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北海道文学館のたくらみ(50)

亀井志乃の「最終準備書面」その3

【今回は「Ⅱ章 被告が法廷で行った虚偽の証言」の、「第2項 被告側準備書面と法廷での主張内容が異なる証言、または、時間等の矛盾が含まれるために主張内容の成立が不可能な証言」のEからGまでを紹介する。】

E.〈年休〉処理の問題について
 平成18年5月10日に被告が原告に〈年休〉について執拗に質問しはじめ、“何で休むかについては僕が聞いておかなくてはならない”・“業務に差し支えないかどうかは確認しなければならない”と言いつのって原告を退勤時間後も足止めした件に関して、裁判長と被告の間では、以下のようなやりとりが交わされました。

田口裁判長)休みをとるときに、都合とか、私事ですということで、それだけで休みを取ることはできないんですか。
被告)できると思います。ただ、そのときは小樽へ文学の講演会を聴きに行くということでしたので、それであれば出張にしたらいいのにと思いました。
田口裁判長)だから、先ほどの話を聞いていると、原告のために、出張にしたらいいのに、業務だったらそういうふうに言えばいいのにという意味合いで言われたというようなことを言われてたんですけれども、そうしたら、原告の方はありがとうございますという話になるのが通常だと思うんですね。そういうふうに話が進まなかったのは、何が原因だと考えられますか。
被告)いや、私事として行きたかったんだと思いますけれど。もう1つは、通常、1時間単位での年休申請を上げますので、年休処理簿に取りあえず書いてくださいとN主査が亀井さんに処理簿を渡したのを、そこで承認の印を押すのは私の立場でしたので、私のところへ上がってきましたときに、何時間年休を取るのというふに聞いたんですね。それが分単位でしたので、時間単位に直そうと思いましたので、そのように質問いたしました。

被告調書28p・下線は引用者)

 〈原告が年休処理簿に記入〉した時の状況に関しては、これに先立つ被告の本人尋問の際にも、被告代理人と被告との間で、以下のような応答がなされていました。

被告代理人)それで、平成18年4月以降、財団では亀井さんに有休はないんですか。
被告)そのときに、私は、亀井さんの年休がどのような状況であったかは理解していなかったと思います。職員ですので休めると思っていました。ただ、亀井さんが休みたいと言ったときに、休暇の処理を担当する業務課の方で、担当の主査から亀井さんは休みがないんじゃないという発言が出たんですね。それで、今までどおりでもよいんじゃないかという話も出ましたので、18年度の4月から亀井さんの休暇をどうするかというのははっきり決まっていなかったんだと思います。

被告調書7p・下線は引用者)

 被告は、原告が早退を希望して年休処理簿に記入する時の模様を非常にまことしやかに描写しており、そうした文脈につなげて、〈自分はただ単に、分単位で記入されていたのを、時間単位に直そうと思って質問しただけだ〉〈講演会を聴きに行くのなら、出張にすればいいと思った〉と述べ、“自分はなんら原告に悪意も敵意もなく、ただ当然の配慮をしようとしただけだ”という印象を裁判長に与えようとしていました。そして、裁判長の「そういうふうに話が進まなかったのは、何が原因だと考えられますか」という質問の方については、はぐらかしてしまいました。
 しかし、以下の理由から、これらの被告の証言は、まったくの偽証です。

