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忠三郎控帳より(3)

忠三郎控帳より(3)
――近世の訴訟――

○「切金」(「きりきん」、又は「きりがね」)について
 前回紹介したように、女渕村の忠三郎と、東田面村の弥惣治は、奉行所での対決を日延べしてもらい、さらに示談の交渉を続けることになった。では、どんな合意に達したのであろうか。
 その内容を紹介する前に、「切金」
(「きりきん」、又は「きりがね」)という制度に目を配っておきたい。
 
 「切金」とは、借金を分割して返済することであるが、江戸時代、吉宗が将軍だった時に定められた制度で、借り手の側に極めて有利な返済方法だった。
 天保十三年
(一八四二年)の改革までは、幕府が定めた利息の上限は元金の一割五分までになっていた。つまり、もし131両を借りるとすれば、一年後には、元利合わせて150両強の金額を返さなければならないわけだが、いまこの金額で「切金」を説明してみよう。
 文化三年
(一八〇六年)に幕府が定めた返済法によれば、百一両以上千両までの借金は、一五年の年賦(または月賦)で返せばよいことになっていた。ただし、最初に返すべきお金の額はもっと細かくランクづけられていて、150両までの切金高は3両だった。
 それ故、前々回で説明した方法によって、一両を10万円と計算するならば、150両つまり1500万円の借金に関して、まず初年度に30万円を返し、残りの1470万円は、翌年から15年かけて返済すればよいわけである。
 しかも、切金によって返済を始めてからは、未返済のお金には利子がかからない。15年かけて150両を返済したとして、その間利息がかかるわけではなく、要するに150両だけを返済すればよい。その意味で「切金」とは、無利息年賦の返済方法だった。
 
 おまけに、文化十三年
(一八一六年)の改訂では、最初に返すべき切金は、借金150両に対して3分にまで引き下げられた。当時の計算法は、1両=4分だったから、3分とは4分の3両、つまり7万5千円でしかない。1500万円の借金に関しては、まず7万5千円だけ返せばよかったのである。

○貸し手(債権者)に対する譲歩の強制
 これは借り手(債務者)にとっては有難い制度だったが、貸し手(債権者)にとっては割に合わない制度だった。
 いまAという人物が、利子は1年に1割5分の約束で、Bに131両(1310万円)を貸したとすれば、一年後には150両強(1500万円強)を受け取ることができるはずだが、Bが言を左右にして一向に返してくれない。Aはやむをえず勘定奉行所に訴え、勘定奉行がAの訴えを認めて、Bに切金のやり方で返済を命じたとしても、Aが最初に受け取ることができるのは僅かに3分(7万5千円)。残りの149両1分は、その翌年から、全く利息なしで、15年かけてチリポリチリポリと受け取ることになるわけである。
 だが、その実態は、貸し手にとってはさらに過酷だった。これは後にもう一度ふれる予定だが、奉行所はできるだけ「内済」(話し合い)で解決するように指導していた。ところが、内済の実態は「
三分一も請取、残りハ証文ニ書替、又ハ不足勘弁致し候」、つまり貸金の三分の一程度受け取ったら、残りについては改めて証文を書き替えるか、あるいは残りの不足分は返済を許してやる。そういう結果に終わるケースが多かった。「不足勘弁致し」とは言っても、まさか貸し手が自発的に不足分を勘弁してやるはずがない。奉行所が貸し手に圧力をかけて、不足分を請求する権利の放棄を強いたのである。
 
 前回書いたように、公事宿の主人は弁護士的な仕事を引き受け、また「外代」という、弁護士事務所における弁護士兼事務員とも言うべき使用人がいて、泊まり客の公事を助けた。
 忠三郎のような出入(民事事件)の場合、奉行が最初に訴訟人(原告)と相手方(被告)とを呼出して行う審理を「奉行糺」と呼んだが、これは半ば形式的なものだったらしい。次の回からは「留役」という、検事兼判事の役を務める奉行所役人が「留役糺」を行い、これは大変に厳しかった。公事宿の主人や外代の中にはその「糺」(審理)の様子を、宿に帰ってから書き留めておく者もいて、その一部が、石井良助の『近世民事訴訟法史』(
創文社、昭和五十五年二月)や、瀧川政次郎の『公事師公事宿の研究』(赤坂書院、昭和五十九年六月)に紹介されている。
 石井良助の紹介によれば、それは以下のような具合だった。
《引用》
  
