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前回の補訂

前回の補訂
――「公事師」と「扱人」――
 
○不勉強の反省
 私は前回、生家にあった文書を紹介するに際して、「江戸時代の上州(
群馬県)で、町役人の入札制(選挙制)や、経理の情報公開を要求する運動があったことは、歴史家の間ではすでに常識なのかもしれない。また、上州だけでなく、もっと広い地域に見られる動きだったのかもしれない。だが、私たちが手にする一般の通史ではあまり触れられていない。蛇足かもしれないが、ここに紹介するのも、全く意味のないことでもないであろう」とことわった。

 ところが、たまたま青木美智男の『大系 日本の歴史11 近代の予兆』(小学館。1989年2月)を開いてみたところ、「荒れる村、廃れる村」の章で、文化2年(1814年)、甲斐国都留郡忍草村で起こった、「入札」騒動に言及している。その他、文化5年の陸奥国白川郡中石井村の事例や、文化13年の信濃国伊那郡野口村の事例、文化14年の越後国蒲原郡割野村の事例にも言及している。
 
 おやおや、ずいぶん前に、もう常識になっていたわけだ。してみると、俺の中の日本史はずいぶん古くさいものになっていたんだな。そんなふうに、大いに反省させられた。

○幕府領のウィークポイント
 ただ、それとは別に、おもしろい特徴に気がついた。青木さんが取り上げた4つの事例は、大名領地ではなく、いずれも幕府領(天領)で起こっていることである。
 これは、偶然の一致なのか、それとも幕府領の統治方式がそういう騒動を招きやすかったためであろうか。

 幕府は地方の行政官として代官を派遣したが、その代官の下に、手付(てつけ)と呼ばれる、配下の武士が数人と、手代(てだい)と呼ばれ、地元の農民や町人から登用された下級役人が10名から20名程度ついていた。
 代官の主要な任務は年貢の割り当てと徴収だったが、徳川幕府の年貢率はおおむね4公6民を維持していた。ところが、大名領地の年貢率は一般に6公4民、厳しいところでは7公3民にまで跳ね上がっている。幕府領の年貢(税金負担)は大名領地に較べて、かなり軽かったのである。
 テレビの時代劇に出てくる代官は、大きな屋敷に住み、町の悪徳商人と結託して私服を肥やし、美服をまとい、美食を好み、女にはだらしがなく、「者ども、出会え」と叫ぶや、何十人もの家臣が抜刀して駆けつける。それが通り相場であるが、しかし、地元の農民や町人から登用された手代たちは、一応は苗字と帯刀を許されていたが、戦闘の心得があるわけではなく、とうてい戦力にはならなかった。代官の警察権力は極めて小さかったのである。
 
 上州の代官所は岩鼻にあったが、一揆が起こった場合の対応は館林藩の秋元家に頼っていた。代官は急遽江戸にもどって幕府に報告をし、幕府から館林藩に鎮圧の要請が出るわけだが、館林藩が藩兵を出動させる間にも一揆はどんどん拡大していく。代官自身は政治不手際のかどで、更迭させられかねない。前回紹介した資料Aには、「
近村之者騒立打毀し可致哉之風聞有之」(近村の者、騒ぎ立ち、打ち毀し致すべきやの風聞これあり)という文言があった。訴訟方は代官政治のウイークポイントを見越して、意図的に「打ち毀し」の風聞(噂)を流したのかもしれない。
 上州では「打ち毀し」を「ぶっかし」と言った。「ここは一つ、ぶっかしでもやるか
」。そんなことを言い出す人間がいて、これでは、役人側は強い態度には出られない。
 幕府領で訴訟方の要求が通りやすかったのは、そんな事情が働いたからであろう。

○直参百姓の意識
 そう言えば、前回紹介した資料Bの訴訟方の13人は、いずれも幕府領や、旗本の知行所の人たちだった。この人たちが出作をしていた大間々は、出羽松山の酒井家の領地だったが、もちろんこの13人は自分が出作している土地の広さに応じて、酒井家の年貢や諸夫銭を負担している。
 幕府領の百性は直参百姓、つまり将軍家に直接仕える百姓の意識を持ち、気位が高かった。大間々町の町役人には強い態度に出て、大間々の百姓に準ずる権利を主張したのであろう。その結果、大間々町にとって他領の百姓であるにもかかわらず、大間々の町政について発言する、そういう権利を持つようになったのである。
 
