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言語ウォッチング(5)

天罰とプロメテウスの火

○門馬監督の傲らない言葉
 この1ヶ月で一番印象に残った言葉は、東海大相模の門馬監督の言葉だった。東海大相模高校が春の選抜高校野球大会で優勝し、優勝監督インタビューで、アナウンサーが門馬監督に東日本大震災についてのコメントを求めた。
 アナウンサーとしては、〈東北の被災者の皆さんを少しでも元気づけることができれば、と思って、精一杯プレーをした〉という意味の答えを期待したのだろう。
 しかし門馬監督の答えは、〈自分たちに何が出来るか、私には分かりません。ただ、この大会の開催を決定してくれた人たちに感謝し、野球が出来ることに感謝して、一生懸命ひたむきに頑張っただけです〉。そういう意味の、真っ正直な言葉だった。
 傲らない、いい答えだ。私は感心した。
 
 佐藤キャプテンは、かつて中日ドラゴンズの正捕手だった中村武志によく似ている。受け答えも歯切れが良く、好感が持てた。
 
 「プロのスポーツ選手や芸能人が、口を開けば、《被災した人たちに元気を与える》、《感動を与える》と言ってるけれど、なんか押しつけがましくて、食傷気味だね」。
 「ほんと、それって上から目線の言い方だと思うけれど、自分では気がついていないみたい」。
 「もしそれを言うんならば、《喜んでもらえて、うれしい》とか、《感動して貰えたら、自分たちの励みにもなる》とかと言えばいいのにネ」。
 「ただ、受けとる側の言い方がそうさせてしまう面もあるかもしれないナ。《元気をもらった》とか《感動をもらった》とかって。……感謝を述べるのならば、《感動しました》、《元気が湧いてきました》と言えば済むことだし、むしろその方が、感謝の気持ちがすっと伝わると思う。それに較べると、《元気をもらった》《感動をもらった》は社交辞令っぽい。それが《元気をいただいた》《感動をいただいた》となると、本人は丁寧な言葉づかいをしたつもりかもしれないけれど、卑屈と言うか、まあ、それは言い過ぎにしても、どこか卑しさが感じられる。受けとる側のそういう卑しさが、スポーツ選手や芸能人に〈俺達は与える側なんだ〉という傲りを生んで、《元気を与える》、《感動を与える》みたいな言い方を誘ってしまう。馴れ合いめいた感じで、どうも感心できないナ」。
 我が家ではそんな会話をしていた時だったので、東海大相模の監督と主将の受け答えにすっかり感心してしまったのである。
 
○清水社長の「陣頭指揮」?
 4月11日、東京電力の清水社長が漸く福島までお詫びに出かけ、記者の質問に「東京で陣頭指揮を取っていたが、体調を崩して入院していた」云々と答えていた。
 それを言うなら、「東京の本社に詰めて指令を出していた」だろう。「陣頭指揮」は、司令官がみずから最前線に赴き、戦場の状況を見ながら指揮を取る場合を言う。
 もちろん、社長は常に現場に立っていなければならないというわけではない。後方の司令部にいたほうが状況の全体を把握し、現場に適切な指示を与えることができる。そういう場合も多い。ただ、少なくとも一度は社長自身が現場に足を運んで状況を把握し、福島県知事や各自治体の長と善後策を相談しておく必要があった。11日の社長の説明は、それをしなかった言い訳としか聞こえなかった。

○21世紀の『方丈記』的状況
 この11日は、午後5時過ぎに、福島で震度7を計測する大きな地震があった。テレビを見ていると、30分位の間隔で、震度3,震度4の余震が続いている。落雷もあったらしい。福島や茨城や宮城の人たちは、気持ちの休まる暇がないだろう。3・11の大地震以来、マグニチュード5以上の余震はすでに400回を超えているという。神経が参ってしまうのではないか。小さな男の子が怯えて「わぁー」と泣き出し、見ていて、気の毒でならない。余震はやや間遠になったが、翌12日に朝には長野県で震度5の地震があり、静岡県でも地震があったという。
 これに加えて福島原発の事故があり、同じく11日、原子力安全・保安院は、ついに事故の深刻度をレベル7にまで引き上げた。

 鴨長明の『方丈記』は、安元~元暦年間(1177~1185)の天災地変を描いたルポルタージュと言えるが、これは天災地変に人災も加わった、21世紀の『方丈記』的状況と言えるだろう。

○「天罰」「天譴」論
 群馬の姉に電話をしてみた。――インターネットの『上毛新聞』の記事によれば、地震の被害を受けた家は、群馬県でも1万7000戸を超えたらしい。――姉は〈時々余震があり、体調を崩すほどではないけれど、その都度びくっとさせられて、それが嫌だ〉という話だった。
 もう一人の姉は自動車の運転免許証を返上したという。私が直接聞いたわけではないが、その理由は〈もう後期高齢者だから、反射神経に自信が持てないし、皆があんまり無造作にCO2をはき出すものだから、天が怒ったんじゃないか。これからはバスで行動することにした〉ということだったらしい。

