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欧米人が見た日本人居留地――マルクスと三浦つとむと吉本隆明(9)―

欧米人が見た日本人居留地
――マルクスと三浦つとむと吉本隆明(9)―
○釜山の日本人居留地
 前回、私は、「それならば、李朝の朝鮮国における居留地はどんなふうだったのだろうか」と書いて、文章を結んだ。
 その直後、また大事な仕事が入って、それに集中していた。先日、漸くその仕事が終わり、一息ついているところであるが、前回結んだところから始めたい。「それならば、李朝の朝鮮国における居留地はどんなふうだったのだろうか」。
 私はその検討を、イザベラ・バード(Isabella L. Bird)の釜山の描写から始めようと思う。イザベラ・バードは19世紀末のイギリスの女性旅行家であるが、1894年(明治27年)1月、初めて朝鮮半島の土を踏み、以後、1895年の1月と12月、1896年の10月と、合わせて4回朝鮮半島を旅してきた。その見聞に基づいて、1898年(明治31年)、Korea & Her Neighboursを書き、現在私たちは朴尚得訳『朝鮮奥地紀行』(
平凡社東洋文庫、1993年)の形で読むことができる。
 彼女は長崎から、日本郵船株式会社の肥後丸に乗って、釜山に向かったようであるが、こんなふうに釜山の景観が見えてきた。
《引用》
 
投錨の際に出会うのは朝鮮ではなくて日本である、と言える。点灯夫は日本人である。肥後丸が所属している日本郵船会社の職員が指令を持って降りてきた。乗船税関吏はイギリス人である――清帝国海事税関のイギリス人雇用人のひとりで、朝鮮の税関収益管理のために、朝鮮にとって大いに有利に貸与されている。釜山の外国人居留地は、頂上に仏閣がある険しい絶壁の上に聳え立っており、一五九二年〔壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争)初年度〕の日本人占領中に植林された美事な杉木立ちで隠されている。日本人町は丘と海の間にやや詰め込まれているが、かなり綺麗である。広い通りには日本人商店とさまざまなイギリス系日本風建物がある。そのなかで領事館と銀行が一番重要なものになっている。しっかりした擁壁と護岸がある。排水工事、照明と道路造りが市当局の費用で進められている。戦後、水道施設が、一軒当たり百葉銭〔銅銭〕の割合で徴収したお金で建設された。現在の豊富な上水供給によって度重なったコレラの流行を終わらせるものと希望されている。町の上に在り、急速に塞がれている日本軍の新しい共同墓地は目立つものである。
  外国製品に対する需要が創り出されたのが十三年前だったことを思うと、朝鮮人がどれほど外国製品に馴染むようになったことか。釜山の外国貿易が、一八八五年には輸出入の価格の総計がわずか七万七千八百五十ポンドだったのに、一八九六年には四十九万一千九百四十六ポンドに達した。このとても急速な発展ぶりは驚くべき事である。漂白していないシャツ地、亜麻布地、モスリン、白木綿布地と子供着用のトルコの赤い布切れは、全ての朝鮮人の嗜好をとりこにしている。しかし、冬期に綿の詰めものをした衣服を着る昔からの習慣が少しも廃らないので、外国ウール製品の輸入は文字通りゼロである。一番驚くのはアメリカの灯油輸入が三か月で七万一千ガロン〔
三二二・七六六キロリットル〕に達するほど伸びた事である。それは、魚油ランプと紙の提灯の気味悪いうす明かりに取って替わり、朝鮮の夜の生活に一大変革を惹き起こしている。マッチもまた驚くほど「人気を博し」明らかに「はやっている」。獣皮、豆、魚の干物、なまこ、米そして鯨肉が主要な輸出品である。一八八三年まで釜山は一般の外国貿易に正式には開かれていなかった。その釜山の外国貿易の隆盛には注目すべきものがある。その年、釜山の外国人人口は千五百人だったが、一八九七年一月には五千五百六十四人になった(中略)
  どの点から見ても釜山の居留地は日本人のものである。五千五百八名の日本人居住民数に加えて、八千人の流動している日本人漁夫がいる。日本総領事は、立派なヨーロッパ風の邸に住んでいる。東京の第一銀行が銀行業務の便宜を提供している。郵便と電信の公共事業も、日本人が営んでいる。日本人はまた、居留地の清掃もしている。さらに器械による米の脱穀と精白、捕鯨、酒造り、鱶鰭となまこの調理や魚肥のような朝鮮では知られていなかった産業を導入している。その不快な臭いのする魚肥の莫大な量が、日本に輸出されている。
  ところで、読者はいらいらして尋ねよう。「どこに朝鮮人がいるのか? 私は日本人に就いて読みたくない!」と。私も日本人に就いては書きたくはない。しかし事実は手に負えないものである。日本人が釜山で目立っているのは事実である。
  汽船の甲板から見られたように、海上からある高さを保って上下している狭い小路が、釜山から三マイル〔
五キロメートル〕に亘って丘の斜面を縁沿いに辿っている。その小路は、公の建物があるこじんまりした清国人居留地の傍を通っている。そこには、私が最後に見た時、人は住んでいなかった。その小路は、壁で囲まれた釜山本来の町で終わっている。その町の外側に非常に古くて大きな砦がある。それは、日本人によって三世紀前の土木工事の考えを追って現代化されている。(太字は原文では傍点。〔 〕は訳者・朴尚得の注記。以下同じ)

