言語ウォッチング(8)
歴史認識と細部のリアリティ
○二つのテレビ映像から
昨日(9月11日)の夕方、スポーツの報道をしている局を探して、テレビのチャンネルを回していたところ、たまたまNHKのEテレで、大学の階段教室らしい場所が映った。大学生(だと思う)が手を挙げて、「日本の内閣総理大臣や閣僚が、A級戦犯を祀っている靖国神社に参拝しようとすると、中国や韓国が反撥する。靖国神社にA級戦犯を合祀しているからで、だからA級戦犯別な所に祀るようにしたほうがいいと思う」という意味の発言をしている。
テレビの画面の左上に「中国や韓国とどうつきあうか」という文字が見える。これが、この集まりのテーマなのだろう。
次にカメラは、黒板を背にした大学の教師らしい男を映し、その男が〈我が意を得たり〉といった表情で、「そうだね、A級戦犯の霊は別な所に祀る。そうすれば、中国や韓国とのぎくしゃくした関係の原因の一つが除けるわけだし……」みたいな相槌を打つ。
またそのテの話か。私はさっさとチャンネルを切りかえた。
今朝(9月12日)、民放のテレビが鉢呂吉雄経済産業大臣の辞任の経緯を映している。それをぼんやり見ながら、朝食を摂っていると、妻が「あら、もう8時を過ぎている。3チャンネルにまわして」。
妻と娘はNHKの朝ドラ、『おひさま』の大ファンというわけではないが、物語の進行には、感情移入的な興味を持っている。「あっ、そうそう、ごめん。もう8分も経ってしまったな」。そう言って、チャンネルをNHKに合わせたところ、ヒロインの一家が「そば屋」を新しく開店し、ヒロインの知人がお祝いに花の鉢植えを持ってくる。そこで、場面は一転し、どうやら東京らしい町の一角で、若い女性が、NHKのアナウンサーが差しだすマイクを前に、女性差別を非難する発言をしている。
「ああ、昔、NHKのラジオ局が街頭で、いろんな時事問題について市民の意見を聞く放送をやっていたっけ……」。旧軍隊や旧植民地にいた人の消息を尋ねる、「たずね人の時間」とか、「今だから言う!」みたいな、告発番組もあったな。
そんなふうに連想が動き出した途端、『おひさま』の場面では、女性の発言にヤジを飛ばしていた男たちと、その女性や、彼女に賛成する、ヒロインと友人の女性とが、狭い壇に上がって、言い合いを始めた。そこへ、警官が二人駆けつけ、ヒロインの友人の女性が、もののはずみで警官の一人を壇上から突き落としてしまう。
最後に、明日の展開を予告するシーンが映り、どうやらヒロインの友人は留置所に入れられてしまったらしい。
「この時代設定はいつ頃なの。連合軍の占領時代なのかな、それとも講和条約で日本が独立してから? 日本の警察は、どんな罪状の容疑で、あの女性の身柄を拘束したのかな」。
娘が「さあ、よく分からない。制作者もその辺のことは、あんまり意識しないで作っているのじゃないかしら」。
「NHKは割合に時代考証をしっかりやるところだけれど、この場面、どうも腑に落ちないな。細かく言えば、警官の制服のことも含めてネ」。
○「A級戦犯」は中国や韓国でも通用する概念か
前者の場合、私が「ん?」と思った理由は、あの大学生(らしい男)も、教師(らしい男)も、自分が言ってることを突き詰めるならば、〈中国や韓国がうるさく言うのだから、A級戦犯の霊は靖国神社から他へ移してしまえばいい。そのように譲歩すれば、中国や韓国との関係はうまくいくはずだ〉という理屈になってしまうはずだが、多分そのことに気がついていないからである。
要するに相手の言い分を通してやれば、相手がうるさく言うことはなくなるだろう、というわけで、この理屈をもう少し拡げるならば、〈竹島は韓国が主張するとおりに、尖閣諸島は中国が主張するとおりに、譲ってやればいいじゃないか〉ということになりかねない。
それだけではない。あの大学生(らしい男)も、教師(らしい男)も、韓国(大韓民国)や中国(中華民国共和国)は極東国際軍事裁判の判事たちが下した「A級戦犯」という判決を支持しているのだ、という前提でものを言っている。彼らはそのことに疑問を抱いたことがないのだろうか。その点が腑に落ちなかったのである。
見方を変えて言えば、これは、「A級戦犯」は中国や韓国でも通用する概念かという問題。あるいは、中国や韓国はどういう手続きを経て「A級戦犯」という概念を承認したのか、という問題になる。
○東京国際軍事裁判と中国・韓国
東京で開かれた極東国際軍事裁判に、韓国も中国も検察官(検事)を出さなかった。判事も出していなかった。当時の連合国の判断によれば、韓国は日本に対する戦勝国ではなかったからである。現在の日本では、「中国」という言葉を、北京に政府を置く中華人民共和国の通称として使う習慣がある。NHKもそれに従ったのだろうが、その意味での中国は日本に対する戦勝国ではなかった。なぜなら、中国(中華人民共和国)という国は、極東国際軍事裁判の時点では、国際関係の中には存在しなかったからである。
