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北海道文学館のたくらみ(49)

亀井志乃の「最終準備書面」その2

【○太田弁護士の本末転倒
 前回は、「Ⅰ章 被告の公務員としての法律違反について」を紹介した。
 ここで取り上げた問題は、亀井志乃が「訴状」以来、常に言及してきた問題であるが、被告代理人の太田三夫さんはまことに不思議な弁護士で、最終準備書面の「準備書面(4)」に至るまで、ついに一度も被告が公務員である事実に言及することもなければ、法律問題に相渉ることもなかった。
 この問題については、被告の寺嶋弘道自身でさえ、10月31日の法廷では、「財団の職員を指揮命令する立場には私はないと思います」と認めざるをえなかった。つまり、公務員である被告が民間財団の嘱託職員の亀井志乃の上司となることは許されていないことを知っており、そのため、「自分は北海道教育委員会の教育長から、指揮監督する立場を与えられた」とか、しかし「直接教育長から指揮や指示を与えられたことはない」とか、いや、実際は、文学館に着任後、毛利館長から要請されたのだとか、支離滅裂な証言を行う羽目に陥ってしまった。おまけに、平成18年4月1日(土)に文学館へ顔を出してから、4月18日の全体職員会議まで、「20日近く、そのことを……(毛利館長と)議論をしていました」と、物理的に不可能なことまで口走って、おのが証言の偽証性をさらけ出してしまったのである。
 
 私の素人判断によれば、一番大事な弁護士の仕事は、原告が挙げる「被害の事実」に関して、被告側の具体的な証拠と記憶に基づいて原告の主張を覆すことにある。
 ところが太田弁護士は、「準備書面(2)」以来、そういう基本的な仕事はほとんど放り出してしまい、最終準備書面たる「準備書面(4)」の中でさえ、わずか7ページの文章中、わざわざ1ページを割いて亀井志乃の「独自の発想」とやらを論じている。その内容は、被告の「陳述書」と平原一良の「陳述書」の受け売りでしかない。二人の「陳述書」がどんなに虚偽と中傷誹謗に充ちているか、亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)―2」「準備書面(Ⅱ)―3」で詳細に指摘しておいたが、太田弁護士はそんなことは一切お構いなし。二人の受け売りをした上で、またしても、
原告の事実上の上司として、原告の業務内容を指揮・監督し執行管理することとなった被告(1p)などと書いて、「事実上の上司」を蒸し返している。それだけではまだ気が済まないらしく、今回は「原告は被告の事実上の部下である」という言い方まで加え、13回も繰り返した。

○太田弁護士、打つ手なし
 被告の寺嶋弘道は、前回に紹介したように、10月31日の法廷では
「学芸の業務のとりまとめ役」「学芸班のとりまとめ役」という言い方をし、「事実上の上司」という言葉は使わないようにしていた。「事実上の上司」という主張は、既に亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―1」で論破されてしまっている。被告と太田弁護士が相談して、「事実上の上司」という言葉を避ける策戦に出たのであろうが、田口裁判長と亀井志乃の尋問で化けの皮をぼろぼろに剥がされてしまった。太田弁護士としては、亀井志乃の論破を証拠に基づいて覆す術もなければ、論理的に覆す能力もなく、もはや破れかぶれ、開き直って、またぞろ「事実上の上司」を連発することにしたのであろう。
 多分太田弁護士は、被告/原告=上司/部下という図式に固執する以外に、知恵が尽きてしまったのである。
 ただし、「事実上の上司」の復活は、単に10月31日以前の主張に後戻りしただけの意味に止まらない。10月31日の法廷において、被告がああいう証言をした以上、今回の「事実上の上司」は、被告が法廷における証言を翻し、法廷での証言と矛盾することを主張したことを意味する。すなわち今回の「事実上の上司」は、法廷の証言が偽証であり、それと共に、今回の主張も偽証であることを裏づける証拠にしかならないのである。弁護士である以上、太田弁護士はそのことを十分に承知して、「事実上の上司」の復活と再連発に踏み切ったのであろう。
 