①原告は、5月13日に休みをとる件(12:00から17:00まで)について、5月9日(火)の朝の打合せ会において了承を得ました。そしてその日、被告は休み(欠勤)でした(甲4号証参照)。つまり、原告が皆からの了承を得たときには、その時点・その場において、被告は不在だったのです。
 また、年休処理簿は、年休希望者に業務課職員がいちいち手渡すことはなく、業務課のデスクの所定の位置のブックエンドに、出勤簿等といっしょに常に立てかけられていましたので、原告はそれを自分で取り、5月10日(水)午前9:30頃に記入して、一応確認の上捺印してもらおうと被告に手渡しました(
甲4号証参照)。以上が、5月9日から10日の間にかけて原告が実際に行った動きです。
 なお、5月9日に被告が不在であったことは、すでに、原告が被告から蒙(こうむ)ったパワーハラスメント被害について文学館にアピールした文章(
甲17号証)8p(下から1行目)にもすでに記載してあります。これまで、その事実について否定または反論されたことはありません
②しかも、被告は、被告自身の「準備書面(2)」3p(下から6行目)においては、
第一段(原告3月5日付「準備書面」)については、被告は5月9日が代休日であったほかは不知であると述べています。つまり、少なくともこの準備書面が提出された平成20年4月9日の時点までは、被告自身が、自分は原告が朝の打合せ会で休みの承認を得た日に欠勤していたということを認めていたのです。
③ ①で述べたように、年休処理簿は各自がめいめい必要に応じてブックエンドから取り出して記入するものでしたので、
年休処理簿に取りあえず書いてくださいとN主査が亀井さんに処理簿を渡」す、という状況は起こり得ません。また、別に〈取りあえず書いてください〉と指示されなくても、その記入法等については、すでに1年半文学館に勤務した原告の方が、まだ異動して1ヶ月ほどのN主査よりも承知していますので、こうした会話のシーンも、現実にはまず起こり得ません。ですから、証人席において被告が主張していたような流れでは「私のところへ上がってきましたときに、何時間年休を取るのというふうに聞いたんですね」ということも、分単位でしたので、時間単位に直そうと思いましたので、そのように質問いたしました」ということも起こり得ません。
 そもそも被告は、5月10日の時点では“原告の記載が分単位だったので、時間単位に直す必要がある”とは一言も言いませんでした。被告の「準備書面(2)」で、後付けの理屈として初めて言い出したことに過ぎません。また、それが後付けの理屈としても成り立たないことは、原告の「準備書面(Ⅱ)―1」の18pで指摘しておきました。
④また、①に述べましたように、原告が、朝の打合せ会で休みを取りたいという話をしたのは5月9日です。その日、被告は欠勤です。
 ですから、
亀井さんが休みたいと言ったときに、休暇の処理を担当する業務課の方で、担当の主査から亀井さんは休みがないんじゃないという発言が出たんですね」という状況が仮にあったとしても、それを被告が現実に目撃したり、記憶できるはずがありません。この証言には、重大なタイムパラドックスが含まれています。
 それに事実、業務課から、上記のような発言は出ませんでした。要するにこれも、本章「D.綿引幸造写真展について」の②で指摘した事例と同様に、被告によって捏造された虚構の場面に過ぎません。
⑤原告がこの時何に出席するつもりだったかについては、すでに「準備書面(Ⅱ)-1」において
「原告が出席しようとしたのは小樽啄木会が主催する『啄木忌』で行われる講演会であって(18p)と明記し、被告「準備書面(2)」(4p)に記されている誤解を訂正しておきました(甲39号証の1甲39号証の2参照)。
 それにも関わらず、被告は、相変わらず、この度の尋問の席においても、原告の訂正を無視し、〈講演会〉の性格に関する自分の誤解を解こうとはしませんでした。あるいは被告は、原告の準備書面にも、証拠のコピー綴りにも、まったく目を通さなかったのかも知れません。
⑥なお、被告は、原告が休みをとろうとした時に
「休暇の処理を担当する業務課の方で、担当の主査から亀井さんは休みがないんじゃないという発言が出た」「今までどおりでもよいんじゃないかという話も出ました」と証言し、結論的に「18年度の4月から亀井さんの休暇をどうするかというのははっきり決まっていなかったんだと思います」などと述べていますが、そもそも、このような会話が当時の文学館で交わされるなど、考えられない話です。
 いかに非常勤の嘱託とはいえ、すでに1年半の勤務実績があり、次の年度も引き続き勤めることがすでに決まっている
(遅くとも、1月~3月上旬の間には館長からの意志確認手続きにより確定)職員の扱いについて、新年度が始まって1ヶ月も経つまで、他の誰一人として考慮していなかった、などということはあり得ません。特に平成18年度からは、原告はO司書とともに、業務課所属の扱いになっていたのです(甲2号証)。いくら被告が〈新しい指揮命令系統は4月18日に決めた〉と主張しようとも、それ以前に、指定管理者制度へ移行する前提として甲118号証および甲2号証の組織図が作成されていたのですから、そうした過程において、新年度の原告の身分や扱いを業務課が決めていなかった、もしくは、正しく把握していなかった、などという話はあり得ません。
 仮に被告の証言どおりだとしたら、文学館の業務課は、そもそも事務組織として機能していなかったということになります。
 
 以上の諸点に照らせば、被告が、平成18年5月10日の状況について意図的に偽証を行い、自分の言動に原告へのハラスメントの意図はなかったと、姑息に尋問の場をとりつくろおうとしたことは明らかです。

