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北海道文学館のたくらみ(46)

この被告にしてこの弁護士あり―言語の権力主義的行使について―

○太田さん、「せめて裁判の性格だけでも、もう少し正確に認識して下さい。」
 私はこの連載の第42回(「『裏』話の数々」)の結びで、黒古一夫さんに、「せめて裁判の性格だけでも、もう少し正確に認識して下さい。」と書いた。
 黒古さんがこのブログを読んでくれたのは有り難いのだが、どうやら数回覘いてみただけで、しかも流し読みだったらしい。裁判について、とんでもない勘違いをしていたからである。そこで先のような願いを述べたわけだが、黒古さんが多忙なのはよく分かる。腰を据えてちゃんと読んでもらいたいと言うのは、これは無理な注文というものだろう。
  
 そう反省していたのだが、何と! 寺嶋弘道被告の弁護士・太田三夫氏に向かって、「せめて裁判の性格だけでも、もう少し正確に認識して下さい。」と言わなければならないことになってしまった!!
 10月31日の公判で、被告代理人太田三夫弁護士は原告の亀井志乃の本人尋問を行ったが、それまでの質問から話題を変えて、「
あなた、平原さんの陳述書に対して損害賠償を増やしましたよね。」などと言い出したからである。
 
○意味も意図も不明な質問
 今月の13日(木)、札幌地方裁判所の書記さんから亀井志乃に「10月31日の公判の速記録が出来ました」と電話をしてきた。そこで亀井志乃は17日(月)、裁判所へ出かけて「速記録」のコピーを取ってきたわけだが、先のような言葉が太田弁護士の口から飛び出してきた流れを、速記録より引用してみよう。
《引用》

太田弁護士:平成18年の10月末ころまでの間、あなたと平原さんとの関係についてお聞きしたいんですけど、あなたは、平成18年の10月末ころまでは平原さんのことは信頼されておりましたか。
亀井志乃:…信頼、すいません、それは、今回の本件とかかわりがあるんでしょうか。
太田弁護士:あります。
亀井志乃:答えなければなりませんでしょうか。
太田弁護士:あなた、平原さんの陳述書に対して損害賠償を増やしましたよね。
亀井志乃:はい。
太田弁護士:そういうこともあるから聞いているの。
亀井志乃:お答えをしたほうがよろしいでしょうか。
田口裁判官:答えられるものなら答えて下さい。
亀井志乃:…。
田口裁判官:ただ、何をもって信頼というのか、具体的に分からないなら、もうちょっと特定して質問をしてくださいというふうなことで。
亀井志乃:そうですね。
太田弁護士:じゃ、平成18年の10月末ころまで、平原さんに対して、あなたはいろいろ文学館のお仕事のことだとかで、メールなどで相談をしていたことはありますか。
亀井志乃:いえ、それはほとんどありませんが。
太田弁護士:メールでいろんなことを相談していたことは、全然ないですか。
亀井志乃:相談という意味が分かり兼ねますが、業務の打合せという意味ではございません
(注1
太田弁護士:ないですか。
亀井志乃:はい。
太田弁護士:そういうふうに聞いておきましょう
(原告尋問「速記録」28~29ページ。引用文中の「…」も原文のまま)
 
(注1)速記録では「業務の打合せという意味ではございません。」となっているが、発話の意図をより正確に伝えるには、「業務の打合せという意味では、ございません。」と表記すべきだろう。

 太田弁護士の、平原と亀井志乃との関係についての質問はこれだけである。このように引用してみても、一体何を彼は聞きたかったのか、やはり判然としない。
 そもそも太田弁護士の「平原さんの陳述書に対して損害賠償を増やした」という言葉は、「亀井志乃は平原の『陳述書』を新たな訴訟要件として、平原に対する損害賠償の請求額を増やした」という意味なのか、それとも「亀井志乃は平原の『陳述書』について、平原への損害賠償の増額を申し出た」という意味なのか、そのいずれかの意味にしか取れないのだが、そこがはっきりしないのである。
 太田弁護士の側に立って好意的に解釈するならば、〈亀井志乃は平成18年の10月末ころまで、仕事の件で平原一良に相談をし、世話になっていたにもかかわらず、「平原さんの陳述書に対して損害賠償を増やした」のは、恩義を忘れた行為ではないか〉。そういう印象を、彼は田口裁判長に与えたかったのだろう。
 だが亀井志乃は、平原一良の「陳述書」に関して「損害賠償(損害賠償額?)」を増やしたりはしていない。亀井志乃は平原一良を相手に損害賠償請求の裁判を起こしたわけではないからである。いわんや亀井志乃が、平原への損害賠償額を増やしましょうと申し出るなんてことは、これは金輪際あり得ないことだからである。

○亀井志乃のダメ押し
 では、実際はどうであったか。「北海道文学館のたくらみ(39)」で書いたように、被告の寺嶋弘道は自分の「準備書面(2)」の主張を裏づける証拠として「陳述書」を出したのだが、20数ヶ所の虚偽の陳述を行い、しかも亀井志乃の人格、能力、業務態度を中傷誹謗する言葉に満ちていた。また、寺嶋弘道は平原一良の「陳述書」も証拠として提出したが、これまた20数ヶ所に及ぶ虚偽の陳述を行い、しかも亀井志乃の人格、能力、業務態度に対する中傷誹謗を行った。亀井志乃はこれらを、裁判の過程で、寺嶋弘道によって行われた悪質なセカンド・ハラスメントと見なし、7月7日、裁判所に、寺嶋弘道に対する「訴え」の変更を申し立て、受理されたのである。
 
 そのような次第で、平原の「陳述書」は亀井志乃が「訴え」の変更を申し立てる要因の一つではあるが、「平原さんの陳述書に対して損害賠償を増やした」わけではない。もし太田弁護士が亀井志乃の「訴え」の変更を不当な、筋の通らない行為だと主張したいならば、平成18年10月ころまでの平原と亀井志乃との仕事上の関係がどうであったかを聞き出したところで、何の意味もない。平原の「陳述書」に批判・反論を加えた亀井志乃の「準備書面(Ⅱ)―3」を再反論し、平原「陳述書」の正しさを証明すれば、それで事足りたはずである。だが、太田弁護士は再反論をしなかった。率直に言えば、平原一良も太田弁護士も再反論できなかった。
 
