、日本兵の品行の良さと金払いのよさを「不本意ながら」、「已む無く認め」たり、これはどう考えても上から目線の、思い上がった態度であるが、ともかくそういう見方で評価してやることにしたのであろう。日本兵が立派に規律を守っていることを認めながら、mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼ばずにいられなかった理由も、おそらくそこにあったのである。

○情けない朝鮮国軍
 ただし、こと朝鮮国軍の振る舞いに関しては、これはとうてい「
容認」できなかったにちがいない。
 日本軍は住民が安心して戻れるように、平壌の治安を回復し、朝鮮国の訓練隊に後事を託して、平壌を去ったわけだが、代わりに入ってきた朝鮮国の訓練隊は、入城する前から平壌の住民に怖れられ、入城するや略奪と暴行を開始した。おそらく自国の国民を保護する責任感を欠いた、情けない軍隊だったのである。

○次回のテーマ
 ただし、当時の朝鮮国民の名誉(?)のために、念のために付言しておくならば、イザベラ・バードは確かに「
朝鮮では、私は朝鮮人を人種の滓と考え」と言っていたが、続けて次のように書いている。
《引用》
 
しかしプリモルスクで、私は、自分の意見をかなり修正する根拠となるものを見た。自らを富裕な農民階級に高めた朝鮮人、またロシアの警察官、開拓者や軍の将校から等しく勤勉と善行の持ち主だ、という素晴らしい評判を受けた朝鮮人たちは、例外的に勤勉で倹約する質朴な人では無い事を心に留めておかなくてはなるまい。彼らはたいてい飢饉から逃れて来て飢えに苦しんだ人びとであった。そして彼らの繁栄とその全般的な振舞は朝鮮に居る同国人が、もしいつか正直な行政と稼ぎの保証がなされるならば、徐々に人間になれる事であろう、という希望を私に与えてくれた(太字は原文では傍点)

 つまり彼女は当時の「朝鮮国人」ならぬ、ロシア領に移住した「朝鮮人」を見て、やがて朝鮮国人も「人種の滓」の状態を脱して、「徐々に人間になる」、つまり人類の仲間に入って行く希望を見出した。朝鮮国人からすれば、こんな不快な「希望」なんて一向にありがたくなかっただろうが、ともかくそれが彼女の精一杯の好意だった。では、彼女がロシア領で見かけた「朝鮮人」はどのような人たちだったのか。また、何ものかが、一方では朝鮮国人を「人種の滓」状態にまで追い詰め、他方ではロシア領にまで追いやったわけだが、その何ものかを、彼女はどのように見ていたか。次回はそれを取りあげてみたい。

 
 
 

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