アメリカ人外交顧問の暗殺ーーマルクスと三浦つとむと、吉本隆明(5)
アメリカ人外交顧問の暗殺
ーーマルクスと三浦つとむと、吉本隆明(5)
○外交顧問、ダーハム・W・スティーブンス
明治時代の日本の外務省に、ダーハム・ホワイト・スティーブンス(Durham White Stevens)というアメリカ人の外交顧問がいた。
明治時代の日本政府の最大の外交課題は、徳川幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を廃棄し、改めて対等の条約を結ぶことにあったわけだが、D.W.スティーブンスはその外交交渉にかかわってきたらしい。これはスティーブンスの献策であったかどうか、そこまでは分からないが、日本の政府は明治21年(1888年)11月、それまで外交上の行きがかりがなかったメキシコと、日墨修好条約という平等条約を結んだ。日本政府はこの実績を基づいて、アメリカを初めとする不平等条約の締結国と交渉する、という一種の迂回作戦を取ることにしたわけだが、メキシコとの修好条約を結ぶに当たってスティーブンスは功績があった。
それ以外にも彼は外交上の功績があり、日本政府から何回も勲章を与えられている。
彼は明治37年(1904年)、日本政府の推薦で、大韓帝国の外交顧問に迎えられた。この年の8月22日、大日本帝国と大韓帝国とが「日韓協約」(「第1次日韓協約」)を結んだが、その協約は次の3項から成っていた。
《引用》
一、韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人1名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ニ詢ヒ施行スヘシ
一、韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人1名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ニ詢ヒ施行スヘシ
一、韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権譲与若クハ契約等の処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ
日本政府はこの第2項に基づいて、スティーブンスを推薦したわけである。
○スティーブンスの暗殺
ただ、彼の仕事ぶり、または彼の言動は、大韓帝国のある種の人たちには、死に値するものであったらしい。英語版Wikipediaの“Durham Stevens”によれば、――日本語版のウィキペディアでは彼は取り上げられていない――彼は明治41年(1908年)3月、ワシントン・D.Cに住む家族に会うために帰国したが、その折、「サンフランシスコ新聞」のインタービュに答えて、「コリアの人たちは、彼らの国における日本の存在感が増大するに伴って、大きな恩恵を受けている」という意味のことを言った。英語版Wikipediaによれば、この言葉は、アメリカに住む韓人の憤激を惹き起こした。
そこで、アメリカ在住の韓人の二つの組織が会合を開いて、「このまま何もしないで済ますことはできない」という決議をし、3月22日、4人の韓人がフェアモント・ホテルに出かけ、そのうちの一人がスティーブンスに、「ひょっとしたら、あなたは新聞に談話を載せませんでしたか」と声をかけ、さらに「日本人が大韓国人を殺しているなんてことはなかった、とでも(おっしゃりたいのですか)?」(〔Earl Lee asked him…………〕whether“Japanese were not killing off the Koreans”)と訊ねた。スティーブンスは前の質問には「はい」と答え、後の質問には「そうです」と答えた。スティーブンスは更に続けて、「おそらくあなたはずっとお国にはお帰りになっていないので、お国の正確な政治状況には通じていないかもしれませんが」と言いかけたところ、4人の韓人はいきなり椅子を振り上げてスティーブンスに襲いかかり、殴り倒したり、頭を床に打ちつけたりした。当然のことながら、この暴力行為に気がついた人たちが救いに駆けつけたが、襲った韓人の一人は、「残念。だが、これで済んだとは思うなよ(‘We were all very sorry that we did not do more to him’)」と、捨て台詞を残して行った。
