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「犬と日本人と……は入るべからず」ーーマルクスと三浦つとむと、吉本隆明(8)ー

「犬と日本人と……は入るべからず」
マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(8)

○「犬と日本人、フィリピン人、ベトナム人は入るべからず」
 先日、インターネットに
「北京の食堂が『犬と日本人、フィリピン人、ベトナム人は入るべからず』の張紙」という記事が出ていた(2013年2月25日11時配信、Report China)。要するに北京のある食堂が、「犬と日本人。フィリピン人、ベトナム人は入るべからず」という張紙を店先に出していたとのことで、その写真も紹介してあった。
 食堂は多くの外国人が訪れる北京の有名な観光スポット・后海の恭王府付近にある。写真を撮ってSNS(
ソーシャル・ネットワーク・サービス)のフェイスブックに投稿した人によれば、店の主人は「この張紙を出したのは愛国精神によるもの。多くのお客さんがこれに賛同している」と語った、という。
 しかし写真を撮って投稿した人は違和感を覚えたらしく、写真に「
民族主義的な情緒たっぷりのレイシズム」というタイトルをつけていた。
 レイシズム(racism)は言うまでもなく人種差別のことであるが、先の「張紙」は並大抵の差別ではない。日本人とフィリピン人とベトナム人とを「犬」並に見下すという、蔑視感情をむき出しにした差別なのである。
 現在の中華人民共和国の不可解さは、もともと支那革命は都市プロレタリアートと貧農の解放という、階級対立の意識に主導された「革命」だったはずで、しかもこの階級意識は、時として民族意識と鋭く対立する。ところが、現在は民族意識のほうが全面に押し出され、階級的な権力構造を押し隠そうとしている。多分そのためだろう、中華人民共和国の「権力者」の発言からは、そして民衆の発言からも、他国の、階級的または民族的に抑圧されている人々に向けた、連帯の言葉が聞かれることがなくなってしまった。
 けっきょく毛沢東をリーダーとする「革命」が残したものは、共産党独裁という権力形態だったわけだが、その独裁政権が「富裕層」なんていう革命の鬼っ子を作って、貧富の格差を助長したり、他民族差別の感情を煽ったりしてきた。あの張紙は、その象徴的な結果と言うべきだろう。

 そんなことを考えながら、同時に私は、かつて「犬と支那人は入るべからず」という制札が立っていたことを思い出した。

○「犬と支那人は入るべからず」
 それは今から150年ほど前、上海が外国人の居留地だった時代のことであるが、この居留地の中にパブリック・ガーデンが作られた。その時、パブリック・ガーデンの門に「犬と支那人は入るべからず」という制札が立てられてあったという。
 清国人にとってはこれほど屈辱的な民族差別はなかっただろう。なぜそんな差別が公然と行われたのだろうか。

 よく知られているように、アヘン戦争の敗北を認めた清朝政府は、1842年(天保13年)8月、イギリスと南京条約を結び、香港を割譲するとともに、上海に居留地を作ることを認めた。当時の上海は、南は洋涇浜に臨み、北は呉淞江、東は黄浦江、西もまた河川に囲まれた、ごくさびれた土地だったらしい。にもかかわらず、イギリスが敢えてここを開港地に選んだ理由は、一つには清国人との雑居を避けること、つまり「華洋分居」が可能であること、二つには安全で防衛が容易であること、三つには内地との交通が便利であることだった、という(馬長林「近代における上海租界と横浜居留地の比較研究」。『横浜と上海』所収)。
 もちろん港湾の整備や居留地の造成もほとんど行われていなかった。開港後の1845 年(弘化2年)11 月、イギリス領事と上海道台との間に結ばれた「土地章程」では、橋梁の架設や街路の整備、消防機関の設置、排水路の開設、秩序の維持、夜番の雇用など、居留地の造成と維持管理は、すべて土地や家屋を借りる欧米人の責任で行なうことになり、そのため居留民は、それらの費用や、波止場の建設費を拠出することになった。
 また、土地の貸借に関しては、清国の地主と外国人居留民とが私的に借地契約を結ぶわけだが、中国人側は上海道台が、外国人側は当該国の領事が保証人に立ち、その契約に公的性格を付与する。そういう手続きが取られた。上海道台の「道台」は、現在の日本における知事よりももっと大きな権限を持つ行政官だったらしいが、ともかくこの上海道台と当該国の領事が立ち会うことで、土地の貸借関係をオーソライズする。だが、貸借関係はあくまでも清国の地主と、外国人居留民との間で結ばれる、私的(個人的)な契約だった。この点は、横浜の場合と較べる上で重要な点であり、記憶に留めて置いてほしい。
 