後刻御呼込候処、相手方より右之書付出ス、御取用ニ而留役白州へ持出し、如斯三十両出跡ハ証文可致候申上者、「縫殿助何ゼ承知セぬ」と、種々御叱有之ニ付、「私承知仕らぬ訳合を申上候、右三十両も十日日延致呉ろと申、又証文江町役人印形不成と申ますれハ、此上期日ニ成滞候儀眼前之様ニ被存、不安心ニ被存候」と申上候処、「夫なら三拾両ハ承知せぬ歟、」「私儀も先達而対談取極不残相渡へき旨書付迄差上申候へハ、猶又御理解御座候故、五十両唯今不残受取可申ニハ無御座候へ共、四拾両も相渡候様、又『町役人印形致たなら、残金ハ延テやッテもよかろう』と、先達而御吟味之節も有之候故、右之処を申聞ケ候」と申上候処、「夫なら我勝手ニしろ、逗留したい程逗留して居ろ、奉行所デハモウかまハぬ」、殊之外御叱ニ付、町役人印形仕候儀被仰付被下度申候処、(引用符号は亀井)

 少し分かりにくいかもしれないが、発言ごとに引用符号をつけておいたので、訴訟人(貸し手)と留役のセリフを区別することができるだろう。もちろん乱暴な言葉遣いのほうが留役であって、留役は訴訟人の言い分が正しいことを認めつつも、三十両にまけてやり、残りは証文を取っておけばよいではないか、と問いかける。それに対して、訴訟人は、〈いや、もともと五十両を受けとるべきところですが、全額払えとまでは無理を言いません。でも、四十両はいただきたいと思います〉と答えた。すると、留役は腹を立てて、〈それなら勝手にしろ、江戸に逗留したければいつまでも逗留しているがいい。奉行所としては、もうお前の訴えは取り上げないことにする〉と叱りつけた。
 こんなふうに、奉行所はほとんど理不尽な形で訴訟人(貸し手)の譲歩を強制したのである。
 
 もちろん奉行所の留役は訴訟の相手方(借り手)に対しても――特に相手方が商人や百姓の場合――証文通り金を返すよう居丈高に命じてはいる。だが、訴訟人(貸し手)に対しても自分(留役)が提示した妥協点にまで譲歩することを要求し、訴訟人が同意を渋ると、このように威嚇した。
 私はこの箇所を読んで、つい某大臣が被災地の県知事に高飛車なもの言いした場面を連想してしまった。大岡越前守忠相の記録も残っているが、彼も庶民に対してはずいぶんと伝法な口を利いたらしい。が、それはともかく、訴訟人(貸し手)にしてみれば、先ほどのような無茶な言い分を呑まされて、譲歩を強いられるのならば、もう金を都合してやるのはやめた、貸金の返済を値切られるくらいならば、もっとましなことにお金を使おう。そう考えるのは、当然の成り行きだろう。こうして、貸し渋りが始まったのである。

○「日済し(ひなし)の横行
 他方、庶民の世界で横行していたのが、「日済し」という半ば非合法の高利貸しだった。
 「日済し」については、喜多川守貞が『守貞謾稿』という随筆書で、このように説明している。
《引用》
 
譬ば今日元金一両を貸す。此銭大略(おおよそ)六貫五百文也。翌日より六十五日の間毎日銭百文を還す。日々になしかへす故にひなしかし(日済し貸)と云。蓋息(利息)は始めに除之(これをのぞく)、金一両の証文にて二朱の息(利息)を除き其実三分二朱を貸す也。
 
 守貞がこれを書き始めた天保年間は、一両の相場が六貫五百文、つまり6500文だったらしい。「日済し」とは、例えば1両=6500文を借りて、毎日100文ずつ、65日間で返すことだが、貸し手はあらかじめ利息の2朱を引いて、借り手に3分2朱を渡し、ただし証文には1両を貸した形にしておくわけである。
 前にも言ったように、当時は1両=4分だったわけだが、1分=4朱だった。つまり1朱は1両の16分の1だったわけで、1両=6500文とすれば、1朱=406,25 文になる。利息の2朱は812文強となるわけである。
 江戸の長屋に住む、日銭稼ぎの商人や職人にとって、これはつい手を出したくなるような借金の方法だっただろう。さし当たり7,8万円もあれば、この急場を凌ぐことができるのだがなあ、という人間が、10万円から1万2千500円を差し引いたお金を受け取り、毎日1500円余を、65日間で返していく。日当7千500円くらいは稼げるのだから、まあ何とか返せるだろう。そんな計算で、深くも考えずに、借りてしまう。そんな情景が浮かんでくる。
 
 しかし、油断は禁物。上記の「日済し」は、65日間で利息は元金の16分の2、つまり8分の1。天保年間、守貞の時代には、1両でおよそ812文の利子。一日に平均すれば、12文強でしかない。だが、もしこんな借り方を1年続けるならば、利息だけでも年間でおよそ4380文を払わなければならない。結局、元金の6割7分を超える高利で借りることになってしまうのである。
 
 江戸時代を題材にしたドラマで、高利貸しは血も涙もない、冷酷非情な人間に描かれてきた。それは以上のような金利のシステムが生んだ悲劇が伝わってきたからであろう。金を借りたくても担保を持たない、日銭稼ぎの庶民は、そういう金融に頼るしか金策の方法がなかったのである。