確かにそのままでは済まなかった。その翌日、スティーブンスがフェリーの乗るため、サンフランシスコの港へ出向いたところ、今度はJang In-hwan (張仁煥)と、Jeon Myeong-un(田明雲)という2人の韓人が近づき、まず先に、田明雲が人混みの中でスティーブンスに拳銃を撃った。が、当たらなかった。彼は狙撃に失敗したと知るや、スティーブンスに走り寄り、拳銃を棍棒代わりに振りかざして、顔をめがけて殴りかかった。他方、張仁煥がそれには構わずに拳銃を撃ち、1発は田明雲に当たってしまった。だが、もう2発がスティーブンスの肺と股関節を打ち抜いた。
もちろんスティーブンスは直ちに病院へ運ばれて手術を受け、「私を襲ったのはサンフランシスコ市内か、その周辺にある、小さな、学生の政治団体がやったことに間違いがない。あの連中は、日本が大韓帝国を保護領化したことを恨んでいるし、私がそのために一役買っていたと信じ込んでいますからね」と語った。意識ははっきりしており、この分ならば一命を取り留めるのではないか、と思われたのだが、翌日容体が急変して亡くなってしまった。
スティーブンスを襲った二人は、逮捕後、何も弁明せず、ただスティーブンスに関しては、「大韓帝国の裏切り者(traitor)」と呼び、「彼の献策(plans)のおかげで何千人もの韓人が殺されてきた」と語った、という。
○「第一次日韓協約」の性格
およそ以上が英語版Wikipediaから知りうることであるが、何だか腑に落ちない点が幾つかある。
だが、その前に、なぜ私がダーハム・スティーブンスに関心を抱くようになったか、理由を簡単に説明しておきたい。
私は前回、「大江健三郞氏ら識者」800名の声明における、「韓国、中国が、もっとも弱く、外交的主張が不可能であった中で日本が領有した」。「韓国民にとっては、単なる『島』ではなく、侵略と植民地支配の起点であり、その象徴である。そのことを日本人は理解しなければならない」という言説を取り上げて、「中国」に関する言説が事実無根であることを指摘した。そして今回、「韓国」に関する言説を検討してみようと、念のために日本の政府が竹島の領有を閣議決定した、明治37年(1904年)8月の時点における、大日本帝国と大韓帝国との条約関係を調べたところ、先に引用した「日韓協約」に出会ったわけである。
この「協約」の第2項に基づいて、日本政府はダーハム・スティーブンスを大韓帝国の外交顧問に推薦したわけだが、たしかにこの協約の字面だけを見れば、日本共産党の志位和夫委員長が指摘したように、「1904年8月に「第1次日韓協約」を強制して、日本は韓国の外交権を事実上奪いました」と言えなくもない。
志位委員長のこの言葉は、2012年10月17日に配信された「志位和夫共産党委員長が語る「領土紛争」の正しい解決法」というインタービュ記事の中に見られるものだが、同じ記事が最近の『週刊朝日』にも載ったらしい。
ただし志位委員長は、だから、尖閣諸島や竹島の日本領有の根拠は疑わしい、と言っているわけではない。いずれの島嶼についても、日本政府の主張を支持しており、尖閣諸島に関する論拠は、前回私が書いたこととほぼ同じだった。そして、竹島の領有権についても、領有権は日本にあるとした上で、「1904年8月に「第1次日韓協約」を強制して、日本は韓国の外交権を事実上奪った」という歴史的背景を見落としてはならない、と指摘したわけである。
○ロシアとの緊張関係
この指摘はそれなりによく分かるのだが、しかし何故このような協約が結ばれねばならなかったのだろうか。
私は『二葉亭四迷』(新典社、昭和61年)を書いたとき、外国語学校の露語科(ロシア語科)や清語科(支那語科)や、韓語科(朝鮮語科)に学んだ卒業生の動向を調べたことがあり、日露戦争前の日本の韓半島における行動は、ロシアとの緊張関係に制約されていたのではないか、という印象を持った。
