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言語ウォッチング(2)

民主党議員、迷言の数々

○仙石官房長官の「腰」
 仙石由一官房長官は、先日、民主党政府の中華人民共和国に対する姿勢を「柳腰」と表現して、国会でも表現の当否をめぐる論議があった。自民党の石原伸晃さんの「弱腰」という批判に対する、仙石さんの説明によれば、「柳腰というしたたかで腰の強い入れ方もある」のだそうである。一体どういうことなのか、いよいよ訳が分からない。
 仙石さんは「腰」の比喩が好きなのかもしれない。15日のある会合でも、「支持率に一喜一憂しないで、腰を落として議論をやれば国民の理解もだんだん深まるのではないか」云々とやっていた。
 スポーツでは、よく「腰を落として」と言う。〈腰を低めに安定させた、しっかりとした構え〉のことを、そう言うわけだが、しっかりとした議論を重ねる場合には、「腰を据えてじっくりと」と言うべきだろう。
 仙石さんは「腰」の比喩が好きな割には、「腰」の使い方が下手だな。彼が記者会見の壇上に上がる姿を思い浮かべながら、そんな印象を抱いた。

○翻訳家泣かせ
 仙石さんの学歴や職歴については、私は不明だが、もし国語の試験で、「文中の( )内に入る適切な言葉を選びなさい」という選択肢問題をやってもらったとすれば、中学生の標準レベルにも届かないかもしれない。
 これまた記者会見の席上、「よく耳をほじくって刮目してお聞きいただけば」云々とやっていた。「まあ、場所が場所だから、さすがに『耳をよくかっぽじいて』、と啖呵を切るのは遠慮したようだね」と私たち家族は笑って聞いていたが、「しかし『刮目して聞く』とは、どういうことなんだろう?」。

 もっとも、仙石さんの「よく耳をほじくって刮目してお聞きいただけば」云々が放映された日、民放のアナウンサーが「鼓舞」を「コマイ」と読んでいた。

 ただ、「コマイ」の女性アナは、番組終了後、直ぐに局の仲間から注意を受けたにちがいなく、これからは二度と同じ間違いを繰り返すことはないだろう。ところが仙石さんは自分の日本語能力が怪しいことに気がついていないらしい。そこが困る。「柳腰」とか、「柳腰というしたたかで腰の強い入れ方もある」とか、外国の記者はどう翻訳していいか、頭を抱えてしまうだろうし、訳し方一つでとんでもない誤解が拡がらないともかぎらない。怖いことだ。

 もともと民主党には言語感覚のおかしい人が多いらしい。昨年、民主党が衆議院選挙に大勝した時、興奮して「これは無血革命だ!」と口走る国会議員がいた。民主党の政策に批判的な声が挙がると、「反革命を許すな」と抑えにかかる。
 仙石さんはそういう上ずった雰囲気に煽られたのか、事業仕分けを「政治の文化大革命だ」と言い出した。この言葉は当然中華人民共和国の「文化大革命」を連想させるが、その実態がどんなに悲惨、残酷なものであったか、仙石さんが知らなかったわけではあるまい。

○カビの生えた革命史観
 菅直人首相は、自分が組閣した内閣の性格を問われて、「まあ、奇兵隊内閣とでも呼んでもらいましょうか」という意味の返事をした。長州の奇兵隊は倒幕戦争の尖兵だったわけだが、国家権力の中枢たる菅総理大臣とその閣僚はどんな権力を倒そうとしているのか。まさか菅さんは自分を高杉晋作になぞらえているわけではあるまい。もしそんなふうになぞらえているとすれば、カン違いもいいところが、しかし、ひょっとしたらそんな自惚れを抱いているのかもしれない。怖いことだ。

 菅さんが首相に就任した時、記者会見で「最小不幸社会を目指す」という言い方をした。もちろんこれは、ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」(The greatest happiness for the greatest number)という言葉を念頭に置き、それを裏側から言い換えてみせたものだろう。
 ベンサムのこの命題は、「社会全体が幸福にならなければ、個人の幸福はない」という思想に裏打ちされており、その「幸福」には「善を行う」という倫理が含まれていたらしい。仮に「不善」を行って幸福が得られたとしても、それは限られた人間を幸福にするだけで、かえってより多くの人たちを不幸に追いやり、社会全体の幸福を減少させてしまうからである。
 それに対して、菅首相の言葉は「社会全体の不幸が少なくならなければ、個人の不幸もなくならない」となるわけだが、この「不幸を少なくする」には「不善を行わない」という倫理が含まれているのだろうか。
 理屈はそうなりそうだが、「不善を行わない」は倫理と言うより、むしろ戒律と言うべきだろう。「善を行う」は積極的行為だが、「不善を行わない」は消極的な戒めであり、戒めを守ること自体は幸福の増進や、不幸の減少とは直接的にはかかわらないからである。
 それだけでなく、「不善を行わない」戒律を守るには、不断の監視(チェック機能)を必要とする。この「監視」には自己監視が含まれるわけだが、いずれにせよこの監視機能が失われれば、「不善」に歯止めがかからない。自浄能力が失われてしまう。
 
 とにかく民主党の国会議員諸氏には、言葉への慎重さが欠けている。鳩山前首相は、尖閣諸島沖の「中国」漁船衝突事件の映像が流失したことについて、「情報によるクーデター」と言った。
 一国の首相を務めた人物に、クーデターがどんな政治行動かを説明し、言葉の誤用を指摘する失礼は避けたいと思うが、ただ一つ、菅さんの「奇兵隊内閣」に劣らぬ、飛んでもないカン違いであることだけは指摘しておきたい。日本には情報公開法という法律がある。もし今の政府がきちんとその法律を運用していれば、今度の流失事件は起こらなかったはずだ。鳩山さん、せめてその程度のことは認識しておいて下さい。

