« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

判決とテロル(6)

田口紀子裁判長とJudge

○城島の退場
 先日、WBCの日本対韓国の試合で、三振となった城島がバットを置いたままベンチに引き上げたところ、球審が退場を命じた。
 その時は理由がよく分からなかった。リプレイを見ると、城島が、三振の判定(judge)の直後、球審に背中を向けて何か言っている。「あれがストライクかよ!」とか、その種の不満を口にしたため、球審に対する侮辱行為と見なされたのかな。そう思って見ていたのだが、後にインターネットを検索してみたところ、スポニチの記事を紹介しているブログが見つかった。
 そのブログが紹介するスポニチの記事によれば、WBCの試合にはMLBの「アンパイア・マニュアル」が適用されており、そのセクション4に「投球の軌道を土に描いての抗議や、2死(ツーアウト)の場合を除き、打席に用具を置いてベンチに戻ることは球審への侮辱とみなし、退場処分とする」と明文化されている、という。
 たしかに、その場面の動画を見てみると、球審は城島が置いていったバットを指さし、それから退場を命じている。城島がバットを持ち帰らなかった行為が退場処分の対象となったのである。
 日曜日に関口宏が司会する番組でも、大沢親分こと大沢啓二さんと、ハリさんこと張本勲さんが、同じことを指摘していた。

 なるほど、審判というのは厳しいもんだな。
 
○草野球の思い出
 ただし、私が「厳しい」と感じたのは、あの試合の球審のjudgeに関してではない。

 私は今年の2月に72歳になった老人だが、今は昔、60年ほど前は、ご多分に漏れず野球に夢中だった。近所の仲間とチームを作って、あちこちの「小字」(こあざ。60年前の群馬県の農村では、まだ「小字」と呼ばれる集落の単位が歴然と残っており、生産だけでなく、子どもの祭りの単位としても機能していた)のチームと試合をして回った。
 とはいえ、まともなグランドがあったわけではなく、グラブやミットは掌のところだけ皮を張った布製のもの。試合途中でバットが折れたら、代わりはなし。大急ぎで、折れた箇所を釘でつなぎ、細いシュロ縄をきつく巻いて何とか使えるように工夫をしたが、それが駄目なら、試合は中止。そんな具合だった。草野球にも数々あるが、これはもう草野球の原点と呼ぶしかない。そういうお粗末な野球だった。
 
 しかし、試合を進めるルールは、かのアメリカの大リーグのルールと変わらない。バッターに許されたバッティング・チャンスは2ストライク、3ボールまで。ピッチャーが投げた球を打ったバッターは、右のファーストに向かって走る。アウトが3つ重ねれば、攻守ところを変えた。これらのルールに関する限り、私たちの草野球は大リーグのルールと較べて何ら遜色はなかった!!
 もちろん審判がいたわけでなく、要するに攻撃側の選手から球審、塁審が出て判定を下したわけだから、ボールかストライクか、セーフかアウトかをめぐって時々言い合いが始まった。だが、言い合いの根底にある、私たちの共通のルールは、かの大リーグのルールと全く同じだった!!
 あまりしつっこく言い合っていると試合そのものが成り立たなくなってしまう。だから、ほどほどのところで折れ合い、試合を続行した。

○審判の役割
 では、そういう草野球と大リーグとの根本的な違いはどこにあるだろうか。もちろんこれは、個々の選手のパワーや技術レベルの決定的な違いを脇に置いての話である。その違いを脇に置いて、両者を較べてみるならば、私たちの草野球には審判(Judge)がいなかったが、大リーグには公認の審判(Judge)が存在し、ゲームの進行を司る(主催する)。そこに根本的な違いがある。

 H・L・A・ハートの『法の概念』(矢崎光圀監訳。みすず書房、1976年。H・L・A・Hart, The Concept of Law. 1961)は、現代の法理論や法哲学に大きな影響を与えた理論書であるが、彼はゲームにおける審判のあり方から裁判における裁判官の役割を論ずる着想によって、その理論を展開していた。
 
 その考え方を、いま私ふうにアレンジして言えば、私たちの草野球には試合を進めるルールがあるにすぎない。それに対して、アメリカ大リーグから高等学校、リトル・リーグに至るまで、公認の審判が司る公式の試合には、試合を進めるルールだけでなく、審判に関するルールがある。WBCの球審はこのルールに従って、城島に退場を命じたのである。
 
 この審判は選手ではないから、もちろん試合には参加していない。その意味では、試合の外にあり、第三者的な立場にあるわけだが、プレーボールを宣言してから、ゲームセットを告げるまで、選手が試合のルールに従ってプレーをするように指示を与え、ルールに反する行動にはペナルティを課す。そういう権限と、権限を行使して試合をスムーズに進めさせる責任を担っている。その限りでは、選手が従うべきルールに審判自身も従わなければならない。と同時に、自分がこの試合の審判を務める資格を持っていなければならず、その資格を得るためのルールもあるわけだが、審判はこの資格に基づいて、試合のルールを守らない選手に注意を与え、ペナルティを課す権限を行使して、審判としての責任を果たす。そのために作られたのが「アンパイア・マニュアル」というルールであり、審判は当然このルールに従わなければならない。審判がこのルールをよく守ってこそ、試合における選手のプレーや試合の結果が公認のものとなるのである。

○ルールとメタ・ルール
 いま審判員制度のために作られたこのルールを、試合のルールに対するメタ・ルール(または二次的ルール)と呼ぶとしよう。
 草野球的な目でみれば、三振を食った選手が腹を立て、バットを放り出してベンチに引き上げる程度のことは、しばしば見かけることであり、その選手がそれ以上プレーを続けることを禁止するなんてことはまず起こらない。
 しかし、公認の審判が司る公式の試合に関しては、審判の権威と権限と責任を明記したメタ・ルールがあり、あのWBCの球審はそのメタ・ルールに従って城島に退場を命じた。あるいはメタ・ルールに従って城島に退場を命じなければならかった。
 
 私が「審判というのは厳しいもんだな」と感じたのは、そういう意味である。
 
○裁判のメタ・ルール
 ところで、一般に裁判というのは、例えばAがBに関して、「Bはこれこれの違法なことを行った」と言い、Bがそれに対して「いや、Aの言うことは間違っている」と反論する、その争いだと見られている。
 確かにそれはそうなのだが、むしろそれは草野球のレベルのことであって、一たん裁判を起こし、裁判官というJudgeに双方の主張に関する判断を委ねる段階に入ると、Aは「『Bはこれこれの違法なことを行った』という私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」という形で主張を行わなければならない。当然のことながら、Bの反論も「『Aの言うことは間違っている』という私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」という主張を行わなければならない。
 もちろんこのような主張は、「Bはこれこれの違法なことを行った」、「いや、Aの言うことは間違っている」という争いの段階で、既にナイーヴな形で素描(rough sketch)されていたと言えるのだが、裁判ではきちんと整序されていることが求められる。裁判官に明確な判断材料を提供しなければならないからである。
 
 そんなわけで、裁判官に課せられた責務は、AとBとの双方の「……という私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」という部分を比較、検討して、いずれの主張に合理性が認められるか(合理性が高いか)を判断する。その判断に基づいて「Bはこれこれの違法なことを行った」という主張、あるいは「いや、Aの言うことは間違っている」という反論のいずれを支持することができるかを判定することなのである。
 
 裁判官の課せられたメタ・ルールはそれだけではない。A,Bのいずれかの、「……という私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」という主張が、もともとの争点から逸脱している場合には、もとのルールにもどるように指示する。特にその逸脱の度合いがはなはだしく、虚偽の主張や相手の名誉を傷つける言辞に満ちている場合は、しかるべき警告を発するか、又は、もともとの主張をみずから損ねたものとして扱う。それもまた裁判官としての権限と責任を果たすように課せられた、裁判官のメタ・ルールの一つと言えるだろう。

○寺嶋弘道被告の証言におけるルール感覚
 前回私は、亀井志乃が主担当の「二組のデュオ」点の設営準備に入ろうとする直前、寺嶋弘道学芸主幹が無断で別な展覧会を割り込ませ、亀井志乃の準備を遅らせた出来事を紹介した。
 寺嶋弘道被告はその件について、彼の「陳述書」(平成20年4月8日付、実際の提出は4月16日)の中で、次のように証言している。
《引用》
 
また、この「二組のデュオ展」では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした(5p)
 
 要するに、寺嶋弘道被告は〈亀井志乃は美術館から作品を借用するに当たって、学芸員としての基本的な手続きさえも知らなかった〉と言いたかったわけだが、この証言は次のような点で既に失点をしていた。
 第一に、寺嶋弘道学芸主幹の行為は亀井志乃に対する業務妨害であったという亀井志乃の主張に関して、反論にならない、無関係な事柄を持ち出して来た。これはルールから逸脱でしかない。
 第二に、寺嶋弘道被告は、「……という私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」という主張を裏づける証拠を何も出していないことである。
 亀井志乃は「寺嶋弘道被告は業務妨害と労働基準法無視の違法行為を行った」という意味の主張を裏づけるために、「平成18年度 北海道文学館 2月行事予定表」(甲21号証)と、「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」というビラ(甲22号証)、寺嶋弘道被告の筆跡で「証明はライティングレールのみの点灯に変更しました 寺嶋」と書かれ、配電盤の上に貼ってあった付箋の写真(甲23の1~3号証)、及び2月15日と16日に泊まった東横インの領収書(甲24号証の1~2)の、計4種7点の証拠物を提出した。
 寺嶋弘道被告は少なくとも「作品図版カード」の写しを提出し、彼がお詫びの電話を入れたという日にちと、「道内美術館」の職員の名前を明記すべきであった。その裏づけがなければ、彼は根拠のないことを証言したことになってしまうだろう。

○亀井志乃のルール感覚
 亀井志乃は明らかに本筋を離れた、この証言にどう対応するか、やや迷っていたが、「準備書面(Ⅱ)―2」(平成20年5月14日付)の形で反論をすることにした。次の文章はその反論の冒頭である。
《引用》
 
本訴訟における原告は、平成18年度に民間の財団法人北海道文学館に嘱託職員として働いていた民間人であり、被告は道立文学館に駐在する北海道教育委員会の職員であって、訴訟の焦点は公務員である被告が民間人である原告に対して繰り返し人格権侵害の違法行為を働いたことにあります。故に私は「訴状」においても「準備書面」においても、被告が原告に働いた人格権侵害の行為事実の確定と、その行為の違法性の指摘に集中してきました。その間私は、被告の人格を論じ、被告の人間性を批判し非難する表現は謹んできました。それが訴訟におけるルールだと考えたからです。
 しかるに、去る4月16日の法廷において渡された被告の「陳述書」は本訴訟の基本的な争点には一切言及せず、いわば故意に無視する形で、問題を上司と部下との関係にすり替え、その記述は原告の業務態度や遂行能力及び原告に人格に関する中傷に終始していました。しかもその内容たるや、虚偽や事実の歪曲、根拠なき断定に満ちています
 被告のこのような書き方が、本訴訟事件の争点を明確にする上で果たしてどれだけ有効であるか、極めで疑わしい。とは言え、被告の意図は明らかに原告に関するネガティヴな印象を裁判官に与えることにあり、原告としてはとうてい看過し得ないところです。のみならず、被告の「陳述書」に書き込まれた原告に関する数々の中傷的言辞は、裁判の過程で行われた新たな人格権侵害行為であり、原告にはこれを告訴する権利があると考えます。
(1p。下線、太字は引用者)
 
 亀井志乃は「準備書面」(平成20年3月5日付)や、この「準備書面(Ⅱ)―2」において、被告・寺嶋弘道の人格を論じたり、人間性を批判し非難したりするような表現は一切行っていない。太田三夫弁護士署名の「準備書面(2)」への反論「準備書面(Ⅱ)―1」においても、平原一良副館長の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)―3」においても、そのようなことはしなかった。相手の人格を論じ、人間性を批判し非難したりすることは、訴訟のルールに反するだけでなく、一般的な市民同士の関係においても慎まなければならないことだからである。今回、これらの文章を全文、「文学館のたくらみ・資料編」(
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)に、「『判決とテロル』資料1」~「『判決とテロル』資料4」として掲載した。目を通してもらえればありがたい。
 
 亀井志乃はその他にも、彼女自身の「陳述書」と「最終準備書面」とを書いているが、「陳述書」は「北海道文学館のたくらみ(43)」~「同(45)」で全文を紹介しておいた。「最終準備書面」のほうは、「北海道文学館のたくらみ(48)」~「同(57)」に分載してある。
 
○検証可能な記述
 亀井志乃は先のような自分のルールを守りながら、次のように反論した。引用は少し長い。筋道を立てて「……という私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」ことを証明するためには、おのずから言葉が多くならざるをえない。
《引用》
 
被告が言う「道内美術館」とは、一体どこにあるのでしょうか。私は「二組のデュオ展」に際して、平成19年(2007)2月9日に、絵画の現物を木田金次郎美術館と北海道立近代美術館から借用し、北海道立文学館に搬入していますが、被告が言うところの「道内美術館」には行ったことはありません。
 それに私は、上記のどちらの美術館の職員からも、
作品図版カード」なるものの持参を求められたことはありません。実際の手続きは以下の如くでした。
a)私は木田金次郎美術館のO学芸員と平成18年(2006)5月25日から電話で連絡をとりはじめ(甲76号証の1)、6月3日には最初の出張におもむいて、「二組のデュオ展」のコンセプトの大略を伝えました(甲76号証の2)。美術品の借用・輸送に関する凡その方法も、この時、O学芸員から説明を受けています。
 そして、9月からは再びO氏とメールのやりとりを開始し(甲76号証の3)、11月29日には再び木田金次郎美術館に出張しました(甲76号証の4)。この時には、借用したい絵画を、北海道立文学館に所蔵されていた木田金次郎の画集からコピーして持参し、所蔵を確認して、O学芸員からは貸出には問題がない旨の返事をもらっています。さらにその後、フィルム画像借用・著作権の許諾問題等で12月21日・12月26日・1月26日・2月3日とメールで打合せを重ね(甲76号証の5)、2月9日、絵画を借用することになったわけです。
 借用に際しては、O学芸員が予め「木田金次郎美術館 収蔵作品管理ファイル」(甲76号証の6)のコピーを用意し、私と共に作品の状態をチェックしてそのコピーに記入したあと、さらにそれをコピーして、私に渡してくれました。これは、その時点での作品の〈状態の記録〉を正しく私と共有するためです。そしてO学芸員は、
返却の際にはこちらをお持ちください」と私に言いました。
 私は、O学芸員の求めどおり、同年3月20日の作品返却の際には「木田金次郎美術館 収蔵作品管理ファイル」のコピーを木田金次郎美術館に持参して、再び共に作品の状態をチェックし、
大丈夫です。OKです」と告げられたのち、篤く御礼を述べて館を辞去しました。
 以上、約10ヶ月の間、私はO学芸員から
「作品図版カード」を持参するようにとの指示は受けていません。またそれがないからという理由で、交渉に問題は生じたこともありませんでした。

b)私は平成18年(2006)11月26日以降から、北海道立近代美術館の学芸第一課所属・T学芸員と、木田金次郎作品の貸借についての問い合わせを開始しています(甲77号証の1)。
 まず展示予定作品の「風景(下谷あたり)」について、展覧会図録に図版を入れる予定があったため、同年12月19~20日にその所蔵を確認し(甲77号証の2・3)、翌年の平成19年(2007)1月16日に、同作品の35㎜カラーポジスライドフィルムを借用しました(甲77号証の4)。またそれと平行して、12月28日、T学芸員が私に、現物貸借の際に必要な書類の書式をメールに添付して送付してくれましたので、私はそれに所定の事項を記入し、1月23日に申請書を近代美術館に郵送しました。
 また、T学芸員が私に、1月23日付のメールで、
借用書のほうは、集荷時にお持ちください」と指定してきましたので(甲77号証の5)、私は2月9日の借用当日に借用書(甲77号証の6)を持参しましたが、T学芸員は、それ以外には特に何も原告が持参することを求めて来ませんでした。その後の3月20日の作品返却を含め、交渉の全体を通じても特に問題は生じていません。
 
 亀井志乃はこのように、2種類13点の証拠物を添えて、自分が2つの美術館から作品を借用し、また返却した経緯を、客観的に記述している。これを読んだ人の中には、「しかし、結局これは亀井志乃の一方的な主張に過ぎないではないか」と疑う人もいるかもしれない。ただ、そういう人であっても、亀井志乃が検証可能な形で記述していることだけは認めざるをえないだろう。
 「検証可能な記述」とは、もしこれを確かめたいと思うならば、亀井志乃が提出した証拠物を調べ、更に2つの美術館に〈亀井志乃の言うことが事実であったか否か〉を問い合わせることが出来る、そういう形で記述しているということである。それが証言の客観性を保証する第一歩であることは言うまでもない。