 

   ともあれ、居留地の整備は全て借地人のほうで行うことになっており、その点だけを見れば、清朝政府にきわめて有利な取決めだったように思われる。だが、じつはそうではなかった。この「土地章程」に基づいて、1846年(弘化3年)12月、道路および埠頭に関する委員会(Committee on Roads and Jetties)が発足して、これが実質的には徴税と市政に責任を負う、行政機関に成長してゆくのである。
 その性格を強化するきっかけとなったのは、1851年(嘉永4年)に始まる太平天国の戦乱だった。
 53年(嘉永6年)3月、太平天国軍が南京を占領し、これを契機として英米仏三ヵ国が上海義勇隊(Shanghai Corps)を組織する。その居留地へ、多くの清国人が戦乱を逃れて入り込んできた。他方、居留民のなかには、それを当てこんで、さっそく安普請の長屋を作り、賃貸する人間が出てくる。こうした状況を踏まえて、英米仏の三ヵ国領事は同年七月、第二回「土地章程」を起草し、居留民を代表する借地人会議(Renters meeting)に諮って、可決された。その内容は、華洋雑居の既成事実を追認するとともに、領事団と居留民は道路や埠頭の築造とメンテナンス、清掃や市街照明、排水、警察などの業務の責任を負い、そのための地税と埠頭税の徴収を認める、というものだった。
 このことも横浜の場合を検討する上で重要な点であり、記憶に留めて置いてほしい。
 
 

   ともあれ、先のような決定を受けて、各種の税を徴収する組織として工部局(Municipal Council。別称「西人公局」)が設立され、他方、三国領事の領事裁判権が確立された。こうして工部局と領事団は、自国民保護のための軍隊を持つ、自治行政機関へと成長してゆく。それは治外法権的な性格のきわめて強い自治機関だったと言えるだろう。
 そういう状況の中で、英米仏の居留民専用のパブリック・ガーデンが作られ、「犬と支那人は入るべからず」という、民族蔑視もはなはだしい、傲慢な制札が掲げられることになったのである。

 最初にふれた北京の食堂の主人はこの事実を知っていたのではないかと思われるが、もしそうならば彼はあのような民族蔑視を、日本人とフィリピン人とベトナム人を対象として、再演して見せたのであろう。

○しばらく休んでいたが
 さて、ところで、私は去年の大晦日(
12月31日)に、「「日朝修好条規」の条理――日韓交渉の要諦――」を載せ、それ以来、3ヶ月近く経った。あの人も年齢が年齢だから、体調が悪いのかな。そう心配してくれる人もいて、岩見沢の豪雪見舞いを兼ねて、それとなく健康状態を問い合わせてくる人もいた。大変に嬉しく、恐縮してしまったが、幸いなことに健康状態は悪くない。むしろ気力充溢していた。というのは、有難いことに、私の論文集を出版する話が進んでいたからであり、550ページを越える。私は、それぞれの論文で使った資料には全部当たり直すことにして、北大の図書館にまで出かけて確認したりしたため、校正が1ヶ月以上もかかったのである。
 それが終わって、直ちに、かねて約束の論文を2本書きはじめたわけだが、そのうちの1本は400字原稿用紙に換算して80枚を越える論文になったため、3月上旬までその仕事にかかり切りだった。
 そのような次第で、3月中旬、ようやくブログを書き続ける時間が取れるようになったわけだが、最初に紹介した記事がずっと気になっており、関連することを調べているうちに、今日(
3月24日)になってしまったのである。

○幕府の対応
 ともあれ、先のような事情により、上海に徴税権と警察権を持つ、居留民自治の統治機関が出来、上海という居留地(settlement)が治外法権的な空間(租界/concession)に変わっていったわけだが、それでは、横浜の場合どうであっただろうか。

