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前回の補訂

前回の補訂
――「公事師」と「扱人」――
 
○不勉強の反省
 私は前回、生家にあった文書を紹介するに際して、「江戸時代の上州(
群馬県)で、町役人の入札制(選挙制)や、経理の情報公開を要求する運動があったことは、歴史家の間ではすでに常識なのかもしれない。また、上州だけでなく、もっと広い地域に見られる動きだったのかもしれない。だが、私たちが手にする一般の通史ではあまり触れられていない。蛇足かもしれないが、ここに紹介するのも、全く意味のないことでもないであろう」とことわった。

 ところが、たまたま青木美智男の『大系 日本の歴史11 近代の予兆』(小学館。1989年2月)を開いてみたところ、「荒れる村、廃れる村」の章で、文化2年(1814年)、甲斐国都留郡忍草村で起こった、「入札」騒動に言及している。その他、文化5年の陸奥国白川郡中石井村の事例や、文化13年の信濃国伊那郡野口村の事例、文化14年の越後国蒲原郡割野村の事例にも言及している。
 
 おやおや、ずいぶん前に、もう常識になっていたわけだ。してみると、俺の中の日本史はずいぶん古くさいものになっていたんだな。そんなふうに、大いに反省させられた。

○幕府領のウィークポイント
 ただ、それとは別に、おもしろい特徴に気がついた。青木さんが取り上げた4つの事例は、大名領地ではなく、いずれも幕府領(天領)で起こっていることである。
 これは、偶然の一致なのか、それとも幕府領の統治方式がそういう騒動を招きやすかったためであろうか。

 幕府は地方の行政官として代官を派遣したが、その代官の下に、手付(てつけ)と呼ばれる、配下の武士が数人と、手代(てだい)と呼ばれ、地元の農民や町人から登用された下級役人が10名から20名程度ついていた。
 代官の主要な任務は年貢の割り当てと徴収だったが、徳川幕府の年貢率はおおむね4公6民を維持していた。ところが、大名領地の年貢率は一般に6公4民、厳しいところでは7公3民にまで跳ね上がっている。幕府領の年貢(税金負担)は大名領地に較べて、かなり軽かったのである。
 テレビの時代劇に出てくる代官は、大きな屋敷に住み、町の悪徳商人と結託して私服を肥やし、美服をまとい、美食を好み、女にはだらしがなく、「者ども、出会え」と叫ぶや、何十人もの家臣が抜刀して駆けつける。それが通り相場であるが、しかし、地元の農民や町人から登用された手代たちは、一応は苗字と帯刀を許されていたが、戦闘の心得があるわけではなく、とうてい戦力にはならなかった。代官の警察権力は極めて小さかったのである。
 
 上州の代官所は岩鼻にあったが、一揆が起こった場合の対応は館林藩の秋元家に頼っていた。代官は急遽江戸にもどって幕府に報告をし、幕府から館林藩に鎮圧の要請が出るわけだが、館林藩が藩兵を出動させる間にも一揆はどんどん拡大していく。代官自身は政治不手際のかどで、更迭させられかねない。前回紹介した資料Aには、「
近村之者騒立打毀し可致哉之風聞有之」(近村の者、騒ぎ立ち、打ち毀し致すべきやの風聞これあり)という文言があった。訴訟方は代官政治のウイークポイントを見越して、意図的に「打ち毀し」の風聞(噂)を流したのかもしれない。
 上州では「打ち毀し」を「ぶっかし」と言った。「ここは一つ、ぶっかしでもやるか
」。そんなことを言い出す人間がいて、これでは、役人側は強い態度には出られない。
 幕府領で訴訟方の要求が通りやすかったのは、そんな事情が働いたからであろう。