○寺嶋弘道被告の反論放棄
 亀井志乃はこのように「検証可能な記述」を心がけた上で、次のように反論した。
《引用》
 
上のように、私はどちらの美術館の職員からも、一度も「作品図版カード」なるものの持参を求められたことはありません。そもそも借用する側が、借用する以前の時点で用意し持参する「作品図版カード」とはいかなるものか。被告の主張から判断するに、その「作品図版カード」は北海道立文学館の側が予め所持していなければならないことになります。しかし私は、他の職員からそういうものが存在することを教えられたことはありませんし、借用に出かける際には持参するように注意されたこともありませんでした。
 もし被告があくまでも、「原告はこうした場合「作品図版カード」を持参すべきであった」、もしくは「原告が「作品図版カード」を持参しなかったことで「道内美術館」からクレームがついた」と主張するのであるならば、被告は、私が持参すべきだった「作品図版カード」の現物を提示し、合わせて、道内のどこの美術館の誰からクレームがついたのか、被告が「お詫びの電話を入れ」「釈明した」相手は何という人だったのかを明らかにしなければなりません。もしそれができなければ、被告は、私の学芸研究員として自覚と知識を貶め、名誉を毀損するために、虚偽の陳述を行ったことになります
(「準備書面(Ⅱ)-2」19~21p。下線、太字は引用者)

 さあ今度は、寺嶋弘道被告が、「私の主張は、しかじかの証拠と論理によって正当である」という再反論を行う番である。
 だが、寺嶋弘道被告の対応は、
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。」(平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということであった。
 つまり、再反論を行う機会を持っていたにもかかわらず、みずから反論を放棄してしまったわけで、言葉を換えれば、亀井志乃の
「被告は、私の学芸研究員として自覚と知識を貶め、名誉を毀損するために、虚偽の陳述を行ったことになります。」という指摘に異議を申し立てる機会と権利を放棄してしまったことになるだろう。

○寺嶋弘道被告の記述の特徴
 寺嶋弘道被告は、亀井志乃が主担当の「二組のデュオ」展の設営に関してこんなことも言っていた。
《引用》
 
実際、展覧会業務に関する原告の経験のなさは、「二組のデュオ展」の準備業務の遅延や作品借用の際のトラブルとなって露呈してしまいました。原告がホテル宿泊を強いられたと主張しているこの展覧会の展示作業においては、2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの、原告がなすべき展示設計や解説パネルが出来上がっておらず、連日、皆待機を余儀なくされていたというのがその実情でした。すなわち、展示作業に入る以前の準備が滞留していたにもかかわらず、原告は訴状において、直前の貸館事業「シナリオ作家イゴーリ(ママ)のまなざし」(以下、「イゴーリ展」)のために展示設営に取りかかることができず、「夜遅くまで作業し、それでもまだ足らないため、2月14日と15日の2日間、札幌のホテルに泊まり、午後の10時近くまで作業を続けた」と、自らの責任を棚上げして結果のみを記述しているのです。逆にこの時、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした(寺嶋弘道「陳述書」5P。下線、太字は引用者)
 
 要するに〈亀井志乃の展示設営準備が遅れたのは、自分が設営した「イーゴリ展」のためではなく、亀井志乃自身がロクに準備をしていなかったからであり、亀井志乃の一連の行動に関しては、他の職員から「強い非難の声が渦巻く」ほどだった〉というわけである。寺嶋弘道被告にとって、「イーゴリ」展に関する亀井志乃の指摘は、よほど脅威だったのであろう。証拠を揃えてきちんと反論することができない。そこで、亀井志乃の業務能力や対人関係をあげつらって、亀井志乃を挑発する策戦に出たらしい。

○再び亀井志乃の「検証可能な記述」例
 だが、亀井志乃はそのテには乗らず、「準備書面(Ⅱ)-2」の中で、次のように反論をした。
《引用》
 
この記述も全く実情に即していません。私はすでに、平成19年(2007)2月8日(木)以前の段階で展示設計を終えていました。――なお、直前に割り込んできた「イーゴリ展」の会期は2月3日(土)~8日(木)。――私は2月8日(木)が非出勤日であり、翌9日には岩内・木田金次郎美術館に絵画の借用に行かなければならなかったため、副担当のA学芸員とFAXで連絡を取り合い、取り急ぎ移動壁の配置と、展示ケースやパネルの配置、挨拶文とコーナーサインの掲示を頼んでいます(甲74号証)。
 この頃、キャプションはすでに刷り上がっており、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるまでの段階まで来ていました。解説パネルやコーナーサインの内容も、パソコンへの打ち込みは完了していました。なぜなら原告は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していたからです(甲75号証の1)。そして、展示設計をしながら展示品を絞り込み、解説文を作り、同じキャプションや解説文を図録にも流用しました(甲75号証の2・3)。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと配慮したからです。
 それだけでなく、私は平成19年1月18日夕刻に、印刷会社・アイワードに図録原稿を入稿しています(甲48号証の2 手帖参照)。1月18日に入稿して校正も経ているからこそ、図録は展覧会オープン当日の2月17日に完成し、納品されたわけです。

 
それ故「原告がなすべき展示設計や解説パネルが出来上がっておらず」という被告の主張は、まったく事実に反しています。被告は「連日、皆待機を余儀なくされた」と言っていますが、「待機」の意味が、「準備が整うまで、なすこともなく、腕をこまねいて待っている」のことならば、そういう意味の「待機」は全くありませんでした。そもそも「2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの」という言い方も不正確な言い方で、確かに14日、15日、16日は財団職員のO司書、N主査、N主任が遅くまで残って設営作業を手伝ってくれました。このような協力は「二組のデュオ展」に限ったことではなく、平原副館長の「陳述書」に対する反論で詳述する予定ですが、平原一良学芸副館長(当時)が主体となって行った「常設展」リニューアル作業でも行われたことであり、例外的なことではありません。「二組のデュオ展」では川崎業務課長も不測の事態に備えて午後8時近くまで残ってくれました。この設営作業の間、顔を出さなかったのは被告と平原副館長だけでした。

 この時もまた、亀井志乃は、寺嶋弘道被告の証言がいかに虚偽に満ちているか、を明らかにするために、3種類7点の証拠物を添え、仕事の流れを具体的かつ詳細に説明した。これもまた「検証可能な記述」と言えるだろう。

○再び寺嶋弘道被告の反論放棄
 亀井志乃は以上の説明を踏まえて、次のように主張した。
《引用》
 
ただ、駐在道職員に関して言えば、A学芸員は「二組にデュオ展」の副担当であり、主担当の私と共に責任を負っていたわけですから、加勢」とか「待機」には当たりません。もう一人のS社会教育主事は、15日には個人的な事情があって皆より早めに帰りましたが、手伝ってくれたことは間違いありません。そして少なくとも私の立場からみる限り、原告とA学芸員の準備不足のために、財団職員の3名とS社会教育主事がなすこともなく腕をこまねいて「待機」していることはなかったと思います。
 
なお、もう一言付言しておけば、215.42平方メートルの特別展示室をフルに使用した、展示品143点に及ぶ展覧会において、もしも被告が主張している如く、オープニング(2月17日)直前の15日・16日の段階で「連日、皆待機を余儀なくされた」のならば、その当然の帰結として、17日のオープニングには展示は間に合わないという事態が出来(しゅったい)したはずです。しかも被告は、構想者であり主担当である原告が、応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってし」まったと言う(乙1号証5ページ31行目)。では、残された人々によって、展示の完成は、いかにして可能となったのだろうか。この興味深い点について、ぜひとも原告は、証人台に立つ被告の口から、証拠に基づく状況の再構成による詳細な説明を聞きたいと考えています(18~19p)
 
 寺嶋弘道被告が、それでもまだ自分の主張のほうが筋が通っており、それを裏づける証拠もあるというのであれば、それを証明しなければならない。
 だが、寺嶋弘道被告の対応は
「被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということであった。
つまり、再反論を行う機会を持っていたにもかかわらず、みずから反論する権利を放棄してしまったわけである。
 
 言葉を変えれば、先ほどの作品借用の件と言い、この件と言い、結局寺嶋弘道被告は、自分の陳述が亀井志乃の検証に耐えられなかったことを、みずから認めてしまったことになる。それはそうだろう、「道内美術館」なんて曖昧な言い方は、自分のいい加減さを自白しているようなものなのである。なお、寺嶋弘道被告は、「二組のデュオ展」問題に関連する「イーゴリ展」についても、亀井志乃に対する挑発的な逆襲を試みたが、亀井志乃の検証に耐えられなかった。その辺の経緯は、「文学館のたくらみ・資料編」(
http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)の「『判決とテロル』資料3」をお読みいただきたい。
 
○太田三夫弁護士の勇み足
 しかし太田三夫弁護士は
(寺嶋弘道被告が)15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらった」という主張にまだ未練があったのだろう。10月31日の本人尋問に際して、亀井志乃との間にこんなやりとりがあった。
《引用》
太田三夫弁護士:それで、あなたが主担当の「二組のデュオ展」、この企画展に向けてAさんとSさん、この方が2月15日と2月16日に時間外勤務をしていることを知ってますか。
亀井志乃:はい、知っています。
太田三夫弁護士:これは、どなたが頼んだんですか。
亀井志乃:存じません。
太田三夫弁護士:あなたが頼んだんではないんですか。
亀井志乃:Aさんにつきましては、頼むというのではなく、彼女が副担当でしたから、副担当として残ってくれたものだと思って感謝しています。Sさんのほうについては存じません。

(原告調書31~32p)

 とくかく太田三夫弁護士としては、〈寺嶋弘道被告は亀井志乃の業務妨害をしたわけでなく、むしろ同じ道職員のS社会教育主事とA学芸員に時間外勤務を命じて、亀井志乃の作業を手伝わせたのだ〉という主張を、亀井志乃に認めさせたかったのであろう。
 太田三夫弁護士はその主張を裏づけるつもりで、「時間外勤務、休日勤務及び夜間勤務命令簿」というタイトルの文書を2通、
乙10号証の1乙10号証の2として提出したわけだが、気の毒なことにこれは完全な勇み足であり、みずから墓穴を掘る羽目に陥ってしまった。
 亀井志乃は「最終準備書面」で次のように指摘している。
《引用》
(前略)
②乙10号証の1および乙10号証の2の記載者は、その文字の特徴から見て、A学芸員だったと判断できますが、A学芸員は「二組のデュオ展」の副担当であり、自発的に時間外勤務を希望したものと思われます。S社会教育主事もその仲間意識によって――〈仲間意識〉を結局一度たりとも見せなかった被告とは異なり――自発的に時間外勤務を志願してくれたものと思われます。(ただしS社会教育主事は、15日には、個人的な事情があって、皆より早めに帰りました。原告「準備書面(Ⅱ)―2」18p参照。)
 その手続きは、書類への記入状況から見て、A学芸員が「時間外勤務、休日勤務及び夜間勤務命令簿」に必要な事項を記入し、しかる後に駐在道職員の「文学館グループ」のグループリーダである被告の承認印を押してもらう、という流れになっていたと推測されます。単に、書類の記入欄と確認印の欄だけを見れば、被告がA学芸員とS社会教育主事に時間外勤務を命令したように見えますが、決してそうではありません。
 なぜなら、平成19年2月15日の分(乙10号証の1)には、欄外に、A学芸員の文字で
「15日分は、原主査にtelの後、FAXしました」と書いてあるからです。この日は被告が出張で不在だったため、A学芸員は書類に必要な事項を記入して、北海道教育委員会・生涯学習部文化課のH主査にFaxで送ったわけです。この15日の書類の左側「所属の長の印」の欄に、被告の印が押されていないのはそのためです。もし、被告の方が時間外勤務を命じたのであるならば、必要な事項は被告が出張の前にあらかじめ書いたはずであり、また、A学芸員がわざわざ道教委の生涯学習部文化課のH主査に書類をFaxで送る必要もなかったはずです。
(中略)

⑤被告はおそらく、〈文学館グループ〉職員の作成した乙10号証の1と乙10号証の2は見ていたが、財団職員の時間外勤務に関する書類を見ていなかった。そのため、2月13日(火)以降、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢し、さらに15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの」と、あたかも15日・16日には時間外勤務をした職員は2人だけであったかのような虚偽の証言を行ってしまったと判断できます。

  以上の点により、乙10号証の1および乙10号証の2の存在をもって〈被告が、駐在職員2名に時間外勤務を命じて展示設営の応援に入ってもらった〉という証言の裏づけとすることは不可能であり、また、被告の「陳述書」における証言が虚偽であったことも明らかです(88~89p)

 要するに、被告側が提出した乙10号証の1乙10号証の2は、〈寺嶋弘道学芸主幹がS社会教育主事とA学芸員に時間外勤務を命じた〉という主張の証拠とはなりえない。乙10号証の1乙10号証の2に記載された文字とその内容が告げている事実は、〈「二組のデュオ」展の副担当であるA学芸員が、自発的に時間外勤務の手続きを取り、S社会教育主事も一緒に残って、亀井志乃とA学芸員の作業を手伝うことにした〉ということだったのである。
 A学芸員が自分とS社会教育主事の時間外勤務の手続きをした2月15日は、寺嶋弘道学芸員は出張のため文学館にいなかった。実はこの2月15日と16日は、財団の女性職員3名も残って亀井志乃とA学芸員の作業を手伝ってくれたのだが、寺嶋弘道被告はその実態も知らなかったため、A学芸員とS社会教育主事だけが残ったと思いこんでいた。そのこともまた亀井志乃によって暴かれてしまったわけである。
 太田三夫弁護士が被告側の証拠物に選んだ
乙10号証の1乙10号証の2をよく読んでいれば、以上のことは簡単に気がつき、〈寺嶋弘道学芸主幹がS社会教育主事とA学芸員に時間外勤務を命じた〉という主張の証拠には使えないことが分かったはずである。それに気がつかないとは、何とも迂闊な話で、こんなありさまで「検証に耐えられる文章」を書くのは、とうてい無理であろう。

○太田三夫弁護士が掘ったもう一つの墓穴
 太田三夫弁護士が迂闊だったのはそれだけではない。
乙10号証の1乙10号証の2の欄外には、「別記第3号様式(第15条関係)」と印刷してあり、その様式から判断して、明らかにこれは北海道教育委員会の書式だった。
 亀井志乃が、〈寺嶋弘道学芸主幹が強制した書類作成の仕方は、公務員の立場を越えた違法なものではないか〉という意味の指摘をしたのに対して、彼は「準備書面(2)」で、
また、本件の決定書の作成における『合議』を『主管』に修整した点については、学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告を起案責任者として起案文書を回付するよう財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領に基づくものであり、年度内のすべての起案文書が同様の体裁となっている(8p)と反論してきた(「判決とテロル(4)」参照)。
 ところが、彼自身が提出した
乙10号証の1乙10号証の2は、北海道教育委員会の書式に基づく文書であった。つまり、この点に関しても、寺嶋弘道被告はその場かぎりの言い逃れのために嘘を吐いていたわけで、亀井志乃の「最終準備書面」によって、そもそも、『時間外勤務・休日勤務及び夜間勤務命令簿』の欄外『別記第3号様式(第15条関係)』や、記入欄内の『所属部局課(室) 生涯学習部文化課』の文字を見ても、この書類が道庁の規程に従って書式が決定されたものであり、財団法人北海道文学館の書類の書式とは統一され得ないものであることは明らかです。」と指摘されてしまったのである。

○田口紀子裁判長がみずから確かめたこと(その1)
 そしてここが重要なのだが、田口紀子裁判長はこの一連の応酬を、自分の耳で聞き、自分の目で読んでいただけではない。10月31日の本人尋問において、寺嶋弘道被告に対して、田口紀子裁判長自身が次のように尋問していた。
《引用》
 
原告の準備書面によると、原告はこれらの書面を作るに当たって、甲10の3を参考にして、甲の10の4で、要するに、業務主任と業務課長の目を通してもらって、直してもらって、それでいいよということで、さらに、甲10の5でN主査の添削を受けて、それで被告のほうに持っていったということで書かれているんですが、そのような流れで、これは間違いありませんか(被告調書31P)
 
 田口紀子裁判長のこの質問は、亀井志乃の3月5日付「準備書書面」における「(10)平成18年10月7日(土曜日)」の記述に基づいており、寺嶋弘道被告の
「いや、そうだと思います。」という証言を得ている。
 その質問内容をもう少し補足するならば、もし寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃に書き直しを強制した理由が、彼の主張するように
「学芸班の統括者である被告を起案責任者として起案文書を回付するよう財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領に基づくもの」であるならば、亀井志乃から書類作成の相談を受けた段階で、川崎業務課長なりN主査なりがその「事務処理の要領」に基づいてアドバイスをしたはずである。だが、亀井志乃が財団のサーバーに残されていた前例に従って書類を作成し、業務課で見てもらったところ、特に大きな修正を受けなかった。文書の作成や管理に当たっている業務課が「よし」と判断したにもかかわらず、なぜ寺嶋弘道学芸主幹は書き直しを強制したのか。彼が主張する「事務処理の要領」には根拠がないのではないか。亀井志乃はそういう疑問をもって「被告は自己の行為を正当化するために、『財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領』なるものを持ち出しているが、そのような『要領』を明記した『合意書』を被告は証拠物として提出していない。すなわち証拠によって裏づけられていない(「準備書面(Ⅱ)-1」34p)と反論した。
 田口紀子裁判長も同様な疑問を持ったのであろう。