○大間町の役人と民主党の政府
 もちろん大間々町の経理の検査は同町の小前百性だけでなく、隣村の小前百性の立ち合いのもとに行われたわけで、町役人は説明責任を負っていたことであろう。
 私は、もう15年近くも前のことになるが、政府原案の情報公開法がいずれ法律化されるだろうことを見越して、国立大学としてどのような体制を整えておくべきか、それを検討する委員会の委員となり、横浜にまで出張したことがある。
 横浜市は地方自治体として、割合に早く情報公開に踏み切っていたからである。
 その時の横浜市の担当職員によると、当初の方針では「横浜市が保有する公文書の開示を求めることができるのは、横浜市民に限る」という制限をつけていたが、それでは横浜市以外に住んでいて、横浜市に職場がある人や、横浜市内の大学などに通っている大学生の権利はどうなるのか、という問題が起こり、公文書の開示を求めることが出来る人の範囲を大きく広げることになった。そういう説明だった。
 150年以上も昔の大間々も、似たような方向に進んでいったわけである。
 
 ところが、一昨々日(1月22日)のNHKのテレビのニュースによれば、NHKが政府に「原子力災害対策本部」の議事録の開示を求めたところ、開示されたのは「議事次第」だけで、具体的にどのような議論の流れで、どういう決定が下されたのかを示す議事録は作っていない、という返事だった。
 全くひどい話で、情報公開法の主旨は、「意志決定のプロセスを示す記録を公文書として保存し、何人によらず公文書の開示を求める人があれば、それを開示する」ということだった。「そうすることによって意志決定のプロセスの透明化をはかる」ことが、その精神だったはずである。
 しかし民主党の政府はそういう精神に則ってことを運ぶことをしなかった。「うっかり議事録なんかを作ってしまえば、誰がどんな発言をしたのか、尻尾を掴まれて責任を取らされることになる。こういう順序で議論を致しましたという『議事次第』だけを公文書として残しておけば、それでいいんじゃないか」。そんな魂胆で「議事次第」を作っておいたのだろう。
 これはコンプライアンス(法令遵守)の精神が欠けているなんて生易しい問題ではない。明らかに意図的な法令違反なのである。
 
 国民の入札で選ばれた議員が、正式の会議の場でどんな発言をしたかを空無化してしまおうとする。議事録がなければ、説明責任も生じない。民主党の政府は、150年以上も前の大間々の百姓や町役人にも及ばないのではないか。
 
○「公事師」の存在
 青木さんの『近代の予兆』を読んで、もう一つおもしろかったのは、「公事師」(
くじし)と呼ばれる人物が登場してくることである。
 青木さんによれば、「訴訟は、解決に時間もかかれば金もかかる。そこで『私談をして事を済ませば』ということになる。つまり、村内でなんとか解決できないかということになる。そんなとき、村民的な立場で『腰押し』(
こしおし/後押し)してくれる、『公事などに利口』なるものが歓迎されることになる」。
 してみると、大間々町の訴訟を調停した「扱人」も公事師のタイプだったのかな。……そんな気がしないでもないが、しかし青木さんによると、実際の公事師は嫌われ者が多かった。
 もう少し青木さんの説明を聞いてみよう。「しかし平生こういう人物は、高慢ちきで自信家で、家のことなど顧みない性格のものが多かったので、村人にあまり好かれていなかった。なぜなら昔から、『筆算などもなりて、役所向きの用をも足し、村内にては小口も利き(小利口)て、内々にて人も用いれば、当時、名主の勢いに望みありて、愚かなる小百姓をすすめ騒動さすことあり』と、しばしば村方騒動の黒幕になることさえあったからである」。「そんなわけだから、村の公事師は正義の味方ばかりとはかぎらない」。
 
 要するに公事師とは両義的な存在だった、ということであろう。村内のもめ事を捌いてくれる、その意味では不可欠な存在なのだが、それをよいことに、村の馬鹿な小百姓をそそのかして騒動を起こし、あわよくば自分が名主に取って代わろうとする。油断も隙もならない男だ、というわけである。

○公事師/代言人/弁護士
 制度的に言えば、このような公事師の後身が、明治初期に登場した代言人であろう。
 代言人とは後の弁護士のことだが、当時は資格試験の制度があったわけではない。明治9年2月、司法卿大木喬任の名前で公布された「代言人規則」によれば、代言人の条件は「一 布告布達ノ沿革ノ概略ニ通スル者。二 刑律ノ概略ニ通スル者。三 現今裁判上手続ノ概略ニ通スル者。四 本人ニ品行并履歴如何」ということだった。
 要するに、明治新政府の方針の概略に通じ、刑法民法と裁判手続きの概略に通じていれば、代言人の資格が与えられたわけで、「刑律ノ概略」とは言っても現在の六法全書みたいに浩瀚なものではない。明治3年12月に「新律綱領」が公布され、明治6年5月にはその増補版「改訂律例」が公布されたが、条文は320条ほどでしかなかった。
 もう一つ、「本人ノ品行并履歴如何」という条件が加わっていたが、まさか本人から「私はあくどい公事師でした」と名乗る奴はいなかったはずで、世間のもめ事を扱いなれた、いわば仲裁を半ば職業としてきた人間は、容易に代言人になることができたのである。
 
