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「日朝修好条規」の条理――日韓交渉の要諦――

「日朝修好条規」の条理――日韓交渉の要諦――
マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(7)

○苛酷な処刑
 「日朝修好条規」はどの点で不平等条約だったのか。
 前回に続けて、今回もこの問題を取り上げてみたいと思うが、いわゆる領事裁判権(あるいは治外法権)の問題については、そもそも日本と朝鮮国はこの点についてどんな関係にあったかを見ておく必要があるだろう。
 
 徳川時代を通して、朝鮮国と外交交渉を持っていたのは対馬藩だったが、この対馬藩に雨森芳州(
あめのもり・ほうしゅう)という老練な外交官がいた。彼が書き残した「交隣提醒」(享保13年〔1728〕12月)は、朝鮮国とのトラブルと対馬藩の対応、それに関する芳州自身の意見を述べた、貴重なドキュメントであるが、その中に次のような一節がある。
《引用》
 
深見弾右衛門、館守之時、朝鮮之女両三人館内ニかこひ置候段相知レ、東萊より催促有之候付、不得已(やむをえず)竊ニ館門を出し候時、館外ニ而捕へ、拷問之上斬罪ニ行ひ、其相手を被出候様ニ(いだされそうろうようニ)と名指しいたし、督責厳急(トクセキゲンキウ)ニ候所、館守?色々と申はつし、其内ニ年月も立候而、終相手不被指出(ついにあいて指し出されず)、事相止ミ申候。句読点、振り仮名は亀井

 対馬藩は朝鮮国の釜山に「倭館」という居留地を持っていた。このことはよく知られているが、深見弾右衛門がその倭館の館主だった時代、朝鮮国の女性を2,3名(多分妾として)囲っている者がおり、東萊府(とうらいふ/トンネプ)の役人の知るところとなった。東萊府は李王朝が東萊郡に置いた地方行政機関で、倭館の監視や監督、対馬藩との交易・外交という重要な役割を担う役所だった。その役所から倭館に対して問題の朝鮮人女性を引き渡すように要求があり、あまり催促が厳しいので、やむを得ず、倭館の役人がひそかにその女性を館外へ出したところ、東?府では彼女たちを拷問にかけた上で、斬り殺してしまった。そういう残酷な処刑が行われたのである。
 度を超えた苛酷な処罰というほかはないが、なぜそのような刑が下されたのか。

○李王朝の禁令
 朝鮮国の李王朝は倭館のためにおよそ10万坪の土地を用意し、――徳川幕府が欧米諸国のために用意した居留地は、横浜だけでおよそ108ヘクタール、つまり約32万6千坪だった。倭館は、開港時代の横浜の3分の1弱の広さだった――それなりに広かったと言えるが、東萊府は日本人の出入りを厳しくチェックし、日本人が倭館の外へ出ることを禁止した。
 これは李王朝の方針だったと言えるだろう。李王朝は徳川幕府の将軍が代わると、新将軍の就任を祝って、「朝鮮通信使」と呼ばれる使節を派遣した。――必ずしも将軍の代替わり毎に派遣したわけではないが――しかし、李王朝の国王が替わった場合は、徳川幕府、または対馬藩の慶祝の使節を釜山の倭館に留め、そこで挨拶を受けた。決して国王の王宮がある漢城(現ソウル)へ迎えることをしなかった。そのため当時の欧米人の眼に、李王朝は清王朝に朝貢しているだけでなく、日本の幕府にも朝貢していると映り、それは李王朝にとってはなはだ不本意な観察だったと思われるが、とにかく日本人が倭館の外に出ることを極端に警戒した、むしろ極端に嫌い、そうして朝鮮国の女性が日本人と性的な交渉を持つことを厳禁したのである。
 私の読んだ論文の中には、日本人との性的な交渉の禁止を、李王朝の奉ずる儒教道徳がそれだけ徹底していた証拠とする論文もあったが、多分それは間違っている。儒教は、男女の別に関する限り、「男女七歳にして席を同じうせず」と、大変に厳しい掟を設けていたが、蓄妾や売春に関してはむしろ鷹揚、寛大だったからである。
 実際には日本人との接触を忌避したい感情から生まれた禁令と見るべきだろう。

 
 その意味で、東萊府の処置には一種の民族的偏見が窺われるわけだが、その問題はここでは脇に除けておく。が、たとえそれを取り除けて見たとしても、拷問と斬罪という極刑は事柄とのバランスを欠いた、過剰反応的な処刑と言わざるをえない。
 それともう一つ、東?府が、当該女性の相手の日本人を名指しして、こちらに引き渡すことを求めるやり方は、対馬藩に対する「内政干渉」となりかねず、ここにも問題がある。
 なぜなら、ここから、〈朝鮮国の領土内で起こった事件に関しては、たとえ当事者の一方が日本人であっても、朝鮮国の「法」を適用すべきだ〉という意見と、〈日本人の居住地で起こった事件については、そもそもそれが犯罪に当たるかどうかの問題を含めて、日本の「法」によって処置すべきだ〉という意見の対立が生まれてくるからである。