 それをしないで、平原と亀井志乃との仕事の関係を持ち出すのは、見当外れもいいところじゃないか。私はそう思いながら見ていたが、田口裁判長は亀井志乃に対する尋問の結びで、「
あと1点だけ、訴えの変更の申立てされましたよね。……その理由については、申立書に書かれてるとおりということでよろしいですね。と質問し、亀井志乃は「はい」と答えた。
 続けて、亀井志乃は訴えを変更した理由を、「
で、私は、訴えの変更ということにつきましては、あそこの中に書かれてあることが、つまり準備書面の被告側の(2)と、それから、その証拠として上げられた陳述書の乙1号(寺嶋の「陳述書」)と乙12号(平原の「陳述書」)、そこに書かれたことが根拠がないことが1つ、それから、私に対する新たなハラスメントになっているという、人権侵害になっているということが1つ」と説明した。
 その上で彼女は、太田弁護士の質問が如何に無意味であるか、次のようにダメ押しをしておいたのである。「
先ほどの質問の絡みで言えば、それと、平原氏に関して私がその当時信頼感を持っていたかいないかとかということは全く関係がないことだというふうに私は認識しております」(原告尋問「速記録」34~35ページ)
 
○亀井志乃の対応方針
 太田弁護士の平原関連の質問は、こんなふうに空振りに終わってしまったわけだが、先の引用に関して、1、2点補足をしておくならば、亀井志乃の「
答えなければなりませんでしょうか」。「お答えをしたほうがよろしいでしょうか」という質問は太田弁護士に向けられたものではない。太田弁護士は突然話題を変え、しかも何のための質問か咄嗟には分からないような質問を矢継ぎ早に繰り出し、「はい」「いいえ」の二者択一の返事を要求して、考える余裕を与えず、相手を混乱させて、自分のペースに巻き込む。現在のラジカルな弁護理論から見れば、そのやり方自体が人権侵害に問われかねない、この強引、傲慢な尋問手法に対して、亀井志乃は相手が使っている言葉の意味を確かめたり、果たして答えるべき問いか否かを裁判長に確かめたりしながら、対応することにしたのである。
 平成18年8月の末、亀井志乃は平原一良にメールを出している。ただし、これは業務に関する相談ではなく、平原が怪我をしたことへの見舞いのメールだった(「北海道文学館のたくらみ(35)」)。太田弁護士はこのことに引っかけて、仕事のことで平原に相談していたと言わせ、あわよくば訴えの変更を取り下げさせるつもりだったのかもしれない。だが、亀井志乃は出来るだけ正確な返事を心がけ、「
相談という意味が分かり兼ねますが、業務の打合せという意味ではございません」。
 これでは、さしもの太田弁護士も、ポイントの稼ぎようがなかったのだろう。「
そういうふうに聞いておきましょう」。
 
 太田弁護士のこの台詞は、10月31日、公判が終わった夜、私たち家族の間で話題になった。「まあ、『覚えておけ、俺は忘れないからな』みたいな、捨て台詞として聞いておけばいいんじゃないか。ああいう弁護士のことだから、『平成18年10月末ころまでと言ったのは、原告が文学館で働くようになった平成16年半ばから18年10月末ころまで、という意味だ』なんて理屈を言い出さないともかぎらないけれど、裁判そのものが平成18年4月に寺嶋弘道が文学館に着任して以来の問題に限られている。裁判長は、そのへんのことはちゃんと承知しているよ」。

○太田弁護士の権力主義的尋問
 突然に話題を変え、しかも何のための質問か咄嗟には分からないような質問を矢継ぎ早に繰り出し、「はい」「いいえ」の二者択一の返事を要求して、考える余裕を与えず、相手を混乱させて、自分のペースに巻き込む。このような尋問手法を先ほどは、「そのやり方自体が人権侵害に問われかねない」手法と呼んでおいた。現在の言説研究の視点や、言語行為論的に見れば、これは特定の言説空間で発生しやすい、言語の力関係(power-relations)を利用して、自分のほうが会話の支配権を握っていることを見せつけようとする/実際に支配権を行使する、権力主義的な行為だからである。
 次の場面を見てみよう。
《引用》

太田弁護士:最後に1点だけ、あなたの書面見てますと、あなたの仕事に他人が容喙する、要するに口出しをする、口を挟むという言葉、あるいは干渉するということ、こういう言葉が出てくるんですけど、これはどういう意味ですか。
亀井志乃:くちばしを挟むですか。
太田弁護士:容喙と書いてますよね。容喙というのはくちばしを挟むという意味でしょう。
亀井志乃:はい、そうです。
太田弁護士:それだとか干渉する、これはどういう趣旨でおっしゃっているの。
亀井志乃:本来、そのような立場にない人間がそういうふうにくちばしを、要するに口を挟んでくるという、そういう意味で書いております。
太田弁護士:そういう立場にないというのは、だれのことを言っているんですか。
亀井志乃:被告です。
太田弁護士:あなたがやっている、例えば副担当の石川啄木展、あるいは「二組のデュオ展」、これはだれの事業ですか。
亀井志乃:事業の主体としては、財団法人北海道文学館です。
太田弁護士:財団法人文学館、いわゆる主体である企画展に、財団法人の人間なり、財団法人の運営にかかわる者が口出しをしては、なぜ悪いんですか。
亀井志乃:その運営にかかわっているというのは、どなたのことでしょうか。
太田弁護士:寺嶋さんでもいい、だれでもいいや。
亀井志乃:寺嶋主幹は、要するに被告のほうは、道からの文化スポーツ課として協力をするために来た、そして、そこのグループリーダーであります。だから、そういう意味で運営にかかわっているという言い方は不正確なのではないでしょうか。
太田弁護士:そんな議論するつもりはないんだわ。要するに、寺嶋さんがいろんなことをあなたにあれこれ言ったら、
なぜ悪いのかと聞いてる、端的に
亀井志乃:そのようなことは、ここで、いいか悪いかということについてお返事をしなければならないでしょうか。
太田弁護士:それはしなきゃならんでしょう。あなた、業務妨害だと言っているんだから。
田口裁判官:だから、そのような口を挟むような権利といいますか、そういう権限というか、そういう立場に寺嶋さんがあったのというふうに考えていたのか、そういう権限はなかったというふうに考えていたのかについてはいかがですか。
亀井志乃:なかったと考えておりました
(原告尋問「速記録」32~34ページ。太字は引用者)
 