 これまたよく知られているように、幕府とアメリカ政府は1858年(安政5年)に日米修好通商条約を結んだわけだが、その条約によれば、神奈川を開港地とする約束になっていた。ところが幕府は、外国の商人に対して横浜に居住することを指示した。その頃の横浜は旗本領地の小さな漁村だったが、幕府はその旗本に別な領地を与え、住民は立ち退かせる。幕府はこうして、横浜を直轄領地とし、貿易船が入港できる港湾の工事をして、外国人の居住地としたのである。
 当然のことながら、アメリカ公使のハリス(T. Harris)は――続いて修好通商条約を結んだオランダやイギリスやフランスの代表も――これを条約違反として厳しく抗議した。それに対する幕府の言い分は次のようなものであった。〈神奈川はこの辺一帯の総称であって、そのなかに横浜村も含まれている。しかも神奈川宿は東海道に接していて、そこを往来する日本人と外国人との間にどんなトラブルが起こるか分からない。加えて、神奈川の海岸は遠浅であり、横浜のほうが大型の船舶が寄航する港としての条件に恵まれている〉。
 もちろん四ヵ国の代表はそのような説明には納得できず、例えば1859年(安政6年)の9月、イギリスの代理領事ヴァイス( F. H. Vyse)は、横浜に住むイギリス国籍の商人に対して、神奈川へ移住することを命令し、神奈川以外での営業を禁止する布告を出している。他方、日本側に対しては、運上所(税関)と、神奈川奉行のうち少なくとも一名が神奈川に移ることを要請した。
 
 

   しかし幕府としては、いまさら改めて神奈川に埠頭や居留地を作る要求など、受け入れる気はない。結果的にそれを助けたのが、外国人居留民であった。
 1860年(安政7年/万延元年)の1月3日、居留区の倉庫から出火があり、翌日、居留民が集まって防火対策を話し合ったが、議論は「恒久的な開港場として横浜と神奈川のいずれが望ましいか」という問題に発展し、採決の結果、横浜を選択することを満場一致で可決したのである。
 5日には、横浜を選択する5箇条の理由書が作られたが、斎藤多喜夫の「横浜居留地の成立
『横浜と上海』)によれば、その理由書の趣旨は〈横浜へ来てから6ヵ月の経験により、日本政府が海運の便から横浜を開港場に選んだのは、妥当な判断だったと誰もが考えている。最近の火災によって、耐火構造の建物が必要であることを学んだが、しかし恒久的な居住区が定まらないうちは、誰もそのような建物に投資するはずがない〉というものであった。
 各国の公使はこのような請願を無視することはできなかった。3月の14日、イギリスの総領事オールコック(R. Alcock)は、神奈川奉行に対して、領事と協議することなく外国人に土地を貸与していることを抗議した。だが、これは修好通商条約の条文がまだ生きていることを確認するための、形式的な抗議だったらしい。なぜなら、すでに1月27日、かれは代理領事のヴァイス(F. H. Vyse)に宛てた訓令のなかで、〈神奈川への移住をイギリス国籍の人間に強制することは控え、横浜での借地や家屋の建造を合法化するための便宜を与えること。ただし神奈川での権利は留保すべきこと〉を指示していたからである。
 
 

    結局、各国の代表は居留民に足元をすくわれてしまったわけだが、このように後手に廻らざるをえなかった原因には、足並みの不揃いという面もあったように思われる。
 この年の5月、フランスは条約締結国均分を主張して、幕府の承認を取付け、10日には、幕府から借り受けたフランス専管居留地の配分を完了した。6月21日の領事館令によれば、借地権はフランス国民にしか認めず、地所の割渡や地券の発行、譲渡の承認等は、すべて領事の権限に属する。それと共に、波止場の設置や、囲柵その他の費用に充てるための「割増金」や、「市街維持」のための費用徴収を示唆していたが、しかし他方、借地人の自治に関する規定はなかった。
 これに対して、残りの地所の借地権に関しては、おなじ年の7月21日、イギリス・アメリカ・オランダの三国領事が共同で分配した。分配はイギリスのヴァイスが幹事となり、アメリカ領事館を会場として、公売の方法によって行われた。公売の参加資格はフランスを除く全ての条約締結国民に与えられ、権利金の最低価格は265ドルだったという。権利金の2割を割増金とし、土地の測量と公売に要した費用を控除したのち、道路の敷設と保守等の市政目的に使用する。このやり方から判断するに、英米蘭の三国は上海の各国共同租界のような居留地を形成する意図を持っていたのであろう。
 さらに8月、三国領事団は奉行と協議することなく、領事規約の形で、「神奈川地所規則」を制定した。そのなかには、「街路照明・清掃・警察を領事と居留民の責任とし、借地や建物の割当金と埠頭税の徴収を認める」という意味の条項が含まれていた。もし領事と居留民が警察権を持つことになれば、領事裁判権と相俟って、居留地の治外法権化が確立されることになるはずである。
 ところが、幕府は領事団には無断で、居留地の東端に掘割を通す工事を始めてしまった。そして10月、幕府が地所規則の制定に向けて協議に入ろうとした時、三国側が「神奈川地所規則」の事後承認を迫ったため、幕府はこれに反撥して、同意しなかった。その結果、「神奈川地所規則」は、居留民に対しては一定の効力を持つが、幕府との関係では著しく実効性を欠いたものになってしまったのである。
 ただ、このような交渉の間に、1861年(文久元年)10月、地代の額についての合意は成立し、領事が徴収を開始する。他方、幕府は新旧居留地全体の図面を作成して、統一的な地番をつけた。これ以後、横浜の絵図や地図の外国人居留区には地番が記入されることになった。

