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判決とテロル(8)

深層構造論の視点で(その1)

○予備的な考察(1)
 あるデモ行進の取材に出掛けたレポーターが、実際に見聞した出来事について、「デモ隊が警官隊と対峙した」と書くことは十分にあり得るだろう。だが、「警官隊がデモ隊と対峙した」と書くかもしれない。
 また、そのレポーターはデモ隊を暴徒と呼び、「暴徒が警官隊を襲った」と書くこともあれば、「警官隊が暴徒集団を襲った」と書く場合もある。そして、その結果については、「警官隊が暴徒を追い払う(police disperse rioters)」と見るかもしれないし、「暴徒が四散する(riot disperses)」と見るかもしれない。

 ロバート・ホッジとガンサー・クレスの2人は、共著『イデオロギーとしての言語』(Robert Hodge and Gunther Kress, “Language as Ideology.” Second Edition, 1993)という独創的な言語研究の中で、以上のような例を挙げて、次のようなことを指摘した。
《敷衍的要旨》
 このように、同じ事件に遭遇した新聞記者たちの誰もが、同じ言葉を選ぶとは限らない。また、その事件の行為主体の――デモ隊、または警官隊――どちらを主語に選んで記述するかについても、決して一定はしていない。ただ、先ほどの例で分かるように、言葉の選び方や、主語の選び方によって、それぞれの記者の事件に対する見方や評価が表出される。このことは明らかだろう。私たち新聞の読者は、どの新聞がどんな見方や評価をするか、おおよその傾向を知っている。そこで、事件に関する自分の推定を逆撫でしないだろう傾向の新聞を購入し、その報道を元に「実際に起こった現実」を議論したり、考察したりしているわけだ。

 この《敷衍的要旨》の前半は、私が前後の文脈から補った意見だが、ホッジとクレスの趣旨を失ってはいないと思う。
 ただ、少し困ったのは、ホッジとクレスの2人がdisperseという言葉を、”police disperse rioters”、”riot disperses”と、現在形の例文を使っていたことである。この言葉は英語では他動詞にも自動詞にも使うわけだが、日本語では「四散させる」、「四散する」と使い分ける。だから、実際の出来事に即した日本語としては、「警官隊が暴徒を追い払う」、「暴徒は追い払われる」とするほうが自然な言い方に聞こえるだろう。だが、そういうふうに訳してしまうと、ホッジとクレスの趣旨から外れてしまう。その理由は後ほど説明することとして、取りあえずは上記の例文を前提として考察を進めさせてもらいたい。

○言語表現とイデオロギー
 さて、以上の簡単な紹介からもある程度推測ができるように、私たちが現実の出来事を見、それを言葉に現すとき、何らかのイデオロギー的な意味づけを行っている。全くイデオロギー的な意味づけを行わず、中立的な立場で見、無色な透明な記述を行うことはできない。ホッジとクレスの2人はそう考えたのである。
 デモ隊の要求を正当な主張だと考える新聞社の記者は、「デモ隊の行進を警官隊が阻み、暴力的に追い散らした」という方向で書くだろう。その反対に、デモ隊の要求ばかりでなく、デモという行為自体も好ましくないと考える新聞社の記者は、「警官隊がデモ隊の行動を規制しようとしたが、デモ隊が規制に反する行動に出て、暴力を伴う衝突になったため、暴徒化したデモ隊を追い払った」という方向で書くだろう。
 いずれの場合も新聞社のイデオロギー的な立場は明瞭であり、それが記事に反映したわけだが、それでは、そのいずれにも属さず、いずれの立場からも中立的な距離を取りたいと考える新聞社があったとして、その中立的な立場を反映する書き方とはどのような書き方になるだろうか。
 
 いや、そんなことを問う以前に、まずホッジとクレスの例文の挙げ方そのものを問題にすべきだ。なぜなら、この2人はデモ隊を暴徒と呼ぶ例を挙げたが、警官隊を国家権力の暴力装置と呼ぶ例文を挙げなかった。そこにこそ、2人のイデオロギーが隠されていたと言うべきで、これが彼らの学問の中立性を損ねているかもしれない。そういう疑問も生まれてくるだろう。
 
○言説規則と言語表現の客観性
 こんなふうに考え始めると、そもそも中立、客観的な言語表現とは可能だろうかというやっかいな問題に突き当たってしまうわけだが、私個人の考えでは、全ての言説ジャンルに通ずる中立、客観的な言語表現はありえない。なぜなら、どのような言語表現も、その表現を行う人の対象的な認識の現れであり、それと共に、その人の生活意識を反映してしまうからである。
 ただしこのことは、決して〈だから中立、客観的な言語表現など不可能だ〉というペシミズムを意味するわけではない。どのような言説ジャンルにも、その言説ジャンルに参加する人たちが習得し、共有する言説規則がある。その言説規則に従うかぎり、お互いに中立的で客観的な表現だと了解することが可能な、そういう表現態というものがある。その言説規則がどこまで開かれたものであるか、その言説ジャンルの参加者によって言説規則の妥当性がどこまでラジカルに自覚され、実践されているか。そのことによって、言語表現の中立性や客観性の質が決まってくるのである。
 
○見せかけの中立性
 裁判という言説ジャンル、法廷という言説空間における発話もその例外ではない。
 亀井志乃は平成20年3月5日付の「準備書面」で次のように書いた。これまでの引用から分かるように、下線を引いた箇所は田口紀子裁判長が「判決文」から削除した部分であり、( )内の青い文字の文章は田口紀子裁判長が書き換えた表現である。
《引用》

(11-1)平成18年10月28日(土曜日)
(a)被害の事実(甲17号証を参照のこと)
 原告が朝から1人で閲覧室の業務を行っていると、午前11時頃、被告が閲覧室に来て印刷作業をし、帰り際に、原告に対して、「文学碑の仕事はどうなっているの」と聞いた。文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、原告はデータの更新を行っていなかった。原告は「いいえ、特に何もやっていませんでした」と答えた。すると、
被告は、平成18年10月28日、閲覧室で業務を行っていた原告に対して、「文学碑の仕事はどうなっているの。」と聞いた。文学碑データベースについては、各市町村・自治体から特に新たな情報は入っていなかったので、データの更新を行っていなかったことから、原告は、「いいえ、特に何もやっていませんでした。」と答えると、)被告は、「やってないって、どういうこと。文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの? もう、雪降っちゃうよ」と、原告を急き立てたと言い、)更に被告は、「5月2日の話し合いで、原告が文学碑のデータベースをより充実させ、問題点があれば見直しをはかり、さらに、原告が碑の写真を撮ってつけ加えてゆく作業をすることに決まった」、「これらは、原告が主体となって執り行うべき業務である。それを現在まで行わなかったのは、原告のサボタージュに当たる」という二点を挙げて、原告を責めた(等と言った)
 しかし、5月2日の話題((2)の項参照)はケータイ・フォトコンテスト、または文学碑写真の公募という点に終始し、被告が言うような決定や申し合わせはなされていなかった。そこで原告は、「そのようなことは決まっていません」と反論したが、被告はあくまで「決まっていた」と主張し、「どうするの。理事長も館長も、あんたがやるって思ってるよ」と言った。 それを聞いて原告は、おそらく誤った情報が理事長や館長に伝わっているのだろうと思い、「分りました。では、私が理事長と館長にご説明します」と言った。被告は慌てて「なぜ、あんたが理事長や館長に説明しなきゃなんないの」と言い、原告の行動を阻止した。(23~24p。太字は引用者)

 田口紀子裁判長は「しかし、5月2日の」以降を全て削除してしまった。このことにも重要な問題が含まれているのであるが、その点はいずれ取り上げることとして、ここでは下線を引いた太字の箇所に注目してもらいたい。
 亀井志乃は、寺嶋弘道被告が原告(亀井志乃)を
「急き立てた」「二点を挙げて、……責めた」と書いたわけだが、田口紀子裁判長はいずれも「言った」と書き換えている。田口紀子裁判長としては、亀井志乃の書き方は感情的であり、それを取り除いた形で、事態を客観的に記述し直すつもりだったのであろう。

○亀井志乃の表現が尊重されるべき理由
 ちなみに私は、亀井志乃の文章を基盤としてこのブログを書き進めてきた。要するにそれは、ただ一方的に亀井志乃の言い分を押しつけているだけではないか。そういう疑問を覚えた人もいるらしい。ずっと以前だが、そういう口ぶりの書き込みをした人がいる。
 だが、事情は決してそうではない。
 亀井志乃の3月5日付の「準備書面」に対して、寺嶋弘道被告は「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)を提出し
「『いいじゃない、やりなさい』と積極的に肯定した被告の発言を『いいじゃん、やれば』と否定的に用語転換し、『嘲笑的』『無関心な態度』だとする準備書面の文言は、原告が今般の訴訟に際して悪意をもって記述した意図的な作文である。」2p)とか「被告が駐在道職員として文学館に着任したのは4月4日(火)ではなく4月1日(土)である。この日付の間違いによって明らかなのは、今般の準備書面の記載内容が原告のあいまいな記憶に基づく後日の作為的な記述であるということである。」2P)とかと、反論をしてきた。
 それに対して亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―1」(5月14日)で物的な証拠を挙げ、また状況証拠となりうるだけの記述態度によって事情説明をして、〈それでもまだ被告の言い分が正しいと主張したいならば、それを裏づける証拠を提出し、状況説明をすべきだ〉という意味の反論をした。
 ところが、それに対する被告の対応は、――繰り返し引用することになるが
――「被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということだった。
 寺嶋弘道被告としては〈反論はしないが、それは必ずしも原告の言い分を認めたことを意味しない〉と言いたいところかもしれない。だが、反論を放棄した事実は残る。
 田口紀子裁判長はこの事実を尊重すべきであり、亀井志乃の表現に手を加えてはならなかったのである。