○「借り手は強し」の世界
 だが、そういう庶民相手の金融を別にすれば、江戸時代の金融システムは借り手に有利、貸し手には不利だった。それは、先に紹介した「切金」制度で分かるだろう。
 どうして「切金」のような制度が出来たのか。多分それは、借り手の多くが武士階級であり、貸し手は主に商人だったためである。
 石井良助は『近世民事訴訟法史
(前出)の中で、寛政九年(一七九七年)の「出入裁許之儀ニ付御書取」という幕府側の資料を紹介しているが、その中にこんな言葉が見られる。
《引用》
 
一躰貸方ニハ、先廉耻之心ハ薄キ筈ニ候間、利徳を而已(のみ可存筋ニ付、其所を能吟味有之、借方ハ専廉耻を可存筋可為本意事ニ(借方はもっぱら廉耻を存ずべき筋、本意たるべき事に)、可成程ハ(なるべき程は)廉耻を不失様(うしなわざるよう)申教之上も、不及是非バ、表立申立、其沙汰ニ及候事ニ内規定可然と存候。
 
 この言葉と先ほどの留役のセリフとを合わせてみれば、当時の幕閣や奉行所の役人の町人観がよく分かる。要するに彼らは、「そもそも貸し手になるような人間は廉恥心が薄く、利徳ばかり考える連中であるから、その訴えをよく吟味しなければならない。他方、借り手のほうは廉恥を守ることが本意であるから、なるだけ廉恥を失わないように申しさとすがいい。それでも聞き分けがない時は、表だって申立て、公の沙汰に及ぶことになる」というわけで、〈金を貸すのは廉恥心が薄く、利徳ばかり求めている連中でしかない〉と貸し手をおとしめる見方に立っていたのである。
 
 徳川時代は、武士が商人に金を貸すことは全くなかったとまでは断言できないとしても、一般的には商人が武士に頼まれて金を融通することが普通だった。そこで、当時の閣僚たちは武士の立場を守るため、〈商人から金を借りる武士はもっぱら廉恥を重んずる立場にあり、だから出来るだけ廉恥心が傷つけられることがないように配慮をしなければならない〉という理屈を立てたのだろう。だが、廉恥心に富むはずの武士のほうがはるかに恥知らずだったのである。
 武士は借りた金を返そうとしない。商人はやむをえず奉行所に訴えるが、奉行所は「内済」(示談)で解決するようにと突き放しにかかる。そこで、「内済」で解決しようと話し合いを試みるのだが、武士のほうは「ない袖は振れない」と開き直って、一向に埒が明かない。仕方なく、商人がその実情を訴え、ようやく奉行所は重い腰をあげて「切金」による解決を双方に命ずる。だが、武士のほうは最初の少額を払うだけで、それ以後の年賦については頬かぶりをして、払おうとしない。
 
 石井良助の研究書を見ると、実は当時の閣僚たちもこの実態には気がついていた。だが、しかし、さて、どうしたものか、よい解決策が思い浮かばなかったのである。
 これは、もともと「切金」が吉宗の意向を受けて始まった制度だったからでもあるだろう。将軍の意向で始まる制度は、キリスト教国におけるローマ法王の布告のようなものだったらしく、これを変えるのは先の将軍に対して畏れ多い。仕方なく閣僚たちはこの制度には手をつけず、「武士は廉恥を重んずる」といったタテマエ論を繰り返すしかなかった。このタテマエ論が借り手の武士の破廉恥を容認してやる結果をもたらしてしまったのである。

○「妖怪」の改革
 この状態を何とか変えようとしたのが、天保の改革を試みた老中首座の水野忠邦であり、彼の右腕として辣腕を振るった、南町奉行の鳥居甲斐守だった。
 鳥居甲斐守耀蔵が天保十三年
(一八四二年)十月一日の日付で、水野忠邦に提出した意見書「金銀出入取捌之儀ニ付勘弁仕候趣申上候書付」には、次のような指摘が見られる。
《引用》
 
文化三寅年五月評定所一座より伺之上、古来より之切金員数御改革、年賦之割合を以裁許申付候ニ付、元来寛か成割合(ひろやかなる割合)猶又一層寛かニ相成、裁許受候而ハ、訴訟人難渋致候次第を以、内済いたし候様ニ而己(のみ)利解申聞、外取扱振無之ニ、借方之もの気強ニ相成、詰り貸方損毛相立候振合ニ付、三分一も請取、残りハ証文ニ書替、又ハ不足勘弁致し候も内済熟談致し候様ニ成行、其上近年別而人情浮薄ニ相成、廉耻之心絶而無之(れんちのこころ絶えてこれなく)、其時ニ取り申延致し候得バ、事済候儀と心得、一般ニ等閑候様相成候故(一般ニなおざりそうろうよう相なりそうろう故)、金主共損失を償ひ候為メ、自ら高利之貸附方致し候儀と相聞。