 なるほど、私の姉らしいな。東京都知事の石原慎太郎が「天罰」と言って、その不謹慎を非難されたようだが、関東大震災の時も何人かの文学者が「天譴説」を唱えた。この大震災は人間の傲りに対する天の戒めだ、天が鉄槌を下したのだ、という意見であるが、決してナンセンスな見方ではない。「天災」という言葉自体が、超越的な「天」の存在を前提とした熟語だからである。「天」の引き起こした災いに、昔の人たちが、「天」の意志を感じ取った。そこから生まれたのが「天譴」「天罰」なのである。

○プロメテウスの火
 私はもう40年以上も前に、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』を読み、〈日本人が開発という名目で次々と自然を切り崩してゆき、妖怪を閉じこめておいた封印を破ってしまう。そのために、土俗的な妖怪変化が甦ってきた〉というストーリーに、すっかり感心した。戦後の日本が無反省に工業化を進めて行く、それに対する警告と読んだのである。
 
 それより更に20年ほど前、荒正人という文学者が原子力の利用をプロメテウスの火に喩えて、警告を発した。ギリシャ神話のプロメテウスは、全能の神ゼウスに「人間にも火を分けて欲しい」と頼むが、ゼウスがことわったため、プロメテウスは火を盗み出して人間に与えた。ゼウスがことわった理由は、人間には火を使いこなす能力がないと見たからで、事実、人間は火薬を発明して以来、核爆発の方法の発明に至るまで、その巨大なエネルギーを利用して生産力を向上させてきたが、その反面、それを兵器に用いて自他を破壊する災害をもたらしてしまった。
 原子力発電はプロメテウスの火の平和利用の象徴と見られたわけだが、そのコントロールに失敗すれば巨大な災害に転化しかねないのである。
 
 プロメテウスはゼウスの怒りを買って、コーカサスの岩に鎖でつながれた。火を盗んだ罰として、大きなハゲタカに腹を引き裂かれ、肝臓をついばまれる。そういう酷い刑に処せられることになったが、彼の腹は一度引き裂かれても、すぐに元にもどってしまう。そこへまたハゲタカがやってきて腹を裂き、この刑罰は永遠に続く。
 
 今度の災害は「天」の戒めに加えて、プロメテウスの火の呪いが重なったわけだが、では、なぜその二重苦を、福島県をはじめとする東北地方の人たちや、関東の人たちが蒙らねばならなかったのか。
 これはその人たちにとってまことに不条理な仕打ちと言うしかないだろう。
 この何故に答えはない。まさに「人智の及ばざるところ」なのであるが、この非力さや無力感を謙虚に反芻する。そうすることによってしか、あの人たちの悲しみや苦しみに近づく術はないような気がする。

○ツイていない菅直人総理大臣
 それにしても、菅直人という総理大臣はよくよくツイていない政治家だな。
 菅内閣の目標は「最小不幸の社会」だったわけだが、天から〈その言やよし、ではここから始めてもらおうか〉と、最大不幸を突きつけられてしまった。
  
 菅内閣の国家戦略はTPP(環太平洋戦略経済連携協定。Trans Pacific Partnership)に加入して、貿易自由化を進めることだった。そんなことをやれば日本の農業は大打撃を受けるだろう、という反対論も多かったが、「第二の開国」と称して、押し切ろうとしていた。ところが、貿易自由化どころの話ではない。農産物や水産物の輸出もおぼつかないほどの窮状に陥ってしまったのである。しかも福島原発事故の対応の不手際によって。
 
 このツキのなさについて、「ツキも実力のうち」とやられては、菅さんとしても立つ瀬がないだろう。

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言語ウォチング(4)

提案二つ

○空恐ろしいエネルギー
 う~ん。そんなに凄いエネルギーが動いたのか! インターネットで『日本経済新聞』(3月28日付け)の記事を見て、私は東日本大震災がどんなに巨きなものだったか、改めて実感した。
 その記事によれば、「東日本大震災で、岩手県から福島県にかけての東北地方が沖合方向の東向きに最大約3,5メートルずれ動く地殻変動が起きていたことが28日までに、国土地理院(茨城県つくば市)による衛星画像の解析で分かった。
 震源(宮城県・牡鹿半島の東南沖約130キロ)に近いほど変動が大きく、牡鹿半島付近が約3,5メートルと最大。岩手県釜石市付近で約2メートル、同県宮古市や山形県東根市、福島県伊達市付近は約1メートルずれていた」という。