○裁判官の中立的、客観的な態度に反した田口紀子裁判長
 それに、もし田口紀子裁判長も亀井志乃の記述に疑問を感じたならば、10月31日の本人尋問や、その他の機会に確かめることができたはずである。だが、田口紀子裁判長はそうしなかった。10月31日に本人尋問があり、亀井志乃が「最終準備書面」を12月12日に提出してから、田口紀子裁判長が今年の2月27日に判決を下すまで、2ヶ月半近くの時間があった。田口紀子裁判長には亀井志乃の主張を検討する時間的な余裕が十分にあったわけで、もし亀井志乃の主張に矛盾や間違い、虚偽を見出したらなら、それを判決文で指摘できたはずである。だが、判決文にそのような指摘は1箇所もなかった。
 
 以上の意味で、亀井志乃が裁判で提出した文章は寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士、及び田口紀子裁判長の検証を経たものであり、当事者によって承認された客観的な文章と見て差し支えない。
 別な言い方をすれば、田口紀子裁判長は、亀井志乃の主張について、その表現の細部まで尊重し、これを勝手に改変してはならない。それが裁判における裁判官の中立的、客観的な態度なのである。
 
 他方、亀井志乃は寺嶋弘道被告の「準備書面」と「陳述書」及び10月31日の証言、さらには平原一良の「陳述書」について、その虚偽を何点も指摘しておいた。ところが田口紀子裁判長は、何の根拠も示さずに、
被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない。(25p)の一点張りで、亀井志乃の指摘を無効にしてしまった。これはとうてい中立的、客観的な裁判官の態度と言い得ないだろう。
 
○田口紀子裁判長の作為
 分かるように、田口紀子裁判長が亀井志乃の
「急き立てた」「言った」と書き換え、二点を挙げて、……責めた」「言った」と書き換えたこと自体が、裁判官としての中立、客観を犯す行為だったわけだが、実は、この書き換えは、もっと手の込んだ作為に基づいていたのである。
 10月28日に寺嶋弘道被告と亀井志乃との間で争われた、5月2日の出来事にもどってみよう。
《引用》
 
(2)平成18年5月2日(火曜日)
(a)被害の事実(甲13号証を参照のこと)
 原告は平成17年度、平原一良学芸副館長(当時、のち副館長)の依頼で、北海道の文学碑に関するデータベースを作った。平成18年4月7日
(1)の事柄があった直前、原告は被告に文学碑データ検索機を見せたが、その時被告は「ケータイ(携帯端末機)で一般の人たちに写真を撮ってもらい、いい写真をえらんで、検索機にのせますからどんどん募集して下さいと言って、画像を集めればよい」、「そうすれば、館の人間がわざわざ写真を撮りに行かなくとも、画像は向こうから集まってくる」というアイデアを口にした(という提案をした)。 
 それから
約1ヶ月後の5月2日(火曜日)、原告は被告から「文学碑の写真のことについて話をしとかなきゃいけない」と声をかけられ、館長室で、学芸副館長を交え、三人で話し合った。被告が持ち出した話は(の話しは「文学碑検索機のデータベースの、画像がないものについて写真を集めたい。原告が企画書を書き、中心となって、その仕事を進めて欲しい」という内容で、写真の集め方は明らかにケータイ・フォトコンテストを前提にしていた。
 しかし、そのデータベースは市販のパソコンソフトを利用したものではなく、業者に発注してプログラミングしてもらったものであり、使用画像の大きさ・画素数や、データ1件の画像数を1枚とする等のフォーマットが、あらかじめ決まっていた。

 
フォトコンテストを行なうとすれば、まだ画像のない文学碑のフォトだけでなく、むしろ人気の高い文学碑のフォトがたくさん集まる可能性が高い。また、携帯端末機に付随する写真機の性能によっては、画像の画素数もまちまちとなる。それらの応募画像を検索機に載せることになれば、再び業者にフォーマットを作り変えてもらわなければならず、少なからぬ経費が必要となる。また、コンテスト自体、おそらく文学館にとって大きなイベントとなり、予算をつけなければならない(つけなければならないことになると考え、(以上、この段落の内容については甲14号証を参照のこと)
 
原告には、果たして嘱託職員の自分がそういう企画の中心的なポジションにつくことが出来る立場なのかどうか、という疑問があり(疑問を持ったことから念のため予算問題やスケジュール問題を確認しておこうと、「私はそういうことが出来る立場では…」と言いかけた。
 
ところが、その途端、被告が原告の言葉を遮り、「そういう立場って、いったいどういうことだ。最後までちゃんと言ってみなさい!」 と問い詰めはじめた(と言った)原告は、自分の立場は嘱託職員であることを説明した。だが被告は、「職員ではないとはどういうことか。立派な職員ではないか。財団の一員ではないか」と主張をした。
 
原告は学芸副館長に、原告の立場を被告に説明してくれるように頼んだ。学芸副館長は「前年度までは確かにそうだったが、この春からは、亀井さんは館のスタッフとなった。そして我々は仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担をしようということになった」と言った。しかし原告は、前年度の3月に、安藤副館長から、従来通りの嘱託員に関する規約を示され、「亀井さんは、実績さえあげてくれればいい人だから」と言われ、それ以後誰からも、原告の身分が変わったと伝えられたことはなかった。学芸副館長がいう「スタッフ」という役職名は財団法人北海道文学館の規程のどこにも見られない。その意味で、学芸副館長の説明は嘱託職員の実態を適切に説明したものとは言えなかった。
 
原告は嘱託職員の立場を、「一定の専門的な能力を評価され、時間契約によって文学館の業務を手伝い、あるいは文学館の業務の一部を請け負って、求められた成果を挙げる」立場と理解していた。そのため、改めてその立場を確認しながら、「原告の立場で(前年度から文学碑データベースの作成を請け負ってきたものとして)意見を言えばいいのか」と聞いた。だが、学芸副館長と被告は、「意見」ではなく、「アイデア」を出してほしいと言い、「アイデア」だけでなく「プラン」も立ててほしいと言った。しかし結局、副館長と被告の主張は、概念規定も曖昧なまま「テーブルプラン」「アイデアのコンテンツ」など言葉の言い換えに終始し、何をどこまで原告にしてもらいたいのか曖昧なまま、話し合いは終わった。35p。下線、太字は引用者)

 田口紀子裁判長は又しても大事な箇所を大幅に削除してしまったが、さし当たりここでは、〈平原一良学芸副館長と寺嶋弘道学芸主幹はひたすら言葉を言い換えるだけで、事態を詰めて考えることから逃げていた〉ことを指摘し、〈亀井志乃が文学碑の写真を撮って来る話は一切出ていなかった〉ことを確認するに止めたい。
 
 むしろ私が注意を促したいのは、亀井志乃が、「寺嶋弘道被告は『……』という
アイデアを口にした」と書いたところを、わざわざ「寺嶋弘道被告は『……』という提案をした」と書き換えたことである。
 「アイデアを口にした」ことを「提案をした」と書き換えることは、事態の客観性を高めることにはならないし、裁判官の中立性を保証することにもならない。その意味では全く無意味な差し出口でしかなかったが、なぜ田口紀子裁判長はこのように余計な書き換えをしたのであろうか。

○田口紀子裁判長が気づくべきだったこと
 唯一考えられる理由は、〈寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃にフォトコンテストを「提案」したのであって、10月28日の閲覧室における会話も、亀井志乃に仕事の進捗状況を確かめただけであり、決して「急き立てたり」、「責めたり」はしなかった〉。田口紀子裁判長は、そういう紳士的な常識人に、寺嶋弘道被告を仕立てたかったのであろう。
 これまで私が指摘してきた、田口紀子裁判長のリライトの傾向から判断して、田口紀子裁判長は一貫して寺嶋弘道被告から紳士的な良識人の印象を受けていたらしい。それはまあ「……も好きずき」と見るべきで、他人がとやかく言う筋合いではない。だが、これほど露骨に判決文に反映されると、果たして裁判官としてはいかがなものか。そういう疑問は禁じ得ない。

 そもそも寺嶋弘道学芸主幹は4月7日、提案などしなかった。もし提案だったならば、5月2日、亀井志乃に「文学碑の写真のことについて話をしとかなきゃいけない」などと声をかけるはずがない。「先日提案しておいたこと、どうなりましたか。そろそろ相談したいのですが」という意味の言葉をかけたはずである。その意味で、もし田口紀子裁判長が普通に「文脈」ということを心得ている裁判官ならば、当然「提案した」と書き換えた時に生じる矛盾に気がつくべきであった。

○虚偽に荷担した田口紀子裁判長
 それだけではない。寺嶋弘道被告は4月13日に、自分が中心になって「事務分掌」を取り決めたと主張し、亀井志乃がその主張の幾つかの点に関して疑問を提出してきたにもかかわらず、田口紀子裁判長は――その根拠を示さず、ただ一方的に――寺嶋弘道被告の主張を支持した。いま仮に寺嶋弘道被告の主張が正しいとするならば、なぜ彼は4月13日の打合せ会に先立って、あるいは4月13日の翌日、平原学芸副館長と一緒に亀井志乃と会った時、フォトコンテストに関する企画立案が平成18年度の亀井志乃の業務の一つであることを告げ、亀井志乃の了解を取らなかったのか。もしその手順を踏んでいれば、5月2日の話し合いはあのような展開にならなかったはずである。

