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判決とテロル(14)

弁護士と裁判官における虚言の許容範囲

 弁護士や裁判官には嘘の許容範囲というものがあるのだろうか。私は亀井志乃が起こした裁判を通じて、ずっとそういう疑問に囚われていた。

○言葉のアヤと判決
 前回紹介した、ジョン・M・コンレイとウィリアム・M・オバーは、その共著『公正な言葉を――法・言語・権力―』(2005)で、心理学者、エリザベツ・ロフタス(Elizabeth Loftus)の、次のような興味深い実験を取り上げていた。
 その実験によれば、被験者を二つのグループに別け、自動車の衝突事故のビデオを見せた上で、「二台の自動車がぶつかった時(when they hit)、それぞれどれくらいの速さに走っていましたか」、「二台の自動車が激突した時(when they smashed into)、それぞれどれくらいの速さに走っていましたか」と質問してみた。すると、「自動車がぶつかった時(when they hit)」という質問を受けたグループよりも、「自動車が激突した時(when they smashed into)」という質問を受けたグループのほうが、自動車のスピードに関して〈より速い〉印象を受けていることが分かった。
 おそらく後者のグループは、「激突(smash into)」という言葉の印象に引きずられて、「衝突した自動車の運転手は、かなり速いスピードで車を飛ばしていた」と感じてしまったのであろう。
 
 次にロフタスは、両方のグループに、「あなたは割れたガラスを見ましたか(Did you see any broken glass?)」と聞いてみた。実はそのビデオにはガラスが割れるところは映っていなかったのだが、確かに割れたガラスを見たと答えた被験者は少なくなかった。しかも、「自動車がぶつかった時(when they hit)」という質問を受けた人に比べて、「自動車が激突した時(when they smashed into)」という質問を受けた人のほうが3倍近くも、「確かに割れたガラスを見た」と答えたのである。
 
 コンレイとオバーは、この実験結果を挙げて、「目撃者の記憶が、如何に質問の言葉に左右されやすいか」という問題を指摘したわけだが、確かに検事や弁護士がこのような言語操作に長けているならば、目撃証言者に、見ていなかった〈事実〉を「見た」と言わせることは、さほど難しいことではないだろう。その結果、無実の人間が有罪にされかねない。あるいは有罪であるべき人間が無実として釈放されることになるかもしれない。
 この問題は、陪審員制度のアメリカでは特に深刻なわけだが、しかし、日本でも最近は裁判員制度を採用している。もし裁判員が検事や弁護士の巧妙な言語操作を見抜くことができなかったならば、大変に恐ろしい判断を下してしまいかねないのである。

○民主党の言語感覚
 怖いことに、このような言葉のアヤによる観念操作は政治の世界にも横行している。
 先日、国会の代表質問で、民主党の議員が「政権交代」という言い方をし、鳩山首相も同じ言葉を使っていた。テレビのニュースでも「政権交代」という言葉を使っている。しかし、先日の衆議院議員選挙は「政権交代」の選挙ではない。
 「政権」とは「国の統治機関を動かす権力」のことであって、統治機関や権力のあり方は日本国憲法に規定されている。この憲法が変わり、統治機構や権力のあり方が大統領制や軍事政権や独裁政権に変わったのならば、「政権交代」と言い得るだろうが、先日の選挙では「政権」を担当する政党が変わったにすぎないのである。
 
 たぶん鳩山首相をはじめとして、現内閣の閣僚たちは、政策の変更を「政権交代」という言葉で誤魔化したいのであろう。
 本来ならば鳩山内閣は、前の政権担当の政党の政府が国民や外国と約束したことは、基本的にこれを継承しなければならない。
 なぜなら、例えばある家の父親が建築会社と契約して、既に基礎工事が終わり、家の骨組みも出来上がっているにもかかわらず、突然建築の凍結を通告し、残額の支払いを停止してしまったとしたら、どうなるか。
 私は「判決とテロル(11)」で、三浦つとむの弁証法的規範論を取り上げ、「約束や契約はお互いの『共通の利益』を実現するために作り出した『共通の意志』であり、私たちが約束や契約に同意した時から、それはお互いの個的な意志を拘束するものとなる。一方が相手の同意なしに約束や契約を破棄することはできない」という市民ルールを紹介しておいた。仮に家計をあずかる人間が父親から息子に変わったとしても、このルールは変わらない。息子は、もし相手の建築会社が「凍結」や「残額支払いの中止」に同意しないならば、契約通りに工事を進めてもらい、未払いの建築費を払わなければならないのである。
 