 この引用文に関しては、まず、太田弁護士の「
寺嶋さんでもいい、だれでもいいや」「そんな議論するつもりはないんだわ。」という言い方に注目してもらいたい。
 一個の独立した人格に対して、こんな口の利き方が許されるとすれば、それはどんな場面であろうか。そのように想像してみれば分かるように、対等の人間同士でこんな口の利き方が許される場面はありえない。こんな口の利き方をするのは、相手に喧嘩を売っている時か、立場上の有利さを利用して相手をいたぶるか、そんな時だけだからである。もちろん法廷においても許されることではない。ところが太田弁護士は、法廷の尋問ならば許されると考えているのである。
 
 はじめに引用した場面においても、太田弁護士は俄に声を高めて、「
あなた、平原さんの陳述書に対して損害賠償を増やしましたよね」「そういうことがあるから聞いているの。」と、有無を言わせぬ調子で亀井志乃に返答を急かせていた。先ほどの「なぜ悪いのかと聞いてる、端的に」の「端的に」も、太田弁護士が自分の質問を「端的に」まとめて聞いたという意味ではなく、亀井志乃に向かって「(さあ、)端的に(答えて)」という意味だったのである。(他の場面でも彼は、「だから、だれなの。端的に質問に答えて」とやっていた)。
 
 そのことに注目してもらった上で、では、太田弁護士のこの尋問はどれだけ筋が通っていたか。その点に目を向けてみるならば、そもそも亀井志乃は、「
財団法人文学館、いわゆる主体である企画展に、財団法人の人間なり、財団法人の運営にかかわる者が口出しをして、なぜ悪いんですか」と質問されねばならないようなことは書いていなかった。法廷でも発言していなかった。――それにしても、「いわゆる主体である企画展」とは、何と奇妙奇天烈な言い方だろう!――そうである以上、亀井志乃にとっては、太田弁護士の質問は仮定の事柄に関する問いかけでしかない。これでは返事のしようがなく、そこで、「その運営にかかわっているというのは、どなたのことでしょうか」と聞き返したわけだが、それに対する太田弁護士の返事は「寺嶋さんでもいい、だれでもいいや」。
 もちろん弁護士の太田三夫は「寺嶋さん」を念頭に置いて質問したのだろうが、それにしても、「
だれでもいいや」とは、とうてい法廷における弁護士の言葉とは思えない。誰でもいいのなら、川崎業務課長やN主査でもいいし、S社会教育主事やA学芸員でもいい、あるいは理事や評議員でもいいことになるわけだが、そんな無限定な仮定の質問に、どんな答えがあるのだろうか。
 しかし亀井志乃は几帳面に、「
寺嶋主幹は、要するに被告のほうは、道からの文化スポーツ課として協力するために来た、そして、そこのグループリーダーであります。だから、そういう意味で運営にかかわっているという言い方は不正確なのではないでしょうか」と基本的な事実をおさえて答えようとした。ところが太田弁護士は、「そんな議論するつもりはないんだわ。
 ということは、つまり、太田弁護士は、わざと前提を曖昧にしたまま亀井志乃に返事を要求した。そのことを、自ら認めたことになるだろう。
 
 亀井志乃はそれでもまだ辛抱強く、「
そのようなことは、ここで、いいか悪いかということについてお返事をしなければならないでしょうか」と反問した。それに対して、太田弁護士は、「それはしなきゃならんでしょう。あなた、業務妨害だと言っているんだから
 だが、少なくとも10月31日の原告尋問の中で、それ以前に、「業務妨害」云々ということは一言も話題にならなかった。その意味で、「
あなた、業務妨害だと言っているんだから」という太田弁護士の言葉は、亀井志乃にとっては全く突然に言い出されたことであり、その場の文脈からすれば、不意打ちの言いがかりと言うしかない。
 このように、自分のほうは曖昧で不誠実な質問を恣意的に投げかけ、相手には反問を許さずに「端的な」答えのみを強要する。太田弁護士によって、言語の権力主義はそのように行使されたのである。
 
○「平成18年9月26日」に関する記述をめぐって
 私はこの速記録を読んで、この被告にしてこの弁護士あり、なるほど類は友を呼ぶということはあるんだなあと、妙なことに感心してしまった。亀井志乃の「準備書面」の次のような箇所を思い出したからである。
《引用》

