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『共同幻想論』自序への疑問

『共同幻想論』自序への疑問
マルクスと三浦つとむと、吉本隆明(1)

○小樽文学館の吉本隆明追悼展
 市立小樽文学館では、7月14日から9月2日まで、臨時の企画展、「吉本隆明追悼展」を開催している。
 小樽文学館は特に吉本隆明と縁があったわけではない。ただ、昨年度、「表現論への招待」と題する講座を開き、時枝誠記や三浦つとむ、吉本隆明の日本語論や表現論を紹介した。昨年、私が三浦つとむの『芸術とはどういうものか』の復刻版(
明石書店)の解説「三浦マルクス学の芸術論」を書き、それを読んだ玉川副館長が、日本語研究に基づく言語表現論を紹介する講座を開いてはどうか、と勧めてくれたからである。
 日本語論や表現論の紹介はどうしても話が抽象的で、理屈っぽくなりやすい。それでも、辛抱強く、ずっとつき合って下さる人がいて、今年度も「新・表現論講座」を開き、三浦つとむの鏡像論に関連させて、鏡と肖像画の歴史を辿ったり、絵画における時間表現の問題を考えたりしてきた。
 そこへ吉本隆明の訃報が届き、これも何かの縁だろうと、急遽「追悼展」を開くことにした。実際は吉本隆明の前期の著書や雑誌『試行』を4つのパーツに分けて並べる程度のささやかな展示でしかないのだが、各パーツに私の解説を添えてある。その解説を集めて16ページの冊子を作って、希望する人に頒けている。それと合わせて、7月4日に「吉本隆明追悼――『共同幻想論』を中心に―」という話をし、「新・表現論講座」の第3回目としたわけである。
 
○年寄りのワルイ癖
 この時は、研修室の椅子が7割~8割くらいふさがるほど、多くの人が聞きにきてくれた。話の対象が吉本隆明だったからだろう。
 しかし私の話はかなり一人合点で、未消化な内容でしかなかった。せっかく文学館にまで足を運んで下さった人には申し訳なかった、と反省している。
 
 私は今年、後期高齢者の仲間となった。面白半分に「あと5年も経てば晩期高齢者とか、末期高齢者になるわけだな」などと笑っているのだが、新しいことを調べたり、勉強したりすること自体は嫌いではない。むしろ楽しい。そこで、「絵画と鏡」「絵画のなかの時間」というようなテーマを作って、手持ちの資料を調べ直したり、大学の図書館に出かけたりしているわけだが、どうも最近は、調べたことを切り棄てるのが下手になったように思う。思い切りが悪くなったのかもしれない。
 私は講座の度に8ページほどのレジュメを作る。聞いて下さる人に配布して、それを読みながら話を続けるわけだが、実際は調べたことの1割から2割程度しかレジュメに載せられない。8割から9割の資料を切り捨てるわけだが、そうすることによってテーマがはっきりとし、話の筋道が通ってくる。学会の発表や、講演などの場合も、基本的にはそのような手順を踏んできた。だが、最近はその切り捨てた部分に、余談、寄り道みたいな形で、言及してしまう。そんな傾向が強くなった。そのため、時間が窮屈になり、話の内容もとりとめがない。悪いクセがついてしまったな。そんな反省がしきりに湧いてくる。

○吉本隆明の「自序」が腑に落ちない
 ただし、今回「マルクスと三浦つとむと、吉本隆明」というタイトルを選んだのは、先日の講座の内容をすっきりとした形に整理をし、文章化するためではない。むしろその反対に、講座や論文では切り捨てる事柄を、関心の赴くまま、興味の広がるままに辿っていく。そういう書き方をしてみたい。つまりワルイ癖を逆手に取って、目的を定めず、いわば恣意的に書いてみたくなったのである。
 
 そんなわけで、何から始めてもいいのだが、先日の講座の準備を進めている間に感じた疑問をまず挙げてみよう。吉本隆明は角川文庫版『改訂新版 共同幻想論』(
昭和57年1月)に載せた、「角川文庫のための序」の中で次のようなことを語っている。
《引用》
  