極東国際軍事裁判で検察官と判事を出したアジアの国は、中華民国とイギリス領インド帝国とフィリピンの3国だった。つまり日本に対する戦勝国は、中華人民共和国ではなくて、台北に政府をもつ中華民国のほうだったのである。
もちろん極東国際軍事裁判に検察官や判事を出さなかったからと言って、中国や韓国がその判決を支持してはならないということはありえない。支持しても一向に差し支えはない。
ただ、もしそうならば、国の責任において極東国際軍事裁判の成り立ちや、戦犯を摘発する論理、証拠固め、判決の全てにわたって検討をし、その上で、なぜ自分はその判決を支持するのかを明らかにするべきだろう。
私は寡聞にして、中国や韓国の政府がそれだけの手順を踏んで、日本の総理大臣の靖国神社参拝にクレームをつけたとは聞いていない。中国や韓国はそういう手順を踏んだことはないのではないか。もし私の推測が正しいならば、要するに中国や韓国の政府は、戦勝国という虎の威を借りて日本の政府に言いがかりをつけているにすぎない。
もっとも、あの大学生(らしい男)や教師(らしい男)も、果たして「A級戦犯」に関して自分なりの判断を持っているかどうか、はなはだ疑わしい。これもまた推測になるが、どうもしっかりとした根拠を持って発言しているようには思えなかった。もしこの推測が正しいならば、この人たちは概念の曖昧な言葉をもてあそびながら、中国や韓国と馴れ合おうとしているだけで、それはとうてい、まっとうな「つき合い」にはなり得ないだろう。
○極東国際軍事裁判の再審請求を視野に入れて
数年前、いわゆる歴史認識の問題が起こったとき、私は、日本の歴史家と中国の歴史家が共同で事実の究明に当たることになったというニュースを、インターネットでみた。何という姑息なことを、と私は思った。仮に共同研究の結果、一定の結論に達したとしても、所詮それは台湾や韓国や北朝鮮の立場を排除したものでしかないだろう。
それでは、東アジアの近現代史というテーマを立てて、台湾以下の国の研究者にも加わってもらうことにしよう。そうするならば、それぞれの立場を全て満足させる結論に達することは可能だろうか。しかし、まずそれはあり得ない。
私の見るところ、いわゆる歴史認識の問題は、極東国際軍事裁判の判決の是非の問題に帰着する。それならば、テーマを極東国際軍事裁判にしぼり、裁判のプロセスと判決文の論理を徹底的に検証したほうが、はるかに稔り大きい結果を得ることができるだろう。私はそう見ていたのである。
私は法学関係の知り合いに、〈もし誰かが極東国際軍事裁判に関して、検察官や判事を出した国々に、再審を求めることを思い立ったならば、それを実現することは可能ですか〉と聞いてみた。徹底検証の結果、そういう方向に議論が進むこともあり得るだろう、と思ったからである。
知人は、話があまりにも大きすぎると考えたのか、「そうですねえ、まず再審請求をどこに出すか、という問題がありますね」と、はかばかしい返事をしてくれなかった。私の発想が、あまりにも素人じみていると思ったからかもしれない。
もちろん私は自分の着想が空想じみていることを承知している。だが、どうせやるならば台湾や韓国や北朝鮮の歴史学者も入ってもらい、徹底的に検証して、もしその必要が認識されたならば、再審請求の運動を起こす。それが最も望ましい、歴史認識の問題の解決方法だ、と思う。
○アホらしい『おひさま』の一場面
さて、『おひさま』の時代設定や描写の問題に関してだが、私はここまで書いて、いったん中止をした。日を改めて、その続きを見てから書き進めることにしたわけだが、今朝(9月13日)、昨日の続きを見ても、依然として、どうも腑に落ちない。
路上にリンゴ箱を伏せた程度の、低い壇上で、それぞれ3、4人の男女が言い合っている。そこへ、警官が二人、止めに入ったわけだが、これを「公務」とは呼ばないだろう。べつに傷害事件に発展した、あるいは傷害事件に発展しそうなほどエキサイトしていたわけではないからである。
ただし、警官が二人駆けつけたのは、言い合いを止めるためではなくて、演説していた女性を連れていくためだったのかもしれない。もしそうならば、このドラマの制作者は、〈当時は、NHKの「街頭録音」という公共の場で、ある女性が男女差別の非を訴える発言をし、聞いていた男たちと言い合いになる。それだけでも、警官が連行するに相当する反社会的な行為と見なされてしまう時代だったのだ〉と考えていたことになる。