 そんなわけで、代言人の中にもひどい奴がいたに違いなく、服部撫松という旧二本松藩の藩士だったルポ記者が漢文で書いた『東京新繁昌記』六編(明治9年4月)に、「代言会社」という章がある。その中に、裁判そのものは勝ったのだが、依頼人が裁判で取り戻した金額を上回る必要経費や報酬を要求し、依頼人を倒産させてしまう。そんなエピソードが書かれていた。
 このようなことから、社会の代言人に対する信頼は低く、三百代言という蔑称が生まれた。樋口一葉の『たけくらべ』に、「梯子のりのまねびに
アレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし」という表現が見られる。
 
 現代でも、原告の弁護士が被告の弁護士と結託し、裁判官を巻き込んで、依頼人の財産を巻き上げてしまう「三角詐欺」なんてことが行われ(亀井秀雄のアングル「判決とテロル(最終回)」参照)、なかなか油断がならない。

○「扱人」と「公事師」
 しかし考えてみると、私が前回紹介した女渕村の定三郎や、伊セ崎町の勘助は、青木さんが描く公事師とはどうもイメージが一致しない。
 青木さんが描く悪徳公事師は、自分の村の小百姓をそそのかして騒動を起こさせ、自分の利益をはかったわけだが、大間々町の騒動の扱人となった女渕村の定三郎や伊勢崎町の勘助は、言うまでもなく大間々町や隣村の人間ではなかった。二人は、大間々町の小前百性や隣村の出作百性に有利な形で示談を成立させたが、しかしだからと言って、二人が自分の利益をはかったとは思えないからである。二人は大間々町に何らかの地位を得たわけではなく、大間々から一里も二里も離れた自分の村や町で、何らかの利益を得たとも思えないからである。
 
 そうしてみると、「扱人」と「公事師」とは実体的にも、概念的にも微妙にズレている。青木さんの著書に「扱人」という言葉は出てこない。その辺にも、この違いがからんでいるのではないか。
 ただし、この疑問はそう簡単に氷解しそうもない。江戸時代の民事訴訟の具体例を検討してみるしかないだろう。前回もちょっと言及した『忠三郎控帳』に、貸金出入の顛末を記した一連の訴訟文の写しがあった。次はそれを紹介したい。
 
 
 

 
 
 

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弘化2年(1845年)の民権運動

弘化2年(1845年)の民権運動
――選挙権と情報公開法の獲得――

○大間々町の民権運動
 弘化2年(
1845年)といえば、アメリカのペリーが浦賀にやってきて開港を求めた事件よりも7、8年も前のことであり、明治維新の20年以上も前のことであるが、上州山田郡大間々町(おおまままち。現在、群馬県みどり市大間々町)で、住民が奉行所に、町役人の経理不正を申し立てる訴えを起こした。
 この訴訟事件は、上州勢多郡女渕村(
おなぶちむら。現在、群馬県前橋市粕川町女渕)の定三郎という人物と、上州佐位郡伊セ崎町(現在、群馬県伊勢崎市)の勘助という人物が仲裁に入り、

(1) 大間々町の名主は住民の入札(選挙)によって選ぶ。
(2) 町役人が管理する会計の記録を町内だけでなく、出作(
後述)の者にも公開して、検査を受ける。

という合意に達した。
 
 つまり、自分たちの代表を選ぶ権利と、経理を監督する権利を手に入れたわけである。

○女渕村の「扱人」
 私は勢多郡粕川村女渕で生まれ育った人間だが、生家に「差上申済口證文之事」という文書が二通残っていた。「済口」(
すみくち)とは、示談成立というほどの意味である。つまりこの二通は、先の訴訟事件の「扱人」(仲裁人)が示談までこぎつけた、その経緯を御奉行所まで報告する文書だったわけだが、文字はやや乱雑で、墨を塗って訂正した箇所もある。役所へ提出する文書の下書きだったのであろう。
 
 大間々と女渕の間は、現在、自動車で県道を行けば10分程度の距離でしかない。しかしその頃の街道は全く別で、日光例幣使街道の裏街道に相当する田舎道がかなり曲折して、結んでいた。しかも、この二つの間には、館林の秋元但馬守の領地や、旗本の領地が挟まっている。当時の生活感覚からいえば、お互いに疎遠な土地でしかなかったわけだが、それにもかかわらず、女渕の定三郎が「扱人」に選ばれた。あるいは、自分から買って出ている。
 これは安永8年(1779年)から、大間々や女渕が出羽(
山形県)松山藩の酒井家の領地(飛び領地)となり、共通の利害を持っていたからであろう。
 大間々が町制を布くことを許されたのは、文政11年(1828年)のことで、町制を申請した「差上申一札之事」(『山田郡誌』)には、大間々と一緒に女渕も名前を連ねている。
 
