« 2010年2月 | トップページ | 2010年7月 »

判決とテロル(最終回)

発語内行為(illocutionary act)としてのテロル

○三角詐欺
 過日、久しぶりに『ラマ・タブタブ』の詩人、ANさんから手紙を頂戴した。最近ホームページ(
http://www.ab.auone-net.jp/~ataka720/)を開設した、という。
 開いて見ると、ANさんは数年前から、弁護士がらみの詐欺事件を仕組まれて、ずっと法廷で戦ってきたらしい。詳細を知りたい人はぜひ上記のHPを見て貰いたいと思うが、私はこの記事で「三角詐欺」という言葉を知った。
 「三角詐欺」とは、ある人間(原告)が弁護士Aと結託し、不動産関係で問題を抱えていそうな人を探して、訴訟を起こす。訴訟を起こされた被告は、自分の権利を守るために弁護士Bを依頼するわけだが、この弁護士Bが弁護士Aと裏取引をし、判事(裁判官)も抱き込む形で、被告から財産をむしり取ってしまう。そういう手口の詐欺を指す。
 ANさんは被告の立場に立たされたわけだが、裁判の途中でこのカラクリに気がつき、弁護士Bとの関係を絶って、「本人訴訟」に切り替え、三角詐欺の企みには「劇勝」した、という。

 しかし、三角詐欺の企みを見破ることができたとはいえ、その過程で裁判所の対応に疑問を感ずるところが多かったのだろう。そこでANさんは弁護士の悪質な手口を暴くだけでなく、裁判所や裁判官の「腐敗」をも問題にしているわけだが、もちろん私はそれを読みながら、亀井志乃が起こした裁判の経緯を思い出した。

○連載を終わる理由
 ただし、裁判の性格そのものは、ANさんの場合と亀井志乃の場合とでは大きく異なる。
 亀井志乃が起こした裁判は、不動産の問題ではなくて、人格権侵害の問題であり、弁護士を依頼することなく、初めから本人訴訟でやることにした。弁護士を依頼したのは、北海道教育委員会の寺嶋弘道学芸主幹のほうだったが、彼が依頼した太田三夫弁護士は学識経験者として北海道教育委員会の信頼が厚い。寺嶋弘道被告にとっては頼もしい弁護士だっただろう。
 それに、この裁判には財産問題がからんでいたわけではない。だから三角詐欺など企みようがなかったはずである。
 当然のことながら、太田三夫弁護士が田口紀子裁判官を抱き込むなんてことはなかっただろう。
 
 だが、それはそれとして、私はANさんの報告から強いインパクトを受けた。それはこの裁判を通じて、というよりは、この裁判の記録の分析を通じて、〈どうやら北海道の司法関係者の間では暗黙の諒解事項があるみたいだな〉という心証を得ていたからにほかならない。

 今回はその点を明らかにする予定だが、それによってこの連載をいったん終わりにしたい。その理由の一つは、これまでの検討を通して、私たち家族が今後どういう態度を取るべきか、その方針が見えてきたからである。それともう一つ、この連載をアーサー・ケストラーの『真昼の暗黒』や、メルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』の問題にまで発展させるには、別な書き方が必要となってくる。そのことが分かってきたからである。
 
 今回もかなりの分量の引用をすることになるが、積み残しがないように、これまで使わなかった文章を中心に進めたいと思う。

○法務局の場合
 では、私は何故そんな心証を抱いたのか。それは平成19年、札幌の法務省の対応を見たときからだった(「北海道文学館のたくらみ(24)」)。
 
 亀井志乃は平成19年4月24日に法務局を訪ね、人権擁護部のOA調査救済係長に、『道立文学館における嫌がらせ、及びそれをパワー・ハラスメントと判断する理由』(32頁)という文書を手渡して、道立文学館の中で起こった人格権侵害に関する実態調査をお願いした。
 ところが、9月になってもまだ法務局は調査結果について何の報告もしてこない。これでは少し時間がかかりすぎていないか。そう思って亀井志乃がOA 調査救済係長に電話をしてみたところ、まだ調査段階なので、もうしばらく待って欲しいとのことだった。そして11月に入って漸くOA調査救済係長から電話があり、その内容は、「確かに寺嶋学芸主幹の言動には不適切なところもあったが、トータルに見て、人権侵犯には当らない結論となった」ということだった。
 これだけ時間をかけながら、OA調査救済係長は〈相手側の説明はこうだった。念のためもう一度その時の様子を聞かせてほしい〉という意味の電話を一本入れてくるでもなく、いきなりこんな結論を伝えてきた。結論も腑に落ちないが、調査の仕方にも疑問がある。そこで亀井志乃は11月12日に法務局を訪ね、直接説明を聞くことにした。私も同行した。
 
 だが、その時のOA調査救済係長の説明はいい加減な上に、不誠実そのものだった。「何回調査を行ったか」「調査対象は誰と誰だったか」という基本的な質問に関しては、「守秘義務」一点張りで答えようとしない。
 ただ、「亀井志乃が(寺嶋弘道学芸主幹の嫌がらせとして)挙げた事実の中で、事実として確認できたことは、どれとどれか」という質問に対しては、「ほほ全て事実があったことは認める」と答えてくれた。そこで「(法務局が考える)人権侵犯の基準は何か」と訊き、その返事を得てから、〈それならば、寺嶋学芸主幹のこれこれの行為は法務局が考える人権侵犯に該当するのではないか〉という意味の質問をしたのだが、OA調査救済係長は言葉をにごして返事をしようとしない。(「北海道文学館のたくらみ(25)」)。
 
 私はあきれて、「寺嶋と亀井志乃の関係は、上司と部下の関係だったと考えるか」と訊いてみた。それに対するOA調査救済係長の返事は「そう考える」ということだったが、「その理由」については口をつぐんだままだった。
 私はあきれかえった。亀井志乃は、4月24日にOA調査救済係長に手渡した文書の中で、寺嶋弘道学芸主幹と亀井志乃研究員との身分、立場の違いをきちんと説明しておいたはずである。
 どうやら北海道法務局の人権擁護部の職員は肝心な問題点を何一つ理解しようとせずに、ただ上っ面を掻い撫でした「調査」しか行わなかったらしい。なるほど「守秘義務」一辺倒で逃げ回っていた理由も、ここにあったわけだ。
 
 私は念のために訊いてみた。「あなたが私たちに伝えた人権侵犯の概念や、調査結果の結論は、あなただけの判断ではなく、人権擁護部の判断なんでしょうね」。すると、OA調査救済係長はほっとした表情で、「ええ、もちろん私だけの一存で出したものではありません。関係職員が協議した結論です」。
 そこで私たちは、「どうもお手数をおかけしました」と挨拶をして引き上げたわけだが、法務局の人権擁護部は相手が北海道教育委員会の職員だということで、最初から腰が引けしまったのだろう。
 
