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忠三郎控帳より(2)

忠三郎控帳より(2)
――近世の訴訟――

○「貴殿」と「目安糺」(めやすただし)
 前回私は、東田面村の弥惣次が女渕村の忠三郎を「貴殿」と呼んだことについて、弥惣次の侍身分意識を指摘した。しかし、どうやらそれは私の早合点だったらしい。忠三郎もまた文書の中で、相手方を「貴殿」と呼んでいたからである。
 忠三郎が使った「貴殿」は、女渕村の仙右衛門が、桐原村の善十郎に宛てた「質地証文之事」という証文の中に見られる。当時は自分の土地を質に入れて金を借りる場合、親類の万五郎、組合の貞二郎、組頭の忠三郎、名主の定右衛門など、親類や、同じ村の村役を連帯保証人に立てなければならなかった。それだけ農地の権利の移譲については慎重さが求められたのであろう。その場合の表現は、借り手の仙衛門が貸し手の善十郎に対して借用書を書く形を取りながら、実際には連帯保証人が貸し手の善十郎に対して、「私たちが責任を負うから」と約束する形になっている。その意味で、仙右衛門の保証人となった忠三郎もまた、貸し手を「貴殿」と呼んだ一人だったことになる。これは契約書における慣用的な言い回しだったのであろう。
 東田面村の弥惣次が忠三郎から千両の金を借りた時にも、当然、東田面村の村役や親類が保証人に立っていたはずである。

 もう一点、補足しておきたいのは、「目安糺」(めやすただし)という手続きについてである。前回紹介したように、忠三郎は「乍恐以書付御訴訟申上候」(資料一)という目安(訴状)を、江戸の勘定奉行所へ提出した。奉行所の役人は、果たして忠三郎の訴えに根拠があるかどうかを確かめるために、忠三郎と差添人を呼び出して、事情を聞き、証拠物――たとえば弥惣次が忠三郎に渡した「借用証文」など――を調べる。この手続きを当時は「目安糺」と呼んだわけで、忠三郎の言い分は審理に値すると判断したならば、目安の裏に奉行の略称を書き、判を捺す。つまり、正式の御尊判(訴状)となるわけである。
 当然のことながら、忠三郎は江戸に出て、目安糺の審査を受けたわけだが、名主の定右衛門も差添人の立場で同道していたであろう。

○「差日」(さしび)と「着届」(ちゃくとどけ)
 さて、女渕村の忠三郎と定右衛門は、翌年の文久四年(一八六四年)の正月に再び江戸へ出かけた。わらじを脱いだのは、前回と同じく、馬喰町弐丁目の山形屋だっただろう。そして多分、山形屋の下代(代理人)が同道して、次のような文書を奉行所へ届けたのである。
《引用》
                                  
乍恐以書付奉申上候(資料四)
上州女渕村忠三郎奉申上候。私より秋元但馬守様御領分東田面村名主弥惣次へ相懸リ貸金出入申立、奉出訴、当月廿一日 御差日之御尊判頭戴
(頂戴)被仰付、相手方へ相附、拝見書取て 則御差日四日以前ニ相成候ニ付、差添人一同着御届奉申上候。以上
                                                                    酒井大学頭領分
                                                                      上州勢多郡女渕村
                                                                              組頭
  文久四子年                                         訴訟人 忠三郎
     
正月廿二日                                                 名主
                                                                        差添人 定右衛門

御奉行所様

 このように、江戸の公事宿に着いたことを奉行所へ届ける文書を、「着届」(ちゃくとどけ/到着届け)と言った。この文書の中に、「御差日」という言葉が出てくるが、「差日」(さしび)とは、奉行所が指定した月日のことである。当時の慣例では、差日の四日前には公事宿に入って、待機していなければならなかったらしい。
 ただし、この文書によれば、奉行所の指定は正月の二十一日であり、それ故、指定通りに「
御差日四日以前ニ相成候ニ付、差添人一同着御届奉申上候」と言っていながら、「着届」の日付が「正月廿二日」になっている。忠三郎が控帳に写すとき勘違いをしたのかもしれないが、正確な理由は分からない。
 
 ともあれ、弥惣次の側も次のような着届を提出している。

                                      乍恐以書付奉申上候(資料五)
秋元但馬守領分上州勢多郡東田面村名主弥惣次奉申上候。今般女渕村組頭忠三郎より私へ相懸リ難渋出入申立、当御奉行所様奉出訴、当月廿一日 御差日 御尊判頭戴
(頂戴)被相附、恐入拝見奉畏候。則御差日四日已前(以前)ニ付返答書弐通持参、差添人一同出府着御届奉申上候。以上
                                                               秋元但馬守領分
                                                                    上州勢多郡東田面村
                                                                             名主
  年号月日                                           相手 弥惣次
                                                                              組頭
                                                                      差添人 利喜蔵

