「西沢島」のこと――マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(3)
「西沢島」のこと
マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(3)
○ひろし・ぬやまという詩人
昭和の時代に、ひろし・ぬやまという詩人がいた。私の手元にある『編笠』という詩集は、昭和24年11月、世界文化社から出版されたものだが、もともとは昭和21年に出たらしい。
「編笠」という言葉から、江戸時代の虚無僧がかぶっていた笠を連想する人がいるかもしれない。が、戦前までの日本の刑務所では囚人を移動させる時には編笠をかぶせた。『編笠』はそういう状況に置かれた人が獄中で詠んだ詩や歌を集めた詩集で、つまりひろし・ぬやまは囚人だった。もう少し詳しく言えば、彼は昭和の初めに、当時は非合法の政治集団だった日本共産党に加わり、治安維持法違反で逮捕されたが、転向をすることなく、獄中で12年も頑張り続け、昭和20年の敗戦後にようやく解放された。『編笠』はそういう人の詩集なのである。
この『編笠』は広く読まれたとは言えないが、昭和20年代の後半から30年代にかけて「うたごえ」運動に参加した人にとって、次のようなひろし・ぬやまの詩は、青春時代を懐かしく思い出させてくれるだろう。
《引用》
若者に
若者よ、からだを鍛えておけ
美しいこゝろが逞しいからだに
からくもさゝへられる日がいつかは来る
その日のために、若者よ
からだを鍛えておけ
ただし、こういう説教くさい詩は、彼の作品の中ではむしろ例外的であって、彼の詩の本領は、次の作品のように、屈託のない「へらず口」によって、不条理な事態を戯画的に描き出すことにあった。
《引用》
厠の歌
ひと屋の厠(かはや)はいとめでたし
畳三枚のひろさなり
土瓶がある、茶碗がある
藍染の小皿の上に
昨夜(ゆうべ)のめざしの頭(かうべ)が三つ
冬の黄昏(たそがれ)の中に
字引がある、夜具がある
金網をへだてた椎の梢
小窓のかげから
うるさくかみはようどの目がのぞく
ひと屋の厠はいとめでたし
畳三枚のひろさなり
――一九三五年冬――
「ひと屋」は牢獄(ひとや)、「厠」は便所の指した表現であるが、この場合「畳三枚」は、独房を「厠」に見立てた表現であろう。ここの便所は畳三枚ほども広くて、色んな備品もあり、大変に結構な便所だ、というわけであるが、もちろん作者の逆説であって、彼は獄中に閉じこめられて、ひたすら「野山広し」と、開豁な空間を自由に飛翔することに憧れていた。そこで、「野山広し」を「ぬやま・ひろし」と仮名書きし、それを「ひろし・ぬやま」と入れ替えて、自分の筆名としたという。
彼が放り込まれた独房には土瓶があり、茶碗があり、小皿があり、字引き(辞書)を置くことはできたが、筆記用具を手元に置くことは許されなかった。やむをえず彼は、自分が作った詩を全部暗記しておき、昭和20年に解放された後、それを文字化したのである。
すごい精神の集中力だ。もし彼が日本の敗戦と解放という「幸運」に恵まれることなく、これらの詩を頭に蓄えたまま亡くなったとしたら…………。そう考えるだけで、手の震えるような感動が湧いて来る。
○「西沢島」のこと
司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』(中央公論社、昭和56年)はこの詩人との交友を語った、司馬の作品としては珍しい現代小説であるが、この詩人の本名は西沢隆二と言い、隆二の父親は西沢吉治という冒険家だった。
西沢吉治は明治40年代、台湾の南西海上、香港とフィリピンとの間にある無人島が、どこの国にも属さず、誰の所有地でもないことを知って、これを自分の島とすることに決めた。その島が無人島だったのは、人間が生きていくに必要な植物を育てる見込みがなかったためであるが、西沢吉治は豊富なリン鉱石に目をつけ、採掘して売り出すことを考えたのである。
そこで彼は、「西沢島」と命名して、日本政府に日本領台湾に編入することを申請した。他方、島内にトロッコ線を引いたり、地下の水道管を設けたり、電話が使えるようにしたり、10ヶ条の「西沢島憲章」を作ったり、その上、島内だけで通用する紙幣を発行したという。何とも気宇壮大だが、しかしどことなく子供っぽい人物だったらしいが、かれ自身の気分は、新しい島国家を作った、「国王」だったのであろう。
