« 判決とテロル(9) | トップページ | 判決とテロル(10) »

インターミッション

インターミッション

〔市立小樽文学館では、7月4日(土)から、「―『蟹工船』の時代―プロレタリア文学とモダニティ(池田壽夫旧蔵書より)」という特別企画展を行っている。昭和初年代のプロレタリア文学運動の中で、理論家として重要な役割を果たした池田壽夫(本名、横山敏男)の蔵書700点ほどを、ご遺族が文学館に寄贈して下さった。プロレタリア文学運動の実態を伝える貴重な資料が多く、これを市民に紹介する形で、ご遺族のご厚意に感謝の意を表したいと考えたからである。
 数ヶ月前から私は展示の準備に入ったが、池田壽夫にはプロレタリア文学の理論に関する著書がない。そのため、まず著述目録の作成に取りかかり、70本を超える論文を探し出すことができた。池田壽夫には映画論も多いことを発見し、これは望外の収穫だった。ただ、映画関係の古い雑誌がなかなか見つからない。いや、何種類かは復刻版が出ており、北大も購入したはずなのだが、『新興芸術』や『キネマ旬報』などを検索してみると、すでに定年で辞めたり、他大学へ転出した人間の研究室に入ったことになっており、しかも「不在」となっている。北大図書館の知り合いに、「不在」ってどういう意味ですか、と訊いてみたところ、困った顔をして「見当たらないんですよ。学生に貸し出してそれっきりになってしまったのか、それとも……」と言葉を濁していた。
 悪いのは公費で購入した図書の所在を不明にしたまま北大を辞めてしまった連中であり、図書館員に苦情を言っても仕方がない。やむをえず私は、3度ほど、東京へ出たついでに、東大の図書館で池田壽夫の論文探しをして、意外に時間がかかった。
 その間私は、市民向けの関連講座を開くことにし、6月6日(土)には「プロレタリア文学の眼差し・1――遠景の多喜二―」、6月27日(土)には「プロレタリア文学の眼差し・2――近景の多喜二―」という話をした。7月18日(土)には「知られざるプロレタリア文学史――池田壽夫旧蔵書より―」という話を予定している。
 この講座の準備にも時間がかかり、それやこれやで「判決とテロル」をしばらく中断せざるをえなくなった。心がけてマコーミックの『ハート法理学の全体像』などに目を通しているのだが、哀しいかな、老齢のために、なかなか頭の切り替えができない。この調子では、「判決とテロル」にもどるにはもう少し時間がかかりそうだ。
 ただ、「プロレタリア文学の眼差し・2――近景の多喜二―」で話をしたことを文章化しているうちに、『蟹工船』論の形でまとめるならば、これはこれなりに意味のある小論になるかもしれない。そんな気がしてきたので、インターミッションの埋め草として、掲載させてもらうことにした。「北海道文学館のたくらみ」の連載中に、「幕間劇」として、大江健三郎の『沖縄ノート』の表現分析を掲載させてもらった。同じわがままを繰り返すことになるが、ご海容をお願いする。2009年7月11日〕
 
       
       プロレタリア文学への眼差し 
           ――近景の小林多喜二――

                                                  2009年6月27日
1、『蟹工船』で見る映画
○「蟹工船」という空間
 今日は映画との関連で、小林多喜二の『蟹工船
(昭和3年10月28日、起稿。昭和4年3月30完成。『戦旗』5、6月号に発表)の表現の特徴を検討してみたいと思います。何故そう考えたか。御存じのように、『蟹工船』そのものの中に映画を見る場面が描かれているからです。
 小説『蟹工船』の中で上映されたのは、「西部開発史」という映画だったわけですが、それならば「西部開発史」と呼ばれた、このアメリカ映画はどんな作品だったのか。小説『蟹工船』は、1953年に山村聡の脚本・監督で映画化されています。その時山村聡はどんなアメリカ映画を、映画『蟹工船』に挿入したか。
 そういう視点で捉えてみると、意外に重要な『蟹工船』の特徴が見えてくるように思います。
 
 そこでまず一つ確認しておきたいことは、小説『蟹工船』の博光丸は、200人を越える漁夫や雑夫に映画を見せることができる規模の汽船だったということです。
 この博光丸のモデルと言われる博愛丸は、明治31年(1898)に、日本赤十字社が管理する病院船として建造された汽船で、排水量は2600トン。全長は95メートル、巾12メートルという規模の船でした。病室は上等が11室41床、中等が3室12床、下等は1室232床あり、その外に伝染病室が3室7床あったそうです。当然のことながら診察室も手術室もありました。
 その博愛丸が大正15年(1926)、林兼商店に売却され、蟹工船に改造されたわけですが、食堂や浴場はもちろんのこと、商店や理髪店、映画館まで備えていたと言われています。
 皆さんは、なぜ私がそんな細かいことにこだわるのか、不思議に思われるかもしれません。ただ、私としては現実のあり方と、表現上のリアリティとの違いを確認しておきたい。そうしておかないと、多喜二の文学のリアリティ、あるいは当時のプロレタリア・リアリズムの特徴をつかむことができないからです。
 例えば『蟹工船』の冒頭から少し進んだところに、
漁夫の『穴』に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまゝ『糞壺』だった。区切られた寝床にゴロ/\している人間が、蛆(うじ)虫のようにうごめいて見えた。(1章。講談社文庫版。原文の傍点の箇所は太字に代えた。以下同じ)という表現が出て来ます。「穴」とは漁夫や雑夫の居住空間のことで、当時の「工船」の記録によれば、中甲板の1、2番ハッチが従業員の居住区、3、4番ハッチは罐詰工場に充てられていました。
 ただ、「区切られた寝床」という表現から判断するに、どうやら漁夫の居住区は幾つか畳敷きの大きな区画に分かれ、それぞれの区画を何人かで共有していたらしい。鰊漁の番屋は1坪半に2人、つまりタタミ3畳に2人の割合で住み分け、着替えの下着その他、各自の私物は壁際の棚に収めておいた、ということですが、そういうやり方を採り入れたのかもしれません。
 ところが、別な箇所には
「ハッチの降口に始め鎌足(かまあし)を見せて、ゴロ/\する大きな昔風の信玄袋を担った男が、梯子を下りてきた。床に立ってキョロ/\見廻していたが、空いているのを見付けると、棚に上って来た(1章)。菓子折を背負った沖売の女や、薬屋、それに日用品を持った商人が入ってきた。真中の離島のように区切られている所に、それ/\の荷物を広げた。皆は四方の棚の上下の寝床から身体を乗り出して、ひやかしたり、笑談を云った」(同前)という表現が出てきます。
 この「棚」は、蚕棚
(かいこだな)から生まれた比喩表現で、上下二段に分かれたベッドを意味する。とするならば、漁夫はそれぞれ自分の「棚(ベツド)」を持っていた(割り当てられていた)ことになり、先ほどの表現と食い違ってしまう。
 私自身は次に述べる「衛生」の問題からみて、「棚
(ベツド)」方式を採っていたと考えますが、後に改めて紹介する映画『蟹工船』を見ますと、監督の山村聡は、非常に不潔な畳敷きの大部屋に労働者を押し込め、猥雑な生活を強いていたかのように描いていました。現実の「工船」に従うよりも、多喜二の表現が喚起するイメージのほうを選んだのでしょう。
 