8)平成18年9月26日(火曜日)
(a)被害の事実(甲32号証の1を参照のこと)
 原告は事務室における朝の打合せ会で、「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)と題した予定表を配布し、「人生を奏でる二組のデュオ」展の準備に関係する今後の出張予定とおおよその足取りを説明しようとした。すると、被告がそれを遮って、「あ、そのことについては、このあと打合せ会をやるから」と言ったため、朝の打合せ会の直後、原告と被告と川崎業務課長の3人で、事務室の来客ソファーの所で話し合った。(この日の朝の打合せ会は出席者が少なく、学芸班の原告とO司書と被告、及び業務課の川崎課長のみであった)。
 原告が「出張予定(亀井)」の説明を終えると、被告は「それじゃあ、あとで、自分の展覧会についてどのくらいの支出を考えているか、ちょっとさ、まとめて出して」と言った。原告は、念のために、あらかじめ「展覧会支出予定」(甲32号証の3)という文書を作って来ていたので、「それでは、今、一応そのことについて作ったものを手元に持っているので、コピーしてお渡ししますね」と言い、事務室内のコピー機の方に立っていった。
 すると、被告が突然、「それは、打合せの後でしょう!」と声を荒げた。原告はその意味が分からず、「どこと打合せした後なんですか?」と訊いた。被告は「相手側とどんな話になるか、決めてからでしょう!」と、更に語気を強めた。原告は、「じゃ、これはまだいいんですか?」と、コピーをやめようとした。ところが被告は、「よくないよ、いいんでしょう!」と怒鳴った。原告は、被告が一体何を言いたいのか、戸惑っていると、被告は「だから、相手先と打合せしてからって言ったら、行かなきゃならないでしょう! だから、今コピーしていいんだよ!」と、更に声を強めて、辻褄の合わないことを言った。
 その後、原告がコピーを渡すと、被告はやや落ち着きを取り戻し、原告が主担当の企画展について、「この展覧会には、予算はあまりついていないんだよね」、「他の展覧会との間で、金額を調整しないとならない」、「本州へ行く出張旅費なんて、全然考えられていなかったしね」と、原告の予算を削り、原告の出張を制限する意味の発言を続けた。これらの点については、川崎業務課長が「まあ、この範囲内(150万円以内)で収まるなら、これでいいでしょう」と言い、打合せは終了した
(亀井志乃「準備書面」17~18ページ)
 
 少しわかりにくいかもしれないので、念のために説明しておけば、「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)というのは、亀井志乃が企画展の資料調査のために廻ってきたい施設(鎌倉文学館、明治大学図書館)や、資料の所蔵者(2名)を挙げて、その旅費を見積った資料である。ただし、何月何日に行ってくるとは一言も書いていない。「
以下、ルートはあくまで一例です」とことわっていることから分かるように、一方では相手の都合を聞き、他方では文学館業務と日程を調整するために、暫定的に立ててみた、その意味での「出張予定」なのである。
 他方、「展覧会支出予定」(甲32号証の3)は、「展示資料借用料」「展示物搬出入に伴う経費」「出張費」「図録」などに必要となるだろう経費を概算してみた資料であり、当然のことながら、何月何日にどこに行き、誰と会うかなどのことは、一言半句書いていない。
 ところが寺嶋弘道は、亀井志乃の「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)に関する説明が終わり、「展覧会支出予定」(甲32号証の3)を配布し説明するために、まずコピーしようと立ったところ、「
それは、打合せの後でしょう」と声を荒げ、亀井志乃がじゃ、これはまだいいんですか」と、「展覧会支出予定」(甲32号証の3)のコピーをやめようとしたところ、「よくないよ、いいんでしょう」と、訳の分からないことを怒鳴り始めたのである。

 このことを念頭に置いて、次の太田弁護士の亀井志乃に対する尋問を読んでもらいたい。
《引用》

太田弁護士:あなたの3月5日付け準備書面の9月26日の欄を示します。17ページです。この9月26日の会話のときには、あなたは、寺嶋さんの言っている意味がよく理解できなかったということですよね。
亀井志乃:はい。
太田弁護士:それで、今訴訟になって、寺嶋さんのほうでいろんなことを言ってる、そういう寺嶋さんの側の言い分を前提にして9月26日の会話を読み返したときに、それでも、寺嶋さんが何を言っているか理解できませんか。
亀井志乃:はい。訴訟を…
太田弁護士:理解できるかどうかだけでいい。
亀井志乃:私の理解を尋ねられましても、理解できないような発言だったというふうにしかお答えできません。
太田弁護士:こういうことを寺嶋さんは言ったんではないの。どこかに行くという連絡を、その相手方と先に連絡を取っちゃって、その後寺嶋さんたちにここへ行きますよと言ったって、それはもう行くしかないでしょうと。それを我々としては、もう駄目だということは言えないんですよと。だから、事前に我々に話をしてくださいと、そういうことを言ったんではないの、9月26日。
亀井志乃:いいえ、そのようにはおっしゃいませんでした。
太田弁護士:そのように理解できませんか。
亀井志乃:理解できるも何も、そのような文脈でそのような言葉でおっしゃらなかったからです。
太田弁護士:でも、あなたの書いていること、文脈どおり読めたら、私はすぐそういうふうに理解したけど。
亀井志乃:ああ、どのようでしょうか。お教えいただけますか。
太田弁護士:それから、10月28日のことをちょっと聞きますね。寺嶋さんのほうから、サボタージュという言葉が出たことはありますか。
亀井志乃:先にはありません
(原告尋問「速記録」26~27ページ)
 
 太田弁護士はこのように、「それは、打合せの後でしょう!」、「相手側とどんな話になるか、決めてからでしょう!」「よくないよ、いいんでしょう!」「だから、相手先と打合せしてからって言ったら、行かなきゃならないでしょう! だから、今コピーしていいんだよ!」という、寺嶋弘道の支離滅裂な言葉を、「
どこかに行くという連絡を、その相手方と先に連絡を取っちゃって、その後寺嶋さんたちにここへ行きますよと言ったって、それはもう行くしかないでしょうと。それを我々としては、もう駄目だということは言えないんですよ」という意味に理解できると言い張り、それを亀井志乃に押しつけようとした。だが、もちろんそんな理解が成り立つはずがない。
 とりあえず、太田弁護士の「理解」それだけを取り出してみるとすれば、太田弁護士が言うような手順論も、理屈の上では一応あり得るだろう。だが、もしそれを言うならば、亀井志乃が「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)の説明をしている段階で言うべきであった。
 ところが寺嶋弘道は、亀井志乃の「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)に関する説明を納得し、自分のほうから「
それじゃあ、あとで、自分の展覧会についてどのくらいの支出を考えているか、ちょっとさ、まとめて出して」と要求して、亀井志乃がそれに応じようとした、その途端に、前後撞着、訳の分からない言いがかりをつけてきた。
 つまり、仮に寺嶋弘道の発話の意図が太田弁護士の理解どおりだったとしても、それを予算の支出問題で言い出すのは、これはもう寺嶋弘道が取り乱していた証拠にしかならないのである。