F.「用務地」について(平成18年9月8日)
 被告は、9月8日に釧路市へ展示資料の返却業務で出張した原告の「復命書」を書き直させた件について、裁判長に問いただされ、以下のような証言を行いました。

田口裁判長)で、甲12号証の1では、用務として2項目書かれているんですけれども、内容的には資料の返却及び資料の調査で間違ってないのではないかというふうに読めるんですけれども、これでは不都合だったんですか。
被告)用務地として、「釧路市」と書かれ、更に「昭和町」と書かれておりましたので、出張の日は昭和町までの札幌からの往復の旅費を出しているんですね。ですので、春湖台や幣舞町へ行く旅費を措置しているわけではないと思いましたので、それで、業務課のN主査に命令どおりのほうがいいんでしょうと確認した上で、このように赤字を入れました。

被告調書29p)

 しかし、この被告の証言は、一見正当に見える〈旅費の措置〉を盾にとり、意図的に釧路の地理を無視した偽りの証言です。

①確かに、「旅行命令/依頼簿」(甲12号証の2)に記されている「目的地」は、釧路市昭和町です。ちなみに、釧路駅から昭和町までは直線距離で約4.2kmであり、バスの運賃は280円です(甲12号証の2)。
 しかし、原告はこの出張の際に釧路市中心部に1泊し、翌日の9月2日、帰路の列車に乗るまでの間を利用して、釧路市内の施設(釧路市立博物館・市立釧路図書館)で資料調査を行いました。釧路市立博物館は釧路市春湖台1-7、駅からの直線距離は2.5km。市立釧路図書館は釧路市幣舞町4-6、駅からの直線距離は1.3km。どちらも、釧路駅から〈くしろバス〉の同一路線で行くことが出来、運賃は片道210円です。なお、博物館と図書館との間の距離は、バスのルート上で2km程度であったため、原告は歩いて移動しました。つまり、バスの運賃は往復420円しかかかりませんでした。この420円が、この出張における原告のエキストラの出費の全額です。
②原告に出張を直接依頼したS社会教育主事は、その際、「今度は返却業務ですから、用務が済んだら、亀井さんの方の資料調査をしてきて構いませんよ」と言ってくれていました。これは、S社会教育主事が、「デュオ展」でとりあげられる作家の一人・中戸川吉二が釧路出身であることと、原告が釧路に資料調査に行く予定だということを、前年度末の課内打合せの時に聞いて知っていたからです(
甲47号証の1甲47号証の2)。
 また、S社会教育主事は、前年度の「原田康子展」の用務で何度か釧路に出張していたので、釧路の博物館や図書館が市の中心部にごく近いこともすでに承知していました。
③なお、出張用務地内における移動に際して、誤差程度の余分な交通費が生じた場合、それについては、用務者本人が業務課に改めて請求しなければ、問題にはなりません。少なくとも、この出張における程度の釧路市の範囲内の距離では、「復命書」に「目的地」以外の用務地の記載がなされたからといって、それだけで即座に〈春湖台や幣舞町への交通費をどう処理するか〉という問題が発生するわけではありません。
④N業務主査が、釧路市内の施設の位置関係を前もって知っていたかどうかについては分かりません。しかしN主査は、いつもインターネットの地図サービス等を駆使しながら旅費を算出しますので、「春湖台」や「幣舞町」がどこにあるかについても、必要があればすぐに確かめられたはずです。
 したがって、被告から
「命令どおりのほうがいいんでしょう」と言われただけで、N主査が、杓子定規に原告の用務地を問題視したなどという話には、何らリアリティがありません。
⑤なお、この「復命書」の決済印について、被告が〈一般的には学芸員のAさん、Sさん、そして私のところへ上がってくる〉と証言したことに関して、田口裁判長が
「そうすると、AさんもSさんもこれでいいと思って回してきているということになるわけですか」と質問したところ、被告は「恐らく、恐らくというのは、直さなければならないという意識が何もSさんやAさんにはなかったと思いますけど被告調書30p)と答えていました。要するにこの言葉によると、〈SさんやAさん〉には〈不適切な書類を見ても、その不適切さに対する関心も、直さなければならないと思う職業意識も有さなかった〉ということになります。
 しかし、この被告の言葉は、すでにこの時点まで、文学館で2年間勤務しているA学芸員と1年半勤務しているS社会教育主事の経験や判断力を完全に無視した発言です。これまでも幾度か指摘しておきましたが、予算の件といい、分掌の件といい、被告の証言の中には、〈前年度まで〉という発想が一つもありません。自分が異動してくる以前にもこの文学館で様々な業務が遺漏も問題もなく執り行われていた、という前提を、被告はまったく考慮に入れずに勝手な証言を行っているのみです。