○雨森芳州の見識
 この件に関しては、倭館の館守が言を左右にして時間稼ぎをし、うやむやのうちにやり過ごしてしまったわけだが、芳州自身は別な意見を持っていた。
《引用》
 
御隣好之間、彼国ニて深ク禁しられ候事ハ、此方之者ニも其法ヲ犯し不申様ニ(犯しもうさざるようニ)と可被仰付事ニ而(おおせつけらるべきことにて)、上之仰を守り不申、其法を犯し候者ハ、彼国同罪ニ不被行候(おこなわれずそうろう)とも、相当之刑罰無之候而不叶筈之事(そうとうの刑罰、これなくそうろうては、かなわざるはずのこと)ニ候故、右源七義、彼国へ指渡し、対決之上其罪分明ニ候ハゝ、永々流罪ニ可被仰付との旨、書付を以訳官へ被仰渡、書翰ハ御請取不被成候方可然候(おうけとりなされずそうろうかたしかるべくそうろう)と御評定相究り、其通ニ被成候所、源七義、故有之(ゆえ、これありて)対決ハ無之候へとも、帰国之後一門中より田舎へ下候様ニと被仰付候同前

 これは宝永5年(1708)、白水源七という対馬藩士が朝鮮人女性と「交奸」した事件が発覚し、それをどう扱うかについて述べた意見であるが、ただ、これを敬語法の面から見ると、芳州個人の意見なのか、それとも対馬藩主の意見を代弁したのか、ちょっと分かりにくい。しかし、いずれにせよ、これは当時、もっとも情理を尽くした意見だったと言えるだろう。
 なぜなら、この意見によれば、白水源七は朝鮮国の法を犯してはいない。だが、対馬藩主は以前から、藩士に対して、「朝鮮国が禁じていることは、対馬藩士であってもその法を犯さないように」と申し聞かせてきた。ところが白水源七はその申し聞かせに従わなかった。白水の罪はその点にある。それ故、白水は朝鮮人の女性と同罪とは言えないまでも、それ相応の刑罰を受けねばならない。そういう論理だったのである。
 対馬藩は朝鮮国人の感情に配慮をし、李王朝のメンツを立てて、白水源七を東?府の役人に引き渡すことにしたわけが、それと共に、以上のような意見を申し添えた。それだけでなく、「対決之上其罪分明ニ候ハゝ、永々流罪ニ可被仰付」、つまり〈源七本人を直接に取り調べ、もし源七の罪が明らかになるならば、永久流罪という判決を下されても差し支えありません〉とも申し添えている。これだけきちんと筋道を立てられては、東?府の長官も手の打ちようがなかったのであろう。結局は「故有之」〈然るべき事情があって〉、直接の取調は行われなかった。「」とは、どんな事情を指すのか分からないが、おそらく東?府としては、押して取り調べを行う理由を見つけることができなかったのである。

 
 こうして源七は対馬へ帰国することになったわけだが、対馬藩はそれでことを済ませることはしなかった。「帰国之後一門中より田舎へ下候様ニ被仰付候」。源七の一門の者に命じて、田舎で謹慎、蟄居させるように命じた。対馬藩はこのような形で、源七が「朝鮮国が禁じていることは、対馬藩士であってもその法を犯さないように」という申し聞かせに背いた罪を償わせ、いわば藩としての筋を通したのである。

○あざやかな対応
 ただし、それで一件落着というわけにはいかなかった。

 正徳元年(1711)、六代将軍家宣の襲職の祝賀が江戸で行われることになり、李王朝は祝意を表するために使節(朝鮮通信使)を送ったが、この使節が又候(またぞろ)源七処罰の問題を持ち出したのである。その言い分は、〈白水源七は朝鮮人女性と同罪に扱われるべきであり、対馬藩がそうしないならば、「公義」、つまり徳川将軍家と直接談判をするつもりだ〉ということであった。
 それに対して、通信使一行の接待に当たっていた対馬藩は、〈しかし、あの折、私どものほうは、源七を「永々流罪」に処する旨の「書付」を差しあげましたが、東?府からは「同罪ニ可申付」(
同罪に申しつくべし)という返事はありませんでした〉と答えて、さらに次のようにつけ加えた。
《引用》
 
日本国大慶之御使者ニ御渡候三使、ケ様之微事(かようのささやかなること)、公義へ御直訴ニ及候段、不可然事(しかるべからざること)とハ存候得共(ぞんじそうらえども)、(中略)其段御勝手次第ニ被成(なされ)、此方より御取次キ申様ニ成とも、又ハ御馳走方ヘ御頼被成候と成とも可被成候(なさるべくそうそう雨森芳州「交隣提醒」。句読点、振り仮名は亀井