 しかし、蟹工船は、獲ったばかりの蟹の鮮度が落ちないうちに、大急ぎで罐詰にする。そういう工場船(factory ship)だった。そのことを忘れると、とんでもない勘違いを犯すことになりかねません。
 近代の日本の政府は「衛生」ということに力を入れましたが、特に衛生にやかましかったのは軍隊と刑務所でした。お分かりのように、一定数の人間を特定の場所に隔離しておく空間で、もし伝染病が発生したとすれば、一挙に蔓延する恐れがある。これは汽船や漁船でも同様でした。大きな客船が、太平洋を渡るには2週間以上もかかる。そういう陸地から隔離され、閉ざされた空間の中で伝染病が蔓延したら、これはもう手の打ちようがない。まして4ヶ月も5ヶ月もカムチャツカ沖で操業をし、おまけに食品を扱う蟹工船のことですから、衛生管理に鈍感だったはずがありません。先ほど引用した「蛆虫のようにうごめいて」云々に続いて、漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た(中略)通路には、林檎やバナゝの皮、グジョ/\した高丈(たかじよう。地下足袋)、鞋(わらじ)、飯粒のこびりついている薄皮などが捨てゝあった。流れの止まった泥溝(どぶ)だった。監督はじろりそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた。」とありますが、果たしてそうであったかどうか。日本の漁師は舟を神聖なものと考えて、清浄を心がけたということですが、ましてこれは出漁直前の場面です。鰊漁の場合、出漁の直前に、豊漁を予祝する祭りを行って、親方も船頭も賑やかに景気づけをし合い、その後は厳粛な緊張感のうちに出漁のその時を迎えたそうですが、そういう心性や感覚が蟹工船では失われてしまったとは、私には考えにくい。(註1)
 第一これほど猥雑、非衛生の状態だったとすれば、函館の検疫官が見逃すはずがなかったのではないでしょうか。(註2)
 このことは、労働条件などの問題を含めて、『工場法』(明治44年3月公布)と関係するので、後にもう一度言及したいと思いますが、ともあれ、以上の点だけを取り上げてみても、多喜二のリアリティと虚構性とは紙一重の関係にあった。そのことがお分かりのことと思います。その点を確認しておきたいがために、まず映画の場面に注意を促してみたわけです。
 
○蟹工船の歴史
 次にもう一つ確認しておきたいのは、蟹工船の操業期間は、おおよそ4月から8月末までだったことです。ところが小説『蟹工船』は、真冬の操業を思わせる表現となっていました。
 オホーツク海は6月になっても結氷が浮かんでいることもある。ですから、博光丸は北緯五十一度五分の所まで、錨をなげてきた第一号川崎船を捜索した。結氷の破片(かけら)が生きものゝのように、ゆるい波のうねりを間に、ひょい/\身体を見せて流れていた。(3章)という表現は、たぶん実見談に基づいた描写と見ることができます。
 しかしそれに続く表現は、あたかも流氷が押し寄せてきたかのような描写になっています。が、所々その砕けた氷が見る限りの大きな集団をなして、あぶくを出しながら、船を見る/\うちに真中に取り囲んでしまう、そんなことがあった。氷は湯気のような水蒸気をたてゝいた。と、扇風機にでも吹かれるように、『寒気』が襲ってきた。船のあらゆる部分が急にカリッ、カリッと鳴り出すと、水に濡れていた甲板や手すりに、氷が張ってしまった。船腹は白粉でもふりかけたように、霜の結晶でキラ/\に光った(同前)と。
 この箇所は、表現それ自体として見れば、非常に印象的な優れた描写ということができますが、もし本当にこんな気象条件に遭遇したとすれば、4月中に北緯55度、あるいはもっと北まで進んで操業していたことになる。しかしそんなことをすれば、たちまちオホーツクの流氷に閉ざされてしまい、砕氷船の助けを借りて脱出しなければならなかったでしょう。(註3)
 
 私は先ほど、大正15年(1926)に、日本赤十字社の博愛丸が蟹工船に改造されたと言いました。
 その博愛丸で雑夫虐待事件があったことを報じたのは、『函館日日新聞』です。倉田稔さん(『小林多喜二伝』論創社、2003年12月)が引用した大正15年9月7日の記事は、昨六日午後三時半、カムチャッカから当港に帰来した市内弁天町大菱商会の蟹工船博愛丸(二、六二四トン)に、奇怪極まる暴行事件があることを探知した水上署で、俄然色めきたち、目下関係者を召還取調べ中である。」ということでした。
 この記事からも、博愛丸の操業は夏の間だったことが分かります。が、もう1点、私が注意したいのは、博愛丸にとってこれが最初の蟹漁業だったことです。
 少し横道に逸れることになりますが、日本における蟹の缶詰の製造は、根室の和泉庄蔵という人が1905(明治38)年、国後島に蟹の缶詰工場を建てたことに始まるらしい。以来、千島や根室、稚内の各地で盛んに行われたそうですが、間もなく近海で獲れる蟹では間に合わなくなってきた。たぶん近海の資源が枯渇し始めたためでしょう。やむを得ず、オホーツク海遠くまで船を出すことになったわけですが、蟹の肉はいたみが早い。冷凍技術が発達していなかった時代のことですから、工場に運んできた時には、もう肉が変色してしまう。これでは製品になりません。
 それならば、獲ったばかりの蟹を船の中で缶詰にすることはできないか。これは日本人のアイデアだったそうで、1914(大正3)年、農林省の水産講習所の練習船が試験を始め、1920(大正9)年、富山県立水産講習所の呉羽丸が洋上蟹缶詰製造に成功したそうです。これを受けて、函館の和島貞二という人物が1921(大正10)年、2隻の帆船をオホーツク海に出して操業し、これが民間の蟹工船の始まりだった。ただし、和島貞二の帆船はいずれも300トン程度で、長期の操業には耐えられません。缶詰の生産数も高が知れている。しかし蟹工船自体は将来性のある産業でしたから、資本家が目をつけて、例えば博愛丸のような汽船(病院船)の払い下げを受けて、缶詰工場を内蔵する工船に改造したわけですが、工船への改造、つまり帆船操業から汽船操業へ切り替わるまで、恐らく2、3年は要したでしょう。その意味で、「蟹工船」はまだ始まったばかりの産業だった。『蟹工船』の語り手は、二十年の間も繋ぎッ放しになって、沈没させることしかどうにもならないヨロ/\な『梅毒患者』のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧をほどこされて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、『名誉にも』ビッコにされ、魚のハラワタのように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現した。」(2章)と、口を極めてこき下ろしていました。だが、内部のほとんどを改装して、蟹罐詰の製品を完成するに至る工程に必要な機械を全て装置して、化粧直しをした、その船の中には商店があり、理髪店があり、4月から8月末まで、5ヶ月間に及ぶ長期操業の漁夫や雑夫を慰労するために、映画の活動写真隊を派遣する。むしろ当時としては、これは精一杯モダンで先端的な企業感覚だったのではないでしょうか。
 
 小林多喜二の描き方では、「蟹工船」産業はもう何年も以前から行われ、酷寒のオホーツク海で生命を賭けた過酷な奴隷労働が強いられてきたかのような印象を受けますが、必ずしも実情はそうでもなかったようです。

○『蟹工船』で上映された映画
 そうしますと、問題は『蟹工船』における虚構性と表現のリアリティとの関係になるわけですが、では、『蟹工船』でどんな映画が上映されたか、次にその点を確認しておきましょう。
《引用》
  
中積船には、会社で派遣した活動写真隊が乗り込んできていた。出来上がったゞけの罐詰を中積船に移してしまった晩、船で活動写真を映すことになった。
  平べったい鳥打ちを少し横めにかぶり、蝶ネクタイをして、太いズボンをはいた、若い同じような格好の男が二、三人トランクを重そうに持って、船へやってきた。
  「臭い、臭い!」
  そう云いながら、上着を脱いで、口笛を吹きながら、幕をはったり、距離をはかって台を据えたりし始めた
(中略)
  