 本文中、何箇所か、日清戦争後の見聞や記録の混入が見られる。その点では、この描写をイザベラ・バードの第一印象と早合点しないように用心する必要がある。だが、少なくとも以上の描写が、基本的には日清戦争以前の釜山の状況だったと見てさしつかえないだろう。それによれば、日本人町は朝鮮国人の居住空間とは隔てられた地域に設けられていた。広い通りには日本人商店とイギリス系日本風建物が並び、「排水工事、照明と道路造りが市当局の費用で進められている」という。この翻訳だけを見ると、「市当局」は朝鮮国の釜山という地方自治体を指しているように思われるが、原文ではmunicipalityとあり、上海における工部局(Municipal Council)、あるいは横浜における参事会(Municipal Council)と同様な、居留民による自治的行政機関だった。つまり土地の造成からインフラの整備に至るまで、日本人の自治的行政機関によって町作りが行われたのである。
 イザベラ・バードは、この引用文の後半でも、「
東京の第一銀行が銀行業務の便宜を提供している。郵便と電信の公共事業も、日本人が営んでいる。日本人はまた、居留地の清掃もしている」と言っている。日本人は公共事業を営んでいるだけでなく、いわば町のメンテナンスも責任をもって運営していたのである。

○実情に合わない「居留地」と「租界」の定義
 ただし、この日本人町を租界と呼ぶべきか、それとも居留地と呼ぶべきか、私はまだ迷っている。前回、私は上海の工部局(Municipal Council)や、横浜の参事会(Municipal Council)に言及しておいたが、同じ文章のなかで、「上海に徴税権と警察権を持つ、居留民自治の統治機関が出来、上海という居留地(settlement)が治外法権的な空間(租界/concession)に変わっていった」という言い方をした。
 その後、調べたところによれば、居留地研究の専門家はconcessionとsettlementとの違いを次のように説明していた。その説明によれば、concessionとは、土地を借り受ける国(
例えばイギリス)の領事が相手国の政府(清朝政府)から一括して借りて、それを自国の国民に払い下げるやり方を指す。他方、settlementとは、政府間の貸借関係ではなくて、借り受ける側の人間が、貸す側の国の地主と直接に交渉して借り受けることを指す。この場合、両国の官憲や領事はたんにその交渉手続きに関与して、便宜をはかるにすぎない。それ故、借り受ける国の権利は、concessionのほうがsettlementよりもはるかに大きい(藤村道生「朝鮮における日本特別居留地の起源」。『名古屋大学文学部研究論集(史学一二)』)。
 しかしそれならば、上海の場合は、借りる側のイギリス人が地主と直接に交渉して借地権を手に入れ、その意味ではsettlementだった。それに対して、横浜の場合は、イギリスを初め欧米諸国の領事が幕府と交渉して借地権を手に入れて、自国の商人に割り当てるconcession方式だったことになる。だが、実際には上海settlementのイギリス人は強大な権利を持ち、横浜concessionにおける欧米諸国の居留民は自治機関を作ることに失敗した。
 してみるならば、むしろconcession方式のほうが、土地を貸す側に有利であり、借りる側に強い権限を渡さずに済んだのではないか。

○造成とインフラ整備は日本人居留民の負担
 そんな疑問が私にはあり、おまけに明治9年(1876年)8月24日に締結した「日朝修好条規附録」の第3款は、「
議定シタル朝鮮國通商各港ニ在リテ、日本國人民地基ヲ租賃シ住居スルハ、各其地主ト相議シテ價ヲ定ムヘシ。朝鮮國政府ニ屬スル地ハ、朝鮮國人民ヨリ官ニ納ルト同一ノ租額ヲ出シテ住居スヘシ。釜山草梁項日本公館ニハ、從前同國政府ヨリ守門設門ヲ設ケシカ、今後之ヲ廢撤シ、一ニ新定ノ程限ニ依リ標ヲ界上ニ立ツヘシ。他ノ二港モ亦此例ヲ照ス。」となっていた。
 要するに朝鮮国の居留地に関しては上海と同じsettlement方式で行きましょうということになり、研究者の見方に従うならば、借り手の権利はconcessionの場合ほど強くなかったという解釈になるわけである。
 ところが、明治10年1月30日に結ばれた「釜山港居留地借入約書」によれば、「
東来府ノ所管、草梁項ノ一区ハ古来日本国官民ノ居留地トス」という事実を確認し、その上で、「修好条規附録第三款ノ旨趣ニ照遵シ、自今地基租ヲ納ル歳ニ金五十円、毎歳抄翌年租額ヲ完清スルヲ約ス」と取り決めた。年額五十円の地租が安いか高いか、私には判断がつかないが、ともあれ、これによれば、concession方式を取ることにしたらしい。これは「日朝修好条規附録」の第3款の、「日本國人民地基ヲ租賃シ住居スルハ、各其地主ト相議シテ價ヲ定ムヘシ」というsettlement方式の取り決めに反する。だが、同じ「日朝修好条規附録」の第3款には、「朝鮮國政府ニ屬スル地ハ、朝鮮國人民ヨリ官ニ納ルト同一ノ租額ヲ出シテ住居スヘシ」とあり、おそらく両国の代表は、江戸時代の対馬藩の居留地を朝鮮国政府の所有地を認め、もしこの土地を朝鮮国人民が借りるとすれば、借地料は日本円の五十円に相当すると算定した。その金額を日本人民は支払わなければならない。そのように取り決めたのである。

