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判決とテロル(12)

権力は知に成り変わる(Power can become knowledge.)

○心的過程の行為文
 これまで何回か言及したR・ホッジとG・クレスの『イデオロギーとしての言語』(1993)の理論は、英文の分析を中心としており、そのまま機械的に日本文にあてはめることはできない。だが、その着想と手法からは学ぶべき点が多い。
 たとえば二人は、”They knew history.”(彼等は歴史を知った)という例文を挙げて、これは心的過程(mental-process)を叙した、処置文と見なした。「処置文」については、「判決とテロル(8)」で、

A 行為文 ①処置文  中島がボールを打つ
      ②非処置文 中島が走る
B 定義文 ③命題文  中島は野球選手だ
      ④特性文  中島は早い

という図表を挙げて説明しておいた。「中島がボールを打つ」という文の場合で言えば、「中島」という行為者(actor)と、行為過程(verbal process)と、被行為物(affected entity)という3つの項で構成されるわけである。
 ただし、これは中島の外的な行為を述べた文であり、被行為物である「ボール」は中島の行為(打つ)を受けて外野に飛んで行くわけであるが、「彼等は歴史を知った」の場合、「(歴史を)知る」という内面的な行為を述べており、「歴史」という被行為物は、「知る」という行為の作用を受けて、外的な変化を蒙るわけではない。もし「変化」があり得るとすれば、むしろ「彼等」のほうが、歴史を知ることによって内的に変わることになるだろう。その意味で、行為過程(verbal process)が心的過程(mental-process)であるような「処置文」の場合、行為者が行為対象から一種のリアクションを蒙ることも起こりえるのである。

○”see”と”look”の違い
 このことを一つ確認して、次に
 

、He saw the bird. (処置文)
、He looked at the bird. (非処置文)

の二つを比べてみよう。
 私が習った英語の知識によれば、〈look (looked) atのほうが、see(saw)よりも外界に対してより積極的、能動的だ〉ということになっている。宮内秀雄とR・C・ゴリスの訳編『スコット フォーマンス 英語類語辞典』(秀文インターナショナル、1977年)の説明はこうであった。
《引用》
 
lookと look atも、「見る」という意味であるが、seeとは少し意味がちがう。looklook atは、意識してどこかに目を向ける、という意味であるが、seeは、自然に何かが目にはいる、という意味である。したがって、look(目を向ける)しようとしないでもsee(目にはいる)することもできるし、lookしてもseeしないということも可能である。

 lookとseeは、ほとんど同じ意味である。lookまたは look atは、目を使って何かを知る、という意味である。lookすると、何かに視線を合わせる。seeは、何かが目にはいるという意味である。「映画を見る」ということをsee a movieという。
When you are looking at one thing, you are also able to see what is on both sides of it. 何か1つのものを見ていると、その両わきにあるものも目にはいる。
You can see daylight without looking at it. 日光は注意をして見なくても、ひとりでに見える。
She looked at the sky and saw millions of stars. 彼女は空を見上げて無数の星を見た。

 日本で英語を学んだ人間にはこれが常識だと思うのだが、ホッジとクレスは、seeを用いたの例文を「処置文」と見なし、look atを用いたの例文のほうを「非処置文」とみなしたのである。何故だろうか。それに対する二人の説明はこんなふうであった。
 〈
の例文は、知覚の受動的な過程を表現している。なぜなら、鳥の像(image)が彼の網膜に刺激を与え、それ故彼は、否応なしにそれを見ざるをえなかったからである。それに対して、のような非処置文は「見る」という行為事実そのものに注意を向ける傾向を持ち、そのため「見る」行為の原因(鳥の像が網膜を刺激する)への注意がぼやけて(blur)しまう。その意味でlookは能動的であると同時に受動的でもあり、言わば自己原因的な行為(a self-caused action)なのだ〉(亀井意訳)と。
 
 要するにlookは、外界からの刺激に受動的に反応するseeに比べて、「見る」ことへのモチーフが強い。この心的な能動性を捉えて、彼等は
の例文を「非処置文」と呼んだわけだが、続けて次のようにその特徴を強調していた。〈非処置文を通して表現される知覚と、(言語学で言う)被動格的(patientive)な処置文を通して表現される知覚を比べてみるならば、前者のほうが後者よりも遙かに強く、その人間の知覚過程が能動的で意図的(active and purposeful)であることが分かる。それだけでなく、被動格的(patientive)な処置文の場合、知覚する人間のリアクションは知覚対象に基づくところが大きいが、非処置文の場合はそうではない。〉(亀井意訳)。
 この「(言語学で言う)被動格的(patientive)な処置文」は聞き慣れない言葉であるが、ホッジとクレスは”patientive”について、「知覚者は受動的であり、彼の行為はリアクションである(the perceiver is passive, his action is reaction)」と説明しており、
の例文を指す。つまり、の例文における「見る(see)」行為は、鳥の像が網膜に刺激を与えるという原因(cause)に関しては受身でしかないのだが、の例文における「見る(look at)」行為は、その人間の側に原因(cause)を持つところの、self-caused actionにほかならない、というわけである。

○思い当たる平原副館長の「陳述書」
 ちょっとややこしい理屈であるが、なるほどなあ。思い当たるフシがないわけでもない。北海道立文学館の平原一良副館長が「陳述書」(日付は2008年4月8日)の中で、こんな書き方をしていたからである。
《引用》
 
夏が近づくころ(6月1日に私は、学芸副館長から副館長・専務理事へと発令されました)から、どうも学芸スタッフの間に当初とは異なる空気が流れていることに、私も気づきはじめました。別なスタッフから得た僅かな情報により、寺嶋氏と亀井志乃氏との間に何かしら溝のようなものが生まれつつあることを知りました。しかし、寺嶋氏と亀井志乃氏の年齢(50代、40代)に照らせば、それぞれが十分に大人であるはずですから、しばらくは静かに様子を見守ろうと私は考えました。そのうち、亀井氏は、寺嶋氏が席に居るときには、事務室に極力とどまらずに席を空けていることがたびたびであることに気づきました。(4p。下線は引用者)
 