○太田弁護士のハッタリ
 それに、「
相手側とどんな話になるか、決めてからでしょう」という言葉は、太田弁護士が理解する手順論とはなじまない。むしろ矛盾する。なぜなら、この言葉は、「相手側の意向や都合を確かめて、訪ねる要件や日取りを決めてから、支出予定を立てるべきでしょう!」という意味に取ることができるからである。
 そして、もしその理解に立つならば、亀井志乃の「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)や「展覧会支出予定」(甲32号証の3)はまさにそういう手順を踏みながら――日取りを決めるまでは至らなかったが――作られていたのである。

 いずれにせよ、太田弁護士は自信満々で、「でも、あなたの書いていること、文脈どおり読めたら、私はすぐそういうふうに理解したけど」と自分の解釈を押しつけようとし、逆に亀井志乃から、「ああ、どのようでしょうか。お教えいただけますか」と聞き返されると、急に慌てて、亀井志乃の問いをはぐらかし、「それから、10月28日のことをちょっと聞きますね。と話題を変えてしまった。
 「速記録」には現れていないが、亀井志乃の記憶によると、太田弁護士は急に話題を変える直前、「いや、それをやると議論になるから……」と言っていた。「
そんな議論するつもりはないんだわ。」というわけであろう。
 もし平成18年9月26日における寺嶋弘道の発話の「文脈」にこだわるならば、彼の「
それは、打合せの後でしょう!における「打合せ」とは、この9月26日の打合せの意味なのか、それとも相手先との打合せの意味なのか、その確定から始めなければならない。だが多分、太田弁護士にはその点を亀井志乃と論じ合う自信がなかったのである。
 
 しかも、実際は、寺嶋弘道は「準備書面(2)」の中で、太田弁護士の「理解」を裏づけるようなことは一言も書いていなかった。
 この時点で、彼は、先ほど引用した亀井志乃の記述に関して、「
会話の文言やその意図するところは否認する。」(被告「準備書面(2)」7ページ)と書いてはいた。だが、亀井志乃から「展覧会支出予定」(甲32号証の3)の読み方の不正確と不誠実を指摘され、次のように反撃されてしまった。
《引用》
 
被告は「しかし、前項7の9月13日以降、この事案について業務課との間で協議がなされていなかったため、原告の計画した出張予定を展覧会事業費の総体の中で実現可能かについて検討したものである。」と言うが、それは後日の言い逃れで会って、この日の被告の発言はそのようなものではない。次から次へと原告に辻妻の合わないことを言い立てて、原告が戸惑っていると、あたかも原告が呑み込みの悪い人間であるかのごとくに怒鳴り立てた(原告「準備書面」)。これはとうてい話し合いによって合意を作り出そうと心掛ける人間に態度とは言えない。そもそも「展覧会事業費の総体」を狂わせてしまったのは、「石川啄木展」に介入してS社会教育主事と大幅な予算超過をしてしまった被告自身である。
 川崎業務課長が「まあ、この範囲内(150万円以内)で収まるなら、これでいいでしょう」と言ったのは、原告の「出張予定(亀井)」が当初予算(150万円強)の範囲に収まるだろうと見込まれたからにほかならない。それだけでなく、その場の雰囲気と発話のニュアンスから見て、川崎業務課長の言葉は明らかに、被告が自分の責任(「石川啄木展」の予算超過)を考えず、原告の予算にまで手を出そうとする越権行為をたしなめるものだった。被告は今に至るまで、そのことに思い当っていないらしい
(原告「準備書面(Ⅱ)―1」30ページ。太字は引用者)

 この指摘には、寺嶋弘道も太田弁護士も一言もなかったらしい。亀井志乃の記述を「否認」するならば、寺嶋弘道の記録と記憶に基づいて、当日の会話の流れを再現して、亀井志乃の記述に対置しなければならないはずだが、彼らにはそういう形での反論ができなかったのである。そこで彼らは亀井志乃の記述を前提として、――ということはつまり、当日の会話は亀井志乃が記述した通りであることを認めたことになるわけだが、――会話の文脈と語の理解を争う策戦に出たのであろう。
 その経緯から分かるように、寺嶋弘道は「準備書面(2)」で、太田弁護士の「理解」を裏づけるようなことは書いていなかった。要するに、「
今訴訟になって、寺嶋さんのほうでいろんなことを言ってる、そういう寺嶋さんの側の言い分」というのは、太田弁護士の嘘、ハッタリだったのである。

○太田弁護士の策戦ミス
 亀井志乃の文章の引用で、私が太字にした箇所は次のような意味を持っていたのだが、太田弁護士は一言の反論もできなかった。
 道立文学館に駐在する公務員の寺嶋弘道は、副担当の亀井志乃に無断で石川啄木展に介入した上、大幅な予算超過という失態まで仕出かして、財団の予算執行を狂わせてしまった。予算の調整は財団の業務課の仕事であるが、寺嶋弘道は財団の経理問題にも介入する形で、亀井志乃に「展覧会支出予定」の提出を求め、「
他の展覧会との間で、金額を調整しないとならない」、「本州へ行く出張旅費なんて、全然考えられていなかったしね」と、亀井志乃の予算を削り、亀井志乃の出張を制限する意味の発言を続けた。9月26日の場面では、川崎業務課長が「まあ、この範囲内(150万円以内)で収まるなら、これでいいでしょう」と取りなしてくれたが、結果的に亀井志乃は当初予算150万円の半額に支出を抑えねばならなかった(「北海道文学館のたくらみ(44)」の「亀井志乃の『陳述書』その2」参照)。
 これは北海道教育委員会の公務員が与えられた職務の範囲を超えて財団の運営に介入し、かつ財団の職員の業務に容喙して、その業務の遂行を妨げ、あるいは業務の規模の縮小を余儀なくさせた、業務妨害の違法行為である。