 そうしてみると、concession方式とsettlement方式と、そのいずれが借り手に側に有利であったか、一義的に決定することはできない。結局その決め手は、「釜山港居留地借入約書」の「地基道路溝渠ハ悉皆日本国ノ保護修理ニ帰シ、舩艙ハ則朝鮮国政府之ヲ修補ス」という取り決めにあった。そう見るべきだろう。つまり日本は、居留地の造成やインフラの整備に責任を負うことにし、それが日本に有利に作用したのである。
 前回にもふれたように、徳川幕府はいち早く横浜を造成し、インフラ面でも責任を負う形で、横浜の上海化を防ぐことができたわけだが、日本政府が釜山居留地を租借するに当たっては、イギリスを初めとする欧米諸国が上海で行ったのとおなじように、造成とインフラを負担した。そうすることで有利な立場を確保したわけである。

○山辺健太郎と藤村道生の日本人居留地観
 ところが、山辺健太郎は『日韓併合小史』(
岩波新書、1966年)の中で、日朝修好条規(江華島条約)について次のように評価している。
《引用》
 
この条約が、一八五八年(安政五年)に日英両国間でむすばれた日英修好通商条約という不平等条約にそっくりだといえば、この条約の意義は十分にいいつくしていると思う。

 日本自体についていえば、日本は安政条約の改訂が、この江華島条約締結のころはもう大きな問題になりかけていた。その不平等条約を、当時の後進国である朝鮮におしつけたのだから、じつにひどい話ではないか。

 藤村道生も『日清戦争』(岩波新書、1973年)の中で、次のように述べている。
《引用》
 
日本は、一八七六年日朝修好条規を締結して以後、朝鮮への進出をつづけた。翌七七年釜山、八〇年元山と特別居留区をおいたが、それが「特別」である理由は、それらの居留地が日本人以外に土地の租借を許さず、居留地内の行政権は日本政府の代表が行使し、日本の法律を適用して警察権も掌握するという、それまで西欧諸国が中国に設定したいかなる租界よりも土地侵害の程度がはげしく、ほとんど日本領土の延長であったからである。

 他の歴史家も似たようなことを言っているのだが、どうも私には分からない。藤村道生は、釜山や元山が「特別居留区」だったと言っているが、私の見たかぎり「日朝修好条規」にも、その「附録」にも、「居住ニ関スル条約」にも、「特別居留区」という言葉は出て来ない。実際は、後世の歴史家が、日本の朝鮮における居留地の性格を言い表すために作った用語だったのではないか。

○ロシア人の見た釜山と元山
 それだけでなく、藤村道生は何か勘違いしているように思われる。なぜなら、ロシア人のダデシュカリニア(
アムール州総督官房付)が1885年(明治18年)に書いた、「朝鮮の現況」(井上紘一訳。東洋文庫『朝鮮旅行記』1992年)おける、釜山の状況は次の如くだったからである。
《引用》
 
釜山(朝鮮語でプザン、また日本語ではフザンと発音する)は半島の南岸にあり、……湾内は非常に深く、広くて静かである。その湾岸には、二露里を隔てて二つの町が横たわり、その一つが朝鮮の釜山と、そして今一つは日本の釜山とそれぞれ呼ばれている。外国人に開放されているのは、日本の釜山だけである。ここには今のところ二,〇〇〇人ばかりの日本人のみが在住しているために、町も純粋に日本的性格を帯びている。日本領事が町長であって、警察も二〇〇名の兵士も彼の指揮下にある。釜山の日本人の許には、銀行、汽船会社の事務所、郵便局、長崎との電信(ケーブル)回線など、商人町に必要なものは全てが揃っている。ここには中国商店も英国商店もないのに、中国人は日本人に対する嫉妬から、また英国人は恐らく半島のこの海岸にロシアの影響が及ぶのを予防するために、いずれも自前の領事を置いているのである。(( )内は井上紘一の注

 これを見る限り、日本の居留区は外国人に開放されており、中国(原文はおそらく「清国」)もイギリスも領事館を置いていた。この記述と、初めに引用したイザベラ・バードの記述とを合わせてみるならば、日本は居留地を独占していたわけではない。日本の居留地に隣接して清国やイギリスの居留地があったのである。
 藤村道生は元山にも言及していたが、では、「朝鮮の現況」を書いたロシア人の目に元山はどう映っていたであろうか。
《引用》
  
ここも事情は釜山と同じである。湾岸に三露里を隔てて二つの町があり、一つは日本の元山で、今一つは朝鮮の元山である。朝鮮の元山は入江の南岸に一露里にわたって延びており、戸数は約二,〇二〇戸、一万人の人口を数える。中心の街路は道幅七~九歩で、町を端から端まで横断する。町の真中どころにかなり大きい空地があって、そこは一年中五日置きに市が開かれる。朝鮮の元山には外国人が住むところも、恒常的な商店を持つことも許されない。彼らに開放されているのは、日本の元山が現存する場所だけである。ここもやはり三〇〇人に達する日本人が住むのみ。町は全部で三八戸の日本家屋からなっている。領事は今のところ、日本領事と中国領事の二人である。
  日本人町の隣には、同様な一角が中国人にも割当てられているが、中国領事とその秘書を除くと、元山には一人の中国人もいない。自らの区域における日本人は、東京にいるのも同前にわがもの顔に振舞っている。彼らには自前の警察と規律があって
、地方の主人たちに対してさえもこの規律を守らせている。