○太田三夫弁護士の場合
 さて、その次に私が先ほどのような心証を得たのは、平成20年10月31日、法廷で本人尋問が行われた時だった。より正確に言えば、その尋問の記録を読んでいる時であった。

 被告代理人の太田三夫弁護士は、その「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)の中で、寺嶋弘道被告は亀井志乃原告の「事実上の上司」であったことを強調していた。多分それを裏づける証拠物のつもりだったのだろう、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)という文書を持ち出してきたわけだが、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―1」(平成20年5月14日付)で、全面的な批判と反論を加えた。すると、太田三夫弁護士はそれに対して、「事務連絡書」(平成20年7月4日付)で、被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。以上」と言ってきた。要するに再反論を放棄してしまったのである。

 そんなわけで、太田三夫弁護士は平成20年10月31日の法廷において、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の問題点に立ち入るのは不利だ、と判断したのであろう。そこで寺嶋弘道被告に向かって、〈「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」という文書は原告の亀井志乃に手渡されていたと思うか〉という意味の質問をして、寺嶋弘道被告から〈平成18年4月18日の全体会議の際、亀井志乃にも配布されたと思う〉という意味の答えを引き出した。
 田口紀子裁判長に対する立証としてはこれで十分だ、と太田三夫弁護士は考えたのかもしれない。本来ならば、亀井志乃が明らかにした問題点の反論となるべき証言を寺嶋弘道被告から引き出し、更に「寺嶋は亀井の事実上の上司だった」という主張を裏付ける資料を提出すべきところであるが、それをせずに、頬かぶりしてスルーしてしまったのである。
 
 しかし、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」については、亀井志乃が「最終準備書面」(平成20年12月12日付)の中で、自分の資料に基づいて明らかにしたように、この文書は平成18年4月18日の全体会議の議題の資料ではなく、「その他」における報告事項や連絡事項の資料ですらなかった。ただ配布されただけで何の説明もなかった。つまり、職員全員に周知を図ったわけでもなければ、理解を得る努力をしたわけでもなかった。
 それと併せて、亀井志乃は、〈全体会議(4月18日の)で毛利館長が述べた〉という寺嶋弘道被告の証言についても、その証言内容が事実を偽っていることを証明しておいた。
 
○太田三夫弁護士の「遮り(interruption)」
 ただし、私が先のような心証を得たのは、以上のようなことがあったからだけではない。むしろ原告・亀井志乃の被告・寺嶋弘道に対する尋問の記録を検討した時のことであった。

 それは次のような内容であった。
《引用》

原告・亀井志乃:まず、被告の北海道教育委員会の職階制における学芸主幹という地位は、道立文学館に駐在する学芸員の文学館グループ3名のグループリーダーですが、道教委の学芸員グループのリーダーは、連携協働する財団の職員の上司になることを許されているのでしょうか。もし許されるならば、それを許す規定はどこにあるのでしょうか、教えてください。
被告・寺嶋弘道:上司になることを許す、許さないではなく、どのように連携をして事務事業を進めていくかというときに、そういう立場を引き受けなければならないことはあると思います。
原告・亀井志乃:では、規定にはよらないということですか。
被告・寺嶋弘道:…………規定にはよりません。
原告・亀井志乃:次に、被告は、準備書面2の中で、着任日には平原一良学芸副館長から平成18年度の事務事業について説明を受けており、「二組のデュオ展」を含め当該年度に計画されたいずれの事業も、着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのであるというふうに書いておられますが、被告は、だれによって、どういう手続きを経て、指揮監督する立場を与えられたのでしょうか。
被告・寺嶋弘道:学芸の業務の取りまとめの仕事で、文学館へ行き、学芸の業務を行うという…………異動の話を、前の職場でも、それから、北海道教育委員会の文化課の職員からも聞いていたからです。
原告・亀井志乃:でも、着任したんですから、だれかから任命をされたというふうに考えられますけれども。
被告・寺嶋弘道:私の任命権者は北海道教育委員会の教育長です。
原告・亀井志乃:で、そちらから指揮監督する立場を与えられたんでしょうか。
被告・寺嶋弘道:そのように理解しています。
原告・亀井志乃:先ほど田口裁判長さんが質問してくださったところに戻りますけれども、被告は道立文学館に異動するに当たって、北海道教育委員会の命令権者から職務に関してどのような訓令を受けていたのかというふうに質問していただきましたけれども、それは、要するに、教育長である。そうすると、訓令を、つまり、被告がどのような立場で行くかっていうことの訓令を与えてくれたというのも、教育委員長ということになりますか。
被告・寺嶋弘道:いえ、私は直接教育長から指揮や指示を受けたことはなく、私は、道教委文化課の学芸主幹であるという立場が、財団法人との連携を行う上でそのようにさせているということだと思います。それを、学芸主幹として来たのだから学芸班の取りまとめをしてほしいというふうに、具体的には毛利館長から言われましたし、先ほどお話ししたように、そこまで踏み込むのは駐在の職員の職務ではないのではないでしょうかという話も実際に毛利館長ともいたしました。ですので、それが決まるのが4月18日の全体会議の直前の幹部の打合せだったんですけど、それまで、………20日近く、そのことを、…………議論をしていました。議論というのは、毛利館長と話をしていました。
原告・亀井志乃:もう一回整理しますと、訓令というのは、そこへ行くって任命されるというときに、これこれの命令というかミッションを与えるので、そういう立場だとか、それから、そういう目的というのは必ず果たすようにということで与えられる、そういう、直接の文書による命令ということになるわけですけども、それはなかったということなんですね。そういうものは直接教育委員長からの名前で、それは出ていないということですね。
被告・寺嶋弘道:ええ、1枚の私への辞令書だけです。
原告・亀井志乃:で、実際に、それを指揮命令するというか統括するっていう立場を与えたのは毛利館長なんですね。
被告・寺嶋弘道:そうですね、はい、毛利館長とその話を度々いたしました。
原告・亀井志乃:じゃ、当初のところで、その平原学芸副館長と話をしてというのは、特に関係がないわけですか。
被告・寺嶋弘道:いえ、そんなことはありません。毛利館長……も……………学芸班が、学芸部門の一つ一つの事業や展覧会の実際的な内容については、平原副館長が専決事項として決めており、また、その内容にも精通しておりましたので、平原副館長から、4月1日のときに、その事務事業の概要について説明を受けたものです。
原告・亀井志乃:別な質問に移る前に1つ確認しておきますけれども、先ほどから、4月当初も平原副館長というふうに言ってますけれども、平原副館長は、当時は、平原学芸副館長であり、副館長は安藤孝次郎氏だったと、それは御存じすね。
被告・寺嶋弘道:そのとおりです
(被告調書、p32~35。以下略)