 大変によく出来たお話で、たぶん平原副館長は、亀井志乃が寺嶋弘道学芸主幹を避けて、自分の席で仕事をしない、そんな我が儘な行為が目につくようになった。そういう印象を裁判官に与えようとしたのであろう。もしこの印象操作にうまく成功すれば、〈亀井志乃の席を業務課に移したのは
「緊急避難」だったのだ〉というあの主張も、リアリティを持つはずだからである。
 しかし、「判決とテロル(10)」で論証しておいたように、平原副館長が言う「緊急避難」云々は真っ赤な嘘だった。それと同様、彼はここでも嘘を吐いている。亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―3」で反論したように、もともと亀井志乃が自分の席に落ち着いていられない状況を作ったのは、平原一良学芸課長(当時)と寺嶋弘道学芸主幹だったのである。
 平成18年の4月14日(金)、亀井志乃は平原学芸副館長と寺嶋学芸主幹から会議室に呼ばれ、O司書とA学芸員の担当である「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」という事務分掌を手伝うように依頼された。つまり年度当初に担当が決まっていた「平成18年度 学芸部門事務分掌」(甲60号証)の他に、新たな仕事を依頼されたわけだが、亀井志乃はそれを引き受けた。そして結果的にはO司書とA学芸員と亀井志乃の3人が交替で閲覧室勤務に就くことになり、A学芸員がそのローテーション表を作り、事務室に貼って置いた。そんなわけで、もし平原学芸副館長(のち副館長)が亀井志乃に用事があり、亀井志乃が自席にいなかったとしても、そのローテーション表を見れば事情は直ぐに飲み込めたはずだ。
 だが、平原一良副館長は以上の経緯を全て伏せたまま、先のような嘘を得々と書いたのである。

○平原副館長の心的過程
 ただし、今回私が注目したいのは、下線を引いておいたような、平原副館長の文体のほうである。
 「私も気づきはじめました」「気づきました」。いずれも自分の心的過程に焦点を合わせた「非処置文」であり、――しかし最初の表現における「私も」は、何と並列する「も」なのか、さっぱり分からない――それだけ平原副館長は亀井志乃が自席で仕事をしているかどうか、能動的かつ意図的(active and purposeful)に関心を持ち続けていたことになるだろう。
 つまり、じいっ~と亀井志乃の仕事ぶりに注目していたわけだが、しかしこの記述全体が嘘で成り立っている。とするならば、この「私も気づきはじめました」「気づきました」は何を意味するだろうか。さし当たり、虚言の中にさえ滲み出てしまう、彼の深層心理と受け取っておくほかはないだろう。
 自分と寺嶋学芸主幹とが謀って、亀井志乃が自席で落ち着いて仕事を出来ない状況を作っておきながら、それを隠しておく。ごく普通に用事があって、「亀井さん、いない?」と事務室に入ってきたならば、――すなわち「処置文」で表現できる行動を取ったのならば――仮に亀井志乃が見えなかったとても、その事実から受けるリアクションは、「ああ、亀井さんは閲覧室勤務だったんだ」で済むはずである。それと共に、平原副館長はその単純明快なリアクションを通して、自分と寺嶋学芸主幹とが彼女に新たな仕事を割り当てた事実に思い当たったはずなのだが、彼はそれが出来なかった。そこで、亀井志乃のほうに問題があったかのような、思わせぶりな書き方をするしかなかったのであろう。

○平原副館長の虚言と寺嶋学芸主幹の虚言との不思議な暗合
 それともう一つ、
別なスタッフから得た僅かな情報により、寺嶋氏と亀井志乃氏との間に何かしら溝のようなものが生まれつつあることを知りましたについて言えば、平原一良副館長はなぜ「別なスタッフ」の名前を挙げることができなかったのか。
 これは裁判における証言であり、その証拠的価値を高めるには、可能なかぎり実名、日付を明記する必要がある。亀井志乃はそうしてきた。亀井志乃は道立文学館で働いている間、誰かに迷惑をかけたことはなく、また、迷惑をかけるようなことを書くはずがないという自信があったからであろう。
 
 他方、平原一良副館長の書き方は、そして寺嶋弘道学芸主幹の書き方も、こんな具合だった。
《引用》
 
しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏の在り方について「異義あり」の声の届く頻度が高くなりました。(「平原陳述書」よりの引用A、2p)。
 
ただ、学芸課内での分掌をめぐって、同氏に委ねた寄贈資料の開封整理作業や閲覧室番業務(ローテーションに従い複数で担当)に不満を覚えているようであるとの話は、一部学芸課員から耳にしていました(「平原陳述書」よりの引用B、3p)。
 
事情を知る女性職員からも見聞した限りの情報を得るべく努めました。誰もが寺嶋氏に同情的でした(「平原陳述書」よりの引用C、5p)。
 
逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に遺したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした(「寺嶋陳述書」よりの引用E、5p)。
 
前年度までの仕事が主に別室で進められていたという習慣もあってのことか、原告は18年4月以降も事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく、そのため職員との会話の機会もまばらであったという日常でしたが、やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました(「寺嶋陳述書」よりの引用D、6p)

 まるで相談しながら作文したかのごとく、二人とも思わせぶりな口調で、いかに亀井志乃が仕事仲間の不評を買っていたかを証言したわけが、「平原陳述書」よりの引用Aは、平成17年度における「常設展示リニューアル」作業に関することだった。
 だが、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―3」で証拠を挙げて反論したように、リニューアルの責任者だった平原一良学芸副館長の展示案作成が遅れたため、リニューアル作業は10月にずれ込んでしまった。彼は
「リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろ」などと言っていたが、実際には、皆が手をつかねて平原学芸副館長の指示を待っている状態だったのである(「北海道文学館のたくらみ(35)」)。
 そしてこの平成17年の
「夏ごろ、亀井志乃は、常設展示の「見直し部会」の委員から送られてくる展示案を、詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表に取りまとめて、平原学芸副館長に渡したり、展示コーナーのキャプションを日本語・英語の二ヵ国語で表記することを思い立ち、提案をして、平原学芸副館長の了解のもと、自発的に英語の下書きに取りかかっていた(ただし、分野別年表も英文キャプションの原稿も、展示に生かされることはなかった)
 また、「平原陳述書」よりの引用Bは、これもまた平成17年度に関する証言なのであるが、先ほど書いたように、亀井志乃が閲覧室勤務に就くようになったのは、平成18年の4月からだった。平成17年度、自分のかかわらない勤務について、亀井志乃が「不満」を口にするはずがない。このことも、彼女は「準備書面(Ⅱ)―3」で指摘している。
 「平原陳述」よりの引用Cについては、その証言が如何にいかがわしいか、「判決とテロル(10)」を読んでもらいたい。
 
 「寺嶋陳述書」よりの引用Dについて言えば、まるで根拠がないことを、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―2」によって暴かれてしまった。ばかりでなく、寺嶋弘道被告は田口紀子裁判長から、亀井志乃に対する非難の声を聞いたのは何日、どういう状況であったかを尋問されて、しどろもどろ、まともに答えることが出来なかった(「北海道文学館のたくらみ(52)」)。
 寺嶋弘道学芸主幹が道立文学館の勤務となったのは、平成18年の4月からだった。その人間が、前年度の亀井志乃の業務内容や業務態度を見ていたはずはないのだが、
前年度までの仕事が主に別室で進められていた」などと、見てきたような嘘を吐いていた。亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―2」で証拠を挙げて反論したが、それにしても平原一良副館長の嘘と寺嶋弘道学芸主幹の嘘は、薄気味悪くなるほど符節が合っている。ひょっとしたら寺嶋弘道学芸主幹は、平原副館長から「嘘」の材料を提供してもらったのかもしれない。

