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「日朝修好条規」は不平等条約か?――150年前のTPP問題――

「日朝修好条規」は不平等条約か?
――150年前のTPP問題――
マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(6)

○新たな疑問
 徳川幕府が安政5年(1858)の7月、イギリスと結んだ「日英修好通商条約」は日本の国家主権を侵害する条文を含む、不平等条約だった。続いて日本は欧米諸国と条約を結んだわけだが、いずれも不平等な条約だった。ところが、明治の新政府は明治9年(1876)の2月、朝鮮国の李王朝と「日朝修好条規」を結んだが、これも不平等条約だった。日本は欧米の列強から強いられた条約を、今度は朝鮮国に強いたわけである。
 日本の近代史に関する歴史家の通史を読んでいると、揃いも揃ってこのようなことが書いてある。いや、日本が欧米の列強から強いられた不平等条約よりも、もっとひどい不平等条約だった。そんなふうに書いている歴史書もある。

 実は私も大体はそういうことだったのだろうと思っていた。「日英修好通商条約」のどの点が不平等だったか、自分なりに理解していたつもりだったからである。
 しかし、待てよ……。「日朝修好条規」は本当に不平等条約だったのだろうか。ダーハム・ホワイト・スティーブンス(Durham White Stevens)のことを調べているうちに、そんな疑問が湧いてきた。前回紹介したように、スティーブンスは日本政府に外交顧問として雇われて、不平等条約撤廃のために協力し、明治37年(1904)からは、日本政府の推薦で大韓帝国の外交顧問となった。この年の8月22日に、日本と大韓帝国とが結んだ「日韓協約」(「
第1次日韓協約」)に、「一、韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人1名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ニ詢ヒ施行スヘシ」という1項があったからである。
 もし「日朝修好条規」が不平等条約だったならば、スティーブンスがそれを問題としなかったはずがない。私はそう考えてみた。〈いや、スティーブンスは日本政府が大韓帝国に送り込んだ、日本の手先であり、そんな男が日本に不利なことを取り上げるはずがない〉。そういう反論もあり得るだろう。だが、そんなふうに物事のウラを見透かしたような、わけ知り顔の結論を急ぐ前に、次のように考えてみる必要があるのではないか。つまり、スティーブンスの眼に「日朝修好条規」は不平等条約とは映らなかった、あるいは、大韓帝国の中に「日朝修好条規」を不平等条約とする認識はなかったのではないか。

 そういう疑問もあって、今回は条約を検討してみることにした。

○不平等条約の「不平等」とは?
 日本がイギリスをはじめ、欧米諸国と結んだ修好通商条約には「不平等」な取り決めが二点あった。一つは「治外法権(領事裁判権)」にかかわる問題、もう一つは「関税自主権」にかかわる問題であるが、前回と同様に引用が長くなりそうなので、今回は「関税自主権」にかかわる問題にしぼって検討してみたい。

 まず、安政5年(1858)の「日英修好通商条約」の条文を見ておこう。その中で「関税自主権」に関連する条文は、次の第10条と第14条の二つだった。
 なお、条文中の「貌利太泥亜」は「ブリタニア」と読み、現在でいう連合王国(United Kingdom)、通称イギリスを指す。また、「運上」は、一般には税関に収める関税、つまり輸出入税と理解されているが、果たしてそう言えるかどうか、判断がむずかしい。その点を念頭に置いて読んでもらいたい。
《引用》
第10条
外国の諸貨幣ハ日本の貨幣と同種の同量を以て通用すべし。
双方の国人互に物価を払ふに日本と外国との貨幣を用ふる事妨(
さまたげ)なし。
日本人、外国の貨幣に慣ハされは、開港の後凡(
およそ)1ケ年の間、各港の役所より日本の貨幣を以て貌利太泥亜人(ブリタニア人)願次第引替渡すへし。鋳直しの分割ハ差出すに及はす。
日本諸貨幣ハ銅銭を除く輸出する事を得。并(ならびに)外国の金銀ハ貨幣に鋳るも鋳ざるも輸出すへし。