 これを信ずるならば、「朝鮮の元山」は外国人に対して閉ざされていたが、「日本の元山」は開放されていたのである。

○仁川の場合
 ひょっとしたら藤村道生は、釜山や元山と、仁川の各国租界(共同租界)とを一緒くたに考えてしまったのかもしれない。
 日本政府は朝鮮国の政府と、明治16年(1883年)9月30日、「仁川口租界条約」を結んだ。その内容は、高秉雲の『近代朝鮮租界の研究』(
雄山閣、1987年)によれば、次のような内容のものだった。
《引用》

一、 仁川港に日本商民のため、専管居留地を設け、後年狭隘を告げるに至ったならば朝鮮国政府は、日本国公使の要求により拡張する。
   また、日本商民は外国人租界にも居住し得る。

二、 租界内の道路、溝渠、橋梁、埠頭、岸壁は朝鮮国政府その工事の任を負う。
其の方法については、朝鮮国管理官は、日本国領事と協議する。
三、 租界内の土地貸下は競争入札の方法による。
四、 地租は三等分し、二米(
メートル)平方朝鮮銅銭二〇文~四〇文とする。
   
地租の三分の一は、朝鮮政府に納付し、三分の二は共同積立金として管理庁に保管し、租界の道路、溝渠、橋梁、街灯等の設置修理其他租界に関する事業に充てる。
五、 貸下地競落者には、管理者より地券を交付する。
その手数料は、朝鮮銅銭一銭文に定める。

 これは条文の原文そのままではなく、高秉雲が現代文の表記に直したものであるが、もちろん意味内容に変わりはないであろう。高秉雲は第二項の「租界内の道路、溝渠、橋梁、埠頭、岸壁は朝鮮国政府その工事の任を負う」について、「租界内の道路、橋梁、海岸の工事まで朝鮮政府が負担するという一方的義務を負わされている」と批判的なコメントをつけている。しかし私が前回指摘したように、日本の徳川幕府はいち早く波止場や居留地の造成をやってしまい、その結果ある程度主権を守ることができた。「仁川口租界条約」の第二項によれば、朝鮮国政府も同じことができる権利を確保したことになり、運営の仕方次第で自主性を徹すことができたはずである。

○横浜の場合
 また、第四項の地租に使い方に関していえば、これまた前回私が紹介したように、日本の横浜においては、イギリス・アメリカ・オランダの三国領事が借地権を、公売の方法によって居留民に分配し、これによって得た(借地の)権利金の2割を割増金とし、土地の測量と公売に要した費用を控除したのち、道路の敷設と保守等の市政目的に使用することにした。
 さらに三国領事団は徳川幕府の奉行と協議することなく、領事規約の形で、「神奈川地所規則」を制定したが、その中には、「街路照明・清掃・警察を領事と居留民の責任とし、借地や建物の割当金と埠頭税の徴収を認める」という意味の条項が含まれていた。つまり領事が居留民から借地代や埠頭税を徴収して、その金を街路照明や清掃、警察による治安維持の費用に充てる目論見だった。ところが、幕府は領事団には無断で、居留地の東端に掘割を通す工事を始めてしまった。そして地所規則の制定に向けて協議に入ろうとした時、三国側が「神奈川地所規則」の事後承認を迫ったが、幕府はこれに反撥して、同意しなかった。その結果、「神奈川地所規則」は、居留民に対しては一定の効力を持つが、幕府との関係では著しく実効性を欠いたものになってしまったのである。
 幕府が領事団の持ち出した「神奈川地所規則」を拒否することができたのは、一定の主体性を保持して、早めに先手を打つことができたからであろう。
 しかし、居留民にしてみれば、領事に支払う借地代がそのまま幕府に収められるだけでは、これは面白くない。そこで、借地代に見合うだけのことはやってもらおうと、借地人会議を開き、「われわれは高い地代を払っているのだから、道路と下水溝の整備・整頓は日本側の責任でやってもらう」という趣旨の決議をした。が、この動きもまた、その決議の法的根拠を疑う意見が出て、結局尻すぼまりに終わってしまったのである。

 ところが、再び高秉雲によれば、「仁川口租界条約」には、「朝鮮政府ハ図面ニ定メタル所ノ宅地ノ区域ニ随ヒ競貸法ヲ以テ日本人ニ貸与スヘシ」という条文がある。これと先に紹介した第三項、第四項とを合わせてみれば分かるように、「租界内の土地は、朝鮮政府が日本居留民に公拍法(競貸法)により貸与することになっている。また、地租も居留民が直接朝鮮政府に納付することになってい」た。つまり、これは上海の方式と異なり、また横浜の方式とも異なり、朝鮮国の管理庁が借地を希望する日本の居留民に競争入札させ、借地料も日本人居留民から直接に納入させるやり方だった。
 朝鮮国の主体性、という点で見るならば、これが一番主体性を守りやすいやり方だった。逆に言えば、むしろ日本国側が釜山や元山に較べて一歩譲歩している。私にはそう思われるのだが、山辺健太郎や藤村道生にはそう見えなかったらしい。
 そこがどうも私には腑に落ちない。

○土地買収の道をつけたイギリス
 ただし、イギリスが朝鮮国と結んだ、「朝英修好通商条約」はそうではなかった。
 イギリスは、日本国と朝鮮国が「仁川口租界条約」を結んでからほぼ二ヶ月後、明治16年(1883年)11月26日に、朝鮮国と修好通商条約を結んだが、その中に次のような条文があった。
《引用》
 
British subjects may rent or purchase land or houses beyond the limits of the Foreign Settlements, and within a distance of ten Corean li from the same. But all land so occupied shall be subject to such conditions as to the observance of Corean local regulations and payment of land tax as the Corean Authorities may see fit to impose.