 ずいぶん細かなことにこだわっているようだが、このように経緯を辿ってみると、いかに横浜が上海と異なっていたか、よく分かると思う。
 幕府の役人は、清朝政府とは違って、横浜を開港場に予定するや、いち早く横浜村を接収して、――いわば国有化して――波止場や居留地の造成に着手し、地主の立場を確保した。しかも居留を希望する外国人と個別に契約するのではなく、各国の領事を介して貸与する。フランスの場合が一番分かりやすいと思うが、フランスの領事は一定の広い地域を、専管居留地として、幕府(神奈川奉行)から割り当ててもらう。それをフランス人の希望者に割り振るわけであるが、借地代を徴収して、幕府に収めることになった。もちろん幕府にとっては初めての経験であって、貸借の年限を決めておくことに気がつかなかった。そのため居留民は借地権を相続可能な財産と見なし、また、抜け目のない人間は自分が居留するつもりのない区画を借り受け、その借地権を他の希望者に高く売りつける。そんなことも行われたらしい。
 そういう不手際もあったのだが、ともかく地主の立場を確保した。そのことが横浜の租界化を防ぐ結果をもたらしたのである。
 
 

    そのことをもう少し具体的に説明すれば、次のような経緯によって、「犬と日本人は」みたいな制札を出される屈辱を味わうことなく、日本の主権を守ることができたのである。

○危うく屈辱的な空間を阻止
 もし横浜が上海的な状況に陥る可能性があったとすれば、それは1862年(文久2年)9月14日の生麦事件に端を発する、武力衝突の危機が迫った時期であろう。
 生麦事件は今更説明をするまでもないと思うが、薩摩藩の島津久光の一行が江戸から帰る途中、神奈川の生麦村にさしかかったところ、たまたま騎馬の散策を楽しんでいたイギリス人が騎乗のまま、島津久光の行列の前を横切った。島津久光は薩摩藩の藩主ではなかったが、現藩主・忠義の父親として大きな影響力を持ち、幕府の取り扱いも鄭重だった。そういう一国の国主に準ずる人物の行列の前を、騎乗のイギリス人が横切ったわけで、「無礼だ」と激昂した薩摩藩士が駆け寄り、一人を斬り殺し、二人に重傷を負わせた。
 当然のことながら、居留民は憤激した。9月24日、居留民の有志が集まり、イギリスの商社、ジャーディン・マセソン商会のガワー(S. J. Gower)が「われわれの生命財産を守るために、小銃隊を組織すべきだ」と提案して、かれを隊長とする義勇軍が組織された。
 『ジャパン・ヘラルド』の記者だったブラック(John R. Black)は、『ヤング・ジャパン』(
Young Japan. 1880。ねず・まさし他訳。平凡社東洋文庫、昭和45年)のなかで、「人々は怒りにかられていたから、不参加者はほとんどいなかった、と考えて差し支えない」と回想している。
 すでに居留民は事件当日の夜、イギリス領事ヴァイスを議長とする集会を開き、「
本集会は、英国領事が英国提督と会見した際に行なった説明の結果として、列国軍隊の司令官はただちに協議し、この恐ろしい不法行為に対する速(すみ)やかな賠償を保証するために、可能ならば、その家臣が殺人を犯した大名の身柄、もしくは若干の重臣を監禁する緊急処置を取るよう、熱望する」(『ヤング・ジャパン』)ことを決議していた。集会では、「犯人をただちに逮捕するために、完全武装の千名の軍隊を上陸させ、神奈川を占領せよ」(同前)という強硬論もあったという。この種の強硬論は、イギリスの代理公使・ニール中佐(Edward St. John Neale)の「私の意見では、提案された手段は実行不可能だと思うが、成功の機会をつかんで、実行するならば、それは日本と突然戦端を開くことに他ならない。その結果、おそらく英国政府を、予期しなかった一連の行動へ、心ならずも駆りたてることになろう」(同前)という慎重論に抑えられてしまう。だが居留民の間には、そういうことへの不満を含めて、怒りがくすぶっていたのである。
 12月16日、攘夷派の浪人による居留地襲撃の噂が流れ、幕府は守備隊を派遣した。理由は居留民の動揺を鎮めるため、ということであったが、むしろそれは居留民が銃器を執って積極的な自衛行動に出ることを牽制するためでもあっただろう。
 