ただし、その時私が用いた資料は、主に中島真雄編輯の『対支回顧録』や、黒龍会編輯の『東亞先覚志士伝』など、韓半島や支那大陸に渡ってアジア解放の革命を起こそうとした民間の志士の行動記録であって、それを要約紹介しようとすると、記述が錯綜してしまう。そこで今回は、山辺健太郎の『日韓併合小史』(岩波新書、1966年)と、呉善花の『韓国併合への道』(文春新書、平成12年)という、ある意味で対照的な立場で書かれた2冊を参考に、「大韓帝国をめぐる日本とロシアの動き」を整理してみたわけだが、まず明治28年4月17日に締結された、「日清媾和条約」から始めるならば、その第1条は、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス。因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」(句読点は亀井)となっている。つまり、この条約の一番の目的は、朝鮮国が完全無欠な独立自主の国であることを、清国に認めさせることであった。この条約によって初めて、李氏王朝の朝鮮国はその自主独立性を国際的に認知されることになったのである。
しかしだからと言って、李氏王朝の宮廷が親日的になったわけでもなければ、日本の朝鮮国に対する影響力が強くなったわけではない。
よく知られているように、この年(明治28年)4月23日 ロシア、フランス、ドイツの3国は、それぞれの国に駐在する日本国の公使に、遼東半島の還付を勧告した。それに対して、日本政府は4月30日、各国に駐在する公使を通して、「第一、帝国政府ハ其ノ奉天半島ニ於ケル永代占領権ハ金州庁ヲ除ク外ハ総テ之ヲ放棄スル事ニ同意ス。尤モ日本国ハ其放棄シタル領土ニ対シ之ニ代フベキ報酬トシテ相当ナル金額ヲ清国ト協議シテ之ヲ定ムル事アルベシ」(句読点は亀井)と回答した。
これが世に言われる「三国干渉」であるが、李氏朝鮮の権力者は日本が3国の圧力に屈したと見たのだろう、朝鮮政府内部では親露派が台頭し、この年の7月、閔妃(朝鮮国国王・高宗の妃)一派がソウル駐在ロシア公使ウェーバーと結んで、朝鮮政府から親日派の朴泳孝らを追放、親露派の李允用、李範晋らを入閣させた。それと併せて、日本人が訓練した軍隊を解散してしまった。
これに対して、明治28年(1895年)10月7日夜(あるいは8日未明)、大院君(高宗の実父)は朝鮮訓練隊に護衛され、日本の守備隊と抜刀した日本人の一隊を随えて景福宮に押し入り、閔妃を殺害してしまった(山辺健太郎『日韓併合小史』に拠る。呉善花『韓国併合への道』では、大院君の名前はない)。そして宮廷内では、大院君の執政のもとで内閣の改造に着手した。
だが、間もなく、閔妃殺害に直接手を下したのは日本人だったことが判明して、朝鮮国内には日本に対する反感が高まってきた。それだけでなく、新たに誕生した親日派の金宏集内閣は小学校令の制定・公布、太陽暦の採用、断髪令の公布、外国服着用の奨励など、近代化に向けて改革案を打ち出したわけだが、明治28年に公布された断髪令が保守的な両班や儒学者たちの反発を招き、明治29年1月から農民層を巻き込んで、各地における武装蜂起にまで発展した。――この混乱の中、約30人の日本人が殺されたという――政府はこれを鎮圧するために親衛隊の主力を地方に派遣したわけだが、そのため王宮警護が手薄になる。それにつけ込んだのが、ロシア公使のウェーバーだった。彼は公使館護衛の名目でロシア軍艦から呼び寄せた120名の将兵を使い、閔妃派の残党とも言うべき、親露派の李範晋らと打ち合わせて、高宗とその世子をロシア公使館に連れ込んでしまった(露館播遷)。明治29年2月11日のことである。
ロシア公使ウェーバーと親露派政治家はこうして高宗の意志に影響を及ぼしやすい状況を作って、国王親政を宣言させ、断髪令を中止し、親日派の政権首脳5名を逆賊として彼らの逮捕殺令を公布した。
それだけでなく、欧米資本の導入をはかることを口実に、鉄道敷設権や鉱山採掘権や森林伐採権などの各種利権を、ロシア人やアメリカ人に譲渡した。その代表的なものに、次のようなものがある。
明治29年3月、京仁鉄道敷設権をアメリカのモールスに。
同4月、咸鏡北道慶源鐘城鉱山採掘権をロシアのニシチェンスキーに。
同4月、平安北道雲山金鉱採掘権をアメリカのモールスに。
同7月、京義鉄道敷設権をフランスのグリュエルに。
同9月、茂山鴨緑江鬱陵島伐木権をロシアのブリュネルに。
明治30年3月、江原道金城郡堂?金鉱採掘権をドイツのオルターに
李氏王朝はこのようにして、国家の主権にかかわる重要な利権次々と売り渡していったわけだが、明治29年(1896年)の6月(推定)、ロシア外務大臣ロバノフは、モスクワ滞在中の朝鮮政府の代表・閔泳煥と、「朝鮮がロシアから軍事顧問と財政顧問を雇用すること、朝鮮国王がロシア公使館から王宮へ帰った後もその安全を保証すること」を密約した。これに基づいて、明治30年(1897年)2月、高宗はロシア公使館を出て、慶運宮に移り、そして8月、年号を「健陽」から「光武」と改め、10月には皇帝に即位、国号を「大韓」と定めたわけである
