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判決とテロル(1)

新たな土俵

○判決以後
 2月27日に田口紀子裁判長の判決が下り、その結果は「北海道文学館のたくらみ(58)」に報告しておいた。
 その後、『市立小樽文学館報』に40枚ほどの原稿を書き、学士会の会報に14枚ほどのエッセイを書いた。WBCの野球もテレビ観戦した。日本と中国との1戦について言えば、「1番のイチローは、たとえヒットを打てなくても、フォアボールを選んで出塁し、盗塁をする。これが彼の仕事なんだが、自分の役割を忘れている。その代わりに2番の中島が3回もフォアボールを選んで、盗塁も決めて、イチローに取って代わる仕事をした。守備もいい。今日の殊勲者は中島じゃないか」。

 その間、裁判の結果について1、2の人がコメントを寄せて下さった。
 私のブログは、「北海道文学館のたくらみ(58)」を載せて以来、1日平均200くらいのアクセスがある。判決に関心を持って下さる人が多い証拠だろう。
 
 もともと私がこのブログを開いたのは5、6年前だったと思うが、それ以来、1日のアクセス数は平均110程度。ただし、「北海道文学館のたくらみ」を連載するようになってから1日平均150ほどに伸び、亀井志乃の「陳述書」を3回に別けて紹介した時は連日250を超えていた。
 だが、「最終準備書面」を10回に別け、私のコメントもつけて連載するようになってからは、アクセス数は半減し、100を割る日も多くなった。多分その理由は、記述の内容が細部にわたっており、私のコメントを加えると、1回当たりの分量がかなり多い。おまけに、3、4日の間隔で立て続けに掲載したため、よほど関心の強い人でなければ、その分量とテンポにはつき合いきれなかったためであろう。その点では、掲載方法をもっと工夫すべきだったと反省している。
 ただ、別な見方をすれば、1回平均A4版15枚以上の文章を、3、4日の間隔で掲載しても、必ずつき合って下さる人がおり、どんなに少なく見積もっても100人は超えていることになる。なぜなら、3、4日の間隔のアクセスはほぼ250を数え、訪問者数はその半分くらいだからである。その他にも、断続的にではあるが、あれはどうなっているかな、とブログを覗いてくれた人も多かっただろう。このことは、1日平均110というアクセス数が物語っている。
 
 もちろんその中には財団法人北海道文学館の職員や、北海道教育委員会の職員もおり、ひょっとしたら太田弁護士事務所や札幌地方裁判所の職員もいて、決して「北海道文学館のたくらみ」に好意的でない人も存在したと思う。だが、そういう人もまた細心の注意を持って目を通してくれたはずであり、愛読者ではないかもしれないが、精読者でいてくれたことだけはまちがいない。
 しかし大半の人は亀井志乃の立場と主張に同情と共感を持って下さった。それは色んな反応から推定できる。その中の何人かが2月27日、わざわざ札幌地方裁判所まで足を運んで下さったわけで、ありがたいことだ。感謝に堪えない。
 そして、その方々を含めて、これまで関心を持って下さった全ての方に、お礼を申し上げる。

○もう一つの裁判を?
 では、今後どうするか。もちろん常識的には、「控訴」が妥当だろう。
 それを1案として、私たち家族はもう一つ別な案を、現在検討している。それは、寺嶋弘道学芸主幹の「陳述書」と平原一良副館長の「陳述書」を対象として、名誉毀損の人格権侵害の訴訟を新たに起こすことである。平原一良副館長の「陳述書」には、亀井秀雄の名誉を傷つける記述が含まれている。それ故、亀井秀雄も原告となり得るわけである。
 
 寺嶋弘道学芸主幹と平原一良副館長の「陳述書」を告訴の対象とするならば、亀井志乃は、前回の裁判では出さなかった証拠物を新たに出すことができる。亀井秀雄も原告に加わる。つまり、前回とは別個な裁判を起こす条件は十分に整うはずである。

○田口「判決文」の食言と虚偽(その1)
 なぜ、そういう案を考えたのか。
 田口紀子裁判長の「判決文」にその理由を語ってもらおう。
《引用》

(5) 文学館の事務局その他の組織に関し必要な事項を定める財団法人北海道文学館事務局組織等規程(以下、「組織規定」という。)が、平成18年6月1日改定され、施行されたが(平成18年4月1日から同年5月31日までの間は、経過措置として、同様の運用が取り決められた。)、原告が研究員として所属する文学館の業務課には、文学館の職員である課長、主査、主任、主事が配置され、業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された。組織規程では、学芸員、研究員の職務内容は、「上司の命を受け、調査、研究、展示等に係る事務をつかさどる。」旨定められた(組織規程3条)が、運用について定めた、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(以下、「運用規程」という。)において、組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする旨定められた。(乙2(3p。下線は亀井)