 つまり鳥居耀蔵によれば、文化三年から文化十三年へと進んでいった「切金」の方法は、もともと借方に対して寛大だったところ、一層寛大になり、そのため訴訟人(貸方)は難渋している。ところが、奉行所の方針は「内済で解決するように」と説得するだけだったため、いよいよ借方の者は強気になる。結局貸方のほうが損をするような成り行きとなって、仕方がなく貸金の三分の一程度を受け取って、残りは証文を書き替えたり、不足分は「勘弁」(免除)してやったりする方向で、「内済」をまとめる。それが当たり前のようになってしまった。
 その上、最近は人情が浮薄になり、恥を知る心がなくなったため、「切金」の判決が出て、返済期間が長びくことになると、もうそれだけで事は済んだとばかりに、その後の返済を等閑(なおざり)にしてしまう。金主のほうは、これでは堪らないと、損失を補うために高利の貸金を行うようになったということだ。
 鳥居耀蔵はおよそこのようなことを言っていたわけだが、明らかに彼は武士を念頭に置いて、借り手の道義心の低下を「
廉耻之心絶而無之」と指摘している。これは画期的な認識と発想の転換だったと言えるだろう。
 それと共に、「
三分一も請取、残りハ証文ニ書替、又ハ不足勘弁致し候而も内済熟談致し候様ニ成行」という傾向が生まれている事実を指摘している。

 鳥居耀蔵と言えば、歴史小説好きな人にはおなじみの人物で、「蛮社の獄」という疑獄事件をでっち上げて、蘭学者を弾圧した、冷酷な権力主義者として描かれることが多い。彼との対比効果で、北町奉行の「遠山の金さん」こと、遠山金四郎景元は正義と公正を愛する、闊達、磊落な名裁判官として描かれてきた。他方、鳥居耀蔵のほうは「おとり捜査」のようなことをやり、世間は彼の陰険さを憎んで、耀蔵の「耀」と、甲斐守の「甲斐」とを組み合わせて「ようかい」、すなわち「妖怪」と呼んだという。その意味で彼は、いわば歴史の憎まれ役を割り当てられて来たわけだが、その妖怪が「切金」制度の問題点に気がついたのである。
 老中首座の水野忠邦はそういう鳥居耀蔵の意見を納れて、利子の上限を元金の一割五分から一割二分にまで引き下げて、金を借りやすいようにする。それと共に、「切金」制度を廃止することにした。その代わりに導入したのが、「身代限り」の制度だった。つまり、金を返そうとしない人間には破産宣告をして、その人間の身代(財産)を貸方に与え、貸金を償還する。そういうやり方で、貸し手(債権者)の権利を守ることにしたのである。

 ただし、「切金」を廃止し、「身代限り」の制度を適用したのは、武士階級以外の商人や百姓や職人に関してだけであって、武士に関しては「切金」の制度を残している。この不徹底が天保の改革の限界だったのであろう。

○忠三郎と弥惣治との示談結果
 天保の改革のもう一つの問題は、水野忠邦と鳥居耀蔵の時代が終わっても、まだこの改革が守られていたか否かであるが、忠三郎と弥惣治との、次のような示談結果が、その一つの答えになるであろう。
《引用》
             
 対談書之事(資料八)

一 高金千両也
 内 金六百両ハ   
去ル戌年/十二月請取 
 同 金三百七拾両ハ 米麦代/今年ニ而引 
 同 金三拾両ハ   
来ル何日迄/ニ訴訟方分/可相渡筈 
 右金千両也
右之外利足金百廿両有之候処、当金拾両相渡、尚金四拾両は来ル丑年より辰年迄四ケ年賦ニ致し、年々金拾両宛十二月限り可相済旨、新規証文ニ相改、残金七拾両は訴訟方ニテ不足勘弁いたし、内済対談行届候処
(ゆきとどきそうろうところ)、相違無御座(相違、ござなくそうろう)。依テ来ル何日迄金子調達取引之上済方訟文奉差上候様、対談取究候処(対談、とりきめそうろうところ)、相違無御座候ニ付、一札為取替置申処、仍如件

                          女渕村
                           組頭 
                        訴訟人 忠三郎
                           名主 
年号月日                    差添人 定右衛門
                          東田面村
                           名主 
                        相手方 弥惣治
                           組頭
                        差添人 利喜蔵

 これを見ると、忠三郎は、利息は一割二分までという幕府の定めを守っていた。
 元金1000両の一割二分は120両となり、忠三郎が受け取るべきお金は1120両となるわけだが、既に600両は受け取っている。また、弥惣治が忠三郎に渡した米と麦
(「米三百表、大麦百俵」。「忠三郎控帳(2)」参照)は忠三郎が買い取った形になり、その代金は370両とすることで合意した。
 そうすると、元金の1000両のうち、未返済のお金は30両となり、これに利息分120両を足すと、150両になるわけだが、そのうちの10両は近日中に弥惣治から受け取り、40両は4年の年賦で返してもらう。そして残り70両の不足については、忠三郎が「不足」を「勘弁」してやる。そういうことに話がまとまったのである。