 それにしても
「原告の事実上の上司として、原告の業務内容を指揮・監督し執行管理することとなった被告」とは、何ともけったいな表現だ。もしそれを言うなら、「原告の業務内容」ではなくて、「原告の業務」でなければならないはずだが、それ以前の問題として、亀井志乃の「業務内容」を「執行管理する」とは、一体どういう行為を意味するのか。
 主語と述語の整った文章に直してみるならば、「寺嶋弘道が亀井志乃の業務内容を執行管理する」となる。そして具体的な事実の即して見るならば、たしかに寺嶋弘道は、亀井志乃から啄木展の業務を奪って、亀井志乃を啄木展から疎外してしまった。前年度から予算が決まっている「二組のデュオ」展に関して、主担当の亀井志乃の予算執行に干渉してきた。「原告の業務内容を執行管理する」とはそのことを指すのかもしれない。とするならば、太田弁護士は寺嶋弘道が亀井志乃の業務を妨害してきた事実を認めたことになるわけである。

○太田弁護士の致命的な偽証行為
 ここで、法廷における証言の重さについてふれておくならば、被告本人は法廷の証人席において、裁判長から「本人が虚偽の陳述をした場合、制裁が加えられる」旨の説明を受け、その上で、宣誓書を読み、署名をした。その瞬間から、彼の証言は、「準備書面」や「陳述書」よりもはるかに重いものと見なされる。法廷で宣誓をし、署名した上での証言は、取り消しもできず、言い直しもきかない、真実なる言葉としての重みを持つものだからである。
 ところが太田三夫弁護士は、「準備書面(4)」に、
財団は、平成18年4月から指定管理者制度のもとで運営されることになり、財団の学芸班に属する原告の事実上の上司を被告とすることが財団で取り決められたが、」云々(2p。下線は引用者)と書いてしまった。これは致命的な失言と言うべきだろう。被告の寺嶋弘道は、それ以前の「準備書面(2)」や「陳述書」はもちろん、10月31日の法廷においても、「財団の学芸班に属する原告の事実上の上司を被告とすることが財団で取り決められた」という意味のことは一言半句も述べていなかった。その点から見れば、この陳述は、法廷における証言を翻す、全く新しい証言なのである。
 しかも太田弁護士は、「準備書面(4)」の中で、財団が何時、どんな規程に従い、どのような手続きを経て、「原告の事実上の上司を被告とすること」を決めたのか、全く説明していない。事実問題としても、「財団が被告を原告の事実上の上司と決めた」ことはない。
 太田弁護士は、前回に紹介した「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(
乙2号証)における、「* 財団事務局組織等規程の業務課、学芸班に所属する司書、研究員の上司は、規程の定めにかかわらず学芸主幹とする」という文言を、そのまま「財団が被告を原告の事実上の上司と決めた」という主張の裏づけとするつもりだったのかも知れない。だが、その文言は財団の正規の手続きを経て決定されたものではなく、そうであればこそ、「事実上の」などという多様な解釈が可能な形容句を附けて、いざ責任を問われた場合、いろいろと言い逃れができる保険を掛けておいたはずである。もし本当に財団が正規の手続きを経て決定したことであるならば、――財団がそんな決定をすれば、地方公務員法に違反することを決めたことになるわけだが、その点はさしあたり不問に付すとしても――「事実上の」などという形容句を附ける必要はない。むしろそんな形容句を附けてはならないはずのことだからである。
 太田弁護士の頭の中ではその辺の整理がついていなかったらしいが、以上のような理由により、彼は「事実上の」という形容句に執着したおかげで、「準備書面(4)」の主張が明白に偽証である証拠を残してしまったのである。
 
   前置きがだいぶ長くなったが、以上のことを指摘して、さて、以下に、「Ⅱ章 被告が法廷で行った虚偽の証言」の「第1項 宣誓と〈1箇所の訂正〉について」と、「第2項 被告側準備書面と法廷での主張内容が異なる証言、または、時間等の矛盾が含まれるために主張内容の成立が不可能な証言」のAからDまでを紹介する。2008年12月29日夜】

Ⅱ章 被告が法廷で行った虚偽の証言
第1項 宣誓と〈1箇所の訂正〉について
 被告は、被告代理人太田弁護士の質問に答えて、被告作成の「陳述書」には1か所、誤りがあったことを認め、
学芸部門の事務分掌について打合せをした日にちについて、亀井さんがお休みの日に打合せをしている…ように私書いてしまいましたけれども、そこは、亀井さんからの反論のとおり、別な日にそのことをお話をし、いずれにしても亀井さんの了解を得ているんですが、別な日かもしれません」と証言しました。続けて被告は、被告代理人の「それ以外は、本件で問題になっている事柄に関しては、この乙1号証の陳述書に書かれてあるとおりというふうに聞いていいですか」という質問に対して、はい、それ以外にはありません」と証言しました被告調書1p)。
 