御奉行所様

○弥惣次の「返答書」
 こうして、原告と被告が江戸で相見えることになったわけだが、このとき弥惣次が用意してきた「返答書」は次のような内容だった。
《引用》
                   
乍恐以返答書奉申上候(資料六)
秋元但馬守領分上州勢多郡東田面村名主弥惣次奉申上候。酒井大学頭様御領分同州同郡女渕村組頭忠三郎より私相手取貸金出入申立、先月中当御奉行所様まで奉出訴、当月廿一日 御差日之御裏 御尊判頭戴
(頂戴)被相附候ニ付、左ニ御答奉申上候
此段訴訟人申立候通、去ル酉年金千両借用致し候事、相違無御座候得共、其後去ル戌年中元利之内へ金六百両返金いたし、残金之義は米三百表
(俵)大麦百俵売渡し、右代金三百七拾両余ニ相成候間、右の差引ニいたし度旨申立候間、任其意置、其後差引勘定いたし證文相返しくれ候様度々懸合候得共(たびたび掛合いそうらえども、彼是申紛し(かれこれ申しまぎらわし)兎角引延し置(とかく引き延ばしおき)、今更ニ相成本金千両滞有之など跡形モ無之偽之儀(あとかたもこれなき偽りの儀)ヲ申立候は甚不実之致し方、何共難心得奉存候(なんとも心得がたくぞんじたてまつりそうろう)間、此段乍恐 御賢察之上、右様不法之儀ヲ不申懸(申しかけず)米麦代金ヲ差引、過不足之分のみ取引致し證文相返し候様、被仰付被成下置度(おおせつけられ、なしくだしおかれたく)奉願上候。以上
                                    秋元但馬守領分
                                     上州勢多郡東田面村
                                             名主
  年号月                                   相手方 弥惣次

御奉行所様

 これをみると、たしかに弥惣次は去る酉年(文久元年/1861)に、忠三郎から千両を借りている。その点は弥惣次も認めるわけだが、しかし弥惣次に言わせれば、翌年の戌年には六百両を返し、その外、米三百俵と大麦百俵を売り渡し、それはおよそ三百七拾両に相当する。それらを引けば、残りは三拾両となる。それで決済しようとしたのだが、忠三郎はあれこれ言を左右にして借用証文を返してくれない。それだけでなく、今頃になって、元金千両の返済が滞っているかのような言い方で、奉行所へ訴え出た。不誠実なやり方としか言いようがない。弥惣次はそう主張したわけである。
 弥惣次の返答は忠三郎の人格非難にまで及んでいる。よほど感情的になっていたのであろう。こうして忠三郎の主張と弥惣次の主張は真っ向からぶつかってしまったのである。

 ただ、弥惣次の言い分には不透明なところがある。
 米三百俵と大麦百俵の売値は、果たして三百七拾両に相当するか否か。その点も問題なのだが、仮に三百七拾両に相当するとしても、弥惣次の負債は、残り三拾両の外に、千両の利息も含まれていたはずである。だが、弥惣次は故意か偶然かその点には言及していない。忠三郎の立場からすれば、不足分の三拾両を払うから借用証文を返してくれと言われても、はい、そうですか、と証文を返すわけにはいかなかったであろう。
 忠三郎は弥惣次から千両を貸してくれと頼まれて、しかし自分一人ではそれだけの大金を急には用意できない。そこで、「
他借致」(資料一)、つまり他の人からもある程度まとまった金を都合してもらったわけだが、その人が無利子で都合してくれたとは思えない。そのような事情もあって、多分忠三郎は、利息分も含めてきれいに返済してもらいたかったのである。
 
○米価の駆け引き
 ところで、江戸時代後期の一両は、現在のお金でどれくらいの金額になるのだろうか。私は漠然と、江戸時代は米一石が金一両に相当する、と覚えていた。
 江戸時代の経済に詳しい小説家・佐藤雅美によれば、米百俵はおよそ四〇両に相当する。佐藤雅美もまた米1石=金1両で計算したのだろう。なぜなら、江戸時代の石高計算では米1石は米10斗、米1俵は米4斗であり、それ故、米1石は米1俵の2,5倍となる。これによって計算すれば、米百俵は四〇石となるからである。
 こうしてみると、東田面村の弥惣次が、いかにべらぼうな高値で米と麦を忠三郎に売りつけようとしたか、よく分かるだろう。当時の米と大麦の交換比率は分からないが、仮に大麦の価格は米の半額だったとしよう。弥惣次は米三百俵と大麦百俵とを、――米だけに換算すれば三百五十俵を――忠三郎に渡して、これは三百七十両余に相当する、と主張した。佐藤雅美の計算に従えば、三百五十俵は百四十両にしかならないわけだが、弥惣次はその二倍半を上回る値段で、忠三郎に売りつけようとしたわけである。

 このことは、文久年間の米の値段や、忠三郎が米三百俵、大麦百俵を必要とした理由とも関係する。その意味では即断を避けなければならないのだが、少なくとも弥惣次がかなりあざとい駆け引きを忠三郎に仕掛けていたらしい印象は、これは否定しがたいところだろう。