○改革の変質または武士身分の問題
 してみるならば、結局この「熟談内済」は、鳥居耀蔵が問題ありと見て、改革しようとした、「
三分一も請取、残りハ証文ニ書替、又ハ不足勘弁致し候而も内済熟談致し候様ニ成行」という状態、つまり改革以前の状態に後戻りしてしまったことになる。
 ただし、天保の改革以前の、例えば文化十三年のやり方では、150両の返済は、まず3分(1両の4分の3)を渡し、残りの149両1分は15年かけて返済すればよいことになっていた。それに較べるならば、忠三郎は初年度に10両を受け取り、それから4年間かけて、1年につき10両ずつ受け取る。その点で見れば、天保の改革以前の「切金」制度よりも、忠三郎にとっては有利な形で決着がついた。そう言えるわけだが、これが「切金」制度の転用であることは間違いない。
 なぜそうなったのか。天保の改革を推進した水野忠邦や鳥居耀蔵が失脚した後、彼らの政敵だった老中や奉行たちが、改革を無視して、なし崩しに元の制度を復活させてしまった。そういう事情が働いていたのであろう。

 もう一つ考えられるのは、弥惣治の身分である。彼は館林藩から苗字と帯刀を許されていた。このことは前々回に紹介しておいたが、これは弥惣治が館林藩の武士身分だったことを意味する。先ほど見たように、天保の改革は武士階級にまでは及ぼさず、借り手に有利な「切金」の制度を温存することになっていた。弥惣治がこの有利な立場に立とうとして、武士身分を主張する。それは十分にあり得たことであろう。
 じつは徳川幕府の中枢部にいる大名たちも、苗字・帯刀を許された人間を武士身分の者として遇するか、それとも苗字と帯刀は名誉職的な地位の表象であって、当人自身については百姓身分、商人身分として扱うか、その判断の基準が見つからず、頭を悩ませていた。
 苗字や帯刀を許したからと言って、藩の武士として取り立てたわけではない。そういう理屈は一応成り立つのだが、それならば、郷士のように実質的に武士として遇してきた人間の場合はどうなるか。それだけでなく、藩によっては、ずいぶんいかがわしい人間に苗字や帯刀を許している。それをどう扱うか。
 それやこれやで、結局幕府としてはケース・バイ・ケースで処理するしかあるまい、という結論に落ちついたらしいのだが、この曖昧さが弥惣治には有利に作用したはずである。

 忠三郎と差添人の定右衛門は、今回の出府に当たっても、山形屋という公事宿を使ったと思われるが(「忠三郎控帳(1)」参照)、弥惣治と差添人の利喜蔵は別な公事宿に泊まっていたであろう。
 一般に「内済」の話し合いは、双方の公事宿のどちらか行うか、そうでなければ、奉行所の「腰掛」で行われたという。
 「腰掛」とは、奉行所に呼び出された者が自分の順番が来るまで待っている控所のことで、茶屋を営み、待機している訴訟人に湯茶や敷物を供したり、草履や筆紙などを商ったりした。注文があれば、弁当を取ってやったりもしたらしい。話し合いはそういう「腰掛」の一角を借りて行われたわけだが、原告と被告の差添人だけでなく、両者の公事宿の主人も同席し、最近の奉行所の判決例などを紹介しながら、できるだけ話し合いで解決するように助言した。
 多分それらの条件の絡み合いの中で、先の「対談書」のような合意に達したのである。

○米麦の値段
 さて、弥惣治は600両を現金で返しただけでなく、米300俵、大麦100俵を忠三郎に渡して、それは370両に相当すると主張したわけだが、これが妥当な値段であったかどうか。
 前回私は、1両=1石という、いわば公定価格を紹介したが、もちろん米の相場はその時々で大きく変動している。
 前回を書いた後、改めて『勢多郡誌』
(昭和四十八年十一月)をめくってみたところ、「近世後期物価表」が見つかった。おやおや、ついうっかり見落としていたな、と辿ってみると、文久二年(一八六二年)における上州勢多郡の米の値段は、1両につき、八月には米3斗4升、10月には米3斗8升だった。米1俵は4斗だから、当時の米相場は1俵が1両強だったことになる。この「物価表」には文久二年八月の大麦の値段も紹介してあり、1両につき大麦8斗、つまり2俵だった。大麦100俵は50両に相当したわけである。
 