 以上の理由から、被告の証言内容にはなんら根拠がなく、意図的な偽証であることは明らかです。

G.書類の〈添削〉について(平成18年10月6~7日)
 裁判長は、被告に対して〈原告は、
甲10号証の3を参考にして書類を作成し、甲10号証の4で業務主任と業務課長に目を通してもらい、さらに甲10号証の5でN主査の添削を受けたと主張しているが、その流れで間違いはないか〉という趣旨の質問を行い、それに対して被告は「いや、そうだと思います被告調書31p)と答えました。
 そこで裁判長が重ねて
「それにもかかわらず、これだけ被告のところで手が入るというのは、どういったことからだというふうに考えられますか」と質問すると、被告は、以下のように証言しました。

この赤字(甲10号証の4)、別な人が手を入れてた、これは恐らく業務課のN主査等だと思いますが、………N主査と亀井さんが打合せやっている場面を、私は自分の席から見えていましたので、永野さんが困ったふうでしたので、私がそこに言葉を発して、派遣の依頼文書の文面を私の方で修正しましょうということにしたものです。
被告調書31p・下線は引用者)

 しかしこれは、以下の理由から、まったくの虚偽の証言です。

①被告証言の検討に入る前に、まず、次の1点を再確認しておきます。Ⅰ章の「F.『運用』と『兼業規程』について」の④でも触れましたように、原告は平成18年11月10日、原告のアピール文(甲17号証)について毛利館長・平原副館長と話し合い、4点の合意に達しました。その4点目は「原告の業務に関する書類は、財団法人の書式に則って作成する。回覧する際は、財団法人北海道文学館の方をまず先にする(後略)」(甲18号証)となっています。
 すなわち、すでに、平成18年11月10日の時点で、毛利館長も平原副館長も、被告が〈指導〉と称して原告に強制した文書の書き方は財団の書式とは異なること、かつ、被告の〈指導〉には根拠がなく、不適切であったと認めているのです。
②念のために附言しますと、上記①のことは、それまで毛利館長ほか財団の幹部職員が北海道教育委員会の書式に従う方針をとってきたことを意味しません。11月10日の話し合いの席上において、毛利館長と平原副館長は、原告の説明によって、初めて被告による〈添削〉や書類の書き直しの実態を知り、その結果、上記のような取り決めがなされることとなりました。その折に、平原副館長から実例を見たいとの要望がありましたので、原告は、
甲18号証に具体例甲10号証の135および甲12号証の1を添えて、神谷理事長・毛利館長・平原副館長・川崎業務課長および被告に渡しました。
③被告は、「準備書面(2)」の中では、自分が原告の「紹介状」の作成に介入して「職員派遣願」
(「企画展『人生を奏でる二組のデュオ』に関わる資料の調査について」)に代えさせた理由を紹介状の作成について、原告とN主査が相談していた事実は認めるその際、N主査が自分の所管事務について直接関わらない本件について相談されたために困惑している様子であったため、被告が発言し、紹介状に代えて職員派遣による協力要請文書の作成を指示したものである(7~8p・下線は引用者)と説明していました。なお、被告が〈紹介状ではなく、職員派遣願いを〉と言ったのは、10月6日(金)のことです(甲9号証1~2枚目参照)。
 ところが被告は、証人席においては、〈協力要請文書の作成の指示〉の時ではなく〈書類の添削〉の時のこととして、
この赤字、別な人が手を入れてた、これは恐らく業務課のN主査等だと思いますが、………N主査と亀井さんが打合せやっている場面を、私は自分の席から見えていましたので、Nさんが困ったふうでしたので、私がそこに言葉を発して、派遣の依頼文書の文面を私の方で修正しましょうということにしたものです」と証言をしてしまいました。
 原告が準備書面の小見出しでも幾度も示しているように、被告による書類の書き直しが強制されたのは、10月7日の出来事です。原告が
甲10号証の5を作成してN主査の添削を受け、甲10号証の1を仕上げて被告に提出して帰宅した時点から、丸1日が経過しています。
 しかも10月7日は、被告が、非出勤日であるにもかかわらず夕方近くにわざわざ文学館に出て、原告を自席に呼びつけ、原告の退勤時間を超えて足止めをした日です。この日の被告の行動は、きわめて異例というほかはありません。その特殊な状況からみて、被告が、例え記憶上のこととはいっても、10月6日と7日をたやすく混同するとは考えられません。その上被告は、
N主査と亀井さんが打合せやっている場面を、私は自分の席から見えていましたので、Nさんが困ったふうでしたので、私がそこに言葉を発して」と、まことしやかに状況の描写までしているのです。これもまた、明らかなタイムパラドックスであり、意図的な虚構の場面の捏造です。
 そして被告は、自分が本来必要のない書類の作成を原告に強いたことも、根拠のない〈添削〉をなぐり書きしたことも、両方、“N主査が困っていたから”と、N主査に原因を押しつけようと目論んでいます。
 要するに被告は、先には、原告の「紹介状」作成に介入したという訴えから逃れるために〈N主査が困惑していたからアドバイスしたのだ〉と虚偽の反論を行い、また法廷で、裁判長から、他の職員が添削したのにどうしてここまで手を加えねばならなかったかと質問されると、それも〈N主査が困惑していたから「私の方で修正しましょう」と申し出たのだ〉と、さらに虚構を重ねたのです。しかし実際には、いずれの場合においても、〈N主査が困惑した〉という事実はありませんでした。