 「御馳走方」とは、使節の饗応に当たる幕府の要人であるが、要するに対馬藩の雨森芳州たちは、〈日本国を挙げてお祝いする祝賀行事の場で、朝鮮国を代表する使節のあなた方が、そんな些細な問題を持ち出したりするのは、当を得た振る舞いとは思えませんが、どうしても直訴したいというのであれば、私どもが取り次ぎすることもできますし、「御馳走方」にお頼みする方法もありますし、まあ、どちらでもどうぞ御勝手に……〉と、突き放してしまったのである。
 李王朝の使節としては、そういう筋道の通った常識論に服すほかはなかったのだろう。「
押而直訴被致事も難成押して直訴いたされることもなりがたく」、結局白水源七の一件は「永々流罪」という申し合わせの通りに落着した。その折、通詞(書記役)の一人が、以下のように語った、という。〈先年、源七を朝鮮国に引き渡した時は、なにもそこまで譲歩することはないのに、と思いましたし、源七に対する処罰もいささか重すぎるのではないか、と思っていました。しかし、あの時そういう処置を取って置いたからこそ、今回はきっちりと対応できたわけですね。「今日ニ至リ奉感心候」〉。
 この通詞が朝鮮国側の通詞だったのか、それとも対馬藩の通詞だったのか、やや分かりにくいのだが、いずれにせよ「お見事!」と声をかけたくなるような、鮮やかな対応だったのであろう。

○朝鮮通信使の強硬な要求
 以上は李王朝の朝鮮国内で起こった事件についての対応であるが、では、日本国内の事件についてはどうであっただろうか。
 白水源七の一件があってからおよそ60年後の、宝暦14年(
1764)4月6日の夜、大坂で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が朝鮮通信使の崔天宗という都訓導を殺害するという、衝撃的な事件が起こった。
 崔天宗の「都訓導」における「訓導」は、地方長官の代理人という役柄だったらしい。「都訓導」がどんな地位であったかは正確には分からないが、通信使の一行の中では、荷揚げ作業などの労務を監督する立場だったらしい。
 この時の通信使の正使だった趙?(
チヨオム)が『海槎日記』を残しているが、それを資料に用いた辛基秀の『朝鮮通信使』(明石書房、1999)によれば、崔の同僚が駆けつけた時、崔天宗はまだ意識がはっきりしており、「私はこのたびの道中でどの倭人からも怨まれることはないのに、なぜ倭人が私を刺したのか分かりません。もし私が国のために死ぬとか通信使の職務のために死ぬのであれば死を恨まないが、倭人によって死ぬことになれば、死はくやしくてなりません」と語った、という。

 これだけを見れば、〈鈴木伝蔵が物盗りか何かを企てて崔天宗に部屋に忍び入り、崔に騒がれたので、崔に傷を負わせて逃げ出した〉といった種類の強盗、傷害致死事件だったことになる。
 だが、池内敏の研究を参照した山本博文の『対馬藩 江戸家老』(講談社学術文庫、2002)によれば、事件は、宝暦14年4月6日の昼、通信使の江戸からの帰途、大阪長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級役人の鏡が紛失したことから始まった。
 通信使の都訓導の崔天宗がこれを咎めて、「日本人は盗みのやり方が上手だ」というような悪口を言ったところ、対馬藩の通詞の鈴木伝蔵が聞きとがめて、「朝鮮人は、饗応のため所々で出された飾りの品々を断りもなく取って帰っているが、それこそ盗みと同じだ。日本ではそのようなことはけっしてなく、日本人は盗みなどしない」と言い返した。崔はこの反論に腹を立て、衆人環視の中で、伝蔵を「杖にて散々打擲」した。
 対馬藩の藩主はかねがね、「もし朝鮮人に非がありながら杖で打たれたりしたら、その者を討ち捨て、いったん逃げたあとで国元へ帰ってこい。もし打たれながら、そのままにしていたら、国元へ帰ることを許さない」と申し聞かせていた、という。
 鈴木伝蔵はその言葉を思い出し、「このままでは国元にも帰れない」と思いつめ、夜になってから、客舎の西本願寺津村別院に忍びこみ、行灯で崔の顔を確かめたうえ、鎗の先で喉を刺したのである。

 
 もう一度辛基秀の『朝鮮通信使』を参照するならば、正使の趙?に、事件の経緯は、〈天宗の鏡がなくなり、伝蔵が盗んだとの疑念をいだき、馬のむちで叩いたので、伝蔵がこれを怨み犯行に及んだ〉という形で伝わったらしい。
 日本人と朝鮮人の盗癖に関する口論から、崔天宗が杖で鈴木伝蔵を打擲したのか、それとも崔天宗が鈴木伝蔵を疑って馬のむちで叩いたのか。これは事件の本質にかかわる重大な違いであるが、どちらがより事実に近いか、現在では判断がむずかしい。ただ、崔天宗が鈴木伝蔵を「杖」または「馬のむち」で叩いたことだけは間違いない。そう判断していいだろう。そのことを踏まえて言えば、ある国の外交使節の一人が、相手国の通訳を「杖」または「馬のむち」で叩く。これはそれ自体の罪が問われても不思議でないほど、不適切で不当な行為と言うべきだろう。
 おまけに、正使の趙?が得た情報によれば、崔天宗は、伝蔵が盗んだのではないかという、単なる疑惑だけで、馬を鞭打つごとくに、伝蔵を叩いたことになる。そんな理不尽なことをしたのか、恥ずべきことだ。通信使一行の長として当然持つべき、そういう判断力を、この時の趙?は失っていたらしいのである。
 
 