 田口紀子裁判長が普通の注意力をもって原告と被告の主張を読み、証拠物を検討していれば、裁判長自身が「4月7日、寺嶋弘道被告は『……』という提案をした」と書き換えることは、4月13日に自分が中心となって決めたと寺嶋弘道被告の主張する「事務分掌」の内容や、5月2日の話し合いにおける寺嶋弘道学芸主幹の言動とは、決して整合しない。大きな齟齬があることに気がついたはずである。
 だが、田口紀子裁判長はそれを無視して
「(平成18年5月2日の被告の言動について)そのいい方が、原告に不快な印象を与える点があったとしても、原告の職務を妨害する意図や、原告を侮辱する意図のもとに行われたとまでは認められず、許容限度を超えた違法な行為とまで認めることはできない。」(17p)と判決を下した。
 この判決文自体にも問題があるのだが、そもそもこのような判決に至るまでの間、田口紀子裁判長は意図的に亀井志乃の記述を歪めて、虚偽の記述を行い、あるいは寺嶋弘道被告の虚偽に荷担していた。
 田口紀子裁判長はこのようにして、みずから裁判官としての中立性と客観性を損ねてしまったのである。
 
○予備的な考察(2)
 ところで、今回の初めに紹介した言語表現に関する分析は、ロバート・ホッジとガンサー・クレスの言語研究のごく初歩的な考察にすぎない。
 彼らの独創的な点は、ノーアム・チョムスキー(Noam Chomsky)の変形生成文法の理論を作り替えながら、一つの文を表層構造または表層形式(surface structure or surface form)と、深層構造(deep structure)とに別けて捉え、隠れたイデオロギー的機能を明らかにする方法を拓いたことにある。
 彼らはその方法を説明するために、まず「文」を大きく、「A 行為文(actionals)」と「B 定義文(relationals)」に別け、前者については更に「①処置文(transactive)」と「②非処置文(non-transactive)」に、そして後者については「④命題文(equative)」と「④特性文(attributive)」とに別けた。
 私のこのような訳語に疑問を感ずる人も多いと思うが、日本語としての分かりやすさを意図したものであり、その点は了解してもらいたい。改めて図表化すれば、次のようになるだろう。

A 行為文 ①処置文  中島がボールを打つ
      ②非処置文 中島が走る
B 定義文 ③命題文  中島は野球選手だ
      ④特性文  中島は早い

 つまり、①処置文とは、〈行為者(中島)がどんな対象(ボール)に対してどのような行為(打つ)をするか〉を述べる文であるが、②非処置文は行為者と行為のみを述べて、対象を伏せている。ただし、①と②の違いは、行為に関する動詞が他動詞であるか、自動詞であるかの違いではない。行為の対象が明示されているか否かの違いであって、中島が何を飲むかを明示せずに、「中島が飲む」と言えば、それは②に属するわけである。

 それに対して③と④の違いは特に説明の必要はないだろう。③は主語がいかなる存在であるかを述べた構文であり、④はその主語の属性を述べた文であって、その属性は形容詞で表される。

○表層構造と深層構造
 しかし、なぜそのような分類が必要なのか。
 いま仮にアナウンサーが「打球が高く上がりましたが、もう一つ伸びず、森本のグラブに収まりました」と実況放送したとしよう。この文の表層構造は、「打球」という行為者(主語)が、「上がる」「伸びず」「収まる」という行為をしたことになり、文型としてはA―②に属する。だが、実際は「中島が(ダルビッシュの投げた)球を打つ」「中島はバットの芯で球を捉えそこねた」「森本がフライを捕る」と、A―①の文型を3つ含んでいるわけで、深層構造における行為者は「中島」と「森本」となるはずである。
 同様なことは、最初に挙げた「暴徒が四散する(riot disperses)」という例文についても言える。これはA―②の形を取っているが、実際はA―①の「警官隊が暴徒を追い払う(police disperse rioters)」という行為の結果だとするならば、「暴徒が四散する((riot disperses)」の表現は、本当の行為者(警官隊)を文の表層構造から消去してしまい、深層構造の中に隠したことになるだろう。

 亀井志乃が、「寺嶋弘道被告は『……』というアイデアを口にした」と書いたところを、わざわざ田口紀子裁判長が「寺嶋弘道被告は『……』という提案をした」と書き換えた。これは上の事例とは逆の操作であって、亀井志乃はA―②の文型で書いたにもかかわらず、田口紀子裁判長はA―①に文型に書き換えた。そうすることによって、寺嶋弘道被告を良識的な学芸員に仕立て上げたわけだが、その裏の操作として、「(寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃を)急き立てた」「言った」と書き換え、「(寺嶋弘道主観は)二点を挙げて、……(亀井志乃を)責めた」「言った」と書き換えている。裁判官にはこういう恣意的な書き換えが許されている、と田口紀子裁判長は考えたらしいが、それは裁判官の思い上がりというものである。

○寺嶋弘道被告の深層
 そう言えば、寺嶋弘道被告は「陳述書」の中で、
逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して(a)強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした。/また、この『二組のデュオ展』では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず(b)後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。」5p。/は改行。下線は引用者)という言い方をしていた。
 (a)の場合、寺嶋弘道被告は「強い非難の声」を行為者(主語)として、A―②の構文を作ったわけだが、もちろん「強い非難の声」が勝手に「渦巻いてしまう」はずがない。彼はこの表層構造によって、「文学館の職員数人が亀井志乃の行動を非難していた」「自分はその声を聞いた」という〈事実〉をほのめかしながら、しかし具体的、明示的にそれを記述することを避けてしまった。
 また(b)の場合も、「亀井志乃は『道内美術館』とかいう施設に、作品図版カードなるものを持参しなかった」「『道内美術館』とかいう施設が亀井志乃の行動を批判した」「寺嶋弘道学芸主幹がその言葉を聞いた」「寺嶋弘道学芸主幹が『道内美術館』に電話をして、詫びた」という深層構造をほのめかしながら、しかし深層構造自体の出来事を具体的、明示的に記述することはできなかったのである。(これも前に紹介したことだが、寺嶋弘道被告は、亀井志乃から「道内美術館」はどこにあるのか、「作品図版カード」とは如何なるものなのか、と反論されて、答えることが出来なかった。
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。
 
○田口紀子裁判長の深層
 田口紀子裁判長もまた曖昧な言い方を得意としていた。以上の視点で、先ほど引用した文章を読み直してみよう。
《引用》
 
(平成18年5月2日の被告の言動について)そのいい方が、原告に不快な印象を与える点があったとしても、原告の職務を妨害する意図や、原告を侮辱する意図のもとに行われたとまでは認められず、許容限度を超えた違法な行為とまで認めることはできない。17p)

 こういう言い回しに接した時、特に眉に唾を附けて読む必要があるのは、「……としても」という助詞の使い方であろう。一見これは仮定法のようにみえるが、しかし仮定法ではありえない。なぜなら、「たとえ……としても」という仮定法は、相手の論理の矛盾を指摘したり、隠された真実を明らかにする方法であるが、この文章の場合はそれとは異なり、事実に関する認識を導き出すための前提を挙げる形になっているからである。つまり、この場合の「……としても」は、「……であるが、しかし」の意味なのである。
 更にもう一つ、この文章が曖昧なのは、
その言い方が」という表層構造における主語に対して、その述語部分が不明瞭な点にある。「その言い方が、……原告に不快な印象を与え、……意図のもとに行われ、……許容限度をこえた」となるのか、それとも「その言い方が、……認められず、……認めることはできない。」となるのか。
 それを明らかにするためには、深層構造における行為者(主語)を明示して、次のように整理するほかはないだろう。

イ、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃に不快な印象を与える言い方をした。
ロ、田口紀子裁判官は寺嶋弘道学芸主幹の言い方を(寺嶋弘道被告が亀井志乃の職務を妨害する意図や、亀井志乃を侮辱する意図をもって行った)とまでは認めない。
ハ、田口紀子裁判長は寺嶋弘道学芸主幹の言い方を(寺嶋弘道被告の行為は許容限度を超えた違法な行為)とまで認めない。

 このように、ロやハに該当する表現を、A―①の形に整理して見るならば、その中には更に「寺嶋弘道被告が亀井志乃の職務を妨害する意図や、亀井志乃を侮辱する意図をもって行った」というA―①の文章や、「寺嶋弘道被告の行為は許容限度を超えた違法行為」というB―③の文章が含まれている。そのことが分かるだろう。
 事実に関する叙述のレベルで言えば、「寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃に不快な印象を与える言い方をした」「寺嶋弘道被告が亀井志乃の職務を妨害する意図や、亀井志乃を侮辱する意図をもって行った」「寺嶋弘道被告の行為が許容限度を超えた違法行為」となる。
 それに対する判断のレベルは、「田口紀子裁判長は、……とまでは認めない」となるわけだが、田口紀子裁判長はその判決文の表層構造から、判断主体(行為者=田口紀子裁判長自身)を消し去り、深層構造のほうに追いやって、みずからの行為(判断)の責任を曖昧にしてしまう。それと併せて、なぜ「寺嶋弘道学芸主幹の言い方を(寺嶋弘道被告が亀井志乃の職務を妨害する意図や、亀井志乃を侮辱する意図をもって行った)とまでは認めない」のか、なぜ「寺嶋弘道学芸主幹の言い方を(寺嶋弘道被告の行為は許容限度を超えた違法な行為)とまで認めない」のか、その判断基準や判断の根拠を明示せず、曖昧に誤魔化してしまったのである。

○ホッジとクレスの理論の可能性
 以上の紹介だけでも、ロバート・ホッジとガンサー・クレスの『イデオロギーとしての言語』の重要さが分かるだろう。その着想が拓いた可能性は、エドィン・ジェントラーの『翻訳理論の現在』(Edwin Gentzler, “Contemporary Translation Theories.” 1993)に見られるような、最近の英語圏における翻訳論とも連動している。先ほどの田口紀子裁判長の判決文を、そのまま直訳的に英文に逐語訳したらどんな文章になるか。とんでもなく意味不明な文章になってしまうはずで、適切な翻訳を得るためには、一たん深層構造に整理し直して、その上でしっかりと内容を伝える英文に直すほかはないのである。

 ただしこのやり方では、「打球は高く上がりましたが、もう一つ伸びず、森本のグラブに収まりました」という実況放送のような、生きた表現を失ってしまう。翻訳ではなくて、通訳の場合、ある程度内容伝達の正確さを犠牲にしてでも、A―②の構文に従うほかはないだろう。その場合には、通訳する人がどれだけ英語表現におけるA―②の言い回しに通じているか。それが大きな条件になる。

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判決とテロル(7)

ウジは「ハエの幼虫」?

