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忠三郎控帳より(2)

忠三郎控帳より(2)
――近世の訴訟――

○「貴殿」と「目安糺」(めやすただし)
 前回私は、東田面村の弥惣次が女渕村の忠三郎を「貴殿」と呼んだことについて、弥惣次の侍身分意識を指摘した。しかし、どうやらそれは私の早合点だったらしい。忠三郎もまた文書の中で、相手方を「貴殿」と呼んでいたからである。
 忠三郎が使った「貴殿」は、女渕村の仙右衛門が、桐原村の善十郎に宛てた「質地証文之事」という証文の中に見られる。当時は自分の土地を質に入れて金を借りる場合、親類の万五郎、組合の貞二郎、組頭の忠三郎、名主の定右衛門など、親類や、同じ村の村役を連帯保証人に立てなければならなかった。それだけ農地の権利の移譲については慎重さが求められたのであろう。その場合の表現は、借り手の仙衛門が貸し手の善十郎に対して借用書を書く形を取りながら、実際には連帯保証人が貸し手の善十郎に対して、「私たちが責任を負うから」と約束する形になっている。その意味で、仙右衛門の保証人となった忠三郎もまた、貸し手を「貴殿」と呼んだ一人だったことになる。これは契約書における慣用的な言い回しだったのであろう。
 東田面村の弥惣次が忠三郎から千両の金を借りた時にも、当然、東田面村の村役や親類が保証人に立っていたはずである。

 もう一点、補足しておきたいのは、「目安糺」(めやすただし)という手続きについてである。前回紹介したように、忠三郎は「乍恐以書付御訴訟申上候」(資料一)という目安(訴状)を、江戸の勘定奉行所へ提出した。奉行所の役人は、果たして忠三郎の訴えに根拠があるかどうかを確かめるために、忠三郎と差添人を呼び出して、事情を聞き、証拠物――たとえば弥惣次が忠三郎に渡した「借用証文」など――を調べる。この手続きを当時は「目安糺」と呼んだわけで、忠三郎の言い分は審理に値すると判断したならば、目安の裏に奉行の略称を書き、判を捺す。つまり、正式の御尊判(訴状)となるわけである。
 当然のことながら、忠三郎は江戸に出て、目安糺の審査を受けたわけだが、名主の定右衛門も差添人の立場で同道していたであろう。

○「差日」(さしび)と「着届」(ちゃくとどけ)
 さて、女渕村の忠三郎と定右衛門は、翌年の文久四年(一八六四年)の正月に再び江戸へ出かけた。わらじを脱いだのは、前回と同じく、馬喰町弐丁目の山形屋だっただろう。そして多分、山形屋の下代(代理人)が同道して、次のような文書を奉行所へ届けたのである。
《引用》
                                  
乍恐以書付奉申上候(資料四)
上州女渕村忠三郎奉申上候。私より秋元但馬守様御領分東田面村名主弥惣次へ相懸リ貸金出入申立、奉出訴、当月廿一日 御差日之御尊判頭戴
(頂戴)被仰付、相手方へ相附、拝見書取て 則御差日四日以前ニ相成候ニ付、差添人一同着御届奉申上候。以上
                                                                    酒井大学頭領分
                                                                      上州勢多郡女渕村
                                                                              組頭
  文久四子年                                         訴訟人 忠三郎
     
正月廿二日                                                 名主
                                                                        差添人 定右衛門

御奉行所様

 このように、江戸の公事宿に着いたことを奉行所へ届ける文書を、「着届」(ちゃくとどけ/到着届け)と言った。この文書の中に、「御差日」という言葉が出てくるが、「差日」(さしび)とは、奉行所が指定した月日のことである。当時の慣例では、差日の四日前には公事宿に入って、待機していなければならなかったらしい。
 ただし、この文書によれば、奉行所の指定は正月の二十一日であり、それ故、指定通りに「
御差日四日以前ニ相成候ニ付、差添人一同着御届奉申上候」と言っていながら、「着届」の日付が「正月廿二日」になっている。忠三郎が控帳に写すとき勘違いをしたのかもしれないが、正確な理由は分からない。
 