一番年かさらしい下品に見える、太い金縁の眼鏡をかけた男が、少し離れた処に立って、首の汗を拭いていた。
  「弁士さん、そったら処さ立ってれば、足から蚤がハネ上って行きますよ!」
  と、「ひゃア――ッ!」焼けた鉄板でも踏んづけたようにハネ上った。
  見ていた漁夫達がドッと笑った。
 「然しひどい所にいるんだな!」しゃがれた、ジャラジャラ声だった。それは矢張り弁士だった。「知らないだろうけれども、この会社が此所へこうやって、やって来るために、幾何儲けていると思う? 大したもんだ。六ヵ月に五百万円だよ。一年千万円だ。――口で千万円って云えば、それっ切りだけれども、大したもんだ。それに株主へ二割二分五厘なんて滅法界もない配当をする会社なんて、日本にだってそうないんだ。今度社長が代議士になるッて云うし、申分がないさ。――矢張り、こんな風にしてもひどくしなけァ、あれだけ儲けられないだろうな」
 夜になった。

  (中略)
  
最初「実写」だった。宮城、松島、江ノ島、京都……が、ガタピシャ/\と写って行った。時々切れた。急に写真が二、三枚ダブって、目まいでもしたように入り乱れたかと思うと、瞬間消えて、パッと白い幕になった。
  それから西洋物と日本物をやった。どれも写真はキズが入っていて、ひどく「雨が降った」それに所々切れているのを接合させたらしく、人の動きがギクシャクした。――然しそんなことはどうでもよかった。皆はすっかり引き入れられていた。外国のいゝ身体をした女が出てくると、口笛を吹いたり、豚のように鼻をならした。弁士は怒ってしばらく説明をしないこともあった。
  西洋物はアメリカ
映画で、「西部開発史」を取扱ったものだった。――野蛮人の襲撃をうけたり、自然の暴虐に打ち壊されては、又立ち上り、一間々々と鉄道をのばして行く。途中に、一夜作りの「町」が、まるで鉄道の結びコブのように出来る。そして鉄道が進む、その先きへ、先きへと町が出来て行った。――其処から起る色々な苦難が、一工夫と会社の重役の娘との「恋物語」ともつれ合って、表へ出たり、裏になったりして描かれていた。最後の場面で、弁士が声を張りあげた。
  「彼等幾多の犠牲的青年によって、遂に成功するに至った延々何百哩
(マイル)の鉄道は、長蛇の如く野を走り、山を貫き、昨日までの蛮地は、かくて国富と変ったのであります」
 重役の娘と、何時の間にか紳士のようになった工夫が相抱くところで幕だった。
  間に、意味もなくゲラ/\笑わせる、短い西洋物が一本はさまった。

  (中略)
  
写真が終ってから、皆は一万箱祝いの酒で酔払った。
  長い間口にしなかったのと、疲労し過ぎていたので、ヘロ/\に参って了った。薄暗い電気の下に、煙草の煙が雲のようにこめていた。空気がムレて、ドロ/\に腐っていた。肌脱ぎになったり、鉢巻をしたり、大きく安坐をかいて、尻をすっかりまくり上げたり、大声で色々なことを怒鳴り合った。――時々なぐり合いの喧嘩が起った。
  それが十二時過ぎ迄続いた
(5章)

 弁士がついて来たわけですから、この時上映した映画は無声映画(サイレント)だったと見てよいでしょう。この場面は、これまでの『蟹工船』研究ではほとんど注目されることはありませんでした。しかしあの弁士が、特に労働者をアジるつもりはなく、いわば世間話みたいに気安い口調で、知らないだろうけれども、この会社が此所へこうやって、やって来るために、幾何儲けていると思う? 大したもんだ。六ヵ月に五百万円だよ。一年千万円だ。(中略――矢張り、こんな風にしてもひどくしなけァ、あれだけ儲けられないだろうな」と、会社の阿漕な手口を暴いてみせる。その言葉が漁夫や雑夫の記憶に残って、次第に過酷な労働の本質に気がついて行く。その意味では、重要な場面と言えないわけではありません。
 ただ、その時上映した「西部開発史」がどの程度この場面に対して重要な意味を持っているか。私自身は、「西部開拓史」はこの場面に関してだけでなく、作品全体にとっても重要な意味を持っていると思っているのですが、小林多喜二自身がどのように自覚していたか。どうもそこのところが、いま一つはっきりとしない。しかしこれは『蟹工船』というテクストの解釈にかかわってくる、重要な箇所なので、少し丁寧に検討してみたいと思います。

二、『蟹工船』と映画
○山村聡監督『蟹工船』の場合
 御存じのように、この『蟹工船』は、戦後の1953年、山村聡が脚本を書き、監督して映画化し、第8回毎日映画コンクールで撮影賞を受賞しています。
 その山村聡監督が、先ほどの映画上映の場面をどのように映画化しているか。いわば劇中劇の場面に当たるわけですが、その箇所をご覧下さい。

〔DVDによる該当箇所の紹介〕
 ご覧のように、ツバ広の帽子を目深にかぶって顔を隠した、謎の剣士(フェンシングの名手)が神出鬼没、颯爽と馬に乗って現れて、美女を救い出す。私の判断では、これはダニエル・フェアバンクス主演の「奇傑ゾロ」(The Mark of Zorro。1920年)という無声映画
(サイレント)で、その後は「怪傑ゾロ」の名前で何回もリメイクされ、大佛次郎の『鞍馬天狗』(1024/大正13年)にヒントを与えた。そういう痛快な活劇映画ですが、それが終わったところで、弁士が声を張りあげ、「若者よ、働け、働け、勤労こそは成功の母ならずして何ぞや」とブチ上げる。いかにサイレント時代の弁士の台詞が荒唐無稽だったとは言え、これはちょっとないでしょう。
 山村聡がこの映画を撮った当時、手に入る無声映画
(サイレント)のフィルムは「奇傑ゾロ」しかなかったのかもしれません。もしそうでなかったとすれば、山村聡にとってこの場面はあまり重要ではなかった。小説に出て来る場面だから、とりあえず映画を見せるシーンだけは映しておこうという程度の認識だったのでしょう。

○『アイアン・ホース』(1924年)の場合
 しかし私の判断によれば、『蟹工船』の語り手が言う「西部開発史」は、間違いなくジョン・フォード監督の『アイアン・ホース』(1924年)という映画でした。
 今、DVDを取り替えている間に、簡単にコメントしておきますと、これはアメリカの東海岸から西に向かって鉄道レールを敷設し始めたセントラル・パシフィック鉄道会社と、西海岸から東に向かって敷設を始めたユニオン・パシフィック鉄道会社とが、めでたく合流して、アメリカ大陸横断の鉄道を完成する物語です。この大プロジェクトを発案したのは、リンカーン大統領。大統領のブレーンが、現在は南北戦争の最中で、1セントでも戦費が欲しい。大陸横断の鉄道を敷く余裕はない、と反対するのですが、リンカーンは戦争終結後のことを見越して、必ずアメリカ大陸の東と西をつなぐ路線が必要になってくるはずだ、と反対を押し切ってしまう。その意志は、リンカーン大統領が南北戦争に勝利し、不幸にして暗殺された後も受け継がれ、今や旧南軍の兵士も北軍の兵士も協力して実現する。「げに、リンカーン大統領こそアメリカ合衆国中興の恩人と云わずして、何と評すべきや」というわけですが、この簡単な説明でも分かるように、南北の対立を克服し、東西の隔たりを埋めて、まさにアメリカ合衆国が国民国家として誕生した。その建国神話を描き、アメリカ魂を謳い上げた一大叙事詩だったわけです。
 