○「朝鮮人」「韓人」「韓国人」の呼称について
私はこれまで、何のことわりもなしに「韓人」という言葉を使ってきた。これは大韓帝国時代の国民と、大韓民国の国民とを区別するためであって、前者を「韓人」と呼び、後者を「韓国人」と呼ぶことにした。そうすると、大韓帝国以前の朝鮮王国の国民についてはどうなるのか。そういう疑問が生ずるかもしれないが、これも当時の呼称に従って「朝鮮人」と呼ぶ。七面倒くさいと感ずる人も多いと思うが、このように呼び分けないと、かえって誤解を招きかねないからである。
○龍巌浦事件
ともあれ、以上のごとく、日清戦争の終結以後の朝鮮王国―大韓帝国はロシアに牛耳られる状況が続き、日本が働きかけようとしても、手も足も出ない有様だった。
そうこうしているうちに、明治36年(1903年)5月、もとソウル駐在のロシア公使だったマチューニンが、茂山鴨緑江鬱陵島伐木権を手に入れたロシアのブリュネルから、その利権を譲り受けて、それを鴨緑江木材会社に譲渡する、という事件が起こった。この会社はロシア枢密顧問官のベゾブラゾフが表面上の経営者で、陸軍中将マドリトフ他、多数のロシア人士官が参加。ロシア政府は明治36年5月、大韓帝国の政府に森林伐採を始めると通告して、60余名のロシア軍人と、馬賊の頭目・林成岱が率いる80余名の支那人を連れて鴨緑江を渡り、朝鮮の龍巌浦に軍事的根拠地を作った。そして7月20日、龍巌浦租借の要求を大韓帝国に突きつけ、日本の林権助公使の抗議にあって、租借契約は成り立たなかったが、ロシアは軍事的占領を続けて、10月には砲台を築いてしまった。
この情報を得たソウルの日本公使館では、萩原書記官を視察のために派遣したが、ロシア側から上陸を拒否される。そういう容易ならぬ事態が発生したのである。
なぜそれは容易ならぬ事態だったのか。
それは、明治29年(1896年)6月9日、日本の特命全権公使の山県有朋と、ロシアの外務大臣、アレクセイ・ロバノフが結んだ「朝鮮ニ関スル議定書」に反する行動だったからである。
一般に「山県・ロバノフ協約」と呼ばれるこの協約は、4つの条文から成っており、①日露両国は朝鮮国政府に対して、冗費を省き、歳入と歳出の平衡を保つことを勧告し、もし外債を仰ぐ必要が生じた場合は、日露両国の合意を以て援助する。②日露両国は、朝鮮国が外援に頼らず、自国の財政、経済が許す範囲で、国民によって組織された軍隊と警察を創出し、かつ之を維持することを一任する。③朝鮮国との通信を容易ならしめるため、日本国は現在占有している電信線を引き続き管理し、ロシアは京城から国境に至る電信線架設の権利を保留するが、朝鮮国はそれらを買収する手段がつき次第、買収することができる。④以上の3点に関して、協議すべき事態が発生した場合は、両国政府の代表は友誼的に妥協する、という内容だった。
要するに日露両国は、大韓帝国が自力で経済を立て直し、自前の軍隊や警察を持ち、失った利権を買い戻すことができるようになるまで、協力して面倒を見よう。そういう表向きは大変に結構な協約を結んだわけだが、実は、その裏側で、次のような「秘密条款」を結んでいたのである。
《引用》
第一条 原因ノ内外タルヲ問ハス、若シ朝鮮国ノ安寧秩序乱レ、若シクハ将ニ乱レントスルノ危懼アリテ、而シテ若シ日露両国政府ニ於テ両国臣民ノ安寧ヲ保護シ、及電信線ヲ維持スルノ任務ヲ有スル軍隊ノ外、其ノ合意ヲ以テ更ニ軍隊ヲ派遣シ内国官憲ヲ援助スルヲ必要ト認メタルトキハ、両国政府ハ其ノ軍隊間ニ総テノ衝突ヲ予防スル為メ、両国政府ノ軍隊ノ間ニ全ク占領セサル空地ヲ存スル様各軍隊ノ用兵地域ヲ確定スヘシ
第二条 朝鮮国ニ於テ本議定書ノ公開条款第二条ニ掲クル内国人ノ軍隊ヲ組織スルニ至ル迄ハ、朝鮮国ニ於テ日露両国同数ノ軍隊ヲ置クコトノ権利ニ関シ、小村氏ト「ル、コンセイヱー、デター、アクチユヱル、ド、ウヱバー」氏ノ記名シタル仮取極ハ其ノ抗力ヲ有スヘシ。朝鮮国大君主ノ護身上ニ関シ現ニ存在スル状態モ亦、特ニ此ノ任務ヲ有スル内国人ヲ以テ組織セル一隊創設セラルヽニ至ル迄ハ、均シク之ヲ継続スヘシ(句読点は亀井)