 田口裁判長はここで3点、根拠のないことを述べている。
 まず第1に、財団法人北海道文学館には、平成18年度、
主事」の肩書きを持つ職員は存在しなかった。北海道教育委員会の職員3名が、財団と連携協力するために道立文学館に駐在し、その中に社会教育主事の肩書きを持つ職員がいたが、この「社会教育主事」と財団における「主事」は同じではない。もちろん「社会教育主事」の肩書きを持つ教育委員会職員のSさんは、財団の「主事」ではなかった。
 しかも、田口紀子裁判長は、
業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、」と書いているが、指定管理者制度の体制となった平成18年度の財団には、「学芸員」はいなかった。(田口紀子裁判長がいう「経過措置」の期間には「学芸副館長」が存在したが、6月1日から「学芸副館長」は「副館長」に昇格し、いかなる意味でも「学芸員」は存在しなくなった)。田口紀子裁判長は証拠物をきちんと読んでいないのではないか。

 第2に、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名が、財団の業務課の中に設けられた「学芸班」に配置された事実は全くなかった。
 田口裁判長は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」に基づいて、二つ目の下線部のように判断したらしいが、その「運用規程」のどこを見ても、
業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された」と解釈できるような組織図もなければ、文言もない。
 「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」はそれ自体が問題のある文書なのだが、――その点は、次にふれる――仮にこれを前提として考えてみても、その組織図は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名で構成される「文学館グループ」を学芸班と名づけて、財団の業務課からは独立し、並立する組織とした。しかも、財団の業務課の中に設けられた学芸班の司書と研究員(財団の職員)を、「文学館グループ」の学芸班のほうに移して(配置して)しまった。つまり、現実の「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は、田口紀子裁判長のような理解を許さない、むしろ田口紀子裁判長が描いたのとは反対の組織図だったのである。
 
 分かるように、
業務課の中にさらに学芸班が設けられ、学芸班には、学芸員、研究員、司書が置かれるとともに、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)、社会教育主事、学芸員の3名も配置された」という組織のあり方は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」を根拠に持たず、また、先の裁判を通じて、被告の寺嶋弘道学芸主幹も太田三夫弁護士も1度も主張することはなかった。その意味でこの組織は、田口裁判長の虚構によるもの、すなわち虚偽のものでしかなかったのである。
 田口紀子裁判長は、その「判決文」の中で、自分の判決が
「2 争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実(証拠により認定した事実については、証拠を掲記した。)(2p)に基づいていることを明言している。しかし、田口紀子裁判長が描いた組織図は、その裏づけとなるべき「争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実」を持たなかった。これは田口紀子裁判長の自分が明言したことを守っていない、田口紀子裁判長の食言と言うべきであろう。

○田口「判決文」の食言と虚偽(その2)
 田口紀子裁判長はこのように、現実には存在しなかった組織を虚構したわけだが、なぜそんなことをしたのか。多分田口紀子裁判長は、何としてでも寺嶋弘道学芸主幹を亀井志乃の「上司」に位置づける必要があったのであろう。なぜなら、もし北海道教育委員会から派遣された学芸主幹(被告)が財団の業務課の学芸班に配置されたとするならば、
組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする旨定められた」という三つ目の下線部について、これは学芸班の内部処置だったと見せかけることが可能となるからである。
 別の言い方をすれば、田口裁判長は、この見せかけのもとで、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の問題を回避しようとしたわけだが、ここに第3の問題がある。
 
「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」という文書には、内容的にも手続き的にも問題点が多く、廃棄されるべきであることは、既に亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―1」で詳細に論じておいた。「北海道文学館のたくらみ(54)」でその概要を紹介しておいた。だが、今回から「判決とテロル」という新しいテーマに入ったので、念のために、手続き論の箇所をもう一度引用させてもらう。
《引用》