〔DVDによる該当箇所の紹介〕
 いま幾つかのシーンを見ていただきましたが、父親を殺されて工夫となった若者と、重役の娘との恋があり、シャイアン族の襲撃があり、『蟹工船』の語り手が言う通りの物語です。そのライト・モチーフは、「タタラッタ、タタタン、タタラッタ、タン」というピアノの軽快なリズムに乗って働く線路工夫たちの唄にあった、と言えるでしょう。西海岸から出発した線路工夫の大半は、当時の言葉でいう支那人。いわゆる西部の開拓時代、アメリカが安い労働力として大量の中国人を移住させたことはよく知られています。また、東海岸から出発した線路工夫は、先ほども言ったように旧の南軍や北軍の兵士達でしたが、もう一つ大きな要因としてアイルランド人が多数働いていました。私たちは一口に白人と呼んでいますけれど、アイルランドからの移民はアングロ・サクソンから差別的な扱いを受けることが多く、下積みの仕事を引き受けざるを得なかったようです。
 そういう人達が話す言葉が、時々字幕に出る。これを見ると大変なスラングで、いかに彼等が教養のない下層民であるか、モロに表出されているわけですが、とにかくそういう人達が「タタラッタ、タタタン、タタラッタ、タン」というリズムに合わせて、色んな歌詞の替え歌を唄い、次第に気持ちが通じ合って、最後には肩を組んで「俺たち、みんなアメリカ人じゃないか。いがみ合うのは止めようや」ということになる。
 つまり、他民族の労働者を〈同じアメリカ人〉という意識に統合して行く物語でもあったわけで、その意味でもこの映画は、見事なまでに国民国家建設のイデオロギーを肯定的、向日的に謳い上げた物語だったと言えるでしょう。

 ちなみに、小林多喜二は昭和2(1927)年2月7日の日記で、マルクスの『資本論』でも読んでみたい気がしている。が、それの根本的な処に疑いをもっている自分は、結局、社会主義的情熱を永久に持てぬ人間のように思われる。此前三日の吹雪の晩、Tと一緒に行って見た『アイアンホース』(公園館)の中で、(これはアメリカの西部発展史であるが)アメリカインデアンと戦いながら、大集団が一歩々々、『誰れのためにか』、『何十年あとのためにか』『自分達のではない、後にくる時代の人のために』西進するところが描かれていたが、そういう人達の気持と万難を排して、『自分を犠牲にして』(これは云うに易くして、重大な事だ。)後にくるものゝために戦っている社会主義者の気持がぴったり一つになって、自分をうった。」と書いています。
 少なくともこの時点の多喜二は、この『アイアン・ホース』を、社会主義国家建設の物語にも転用し得るものと受け取り、感動をしていたわけです。

○合わせ鏡としての『蟹工船』と『アイアン・ホース』
 小林多喜二はこの映画を「博光丸」の漁夫や雑夫に見せたわけですが、彼は自分が受けたのと同じ感動を与え得るものとして、蟹工船の漁雑夫に見せることにしたのでしょうか。どうもそうではありません。もしそうならば、先ほど引用した場面は、もっと陽気で向日的に描かれたはずです。
 では小林多喜二は、『アイアン・ホース』に感動してから、『蟹工船』に着手するまで、約1年半の間に、『アイアン・ホース』のアメリカ帝国主義に批判的な眼を持つようになったのでしょうか。しかし、もしそうならば、『日記』における「アメリカインデアン」という言葉を、『蟹工船』で「野蛮人」と呼び変えることはなかったはずです。
 「アメリカインデアン」という言葉は、1970年代、差別語だという認識が広まって、ネイティブ・アメリカンとか、アメリカ先住民とかという呼び方が一般化してきましたが、1920年代、「アメリカインデアン」はごく当たり前に使われていました。しかし、例え1920年代であっても、ネイティヴ・アメリカンを「野蛮人」と呼ぶことは、これは明らかに人種蔑視に基づく差別語でした。
 
 ただし、その問題に関するかぎり、『アイアン・ホース』の監督、ジョン・フォードも同断でした。先ほど私は、『アイアン・ホース』を露骨なまでに国民国家イデオロギーを鼓吹した作品と評しましたが、この映画にはアフロ・アメリカ人、つまり俗に言う黒人の姿は見えません。ネイティヴ・アメリカンについて言えば、アメリカ人に敵対するシャイアン族と、アメリカ人に協力的なポーニー族に分断してしまい、だが結局両者とも「同じアメリカ人」の仲間には入れられませんでした。
 その意味ではジョン・フォードに認識の空白があり、彼は後に『バファロー大隊』(1960年)や『シャイアン』(1964年)で修正をしています。
 それに対して小林多喜二にも認識の空白がなかったわけではありません。西原大輔さん
(「小林多喜二『蟹工船』における植民地」。『横浜商大論集』第30巻第1号、平成8年5月)が、『蟹工船』の末尾における「――この一篇は、『殖民地に於ける資本主義侵入史』の一頁である。」という附記を取り上げて、この附記と作品内容との矛盾を指摘していました。
 つまり西原さんによれば、『蟹工船』の語り手は、東北各地から寄せ集められた漁夫や雑夫を、イノセントな被害者としてしか描いていない。アイヌの側から見れば、ここに描かれたのは「殖民地に於ける資本主義侵入の一頁」であると共に、「殖民地に於ける労働者侵入史」でもあったはずなのだが、そのアイヌの視点が欠けている。
小林多喜二にとっては資本家と労働者の階級問題としか見えていない北海道開拓も、立場を変えれば日本人とアイヌの民族問題となる。資本家であろうと労働者であろうと、彼ら日本人が進めている開発こそ、先住民にとっての侵略行為のほかならない」「『蟹工船』の作者はこれらの労働がいかに無慈悲で苛酷であるかを強調する。しかし問題は、これらの労働者が蝦夷地開拓という、帝国の拡大の参加者であるという事実を語り手が全く意識しておらず、またこの意味を問い返すこともないということだ」「『蟹工船』の語り手は、疑いもなく植民者のものであった。」というわけです。(註4)
 西原さんは多分ポストコロニアリズム(反/脱植民地主義)の立場の歴史学者なのでしょう。ですから、以上のような問題点を抱えているにもかかわらず、なぜ『蟹工船』の表現にリアリティがあるのかという、文学的な問題には踏み込んでいません。その意味では十全な『蟹工船』論とは言えないのですが、その指摘は小林多喜二における認識の空白を衝いている。今後の多喜二研究が無視してはならない、重要な論文だと思います。

 こうして見ると、『蟹工船』と『アイアン・ホース』とは合わせ鏡みたいな関係にあったわけですが、それは必ずしも同じような認識の空白を抱えていたから、というだけではありません。
 『蟹工船』の1章で、「土方の棒頭(ぼうかしら)」みたいな監督が漁雑夫を相手に、次のような演説をぶつ場面が出てきます。
《引用》
  
「分かってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、たゞ単にだ、一会社の儲仕事と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いだんだ。それに若し、若しもだ、そんな事は絶対にあるべき筈がないが、負けるようなことがあったら、睾丸(きんたま)をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。
  「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭、鱒と共に、国際的に云ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保って居り、又日本国内の行き詰まった人口問題、食料問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒海をつッ切って行くのだということを知ってゝ貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今流行
(はや)りの露助の真似をして、飛んでもないことをケシかけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」

 いかにも「土方の棒頭」にふさわしい野卑な言葉づかいですが、小林多喜二は当時の日本で行われていた一般的な国民国家論を、こういう粗野な男にしゃべらせ、それを直接話法的に括弧で引用する。そうすることによって、日本的国民国家論の卑俗さを、批判的に露呈させたわけです。
 カムチャツカの資源を確保することは、一民間会社の利益のためだけではなく、帝国日本の国益にかなうことだ。この理屈を肯定的、向日的に物語化するならば、『アイアン・ホース』の世界が現れてくるでしょう。逆に『アイアン・ホース』の苦役に従事している「支那人」や「アイリッシュ」の居住環境や食事場面をクローズアップし、収奪/被収奪の視点で語るならば、『蟹工船』の世界となる。さらにもう一度ネガをポジに転換し、『蟹工船』における蟹罐詰の事業を、官民一体、労使共同による国家的事業の遂行として語り直し、日本魂を謳い上げるならば、『アイアン・ホース』的な一大叙事詩が生まれる。私が合わせ鏡的と言ったのは、このように対照的な、ネガとポジの関係で捉えることができるからにほかなりません。
 『アイアン・ホース』における「みんな同じアメリカ人」というアイデンティティの観念は、シャイアン族を敵対的な他者として設定することによって強化されるわけですが、騎兵隊が自分達をこの敵対的な他者から守ってくれる。『蟹工船』における日本帝国人民というアイデンティティの観念は、「露助」という敵対的な他者の脅威を強調することに強化され、その脅威から我が帝国の海軍が自分達を守ってくれる。ただし、『アイアン・ホース』のどこにもアフロ・アメリカン(いわゆる黒人)が出てこなかったように、『蟹工船』にはアイヌの姿が見えない。以上のような照応関係から見ても、『蟹工船』と『アイアン・ホース』は合わせ鏡の関係にあった、と言うことができます。