この「秘密約款」の第二条における、「小村氏ト「ル、コンセイヱー、デター、アクチユヱル、ド、ウヱバー」氏ノ記名シタル仮取極」は、明治29年5月14日、小村寿太郎とウェーバーとの間で結ばれた「朝鮮ニ関スル日露覚書」を指す。その内容の詳細は省略するが、日本は釜山京城間の電信線保護のため、200名を超えない範囲で、憲兵を配備する。また、日本人居留地が襲撃された場合に備えて、日本兵を京城に2中隊、釜山に1中隊、元山に1中隊配置するが、1中隊の人数は200名を超えないこととする。露国政府もまたその数を超過しない範囲で衛兵を配置することができる、というものであった。
そんなわけで、日本の側から見るならば、ロシア政府の龍巌浦におけるやり方は、この取り決めを逸脱するものだった。それだけでなく、日露両軍が衝突をしないように一定の「空地」を設けておき、それを侵すことはしないという、「秘密約款」の趣旨に背く行動だったのである。
○ロシアの満州居座りと二葉亭四迷
ロシアのこのような行動に先立つこと4年ほど前、明治32年(1899年)、清国の山東省で、義和団という宗教的秘密結社が「扶清滅洋」(清朝を助け、西洋の浸食を防ぐ)をスローガンに掲げて、武力的排外運動を興した。運動は民衆の支持を得て、清朝の領土内に拡がり、翌年の明治33年6月には、北京や天津にまで進出し、河北、山西、河南、満州の各地に波及して、教会を襲撃し、宣教師や外国人を迫害した。清朝政府はそのスローガンに力を得たのであろう、義和団の運動を支持して、日、英、米、独、仏、露、伊、墺(オーストリア)の8カ国に対して宣戦を布告した。だが、8月には、8カ国の連合軍に鎮圧されてしまい、10月から和議交渉に入り、明治34年(1901年)9月7日、連合国と屈辱的な「北京議定書」(別名「辛丑条約」)を結ぶ羽目に陥ってしまった。
日本ではこの戦争を「北清事変」と呼んでいるわけだが、ロシアは東清鉄道南満州支線一帯の保護を名目に、大量の軍隊を満州へ送り、「北京議定書」が結ばれた後も撤兵しなかった。
東清鉄道は、明治29年(1896年)、ニコライ二世の戴冠式を機会に、ロシアのウィッテと清国の李鴻章が結んだ密約によって誕生した鉄道で、資金は露清銀行が担当した。これより先、日本はロシアとフランスとドイツの三国干渉に屈して、清国に遼東半島を還付することになったわけだが、その代償として、清国は日本に3000万両を支払うことになった。清国はそのお金を調達するために外債を募ることにし、それを斡旋したロシアとフランスの銀行家とが共同出資して作ったのが、露清銀行だったのである。そういう銀行の資金で出来た東清鉄道については、当然ロシアは経営に多くの特権を持ち、極東政策には欠かせない施設だった。ロシアとしては軍隊を満州から引き上げるつもりはなかったのである。
世界の多くの国がロシアの領土的野心を警戒したわけだが、特に神経をとがらせたのは日本だった。日本政府は北京公使を通じて、清国がロシアに強い姿勢を取るように圧力を加え、ロシアもまた国際世論に配慮して、明治35年(1902年)の4月、満州還付に関する露清協定を結び、第一次撤兵は10月8日の期限よりもむしろ6日早く実行している。ところが第二次撤兵は、明治36年(1903年)4月8日の期限が来ても実行しようとしない。だけでなく、撤兵の条件として東三省におけるロシアの独占的交易権を要求し、さらに5月、ロシア軍が鴨緑江を越えて大韓帝国内に軍事根拠地の建設を始めた。これが先に触れた「龍巌浦事件」である。
ちなみに二葉亭四迷は明治35年(1902年)の5月に東京外国語学校の教員を辞めて、ウラジオストック、ハルビン、旅順を経て、10月に北京へ入り、北京警務学堂に職を得て、提調代理となった。北京警務学堂は義和団事件ののち、清朝政府が制度改革の一環として作った警察官養成学校で、外国語学校の清語科に在籍した川島浪速が提調に招かれた。同じ外国語学校の露語科に二葉亭が在籍したことがあり、いわば同窓のよしみで川島の警務学堂に草鞋(わらじ)を脱いだわけである。
二葉亭が東京外国語学校を辞めた理由は、正確には分からないが、ロシアの以上のような動きを知って強い危機感に駆られたのであろう。彼が日本を離れたのは、ちょうどロシアと清朝との間に満州還付に関する協定が結ばれた時期であり、対ロシア問題に関心のある人たちは、露清協定の裏側には何らかの密約があるのではないか、と神経をとがらせていた。確かにロシアと清朝との間には密約があり、明治36年(1903年)の12月、攻守同盟的な密約であることが分かるのだが、二葉亭はこの年の2月、日本の北京公使館付武官、山根武亮から情報収集の協力を依頼されている。彼もまた諜報活動にかかわっていたのである。