 当時の朝鮮国の1里は、日本の1里のほぼ10分の1の距離だった。だから、ten Corean li(10朝鮮里)とは日本の1里に相当する距離となるわけだが、イギリスは朝鮮国と〈イギリス臣民は、外国人居留地の外であっても、10朝鮮里(=1日本里)の範囲ならば、土地や家屋を借りたり購入したりできる。ただし、そのようにして土地や家屋を手に入れた人間は、仁川地方の条例を遵守し、朝鮮国政府が妥当と考えた税金を収めなければならない〉という意味の条約を結んだのである。
 イギリス人は居留地外、10朝鮮里以内ならば、土地を購入することができる。逆に朝鮮国政府の側に立つならば、自国の領土の一部を外国人が所有することを認めてしまったわけで、それがどんな結果をもたらすか。
 日本の江戸時代の農村を例にとれば、ある藩の百姓が、他の藩に属する隣村に自分の耕作権、実質的には所有権を持つ場合がある。これを「出作」と呼んだわけだが、それがどういう結果をもたらしたかについて、私は「弘化2年(1845年)の民権運動」というブログで書いておいた。それを読んでもらえば分かるように、日本人は江戸時代を通じて、領土問題ならぬ領地問題でシビアな経験を積んできた。
 しかし、朝鮮国の政府は領地問題を経験したことがなく、脇が甘かったのかもしれない。ともあれ、「朝英修好通商条約」は、外国人の土地購入(所有)の道を開いてしまった点で、画期的な(!?)条約であったのである
 もちろんアメリカやフランス、ドイツ、オランダなどにしてみれば、そんなにうまい汁をイギリス1国だけに吸わせておくわけにはいかない。そこでアメリカ以下の国も同じ条約の締結を求め、明治16年(1884年)10月3日、仁川済物浦各国租界条約を締結した。こうして、イギリスを初めとする欧米諸国の共同租界が設けられることになったわけだが、その条件は次のように、欧米諸国にはまことに好都合な条件だった。〈朝鮮人の土地所有権は認めない〉、〈埠頭や防波堤、道路などのインフラ整備は朝鮮国政府が担当し、街路及び溝渠の修理、街路清掃、街灯点燃、巡査の配置などの費用についは、紳董公司
が租界積立金から支払う。もし積立金が不足する時は、紳董公司が土地や家屋の価格に応じて割り当てる〉。紳董公司(しんとうこうし)。居留地会。朝鮮国の地方官吏〔仁川監理〕1名、仁川に駐在する各国の領事の代表1名、租界内の土地を所有する地主の代表3名で構成。

 日本はこの共同租界のメンバーではなかったが、朝鮮国との条約では最恵国待遇だった。そのおかげで、共同租界の優遇処置と同じ扱いを受けることになった。日本人が土地を購入することができるようになったのはその時からであって、それはもともとイギリスが始めたことなのである。

 結果的には日本人が一番沢山の土地を購入することになったわけだが、その方向を作ったのはイギリスをはじめとする欧米諸国と、朝鮮国の政府だった。結果から動機や目的を論ずることには慎重でなければならない。ところが藤村道生は以上のような結果を釜山や元山にまで溯らせ、日本がそのような結果を、最初から意図していたかのように錯覚してしまったらしいのである。

○埋め立て工事
 ちなみに、仁川における日本租界の広さは7,000坪だった。それに対して、仁川各国共同租界は日本租界に沿って日本及び清国租界の後方一帯に拡がり、総面積は14万坪、日本租界の約20倍に及ぶ宏大な地域だった。
 ところが、仁川における日本人の数は増加する一方で、明治20年(1887年)には112戸、855人だったが、明治30年(1897年)には792戸、3,949人に達した。他方、明治30年の欧米人の数は、イギリス人が7戸、17人、アメリカ人が8戸、14人、ドイツ人が5戸、14人、フランス人が5戸、9人という具合で、イタリア人、スペイン人等々を合わせても、総計29戸、63人に過ぎなかった。単純に計算して、明治30年の時点で、日本租界は1戸あたり9坪弱、共同租界は1戸あたり4,827坪となる。仮に日本人の半数が、「仁川口租界条約」の第1項における「
日本商民は外国人租界にも居住し得る」という条約に従って、共同租界に居住していたとしても、この不均衡はあまりにも大きい。
 日本人が居留地に隣接する土地を買い占めた原因はその辺にもあったのだろうが、土地不足を解消するため、海岸を埋め立てることにした。それを保証したのが、「仁川口租界条約」の第1項、「
仁川港に日本商民のため、専管居留地を設け、後年狭隘を告げるに至ったならば朝鮮国政府は、日本国公使の要求により拡張する」という意味の条文だった。日本の居留民はこの条文に従い、海に向けて「拡張」を図ったのである。
 こうして、明治31年(1898年)10月に海面埋め立て工事に着工し、翌年の明治32年10月に竣工した。総工費は50,000円、得たのは約4,400坪だったから、1坪あたり11円強となる。当時としてはかなり大きな金額をつぎ込んだことになるわけである。