 太田弁護士は亀井志乃のこの主張にも反論できなかったわけだが、よほど悔しかったのであろう。そこで、10月31日の亀井志乃に対する尋問では「容喙とはどんな意味か」などと、変に謎めかした質問をし、「財団法人文学館、いわゆる主体である企画展に、財団法人の人間なり、財団法人の運営にかかわる者が口出しをしては、なぜ悪いんですか」などと、寺嶋弘道の身分、立場、職務範囲をことさら曖昧にぼかして、亀井志乃から「寺嶋弘道は財団の運営にかかわっていた」という言質を引き出す策戦に出たらしい。
 ところが、亀井志乃にその策戦を見抜かれた形で、「
運営にかかわっているという言い方は不正確なのではないでしょうか」と、痛いところを衝かれてしまった。
 こんなふうに策戦は失敗し、やけくそになって、つい「
そんな議論するつもりないんだわ」と口走ってしまったのだろう。

○この被告にしてこの弁護士あり。
 自分で話題を支配し、声を張り上げて自分の意見を押しつけ、相手の事情説明を聞こうともしない。先ほどの引用した尋問の中でも、太田弁護士は「
それで、今訴訟になって、寺嶋さんのほうでいろんなことを言ってる、そういう寺嶋さんの側の言い分を前提にして9月26日の会話を読み返したときに、それでも、寺嶋さんが何を言っているか理解できませんか。」と質問した。
 裁判では、証人席に座った人間は自分の書いたものや書証(証拠文書)を読みながら答えることを許されず、原則として自分の記憶だけで答えなければならない。そういう決まりが裁判にはあるらしい。その意味で、証人席の人間は尋問者に対して不利な立場にあるわけだが、太田弁護士はその点を利用して、存在もしない「寺嶋さんの言い分」をちらつかせながら、「
そういう寺嶋さんの側の言い分を前提にして9月26日の会話を読み返したときに」と、ハッタリの質問をしたのであろう。
 それに対して、亀井志乃のほうは、太田弁護士が「
今訴訟になって、寺嶋さんのほうでいろんなことを言ってる」という、その文書を見ることができない。その文書を読んだ上で、「9月26日の会話を読み返」すこともできない。そこで亀井志乃は、「はい。訴訟を……」と言いかけたが、太田弁護士は亀井志乃の言葉を遮って、「理解できるかどうかだけでいい
 これもまた、「
寺嶋さんでもいい、だれでもいいや」と同様、前提を曖昧にしたまま、あるいは前提となる文書を見せずに、返事を要求する手口と言えるだろう。
 こんなふうに、苛立った口調で短兵急に応対を迫り、形勢不利と見るや急に別な話題を持ち出す。
 これらの手口は、寺嶋弘道が亀井志乃に言いがかりをつけるやり方とそっくりそのままだったのである。
 
○救いがたい無知
 しかし太田弁護士としては、まだ自分の「理解」に未練があり、亀井志乃から急所を突かれそうになって慌てて話題を変えた悔しさもあったのだろう、寺嶋弘道に対する尋問でこんなやりとりをしていた。
《引用》

太田弁護士:それで、9月26日にいろいろと亀井さんとの間でやり取りがあって、亀井さんはあなたの言っていることが全く理解できないとおっしゃっているんですね。それで、こういう発言をあなたしたことがありますか。相手先と打合せしてからって言ったら、行かなきゃならないでしょうと、こういう発言がある。
寺嶋被告:はい、そのとおり発言したと思います。
太田弁護士:これはどういう趣旨で言ったんですか。
寺嶋被告:調査に行きたいんですけど、いつがいいんですかと言えば、もう相手に対して行くということを伝えてしまうことになりますので、その前に、内部の了解を得ておかなければならないという趣旨です。
太田弁護士:要は、相手方に先に言っちゃっている以上、行かざるを得ないでしょうという趣旨ですね。
寺嶋被告:そうです。相手に言ってしまったんなら、それを今更行けなくなりましたということにならないという意味です。
太田弁護士:逆に言えば、だからこそ事前に話をしてくれと、こういう話になるんですな。
寺嶋被告:はい、そのとおりです
 (被告調書「速記録」11~12ページ)

 下手な掛け合い漫才みたいに、それこそ「事前に」打ち合わせた台本通りに仲むつまじく頷き合っていたわけだが、太田弁護士の引用した寺嶋弘道の発話が、亀井志乃の「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)の時点の言葉なのか、それとも「展覧会支出予定」(甲32号証の3)の時点の言葉なのか、故意に無視してしまっている。
 そういう小ずるさが見え見えの掛け合いでしかない。だが、それはそれとして、太田弁護士はもちろん、寺嶋弘道までも、いかに二人が文学館の仕事に無知であったか、ものの見事にさらけ出してしまった。その意味でも注目に値する箇所と言えるだろう。
 
 文学館の業務は、前年度末には事務分掌が決まり、予算もついている。展覧会の主担当と副担当は既に職員の間では了解されている構想に従って準備に取りかかるわけだが、亀井志乃の場合で言えば、まず自分の構想を具体的に展示設計図の形で描いてみて、それを関係の方々や研究者に送って、アポイントを取って足を運んだり、手紙のやりとりをしたりしながら、今回の取り上げ方について理解を求め、展示の方法について意見を聞き、そのように信頼関係を作りつつ、資料の便宜を図ってもらう内諾を得ておく。そういう手順を踏み、ある程度見通しが立った段階で、例えば「出張予定(亀井)」(甲32号証の2)のような資料を配付、説明して、出張の理解を求めるのである。
 それが展示を担当する学芸員の基本的な心構えであって、もし太田弁護士や寺嶋弘道が言うように、まず展示の内容を決定し、出張先とその日程を決めた上で、「事前に」皆の了解を取ってから、出張の予算をつけてもらい、さてその後に相手先と連絡を取る。そういう手順を踏み、ところが、相手先から資料や作品の貸し出しを断られたり、日程が合わないからお目にかかることはできないと断られたりしたら、一体どうなるか。ニッチもサッチも行かなくなって、展覧会そのものがご破算になってしまうだろう。特に貴重な資料や作品は他の文学館からの借用申し込みが多く、数年前から手を打っておかなければ、貸してもらうことは出来ない。太田弁護士と寺嶋弘道が掛け合い漫才よろしく頷き合っていた手順論など、何のリアリティもないのである。