しかし、警務学堂の中には彼の行動に批判的な職員もいたらしく、結局彼は明治36年7月、職員間の不和に関する責任を取る形で、警務学堂を辞め、日本へ戻ることになった。
○ダーハム・スティーブンの推薦
さて、だいぶ長い事情説明となったが、以上のようなロシアの動きを踏まえて、明治37年8月22日付けの「日韓協約」(「第1次日韓協約」)を見るならば、なぜ日本政府が「一、韓国政府は外国との条約締結其他重要なる外交案件即外国人に対する特権譲与若くは契約等の処理に関しては予め日本政府と協議すへし」という条項を求めたか、その理由がよく分かる。
この頃、大韓帝国とロシアの間にどのような内容の条約が結ばれていたか、また、ロシアが大韓帝国に送った軍事顧問や財政顧問の仕事ぶりはどのようなものであったか。私はそれを知る手がかりを持たないが、杵淵信雄の『日韓交渉史』(彩流社、1992年)によれば、明治30年(1897年)当時、大韓帝国の総税務司はイギリス人のブラウンだった。しかし、皇帝の高宗はブラウンが収支に厳格で、宮廷費も意のままにならないため、ブラウンを嫌い、明治30年10月、ブラウンを解雇し、ロシア人のアレキシエフを招聘することにした。憤激したイギリスはブラウンに解雇通知を返却させ、12月には軍艦7隻を仁川に派遣して圧力を掛けた。驚いた「韓廷」(大韓帝国の宮廷)はブラウンの解雇を撤回し、アレキシエフを度支部(大蔵省)の財務顧問にとどめることにした、という。
しかしロシアはなおも諦めず、貨幣鋳造、公債発行の機能を持つ露韓銀行の設立を計画して、日本がブラウンと契約して流通させた円銀の通用禁止を図った。貨幣鋳造、公債発行は、日本では日本銀行しか持ち得ない権限であり、つまりロシアは露韓銀行を中央銀行化して、大韓帝国の財政を握ろうとしたのであろう。その上、ロシアは釜山港内の絶影島に石炭貯蔵のためとして過大な租借地を要求した。これらの交渉に当たった、ロシアの駐韓公使はスペールという外交官だったが、スペールは高飛車な態度を得意としたらしい。明治31年(1898年)3月、「露国はさきに韓廷の請求により、訓練士官、財務顧問等を特派し、以て韓廷の政務を助けたり、しかるに近来韓廷はかへつて露国を排斥せんとするの傾向を見る、朝廷果して露国の助力を必要なしと思惟するか」(明治31年3月17日付『国民新聞』記事より)という詰問状を突きつけ、日限を切って回答を求めた。これに対して韓廷は3日間の猶予を求め、12日、「自今わが政府には外国顧問を置くの必要なし。もつとも露国従来の好意に対しては、特に謝恩使を派遣し謝意を表すべし」(同前)と回答した。言わば売り言葉に買い言葉の喧嘩を装って、ロシアの干渉を突き放してしまったのである。
ロシアはこの後、財務顧問、軍事顧問を撤収し、露韓銀行を閉鎖して、スペールをブラジルに転出させる。杵淵信雄によれば「当時ドイツが山東半島南西部の膠州湾を清国から租借、湾内の青島に東洋艦隊の基地建設を始め、ロシアとしては大連・旅順の租借、経営が急務であった」。韓半島にかまっている余裕なぞなかったのだ、というわけである。
ロシアはその翌年に起こった義和団事件に乗じて、満州に大軍を送り込んで、清朝との領土問題や、満州における利権拡張にかまけて、韓廷への働きかけはやや手薄になる。それと入れ替わるようにして、日本が大韓帝国への働きかけを強めていったわけである。
その場合、もし大韓帝国がこれまでのように利権を外国人に譲渡するならば、国家としての基盤を失ってしまいかねない。そういう判断が日本にあったように思われる。そこで、「外国人に対する特権譲与若くは契約特権譲等」という規定を盛り込んで、利権譲与や契約に制限を加えようとしたのであろう。
それと併せて、「一、韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人1名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ニ詢ヒ施行スヘシ」という項目を設け、ダーハム・スティーブンスを推薦したわけだが、長年日本の外務省顧問を務めたスティーブンスに期待するところが大きかったことは、推測に難くない。