○田口紀子裁判長の不思議な判決(その1)
 そこで、先のような尋問をしたわけだが、寺嶋弘道被告の
「いや、そうだと思います。」という証言を受けて、さらに「それにもかかわらず、これだけ被告のところで手が入る(亀井志乃の作成した書類に書き込みをし、書類を作り直させる)というのは、どういったことからだというふうに考えられますか。」と尋問を続けた。
 ところが寺嶋弘道被告はその尋問には直接答えず、
この赤字、別な人が手を入れてた、これは恐らく業務課のN主査等だと思いますが、……」と話を逸らし、田口紀子裁判長の質問をはぐらかしてしまった。
 
 しかも、寺嶋弘道被告の
「この赤字、別な人が手を入れてた、これは恐らく業務課のN主査等だと思いますが、……」云々も矛盾と虚偽に満ちていた。亀井志乃は「最終準備書面」のⅡ章の第2項のGで、その点を克明に指摘している(「北海道文学館のたくらみ(50)」)。
 
 寺嶋弘道被告の「陳述書」はこのように、
15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらった」という証言一つを取り上げてみても、嘘・偽りが次から次へと、芋づる式に現れてくる。その中には田口紀子裁判長自身がみずから一役買って、引き出した嘘も含まれていた。
 ところが田口紀子裁判長の判決は、何と! 
「被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない。よって、原告の主張は理由がない。」25p)ということであった。

○田口紀子裁判長がみずから確かめたこと(その2)
 以上のことに関連して、田口紀子裁判長が自分の耳で聞き、自分の目で確かめたはずのことを、もう一つ挙げておこう。

 先ほど引用したように、寺嶋弘道被告は「陳述書」の中で、亀井志乃の行動に関して、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした」と証言していた。それについて亀井志乃は次のように反論している。
《引用》
こういう見え透いた嘘をついてまで被告は私を貶めたいのか、とただただ呆れるばかりですが、もちろん私が展示設営を手伝ってくれた他の職員を残して先に帰宅したという事実はありません。
 このことは原告の「準備書面(Ⅱ)―1」でもある程度言及しておきましたが、私が「二組のデュオ展」における主担当であることは、北海道立文学館の警備員にも周知の事実でした。また、通常の仕事の段取りとして、その日の展示作業が終わった際には、現場責任者(主担当)が警備員(1階警備員室に勤務)に「今日の作業は終わりました」と挨拶に行き、警備員はそこで階下に下りて、特別展示室を消灯し、シャッターを閉めるという手順になっていました。ですから最後は、主担当の原告が必ず警備員に連絡しなければならない。もし何らかの都合で副担当が連絡に行ったり、或いは主担当が不在、もしくは先に帰ってしまったなどという常ならぬ状況があったとすれば、必ずや警備員の注意をひくはずです。第一私は14日と15日は札幌のホテルに泊まっています。ホテルに宿を取っている人間が、手伝ってくれている職員を残して、先に帰ってしまう理由があるでしょうか。
 もしあくまでも被告が、私が他の職員を残し、展示設営現場を放棄して先に帰宅したと主張するのであれば、他の職員の証言・証拠に加えて、当時の警備員からの証言・証拠をも提示する必要があると考えます
(「準備書面(Ⅱ)-2」19p)

 田口紀子裁判長は10月31日、以上のことに関連して、寺嶋弘道被告に以下のような質問をした。
《引用》
田口紀子裁判長:今「二組のデュオ展」について出たんですけれども、今の話とはちょっとずれますけれども、この点に関して、被告の陳述書の中に、原告は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でしたということで、5ページに書かれているんですかれども、被告自身もこの設営作業に加わっていたんですか。
寺嶋弘道被告:いえ、私は加わっていません。その不満が渦巻いていたというのは、私は当日出張へ出ておりましたので、戻ってきたら事務室の雰囲気がちょっと違っていたので、不満を口にしている職員がいたということです。
田口紀子裁判長:それは同じ日のことなんですか。
寺嶋弘道被告:同じ日というか…。
田口紀子裁判長:出張に出ていたんですよね。
寺嶋弘道被告:戻った日ですね。
田口紀子裁判長:戻った日というのは、いつのことになるんですか。この展示設営作業が行われていた日があって、戻った日は、それからどのぐらいたったときですか。
寺嶋弘道被告:いえ、ほとんど、………出張に出たのは水曜日か木曜日ですので、展覧会のオープン前日ぐらいだと思います。あるいは、出張の翌日といいますか。

(被告調書25~26p)

 要するに寺嶋弘道被告は、その「陳述書」の中で、あたかも亀井志乃が他の職員に対して手ひどい背信行為を行ったかのように書いておきながら、その裏づけを求められると、全くしどろもどろ、自分がいつ「原告の行動に対して強い非難の声」を聞いたのか、その日時を明らかにすることさえ出来なかったのである。

○田口紀子裁判長の不思議な判決(その2)
 亀井志乃はその点を踏まえ、「最終準備書面」の中で、次のように指摘した。
《引用》
 
被告は、このように曖昧な証言を繰り返すだけで、明確な答えができませんでした。
 
①被告が出張した日がいつであったか、結局曖昧なままでしたが、一つ明らかなことは、被告はただ事務室に顔を出しただけで、展示室の作業状況を見ていなかったことです。
②「二組のデュオ展」がオープンしたのは2月17日(土)です。ですから、16日(金)には準備が完了していました。もし被告が出張から帰って、事務室に顔を出したのが「展覧会のオープン前日」、すなわち2月16日(金)であったとすれば、原告以外の職員が
「待機」の状態であったり、強い非難の声が渦巻いて」いたりするはずがありません。準備完了後、作業に従事していた職員は、原告と一緒に文学館を出たからです(原告「準備書面(Ⅱ)―2」19p)。
③被告は、
15日(木)、16日(金)の両日は駐在職員2名に時間外勤務を命じて応援に入ってもらったものの、」と証言し、しかし10月31日の田口裁判長に質問に対しては「3人がその話(「私たちを残して亀井さんが先に帰っちゃったんだから」という話)をしていました」と証言しています。これでは数が合いません。実際は、14、15、16日の3日間は、財団職員のO司書、N主査、N主任も遅くまで残って手伝ってくれました。原告は14日と15日は札幌のホテルに宿を取っており(甲24号証の1・2)、ですから、これらの人たちを残して先に帰ってしまう理由がありません(原告「準備書面(Ⅱ)―2」18p)。原告の「準備書面(Ⅱ)―2」19pで説明したような手順でその日の作業を終え、皆と一緒に文学館を出ました。ですから、被告が出張から戻ったのが2月16日ではなく、2月14日か15日であったとしても、事務室で3人の職員が「待機」の状態にあり、私たちを残して亀井さんが先に帰っちゃったんだから」と非難の声を渦巻かせていたなどということは起こり得ません。
 ちなみに、設営作業の間、顔を出さなかったのは被告と平原副館長だけでした。
④被告が提出した「時間外勤務・休日勤務及び夜間勤務命令簿」(平成19年2月15日付・乙10号証の1)の欄外に、被告の筆跡で「(2/15は寺嶋出張につき不在のため)」と書いてあります。また、「所属の長の印」に押印の跡はありません。一方、2月16日付の同書類(乙10号証の2)にはそうした書き込みはなく、「所属の長の印」の欄にも被告の押印があります。これらの証拠から推察するに、被告が出張したのは、実は2月15日だったはずです。そして、16日には平常通り出勤していたはずです。結局、被告は、自分で乙10号証の1と2を証拠として提出していながら、それにまつわる自分自身の行動さえも整理して弁
(わきま)えておかなかったわけです。

 以上の点によって、被告の偽証は明らかです(48~49p)

  田口紀子裁判長の尋問は、このように、亀井志乃によって寺嶋弘道被告の偽証性を証明される方向で引き継がれることになった。だが、どうやらそれは、必ずしも田口紀子裁判長の求めるところではなかったらしい。その判決は、被告に虚偽の陳述があったとまで認めるに足りる証拠はない。よって、原告の主張は理由がない。」だったのである。

 田口紀子裁判長が考える「虚偽の陳述」とは、一体どういうレベルの嘘なのであろうか。

○田口紀子裁判長の「反則」容認
 既に繰り返し紹介したことだが、寺嶋弘道被告の代理人・太田三夫弁護士は、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」「同―2」「同―3」について、
被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」)と返事してきた。
 太田三夫弁護士署名の「準備書面(2)」、寺嶋弘道被告署名の「陳述書」、平原一良副館長署名の「陳述書」で、彼らは数々の嘘を吐いていたわけだが、亀井志乃の反論を受けるや、そのことに関する議論は「や~めた」とばかりに、グランドに立とうともしない。これはもう、試合放棄と見なすしかないだろう。

 おまけに、試合相手たる亀井志乃に対して、あれだけひどい人格攻撃を行っている。もう20年以上も前のことだが、甲子園大会で高崎商業と対戦した九州の高校の選手のマナーが悪く、ヒットを打って塁に出れば、相手の一塁手に対して聞くに耐えない暴言を吐く。注意をした塁審に対しては、反抗的な態度を取る。高野連の役員会はその高校の関係者を呼んで、「マナーを改めなければ、出場停止にする」と厳重に警告をした。そういう話を聞いたことがある。
 つい最近では、今年の春の選抜大会で、宮城県の利府高校の選手の一人が、自分の携帯サイト上のブログに、一回戦で対戦した掛川西高校を侮辱する書き込みをした。それに気がついた高野連は、利府高校に口頭で厳重注意をした。
 それが大会の運営を司り、試合の進行を司る者の見識であり、責任であろう。

 ところが田口紀子裁判長が司る裁判において、被告側の太田三夫弁護士、寺嶋弘道被告、平原一良副館長の3人は、亀井志乃の知識、能力、業務態度、人格を貶める言葉を繰り返し発して、亀井志乃に侮辱を加えた。当然のことながら、亀井志乃はこの裁判の進行に責任を持つ田口紀子裁判長に、彼らのアンフェアな行為をアピールしたのだが、田口紀子裁判長は亀井志乃のアピールを黙殺し、彼らのアンフェアな行為を黙認してしまった。
 その判決文によれば、
被告は、本件訴訟活動の一環として、準備書面、陳述書等を提出したと認められ、被告に正当な訴訟活動として許容される範囲を逸脱した行為があったとは認められない。」25p)のだそうである。
 〈いいのかなあ。正当な訴訟活動の一環であるという名目さえ立つならば、その準備書面や陳述書の中で、数々の嘘を吐き、相手の人格を傷つける数々の中傷を行っても、その程度のことは全て「許容される範囲」のことになってしまう〉。誰にせよ、そういう疑問は禁じ得ないところだと思うが、田口紀子裁判長は、日本国における裁判官の資格において、そう断定したのである。

○Judgeの倫理
 先に紹介した『法の概念』の著者・ハートは、クリケットを念頭に置いてのことだと思うが、「『スコアラーの裁量』のゲーム」という言葉で、裁判の根幹にかかわる重要なことを指摘していた。いま野球に置き換えるならば、それはおおむね次のようなことだった。
〈野球の得点は、攻撃側のランナーがホームベースを踏み、球審がセーフと宣告して、はじめて得点と認められる。では、もし球審が自分の裁量で得点と認めるものの外に、得点に関するルールは何もない、となったら、どうなるだろうか。球審の裁量がある程度規則性をもって行使されるならば、そのゲームもそれなりに面白いかもしれない。だが、それは野球とは別なゲームになってしまうだろう。〉
 
 つまりハートが言いたかったことは、審判にもルールがあり、審判がルールであってはならないということであるが、田口紀子裁判長のjudgeは、寺嶋弘道被告側の失点は見逃してやり、そのルール違反も大目に見てやる。その逆に、亀井志乃がいくらルールを守って、相手の虚偽を暴き、証拠と具体的な経緯の説明に基づいて自分の主張の正当性を証明しても、決してそれを得点に数えることはしない。そんな性質のjudgeだった。
 日本の裁判では、幾つかの条件が整うならば、裁判官の裁量を認めている。私の見るところ、その裁量の余地は野球の審判マニュアルよりもずっと大きい。なぜなら、野球のルール・ブックは試合の開始から終了に至るまでの間に起こるだろう様々な事態を想定し、それに対応できるよう実に細かいところまでルールを設けている。だが、日本国の法体系は現実に起こりうる全ての事態を想定して細目を決めているわけではないからである。もしそんなことをすれば、市民の一挙手一投足まで法で束縛し、市民の自由を奪う結果になってしまう。そこで、基本的なルールだけを決めておき、現実の事態に適用する場合は、裁判官の裁量に任せる余地を残すことになったわけである。
 しかし、だからと言って、裁判官が自分に与えられた裁量権を恣意的に行使したり、乱用したりすることを認めているわけではない。
 
 野球の審判に与えられる権限は極めて大きい。だが、選手が実際にプレーしなければ、その権限は宙に浮いたままでしかない。その権限を行使するには、審判自身も選手が従うルールを守らなければならない。そこに同じルールという共通の土俵が生まれ、そうであればこそ選手が審判のjudgeに抗議することが許されるのである。もちろん選手が抗議をする場合でも、〈抗議が許されるのはキャプテンまたは監督に限る〉といったルールがある。それを守って抗議をしても、一たん下されたjudgeが取り消される可能性はごく少ない。とはいえ、サッカーのワールドカップが日本と韓国で共同開催された時、韓国で笛を吹いたレフェリーの一人が、韓国チーム寄りのjudgeを行った疑惑のため、懲戒処分を受けた。この事件は、まだ私たちの記憶に新しい。
 それはなぜか。審判の権限は、ルールに従って行われる選手のプレーを尊重し、公平、正確に判断することを前提として与えられるものだからである。審判がその自覚を欠くならば、「『スコアラーの裁量』のゲーム」のJudgeになってしまう。
 
 それと同じく、裁判に関するメタ・ルールや法を現実に適用する際の裁量は、その国の大半の市民が共有している「公平を求める感情」や「不正や不当な行為を忌む感情」を尊重する意識に基づいていなければならない。裁判官のjudgeに倫理が求められる理由が、そこにある。近代の法理論は、法と倫理の間に一線を画してきた。それはそれなりに理由のあることだが、法の適用は決して倫理感と無縁ではあり得ない。このこともまた、否定できない事柄であろう。

○不思議な暗合
 寺嶋弘道被告の「準備書面(2)」や「陳述書」を読んでいると、「俺が審判で、俺がルールなのだ」とばかりに、特別な裁量権が自分に与えられているかのような主張を繰り返していた。亀井志乃が〈被告は公務員としての分限を逸脱し、駐在の学芸員の立場を守ろうとしなかった〉と指摘したのは、まさにそういう言動があったからにほかならない。
 だが、田口裁判長には寺嶋弘道被告のような人間のほうが分かりやすく、ひょっとしたら親近感を覚えたのかもしれない。寺嶋弘道被告の「俺が審判で、審判がルールなのだ」と言わんばかりの言動を全て「許容の範囲」に回収し、裁判の過程におけるルール違反も黙認して、亀井志乃のアピールと主張を退けてしまう。私の目に、この裁判が「『スコアラーの裁量』のゲーム」に見えてしまったのはそのためである。
 

 

  

| | コメント (1) | トラックバック (0)

判決とテロル(5)

裁判官による労働基準法違反・業務妨害の幇助―裁判員制度への警告―

○NHKテレビのニュースを聞いて
 今月の6日(月)、NHKのテレビが午後7時のニュースで、「厚生労働省は10年ぶりに労災認定の基準の見直しを行い、パワー・ハラスメントも労災の一つに数えることになった」という意味のニュースを伝えた。
 亀井志乃は用事で群馬から長野のほうへ出かけていたので、感想を聞くことはできなかったが、妻と私は「娘がああいう裁判を起こし、私が同時進行形で経過をブログに報告してきたのも、全くの無駄というわけではなかったようだネ」と喜んだ。

○田口紀子裁判長の時代逆行性
 ただし、今回見直されたのは、あくまでも鬱病などの精神的疾患や自殺の原因を認定する基準についてであって、亀井志乃は精神的にも肉体的にも目に見える疾患を抱えて訴訟を起こしたわけではない。その意味では、厚生労働省の基準が見直されたからと言って、それが直ちに田口紀子裁判長の判決の見直しに結びつくことはないだろう。
 田口紀子裁判長の判決文から推測するに、そもそも田口紀子裁判長は厚生労働省が言う「職場環境配慮義務」にはとんと無関心だったらしい。
 亀井志乃は平成18年10月31日、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明、及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(甲17号証)というアピール文を、財団の幹部職員と寺嶋弘道学芸主幹に渡したわけだが、その時彼女が求めたのは寺嶋弘道学芸主幹のパワー・ハラスメントに対する処罰ではない。職場環境の改善だったのである。
《引用》
 