 李王朝時代の朝鮮国では、官人が庶民を鞭や杖で打ち懲らす場面が、しばしば見られたらしい。崔天宗はそんな感覚で鈴木伝蔵を打ったのであろう。他国の人間を、しかも外交の相手国の通詞を打擲して、その名誉を奪っておきながら、「私はどの倭人に対しても恨まれることはしていない」と言い切る。おそるべき無神経であるが、本人はそのことに思い至っていなかったのであろう。
 正使の趙?もその点では同様だったらしい。「趙?は江戸往還中、一行の管理に昼夜心をくだいてきたが、倭人の管理が適切でなく、通信使始まって以来の事件となり、慚愧憤慨にたえず、三人の堂上訳官とともに犯人を探し出すよう護行の倭人に厳重に申しつけた」(辛基秀『朝鮮通信使』)。
 彼の頭から、そもそもことの発端がどうであったかという問題は消えてしまっていたのである。「倭人に……申しつけた」とは随分高飛車な態度であるが、そのほかにも、「町奉行は上々官が共に(鈴木伝蔵と伝蔵の道案内をした半助の)調査の様子を見るよう請うたが、取り調べに同席しても調査にプラスにならないとして断り、日本の法律に従い無実で死んだ天宗の死を償ってほしいと、事実を明白にした上での「正法償命」を要請した」(同前)。
 ここでも、天宗は「無実」とされている。朝鮮通信使の上々官は天宗の「無実」を前提とした上で、彼の死を償うように要請したわけだが、「日本の法律に従い」とは言うものの、「命を償う」または「命で償う」ということになれば、伝蔵の死刑を要求したことになる。
 要求はそれだけではなかった。「やがて事件の犯人が明らかになり、ようやく腰をあげた大坂町奉行所は、厳重な警戒網を敷いて伝蔵を探索するとともに、伝蔵の逃亡を助けた者などを次々に逮捕した。/一方、大坂町奉行所に呼び出された朝鮮通信使上々官崔鶴齢は、犯人の首をはねるのを見なければ(帰国の船に)乗船しないと、犯人の捕縛と処刑を待つ強硬な姿勢を示した」(山本博文『対馬藩 江戸家老』)。
 要するに朝鮮通信使の高官たちは、崔天宗には不適切な言動もなければ落ち度もない、無実な被害者なのだという前提に立って、自分の納得できる刑罰を鈴木伝蔵に下すことを要求し続けたわけで、言葉を換えれば、自分の国の刑の基準を相手国に押しつけようとする。この点では白水源七の場合と同様だったのである。

 
○対馬藩の受け止め方
 しかしもちろん対馬藩の受け止め方は違っていた。
 国元にいて、この事件を聞いた対馬藩隠居(前藩主)の宗義蕃(そう・よしあり)は次のように言った、という。「今度、大坂表の変は前代未聞のことで、対馬士民の浮沈、国家(対馬藩)の安否にかかわることである。この事件でいちばん重要なことは、鈴木伝蔵が崔天宗と口論のうえ打擲にあったというのが事実かどうか、という点である。通信使の随員が日本人を打擲するという法外な行為から殺人事件となったのだから、崔天宗こそが国禁を犯した罪人である」(山本博文『対馬藩 江戸家老』)。
 これは幕府の要人も当然思い当たるべき条理であるが、しかし幕府は通信使の要求に譲歩する形で、十分な取り調べもなく鈴木伝蔵を死罪にし、さらにこの事件の事後処理を、以酊庵を通じて李王朝に報告させようとした。
 「以酊庵」は対馬に建つ寺院の名前であるが、幕府は漢文に通じた僧侶を駐在させて、外交文書の作成や使節の応接、貿易の監視、『本邦朝鮮往復書』という文書記録の作成などを行わせた。幕府はそういう機関を通じて、幕府が取った処置について李王朝の「ご理解」を求めようとしたのであろう。
 だが、それは対馬藩にとっては服しがたいことであった。対馬藩の国家老の小野典膳は以酊庵に次のように申し入れた。「通信使の度ごとに、互いに交換する書付があり、それには双方国法を守り、礼儀を正し、日本人・朝鮮人双方とも非法の行為がないように、堅く申しあわせております。しかるに、この事件は、通詞伝蔵と崔天宗とが口論のうえ、伝蔵を崔天宗が打擲するという行きすぎがあり、伝蔵は日本の恥辱をそのままには差し置きがたく考えて起こった事件ですから、互いの合意事項を彼方(かのほう)から破ったことになります」(同前)。
 これは白水源七の一件を扱った時の雨森芳州の考えと共通する発想であるが、対馬藩としては以酊庵を通してそれを朝鮮国の王朝に伝える、というだけでなく、むしろ江戸の幕閣に伝えて、毅然とした態度を期待したのであろう。
 前の対馬藩主・宗宗義蕃は次のように主張したという。「日本人を打擲するという行為が通信使の一行のなかから出たことは、日本にたいしてはもちろん、朝鮮の法令にも背くことであって、三使(正使と副使と従事官)という身分にとっても恥じ入らなければならないはずである。しかるに、返翰(将軍から朝鮮国王に宛てた書翰)を護送し帰国する使者としてもっとも重要な任務を遅らせ、犯人の首をはねるのを見なければけっして乗船しないなどと主張するのは、誠信の道を忘却し、対馬藩のみならず公儀をも信用しないやりかたで、不敬至極であり、そのうえ、この件の処置をすべて報告せよなどということは、自由千万不埒至極である」(同前)。
 この「自由千万」の「自由」は、わがまま勝手というほどの意味である。
 ここにも芳州の精神と通ずるものが見られる。