第14条
貌利太泥亜開たる各港に諸品物を輸入し売払又ハ買入れ輸出する事自由なるへし。
制禁外の品物、規定の運上納済之上は其他の運上を払ふ事なし。

軍用の諸物、日本役所の外へ売へからす。尤(もっとも)外国人互の取引は差構(さしかまえ)ある事なし。
双方の国人、品物を売買する事、総て障なく、其払方等に就てハ日本役人これに立ち合ハす。諸日本人ハ貌利太泥亜人より得たる品を売買し或は所持する事、倶に妨なし
振り仮名、句読点は亀井

 これを見るかぎりでは、「不平等」はどこにもなかったように見える。
 ただ、第10条の「
外国の諸貨幣ハ日本の貨幣と同種の同量を以て通用すべし」に関して言えば、当時、西洋列強が貿易に用いた硬貨はメキシコ・ドルだった。日本ではこれを「洋銀(だら)」と呼んでいたが、この時の取り決めでは、メキシコ・ドル(銀貨)1枚を、日本の一分銀(いちぶぎん)3枚と交換することになっていた。
 ところが、徳川幕府の定めによれば、金1両は一分銀4枚に相当した。これは一分銀における銀の含有量と、小判1枚における金の含有量の問題がからんでくるので、計算がややこしくなるのだが、それを省略して言えば、日本では金に対する銀の価値が割合に高く、金と銀との比価は金1に対して銀は5・75だった。他方、当時の国際的な金と銀との比価は、金1に対して銀15だった。つまり、金を基準としてみた場合、国際的な銀の値は日本の銀の3分の1程度でしかなかったのである。
 このことから分かるように、当時のイギリス人やアメリカ人が横浜でメキシコ・ドル20枚を日本の一分銀60枚と交換し、その一分銀60枚を小判と交換するならば、小判15枚を手に入れることができる。それを香港や上海の持って帰るならば、メキシコ・ドル20枚の3倍近い値段で売りさばくことが出来る。また、小判を鋳つぶして「金」だけを取り出さなくても、日本の小判は骨董品として悦ばれ、高い値段で取引されたという。
 おかげで、イギリスやアメリカの商人は硬貨を交換するだけで、濡れ手に粟の大儲けができたわけだが、逆に日本では、小判がどんどん外国に流出して、日本国内の貨幣価値が大混乱に陥ってしまった。

 ただし、これは外国と日本では金と銀の比価が大きく異なっていた結果であって、条約そのものが「不平等」だったわけではない。

○運上金のからくり
 では、「不平等」はどこにあったのか。
 この「日英修好通商条約」には、「日本開きたる港々におゐて貌利太泥亜商民貿易の章程」という税則がついており、第七則は次のようであった。
《引用》
惣て(すべて日本開港の場所へ陸揚する物品には左の運上目録に従ひ其地の運上役所に租税を納むへし。
第一類

 貨幣に造りたる金銀并(ならびに)に造らさる金銀
 当用の衣服家財并に商売にためにせさる書籍
   何れも日本居留のため来る者の所持の品に限るへし。
 右の品々は運上なし。

第二類
 凡て(
すべて)船の造立綱具修復或ハ船装のための用ゆる品々、鯨漁具の類
 塩漬食物の諸類

 
パン并にパンの粉
 生きたる鳥獣類
 石炭
 家を造るための材木、米穀、蒸気の器械
 トタン、鉛、錫、生絹
  右の品々は五分の運上を納むへし。

第三類
 都て(
すべて)蒸留或ハ醸し種々の製法にて造りたる一切の酒類
  右は三割五分の運上を納むへし。
第四類
 凡て前条に挙さる品々ハ何に寄らす弐割の運上を納むへし
 金銀貨幣棹銅の外、都て日本に産し積荷として輸出する品物は五分の運上を納むへし
 米并麦は日本逗留の貌利太泥亜人、并に船々乗組たるもの、及船中旅客食料のための用意は与ふとも、積荷として輸出する事を許さす。