 そのような次第で、鳩山内閣は、たとえ自民・公明の連立政府が国民や外国と合意した約束が自分たちの政策に合わないとしても、いきなり合意事項の凍結、中止を振りかざすのは、信義に反する。それだけでなく、違法な行為なのである。
 そもそも民主党のマニフェストなんて、せいぜいスローガン程度のものでしかなく、好意的に解釈しても「政治的ヴィジョン」というほど意味なのだが、それを実現し得る現実的なプロセスを具体的に提示して、初めて政策と呼ぶことができる。前原国土交通大臣が八ッ場ダムの凍結を言い出し、ーー中止を暗示しながらーー「ダムによらない治水、利水の方法もある」みたいな発言していた。だが、治水、利水の具体的プランを明らかにし、ダムと比較した場合のメリットとデメリットを科学的に説明できないならば、単なる思いつきの放言にすぎない。とうてい政策の名には値しない。
 鳩山首相と閣僚たちは合意事項の凍結、中止の違法性と、政策の貧困を言葉で糊塗するために、「政権交代」を乱発しているのだろう。「政権が交代したのだから、前政権の約束を破棄しても構わないのだ」と。

 とにかく鳩山内閣の言語感覚は怖い。鳩山首相自身が平気で「必殺事業仕分け人」なんて言い方をしている。テレビの時代劇シリーズをもじった、冗談のつもりなのだろうが、凍結や中止のために今後の事業計画や生活設計の狂わされてしまう何万、何十万という人たちの苦渋を想像するならば、――その中には破産したり、自殺に追い詰められたりする人もいるだろうーー「必殺」なんて禍々しい言葉を、軽々しく口にすべきではない。ところが、鳩山内閣は、前の政権担当政党が国民と約束したり、企画したりしたことは、「ムダ」という名目で抹殺してよい。そういう観念を煽っているのである。
 
○再開の挨拶
 ところで私は8月中旬に入院をし、退院した後、「判決とテロル(13)」を書いた。だが、その直後に再び入院をすることになり、9月末に退院することができた。それから5週間ほど経ち、体調は日常生活に差し支えない程度に回復し、集中力もやや戻ってきた。そこで、8月の入院中に読んでいた『公正な言葉を――法・言語・権力―』の中で特に印象的だった箇所を手がかりに、頭の訓練、筆馴らしのつもりで「判決とテロル」を再開することにしたわけだが、さて、それでは、わが親愛なる太田三夫弁護士と田口紀子裁判長の言語操作はどのようなものであっただろうか。

○太田三夫弁護士の言葉のトラップ
 前回
(「判決とテロル(13)」)紹介したように、太田三夫弁護士は、平成20年10月31日の本人尋問で、亀井志乃に対して、あなたは嘱託職員というお言葉を使われてますけれども、財団法人の従業員ではないんですかですから、従業員なんですか、従業員ではないんですか」と、短兵急にタグ・クエッションを仕掛けた。わざと「従業員」という曖昧な言葉のトラップ(罠)を仕掛けて、〈寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃の上司だった〉という意味のことを認めさせようとしたのだろう。
 道立文学館に派遣されて受付業務に就いている人は、派遣会社の従業員かもしれないが、道立文学館の従業員ではない。だが、外部の人から見れば、道立文学館の従業員に見える。亀井志乃は財団法人北海道文学館と嘱託契約を結んだ非常勤職員だが、外部からは従業員に見える。寺嶋弘道学芸主幹は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の公務員であるが、はやり外部からは従業員に見える。太田弁護士はこういう「見え方」を利用して、亀井志乃と寺嶋弘道学芸主幹を同じ組織の従業員として括ってしまうつもりだったらしいのだが、亀井志乃の正確な答えによって失敗してしまった。
 
 だが、太田弁護士はまだ諦められなかったのだろう。今度は、自分の依頼人である寺嶋弘道被告を向かって、乙2号証の「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」という文書における
「※財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言を読み上げ、次のように尋問をした。
《引用》