ところが寺嶋主幹は、亀井のそのような動きをすべて否定し、〈すべて、まず、第一に私を通せ。私がお前を管理している。〉という内容の発言を繰り返し、またたかがデータベースのことを)何で平原副館長や、川崎課長が揃ったところで説明しなければならないのだ〉と、聞きようによっては、財団職員をすべて自分より格下に見ているとしか受け取れない発言すらしている。 

 このような言い方で自分を特権的に扱う事を、しかも、雇用身分が最も不安定な者にのみ強要することは、きわめて悪質なパワー・ハラスメント(上司の部下に対する言葉や態度による暴力)に相当するのではないか。また、今まで亀井は幾度か他の職員に事情を話し、一方、職員のうちの幾人かも、亀井が主幹に上記のような扱いを受けている場面をしばしば見かける機会があった。それにも関わらず、これまで何ら有効な対応もなされてこなかったということは、もしかするとこの〈北海道立文学館〉という組織そのものに、ハラスメントの素地があると言えるのではないだろうか。亀井は、そのように考える(12P。太字は原文のママ)

 ところが、財団の幹部職員はこれを「職場環境」の問題として受け止めることはせず、むしろその逆に、12月6日、亀井志乃に対して「次年度に再雇用する予定はない」旨の、実質的な解雇通告をし、文学館から亀井志乃を排除する手段に出た。寺嶋弘道学芸主幹は、次年度から亀井志乃がいなくなることで一安心、更に欲しいままな気持ちに駆られたのであろう、一そう悪質な業務妨害を行った。
 その意味で、発端は確かに亀井志乃が「パワー・ハラスメント」のアピールにあったのだが、財団の幹部職員と寺嶋弘道学芸主幹の不適切な対応のために複雑な事態となり、「パワー・ハラスメント問題」には解消できないところにまで進んでしまったのである。

 財団が亀井志乃を排除するために、どのように違法な手段を使ったか。寺嶋弘道主幹がその違法な手段とどのようにかかわったのか。それらについては「判決とテロル(2)」で書いたばかりなので、重複は避けたいと思う。ともあれ田口紀子裁判長は、亀井志乃の主張や甲17号証に目を通していたはずであるが、職場環境配慮義務の問題などは「どこ吹く風」とばかりに無関心をよそおい、寺嶋弘道被告の亀井志乃に対する嫌がらせは、被告の言動が、原告に不快感をもたらすものであったとしても、許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできない」、「被告は、原告の勤務時間が超過する結果になることへの配慮に欠けていたと解されるところではあるが、原告が、帰宅する自由を完全に束縛されていたとまでは認めることはできない(20~21P)という具合に、全てを許容することにしたのである。
 田口紀子裁判長の判決の時代逆行性は、昨日発表された厚生労働省の方針に照らしてみれば、ますます明らかだろう。

○亀井志乃の姿勢と判決の受け止め方
 田口紀子裁判長はこのように職場環境配慮義務を無視し、時代に逆行する判決を下したわけだが、どうしてそんなことができたのか。多分その理由の一つは、一見したところ精神的にも肉体的にも何の障害がない、健康な姿で、亀井志乃が法廷に現れたからである。
 平成18年度、亀井志乃が体調を崩しかけていなかったわけではない。ただ、寺嶋弘道の相次ぐ嫌がらせや、他の職員が見て見ぬ振りをしている中で、自分が弱っている気配はおくびにも出したくない。その意地で頑張り通してきた。
 心ならずも文学館の仕事から離れざるをえなくなり、仕方がない、これを機会に言葉の能力を磨いておこうと、発音矯正の教室に通うことから始めたが、さすがに先生は発声のプロ、「あなたは話をすることに、かなりひどい抑圧を受けてきたようですね」と指摘されたという。
 だが、何とか心的な障害を克服して、明るい声で話をすることができるようになった。もちろん文学館の仕事は気に入っており、もしチャンスがあればまた文学館の仕事に就きたいと考えている。

 そんなわけで、亀井志乃は今度の裁判においても被害を訴えて同情を買うやり方は避け、寺嶋弘道の言動がいかに理不尽であったかを、証拠と論理で証明する方法を選んだ。「このようなやり方で、〈人格権侵害の問題は、互いの人格を尊重し合う市民的ルールからの違反の問題なのだ〉という主張が通るならば、これまで告訴をためらっていた人の動機づけにもなるのではないか」。そういう意味のことを言っていた。
 そして事実、証拠と論理では自分のほうがはるかに勝っているという確信があり、田口紀子裁判長の判断に期待してしたのであるが、ああいう判決が出てがっかり落胆した。というより、腹の底から愛想が尽きてしまったらしく、「裁判官て、外部の圧力に判断が左右されないように、立場は保護されてるし、収入も一般の公務員よりは保証されているんでしょう。それなのに、司法の独立というか、裁判官の見識というか、そういう格調が感じられない、低調な文章……」と言って、二度と判決文を手に取ろうとしなかった。
 
 それを私ふうに言い換えれば、田口紀子裁判長の文章はどこか心事が濁っている。明晰さに欠けているのである。

○予定を変えて
 ところで私は、今回から、小畑清剛の『言語行為としての判決―法的自己組織性理論―』(昭和堂、1991)や、John M. Conleyと William M. O’Barr の共著“Just Words ―Law, Language and Power―”(Chicago. 1998)の第2版(2005)などを参照しながら、裁判の言説の理論的な検討に入る予定だった。
 
 ところが、NHKが労災認定の基準の見直しを伝えた、ちょうど同じ日に、大塚達也さんが「判決のテロル(4)」について、意味も意図もよく分からないコメントを寄せてくれた。大塚さんの読み方によれば
(田口)裁判長は(亀井志乃の)リテラルな格調の高いものをの(ママ)、オーラルなものに敷衍するのに腐心しているのだ」そうであるが、私にはそう思えない。
 もし田口裁判長が「腐心して」(心をくだいて)いる点があるとすれば、それは、亀井志乃の主張する「事実」を歪曲したり、削ったりしながら、争点をはぐらかして、寺嶋弘道被告の言動を全て「社会的許容限度」の中に収めて、免責してやることだったのではないか。私はそう思うのだが、議論をもっとオープンなものとするためには、更に田口紀子裁判長の「判決文」の特徴を紹介し、検討を加えておくべきだろう。
 そう考え、私は予定を変えて、なお2、3回、田口紀子裁判長の「判決文」の構造分析を続けることにした。皆さんのご海容をお願いする。

○亀井志乃の原文と田口紀子裁判長の削除
 亀井志乃は、自分が主担当の「二組のデュオ」展の設営準備の際、どんな事態に直面したか、3月5日付「準備書面」で次のように書いた。
 なお、今回は引用が多くなりそうなので、次の亀井志乃文章を、田口紀子裁判長が「判決文」でどのようにリライトしていたかは、省略する。ただ、前回までのやり方で分かると思うが、下線を引いた箇所は田口紀子裁判長が削ってしまった表現である。ただし、削った表現の代わりに、田口紀子裁判長が書き加えた文章もある。〈 〉内の青い文字がそれである。
《引用》

(14)平成19年1月31日(水曜日)
(a)被害の事実
 1月27日(土曜日)、「中山展」が終わり(次に予定されていた「栗田展」が中止されたため期間延長)、その撤収作業が28日(日曜日)と30日(火曜日)に行われた。 そして翌日の31日から、原告は自分が主担当の企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の展示準備を始める予定だった。この予定については、職員の了解も取っていた。30日(火曜日)の朝の打合せ会において、2月の予定に関する変更の連絡は一切なかった(甲21号証)。
 ところが31日、原告が午前中に自宅から小樽文学館へ直行し、借用資料を受けとって、午後から道立文学館へ戻ったところ、「人生を奏でる二組のデュオ」展の副担当のA学芸員が原告のもとに来て、「なんだか、急に写真展が開かれるようになったようですね。特別展示室の入口が塞がれて、準備できないんです」と知らせてきた。驚いて確かめに行くと、特別展示室の入口は移動壁が凹字型に組まれ、すでに「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」(期間・平成19年2月3日~2月8日 以下「イーゴリ展」と略)(甲22号証)という展示の写真額が展示されていた。
が、イーゴリ展が急きょ行われることになった。イーゴリ展が行われることを原告は同月31日になって初めてしった。〉
 一般に文学館の展示作業は、入口を起点として、来館者の目線を想定しながら展示物の配置を決めて行く。その入口を塞がれては、展示準備に入ることができない。
 原告とA学芸員は、奥のほうで出来る仕事(例えばガラスケース内の展示装備)だけでも先に進めておくことはできないかと考え、特別展示室脇の電気室の入口から特別展示室に入ろうとした。だが
〈イーゴリ展の展示のため、展示会場の入口は塞がれており、また、特別展示室脇の電気室の〉配電盤に(ママ)上には、被告の名前を付した「照明はライティングレールのみ点灯に変更しました」という付箋が貼ってあった(甲23の1~3号証)。それは、特別展示室入り口のライティングレール上のみは展示写真を照らすために灯りが点くが、それ以外は特別展示室内の照明は使えない設定にされてしまったことを意味した。〈(原告は)特別展示室内における準備もできず、原告はデュオ展の準備を同月31日から開始することができなかった(甲21、22、23の1ないし3、原告本人)〉。
 以上の、特別展示室の入口を移動壁で塞いで写真展覧会の写真額をそこに掛ける行為、および配電盤の照明設定を変更し、その上から付箋を貼って、暗黙のうちに、照明設定の再変更もしくは復元を禁止する意志を知らせる行為を行ったのは被告であった。そのことは、2月6日(火曜日)の朝の打合せ会で、被告が自分から発言を求め、「イーゴリ展をやることになりました…もう、やっております」と事後承諾を求めたことからも明らかである。
 特別展示室入口を塞いだイーゴリ展は2月9日に撤去されたが、原告は2月9日、岩内の木田金次郎記念館と道立近代美術館から作品を借用し、10日は札幌市営地下鉄の各駅にポスターを貼る仕事を予定ていた。このため2月11日まで特別展示室での設営に取りかかることができなかった
〈からデュオ展の設営に取りかかり、。原告はやむをえず、2月17日の展覧会オープン前日まで、文学館の休館日を除く原告の非出勤日を返上して、全143点に及ぶ展示品の展示作業を行った。14・15・16日の3日間は、作業は10時近くまで及んだ〈同月14日から16日までは、午後10時、11時まで展示作業に当たった。(甲24の1、2)〉。14日夜と15日夜は天候状態も悪かったので、やむなくホテルに泊まりながら展示作業に当たった(甲24号証の1~2)。17日のオープンを控えた16日、原告が展示を完成して帰宅したのは午後11時過ぎだった(29~31P。下線、〈 〉の挿入は引用者)

 少し読みにくい引用になってしまったが、亀井志乃の文章の下線を引いていない箇所と、〈 〉内の青い文字の文章とをつなげてもらいたい。そうしてもらえば、田口紀子裁判長の「判決文」における文章が浮かんでくる。田口紀子裁判長は例によって、寺嶋弘道被告の亀井志乃に対する具体的な業務妨害の事実を削除してしまう方向でリライトしていた。そのことが分かるだろう。

○田口「判決文」の矛盾撞着
 以上の事柄に関する田口紀子裁判長の法的な判断は、以下の如くであった。
《引用》

(セ)原告は、平成19年1月31日、被告が、イーゴリ展を他の職員に何の断りもなく割り込ませ、原告の主担当であるデュオ展の準備ができないようにして、原告の業務を妨害した旨主張する。しかしながら、イーゴリ展の開催は被告のみで決定できるものではなく、文学館の了承のもとに行われたものであること、同日には、既に、被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていたこと、イーゴリ展終了から、デュオ展開催までには、9日間あり、デュオ展の準備ができないという期間であったとまでは認められないことなどからすれば、被告に業務妨害の不法行為があったと認めることはできない(23p)

 私はこの文章を読んで、日本にはこんな判決文を書く裁判官がいるのかと深く慨嘆し、日本の裁判官のレベルに深刻な危機感を抱いた。

 特に私が驚いたのは、同日には、既に、被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていたこと……などからすれば、被告に業務妨害の不法行為があったと認めることはできない。」の箇所である。
 これまで繰り返し指摘してきたように、田口紀子裁判長は、〈寺嶋弘道被告は亀井志乃の上司だった〉という前提に立って、寺嶋弘道学芸主幹の亀井志乃に対する言動は「業務の範囲内」と見なし、「社会的許容限度」を逸脱していないと判断してきた。ところが田口紀子裁判長は、平成19年2月3日、寺嶋弘道学芸主幹が他の職員に何の断りもなく「イーゴリ」展を実施した時点で、既に彼は亀井志乃の上司でなかったという。そうであるならば、彼がやったことは、紛れもなく亀井志乃の仕事に対する妨害行為だったことになるのではないか。
 
 もともと田口紀子裁判長が、〈寺嶋弘道被告は亀井志乃の上司だった〉という判断の裏づけに持ち出した「組織図」は、田口紀子裁判長の虚構でしかなかった。ただ、もし仮に田口紀子裁判長の判断を正しいと受け入れたとしても、
被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていた」段階でその前提は崩れてしまい、別個な基準で判断しなければならないはずである。にもかかわらず、被告に業務妨害の不法行為があったと認めることはできない。」という結論は変わらない。普通に考える能力があるならば、中学生でもこんなに首尾一貫しない文章は書かないだろう。常識は、こういう文章を支離滅裂、矛盾撞着の屁理屈と言う。
 結局田口裁判長は、その場限りの理屈をこねてでも、とにかく寺嶋弘道被告を無罪放免にしたかった。そう受け取るほかはあるまい。

○寺嶋弘道被告の言い分を鵜呑みにした田口「判決文」
 では、田口紀子裁判長はどういう理由で、
同日には、既に、被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていた」と判断したのであろうか。
 田口紀子裁判長は判断理由を次のように述べている。
《引用》

(8)原告は、平成18年10月31日付で、被告や文学館幹部職員に対し、「〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」と題された文書(以下「意見書」という。)を送った。(甲17)
 意見書を受けて、文学館は、問題の解決を図り、業務を円滑に進めるため、執行体制の見直しを図り、被告は原告を監督する立場から離れ、また、原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し、職務内容については、平原が直接原告の指揮を取るという事務の流れに変更された。(乙1、5、甲18
(4~5p)

 しかし、もし本当に文学館が「執行体制の見直しを図り、被告は原告を監督する立場を離れ」たのであるならば、これは大きな組織変更となったはずであり、それならば田口紀子裁判長が描いてきた「組織図」はどう変わったのか。当然そういう疑問が湧いてくるし、まず田口紀子裁判長自身がその問題に気がついて、新たな「組織図」を説明したはずである。だが、田口紀子裁判長は一言もその問題には言及していなかった。
 多分それは、寺嶋弘道被告の「準備書面(2)」や「陳述書」における次のような記述を鵜呑みにするだけだったからにほかならない。
《引用》
 
被告が原告からの10月31日付けのアピール文を受け取ったことは事実として認める。しかし、同文書は文学館の他の幹部職員にも送りつけられており、ただちに事実関係の調査と執行体制の見直しが図られることとなった。この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることになり、被告は原告との接触を控えるよう毛利館長から指示されていた(寺嶋弘道「準備書面(2)」10p)

 しかし、当館としては問題の解決を図り業務を円滑に進めるため、ただちに執行体制の見直しが図られることになりました。前述文書による原告の改善要求を受け、私は原告を監督する立場から離れ、また原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し、業務内容については平原副館長が直接指揮を取るという事務の流れに変更されたのです。そして、この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることとなり、私は直接の接触を控えるよう毛利館長から指示を受けていました。
 ゆえに突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました
(寺嶋弘道「陳述書」8p)

○亀井志乃の反論を黙殺した田口「判決文」
 亀井志乃はアピール文を、寺嶋弘道学芸主幹にも財団の幹部職員にも直接手渡したのであって、「送りつけた」わけではない。そういう表現上の細かな嘘を含めて、田口紀子裁判長は寺嶋弘道被告の言い分を丸呑みしてしまったわけだが、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)-2」で次のように反論した箇所は無視してしまった。
《引用》
 