 

    田辺太一(蓮舟)はこの頃、外国奉行支配組頭を務めていたが、その回想記『幕末外交談』1・2(坂田精一訳・校注。平凡社東洋文庫、昭和41年6月、8月。底本は明治31年、富山房刊)によれば、幕府のなかに、東海道の駅路を変えてしまったらどうか、という意見があった。修好通商条約のとり決めは、外国人の居住と商活動を居留区だけにかぎり、ただし十里四方以内は旅券なしに自由に行動できることになっていた。この取決めがあるかぎり、今回のような事件が再発する可能性を否定することはできない。それならば、いっそ厚木から小田原へ出る道筋に変更してしまおう、というわけである。
 このことについてアメリカの公使に意見を求めたところ、アメリカ公使は、あえて東海道の道筋を変えるまでもない、「
山手の方は、ずいぶん地広くこれあり。右を外国人遊山場(ゆさんば)といたし候わば、自然神奈川辺へ遊歩いたし候者、百人に一人ぐらいに相なり申すべく候。この儀は英国コンシュルとも咄(はな)し合い候儀にて、右場所にて花園を設け、また、その周囲に競馬場などしつらえ候わば、十分の遊歩もでき候ことに候。右御許容のことに相なり候わば、その入用は差し出だし候ことに候」(『幕末外交談』)と答えた。
 
外国奉行は「それは至極宜しき考えに候」(同前)と、この意見に飛びついた。駅路を変更することになれば、宿場の品川駅一つを変えるだけでも大変な費用がかかる。ところが、アメリカの公使は、山手に遊歩場や競馬場を作ってくれるのならば、その費用は私たちで持ちましょう、と言ってくれる。願ったり叶ったり、渡りに船、とばかりに、浅ましくも外国奉行が飛びついてしまったのである。
 こうして山手の遊歩空間が作られることになったわけだが、田辺太一の回想によれば、この時期まで、居留地の警察権についての明確な取決めはなかった。ところが、以上のような経緯で遊歩道や競馬場を作り、「
道路や溝渠のことでも工事費を外人の手から出させて、全く自治の恰好にしたので、したがって警察権も自然に外人の手に落ちる」結果になってしまった『幕末外交談』)。
 薩摩藩士の引きおこした生麦事件は、居留地内に自治権や警察権を発生させる結果をもたらしたのである。
 
 

    ただし、1866年(慶応2年)、港崎の遊郭を移転して、跡地を公園とする協議に際しては、幕府は「少しく面目を保つところがあった」という(同前)。領事団は居留民の専用を主張したが、小栗上野介が断固反対して、共用の公園とすることにした。幕府は上海におけるパブリック・ガーデンのような屈辱的な空間を作られるところまでは譲歩しなかったのである。

○居留民の腰砕け
 幕府はこのように、何事につけても押され気味だったわけだが、こと居留民の自治権に関しては、日本側に有利に運んでいった。
 1862年(文久2年)9月24日は、生麦事件をきっかけに、居留民の義勇軍が結成された日であるが、おなじ日、借地人会議が開かれ、ブラックの『ヤング・ジャパン』によれば、「
全然別の問題が討議された」。それは「建設中の海岸通りの幅を五十フィート以上に出来ないか、どうか」という問題だったが、この会議は「領事会議がすでに日本側にこの幅を同意している以上、変更するのは、この集会の力の及ぶところではない」という、妙に物分かりのよい、腰砕けの結論に終わってしまった。そこで、参事会(Municipal Council)の権限の問題が話題となったのだが、これまた「参事会は事実上無力だ」という、情けない結論に終わった。
 
 