○直参百姓の意識
 そう言えば、前回紹介した資料Bの訴訟方の13人は、いずれも幕府領や、旗本の知行所の人たちだった。この人たちが出作をしていた大間々は、出羽松山の酒井家の領地だったが、もちろんこの13人は自分が出作している土地の広さに応じて、酒井家の年貢や諸夫銭を負担している。
 幕府領の百性は直参百姓、つまり将軍家に直接仕える百姓の意識を持ち、気位が高かった。大間々町の町役人には強い態度に出て、大間々の百姓に準ずる権利を主張したのであろう。その結果、大間々町にとって他領の百姓であるにもかかわらず、大間々の町政について発言する、そういう権利を持つようになったのである。
 
○大間町の役人と民主党の政府
 もちろん大間々町の経理の検査は同町の小前百性だけでなく、隣村の小前百性の立ち合いのもとに行われたわけで、町役人は説明責任を負っていたことであろう。
 私は、もう15年近くも前のことになるが、政府原案の情報公開法がいずれ法律化されるだろうことを見越して、国立大学としてどのような体制を整えておくべきか、それを検討する委員会の委員となり、横浜にまで出張したことがある。
 横浜市は地方自治体として、割合に早く情報公開に踏み切っていたからである。
 その時の横浜市の担当職員によると、当初の方針では「横浜市が保有する公文書の開示を求めることができるのは、横浜市民に限る」という制限をつけていたが、それでは横浜市以外に住んでいて、横浜市に職場がある人や、横浜市内の大学などに通っている大学生の権利はどうなるのか、という問題が起こり、公文書の開示を求めることが出来る人の範囲を大きく広げることになった。そういう説明だった。
 150年以上も昔の大間々も、似たような方向に進んでいったわけである。
 
 ところが、一昨々日(1月22日)のNHKのテレビのニュースによれば、NHKが政府に「原子力災害対策本部」の議事録の開示を求めたところ、開示されたのは「議事次第」だけで、具体的にどのような議論の流れで、どういう決定が下されたのかを示す議事録は作っていない、という返事だった。
 全くひどい話で、情報公開法の主旨は、「意志決定のプロセスを示す記録を公文書として保存し、何人によらず公文書の開示を求める人があれば、それを開示する」ということだった。「そうすることによって意志決定のプロセスの透明化をはかる」ことが、その精神だったはずである。
 しかし民主党の政府はそういう精神に則ってことを運ぶことをしなかった。「うっかり議事録なんかを作ってしまえば、誰がどんな発言をしたのか、尻尾を掴まれて責任を取らされることになる。こういう順序で議論を致しましたという『議事次第』だけを公文書として残しておけば、それでいいんじゃないか」。そんな魂胆で「議事次第」を作っておいたのだろう。
 これはコンプライアンス(法令遵守)の精神が欠けているなんて生易しい問題ではない。明らかに意図的な法令違反なのである。
 
 国民の入札で選ばれた議員が、正式の会議の場でどんな発言をしたかを空無化してしまおうとする。議事録がなければ、説明責任も生じない。民主党の政府は、150年以上も前の大間々の百姓や町役人にも及ばないのではないか。
 
○「公事師」の存在
 青木さんの『近代の予兆』を読んで、もう一つおもしろかったのは、「公事師」(
くじし)と呼ばれる人物が登場してくることである。
 青木さんによれば、「訴訟は、解決に時間もかかれば金もかかる。そこで『私談をして事を済ませば』ということになる。つまり、村内でなんとか解決できないかということになる。そんなとき、村民的な立場で『腰押し』(
こしおし/後押し)してくれる、『公事などに利口』なるものが歓迎されることになる」。
 してみると、大間々町の訴訟を調停した「扱人」も公事師のタイプだったのかな。……そんな気がしないでもないが、しかし青木さんによると、実際の公事師は嫌われ者が多かった。
 もう少し青木さんの説明を聞いてみよう。「しかし平生こういう人物は、高慢ちきで自信家で、家のことなど顧みない性格のものが多かったので、村人にあまり好かれていなかった。なぜなら昔から、『筆算などもなりて、役所向きの用をも足し、村内にては小口も利き(小利口)て、内々にて人も用いれば、当時、名主の勢いに望みありて、愚かなる小百姓をすすめ騒動さすことあり』と、しばしば村方騒動の黒幕になることさえあったからである」。「そんなわけだから、村の公事師は正義の味方ばかりとはかぎらない」。
 