○「力は知に成り変わる」
 さて、ここで、ホッジとクレスの仕事の啓発的な例を、もう一つ挙げるならば、彼等は、

 、I feel well.(私は調子がいいと感じている)
 
、You feel ill/well.(あなたは調子が悪い/調子がいい、と感じている)

について、こんなことを指摘していた。
 話し手が「気分がいい」とか「体調がいい」とかと自分の心的過程を語る場合、――つまり主語が一人称の非処置文の場合は――
の言い方が成立する。だが、話し相手を(二人称の)主語として発話する場合は、一般に、”You look ill/well.”(あなたは具合わるそうに/調子がよさそうに見える)と言うが、のような言い方はしない。なぜなら、私は相手の顔色や様子を知覚することはできるが、相手自身の心的過程を直接に知覚することはできないからである。
 
 これは私たちの会話の常識であるが、ただしホッジとクレスによれば、ある種の社会的権力を誇示したがる人間は、この約束を踏みにじってしまう。たとえば海兵隊の上級軍曹が、仮病の疑いがある水兵に向かって、「お前は完全に調子がいい。さあ、とっとと急いで、パレード・グランドへ向かえ(You feel perfectly well, get on the ―― parade-ground.)」と言ったとしよう。この時、上級軍曹は「怠け者の心理なんて、とっくにお見通しさ」といった権力者的立場で、水兵の心的過程に踏み込み、言わば心的過程を支配しようとしたわけである。
 そこからホッジとクレスは次のような格言を引き出してきた。「権力は知識となることができる(Power can become knowledge.)」と。これを簡潔に言えば、「力は知に成り変わる」というところだろう。

○他者の心的過程の表現について
 では、三人称の代名詞を主語とする「彼は調子が悪い/調子がいい、と感じていた」の場合はどうであろうか。これは三人称の「客観」小説で普通に用いられる表現であるが、この時その作者はいわゆる「全知の語り手」の立場に立っていたことになる。
 「全知の語り手」とは、作中人物の内面(心的過程)に自由に立ち入り、心理や意識の流れを描き得る語り手のことで、その意味では作中人物に対して権力者の立場に立つ。なぜなら、こ場合の作者=創造主は、作中人物の運命や内面を任意に決めることができる、絶対者の特権を行使していることになるからである。
 
 では、この世に生きている生身の人間が、現実に生きている/生きていた他人に対して、そのような立場に立つことは許されるだろうか。全く許されないわけではないが、もし敢えてそれを行うのならば、自分がその第三者の内面(心的過程)について語り得る根拠、つまり情報の由来や、情報の信憑性を明らかにする必要がある。新聞や週刊誌の記事などには時々、その種の記事が載るが、情報の由来や信憑性に関して、当事者や読者からその確実性を問われることは避けられない。また、避けてはならないだろう。この確実性に関して、証拠をもって争うことができないのならば、第三者の内面(心的過程)に踏み込んだ断定的表現をすべきではないのである。

○寺嶋弘道学芸主幹は「全知の語り手」?
 このことを押さえて、今度は寺嶋弘道学芸主幹の発話・言表に目を向けてみよう。亀井志乃は平成20年3月5日付の「準備書面」で、平成18年10月18日の出来事を次のように記述した。
《引用》

(11-1)平成18年10月28日(土曜日)
(a)被害の事実(甲17号証を参照のこと)
 原告が朝から1人で閲覧室の業務を行っていると、午前11時頃、被告が閲覧室に来て印刷作業をし、帰り際に、原告に対して、「文学碑の仕事はどうなっているの」と聞いた。文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、原告はデータの更新を行っていなかった。原告は「いいえ、特に何もやっていませんでした」と答えた。すると、被告は、「やってないって、どういうこと。文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの? もう、雪降っちゃうよ」と、原告を急き立てた。更に被告は、「5月2日の話し合いで、原告が文学碑のデータベースをより充実させ、問題点があれば見直しをはかり、さらに、原告が碑の写真を撮ってつけ加えてゆく作業をすることに決まった」、「これらは、原告が主体となって執り行うべき業務である。それを現在まで行わなかったのは、原告のサボタージュに当たる」という二点を挙げて、原告を責めた。
 しかし、5月2日の話題((2)の項参照)はケータイ・フォトコンテスト、または文学碑写真の公募という点に終始し、被告が言うような決定や申し合わせはなされていなかった。そこで原告は、「そのようなことは決まっていません」と反論したが、被告はあくまで「決まっていた」と主張し、「どうするの。理事長も館長も、あんたがやるって思ってるよ」と言った。 それを聞いて原告は、おそらく誤った情報が理事長や館長に伝わっているのだろうと思い、「分りました。では、私が理事長と館長にご説明します」と言った。被告は慌てて「なぜ、あんたが理事長や館長に説明しなきゃなんないの」と言い、原告の行動を阻止した
(23~24p。太字は引用者)

 田口紀子裁判長がこの文章を、「判決文」の中でどんなふうにねじ曲げてしまったか、「判決とテロル(8)」及び「同(9)」で指摘しておいた。今回、再びこの箇所を引用したのは、もちろん前回の指摘を蒸し返すためではなく、寺嶋弘道学芸主事の発言の太字の箇所に注目してもらいたかったからにほかならない。

 話を分かりやすくするため、ここでは、まず「どうするの。理事長も館長も、あんたがやるって思ってるよ」という発話のほうを先に取り上げてみよう。彼は神谷忠孝理事長や毛利正彦館長(当時)の心的過程を十二分に知悉している立場で発言しており、言わば「全知の語り手」の立場を誇示したわけだが、それならばそう断言できるだけの根拠を持っていたはずである。
 ところが寺嶋弘道学芸主幹は、亀井志乃が
「分りました。では、私が理事長と館長にご説明します」と言ったところ、慌てて亀井志乃の行動を阻んだ。
 もし彼が言うとおりであったならば、亀井志乃が神谷理事長や毛利館長に会うことを阻む必要はなかった。なぜなら、もし神谷理事長なり毛利館長なりが、亀井志乃に、〈確かに私は、亀井志乃研究員が文学碑の写真を撮り、文学碑データベースを充実させることになった、と理解している〉という意味の返事をするならば、寺嶋弘道学芸主幹の主張が客観的に裏づけられたことになるからである。その意味では、むしろ彼のほうが、積極的に亀井志乃が神谷理事長なり毛利館長なりと会うことを求めるべきであった。
 にもかかわらず、寺嶋弘道学芸主幹は、亀井志乃が神谷理事長や毛利館長に説明することを妨げてしまった。結局これは、寺嶋弘道学芸主幹が自分の嘘のバレルことを恐れたからだ、と見るほかはないであろう。
 