    参事会(Municipal Council)は、この年の4月10日、第一回の借地人会議において結成され、ただちに道路、照明、海岸通り、波止場、警察、保安、貨物船等に関する部会が編成された。このかぎりでは上海における工部局(Municipal Council)とおなじ方向に踏み出したように見える。それが有名無実に終わってしまったのは、財源の裏づけを欠いていたからである。
 斎藤多喜夫の調査によれば、この第一回借地人会議に先立って、2月8日の『ジャパン・ヘラルド』に投書があり、緊急に解決を要する問題として、二つの点を指摘したという。一つは、屠畜業者が溝や海岸に不法投棄する廃物の悪臭の問題、二つには、日本人の夜警が立てる太鼓の騒音の問題だった。この夜警は太鼓を叩きながら巡回し、俗に「ドンドコ回り」と呼ばれて、その騒音は居留民の頭痛の種だったらしい。会議はこの二つの問題を取り上げたが、「
しかし、委員会が達した結論は、地所規則第五条および居留民が「きわめて高価な地代」を支払っていることを理由として、道路と下水溝の整備・整頓は日本政府の責任とするものであった」(「横浜居留地の成立」)。
 この神奈川地所規則第五条とは、〈土地所有権は日本政府に属するから、日本政府は市街道路および波止場を常時十分に整頓し、必要に応じて下水道を造らねばならない。したがって、この目的のために居留地内の外国借地人に課税をしてはならない〉というものであった。要するに地主である幕府にやらせればよいというわけだが、そもそもこの規則は、先ほど指摘しておいたように、英米蘭の三国領事が、奉行と協議することなく、領事規約の形で制定したものでしかなく、幕府は同意を拒んでいた。そうである以上、居留民は自分たちの主張を裏づけるために、幕府もまた実質的には同意していることを〈論理的〉に証明しなければならないだろう。
 またまた細かいことにこだわるようだが、居留民がこの問題をどんな論理でクリアしょうとしたか。もう少し詳しく説明するならば、三国領事団が「神奈川地所規則」を作ってから、およそ2ヵ月後の、1860年(万延元年)10月19日、イギリス公使のオールコックは、領事のヴァイスに宛てた訓令で、英国籍借地人は地代の領収書とともに地所規則を受け取ることを指示した。つまり、これを居留民の側からみるならば、借地権を公認してもらう条件として、地所規則の遵守を義務づけられたわけである。領事側は、このように徴収した地代と一緒に、借地人名を地所貸渡証書に記帳して、それを神奈川奉行に提出する。奉行は地代を収受すると共に、証書に花押を記し、こうして初めて居留が合法化される。それならば、地所貸渡証書に署名している以上、奉行は地所規則をも承認したことになる。
 1863年(文久3年)1月12日、地所規則の規定による年頭の借地人会議が、イギリス領事ヴァイス邸で開かれ、席上、ジャーディン・マセソン商会のガワーが地代支払いの拒否を提案して、満場一致で可決された。その時用いられたのが、以上のような理屈だったのである。
 
 

  これは「神奈川地所規則」の有効性を論理化したもので、領事団にして見れば我が意を得た主張であり、逆に幕府としては反論に苦しむところであっただろう。
 ところが、それから約1ヶ月半後の、4月1日、ヴァイスに代わってイギリス領事に任命されたウィンチェスター(Charles Winchester)は、「神奈川地所規則」の効力について違った解釈をし、1864年(元治元年)3月10日、地代問題とからめて、公使のオールコックに、次のような公信を送った。
《引用》

長崎地所規則と対比してみると、神奈川地所規則は神奈川奉行が対約者として調印しておらず、老中と公使の批准も経ていない。したがってそれは無効である。
②居留地の整備に関わる条項が第五条と第九条に分割され、前者は日本側、後者が外国側の責任とされているのも不合理である。
③居留民を満足させるためには、衛生対策を外国人の統制のもとに置く必要がある。日本政府もそのことに反対しないであろう。
 ④その財源として、地代の10から15パーセントの払い戻しを要求すべきである。
⑤この財源をもって、上海において効果を発揮したのと同様の市政団体を組織することができよう。
⑥そのような市政団体は国籍を越えた権限を有するものであることが望ましい。
横浜居留地の成立」
 

 