○資料A
 江戸時代の上州(
群馬県)で、先のような権利獲得の運動があったことは、歴史家の間ではすでに常識なのかもしれない。また、上州だけでなく、もっと広い地域に見られる動きだったのかもしれない。だが、私たちが手にする一般の通史ではあまり触れられていない。蛇足かもしれないが、ここに紹介するのも、全く意味のないことでもないであろう。
 
 なお、紹介に当たっては、読みやすいように句読点をほどこし、適宜に改行して段落をもうけた。「而」「多」「付」など、仮名文字として使われた文字は、すべて「て」「た」「つき」と仮名書きに改めた。
 江戸時代の文書は、「被 仰付」(
おおせつけられ)、「従 御公儀様」(御公儀様より)というように、身分の高い人(の行為)をあらわす場合は、一字明けて書く習慣だった。が、そのまま引用するとかえって意味をとりにくくなるおそれがあり、「被仰付」のように詰めておいた。
 また、判読困難な文字については、その箇所を□で示しておいた。
 
 引用は少し長い。
〈引用〉
             
 差上申済口證文之事(資料A)
御領分上州山田郡大間々町下三町小前惣代百性にて医師丹司、百性惣兵衛、上五町小前惣代百性源兵衛、同金兵衛、同弥兵衛、同助右衛門より町役人へ相掛り諸役向取斗方(
とりはかりかた)難得其意旨申立当二月中、当
御役所へ奉出訴、一同御呼出し之上当時御吟味中ニ御座候処、扱人立入熟談内済候仕趣意左ニ奉申上候
一 右出入之儀ハ、訴訟方ニ而申立候ハ天保四巳年(
1833年)飢饉之砌り窮民扱として町内身上相応のものより出金いたし候金百拾九両之処、配与残金遣ひ払方之儀ニつき私曲之取斗いたし、且御厩飼番給、陸尺給、米代、水口永、桑永取立方御見分ならびに日光御参詣諸入用、御年貢諸夫銭割合方、大吉他壱人相雇、歌舞伎狂言相催候一件ニつき、名主年寄共へ被仰付候過料銭差出不申、其外不正之取斗有之旨品々訴上、且相手方にては扱金百拾九両之処巳ノ年之儀ハ町方穀屋共ならびに在方直売之者より米価高直ニ売捌候とて、近村之者騒立打毀し可致哉之風聞有之、右等之取防方諸入用、其外町方へ安穀売出し候損金ニ次合(償い?)候上ハ、不正之筋無御座候。
 植山立木売払代金割渡可申之処、百性代四郎右衛門より預ケ置同人方ニにて立替金も有之候間、追て割渡可申旨延引ニ相成奉恐入そうらえども、私欲いたし候儀ハ無御座候。
 桑永之儀ハ往古桑木無数植付有之候畑分なと取永被仰付置候儀之処、追々一円ニ植付候ニ随ひ年限不知小前一同相談之上平均取立いたし来候儀ニ御座候。御見分ならびに日光 御参詣諸入用割合方之儀ハ役人百性代小前相談之上諸払いたし候。いささかも不正無御座候。
 御用人馬継立之儀、改革已来(
以来)多分之継人足ニ相成、難勤続、依之借家人共より及相談ニ借家之者ハ無賃にて役人足助合相勤、其余ハ人足高何程相嵩候共百性株之者引請相勤候筈取極メ有之候儀ニ御座候。
 大吉一件につき被仰付候過料銭之儀ハ雨沼組之者申合所役人共とは内々にて相催候処、御手入御吟味ニ相成、難儀相懸ケ候上過料銭出銭為致候ては実儀難相立旨申聞そうらえども、素々同人共無念之次第にて被仰付候義出銭不致候ては心済不致候間、其段及挨拶候迄にて相過キ奉恐入そうらえども、素より可差出心得は勿論之義ニ有之候間、早々受取呉案心(
安心)候様仕度旨其外品々答上、当時御吟味之処扱人立入篤と取調及掛合候処訴訟方にて申立候ケ条之内鹿田村地内字(あざ)植山立木売払代金此節小前一同へ割渡候、大吉外壱人一件につき名主年寄共へ被仰付候過料銭ハ同人共差出し、桑永取立方之儀ハ御水帳通り、御用人馬勤方は借家人より百性株之者は助合候義ハ是迄通り、もっとも賃銭ハ其時々相勤候ものより相渡可申筈、其外天保四巳年窮民扱金配与銭金御厩飼番給、陸尺給、米代永ならびに口永取立方御分見日光 御参詣諸入用、御年貢、諸夫銭割合方書損算違など又は人取違ひ有之候段は、旧来以来ニ候とて等閑之次第につき、扱人ヲ以及挨拶、夫々事柄相分リ勘定相済、もっとも名主六左衛門義御吟味中之処病死致、且累年相勤来候町役人之義従来永役相やめ、此節一同入札ヲ以見立、毎年正月廿一日入札日と定置、名主組頭百性代共ニ是又右入札にて見立可申迄勤役中病身または死失などにて役代リ之節ハ其時々前同様入札にて高札之もの勤役いたし、旧来以来ニ候とても不宜捌ハ都而(すべて)相やめ、諸事御用向差支無之様大切ニ相勤、諸入用成丈(なるたけ)相減候。
 其外悪例之廉々諸事改止いたし可申筈、別紙議定書もつて取極メ置、其余憤リ申争ひ候廉々ハ扱人貰請、依而(
よりて)ハ訴訟方にても疑惑相晴レ、双方いささかも無申包熟談内済仕、偏ニ御威光と一同難有仕合ニ奉存候。然上ハ右一件ニ付、重而(かさねて)双方より御願筋毛頭無御座候。依之為後証連印済口証文差上申処
                                如件(
くだんのごとし
   弘化二巳年(
1845年)十月
                    酒井大学守領分
                      同州同郡大間々町
                           相手  名主  六左衛門
                           同   年寄  与四右衛門
                           同   組頭  惣右衛門
                           同   同   平右衛門
                           同   百性代 四郎右衛門
                           同   同   七郎右衛門
                           同   同   勘右衛門
                           同   同   保蔵
                    同州勢多郡女渕村
                           扱人  定三郎
                    酒井志摩守領分
                      同州佐位伊セ崎町
                           同   勘助