○自分の首を絞めるだけ
 その上、もし太田弁護士や寺嶋弘道の手順論が正しいならば、それを無視してしまった筆頭は寺嶋弘道自身であった。
 彼は、亀井志乃が副担当の石川啄木展に無断で介入し、S社会教育主事と日本近代文学館まで、2度も出張しているが、なぜこの2人の組み合わせで行くのか/行かねばならないのか、「事前に」亀井志乃たち職員に相談したわけではない。また、日本近代文学館へ行く日取りも、「事前に」打合せ会で予定を諮ったわけではない。文字通り無断で事を進めてしまったのである。
 彼は池沢夏樹展の主担当だったが、池沢夏樹関係のイベントをいつやるのか、何回行うか、職員に一度も相談したことはなかった。札幌の道立近代美術館や帯広の美術館と会場借用の交渉を開始するに先立っても、「事前に」職員と相談し、了解を取ることをしなかった。
 そんなわけで、太田弁護士や寺嶋弘道が彼らの手順論に固執すればするだけ、それは寺嶋弘道自身の首を絞める結果にしかならないのである。

○信じがたい無恥
 ところが、全く信じがたいことに、寺嶋弘道は本気で自分の手順論が通用すると思っていたし、現在も思っているらしい。寺嶋弘道は平成18年度、自分が主担当だった「栗田和久・写真コレクション」展を中止にしてしまった。そのことについて、彼は、田口裁判長から「
被告自身には何の落ち度というか責任というか、不手際はなかったんですか」と質問され、「栗田さんに作品を貸してほしいというお電話をしたのは私ですので、私が電話をしたところが、………御本人から、作品を貸し出すことはできないと言われましたので、それを平原副館長にお伝えして、対処をどうするかという相談を致しました。」(被告調書「速記録」24ページ)と答えている。
 この説明は、寺嶋弘道と平原一良が企画検討委員会で行った説明(「北海道文学館のたくらみ(5)」)と異なっており、要するに彼はその都度、自分の都合がいいように嘘を吐き続けているとしか考えられないのだが、ただ一点、これは極めて高い確率で推測できることがある。それは、この寺嶋弘道という学芸員は自分が主担当の栗田和久氏に早くから接触を取り、展示のコンセプトなどの打合せをすることもなく、電話一本で貴重なコレクションを貸して貰えると、そのように展覧会事業を見くびっていたことである。それは展覧会のテーマとなった作者や作品を見くびっていたことにほかならない。
 栗田コレクション展は年度の当初から決まっており、文学館の公式ホームページにも、文学館発行のパンフレットにも載せてある。それをキャンセルするとは、始末書どころではない、進退伺いものの大失態であるが、寺嶋弘道の学習能力は一体どうなっているのか。太田弁護士の誘導尋問に乗って、ホイホイと「
はい、そのとおり発言したと思います」などと相づちを打っていた。
 
 しかも寺嶋弘道は、「
このポスターの作り直しとか、企画の中止、こういったことに対しては、被告自身はどのように対処されたんですか」という田口裁判長の質問には、「それを判断するのは財団の方で、その展覧会を実施する、しない、あるいはポスターの作り直しを財団で決めなければならないことですので、意見を求められれば私は言ったかもしれませんが、決めたのは財団で決めたことです。」(同前)と答えていた。つまり、自分が負うべき責任を、全て財団に押しつけてしまう。
 そんなわけで、田口裁判長の「
そういった中止とかポスターの作り直しとかで、予算とか時間とか、何らかのマイナスになったことはあったんですか」という質問には、「…ポスターの作り直しに追加費用が発生したのではないかと思いますが、それ以外は………格別マイナスなところはなかったと思います」(同前)
 ここでは煩雑になるので引用しなかったが、ポスターの作り直しは、寺嶋弘道によれば、S社会教育主事が作成に失敗し、平原「副館長」が作り直しを決めたのだそうである(彼は、平原が「学芸副館長」だった時のことも、「副館長」と呼んでいた)。
 それ以外のマイナスとしては、栗田和久さんとの信頼関係の崩壊、栗田コレクション展の準備のために支出した予算の無駄、栗田コレクション展を期待していた市民に対する裏切り、道立文学館の信用失墜など、いくつも考えられるのであるが、寺嶋弘道によれば、「
格別マイナスなところはなかったと思います
 
 それにしても、自分が失敗をしてしまったのに、「
意見を求められれば私は言ったかもしれませんが」と、あたかも他人事みたいな言い方をしている。この人物の頭の中で、責任という観念はどうなっているのだろうか。
 
○「速記録」の特徴
 なお、「速記録」を読んでいて、面白いことに気がついた。
 太田弁護士が亀井志乃に「はい」か「いいえ」で答えてくださいと執拗に要求したことや、彼が急に話題を変える時、「いや、それをやると議論になるから……」と呟いたことは、残念ながら「速記録に」反映されていなかった。
 また、亀井志乃の寺嶋弘道に対する質問が法律上最も重要なポイントに差しかかり、寺嶋弘道が答えに窮して、しどろもどろになった時、太田弁護士が急に口を挟んで、自分の都合を言い、裁判長に「時間通り」に終わるよう求めて、亀井志乃の質問に水を差した。このことも、残念ながら反映されていなかった。太田弁護士のあの介入のおかげで、亀井志乃は質問のリズムを崩されてしまったのである。
 だが、その反面、太田弁護士の言葉づかいがかなりヴィヴィッドに再現されており、寺嶋弘道が「目くばせ」とトチッたところを「目配り」と直しておくなど、細かく神経を行き届かせていた。
 