 C 手続きについて
a)「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」(乙2号証)の第7条は
「この規程に定るもののほか、事務局その他の組織に関し必要な事項は、理事長が定める。」となっている。だが、平成20年4月16日に提出された被告の「陳述書」(乙1号証)によれば、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は平成18年4月18日の全体職員会議に先立って、毛利館長、安藤副館長、平原学芸副館長、川崎業務課長、及び被告本人の間で決められたものであって、規程に定められた手続きを経てオーソライズされたものではない。その意味で、先の*の「規程の定めにかかわらず」という文言に表出された規程の否定または拒否の発想は、第7条にまで及んでいたと見ることができ、これは理事長によって代表される理事会の主体性の否定につながる。言葉を換えれば、上記5名は理事長及び理事会を無視して、財団法人北海道文学館を恣意的に運営できるように組織を変えてしまったのである。「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」はこのように違法なやり方で作られたものであり、その中に盛り込まれた「上司」の概念に何の合理性も正当性もないことは明らかである。
(中略)

e)学芸主幹の上司は誰なのか。組織上、一職員たる学芸主幹に上司が存在しないことはあり得ない。北海道教育委員会のどのような規程に基づいて、北海道教育委員会の職員が財団法人北海道文学館の事務局組織の中で財団職員の部下となり、財団職員の上司となることを認められたのか。北海道教育委員会の規程及び被告に対する適用の手続きが明らかでない(6~7p。下線は引用者)

 このように、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」は手続き論的にみて違法なものでしかなく、その中に盛り込まれた「上司」の概念は何の合理性も正当性も持たない、恣意的なものでしかなかった。
 田口紀子裁判長はこのような反論を読んでいたはずであるが、それを黙殺してしまった。その一番の理由は、亀井志乃の反論とまともに向き合い、その上で亀井志乃の反論を「根拠なし」として退けるには、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」を決定した主体と手続きの問題を避けて通ることができない。そう判断したからであろう。先ほど引用した「判決文」で分かるように、田口紀子裁判長は「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の決定主体と手続きの問題を曖昧にぼかしていた。これはすなわち
「組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする旨」を定めた主体と手続きの問題を曖昧にぼかしたことにほかならない。
 そのため田口紀子裁判長は、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」が正当な運営規程である理由を、
争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実」に基づいて明らかにすることができなかったのである。
 その意味でも田口紀子裁判長は、みずからの基本方針を裏切り、偽っている。そう言われても仕方がないところであろう。
 
 ただし、実際的には、田口紀子裁判長が虚構した組織や、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」の組織図は、いずれにせよ道と財団とが結んだ「協定」の趣旨から外れたものであり、また寺嶋弘道が北海道教育委員会の職員(公務員)である事実に照らしても許されがたいものであった。
 亀井志乃はその点を「陳述書」と証拠物によって明らかにした(「北海道文学館のたくらみ(44)」)。さらに10月31日の本人尋問を分析した「最終準備書面」によっても明らかにした(「北海道文学館のたくらみ(48)」)。だが、田口紀子裁判長は亀井志乃のそれらの主張も黙殺してしまったのである。

○法をめぐる権力のトライアングル
 以上のように、田口紀子裁判長は極めて強い意志をもって、寺嶋弘道学芸主幹が公務員である事実を不問に付そうとしているわけだが、それは北海道の司法関係者の共通の意志であるように、私には思われる。

 亀井志乃が財団法人を解雇された問題について、北海道労働局の職員は大変親身に相談に乗り、助言をしてくれたが、人権侵害の調査の依頼に関する札幌法務局のO調査救済係長の対応は、不誠実きわまりないものだった。
 調査時間をずるずると引き延ばす。調査内容については、「守秘義務」を理由に答えない。その実態は「北海道文学館のたくらみ(24)」「同(25)」で紹介しておいたので、ごく簡略にまとめて言うならば、亀井志乃は、財団が指定管理者として指定を受けるに当たって道に提出した『北海道文学館業務計画書』の「(事務局)組織図」をO調査救済係長に手渡し、それに基づいて、〈道職員の寺嶋弘道学芸主幹と財団の嘱託職員である亀井志乃とは決して上司と部下の関係ではありえない〉理由を説明した。もちろん詳細に説明した文書も渡しておいた。にもかかわらず、O調査救済係長の結論は「寺嶋弘道学芸主幹と亀井志乃嘱託職員は上司と部下の関係だった」ということだった。驚いてその理由を訊いたが、O調査救済係長は口を閉ざして答えない。「普通の市民同士の関係で考えれば、寺嶋の亀井志乃に対する態度は無礼であり、侮辱を加えている。いわれのない人権侵犯として考えるほかはないと思うが、職場において同様なことが行われているにもかかわらず、職場ならば『人権侵犯に当たらない』と判断する理由は何か」という質問に対しても、O調査救済係長は口を閉ざして答えなかった。
 