   神奈川地所規則の第五条はすでに紹介した。第九条は〈街路の照明、清掃および警備または警察隊に関する諸設備は便宜かつ必要であるので、領事は毎年の初めに居留地人会を召集し、右の諸目的を達成するために必要な資金を調達する諸手段を講ずるべきである。同会において借地人は、借地または建物に対する割当て、または同港内に陸揚げする貨物の埠頭税の形式により、賦課額を決定する権限を有する〉というものだった。要する第五条と第九条は、幕府と居留民とが相互の責任を区別し、それぞれ分担しようという「規則」だったわけだが、第五条では埠頭の築造や整備を幕府の負担とする。他方、自分たちの責任である治安や衛生のために埠頭税を徴収する。これは斎藤多喜夫が指摘するように、たしかに首尾一貫しない。
 このような意見があり、3月28日、領事団は会議を開いて、最初の二年間は20パーセント、その後は15パーセントの地代の払戻しを要求することを決定した。交渉の結果、12月19日、幕府は2割の払戻しに合意している。
 
 

    こうして見ると、上海の居留民は居留地の造成からインフラ整備、メンテナンス、治安維持など、必要な費用は一切合切自分たちで賄うというやり方で、治外法権的な自治権を手に入れたわけだが、横浜の居留民はどこかケチくさく、地代を払っているのだから幕府にやらせろと言ってみたり、自分たちでやるから地代の20パーセントを払い戻してくれと言ってみたり、首尾一貫していない。おまけに、フランスが「一抜けた」とばかりに別行動を取ったため、足並みが揃わなかった。しかも斎藤多喜夫が指摘するように、ウィンチェスターの公信は「神奈川地所規則」そのものの効力を否定している。「そうであるとすれば、地所規則第五条を盾に奉行の責任を追及することも、その不履行を理由に地代の支払いを拒否することも無効となる。そもそも第九条に基づく借地人会議と市政委員会も法的根拠を失」ってしまう「横浜居留地の成立」)。
 それだけでなく、前年の1月、借地人会議が地代支払いの拒否を決定した前提には、幕府もまた「神奈川地所規則」を認めたはずだという認識があったわけだが、この認識とウィンチェスターの主張とは矛盾する。しかもこの新しい主張は、従来の領事団の方針だった、借地権の公認と地所規則の遵守を一体のものとする考え方とも齟齬する。
 領事と居留民はこのような矛盾を抱え、しかも地代のわずか2割の払い戻しでは十分な自治行政ができない。1866年(慶応2年)11月、「豚屋火事」と呼ばれる大火災によって居留区の5分の1と、日本人町の3分の2が焼失してしまう。この後、居留地復旧のため、幕府と外国領事は「横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書」を締結したが、しかし、居留地の自治機関である参事会(Municipal Council)の財政難はきわめて厳しく、結局1867年(慶応3年)、参事会は居留地の管理権を幕府に返還してしまう。この自治権の返還に際して、11月22日、「横浜外国人居留地取締規則」が制定されたが、それは〈神奈川奉行は、居留地の取締長官として外国人一名を任命することができ、その地位は神奈川副奉行と同等であり、神奈川奉行の名義をもって、居留地内の警察・税収・市政事務の管理を実施する〉という内容だった。
    
 

    およそ以上のような経過を辿って、居留民による自治区創出の試みは失敗してしまったわけだが、その大元の原因は幕府がいち早く横浜を選定して埠頭工事に着手し、居留地を造成して、地主権を確保してしまったことにあると言えるだろう。
 もちろん幕府が以上のような展開を見越して、イニシアチブを発揮したわけではない。むしろ受け身の立場で、その場その場に対応に追われることが多かった。だが、少なくとも三国領事団が作った「神奈川地所規則」を拒否し、公園のパブリック・ガーデン化を防いで、公共化することができ、ついに居留民による自治区創出の企図を挫折させてしまった。そうしたことが可能となったのは、幕府が一定の自主性を持っていたからにほかならない。
 これは誰も指摘していないことだが、明治の新政府の幸運は、以上のような経緯を受けて居留地問題に取り組むことが出来たことにある。もし横浜が外国の居留民が望むように治外法権的な租界になってしまっていたとしたら……。おそらく戊辰の戦争の経過も、その後の外国との交渉も、新政府の担い手が実際に経験したよりもはるかに難しい局面に立たされることが多かっただろう。