 
○「犯諱(はんき)」事件
 しかし結局、幕府は通信使の要求を容れる形で、伝蔵を処刑してしまったわけだが、通信使が強硬な姿勢を崩さなかった背景には、正徳元年(1711)の「犯諱(はんき)」事件があったと思われる。

 正徳元年の通信使については、前にふれた。芳州はこの時、対馬藩を代表する儒学者として応接に当たったわけだが、事件は江戸で起こった。この年の11月1日、朝鮮国王の国書を将軍に奉呈する儀式は滞りなく終わったが、11日に「辞見の式」があり、将軍家宣の返翰を渡そうとしたところ、通信使は受け取りを拒否した。その理由は、かつての朝鮮国王中宗の諱(いみな)の「懌(エキ)」という文字が返翰の中に使われていたからである。
 諱(
いみな)は、「ある人の死後に言う、その人の実名」、あるいは「ある人の死後、その人を尊んでつけた称号」の意味であるが、儒教の文化圏では「実名」を直接に言うことを忌みはばかり、遠慮する風習があった。日本では、相手の実名を直接に呼ぶことは、相手を支配しようとする意志のあらわれと見られていた。またその逆に、自分の実名を告げることは相手の意に従うことだ、と考えられていた。
 昭和の文学者・本庄陸男の「陸男」は「むつお」と読むが、もともと父親は「睦男」としたかったらしい。しかし、明治天皇の諱が「睦仁」であるため、「睦」を避けて、「陸」にした、という。つまり明治天皇の諱を犯すことを避けて、「陸男」としたのである。

 これは近代の例であるが、徳川時代はその発想がもっと強く、そのため、実名を呼ぶことをはばかり、代わりに「通称」で呼んだ。たとえば「大石内蔵助良雄」の場合、現在私たちは「大石内蔵助」と呼んでいるが、「内蔵助」は武家官位を示す、言わば官職名であって、名前ではない。しかし一般には、これを通称に用いたわけである。
 また、「西郷吉之助隆盛」の場合、「吉之助」が通称であるが、現在の私たちは通称を省いて実名で呼んでいる。しかし、当時は「西郷吉之助」で通っていた。
 ところが、明治5年、明治の新政府が戸籍を作成し、「従来通称名乗両様用来候輩(
じゅうらい通称、名乗り、両様もちいきたりそうろうやから)、自今一名タルヘキ事」という方針を定めた。つまり、「西郷吉之助隆盛」のように通称と名乗(実名)を併記してきた者は、どちらか一方だけにせよ、という方針を打ち出した。その結果、現在の私たちは「通称」を失い、「実名」だけの存在となってしまったわけである。

 ともかく私たちの名前にはそんな歴史があるわけだが、朝鮮通信使が往復した時代、国王や身分の高い人の「諱」に使われた文字は、これを文書等に用いることをはばかり、遠慮しなければならない。そういうルールが出来上がっていた。ところが、将軍家宣の返翰の中に朝鮮国王の諱の文字が入っている。これは朝鮮国王の諱を犯すものだ。そう指摘して、通信使は返翰の受け取りを拒んだのである。

 さて、やっかいなことになった。幕府の要人は困惑したであろうが、将軍家宣には、新井白石という博識で知られた、硬骨の文人政治家が仕えていた。当然白石にも相談があったことと思われるが、老中の土屋政直の次のような反論書が、対馬藩主を通して通信使に示された。「礼記』に諱は五世までとあり、中宗は七世前の国王だから犯諱にならず、逆に家光は現将軍の祖父にあたり、朝鮮側も知悉しているのに「光」を犯しているのは不当である。まず朝鮮国書を改めれば、日本の返翰も改めることにし、その交換の地を対馬としたい」(山本博文『対馬藩 江戸家老』)。
 今度は通信使のほうが返答に窮する番だっただろう。『礼記』は李王朝の礼法の規範とも言うべき古典であるが、それを持ち出した上で、このように理路整然たる反論をする。それに対して、さらに再反論することはとうてい不可能だからである。
 この経緯を紹介した山本博文は、対馬藩家老の平田直右衛門が「通信断絶は両国の開戦をもたらすだろう」ことを示唆して、三使を「
脅かした」(『対馬藩 江戸家老』)と説明している。あるいはその種のことを言ったかもしれないが、そもそも土屋政直の反論の段階で、すでに「勝負あった」と言うべきで、通信使はこの反論に服するほかはなかった。いわば藪をつついて蛇を出してしまったのである。