(なお、被告「準備書面(2)」の記述の過ちや曖昧さについては、原告「準備書面(Ⅱ)―1」33pで指摘しておきました。)
甲10号証の4の手書き文字は、原告が書いた文字であり、N主査の文字ではありません。そもそも、「証拠説明書」の〈作成者〉の欄に「原告自身が赤ペンで加筆」と明記してあります。
 一方、N主査の文字には、
甲12号証の2(「旅行 命令/依頼 簿」)の手書き文字を見ても分かるように、はっきりとした特徴があります。全体に横長・扁平な文字で、一般的に見ても、かなり特徴的な書体と言えるでしょう。少なくとも、甲10号証の4の原告の字と混同する体(てい)のものではありません。
 しかるに被告は、証人席において、平然として、
甲12号証の4の手書き文字を「N主査の文字だと思う」と証言しました。
 被告が、わずか1年しか同じ職場にいなかった原告の文字を忘れるのは、ある意味で仕方ありません。しかし被告は、N主査とは、実は、北海道立文学館に来る以前に、北海道立近代美術館においても同僚でした。
  
平成16~17年    被  告   学芸第三課 課長

(道立近代美術館)     N      業務課副主幹兼主査(平成18年3月退職)

平成18~現在    被  告   学芸主幹
(道立文学館)        N      業務主査(財団法人北海道文学館職員として再就職)
(『北海道職員録』により確認)
  
 つまり、被告とN氏は、平成20年10月31日の公判日に至るまで、すでに4年半以上も同じ職場で働いています。当然その間、近代美術館においても文学館においても、N主査は、被告の出張書類等に関して、原告にしたのとほぼ同様な形で処理していたはずです。それにもかかわらず、被告は、甲10号証の4の文字が、N主査の文字と違うということに気がつきませんでした
 被告は、「陳述書」や法廷の場において、“自分は原告以外の職員の書類についても指導を行ってきた”と証言していました。しかし、原告とN主査の書体の違いさえ分からなかった。これは被告が、要するに、もっぱら原告作成の書類についてのみ「指導」という名の嫌がらせを行ってきたことの、一つの明らかな証拠と言えます。
⑤また、前項②に関してもう一点言及すれば、N主査と被告とは、
甲10号証の1の件が起こるまでの間にすでに約2年半同じ職場に勤務しており、したがって、〈書類〉の書式がいかなるものかという認識も共有していたはずです。しかも、事務書類に関しては、N主査の方が長年の専門です。
 ところが被告は、N主査が手入れをして
甲10号証の1が出来たことを実際には知りながら、その上に書きなぐるように数多くの訂正を加えました。これは、ただ単に書類を作成した原告に対する侮辱行為であり人格権侵害行為であるだけではなく、間接的にはN主査をも侮辱した、悪質な行為であると言えます。
⑥被告は、原告が「紹介状」を持参するだけでは個人的な調査であって、公務にはならない、という意味のことを言っていました。しかし、職場の長が署名・押印した「紹介状」が私的な文書のはずがありません。あくまでも、財団の業務に関する文書です。それを持参して行くことは、紛れもなく〈業務〉上の行動です。
 また、駐在の道職員である被告にとっては、財団が被告に依頼する学芸関係の仕事は〈公務〉ですが、財団の嘱託職員である原告にとって、財団の仕事は〈業務〉です。〈指定管理者制度〉によって組織の二重化現象が起こるのは不可避なことですから、こうした基本的な区別は、本当は、職員のだれもがわきまえていなければならないはずです。しかし、この度の被告の証言
(「準備書面(2)」や「陳述書」も含めて)には、〈公務〉と〈業務〉の区別さえついていない発言が数多くありました。