○田辺太一の視点
 先に名前をあげた田辺太一は、旧幕時代は主に外国奉行の関係の仕事に任じ、慶応3年、徳川照武がパリ博覧会に参列するために渡欧した際には、駐仏公使館の公使館書記官に任命されて、昭武に随行した。明治維新後は外務省に出仕して、明治4年5月、樺太境界談判のために参議の副島種臣がロシアのポシエット湾に差遣されるにあたって、随行し、また、同年10月、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らの欧米派遣が決定されるや、田辺太一は福地源一郎、塩田三郎などとともに一等書記官として随行することになり、書記官長に選ばれている。
 初期の日本外交史の生き字引とも言うべき人物であるが、この人の回想記『幕末外交談』によれば、横浜の居留地で外国人に加えられた制約というのは、せいぜい〈商業と居住は幕府の指定する居住区にかぎる。居住区から10里以内ならば、自由に行動してよく、10里を超える場合は、許可を得なければならない〉という程度のことであって、「
もともと条約(安政5年の修好通商条約)の議定するところでは、開港の地において土地や家屋を賃貸する自由を与えたにとどまり、かつ門墻を設けず、出入り自由にすべしとの約こそあるが、堀割をつくり、隙地を設けて内外人の居留の場所を隔離し、殊に外人の居留地に自治の制を施させるというような条款はないのである」。
 10里以内という制限も、もともとは「日帰り可能な範囲」という主旨から生まれたわけで、そこから、〈外泊が必要な遠出をする場合には、役所に届けて、許可をもらう〉という条件が生まれたらしい。各国の公使や外交官はかなり自由に横浜と江戸の間を往復しているが、それ以外の人も、Sherard OsbornのJapanese Fragments, with Facsimiles (1861)や、J. M. W. Silverの Sketches of Japanese Manners and Customs (1867)や、Bayard TailorのJapan, in Our Day (1872)や、M. Paske-SmithのWestern Barbarians in Japanese and Formosa in Tokugawa Days, 1603-1868 (1930)などを見れば、ずいぶんあちこちに旅行して、貴重な体験談やスケッチを残している。日本人とトラブルを起こした様子はない。日本人の民衆は、初めて会う外国人に対して物怖じしたり恥じらったりすることはあったかも知れないが、外国人に対する排他的、攻撃的な感情を強く抱くことはなかった。そう言っていいだろう。
 
 

    田辺太一はまた、「いわゆる治外法権なるものは、彼我の間の民事訴訟の裁判と、犯人の処刑上に、各国が各自の法を用いていただけに止まって、外人居留の地において、わが警察権が行使されない、というようなことではなかったのである」とも言っていた。まことにその通りであって、前回の「「日朝修好条規」の条理」で指摘したように、横浜の開港時における犯罪者取り扱いの取り決めには、一定の合理性があったのである。
 この点は日本が李朝の朝鮮国と結んだ「日朝修好条規」においても変わらなかった。
 
 

   ところが、攘夷運動家などというやっかいな連中が現れて、観念で外国人を憎悪し、公使や外交官の宿舎を襲撃したり、生麦事件を起こしたりして、イギリスやフランスが横浜に軍隊を駐屯させる事態を招いてしまった。「ところが、鎖攘の論がますます盛んになるにおよんで、幕府の外人保護の力が乏しくなり、往々殺傷の沙汰がおこって、そのために幕府の苦慮が甚だしくなった。/そこで、神奈川海道筋への出行を少なくするという名目で、横浜の山手方面の土地を拡張して、一大区域を画し、外国人居留地の名称を付けて、その区域内に各人の好みに適するような運動の道路をつくり、または各人の娯楽のために競馬場を設け、道路や溝渠のことでも工事費を外人の手から出させて、全く自治の恰好にしたので、したがって警察権も自然に外人の手に落ちる」結果になってしまったのである(『幕末外交談』。太字は亀井)。
 
 

   一口に居留地といい、治外法権とは言っても、その内実は上海の場合と横浜の場合では大きく異なる。この相違は、不測の事態が起こった場合の関係国の国情や、外交担当者の力量や思惑によって生まれる。私はその間の微妙なアヤの一端を、田辺太一の証言を手がかりに、以上のようにたどってみたわけである。
 私の見るところ、いわゆる歴史研究者の近代史というのは、そういうアヤを読むことを知らない、あるいはそういうアヤを捨象してしまっている。そういう連中が提供する歴史認識なんてものは、観念で他者を憎み、それが正義だと思い込んでいる、攘夷運動家みたいな人間しか生まないだろう。
 あの「犬と日本人……」なんて張紙を出した北京の食堂の店主はその安っぽい一例と言えるわけだが、それにしても民族差別のやり方まで150年前のパクリでしかなっかたという、この中華人民共和国の人間って、……なんだかなあ、……そんな感想が湧いてきて、それならば、李朝の朝鮮国における居留地はどんなふうだったのだろうか。

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