 徳川幕府としては、これで一件落着だったであろうが、三使のほうはそれからが大変だった。朝鮮国王の国書の書き直しを約束させられてしまったからである。山本博文によれば、通信使の一行が漢城(現ソウル)に帰ったのは3月9日のことであるが、一行は直ちに逮捕され、牢につながれて、「辱国の罪」を問われることになった。正使の趙泰億は、書式改変に関しては簡単に同意したわけでなく、強く抵抗したことなどを挙げて、弁明をしたが、国王の容れるところとはならず、趙泰億を始め三使は「削奪官爵、門外黜送(ちゆつそう)」を命じられた。官爵を剥奪され、追放されてしまったのである。

 崔天宗殺害の事件の時、三使が鈴木伝蔵の死刑と、事情説明を求めて譲らなかったのは、この「犯諱」事件の記憶があったからであろう。通信使の随員の一人が殺害された上に、日本側と妥協したと解釈されかねない結果を報告すれば、どんな処分が下されるか。そういう懸念が働いただろうことは、容易に推測できよう。

○鈴木伝蔵の悲運
 他方、幕府側が妥協的だったことについては、色々な事情が錯綜したであろうが、一番の理由は滞在が長びくことへの懸念だったと思われる。朝鮮通信使というのは10人や20人の単位で来訪するわけではない。400人から500人の規模でやってくるわけで、1日延期するだけでも、その経費は馬鹿にならない。交渉がこじれて10日も15日も延期されれば、予定外の出費が嵩み、またその間、どんな事件が起こらないともかぎらず、早期の決着を急いだのである。

 もう一つ、幕府の対応の歯切れが悪かった理由は、鈴木伝蔵の行動が武士としての明快さを欠いていたためであろう。
 徳川時代の武士の規範に照らして言えば、鈴木伝蔵は辱めを崔天宗から受けた、その瞬間に刀を抜いて斬り殺すべきであった。その後は切腹するか、上司のところへ出頭して事情を説明し、処分を待てばよかったのである。また、もし崔天宗から辱めを受けた時、一瞬の躊躇いが働いて、刀を抜く手が動かなかったとしても、その夜殺害に出かけたのならば、たとえ相手に騒がれたとしても、留めを刺して、切腹するか、あるいは上司を呼んでもらい、処置を委ねればよかった。だが彼は逃亡してしまった。逃亡したことで、彼の、武士としての一分が失われてしまったのである。
 おそらくこのために、大坂町奉行所も幕府の高官も彼に対する同情が湧かなかった。対馬藩としても、彼の名誉を守りきれなかったのであろう。

 
 雨森芳州は朝鮮語を学び、また、藩士の子弟に教える学塾を開いた。町人の子弟の中にも学塾に通う者がおり、芳州は〈町人の子弟を藩の通詞に採用してはどうか〉と、藩首脳に提案した。中川延良の『楽郊紀聞』(巻末の跋文は安政7年閏3月、附録「鶏肋集」の跋文は万延元年)は、対馬における様々なエピソードを集めた、貴重な聞き書き集であるが、「小林藤蔵 町人なり 雨森先生晩年の弟子にして」云々と、宝暦の朝鮮通信使の時のエピソードを紹介している(引用は東洋文庫版に拠る)。
 辛基秀の『朝鮮通信使』には、「四月十四日、捕方の大坂町奉行組下の八田五郎左衛門によって捕らえられた伝蔵と道案内をした半助、喜介を西本願寺境内で拷問にかけた結果、伝蔵の犯行と判明」という通信使側の記録が引用されている。しかし徳川時代、武士を取り調べるに際しては、拷問を用いなかった。武士は嘘をつかないという倫理を重んじたからである。
 これは私の推測だが、鈴木伝蔵は相手の留めを刺さずに逃亡するという、武士にあるまじき行動と、町人という出自により、武士身分を剥奪されて処刑されたのではないか。もしそうならば、通詞に抜擢されたことが、伝蔵の悲運の始まりだったのである。

 
 なおこの事件は大坂の町人の関心を呼び、並木正三の『世話料理鱸包丁(せわれうりすずきはうちやう)』(明和4年)。初代並木五瓶の『漢文韓文手管始(かんぶんかんもんてくだのはじまり)』(寛政元年)。近松徳三と辰岡万作の『けいせい花大湊(はなのおほみなと)』(寛政8年)などに演劇化されている。

○「日英修好通商条約」の場合
 さて、随分長い回り道をしてしまったが、以上の経緯を通観しただけでも、「領事裁判権(
治外法権)」が孕んでいる微妙な難しさが推測できるだろう。二つの国における「罪」の概念に大きな違いがある。しかも刑罰の与え方も異なっていたからである。
 李王朝の朝鮮国においては、朝鮮国の女性が日本国の男と性的な関係を持つことは、斬罪に相当する「犯罪」だったわけだが、日本国においては、日本国の男が朝鮮国の女性と性的な関係を持ったからといって、処罰に価するほどの「罪」だとは考えられていなかった。雨森芳州たちが、白水源七に「罪」ありと判断したのは、かねて対馬藩主が「朝鮮国が禁じていることは、対馬藩士であってもその法を犯さないように」と申し聞かせていたにもかかわらず、それを無視したからであって、朝鮮国の「法」を犯したからではない。だからこそ、芳州たちは、朝鮮国の「罪」観念に配慮する形で、白水の身柄引き渡しの要求に応ずることにはしたが、しかし「よもや死罪にはしないでしょうね。こちらにはそれなりに責任を取らせる方法を考えていますが」と釘を刺すことを忘れなかったのである。