 御奉行所様

 表面的に見れば、これはごく小さな紛争に過ぎなかった。
 大間々の小前百性(
こまえびやくしょう。名主や組頭、百性代などの家格を持たない、平百姓)が惣代を立てて、町役人の経理不正を訴えて、一時は「近村之者騒立打毀し可致哉之風聞有之」(近村の者、騒ぎ立ち、打ち毀し致すべきやの風聞これあり)というエキサイティングな状況だったが、「扱人」が間に入って帳簿類を調べてみたところ、不正の事実はなく、結局は示談で収まった。
 それだけのことにすぎない。

○「扱人」の役割
 だが、ここには重要な点が二つ見られる。
 一つは、大間々の小前百性の訴えを受けて、「
当時御吟味之処扱人立入篤と取調及掛合候」(当時御吟味のところ、扱人立ち入り、篤と取り調べ、掛合に及びそうろう)、つまり、奉行所が吟味(審理)に入っていたにもかかわらず、扱人が間に入って調査をし、訴訟方(原告)と相手方(被告)の言い分をつき合わせて、示談で片を付けてしまったことである。
 これは奉行所の審理権や判決権を侵す、大変な越権行為と言えるが、奉行所にとってはかえって好都合な面があったのであろう。

 なぜなら、これは出羽松山藩が扱うべき訴訟事件だからである。
 出羽松山の酒井家は、当時、大間々や女渕と一緒に幕府から与えられた桐生新町(
現在、群馬県桐生市)に出張陣屋を置き、領地支配に当たった。だが、実際は出羽松山藩の江戸屋敷から送られた触れ条や回状を送達したり、代官が回村したりする程度で、実務的なことは地元の人間に任せていた。出羽松山の酒井家は2万5千石ほどの小大名であり、上州に散在する飛び領地に代官を常駐させる余裕がなかったのかもしれない。この事情のおかげで、桐生新町では自治制が発達したと言われているが、桐生新町からさほど離れていない大間々においても、事情は似たようなものだっただろう。おそらく世襲的に名主や組頭を勤めてきた家柄の人間を町役人に任命して、町政を任せてきた。その町役人たちのやり方に不正疑惑が起こり、疑惑を抱いた小前百性たちは出羽松山藩の陣屋ではなく、江戸の奉行所へ訴え出たのである。
 しかし江戸の奉行所にしてみれば、黒白のつけにくい、こんな疑惑事件を持ち込まれても、一向にありがたくない。もし扱人が仲裁に入って、原告と被告の双方を納得させる形で納めてくれるならば、それに任せるほうがいい。その意味で「扱人」は、現在の民事裁判における調停委員や、労働審判における審判員のような役割を果たしていたことになる。