 要するに公事師とは両義的な存在だった、ということであろう。村内のもめ事を捌いてくれる、その意味では不可欠な存在なのだが、それをよいことに、村の馬鹿な小百姓をそそのかして騒動を起こし、あわよくば自分が名主に取って代わろうとする。油断も隙もならない男だ、というわけである。

○公事師/代言人/弁護士
 制度的に言えば、このような公事師の後身が、明治初期に登場した代言人であろう。
 代言人とは後の弁護士のことだが、当時は資格試験の制度があったわけではない。明治9年2月、司法卿大木喬任の名前で公布された「代言人規則」によれば、代言人の条件は「一 布告布達ノ沿革ノ概略ニ通スル者。二 刑律ノ概略ニ通スル者。三 現今裁判上手続ノ概略ニ通スル者。四 本人ニ品行并履歴如何」ということだった。
 要するに、明治新政府の方針の概略に通じ、刑法民法と裁判手続きの概略に通じていれば、代言人の資格が与えられたわけで、「刑律ノ概略」とは言っても現在の六法全書みたいに浩瀚なものではない。明治3年12月に「新律綱領」が公布され、明治6年5月にはその増補版「改訂律例」が公布されたが、条文は320条ほどでしかなかった。
 もう一つ、「本人ノ品行并履歴如何」という条件が加わっていたが、まさか本人から「私はあくどい公事師でした」と名乗る奴はいなかったはずで、世間のもめ事を扱いなれた、いわば仲裁を半ば職業としてきた人間は、容易に代言人になることができたのである。
 
 そんなわけで、代言人の中にもひどい奴がいたに違いなく、服部撫松という旧二本松藩の藩士だったルポ記者が漢文で書いた『東京新繁昌記』六編(明治9年4月)に、「代言会社」という章がある。その中に、裁判そのものは勝ったのだが、依頼人が裁判で取り戻した金額を上回る必要経費や報酬を要求し、依頼人を倒産させてしまう。そんなエピソードが書かれていた。
 このようなことから、社会の代言人に対する信頼は低く、三百代言という蔑称が生まれた。樋口一葉の『たけくらべ』に、「梯子のりのまねびに
アレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし」という表現が見られる。
 
 現代でも、原告の弁護士が被告の弁護士と結託し、裁判官を巻き込んで、依頼人の財産を巻き上げてしまう「三角詐欺」なんてことが行われ(亀井秀雄のアングル「判決とテロル(最終回)」参照)、なかなか油断がならない。

○「扱人」と「公事師」
 しかし考えてみると、私が前回紹介した女渕村の定三郎や、伊セ崎町の勘助は、青木さんが描く公事師とはどうもイメージが一致しない。
 青木さんが描く悪徳公事師は、自分の村の小百姓をそそのかして騒動を起こさせ、自分の利益をはかったわけだが、大間々町の騒動の扱人となった女渕村の定三郎や伊勢崎町の勘助は、言うまでもなく大間々町や隣村の人間ではなかった。二人は、大間々町の小前百性や隣村の出作百性に有利な形で示談を成立させたが、しかしだからと言って、二人が自分の利益をはかったとは思えないからである。二人は大間々町に何らかの地位を得たわけではなく、大間々から一里も二里も離れた自分の村や町で、何らかの利益を得たとも思えないからである。
 
 そうしてみると、「扱人」と「公事師」とは実体的にも、概念的にも微妙にズレている。青木さんの著書に「扱人」という言葉は出てこない。その辺にも、この違いがからんでいるのではないか。
 ただし、この疑問はそう簡単に氷解しそうもない。江戸時代の民事訴訟の具体例を検討してみるしかないだろう。前回もちょっと言及した『忠三郎控帳』に、貸金出入の顛末を記した一連の訴訟文の写しがあった。次はそれを紹介したい。
 
 
 

 
 
 

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