 分かるように、亀井志乃は太田三夫弁護士が回避しようとした問題を衝いたわけだが、もちろんズブの素人が初めて行うことであり、太田三夫弁護士みたいにtag question(「判決とテロル(13)」)の尋問テクニックを使うなんてことは思いもよらなかった。ただごくまっとうに質問を重ねているだけなのだが、それに対する寺嶋弘道被告の返答はしどろもどろ。首尾一貫しない上に、〈北海道の公務員が民間の財団の職員の上司になることを許す規定はどこにもない〉ことを白状してしまった。おまけに嘘まで吐いている。
 「このまま尋問が続けば、問題は北海道教育委員会や教育長の責任にまで及びかねない。まずいことになりそうだ」。太田弁護士はそう判断したのだろう、急に亀井志乃の寺嶋弘道被告に対する尋問を遮って、〈自分にはこの本人尋問の後にも仕事が控えている。予定時間内で尋問を終わってもらいたい〉という意味のことを言い出した。田口紀子裁判長はそれを受けて、亀井志乃に時間上の注意を促した。
 もちろん亀井志乃は自分の持ち時間を心得ていた。
 もし亀井志乃の尋問が時間内に終わらず、太田三夫弁護士にとって次の仕事に差し支えることになりそうであるならば、予定時間が尽きる時点で挙手をし、亀井志乃の尋問を打ち切ってもらえばよい。だが、太田弁護士はそうせずに、亀井志乃の尋問に水を差してしまった。法廷技術で言う「遮り(interruption)」のテクニックを使ったのである。
 
 ただし、この時の速記を担当していた、札幌地方裁判所の速記官は、「速記録」を作成するに当たって、この「遮り(interruption)」の場面を削ってしまった。だが、その箇所は裁判所の録音機に残っているはずであり、また、当日は何人かの人が傍聴に来ていてくれた。その人たちの記憶にも残っているはずである。

○ここでも太田弘道被告は嘘の証言
 では、先の尋問で、寺嶋弘道被告はどんな嘘を吐いていたのだろうか。
 その一番見やすい例は、
それが決まるのが4月18日の全体会議の直前の幹部の打合せだったんですけど、それまで、………20日近く、そのことを、…………議論をしていました」という箇所であろう。4月1日に「着任」して以来、わずか18日しか経っていないにもかかわらず、20日間近くも相談するなんて、とても出来る相談ではないからである。(「北海道文学館のたくらみ(48)」)
  
 寺嶋弘道被告は、「陳述書」(平成20年4月8日)の中で、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし)が作文された経緯を、
指揮命令をどうするか、連携・協働をどう進めるかについては、毛利正彦館長(当時)とも4月当初から数度にわたって協議を行い、4月18日(火)、毛利館長、安藤孝次郎副館長(当時)、平原一良学芸副館長(当時)、川崎信雄業務課長に私を加えた幹部間の打ち合わせで、前年度まで置かれていた学芸課の体制と同様、駐在職員3名と指定管理者である財団の業務課学芸班の学芸職員2名とで改めて学芸班を編成し、私がその統括の任に当たるということで組織体制について最終的な整理がなされました。この時の打合内容は、即日『財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について』にまとめられ、この日後刻の全体職員会議で原告を含む全職員に配布されました」(2p)と書いている。
 これを書いた時点の寺嶋弘道被告は、「指揮命令」等の問題について、自分のほうが財団の幹部に積極的に働きかけて、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」という組織体制を作った。そういう意味の主張をしたわけである。
 だが、亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―2」(平成20年5月14日付)において、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」が作られた経緯を批判した。さらに亀井志乃は、自身の「陳述書」(平成20年8月11日付)の中で、平成17年度の組織を詳細に紹介し、「平成18年4月1日現在」という日付の「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)との不整合を指摘した。
 そのため、寺嶋弘道被告は自信を失ってしまったらしく、平成20年10月31日の法廷では、毛利正彦館長(当時)のほうが積極的だったかのごとく言いつくろうとし、――つまり責任を毛利正彦元館長に押しつけ――その結果、わずか18日の間に20日間近くも相談したなどと飛んでもない嘘を口走ってしまったのである。

 だが、先の尋問における寺嶋弘道被告の嘘は以上に尽きるものではなかった。彼は学芸部門の一つ一つの事業や展覧会の実際的な内容については、平原副館長が専決事項として決めており」と証言していたが、平成18年度における学芸部門の事業や展覧会が平原副館長の専決事項だったなんてことはなかったのである。

○田口紀子裁判官の「虚偽」の概念
 もちろん亀井志乃は「最終準備書面」(平成20年12月12日付)の中で、これらのことを指摘して、寺嶋弘道被告が法廷において行った偽証の証拠とした。
 だが、田口紀子裁判長の判決によれば、
被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない」(25p)のだそうである。

 田口紀子裁判官にしてみれば、〈法廷における「虚偽の陳述」とは、陳述内容が客観的事実に合致しているかどうかで判断するのではなく、自分の記憶に反した陳述をしたかどうかによって判断するのだ〉と言いたいところかもしれない。
 一般に司法関係者はそう考えるらしく、確かにそう考えなければかえって不条理になってしまう場合もある。だがしかし、機械的にそれを寺嶋弘道被告の証言に当てはめることができるだろうか。
 寺嶋弘道被告は、亀井志乃の「被告は北海道教育委員会の教育長から、財団の職員の上司となり、指揮監督する立場を与えられたのか」という質問に対して、「そのように理解しています」と答えており、にもかかわらず、「直接教育長から指示を受けたことはなく、辞令書1枚をもらっただけだ」という。そうかと思うと、「道教委文化課の学芸主幹という自分の立場が、財団法人と連携を行う上で自分を上司にさせているのだと思う」と、変にねじれた言い方をし、「それは着任後、財団の毛利館長から言われたことだ」とも説明している。
 寺嶋弘道被告の証言はこんなふうに二転三転しており、どれが彼の「記憶」に基づく証言であるか、確定はできない。そもそも、わずか数分の間に「記憶」が二転三転するはずがなく、これこそが「虚偽の陳述を行った」明白な証拠であろう。また、仮にその一つが彼の「記憶」に基づく証言であったとしても、そうであるならば、それ以外の証言は「故意に虚偽の陳述を行った」ことになるはずである。
 
 おまけに、その間、先ほど指摘したように、明らかな嘘を吐いている。
 だが、田口紀子裁判長の判断では、
被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない」ということになってしまうのである。

○田口紀子裁判長の読解能力
 ここで、一つの疑問が湧いてくる。裁判官には「記憶」とか「虚偽の判決」とかいう問題は起こらないのであろうか。

 財団法人北海道文学館の平成18年度の組織体制に関する、田口紀子裁判長の理解はおかしい。このことは何度もふれた。くどいようだが、ここは肝心な所なので、平成16年度、平成17年度の組織図に言及した箇所と一緒に、改めて紹介したい。
《引用》