 ただし、この場合の「扱人」は、現在の調停委員や審判員のように公的・制度的な権限を与えられていたわけではない。
 女渕村の定三郎と伊勢崎町の勘助は、いわば権力の背景を持たない一人の私人でしかなかったわけだが、にもかかわらず、住人の紛争に介入して双方を納得させた。これは、二人が地元の人たちから信頼され、あるいは一目を置かれる人間だったからであろう。
 その辺のいきさつは、「
其余憤リ申争ひ候廉々ハ扱人貰請」(その余、憤り申し、争いそうろう廉々は、扱人貰い請け)という文言からうかがうことができる。問題は自分たちの利害に直接関係する事柄であり、原被双方が感情的にエキサイトする場面もあったと思われるが、定三郎と勘助の二人は、「まあまあ、そういきりたっては、まとまる話もまとまらない。ここは一つ、私たち二人に預からせてください。悪いようには致しません」。そんなふうになだめながら、掛合を進めていく様子が浮かんでくる。その挙句に、名主、組頭、百性代などの役職については、「従来永役相やめ」、つまり半永久的な世襲制を止めて、毎年正月21日に「入札」(選挙)で選ぶ、というところまで持って行ってしまったのである。
 私が注目する二つ目はこの点であって、おそらく従来の慣例は、名主、組頭、百性代が欠けた場合、それなりの家柄の人間が互選で選び、出羽松山藩の出張陣屋に申し出て認めてもらうことになっていた。それを変えるということは、住民が選出権を持ち、ひいては藩の任命権にまで関与することになる。
 これは重要な変化だったと言えるだろう。

○資料B
 「済口証文」は、訴訟方(原告)と相手方(被告)の双方が示談成立の報告を奉行所へ届けることになっていた。先に紹介した資料Aは、相手方の名前を書き連ねた後に、扱人の名前が書いてある。これは相手方の立場からの書き方だったわけだが、次に紹介する資料Bは訴訟方の立場で書いてあった。
〈引用〉
             
差上申済口證文之事(資料B)
林部善太左衛門御代官所上州山田郡天王宿村外弐ケ村三拾人惣代右天王宿村百性奉左衛門より酒井石見守領分同州同郡大間々町名主六左衛門、年寄与四右衛門外二人へ相懸リ不正出入之旨申立、当五月中、当
御奉行所様へ奉出訴、来十一月二日御差日之御尊判頂戴相附、いまだ御吟味已前(
以前)ニ御座候所、扱人立入熟談内済仕候趣意、左ニ奉申上候
一 右出入訴訟人奉左衛門申立候は、相手町方へ出作所持罷有、御年貢諸夫銭相納来候処、是迄追年諸夫銭相嵩候折柄、去ル辰年中諸夫銭存外相掛リ候ニ付、夫銭遣払明細帳ならびに御割附御目録御年貢取立帳など為見呉候様申入候ても一切取教不申、夫銭附出し帳など披見いたし候処、光栄寺日掛利足(
利息?)名前無之遣払、同町限リにて可納植山御年貢其外相手町役人酒食料共存外相懸リ候旨訴上、未御吟味中已前御座候処、扱人立入相手へ及掛合候処、右之廉々ハ帳面表名目遂書損算違検算違?など相見ヘ、不正之姿と存しそうらえども、私欲私曲いたし候義も無之、一躰近年役人共人少にて御用役用混雑ニ取粉(取紛?)自然諸帳面取調不行届、今般之次第ニ至リ候段不宜候ニ付、扱人をもって及挨拶候所、訴訟方にても疑惑相晴れ、もっとも其余旧来仕来之内悪例之廉は相談之上改止いたし、別紙議定書ニ為取替置(取り交わしおき?町役人之義ハ旧来永役相止メ、小前一同入札をもって名主年寄組頭百性代共相見立、御用向大切ニ諸入用精々相減候様相勤、御年貢諸夫銭割合勘定之節ハ諸書物諸帳面之類大小之百性ハ勿論出作之者一同立合披見致、正路ニ割合取立可申筈、扱人立入取究(とりきめ)、且相手之内伝蔵義ハ最初出作惣代をもって領主役場へ訴上、事柄取調可遣筈とて数日相送リ候のみにて一向始末相分リ不申候上ハ役人へ別合候義にても有之哉、訴訟方にて疑惑致候にて、今般扱人より篤と承糺仕候処、諸帳面取調等混雑ニ取紛彼是(かれこれ)延引罷有候義にて全ク同意と申筋にては無之段明相分リ、訴訟方にて疑心相晴レ、双方無申聞熟談内済仕、偏ニ
御威光と難有仕合奉存、此上ハ右一件ニ付重而(
かさねて)双方より御願筋毛頭無御座候。依之為請証連印済口証文差上申処仍如件(よつてくだんのごとし
             林部善太左衛門御代官所
                上州山田郡天王宿村
                    百性代   奉左衛門
                    百性    常八
                    同     庄兵衛
                    同     与兵衛
             同代官所
                同州同郡蕪町村
                    名主    半次郎
                    百性代   四郎次
                    百性    市次郎
                    同     音松
                    同     勇次郎
                    同     政右衛門
                    同     吉次郎
                    同     清吉
                    同     数右衛門
                    同     熊二郎
                    同     甚兵衛
                    同     栄二郎
                    □□後家  いよ
             太田大太郎知行所
                同州同郡須永村
                    組頭    半蔵
                    百性代   佐吉
                    百性    万之助
                    同     市右衛門
                    同     与左衛門
                    同     友之助
             近藤小六知行所
                同州同郡同村
                    名主    茂左衛門
                    百姓    利左衛門
                    同     清左衛門
                    同     吉五郎
                    同     友太郎
                    同     源之丞
                    同     二左衛門
                  右三拾人惣代
                    天王宿村  百性
                  訴訟人      奉左衛門
  弘化二巳年十月
                  差添人