 
貌利太泥亜船にて開きたる港に持わたりし外国の穀物、もし陸上けせさる時は故障なく再び輸出すへし。
日本産する所の銅は日本要用の余分あれハ其時々公けの入札にて売渡すへし。
 神奈川を開港の後五ケ年に至り、日本或ハ貌利太泥亜政府の望みにて出港入港の税則を再議すへし
振り仮名、句読点、太字は亀井

 要するに、イギリスから日本へ品物を持ち込む(陸揚げする)際には5分(5%)の運上金(税金)を納めなければならないが、逆に日本の物産品をイギリスへ持ち出す(日本から輸入する)際にも5分の運上金を納めなければならない、というわけで、現在の消費税程度の税金を納めればよい。いわば条件は対等だったのである。
 ただし、「
第三類」で分かるように、イギリスからお酒の類を持ち込む場合には3割5分の運上金を納めなければならない。また「第四類」で分かるように、「第二類」に列記した基本的な生活資材以外の品物を日本へ持ち込む際には、2割の運上を納めなければならなかった。それに対して、日本の物産品をーー金銀貨幣棹銅は除くーー持ち出す際には一律に5分の運上金で済んでしまう(「第四類」)。
 これをいまイギリス商人の側から見れば、基本的な生活資材以外の物品や酒類に関しては20%、または35%の運上金を幕府(日本)に納めなければならず、その点だけを見れば負担はかなり大きい。しかし、いったん横浜に陸揚げをして、日本の商人に売りさばく場合は、運上金を加算して売ることができる。その逆に、日本の物産品を持ち出す場合には僅かに5%の運上金を払うだけで、それをイギリス本国に持ち帰るならば、最低でも5%の運上金と輸送費とを加算して売りさばくことができる。これはずいぶん割の良い商売だったと言えるだろう。
 またこれを日本の商人の側から見るならば、イギリスからの輸入品は割高な値段で引き取らなければならなかったが、日本の物産品に関して言えば、日本国内の相場よりもやや高めの値段でイギリス商人が引き取ってくれるならば、喜んで売り渡した。その意味では日本の商人にとってもうま味のある商売だったわけだが、日本全体から見れば、日本の物産品がどんどんと海外に流出して、国内では品不足、深刻なインフレを招いてしまった。この点で、「日英修好通商条約」は「不平等な条約」だったのである。

○「税関自主権」を失うとは?
 おそらく当時の幕府は、港湾使用税と輸出入税とを区別せず、一括して「運上」と呼んだのであろう。イギリスから貿易船が入港して、物資を陸揚げするに際しては相応の運上金を徴収する。その貿易船が日本の物産品を運び出す際にも税金を頂戴する。「これは悪い話ではないな」という程度の認識だったと思われるが、いざ貿易が始まってみると、国内では深刻なインフレがはじまった。おまけに国際的な金相場や銀相場を知らずに結んだ硬貨交換の条約のために、貨幣価値も大混乱に陥ってしまい、この二重の国内不安のため、日本人の間に攘夷感情が高まっていった。
 これはまずい!! そこで幕府は手を打とうとしたのだろうが、硬貨交換の比率についても、運上のパーセントについても、すでに条約の中に盛り込んでしまっていた。せめて日本からの輸出だけに関しては、運上のパーセントを上げて、物産品の流出を食い止めたいところだが、相手国イギリスの同意がなければこれを変えることができない。つまり、徳川幕府だけの判断では税率を決めることができなかったのである。
 「関税自主権」を失うとは、このように、主体的に税率を決める権利を失ってしまうことなのである。
 
 その後の日本歴史を思い切り単純化して言えば、このことから醸成された攘夷気分に「尊皇」というイデオロギーが吹き込まれ、「倒幕」という武力闘争が始まり、「王政復古」の政変に至った。そういうふうに進んでいったわけである。