○寺嶋弘道学芸主幹の「職務の範囲」
 今回は、寺嶋弘道学芸主幹の「業務」について確認をしておきたい。
 
 亀井志乃が彼女の「陳述書」で詳述したように(「北海道文学館のたくらみ(44)」)、北海道教育委員会の学芸員は財団法人北海道文学館と連携協働するために、道立文学館に駐在することになったわけだが、その業務の範囲は学芸関係の専門的事項に限られている。
 具体的にそれはどんな職務であったか。念のために、財団と道教委との間で合意された「指定管理者の求めに応じて行う専門的事項」(甲35号証)を紹介しておこう。
 
1 資料の収集、保存、管理、閲覧に関すること
○資料の収集の計画及び調査の専門的事項に関すること ○資料の受入、保管、貸出等の専門的事項に関すること ○資料の保存、修復に関する専門的事項に関すること ○資料(図書、新聞、文献等)の収集、保管に係る専門的事項に関すること ○資料、文献に係る検索業務の専門的事項に関すること(司書業務以外)
2 事業の企画及び実施に関すること
(展示事業)○展示に関する企画及び実施に係る専門的事項に関すること 
(教育普及事業)○文学に関する講演会等の企画及び実施に係る専門的事項に関すること ○親子、子ども向け普及事業の企画及び実施に係る専門的事項に関すること ○資料、文献の解読 ○その他教育普及事業の企画及び実施に係る専門的事項に関すること 
3 解説資料、図録、要覧等の刊行物の作成に関すること
○刊行物の作成に係る専門的事項に関すること
4 広報活動に関すること
○広報内容の専門的事項に関する情報提供・取材協力
5 その他事業の専門的事項に関すること
  ○利用者への文学に関する相談(説明、助言)における専門的事項に関すること
  ○著作権の管理に関すること(司書業務以外)
  ○地域文化団体、学校への指導、協力における専門的事項に関すること
  ○他の文学館、博物館、研究機関等との連携協力における専門的事項に関すること
  ○その他文学館の事業に伴う専門的事項に関すること

 これが寺嶋弘道学芸主幹をはじめとする、駐在道職員3名の職務の範囲だった。分かるように、その業務は学芸員としての専門的事項に限られ、財団の業務課の仕事には手を出さないことになっている。
 寺嶋弘道学芸主幹は平成18年4月、道立文学館の駐在として着任するに当たり、「指定管理者の求めに応じて行う専門的事項」(甲35号証)の他に、もう一種「別紙」を渡されていたはずであるが、それによれば「施設運営業務」のうち、「観覧券販売促進に係る広報」「年間スケジュール等に関する文学館運営に関する広報」「文書収受・発送」「文書管理」「利用状況報告業務」「上記業務に付随する総括的業務・事務」などは指定管理者のみが行う。また「定期的な内部協議の実施」は指定管理者が主体となって実施することになっていたのである。
 その点から見ても、亀井志乃が業務課と相談しながら書類を作成したことには、何の手落ちもなかった。極めて正当な行為だったことが分かるだろう。それにもかかわらず、寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃の退勤間際に文学館に顔を出して、亀井志乃に書類の書き直しを強いた。「判決とテロル(4)」で指摘しておいたように、それは駐在の道職員としては全くの反則行為であり、パワー・ハラスメントだったのである。

○寺嶋弘道学芸主幹の「事務分掌」
 ただし、以上のことは駐在の道職員に課せられた職務の枠組みでしかない。この枠組みの中で、実際に寺嶋弘道学芸主幹に割り当てられた業務は、具体的にどのようなものであったか。
 亀井志乃が提出した「平成18年度 学芸部門事務分掌」(甲60号証)によれば、平成18年の3月、当時の職員が相談して、4月に着任する寺嶋弘道学芸主幹に割り当てた「事務分掌」のうち、彼が主担当の業務は次の9項目であった。

1 学芸部門の統括及び業務課との調整に関すること(副担当はS社会教育主事)
2 事業計画案および予算編成案の作成に関すること(副担当はS社会教育主事)
3 企画展〔デルス・ウザーラー絵物語展〕の企画、実施に関すること(副担当はA学芸員)
4 特別企画展〔池澤夏樹のトポス〕の企画、実施に関すること(副担当はS社会教育主事)
5 企画展〔聖と性、そして生―栗田和久写真コレクションから〕の企画、実施に関すること(副担当はS社会教育主事)
6 地域の市民団体、関係機関等の展覧会企画に対する指導、助言に関すること(副担当はS社会教育主事)
7 他の文学館、図書館、美術館、博物館、研究機関等との連携、協力に関すること(副担当はS社会教育主事)
8 博物館実習に関すること(副担当はA学芸員)
9 その他、文学館の事業に係わる専門的事項に関すること(副担当はS社会教育主事)

 また、寺嶋弘道学芸主幹が副担当に割り当てられた「事務分掌」は、次の6項目だった。

10 学芸会議の開催および調整に関すること(主担当はS社会教育主事)
11 著作権の管理に関すること(主担当はO司書)
12 企画展〔写・文交響―写真家・綿引幸造の世界から〕の企画、実施に関すること(主担当はS社会教育主事)
13 ホームページの運用、更新に関すること(主担当はS社会教育主事)
14 広報の専門的事項に関すること(主担当はS社会教育主事)
15 年報、年間事業案内等の編集、発行に関すること(主担当はS社会教育主事)

 亀井志乃はこのような事務分掌が作られた経緯を、「準備書面(Ⅱ)―2」で次のように説明している。
《引用》
 
事実を言えば、4月1日の時点で既に事務分掌が決まっていました。平成18年4月1日からの分掌をどうするか。この問題については、平成17年12月27日(火)に「課内打ち合わせ」の会議が開かれ、もちろん私も出席していましたが、その時「2006年度学芸課事務分掌(案)」が議題となりました(甲59号証)。この「案」と「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日。甲3号証)とは表の形式が違いますが、前者が後者の原型だったことは一見して明らかでしょう。一つの違いは、「案」の段階では、かなり年配の学芸課長が着任するという情報があり、それを前提として事務分掌が図られたことです。その時点では、新たに着任する年長の学芸課長に全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役をやっていただくことが前提となっていました。その後、3月に入ってから、新たに着任するのは年長の学芸課長ではなく、道職員の寺嶋学芸主幹であることが分かり、12月27日の「案」の議論を踏まえた、「平成18年度 学芸業務の事務分掌(正しくは「学芸部門事務分掌」)」(甲60号証。日付なしの分掌表)が作成されました。3月末までに職員に配布されていたのはこの表です。4月1日からの開館に支障が生じなかったのは、この分掌表があったからにほかなりません。
 この表の第1項は、「学芸部門の統括及び業務課との調整に関すること」とあり、主担当は寺嶋、副担当はSとなっていました。つまり、被告が着任する以前の、3月中に合意された分掌表におけるこの文言は、先ほどの経緯から分かるように、「学芸関係の職員の全体のまとめ役と、業務課との連絡調整役」というほどの意味だったわけです。
2~3p。太字は引用者)

 寺嶋弘道学芸主幹の「事務分掌」は、以上の経緯によって、平成18年4月1日以前に作られていたのである。
 
 少しでも常識を備えているならば、まさにそれはそうあるべきことだったことが分かるだろう。もし4月1日以前に作られていなければ、4月1日から誰がどの業務に就くべきか、混乱が生じて、公共の施設としての機能を果たすことができなくなってしまうからである。
 
○田口紀子裁判長の不思議な判断
 ところが田口紀子裁判長は、まことに不思議なことだが、その「判決文」の中で、この「平成18年度 学芸業部門事務分掌」(甲60号証)を無視してしまったのである。
《引用》
 
なお、事務分掌を定めるに当たっては、平成18年4月13日に学芸部門の打合せ会において話合いがなされたが、同日の打合せ会には原告は出席しておらず、その後に原告に示された。もっとも、平成18年度の事務分掌の素案は、平成17年12月の段階で、原告も加わって、概ねの話し合いがなされていた(甲3、59、原告本人、被告本人)。4p)

 つまり田口紀子裁判長によれば、〈平成18年度の事務分掌は、平成17年12月の段階で素案について話し合いがあった。だが実際に決まったのは、平成18年度がスタートしてから約2週間後の「打合せ会」においてだった〉ということになるわけである。
 こんなことがあり得るだろうか。田口紀子裁判長は札幌地方裁判所に勤務する国家公務員であるが、どうやら札幌地方裁判所というお役所は、新年度がスタートして半月近く経ってから、漸く役割分担を決めるらしい。大変にのどかで、まことに結構なお役所であるが、実態的には半月近く業務を放棄していることにしかならないだろう。
 これを学校の例で説明すれば、〈4月7日に入学式を済ませ、翌日から授業が始まった。年間行事予定表も出来ているし、講義の時間割も学生に周知している。だが、それぞれの講義を誰が担当するか、4月の半ばまで決まっていない〉なんてことは、決してあり得ないからである。

○寺嶋弘道被告の証言の非常識
 なぜ田口紀子裁判長はああいう非常識ことを言い出したのか。寺嶋弘道被告が自分の側の証拠物として「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(乙6号証。「
平成18年4月1日現在」の日付あり)を提出し、彼の「陳述書」の中で、次のような説明をしていた。どうやら田口紀子裁判長はそれを鵜呑みにしてしまったらしいのである。
《引用》
 