①被告は証言をなすに当たって、「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、何事もつけ加えないことを誓います」と宣誓をしました。その後被告は証人席において、被告作成の「陳述書」について、「学芸部門の事務分掌について打合せした日にち」の記述に関する過ちを認める以外は、全て「陳述書」に書いたとおりであると証言しました。このことによって、被告は10月31日の法廷の証人席において、被告の「陳述書」のとおりに――「(平成18年)4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。(中略)原告を含む財団学芸職員2名」、「原告も確認し、組織決定された(後略)」(被告「陳述書」2p)という記述から「原告」を削る、という1点を除いて――証言したことになります。すなわち、被告の「陳述書」は法廷における被告の証言としての資格を得たわけです。
②被告によって、法廷における被告の証言として承認された、この被告の「陳述書」では、原告が「準備書面(Ⅱ)―2」で指摘したように、11項目50点に及ぶ、原告の人格、能力、業務態度に対する誹謗中傷の言葉が発せられています。これは10月31日の法廷で行われた、原告に対する人格権の侵害となります。
③被告によって、法廷における被告の証言として承認された、この「陳述書」の中で、被告は、原告が「準備書面(Ⅱ)―2」で指摘したように、20か所を超える虚偽の陳述を行っていました。そして被告は、①で挙げた1点以外は、全て「陳述書」記載のとおりであると確信をもって証言しました。すなわち被告は、10月31日の法廷において、再び虚偽の証言を繰り返したわけです。

第2項 被告側準備書面と法廷での主張内容が異なる証言、または、時間等の矛盾が含まれるために主張内容の成立が不可能な証言
    
A.〈K学芸員への手紙〉の件について
 平成18年4月7日、原告は、前の勤務先が道立近代美術館だった被告に「近々道立近代美術館へ行って、木田金次郎の作品を見せてもらい、学芸員の話を聞かせてもらいたいと思っているところです」と、ごく普通の話題の流れの中で、これからの予定を話しました。ところが、それを聞いた被告は突然、
いきなり訪ねていったって、美術館の学芸員は忙しいんだ。ただ話をだらだらしたって、相手になってくれる人間はいないよ。そんな時間はないんだ」と、厳しい口調で言いつのりはじめました(原告「準備書面」1~2p)。
   訴えにおいてこの点を指摘された被告は、「準備書面(2)」において、
近代美術館のK学芸員は被告の前職場での直属の部下であり、被告は文学館への転勤以前の3月、同学芸員から原告の意向について報告をうけていた(中略)K学芸員から被告への報告内容は、原告からK学芸員宛ての書簡の内容が散漫としていて調査事項が不明瞭であり困惑しているとの相談であったため、被告はK学芸員に対し、先方に対して具体的な調査内容を問い合わせ意向にそって対処するよう指導していたものである」(1~2p)と主張していました。
 さらに被告は、法廷での尋問においても、被告代理人からの尋問に以下のように答え、「準備書面(2)」における自分の主張を撤回、もしくは変更することはありませんでした。

日にちははっきり覚えていないんですが、私が前にいた職場の近代美術館の学芸員のKさんから、亀井さんが書かれた手紙を見せられまして、そこで、亀井さんが美術館へ来て調査をしたいといっておりましたので、その話を聞くのは初めてではありませんでした。
被告調書4p)

Kさんから相談があったのは、……調査の内容がはっきりと分からない手紙であったので、どう対処したらよいかという相談だったんですね。ですので、私は、相手に対して調査項目をまとめて、しかしながら、きちんと対応するようにということをKさんに話をいたしました。Kさんは私の、私が属しました学芸第3課の同じ課員でしたので、Kさんは私に相談しましたし、私もKさんにそのように指示いたしました。
被告調書4p)