 
○「日朝修好条規」における自由貿易主義
 さて、それでは、「日朝修好条規」ではどうであったのだろうか。安政5年(1858)の「日英修好通商条約」から18年後、明治9年(1876)2月に、日本の政府が朝鮮国と結んだ「日朝修好条規」の、通商に関する条文は次の如くだった。
《引用》
第9款
両国既ニ通好ヲ経タリ、彼此(
ひし)ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ。両国官吏毫モ之レニ関係スルコトナシ。又貿易ノ制限ヲ立テ、或ハ禁沮スルヲ得ス。?両国ノ商民、欺罔衒売(ぎもうげんばい)、又ハ貸借償(つぐの)ハサルコトアル時ハ、両国ノ官吏、厳重ニ該逋(ホ。逋=逃)商民ヲ取糺(とりただし)シ、債欠ヲ追弁セシムヘシ。但シ両国ノ政府ハ之ヲ代償スルノ理ナシ振り仮名は亀井

 ここには、輸出入の品目に応じた運上のカラクリはなく、硬貨交換に関する仕掛もない。つまり如何なる意味でも「不平等」な点はなかった。「彼此ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ」と、文字取り自由貿易を保証、奨励する、「平等」な条約だったのである。


 
○山辺健太郎の解釈
 もっとも、山辺健太郎の『日韓併合小史』(
岩波新書、1966年)によれば、この条文の背後には、「無税」という取り決めがあったことになるらしい。
 というのは、この明治9年7月、「日朝修好条規」に基づく、「修好条規付録」と「通商章程」に関する交渉が行われたが、日本の代表たる宮本小一理事官が朝鮮国の代表・趙寅煕に送った書簡の中に、「
我人民ノ貴国ニ輸送スル各物件ハ我海関ニ於テ輸出税ヲ課セス。貴国ヨリ我内地ヘ輸出スル物産モ数年我海関ニ於テ輸入税ヲ課セサル事ニ我政府ノ内議決定セリ句読点は亀井)」という文言が見られるからである。
 ただし、これを一読しただけでは、〈なあんだ、これって、先の「修好条規」と同じ事を言ってるだけじゃないか〉と感ずる読者も多いだろう。実際その通りであって、宮本が言う「我海関」とは、日本の開港場の税関(
カスタム ハウス)を指す。つまり宮本は、〈日本の開港場から貴国へ輸出する物品には税金をかけることはしない、また、貴国が日本へ輸出する物品にも税金をかけることはしない、と日本の政府は決定しました〉と通告しただけだったのである。
 だが、山辺健太郎の見るところ、先の「修好条規」では「
彼此ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ」と、何の制約も設けていなかったのだが、ここでは「税をかけない」というしばりを掛けたことになる。日本政府は、「相手(朝鮮国)の国際条約、ことに関税問題の無知につけこんで、輸出入税をかけない」という条件を認めさせてしまった。山辺健太郎はそう解釈したのである。

○TPP問題になぞらえて見れば
 何だかアクロバットみたいな理屈に思えるかもしれないが、純粋に条約問題としてだけで見れば、これは極めて重要な論点だった。そのことは現在のTPPの問題を考えてみればよく分かるだろう。TPP推進派は、いわば「
彼此ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ」の側面を強調してバラ色の未来を描いて見せたわけだが、TPP反対派はそこに「税をかけない」というしばりが掛かっているならば、日本は「関税自主権」を失うことになりはしないか。そう懸念しているわけである。

○「不当課税事件」
 ただし、果たして山辺健太郎が言うように、宮本理事官の書簡の文言が条約に等しい効力を持ち、朝鮮国から「自主関税権」を奪う結果をもたらしたかどうか。その点の判断材料を山辺健太郎は示していない。
 おそらく山辺健太郎が先のように解釈した時、彼の頭にあったのは、「釜山開港後まもなく起こった輸出入問題」だっただろう。彼は書いている。
《引用》
 