○「釜山本来の町」の景況
 さて、だいぶ回り道をしてしまったが、最初に引用した文章でイザベラ・バードが「
壁で囲まれた釜山本来の町」(the walled town of Fusan proper)と呼び、また、ダデシュカリニアが「朝鮮の釜山」と呼んだ町に目を向けてみよう。次は、最初に引用したイザベラ・バードの文章に続く文章である。
《引用》
   
私は魅力的なイギリス人の「ウナ」と古い釜山に同行した。彼女はほとんど土地っ子〔朝鮮人〕同様に朝鮮語を話した。市日の人ごみの中を落着いて進んだ。全ての人に歓迎された。惨めな所だ、と思ったが、後程の経験によると、朝鮮の町の一般的な通路で、とりわけ惨めなものでもなかった。狭くてきたない通りには、泥を塗り付けた編み枝で建てられた低いあばら屋がある。その家に窓は無い。藁屋根と深い庇がある。全ての壁には、地上二フィート〔0・六一メートル〕のところに黒い煙の穴がある。家の外側はほとんど固体や液状のごみが入っているでこぼこしたどぶである。毛の抜けた犬どもと、半裸か全裸の埃だらけできたないただれ目の子供たちが、深い塵やどろどろした汚物のなかで転げ回っているか、日なたで喘いだり目をぱちくりさせている。どうもいっぱいの悪臭にもこたえないらしい。しかし市日には、嫌悪を催させる多くのものが覆い隠されていた。
  
狭い、ごみだらけで曲がりくねっている通りの端から端まで、品物が地べたの敷物の上にぎっしり置かれていた。汚れた白い木綿地にくるまれた男か老女がそれを見張っていた。商談する物音が高くあがり、息を切らしてもともと取るに足らない価格を値切っていた。品物は買い手の貧しさと売買の少なさを印象づけている。丈の短いざらざらときめの粗い木綿、木綿糸の?(かせ)、草履、木の櫛、煙管(きせる)と煙草入れ、魚の干物と海草、帯紐、ざらざらした粗い紙やすべすべと滑らかな紙、黒色に近い大麦糖が敷物の上の商品の中身であった。そこに在る一番貴重な手持ち商品も三ドル以上の値打ちは無いと思われる。露天商人たちは各自そばに葉銭の小さな山を持っていた。その葉銭は真中に四角い穴が開いている、やぼったい青銅の硬貨で、当時、名目上一ドル当たり三千二百葉銭もし、朝鮮の交易の自由を大いに妨げ、無力にしていた。
  
市は五日ごとに釜山や他の多くの所で開催される。この国の人びとは市に、自分の生産物を売るか物々交換するかして自分が生産していない物全てを賄っている。事実上、村や小さな町に店は無い。必要な物は、決められた日に、たいへん強力な同業組合を形成している行商人が供給している。
  
ざわめいている表通りから狭くてきたない路地へ、さらに土着民〔朝鮮人〕の屋敷内へと向きを変えた。そこで私は、この腐敗した惨めな町を訪問した目的である、三人のオーストラリアのご婦人がたを見出した。その屋敷が綺麗な他は泥のあばら屋に囲まれていて、他の家と区別できるものは何もなかった太字は原文では傍点)

 イザベラ・バードは、朝鮮国人の居住地でキリスト教の伝道活動に従事している3人のオーストラリア人女性を訪ねるため、「ウナ」というイギリス人に案内をしてもらった。そして日本人居留地から清国人居留地を通り、朝鮮国人の居住地に入ったわけだが、先ほど見た日本人居留地の雰囲気と、ここの雰囲気との違いのあまりな大きさに驚いたであろう。この旅行記を読む当時の読者にとっても、この対比はあざやかに印象づけられたにちがいない。
 先ほどの日本人居留地は、規模こそ小さいが、それなりに都市機能を整えつつあり、言わば朝鮮半島に初めて出現した近代的な都市空間だったわけだが、ここでは泥を塗りつけた編み枝で建てられた、低いあばら屋が建ち並び、汚物に澱んだどぶ川で子供が転げ回って遊んでいる。これは何か特別な理由で、釜山の朝鮮国人居住地がそうだったというわけではない。「
惨めな所だ、と思ったが、後程の経験によると、朝鮮の町の一般的な通路で、とりわけ惨めなものでもなかった」という。確かにその後の紹介をみれば、釜山以外の町も同様であって、当時の朝鮮国の庶民の生活水準をうかがうことができる。「

 当時の朝鮮国では、「村や小さな町に店はな」かった。商店のある町は幾つもなかった。一般的には5日おきに市(いち)が開かれ、行商人が日用品を担いで集まり、地べたに敷いた敷物の上に並べる。イザベラ・バードが訪ねたのは、たまたまその市日(いちび)に当たり、日本の縁日(えんにち)のような賑わいだったわけだが、並べてあるのは、「丈の短いざらざらときめの粗い木綿、木綿糸の?(かせ)、草履」など、安物ばかりだった。「そこに在る一番貴重な手持ち商品も三ドル以上の値打ちは無いと思われる」。