毛利館長の訓辞に先立つ4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名で、協議内容は平成18年度の学芸部門の事務分掌について意見を交換し、問題点等を整理することでした。2時間を超えたこの会議では一人ひとりの担当業務を確認し、その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。
 原告も確認し、組織決定されたこの事務分掌に明記された私の職務の第一は、「学芸部門の統括および業務課との調整」です
(2p。太字は引用者)

 要するに寺嶋弘道被告は、〈平成18年の4月に自分が着任した段階では、まだ職員の業務体制が整っていなかった。4月13日、自分が加わった打合せ会で「平成18年度学芸業務の事務分掌」が決まったのだ〉と主張したわけだが、その主張には疑わしい点が幾つもある。亀井志乃はその点を次のように指摘し、寺嶋弘道被告の主張には根拠がないことを証明した。
《引用》
 
この記述には明らかな間違いが少なくとも2つ含まれています。第一に、私は4月13日(木)には文学館に出勤していません。当日は私の非出勤日だったからです。それ故「出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名」ということはありえないことです(甲56号証「平成18年度職員勤務割振」)。
 第二に、仮に4月13日に、私を含まない、「学芸部門の職員による打合会」が開かれたとしても、その結果「平成18年度学芸業務の事務分掌」が決まったということもありえないことです。なぜなら、平成18年4月1日は土曜日、2日は日曜日でしたが、文学館は開館し、業務を行っていたからです。川崎業務課長や永野主査、被告の着任式は4月4日(火)に行われましたが、4月1日も2日も開館する以上、誰がどの事務分掌につくか、分担が決まっていないはずがありません。被告の「陳述書」によれば、4月13日の打合会で事務分掌を決定し、4月1日に遡って施行したことになっていますが、では、4月1日から4月13日まで、誰がどういう事務分掌で業務を行っていたのか。実際に公共の博物館業務に従事してきた人間ならば、新年度が始まって2週間近くも事務分掌が決まっていないなどということはあり得ないし、あってはならないことである程度のことは十分に承知しているはずです。被告が「陳述書」で述べたことは全くナンセンスというほかはありません
(「準備書面(Ⅱ)―2」2p。太字、下線は引用者)

 亀井志乃の証拠と記憶に照らしてみれば、寺嶋弘道被告の主張は以上の如く怪しいところばかりだったのであるが、念のために亀井志乃が提出した甲60号証と、寺嶋弘道被告が提出した乙6号証とではどこが違うのか。その点を確認しておこう。
 平成18年3月(前年度)の時点で決まっていた甲60号証の事務分掌は35項目あり、寺嶋弘道被告が平成18年4月13日(当年度)に決まったと主張する乙6号証の事務分掌は37項目になっていた。つまり、僅かに2項目だけ増えたわけだが、その項目は「収集保管」という分野における、

購入図書情報の収集および選書に関すること(主担当はA学芸員、副担当はO司書)
定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること(主担当はA学芸員、副担当は亀井)

という項目であった。それ以外は、どの項目を誰が担当するか、その割り振りも甲60号証と変わらなかったのである(1、2の項目で、細かい文言の修正はあったが)。

 そんなわけで、もし仮に寺嶋弘道被告が主張するように、4月13日(木)に「学芸部門の職員による打合会」が開かれたとしても、この日は開館日だった。開館日に学芸部門の全職員が持ち場を離れて――例えば閲覧室勤務は閲覧希望者に専門的な知識をもって対応する重要な業務であるが、学芸関係者がその場所を離れて――「2時間を超え」るような打合せ会を開くということは、これまた常識的にありえない。もし開かれたとしても、せいぜい甲60号証に明記された事務分掌を確認する程度のことであっただろう。

○寺嶋弘道被告と平原一良副館長の卑劣
 しかし、それならば、なぜ乙6号証で2項目が増えたのか。それなりの議論があったのではないか。そういう疑問を抱く人もいるだろう。その点に関しては、亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―2」で次のように証言している。
《引用》
 
私の記録によれば、被告が「学芸部門の職員による打合会がもたれた」という4月13日の翌日、すなわち4月14日(金)10時30分頃に、私は被告と平原一良副館長(当時)の2人に会議室に呼び出され、「前日、課内での話し合いがあったので、今日はその『おさらい』として原告に伝える」と言われて、――このことをもってしても、私が4月13日の打合会に出席していたという被告の主張が虚偽であったことは明らかです――「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」(甲60号証 番号4:主担当・A学芸員 副担当・O司書)も原告が手伝うようにとの依頼を受けました(甲62号証)。この事により、私は、この年度当初の予定になかった、新刊図書の収集・整理・保管というO司書とA学芸員の毎日のルーティンワークの一部を肩代わり(具体的には寄贈雑誌のデータベース登録作業)することになりました。こうした変更の結果が反映されているのが、甲3号証(被告提出の乙6号証と同じもの。引用者注)の「平成18年度 学芸業務の事務分掌」における「収集・保管」の分野です。ここでは項目が4つから6つに増やされ(甲60号証参照)、「番号8:定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」の担当に原告が新たに付け加えられています(主担当・A学芸員 副担当・原告)。さらにまた、こうした変更の絡みで、原告は結果的に、閲覧室における来客対応をA学芸員・O司書との3交代で手伝うこととなりました
 もしこの業務が新たにつけ加わっていなければ、10月28日、被告が閲覧室勤務に就いている原告のところに来て、フォト・コンテスト問題を云々する場面は起こらなかったはずです。
(5p。下線は引用者)

 このような経緯があり、いわば事後承諾の形で亀井志乃の「事務分掌」が増えた。その上、亀井志乃はO司書やA学芸員のルーティンワークを手伝うことになり、3人交代で閲覧室勤務に就くようになったのである。
 つまり、その分だけ亀井志乃が事務室で仕事をする時間は減ったわけだが、その現象面だけを捉えて、寺嶋弘道被告は
「前年度までの仕事が主に別室で進められていたという習慣もあってのことか、原告は18年4月以降も事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく、そのため職員との会話の機会もまばらであったという日常でしたが、やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。」寺嶋弘道「陳述書」6p)と、亀井志乃の業務態度をあげつらった。
 おまけに、平原一良副館長までが
「そのうち、亀井氏は、寺嶋氏が席に居るときには、事務室に極力とどまらずに席を空けていることがたびたびであることに気づきました。」平原一良「陳述書」4p)と、まるで亀井志乃が寺嶋弘道学芸主幹と同席することを避けて、姿をくらませていたかのような書き方をしている。自分たち二人が、亀井志乃にO司書やA学芸員のルーティンワークを手伝うように依頼しておきながら、そんなことはなかったみたいに口を拭って、亀井志乃の業務態度や対人関係を非難し始めたのである。
 なんとも男の腐ったような、陰険、陰湿な人格攻撃であるが、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ―2)」と「準備書面(Ⅱ)-3」で反論をしており、詳細は「文学館のたくらみ・資料編」(
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)で確かめていただきたい(亀井志乃の仕事に関する、寺嶋被告の「前年度までの仕事が主に別室で進められていた」という証言自体が虚偽であったことも分かるだろう)
 ともあれ、寺嶋弘道被告の「陳述」がいかにあやふやなものでしかなかったか、以上の紹介からだけでもよく分かるだろう。

 ちなみに、亀井志乃の以上のような反論と主張に関する、寺嶋弘道被告の対応は、被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。」平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということであった。

○寺嶋弘道被告の逃れられない証言
 ただ、さすがに太田三夫弁護士は、このままではまずいと考えたらしい。そこで、たぶん寺嶋弘道被告と事前に打ち合わせをしたのだろう。10月31日の本人尋問においは、次のように一部嘘があったことを認めることにした。
《引用》

太田三夫弁護士:陳述書ということで、あなたの記名押印がありますが、これ、あなたが作成したものですね。
寺嶋弘道被告:はい、私が作成いたしました。
太田三夫弁護士:この陳述書の中で、誤りがある点がありますか。
寺嶋弘道被告:記憶違いで書いたところが1か所あるかもしれません。
太田三夫弁護士:どこでしょうか。
寺嶋弘道被告:学芸部門の事務分掌について打合せをした日にちについて、亀井さんがお休みの日に打合せをしている…ように私書いてしまいましたけれども、そこは、亀井さんからの反論のとおり、別な日にそのことをお話をし、いずれにしても亀井さんの了解を得ているんですが、別な日かもしれません。
太田三夫弁護士:それ以外は、本件で問題となっている事柄に関しては、この乙1号証の陳述書に書かれてあるとおりというふうに聞いていいですか。
寺嶋弘道被告:はい、それ以外はありません
(被告調書1p)

 つまり、4月13日の打合せ会に亀井志乃は出ていなかった。この点だけは「誤りだった」と認めよう。だが、乙6号証の「平成18年度学芸業務の事務分掌」はあくまでも4月13日に決定され、それを4月1日に遡って施行されたことにする。言葉を換えれば、4月1日の時点で、亀井志乃が提出した甲60号証の「事務分掌」表は存在しなかったことにする。そういう策戦に出て、寺嶋弘道被告が「はい、それ以外は(誤りは)ありません」と証言したのであろう。
 ということはすなわち、〈4月13日の打合せ会に亀井志乃は出ていなかった〉という1点を除き、寺嶋弘道被告の「陳述書」は全て真実を述べものだと、被告自身が法廷で証言したことになる。もしそれ以外の嘘が見つかったら、それは寺嶋弘道被告が偽証をした証拠となる。当然田口紀子裁判長は、偽証として扱わなければならなかったはずである。