三、『蟹工船』における表現の特徴
○リアリティ獲得の方法
 先ほど私は、〈多喜二における虚構性とリアリティとの問題〉という言い方をしました。言葉を換えれば、それは〈文学的可能性の追求とリアリズムの問題〉でもあるのですが、次にはその点を検討するために、多喜二の表現そのものにもっと目を近づけてみましょう。
《引用》

 「おい、地獄さ行(え)くんだで!」
  二人はデッキの手すりに寄りかゝって、蝸牛(かたつむり)が背のびをしたように延びて、海を抱え込んでいる函館の街を見ていた。――漁夫は指先まで吸いつくした煙草を唾と一緒に捨てた。巻煙草はおどけたように、色々にひっくりかえって、高い船腹
(サイド)をすれ/\に落ちて行った。彼は身体一杯酒臭かった。
  赤い太鼓腹を巾広く浮かばしている汽船や、積荷最中らしく海の中から片袖をグイと引張られてゞもいるように、思いッ切り片側に傾いているのや、黄色い、太い煙突、大きな鈴のようなヴイ、南京虫のように船と船の間をせわしく縫っているランチ、寒々とざわめいている油煙やパン屑や腐った果物の浮いている何か特別な織物のような波……。風の工合で煙が波とすれ/\になびいて、ムッとする石炭の匂いを送った。ウインチのガラガラという音が、時々波を伝って直接
(じか)に響いてきた。
  この蟹工船博光丸のすぐ手前に、ペンキの剥げた帆船が、へさきの牛の鼻穴のようなところから、錨
(いかり)の鎖を下していた。甲板を、マドロス・パイプをくわえた外人が二人同じところを何度も機械人形のように、行ったり来たりしているのが見えた。ロシアの船らしかった。たしかに日本の「蟹工船」に対する監視船だった。
  「俺らもう一文も無え。――糞
(くそ)こら」
 そう云って、身体をずらして寄こした。そしてもう一人の漁夫の手を握って、自分の腰のところへ持って行った。袢天
(はんてん)の下のコールテンのズボンのポケットに押しあてた。何か小さい箱らしかった。
  一人は黙って、その漁夫の顔をみた。
  「ヒヒヒヒ……」と笑って、「花札
(はな)よ」と云った。
  ボート・デッキで、「将軍」のような恰好をした船長が、ブラ/\しながら煙草をのんでいる。はき出す煙が鼻先からすぐ急角度に折れて、ちぎれ飛んだ。底に木を打った草履(ぞうり)をひきずッて、食物バケツをさげた船員が急がしく「おもて」の船室を出入した。――用意はすっかり出来て、もう出るにいゝばかりになっていた。
  雑夫のいるハッチを上から覗きこむと、薄暗い船底の棚に、巣から顔だけピョコ/\出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五の少年ばかりだった
(冒頭。下線、太字は引用者)

 これは、よく知られている書き出しの場面ですが、ここには三つの特徴が見られます。
 一つは私が下線を引いておいたように、比喩表現が極めて多く、しかも太字のような擬人法も用いている。このような表現法は必ずしも『蟹工船』の全編を貫いているわけではありませんし、他の作品の特徴をなしているわけではありません。その点から見れば、多喜二は『蟹工船』をスタートするに当たって、極めて意図的にこのような表現法を取ったことになるわけですが、それは何故か。そういう問題が起こってきます。
 二つには、多喜二はこの時、「全知の語り手」を選んだことです。この語り手は、どの登場人物の立場にも立つことができ、また、どの登場人物も知らないことを知っており、ある意味で物語の進行に関して支配的な立場を保持していました。
 そして三つ目は、登場人物の実名を明かさず、いわば匿名化してしまったことです。この作品の中で、実名を明かされたのは、監督の浅川その他、会社側の数人にすぎません。それに対して、労働者のほうはその職業名や出身地名、あるいは渾名
(あだな)(「威張んな」「吃り」「炭山(やま)」「学生」「芝浦」など)で呼ばれるだけでした。
 この書き出しに登場する二人の漁夫も結局は匿名の存在にすぎず、その後の物語の展開の中でどんな役割を果たしたか、ついに分かりませんでした。一般の物語作法、特に映画の物語作法の習慣によれば、ファーストシーンに登場する人物は何らかの形で物語の展開にからんでゆく。最低でも視点人物の役割を果たすものなのですが、この二人は結局その他大勢の漁夫の中に紛れ込んで、見分けがつかなくなってしまう。その意味で多喜二は、通常の物語展開の約束を無視するやり方を選んだわけです。

 『蟹工船』の表現のリアリティは、この三つがうまく機能して生まれたと言っていいでしょう。下線を引いた、意表を衝くような比喩表現は、モンタージュの監督がさっそく使ってみたくなるにちがいないほど印象鮮明なイメージの喚起力を持つ。何故そのような表現が可能となったのか、と言えば、語り手が労働者の視点と感性に則していたからであること、言うまでもありません。
 そして私たち読者は、インパクトの強い、この初発のイメージに方向づけられた形で、その後の物語展開を〈理解〉して行くわけですが、小林多喜二はその〈理解〉を強化する上で、「全知の語り手」と「労働者の匿名性」の方法を非常にうまく駆使していました。
 例えば先ほど引用した文章の終わりの一文、
雑夫のいるハッチを上から覗きこむと、薄暗い船底の棚に、巣から顔だけピョコ/\出す鳥のように、騒ぎ廻っているのが見えた。皆十四、五の少年ばかりだった。」の「覗きこむと」に注目して下さい。一体誰が「覗きこんだ」のでしょうか。二人の漁夫なのか、それとも「全知の語り手」なのか。
 語り手はこれに続いて、雑夫に雇われた子どもと母親の会話や、母親同士の会話を叙し、それに続けて、
――二人の漁夫がハッチから甲板へ顔を出すと、ホッとした。不機嫌にだまり合ったまま雑夫の穴より、もっと船首の、梯形の自分達の『巣』に帰った。」(1章)と語っています。これを見る限り、「覗きこんだ」のは二人の漁夫だったことになります。
 
 では、
漁夫の『穴』に、浜なすのような電気がついた。煙草の煙や人いきれで、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまゝ『糞壺』だった。区切られた寝床にゴロ/\している人間が、蛆(うじ)虫のようにうごめいて見えた。」という箇所における、「糞壺」は誰の言葉でしょうか。また、「糞壺」にごろごろしている漁夫たちは、誰の目に「蛆(うじ)虫のようにうごめいて見えた」のでしょうか。
 まず「糞壺」について言えば、これは登場人物の誰かが言った言葉ではありません。雑夫や漁夫の居住区に隣り合わせた食料倉に、漬け物の樽が何十となく詰め込まれ、漬け物特有の饐えたような臭いが遠慮なく侵入してくる。そういう悪臭に満ちた、やりきれない空間を、語り手が「糞壺」と評したわけですが、まるで漁夫達が自分の居住区をそう呼んでいたかのように読めてしまう。
 また、「蛆虫」云々は、明らかにこれは「糞」との縁語表現なのですが、正確に言えばこれは監督や船長たちが漁夫達を「蛆虫」と見たり、そう呼んだりしたわけではありません。電気がパット点いた途端、
区切られた寝床にゴロ/\している人間が、蛆(うじ)虫のようにうごめいて見えた」。この表現から分かるように、漁夫達を「蛆虫のように……見た」のは、実は語り手だった。そこへ監督や船長たちが降りてきたわけです。
 しかし私たちは必ずしもそうは読まない。それに続く、
通路には、林檎やバナゝの皮、グジョ/\した高丈(たかじよう)、鞋(わらじ)、飯粒のこびりついている薄皮などが捨てゝあった。流れの止まった泥溝(どぶ)だった」という語り手の表現によって、「蛆虫」のイメージが一そう強烈にリアライズされ、じろりそれを見ながら、無遠慮に唾をはいた」という監督の行為を媒介に、「蛆虫」は監督達の漁夫に対する非人間的な蔑視に転位される。
 読者が「糞壺」や「蛆虫」という言葉を、漁夫や雑夫の〈実存〉を象徴する表現として読んでしまう。それは、以上のようなプロセスによってだった、と言えるでしょう。
 