○朝鮮国の通貨事情
 そんなわけで、民衆の経済活動は主に物々交換だったようだが、もちろん貨幣経済がなかったはずがない。「
露天商人たちは各自そばに葉銭の小さな山を持っていた」とあるように、「葉銭」と呼ばれる銅貨が用いられたのだが、しかしこれが大変にやっかいな通貨だった。イザベラ・バードも「名目上一ドル当たり三千二百葉銭」と言っているように、ドルとの交換比率は1ドル=3,200葉銭。とんでもなく安い硬貨だったわけだが、これは名目上のことで、実際はもっと安かったかもしれない。
 彼女はソウルから奥地へ旅するに当たって、イギリスの10ポンド、つまり日本円にして100円に相当する葉銭を用意することにしたが、何と100円分の葉銭を運ぶのに、「
男の人六人か驢馬一頭が必要であった
 日本の1円銀貨はアメリカの1ドル銀貨と交換できるように作ったもので、だから1円=1ドル=3,200葉銭となり、100円分は320,000葉銭。これでは驢馬に積んで運ぶしかなかっただろう。驢馬に銭を積んで旅をするのは、風情としては大変にほほえましいが、現実的な問題としては、とうてい大きな商取引など出来そうもない。そういう通貨事情だったのである。「
その葉銭は真中に四角い穴が開いている、やぼったい青銅の硬貨で、当時、名目上一ドル当たり三千二百葉銭もし、朝鮮の交易の自由を大いに妨げ、無力にしていた」。

○必要不可欠な日本の通貨
 日本は朝鮮国との通商条約の中で、朝鮮国においても日本の硬貨が使えるようにした。そんじょそこの通俗的な歴史家は、日本が強引に自分たちの通貨を押しつけたことにしている。中には、日本人が、朝鮮国ではただの紙切れにすぎない紙幣を押しつけて、朝鮮国の貴重な銅貨を買い漁っていったかのごとく憤慨してみせる人間もいる。だが、以上のような通貨事情の中で流通を活性化させるためには、日本の硬貨の導入はやむをえない処置だったのである。
 日本人が開設した郵便と金融システムや、1円、10銭、1銭、1厘という具合に細分化された貨幣システムは、イザベラ・バードのような欧米人にとっても必要不可欠なシステムだった。
《引用》
  
(済物浦における)日本人居留地はずっと人口稠密で、広大で見えを張っている。日本領事館は公使館にしても十分なほど立派なものである。小さな店が並んでいる通りがいく筋もある。そこでは主に日本国籍の人びとに必要品を供給している。というのは外国人は阿翁(アウオン)と怡泰(イタイ)を贔屓にしており、さらに三世紀前〔豊臣秀吉に朝鮮侵略〕からの憎しみを持って日本人を憎んでいる朝鮮人は、主として清国人と取り引きしているからである。ところで日本人は、商売では清国人に追い越されているが、朝鮮でのその地位は戦(日清戦争前)でさえ強力なものであった。条約港とソウルとの間に「郵便の便宜」を提供し、外国の郵便物を運んだ。また、首都や条約港に第一国立銀行の支店を設立した。その銀行を通して在留外国人は多年その業務を処理し、十分信頼している。私が済物浦のこの銀行に口座を開き、イギリスの小切手と銀行通帳を受け取るのに時間はかからなかった。またあらゆる機会に親切で、必要な手助けを全てしてくれた。

 イザベラ・バードは明治11年(1978年)の5月に横浜に着き、東北、北海道を旅して、12月、香港に向けて日本を去った。この時の見聞記が、明治13年(1880年)、Unbeaten Tracks in Japan.  An Account of Travels in the Interior, Including Visits to the Aborigines of Yedo, and the Shrine of Nikko and Ise という大変に長いタイトルで出版され、高梨健吉によって『日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫、昭和48年)として翻訳出版された。この著書によって彼女は、日本では、親日的な知日家として知られている。
 しかし彼女は、日本を訪れてからおよそ15年後、朝鮮国を旅して次第に朝鮮国人に同情的になっていったらしい。何かにつけて「
三世紀前〔豊臣秀吉に朝鮮侵略〕からの憎しみを持って日本人を憎んでいる朝鮮人」という言い方を繰り返し、その感情に肯定的に寄り添う形で日本人に辛辣な目を向けている。時には日本人を mannikin(manikin/mannequin、マネキン/こびと)とか、dwarf (魔力を持つ醜いこびと)とかと呼んでいたが、これは朝鮮国人が日本人を差別的蔑称する口ぶりにかぶれてしまったためであろう。(翻訳者の朴尚得さんはこれをそのまま日本語に訳することに躊躇いを覚えたらしく、「小人〔日本人〕」と訳している。
 だが、そういうイザベラ・バードであっても、先の引用文で分かるように、てきぱきと仕事を処理し、信用のおける日本人の銀行業務には一目を置かざるをえなかったのである。日本政府が外国でも流通しうるようにと鋳造した1円銀貨には大いに助けられ、「
とびきり上等な銀貨」とさえ呼んでいる。イギリス人の目から見ても、日本の1円銀貨は品位、デザインともに素晴らしかったのである。「日本の影響力のもとに、とびきり上等な銀貨の円が徐々に内陸で流通し出した」。「この大きな銀貨は全ての宿屋で快く受け取られた」。