 しかし、ここで被告が自らの主張を撤回もしくは変更しなかったことに関しては、以下のような問題が含まれています。

① 原告は平成18年3月18日、K学芸員に対して、前もって来意を告げ、都合を問い合わせる手紙を出していました。その文面が、原告のパソコンの中に残っていました(甲38号証)。
 そこで原告は、「準備書面(Ⅱ)―1」と共に
甲38号証を提出し、もし本当に、被告に対するK学芸員の〈相談〉が、被告の原告に対する態度に何らかの影響を与えたというならば、被告は、K学芸員が見たという原告の手紙のどこが「内容が散漫としていて調査事項が不明瞭」であったかを証明しなければならない、と主張しました(「準備書面(Ⅱ)―1」9p)。
 ところが被告は、この度の尋問においては、
Kさんから、亀井さんが書かれた手紙を見せられまして」と、自分自身が手紙を見たことをはっきりと証言しています。そうであればなおさら、被告は、まさしく自分の記憶と責任において、手紙のどの箇所が「内容が散漫としていて調査事項が不明瞭」だったのか、指摘し説明しなければならないはずです。
 もし、それが出来ないならば、そもそも、K学芸員から「相談」があったという証言そのものが、きわめて疑わしいということになります。
② 被告は、法廷において、
私は、相手に対して調査項目をまとめて、しかしながら、きちんと対応するようにということをKさんに話をいたしました」と証言しました。しかし現実には、K学芸員が手紙を受け取ったと見られる3月19日から4月7日に至るまで、約20日もの間があったにも関わらず、K学芸員が原告に対して調査項目をまとめて提示してきたり、その他、原告にきちんと対応しようとコンタクトをとってきたりしたことはありませんでした(被告の「相手に対して調査項目をまとめて、しかしながら、きちんと対応するように」というK氏への指示内容を、文脈通り解釈するとこういう意味になります)。
  
 以上の事実から判断するに、被告が久米学芸員の相談を受けていたという証言の信憑性は極めて疑わしく、被告が原告に対して取った非礼かつ不躾な態度を正当化する根拠は失われてしまった、と断言することができます。

B.分掌担当について(平成18年4月13日)
 田口紀子裁判長は、寺嶋弘道被告の〈4月13日の学芸担当職員の打合せ会の時には原告は出席していなかった。記憶があいまいであった〉という訂正を受けて、〈ではなぜ原告が出席していないにもかかわらず、打合せ会を行ったのか。何か理由があったのか〉という趣旨の質問を被告に行いました。それに対して、被告は、以下のように答えました。

………4月も半ばに入っていましたので、だれがどの展覧会を実際に担当するのか、それはなるべく年度が早い時期に、一番いいのは前年度のうちに決まっているのがいいんだと思うんですけれども、それが決まっておりませんでしたので、私はなるべく早く決めたいと思っていました。その事務分掌の原案を作るのは私の最初の仕事でしたので、それを早く決めなければ、年度の仕事がスムーズに進まないと思っていましたので、ですので、なるべく早く、…学芸班の職員全員の了解を得たいというふうに思ったからです被告調書20p)

 この証言の偽証性については、Ⅰ章Cの②および⑤で明らかにしておきましたが、以下の点から見ても信憑性に欠けており、明らかに虚偽を含んでいます。

①もしも、事実が仮に被告の証言通りだったとしましょう。すると、平成18年度の当初、文学館の幹部及び職員は、4月29日に「写・文交響」展(綿引幸造写真展)の開催を控えていたにも関わらず、同月13日まで、その担当者を決定していなかったということになります。
 しかし現実的にいって、展覧会開催が16日後に迫るまで、文学館が、担当者未定のまま、展示品貸借先と打合せや交渉を行うことはあり得ません。また、担当者未定のまま、ポスター印刷の打合せ・色校正や印刷業者との交渉をするという話もあり得ません。このような動きには、必ず、契約事項や予算執行に関する起案・決裁等の事務処理がつきものだからです。担当者が決まっていなければ、では誰が、それらの書類を作成し、責任をひきうけるのでしょうか。

(なお、被告とS社会教育主事が綿引展の担当者としてポスター印刷のトラブルを引き起こしたのは、4月13日の会議に先立つ11~12日のことでした。詳しくはⅡ章第2項「D.綿引幸造写真展」および甲30号証参照。)
 また、被告は、“綿引展は前年度中に仮担当が決まっていた”と主張するつもりかも知れません。しかし、そこだけ仮担当を決めておくくらいであれば、他の展覧会の担当も、当然、前年度中に決めておくはずです。少なくとも、決めずにおく合理的な理由は考えられません。
②その一方で、被告は、原告が行った反対尋問の中での〈被告に「指揮命令」の立場を与えたのは毛利館長なのか。それ以前に平原学芸副館長と話をしていたという被告の主張は、「指揮命令」の立場とは特に関係がなかったのか〉という質問に対しては、このように答えています。