私のアピール文が手渡されて、ただちに執行体制の見直しが図られ」と言っていますが、どういう人たちの間で、どのレベルの会議で執行体制の見直しが図られたのか、私自身は何の報告も聞いていません。ただ、平成18年11月10日、私が毛利館長及び平原副館長と話し合った結果合意された4点の「取り決め」(「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」甲18号証)を「見直し」の一環と考えるならば、この見直しは「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)への復帰であった。換言すれば、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)の廃棄だったことになります。つまりその時点で、被告が言う「事実上の上司」の架空性が露わになり、破産してしまったことを意味します。被告は上記引用文で「11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく」と、信じられないほど情けないことを言っていますが、要するにこれは被告が自分の架空の立場を失い、その結果、私に対するどのような接触もできなくなってしまった事実を告白したことにほかなりません(32~33p)

 念のために補足すれば、亀井志乃が言う「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)は、平成18年4月1日の日付を持ち、これが平成18年度の正式な組織図であった。この組織図では、寺嶋弘道学芸主幹とS社会教育主事とA学芸員の3人は、「北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループ(道立文学館駐在)」として、財団の組織とは切り離された形で、点線(……)で囲んである。そして、この「北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループ(道立文学館駐在)」と財団との関係は、「協働・連携」とされていた。この組織図は理事会で承認されており、正規な組織図であることは言うまでもない。
 
 それに対して、田口紀子裁判長は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)に基づいて、自分の「組織図」を描いたわけであるが、これは既に新年度の業務がスタートした平成18年4月18日の全体職員会議で配布されたものであり、何の説明もなかった。この組織図は手続き的にも、内容的にも何ら正当性がない。亀井志乃はそのことを指摘し、そのポイントは「北海道文学館のたくらみ(54)」や「判決とテロル(1)」で紹介しておいたが、改めてその組織図を紹介しておこう。
 この組織図は、副館長の下に「業務課」と「学芸班」とが独立・並立する形で並んでおり、この「学芸班」は「北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループ(道立文学館駐在)」によって構成されていた。そして、正規の「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」(甲2号証)では業務課に属する財団職員の司書と研究員の2人が、この「学芸班」のほうに移されていたのである。
 
 少しややこしい印象を与えたかもしれないが、この
「財団法人北海道文学館(事務局)組織図(甲2号証)をざっと鉛筆でデッサンしてみた上で、田口紀子裁判長の「原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された。」(判決文3p。太字は引用者)という組織図とを比べてみてもらいたい。田口紀子裁判長の組織図が如何に見当違いなものであったかが、よく分かるだろう。

○自分の間違いを隠蔽する田口紀子裁判長
 そんなわけで、亀井志乃の
「この見直しは『財団法人北海道文学館(事務局)組織図』(甲2号証)への復帰であった。換言すれば、『財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について』(乙2号証)の廃棄だったことになります。つまりその時点で、被告が言う「事実上の上司」の架空性が露わになり、破産してしまったことを意味します」という指摘は、二重の意味で、田口紀子裁判長には都合の悪いものだった。
 なぜなら、亀井志乃の指摘を認めるならば、寺嶋弘道被告の「自分が亀井志乃の事実上の上司だった」という主張が不正な組織図の上に成り立っていた事実を認めざるをえず、田口紀子裁判長自身の「寺嶋弘道被告は亀井志乃の上司だった」という判断もその根拠を失ってしまう。ばかりでなく、田口紀子裁判長の描く「組織図」は、この不正な組織図の誤読という二重の間違いに基づいていた事実が明らかになってしまうからである。
 田口紀子裁判長が亀井志乃の指摘を無視した理由はここにあったと言えるだろう。

○隔離されたのは寺嶋弘道学芸主幹
 さらに言えば、
原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し」という寺嶋弘道被告の言い分、それを受けた田口紀子裁判長の「原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し」という判断も決して正確ではない。
 先ほどの2種類の組織図を念頭に置いて、亀井志乃の次の文章を読んでもらいたい。
《引用》
 
学芸班は、席は一まとまりになっているものの、普段、その事によって緊密に相互連絡がはかられているわけではない。少なくとも、亀井が事務室にいる時間帯にはそのような様子は見えず、また亀井が閲覧室等に居る場合も、学芸班で話し合いがあるからとの連絡を受けたり、参加を促されたりしたこともない。(なお、週はじめの「朝の打ち合わせ会」は、学芸班の業務打ち合わせとは性格を異にする、事務室全体の連絡会である。)また、展示設営や資料発送等の具体的な作業がある場合は、亀井には、すべてS社会教育主事やA学芸員から依頼がなされていた。その連絡・依頼はたいてい事務室以外の場所でなされており、しかも、業務にはまったく何の支障もなかった。
 これらの事実を勘案するに、亀井が、学芸班の中に席をおかなければならない積極的な理由は何もない。それよりもむしろ、学芸の仕事に関与している者が皆〈学芸班〉という同じ場所に集められることで、道職員・財団職員・さらに財団の嘱託職員といったそれぞれの立場の違いが(おそらくは故意に)曖昧化されてしまった事。まさに、そこにこそ、今回問題となったパワー・ハラスメントの主要な一因があると考えられる。とすれば、互いの立場の違いをはっきりさせ、仕事の内容と責任範囲にけじめをつけて、再び道の主幹の嘱託職員に対する過干渉が起こることのないように対処するためにも、座席の位置は変えた方が妥当と思われる。亀井はあくまで座席変更を主張し、館長及び副館長も合意した。
平成18年11月14日付「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」2p)

 これは、田口紀子裁判長が先の判断を書いた際に、その証拠として上げた甲18号証の一節である。
 亀井志乃は毛利正彦館長と平原一良副館長との話し合いにおいて、「学芸班」という言葉を、取りあえず彼らが言う意味
(「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」を前提とする)で使うことにしたが、彼女の意図は、〈この「学芸班」がパワー・ハラスメントの温床になっており、これを防ぐためには、組織関係を正規なものにもどす必要がある〉ということだった。そのことは一読して明らかだろう。
 毛利正彦館長も平原一良副館長もこの主張を正当なものと認めたからこそ、亀井志乃の座席の位置を財団の業務課のほうに移すことに同意したのである。
 
 ところが、寺嶋弘道被告はそういう経緯を無視して、
ただちに執行体制の見直しが図られることになりました。前述文書による原告の改善要求を受け、私は原告を監督する立場から離れ、また原告の執務席も学芸班から離れた場所に移し、」などと、あたかも財団のほうが積極的に「執行体制の見直し」を図り、亀井志乃の「執務席(何という大げさな言い方だろう!)を「学芸班」から離れた位置に隔離したような言い方をし、田口紀子裁判長もそれをマに受け(た振りをし)ていた。
 だが、実情はその反対であって、毛利館長や平原副館長のほうが話し合いの席上、亀井志乃の主張に服さざるをえなくなって、業務の進め方を2、3点、手直しをしたのであり、実態的には寺嶋弘道被告のほうが財団職員のO司書や亀井志乃研究員から隔離されたので
ある。
 
「この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることになり、被告は原告との接触を控えるよう毛利館長から指示されていた(寺嶋弘道「準備書面(2)」10p)という証言が、図らずもその実情を告白してしまっていたと言えるだろう。
 
○「上司」でなくなれば、やったことまで帳消し?
 田口紀子裁判長は、自分の判断の証拠として、甲18号証(亀井志乃「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」)を挙げていた。そうであるならば、当然以上のような経緯を知ったはずである。だが、亀井志乃の側からの説明を無視し、寺嶋弘道被告の言い分に寄り添う形で、判決文を作文していた。
 しかし田口紀子さん、仮にあなたが言うように、「イーゴリ展」の時点では、既に寺嶋弘道学芸主幹は
「原告の上司としての立場から離れた状態になっていた」としても、それをもって寺嶋弘道学芸主幹の行為が亀井志乃の業務に重大な支障を与えた事実を帳消しにすることはできないし、被告に業務妨害の不法行為があったと認めることはできない」という判断の根拠とすることはできませんよ。

○あくまでも寺嶋弘道被告を庇い立てする田口紀子裁判長
 もっとも、田口紀子裁判長としては、次のように主張するかもしれない。〈いや、私は
「同日には、既に、被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていたこと」というフレーズに先立って、しかしながら、イーゴリ展の開催は被告のみで決定できるものではなく、文学館の了承のもとに行われたものであること」とことわっている。この事実から、被告に業務妨害の不法行為があったと認定することはできない。」という結論を導いたのだ〉と。
 なるほど、もしそうならば、
同日には、既に、被告は原告の上司としての立場から離れた状態になっていたこと」というフレーズは不必要だったはずである。

 被告の寺嶋弘道にとっても、ここは何とか言い逃れをしたい急所だったのであろう、「準備書面(2)」で、しかし、同展(イーゴリ展)は、『イーゴリ・ジュギリョフ展実行委員会』が文学館の指定管理者である財団の使用許可を得て文学館の施設の一部を借りて実施したものであって、文学館の企画展ではないのである。財団は、イーゴリ氏及び同実行委員会から文学館において『イーゴリ展』を実施したい旨の相談を受け、協議の結果、平成18年12月中には、平成19年2月3日から同8日までの間、同実行委員会に施設の一部を貸し出す旨内定し、職員にも周知している。」11p)と言い訳をしていた。
 
 あれ、寺嶋弘道さん、確かあなたは、
着任日には、被告は平原一良学芸副館長(当時)から平成18年度の事務事業について説明を受けており、『二組のデュオ展』を含め当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである。(2p)と主張をしてましたよネ。ところが、「イーゴリ」展のことでは、急に無関係になってしまったんですか。そういう突っ込みは、この際、ほどほどにしておこう。
 
 ただ、「イーゴリ・ジュギリョフ展実行委員会」などというもっともらしい名前を名乗ってはいるが、要するに理事の工藤正広と副館長の平原一良のほか、2、3人が、それこそ「急きょ」ひねり出した実行委員会でしかなく、寺嶋弘道学芸主幹が一枚噛んでいなかった保証はない。少なくとも寺嶋弘道学芸主幹が実際に「イーゴリ展」の展示を手がけ、特別展示室の入口をコの字型に塞いでしまったり、配電盤の照明設定を変更し、その上から付箋を貼って、暗黙のうちに、照明設定の再変更もしくは復元を禁止する意志を知らせる行為を行ったりしたことは、紛れもない事実である。
 亀井志乃から隔離されてしまった元「上司」が思いつきそうな、陰険な嫌がらせと言えるだろう。ともあれ、あの杜撰な調査報告しかできなかった札幌法務局のO調査救済係長でさえ、寺嶋弘道学芸主幹が「イーゴリ展」の実行者であったことを認めている(「北海道文学館のたくらみ(25)」)。
 それらの点を踏まえて、亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―1」で次のように反論した。
《引用》

「イーゴリ展」が実行された経緯については、本訴訟に直接関係することではなく、原告の関知するところではない。ただ、被告の手によって実行されたことは明らかな事実であり、原告にとって重要な意味を持つ。
 
また、被告は、財団は、イーゴリ氏及び同実行委員会から文学館において『イーゴリ展』を実施したい旨の相談を受け、協議の結果、平成18年12月中には、平成19年2月3日から同月8日までの間、同実行委員会に施設の一部を貸し出す旨内定し、職員にも周知している。」と言うが、極めて疑わしい。平成18年12月中には内定していたのであれば、「平成18年度 北海道文学館 2月行事予定」(甲21号証)に記載されたはずであるが、記載されていない。予定表はその月の職員の動きや館内の使用状況を皆に周知してもらうためのものであり、貸館だからといって表に加えないなどということはあり得ないのである(甲54号証・甲55号証参照)。しかも被告は、2月6日(火)の朝の打合せ会で、イーゴリ展をやることになりました……もう、やっております」と、職員に事後承諾を求めている。この事実は、原告の「準備書面」で指摘しておいた。被告が2月6日(火)に職員の事後承諾を求めたという事実は、被告自らが、前年の12月中旬から一度も職員に周知をはかったことがない事実を認めたことにほかならない(45p)

 この反論に対する寺嶋弘道被告の対応は、被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。(平成20年7月4日付「事務連絡書」)

 田口紀子裁判長はこれら双方の主張に目を通していたはずであるが、寺嶋弘道被告の行為事実は一切なかったことにし、イーゴリ展の開催は被告のみで決定できるものではなく、文学館の了承のもとに行われたものであること、」という、空とぼけた一言で、実際に行われたことを「ナシ」にしてしまおうとしたのである。

○田口紀子裁判長の実情無視
 それよりももっとあきれたのは、
イーゴリ展終了から、デュオ展開催までには、9日間あり、デュオ展の準備ができないという期間であったとまでは認められないことなどからすれば、被告に業務妨害の不法行為があったと認定することはできない。」太字は引用者)という箇所である。
「イーゴリ展」が撤去された翌日から、「デュオ展」の設営が終わる16日まで、亀井志乃に与えられた時間は7日間しかなかったわけだが、亀井志乃は2月の9日からすぐに「デュオ展」の設営準備に入れたわけではない。漸く設営準備にかかることができたのは12日(月)からであり、嘱託職員としての非出勤日と、毎週月曜日の休館日を除けば3日間しか余裕がない。彼女はそこまで日程的に追い詰められ、やむを得ず非出勤日を返上し、14日、15日、16日の3日間は午後10時近くまで残業することを強いられた。
 だが、田口紀子裁判長は、先に引用した亀井志乃の「準備書面」(3月5日付)の原文から、以上の事情を述べた箇所を全部削ってしまった。おまけに、文学館には休館日も休日もないという前提で、単純に日数だけをカウントして、
イーゴリ展終了から、デュオ展開催までには、9日間あり、デュオ展の準備ができないという期間であったとまでは認められない」の一言で済ませてしまったのである。

○田口紀子裁判長の法的判断の回避
 田口紀子裁判長は以上のように実情を無視した判断を、自信をもって下したわけだが、この自信の根底には、寺嶋弘道被告の次のような主張があったからかもしれない。
《引用》
 
「イーゴリ展」は2月9日には撤収されており、「二組のデュオ展」の会場設営のためには7日間の期間があり、他の企画展では事前準備を会場以外の場所で行い、会場設営には通常長くても5日間程度しか要しないことから、決して原告に過剰な負担を強いるものではなかった(「準備書面(2)」11p)

 だが、この主張は、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」によって、あっさりと覆されてしまった。
《引用》
 
また、被告は「『イーゴリ展』は2月9日には撤収されており〔中略〕決して原告に過剰な負担を強いるものではなかった。」と言うが、全く実情に合わない。被告によれば、他の企画展では事前準備を会場以外の場所で行う」ことになっているが、これは文学館の展示業務を知っている者の言葉とは思えない。ただ、強いて被告の側に立って考えてみれば、被告が平成18年度に着任して担当した企画展「写・文 交響~写真家・綿引幸造の世界から~」の場合、作品はすでに綿引幸造氏のアトリエでフレームに入った状態にまで出来上がっていた。彼が担当したもう一つの企画展「〈デルス・ウザーラ〉絵物語展」も、北海道北方博物館交流協会という財団法人が主催し、何を展示するか等については予め決まっていた。要するに被告はすでに出来上がった作品を搬入し、展示室に配列しただけであって、それならば5日程度の作業で間に合っただろう。(被告は更にもう一つ、企画展「聖と性、そして生~栗田和久・写真コレクションから~」(甲55号証参照)を担当することになっており、これも写真を借りてくるだけの作業だったが、被告が中止してしまった)。
 しかし、「二組のデュオ展」のようにさまざまなところから展示資料や作品を借り、オリジナルな構想に従って配置を決め、説明のパネルを用意する展示の場合は、準備は文学館内で行い、2週間近い準備期間を予定する。被告が言うような
「会場設営には通常長くても5日間程度しか要しない」などということはあり得ないのである。また、仮に原告が2月10日(土)から設営作業に入ったとしても、実際に作業ができるのは、僅かに2月10日(土)、14日(水)、16日(金)の3日間だけであった。なぜなら、嘱託職員の原告の勤務日は週に火曜日、水曜日、金曜日、土曜日の4日間だけであり、2月11日(日)は非勤務日、12日(月)は建国記念日で原告は休日、13日(火)は12日の振替休日による休館、15日(木)は非勤務日だったからである(甲56号証参照。なお、17日は「二組のデュオ展」のオープニング)。被告は「会場設営には通常長くても5日間程度しか要しない」と非常識なことを主張しているが、仮にこの非常識な言い分を前提にしてさえも、原告に与えられた日数は5日間より2日少ない、3日間でしかなかった。この一事をもってしてだけでも、被告の原告の展示業務に対する妨害意図は明らかであろう(45~46p。〔中略〕は亀井秀雄)

 つまり、寺嶋弘道被告が平成18年度に担当した展示は貸館または貸館レベルのものでしかなく、しかもその1つをキャンセルしてしまった。その作業と、亀井志乃が担当した「デュオ展」のように書簡、原稿、初版本、初出雑誌、絵画、写真などで立体的に構成し、多量の説明パネルを必要とする展示とでは、作業の質量が全く異なる。田口紀子裁判長は当然これらの応酬を目にしていたはずである。だが、全く無視してしまった。それはなぜか。
 亀井志乃がこの非出勤日の返上と残業の問題に関して、その違法性を次のように指摘していたからである(3月5日付「準備書面」)。
《引用》