亀井秀雄注:副館長の平原一良は、平成18年8月29日(火)、怪我で休んでいたにもかかわらず、「陳述書」の中で、あたかも文学館でこの日に起こった出来事に立ち会っていたかのように書いた(「北海道文学館のたくらみ(35)」)。まさか平原一良は分身の術を使ったわけでもあるまい。
 ところが、被告の寺嶋弘道も、10月31日の法廷において、2度も同様な嘘を吐いていた。現在の道立文学館では、時間的・空間的に不可能な行為に関する嘘が平然と行われているらしい。このことは十分に心に止めておく必要があるだろう。

 さて、前回と今回の記述からも分かるように、亀井志乃が道立近代美術館の学芸員とコンタクトを取ったり、小樽啄木会の集まりに出ようとしたり、釧路の出張先で相手方に誘われて研究集会に参加させてもらったり、大学図書館まで出かけたり、何らかの形で外部の人と交渉を持ち始めると、寺嶋弘道は信じられないほど過剰な感情的反応を見せて、亀井志乃の行動に干渉し、書類の書き方にクレームをつけるなど、嫌がらせを繰り返した。

○「復命書」の場合
 それらのクレームのうち、まず「F.「用務地」について
(平成18年9月8日)」について、簡単に補足すれば、亀井志乃は平成18年9月1日(金)に釧路へ出張して、財団の書式に従って「復命書」を業務課へ提出した。業務課では、亀井志乃の書き方に特に問題を見出さず、そのまま受理した。その後業務課は、寺嶋と同様に道立文学館に駐在する道教委の職員のA学芸員、S社会教育主事に回したが、2人は何の問題も見出さなかった。そして寺嶋弘道に回したところ、彼は亀井志乃に書き直しを求めたのである。
 亀井志乃の「復命書」は、田口裁判長が見ても「内容的には資料の返却及び資料の調査で間違ってないのではないかというふうに読めるんですけれども、これでは不都合だったんですか。」と訊いてみたくなるほど、常識的には何の問題も見られない書き方だった。
 被告代理人・太田弁護士は「準備書面(2)」(平成20年4月9日付)で、「所定の復命書の『用務』『用務地』及び『処理の状況』欄等の記載に当たっては、旅行命令と整合を図るよう原告に対し指導したものであり、」と主張していたが、そんな「指導」を受けるまでもなく、亀井志乃の「復命書」は所定の書き方と整合していたのであり、田口裁判長の
「これでは不都合だったんですか。」という疑問は、当然の疑問だったのである。
 それに対して寺嶋弘道がどう証言したかは、先ほど亀井志乃が「被告調書」から引用した如くであり、亀井志乃が証明したように、「被告(寺嶋弘道)の証言内容にはなんら根拠がなく、意図的な偽証であ」った。
 
 他方、「復命書」書き換え強制に関する、寺嶋弘道側の最終的な主張は次の如くであった(太田三夫署名「準備書面(4)」平成20年12月16日付)
《引用》

(1)復命書が被告の事実上の部下である原告から被告に上げられたとき、その内容を精査し適切な修正を加えることは、復命書がそれにより業務が適正に実行された証になる基本的書面である以上極めて当然のことである。
(2)復命書などいわゆる決裁書類・りん議書類等は、どの様な組織においても日常的に上司の修正を加えられている。一般的に部下は、上司からこの様な修正を加えられることにより、より正確かつ適切な業務執行の方法を修練して行くことになるのである
(5p)