国家は幻想の共同体だというかんがえを、わたしははじめにマルクスから知った。だがこのかんがえは西欧的思考にふかく根ざしていて、もっと源泉がたどれるかもしれない。この考えにはじめて接したときわたしは衝撃をうけた。それまでわたしが漠然ともっていたイメージでは、国家は国民のすべてを足もとまで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋へ移ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることはできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とはまったくちがうことを知った。
  まずわたしが驚いたのは、人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえに聳えているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージでかんがえられてはいない。いつでも国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。
  ある時期この国家のイメージのちがいに気づいたとき、わたしは蒼ざめるほど衝撃をうけたのを覚えている。

 私はこれまで吉本の『共同幻想論』を、河出書房新社版(昭和43年12月)で読んできた。つい最近、藤井貞和さんが編集した「全読・共同幻想論」(學燈社『國文学』第33巻第3号。昭和63年3月)を見るまで、角川文庫版が「定本」とされていることを知らなかったのである。そこで角川文庫版を探し出し、上のような「序」をはじめて読んだわけだが、「本当かな?」と、何だか腑に落ちない。吉本隆明はマルクスのどの著書から、「国家は幻想の共同体だというかんがえ」、「国家は共同の幻想としてこの社会のうえに聳えているという西欧的なイメージ」を読み取ったのか、それがよく分からない。それだけでなく、そもそも西欧的な国家のイメージが、はたして「人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえに聳えている」と言えるかどうか、そこのところがよく分からなかった。
 言葉を換えれば、河出書房新社版で『共同幻想論』を読んでいた時期、私は上のようなモティーフを読み取ることができなかったのである。

○三浦佑之の意味づけに対する疑問
 そこで私は、もう一度藤井貞和編の「全読・共同幻想論」を読み直して見たが、しかしこの疑問は一向に氷解しなかった。
 「全読・共同幻想論」は、何人かの研究者が『共同幻想論』の各章を分担してコメントをつけた、共同論集であるが、「序」と「禁制論」を担当した三浦佑之が、『共同幻想論』が出版された時期の読まれ方を、「
それは、学問の権威が揺らぎ、学生たちが、たしかな<共同性>を希求していた季節だった。『共同幻想論』は、あたかも、その季節のバイブルであるかのように読まれた」と言っている。そこにも私は疑問を感じた。
 
 『共同幻想論』が出版された昭和43年に、私は31歳で北大の文学部の助教授になった。その翌年、北大でも大学紛争が顕在化し、私は特攻志願みたいな形で教養部の拡大学生委員会の委員となり、自宅に引き込んでしまった教員たちに較べれば、紛争当事者の学生と接触することが多かった。
 その経験に照らして言えば、紛争当事者の学生たちが『共同幻想論』をバイブルのように読んでいたことはなかった。むしろよく読まれたのは『擬制の終焉』(
昭和37年6月、現代思潮社)や『模写と鏡』(昭和39年12月、春秋社)、『自立の思想的根拠』(昭和41年10月、徳間書店)などだったように思う。
 吉本隆明がいう「共同幻想」とは、ある閉鎖的な空間に住む人たちが心的に共軛された形の共同体を作っている、その共軛(
共役/きょうやく/yoke together)のことだ。私はそう読み取ってきた。だから、『共同幻想論』が「たしかな<共同性>」の構築を視向した著作とは思わなかった。当時の学生たちが、「たしかな<共同性>」の指針を得ようとしてこの本をを手にしている、とは思えなかったのである。
 私の見るところ、『共同幻想論』のモティーフは、私たちが無意識のうちに共軛されている心的、感情的なあり方を意識の対象とすることで、共軛の呪縛から解放することであった。

○稿を改めて
 ここまで書いてきたところ、日本列島の「周辺」の島々を巡って、領土問題がにわかに緊迫度を増してきた。
 ロシアの首相が北方領土に足を踏み入れ、韓国の大統領が竹島に足を踏み入れ、香港の民間団体のメンバーが尖閣諸島に足を踏み入れて、沖縄県警に「不法入獄の疑い」で逮捕されるという事件が、相次いで起こったからである。
 こういう現実的な問題と「共同幻想」の理論的問題とはどうリンクするのか、それともしないのか。その辺のことから、稿を改めて考えてみたい。

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