ところが釜山開港後まもなく輸出入問題でひと騒ぎがおこった。釜山での輸出入が無税にきまったてんまつはさきに書いたが、そのご朝鮮政府もようやくこの不合理に気がついた。しかし税関を設置して輸出入品に課税することは、宮本理事官が趙寅煕にあてた公文が条約と同じ効果があるという取極(ママ)からできない。そこで朝鮮政府は、輸出入商品をあつかう朝鮮商人に課税することにしたのであるが、これにたいして釜山在留の日本商人が反対して大騒動をおこした。これにたいして日本政府は、軍艦比叡を派遣し、陸戦隊を上陸させ、軍艦も発砲演習をして朝鮮政府に抗議したため、朝鮮政府もやむを得ず譲歩してこの課税を取り消したのである。この事件をこれまでの歴史では不当課税事件といっているが、不当なのはいったいどちらの側だったのであろうか。

 山辺健太郎は日本政府のほうが不当だったのだ、と言わんばかりに憤慨をして見せている。だが、条約問題のレベルで見る限り、もちろん朝鮮国政府のほうが不当だった。なぜなら、「修好条規」には、「彼此ノ人民各自己ノ意見ニ任セ貿易セシムヘシ」とあり、たとえ自国の商人だけに課税したのだったとしても、課税すること自体が自由貿易の取りきめに反する干渉、あるいは介入だったからである。
 彼は、宮本理事官が趙寅煕にあてた書簡は条約に等しい効力を持ち、朝鮮国政府から実質的に「自主税関権」を奪っていたのだ、と解釈したわけだが、そんなふうに持って回ったウラ読みをするまでもない。朝鮮国政府のやったことは「修好条規」の一方的な破棄に等しい行為だったのである。
 
 おまけに山辺健太郎は、なぜ「
朝鮮政府は、輸出入商品をあつかう朝鮮商人に課税することにした」ことが、「これにたいして釜山在留の日本商人が反対して大騒動をおこした」という結果を招いたのか、その間のつながりを説明していない。肝心なところを飛ばしてしまい、どうも彼の説明はすっきりとしない。

○「関税自主権」は平等
 そんなわけで、いま山辺健太郎が飛び越えてしまったプロセスを補うことにし、まず宮本書簡について言えば、宮本理事官が〈日本の政府は、貴国との輸出入は無税とすることに決定した〉と通知し、それに対して朝鮮国の代表・趙寅煕が〈わが国の政府も、貴国との輸出入は無税とすることにした〉と答えて、両者の合意が成立した。
 山辺健太郎はこのことを指して、「条約に等しい効力」をもつ合意事項と見、日本が朝鮮国の「関税自主権」にしばりを掛けた、あるいは「関税自主権」を奪ったと解釈したらしいのだが、もしそういう見方をするならば、日本政府もまたみずからの「関税自主権」にしばりを掛け、あるいは放棄をしている。
 つまり、あくまでも対等、平等の原則を守っていたのである。
 
 このような問題を考える場合、もともと条約とはお互いの意志にしばりを掛け合うことだ、という原則を忘れないことだろう。重要なのは、お互いのしばりが対等、平等であるか否かであって、しばりを掛け合うこと自体が不当だと言うのであれば、条約は成立しなくなってしまうだろう。

○平等が露呈させた不均衡
 ただし、このことは直ちに〈両国の商人の挙げた収益はバランスか取れており、平等だった〉ということを意味しない。

 先ほど私は、山辺健太郎の説明では、なぜ「朝鮮政府は、輸出入商品をあつかう朝鮮商人に課税することにした」ことが、「これにたいして釜山在留の日本商人が反対して大騒動をおこした」という結果を招いたのか、一向に要領を得ないことを指摘しておいた。
 そこのところを、当時の新聞記事を参考にしながら、私なりに説明するならば、『東京日日新聞』は明治11年10月26日の記事で、朝鮮国から日本への主な輸出品は牛皮、牛骨、海草類であり、日本からの主な輸入品は天竺木綿、金巾、木綿などであるが、朝鮮国政府はこの年(
明治11年)の9月から、税を課すようになった。例えば牛皮100斤(原価、朝鮮銭にて6貫500文。日本通貨にて10円位)については1貫文、また天竺木綿1疋(朝鮮買値段1貫250文位にて、我が2円50銭位)については300文という重い税を課している。つまり朝鮮国から輸出する牛皮の税率は約15%、日本から輸入する天竺木綿の税率は約24%だったわけだが、「朝鮮(ママ)はこの税を納むることあたわず、日本商人に売らんとて、内地より釜山に持ち出したる牛皮等も、皆支那地方に向って運搬し、日本より舶載せし木綿類も更に買い入れず、貿易はために廃絶してほとんど禁止のごとき景況」(引用文の仮名づかいは毎日コミュニケーションズ刊『明治ニュース事典 Ⅱ』に拠る。以下同じ)を呈するに至った。