 いかにもお役人の作文らしく、ご大層な一般論を弁じ立てているにすぎない。一般論を振りかざして、具体的な行為事実の検証から逃げてしまったわけだが、「それならば、寺嶋さん、あなたは、自分と同じ道職員のA学芸員やS社会教育主事に対しても、年長の道職員として、つまり『事実上の上司』として、厳しく書類上の指導をしているのでしょうね」。そういう疑問は、これは誰もが感ずるところだろう。
 田口裁判長も同様の疑問を感じたらしく、寺嶋弘道との間に、次のようなやり取りが交わされた。
《引用》

田口裁判長:そうすると、これは原告だけの問題ではなく、Aさん、Sさん、皆さんに対して、復命書の書き方はこのようにしなくちゃいけないんだよということを話すべき事柄であって、原告1人を足止めして、これを言う必要性は、それだけではなかったのではないですか。
寺嶋被告:なので、Aさんにも、別な出張で書き直しを、話したことがありますし、Sさんにも同じような話をした記憶があります。
田口裁判長:それは、いつですか。
寺嶋被告:………はっきり覚えてませんが、日常的にということですね。
田口裁判長:この9月5日より前ですか、後ですか。
寺嶋被告:………9月5日より前にAさんの出張はなかったと思います。それから、9月5日以前にSさんの出張はありましたので、そのときにした記憶があります。してると思います。
被告調書30P。下線は引用者)

 寺嶋弘道という人物は、話題が肝心要の具体的な事実に及ぶと、急に記憶が曖昧になるという特技の持ち主であるが、それから、9月5日以前にSさんの出張はありましたので、」などととぼけた言い方をする必要はない。彼は平成18年の9月5日までに、少なくとも2度、啄木展副担当の亀井志乃を無視して、――つまり亀井志乃には何のことわりもなしに――S社会教育主事と東京の日本近代文学館まで出張している。その際、S社会教育主事に「復命書」の書き方を指導したのか、しなかったのか。もし指導をしたのならば、それはどの点に関してなのか、はっきりと答えられたはずである。
 ところが寺嶋弘道は、それらのことにはっきりと答えられなかった。ということはすなわち、
原告1人」亀井志乃)だけをターゲットにして、足止めして」書類の書き直しをさせる嫌がらせをしてきた証拠にほかならない。

 ただし時間的な前後関係から言えば、10月31日の田口裁判長による尋問があり、そのときの寺嶋弘道のしどろもどろを取り繕うために、先のような一般論を述べ立てた「準備書面(4)」が書かれたわけだが、一般論で具体的な失敗や虚言を帳消しにする。そんなやり方が通用するなんて考えるのは、某一党独裁国家の官僚くらいなものだろう。そう思っていたところ、どうやら北海道教育委員会や弁護士の中にもそういうタイプがいるらしい。おまけに、寺嶋弘道は自分が主担当の池沢夏樹展(平成18年度)の「実施報告書」をついに出さなかった。そういう人間が書類作成の説教を垂れても、これでは「百日の説法、○一つ」の結果しか生まれるはずがない。

○明治大学図書館に持参する「紹介状」の問題について
 次の「G.書類の〈添削〉について(平成18年10月6~7日)」の問題は、今後も何回か取り上げるはずなので、まずその経緯を、原告と被告の双方の文章に語ってもらうことにしたい。
 亀井志乃は「準備書面」(平成20年3月5日付)で、次のように発端の事情を述べた。
《引用》
 
原告は企画展の準備のため、明治大学の図書館に資料閲覧の諾否を問い合わせた。同図書館は快く応じ、「お出でになる時、できれば現在の仕事先の紹介状をお持ち下さい」という返事だった(甲35号証)。ただしこの用件での出張の可否は、(9)の項で述べた時のことがあって以来棚上げになっていた。
 しかし10月6日(金曜日)、原告が出勤すると、出張の書類はN業務主査が整えて、被告の許可をもらっておいてくれた。原告はN主査に礼を言い、明治大学へ持参する紹介状について、事務室で二人で相談した。すると、少し離れた自席に座っていた被告が、「それは、こちらから職員の派遣願を出すことになる」と言った。被告は原告に対して、一方的に「それでいいね?」と言い、「書類、出来上がったら私に見せて」と言った
(20p)

 これが平成18年10月6日のことである。
 このことに関する被告側の言い分は次のようであった(被告「準備書面(2)」平成20年4月9日付)
《引用》

1)「(a)被害の事実」の第1段
原告からの伝聞として、明治大学から紹介状を求められたことは認める。
(2)同第2段
紹介状の作成について、原告とN主査が相談していた事実は認める。その際、N主査が自分の所管事務に直接関わらない本件について相談されたために困惑している様子であったため、被告が発言し、紹介状に代えて職員派遣による協力要請文書の作成を指示したものである
(7~8p)