 いえ、そんなことはありません。毛利館長……も……………学芸班が、学芸部門の一つ一つの事業や展覧会の実際的な内容については、平原副館長が専決事項として決めており、また、その内容にも精通しておりましたので、平原副館長から、4月1日のときに、その事務事業の概要について説明を受けたものです被告調書34p)

 先には「その事務分掌の原案を作るのは私の最初の仕事でしたので」と、あたかも事務分掌の内容そのものが白紙状態だったからその原案を作成したかのような証言をしておきながら、次に、質問内容が自分の文学館における身分・立場の問題に絡んでくると、学芸部門の一つ一つの事業や展覧会の実際的な内容については」すでに平原学芸副館長(「平原副館長」は誤り)の専決事項として決まっていて、自分はその説明を年度初めに真っ先に受けたのだと、証言の内容を変えています。
   では、仮に平原学芸副館長が前年中に学芸関係事業や展覧会の「実際的な内容」までも決定していたとして、それなら、なぜ平原学芸副館長は、各事業の担当者を新年度までまったく決めずにいたのか、という疑問が生じます。その点について、おそらく被告は合理的な説明ができないでしょうし、また、客観的に考えても、そのようなことは起こり得ません。
  ちなみに、原告の経験からいいますと、展覧会の内容やイベントの予定は、前もっ
て、誰が担当し、どのように計画を進めてゆけるかという具体的な見込みが立たない限り、けっして細部まで詰めてゆくことは出来ません。具体的な人間(職員)の在り方と切り離された計画などというものは、少なくとも文学館には存在しません。
③また、②の引用部において、被告は、事業や展覧会の内容については
「平原副館長が専決事項として決めており」と述べています。 この証言の信憑性の疑わしさについてはⅠ章Cの①~③で指摘しておきましたが、さらに補足しておくならば、仮に当時の平原学芸副館長に一応〈専決〉の権限が規定上認められていたとしても、それがただちに、〈だから平原学芸副館長は、すべて自己裁量で平成18年度の文学館の事業及び展覧会の内容を決めることができた〉という理屈に繋がるわけではありません。一般常識的には、〈専決〉は事務を能率的に処理するための補助執行の一種であって、通常、日常業務の最中に生じる様々な案件を速やかに処理するために行使される権限のはずです。ですから、たとえ専務理事で〈専決〉権があるからといって、財団の一幹部であるに過ぎない平原学芸副館長が、財団の事業の根幹である学芸事業や展覧会の年度すべてにわたる予定を〈専決〉で決めてしまうという事態は、通常起こり得ません。そもそも、そのような証言は、甲59号証等の学芸課内会議(平成17年度以前)の諸資料や、決定機関としての〈理事会〉や企画検討委員会の機能及び存在意義をも否定することとなります。
   逆に言えば、すでに平成17年度に学芸課内打合せが幾度も行われ、企画検討委員会や理事会も開催され、それらの合議機関および決定機関に該当する範囲の職員がそのつど参加・出席していたからこそ、年度予定が皆の合意を得て決定されるに至ったのです。また、その過程で分掌の担当についても決定され、その結果については、職員それぞれが納得し、同意をしていたのです。
   もし、これらの事実を無視して被告の証言の方を信ずるならば、結局、“平成17年度までの北海道立文学館は、上記のような民主的な合議の手続きのもとに運営が行われていた“という事実そのものを否定してしまうことになります。

 以上の諸点に照らして、被告のBの証言が偽証であったことは間違いありません。
 なお、被告の、Bに引用した証言には、次のような矛盾も含まれています。
 
④もし仮に、被告が証言した通りに、
乙6号証の原案は被告が作成したものであるならば、被告はこの時、被告自身の何らかの合理的な判断に基づいて、原告を石川啄木展の副担当に当てたはずです。
   それにもかかわらず、被告は啄木展に介入し、原告を啄木展から疎外しました。被告は5月12日の段階で啄木展の予算超過を原告に告げ(甲27号証)、日本近代文学館との打合せや展示品貸借・返却に際しては主担当のS社会教育主事と行動を共にしました(
甲41号証参照)。原告が指摘したこれらの事実は、10月31日の尋問でも覆されませんでした。
   では、被告はなぜ、自分が原告に割り当てたと主張する啄木展に、このような形で介入したのでしょうか。もし本当に被告が展覧会担当割当の原案者だったならば、原告に対して啄木展に関わるように早い時期から促したり、また、順調に業務が遂行できるように配慮するのが当然だったはずです。
  