太田三夫弁護士:ここにいう研究員とは、だれのことですか。
被告・寺嶋弘道:亀井さんです。
太田三夫弁護士:司書とはだれのことですか。
被告・寺嶋弘道:Oさんです。
太田三夫弁護士:学芸主幹とはだれのことですか。
被告・寺嶋弘道:私、寺嶋です。
太田三夫弁護士:これを素直に読む限り、あなたをヘッドにして、Sさん、Aさん、Oさん、亀井さん、こういう方々が、いわゆる学芸班を組織するよと、こういうふうに読めるんですが、そういうことでしたか。
被告・寺嶋弘道:はい、そのとおりです。

(被告調書2p)

 まことに呼吸の合った問答であるが、ここでも太田三夫弁護士は言葉のトラップを仕掛けて、印象操作を企んでいた。
 それは
「これを素直に読む限り」云々の箇所であり、太田弁護士の読み方は全く「素直」ではなかった。太田弁護士は乙第2号証として、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」と一緒に、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」という文書も提出していた。それらの全体に目を配りつつ、いま、改めて「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」を素直に、かつ正確に読んでみよう。
 この「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」には、確かに「学芸班」が設けられていたが、それは業務課から独立し、業務課と対等の関係に位置づけられていた。しかもその主要メンバーは、文学館に駐在する北海道教育委員会の学芸主幹と社会教育主事と学芸員の3人で構成されていた。
 もう少し正確に言えば、北海道教育委員会の文化スポーツ課には、3人の職員で構成される「文学館グループ」という組織が存在する。北海道教育委員会はその「文学館グループ」の3人を、道立文学館に駐在させることにした。「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は、その3人の「文学館グループ」を、新たに「学芸班」と名づけた。
 そして、もともと財団の業務課内学芸班に所属していた司書と研究員(亀井志乃)を、業務課内学芸班から切り離して、この新たな「学芸班」に従属させることにしたのである。
 
 つまり、もともと財団の業務課の中に設けられていた学芸班(財団職員の研究員と司書で構成される)と、平成18年度の「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の中で、業務課と対等の関係で設けられた学芸班(北海道教育委員会の「文学館グループ」を中心とする)とは、異なる組織なのである。

○改めて素直に、かつ正確に読んでみるならば
 このようにして新たに作られた「学芸班」は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」の第2条の4項(「事務局に業務課を置き、課内に学芸班を置く」)を根幹から変更してしまうものであった。
 しかも寺嶋弘道学芸主幹と、彼が言う毛利館長以下の財団の幹部職員は、平成18年4月18日(火)、「第6条 この規程の改正は、理事会で決定しなければならない」。「第7条 この規程に定めるもののほか、事務局その他の組織に関し必要な事項は、理事長が定める」(太字は引用者)という規程を無視して、業務課から独立した「学芸班」なるものを勝手にでっち上げてしまった。そしてその下に、わざわざ※印をつけて、
財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言を加えたのである。
 
 そのことを頭に置いて、この文言を見て貰いたい。不思議なことに、この文言は、北海道教育委員会の「文学館グループ」の社会教育主事と学芸員については、何も言及していない。つまりこれは、あくまでも財団の業務課内学芸班に属するO司書と亀井志乃研究員を、もともとの組織から切り離して、新たにでっち上げた「学芸班」にくっつけるための文言だったのである。
 別な面から見れば、北海道教育委員会の職階制における寺嶋弘道学芸主幹の地位は、3人の「文学館グループ」のグループリーダーであり、それ以上でもなければ、それ以外でもなかった。ところが、この3人の道職員の「文学館グループ」に、財団の業務課内学芸班の司書と研究員をくっつけた、その途端に、寺嶋弘道学芸主幹はこの2人の財団職員の上司になってしまったのである。
 このことを、いま太田三夫弁護士ふうに言うならば、次のようになるだろう。「これを素直に理解する限り、あなた(寺嶋弘道被告)は、同じ北海道教育委員会の職員のSさん、Aさんに対してはグループリーダーだけれど、財団の業務課内学芸班のOさん、亀井さんに対しては上司なんだよと、こういうふうに読めるんですが、そういうことでしたか」と。
 