これに先立つ5年ほど前の明治27年(1894年)9月、アメリカの『北アメリカ評論』(The North America Review)が、「朝鮮における支那と日本」(”China and Japan in Korea”)というテーマを特集して、前駐韓アメリカ公使のオーガスティン・ハード(Augustine Heard)と、ワシントンにおける日本公使館の顧問のダーハム・スティーブンスと、北京のアメリカ公使館の書記官だったハワード・マーチン(Howard Martin)の三人の論文を掲載した。日清戦争が起こった直後のことで、アメリカにおいても関心が高かったからであろう。三人とも日本優位の判断に変わりはなかったが、オーガスティン・ハードは「一言加えさせて欲しい」とことわった上で、日本と朝鮮国とをどん欲な狼と無垢な子羊に譬えて、日本に辛口な批評を加えていた。マーチン・ハワードは、「日本は口では朝鮮の改革を唱えているが、その関心は朝鮮の領土にあるのだ」という意味のことを指摘していた。それに較べて、スティーブンスはほぼ日本よりの立場で日清関係、日朝関係を論じていた。もちろんそれは日本政府の意にかなう意見だったわけで、それあればこそ日本はスティーブンスを日本の外交顧問に任用し、大韓帝国の外交顧問として推薦したのであろう。
だが、それが直ちに「日本が大韓民国から外交権を奪った」ことを意味するかどうかは、慎重な判断を要する。
少なくとも「第一次日韓協約」の文言を見る限り、大韓帝国は国交を結んでいる諸国と、独自の判断で大使を交換したり、貿易や商行為の交渉を行うことが可能だったからである。
○大韓帝国の国家体制
ここで大韓帝国の国家体制について確認しておくならば、当時の大韓帝国には国家のあり方を規定する憲法というものを持っていなかった。国民の参政権を認める法もなければ国会もなかった。それ故、国会議員によって構成され、政治、経済、外交、軍事に責任を負う内閣もなかった。
ただし、国家のあり方を定めた文書が全くなかったわけではなく、明治32年(1899年)8月17日、皇帝の名によって公布された「大韓国国制」という定めがあった。
《引用》
第1条 大韓国は、世界万国の公認する自主独立の帝国なり。
第2条 大韓帝国の政治は、由前則ち500年の伝来にして由後則ち万世に亘り不変の専制政治たり。
第3条 大韓国大皇帝は、無限の皇権を享有す。公法に謂う自立政体なり。
第4条 大韓国臣民にして大皇帝の享有する君権を侵害する行為あるときは、その既遂と未遂とを問わず、臣民たる道理を失うべきものと認む。
第5条 大韓国大皇帝は、国内陸海軍を統率し、編成を定めて、戒厳・解厳を命ず。
第6条 大韓国大皇帝は、法律を制定し、その頒布と執行を命じ、万国の公共たる法律に倣って国内法律も改正し、大赦・特赦・減刑・復権を命ず。公法に謂う自定律例なり。
第7条 大韓国大皇帝は、行政各府部の官制と文武官の俸給を制定或は改定し、行政上必要なる各項勅令を発す。公法に謂う自行治理なり。
第8条 大韓国大皇帝は、文武官の黜陟(ちゅつちょく)任免を行い、爵位勲章及びその他の栄典の授与或は逓奪を行う。公法に謂う自選臣工なり。
第9条 大韓国大皇帝は、各有約国に使臣を派送駐紮(ちゅうさつ)せしめ、宣戦媾和(媾和)及び諸般の条約を締結す。公法に謂う自遣使臣なり。
これを見ると、大韓帝国の皇帝は陸海軍を統率し、法律を定め、行政府の官吏の任免、解任の権限を持ち、外交権を掌握するという、オールマイティの独裁的な専制君主だった。特徴的なのは国民の権利と義務に関しては、一言半句も言及していないことで、いわば無権利状態に置かれたまま、皇帝の視野からは遠ざけられてしまっていたのである。
もっともそういう見方は、まだ朝鮮国だった時代の、明治28年(1895年)1月7日、高宗が宗廟に拝謁し、歴代諸王の霊前で改革推進を誓ったという「洪範14条」と併せて見なければ、片手落ちの評価になってしまうかもしれない。
《引用》
1 清国への依存をやめ、自主独立の基礎を確立する。
2 王室典範を制定し、大位継承・宗威分義を明らかにする。
3 大君主は正殿に御し、政務の視事にあたっては各大臣に親しく諮問して決済し、后嬪宗威はその関与を許さない。
4 王室事務と国政事務を分離させ、互いに混同しない。
5 議政府および各衙門の職務権限を明白に規定する。
6 人民の納税は全て定率に依拠し、勝手な名目で徴収を乱行してはならない。
7 租税の徴収および経費の支出は全て度支衙門(大蔵省)の管轄に属する。