 ともあれ、弥惣次の側も次のような着届を提出している。

                                      乍恐以書付奉申上候(資料五)
秋元但馬守領分上州勢多郡東田面村名主弥惣次奉申上候。今般女渕村組頭忠三郎より私へ相懸リ難渋出入申立、当御奉行所様奉出訴、当月廿一日 御差日 御尊判頭戴
(頂戴)被相附、恐入拝見奉畏候。則御差日四日已前(以前)ニ付返答書弐通持参、差添人一同出府着御届奉申上候。以上
                                                               秋元但馬守領分
                                                                    上州勢多郡東田面村
                                                                             名主
  年号月日                                           相手 弥惣次
                                                                              組頭
                                                                      差添人 利喜蔵

御奉行所様

○弥惣次の「返答書」
 こうして、原告と被告が江戸で相見えることになったわけだが、このとき弥惣次が用意してきた「返答書」は次のような内容だった。
《引用》
                   
乍恐以返答書奉申上候(資料六)
秋元但馬守領分上州勢多郡東田面村名主弥惣次奉申上候。酒井大学頭様御領分同州同郡女渕村組頭忠三郎より私相手取貸金出入申立、先月中当御奉行所様まで奉出訴、当月廿一日 御差日之御裏 御尊判頭戴
(頂戴)被相附候ニ付、左ニ御答奉申上候
此段訴訟人申立候通、去ル酉年金千両借用致し候事、相違無御座候得共、其後去ル戌年中元利之内へ金六百両返金いたし、残金之義は米三百表
(俵)大麦百俵売渡し、右代金三百七拾両余ニ相成候間、右の差引ニいたし度旨申立候間、任其意置、其後差引勘定いたし證文相返しくれ候様度々懸合候得共(たびたび掛合いそうらえども、彼是申紛し(かれこれ申しまぎらわし)兎角引延し置(とかく引き延ばしおき)、今更ニ相成本金千両滞有之など跡形モ無之偽之儀(あとかたもこれなき偽りの儀)ヲ申立候は甚不実之致し方、何共難心得奉存候(なんとも心得がたくぞんじたてまつりそうろう)間、此段乍恐 御賢察之上、右様不法之儀ヲ不申懸(申しかけず)米麦代金ヲ差引、過不足之分のみ取引致し證文相返し候様、被仰付被成下置度(おおせつけられ、なしくだしおかれたく)奉願上候。以上
                                    秋元但馬守領分
                                     上州勢多郡東田面村
                                             名主
  年号月                                   相手方 弥惣次

御奉行所様

 これをみると、たしかに弥惣次は去る酉年(文久元年/1861)に、忠三郎から千両を借りている。その点は弥惣次も認めるわけだが、しかし弥惣次に言わせれば、翌年の戌年には六百両を返し、その外、米三百俵と大麦百俵を売り渡し、それはおよそ三百七拾両に相当する。それらを引けば、残りは三拾両となる。それで決済しようとしたのだが、忠三郎はあれこれ言を左右にして借用証文を返してくれない。それだけでなく、今頃になって、元金千両の返済が滞っているかのような言い方で、奉行所へ訴え出た。不誠実なやり方としか言いようがない。弥惣次はそう主張したわけである。
 弥惣次の返答は忠三郎の人格非難にまで及んでいる。よほど感情的になっていたのであろう。こうして忠三郎の主張と弥惣次の主張は真っ向からぶつかってしまったのである。

 ただ、弥惣次の言い分には不透明なところがある。
 米三百俵と大麦百俵の売値は、果たして三百七拾両に相当するか否か。その点も問題なのだが、仮に三百七拾両に相当するとしても、弥惣次の負債は、残り三拾両の外に、千両の利息も含まれていたはずである。だが、弥惣次は故意か偶然かその点には言及していない。忠三郎の立場からすれば、不足分の三拾両を払うから借用証文を返してくれと言われても、はい、そうですか、と証文を返すわけにはいかなかったであろう。
 忠三郎は弥惣次から千両を貸してくれと頼まれて、しかし自分一人ではそれだけの大金を急には用意できない。そこで、「
他借致」(資料一)、つまり他の人からもある程度まとまった金を都合してもらったわけだが、その人が無利子で都合してくれたとは思えない。そのような事情もあって、多分忠三郎は、利息分も含めてきれいに返済してもらいたかったのである。
 