 多分この人たちは、もう15年も20年も前にリアリティを失ってしまった「革命史観」にまだ取り憑かれており、明治維新や昭和政治史に関する一知半解な知識で短絡的に解釈する。そこから、あんな迷言が飛び出すのだろう。

○妄想内閣
 そこで、もう一度仙石さんにもどるならば、12月8日の記者会見の席上、北方領土問題に関連して、「平和条約を結べていないから、戦争状態をどう終わらせるかということだ」と語っていた。
 つまり、ロシアとはまだ戦争状態が続いているというわけで、仙石さんとしては、〈ソ連とは平和条約を結んだが、現在のロシアとはまだ結んでいない〉と言いたかったのかもしれない。しかしそれを言うならば、日本は帝政ロシアと戦争をしたことはあるが、現体制のロシアと戦争を起こしたことはない。つまり、そもそも戦争状態そのものが存在しないのである。
 それに、日本とロシアとはお互いに大使館を置き、大使を駐在させているわけだが、もし戦争状態ならば、そんなことが行われるはずがないだろう。
 要するに仙石さんは、勝手にロシアとの戦争状態を作ってしまったわけで、こういう頭の働きを妄想と言う。
 
 そしてついに仙石さんは12月18日、国会の予算委員会で、「暴力装置としての自衛隊」と口走ってしまった。それが自衛隊に対する不当な表現であることを指摘されて、「実力組織」と言い換えていたが、そもそも仙石さんは「暴力装置としての自衛隊」と口走った時、一体何が(あるいは誰が)この「暴力装置」を操っていると考えていたのだろうか。また「実力組織」と言い直した時、何に対して、どういう実力を備えた組織として、自衛隊を考えていたのだろうか。
 シビリアンコントロール、シビリアンコントロールと繰りかえし強調していたことから察するに、どうやら仙石さんは自衛隊を、クーデターを起こしかねない暴力組織と見ていたらしい。
 
 内閣総理大臣が自分の内閣を、奇兵隊という倒幕運動の尖兵となった暴力組織になぞらえ、その内閣の官房長官が自衛隊を暴力装置と呼ぶ。凄まじい内閣だな。
 
○山口二郎さんの鮮やかな総括
 仙石官房長官の「暴力装置としての自衛隊」発言を聞いて、私は、北大大学院の教授・山口二郎さんが「自衛隊という暴力組織」という言葉を使ったことを取り上げて、批判したことを思い出した。(私のHP「亀井秀雄の発言」の「文法/時間/2ちゃんねる(その1-4)」参照)。

 なるほど、山口さんと仙石さんとはこんなふうに意気相通じていたわけだ。そう思っていたところ、19日のNHKの日曜討論で、山口さんが民主党の政治を「リフォーム詐欺」と評したらしい。
 私はその番組を見ていなかったのだが、家族に教えられて、youtubeで検索してみると、確かに山口さんが、「私自身は民主党を軸にした政権交代が日本を救うと、長いこと言ってきて、それが実現したわけですが、やはり期待外れということは否めません。まあ、何だろ、その、リフォーム詐欺の片棒を担いだ詐欺師みたない感じで大変肩身が狭い思いをしているんですけれども」云々と発言している。

 リフォーム詐欺とは、まことに言い得て妙! その言や、よし。民主党の政治を端的に総括するとすれば、これ以上に適切な言葉はない。私はすっかり感心してしまった。それに、山口さん自身、自分が詐欺の片棒を担いでしまったことを自認している。この点にも感心した。
 こういう言い方をした以上、山口さんが今後やるべきことは、民主党の「詐欺」の手口を具体的に一つ一つ明らかにしてゆくことだろう。

○この一年を振り返って
 今年一年は、私にとっても良い年ではなかった。今年の前半は、抗ガン剤の副作用を克服して体力を回復することが課題だった。何とか夏の猛暑を乗り切ることができたが、10月に4歳年上の兄を喪った。医学上の研究で知り合ったドイツの医学者の著書を日本に紹介したいと願い、翻訳に着手して、漸く最終稿を出版社へ送った、その直後に、それまで持ちこたえていた病気の容態が急変したという。
 大学以来の友人も喪った。
 今月に入って、家族が心臓の疾患で入院した。

 しかし、嬉しいことがなかったわけではない。マイケル・ボーダシュ(Michael Bourdaghs)
さんが編集した“The Linguistic Turn in Contemporary Japanese Literary Studies  Politics/Language/Textuality”(『現代日本文学研究における言語学的転回――政治/言語/テクスチュアリティーー』)が、ミシガン大学から出版された。
 ボーダシュさんを中心とする研究者グループが、私の『感性の変革』を、”Transformations of Sensibility”として翻訳し、2002年にミシガン大学から出版した時、アメリカのUCLAがそれを記念して、国際学会を開いてくれた。今回の“The Linguistic Turn”は、その学会の講演や発表を中心に編集したものだが、このタイトルのテーマに合わせて、野口武彦さんや、平田由美さんや、三谷邦明さんの論文の翻訳も納めさせてもらい、充実した内容となった。
 学会から論文集出版まで8年もかかったわけだが、ボーダシュさんがこの形にまとめ上げるまで大変な苦心があったにちがいない。感謝に堪えない。
 亡くなった兄にも見て貰うことができた。

(2010年大晦日)
 
 

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