ロ、被告は、原告が19年1月31日から特別展示室の展示準備に入る予定だったことを知っていたにもかかわらず、その直前に、イーゴリ展のために特別準備室の入口を塞ぎ、原告が準備作業に入れないようにした。
これは原告の準備を大幅に遅らせて、企画展の開催日(2月17日)に間に合わないかもしれないという危機的な状況に追い詰めた点で、「刑法」第234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。
ハ、原告は被告によって準備を遅延させられたため、2月11日以後、毎夜、午後10過ぎまで文学館に残って準備作業を行い、14日と15日は札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた。その結果、労災に入っていない嘱託職員の原告は、契約勤務時間外の災害については何の保証もない状態で、過重な契約時間外労働とそれに伴う出費を5日間にわたって強いられた。これは原告が被告の妨害によって「労働基準法」第32条に反する長時間労働を余儀なくされ、また、財団側がその事実に関しては、「労働安全衛生法」第71条の2項に反して何の配慮もしなかったことを意味する。そういう結果をもたらし、原告に不当な過重負担を強いたのは、被告が原告に対して行った「刑法」第234条に該当する悪質な業務妨害である
(31~32P。太字は引用者)

 田口紀子裁判長は、裁判官の責任において、この指摘の是非に関する法的な判断を下すべきであった。亀井志乃の訴えが「刑法」になじまないというのであるならば、それを説明すれば、亀井志乃も納得するところがあっただろう。だが田口紀子裁判長は、「判決文」の中で、上記の指摘については一言半句言及せず、無視してしまった。イーゴリ展終了から、デュオ展開催までには、9日間あり、デュオ展の準備ができないという期間であったとまでは認められない」などと、実情に合わないことは自信たっぷりに語っておきながら、これらの法的な判断からは逃げてしまったのである。

○労働基準法違反の黙認
 この件に関しては、さらに寺嶋弘道被告は見苦しい言い訳を重ねていた。だが、亀井志乃の反論(「準備書面(Ⅱ)―1」)の中に過不足なく引用されているので、亀井志乃の文章のみを紹介する。
《引用》
 
原告は嘱託職員であり、労災に入っていない。それ故財団は、原告に契約時間外の勤務を強いないように配慮する義務があり、被告もすでに平成18年5月10日の時点で原告の勤務条件を理解したはずだった。それにもかかわらず被告は、原告が契約時間外の超過勤務や札幌での宿泊を余儀なくされたことについて、次のように主張している。原告は「二組のデュオ展」に係る会場設営の期間が短くなったため、時間外勤務を強いられ、さらに札幌市内のホテルに宿泊した旨主張している。しかし、原告から被告や財団に対して、時間外勤務の申し出やホテルに宿泊し出費がかさむ旨の申し出は、この時点はもちろん、これまで一切出されていない。したがって、被告や財団が原告に対し時間外勤務を命令した事実はないし、また、札幌市内のホテルに宿泊することを命じたり承認したりした事実はない。」要するに被告は、労働基準法に違反する勤務を原告に強いる状況を作っておきながら、原告が自分の判断で非出勤日を返上し、午後10近くまで作業を行い、ホテルに泊まったのであるから、被告に責任はないと開き直ったのである。これは、一人の労働者を過酷な勤務条件の中に追い詰めながら、その労働者が自殺しても、あれは自分から死んだので、こちらに責任はないと言い張るのと同じ論法である。この被告の主張は、被告が犯した労働基準法違反や人権侵害を平然と肯定した発言として銘記されるべきであろう
 続けて被告は、原告の住む岩見沢市と道立文学館の距離や、JRのダイヤに言及し、
平成18年度1年間で約22万5千円もの通勤手当を支給していた。」と恩着せがましい言い方をしているが、これは被告の原告に対する業務妨害や労働基準法違反の問題の本質とは関係ない。
 さらに被告は、次のように結んでいるが、これは被告の本音が見え隠れしている表現と言えるだろう。
したがって、原告は、被告の妨害により『午後10時過ぎまで文学館に残って準備作業を行い』、そのため『札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた』と主張しているが、その原因を『午後10時過ぎまでの時間外勤務』だけに帰するのは不当である。」たしかに原告は、札幌市内のホテルに泊まることを余儀なくされた原因を、午後10時過ぎまでの勤務時間外」だけに求めたわけではない。被告も「被告の妨害により」と書きこんでいたように、そもそも原告が午後10時近くまで残業をし、ホテルに2泊せざるをえなかった根本の「原因」を作ったのは、被告の妨害」だったのである。それに加えて、2月中旬は最も天候が悪く、吹雪などによりJRのダイヤが混乱し、しばしば列車の運休事故が発生する。しかも平成19年の2月14、15、16日は低気圧が連続して通過し(甲58号証の2)、各地で吹雪や突風による被害が起こっていた(甲58号証の1・3)。それ故原告は、ダイヤの混乱によって作業が滞ることを恐れて、札幌市内のホテルに泊まったのである(47~48p。太字は引用者)

 この応酬もまた田口紀子裁判長は目にしていたはずである。だが、労働基準法違反や職場環境配慮義務の問題など全くなかったかの如く、黙殺してしまった。
 
○田口紀子裁判長の結果主義
 この田口紀子という裁判官は、たぶん結果主義の論理が得意なのだろう。
 平成18年9月26日、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃主担当の企画展についていた予算をむしり取ろうと支離滅裂な難癖をつけたことは、前々回に紹介したが、田口紀子裁判長はその部分を切り捨てて、
しかしながら、被告の言動は、原告と被告のみでなく、川崎も同席していた中での、業務に関する話し合いであり、話合いの結果、川崎は被告の意見ではなく、原告の計画を受け入れて、話し合いが終了しているのであるから、名誉ないし名誉感情が毀損された、また、業務を妨害された旨の原告の主張は理由がない。(20P)と済ませてしまった。要するに、〈結果的には川崎業務課長の取りなしでその場が収まったのだから、問題はなかったんじゃないですか〉というわけである。
 しかし、亀井志乃はその後も寺嶋弘道学芸主幹の干渉を受け、割り当てられた予算の半分程度で企画展を実施しなければならなかった。亀井志乃はそのことも3月5日付「準備書面」その他で指摘しているのだが、これもまた田口紀子裁判長は無視してしまったのである。

 このような論法を他の時にも使っており、田口紀子裁判官が寺嶋弘道被告に代わって開き直ってやったに等しい、唖然とするような屁理屈であったが、その紹介は次回以降に譲る。ともあれこの「二組のデュオ」展の設営に関しても、〈要するに間に合ったのだから、被害なんてなかったことになるんじゃないですか〉という理屈だったのであろう。
 
○裁判官における想像力の問題
 ここで私に、一つの根本的な疑問が湧いてくる。それは、裁判官と想像力の関係に関する疑問である。想像力は裁判官には不要なのだろうか。
 亀井志乃が企画展の設営準備に従事することができるのは実質的には3日間しかなかった。そのため、もし2月17日のオープンに間に合わなかったならば、亀井志乃の立場はどうなったか。
 そういう場合を想像することなど、田口紀子裁判長には思いもよらぬことだったのかもしれない。
 
 亀井志乃は平成18年12月6日、毛利正彦館長(当時)から、来年度の雇用の打ち切りを宣告された。亀井志乃は、財団がその方針を決める手続きに問題があることや、新規採用の募集要項が法律に違反している事実を指摘して、抗議を行ったが、財団は誠意をもって対応することをしない。言を左右しながら時間を稼ぎ、その間に、亀井志乃の次年度の解雇を既定方針化してしまった。
 寺嶋弘道学芸主幹は、亀井志乃がそういう立場に追い詰められたことを十分に承知した上で、さらに亀井志乃に追い打ちをかける形で、亀井志乃の設営準備が日程的に不可能な状況を作ってしまったのである。
 そういう状況の中で、もし亀井志乃が企画展の設営を2月17日のオープンに間に合わせることができなかったならば、寺嶋弘道学芸主幹も、毛利正彦館長や平原一良副館長も、「それみたことか」と亀井志乃の無能をあげつらい、亀井志乃を解雇する方針に間違いはなかったと、自己正当化の口実に使うだろう。
 亀井志乃にはそういう事態が十分に予想できた。だからこそ、どんな無理をしてでも16日一杯で設営準備を完了しようと頑張ったわけで、事実17日のオープンに間に合わせたからこそ、彼女は業務妨害や労働基準法違反や職場環境配慮義務の問題で訴訟を起こすことができたのである。
 もし亀井志乃が企画展の設営を2月17日のオープンに間に合わせることができなかったならば、彼女がそれらの問題で訴訟を起こそうとしても、果たして裁判所が受理してくれたかどうか。所詮は自分の失敗を他人の所為(せい)にしているだけの、被害妄想の訴えとしか受け取らなかったにちがいない。また、仮に裁判所がその訴えを受理したとしても、寺嶋弘道被告や太田三夫弁護士は、ここを先途と亀井志乃の無能と被害妄想を責め立てる策戦に出て、裁判を有利に運ぶことができただろう。
 だが、彼らはそうすることが出来ず、亀井志乃の証拠と論理に追い詰められ、見苦しい言い訳に終始していた。亀井志乃が自分の誇りを賭けて17日のオープンに間に合わせ、その間の経緯を証拠と論理に基づいて明らかにしたからである。言葉を換えれば、相手に無能と被害妄想の口実を与えないだけの結果を出した、その実績と自信をもって、人格権侵害の訴えに踏み切ったからである。
 
 だが田口紀子裁判長は、亀井志乃が直面したあの危機的な状況と、それを乗り越えてきた誇りを想像することができなかったらしい。あるいは想像する必要を認めなかったらしい。

○田口紀子裁判長による労働基準法無視と業務妨害の間接的幇助
 寺嶋弘道被告は、
二組のデュオ展」の会場設営のためには7日間の期間があり、」と主張した。この「7日間」という日数は、文学館の休館日や建国記念日(2月12日)を抜き去った数ではない。それらを含めての数である。つまり亀井志乃が休館日や国民的休日にも出勤して準備に当たることを前提としていたわけで、この一事をもってしても、寺嶋弘道被告の労働基準法無視と、業務妨害意図は明らかであろう。
 ところが田口紀子裁判長はその点に目を向けず、むしろ寺嶋弘道被告の日数計算を水増しする形で、
イーゴリ展終了から、デュオ展開催までには、9日間あり、」と被告の言い分を援助してやっているのである。問題は、亀井志乃に残された展示設営の日数であり、寺嶋弘道被告は休館日や休日まで含めて7日と計算したわけだが、田口紀子裁判長はわざわざ「イーゴリ展」の撤収に要した日と、「デュオ展」オープンの日まで数えて、デュオ展開催までには、9日間あり」と、いかにも亀井志乃には十分な時間が与えられていたかのように印象づける。そういう表現の操作を行っていた。
 ここには、亀井志乃が直面した危機的状況や、もしその状況を乗り越えられなかったらどんな結果が待っていたかに関する想像力は、かけらも見られない。
 
 田口紀子裁判長のこのような書き方は、意図的に表現の操作を通して行った、寺嶋弘道被告の労働基準法無視と業務妨害に対する間接的幇助と言うべきであろう。

○裁判員制度への警告
 近く日本では裁判員制度が始まる。私の考えでは、出来るだけ裁判員になることはお断りをしたほうがいい。裁判員制度が行われるのは主に刑事事件であって、民事事件ではないらしいが、裁判官の中には以上のように微妙な表現上の作為によって、巧妙に印象操作を行う裁判官もいる。うっかりすると、気がつかないうちに印象操作に巻き込まれ、必ずしも妥当とはいえない判決を下してしまうかもしれない。
 知らないうちに、間違った判決の共犯者なっていた。そんな場合もありえるだろう。用心をするに越したことはない。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

判決とテロル(4)

嫌がらせは業務の範囲――田口「判決文」の意味するもの―

○権力としての判決文
 裁判所の判決は規範化される。田口紀子裁判長は、もちろんこのことを百も承知していたはずである。
 今回の民事訴訟事件で田口紀子裁判長が下した判決文には、例えば次のような箇所があった。
《引用》

(ニ)原告は、平成18年10月6日及び同月7日、被告が、原告の明治大学図書館との交渉に容喙して、相手側の求めていない「職員派遣願」の作成を原告に強制し、また、原告に「開催要項」まで作らせて「職員派遣願」に添付させて、原告の業務に干渉し、業務妨害した旨、また、原告に不正な書き方を強制して、不正行為への加担を強要した旨、被告が、無知な人間に「教えてやる」かのごとき言葉で、原告を拘束して書類の書き直しを強制し、原告の能力を貶め、無知な人間扱いをして名誉を傷つけた旨、被告は、原告の退勤時間が過ぎたにもかかわらず、原告と財団との間に結ばれた契約を無視して原告を拘束した旨主張する。しかしながら、被告の言動は、業務の範囲内の事柄であると認められ、仮に、明治大学図書館における求めが、「紹介状」であり、「職員派遣願」作成が、無駄な作業であったとしても、原告の職務への干渉、業務妨害とまで認めることはできない。また、被告の言動が、原告に不快感をもたらすものであったとしても、許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできないし、故意に原告を侮辱し、原告の名誉感情を毀損したとまで認めることはできない。被告の言動は退勤時間の直前に行われており、その結果原告の勤務時間が約30分超過することになったことが認められ、被告は、原告の勤務時間が超過する結果になることへの配慮に欠けていたと解されるところではあるが、原告が、帰宅する自由を完全に束縛されていたとまでは認めることはできないし、話し合いの内容は職務に関するものであったと認められることからすれば、被告の同日の言動が、不法行為を構成する違法なものであったとまで認めることはできない(20~21P。下線、太字は引用者)

 この判決が、亀井志乃の訴えのどの事例に下されたものか、その判断の中にはどんな問題が含まれているかは、後に問題にしたい。
 ただ、取りあえず、この判決自体に関していえば、これはただ単に寺嶋弘道被告の言動に関して
「被告の同日の言動が、不法行為を構成する違法なものであったとまで認めることはできない」と判断を下し、許容しただけではない。日本の司法官僚機構によって保証された判例として、類似の事例に関しても適用される。平成18年10月6日から7日にかけて、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃研究員に対して取ったと同様な言動が、不法行為を構成する違法なものであったとまで認めることはできない」と許容されることになるのである。
 このように規範化される判例は、当然のことながら、その引用に際しては一言一句も改変してはならない。その意味で裁判官の判決文は司法官僚機構によって保護されているわけだが、このことと、規範としての機能とを併せて捉えてみればどうなるか。直ちに分かるように、裁判官の判決文は権力なのである。

 ここに判決文という言説の特殊な性格がある。
 
 簡単に言えば、先のような文章を太田三夫弁護士が書いたとしても、類似な民事訴訟を扱う裁判官の判断を拘束することはない。――大変に明晰な論理に貫かれた名論として影響を受ける裁判官も存在するかもしれないが、判例として重んずる義務を負うわけではない。――だが、先の文章は田口紀子裁判官の判決文であり、一たんこのような判決が下された以上、もちろん類似な民事訴訟事件を扱う裁判官はこれを無視することができない。判断の参照枠として重んじなければならないのである。

○田口紀子裁判長のさりげない印象操作
 では、先ほど引用した判決文は、亀井志乃のどのような訴えに対して下されたものだったのか。このブログをずっと読んで下さった人は既にお分かりのように、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃研究員に、「職員派遣願」という不必要な文書の作成を強制した事件に関するものであった(「最終準備書面」100~101p。「北海道文学館のたくらみ(57)」)。
 
 その意味では、くどい印象を抱く人もいることとは思うが、田口紀子裁判官がどのような手口によって権力化された言説を作り出したか。そのプロセスを確認するために、今回は亀井志乃が平成18年10月6日と7日の出来事を「準備書面」(平成20年3月5日付)に描いた、その全文を紹介することにしたい。
《引用》

(a)被害の事実(甲9号証を参照のこと)
 原告は企画展の準備のため、明治大学の図書館に資料閲覧の諾否を問い合わせた。同図書館は快く応じ、「お出でになる時、できれば現在の仕事先の紹介状をお持ち下さい」という返事だった(甲35号証)。ただしこの用件での出張の可否は、(9)の項で述べた時のことがあって以来棚上げになっていた。

 
しかし10月6日(金曜日)、原告が出勤すると、出張の書類はN業務主査が整えて、被告の許可をもらっておいてくれた。原告はN主査に礼を言い、明治大学へ持参する紹介状について、事務室で二人で相談した。すると、少し離れた自席に座っていた被告が、「それは、こちらから職員の派遣願を出すことになる」と言った。被告は原告に対して、一方的に「それでいいね?」と言い、「書類、出来上がったら私に見せて」と言った
 