C.被告の「記憶違い」
 被告は、田口裁判長が、4月13日の出来事に関連して〈4月13日に原告がいないことが分かっていたら、事前に原告の意向を確認するという方法があったと思うが、被告はそういった措置はとったのか〉という趣旨の質問をしたのに対し、以下のように証言しました。

記憶違いが……あったので、……私の記憶では、亀井さんはその打合せにいたと思って、当初おりましたので、それは、会議室の入口のところの亀井さんがいた席をぼんやり覚えているからなんですけれども、もしそのときにいないとすれば、………いる人間だけで取りあえず…確認をしておいて、別な日に改めて亀井さん御本人に確認をすればよいというふうに思いました被告調書20p)

 しかしこの証言は、以下の理由から、信憑性に欠け、明らかに虚偽を含んでいます。

①まず、証言内容の時間的な食い違いを指摘しておきますと、被告の「私の記憶では(中略)と思って、当初おりましたので」までは、被告が「陳述書」(乙1号証)を書いた時点(平成20年4月)における記憶違いについての証言だと考えられます。それに対して、「………いる人間だけで取りあえず…確認をしておいて、別な日に改めて亀井さん御本人に確認をすればよいというふうに思いました」云々は、平成18年4月13日の打合せ時点における被告の判断ついて語った証言です。平成18年4月の時点で原告が不在であることを認識し、いる人間だけで取りあえず…(事務分掌を)確認をしておいて」と判断したことを平成20年10月31日の法廷においても明確に記憶している人間が、その6ヶ月前に「陳述書」を書く時には記憶が曖昧になり、 原告が打合せ会の席にいたと「ぼんやり覚えている」などという話は、通常あり得ません。
   要するに、この食い違いから引き出し得る結論は、〈被告「陳述書」における「平成18年4月13日」の記述の間違いは、単なる被告の記憶違いではなく、意図的になされた偽証だった〉ということにしかなりません。
   そればかりでなく、もし、被告が実際に、平成18年4月13日の時点でそのような判断をして、その判断を受けて、
平原副館長と私と亀井さんとで、その直後に打合せを行った」被告調書20p)のだとすれば、その打合せは、先の会議で不在だった原告に決定内容を伝えるという目的で行われたものだったわけですから、“そのことは覚えている、しかし、原告が会議に出たように記憶している”というのは不自然きわまりない話です。
②被告は、〈4月13日の学芸担当職員の打合せに際して、原告がその場にいたと思った〉という
「記憶違い」の理由として、会議室の入口のところの亀井さんがいた席をぼんやり覚えているから」だと述べています。また、文脈からいって、それ以外の意味には受け取れません。
  そこでまず押さえておきたいのは、事実として、原告は、4月13日は会議に出席せず、そのことを被告も認めている。したがって、被告の
「亀井さんがいた席」という言葉は、その日、被告がそこに原告の姿を見た、という意味にはなり得ません。その点を確認しておきます。
③では、なぜ被告は、会議室の
「入口のところ」「亀井さんがいた席」と表現したのか。おそらくこの証言の時、被告の念頭にあったのは、乙5号証の図であったと思われます。この図において、確かに原告の席は、学芸職員のデスクのまとまりの中では一番入口に近いところにあります。
    しかし、実際の会議室においては、〈原告の席〉なるものは存在しません。
乙5号証は、事務室の座席表(職員配置図)です。会議室においては、実は、誰の席も決まってはいません(※1)。広さも、事務室が80.30㎡なのに対し、35.69㎡と、半分以下しかありません(※2)。したがって、事務室の席の配置と会議室の席の配置が対応する、という形にはなっていないのです。当時、そこには、会議用の長机4本と、イスが十数脚ほど置かれており、皆、会議の時は適当に、机を囲んで坐ることになっていました。原告は入口近くに座らねばならないとか、誰それの席はどこ、といった決まりや慣例はありませんでした。館長の席すら決まっていませんでした。
(※1 会議室は平原一良学芸副館長/副館長が、普段は独占的に業務に使用していましたが、それは、そこに平原氏の定席があったことを意味しません。
※2 面積の数値は、パンフレット「Hokkaido Museum of Literature 北海道立文学館」より引用。証拠としては未提出。)