 過日、NHKテレビが、「このたび法務局では人権侵害の110番を設けることになった」と報道し、女性の職員が電話で対応している映像を流した。取りあえず結構な話ではあるが、亀井志乃と私の経験に即して言えば、札幌法務局はあまりアテにはならない。調査する気概も、救済する姿勢も、まるで感じられなかったからである。
 
 ともあれ、そのようなこともあって訴訟に踏み切ったわけだが、被告の代理人・太田三夫弁護士は「事実上の上司」を繰り返し、だが、「公務員が民間人の上司となることは許されないのではないか」という批判を含む亀井志乃の反論に対しては、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで、全く答えようとしなかった。
 そして10月31日の本人尋問となったわけだが、現に田口紀子裁判長は、「事実上の上司」という被告側の主張が何ら根拠を持たないことを目の当たりに見ていたはずである。亀井志乃はその時の記録をもとに「最終準備書面」を書き、再度「事実上の上司」という被告の主張には根拠がないことを証明しておいた(「北海道文学館のたくらみ(48)」)。
 他方、被告側は「準備書面(4)」で、またしても没論理的に「事実上の上司」を乱発するだけであったが、結局田口紀子裁判長は亀井志乃の問題提起と主張を無視して、太田三夫弁護士の没論理的な主張に寄り添う形で、
運用について定めた、『財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について』(以下、『運用規程』という。)において、組織規程にかかわらず、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、北海道教育委員会から派遣された学芸主幹とする旨定められた」と、この問題をいなしてしまった。
 もし田口紀子裁判長が「寺嶋弘道学芸主幹は公務員であるが、道立文学館に駐在する立場にあるかぎり、民間の財団の嘱託職員である亀井志乃の上司となることができる」と判断するのであるならば、その判断根拠を明示すべきではないか。それが語の正しい意味での裁判官の判決文というものであろう。
 
 私は、この人たちが一つ穴のムジナだと考えているわけではない。ただ、これだけ北海道の法律関係の人間が、まるで申し合わせたみたいに、道の公務員の行為に関する法的な判断には手心を加えようとする。そのやり方を見ていると、北海道の司法関係者の間では、一種暗黙の了解事項みたいなものがあるのではないか。太田三夫弁護士はその辺の空気を読み切っていたからこそ、平気で没論理的な主張を繰り返し、亀井志乃に対するセカンド・ハラスメントとも言うべき言動も辞さなかったのだろう。そういう疑問を私は禁じ得なかった。
 黒古一夫さんのブログによると、『北海道新聞』の文化部の記者諸氏は、亀井志乃が起こした裁判に関しては、「触らぬ神にたたりなし」と傍観しているらしいが(「北海道文学館のたくらみ(42)」)、なるほどこんなところにその理由があったわけだ……。 
 
 もちろん亀井志乃が控訴すれば、田口紀子裁判官とは別な裁判官が担当することになるだろう。だが、亀井志乃がこれまでと同じ主張を述べたとして、果たしてきちんと目を通し、事実認識と論理構成に過不足のない判決を下してくれるかどうか。ひょっとしたら、暗黙のお約束による結論が先にあり、それに辻褄を合わせたような奇妙な判決文を、もう一度読まされるだけのことではないか。

○やはりもう一つ裁判の準備を
 私たちは亀井志乃の勝訴を確信しており、この判決は全く納得できなかったが、ある意味で亀井志乃が一番冷静で、醒めていた。「結局、目立たないところで職もなく生きている一人の女の人権を取るか、道の文化施設の安定を取るか、そんなふうに天秤に掛けてみて、皆さんに良識的な判断と評価して貰えるような判決を出したんでしょうね」。
 
 寺嶋弘道主幹に人格権侵害の有罪判決が出た場合、北海道教育委員会が彼にペナルティを課すかどうか、それは分からないが、少なくとも道立文学館の駐在制度について見直しをはかる必要が出て来るだろうし、議論は指定管理者制度そのものの是非にまで及ぶかもしれない。そうなると、道の文化施設に混乱が生じ、文化行政自体にまで波及して、北海道教育委員会の文化スポーツ課の管理職だけでなく、教育長が対応せざるをえなくなるだろう。それに対して、亀井志乃には精神的、肉体的な障害を受けた様子は見られない。また、たとえ亀井志乃の訴えを棄却したとしても、亀井志乃を有罪とするわけではないから、亀井志乃が損害、実害を受けることはない。それやこれやを勘案するに、ここは行政の混乱を防ぐことを優先すべきではないか。
 この一見もっともらしい、訳知り顔の理屈は、世のお利口さんが飛びつきやすい「良識論」であるが、えてしてそういう良識派は、亀井志乃がどんな苦痛を強いられてきたかには目を向けず、ことが亀井志乃の人権にかかわり、ひいては生活権の侵害にまで及んでいる事実を見逃してしまう。田口紀子裁判長も結局はこのお良識の路線に乗ってしまったらしい。本当はそういう弱い立場の人間一人ひとりの人権と生活権を守るために憲法があるなずなのだが。
 以上は私なりのリライトであるが、亀井志乃はこの判決をそのようにとらえ、もう一つの裁判の可能性を探ることにしたのである。
 