○田口紀子裁判長が甲60号証を抹殺した理由
 このように整理をしてみると、田口紀子裁判長が寺嶋弘道被告の主張のみを認めて、その「判決文」から甲60号証の存在を消してしまった理由が見えてくる。
 なぜなら、10月31日の本人尋問で、田口紀子裁判長は寺嶋弘道被告に対して〈(4月13日は)原告が出席していなかったにもかかわらず、なぜ打合せ会を行ったのか〉という意味の質問をし、次のような証言を引き出してしまったからである。
《引用》
 
………4月も半ばに入っていましたので、だれがどの展覧会を実際に担当するのか、それはなるべく年度が早い時期に、一番いいのは前年度のうちに決まっているのがいいんだと思うんですけれども、それが決まっておりませんでしたので、私はなるべく早く決めたいと思っていました。その事務分掌の原案を作るのは私の最初の仕事でしたので、それを早く決めなければ、年度の仕事がスムーズに進まないと思っていましたので、ですので、なるべく早く、…学芸班の職員全員の了解を得たいというふうに思ったからです(被告調書20p。太字は引用者)

 さあ大変、寺嶋弘道被告はこのようにはっきりと、〈4月当初にはまだ展覧会の事務分掌が決まっていなかった。自分の最初の仕事は平成18年度の事務分掌の原案を作ることだった〉と明言してしまったのである。
 田口紀子裁判長は判決文の中で、
なお、事務分掌を定めるに当たっては、平成18年4月13日に学芸部門の打合せ会において話合いがなされた」と書いた。つまり、寺嶋弘道被告の証言を全的に肯定する形で、判決を作文したわけだが、これを「争いのない事実及び証拠により容易に確認できる事実(証拠により認定した事実については、証拠を掲記した。)」(「判決文」2p)とするためには、亀井志乃提出の甲60号証の存在は極めて都合が悪い。田口裁判長としては、そういう文書はなかったことにするほかはなかったのであろう。
 
 こうして田口紀子裁判長は、以上のように不正確で、不正直な判決文を書き、結果的には寺嶋弘道被告の嘘に荷担した。そう判断されても仕方がないような、きわどい作文を、田口紀子裁判長はしていたのである。

○亀井志乃の寺嶋証言虚偽の論証
 だが、田口紀子裁判長にはさらにやっかいな証言がつきつけられていた。それは、亀井志乃が「最終準備書面」の中で、先の寺嶋弘道被告の証言の偽証性を、次のように指摘したからである。引用は少し長い。
《引用》
 
この証言の偽証性については、Ⅰ章Cの②および⑤で明らかにしておきましたが、以下の点から見ても信憑性に欠けており、明らかに虚偽を含んでいます。
 

①もしも、事実が仮に被告の証言通りだったとしましょう。すると、平成18年度の当初、文学館の幹部及び職員は、4月29日に「写・文交響」展(綿引幸造写真展)の開催を控えていたにも関わらず、同月13日まで、その担当者を決定していなかったということになります。
 しかし現実的にいって、展覧会開催が16日後に迫るまで、文学館が、担当者未定のまま、展示品貸借先と打合せや交渉を行うことはあり得ません。また、担当者未定のまま、ポスター印刷の打合せ・色校正や印刷業者との交渉をするという話もあり得ません。このような動きには、必ず、契約事項や予算執行に関する起案・決裁等の事務処理がつきものだからです。担当者が決まっていなければ、では誰が、それらの書類を作成し、責任をひきうけるのでしょうか。

(なお、被告とS社会教育主事が綿引展の担当者としてポスター印刷のトラブルを引き起こしたのは、4月13日の会議に先立つ11~12日のことでした。詳しくはⅡ章第2項「D.綿引幸造写真展」および甲30号証参照。)
 また、被告は、“綿引展は前年度中に仮担当が決まっていた”と主張するつもりかも知れません。しかし、そこだけ仮担当を決めておくくらいであれば、他の展覧会の担当も、当然、前年度中に決めておくはずです。少なくとも、決めずにおく合理的な理由は考えられません。
②その一方で、被告は、原告が行った反対尋問の中での〈被告に「指揮命令」の立場を与えたのは毛利館長なのか。それ以前に平原学芸副館長と話をしていたという被告の主張は、「指揮命令」の立場とは特に関係がなかったのか〉という質問に対しては、このように答えています。

  いえ、そんなことはありません。毛利館長……も……………学芸班が、学芸部門の一つ一つの事業や展覧会の実際的な内容については、平原副館長が専決事項として決めており、また、その内容にも精通しておりましたので、平原副館長から、4月1日のときに、その事務事業の概要について説明を受けたものです(被告調書34p)

先には「その事務分掌の原案を作るのは私の最初の仕事でしたので」と、あたかも事務分掌の内容そのものが白紙状態だったからその原案を作成したかのような証言をしておきながら、次に、質問内容が自分の文学館における身分・立場の問題に絡んでくると、学芸部門の一つ一つの事業や展覧会の実際的な内容については」すでに平原学芸副館長(「平原副館長」は誤り)の専決事項として決まっていて、自分はその説明を年度初めに真っ先に受けたのだと、証言の内容を変えています。
 
では、仮に平原学芸副館長が前年中に学芸関係事業や展覧会の「実際的な内容」までも決定していたとして、それなら、なぜ平原学芸副館長は、各事業の担当者を新年度までまったく決めずにいたのか、という疑問が生じます。その点について、おそらく被告は合理的な説明ができないでしょうし、また、客観的に考えても、そのようなことは起こり得ません。ちなみに、原告の経験からいいますと、展覧会の内容やイベントの予定は、前もって、誰が担当し、どのように計画を進めてゆけるかという具体的な見込みが立たない限り、けっして細部まで詰めてゆくことは出来ません。具体的な人間(職員)の在り方と切り離された計画などというものは、少なくとも文学館には存在しません。
 (中略)
 
以上の諸点に照らして、被告のBの証言が偽証であったことは間違いありません(21~22P。下線は原文のママ)
 
 亀井志乃は寺嶋弘道被告に対する田口紀子裁判長の尋問から、ここまで明瞭に寺嶋弘道被告の証言の矛盾と虚偽を引き出してきたわけだが、この指摘もまた田口紀子裁判長には大変に都合が悪かったらしい。その証拠に、田口紀子裁判長は亀井志乃のこのような指摘を一切無視、黙殺して、
被告に虚偽の陳述があったとまでは認めるに足りる証拠はない。」(「判決文」25p)と言い切っているからである。
 たぶん田口紀子裁判長は嘘と不正直をと上手に使い別けているつもりだろうが、どうやら嘘と不正直との線引きが、その都度変わるらしい。

○田口紀子裁判長の虚偽
 ここでもう一度、田口紀子裁判長の
「なお、事務分掌を定めるに当たっては、平成18年4月13日に学芸部門の打合せ会において話合いがなされたが、同日の打合せ会には原告は出席しておらず、その後に原告に示された。もっとも、平成18年度の事務分掌の素案は、平成17年12月の段階で、原告も加わって、概ねの話し合いがなされていた。(甲3、59、原告本人、被告本人)。(4p。太字は引用者)という判決文を見てもらいたい。
 この文章の( )内の文言は、田口紀子裁判長が
「争いのない事実及び証拠により容易に確認できる事実(証拠により認定した事実については、証拠を掲記した。)」と判断した、その「証拠」を挙げたものであるが、田口紀子裁判長は亀井志乃提出の甲60号証を「証拠」から落としてしまった。もし田口紀子裁判長が甲60号証は信ずるに足りないと判断したならば、その判断理由を明記すべきだろう
 問題はそれだけではない。先の「最終準備書面」でも明らかなように、原告・亀井志乃は決して
「事務分掌を定めるに当たっては、平成18年4月13日に学芸部門の打合せ会において話し合いがなされた」という意味の寺嶋弘道被告の主張を認めていない。ところが田口紀子裁判長は亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」や「最終準備書面」の主張を無視、黙殺した。無視、黙殺した上で、事務分掌を定めるに当たっては、平成18年4月13日に学芸部門の打合せ会において話し合いがなされた」という自分の判断を裏づける「証拠」として、「原告本人(亀井志乃)」を証拠に数え上げた。これは明白な虚偽である。

○ウジを見たらウジと呼ぼう
 先日私は、小樽文学館のプロレタリア文学に関する講座の準備のために、サイレント映画の古典、エイゼンシュタイン監督の『戦艦ポチョムキン』のDVDを見ていた。映画が始まって間もなく、水兵たちが、〈腐った肉なんか食えるものか〉と騒ぎ出したところ、戦艦付きの医者が通りかかる。水兵が「ウジが目にはいらんですか」。すると、艦医は眼鏡を拡大鏡代わりに使って牛肉をしげしげと点検し、「ウジじゃない。ハエの幼虫だ。塩水で流せば大丈夫だ」。
 いけしゃあしゃあと屁理屈を述べ立てる、いかにも憎さげな名演技に、私は思わずプッと吹き出しながら、何だか似ているなあ。こうして私は寺嶋弘道被告や平原一良副館長を思い出し、太田三夫弁護士を思い出し、田口紀子裁判長を思い出したわけだが、しかし考えてみると、ウジを「ハエの幼虫」と呼ぶことは必ずしも虚言ではない。してみるならば、あの艦医はこの人たちよりもまだマシなわけだ。ただし、ウジを「ハエの幼虫」だと言い換えながら、ウジが湧くほど腐った肉の問題をやり過ごそうとする。このやり方はいただけない。
 といった次第で、ウジを見たら、やはりウジと呼ぶ。これが望ましい良識というものであろう。

○寺嶋弘道被告の脱「職務範囲」
 ただし、今回私が寺嶋弘道被告の平成18年度における「業務」を整理したのは、以上のことを指摘するためだけではない。
 先ほど紹介した「最終準備書面」の、省略した箇所で、亀井志乃は、次のように寺嶋弘道学芸主幹における「事務分掌」からの逸脱行為と、寺嶋弘道被告の証言の矛盾点を指摘している。
《引用》