○方法の限界
 『蟹工船』の語り手はこんなふうに、漁夫や監督達の目や感覚を媒介に、〈出口なし〉の密閉された空間に於ける実存的状況を描いてゆくわけですが、しかしその方法には欠点がないわけではありません。次の箇所の「給仕」の役割に注目して下さい。
《引用》
  
給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とても窺い知ることの出来ない船長や監督、工場代表などのムキ出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達の惨めな生活(監督は酔うと、漁夫達を「豚奴々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知っている。公平に云って、上の人間はゴウマンで、恐ろしいことを儲けのために「平気」で謀(たくら)んだ。漁夫や船員はそれにウマ/\落ち込んで行った。――それは見ていられなかった。
  何も知らないうちはいゝ、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起るか――起らないではいないか、それが自分で分かるように思っていた。
  二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたゝめに出来たらしい、色々な折り目のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見ていた。
  「何やるんだか、分かったもんでねえな」
  「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」
  「然しな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処まで来て、ワザ/\俺達ば守ってゝけるんだもの、えゝさ――な」
  ――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムク/\と煙突から煙を出し始めた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、艦長の発声で、「万歳」を叫んだ。
  夕飯が終ってから、「糞壺」へ給仕がおりてきた。皆はストーヴの周囲で話していた。薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切る度に、大きな影がペンキを塗った、煤
(すす)けたサイドに斜めにうつった。
  「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度はロシアの領海へこっそり潜入して漁をするそうだど。それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいてをしてくれるそうだ――大部、コレやってるらしいな。(拇指と人差指で円るくしてみせた)
  「皆の話を聞いていると、金がそのまゝゴロ/\転がっているようなカムサツカや北樺太など、この辺一帯を、行く/\はどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレは支那や満州ばかりでなしに、こっちの方面も大切だって云うんだ。それにはこゝの会社が三菱などゝ一緒になって、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそれをドン/\やるようだど。
  「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動すると云ったところで、どうして/\、そればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の附近まで詳細に測量したり気候を調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレに手ぬかりなくする訳だな。これア秘密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重油を運んだりしているそうだ。
  「俺初めて聞いて吃驚
(びっくり)したんだけれどもな、今迄の日本のどの戦争でも、本当は――底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、動機(きっかけ)だけは色々にこじつけて起こしたもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れたくて、手に入れたくて、バタ/\しているそうだからな、そいつ等は。――危ないそうだ(六章)

 この場面における「給仕」は、最もよく船内の状況を見、これから何が起こるか、半ば恐れながら予知することができる立場にあった。その給仕が「糞壺」を訪れるわけですが、それに続く発話は彼の言葉なのか、それとも「糞壺」にいた漁夫の発話なのか、そこがよく分かりません。なぜなら、「士官や船長や監督の話だけれどもな、……」に始まる発話は、直接話法を示す引用符号(かぎ括弧)によって分節化されていますが、その発話を閉じる引用符号(かぎ括弧)が明示されていないからです。
 監督の浅川の演説の場合も同様な引用符号の使い方をしていましたが、あれは浅川が演説のテーマを変えたための、発話の分節化だったと見ることができる。しかしこの場合、雑夫とそう年齢の変わらない給仕が、いわば海千山千の漁夫を相手にこれだけの長広舌を振るうことができたかどうか。疑問がないわけではありません。
 しかしその反面、仮に話の口火を切ったのが給仕であり、次からの発話は何人かの漁夫の応答であったとしても、その言葉づかいは学生ふう、または大会社の労働組合のオルグふうに均質化されている。『蟹工船』の特徴である、あの訛りのきつい東北方言、北海道方言が消えてしまっています。
 その意味で、あの給仕は「全知の語り手」の操り人形的な代行者でしかない。また、先ほど引用した発話は、給仕の長広舌であるか、それとも複数の人間の応答のであるかを問わず、作者小林多喜二の代弁にすぎず、その点では本質的な変わりはなかった。そう言うほかはないと思います。
 その後、物語の展開は、この発話の内容と口調とを引き継いだ「学生」や「芝浦」の発言が、労働者の間では支配的な言説となり、それと共に、あの冒頭のような生き生きとした比喩表現が次第に影を潜めて行くことになります。

○文学的可能性へのチャレンジ
 それにしても、小林多喜二は『蟹工船』の物語を、何故そのような方向に持っていこうとしたのでしょうか。私の見るところ、それは、現実的には極めて可能性が乏しい条件の中で文学的な可能性を実験したかったのだろうと思います。
 
 よく知られているように、彼は『蟹工船』を書くに当たって、函館まで調査に出掛けました。小樽高等商業学校に学び、拓殖銀行に勤めている人間として、当然彼は、博愛丸の持ち主が病院船を蟹工船に改装するために、どれだけの金額を設備投資に賭けたか。東北・北海道の各地から漁夫や雑夫を集める上で、どれだけの資金を用意したか。何年くらいの時間をかけて、その投資の回収するつもりでいるか。それらのことを調査したと思いますが、『蟹工船』では全くふれず
「――蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいゝ事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると、『文字通り』どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、船一艘でマンマと何拾万円が手に入る船、――彼等が夢中になるのは無理もない。」(2章)と、単純化してしまいました。このイメージは、ダブついた金の運用だけにしか関心がない投資家には当てはまるかもしれません。しかし、新しい事業を起こす資本家には必ずしも当てはまらないようです。
 
 また、
――それに、蟹工船は純然たる『工場』だった。然し工場法の適用もうけていない。これ位都合のいゝ、勝手に出来るところはなかった(2章)という記述について言えば、果たしてそう簡単に決めつけてしまえるものなのかどうか。疑問なきをえません。というのは、岡本正一の『蟹罐詰発達史』(霞ヶ関書房、昭和19年9月)によりますと、博愛丸事件が起こった大正15年の2年前、大正13年の6月19日に門司丸という蟹工船の雑夫が、「工船は工場法の保護を受けるのが当然である」という理由でストライキを起こして、24時間以内に回答を求め、経営者の譲歩を勝ち取っているからです。つまり、『工場法』はそれなりに有効な法律だったわけで、当然この結果は他の蟹工船に従業員にも伝わっていたはずです。
 『工場法』は明治44(1911)年の3月に公布された法律で、その内容から判断するに、その主眼は若年労働者と女性労働者の保護にありました。
工業主ハ十二歳未満ノ者ヲシテ工場ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス(第二条)、工業主ハ十五歳未満ノ者及女子ヲシテ一日ニ付十二時間ヲ超エテ就業セシムルコトヲ得ス(第三条)、「工業主ハ十五歳未満ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス(第四条)。現在の目から見れば到底保護の名にも値しない法律ですが、少なくとも当時はこれを楯に事業主から一定の譲歩を引き出すことができる法的な効力を持っていました。
 そんなわけで、私は、蟹工船は『工場法』の適用外だったわけではない。むしろ
「季節ニ依リ繁忙ナル事業ニ付テハ工業主ハ一定ノ期間ニ付予メ行政官庁ノ認可ヲ受ケ其ノ期間中一年ニ付百二十日ノ割合ヲ超エサル限リ就業時間ヲ一時間以内延長スルコトヲ得(第八条)を楯に取って、事業主に都合よく拡大解釈していたのではないか、と考えています。監督の浅川が漁夫や雑夫を時間外労働に駆り立てる理屈は、まさにこういうものだったからです。
 また、監督の浅川がやたらに威張り散らした背景には、
工業主ハ工場ニ付一切ノ権限ヲ有スル工場管理人ヲ選任スルコトヲ得(第十八条)という法律があったと思われます。
 浅川のモデルだったと見られる博愛丸の大船頭兼漁業総監督は、会田金吾の『漁
(すなど)り工(つく)る北洋』(五稜出版社、昭和63年8月)によれば、暴行傷害、不法監禁の容疑で起訴され、「監督権を行使したのだ」と主張しました。が、「他人を監禁し、逮捕し、暴行又は傷害せしむることが出来得る船内監督権がありと認むべき何等の根拠がない」という理由で却下されてしまいました。判決は懲役4月(大正15年12月11日、函館区裁判所)。
 この博愛丸には、船主兼経営者も乗っていました(判決は罰金30円)。しかし漁業総監督のほうが一回りも年上であり、「一切ノ権限」を委譲された形で、現場では独裁者のように振る舞ったのかもしれません。
 ただ、このように実情を整理してみますと、蟹工船の監督たる者は、粗暴な暴力団の兄貴分じゃあるまいし、『蟹工船』の浅川みたいに、やたらとピストルをちらつかせる必要などなかったのではないか。そういうふうに考えられるわけです。
 