(3) 平成16年6月1日から施行された文学館の事務局組織等規程、平成17年4月以降の事務局組織図によれば、原告の所属する学芸課の指揮命令系統は、学芸副館長、学芸課長、主任研究員、司書、学芸員及び研究員が縦の系列に組織され、文学館の内部における指揮命令系統に北海道教育委員会からの派遣職員がかかわることはなかった。(甲111、112)
(中略)

(5) 文学館の事務局その他の組織に関し必要な事項を定める財団法人北海道文学館事務局組織等規程(以下、「組織規定」という。)が、平成18年6月1日改定され、施行されたが(平成18年4月1日から同年5月31日までの間は、経過措置として、同様の運用が取り決められた。)、原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された。組織規程では、学芸員、研究員の職務内容は、「上司の命を受け、調査、研究、展示等に係る事務をつかさどる。」旨定められた(組織規程3条)が、運用について定めた、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(以下、「運用規程」という。)において、組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする旨定められた(以下略。2~3p。太字は亀井)

 これを見ると、田口紀子裁判長は亀井志乃が証拠物として提出した「事務局組織の改正に伴う関係規程等の一部改正について」(甲111号証)と、「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成17年4月1日以降」(甲112号証。太字は亀井、以下同じ)には目を通していたことが分かる。
 だが、きちんと理解したとは思われない。
 例えば「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成17年4月1日以降」には、安藤孝次郎副館長が掌理する業務の組織(「業務課」)と、平原一良学芸副館長が掌理する業務の組織(「学芸課」)とが、独立した組織として併記されている。そして、「学芸課」のほうは、横に(
縦の系列に」ではなく)、
 学芸副館長――学芸課長――主任研究員――司書(兼学芸員)――学芸員(非常勤)/研究員(非常勤)
 と並んでいる。しかもその各項の下には職員の名前が書き添えてあった。
 そしてここが重要なところであるが、その系統図の中の「学芸課長」と「主任研究員」と「司書(兼学芸員)」とは、北海道教育委員会からの派遣職員だった。田口紀子裁判長はこの順序を
「学芸課の指揮命令系統」を示したものと読み取ったわけだが、もしそれが正しければ、文学館内部における指揮命令系統に北海道教育委員会からの派遣職員がかかわることはなかった」どころの話じゃない。まさに指揮命令系統の中に繰り込まれていたことになるはずである。

 ちなみに、「事務局組織の改正に伴う関係規程等の一部改正について」における、学芸副館長(平原一良)の職務内容は、「上司の命を受け、財団の文学に関する専門的事項に関する事務を掌理する。」となっていた。また、学芸課の課長(道教委の派遣職員のHさん)の職務内容は「上司の命を受け、学芸課の事務をつかさどる。」となっていた。だが、主任研究員以下の人たちの指揮命令系統を示す文言は明記されていない。
 この「学芸課」は、財団の学芸関係の職員と道教委から派遣された職員とが一緒に仕事をする組織であって、両者の間に指揮命令の関係を設けるのはおかしい。そういう健康な判断が働いていたと見るべきだろう。
 
 要するに、いずれの場合にせよ、田口紀子裁判長がこの証拠物をまともに読んでいなかったことは明らかである。
 
○田口紀子裁判長の逆行的理解
 ところが平成18年度から指定管理者制度が採用され、財団法人北海道文学館が主体的に、責任をもって道立文学館の運営に当たることになった。財団はこれに対応するため理事会を開き、「財団法人北海道文学館事務局組織規程の一部改正について」という議題を設定した。その趣旨は
平成18年4月1日から実施の指定管理者制度の導入に伴い、これまで道教委からの派遣職員をもって充てていた業務課職員3名及び、学芸課職員3名の派遣が解消(道教委に引揚げ)され、これに代わって道教委の学芸員3名が配置されることを踏まえ、組織全体が簡素・効率的かつ、有機的に機能する体制とするため、別紙案のとおり改編する。」ということだった。
 つまり北海道教育委員会はそれまで派遣していた業務課職員3名と、学芸課職員3名をいったん全員引き揚げることにしたわけだが、何故そうしなければならなかったのか。
 
 道立文学館は道の文化施設であり、平成17年度までは、北海道教育委員会が管理運営の責任を負い、その責任を果たすために、業務課職員と学芸課職員とを派遣していた。他方、財団法人北海道文学館という民間団体は、学芸業務(資料の収集と展示、教育普及事業)の面で協力をし、それと併行して、財団自身の財源による独自の資料収集や展示も行ってきた。
 ところが平成18年度からは指定管理者制度が実施されることになり、財団が指定管理者に選ばれた。財団法人が主体となって道立文学館の管理運営を行うことになり、そこで道教委はそれまで派遣していた道職員を引き揚げることになったのである。
 ただ、道教委はいったん道職員を引き上げるが、学芸業務に関しては、財団と連携・協働する道職員を駐在させることにした。具体的には主任研究員だったSさんを社会教育主事として、司書(兼学芸員)だったAさんを学芸員として駐在させる。そして学芸課長のHさんを道の他の職場へ転出させて、代わりに寺嶋弘道学芸主幹を駐在させることにしたわけである。
 
 その意味では、学芸関係の職員の異動はごく小さいものだったと言えるが、しかし関係そのものは大きく変わった。
 平成17年度までの道職員は、道教委が管理運営する道立文学館の業務を遂行するために派遣された職員だった。だが平成18年度からの道職員は、財団が管理運営する道立文学館に駐在して、財団と「連携・協働」することになる。それを端的に表現したのが、亀井志乃が提出した「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成18年4月1日現在」(甲2号証)なのである。

 田口紀子裁判長はどういう理由でか、この「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成18年4月1日現在」を無視してしまったが、これを見ると、業務課の中に財団の学芸班が置かれ、司書と研究員(亀井志乃)が配置されている。
 そして、それとは別な、独立の組織として「北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループ(道立文学館駐在)」が点線で括られていた。
 「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成17年4月1日以降」(甲112号証)では、派遣道職員がこんなふうに点線に括り込まれ、財団の職員とは別な組織として表現されていない。その点に注意を向けるだけでも、いかに本質的な変化だったか、一目瞭然のはずだが、田口紀子裁判長は平成17年度から18年度への変化を、
原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された。」としてしまった。
 これでは、平成18年度の制度から平成17年度の制度へと逆行的に変化した、ということになってしまうではないか。