 では、それに対して、寺嶋弘道被告は「はい、そのとおりです」と答えることができたかどうか。多分答えることはできなかったであろう。

○太田三夫弁護士の取り繕い
 なぜなら、もし仮に寺嶋弘道学芸主幹が財団職員2人の上司であることを認めるならば、次の問題が起こってくるからである。
 寺嶋弘道学芸主幹はこの2人に対しても北海道教育委員会の職階制における上司ということになるのか。それとも寺嶋弘道学芸主幹は財団法人北海道文学館の職階制における2人の上司なのか。
 もし前者ならば、財団職員の2人は自動的に北海道教育委員会の職員の身分を与えられることになる。また、もし後者ならば、寺嶋弘道学芸主幹は北海道教育委員会の職員であると同時に、財団法人の職員の上司の身分を与えられることになるわけだが、公務員がこのような形で二重身分を獲得することは、法律で禁じられている。
 亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―1」(平成20年5月14日)で批判したのは、まさにこの点に関してであった。
 それに対して、寺嶋弘道被告と太田弁護士は、
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。」(平成20年7月4日付「事務連絡書」)と、再反論の放棄を告げてきた。ギブアップしてしまったのである。
 
 このように整理してみるならば、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」という文書や
「※財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言が、いかにインチキなものであったかが分かるだろう。おそらく太田三夫弁護士は亀井志乃からその点を衝かれ、「上司」という言葉を使う自信を失ってしまった。そこで、その文書と文言のインチキを取り繕うため、これを素直に読む限り、あなた(寺嶋弘道被告)をヘッドにして、Sさん、Aさん、Oさん、亀井さん、こういう方々が、いわゆる学芸班を組織するよと、こういうふうに読めるんですが、そういうことでしたか」と、更にインチキな「読み」を重ねる羽目に陥ってしまったのである。
 
○田口紀子裁判長の判決の違法性
 しかし弁護士と裁判官など、司法関係者の間では、阿吽(あうん)の呼吸というべき意志疎通があるらしい。田口紀子裁判長は平成21年2月27日の判決において、問題の組織を次のように描き出した。
《引用》
 
原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された(「判決文」3p。太字は引用者)
 
 田口紀子裁判長はここで、〈まず財団法人北海道文学館の業務課内に学芸班があったことを前提とし、その学芸班に北海道教育委員会の寺嶋学芸主幹と社会教育主事と学芸員の3人が「配置」された〉という組織図を描いたわけだが、先ほど私が分析整理したように、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の組織図はそのようになっていなかった。
 両者を較べてみれば、まるで別物であったことが分かるだろう。
 しかもこれは、「自動車がぶつかった時(when they hit)」と「自動車が激突した時(when they smashed into)」のような、相対的な認識の違いの問題ではない。田口紀子裁判長の組織図は根拠を持たない虚構の組織図だったのである。
  
 ただし、以上の指摘はこれが初めてではない。
 亀井志乃は平成20年10月31日の本人尋問において、寺嶋弘道被告に対して、〈道職員である寺嶋弘道学芸主幹はどのような根拠に基づいて、財団法人の職員である亀井志乃の上司であると主張したのか〉という意味の質問をした。だが、寺嶋弘道被告は何一つまともな返事ができなかった。田口紀子裁判長はその様子を目の当たりに見ていたはずである。
 さらに亀井志乃は「最終準備書面」(平成20年12月12日付)で、被告代理人太田弁護士の意図的な言葉のすり替えや、被告に虚偽の地位を与えるレトリックを暴き出した。もちろん田口紀子裁判長はそれを読んでいるはずである。
 それにもかかわらず田口紀子裁判長は、寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士の主張に対する亀井志乃の反論や批判には一切言及することなく、つまり全く無視・黙殺して、先のような虚構の組織を描き出した。その上で、寺嶋弘道学芸主幹を亀井志乃の上司と断定し、寺嶋弘道学芸主幹の亀井志乃に対する無礼、傲慢な態度を、「上司としての許容範囲」であると、法的にこれを公認してしまった。
 
 先ほどの例を借りて言えば、これも、「自動車がぶつかった時(when they hit)」と「自動車が激突した時(when they smashed into)」という相対的な認識の違いの問題ではない。田口紀子裁判長は寺嶋弘道被告が亀井志乃の「上司」だったと判断する理由を、
運用について定めた、『財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について』(以下、「運用規程」という。)において、組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする旨定められた。(乙2)(3p)としていた。しかし、問題は、果たして「運用」という名目で、〈道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員(公務員)が財団の職員の上司となることが許されるのか否か〉、ということだったのである。(おまけに田口紀子裁判長は、先ほど自分が言った「業務課の中にさらに学芸班が設けられ……北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名の配置された」云々の「学芸班」と、ここに言う「学芸班」とが根本的に異なる組織であることに気がついていない。)
 