 忠三郎は文久元年に金1000両を弥惣治に融通した。文久二年十月と言えば、その返済期限が迫ってきた時期になるわけだが、もしこの年の暮れに弥惣治が忠三郎に米300俵、大麦100俵を渡したとすれば、「それを370両に見積もってくれ」という弥惣治の主張は、その時代の相場から大きくずれていたわけではない。
 ただ、1両につき3斗4升(=34升)で計算するか、3斗8升(=38升)で計算するか。この4升の差は、これに300を掛けてみれば、馬鹿にならない数字になる。米1俵は4斗、つまり40升であり、それ故4升は10分の1俵だからである。
 忠三郎と弥惣治との談合がなかなか合意に達しなかったのは、米30俵と大麦100俵をいつの相場で計算するかの問題もからんでいたであろう。
 
 このように江戸時代の米相場は波が大きく、投機の対象になりやすかった。その点で、江戸時代の貨幣価値を現在のそれに換算する場合、米の値段を基準にすると、勘違いをしてしまう危険が大きい。
 それだけでなく、「両」と「銭」との交換比率も一定していたわけではなく、幕府の公定比率は1両=4000文ということになっていたが、喜田川守貞の時代には1両が6貫500文、つまり6500文だった。こういう交換比率の変動があったればこそ銭相場が立ったわけだが、江戸時代の貨幣価値を計るには、まず銭で何文だったかを知り、その時代の銭相場を踏まえて両に換算してみるのが、一番妥当なやり方だと思う。
 私の計算法は前にも書いたが、江戸時代後期における1文は、ほぼ現代の25円に当たり、1両は10万に相当する。この場合私は1両を4000文で計算しているわけだが、喜田川守貞の天保年間は1両が6500文だった。1文を25円とすれば、16万2500円となる。
 江戸時代の経済事情に詳しい歴史小説家の佐藤雅美さんは1両を20万円と見ているが、そうすると1文が50円ということになり、私はそこまで飛躍できない。
 ともあれ、私の計算に従うならば、10両の違いは100万円前後の違いだったのである。
 
○奉行所への報告
 ともあれ、以上のような経緯によって、忠三郎と弥惣治は合意に達したわけだが、両者はその結果を奉行所に報告しなければならなかった。
《引用》
               
差上申済口訟文之事(資料九)

酒井大学頭領分上州勢多郡女淵村組頭忠三郎より秋元但馬守領分同州同郡東田面村名主弥惣治へ相懸リ貸金出入申立、去亥ノ十二月中、当御奉行所様奉出訴、当子正月廿一日御差日御尊判頭戴(頂戴)相附候処、相手方よりも返答書差上、御吟味中之処、懸合之上滞高金千両有之候処、内金六百両は去戌年中請取候と相違無之旨(相違これなきむね)相分リ、残る金四百両外ニ利足金百廿両都合金五百弐拾両之内、金三拾両訴訟方へ受取、同三百七拾両は米麦代金ニテ差引、当(尚)残金百弐拾両之処、金四拾両は来ル丑年より辰年迄四ヶ年賦ニ致し、壱ヶ年金拾両宛毎年十二月限り無相違相済可申筈(相違なく相すますべく申すはず)、新規訟文ニ相改、当(尚)残る金七拾両は訴訟方ニテ不足勘弁仕、双方無申分(双方もうしぶんなく)熟談内済仕、偏ニ御威光と難有仕合ニ奉存候。然ル上は右一件ニつき重テ(かさねて)訴願筋毛頭無御座(もうとう御座なく)、仍テ(よって)連印済口訟文差上申処、如件(くだんのごとし)
                       酒井大学頭領分
                        上州勢多郡女渕村
                            組頭
年号月日                     訴訟人 忠三郎
                       秋元但馬守領分
                        同州同郡東田面村
                            名主
                         相手方 弥惣治

御奉行所様

 こうして忠三郎の訴訟事件は結末を迎えたわけだが、数字の面からみれば、計算が合わない。「資料八」における「当金拾両相渡(今年分として頭金の拾両を訴訟方へ渡し)の文言を書き落としているのである。
 もちろん奉行所へ差し出した文書では数字が整合していたにちがいなく、その文書の文言を控えておくときに、忠三郎が勘違いしてしまったのであろう。

○二、三の疑問
 それにしても、なぜ忠三郎はわざわざ江戸で訴訟を起こそうとしたのだろうか。
 当時の慣行では、村方の人間が訴訟を起こした場合の訴訟費用――旅費や宿泊費など――は村全体で負担することになっていた。ただし、それは隣村との水争いや境界争い、あるいは入会地の利用法をめぐる争いなどの場合であって、忠三郎のような個人的な出入(民事訴訟)については、もちろん当事者が負担したであろう。忠三郎は文久三年の暮、目安糺のため江戸に出たが、女渕村の名主・定右衛門に同行してもらっている。その費用も忠三郎が負担したはずである。
 翌年の正月、再び彼は定右衛門と江戸に出て、相手方の弥惣治ともども、文久四年正月の二一日に、勘定奉行による「奉行糺」を受けた。この時、奉行から「内済」を指導されたのではないかと思われるが、話し合いがもつれて、日延べをしてもらわなければならなかった。こうして滞在日数は増えたわけだが、まさか毎日根を詰めて話し合いをしたわけではあるまい。