○田口紀子裁判長の意図的な操作
 常識で考えれば、公共性の高い施設が4月18日になるまで、事務事業の組織図を持っていなかったなどということはあり得ない。4月1日の新年度の業務がスタートするまでには、すでに組織図は出来上がっていなければならず、財団法人北海道文学館もそうしてきた。亀井志乃が提出した「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成18年4月1日現在」(甲2号証)はその証拠なのであるが、田口紀子裁判長は被告側が提出した「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)しか取り上げなかった。寺嶋弘道被告はその「陳述書」の中で、この文書内容は4月18日に毛利館長以下の幹部と自分が相談して作ったと主張したが、亀井志乃はその手続きと内容に疑問を提出しておいた。にもかかわらず、田口紀子裁判長は亀井志乃の疑問を無視して、被告側の言い分だけを取り上げたのである。
 
 寺嶋弘道被告は同じくその「陳述書」の中で、〈4月13日(木)に学芸部門の職員による打合会を開き、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(乙6号証)を作り、4月1日に遡って施行した〉と、まことに不思議な主張をしていた。これについても亀井志乃は、〈4月1日になっても職員の事務分掌が決まっていなかったことなどあり得ない〉と指摘し、4月1日以前に既に事務分掌が決まっていた証拠として、「平成18年度 学芸部門事務分掌」(甲60号証)を提出したのだが、田口紀子裁判長はこれも無視してしまった。(それに、亀井志乃は4月13日(木)の打合会なるものには出席していなかった。木曜日は非出勤日だったからである)。

 この無視は、単なるケアレスミスだったとは考えられない。田口紀子裁判長の論理構造は、「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成18年4月1日現在」(甲2号証)を飛ばして、強引に「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成17年4月1日以降」(甲112号証)と、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)を結びつけた形になっている。虚構の組織体制をでっちあげるために行われた、極めて意図的な操作だったと見るべきであろう。

○田口紀子裁判長の「記憶」力
 それにしても、田口紀子裁判長はなぜこれほど露骨な操作までして寺嶋弘道被告が提出した「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)を重視しなければならなかったのだろうか。多分それは、何としてでも寺嶋弘道学芸主幹を財団職員の組織の中に繰り込みたかったからであろう。そうでなければ、寺嶋弘道学芸主幹が財団職員の上司だったという主張を正当化できないからである。
 
 驚くべきことに、田口紀子裁判長は自分の「記憶」を自由に操作できるらしい。
 田口紀子裁判長は平成20年10月31日の本人尋問において、寺嶋弘道被告に、〈被告が主張する「事実上の上司」とはどういうことか〉という意味の質問をし、次のような証言を得た。
《引用》
 
任用主体が、私の駐在職員とそれから財団の職員とでは任用権者が違いますので、そういう中で、一体的に仕事を進めていく、学芸の仕事を進めていく、それが指定管理者制度の一番のポイントだったんですが、それを統括する立場として、私が………着任いたしましたので、そのように………思っていました。つまり、規則上は、………財団の職員を指揮命令する立場には私はないと思いますが、職員の全体会議が開かれる4月18日まで、指揮命令をどうするかという話を度々館長としていましたので、私は当初、Oさんと亀井さんを私の指揮下に置くのは、制度が変わった上では、適切ではないんでないでしょうかという話を館長にしておりました。それでも、毛利館長から、前の年と変わらない運営で取りあえず進めてみたいので、指揮下に置いてくださいということの話がありましたので、それで、全体会議のあった日、4月18日だったと思いますが、その日に、そのようにして、財団の職員も目配りをするという立場になったものと思います。ですので、事実上のというのはそういう意味です(被告調書22p。太字は亀井)

 田口紀子裁判長は自分の「記憶」には留めないことにしたかったらしいのだが、寺嶋弘道被告はここで、〈駐在職員の自分と、財団職員の亀井志乃とは任用権者が異なり、だから駐在職員の自分が財団の職員を指揮命令する立場にはなかった。制度が変わったからだ〉という意味の証言をしてしまったのである。
 そこで彼は、公務員としての規律に反することをやってしまった責任を取り繕うため、
毛利館長から、前の年と変わらない運営で取りあえず進めてみたいので、指揮下に置いてくださいということの話がありました」と、毛利館長に責任があったかのように証言したわけだが、どうもこれはおかしい。前の年、つまり平成17年度には、H学芸課長が亀井志乃を指揮下に置くなんてことはなかったからである。それはHさんの人柄だけでなく、組織体制の上でも、実際の事務分掌の上でも、そんな関係にはなかったからである。
 そんなわけで、もし毛利館長が「前の年と変わらない運営で進めてみてもらいたい」と考えたならば、「寺嶋弘道学芸主幹の指揮下に亀井志乃研究員を置いてもらいたい」などと言い出すはずがない。「今までH学芸課長がやってきた役割を果たしてください」と言ったはずである。
 
 もう一つ不思議なのは、田口紀子裁判長は先の証言の前半の部分をきれいさっぱりと「記憶」から消してしまい、だが
「毛利館長から、前の年と変わらない運営で取りあえず進めてみたいので、指揮下に置いてくださいということの話がありました」という箇所だけは「記憶」に留めておいたらしいことである。
 なぜなら、田口紀子裁判長は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)を「運用規程」と呼び、その末尾の「※ 財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言を、「運用」の具体的なあり方の説明と見ていた。この文言を「運用」の説明と解釈できる根拠は、寺嶋弘道被告の先の証言のほかにはなかったからである。(田口紀子裁判長はもう一度
「(被告がいう学芸班の組織図が)書面化されたものは乙2号証の一番下の※印に書かれた2行、これだけだということですね」と念を押し、寺嶋弘道被告から「はい、そうですね。」という返事を得ている。「被告調書」23p)

○上手の手から水が漏れる
 そこで、上手の手から水が漏れたと言うべきか、知恵がまわりすぎての勇み足と言うべきか、田口紀子裁判長は妙なことを書いてしまった。
 なぜなら、もし田口紀子裁判長が言うように、
原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された。組織規程では、学芸員、研究員の職務内容は、『上司の命を受け、調査、研究、展示等に係る事務をつかさどる。』旨定められた(組織規程3条)」が確かなことであるならば、何もわざわざ「組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする」などという「運用規程」を設ける必要はなかったはずだからでる。
 司書に命を下すのが研究員であり、研究員に命を下すのが学芸員であり、学芸員に命を下すのが社会教育主事であり、社会教育主事に命を下すのが学芸主幹である。そういう具合に「組織規程」を遡っていくならば、学芸主幹が学芸班における一番のお偉いさん、つまり「上司」だということになる。これは中学生でも分かる理屈であり、わざわざ※印をつけてことわるまでもない、自明の道理であろう。
 
 ともあれ田口紀子裁判長はこのように、なぜ財団がそのような「運用」を必要としたか、その唯一の説明とも言うべき
「毛利館長から、前の年と変わらない運営で取りあえず進めてみたいので、指揮下に置いてくださいということの話がありました」という寺嶋弘道被告の証言だけは記憶に留めていたわけである。
 しかし「想起の現象学」や「記憶」論の立場からみれば、寺嶋弘道被告や田口紀子裁判長の記憶は「贋の記憶」でしかなかったことになるであろう。