 この文章を書いたのは太田三夫弁護士だと思うが、どうもこの人の日本文は舌足らずなところがある。初めの1文もそうなのだが、もし被告の寺嶋弘道がN主査の困惑を見かねたのならば、「紹介状」の書き方をアドバイスするだけで十分に用は足りたはずである。ところが寺嶋弘道は、お節介にも「紹介状に代えて職員派遣による協力要請文書の作成を指示した。だが、なぜ明治大学図書館が求める「紹介状」に代えて、「職員派遣による協力要請文書」を作成しなければならないのか、その説明が落ちているのである。
 そこで亀井志乃は、次のように反論した(原告「準備書面(Ⅱ)―1」平成20年5月14日付)
《引用》
 
被告は「原告からの伝聞として、明治大学から紹介状を求められたことは認める。」と言うが、文意が不明である。誰が明治大学から紹介状を求められたのか。「原告から伝聞した」とは、どういうことなのか。考えられる、唯一まともな文章は、「原告が明治大学から紹介状求められたことを被告は伝聞した。」であろうが、被告は「伝聞」したのではない。原告とN主査の会話を小耳に挟んで口を入れたのである。
(2)同第2段
 明治大学図書館が求めたのは「紹介状」と「身分証明書」であり、それを本人が持参することだった
(甲33号証)原告は業務課に属し、原告の紹介状は業務課で作成する。原告はN主査に明治大学からの依頼について説明し、「紹介状をよろしくお願いします」と言った。だが、平成18年度の4月から財団に勤務し、まだ半年ほどだったN主査は一瞬ためらい、「紹介状という書式があったかしら」と言いさした。そこへすかさず被告が口を挟んだのである。被告は、「N主査が自分の所管事務に直接関わらない本件について相談されたために困惑している様子だったため、」と言うが、「紹介状」の発行はN主査の所管事務である。N主査は自分の所管事務に関わらないことを相談されて「困惑」していたわけではない。被告は「紹介状」云々を小耳に挟んで、「職員の派遣願い」と勘違いした。勘違いをしたこと自体を原告は咎めるつもりはないが、被告は自分の勘違いに気がついたら、固執すべきでなかった(32~33p)

 このようなことがあり、そして亀井志乃が「最終準備書面」で指摘したような、10月31日の法廷における偽証があり、ついに太田弁護士は、如何なる弁護も不可能と観念したのかもしれない。太田弁護士署名の「準備書面(4)」では何の主張も行わなかった。

○北海道教育委員会という不思議な世界
 ただ、この「「準備書面(4)」には、被告の寺嶋弘道が如何なる自意識の持ち主であるかを表現した箇所があり、参考までに紹介しておく。
《引用》

4(1)他方、被告(寺嶋弘道)は、平成18年4月までの28年間にわたる北海道教育委員会職員として組織の中で勤務してきた経験・実績から、被告の事実上の部下となった原告(亀井志乃)が財団の職員として(ママ)自覚のもと、原告の担当する業務について事実上の上司である被告に報告・連絡・相談があるもの、あるべきものと認識していた。
 (2)そして被告は、上記認識のもとに財団の職員としての原告に対して原告の担当する業務について指導・監督をした
(2p)

 まさか北海道教育委員会というところは、たったの28年の勤務で、自分は「文学館グループ」という3人編成のチームのグループ・リーダーにまで登りつめたのだと、そんなふうに思い上がった、夜郎自大ばかりが棲んでいる組織ではあるまい。ただ、寺嶋弘道被告は28年のキャリアを理由に、教育委員会以外の組織で働く市民に対して上司風を吹かせて、書類の書き方にまで干渉し、そのくせ、自分が提出すべき「実施報告書」を怠ってしまった。財団が亀井志乃を排除する人事案に荷担した。それでも大目に見過ごしてやる。それが北海道教育委員会という組織であること、これはしっかりと肝に銘じておこう。

 それにしても、寺嶋弘道という北海道教育委員会の公務員が民間財団で働く亀井志乃の「事実上の上司」たり得るならば、寺嶋弘道の「事実上の上司」は誰なのだろうか。2009年1月6日】

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