 この交渉を頭に置きながら、徳川幕府が欧米諸国に対して横浜をはじめ、幾つかの港を開いた時期の状況を考えてみよう。当時の幕府は依然として日本人がキリスト教に入信することを禁じ、この禁令を破った者には厳罰を課していた。これは欧米の人間にとってはとうてい理解しがたく、受け入れがたい「罪」観念であっただろうが、かりに横浜で欧米の人間と接触した日本人がキリスト教に入信した場合、日本の役人が入信した日本人を拷問にかけた上で、斬罪の刑に処し、その欧米人の引き渡しを要求したら、どうなるであろうか。
 安政5年(
1858)7月に結ばれた「日英修好通商条約」の中で、このような問題に対処する条文と、居留地内で起こるだろう事件に対処するための条文は次のようであった。
《引用》

第九条
在留の貌利太泥亞人(
ブリタニア人)自ら其国の宗旨を念し、拝所を居留の場所に営む事障(さまたげ)なし。
第四条

日本に在る貌利太泥亞臣民の間に起る争ハ、貌利太泥亞司人の裁断たるへし。
第五条
貌利太泥亞臣民に対し悪事をなせる日本人は、日本司人にて糺し、日本法度に随て罪すへし。

日本人或は外国の臣民に対し悪事をなせる貌利太泥亞臣民は、コンシユル(Consul
或は其他の官人にて糺し、貌利太泥亞の法度に随て罪すへし。裁断ハ双方において偏頗(
へんぱ)なかるへし。
第六条
貌利太泥亞人、日本人について訟へきことあらハ、コンシユル館に赴き其旨を告へし。コンシユル吟味の上、実意に処置すへし。万一差かゝり日本人より貌利太泥亞人に就てコンシユルへ訟へを為す事あるとも、又コンシユル実意に処置すへし。若コンシユル是を処置しがたき時ハ、日本司人へ申立、倶に吟味し、当然の判断をなすへし。
第七条
貌利太泥亞人、日本商人に逋債(ほさい)ありて償ひを怠り、又は奸曲ある時は、コンシユルこれを裁断して厳重に償ハしむへし。日本商人の貌利太泥亞人に逋債あるも、日本司人これを処置するハ同様たるべし

日本奉行所、貌利太泥亞コンシユルハ、双方の国人の逋債を償うことなし句読点は亀井

 先ほどキリスト教の例を挙げたので、ここではまず先に第九条を引用したわけだが、その文言から分かるように、居留地内でイギリス人がその信ずる宗教を守り、拝所(教会)を建てて礼拝を行うことは、これを許す。そういう形で、イギリスと日本は合意したのである。

 その上で、第四条以下を見てゆくならば、実はここには「不平等条約」と見なすべき文言は見られない。もし不平等な点を挙げるとすれば、それは、日本人がユナイテッド・キングダムの領土に居住する場合を想定した条文が欠けていることであるが、これは徳川幕府がそのような事態を想定していなかったためであろう。
 そして一般に「日英修好通商条約」が「不平等条約」だったと見なされる理由の一つは、第五条のように「領事(
コンシユル)裁判権」を認めたことであるが、すでに何回も指摘したように、「罪」概念が大きく異なり、その罪に対する刑罰の軽重の基準も大きく異なっていた時代、〈イギリス人の犯した「罪」の糺明と処罰はイギリス領事に委ね、その代わりに日本人の犯した「罪」は日本の司法役人の糺明と処罰に委ねる〉という協定は、双方にとって必要な、それなりに合理性の高い協定だったと言えよう。

 もちろん、この条約が発効した後、明らかに日本の「法」に照らして不正を働いたイギリス人がイギリス領事館を頼り、イギリス領事がその人間を庇って、日本の司法役人に引き渡すことを拒む。またその逆に、日本人がイギリス人に働いた不法行為の処罰を強硬に要求する事態が起こって、明治政府は、たとえ居留地内であっても日本国が主権を持たなければならないことに気がつくわけだが、実はそれに対応するため、
《引用》

第二十二条
両国にて条約の実地を験し改革せん事を求むる時は其一年前に通達して再験を為すへし。其時ハ今より凡十四年の後にあるへし
同前

という条項を設けたのである。
 しかし、条約の改定が議題に上り得るのは14年後のことであり、しかもイギリスが同意しない限り条約改定の協議には入れない。「日英修好通商条約」が不平等条約だったと言われる理由はここにあったのである。

 明治政府は明治3年(1870)、「新律綱領」によって徳川時代からの刑法の整理を行ったが、ここにはまだ身分によって刑の軽重を定める身分制度が残っており、また、「笞」「杖」などの体罰や、「流」「斬」など流刑や斬首の刑法が残っていた。だが、それを改めた明治6年(1873)の「改定律例」では、死刑以外の刑罰は基本的には禁固刑であった。もちろんこれは国内向けの刑法の整備であったが、条約改正をも睨んだ法整理だったと言えるだろう。なぜなら、欧米人の目に「野蛮」と映る、残酷な体罰や斬首の刑を止め、――もっとも、欧米にはまだリンチを黙認したり、公開の絞首刑を行う国もあったのだが――「禁固」刑に服させた衆人に「労役」をさせ、精神の「矯正」をはかるという、この近代的な刑法を採用することで、欧米諸国から日本における司法と刑法に関する信頼を得る。そうすることによって条約改正をより容易にしたい、という意図が窺われるからである。