○寺嶋学芸主幹の恐るべき「知」
 北海道教育委員会職員・寺嶋弘道学芸主幹という人物は、こんなふうに、まるで「全知の語り手」のごとく、平然と神谷理事長や毛利館長の心的過程にまで踏み込んで行く、というより、平気で虚構してしまう人物であり、先ほど引用した
(亀井志乃は)前年度までの仕事が主に別室で進められていた」云々のごとく、自分が道立文学館に着任する以前の亀井志乃の仕事についても、まるで見てきたような嘘を吐く。
 さらには
(亀井志乃の)前年度までの業務は、収蔵資料の解読翻刻、収蔵資料の整理登録作業、常設展の更新、文学碑データベースの作成などであり、整理業務、研究業務が中心でした。すなわち、業務上取り扱う資料のほとんどは当館の所蔵資料であり、その業務も収蔵庫や作業室で、一人で黙々と処理すればよい作業が大部分であったということです。」寺嶋陳述書、4p)。18年度に担当した『二組のデュオ展』などの展覧会事業の実務経験はまったくなく、『文学碑データベース』の写真公募のようなイベント性を伴う普及事業の経験もありませんでした。したがって出張のように渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり、そしてそれらのために内部調整を進めながら事務事業を遂行するということに理解が及んでいなかったのです(同前、4~5p)などと、自分が見聞したわけではない平成17年度の事柄について嘘を重ね、そこから一転して、さらには、そのようにして組織で仕事を進めるという意識も薄かったのではないかと思います。当館への勤務以前の就業経験の不足を考慮したとしても、連携意識や協調性に乏しく組織社会における適性を欠くものでした。(同前、5p)と、亀井志乃の内面に踏み込み、性格批評を行う。
 
 こうした傲慢さは止まることを知らず、平成18年度の亀井志乃の業績についても、
まず第一に第(8)項の文学資料の解読・翻刻業務が原告の中心的な任務であったにもかかわらず、平成18年度は当館に対し業務報告の一つとしてなされていませんでした。」と、名誉毀損的な嘘を平然と述べ立てて、そこからいきなり「文学館業務に対する原告の姿勢、なかんずく組織への貢献心を疑わざるをえません(寺嶋陳述書、3p)と、亀井志乃の意識や心事に関して否定的な極論を引き出してくる。
 亀井志乃はこれに対して、証拠を挙げて逐一反論をし、
この強引な理屈は、他人の実績には目もくれず、組織に対する忠誠心や貢献度だけを勤務評定的にチェックする、いかにも中間管理職的な論理というほかはありませんが、被告が好んで振り回す『組織』論や『組織人』の正体がこれであること、それをしっかりと認識しておきたいと思います(「準備書面(Ⅱ)―2」8p)と、寺嶋弘道学芸主幹の言説の正体を明らかにしておいた。
 
 この人物の、自分の「知」のあり方に関する反省的意識はどうなっているのだろうか。

○「権力が知識の占有を主張した」具体例
 ともあれこうして見ると、
やってないって、どういうこと。文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの? もう、雪降っちゃうよ」という寺嶋弘道学芸主幹の発話が、あの海兵隊の上級軍曹の、「お前は完全に調子がいい。さあ、とっとと急いで、パレード・グランドへ向かえ(You feel perfectly well, get on the ―― parade-ground.)」と同じ性質のものだったことが分かるだろう。
 彼等のような権力主義的な人間には、「”You look ill/well.”(あなたは具合わるそうに/調子がよさそうに見える)」と、相手の立場や事情に目を向け、これを配慮する意識が欠けているのである。

 このことは、10月28日の出来事に関する亀井志乃の記述の全文を見れば、更に一そう明らかだろう。次に紹介するのは、先ほど引用した「(11-1)平成18年10月28日(土曜日)」に続く文章である。
《引用》

(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉
(a)被害の事実(甲17号証を参照のこと)
 (11-1)の項でのやりとりのあと、原告は、一対一の押し問答に終始すべきではないと思い、「もう昼にもなるので、事務室へ行ってお話をうかがいましょう」とカウンターを立った。被告も続いてすぐに事務室に上がった。
 そして昼食後、原告は、改めて被告の言い分を聞こうとした。ところが被告は、「もう二度も話したから、その通りのことだ」と言い、なぜか主張の詳細を事務室では口にしようとしなかった。「要するに認識の相違だ」とも言ったが、原告の「文学碑に関してそのような仕事は決まっていなかった」という主張は、依然、認められないとのことだった
 原告は責任ある立場の職員に立ち会ってもらいながら、これまでの経緯を明らかにしようと考え、「では、その問題について、副館長(先の学芸副館長)も業務課長も揃ったところで、説明させていただきます」と言った。ところが被告は、「いいかい。たかが、だよ。たかがデータベースの問題でしょう。それを、なんであんたが、副館長や業務課長に説明しなきゃなんないのと、今度は一転、データベース問題の重要さそのものを否定した。そして命令口調で、「説明したいんなら、まず、私に説明しなさい。」、「何かやるときには、まず、私に言いなさい」と言い、原告が「二人の間に認識の違いがあるというのだから、そのことについて、他の方に意見をうかがいたいのだ」と言うと、「説明して分ってもらいたいなら、わたしにまず説明しなさい。私がこの学芸班を管理しているんだ。そうした決まりを守らないなら、組織の中でやっていけないよと、自分の立場を押しつけた
(と言った
 原告は、自分の雇用に関わる問題にまで発展しかねないと思ったので、机の中に入れていた録音機を取り出し、「話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい」と言った。すると被告は、今度は話を続けることなく、急に「あんたひどいね。ひどい」、「あんた、普通じゃない」と、あたかも原告が普通ではない(アブノーマル)人間であるかのような言葉を発した
(録音機の前で発言することを拒否したことから、。原告は、被告に、「私に話したいことがあるなら、記録を取られるからといって、なぜ、話さないのか。誰がいたとしても、一対一の時のように、はっきり言えばいいではないか」と言った。そして、「私は、この問題について、これからも追求してゆくつもりだ。そのことは、自分自身が(自分の言葉として)これ(録音機)に記録しましたから」と言い(と答えて)午後の勤務のために事務室を出た(25~26p。下線、太字、青文字は引用者)

 田口紀子裁判長はその「判決文」の中で、下線の部分を削り、また、削った一部を( )内の青文字に書き換えてしまったが、この作為が何を意味するか。この問題は後でふれることにして、取りあえずここでは太字の箇所に注目してもらいたい。