 この文中、いきなり「支那地方に向かって運搬し」云々という言い方が出て来て、ちょっと分かりにくかったかもしれない。
 その点について、『東京日日新聞』が明治12年1月15日の記事でこんなふうに説明している。もともと朝鮮国は、日本の徳川時代から対馬の大名・宗氏と交易して輸出入の税を取り、他方、支那との交易場である義州の港では、現在も輸出入税を取っている。ところが明治9年、日本と新たに条約を結び、釜山港の貿易はいっさい無税としたため、釜山港は大いに繁昌したが、義州の交易は衰微してしまった。そのため義州の官吏が地元の苦情を訴えて、釜山港でも従来通り収税してもらいたい旨の上申書を出し、「
政府は何の分別もなく直ちにその上申を採用した」ため、釜山港でも収税が行われることになったわけである。
 その結果釜山港の貿易は急速に衰え、このため「
釜山浦在留の日本商人が貿易の衰微を訴え、苛税の廃止を請わんがために党を結び、隊を成して東?府庁に押しかけ、その途中に於いて韓民と腕力の争闘に及びたるに発成(ママ)してついに我が政府の問う所となり」、外務大書記官花房義質が派遣されることになった……。

 
 ただし、徳川時代を通じて、釜山の東萊府(李王朝の地方行政機関。日本での呼び名は「倭館」)における交易の主体は東萊府と対馬藩であって、その実態は、朝鮮国からは朝鮮人参や虎皮な、対馬藩からは銀や硫黄、蘇木や胡椒などを渡す、物々交換的な交易だったらしい。対馬藩は朝鮮人参を日本国内で売りさばいて藩財政をまかない、李王朝は対馬藩から手に入れた銀を、清王朝に対する朝貢に使ったと言われている。
 この公の交易に付随する形で、民間の商人の貿易も行われたが、色んな制限が設けられ、一国一藩の経済に影響を及ぼすような金額には至らなかった。
 このように250年、あるいはそれ以前から続いてきた交易は、日本が明治の時代に入って途絶えてしまう。その原因は、一般的には、明治政府が李王朝に送った「書契」(外交文書)で「皇上」という称号を用い、李王朝が反発して「書契」の受け取りを拒否したためだ、と言われている。
 だが、石田徹の論文「明治初期日朝交渉における書契の問題」によれば、それだけではなかったらしい。明治の新政府は対馬藩を通して、李王朝に、日本の政体が変わったことを伝えることにした。対馬藩はその意向を受けて、まず〈日本では徳川氏の時代が終わり、新しい外交の仕方がこう変わりますから、ご了解下さい〉という意味の文書を、東?府に届けたわけだが、その文書の差出人の官職・名前は「日本国左近衛少将対馬守平朝臣義達(たいらのあそんよしたつ)」となっており、しかもその中で〈これまで書契に使ってきた「図書」を止め、こちらで新たに造った「印」を用いることにします〉という意味のことが述べられている。東?府に駐在していた李王朝の役人は、この文言を見て態度を硬化させてしまったのである。
 ここでいう「図書」とは、朝鮮国王が対馬島の島主である宗氏に与えた銅印のことで、勘合印としても使われた。つまり、この「図書」は宗氏が朝鮮国王に呈する公式文書に押印すべき銅印であって、これを廃するとは、朝鮮国王の「厚誼」を無にするに等しい。しかも、対馬の島主が朝鮮国王に呈する文書には、「日本国対馬州太守平義達(たいらのよしあきら)」であった。日本国内に政変があり、日本の国内事情で官職が「日本国左近衛少将対馬守平朝臣」と変わったのかもしれないが、そんなことはこちらのあずかり知らぬことだ。まず従来通りの官職氏名を記した「書契」を届けるのが筋というものだろう。言わばそんなふうに腹を立て、対馬藩が日本の朝廷の命によって派遣した、公式の使者・大修大差使の樋口鉄四郎がもたらした大差使書契の受け取りを拒否してしまったのである。