○米価の駆け引き
 ところで、江戸時代後期の一両は、現在のお金でどれくらいの金額になるのだろうか。私は漠然と、江戸時代は米一石が金一両に相当する、と覚えていた。
 江戸時代の経済に詳しい小説家・佐藤雅美によれば、米百俵はおよそ四〇両に相当する。佐藤雅美もまた米1石=金1両で計算したのだろう。なぜなら、江戸時代の石高計算では米1石は米10斗、米1俵は米4斗であり、それ故、米1石は米1俵の2,5倍となる。これによって計算すれば、米百俵は四〇石となるからである。
 こうしてみると、東田面村の弥惣次が、いかにべらぼうな高値で米と麦を忠三郎に売りつけようとしたか、よく分かるだろう。当時の米と大麦の交換比率は分からないが、仮に大麦の価格は米の半額だったとしよう。弥惣次は米三百俵と大麦百俵とを、――米だけに換算すれば三百五十俵を――忠三郎に渡して、これは三百七十両余に相当する、と主張した。佐藤雅美の計算に従えば、三百五十俵は百四十両にしかならないわけだが、弥惣次はその二倍半を上回る値段で、忠三郎に売りつけようとしたわけである。

 このことは、文久年間の米の値段や、忠三郎が米三百俵、大麦百俵を必要とした理由とも関係する。その意味では即断を避けなければならないのだが、少なくとも弥惣次がかなりあざとい駆け引きを忠三郎に仕掛けていたらしい印象は、これは否定しがたいところだろう。

○「一両」の値段
 ただ、江戸時代の一両が現在のお金に換算して幾らくらいになるか。これが意外にむずかしい。何を基準として、江戸時代の「両」と現代の「円」とを換算するか、それによってかなり金額が変わってくるからである。
 たとえば落語に出てくる二八蕎麦、あれは十六文のしゃれた言い方で、2×8=16文となるわけだが、現在のかけ蕎麦が一杯400円とすれば、1文は25円となる。江戸時代の公定的な交換比率は、銭1000枚(1000文)=1貫文、銭4貫文=金1両だった。それに従って計算すれば、1両=4000文となり、4000×25円=100,000円となる。
  
 菅野則子と桜井由幾の共著『古文書を楽しむ
(竹内書店新社、平成十二年)では、米1石=約180キログラム。元禄の頃の米価1石=約小判1枚。現在の米価10キログラム当たり=3,646円(推定標準米価格2000年4月)。これで計算すると、1両=65,628円となる。そういう計算だった。
 ただし、現在の米価はもう少し高い。それだけでなく、江戸時代に米が他の商品に対して持っていた重みと、現在の米が他の商品に対している重みとでは、前者のほうが遙かに重みがあった。現在の米価から1両の価値を割り出すのは、かなり無理があると言わねばならないだろう。

 佐藤雅美によれば、江戸時代の後期、日銭稼ぎで暮らしを立てている人のうち、最も手間賃が高かったのは大工だった。1日に400文くらいの稼ぎだったという。この大工が一ヶ月のうち、三、八の日、つまり3のつく日と8のつく日とを休んだとすれば、一ヶ月に六日を休み、二十二日働くことになる(江戸時代の一ヶ月は、陰暦で二十八日だった)。そうすると、1ヶ月に8800文、つまり2,2両を稼ぐ計算となる。この大工が親や妻子を養い、子どもは寺子屋に通わせ、さらに将来の独立を考えて貯金も心がけているとすれば、現在のお金に換算して月収35万円くらいの稼ぎになるだろう。そういう計算に立ってみれば、1両は16万円くらいになるわけである。
 
 こんなふうに、基準の設け方によって一両の値段は大きく変わる。結局私は二八蕎麦を基準に、1両を10万円と計算してみたわけだが、そうしてみると、千両は一億円となり、弥惣次が未返済として認めた三十両だけでも、三百万円になる。
 徳川幕府が天保十三年(一八四二年)に定めた金利の上限は、年に一割二分、つまり元金の一二パーセントだった。ただし、当時の金貸業者が唯々諾々とそれに従ったはずはなく、担保を持たない相手には一割五分を要求し、時には一ヶ月に一割という高利をふっかける場合もあった。が、それはともかく、幕府の定めを遵守したとしても、一億円の一二パーセントは一千二百万円となる。
 次回に紹介する文書によれば、忠三郎は幕府の法定利息を守ったのだが、弥惣次は利息の問題には言及していない。また、仮に米三百俵と大麦百俵の価格を、弥惣次が言うように三百七拾両に評価したとしても、弥惣次はまだ残りの三拾両、つまり三百万円を払っていない。にもかかわらず、借金の証文を返してくれと言うのは、あまりにも虫がよすぎる。忠三郎としては裁判に訴えるしかなかったのであろう。

○「内済」に向けて
 当時の勘定奉行は、忠三郎と弥惣次のような貸金出入が持ち込まれた場合、出来るだけ「内済」、つまり示談で解決するように指導した。忠三郎と弥惣次はその内意を受けて、示談による解決を探ることにしたのだろう、次のように裁判の日延べを申請している。
《引用》
         
 乍恐以書付奉申上候(資料七)
女渕村一件のもの共一同奉申上候。私共出入御吟味中之処、内済熟談仕度候間
(ないさいじゅくだん、つかまつりたくそうろう間)、何卒以御慈悲(なにとぞおじひを以て)来ル廿八日まで御日延御猶予奉願上、以上
                                      酒井大学頭領分
                                        上州勢多郡女渕村
                                             組頭
  年号月日                                  訴訟方 忠三郎
                                       秋元但馬守領分
                                        同州同郡東田面村
                                              
名主 

                                          相手 弥惣次

御奉行様

 そもそも忠三郎が掛合いに行った時、じっくりと話し合って解決をしていれば、わざわざ江戸にまで出かけ、こんなふうに「内済熟談」する必要などなかったはずである。そう考えてみると、上州の喧嘩を江戸に持ち込んで、無駄な時間と金をかける成り行きとなってしまったことになる。だが、忠三郎の意図がまず弥惣次を公の場に引き出すこと、少なくとも双方の差添人が立ち会っている場所で埒を明けることにあったとするならば、忠三郎の目的は半ば達せられたわけである。

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忠三郎控帳より(1)

忠三郎控帳より(1)
――近世の訴訟――

○雪のアーケード
 今年の岩見沢はテレビの全国ニュースで何回も報道されるほどの豪雪だった。私は幌向(ほろむい)という地区の団地に住んで、もう30年もなるのだが、積雪2メートル(降雪量ではない)という雪は初めてだった。
 私の家の母屋は無落雪型なのだが、横付けする形で書庫を建増しした。これは落雪型の屋根なので、ある程度積もると、どどーっと落下して、丈の低い植木を押しつぶしてしまう。そこで10年ほど前、業者に頼んで、雪が一挙に落ちないように、屋根に横木を付けてもらったのだが、そのため今年のように大雪が降ると、1メートル50センチ、あるいはそれ以上も積もっている。
 この書庫から斜めに、1間半ほど離れて、物置が建っているのだが、ここにも雪が積もる。両方の屋根の雪がだんだんせり出して、ついにくっついてしまった。
 この物置の廻りの母屋側と、書庫とは反対側に、幅1間ほど離してフェンスが廻してある。フェンスの高さは180センチくらいで、上の横木の幅は10センチもないのだが、そこにもしんしんと雪が降って、40センチ、50センチと積もり、これまた物置の屋根の雪とくっついてしまった。
 ウソみたいな話だが、ちょうど雪のアーケードが出来たようなもので、もちろんその下をくぐり抜けようとすれば抜けられる。だが、いつどっと落ちてくるか分からない。だいいち雪が深くて、そこまで庭を横切って行くのが一苦労だ。この状態は今日(3月7日)まで続いている。
 
 しかし悪いことばかりではなく、おかげで論文に集中することができた。

○雪と論文
 昨年も雪が多かった。昨年は1月に妻が札幌の病院で心臓の手術を受けることになり、正月早々に岩見沢の病院を退院して、札幌に移った。手術の日は娘も私も病院に泊まり、翌日からは近くのホテルに泊まって、まずは一安心ということになり、家に帰ることになったのだが、JRの電車が吹雪のため江別で停まってしまった。やむをえずタクシーの運転手を拝み倒して、幌向へ向かったが、国道の両脇が切り立ったような雪の壁になっているだけではない。中央分離帯の雪も白くて高い壁になっていて、おまけに吹雪で視界が悪く、運転手さんも怖いと言い出すほどだった。
 心臓の手術をした後は、一時的に精神が不安定になるらしく、妻から夜に入る頃、「なんだか怖いことがおこりそうな気がする」と怯えた声の電話があり、この時もハイヤーの運転手を拝み倒して札幌に向かう。まだ札幌にいた娘に、病院へ向かうように電話して、この夜は病院に頼んで、妻の傍らに簡易ベッドを入れてもらい、そこに泊まった。翌日、もう大丈夫だろうと、娘と帰ったが、またしても吹雪で電車が江別で停まってしまい、前回と同じようにして漸く家にたどり着いた。
 この時は中野重治の「雨の降る品川駅」についての論文を書いていたのだが、やはり集中力が落ちていたのだろう、北海道教育大学の釧路校の『国語論集8』に載ったものを改めて読み直してみると、何カ所か校正のミスがある。道教大釧路校の国語科教育研究室の皆さんには申し訳ないことをした。

 でも、まあ、去年の場合はまだタクシーも走ってくれたし、JRがまるまる運休してしまうなんてことはなかった。今年はタクシーそのものが身動き取れない。岩見沢の市バスは全面運休、JRのダイヤは大混乱で、小樽へ出ようにも、手段がなく、1ヶ月半近くも足止め状態だった。大げさでなく、市全体が陸の孤島状態に陥ってしまったのである。
 しかし、ものは考えよう。おかげで論文に集中できた。
 幸い、妻の体力は日常の家事に支障がないまでに回復し、むしろこれが論文に集中できる一番の条件だった。

 今回書いたのは、野口雨情の「赤い靴」と「青い目をした人形」についてであるが、論を組み立てる必要上、山口昌男の関係論文を取り上げたところ、これが杜撰きわまりない論文だった。もちろん彼の論文の検討から始めたのは、一読して、これはちょっと問題がありそうだなと思ったからであるが、ちょっとどころではない。彼の文章を引用してみると、文法的におかしいところや、内容的におかしなところが次から次へと出てくる。
 だが、それに一つ一つかかわっていると、論文のバランスが崩れてしまう。おかしな点の指摘は最小必要限度に留めたが、それでも400字原稿用紙に換算して140枚ほどの長さになってしまった。こんな長いものが書けたのも、雪で足止めを食ったおかであろう。
 幸いにもその論文は、北海道教育大学釧路校の先生の好意で、『国語論集 9』に載せてもらえることになった。その上、原稿のデータを送ったところ、『国語論集 9』のフォーマットに合わせて編集したものを送り返して、もう一度原稿をチェックする機会を与えてくれた。「雨の降る品川駅」論の正誤表も載せてくれるという。大変にありがたかった。
 原稿の最終チェックが終わったのは3月3日。
 
○さて、本題にもどるならば
 そんなわけで、このブログは、「前回の補訂
――『公事師』と『扱人』――」を載せてから少し間があいてしまったが、前にちょっと言及しておいたように、これから三回ほどかけて、私の先祖の忠三郎が他領の名主を相手に「貸金出入」の訴訟を起こした記録を紹介したい。
 ただし、記録とは言っても、詳細を記した文書が残っているわけではない。ただ、忠三郎は割合に筆まめだったらしく、『忠三郎控帳』とも言うべき小冊子に、自分が役所へ提出した文書の写しを控えておいた。その中の十通ほどがこの訴訟に関するものであり、それを紹介しながら、江戸時代の「出入」(民事訴訟)の流れを辿ってみたい。特別に大きな事件でも何でもないのだが、整理をしてみて、いろいろと裁判の実態が分かって面白かった。それを紹介したいのである。

○なぜ江戸の勘定奉行所か?
 上州勢多郡女渕村
(おなぶちむら)の組頭、忠三郎は、同じ勢多郡の東田面村(ひがし・たなぼむら)の名主、弥惣次を、次の「乍恐以書付御訴訟申上候」(おそれながら、かきつけをもって、ごそしょうもうしあげそうろう)に書いたような理由で、江戸の勘定奉行所へ訴え出た(なお、引用に当たっては、前々回と同様に、句読点を打ち、「多」「茂」等の文字については、「た」「も」等と仮名書きに改めてある)。

《引用》
          
乍恐以書付御訴訟申上候(資料1)
                            
酒井大学頭領分
                              上州勢多郡女渕村
                                   組頭
                                訴訟人  忠三郎貸金出入
                            秋元但馬守様御領分
                              同州同郡東田面村
                                   名主 
                                相手 弥惣次
 