随分おそまつな時代認識であるが、どうやらこの制作者は本気だったらしく、ヒロインの友人の女性が、演説をしていた女性を庇おうとし、もののはずみで、警官の一人を壇上から突き落としてしまう。そこで、警官はヒロインの友人の女性を「公務執行妨害」で拘束し、留置場に入れたことになるわけだが、何ともアホらしい。
戦前の警官は、ちょっとでも不審な言動が見えれば、「オイ、こら」と咎め立てる。そして反抗的な態度を取った人間は、容赦なく交番へしょっ引いて行った。
『おひさま』の制作者は、戦前の警察官に関する、そんな「伝説」に引きずられ、ある種の思い込みであの場面を作ってしまったらしいのだが、交番での事情聴取という段階を飛ばしている。
交番で事情を聞き、それから留置所へ入れるまでには、なお何段階かの手続きが必要であり、その過程で、交番に連行した人間に犯罪行為、または犯罪意図がないことが分かったならば、警官の早合点を詫びて帰ってもらう。戦前の警察でさえそういうことがあったわけだが、制作者はその点に思い至らなかったのだろう。「ある種の思い込みで」と言ったのは、この意味である。
何だか細かいことにこだわるようだが、私は近頃とみに、細部のそういう嘘臭さが気になってならない。「歴史認識」を振りかざす歴史学者が、時々平気で、このテの思い込みをやらかしているからである。
○『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』の場合
しかし、だからと言って、私は、歴史の描き方にいちいち目くじらを立てているわけではない。
松平健の扮する徳川将軍が、馬を疾駆させて、型破りの暴れん坊ぶりを発揮しても、それはそれで一向に構わない。
東野英治郎の演ずる水戸黄門が、「コレ、鉢呂兵衛、お辞(や)めなさい!」と叱ったとしても、まあ、お約束の場面だからね、と笑って見ている。
○細部のリアリティをどうするか
だが、たとえ物語そのものはフィクションであったとしても、その細部は実際にあった事柄に基づいて描く、という方針で語っていく場合、細部の検証はしっかりやってもらいたい。
これも『おひさま』の一場面だったが、遠くの火事を見に行ってきたヒロインの夫が、「大事なものだけを持って」と家族をうながして、避難していく。次の回の予告的なシーンを見ると、ヒロイン一家は焼け出されてしまったらしい。
この時も、思わず私は家族に言った。「これはないだろう。火事の火の粉が飛んできて延焼してしまう心配があるのは、火が移りやすい藁葺きか、茅葺きの屋根だよね。この家は瓦葺きだよ。よほど大量の火の粉が降ってこないかぎり、そう簡単に燃え移りはしない。それに、時代設定からすれば、この家族は、アメリカ軍の空襲を想定した防火訓練や消火訓練を受けてきたはずだろう。ヒロインの夫は軍隊の経験があるらしいから、当然どんなふうに対処すればよいか、心得ているはずだし、……ところが、その夫が早々と防火を諦めて、家族と一緒に避難してしまう。そうじゃなくて、本来ならばネ、子どもと両親を先に避難させて、若い夫婦は残って、バケツや桶に一杯水を溜めて、柄の長い箒を側に置く。そして、まずたっぷり水を吸わせたタオルや手ぬぐいを壁や戸板にたたきつけ、一面を水で濡らして、火の粉が燃え移らないようにする。タオルが届かない場所は、箒を水につけて、火の粉を払う。そうやって頑張っても防げないほど火が迫ってきたら、残念ながら家を放棄して、避難せざるをえない。……ところが、一番頑張らなければならない夫のほうが、『さあ、手に持てるだけの荷物を持って、こんな危険な所から、安全な場所へ避難しましょう』なんて、……福島原発の事故のために避難を強いられた人たちに、何かメッセージを送るつもりなのかもしれないけれど、そんな余計な計算をするから、肝心のリアリティがなくなってしまうんだよ」。
家族は、何もそんなにムキにならなくても、といった表情で聞いていた。が、要するに私が言いたかったことは、一人ひとりの人間がその時代の中で、どのような経験の拡がりを持ち、どんな行動の仕方を身につけていたか、それをしっかりと押さえておく。その全てを物語の中に持ち込むことは出来ないとしても、それだけの用意がなければ、細部をリアリティある形で描くことはできない。そういうことだったのである。
○歴史の理解
これを逆に言えば、ある歴史的な出来事を見て、その断片的な細部を、先のような手続きで肉づけしながら、全体的なリアリティを描き出す。歴史の理解はそのようにして得られるはずである。
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