 うんと単純化して言えば、日本の東北地方全体をグイッと持ち上げて、太平洋側に3メートルほど横にずらしたわけである。

 わずかに3メートルでしかない、と言えないわけではないが、自分の家が、いきなり3メートルも横ずれした場合を想像してみよう。たとえ建物自体は倒壊を免れたとしても、家具が無事でいるはずがない。水道管やガス管のつなぎ目がはずれ、電気の線が切れてしまう。内陸部の街は地殻と一緒に動き、まだしも持ちこたえられるかもしれないが、海岸の街や村はたまったものではい。そのエネルギーが引き起こした津波をもろにかぶってしまうのである。

○海底図を
 あれから3週間も経ったが、まだ震度3、震度4クラスの余震が続いている。
 こんな現象は、日本の地震にはなかったことではないか。プレートとプレートとの押し合いで歪みが生じ、それが元の状態に戻ろうとする時に地震が発生するのだ。そんなふうに考えてきたけれど、今回の地震はそれとは違う要因も働いているのではないか。それともプレート間のストレスを発散するための巨大な地震が、もう一度起こる、その予兆なのだろうか。
 そんなことが、私たち家族の話題となった。

 娘がこんなことを言っていた。「海底ではものすごく大きい崩落が続いているんじゃないかな。海底の状況はどうなっているんだろう。地震や津波の専門家はもちろん海底の変化も研究していると思うけど、陸上の被災地を書いた地図だけじゃなくて、地盤や海底の変化も書いた地形図の情報も欲しいな。……それを見せたからパニックになるっていうことはないと思うし……」。

○ドイツに学んで
 福島の原発事故についても、なかなか収束のメドが見えてこない。
 風評被害も原発事故の被害のうちに入るだろう。福島県や茨城県の漁業や農業がその被害を被っている。栃木県や群馬県の農業も風評被害を免れ得ない。群馬の太田市では、風評被害で値崩れしそうな野菜を、農家から買い取り、地震と津波の打撃を受けた人たちの避難所へ贈ることにしたらしい。

 「私たちがドイツ(西ドイツ)へ行ったのはチェルノブイリの原発事故があった、次の年だったでしょう。あの時、ミュンヘンのスーパーマーケットなどの食品売り場では、ガイガー・カウンターが置いてあって、お客さんに《この野菜の数値はこれだけだけど、それでいいか》って確かめてから、売っていた。私は言葉がよく分からないし、数字の計算が苦手だったから、うんうんと頷いて買ってきたけれど、放射性物質が検出された野菜は食べないとか、その数値のものは危険だからって敬遠するという人もいたと思う。……そういうやり方も風評被害を防ぐ、一つの方法なのじゃないかしら。危ないなって思ったら、買わなければいいんだし、自分の知識ではこの程度の数値は問題ないと思ったら買うでしょうし、とにかくお客さんが自分の責任で買うわけだから……。お店にそういう器械を設置するように指導するとか、日本の技術力ならば携帯用の計測器を作るのはお手のものなんだから、家庭に一個ずつ配っておくとか、そうすれば風評に惑わされることも少なくなると思う」。これは妻の意見である。

○「この期に及んで」?
 えっ!? 彼の立場でそれを言うんなら、「こと、ここに至っては」と言うべきじゃないのか。

 昨日(4月2日)、朝食を摂っている時、何気なくテレビを入れたら、みの・もんたが司会する番組で、各党から一人ずつ国会議員に出て貰い、色んな質問をして、イエス・ノーで答えてもらっていた。
 民主党と自民党の大連立は是か非か。そういう質問に対して、民主党の渡辺という国会議員がイエスと答え、その理由を訊かれたところ、「この期に及んで」と説明を始めた。
 「この期に及んで」とは、相手がもう手詰まりになってしまっているにもかかわらず、まだ何とかなりそうだと悪あがきをしているのを見て、いい加減に観念したら、と引導を渡すときに使う。民主党の渡辺にとって、引導を渡すべき相手は誰なのか? まさか大連立の相手である自民党ではあるまい。
 それに対して、「こと、ここに至っては」は、もはや事態は自分(たち)だけの力ではどうしようもないところにまで来ていると、潔く観念をして、ある決断を述べる、あるいは促す場合に使う。
 ひょっとしたら民主党の渡辺代議士は、事態を手詰まり状態にまで悪化させてしまった責任は自民党その他の野党にある、と思っているのかもしれない。何とも虫のいい発想だが、ともあれこんな言葉遣いのなかにも、民主党議員のホンネが漏れていたような気がする。

 いやいや、そうではなくて、この時の渡辺代議士は党内野党の立場で、菅首相をはじめとする民主党の幹部連中に物申すつもりだったのかもしれない。しかし、もしそうならば、彼は発言すべき場所を間違えていたのである。

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