○田口紀子裁判長の言う「事実」
 さて、「最終回」ということで大分長くなったが、最後に、田口紀子裁判長の見事な! 論理操作を紹介しておこう。

 次は田口紀子裁判長が「亀井志乃の主張を棄却する」という結論を下した、その直前の文章である。(なお、田口紀子裁判長は改行せずにベタ書きしていたが、引用に際しては、読みやすいように項目毎に改行をしておいた。)
《引用》

なお、前記争いのない事実及び証拠によって認められる事実によれば、
(ア) 原告は、嘱託職員として雇われている立場にあり、平成18年度においてもその立場に変動はなかったこと、
(イ) 平成18年度に原告に課せられた職務負担は、平成17年度までに比して多くなり、責任も大きくなったこと、
(ウ) 原告の職務負担が多くなったにも拘わらず、勤務条件等の待遇改善がなされた事実は認められないこと、
(エ) 具体的に事務分掌を決定する話し合いは、原告の非出勤日に行われ、事後の確認は取ったとは認められるものの、原告に対して、平成18年度における嘱託職員の立場等について、文学館あるいは被告から、十分な説明がなされたという証拠は認められないこと、
(オ) 平成18年度になって、指揮命令系統がかわり、組織規程の運用により、文学館の職員ではない被告が原告の上司になったこと、
(カ) 被告は、原告に年休がないことを把握していなかったこと、
(キ) 原告が、被告に、自分の立場は嘱託職員であることを説明したのに対し、被告は、「嘱託職員も、立派な職員ではないか、財団の一員ではないか」と主張するのみで、原告の嘱託職員としての立場や職務が平成17年度に比して増加したことについての配慮が払われたとは認められないこと、
(ク) 原告が被告に対して提出して、書き直しを命じた派遣依頼文書(甲10の1)、復命書(甲12の1)は、平成17年度まで文学館において作成され、問題ないものとして決裁がされていた形式や表現を参考にして書かれたものであることに対して、被告は全く配慮せずに加除・訂正を行ったこと、
(ケ) 原告に対し、出張届、休暇届等に関し、文学館の上司から平成17年度まで問題が指摘されたことがあった事実は認められないこと、
(コ) 原告が問題としている平成18年5月10日及び10月7日の被告の言動については、いずれも原告の退勤間際に開始されたものであり、それによって原告が定められた退勤時間を30分超過する結果となったものであるところ、被告は、原告の退勤時間について配慮した事実は認められないこと、
(サ) 被告が着任するまでの平成18年4月以前には、文学館内において、原告の人間関係が問題視されていた事実は認められないことなど、
本件証拠により顕れた事情を総合すれば、被告が、平成17年度まで行われていた文学館における業務執行の仕方に対する配慮や、嘱託職員の勤務態勢や勤務条件等についての知識が欠けていたことが一因となって、原告の不満を増幅させて、これに対して、被告は、原告が、被告を上司として認めることを拒否する態度を取っていると考え、原告に対する発言や態度に冷静さを欠いた場面があったものと認められる。しかしながら、上記(ア)ないし(サ)のような事情が認められたとしても、前記認定される被告の言動のみでは、被告の上司としての対応の当不当が問題とされることはあったとしても、それは、被告の業務の裁量の範囲内のものというべきものであって、許容限度を逸脱した行為とまで認めることはできないし、社会通念上許される限度を越える侮辱行為があったとまでは認めることはできず、他に、被告に不法行為責任を認めるに足りる証拠はない
(p23~25)

 田口紀子裁判長はこの箇所の前の記述について、前記争いのない事実及び証拠によって認められる事実によれば」と言っているが、どんなふうに事実を曲げていたか、すでに何回も指摘しておいた。この引用文においても、エ)(オ)が如何に信じがたいか、これまでの説明で明らかだろう。
 
 また、
ク)「原告が被告に対して提出して、書き直しを命じた」は、主語と述語の関係がねじれている。正しくは「原告が被告に対して提出して、書き直しを命じられた(又は、強いられた)」と書くべきだっただろうが、それはともかく、亀井志乃が書類を寺嶋弘道学芸主幹に提出したことはなかった。
 こういう書き方で、田口紀子裁判長は、寺嶋弘道学芸主幹が事実上の上司であり、亀井志乃も事実上それに従っていたかのような印象を与えたかったのかもしれない。だが、亀井志乃は財団におけるルールに従って、館内に保管されている文書を参考に作成し、業務課に提出した。業務課がその形式・内容に問題がないと判断すれば、他の職員に回覧する。ところが、寺嶋弘道学芸主幹にまで廻っていくと、彼はそれをストップして、亀井志乃に書き換えを強要した。しかも彼が強要した書き方は財団のそれではない。どう見てもそれは北海道教育委員会の書き方だった。
 そういう実態については、亀井志乃が「最終準備書面」で説明し、田口紀子裁判長自身も本人尋問の際、寺嶋弘道被告に確かめている(「被告調書」30p)。にもかかわらず、先のごとく誤解を誘いやすい書き方をしたのである。

○鮮やかな肩すかし
 もっとも、こういう検討を続けると、これまた長くなってしまいそうなので、この辺で切り上げるが、ともあれ、以上の引用文の
(ア)から(サ)までを読み、また、それに続く「本件証拠による」から「ものと認められる」までの文章を読む限りで言えば、亀井志乃には性格上の問題もなければ、仕事の手落ちもなかった。それに対して、寺嶋弘道学芸主幹は従来の財団の業務実態を理解しようとする気もなければ、亀井志乃に対する配慮も全く欠いていた。ほかならぬ田口紀子裁判長その人が、そう書いているのである。寺嶋弘道学芸主幹という人間は、果たして上司としての資質を持っていたのだろうか。この箇所を読んだ大方の人は、そういう疑問を抱いたことであろう。

 ところが、田口紀子裁判長はここまで寺嶋弘道被告の非を認めておきながら、そこから一転、肩すかしを喰らわせるような結論を引き出して来たのである。しかしながら、上記(ア)ないし(サ)のような事情が認められたとしても、前記認定される被告の言動のみでは、被告の上司としての対応の当不当が問題とされることはあったとしても、それは、被告の業務の裁量の範囲内のものというべきものであって、許容限度を逸脱した行為とまで認めることはできないし、社会通念上許される限度を越える侮辱行為があったとまでは認めることはできず、他に、被告に不法行為責任を認めるに足りる証拠はない。」と。
 この肩すかしの仕掛けが、「被告は原告の上司だった」という前提と、「被告のやったことは全て上司としての業務に属することだったのだ」という枠づけと、「社会通念」という実体不明な言葉だったことは、誰の目にも明らかであろう。