○「日朝修好条規」の場合
 以上のことを確認して、明治9年(
1876)2月に締結された「日朝修好条規」に眼を転じてみよう。
《引用》

第十款
日本国人民、朝鮮国指定ノ各口(
各港)ニ在留中、若シ罪科ヲ犯シ、朝鮮国人民ニ交渉スル事件ハ、総テ日本国官員ノ審断ニ帰スヘシ。若シ朝鮮国人民罪科ヲ犯シ、日本国人民ニ交渉スル事件ハ、均シク朝鮮国官員ノ査弁ニ帰スヘシ。尤(もっとも)双方トモ各国律ニ拠リ、毫モ回護袒庇(たんひ)スルコトナク、務メテ公平允当(いんとう)ノ裁判ヲ示スヘシ。
第八款
嗣後、日本国政府ヨリ朝鮮国指定各口ヘ、時宜ニ随ヒ日本商民ヲ管理スルノ官ヲ設ケ置クヘシ。若シ両国ニ交渉スル事件アル時ハ、該官ヨリ其所ノ地方
長官ニ会商シテ弁理セン句読点は亀井

 この第十款が「日英修好通商条約」の第五条に相当するわけで、基本的な差異を見出すことはできないが、先ほど指摘したように、「日英修好通商条約」は日本人がユナイテッド・キングダムの領地内に居住することを想定していなかった。だが、この「日朝修好条規」には、「日朝修好条規附録」という附録があり、その第五款は、「議定シタル朝鮮国各港ニ於テ日本国人民ハ、朝鮮国人民ヲ賃雇スルヲ得ヘシ。朝鮮国人民其政府ノ許可ヲ得ハ、日本国ニ来タルモ妨(さまたげ)無シ」(同前)となっていた。
 つまり、朝鮮国人が日本の居留地に居住することを認めたのであり、事実『横浜毎日新聞』の明治11年6月19日の記事には、「
神戸港在留の朝鮮人はこの頃しきりに我が商人より小銃を買い込み、既に一万七千挺の多きに至れりと」とある。条約が発効して間もなく、朝鮮国人が商売に渡ってきていたのである(引用は『明治ニュース事典Ⅱ』に拠る)。
 その点で「日朝修好条規」は、「日英修好通商条約」を改善する方向にあったと言えるだろう。

 ただし、この「日朝修好条規」には領事裁判権に関する規定がない。それを条約締結の過程に即して説明すれば、日本は領事に相当する日本人を漢城に駐在させたい意向を持っていたが、朝鮮国側がその必要を認めないと反対したため、日本が譲歩して、領事を置くことを諦めた。その意味で、そもそも「日朝修好条規」には領事裁判権を認める条文なぞなかったのである。
 とはいえ、居留地で日本人と朝鮮国人、または日本人同士の間でトラブルが発生したとき、その扱いを誰に委ねるか。この問題は依然として残る。それに対応するのが、第八款であった(
ただし朝鮮国には、外国に住む自国民を保護するという発想がまだなかったらしく、神戸などの居留地に「朝鮮商人を管理するの官」を設置したという記録はない)。

 さらにもう一点、「日朝修好条規」そのものに不条理、不都合なところが見つかった場合、どう解決するか。それに対応するものとして、「日朝修好条規附録」の第十一款は、「(前略若シ両国人民交際貿易上実地ノ障碍ヲ生シ、改革セサル可カラサル事柄ヲ認ムル時ハ、両国政府其議案ヲ作リ、一箇年前報知シテ協議決定スヘシ」(句読点は亀井)となっていた。これを見ると、議案を通知してから一年後の協議に入ることになっており、その点は「日英修好通商条約」の第22条と同じであるが、「日英修好通商条約」では少なくとも14年間待たなければ、条約改正の問題を提起することができなかった。それに対して「日朝修好条規」にはその制限がない。随時問題を提起し、1年後には協議に入ることができる。その点では、「日英修好通商条約」の制約を緩和したものと言うことができるだろう。

○「平等」への志向
 以上の検討で分かるように、「日朝修好条規」は「日英修好通商条約」と同等、あるいはそれよりももっとひどい不平等条約だった、という通説は改められなければならない。むしろ「日英修好通商条約」の不平等性を緩和し、改善する意図が読み取られる条約だったのである。
 これを徳川時代からの経緯に照らして見るならば、明治の政府はこの条約締結をきっかけに、自国の国民の裁判と処罰に関する干渉を排除し、裁判と処罰権を平等(even)なものに持って行こうとしたのだ。そう言って差し支えないであろう。

○「砲艦外交」の問題は先送り
 なお、前回私は、今回「砲艦外交」と「押しつけ」の問題を取り上げることを予告して置いた。しかし、今回もかなり長くなったので、次回に廻したいと思う。

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