 あるいは田口紀子裁判長は
「※財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする。」という文言を含む、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」を、正当な手続きを経て成立した、合法的な文書と見なしたのかもしれない。もしそうならば、少なくとも田口紀子裁判長は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の正当性について根本的な疑義を提出した亀井志乃に対して、裁判官としての見解を明確に説明すべきだった。
 それと共に、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の組織図と、自分が描いた組織図とが矛盾なく整合することを証明しなければならなかった。
 それを行うのは、裁判官の義務である。なぜなら、裁判官が行うべきことは、原告または被告が提出した証拠物のみに基づいて「事実」の有無を判断し、また、原告と被告の主張の合理性や妥当性を判断し、かつ判断理由を明示することだからである。当然のことながら、裁判官が自分の思いつき(または思い込み)によって〈事実〉を虚構することは許されていない。
 だが、田口紀子裁判長は裁判官としての最低の義務を怠ってしまった。
 
 ちなみに、平成18年度の財団法人北海道文学館には「主事」という肩書きを持つ職員は存在しなかった。だが、田口紀子裁判長によれば、
原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され」ていたことになっている。田口紀子裁判長は証拠物の文書から、書かれていないことまで読み取ってしまう読解能力を持ち、その代わりに書かれている事柄を正確に読もうとしない、そういう特技の持ち主なのであろう。

○司法関係者の阿吽の呼吸
 ただし、田口紀子裁判長が全くのヒントなしにああいう虚構の組織を作り上げたとは思えない。そこで思い当たるのが、先ほど紹介した太田三夫弁護士の「ヘッド」論である。太田弁護士は
「素直」に読んだポーズを取りながら、ことさら曲げて解釈してみせたわけだが、その下心は見え見え、ヘッド=上司という図式に持って行きたかったことは明らかだろう。
 田口紀子裁判長の描いた組織図は、まさにその下心を汲んだ形になっているのである。

 これも既に何回か指摘したように、田口紀子裁判長は亀井志乃の文章を引用するに当たって、肝心な箇所を勝手に削除してしまったり、亀井志乃の表現を無断で書き換えたりして、寺嶋弘道被告に有利な印象を与えるように操作していた。
 他人の文章は、正確に引用すること。これは私が長年従事してきた文学研究の世界の鉄則であって、もしこれに反するならばたちまち信用を失ってしまう。文学研究以外の世界においても、他人の表現の尊重は市民ルールとして守られているはずである。だが、太田弁護士は平気で言葉のすり替えを行い、田口紀子裁判官は平気で他人の文章を削除したり、書き換えてしまう。他者の発話に関する倫理観というものが欠けているらしい。まさか日本の司法関係者が全てそのレベルだとは思わないが、太田三夫弁護士や田口紀子裁判官の例で見るかぎり、日本の司法関係者の文章能力や、言語表現に関する倫理は、お世辞にも上等とは言い難い。
 太田弁護士は「上司」を「ヘッド」にすり替え、田口紀子裁判長は太田三夫弁護士が描いた組織図をほぼそのまま踏襲しながら、「ヘッド」を「上司」に書き換えた。これもその一例と見ることができるだろう。
 田口紀子裁判長は自分の描いた組織図が太田三夫弁護士の「ヘッド」云々に由来することを否定するかもしれないが、客観的に見れば、両者の関係は符節を合わせたごとく類似している。これは、誰の目にも明らかだろう。
 なるほど素人を相手にした時の司法関係者の阿吽の呼吸というのは、こんなふうに働くのだな。私はほとほと感心をした。
 