 田口紀子裁判長が(コ)に挙げた事例の一つは、明らかに寺嶋弘道学芸主幹の亀井志乃に対するつきまとい的な嫌がらせだった(「判決とテロル(4)」)。
 しかしなるほどなあ、嘱託職員の退勤間際に突然顔を出して、嘱託職員を30分も足止めをし、無知な人間扱いをしただけでなく、怒鳴り声を上げながら、不必要な書類を作らせる。それでも田口紀子裁判長の判断によれば、業務の裁量の範囲内のことであり、社会通念上許される限度を超えてはいないことになってしまうわけだ。
 寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃が副担当だった「啄木展」に、何のことわりもなしに介入し、実質的に亀井志乃の業務を奪いながら、当初予算を大幅に超える赤字を出してしまい、それを穴埋めするために、亀井志乃が主担当の「二組のデュオ展」の予算を削ろうとした。亀井志乃から予算の執行予定を聞き出そうとする時の、寺嶋弘道学芸主幹の態度はほとんど錯乱状態だった(「判決とテロル(3)」)。それでもなお、田口紀子裁判長の判断によれば、業務の裁量の範囲内のことであり、社会通念上許される限度を超えてはいないことになってしまう。
 職場における人格権侵害の嫌がらせは、大抵の場合仕事のことにかこつけて行われるものだが、上記のような程度の嫌がらせは社会通念の範囲内のことで、許容限度を超えているとは言えない。田口紀子裁判長は、裁判官の権限と責任において、そういう法的な判断を下したわけである。

○融通無碍な「上司」概念
 田口紀子裁判長はこんなふうに、なりふり構わず「上司」「業務」「社会通念」などの言葉を操って寺嶋弘道被告を被告の立場から解放してやったわけだが、ここでひとまず視点を変えて、寺嶋弘道被告が主張し、田口紀子裁判長が虚構の組織図まで作って裏書きをしてやった「上司・部下」の関係に立ってみることにしよう。
 彼等の理屈に従えば、寺嶋弘道学芸主幹と亀井志乃研究員との間に上司と部下の関係が成立したのは、平成18年4月18日だった。とするならば、平成18年4月7日、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃に無礼な口を利いた時は、まだ上司・部下の関係ではなかったことになる。
 ところが田口紀子裁判長によれば、
客観的には、被告が、原告の上司として業務指導の一環として行われたものと認められる(「判決文」17p)のだそうである。
 
 寺嶋弘道被告は「陳述書」の中で、〈平成18年4月13日に学芸部門の職員が相談して作った「平成18年度学芸業務の事務分掌」は、4月1日にさかのぼって施行された〉と、法律的に問題のある言い方をしていた。
 ところが、法律家である田口紀子裁判長はその点を問題にすることなく、むしろ4月18日に作文された「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし)についても、こんなふうに4月7日にさかのぼって施行し、寺嶋弘道被告の言動を許容範囲内に回収してやったのである。
 
 亀井志乃は寺嶋弘道学芸主幹の執拗な嫌がらせに耐えられず、平成18年10月31日、嫌がらせをアピールする文章を財団の幹部と、寺嶋弘道学芸主幹とに手渡し、職場環境の改善を求めた。それ以後、寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃の仕事に口出しすることはなくなったが、平成19年1月31日、亀井志乃が主担当の「二組のデュオ展」の展示準備に入ろうとした直前、寺嶋弘道学芸主幹は何のことわりもなしに展覧会場の入口を塞いで、「イーゴリ展」を始めてしまった。
 亀井志乃はこのことも寺嶋弘道被告による嫌がらせに挙げておいたのだが、田口紀子裁判長によれば、
同日(1月31日)には、既に、被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていたこと、イーゴリ展終了から、デュオ展開催までには、9日間あり、デュオ展の準備ができないという期間であったとまでは認められないことなどからすれば、被告に業務妨害の不法行為があったと認めることはできない。」(「判決文」23p)ということになってしまったのである。
 なんと便利な「上司」概念であることか。
 そもそも
「被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていたこと」が、なぜ「被告に業務妨害の不法行為があったと認めることはできない」理由になるのか、さっぱりわからない。むしろこの没論理的な屁理屈から分かることは、まず田口紀子裁判長には〈寺嶋弘道被告に不法行為はなかった〉という結論があり、それに合わせて理屈をひねり出してきたことである。(「デュオ展開催までには、9日間あり」という理屈も、田口紀子裁判長の誤り。おまけに、亀井志乃は限られた日数のため、非出勤日を返上し、それでもまだ足らないので、札幌のホテルに2泊して、夜遅くまで準備に当たらざるをえなかった。だが田口紀子裁判長はそれらの被害については、完全にスルーしてしまった。)

○筋の通らない理屈
 亀井志乃は財団の嘱託職員であり、依頼された業務の実績によって雇用契約を更新していく立場だった。寺嶋弘道学芸主幹はそういう身分不安定な立場の人間を「啄木展」から疎外し、「二組のデュオ展」の予算を削り取り、展示の準備が間に合わないかもしれない状況に追い込んだ。つまり亀井志乃が実績を挙げる機会を奪うようなことをしてきた。その反面、田口紀子裁判長が
(キ)で引用したように、嘱託職員も、立派な職員ではないか、財団の一員ではないか」と高圧的な態度を取り、自分の意向に従わせようとした。
 これが寺嶋弘道被告の言う
「一体的」の実態であるが、自分からああいう理不尽なことをしかけておきながら、その相手に対して、「嘱託職員も、立派な職員ではないか、財団の一員ではないか」などと言い募るのは、そのこと自体が、自分の行為に関する卑劣な誤魔化しであり、相手に対する差別意識を裏に潜めた侮辱行為であろう。
 これは、「上司」の言動として見ても、また、一般の市民同士の言動としてみても、とうてい許されざる不法行為だと思うが、しかし田口紀子裁判長によれば、
被告の上司としての対応の当不当が問題とされることはあったとしても、それは、被告の業務の裁量の範囲内のものというべきものであって、中略)社会通念上許される限度を越える侮辱行為があったとまでは認めることはできない」のだそうである。
 
 こんなふうに、田口紀子裁判長の判決は、まるで筋の通らない理屈に満ちている。日本の裁判所にはこういう理屈をひねり出す裁判官がいるのである。

○弁護士の丸投げと裁判官の尻ぬぐい
 平成20年10月31日の本人尋問が終わった時、太田三夫弁護士が「最終準備書面」を出す機会を与えて欲しいと言い出し、平成20年12月12日が締め切り日となった。
 亀井志乃は約束通り、12月12日に「最終準備書面」を札幌地方裁判所に届けた。ところが2日待っても、3日待っても、太田弁護士の「最終準備書面」が届かない。12月17日になって漸く「準備書面(4)」(平成20年12月16日付)が速達で届いた。
 要するに太田弁護士は締め切りの期日を4日も延ばして、106ページに及ぶ亀井志乃の「最終準備書面」を読んでから書く。そういう時間的な余裕を作ったわけだが、彼の書いた「準備書面(4)」は僅かに7ページ。その内容は亀井志乃の人格批評が中心であり、それ以外は、またぞろ「被告は原告の上司だった」を繰り返すだけだった。
 