 この資料はここで切れている。「差添人」というのは、証人兼弁護人のことで、原告と被告はそれぞれ差添人に立ち合ってもらうわけだが、差添人は主に名主や組頭から選ばれた。名主や組頭を勤めるような確かな人物に、しっかりした証言をしてもらう。そういう建前があったのだろう。
 ところが、この資料Bは「差添人」のところで切れて、名前の記入がなく、それに続いて記されているはずの「扱人」の名前もない。当時の文書は、半切紙(
はんきりかみ)を横に糊で貼りながら書き継いでいったわけだが、その最後の一枚が剥がれてなくなってしまったのである。
 その点で、扱人を特定することは不可能なのだが、扱人が存在したこと自体は、「
扱人立入相手へ及掛合候処」(扱人立ち入り、相手方へ掛合に及びそうろうところ)、「扱人立入取究」(扱人立ち入り、取り決め)などの表現によって知ることができる。この扱人が定三郎と勘助の二人だったとは断定できないが、二つの文書の筆跡から判断して、同じ人の手になるものだったことはまちがいない。この事件の扱人も定三郎と勘助だったと考えて差し支えはないだろう。

○出作と入作
 そのことを前提にして、ここでは検討を進めさせてもらう
が、まず注目したいのは、「出作」農民が訴訟を起こしたことである。
 「出作」(
でさく)とは、「入作」(いりさく)と一対の言葉で、ある農民が他の村に耕作地を持つことを「出作」と言った。その反対に、他の村の農民が自分の村に耕作地を持つことが「入作」だった。
 単にそれだけのことならば、何の変哲もない農村事情にすぎない。だが、実は江戸時代の社会体制の土台を揺るがせるような事態だったのである。

 たとえば資料Bの紛争は、林部善太左衛門が代官支配をしていた天領(徳川幕府の直轄領地)の天王宿村と蕪町村の農民、それに旗本の太田大太郎と近藤小六とが分割所有している須永村の農民が、酒井石見守という大名の領地である大間々町の役人を相手取って起こした訴訟事件だった。
 資料Aの紛争は同じ大間々町の住人同士の間で起こった訴訟事件だったわけだが、こちらの紛争は天領や旗本の知行所の農民が大名領地の町役人を相手取った訴訟事件だったのである。
 しかも示談の結果、「
御年貢諸夫銭割合勘定之節ハ諸書物諸帳面之類大小之百性ハ勿論出作之者一同立合披見致」(御年貢、諸夫銭の割合勘定の節は、諸書物、諸帳面の類、大小の百性はもちろん、出作の者一同立ち合い、披見致し)という具合に、出作の農民にまで経理点検の権利を認めることになった。江戸時代は、天領はもちろん、大名や旗本の領地も独自の徴税権を持つ、自律的な「国」であり、お互いにその権限は侵さないという、一種の治外法権で守られていた。それが農民のレベルで崩れはじめたのである。酒井石見守の立場からすれば、これはまことに由々しい、屈辱的なことであっただろう。

 なぜこのような事態が生まれたのか。
 その原因は出作・入作関係にある。
 江戸時代の初期、一つの村の農民の耕作地は、その村の中にあったと思われる。ただ、ある農家の中心的な働き手が大病を患ったり、不幸にして亡くなったりした場合、年貢を納めることができない。やむを得ず、余裕のある農家に年貢の肩代わりをしてもらい、その担保に自分の家の耕作地を質地として預けることになった。数年以内に肩代わりしてもらった年貢を返済すれば、質地を取り戻すことができるわけだが、もしそれが出来なければ、その土地は質流れ地となって、相手の農家のものになってしまう。土地を失った農家は水呑百姓に転落してしまうわけである。
 もちろん実際の成り行きは、こんなふうに単純な図式で割り切れるようなものでなかったと思われるが、少なくとも基本的には事態はこのように進み、富裕農民と小前百性(
平百姓)と水呑みとの階層分化が進んでいった。ただ、もしこの階層分化がそれぞれの村の内部でだけ進んでいたならば、江戸時代の制度を揺るがすまでには至らなかっただろう。だが、もし年貢を肩代わりしてくれる富裕な農家が、他村の農家であり、質地が質流れになった場合、他村の農家がこの村へ入作に来ることになる。もちろんこの村の豊かな農家が、他村の農家の耕作地を質にとった場合、この村の農家が他村に出作地を持つことになるわけである。
 資料Bで訴訟を起こした、四つの村の、30人の農家は、その種の経緯を通して、大間々町に出作として入っていくことになったのであろう。