 一読して分かるように、寺嶋弘道学芸主幹は管理者意識、権力者意識をむき出しにして、自分の主張に固執して、亀井志乃が自分の記憶に基づいて事実関係を明らかにしようとしても、耳を貸そうとしない。やむを得ず亀井志乃は、平原副館長や川崎業務課長の立ち会いのもとで、そもそもの発端だった5月2日の話し合いの内容を説明しようとしたわけだが、寺嶋弘道学芸主幹はそれもまた阻んでしまった。つまり、亀井志乃の意見を絶対に認めず、管理者意識むき出しの恫喝をもって自分の主張を「事実」として押し通そうとしたわけで、これは海兵隊の上級軍曹が水兵をパレード・グランドへ駆り立てた程度の、生やさしい行為ではない。権力者が知識の占有を主張するに等しい、横暴な行為だったのである。

○寺嶋弘道学芸主幹の悪あがき
 ところが滑稽なことに、あれだけ居丈高だった寺嶋弘道学芸主幹は、亀井志乃が机から録音機を取り出し、
話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい」と言った途端、何も言えなくなって、あんたひどいね。ひどい」「あんた、普通じゃない」などと、被害者めいた物言いで、亀井志乃の性格批判を始めた。
 もともとの発端である5月2日の話し合いには、平原学芸副館長(当時)も同席していた。もし寺嶋学芸主幹が自分の主張に自信を持っていたならば、亀井志乃が
「では、その問題について、副館長(先の学芸副館長)も業務課長も揃ったところで、説明させていただきます」と言った時は、それこそ「物怪の幸い」とばかりに、平原副館長の立ち会いを求め、自分の記憶が正しいことを確認してもらうことができたはずである。ところが彼そうせずに、亀井志乃の行動を阻んでしまった。
 結局彼は、自分が言うことに自信が持てず、録音機を前にして、完全にビビッてしまったのであろう。
 
 録音機を前にしての、この態度や、
あんたひどいね。ひどい」「あんた、普通じゃない」発言の問題は、寺嶋弘道被告の代理人、太田三夫弁護士にとって気になるところだったらしい。
 平成20年10月31日の本人尋問の際、太田弁護士は亀井志乃に対して、
あなた、28日の日にはテープレコーダーを持ってましたね。」と質問し、亀井志乃の「はい」という返事を得て、テープレコーダーは、いつごろからあなたの机の中に入ってましたか」「これは何のために用意してあったものですか」と尋問を続けた(原告調書、28p)。おそらく太田弁護士としては、亀井志乃から〈嫌がらせの証拠を残そうとして用意したのだ〉という意味の発言を引き出し、寺嶋弘道被告が「あんたひどいね。ひどい」「あんた、普通じゃない」と言わざるを得なかった裏づけとしたかったのであろう。
 ところが、亀井志乃の
「テープレコーダー自体は前年度からです」「それは、インタビューのときに必要になることもありますし、それから、音声メモのことで必要になることもあります」という返事を聞いて、これ以上の追求は無駄と判断したらしく、尋問の話題を変えてしまった。
 
 だが、このことについては太田弁護士も、寺嶋弘道被告もよほど未練があったのだろう。被告側の最終準備書面たる「準備書面(4)」(平成20年12月16日)で、こんなことを書いていた。
《引用》
 
8. 平成18年10月28日の被告の言動
 (1)この日の原告の一連の言動は、正に原告が財団の職員であり、原告の事実上の上司である被告であることを無視し、原告自身が納得しない限り被告らから命じられても原告の業務ではないという態度そのものである。
 (2)それを再度目の当たりにした被告は、被告が原告の直属の事実上の上司であることを説明し、まずは被告に説明することを求めたにすぎない。
 (3)そうしたところ、あろうことか原告は被告との業務上のやり取りをテープレコーダーに録音するという考えられない行動に及んだのである。
 (4)この原告の行動を被告が発言したように「あんたひどいね。ひどい」「あんた普通じゃない」と感じない者がいるであろうか。
 誰が見ても原告の行動は上司と部下との間で業務上の問題点について話合われる際の通常の行動でないことは明白である。
 (5)従って、被告の発言は、原告の言動の様に日常生活の中において通常取られることのない言動を取られた者の反応としては極めて自然のものであり、何ら違法性はない
(6~7p)
 
 私は(3)の表現を見て、プッ! 笑ってしまった。
あろうことか」と来ましたネ、……しかし、亀井志乃は「これまでの経緯を明らかにしよう」と考え、平原副館長や川崎業務課長の立ち会いを求めようとしたところ、寺嶋弘道学芸主幹に阻まれてしまった。やむをえず、次善の策として、たまたま業務用に机の中に入れてあったテープレコーダーを取り出して、話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい」と言っただけであり、ごく普通にあり得る行動じゃないか。
 ところが「準備書面(4)」の段階になっても、寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士はまだ取り乱していたのである。
 
 その証拠に、(1)の文章は文辞が整っていない。
正に」という副詞はどこにかかっているのか。被告ら」とは、寺嶋弘道被告の他、誰を指しているのか。この文章を書いた人間は太田三夫弁護士かもしれないが、彼は亀井志乃の「(11-1)平成18年10月28日(土曜日)」「(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉」のどこから、原告が財団の職員であり、原告の事実上の上司である被告であることを無視し」た、という結論を引き出したのか。
 寺嶋弘道被告が亀井志乃の「事実上の上司」だったという主張は、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」によって覆されてしまい、それに対して寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士は、再反論を放棄してしまった。
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」)と。
 再反論を放棄しておきながら、またぞろ「事実上の上司」を持ち出すのは、何とも見苦しいかぎりであるが
「(11-1)平成18年10月28日(土曜日)」「(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉」を見れば分かるように、亀井志乃は寺嶋弘道学芸主幹を無視などしていない。きちんと話し合おうとしているのである。
 また、
原告自身が納得しない限り被告らから命じられても原告の業務ではない」という文言について言えば、文章として稚拙であるばかりでなく、彼は何を根拠にして、亀井志乃の対応を、原告自身が納得しない限り被告らから命じられても原告の業務ではないという態度そのもの」と断言したのか。さっぱり要領を得ない。

○田口紀子裁判長の「為にする」書き換え
 では、田口紀子裁判長はこれら一連のやり取りをどんなふうに捌き、裁いたのであろうか。
 それを知るためには、もう一度
「(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉」の引用にもどってもらいたい。田口紀子裁判長は、私が下線を引いた箇所を、その「判決文」から削ってしまった。つまり、亀井志乃が「責任ある立場の職員に立ち会ってもらいながら、これまでの経緯を明らかにしようと考え二人の間に認識の違いがあるというのだから、そのことについて、他の方に意見をうかがいたいのだ」と言うなど、常識的かつ理性的に振る舞った事実を、田口紀子裁判長は判断の材料から削除してしまったのである。これは、寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士がその「準備書面(4)」で亀井志乃を非常識な人間として描き出そうとしたことと、相呼応する作為と言えるだろう。