 以上のように、当時の実態を常識的に整理してみますと、小林多喜二の『蟹工船』はやや現実を逸してしまったところがある。それは否定できないところだと思います。
 ただし、そうは言っても、必ずしも私は、だから多喜二の『蟹工船』は未熟な作品だったと考えているわけではありません。むしろ以上のように整理することによって、逆に多喜二の博愛丸事件に対する態度がより鮮明に現れてくる。それはどういう点かと言えば、多喜二は門司丸で起こったようなストライキにはほとんど関心がなかった。博愛丸のような暴行事件のほうに、より関心を?き立てられたのではないか、ということです。
 なぜなら、門司丸事件のような形で事業主の譲歩を勝ち取ることは、調停主義的な妥協によってストライキを終息させる結果となり、かえって労使間の非妥協的な対立を妨げることになりかねないからです。
 当時の労働組合運動は大きく二つの傾向に別れ、対立していました。一つは、ストライキを最終手段としながら、経営者側から一定の譲歩を引き出して、労働環境や労働条件を改善し、少しずつ労働者の権利を拡大してゆくやり方です。もう一つは、経営者との話し合いで安易な妥協点を探るのではなく、非妥協的な態度で闘争を激化し、全国の戦闘的な労働組合と共闘して、資本主義体制そのものに揺さぶりをかけるやり方です。小林多喜二は後者の側に立っていました。当時の彼の文章を読んでいますと、しばしば「社会民主主義者」とか、「調停派」とか、「ダラ幹(経営者に妥協的な組合幹部)」とかいう言葉が出てきますが、これらは後者の立場で前者を非難、攻撃する時の政治用語です。
 『蟹工船』を書いた時、小林多喜二は明らかに後者の側に傾きつつありました。その証拠に、『蟹工船』の漁夫や雑夫は「要求条項」を掲げ、ストライキに立ち上がるわけですが、その「要求条項」がどんな内容だったか、1行も書いていません。漁夫や雑夫の間に溜まっていた不満の全てが「要求条項」だったと見ることもできますが、多分小林多喜二は、彼等が「要求条項」の具体的な内容について監督たちと交渉し、譲歩を勝ち取るプロットを考えてはいませんでした。
 浅川を、話し合いに応じるタイプではなく、粗暴で傲慢な男に描いたのも、そのためだったと言えるでしょう。
 
 蟹工船のように〈出口なし〉の閉ざされた空間に、東北・北海道の各地からリテラシー(読み書きの能力)の低い労務者を寄せ集めて、劣悪な労働環境に置き、帝国の富強を口実とする暴力を加えた時、何が起こるか。
 『蟹工船』は小林多喜二が調査を基づいて書いた、プロレタリア・リアリズムの文学だ。これまでの研究者の多くは、そういう先入観で論じてきましたが、上のように整理してみれば分かるように、これは極限状況の設定に基づく、一種の実験小説でした。この極限状況の中で何が起こるかについて、小林多喜二は先のような政治的な立場により、既に一定のプロセスを用意していました。それは、一つには、もはや「要求条項」に関する話し合いの余地がないほど対立が激化して、漁夫や雑夫が暴発的なストライキにまで突き進んでしまうこと、そして二つには、軍隊(海軍)がストライキの鎮圧に出動したという形で、「殖民地」における資本家と軍隊の結びつきを「暴露」することでした。
 倉田稔さん
(『小林多喜二伝』前出)が博愛丸事件に関する報道を丁寧に調査し、10本以上の新聞記事を紹介していますが、その記事のどれを取っても博愛丸のストライキを報じていません。多分実際にストライキが起こったことはなく、では何故博愛丸における暴行事件が明るみに出たかと言えば(博愛丸の)入港と同時に、漁夫、雑夫十余名は、函館水上署に出頭し、蟹工船の監督・阿部金次郞(金之助…)が出漁中、漁夫、雑夫を虐待し、なお二名が行方不明なった事件を訴え出た」からです(『小樽新聞』9月8日)。
 当然のことながら、海軍がストライキ鎮圧に出動したとか、海軍が逮捕したストライキの首謀者を警察に引き渡したとか、そんな意味の記事は一つも出てきません。常識で考えても、海軍が民間の蟹工船のストライキを鎮圧するために出動するなんてことはありえないでしょう。軍隊に於ける反乱罪が適用される事態が発生したのならば、これはまた別の話ですが。
(註5)
 また、私は倉田さんとは別に、蟹工船のストライキに言及した本に何冊か当たってみましたが、事業主と交渉し、事業主が譲歩する形で決着がついた場合、警察は事情聴取を行ったようです。しかし、ストライキの首謀者を逮捕したケースはありませんでした。
 
 そんなわけで、やや単純化して言えば、博愛丸事件は、博愛丸にとっては初めての就労であり、事業主にも漁雑夫にも不熟の面が多かった。その間にあって、いわば全権を任された形の監督の粗暴な性格が災いして起こった事件だった、と見ることができます。
 では、その暴行事件を手がかりに、どのような文学的な想像力と表現方法を駆使して、漁夫や雑夫を暴発的なストライキにまで突き進ませ、「殖民地」における資本家と軍隊の結びつきを「暴露」するか。
 小林多喜二の実験小説的な課題はそこにあり、その意味では、実存主義的な実験小説とは性質が異なりますが、これまで分析してきた『蟹工船』の表現特徴は、ただ現実をなぞるリアリズムではなく、実験小説的な設定にリアリティを与えるものだった。そのために、モダンな経営感覚によるモダンな装備の「工船」だった側面は消去し、その反対に、非人間的な環境と苛酷な労働を比喩表現の多い文体で、油絵的に粘っこく塗り上げてゆく。その必要性、あるいは必然性がお分かりいただけたか、と思います。
 以前私は、〈多喜二における虚構性とリアリティとの問題〉と言い、〈文学的可能性の追求するリアリズム〉という言い方をしましたが、それは以上のような意味にほかなりません。