当時、支那大陸を版図としていたのは、清王朝であったが、清王朝はこの事実に気がつき、にわかに「あの島は自国の領土だ」と言い出して、日本政府に抗議をした。そして協議の結果、清朝の政府が「西沢島」を買い取ることになり、日本側の言い値のとおり38万円を払った。そのお金の何割が西沢吉治の手に渡ったか知らないが、投資した資本に較べてはるかに少なかったという。
結局「骨折り損のくたびれ儲け」に終わったわけだが、このコケ方を含めて、明治人の憎めない一面を見るような気がする。
○「西沢島」のゆくえ
こうして「西沢島」は日本地図からも、世界地図からも消えてしまい、清国領の「東沙島」となった。言うまでもなく清国は漢族(漢民族)ではなく、満州族が建てた国(国家)であるが、その国(国家)も最早この地上にはない。支那大陸の支配権を、中華民国に取って代わられたためである。では「東沙島」はどこに所属することになったのか。現在は台湾の中華民国が実効支配をし、領有権を主張しているが、しかし清国から中華民国へとストレートに移ったわけではなく、大東亜戦争の時期には日本が実効支配をし、日本の敗戦後、中華民国が取り戻すことになったらしい。その中華民国の領有権が現在まで続いているわけである。
○石原都知事のアイデア
この数年、中華人民共和国の政府が、日本の尖閣諸島に関して、「あれは中国の固有の領土だった」などとおかしなことを言い出し、日本と中華人民共和国との間の緊張が高まってきたが、さて、日本としてはどう対応するか。そこで東京都の石原慎太郎知事と彼のブレーンは、かつての「西沢島」の経緯に思い当たったのであろう。
「西沢島」が誕生したり消滅したりした20世紀の初頭は、まだ「無人島」の発見がありえたわけだが、それから1世紀が経って、大陸周辺の島々をめぐる国際状況ははるかにシビアになり、現在この地球上に、持ち主を特定できない、「無主」の島が存在するなんてことは、最早あり得ないことだろう。
おまけに、日本の法律は、日本人が国内に所有する土地を、外国の政府(または外国人)と売買することに、色んな制限を設けている。尖閣諸島の所有者が外国の政府(または外国人)に売ってしまうような事態は、まず起こらない。だが、個人の所有地であるかぎり何が起こるか分からない。それならば、不測の事態を未然に防ぐため、地方自治体が所有する形にしておくのが一番だ。多分そう考えて、石原知事は尖閣諸島の所有者から島を買うことを思い立ったのであろう。
それに釣られるようにして、民主党の野田内閣の政府も買い上げの方針を打ち出したわけだが、野田内閣のブレーンや、外務省や国土交通省の役人の中にも、石原都知事の発想を「なるほど」と納得した人間がいたに違いない。こうなれば早い者勝ち。政府が石原都知事のアイデアを盗んで、話を先に進めてしまったのである。
○戦前の「反日」運動との二重写し
ひょっとしたら中華人民共和国の権力者たちは、尖閣諸島が日本の国有財産になれば、個人の所有者と取引する余地がなくなってしまうことに、慌てたのかもしれない。
テレビの報道によると、ここ数日、中華人民共和国の領内には、反日デモの動きが拡がり、一部は暴徒化したらしいが、〈すごく焦っているみたいだな。これは中華人民共和国政府と反日運動家とが仕組んだ、マッチポンプじゃないか〉。そんな気がする。
昨日(9月16日)、NHKのテレビが、中華人民共和国から帰ってきたという日本人のインタビューを流していたが、その中の一人が〈あちらのテレビは繰り返し反日デモの映像を流していた。あれだけしつっこく見せられれば、自分もデモに行ってみようと、煽られるでしょうね〉という意味のことを言っていた。中華人民共和国ではテレビ局も一役買っているのだろう。
それにしても、中華人民共和国のスポークスマンの発言や、政府寄りの新聞の記事といい、反日デモといい、どう見ても道理を欠いた挑発行為としか言いようがない。これを見ていると、戦前、支那大陸で日本の市民や軍隊がどんな挑発を受けたか、分かるような気がする。戦後の歴史家が流布させてきた、戦前の「中国」における反日=反戦運動という言説。しかし、好戦的な挑発を行ったのは、どちらだったのか。日本では、今後、そういう検討の機運が高まってくるだろう。
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