 また、田口紀子裁判長は、亀井志乃の「あたかも原告が普通ではない(アブノーマル)人間であるかのような言葉を発した」という記述を削除して、録音機の前で発言することを拒否したことから、」と書き換えてしまった。
 これは、亀井志乃が「準備書面」(平成20年3月5日付)の「(b)違法性」の中で、
被告は、原告が被告の主張を正確に記録するために録音機を出したところ、原告の性格を誹謗する言葉を吐きかけた。これは原告の名誉を毀損したことにより『民法』第710条に該当する、人格権侵害の違法行為である」と指摘した箇所であり、多分被告にとっては痛い指摘だった。おそらくそのために、あろうことか原告は被告との業務上のやり取りをテープレコーダーに録音するという考えられない行動に及んだのである。この原告の行動を被告が発言したように、『あんたひどいね。ひどい』『あんた普通じゃない』と感じない者がいるであろうか。」と、言わば“必死こいて”否定にこれ努めざるをえなかったのである。
 その意味で、亀井志乃の
「あたかも原告が普通ではない(アブノーマル)人間であるかのような言葉を発した」という記述は、まさにこの裁判の急所の一つだったわけだが、田口紀子裁判長はそれを削り、録音機の前で発言することを拒否したことから、」と書き換えてしまった。為にする書き換え、と言われても仕方がないところだろう。
 
○田口紀子裁判長の権力主義
 そんなわけで、もう大方の予想はついていると思うが、
「(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉」の出来事に関する田口紀子裁判長の判決は以下のようであった。(11-1)平成18年10月28日(土曜日)」に関する判決については、「判決とテロル(9)」で分析しておいた。)
《引用》
 
さらに、原告は、平成18年10月28日午後の被告の言動につき、原告が原告の名誉を守ろうとする行為を妨げ、また、原告の性格を誹謗する言葉を吐きかけて、原告の名誉を毀損し、人格権を侵害した旨、また、被告は、原告の使用者ではないにもかかわらず原告を自らの部下の立場に置くように強要し、将来の雇用に関する不安をあおるような脅迫行為を行った旨主張する。しかしながら、運用規程によって、被告が原告の上司の立場にあったことは前記したとおりであり、同日の被告の言動が、上司としての許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできないし、故意に原告を侮辱し、原告の名誉感情を毀損したものとまで認めることはできないから、同日における被告の言動が不法行為を構成する違法な行為と認めることはできない(22p。太字、下線は引用者)

 田口紀子裁判長の「被告が原告の上司の立場にあった」という断定は、田口紀子裁判長の虚構でしかない。これは何回も指摘して来たが、肝心なところなので、もう一度指摘して置こう。原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された(「判決文」3p)という田口紀子裁判長の判断は、何の裏づけも持たないのである。
 亀井志乃は、「寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃の事実上の上司だった」という寺嶋弘道被告の主張に対して、「準備書面(Ⅱ)―1」でその根拠を問い、彼女自身の「陳述書」(平成20年8月11日)と、平成20年10月31日における寺嶋弘道被告の尋問で、彼の主張を覆し、「最終準備書面」(平成20年12月12日)で念を押しておいた。だが、田口紀子裁判長は亀井志乃の論証、主張をいっさい無視、黙殺して、自分の虚構を押し通してしまった。これは、「権力は知識となることができる(Power can become knowledge.)」の最悪な事例と言えるだろう。

 しかも田口紀子裁判長は、自分が作り出した虚構の概念を前提として、寺嶋弘道被告の全ての言動を演繹的に解釈し、その概念の中に回収して、問わるべき罪を免責してやった。被告が原告の上司の立場にあったことは前記したとおりであり、同日の被告の言動が、上司としての許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできないし、故意に原告を侮辱し、原告の名誉感情を毀損したものとまで認めることはできない。」と。
 田口紀子裁判長は、この箇所の「故意に……したとまで認めることはできない」だけではなく、それ以外の箇所でも、しばしば「意図をもって……したとまで認めることはできない」という言い方をしていた。だが田口紀子裁判長は、どのような信憑性の高い情報や証拠に基づいて、寺嶋弘道被告の心的過程を知ったのか、その点については一度も明確に説明していない。
 田口紀子裁判長は、その説明不在の「意図」「故意」をもって寺嶋弘道被告を免責してきた。そのことは、
故意に原告を侮辱し、原告の名誉感情を毀損したものとまで認めることはできない。」という文言から、故意に」という言葉を抜いてみれば直ちに明らかだろう。この「故意に」を取ってしまえば、原告を侮辱し、原告の名誉感情を毀損したものとまで認めることはできない。」という文章となるわけだが、何故田口紀子裁判長はそのように判断したのか。その理由を明らかにするためには、直接に亀井志乃の(被告は)原告を侮辱し、原告の名誉感情を毀損した」という主張を取り上げて、証拠を吟味し、法的な判断を下さなければならなかったはずである。
 しかし田口紀子裁判長はただの一度も亀井志乃が挙げる証拠を吟味し、亀井志乃が指摘する寺嶋弘道被告の違法性について法律論的に対応することはしなかった。その意味で、田口紀子裁判長が乱発する「故意に」や「意図的」は、亀井志乃の主張について法律論的に対応したり、証拠を吟味したりすることを回避し、回避しながら寺嶋弘道被告の言動を免責するための、目くらまし言葉であり、まやかし言葉なのである。

 田口紀子裁判長は、亀井志乃のような素人の論証、主張は取り上げるに値しない、と考えたのであろうか。
 
 どうやらこの疑問は当たっているらしい。なぜなら、先ほども指摘したように、亀井志乃は
「すると被告は、今度は話を続けることなく、急に『あんたひどいね。ひどい』、『あんた、普通じゃない』と、あたかも原告が普通ではない(アブノーマル)人間であるかのような言葉を発した」という事実を踏まえて、被告は、原告が被告の主張を正確に記録するために録音機を出したところ、原告の性格を誹謗する言葉を吐きかけた。これは原告の名誉を毀損したことにより「民法」第710条に該当する、人格権侵害の違法行為である」と、寺嶋弘道被告の違法性を指摘したわけだが、多分田口紀子裁判長はその指摘に関する法的判断を避けるために、亀井志乃の記述を書き換えてしまったからである。
 それだけでなく、田口紀子裁判長はその「判決文」を通じて、自分の判断が如何なる法に照らして行われたか、または、如何なる法適用の前例(判例)を参照したか、一度も明らかにしなかった。つまり、自分の法文解釈を通して、亀井志乃の法的主張の是非や、亀井志乃の法理解の適切/不適切を明らかにする、そういう手続きを踏むことをしなかったのである。