原告は北海道大学大学院文学研究科で博士の学位を取ったのち、文学部言語情報学講座の助手を勤めただけでなく、文学部図書室の非常勤職員だったこともあり、大学図書館が言うところの〈閲覧希望者が持参する紹介状〉の書式には通じていた。普通は、簡潔に用件と、持参した者が確かに紹介状を発行した組織に属するという意味の文言と、所属長の判があれば十分である。それゆえ原告は、被告がなぜ〈紹介状〉とは別の書類を作らなければならないと言い出したのか、内心疑問に思った。
 
しかし原告は、その時は敢えて反論せず、被告が言う「職員派遣願」を作成することにして、文学館のサーバーに残されていた事業課主査(当時)の、小樽文学館に対する職員派遣依頼書類(平成12年11月16日付)(甲10号証の3)を参考にした。起案に必要な「決定書」の書式はA学芸員が見せてくれた。また、下書きの段階でN業務主任と川崎業務課長に目を通してもらった(甲10号証の4)。業務課長は「文章は私の見たところ、申し分ないと思う。ただ、細かいところはNさんに聞くといいよ」と言った。原告は更にN主査の添削を受け(甲10号証の5)、6日の退勤間際に書類が出来たので、被告に直接渡して帰った(20~21p。下線、太字は引用者)

 これが10月6日の出来事である。それを田口紀子裁判長は次のようにリライトしている。
《引用》

(10)原告は、企画展の準備のため、明治大学の図書館に資料閲覧の諾否を問い合わせたところ、同図書館から、「お出でになる時、できれば現在の仕事先の紹介状をお持ち下さい。」という返事があったことから、平成18年10月6日、N主査と明治大学へ持参する紹介状について、事務室で相談していたところ、被告が、「それは、こちらから職員の派遣願を出すことになる。」と言い、「書類、出来上がったら私に見せて。」等と指示した。原告は、被告の指示に従い、「職員派遣願」を作成することとし、文学館のサーバーに残されていた事業課主査(当時)の、小樽文学館に対する職員派遣依頼書類(平成12年11月16日付)を参考にし、起案に必要な「決定書」の書式をA学芸員に見せてもらい、また、下書きの段階でN業務主任と川崎に目を通してもらった。川崎は「文章は私の見たところ、申し分ないと思う。ただ、細かいところはNさんに聞くといいよ」と言ったことから、原告は更にN主査の添削を受け、平成18年10月6日の退勤間際に職員派遣願ができたので、被告に直接渡して退勤した(11p。同上)

 一見したところ、大きな違いはないようにみえる。
 ただ、田口紀子裁判長は、「判決とテロル(1)」以来、繰り返し指摘してきたように、
原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された。(判決文3p)と、虚構の組織を作り上げ、〈寺嶋弘道学芸主幹と亀井志乃研究員は同一組織内の上司と部下の関係にあった〉と勝手に決め込んでいた。
 太字の箇所を読み比べれば分かるように、田口紀子裁判長はこの虚構に基づいて、あるいはこの虚構を裏づけるために、亀井志乃が「被告が言った」「被告が言う」と書いたところを、さりげなく、しかし極めて意図的に「被告が指示した」「原告は、被告の指示に従い」と書き換えてしまった。亀井志乃の「準備書面」を読まず、この判決文だけを読む人は、寺嶋弘道被告が「指示する」立場にあったと思いこんでしまうだろう。
 
 では、なぜ私は、田口紀子裁判長のこの書き換えを、「極めて意図的に」と評したのか。後にもう一度引用するが、寺嶋弘道被告は「準備書面(2)」の中で、
自分が)職員派遣による協力要請文書の作成を指示した」という言い方をしていた。つまり田口紀子裁判長は、亀井志乃の文章をリライトするに当たって、寺嶋弘道被告の言葉で書き換えたのである。
 しかも田口紀子裁判長は、亀井志乃の原文における下線の箇所を省いてしまったわけだが、それはこの操作を隠すためであったと見ることができよう。

○田口紀子裁判長の露骨な被告庇い
 しかし、10月7日の出来事に関しては、田口紀子裁判長の作為はもっと露骨だった。
《引用》
 
翌日の10月7日(土曜日)は被告の休みの日であった。被告は、原告の書類を手直ししたものを、原告の机上に戻していなかった。被告の机の上にもなかった
 ところが、原告の退勤間際の4時50分頃、被告が突然事務室に現れた。そして原告を、「教えてあげるから、ちょっとおいで」と自席に呼びつけた被告は原告の目の前で、書類(甲10号証の1)に鉛筆で書きなぐるように手を加えながら、その都度教え込むような口調で、「開催要項をつけなければならない」、「展覧会概要として会期、会場、主催者、観覧料等を知らせなければならない」と注文をつけ、その間、原告に対して「観覧料は分かる?」と質問し、原告が「はい、分かっています」と答えると、「じゃあ、それは要らないな」と目の前で〈観覧料〉という文字を消してみせるなど、原告を嬲(なぶ)るような言い方を繰り返した。そして、レイアウトや標題を訂正するのみならず、「申し上げる次第です」を「申し上げます」、「伺う日時」を「調査日時」とするなど、約17箇所にもわたる細かい修正を行い、それを原告に返して、書き直しを求めた。
 結局全面的な手直しとなったので、原告が被告に「では、休み明けの提出でいいですか?」と聞いたところ、被告は「いいんじゃないの、休み明けに出来て承認されれば、向こうに送るのに間に合うし」と言った。原告は驚き、「なぜ送るんですか。持って行く書類が必要なんです」と言ったが、被告は「送るんだよ!これは公文書なんだから。先に、相手側に送っておくんだよ!」などと原告を怒鳴りつけた
 原告は「先方が求めたのは〈紹介状〉であり、自分が持参しなければ〈本人確認〉の意味をなさない」という意味の説明をしたが、被告は耳を貸そうとせず、原告が事前に郵送することを承諾するまで、原告を帰さなかった原告が被告から解放されたのは午後5時半過ぎだった
(平成20年3月5日付「準備書面」20~22p。同上)

 これが亀井志乃の原文であるが、田口紀子裁判長のリライトは次のように作為的だった。
《引用》
 
翌7日は被告の休みの日であったが、被告は、原告の退勤間際の4時50分頃、事務室に現れ、原告に対して、「教えてあげるから、ちょっとおいで」と自席に呼び、甲10号証の1のとおり、鉛筆で加除訂正し、「開催要項をつけなければならない」、「展覧会概要として会期、会場、主催者、観覧料等を知らせなければならない」と指摘し、その間、原告に対して「観覧料は分かる。」と質問し、原告が「はい、分かっています。」と答えると、「じゃあ、それは要らないな。」と目の前で「観覧料」という文字を消してみせるなどの訂正を繰り返し、さらに「申し上げる次第です。」を「申し上げます。」、「伺う日時」を「調査日時」とするなど、約17箇所にもわたる細かい修正を行い、それを原告に返して、書き直しを求めた。原告が、「休み明けの提出でいいですか。」と聞いたところ、被告は「いいんじゃないの、休み明けに出来て承認されれば、向こうに送るのに間に合うし。」と言った。原告は、同書類は送るのではなく、持参するつもりであったことから、「なぜ送るんですか。持って行く書類が必要なんです。」と言ったが、被告は「送るんだよ。これは公文書なんだから。先に、相手側に送っておくんだよ。」などと答えた同日、原告と被告の話が終了し、退勤したのは、午後5時半過ぎだった。(甲9,10の1ないし5、33,原告本人、被告本人(11~12p。同上)
 
 田口紀子裁判長は、亀井志乃の
「被告は原告の目の前で、書類(甲10号証の1)に鉛筆で書きなぐるように手を加えながら、その都度教え込むような口調で」という表現を、鉛筆で加除訂正し」と簡略化し、亀井志乃の「原告は『先方が求めたのは〈紹介状〉であり、自分が持参しなければ〈本人確認〉の意味をなさない』という意味の説明をしたが、被告は耳を貸そうとせず、原告が事前に郵送することを承諾するまで、原告を帰さなかった。」を削ってしまった。
 亀井志乃が、「無駄な書類作成の強制」、「書類の作成も満足に出来ない無知な人間としての扱い(名誉毀損)」、「時間契約で働く嘱託職員に対する勤務時間外の拘束」などを訴えた、まさにそのポイントを、田口紀子裁判長は削ってしまったのである。
 
 そのことを確認した上で、初めに引用した田口紀子裁判長の「判決文」を読み直してもらいたい。
 この時の寺嶋弘道学芸主幹の言動は「業務の範囲内」のことと言えるであろうか。その日は休んでいた寺嶋弘道学芸主幹が、亀井志乃の退勤間際に突然顔を出し、亀井志乃を足止めして、亀井志乃が前日に渡しておいた書類になぐり書きを加えた行為。及び、寺嶋弘道学生主幹が亀井志乃に言った言葉や、亀井志乃に強制したことなど。果たしてそれらを「話し合い」と呼び、その内容を「職務に関するもの」と見なすことができるであろうか。
 もし出来るとすれば、それは完全に寺嶋弘道被告の側に立ち、理も否もなく寺嶋弘道被告を庇おうとする人間以外にはいないであろう。

○田口紀子裁判長の歪曲
 田口紀子裁判長の判決はそういう特徴を持つのであるが、おまけに田口紀子裁判長は亀井志乃が主張しないことまで加えていた。それは、
原告に不正な書き方を強制して、不正行為への加担を強要した旨……主張する」という箇所である。田口紀子裁判長のリライトだけを読んで、「なるほどそんなものかな」と思った人も、この箇所が何を問題にしているか、さっぱり分からなかっただろう。
 そもそも亀井志乃は
「原告に不正な書き方を強制して、不正行為への加担を強要した」なんて言い方はしていない。では、具体的にはどういうことだったのか。
 亀井志乃は上記引用の出来事に関して、被告の行為の「違法性」として次のことを指摘した。
《引用》

ハ、被告が原告に強いた書類の書き方は、駐在の道職員である被告の位置を「合議」の欄から「主管」の欄に変えさせるものであった。
 これは被告が北海道教育委員会の公務員であると同時に民間の財団法人北海道文学館の職員を兼任しているかのごとく印象づける不正な行為である。被告は原告に不正な書き方を強制することによって、財団の公文書の中で自分が財団の職員として記載されている事実を作り、財団の管理職であることの既成事実化を図った。これは「地方公務員法」第38条に違反する行為であり、この不正行為への加担を原告に強要した点で、二重に違法行為である
(23p)

 分かるように、「財団法人 北海道文学館」のネームが入った財団の文書の記載に関して、寺嶋弘道学芸主幹は亀井志乃に、「合議」欄に位置づけられた自分の名前を、「主管」欄に記入させた。それだけでなく、「主管」欄に位置づけられた川崎教務課長を、「合議」欄に移させた。そのことを指して、亀井志乃は「被告が北海道教育委員会の公務員であると同時に民間の財団法人北海道文学館の職員を兼任しているかのごとく印象づける不正な行為」と言い、財団の管理職であることの既成事実化を図った」と指摘したのである。

 寺嶋弘道被告にとって、これは痛いところを衝かれる指摘だったらしい。彼の「準備書面(2)」で、また、本件の決定書の作成における『合議』を『主管』に修整した点については、学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告を起案責任者として起案文書を回付するよう財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領に基づくものであり、年度内のすべての起案文書が同様の体裁となっている。これは駐在職員と指定管理者職員との連携と協働を書式化したものであり、これを不正行為だとする原告は、いまだにそのことを理解していない証である。(8p)と反論してきた。
 だが、寺嶋弘道被告が言うような文書作成の取り決めはなされていなかった。もし本当になされていたならば、亀井志乃が過年度の職員派遣願書類を参考にして素案を書き、川崎業務課長やN業務主任に回覧し、N業務主査に添削してもらった段階で、チェックが入ったはずだからである(N業務主任とN業務主査は別人物)。

 亀井志乃はその点を踏まえ、「準備書面(Ⅱ)―1」の中で次のように再反論をした。
《引用》
 
また、被告は「本件の決定書の作成における『合議』を『主管』に修整した点については、学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告を起案者として、起案文書を回付するよう財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領に基づくものであり、年度内のすべての起案文書が同様の体裁となっている。」と言うが、もし被告が言う「学芸班」が「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)における「学芸班」を意味するものであるならば、そのような組織は根拠を持たない、架空なものでしかない。なぜなら「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」なる文書自体が何ら合理性も正当性を持たないからであり、そのことは「(イ―3)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」についての疑問点」で明らかにしておいた。被告自身による「学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告」という自己規定も根拠が曖昧なことは、「(ロ)文意の混乱及び曖昧さの指摘」で明らかにしておいた。被告は自己の行為を正当化するために、財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領」なるものを持ち出しているが、そのような「要領」を明記した「合意書」を被告は証拠物として提出していない。すなわち証拠によって裏づけられていない。
 ところが先の「職員の派遣願い」について、被告が原告に書き換えを強いた箇所を見ると、
業務課学芸班研究員 亀井志乃」「当館学芸班研究員 亀井志乃」に直させ業務課)」「(学芸班)」に直させている。それほど被告は、架空の「学芸班」に執着していたのである。
 また、被告は、
これらの指導にあたって、被告は原告の業務を妨害しようとする意図はなく、また原告の名誉や人格権を侵害する行為は一切行っていない。」と言うが、「職員の派遣願い」という不必要な文書だけでなく、それに添付する「開催要項」の作成までも強いること自体がすでに業務妨害なのである。また原告が作成し、業務課の目を通して問題ないとされた文書について、高圧的、嘲笑的な言辞をもって書き直しを強いることは原告の名誉や人格権を侵害する行為以外の何物でもない(34~35p。太字は原文のママ)

 亀井志乃のこの再反論に対する、寺嶋弘道の対応は、被告は、原告提出にかかる平成20年5月14日付準備書面(Ⅱ)-1.2.3に対しては、本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。」(平成20年7月4日付「事務連絡書」)ということであった。

 田口紀子裁判長は当然のことながら、以上のような双方の主張と、亀井志乃が提出した証拠物を見ていたはずである。しかし田口紀子裁判長は亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」の主張を無視し、平成20年3月5日付「準備書面」の文言を歪曲して、あたかも亀井志乃が「原告は……被告が……原告に不正な書き方を強制して、不正行為への加担を強要した旨……主張する。」と訳の分からない主張をしたかのようにすり替えてしまった。
 もし亀井志乃の主張を正当に取り上げるならば、寺嶋弘道被告の公務員としての分限の問題に踏み込まざるをえない。田口紀子裁判長はそれを避けたのであろう。

 ともあれ、以上のようなすり替えも、田口紀子裁判長によって意図的になされた、亀井志乃に関する印象操作と見ることができよう。

○田口紀子裁判長の組織図のパラドックス
 だが、それはそれとして、亀井志乃が甲10号証によって証明したように、寺嶋弘道学芸主幹が亀井志乃に、「合議」欄に位置づけられた自分の名前を、「主管」欄に記入させ、逆に「主管」欄に位置づけられた川崎教務課長を、「合議」欄に記入させた事実、および
「業務課学芸班研究員 亀井志乃」「当館学芸班研究員 亀井志乃」に直させ「(業務課)」「(学芸班)」に直させた事実を思い出してもらいたい。
 また、それについて、寺嶋弘道被告が、
本件の決定書の作成における『合議』を『主管』に修整した点については、学芸業務を主管する学芸班の統括者である被告を起案者として、起案文書を回付するよう財団との間で年度当初に協議した事務処理の要領に基づくものであり、年度内のすべての起案文書が同様の体裁となっている。」と主張した事実も思い出してもらいたい。

 そしてこのことと、田口紀子裁判長の「原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された(判決文3p)という組織図とを比べてみてもらいたい。

 比べて分かるように、寺嶋弘道被告自身は、自分がその「統括者」であったと主張する「学芸業務を主管する学芸班」を、財団の業務課に属する組織とは考えていなかった。むしろ財団の業務課から独立し、業務課を「合議」者の位置に置こうとしていたのである。
 その意味で、田口紀子裁判長は被告の寺嶋弘道さえも主張していなかった組織を描いてていたことになる。つまり田口紀子裁判長苦心の組織図は、寺嶋弘道被告からも否定されてしまっていたのである。
 もちろん原告の亀井志乃も田口紀子裁判長の描いたような組織を主張したことはない。もともと寺嶋弘道被告の主張には何ら合理的な根拠はないのであるが、その寺嶋弘道被告自身も田口紀子裁判長が描いたような組織図を主張してはいなかった。田口紀子裁判長が拠り所としているらしい「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」にも、田口紀子裁判長が描いたような組織図は見られない。
 田口紀子裁判長はあの組織図をどこから引き出してきたのだろうか。

○「あなた」の立場で
 ただし今回の目的は、田口紀子裁判長のあざとい作為を指摘することだけにあったわけではない。田口紀子裁判長の判決が規範化された言説としてどのような影響をもたらすかを検討することでもあった。それを進める上で、いま仮に「あなた」の経験を描いてみよう。