文久元酉年十月
      
證文
 一 金千両
右訴訟人組頭忠三郎奉申上候。相手弥惣次儀、去ル酉年中、無拠
(よんどころなき)要用ニ差支候間、金千両借用いたし度旨申候間、私儀も其節手廻りかね候ニ付、相断申候処、達而(たって)用立呉ル様申候間、素より懇意之間柄故、他借致、期月證文取て用達遣し、其後期月過去リ候ても済方不仕候間、催促仕候処、彼是(かれこれ)申紛し済方不仕候間、無拠相手村役人まで罷出(まかりいで)、猶精々還合(掛合)候得共、是以埒明不申、難儀至極仕候間、無是悲(無是非/ぜひなく)今般御訴訟奉申上候。何卒以御慈悲(なにとぞごじひをもって)相手之もの被召出(召しいだされ)、御吟味之上、前書滞金元利早々済方仕候様(よう)、被仰付成下置度(おおせつけなしくだしおかれたく)、偏ニ(ひとえに)奉願上候。以上
                        酒井大学頭領分
                           上州勢多郡女渕村
 年号月                              組頭
                                   忠三郎 印

 御奉行所様
 
 この訴訟人・忠三郎は酒井大学頭の領地である女渕村に住み、相手方の弥惣次は秋元但馬守の領地の東田面村に住んでいた。ずいぶん離れた土地の人間を相手に裁判を起こしたように見えるかもしれないが、実際には女渕村から粕川という川を挟んで東側に西田面村があり、さらにその東側が東田面村だった
(現在では、いずれも前橋市粕川町に属している)
 忠三郎の家から弥惣次の家まで、歩いて20分程度の距離でしかない。
 それにもかかわらず、わざわざ江戸の勘定奉行所に訴えたのは、女渕村と東田面村とがそれぞれ別な大名の領地に属していたからにほかならない
(西田面村の領主は女渕村と同じく酒井大学頭)。いわば二つの国にまたがる裁判だったわけで、その場合は公儀(幕府)が扱うことになっていたのである。

○千両の貸借
 もちろん忠三郎としては、江戸にまで出かけるような手間暇をかけることなく、出来れば話し合いで解決したかったにちがいない。相手の弥惣次とは、「
もとより懇意の間柄」だった。おまけに、弥惣次はただ単に東田面村の名主というだけでなく、十村名主を勤めている。十村名主とは、領内の十か村をたばねる名主で、館林藩から苗字、帯刀を許され、造り酒屋を営み、格式が高かった。忠三郎としては争いにくい、いや、争いたくない相手であっただろう。
 弥惣次の家は私が子どもの頃も健在で、お大尽と呼ばれていた。
 
 そういう家柄であっても、何かの事情でにわかに千両の金が必要となり、急には用意できなかったのであろう。
 そこで忠三郎に相談を持ちかけたわけだが、そうしてみると、忠三郎は理財に明るい百姓だったのかもしれない。しかし千両と言えば、現在のお金で1億に近い大金だろう。忠三郎が手元に置いているはずがなく、いったんは断るのだが、弥惣次から「
達而(たって)用立呉ル様(何とかして都合をつけてほしい)と強く頼まれて、自分の持ち金と、他所から借りたお金とを合わせて、千両を貸すことになった。
 先に引用した文章に、「
文久元酉年十月/證文」とあるのは、〈文久元年(1861年)酉年の10月に弥惣次が忠三郎に宛てて書いた「借金証文」があり、必要とあればいつでも提出できます〉という意味であろう(但しこの証文は残っていない。決着がついた後に忠三郎が弥惣次に返したのであろう)
 ところが、返済期限が来ても、弥惣次は「
彼是申紛し(かれこれもうしまぎらわし)、つまり、あれこれと言を左右にして、元金と利息を合わせたお金を返してくれない。忠三郎は、東田面村の村役人(多分、組頭)に間に入ってもらって掛け合ったのだが、一向に埒が明かない。仕方がなく、江戸の御奉行所に解決をお願いすることにした。
 
 ちなみに、この訴状に「
貸金出入」とあるのは、訴訟の種類を示す表現であって、「出入」とは現在で言う民事訴訟を指す。江戸時代の民事訴訟は、貸した金を返さない、いや返した、というトラブルが多かった。たぶん江戸の勘定奉行所ではその種のもめ事を効率よく処理するためであろう、毎月4日と21日とを「金日」(きんび)と呼び、「貸金出入」を扱う日とした。訴状に訴訟の種類を書かせたのは、そのためである。
 
○公事宿の役割
 ただし、この訴状は自分で江戸の奉行所に届けなければならない。飛脚を使って「郵送」するなどという便利な制度はなかったのである。
《引用》
 
            
差上申御請書之事(資料二)
                         