○田口紀子裁判長の文章力
 それにしても田口紀子裁判長の文章はちぐはぐで、どうも分かりにくい。先ほど引用した「判決文」の太字の箇所に注目してもらいたい。
原告が原告の名誉を守ろうとする行為を妨げ」は、少なくとも田口紀子裁判長の判決文自体の文脈に即して読む限り、「被告が原告の名誉を守ろうとする行為を妨げ」となるべきではないか。
 また、
原告を自らの部下の立場に置くように強要し」の場合、「自ら」が亀井志乃を指すのか、それとも寺嶋弘道被告を指すのか、よく分からない。「原告が自らを部下の立場に置くように強要し」という意味にも、「原告を自らの部下の立場に置こうと強制的な態度を取り」という意味にも取ることができるからである。
 
 なぜこんなに舌足らずで、無様な文章を書いてしまったのか。実は、亀井志乃が、
「(11-2)平成18年10月28日(土曜日)〈同日〉」に挙げた事実に関して、寺嶋弘道被告の違法性を次のように指摘していたからである。
《引用》

イ、原告は副館長や業務課長の立ち会いの下で事実確認を行い、サボタージュといういわれのない名誉毀損を正そうとしたが、被告はそれを妨げた。これは原告が自己の名誉を守ろうとする、極めて正当な権利に対する侵害であり、憲法が保障する基本的人権の実現を妨げる、人格権侵害の違法行為である。
ロ、北海道教育委員会の職員である被告は、財団の嘱託として働く一市民の原告に対して、あたかも自分が原告の管理者であるかのように主張した。
 すなわち、被告は、自分が公務員でありながら、同時に民間の財団法人の管理職に就いていることを原告が受け入れ、原告が自らを部下の立場に置くように強要した。これは「地方公務員法」38条及び「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第4条に反する、不正な身分関係強制の違法行為である。
ハ、北海道教育委員会の公務員である被告は、身分の不安定な原告の弱い立場につけこみ、被告自身が原告の使用者ではないにもかかわらず、将来の雇用に関する原告の不安を煽るような恫喝的な言葉を吐きかけた。これは被告が自己の身分を偽って原告に対して行った、「地方公務員法」第29条に該当する、悪質な脅迫行為であ
(太字、下線は引用者)

 要するに田口紀子裁判長は、亀井志乃の文章から4つのフレーズを、前後の文脈を無視して切り取り、しかもフレーズを2つずつ、出て来る順序を逆にして組み合わせた。そのため、先ほどのような舌足らずな表現になってしまったのである。
 なぜそんな姑息な作為を行ったのか。結局は亀井志乃が指摘した基本的人権の問題や、寺嶋弘道学芸主幹が北海道の公務員である事実と、「地方公務員法」違反の問題を回避して、寺嶋弘道被告の行為事実を全て
「上司としての許容限度」内に回収してしまうためであろう。

 太田三夫弁護士署名の文章にも、時々、ん? と首を傾げたくなるような言い回しが出て来るが、田口紀子裁判長の文章も以上の如し。言葉の意味は文脈によって変わる場合もあるのだが、田口紀子裁判長は自分の文章の文脈によって意味をコントロールすることができていない。嘘を書かれるのも困るが、理解に苦しむ文章を書かれるのも困る。日本の大学の法学部(法科大学院)は、卒業生が他人の文書を普通にちゃんと理解し、普通にちゃんとした文章を書くことができるように指導してもらいたい。

○田口紀子裁判官の恐るべき手口
 多分そういう問題とも関係することと思うが、これまで指摘してきた田口紀子裁判長の判決文を整理してみると、以下のように恐るべき特徴が現れてくる。
① 裁判官の権力によって虚構の〈事実〉を作り上げ、これを押しつける。
② 裁判官の権力によって作り出した虚構の〈事実〉を、原告・被告のいずれかの人間の行為に演繹的にあてはめ、または、原告・被告のいずれかの人間の行為を虚構の〈事実〉の枠組みに回収してしまう。
③ 「許容範囲」の基準を明らかにしない。
④ 原告・被告のいずれかの人間の「意図」を重視してみせながら、他方、その人間の行為事実を不問に付してしまう。しかも、どのような証拠に基づいて、その人間の心的過程を知ったのかについては、全く説明しない。
⑤ 原告・被告の主張に関しては、いずれか一方の人間の主張の要
(かなめ)となる事実を骨抜きにする形に書き換え、または無視、黙殺してしまう。
⑥ 自分の判断が如何なる法に照らして行われたか、または、如何なる法適用の前例(判例)を参照したかを明らかにしない。

 さて、このように抽象化した上で、自分を原告・被告のいずれかの立場に置いてみてもらいたい。更に、自分が裁判官のこのようなやり方のターゲットにされた場合を、想像してみてもらいたい。そうしてみるならば、この裁判官のやり方が、恐怖政治下の裁判におけるでっち上げ(frame up)の手口に通じていることに思い当たるだろう。

○理念と現実態との間で
 私は前回、三浦つとむの規範論を借りて、「法」の理念的なあり方を説明しておいた。私たちは「法」の理念的なあり方を守る努力を怠ってはならないが、しかし日本の「法」運用における現実態には、以上のような事例がある。
 
 私はたまたまこの現実態を目撃する機会を得たわけだが、その実相を分析的に描いている間に、裁判員制度という怖い制度が始まった。なぜ怖い制度なのか。マスメディアは、検察側が裁判員に被害者の傷口のCG画像や凶器の写真を見せたりするやり方を取り上げ、肯定的に報道していたが、写真や画像のようなビジュアルな「証拠」ほど怖いものはない。一見最も客観的な証拠を提供しているようだが、写真や画像はコメント次第、キャプション次第で、それを見る人の印象をがらりと変えてしまうことができるからである。それに、日本の裁判官の中には、平気で当事者の文章に手を加え、印象操作を行う裁判官もいる。その点に関する警戒を怠ると、自分では気がつかないうちに、巧妙なでっち上げ(frame up)の共犯者、いや、責任者にされかねない。
 そのこともあり、私はたまたま日本の裁判の現実態の一端にふれることができたわけだが、この機会を神様の贈り物と受け取り、なおまだしばらくこの現実態から目を離さないでいようと思う。

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コメント


ありえない話です…。。

コメントを一生懸命書きました。
とくに何もなく…残念に思っていました。


…あなたは公職に従事している人物(小樽文学館 館長 亀井秀雄さん)のハズなのです。
公職につく人物は「市民に回答する」サービス精神があるはずなのです。
(たとえHP上だったとしてもそうだと思います)

この行為が「プライベート」だなんてありえないと思います。
(そんな言い逃れが本当に通用するのでしょうか?)