 ④もし仮に、被告が証言した通りに、乙6号証の原案は被告が作成したものであるならば、被告はこの時、被告自身の何らかの合理的な判断に基づいて、原告を石川啄木展の副担当に当てたはずです。
 それにもかかわらず、被告は啄木展に介入し、原告を啄木展から疎外しました。被告は5月12日の段階で啄木展の予算超過を原告に告げ(甲27号証)、日本近代文学館との打合せや展示品貸借・返却に際しては主担当のS社会教育主事と行動を共にしました(甲41号証参照)。
23p)
 
 この指摘と合わせて、亀井志乃の「準備書面」(3月5日付)の次の箇所を読んでもらいたい。
《引用》

(4)平成18年5月12日(金曜日)
(a)被害の事実(甲27号証・甲28号証を参照のこと)
 この日、閲覧室で勤務していた原告は、内線電話で、被告から「今年担当の展覧会について打合せをしたい」と呼ばれ、事務室に向かった。打合せには、A学芸員(駐在道職員のうちの1人)が同席した。なお、原告は企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の主担当であり、A学芸員は副担当だった。
 それゆえ、原告は企画展に関する打合せと思っていたが、実際はそうではなく、被告より一方的な形で展覧会事業の予算配分の変更を通告された。その理由は、概略すれば、次の2点だった。

① 現在、「写・文交響―写真家・綿引幸造の世界から」展(期間・平成18年4月29日~6月4日 以下、「綿引展」と略)、「デルス・ウザーラ―絵物語展」(期間・平成18年6月10日~7月9日)、「啄木展」(期間・平成18年7月22日~8月27日)についてはすでに予算が執行されているが、「啄木展」のところで予算を大幅に超過している。
② 指定管理者制度の下では、予算は4年間の間に使い回ししてよいことになっていたが、やはり単年度計算でなくてはならないということに一昨日(5月10日)に決まった。そのため、特別企画展「啄木展」と「池澤夏樹のトポス」展(期間・平成18年10月14日~11月26日 以下、「池澤展」と略)とであとどれだけ予算が使えるかを出すために、急遽、他の展示の担当者たちに、支出予定の内訳を算定してもらわなければならない。

 被告はそういう事情説明をした上で、「支出予定の内訳は、来週までに作成し、文学館のサーバー内の所定の場所にアップしておくように」と原告らに命令した(甲29号証)。
 だが、平成18年4月1日の日付を持つ「平成18年度 学芸業務の事務分掌」に明記されている如く、特別企画展「啄木展」の主担当は鈴木浩社会教育主事(駐在道職員のうちの1人)であり、原告が副担当だった。ところが被告は、原告に何のことわりもなく、主担当の鈴木社会教育主事と準備に取りかかり、日本近代文学館からの展示資料の借用などの主要な業務を、原告を全く無視する形で進めた。その結果、「啄木展」の当初予算の3,712,000円を大幅に超過してしまった(甲28号証)。
 原告は「啄木展」の業務からほとんど疎外されており、予算超過についても、この時まで一切知らされていなかった。だが被告は、予算超過の事情を説明することはなかった。被告はまた「池澤展」の主担当であり、その展示事業費として3,612,000円の予算がついていたが、なぜ「啄木展」の予算超過を「池澤展」の予算で調整しないのか、その点の説明もなかった。
 そして被告は、「〈企画展〉の財布は一つしかない。だから、原告が主担当の『人生を奏でる二組のデュオ』展の予算1,516,000円は、他の2つの展示『書房の余滴―中山周三旧蔵資料から』(期間・平成18年12月9日~24日 以下、「中山展」と略)と『聖と性、そして生―栗田和久写真コレクションから』(期間・平成19年1月13日~1月27日 以下、「栗田展」と略)とでシェアしなければならない」と主張した
(9~10p)

 一読して明らかなように、寺嶋弘道学芸主幹は駐在道職員の「職務の範囲」を超え、自分が中心になって作成したと主張する「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(乙6号証)の「事務分掌」から逸脱して、亀井志乃の「事務分掌」に手を出し、亀井志乃の業務から排除してしまったのである。
  亀井志乃のこの主張に関して、寺嶋弘道被告は「準備書面(2)」で、半ページほどの反論を試みたが、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」で再反論をされ、その結果、
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。」(平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということになってしまった。(なお、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」については、「文資料編」(http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)をご覧いただきたい)。

○田口紀子裁判長のいい加減な事実の認識
 だがそれはそれとして、今私がここで問題にしたいのは、田口紀子裁判長がこの箇所を、「判決文」の中でどのように書き直し、どのような法的判断を下したか、ということである。
 田口紀子裁判長の書き直しは次のようであった。
《引用》
 
(4)原告は、平成18年5月12日、被告から、デュオ展の事業予算配分の変更を行うようにと指示された。その理由は、特別企画展「石川啄木~貧苦と挫折を越えて」(以下、「啄木展」という。)(期間・平成18年7月22日~8月27日)において予算を大幅に超過している、予算は単年度計算で行わなければならなくかったから、というものであった。そして、被告は、「支出予算の内訳は、来週までに作成し、文学館のサーバー内の所定の場所にアップしておくように。」と原告に指示した。(甲27、28、原告本人)。8p)

 田口紀子裁判長はこのように簡略化してしまったわけだが、これまた一読して明らかなように、田口紀子裁判長は次のような事実を無視してしまった。〈亀井志乃は石川啄木展の副担当であったが、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃を排除する形で啄木展に介入し、早くも5月12日の時点で予算を大幅に超過してしまい、その尻ぬぐいのために亀井志乃とA学芸員とが担当の「デュオ展」の予算を削ろうとした〉。
 おまけに田口紀子裁判長は、この短い文章の中でさえ、きわめてイージーな間違いを犯していた。亀井志乃とA学芸員は寺嶋弘道学芸主幹から、
デュオ展の事業予算配分の変更を行うようにと指示された」わけではない。田口紀子裁判長が言う「デュオ展の事業予算配分の変更」は、〈当初予算の1,516,000円の範囲内で、旅費や展示資料の借用料や原稿謝礼や図録印刷費などの配分を変える〉という意味になるはずだが、実際はそうではなく、寺嶋弘道学芸主幹から「一方的な形で展覧会事業の予算配分の変更を通告された、つまり当初予算1,516,000円の削減を通告されたのである。
 
 田口紀子裁判長が言う
「争いのない事実及び証拠より容易に認定できる事実」とは、こんなふうにいい加減なものであったわけだが、このいい加減な「事実」認識に基づいて、田口紀子裁判長は、次のような法的判断を下した。
《引用》
 
(エ)被告は、平成18年5月12日、被告自身の行った失敗のための予算不足を補うため、原告に対し、原告担当の企画展に割り当てられた予算の支出予定の内訳を算定させ、その後、原告の企画展に割り当てられた当初予算を切り詰めさせて、その結果、原告は、原告の展示構想を縮小するという不当な実害を蒙り、業務妨害された旨主張する。しかしながら、予算配分の調整等については、被告の業務の範囲内の行為と認められるし、特に、原告の業務を妨害する意図のもとに行ったものと認めるに足りる証拠はなく、上記被告の言動を持って(以て?)、被告の不法行為と認めることはできない(18p)

 明治初期、裁判制度の近代化に伴って、代言人(弁護士)の制度が生まれた。当時出版された『代言人規則』(明治9年3月)や『代言人規則注解』(明治13年6月)などを読むと、一定の条件が整えば誰でも代言人(弁護士)になることができたらしい。ただ、当時の代言人の中には、服部撫松が『東京新繁昌記 六篇』(明治9年4月)の「代言人社」で描いたように、依頼人の無知につけ込んで依頼人の財産をむしり取ってしまう、悪質な代言人もいた。
 そこから「三百代言」という言葉が生まれたわけだが、しかし「三百判事」という言葉は生まれなかった。それだけ当時の判事は、原告・被告の言い分をよく聞き、些細な嘘も見逃さない、厳しい存在として畏怖されていたのだろう。そんな感想を抱きながら、私は念のために、亀井志乃が
「(4)平成18年5月12日(金曜日)」の事実に関して、どんなふうに「違法性」を指摘していたか、読み直して見た。
《引用》
 
(b)違法性
イ、被告は嘱託という契約職員である原告の重要な業務の一つを奪った。これは北海道教育委員会の公務員(被告)が、民間の財団法人北海道文学館に嘱託で働いている市民(原告)に対して行った、「刑法」第234条に該当する業務妨害であると共に、原告と財団との間に結ばれた契約を侵害する「地方公務員法」第29条、第32条に該当する違法な越権行為である。
ロ、北海道教育委員会の職員である被告は、4月11日、自分が副担当の「綿引幸造」展で、ポスター作成に失敗して、ポスター300枚の作り直しをし(甲30号証)、啄木展では5月12日の段階ですでに当初予算を大幅に超える支出を行うなど、「地方公務員法」第33条に違反し、「地方公務員法」第28条または第29条に問われるべき失敗を重ねた。
 もし年間の展覧会事業に割り当てられた予算の再配分が必要ならば、財団職員の副館長あるいは業務課長からその必要性と理由の説明がなされるべきである。ところが被告は、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱し、自らが再配分の権利を持っているかのごとき言い方で、原告の企画展に割り当てられ予算の支出に干渉した。これは「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第7条に違反する行為である。
 また、被告は敢えて倫理規程の違反を犯してでも原告の予算の一部を流用して自己の失敗を隠蔽し、自分の責任が問われることを回避しようとした。これは原告に対してなされた、「刑法」第233条、234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。
 その結果原告は当初予算を切り詰め、展示構想を縮小するという不当な実害を蒙った
(10~11P)