8 王室の費用は率先して節減し、各衙門および地方官の範となるようにする。
9 王室費および官府の費用は、一年の算額を予め定めて財政の基礎を確立する。
10 地方官制を改定し、地方官吏の権限を制限する。
11 国内の聡俊な子弟を広く派遣して、外国の学術技芸を伝習させる。
12 将校を教育し、徴兵法を用いて軍制の基礎を確立する。
13 民法・刑法を厳しく制定し、勝手な監禁懲罰を禁じ、人民の生命と財産を保護する。
14 用人においては門地にとらわれず、人士を朝野に求めて広く人材を登用する。
確かにここにで「人民」が視野に入っていた。しかしそれは、徴税の対象であり、厳しい民法と刑法のもとで生命と財産を保護するという、いわば法の客体でしかなく、能力があれば海外へ留学させてもらったり、官吏に取り立てもらったりするかもしれない存在にすぎなかった。
その中心的な関心は、王位の継承と、王室事務、王室費の問題だったのである。
ここには「議政府」という機構が出てくるが、これは国会でもなければ、近代国家における内閣でもない。皇帝から指名された10人たらずの貴族が国政の運営を協議して、国王の裁可を仰ぎ、決定事項の執行を各行政機関に指示する、という機構だった。いわば宮廷政治の中枢機関だったと見ていいだろう。
このような国家体制においては、どれほど皇帝が聡明であったとしても、また、それを補佐する議政府の貴族が、皇帝に不明があった場合、面を冒して敢えて諌言をする忠臣ばかりであったとしても、政治が恣意に流れる危険をチェックすることは難しい。皇帝とその側近的な閣僚たちは、政治、経済、軍事、外交の責任を誰に負っているのか、という点について言えば、その「誰」が不在だからである。その意味で、独裁的な専制君主の国家は非常に強固な「主権」によって運営されているように見えながら、その実態は極めて不安定で、脆弱なものでしかないのではないか。
朝鮮国王が日本と日朝修好条規を結んでからおよそ30年、なぜ国民は憲法を制定して「主権」の所在を明らかにし、参政権を求め、国会を開く運動を起こさず来たのか。その原因理由は私にはよく分からないが、確かに明治37年、「第一次日韓協約」を結んだ当時の大韓民国は「弱かった」。「大江健三郞氏ら識者」800名が言うように「もっとも弱かった」かどうか、それを判断する材料を私は持たない。だが、「大江健三郞氏ら識者」800名や、日本共産党の志位委員長は「何が弱かった」かには言及していないが、「弱かった」のは主権だったのだ、私はそう思っている。
○判決
このような状況の中で、ダーハム・スティーブンスは大韓帝国の外交顧問に就任したわけだが、彼のどういう献策によって何千人もの韓人が殺されることになったのか。何千もの人が殺されるとは由々しい事態であるが、その具体的なことは分からなかった。
裁判においてもその辺は明らかにされなかったのではないか。英語版Wikipediaによれば、在米の韓人のコミュニティは3人の弁護士を雇ったが、そのうちの1人はショウーペンハウワーの「愛国的狂気」(”patriotic insanity”)という理論を用いて、スティーブンス暗殺の犯人を弁護したという。ということはつまり、スティーブンス暗殺がやむを得ざる、あるいは正当である根拠を合理的に説明できる材料を持たなかった、ということであろう。
多分そのためだろう、アメリカの法廷は、スティーブンスを撃ったJang In-hwan (張仁煥)に有罪判決を下した。同じく英語版Wikipediaの”Jang In-hwan”によれば、彼は25年の判決を受けたが、実際には10年の刑を務めたのち釈放されたという。彼は韓国においては英雄として祀られている。
しかしまだ私には解けない疑問がある。日本の政府が竹島の領有を閣議決定した時、スティーブンスは大韓帝国の外交顧問だったはずだが、そのことをどう受けとったのであろうか。
多くの歴史家は日韓修好条規を、日英修好通商条約以上に不当な不平等条約だったと指摘しているが、日本の不平等条約の撤廃の努力に協力したスティーブンスは、日韓修好条規をどう考えていたのか。そもそも日英修好通商条約が不平等条約だったのは、どの点においてなのか。日韓修好条規は本当にそれ以上に不当な不平等条約だったのか。
これらの点をもう少し探ってみたい。
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