(こんなにたくさん長文を書くことが出来るのだったら…一言ぐらい書くことも出来たのではないでしょうか)
勝手な人な気がして…正直、幻滅しました。

…このサイトをよ~く見てみるとびっくりしましたが、、、
【文学館】の【理事】をなさっていたのですね。

びっくりです…亀井さん…。
これでは結局…ただの内輪揉めなのではないでしょうか。。
それをご自身の都合のよい方向に編集なさっている…感じがします。

【理事者】である亀井さん【本人】が
【本人業務(理事者サイド)を批判?批難?】
…っていったい何なのでしょうか…?


素人にはほんとに意味がわからなく困っています。。
ただ単純に亀井秀雄さんご自身の要求等々
【娘さんの就職支援?派遣延長?期間満了?】
ご自身の「希望」が通らなかっただけの話?
…なのではないでしょうか。。


何の権利があってこんな「たくらみ」とか
「テロル」なんて言葉を使っていらっしゃるのでしょうか…。


これでは【恥】をさらけだしている…としか思えません。。


日本のある芸術家、●輪●●さんが
最近よく「恥を知れ!」という
「日本語のお話」をしているのを耳にしますが

本当に私もそう思います。…こんな散々ちょと長めの文章を
延々と読んでいくうちにたどり着くのが「身内?関係者?の内輪揉め」なのですから…。


そしていまだに判決とテロル(12)を

書き続けていらっしゃる…
…この現状に幻滅します。


それと

・亀井秀雄さん本人が北海道立文学館の理事(元)だったという事実と
(このご時世にありえまないと思います…ほんとうに。。)

・亀井秀雄さんと亀井志乃さんが普通にただの「親子」だという事実と
(一般的に亀井志乃さんがどんなに正しいことをおっしゃっているとしても、親(亀井秀雄さん)が子ども(亀井志乃さん)を擁護しているようにしか見えないのです。。つまり親の顔の部分にしか見えていない現実。)

・亀井志乃さんご本人がお幾つ(年齢)かは存じませぬが、言ってることがもっともらしいけど子どもじみている発言になんか変な感じをうけるという現実と
(つまりあまり書きたくはない言葉ですが「あおくさい」のです…。10代か20代の人が言っているようなことが多すぎると思います。。このことから見ると職歴(どの?この?職場に何年?)がたくさんあるように感じられないのです。社会人として「勤め人」として一般的にお給料をもらって生活しているという現実感があまり感じられませんし、想像出来ないのです。つまりこのサイトを見る限りですが「発言とその内容」からは一般的で現実的な日々の職場感(一日をまわりの誰かと円滑に共有したり会話したりする姿)が垣間見えないのです。これでは【経験不足(社会経験の)】と言われてもしかたがないかもしれないので。。う~ん。。と唸りたくなってしまいます)

・亀井秀雄さんが現職の文学館の館長(小樽文学館)だという事実と
(小樽市はこのような問題発言や問題行動(執筆による暴力)をおこなっている人物を公職に任命していて本当によいのでしょうか…!?正直、自分勝手な感じばかり印象に残ってしまします。このような人物を小樽文学館の館長に任命している小樽市は「不適格」な人物を管理職に就かせている「責任」をとるべきではないのでしょうか。。このまま「何もしない」でいるのは責任の放棄という印象にしかならないと思います。小樽市は亀井秀雄さんを小樽文学館の館長から退任させるべきではないでしょうか!…たとえこの職が「天下りポスト(実態のない勤務)」であったとしてもの話です…)

・コメントに無視を決め込まれたいじょう、この「ブログやホームページ」が亀井秀雄さん自身の自分勝手な一面ばかりが目立つ「ものいい」にしか感じられない印象と
(すでにこのサイトを見ても明らかであるように亀井秀雄さんはご自身にたいして「都合の悪いコメント」には「無視をしている」人物であることは証明されたと思います。ですので、このページ上での発言(ブログやホームページ)が一方的で攻撃的であるというという事実の証明にもなるとは思いますが…どうでしょうか…)

・このサイトでの記載内容がパワーハラスメントと非正規雇用の問題を取り上げているのではなく、全く違う内容のものだということと、この2つの言葉だけを不適切なかたちでたくさん使用して書かれたお子さんの「成長記録?日記?」のような印象しか受けないという現実と
(娘さん(亀井志乃さん)も含めて、サイトに記載されている全ての人が迷惑しているような内容に思います。娘さんがあさはかで一般社会への適応能力不足だと思われるだけのような気がしますので即刻おやめになったなほうがいいと思うのです。)

この現状を亀井秀雄さんご自身はどうお考えなのでしょうか…?


そもそも

公職(小樽文学館 館長)に従事している方がすることではないと思います。
(ありえないと思うのです。。ふつうはもっと日常生活に緊張するのではないかと想像します…)

そもそも

ご自身の娘さんの「就職」や「業務」に口をだして大騒ぎしてることじたい…呆れてしまうし…「親の過干渉」のような気がしてしまうのです…。

つまり

これはパワーハラスメント問題ではないと思います。
これは非正規従業員の雇用問題でもないと思います。
これは「たくらみ」でも何でもないと思うので不快です。


なので

これは「暴力」なのではないでしょうか…。
これは「公人」と呼ばれる方がするようなことではないような気がします。


今、あちこちで非正規従業員の雇用が問題になっていますが、

こういう「案件」とかが存在しているから
こういう「解雇」されやすい非正規雇用の「状況」が生まれるような気さえしてきてしまうのです。


だから

これは「権利の主張」とか「平等」を謳った【暴力】なのではないかと思います。


長々書いてしまいかしたが、、
(つまらない文章は(自分のこれも含めて)誰も読みたいと思わないが気がします)
(美しい風景が読んでいて想像出来たり、内容のある文章だったりすると別なのかもしれませんが。。。)


もう少しだけ言うと


「これ(このブログを発表する行為」がプライベートなことだというのなら
ただ「文句」ばかり「批判」ばかりをしているリーダー(管理職?)は
「職場」に的確な人物ではない…とも思ってしまいます。

なので亀井秀雄さんはやはり不適格な管理職なのではないのでしょうか…?
こんなのありえないとおもいます。。

やはり、亀井秀雄さんは公職を「辞職」するべきだと思います。

これ(このブログ)を続けている以上、人の上にたつ資質も素質も持ち合わせてはいないように思いますし、、
公職の「管理職業務」に従事する「資格」はもう既に「消滅」しているのではないでしょうか…。


追伸ですが、最近やっている「映画:20世紀少年」に出てくる「ともだち」を見ている感覚に近い気がするはわたしだけでしょうか…。
(もちろんわたしも「あ~そび~ましょ~」と言われても「あそびません」。。絶対に無理です…。※遊ぶと映画の中では「絶交」と言われてとんでもないことになります。)


それでは。

投稿: あちこちで非正規従業員 | 2009年8月28日 (金) 21時06分

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