 分かるように、寺嶋弘道学芸主幹の「違法性」に関する亀井志乃の主張の眼目は、にあった。
 また、
について言えば、もし年間の展覧会事業に割り当てられた予算の再配分が必要ならば、財団職員の副館長あるいは業務課長からその必要性と理由の説明がなされるべきである。ところが被告は、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱し、自らが再配分の権利を持っているかのごとき言い方で、原告の企画展に割り当てられ予算の支出に干渉した。これは「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第7条に違反する行為である。」ということにある。
 ところが田口紀子裁判長はそれらの主張を全く無視して、法的な判断を回避し、
しかしながら、予算配分の調整等については、被告の業務の範囲内の行為と認められる」と、事の本質をすり替えてしまったのである。

○再び田口紀子裁判長の不思議な判断
 では、田口紀子裁判長はどのような証拠に基づいて、
予算配分の調整等については、被告の業務の範囲内の行為と認められる」という判断を引き出してきたのであろうか。
 既に見てきたように、予算配分に関与する権限は、駐在の道職員に認められていない。そもそも寺嶋弘道被告自身が、
文学館の支出事務は財団の業務課が担当しており、被告はその事務処理に直接関与する立場にない(被告「準備書面(2)」4p)と認めていた。つまり、亀井志乃の「もし年間の展覧会事業に割り当てられた予算の再配分が必要ならば、財団職員の副館長あるいは業務課長からその必要性と理由の説明がなされるべきである。」という主張が正当であることを認めていたのである。
 ただ、これをすんなり認めてしまえば、亀井志乃が指摘した「違法性」も認めざるをえない。そこで寺嶋弘道被告は、何とかその「違法性」の指摘から逃れようと、
被告はその事務処理に直接関与する立場にないが、適切な予算執行を考慮し、先の見通しを持って事務事業を遂行することは、財団職員、駐在職員の如何を問わず組織人として当然のことであり、なんら法令に違反するものではない。」同前、4~5p)と、苦しい言い訳をひねり出してきた。
 
 自分が勝手に「啄木展」に介入し、大幅な予算超過をしでかしてしまいながら、
適切な予算執行を考慮し、先の見通しを持って事務事業を遂行することは」云々と自分の失態を棚に上げて、職員一般の心構え論にすり替えている。
 よくまあ抜け抜けと、こんな白々しいことが言えるもんだな。その厚かましさには呆れるほかはないが、亀井志乃によって
「『組織人』とは如何なる概念か、曖昧である。公務員としての職務に励み分限をわきまえるという鉄則を無視し、他人の権利を侵し、組織に損失を与えて、責任を取ろうともしない人間が、被告の言う『組織人』とすれば、そのような人間が存在すべきであるとも、必要だとも考えられない。のみならず、被告の予算執行が『適切な予算執行を考慮』したものであったとはとうてい考えることができない。」(「準備書面(Ⅱ)-1」23p)と一蹴されてしまった。
 この反論に関しても、寺嶋弘道被告の対応は、
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということであった。

 田口紀子裁判長は、これら一連の応酬に目を通してしていたはずである。にもかかわらず、田口紀子裁判長は「しかしながら、予算配分の調整等については、被告の業務の範囲内の行為と認められる」という判断を下した。
 そうである以上、田口紀子裁判長はそう判断する根拠を示さなければならない。だが、田口紀子裁判長はどこにもその根拠を示していなかった。もし強いてその根拠を挙げるとすれば、それは「事務分掌」表における、「2 事業計画案および予算編成案の作成に関すること(副担当はS社会教育主事)」という文言であろう。
 しかし田口紀子裁判長には気の毒だが、この文言は亀井志乃が提出した甲60号証にも見られる。寺嶋弘道被告が4月13日に作成したと主張する乙6号証にはじめて出てきた文言ではない。さあ、どう判断するか。
 もし田口紀子裁判長が亀井志乃の提出した甲60号証を選ぶならば、既に平成18年3月の時点で18年度の事業計画も予算編成も出来上がっていたことを認めざるを得ない。とするならば、当然のことながら、「2 事業計画案および予算編成案の作成」は次年度、つまり平成19年度の原案作りという意味になる。
 それに対して、乙6号証を選び、寺嶋弘道被告の言い分に従うならば、財団法人北海道文学館は平成18年度の事業が始まってもまだ「事務分掌」が決まっていないほどルーズな事業体だった。それに合わせて言うならば、「2 事業計画案および予算編成案の作成」の中には当年度、つまり平成18年度の事業計画や予算編成も含まれるはずだ、という屁理屈が成り立たないでもない。
 ただし、その理屈が成り立つためには、「2 事業実施および予算執行の調整」という表現でなければならないだろう。もし寺嶋弘道被告が主張するように、乙6号証は彼が中心となって作成して、〈平成18年度の予算配分の調整等は寺嶋弘道学芸主幹の業務の範囲内だ〉という意見を述べ、他の職員の同意を得ていたならば、当然このような表現となったはずである。だが、乙6号証の表現はそうなっていなかった。
 
 そんなわけで、事実は亀井志乃が甲60号証に基づいて主張したとおりであり、常識も「『2 事業計画案および予算編成案の作成』は次年度、つまり平成19年度の原案作りという意味」に理解すると思うが、田口紀子裁判長はこれを無視、黙殺して、屁理屈のほうを選んだのである。

○ソフィストもどきの理屈
 そのような次第で、田口紀子裁判長が好んで使う「社会通念上許される限度」という言葉の「社会通念」を、私たちはどの程度信用することができるのか。そんな不安が生まれてくるところであるが、最後にもう一つ、寺嶋弘道学芸主幹における「業務」からの逸脱行為に関する、田口紀子裁判長の判断を確認しておきたい。
《引用》
 
なお、原告は、被告の行為が地方公務員法や北海道職員の公務員倫理に関する条例等に違反する旨主張し、これによって、被告が文学館の業務を妨害したり、文学館に対する越権行為を行った旨の主張を行っているが、被告の行為によって、文学館の業務が妨害されたことがあったとしても、そのことをもって、原告に対する不法行為を認める理由とはならない(「判決文」16~17p)

 しかしこれは、どう考えても言葉の詐術としか言いようがない。
 私はプラトンが描いたソクラテスのファンで、どうも最近は頭が固くなったなと感ずる時など、頭の体操を兼ねてソクラテスのダイアローグを開いてみる。裁判の途中もそうしてきたのだが、上の判決文を見て、ソクラテスの時代に栄えていたソフィストの一人に出会ったような気がしてきた。

 田口紀子裁判長は亀井志乃の訴えを故意にすり替えている。
 田口紀子裁判長は、あたかも亀井志乃が「被告の行為によって文学館の業務が妨害された」事実を挙げ、それをもって、「原告に対する不法行為」の証拠としたかの如くに、亀井志乃の主張をでっち上げた。そうしておいて、自らでっち上げた主張を「不法行為を認める理由とはならない」と否定してみせたのである。だが、それは田口紀子裁判長の小賢しい自作自演でしかない。
 なぜなら、亀井志乃は〈寺嶋弘道学芸主幹が文学館の業務を妨害した〉ことを理由に訴訟を起こしたのではないからである。亀井志乃は、〈寺嶋弘道学芸主幹は数度にわたって亀井志乃の業務を妨害した。しかもその業務妨害は、寺嶋弘道学芸主幹が駐在道職員としての職務を逸脱し、また、「事務分掌」という取り決めを破る形でなされていた〉という事実を挙げて、パワー・ハラスメントを含む人格権侵害の訴訟を起こした。田口紀子裁判長が、亀井志乃の主張を正確に踏まえたならば、
原告に対する不法行為」の箇所は、「原告に対する業務妨害と人格権侵害の不法行為」となるはずである。
 それを踏まえて、田口紀子裁判長の判決文を「正確に」書き換えてみよう。
 「なお、原告は、被告の行為が地方公務員法や北海道職員の公務員倫理に関する条例等に違反する旨主張し、これによって、被告が事務分掌を逸脱し、原告の業務を妨害した旨の主張を行っているが、被告の行為によって、原告の業務が妨害されたことがあったとしても、そのことをもって、原告に対する業務妨害と人格権侵害の不法行為を認める理由とはならない。」
 田口紀子裁判長の文章はこうなるはずである。
 
 だが田口紀子裁判官は、私が整理し直したような文章を書く自信も勇気もなかったのだろう。これでは理屈が成り立たず、結局亀井志乃の主張を認めるほかはないからである。そこで、「事実」に関する双方の主張をきちんと整理分析することをせず、地方公務員法や北海道職員の公務員倫理に関する条例に関する法的な判断を回避し、そして、亀井志乃の主張を〈寺嶋弘道被告による文学館の業務妨害〉という形に歪曲し、矮小化して、
被告の行為によって、文学館の業務が妨害されたことがあったとしても、そのことをもって、原告に対する不法行為を認める理由とはならない。」と、寺嶋弘道被告に免罪符を与えてしまった。
 『戦艦ポチョムキン』の艦医の理屈は、〈ウジはハエの幼虫だが、それをもって、肉が食えないと認める理由とはならない〉であったが、田口紀子裁判長の理屈はこうなるだろう。〈ウジがハエの幼虫であったとしても、そのことをもって、肉が腐っていると認める理由とはならない〉。
 
 田口紀子裁判長は以上述べてきたようなやり方で、亀井志乃の主張を無視、黙殺し、あるいは論点をはぐらかしてきた。ひょっとしたら田口紀子裁判長は、弁護士を立てなかった亀井志乃を、法律の素人と見くびっていたのかもしれない。田口裁判長の一貫して不誠実な態度から、そういう印象を受けざるをえないのだが、もし私の印象が正しいならば、田口紀子裁判長は民事訴訟の趣旨と精神を失っているのである。

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