○「一両」の値段
 ただ、江戸時代の一両が現在のお金に換算して幾らくらいになるか。これが意外にむずかしい。何を基準として、江戸時代の「両」と現代の「円」とを換算するか、それによってかなり金額が変わってくるからである。
 たとえば落語に出てくる二八蕎麦、あれは十六文のしゃれた言い方で、2×8=16文となるわけだが、現在のかけ蕎麦が一杯400円とすれば、1文は25円となる。江戸時代の公定的な交換比率は、銭1000枚(1000文)=1貫文、銭4貫文=金1両だった。それに従って計算すれば、1両=4000文となり、4000×25円=100,000円となる。
  
 菅野則子と桜井由幾の共著『古文書を楽しむ
(竹内書店新社、平成十二年)では、米1石=約180キログラム。元禄の頃の米価1石=約小判1枚。現在の米価10キログラム当たり=3,646円(推定標準米価格2000年4月)。これで計算すると、1両=65,628円となる。そういう計算だった。
 ただし、現在の米価はもう少し高い。それだけでなく、江戸時代に米が他の商品に対して持っていた重みと、現在の米が他の商品に対している重みとでは、前者のほうが遙かに重みがあった。現在の米価から1両の価値を割り出すのは、かなり無理があると言わねばならないだろう。

 佐藤雅美によれば、江戸時代の後期、日銭稼ぎで暮らしを立てている人のうち、最も手間賃が高かったのは大工だった。1日に400文くらいの稼ぎだったという。この大工が一ヶ月のうち、三、八の日、つまり3のつく日と8のつく日とを休んだとすれば、一ヶ月に六日を休み、二十二日働くことになる(江戸時代の一ヶ月は、陰暦で二十八日だった)。そうすると、1ヶ月に8800文、つまり2,2両を稼ぐ計算となる。この大工が親や妻子を養い、子どもは寺子屋に通わせ、さらに将来の独立を考えて貯金も心がけているとすれば、現在のお金に換算して月収35万円くらいの稼ぎになるだろう。そういう計算に立ってみれば、1両は16万円くらいになるわけである。
 
 こんなふうに、基準の設け方によって一両の値段は大きく変わる。結局私は二八蕎麦を基準に、1両を10万円と計算してみたわけだが、そうしてみると、千両は一億円となり、弥惣次が未返済として認めた三十両だけでも、三百万円になる。
 徳川幕府が天保十三年(一八四二年)に定めた金利の上限は、年に一割二分、つまり元金の一二パーセントだった。ただし、当時の金貸業者が唯々諾々とそれに従ったはずはなく、担保を持たない相手には一割五分を要求し、時には一ヶ月に一割という高利をふっかける場合もあった。が、それはともかく、幕府の定めを遵守したとしても、一億円の一二パーセントは一千二百万円となる。
 次回に紹介する文書によれば、忠三郎は幕府の法定利息を守ったのだが、弥惣次は利息の問題には言及していない。また、仮に米三百俵と大麦百俵の価格を、弥惣次が言うように三百七拾両に評価したとしても、弥惣次はまだ残りの三拾両、つまり三百万円を払っていない。にもかかわらず、借金の証文を返してくれと言うのは、あまりにも虫がよすぎる。忠三郎としては裁判に訴えるしかなかったのであろう。

○「内済」に向けて
 当時の勘定奉行は、忠三郎と弥惣次のような貸金出入が持ち込まれた場合、出来るだけ「内済」、つまり示談で解決するように指導した。忠三郎と弥惣次はその内意を受けて、示談による解決を探ることにしたのだろう、次のように裁判の日延べを申請している。
《引用》
         
 乍恐以書付奉申上候(資料七)
女渕村一件のもの共一同奉申上候。私共出入御吟味中之処、内済熟談仕度候間
(ないさいじゅくだん、つかまつりたくそうろう間)、何卒以御慈悲(なにとぞおじひを以て)来ル廿八日まで御日延御猶予奉願上、以上
                                      酒井大学頭領分
                                        上州勢多郡女渕村
                                             組頭
  年号月日                                  訴訟方 忠三郎
                                       秋元但馬守領分
                                        同州同郡東田面村
                                              
名主 

                                          相手 弥惣次

御奉行様

 そもそも忠三郎が掛合いに行った時、じっくりと話し合って解決をしていれば、わざわざ江戸にまで出かけ、こんなふうに「内済熟談」する必要などなかったはずである。そう考えてみると、上州の喧嘩を江戸に持ち込んで、無駄な時間と金をかける成り行きとなってしまったことになる。だが、忠三郎の意図がまず弥惣次を公の場に引き出すこと、少なくとも双方の差添人が立ち会っている場所で埒を明けることにあったとするならば、忠三郎の目的は半ば達せられたわけである。

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