 先に紹介した『守貞謾稿』によれば、天保年間の公事宿の宿代は一日二食つきでおよそ二百四八文だった。ただし、食事は大変にお粗末で、しかも時間をきめて、大きな部屋で泊まり客が一緒に食べる。風呂はなく、銭湯を利用しなければならなかった。1文を25円に換算すれば、248文は6200円に相当する。簡単なブッフェ形式の朝食がついた、ビジネス・ホテルといったところだろう。
 公事で江戸に出る人間は、幕府が認可した公事宿を利用しなければならず、また、公事宿は、客から別途に金を払うからと頼まれても、特別に手を掛けた料理を出したりすることを、幕府から禁じられていた。だがこれでは、あまりにも口が淋しい。昼食は少しおごった物を町で食べることにして、どうせ外で食べるのならば、名の通った神社や仏閣をお参りし、参詣客相手の名物料理を楽しんでこよう。
 文化十年
(一八一三年)から二十二年間にわたって刊行された、十返舎一九の滑稽本『方言修行 金草鞋』(むだしゆぎよう かねのわらじ)の主人公は、奥州から江戸見物に来た鼻毛延高(はなげののびたか)と、狂歌師の千久羅坊(ちくらぼう)であるが、二人は馬喰町弐丁目の旅籠に宿を取り、翌日から、人形町通の芝居、日本橋の魚市、芝明神宮、虎之御門、神田明神宮、湯島天神、東叡山(寛永寺)、不忍弁天(しのばずべんてん)、東本願寺などへ、こまめに足を運んでいる。忠三郎と定右衛門も同じところを見てまわったであろう。
 それだけでなく、公事宿の外代にはいろいろと世話になる。外代が行きつけの小料理屋へ誘って、酒食を供すことも必要だった。
 それやこれやを合わせると、かなりの金額を費やしたはずである。
 そういう出費があることは分かっていたはずだが、それなのに忠三郎は何故あえて訴訟を起こしたのか。

 忠三郎は出羽山形の松山藩の領地の人間であり、弥惣治は館林藩の領地の人間だった。忠三郎が他藩の人間を相手に訴訟を起こす場合、相手方の藩の了解を取り、自分自身の藩の了解を取らねばならなかった。忠三郎はそういう手続きをいとわず訴訟を起こしたのである。この点に関しても、なぜあえて訴訟を、という疑問が湧いてくる。

○忠三郎のねらい
 おそらく忠三郎は、弥惣治のペースに乗せられて、曖昧なままに時間が過ぎてしまうことを避けたかったのであろう。
  
 忠三郎は目安(訴状)の中で、訴訟に至った経緯を、「
其後期月過去リ候ても済方不仕候間、催促仕候処、彼是(かれこれ)申紛し済方不仕候間、無拠相手村役人まで罷出(まかりいで)、猶精々還合(掛合)候得共、是以埒明不申、難儀至極仕候間」と説明している。(「資料一」)
 それに対して、弥惣治は「返答書」のなかで、「
去ル戌年中元利之内へ金六百両返金いたし、残金之義は米三百表(俵)大麦百俵売渡し、右代金三百七拾両余ニ相成候間、右の差引ニいたし度旨申立候間、任其意置、其後差引勘定いたし證文相返しくれ候様度々懸合候得共(たびたび掛合いそうらえども)、彼是申紛し(かれこれ申しまぎらわし)兎角引延し置(とかく引き延ばしおき)、今更ニ相成本金千両滞有之など跡形モ無之偽之儀(あとかたもこれなき偽りの儀)ヲ申立候は甚不実之致し方」と反論している。(資料六)

 このように較べて見ると、弥惣治が忠三郎に渡した米三百俵と大麦百俵とを、借金返済の一部を認めるか、それとも借金の返済はあくまでも現金で行い、米と大麦の代金は別に決済するか、という問題だったことが分かる。
 ただ、忠三郎の立場からすれば、「
不実」なのは弥惣治のほうであって、米300俵と大麦100俵をどの程度のお金に換算するかの話し合いはまだ結論が出ていないとしても、それは1000両の貸金の未返済分の30両が増えるのか、減るのかに影響を及ぼすにすぎない。1000両に対する利息の120両は、それとは無関係であり、返済期日が来た以上、払ってもらわなければならないのである。弥惣治にはそれを払う義務がある。ところが弥惣治は返済期日の文久二年の末から一年立ってもまだ払わず、それでいて、証文は返せという。忠三郎としてはとうてい納得ができなかっただろう。
 忠三郎は弥惣治に千両の金を用立てるため、知人に手伝ってもらっている。その人たちに対しては、利子をつけて返済しなければならず、忠三郎としてはこの120両を――たとえ一部を「不足勘弁」せざるをえないとしても――なし崩しに先送りさせるわけにはいかなかったのである。
 
 こうして彼は決着の場を江戸に求め、結果的には、貸金の不足分30両と、利息分50両を取り戻すことができた。天保の改革以前の「切金」では、年賦返済の初年度の頭金は4分の3両、つまり7万5千円しか受け取れなかったわけだが、忠三郎は弥惣治に10両、つまり100万円を払わせることができた。翌年から4年間は10両ずつ受けとることができる。弥惣治に1000両用立ててやって、しかし儲けがあったわけではないが、自分に協力してくれた人たちに応分の挨拶ができる程度の金を受けとることはできたのである。よく頑張ったと言えるだろう。
 これに対して、弥惣治のほうは70両、つまり700万円の不足を、忠三郎に「勘弁」させることができた。弥惣治の粘り勝ちと言えるだろう。
 ただし弥惣治に儲けがあったわけではなく、利子の一部50両を忠三郎に払わなければならなかった。もちろん江戸往復と滞在費は自分持ちだったはずである。

 忠三郎は文政十二丑年の五月四日の生れで、文久三年には数え年で三十五歳だった。よい勉強になっただろう。

○「世直し一揆」と弥惣治
 文久三年
(一八六三年)の翌年は、二月に元号が変わって「元治」となり、その翌年、また元号が変わって「慶応」となった。
 その慶応の三年
(一八六七年)の十月に徳川慶喜が大政を奉還して、徳川幕府の時代が終わるわけだが、この年は天候不順のため作物が稔らず、「秋頃の穀価米一両に一斗六升、麦五斗或ハ六分(『勢多郡誌』所収、「奈良原家年代記」)という。西国軍と幕府軍との衝突を予想して、米の買い占めもあったはずで、ともかく大変なインフレとなった。これらが原因となったのだろう、慶応四年には、上州(群馬県)と武州(埼玉県)にまたがる広範囲な地域で「世直し一揆」が起こり、二月に倉ヶ野や新町を打ち毀したのを手始めに、赤城山南山麓の各村で打ち毀しを働きながら東へ向かい、大間々町に達した。斉藤良太郎の『粕川村明治百年』(粕川村教育委員会、昭和四十三年十二月)によれば、この時、勢多郡水沼村の名主の星野弥平とその息子が渡良瀬川沿岸十八か村の農民を組織して、世直し一揆の集団に対抗し、大間々から西へ一揆集団を押し返した。押し返された一揆集団は、膳村の膳城跡に結集した。
 この膳城は、これまた歴史小説好きの人ならばじきに思い当たると思うが、甲州軍団を率いた武田勝頼が「素肌攻め」をした城として知られている。膳城の武士は衆寡敵せずに落城し、以来その跡を留めるのみだった。この膳村は女渕村と同様に酒井大学守の領地で、弥惣治の東田面村と隣接している。
 この膳村に結集した集団は、膳村の千代吉という人物に朝飯二百人分の調達を命じたという。二百人前後の集団だったのであろう。
 
 この前後の集団の行動については、弥惣治が『日記』に書き残しており、『勢多郡誌』に紹介されている。それによれば、世直し一揆の重立った者、五人ほどが、三月十四日の晩五ツ頃(八時頃)に弥惣治の家に乗り込み、上座に座って、「
此度我等世直ニ罷越候者也、村役人当人揃候哉」と尋ね、「申渡儀ハ拾七ヶ年此方諸証文不残並質物相返し、其上施金百五十両米百表(俵)隣村迄施ス□□ニ而聞済之所請書差出可申」と命じた。つまり、ここ十七年来の証文類や質物はすべて相手の返し、その上、金百五十両と米百俵を隣の膳村まで届けろ、と命令したわけである。
 これを見ると、弥惣治の家は質屋も営んでいたらしい。
 弥惣治にしてみれば大いに迷惑だったが、打ち毀しに合うよりはマシだと判断したのだろう、一揆方の要求通りにすることを、「
世直シ大明神様」に宛てに一筆書いて渡した。すると、翌日から沢山の人が証文や質物を取り戻しにきた。なかには自分で来ることが出来ず、人に頼んで取り戻した者もいたという。
 しかし、弥惣治の『日記』によれば、騒動が治まった後、おいおいと質物を返しに来る人が増え、「
七月七日迄ニ壱口残り帰り申候」。一点だけ帰らなかったが、残りは全部もどってきたのである。

 この「世直し一揆」は女渕村より南の村々を移動して大間々町を目指し、おかげで女渕村は大きな影響を受けなかった。私の父の話によれば、このとき忠三郎は一揆の様子を見に出かけて、しばらく一揆の後について行き、女渕村にはかからないことを見届けて帰って来たという。
 
 
 
 
 

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