 
 さて、少し回り道をしてしまったが、以上のような事情で両国の交易は途絶えてしまい、その後は日本側の働きかけで交易を再開する外交交渉が試みられたが、その都度、いわばメンツの問題で暗礁に乗り上げてしまった。そうこうしているうちに、明治8年9月、江華島事件が起こり、明治9年2月に「日朝修好条規」が結ばれたわけだが、すでに指摘したように、それは「貿易のことはいっさい民間に任せる」という画期的な取り決めだった。
 
 こうして新たな形の交易が始まったわけだが、主導権を握ったのは日本の商人だっただろう。日本の商人は徳川時代を通じて、複数の藩(国)にまたがる交易に習熟しており、郵便制度や為替制度を発達させていた。もちろん貨幣経済にも長けていた。幕府が発行する通貨(硬貨)の質もそれなりに安定していた(通貨の質が安定していたからこそ、欧米の商人によって一両小判を買い占められる事態が起こったのである)。これらの点で、当時の朝鮮国の商業や交易のレベルは日本に及ばなかった。もちろんその背後には政治制度と産業システムの違いがあった。
 この違いが貿易収支の不均衡を生み、朝鮮国の政府としては何とかその不均衡を是正しようと、自国の商人に加重な税金を掛けることになったわけだが、しかしこういうことが起こったのは、決して「日朝修好条規」が不平等条約だったからではない。むしろ平等な条約であったがために、かえって生産力の違いや国政システムの違いが端的に露呈してしまったのである。
 
 現在話題になっているTPPの問題は、以上のような点を視野に入れて慎重に判断すべきこと、言うまでもない。

○朝鮮国政府の擁護論
 当時の『東京日日新聞』を見ていくと、朝鮮国政府の課した税は保護税ではないか、という見方があった。日本が欧米に対して保護税を行おうと言うのであれば、朝鮮国政府が日本に対して保護税を行うことを非難するのは筋違いじゃないか。そういう擁護論だった。
 だがそれに対しては、〈もし朝鮮国の課税が保護税であるとするならば、釜山港における日本との貿易のみに適用し、支那貿易をそのままにしておくのはおかしいじゃないか〉という反論があり、〈朝鮮国には依然として外交拒否に感情が根強く、これもそのあらわれではないか〉という意見もあって、朝鮮国擁護の保護税論は強い力を持ち得なかったらしい。
 
 しかし何はともあれ、釜山に居留する日本人商人が徒党を組んで東?府へ押しかけ、その結果また国交断絶という事態に逆戻りすれば、せっかくの苦心も水の泡となってしまう。
 そういう事態を防ぐためには、一方では日本人商人の行動を抑え、他方では課税問題を両国間の外交問題として設定し直す。その意図をもって、日本の政府は外務大書記官の花房義質を送ったのであろう。

○次回のテーマ
 「関税自主権」に関する私の理解は以上の如くであるが、〈しかし、亀井が言う「平等」は所詮条文上の見せかけにすぎず、もともと「日朝修好条規」は日本が砲艦外交によって朝鮮国の李王朝に強制したものだった。この経緯から見て「平等」はあり得なかったのではないか〉。そういう反論が予想される。
 だがこの問題は、次回、「治外法権(領事裁判権)」の問題と併せて検討したい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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