○新たな土俵で
 ただ、以上のこととは別に、だがそれと並行して、私は「判決とテロル」というテーマで、今回の判決文をつぶさに検討することにした。その中には現在の言説論や言語行為論の方法と理論で田口判決文を読み解く試みも含まれている。
 
 私は若い頃、アーサー・ケストラーの『真昼の暗黒』(1941年)という共産主義国家の裁判をテーマとした小説を読み、深い感銘を受けた。平野謙がこの作品と正面から取り組んだ「粛清(チーストカ)とはなにか」(1957年)という論文を書いており、その熱っぽい語り口に惹かれて反復熟読した。フランスでは、メルロ=ポンティが同じ作品を俎上に据えて『ヒューマニズムとテロル』(1947年)という長大な論文を書いており、森本和夫の翻訳(現代思潮社、1965年)を読んで、もし機会があったらこれらの作品や論文を参考に「裁判とテロル」という問題を論じてみたい、と考えた。平野謙もメルロ=ポンティも、いずれも私が敬愛してやまぬ評論家であり、思想家だからである。
 
 もちろん亀井志乃の訴えを却下した田口紀子裁判長の「判決文」と、『真昼の暗黒』とでは内容、スケールともに大きな違いがある。だが、捉え方によってはこの裁判と判決の隠れた本質が明らかになってくるかもしれない。その過程では、当然太田三夫弁護士の文章や、寺嶋弘道学芸主幹や平原一良副館長の文章も参考にさせてもらう。
 その意味で、田口紀子裁判長を含め、これらの人たちからはいい材料を貰ったと思っている。

 

 

 
 
 

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コメント

判決を読ませてもらいました。原告側に弁護士がついていなかったのも準備としては不十分だったように思います。もし、これからもう一つの裁判として戦うならば徹底して望まなければ難しと思います。確かに北海道の行政は守られていています。

>これだけ北海道の法律関係の人間が、まるで申し合わせたみたいに、道の公務員の行為に関する法的な判断には手心を加えようとする。そのやり方を見ていると、北海道の司法関係者の間では、一種暗黙の了解事項みたいなものがあるのではないか。

まさに、これからの司法にメスを入れる時期なのかもしれません。

>亀井志乃が一番冷静で、醒めていた。「結局、目立たないところで職もなく生きている一人の女の人権を取るか、道の文化施設の安定を取るか、そんなふうに天秤に掛けて

とあるようにまさにその通りの展開になったのだと思います。
やはり、次回あるならば被告側組織、個人についても周辺を良く調査し、関係性も含めて身辺なども洗いざらい報告書として必要なのだと思います。
何が正しくて、何がおかしい事になっているのか、しかし、当然の如く、志乃さんの仕事に関してどうだったのかという事も客観的に見定める必要性は避けられないと思います。

行政関連は未だに腐敗していて、北海道は全国的に調べても予算の処理関連についてはいろいろと出て来るはずですが、どうもそれは未然に防いでいる事実もあります。実は談合王国なのです。

さて、そのなかで亀井さんが勝利を勝ち取るというのはどういう事なのかを皆さん知りたいのだと思います。

次の裁判として行う事が良いのかは、神のみぞ知るというところでしょうね。しかし、相手が悪い、相手には神などはいませんので。当然、答えは決まっていると思っています。

まずは、ここまでやられたのですが、一度報道機関などで記者発表をやられたら良いと思われます。そこからの出発でしょうと思います。

個人の人権を守るのか、腐った組織を守るのか考えるでしょうね。
まさに、裁判員制度を報道の力を借りて行う事で道民、国民が判断すると思います。

そうする事で、メディア化に慣れ始めてきている司法側の判断はどう決断するのか。これは司法にメスをいれる手始めにもなるのではと思います。


投稿: Horiguchi | 2009年3月12日 (木) 11時10分

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