 酒井大学頭領分
                             上州勢多郡女渕村
                                組頭
                              訴訟人  忠三郎
 貸金出入
                          秋元但馬守様御領分
                              同州同郡東田面村
                                名主
                              相手   弥惣次
右之通本目安差上候処、来ル子正月二十一日 御差日之 御尊判頭戴
(頂戴)被仰付難有仕合ニ奉存候。然ル上は早々帰村之上、相手方へ相附拝見書取て 御差日四日已前(以前)五ツ半時、差添人一同出府着御届可奉申上旨、被仰渡承知奉畏候(おおせわたらせられ、承知、おそれたてまつりそうろう)。且相手方へも右同様 御差日四日已前返答書弐通持参、差添人一同出附着御届可奉申上旨、私方□可申達旨被仰渡、是亦承知奉畏候。依之御請書差上申処、如件(くだんのごとし)

 文久三亥十二月                       右訴訟人
      二十一日                        忠三郎
                                 名主
                               差添人 定右衛門
                             右宿
                              馬喰町弐丁目
                               山形屋 庄兵衛 代
                                    元平

御奉行所様

 これを見ると、忠三郎は女渕村の名主・定右衛門に差添人になってもらい、文久3年(亥年。1863年)の12月、江戸に出て、馬喰町2丁目の山形屋に泊まっている。
 当時は百姓や町人が訴訟を起こそうという場合は、名主の了解を得なければならなかった。忠三郎は名主の定右衛門の了解を得、江戸まで同道してもらったのだろう。忠三郎が千両の金を揃えるとき、定右衛門も協力していたのかもしれない。

 この二人が泊まった山形屋は、おそらく公事宿であった。「公事」とは裁判のことであるが、幕府は市中の旅籠屋の中から、公事(裁判)のために江戸へ出てきた人間を泊めることができる宿を選び、公事宿として指定していた。当時の旅籠屋は主に馬喰町と小伝馬町に集中していたが、これは幕府が治安と罪人捜査の便宜のために取った処置であったらしい。そして馬喰町の旅籠屋のうち、公事宿の指定を受けている宿は80軒を下らなかったと言われている。
 
 公事宿の仕事は、単に訴訟のために出府してきた人間を泊めるだけではない。出府してきた人間に裁判の手順を教えたり、文書の代筆をしてやったりして、半ば弁護士、半ば裁判所の書記官のような仕事を引き受けていた。訴訟人が訴状を奉行所に届ける時には同行して、手続きに手落ちがないように世話をする。奉行所がその訴状を正式に受理して裁判にかけることを決定した場合には、公事宿の人間を通して訴訟人に連絡する。その意味で公事宿は、奉行所の業務の下請け的な仕事を任されていたのである。
 忠三郎と定右衛門が泊まった公事宿・山形屋の主人は「庄兵衛」と言ったが、その下に「
」とある。これは代人(手代)の略語であろう。その代人は「元平」という名前だった。公事宿を弁護士事務所と見なすならば、この「元平」は事務所で働く、若手弁護士ということになるだろう。
 では、なぜ山形屋に泊まったのか。おそらくその理由は、女渕村の領主・酒井大学頭が出羽山形の松山の藩主だったからであろう。出羽山形の松山藩が女渕村の人間に、公事(裁判)で江戸に出る時は山形屋を使うように指示したのである。
 
 江戸時代の民事裁判はこのようなシステムの中で行われた。そんなわけで、忠三郎の名前で奉行所に提出した「
差上申御請書之事(さしあげもうすおんうけしょのこと)は、公事宿の主人と代人の名前がなければ、受け付けてもらえなかっただろう。

○目安と御尊判
 さて、その「
差上申御請書之事」の書き出しは、「右之通本目安差上候処(みぎのとおりほんめやすさしあげそうろうところ)となっている。この「目安」は訴状という意味で、「資料1」のような文書を指す。それに続けて、「来ル子正月二十一日 御差日之 御尊判頭戴(頂戴)被仰付難有仕合ニ奉存候」とあるが、ここに出てくる「御尊判」という言葉もまた訴状を意味した。
 では目安と御尊判との違いはどうなのか、と言えば、「資料1」のような目安を奉行所の役人が検討し、これを正式の「
貸金出入」として取り上げることに決定した場合、その「目安」の裏に勘定奉行の略称――たとえば一色山城守の場合は「山城」という具合に――を書き、その下に判を押す。これが「御尊判」であって、「目安」は「御尊判」を頂戴して、はじめて正式な訴状となるのである。
 
 そんなわけで、忠三郎と定右衛門が元平と一緒に奉行所へ出かけて事情を説明しても、もし奉行所の役人が御尊判をくれなければ、空振りに終わってしまっただろう。だが、幸いにも(?)、御尊判を頂戴することができた。わざわざ江戸へ出てきた甲斐があったと言うべきかもしれない。
 その御尊判には、〈来る子年、つまり文久4年の1月21日に裁判を行うから、その4日前の「
五ツ半」(午前9時)に、原告被告および差添人も揃って、江戸に着いた旨の届けを出すように〉という日時の指定(御差日)がなされていた。
 そこで忠三郎は、では早速村へ帰って、相手方にこの御尊判を見せて、確かに拝見いたしましたという「
拝見書」を書かせ、〈指定された日時には間違いなく「返答書」を2通用意して江戸に出府するように〉と伝えます。彼はそういう意味のことを書いた「差上申御請書之事」を奉行所へ差し出して、定右衛門と一緒に女渕村に帰ることにした。
 家に着いたのは、年の暮れも押し詰まった頃だっただろう。
 
○拝見證文
 忠三郎は正月早々、「
御尊判」を弥惣次に届けたのであろう。弥惣次は次のような「拝見證文」を忠三郎に渡している。これも訴訟には欠かせない手続きの一つだったらしい。
《引用》
           
差出申拝見預證文之事(資料三)
一 今般貴殿より我等相手取貸金出入申立、一色山城守様御奉行所へ被成御出訴、来月二一日 御差日之御裏 御尊判頭戴(頂戴)被相附拝見、承知奉畏候。且 御差日四日已前(以前)返答書弐通持参、朝五ツ半時、指添人一同出府着御届可奉申上候間、被仰渡之趣御達し被下、是又承知仕候。 御尊判表裏墨附汚など無御座。慥預リ置候間、御日限通上□仕候。為後日(後日のため)拝見證文差出申候処、仍如件(よってくだんのごとし)
   
                      秋元但馬守領分
                             上州勢多郡東田面村
                                 名主
                                 当人 弥惣次
 文久四子年                           五人組惣代
    正月十一日                          五左衛門
                                  組頭
                                    利?蔵
               女渕村
                忠三郎殿

 これによれば、忠三郎の訴えを扱った勘定奉行は一色山城守という旗本だった。一色山城守直温は文久元年と、文久2年末から3年末までと、二度、勘定奉行を勤めている。ということはつまり、一色山城守が勘定奉行から一橋家の家老となる、その任期ぎりぎりの時期に忠三郎の貸金出入一件を取り上げたわけで、忠三郎たちが文久4年の正月に出府してからは、一色山城守の後任、木村甲斐守勝教が扱うことになっていたのであろう。

○弥惣次の格式意識
 だが、それはそれとして、弥惣次はここで、忠三郎を「
貴殿」と呼んでいる。これは武士言葉であるが、もちろん忠三郎を武士として遇したわけではない。秋元但馬守から苗字と帯刀を許された者としての格式を示すために、武士言葉を使ったのであろう。正月早々やっかいな話を持ち込まれた上に、十村名主のプライドを傷つけられて、すっかり気分を害してしたらしい。それは「我等相手取貸金出入申立(我々を相手取って貸金出入を申し立てた)という文言からも感じられる。忠三郎としては東田面村の五人組惣代や組頭まで相手に出入を起こしたわけではない。だが、弥惣次はそれを、「我等相手取」と置き換えてしまった。いわば東田面の村方三役を相手取った出入に仕立ててしまったのである。

○訴訟文書の条件
 なお、当時の奉行所は御尊判などの公文書に墨がついたり、汚れたりすることを極端に嫌った。文書の偽造を防ぐためでもあっただろうが、そもそも公文書を粗末に扱うことを嫌ったからであろう。先に紹介した文書の終わりに、「
御尊判表裏墨附汚など無御座(御尊判表裏、墨つき汚れなど御座なく)とあるのは、そのことを含めて、〈書類上の問題は全くありません〉という意味の慣用句だったのだろう。

 さて、それでは、弥惣次は「資料1」の訴えに対して、どのような返答書を用意してきたであろうか。
 
 

          

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