○紛争の広域化
 このような出作・入作の関係は、大きな大名の領地においても、大名自身の直轄地と、家老たち重臣の知行所との間にも生まれる可能性がなかったわけではない。だが、もしそういう関係が生まれ、何らかのトラブルが発生したとしても、同じ支配地内の出来事として処理されてしまっただろう。
 ところが上州の赤城山南山麓の、特に東半分の地域は、徳川幕府の直轄地(天領)や、旗本の知行所や、大名領地が細かく、複雑に入り組んでいた。そのため、町役人の不正疑惑程度の問題であっても、たちまち複数の領主の支配地(国)にまたがり、広域化してしまったのである。
 別な見方をすれば、農民の利害は出作・入作の関係によって、藩域(
国境/くにざかい)を超えて広域化してゆく。ところが、天領や知行地や大名領地は独立性、自立性が強かったため、その動きに単独で対応することができない。紛争が急速に広域化した場合、後手に廻らざるをえなかった。慶応年間、この地域で大規模な一揆が起こったのは、そのためでもあっただろう。

○扱人の力量
 ともあれ、このように民間のトラブルが複数の領地にまたがって広域化した場合、その裁判はどちらかの領地の役所で行うのではなく、江戸の奉行所に持ち込まれる。その意味で、資料Bの訴えが「御奉行所様」になされたのは、筋の通った行為だったと言えるわけだが、この事件の場合、奉行所の吟味が始まる以前に、扱人がいち早く仲裁に入って、出作の農民にまで町役人の業務に関して発言する権利を認めさせた。いわば奉行所を出し抜いてしまったのである。

 資料Aと資料Bとは、同じ日付だった。つまり、同じ年に複数の訴訟事件が起こったわけで、先ほども指摘したように、資料Aの訴訟は同じ大間々町の人間同士の紛争だったが、扱人は二つの訴訟をセットにして扱うことで、訴訟方に有利な決着をつけ、それを奉行所に報告したわけである。
 これを大間々町の町役人の側からみれば、ダブルパンチを食らったようなもので、ダメージは大きかったと思う。おそらくダメージから立ち直る余裕もなく、町役人選挙と経理公開の条件を呑まされてしまったのである。

 扱人は示談をそういう方向でまとめたわけだが、さらに一歩踏み込んで、トラブルが起こった原因を、「一躰近年役人共人少に」(一躰近年役人ども人少なに/そもそも最近は役人の数が少ないためだ)と指摘し、「旧来仕来之内悪例之廉は相談之上改止いたし」(旧来仕来りの内、悪例の廉は改止したし)と、機構改革の提言までしている。これは町役人にとってだけではなく、出羽松山藩にとってもは耳の痛い指摘であっただろう。

○入札制度のその後
 このような示談の結果に、奉行所がどう対応し、出羽松山藩がどう対応したか、私には判断の材料がない。
 ただ、出羽松山藩が上州の飛び領地で行われる入札制を容認した、その証拠がないわけではない。この訴訟事件からおよそ20年後の文久年間(
1861~1864年)、私が育った家の当主は忠三郎といい、『忠三郎控帳』とも言うべき手帳を残している。そこには34通、奉行所へ提出した文書の写しが記録されているが、その中の一つ、「御領分上州勢多郡女渕村小前並村役人一同奉申上候」という言葉ではじまる文書によれば、忠三郎は文久年間、入札によって名主に選ばれた。そのことを、百性代2人、忠三郎を含む組頭4人、名主・定左衛門の連名で、「御郡方御役所」に届けている。
 次の、「御領分上州勢多郡女渕村名主忠三郎奉申上候」で始まる文書では、村内の観世音塚の氏子たちが歌舞伎狂言を奉納した際、寅吉という男が隣村の松蔵と喧嘩して、重傷を負わせられた顛末を報告している。ひょっとしたら名主としての最初の仕事だったかもしれない。
 ともあれ、これを見る限り、入札制度は、少なくとも20年は続いたのである。大間町でも同様であっただろう。
 
 
 
 
 

 

 

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