 私はそれを読んで、まさか田口紀子裁判長がこんな主張を取り上げることはあるまい、と考えた。なぜなら、太田三夫弁護士はいったん放棄した主張をまた蒸し返したわけだが、蒸し返す理由を述べるでもなければ、裁判における主張の形式も踏んでいないからである。
 ところが、あに図らんや、田口紀子裁判長は太田三夫弁護士の言い分をサポートする形で、虚構の組織図まででっち上げ、「上司」「業務」「社会通念」を融通無碍に操って、寺嶋弘道被告の言動を全て「許容範囲」の中に回収してやっている。
 結果論的に見れば、これは太田三夫弁護士が自分の仕事を田口紀子裁判長に丸投げしてしまったことになるだろう。
 
 まことに弁護士からぬやり方だが、太田三夫弁護士は亀井志乃が「準備書面」(平成20年3月5日付)で描いた寺嶋弘道被告の言動については、それが「事実」であるか否かを争うことをしなかった。もし被告の言動の「事実」を争って、具体的な証拠調べや証人喚問に入るならば、議論は被告の言動の違法性の問題にまで及ばざるをえない。太田三夫弁護士はそこまで踏み込むことを避けたのである。
 そして、これまた弁護士からぬやり方だが、太田三夫弁護士は数度に及ぶ「準備書面」の中で、何の証拠物として「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)を提出したか、ただの一度も説明しなかった。そこで、亀井志乃は〈多分「被告は原告の上司だった」という主張を裏づける証拠物のつもりで提出したのだろう〉と判断し、その上で〈この文書は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」の第6条(「規程の改正は理事会で決定しなければならない」)と、第7条(「この規程に定めるもののほか、事務局その他の組織に関し必要な事項は理事長が決める」)という規程を無視して作文されたものであり、それ故、正当なものとは言えない〉と批判を加えた。しかしこの点についても、太田弁護士は議論を避けてしまったのである。
  
 寺嶋弘道被告はその「陳述書」の中で、この文書を作った経緯を説明したが、しかし「○太田三夫弁護士の場合」の箇所で説明しておいたように、その文書は全体職員会議の会議資料でもなければ連絡事項でもなく、何の説明もなしに、ただ配布されただけだった。
 問題はそれだけではない。この年の5月30日に「平成18年度第1回 理事会・評議会」が開かれた(甲61号証の1)。もしそのつもりがあれば、理事会の議題とする形で事後承諾を得ることができたはずである。だが、財団の幹部職員と寺嶋弘道学芸主幹はそういう努力さえもしなかった。
 おまけに、財団法人北海道文学館の公刊物である『平成18年度年報』の(平成20年2月作成。乙4号証)には、その文書の組織図ではなく、田口紀子裁判長が無視した「財団法人北海道文学館(事務局)組織図 平成18年4月1日現在」(甲2号証)に近い形の組織図が載っていた。もちろん「※ 財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」なんて文言はどこにも見られない(「北海道文学館のたくらみ(48)」)。
 要するに、田口紀子裁判長が拠り所にした「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし)は、財団の幹部職員と寺嶋弘道学芸主幹の内々の申し合わせをメモした紙切れみたいなもので、表沙汰に出来ない内部文書でしかなかったのである。
 太田三夫弁護士は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)について、決して亀井志乃と議論しようとしなかったわけだが、もし「準備書面」等による応酬が続けば、この文書のインチキ臭さが明らかになってしまう。それを避けたかったのであろう。

 そんなわけで、太田三夫弁護士は議論が人格権侵害に関する具体的な法律の問題や、規程に従ってオーソライズされた文書であるか否かの問題に及びそうになると、それを回避してしまった。しかし田口紀子裁判長は、判決を下す立場にある以上、それらの問題を回避するわけにはいかない。そこで、被告の言動に関する法律問題は、「上司」「業務」「社会通念」の三題噺で何とか理屈をひねり出す。「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし。乙2号証)の問題については、虚構の組織図をでっち上げたり、都合の悪い証拠物は無視したりして、そのインチキ臭さ隠してやることにした。
 太田弁護士が弁護士としてやるべきことをやらずに、丸投げしてしまったことを、田口紀子裁判長が引き受けて、誤魔化しだらけの理屈で取り繕ってやったのである。
 北海道の司法関係者の間にはこういう暗黙のルールがあるのかもしれない。
 そう言えば、法務局のOA調査救済係長も、道立文学館へ調査に出かけたところ、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(日付なし)なんて文書を見せつけられ、ウンもスンもなく納得させられてしまったのかもしれない。いや、納得することにしたのだろう。

○発語内行為(illocutionary act)としてのテロル
 それが顕在化してきたのは、問題が北海道教育委員会の責任にまで及びそうになったからで、まるで申し合わせたかのように黙認、誤魔化し、虚言によって道教委の職員を庇い始める。いわば「言葉の三角詐欺」みたいなことが行われたわけだが、その最終的な仕上げである田口紀子裁判長の判決は、日本の非正職員の労働者(特に女性)に対するテロルだったと言えなくもない。
 なぜなら、小畑清剛の『言語行為としての判決』(昭和堂、1991年。「北海道文学館のたくらみ(23)」)の理論に照らして見るならば、裁判所という権力と権威を背景に下されたその判決は、「業務を口実とした嫌がらせに抗して人格権を主張しようとしても、法的に救済される見込みはない。諦めなさい」というネガティヴな勧告の発語内行為(illocutionary act)と見るべきであり、人権回復の意欲に打撃を与える性質のものだからである。

○念のために「事実」を確認
 なお、念のためにことわっておけば、私は寺嶋弘道学芸員(被告)の言動を誇張して書いたわけではない。
 裁判においては、原告も被告も、「自分はしかじかの証拠に基づいてこれこれのことを主張する」という形式によって、それぞれの言い分を展開する。もちろん亀井志乃は「準備書面」(平成20年3月5日付)を書くに際して、「しかじかの証拠の裏づけを持つ事実」を述べ、それに基づいて被告の「違法性」を主張した。
 それに対して寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士は、先ほども言ったように、「事実」に関する反論を放棄してしまった。田口紀子裁判長の判決においても、亀井志乃が言う「事実」はこの点が間違っているとか、この点に疑問があるとか、そういう種類の指摘は全くなかった。これは亀井志乃が挙げた「事実」を、寺嶋弘道被告も太田三夫弁護士も田口紀子裁判官も認めていたことを意味する。
 私はそういう事実に基づいて、この「判決とテロル」を書いてきた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年7月 »