(1) あなたはA会社と契約した非正規職員であり、自分が中心になって進めることになった展覧会のために、B社が保存する資料を見せて貰いたいと連絡を取ったところ、B社は快諾し、「では、あなたの職場の長の紹介状を持参して下さい」と言った。
(2) あなたはA社の業務課の職員のNに「紹介状」の作成を依頼した。
(3) あなたとは別な仕事を担当しているTがそれを耳にして、「それは、こちらから職員派遣願を出すことになる」と口を挟み、「書類、出来上がったら私に見せて」と言った。
(4) TはA社のスポンサーに当たる会社から、この春に出向してきたばかりの、年長の男性職員だった。Tは出向して間もなく、あなたに任された仕事を無断で横取りし、大幅に予算を超過する失態をしでかしていた。
(5) あなたは何故「職員派遣願」なのか、少しいぶかしく思ったが、あえて反対することもないと考え、「職員派遣願」を作ることにした。
(6) あなたはA社の業務課のサーバーに保存されている「職員派遣願」を参考に、素案を作り、A社の文書を取り扱っている業務課の課長と係の社員に見て貰った。
(7) 業務課の課長が「文章は私の見たところ、申し分ないと思う。ただ、細かいところはNさんに聞くといいよ」と言った。あなたは、直接の担当者のNに添削をしてもらった後、「職員派遣願」を書き上げた。
(8) 「決定書」の作例は、Aが見せてくれた。AはTと同じく、スポンサー会社から出向してきた職員であるが、出向はTよりも1年半早かった。
(9) Aが見せてくれた「決定書」の書式は、「主管」欄にA社の上級管理職と、業務課長以下、業務課の職員の名前を書き、「合議」欄にTやAなど、スポンサー会社からの出向職員の名前を書くことになっていた。
(10) あなたは作成した書類をTに渡して帰った。
(11) 翌日、Tは休みだった。しかしあなたの机の上に、Tに渡しておいた書類はもどっていなかった。
(12) ところが、夕方5時近くになって、突然Tが会社に現れ、「教えてあげるから、ちょっとおいで」と、Tの席に呼びつけた。
(13) あなたは時間契約で働く非正規の職員であり、労災に入っていなかった。それ故、A社の管理職から「退勤時間が来たら、すみやかに帰って下さい」と言われていた。
(14) だが、Tはそんなことにはお構いなく、あなたを足止めして、「決定書」に関しては、「主管」欄にTやAの名前を書き、「合議」欄にA社の職員である業務課長の名前を書くことを求めた。
(15) 「職員派遣願」に関しては、Tはあなたの目の前で、鉛筆で乱暴になぐり書きしながら、「申し上げる次第です」を「申し上げます」に、「伺う日時」を「調査日時」に変えるなど、細かな点、10数ヶ所の添削を続けた。レイアウトも変えてしまった。
(16) さらにTはあなたに対して、「職員派遣願」には展覧会の「開催要項」をつけなければならないと言い、「職員派遣願」の空白部分に「開催要項の添付」と書き込んだ。それに続けて、「5、『展覧会概要』として、会期、会場、主催者、観覧料等を知らせる」と書き込んだ。
(17) Tはそれらを書き込みながら、あなたに「観覧料は分かる?」と訊き、あなたが「はい、分かっています」と答えると、「じゃあ、それは要らないな」と言って、「観覧料」という文字に鉛筆で棒線を引いた。(しかし、何故あなたが「観覧料」のことを承知していれば、B社に「観覧料」のことを知らせる必要がなくなるのか。Tはその理由を説明しなかった)。
(18) あなたがTに、「では、休み明けの提出でいいですか?」と聞いたところ、Tは「いいんじゃないの、休み明けに出来て承認されれば、向こうに送るのに間に合うし」と言った。
(19) あなたは驚いて、「なぜ送るんですか。持って行く書類が必要なんです」と言ったが、Tは「送るんだよ! これは依頼状なんだから、先に、相手側に送っておくんだよ!」と怒鳴った。
(20) あなたは、「もともと先方が求めたのは『紹介状』であって、本人が持参することだった。なぜ本人の持参が必要かと言えば、相手側はそれによって本人確認をするためで、だから自分が持参しなければ意味をなさない」という意味の説明をしたが、Tは耳を貸そうとしなかった。
(21) Tは、あなたが「開催要項」も作成し、それを「職員派遣願」に添えて郵送することを承知するまで、あなたを帰さなかった。

 さて、このような経験をしたあなたは、Tが要求したことや、それをめぐる応答を、「職務に関するもの」だったと考えるだろうか。それとも、自分の職務に関することではなく、Tの職務に関することでもない、と考えるだろうか。
 「職員派遣願」や「開催要項」を作らされたことについて、あなたは、「B社が必要としたのは『紹介状』であり、Tが言う『職員派遣願』の作成は結局無駄な作業であったとしても、Tがやったことは自分の職務への干渉、業務妨害とまで認めることはできない。」と受け取ることができるだろうか。それとも、不必要な干渉であり、おかげで業務の進行を遅らされてしまったと受け取るだろうか。
 また、あなたは、「Tの言動が、自分に不快感をもたらすものであったとしても、許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできない」と辛抱することができるだろうか。それとも、こんなふうに不快感を与えること自体、職場においてはあってはならないことであり、不快感の「許容限度」という問題の立て方自体がおかしい、と考えるだろうか。
 さらには、「Tの行為は、自分の勤務時間が超過する結果になることへの配慮に欠けていたと解されるところではあるが、自分が、帰宅する自由を完全に束縛されていたとまでは認めることはできない」と、納得することができるだろうか。それとも、勤務時間を過ぎたらすみやかに帰すべきところを、書類作りを理由に足止めをするのは、労働基準法違反だ、と判断するであろうか。
 
 たぶん田口紀子裁判長は、たとえ自分が「あなた」の立場に置かれたとしても、全てを「職務に関すること」として受け取り、辛抱し、納得し、許容することができる人なのであろう。

 しかし、仮に田口紀子裁判長が辛抱し、納得できるとしても、それを安直に一般化して、許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできない」とか、「帰宅する自由を完全に束縛されていたとまでは認めることはできない」とかと判断されては困る。

○田口「判決文」の不条理
 では、なぜ田口紀子裁判長の判断は、「安直な一般化」なのか。田口紀子裁判長は、
被告の言動が、原告に不快感をもたらすものであった」事実を認めておきながら、どの程度の不快感までを「許容限度」とするか、その基準を示していないからである。
 あるいはまた、田口紀子裁判長は、寺嶋弘道学芸主幹が自分の席に亀井志乃を呼びつけ、
原告(亀井志乃)の勤務時間が超過する結果になること」も構わずに書類の書き直しを強いた事実を認めながら、なぜ「帰宅する自由を完全に束縛されていたとまでは認めることはできない」と判断したのか、その理由を述べていないからである。
 まさか田口紀子裁判長は、寺嶋弘道学芸主幹が部屋の鍵をかけてしまったわけではないとか、亀井志乃を縛ったわけではないとか、そんなことを基準にして判決を下したわけではあるまい。
 
 田口紀子裁判長は、「いいえ、私個人としては、あのようなことをされても辛抱したり、納得して許容したりはしません」と言うかもしれない。もしそうならば、田口紀子裁判長の判決は悪質な人権侵害というほかはない。なぜなら田口紀子裁判長は自分では辛抱も許容もできない不快感を、亀井志乃や「あなた」たちには辛抱させ、許容させることになるからである。

○田口「判決文」のもたらすもの
 だが、寺嶋弘道の亀井志乃に対する嫌がらせを、先のように整理した理由は、以上のことを言いたいためだけではない。私が言いたいのは次のことである。
 
 もしあなたが、Tから受けたようなハラスメントを、A社の管理職に訴えたとしよう。A社の管理職は、「いや、平成20年2月27日に、札幌地方裁判所の田口紀子裁判長が下した判決によれば、Tさんがやった程度のことは業務の範囲内のこととして、許容限度を逸脱していないことになったんですよ」と突き放し、取り合おうとはしない。田口紀子裁判長の判決は、そういう形で社会規範化されて行く可能性が強いのである。
 
 あなたはそれでは納得できず、証拠を揃えて、民事裁判を起こしたとしよう。被告の弁護士は田口紀子裁判長を有力な判例として、あなたの訴えの棄却を主張する。
 裁判官も同じく田口紀子裁判長の判決を前例として、「原告が被告から書類の作成を強いられたことが、無駄な作業であったとしても、原告の職務への干渉、業務妨害とまで認めることはできない。」とか、「被告の言動が、原告に不快感をもたらすものであったとしても、許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできない」とかという結論で済まされてしまう。田口紀子裁判長の判決はそういう結果を生む形で下されていたのである。
 
 結局あなたはこう考えるかもしれない。「亀井志乃という人は、あれだけの証拠を揃え、筋道の立った主張をしたのに、結局は棄却されてしまった。相手の被告が(15)から(17)に相当することをやった時は、亀井さんを嬲るような口調を繰り返したという(3月5日付「準備書面」)。また(19)や(20)のような場合、『その粘っこい執拗さに、言いようのない不快感を覚え、全身の震えを抑えることが出来ないほどだった』という(「最終準備書面」104P。「北海道文学館のたくらみ(57)」)。ところが田口紀子裁判長は、上司気取りの男のいやらしい干渉のほうは捨象してしまい、亀井さんの精神的、感性的苦痛を無視して、『許容限度を逸脱する態様のものとまで認めることはできない』と、訴えを退けてしまった。日本の裁判官は、被害を受けた人が大病をするか、自殺でもしないかぎり、まともに取り上げてくれないのではないか。どんな苦痛を感じても、精神的に参ってしまわないように頑張り続けると、結局『あなた、頑張れたんだから、許容できる程度だったんでしょ』で済まされてしまう。だったら、訴えても無駄。諦めよう」。
 私が心配するのは、こう考えてしまう人が出て来ることであり、多分それを防ぐことは出来ないだろう。
 その意味で田口紀子裁判長の判決は、ハラスメント問題、人権問題に関する市民の取組を足踏みさせ、20年も30年も遅らせてしまいかねない。そういう怖い判決だったのである。
 
 また、公務員の民間人に対するハラスメント問題については、「運営上、上司と部下の関係とみなしていたのだ」という言い訳さえ作っておけば、地方公務員法や公務員の倫理規程を無視しても、一向にお構いなし。田口紀子裁判長がそういうお墨付きをくれたことになる。北海道教育委員会だけでなく、全国の公務員諸氏も、「やったあ!!」とばかりに、諸手を挙げて大歓迎。躍り上がって喜んでいることだろう。

○田口「判決文」の社会規範化を阻止するために
 司法官僚機構によって権力化された裁判官の判決(言説)は、このように社会規範化されて行く。田口紀子裁判長の判決に異議を申し立てるとは、このような社会規範が形成されて行く流れを阻止しようとすることにほかならない。
 田口紀子裁判長の言説が作り出す社会規範がくつがえる場合があるとすれば、それは、別な裁判所の裁判官が、亀井志乃が起こしたのと同様な人格権侵害の訴訟に関して、全く異なる判決を下した時である。
 だが、それまで黙していることはできない。そうであるならば、一方では、田口紀子裁判長の判決の妥当性や適切性を根本から、徹底的に洗い直す。他方では、あの寺嶋弘道被告の言動に基づいて新たなテーマの訴訟を構想するほかはないだろう。

○田口紀子裁判長の判断の不透明さ
 ちなみに、寺嶋弘道被告は「準備書面(2)」の中で、自分が亀井志乃の仕事に口を挟んで「職員派遣願」なる文書を作成させた理由を、次のように主張した。
《引用》

(1)「(a)被害の事実」の第1段
原告からの伝聞として、明治大学から紹介状を求められたことは認める。
(2)同第2段
紹介状の作成について、原告とN主査が相談していた事実は認める。その際、N主査が自分の所管事務に直接関わらない本件について相談されたために困惑している様子であったため、被告が発言し、紹介状に代えて職員派遣による協力要請文書の作成を指示したものである
(7~8p。下線、太字は引用者)

 だが、この主張は、亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)-1」で次のように覆されてしまった。
《引用》
 
(1)「(a)被害の事実」の第1段
 被告は、
原告からの伝聞として、明治大学から紹介状を求められたことは認める。」と言うが、文意が不明である。誰が明治大学から紹介状を求められたのか。原告から伝聞した」とは、どういうことなのか。考えられる、唯一まともな文章は、「原告が明治大学から紹介状求められたことを被告は伝聞した。」であろうが、被告は「伝聞」したのではない。原告とN主査の会話を小耳に挟んで口を入れたのである。
(2)同第2段
 明治大学図書館が求めたのは「紹介状」と「身分証明書」であり、それを本人が持参することだった(甲33号証)。原告は業務課に属し、原告の紹介状は業務課で作成する。原告はN主査に明治大学からの依頼について説明し、「紹介状をよろしくお願いします」と言った。だが、平成18年度の4月から財団に勤務し、まだ半年ほどだったN主査は一瞬ためらい、「紹介状という書式があったかしら」と言いさした。そこへすかさず被告が口を挟んだのである。被告は、
N主査が自分の所管事務に直接関わらない本件について相談されたために困惑している様子だったため、」と言うが、「紹介状」の発行はN主査の所管事務である。N主査は自分の所管事務に関わらないことを相談されて「困惑」していたわけではない。被告は「紹介状」云々を小耳に挟んで、「職員の派遣願い」と勘違いした。勘違いをしたこと自体を原告は咎めるつもりはないが、被告は自分の勘違いに気がついたら、固執すべきでなかった(32~33p。下線は引用者)

 寺嶋弘道被告はこのように反論されて、結局「本件訴訟における争点との関係を考え、反論の準備書面を提出する予定はありません。」平成20年7月4日付「事務連絡書」)と、再反論を放棄してしまったわけだが、ともかく1つ確かなことは、寺嶋弘道学芸主幹が「職員派遣願」のことで口を挟んだのが平成18年10月6日だったこと、これは寺嶋弘道被告も認めているところである。
 
 ところが彼は、平成20年10月31日の法廷で、とんでもないことを証言してしまった。
 この本人尋問で、田口紀子裁判長は、亀井志乃が「職員派遣願」を作成して、寺嶋弘道学芸主幹に渡して帰宅するまでの経緯を、亀井志乃の「準備書面」(3月5日付)に従って確認した。それに対して、寺嶋弘道被告は
「いや、そうだと思います。」と肯定した。そこで、田口紀子裁判長が「それにもかかわらず、これだけ被告のところで手が入るというのは、どういったことからだというふうに考えられますか。」と質問したところ、寺嶋弘道被告は、以下のように証言した。
《引用》
 
この赤字、別な人が手を入れてた、これは恐らく業務課のN主査等だと思いますが、………N主査と亀井さんが打合せやっている場面を、私は自分の席から見えていましたので、Nさんが困ったふうでしたので、私がそこに言葉を発して、派遣の依頼文書の文面を私の方で修正しましょうということにしたものです(被告調書31p)
 
 しかしこれは、いつの時点でのことであろうか。
 このようなことが10月6日に起こるはずがない。このことは、これまでの経緯で明らかだろう。また、論理的に考えても、もし10月6日の時点で、寺嶋弘道学芸主幹が
「派遣の依頼文書の文面を私の方で修正しましょう」と手を貸し、彼の求める書き方で「職員派遣願」が作成されたのであるならば、翌日、亀井志乃を「教えてあげるから、ちょっとおいで」と自席に呼びつける必要はなかったはずである。
 では、10月7日に、彼はN主査に
「派遣の依頼文書の文面を私の方で修正しましょう」と申し出たのであろうか。
 しかし、これまた寺嶋弘道被告自身も認めているように、彼はこの日は休みであった。ところが、亀井志乃の退勤間際に文学館に顔を出し、亀井志乃を自席に呼びつけた。この日は、
N主査と亀井さんが打合せやっている場面」はなく、仮にあったとしても、午後5時近くまで文学館にいなかった寺嶋弘道学芸主幹が、私は自分の席から見えていました」ということはあり得ない。もちろん彼がN主査に「派遣の依頼文書の文面を私の方で修正しましょう」と申し出るなどいうことは起こり得なかったのである。
 亀井志乃はこのような寺嶋弘道被告の証言の矛盾を踏まえて、
これもまた、明らかなタイムパラドックスであり、意図的な虚構の場面の捏造です。」(「最終準備書面」35p。太字は原文のママ)と主張した。だれが見ても寺嶋弘道被告の偽証は明らかであり、亀井志乃の主張は筋の通った主張と言えるだろう。
 
 だが、田口紀子裁判長の判決は、
また、被告に虚偽の証言があったとまで認めるに足りる証拠はない。よって、原告の主張には理由がない。」25p)
 では、田口紀子裁判長はどういう証拠が揃えば、「虚偽の証言」、「偽証」と判断するのであろうか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »