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論文集『主体と文体の歴史』(ひつじ書房)が出ました――ちょっと一休みして、近況報告―

論文集『主体と文体の歴史』(ひつじ書房)が出ました
――ちょっと一休みして、近況報告―

恵まれた定年後
 前回、私は、〈次は「欧米人が見た朝鮮国の日本人」を取り上げたい〉と書いて結んだ。それから既に2ヶ月が過ぎている。ずいぶん怠けてしまったわけだが、その間ありがたく、嬉しいことが続き、しかし「好事魔多し」、体調を崩してしまったためでもある。

 まず、ありがたく、嬉しかったことにふれておけば、今年の5月末に、ひつじ書房が『主体と文体の歴史』という、文学研究の論文集を出して下さった。これは私にとっては13年ぶりの著書である。
 私は平成12年(2000年)に北大を定年で辞めたが、定年の前の年、岩波書店が『「小説」論――『小説神髄』と近代―』という研究書を出してくれた。さらに、定年の年、岩波書店が『明治文学史』を出してくれた。願ってもないような、非常にいい形で、私は研究者生活を締めくくることができたわけだが、幸運は更に続いて、平成17年(2006年)には、韓国の建国大学校の申寅燮教授が『「小説」論――『小説神髄』と近代―』の韓国語訳(
建国大学校出版局)を出して、記念の国際学会を企画してくれた。同じ年、高麗大学校の金春美教授が『明治文学史』の韓国語訳(高麗大学校出版局)を出して、記念の講演会を開いてくれた。

 他方、アメリカでは、当時UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授だったマイケル・ボーダッシュさんが中心となって、私の『感性の変革』(講談社、昭和58年)を英訳し、平成14年(2002年)、Transformations of Sensibility: The Phenomenology of Meiji Literatureというタイトルで、ミシガン大学の出版局から出してくれた。
 それだけでなく、ボーダッシュさんはこの出版を記念して、2002年の4月、UCLAで、Sensibilities of Transformation: The Linguistic Turn in Contemporary Japanese Literary Criticismという国際学会を開いてくれた。Sensibilities of Transformation は言うまでもなく、Transformations of Sensibilityを一ひねりひねったタイトルであるが、その狙いは、1970年代後半から80年代にかけて、日本の文学研究の領域で起こった新しい言語学的方法――私の『感性の変革』もその一つに数えられたわけだが――と、その功罪を明らかにすることにある。もちろん私も招待され、講演をした。
 その折、この学会の講演や研究発表もまた論文集の形で、ミシガン大学の出版局から出版してもらえそうだ、と教えられ、楽しみにしていたところ、予定よりはやや遅れて、平成22年(2010年)に、The Linguistic Turn in Contemporary Japanese Literary Studies: Politics, Language, Textualityというタイトルで出版された。

ひつじ書房からの誘い
 自分の研究がこのように、国際的な評価の対象となっている。これはひとえに以上の人たちの好意と苦心のおかげであり、文学研究者としての私の努力は十二分に報いられた。私は心から感謝し、それ以後は、いわば満ち足りた気持で小樽文学館の仕事に打ち込んできた。
 ところが、思いがけないことに、昨年の8月、ひつじ書房の編集部から、論文集を出してみないか、というお誘いをいただいた。「亀井が研究雑誌に発表し、そのままになっている論文の中には、現在もなお読むに価するものがある。それらを集めれば、十分に一冊の論文集になるのではないか」。愛知教育大学教授の西田谷洋さんとひつじ書房の編集者とがそんなふうに相談したらしく、企画書を見ると、収録候補の論文だけでなく、構成や部立てまで出来上がっている。たしかに、もし現在読んでもらえるならば、書き手としてはありがたいな。そう納得できる論文が選ばれており、Ⅳ部構成の編集も要領を得ている。ただ、全体で600ページに近い、大部な本になりそうな点が気になったが、出版社の判断で「その点は特に問題ない」ということであれば、私に異存はない。私は喜んで出版の誘いに応じた。

記念講演会と反響
 こうして、『主体と文体の歴史』(
4700円+税)が5月末に刊行されたわけだが、「表現急行」を名乗る研究者が、早速インターネットのブログで、「表現急行:亀井秀雄「主体と文体の歴史」その2」、「表現急行:亀井秀雄「主体と文体の歴史」その3」と、取り上げて下さった。
 ひつじ書房の編集者も出版について好感触を得たらしく、記念の講演会を東京で開きたいのだが、と相談してきた。
 私はちょっと驚いた。今度の本は何分にも大部であり、少し自惚れさせてもらうならば、それぞれの論文はかなりコクがある。一通り眼を通すだけでもかなり時間がかかるだろう。具体的な評価が現れるのは、数ヶ月先のことではないか。そう考えていたからである。
 しかし、この場合もまた編集者の判断を信頼して、万事をお任せしたところ、立教大学教授の石川巧さんの尽力で、7月1日(月)に教室を貸してもらえることになった。

 講演会は石川巧さんの挨拶があり、西田谷洋さんの司会で始まったわけだが、中程度の教室がちょうど一杯に埋まるくらいの人たちが聞きに来て下さった。立教大学の院生さんと思われる若い人たちも多かったが、話の途中で気がついただけでも、三浦つとむの夫人が聞きにきて下さっていた。岩波書店の『文学』の前の編集長だった星野さんや、一橋大学の名誉教授の伊豫谷さんも来て下さった。北海道だけでなく、大阪や松本市からも教え子が懐かしい顔を見せてくれた。
 これは講演後に分かったことだが、群馬県太田市で県立高校の先生をしている鏡さんは、私が名古屋大学で集中講義をした時の学生さんだったという。
 また、後に頂戴したお手紙によれば、「表現急行」さんも兵庫県から駆けつけてくださっていた。
 ひつじ書房の編集部の方々の話では、言語学や外国文学の研究者も来ていた。北海道から参加してくれた人のメールによれば、社会学の研究者の顔も見えたという。
 ひつじ書房がホームページなどで宣伝をしてくれたおかげであるが、しかし日時と会場が決まってから、講演会の当日まで、僅か3週間程度しか宣伝の時間がなかった。にもかかわらず、ずいぶん広く知れ渡って、思いがけないほど遠方から、色んな専門の人がこれだけたくさん足を運んで下さった。後からお名前を教えられた人もあり、先ほど挙げた人たちの全てに私はその場で気がついたわけではないが、教室が埋まっていく様子を見て、こころよい緊張とともに、気持が昂揚してきた。
 講演の後の質問も、急所を衝く鋭い指摘ばかりで、きちんと応えられた自信はないのだが、フランスに留学中に、私のホームページ(
「亀井秀雄の発言」)を読んでいたという若い外国文学の研究者もいて、「色々な関心の人たちが、思いがけないところから、私の仕事に注目してくれているのだ」。私は感激した。

 この会については、ブログに「主体と文体の歴史@立教大学」という印象記を書いてくれた人がいる。もちろん「表現急行:亀井秀雄「主体と文体の歴史」その2」や「表現急行:亀井秀雄「主体と文体の歴史」その3」と同じく、Googleで検索すれば、「主体と文体の歴史@立教大学」を読むことができる。ぜひ検索して、眼を通してもらいたい。
 一昨日、ひつじ書房の編集者が送ってくれた郵便物の中に、『東京新聞』の2013年7月17日(夕刊)の第5面が入っていた。『東京新聞』の「大波小波」欄が、『主体と文体の歴史』を取り上げてくれたのである。

 なお私は、今年度は、小樽文学館で「近代詩を楽しむ」という連続講座を開いており、6月15日(土)には「大正期のアヴァンギャルド詩」、7月13日(土)には「讃美歌・小学唱歌を読む」というテーマで話をした。次回は8月31日(土)、「叙事詩と叙情詩」を予定している。

「ガリレオ」の舞台となった町に住んで
 こんなふうに、私は気持に張りをもって過ごしていたのだが、滝沢馬琴ふうに言えば「禍福はあざなえる縄のごとし」、体調の面では必ずしも絶好調とは言えなかった。
 というのは、私は今、北海道の岩見沢市の幌向という地区に住んでいるのだが、5月末に気管支炎を患ってしまったからである。

 ちなみに、「幌向」はホロムイと読むのだが、先日、福山雅治主演の「ガリレオ」という人気のテレビドラマを見ていたところ、福山雅治と天海祐希が昔一緒に学んだ北海道の中学校が幌向中学だった、という。「へーえ、ここの中学校から、こんなに頭のいい美男美女が出たんだ」。物語は、福山と天海が最近閉鎖されたという母校を訪ね、その場で福山が天海の完全犯罪の企みを暴いていく、というふうに進んでいく。しかし、たしかに私たちの住む幌向には、幌向小学校があり、中学校もあるのだが、幌向中学校とは言わない。別な呼び方をする。もちろん廃校になるなんて噂も聞かない。もし廃校になるなんて話が起こったら、住民が大騒ぎするだろう。ドラマの中の「幌向」中学校から見える、周囲の景観も、どうやら幌向で撮った景色ではないらしい。
 その辺が微妙にズレているのだが、しかし私たちにとってそんな細かい問題はどうでもいい。「それにしても、幌向なんて地名は北海道でもほとんど知られていない。よくそんな地名を思いついたなあ。土地勘のある人がドラマ作りに加わっていたのかな」。そんなふうに感心しながら、私たちはドラマを楽しんでいた。

後期高齢者の懸念
 ともあれ、そういう土地に私は住んでおり、ここに移った当時、農家の人が「野菜の苗を植えるのは、かっこうの鳴き声を聞いてからにすればよい」と教えてくれた。これまでもそうしてきたのだが、今年は特に野菜作りに力を入れている。それというのも、幌向地区はここ3年連続して豪雪に見舞われ、庭の植木が壊滅状態になってしまった。やむを得ず、造園屋さんに頼んで庭木を根から掘り起こし、花畑と野菜畑に作り替えたからである。
 ところが、かっこうの鳴き声を聞きながら2、3日、胡瓜や茄子の苗を植えたりしていたところ、どうも喉がいがらっぽくて、少し痛い。畑の土をいじっている時に、雑菌を吸ったためかな。そんなふうに軽く考えていたのだが、夜に咳き込むことが多くなり、おちおち眠っていられない。お医者さんに診てもらうと、気管支炎ではないかと言う。私は少し慌てた。

 私は3年半ほど前に、肺ガンのために右の肺の下半分を切除した。肺の機能が明らかに低下している。そのことを私は実感していた。もし肺炎にでもなったら、やっかいなことになるだろう。
 私はそれを心配して、毎日お医者さんへ点滴に通い、幸い1週間ほどで症状は好転したのだが、体力が急激に落ちてしまった。私は肺ガンの手術後、半年ほど経った頃から、毎日1時間以上は歩くように心懸け、体力の回復に努めてきた。最近はかなりの自信を持っていたのだが、気管支炎程度の病気で急速に脚の力がなくなってしまう。これにはびっくりした。76歳の「後期高齢者」になると、ほんのちょっとしたことで、体力がガタ落ちとなる。
 そういう怖さを痛感したのである。

 そんなことがあって、6月15日(土)の講座、「大正期のアヴァンギャルド詩」は十分に準備することが出来なかった。せっかく足を運んでくれた市民には申し訳なかったと思う。

一難去ってまた一難
 幸いに気管支炎は大事に至らなかったのだが、一難去ってまた一難。6月21日(金)の夜から頻尿状態になり、またしてもおちおち寝ていられない。血尿が見られる。22日(土)の朝、タクシーで岩見沢市内の泌尿器科の病院へ駆け込んだ。診察の結果、前立腺の異状ではないらしい。お医者さんは、取り敢えず頻尿を抑える薬を出してくれた。
 おかげで症状はやや軽くなり、24日(月)に再び病院へ出かけ、今度は内視鏡で膀胱内を診てくれたが、異状は認められないという。以前から私が服用してきた薬の副作用による、アレルギー性膀胱炎ではないか。お医者さんのそういう判断で、私は服用していた薬を止めてみることにし、膀胱炎の薬を出してもらった。
 おかげで症状はどんどん軽くなったが、1週間後の7月1日(月)には東京で講演会がある。東京へ着くまでの間、あるいは講演の最中に失禁なんてことになったら、何とも具合が悪い。6月26日(水)に尿の検査に行った時、お医者さんに事情を話し、「それまでにこの症状は治まりそうですか」。すると、お医者さんは「そうですね、……でもまあ、念のために失禁の対策はしておいたほうがいいでしょうね」。
 なんとも情けない気分だったが、28日(金)の検査では「尿はきれいになった」とありがたい結果。私自身の症状もほぼ治まった。もちろん東京までの往復や、講演の間も何の心配もなかった。むしろ講演の最中は、気持のいい緊張と、高揚感のおかげだろう、普段よりも体調がいいほどだった。

 要するに無事に終わったわけだが、ただ、28日(金)の頃からまた脚の力がなくなってきた。歩いていると、脚がくにゃっと曲がりそうで、何とも心許ない。頻尿よりもこちらの方が心配になり、けっきょく娘が急きょ東京まで附いてくることになった。ホテルも運良く空き室があり、同じホテルに泊まることができた。
 ところが、当日の私は気分昂揚して気力充実。講演会は無事に終わり、お世話して下さったひつじ書房の皆さんや、西田谷洋さんと石川巧さん、そして大阪や松本市から来てくれた教え子たちも加わった打ち上げ会では、やたらと話がはずんで、11時までおしゃべり。出発前日のあの憔悴した様子は、あれはお芝居だったのか。娘は何だかだまされた感じだったらしい。

 しかし年令はごまかせない。7月2日(火)は前日の高揚感が続いて元気に帰宅したのだが、3日(水)、病院まで「おかげさまで無事に……」と報告に行き、今日の尿はまったく綺麗ですと太鼓判を押してもらい、安心して家に帰ったとたんに疲れがどっと出て、この週は寝たり起きたり状態。それが祟って、翌週の土曜日(7月13日)の小樽文学館の講座はまた準備不足。市民の皆さんにはまた申し訳ないことをしてしまった。

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