(註1)会田金吾の『漁り工る北洋』(五稜出版社、昭和63年8月)には、「漁場の楽しみは、何と言っても喰うこと、寝ること、時化の時、また家族からの便り、網卸し祝、お盆行事などで、漁場体験なしでは、その気持は語れない。網卸しと、お盆は、酒一合、瓢?パン、ボタ餅四つ位が与えられる。酒不飲の人もいるので甘い物と交換し、結構飲める。それに隠しドブロクである」とある。この「網卸し」は、鰊漁においては、大漁祈願をかねた漁夫慰労の祝儀だった。唄と踊りで夜更けまでサンザめき、親方も船頭もソーラン音頭やキリ声をかけられ胴上げされたりした。このような漁師の行事と心性は蟹工船にも受け継がれていたと思われる。なお、「隠しドブロク」については、「日魯の米の仕込予算は、一人一日八合の割で、それゆえ飯だけは十分である。残飯は大方豚の餌か、投げ棄てるので、それでドブロクを作る人もいた。ドブ「だね」は密かに漁場へもってゆくので容易に仕込める。」(会田金吾『漁り工る北洋』)
(註2)岡本正一の『蟹罐詰発達史』(霞ヶ関書房、昭和19年9月)によれば、大正15年、北辰漁業株式会社の英航丸で、ストライキが起こった。小樽水上警察署の調査報告によれば、「同船の雑夫は東京其の他から募集せられた為、蟹工船の作業に何等経験なき者を大部分とし、昼夜の別判然せざる北洋に於て、午前三時より夜一〇時頃迄作業に従事し、然も狭隘な船内の二〇〇名余の多数が起臥してゐたのに、衛生設備も亦完全でなかつたので、同船は出漁中一四名の疾病者を出した。然るに雑夫長今作太郎は無経験者の能率挙らざるの故を以て、病者健康者の別なく之を酷使し、暴力を以て就業を強ひたので、之に堪へ兼ねた雑夫四名は、同年五月二九日同船備付の伝馬船に乗つて脱走を企てた」。その後も苛酷な労働の強制が続き、ついに七月二日、雑夫一同がストライキに入り、待遇の改善を要求した。「これによつて同社々長明石武夫は急遽来船することとなり、幹部と協議の結果、雑夫の要求を全部承認し」た、という。
(註3)会田金吾は『漁(すなど)り工(つく)る北洋』(前出)で、「カムチャッカの昼は長く夜は短い。オブルコ漁場の四、五月の気温はマイナス五~十度であった。だから春の蟹場作業は苦労する。」と語っている。ただし、松谷三郎の『工船蟹罐詰に就いて』(埜邑商店、大正15年2月)は、「夏期は一体に海洋的気候にして涼しく七、八月の平均五十七度なり」と言い、同書の「温度比較表」によれば、西勘察(カムサツ)加(カ)コンバコフ、ウオロスコイ沖の6月上旬は、気温42度、海温40度、底温38度(多分いずれも華氏)。7月中旬は、気温69度、海温51度、底温49度(同前)だった。ちなみに、博愛丸で不法監禁、暴行傷害事件が起きたのは、西カムチャツカ海岸カフラン沖に出漁中の大正15年5月27日頃。
(註4)『蟹工船』には、何箇所か、漁夫が少年の雑夫を性的な慰みの対象とする場面が出て来る。だが『蟹工船』の語り手には、それを性的虐待とする視点がなく、むしろ不可避的なこと、ありがちなこととして語っている。残念ながら、この点に関しても、「『蟹工船』の語り手は全く意識しておらず、またこの意味を問い返すこともない」。「『蟹工船』の語り手は、疑いもなく漁夫のものであった。」
(註5)山村聡の映画『蟹工船』では、海軍の兵士が漁夫や雑夫に発砲し、射殺するシーンを作っていたが、そんな軍法会議ものの殺人罪を犯すはずがない。
 

|

« 判決とテロル(9) | トップページ | 判決とテロル(10) »

「文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

「情報?(こんなの情報って言えるのか?そもそも)」のたれながしテロ(執筆で行う暴力)ですね…。このサイトじたいオカシイのではないですか…?。。


しかも美術館博物館施設の運営にかかわってらっしゃる方がこんなことして…ご自身はどう思われているのでしょうか…。


亀井さんって「小樽文学館」の館長さんなんですよね…(北海道の子会社??よくわかりませんが)子会社の社長が本社の誹謗中傷?って凄いですよね…。小樽ってそんなに偉いんだ(感心します)…な訳ないと思うけど。。


私が貴社(小樽文学館)の従業員だとしたらこんな上司は嫌です。(外部だろうが内部だろうがその「会社の名前」を使用して生きているる以上…同僚?と思わざるをえません)。


美術館博物館の「館長」として働いている人が、よその施設とはいえ、その施設の人の話を赤裸々に(よく読むと、このサイトに記載されている名前の人たちに「許可」もとっていないなようですし)書きまくっている…。


恥ずかしいと思うし、貴社(小樽文学館)にも非正規従業員はいらっしゃらないのでしょうか…?


その人たちに聞けばいいと思います。このままこの「サイト」に色んなことを書くことを「どう思ってるのか?」…って


たぶん「答えられない」と思いますよ。聞かれて…自分も逆らうと「解雇」されると思ってしまうから…。それが非正規ということの現実だし「部下(内部とか外部とかは別)」のです。


非正規従業員が「解雇」という不安になる文字からなかなか逃れることができないのはやはりひとつの現実です。


人の批判や心配をしているヒマがあったら、貴社(小樽文学館)の従業員の方や、貴社(小樽文学館)の情報をもっと発信してほうが、よいのではないでしょうか…。


このブログ?ホームページにはこんなにたくさんの情報(別に客として聞きたいとは思わないいらない内容の文章)が載っていますが、、


かんじんのご自身の職場【小樽文学館】のホームページには「な~んにも情報がない」ですよね。。展覧会のお知らせくらいしかないです…。


なので、なんの説得力もありません。


亀井さんがかかわっているのだとしたらご自身の職場のことを少し心配されてはいかがでしょう…?今は観光シーズンですし、、お客の取り合いならわかるけど…


このサイトでは一方的に他者(ここでいう小樽文学館?北海道立文学館?北海道?正規の北海道?や小樽文学館の従業員)を「傷つけている」ように思いますよ。


館長さんって何も指示したり命令したりしないんですか…?


「指示・命令」を強制されるのは幼稚園や保育園にはいっている3歳は難しいかもしれませんが5歳の子どもでも理解できる話です。


このサイトでは「指示・依頼・命令」は従業員が嫌だと思ってら「守らなくていい」という子どもじみた話ですよね…。


私は非正規従業員ですので、このサイトに書いてあることが「非正規従業員」は馬鹿だと思われるんじゃぁないか…と思ってしまい、ついコメントしていますが、、、


それと、このサイトに書いてあるご自身の「娘」さん?の話している?(取材記事?本人代筆?内部情報が赤裸々すぎてとても外部?の人間が執筆しているとは思えない)内容はどれを見ていても正当性があるように記載されてはいますが、、日本の国で「従業員」として働いている人間には日常茶飯事なことばかり…だとお思いにはならないのでしょうか?


学芸員だかなんだかわかりませんが、研究するのがお仕事ですか…?たしか水族館みたいなところにいる人も学芸員?ですよね。。


(そもその非正規の研究員ってそんなに偉くないと思うけど、けっこう偉そうなコメントばかりが書いてあって娘さんの当時の「身分」からは想像も出来ないようなどうしようもない「ものいい」だったりしていると思います)


誰かのことが「嫌い」だから「言うことを聞かない」のが正当だ!と


本当にそれが「正義?で真実だ!」というのなら、今私が非正規従業員で働いていてまわりにいる職場・社会・国家???全てが「敵」になる…ということが分かったくらいでしょうか…。


以上長々書きましたが、、、このサイトに書かれている色々な話には賛同できませんし、参考になりません。非正規従業員が馬鹿だと思われるだけなのでたいがいにしていただきたいです。では。

投稿: あちこちで非正規従業員 | 2009年8月12日 (水) 11時14分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/127704/45606498

この記事へのトラックバック一覧です: インターミッション:

« 判決とテロル(9) | トップページ | 判決とテロル(10) »