○弁護士の安全地帯
 現実の自動車の衝突事故を「ぶつかった」と見るか、「激突した」と見るかは、相対的な認識の違いであり、それ故、一方が正しく、他方が間違っていると判定することはできない。
 では、ある弁護士が目撃証人に対して「激突」という言葉を使い、実際には見ていなかったはずの〈事実〉を見ていたと証言させたとすれば、この「嘘」の責任は誰が負うのだろうか。弁護士か、それとも目撃証人なのか。
 もし彼とは反対側の弁護士が、「激突」という言葉のトラップを見抜くことができず、結果的に無実の人間に有罪宣告が下されることになったとしたら、この冤罪の責任は言葉のトラップを見抜くことができなかった弁護士にあるのか、それとも言葉のトラップを仕掛けた弁護士の側にあるのか。
 
 亀井志乃が起こした裁判で、被告側が提出した「準備書面」は全て被告代理人弁護士・太田三夫の署名捺印となっていた。それらはいずれも太田三夫弁護士が執筆したものと見て差し支えないだろう。
 その太田三夫弁護士の署名捺印を持つ「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)は、亀井志乃の平成20年3月5日付「準備書面」に対する反論であった。だが、その内容は全編これ虚偽に満ちており、亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―1」(平成20年5月14日)で、逐一証拠を挙げて被告側の虚偽を暴き、また、事実認識と論理の両面から再反論を加えた。
 これに対して太田三夫弁護士は為す術なく、
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」。署名は被告代理人弁護士・太田三夫)と、白旗を掲げてしまった。
 
 ただし、この「事務連絡書」は、
被告」を主語としている。ということはつまり、太田三夫弁護士は、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」に対して再反論すべき責任は寺嶋弘道被告にあり、自分ではないと見なしていたことになるだろう。
 言葉を変えれば、太田三夫弁護士は、亀井志乃によって逐一再反論を加えられた「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)の内容ついては、寺嶋弘道被告がその責任を負っている、と見なしていたことになる。
 更に言葉を変えて言えば、太田三夫弁護士は、〈「準備書面(2)」には確かに自分が署名捺印しているが、その内容は寺嶋弘道被告の説明を真実なものと信じて書いただけであり、もし内容に虚偽の主張または証言が含まれていたとしても、自分はそれが虚偽であるとは気がつかなかった。それ故自分に虚偽の責任はない〉と言い逃れをすることができる、極めて安全な立場を確保していたわけである。
 弁護士はこのように、自分が署名捺印した文章に関しても、内容の虚偽や間違いに関しては依頼人にその責任を負わせることができる。俗に「弁護士は3日やったら、止められない」と言うが、確かにこれは旨味のある商売と言えるだろう。

○弁護士の責任が問われる局面
 だが、そういう弁護士にも危険がないわけではない。なぜなら、法廷における証人尋問の場においては、弁護士は生身として登場し、自分の責任で発言しなければならないからである。
 先ほどの例で言えば、太田三夫弁護士は自分の依頼人との間で、

太田三夫弁護士:これを素直に読む限り、あなたをヘッドにして、Sさん、Aさん、Oさん、亀井さん、こういう方々が、いわゆる学芸班を組織するよと、こういうふうに読めるんですが、そういうことでしたか。
被告・寺嶋弘道:はい、そのとおりです。」

 という問答を交わしたわけだが、この組織図は太田三夫弁護士自身が読み取った事柄を、自己の責任において披瀝したものであり、それ故、この「読み」の責任を寺嶋弘道被告に転嫁することはできない。この「読み」が不正確であり、その組織図が虚偽であるとすれば、それは太田三夫弁護士の責任に属するはずである。

 おまけに、太田三夫弁護士としては忘れたいところかもしれないが、太田三夫弁護士署名捺印の「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)で、被告が駐在道職員として文学館に着任したのは4月4日(火)ではなく4月1日(土)である(中略)着任日には、被告は平原一良学芸副館長(当時)から平成18年度の事務事業について説明を受けており、『二組のデュオ展』を含め当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである」と書いてきた。
 だが、この文章は腑に落ちない。寺嶋弘道学芸主幹は平成18年4月1日の日曜日に文学館へ顔を出し、当時の学芸副館長だった平原一良から
「平成18年度の事務事業について説明を受けた」ということだが、――但し実際に着任式が行われたのは4月1日ではなく、4月4日の火曜日――そのことと、二組のデュオ展』を含め当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである」との関係がよく分からないからである。
 寺嶋弘道学芸主幹は、平原一良学芸副館長から
「指揮監督する立場」を委嘱されたのか、それとも北海道教育委員会から「指揮監督する立場」を与えられて、平原学芸副館長と合い、平成18年度の事務事業について説明を受けた」のか。