   しかるに、被告の証言を文字通り信ずれば、被告はその年度初めての〈会議室〉での会議(※3)において、――それはまた、道立近代美術館から異動してきたばかりの被告にとっては、初めての道立文学館の会議室での会議でもあったはずです――別に座席の配置が事務室と対応しているわけではなく、また、席順が決まっているわけでも名前が貼付されているわけでもない会議室の席の一つを、〈入口近く〉にあるという理由で〈亀井さんがいた席〉と認識した。しかも、現実に原告の姿がどこにもなかったにも関わらず、その入口近くの席を〈亀井さんがいた〉席だとして〈ぼんやり〉覚えていて、〈亀井さん〉が出席していたように〈記憶違い〉をした、と言っていることになります。
   しかし、このように整理してみればわかるように、“不在の原告を存在したかのように勘違いした”という被告の主張は、きわめて不自然かつ矛盾に満ちています。それは、この証言が、当初から原告の意向など無視して業務関係の事項を決定してしまおうとしていた被告の意図を糊塗するためだけに捏造された偽証にほかならないからです。
(※3 原告にとって、平成18年度における初めての会議室での会議は、4月18日の職員全体会議です。4月1日から4月18日以前に会議室が何らかの形で会議に用いられたことは、記憶の範囲では、なかったと思います。しかし、被告は4月13日に会議を行ったと主張しているわけですから、それに従えば、その時が年度初めての会議室開催の会議ということになると思われます。
 なお、付言すれば、原告は、4月18日の会議においても、会議室の入口近くに坐ってたことはありません。)

④原告は4月14日、平原学芸副館長と被告から会議室へ呼ばれ、阿部学芸員と岡本司書の業務を手伝ってほしいと依頼されました。しかし、この時、乙6号証を手渡されたことはなく、乙6号証に関しての説明を受けることもありませんでした。原告の事務分掌について、一つ一つ確認を求められたこともありませんでした。

 以上の諸点に照らして、Bにおける被告の「記憶」及び「記憶違い」についての証言が偽証であったことは間違いありません。また、4月13日に、原告以外の学芸職員全員が参加しての会議、もしくは打合せが本当に行われたかどうかについても、その信憑性はきわめて疑わしいと言えます。

D.綿引幸造写真展について
 被告は、企画展「写真家・綿引幸造の世界から」に関して、裁判長から「ポスターの作成に関わりましたか」との質問を受け、
かかわっておりません被告調書23p)と答えました。また、裁判長から「ポスターの作成がうまくいかなくて作り直したというような経緯はありましたか」という尋ねられ、以下のように答えました。
 

はい。かかわっていないというよりは、…担当していた職員の仕事をチェックする立場に私はあったと思います。で、一回出来上がったポスターが、綿引さん御本人から写真の扱いをもう少し変更してほしいという申出がありましたので、その変更を受け入れて作り直したということは知っています。それは、そのときに判断をいたしましたのは、当時の平原学芸副館長です被告調書23p)