○日本の通貨が担った役割
 しかし、いくら当時の朝鮮国の流通活動が停滞気味だったとしても、まさか「葉銭」という1種類の銅貨しかなかったわけではあるまい。もっと高額な金貨や銀貨も併用されていたのではないか。そういう疑問が避けがたいところであろう。
 もちろん朝鮮国の歴史をたどって行けば金貨や銀貨が鋳造された事実は見つかるに違いない。しかし李氏の朝鮮王朝の一般的な通貨は銅銭だった。今野昌信の『朝鮮後期・金融制度の改革と第一国立銀行
』(『高崎経済大学論集』第47巻第2号、2004年)によれば、1633年(仁祖11年)に「朝鮮通宝」を鋳造したが、漢城と開城で一部の商人が使用する程度だった。しかも、国内で貨幣を鋳造するのは費用が嵩むため、1650年(孝宗元年)明国から唐銭15万貫輸入し、安州と平壌で使用した、という。ところが、品質の劣る私鋳銭が大量に出回り、これに対する対策として、1678年(粛宗4年)、1文銭、2文銭、大型の「折2銭」という3種類の「常平通宝」を発行し、以前より広く流通したが、重量・品位のいずれも均一ではなかった。その中の1文銭を、後に日本の京城領事館が貨幣調査を目的として量目を計ったところ、1枚1,550匁から0,840匁までの幅があった、という。
 この「常平通宝」の材料は銅と朱錫であるが、産出量が朝鮮国内では不十分なため、銅は日本から、朱錫は清国から輸入した。日本人が葉銭を買い漁って、大量の銅を持ち出したどころではない、逆に日本が供給していたわけだが、ともあれこれが、いわるゆ「葉銭」であり、1880年(明治13年、高宗17年)には640万貫が流通していた、という。

 このように、1文銭の葉銭が一般に使用され、高額な貨幣は発行されなかったわけだが、これではあまりにも不便だと気がついたのであろう、1883年に、葉銭5枚に相当する「当5銭」という硬貨を発行した。ところが、この硬貨は鋳造の度に品質が劣化し、1890年(明治23年、高宗30年)には、「名雖当五実不及前日葉銭半文之用」というありさまだった。葉銭5枚に相当するはずの「当五銭」が葉銭の半分にしか値しない。笑い話にもならない、まるで悪夢みたいな事態だったわけだが、おまけに葉銭の品質も一定していないというありさまで、これでは到底まともな経済活動は行いえないところだっただろう。

 以上が決して誇張でない証拠を、フレデリック・アーサー・マッケンジー(Frederick Arther Mackenzie)が『朝鮮の悲劇』(渡部学訳。平凡社東洋文庫、昭和47年。原題はThe Tragedy of Korea. 1908 )のなかで語っている。
 次の引用は、明治37年(1904年)8月に締結された日韓議定書の追加条約の結果に関する証言で、これまで引用した各種の文章より10年ほど後の状況についてであるが、当時の通貨事情に関する現場からの証言と言えるだろう。
《引用》
 
この新しい協約の最初の結果の一つは、目賀田(めがた)種太郎――現男爵――が韓国財政の統率力を掌握(一九〇四年十月赴任)したということである。彼は、短期間に、全般的な通貨改革を、概して立派に遂行した。古い制度下の韓国の貨幣は、世界中の悪貨のうちでも最たるものであった。あるイギリス公使の公式報告の中での有名な嘲笑、それは、韓国の貨幣は良貨・良い偽造貨・悪い偽造貨・あまりにも粗悪なので暗い所でしか通用しないような偽造貨、の四つに分類することができる、としているが、これは必ずしもつくり話ではない。戦争日清戦争の起こる前までは、相当量の貨幣を受け取るばあいには、貨幣を点検するエキスパートを雇って最悪の偽造貨を選り出すということをせねばならなかった。古いニッケル貨はきわめて厄介なしろもので、数ポンドの値に相当するだけのニッケル貨は、子馬を苦しめる重い荷駄になるほどであった。目賀田氏は、これらをすべて改めて通貨の健全な基礎に置いた。もちろん、一時的な混乱がなくはなかったが、確かに、ながい目で見て、国家に益するところがあった。

 ここで言う「ニッケル貨」は葉銭、「子馬」は驢馬のことであろう。
 マッケンジーはスコットランド系カナダ人のジャーナリストで、日本に対しては厳しい批判的な目を持っていた。翻訳者の渡部さんが、「
本書の翻訳にあたっていちばん苦心させられたのは、訳文のための日本語のえらび方であった(中略)辞典に載っていることばの中で、ひびきのいいものだけを拾い上げていって訳文をつくると、下手をすると「ばりざんぼう」の書みたいになる。と言って、堅いひびきのことばばかり選んでいくと、ある種の選挙演説のようになってしまう」と苦心を語っており、歯に衣着せぬ日本批判の言葉が随所に見られたのであろう。次回は、「欧米人の見た朝鮮国の日本人」というタイトルで紹介したいと思うが、そういうジャーナリストの目から見ても、日本人の助言で行った通貨改革は評価せざるをえなかったのである。
 これを逆に言えば、朝鮮国の開国から明治37年頃までの四半世紀、高額の硬貨も、小銭も品位が一定している日本の貨幣が、半ば朝鮮国の通貨の役割を果たしていた。少なくとも欧米人には、日本通貨のほうが便利であり、安心もできた。そう言ってさしつかえないであろう。
 
 
 
 

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