 しかし事実は、いずれも嘘であろう。
 寺嶋弘道被告は平成20年10月31日の本人尋問において、亀井志乃から
「被告は、だれによって、どういう手続きを経て、指揮監督する立場を与えられたのでしょうか」と質問をされ、いったんは「北海道教育委員会の教育長からその立場を与えられた」という意味の返事をした。が、更に亀井志乃から具体的な質問を受けて、自分が嘘を吐いたことを白状してしまったからである。いえ、私は直接教育長から指揮や指示を受けたことはなく、私は、道教委文化課の学芸主幹であるという立場が、財団法人との連携を行う上でそのようにさせているということだと思います(被告調書、33p)と。要するに寺嶋弘道被告が主張する「指揮監督する立場」とは、彼自身の思い込みにすぎなかったのである。
 また、平原一良学芸副館長から委嘱を受けたか否かの問題について言えば、委嘱を受けた事実はなかった。単なる学芸副館長にすぎない平原一良に
「指揮監督する立場」を委嘱する権限はなかったからである。そして事実、寺嶋弘道被告は、亀井志乃から「その平原学芸副館長と話をしてというのは、特に関係がないわけですか」と質問され、平原副館長から、4月1日のときに、その事務事業の概要について説明を受けたものです」と答えるだけで、指揮監督する立場」を委嘱された(または与えられた)と主張することはできなかった。(その直後、寺嶋弘道被告は、亀井志乃から「先ほどから、4月当初も平原副館長というふうに言ってますけれども、平原副館長は、当時は、平原学芸副館長であり、副館長は安藤孝次郎氏だったと、それは御存じですね」と誤りを指摘されてしまった。「被告調書」34p)。
 
 分かるように、太田三夫弁護士が自負するところの「素直な読み」とは、彼自身が署名捺印した「「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)で書いた嘘を誤魔化すための虚言でもあったのである。

○寛大な裁判官
 亀井志乃は「最終準備書面」(平成20年12月12日付)で、以上のような事例にも言及して、
《引用》
 
なお、被告は、10月31日公判の証人席において、数々の偽証を行っていました。それは、原告が本「最終準備書面」のⅠ章からⅢ章にわたって明らかにした通りです。また、被告代理人の太田三夫弁護士は、虚言を弄して被告を偽証に誘い、原告から失言を引き出そうとしました。
 このことに関する法的な判断は、原告が「訴状」及び「訴え変更の申立書」で申し立てた損害賠償請求に関する法的判断とは別個に行われるものと思われます。裁判長におかれましては、被告の偽証に関して、厳正なる刑罰を課するよう強く希望いたします。また、被告代理人の尋問態度に関しては、厳重な警告が発せられてしかるべきであると考えます。
(106p)
と結んだ。

 しかし田口紀子裁判長はその「判決文」(平成21年2月27日)において、被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない。よって、原告の主張は理由がない(25p)と、亀井志乃の希望を退けてしまった。太田三夫弁護士の虚言については、何の言及もなかった。
 このような判決を下した以上、田口紀子裁判長は当然、亀井志乃が「寺嶋弘道被告における虚偽の陳述」と主張するために挙げた証拠について、だがそれは
「被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠」となりえないと判断した、その理由を説明しなければならなかったはずである。
 一定の主張を裏づけるために提出された証拠物に関して、裁判官が証拠物としての価値判断を下す。それも判決という行為の一環であるはずだが、田口紀子裁判長はそれをしなかった。
 要するに日本の裁判においては、裁判長が
「虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない」と断定し、あるいは何も言及しなければ、「陳述書」や法廷における虚言は全て不問に付されてしまうのである。
 
 もっとも、田口紀子という裁判官は、証拠物として提出された文書を正確に読もうとせず、文書に書いてないことを読み取ってしまう特技を持ち、常識はそれを過った読みと見なし、また、その読みの結果を「事実を偽った虚構」と見なすわけだが、田口紀子裁判官はそういう自分には限りなく寛大であり、それ故寺嶋弘道被告についても、太田三夫弁護士についても極めて寛大だったのかもしれない。
 

 

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ここも参考になります

投稿: 鳩山 | 2009年11月13日 (金) 12時22分

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