 しかし、この証言には、以下のような虚偽が含まれています。
 
①まず、被告の立場ですが、
甲60号証甲3号証が示すように、「写真家・綿引幸造の世界から」(綿引展)においては被告が副担当です。そして、Ⅰ章のCやⅡ章第2項のBでも理由を述べたように、この分担は、平成18年4月13日に決められたものではありません。前年度中に決定され、4月4日からは、すでにこの態勢で業務がスタートしておりました。それゆえ、被告が〈ポスターの作成に関わっていない〉ということはあり得ません。
   また、被告が
「担当していた職員の仕事をチェックする立場」ならば、当然、自分のチェックを経た後に起こったトラブルについては責任を負わなければなりません。自分の行為について責任を持たない者、また、責任を持たなくても良い立場の者が、では一体なんの権限があって、業務上関係ない(と被告が主張している)他の職員の仕事を「チェック」などするのでしょうか。
   ですから、もし被告が、〈自分はその時点で綿引展の担当としては関わっておらず、故にポスター作成には無縁である〉という意味でこの言葉を言っているとしたら、被告は明らかに虚偽の証言を行っていることになります。また、もし被告が〈自分は担当ではあったが、ポスター作成などには一切関わっていない。それはすべて「担当していた職員」(
S社会教育主事)の責任である〉という意味でこれを言っているなら、1展覧会に2人しか割り当てられていない担当者として、無責任きわまりない発言であり、S氏に対する悪質な責任転嫁です。
②被告は、「準備書面(2)」の中で、この件について
「ポスターの増刷(5p)だと述べていました。この記述は明らかに偽りですので、原告はその点については甲30号証を挙げて、〈被告が言うところの『ポスター増刷』は、実は作り直しであった〉ことを指摘しておきました(原告「準備書面(Ⅱ)―1」23p)。ところが被告は、この度の尋問においては、自分の「準備書面(2)」における虚偽の記述を認めることも訂正することもなく、証人席で「増刷」「作り直し」と勝手に言い換えてしまいました。
  しかも被告は、ポスター作成の責任についてはそれを「担当していた職員」(S社会教育主事)に押しつけ、また、作り直しを判断した責任の方は、平原学芸副館長にすべて押しつけてしまいました。
乙3号証及び乙6号証を見る限りでは、確かにS社会教育主事が綿引展の主担当であり、被告は副担当です。しかし、ポスター印刷に関してGOサインを出すにあたっては、S主事が独断で行ったわけではありません。この時指示を出したのは、被告の方です。
   原告の記憶では、4月8日(土)頃、席を立ちかけたS主事を被告が呼び止めて「あ、Sさん、ポスターの印刷、Fプリント(印刷業者)に進めさせて」と声をかけたのです。S主事が「ああ、あれ、もういいんですか?」と聞きかえすと、被告は「うん、OKだから」と重ねてうなづきました。S主事は「はい、わかりました」と言って、事務室を出ました。この時の被告の様子はいかにも確信に満ちており、後でトラブルが起きると予想させる要素はありませんでした。
   ところが、原告が日・月の非出勤日を経て11日(火)に出勤してみると(
甲30号証参照)、ポスターが、写真家の綿引氏自身のOKを得ていない段階で刷られてしまったことがわかり、綿引氏が“これは色合いも、画像のトリミングも、自分が求める仕上がり具合と全然違うので絶対に作り直して欲しい”と要求していて、文学館が対応に苦慮している、という状況になっていたわけです。
   確かに、主担当としての責任から言えば、S主事も、ポスターを印刷に出す前に、綿引氏の意向を確かめておくべきでした。しかし、S主事にとっては、同じ道職員とはいっても被告の方が年長でしたから、分掌上はS主事が主担当・被告が副担当でも、事実上は、被告の判断を尊重していました。それに、美術館のベテラン学芸員という触れ込みで入って来た被告が自信たっぷりに〈ポスター印刷の件はもうOKだ〉と言えば、S主事がその言葉を疑う理由はなかったと言えます。少なくともその時点では、被告は絵画や写真の扱いに関してはプロなのだと、(原告を含め)職員全員が思っていたからです。
   このような当時の事情を勘案すれば、被告が、ポスター300枚の刷り直しに関して、その経緯の中で責任の一端を負うべき立場なのは明らかです。

 原告は、これまで、ポスター刷り直しの真偽自体を問題にしたことはありません。
 ただ、被告が原告の展覧会事業費について様々な圧力を加えて来たことの初発の動機の中には、このポスター刷り直しの費用の埋め合わせも入っていただろうと推測されたため、もっぱら、その点について主張してきました。そのため、刷り直しの経緯については特に詳述しませんでした。
 ところが被告は、被告「準備書面(2)」の時点では、それを「作り直し」ではなく「増刷」だと言いつくろおうとし、その点を反論されると、今度は、証人席において、この件の責任をS社会教育主事と平原学芸副館長に押しつけ、自分には何の過失も責任もないかのように言い逃れようとしました。
 これは、この尋問の場に参加・出席しておらず、それ故(ゆえ)その場で否定も抗弁もできない立場の人間(しかも被告にとっては職場の同僚)に対して責任転嫁を行い、しかも自分だけは免責されようと目論む、〈偽証〉の中でもきわめて悪質な行為であると言えます。

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