 ただし私が「面白い」と言ったのは、それらについてではない。面白かったのは、……(リーダー)という記号の使い方である。
  私たちはしばしば、沈黙を現すために、……を使う。裁判所の速記者もそうしているのだが、ちょっと返事に間があいた程度の時は「…」と短い。だいぶ沈黙が続いた時は「………」と3字分の長さで表記している。
 私はそれに従って引用していたわけだが、太田弁護士から「
その同じ日(平成18年10月28日)の会話の中で、私がこの学芸班を管理しているんだと、そうした決まりを守らないなら組織の中でやってはいけないよと、こういう話を(原告の亀井志乃)にしたことありますか」と質問されて、寺嶋弘道は「管理という言葉を使ったかどうかははっきり覚えていませんが、………………組織の中で、…やっていけないよという発言をしたと思います」と答えた(被告尋問「速記録」15ページ)。
 ……が6字分も続いたわけだが、実際この時の寺嶋弘道は完全にフリーズ状態に陥り、裁判長も「どうしました?」という表情を浮かべたほど、黙り込んでいたのである。
 
 できれば、その点を踏まえて、もう一度「速記録」からの引用を読み直してもらいたい。

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北海道文学館のたくらみ(45)

亀井志乃「陳述書」その3

【○10月31日の裁判
昨日(10月31日)、原告と被告の本人尋問があった。このことを踏まえて、原告・被告の双方が12月12日までに、「最終準備書面」を出し、12月19日に結審となる。結審は双方の「最終準備書面」の主張を確認して審理そのものを終わりとすることであり、判決ではない。判決は来年となるだろう。
 何人かの人が傍聴に来て下さっていた。
 
 昨日、太田弁護士の尋問を見ていて、なるほど弁護士という稼業はこういう世知辛いやり方でお足を稼ぐものなのかと、いたく感銘した。
 亀井志乃の本人尋問は、田口裁判長にお願いした。亀井志乃は場馴れしないためか、考え考え、訥々と返事をしている。準備していたことの5分の1も話すことができないうちに、予定の時間が経ってしまい、見ていて歯がゆかった。田口裁判長も、「もっと言うべきことがあるでしょう」といった表情をしていたが、もちろん裁判長は中立の立場だから、原告に何を答えるべきか示唆するようなことは言わない。そういう制約の内で、必要なことをきちんと質問してくれている。私は感謝しながら見ていた。
 亀井志乃自身にも不本意な点の多い応答だったようだが、しかし本人尋問は、これまで「準備書面」や「準備書面(Ⅱ)1,2、3」で述べてきたことが事実であるか否かを確認することが目的であり、その間新しい事実が出てきたらそれも勘案して、判決の資料とする。だから、亀井志乃が考え考え、訥々と話して、もたついている印象を与えたとしても、一向に差し支えない。真実を述べ、嘘を吐かなければいいのである。

○太田弁護士のパフォーマンス
 それに対して、太田弁護士はテレビドラマに描かれる「切れる弁護士」がそのまま登場したみたいに、ジェスチャーたっぷりのパフォーマンスで、矢継ぎ早に質問を繰り出して、イエスかノーで答えさせる。
 例えば亀井志乃は「訴状」で、
原告は、事が、自分の雇用や勤務の在り方にまで発展しかねないと思ったので、机の中に入れていた録音機を取り出し、『話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい』と言った。すると被告は、今度は話を続けることなく、急に『あんたひどいね、ひどい』、『あんた、普通じゃない』と、あたかも申立人が普通でない(アブノーマル)人間であるかのような、誹謗中傷の言葉を言い始めた。」と書いた。おそらく太田弁護士はそこのところを念頭に置いてだろう、それまでの質問から急に話題を変え、いわば不意打ちを狙った形で、亀井志乃に、「被告は原告に対して『アブノーマル』と言いましたか」と聞く。先の引用で分かるように、亀井志乃が自分の文章(地の文)の中で「アブノーマル」という言葉を使っただけで、寺嶋弘道がそういう言葉を使ったとは書いていない。そのため彼女は、太田弁護士が急にその問題を持ち出した文脈をつかみ、自分が書いた文章の文脈を説明するため、ほんのちょっと返答に間を置かざるをえなかったが、太田弁護士はすかさず「私は、被告が『アブノーマル』という言葉を使ったかどうかを聞いているのです。『はい』か『いいえ』で答えて下さい」と畳みかける。
 もちろん寺嶋弘道の言い方は「あんた、普通じゃない」であり、亀井志乃がそれを「あたかも原告が普通でない(アブノーマル)人間であるかのように」と説明したわけだから、太田弁護士の質問に「はい」「いいえ」で答えるとすれば、「いいえ」と答えるしかない。すると太田弁護士は、さあ1点勝ち取ったぞと言わんばかりの得意そうな表情で、「では、被告は原告に『アブノーマル』とは言わなかったのですね」と念を押し、次の質問に移って行く。要するに太田弁護士としては、裁判長や傍聴人に、〈亀井志乃は、寺嶋弘道が亀井志乃のことを『アブノーマル』と呼んで、侮辱したと書いているが、実はそんなことはなかった。亀井志乃が嘘を書いて寺嶋弘道を貶めようとしたのだ〉という印象を与えたかったのであろう。

○亀井志乃の対応
 私は「へ~え、北海道にはまだこんな大時代的な、芝居がかった弁護士がいるんだ」と呆れながら見ていたが、亀井志乃は「しまった、相手の弁護士に言質を取られた」と思っている様子でもない。それはそうだろう。田口裁判長は既に「訴状」の該当箇所を読んでおり、亀井志乃が録音機を取り出さざるをえなかった理由や、「アブノーマル」を寺嶋弘道の発話として引用したわけではないことを承知している。もし自分の記憶が曖昧だと思ったら、該当箇所を読み直すだろうし、たちまち太田弁護士の小汚い言葉のすり替えを見抜いてしまうはずである。
 
 そんなわけで、亀井志乃は、「ここに落とし穴がありそうだな」と直感した時は、「そういう短絡的な質問には『はい』『いいえ』で答えるのはむずかしいのですが」と言い、裁判長に「答えなければいけませんか?」と訊いてから、その指示を待って答えることにした。太田弁護士はかなりやりにくかっただろう。
 特におかしかったのは、太田弁護士が「原告は自分が主担当の企画展の予算は〈勝手に〉使っていいと考えていたのじゃないか」と言う意味の質問をした時のことである。亀井志乃が裁判長に「質問の中に〈勝手に〉という言葉がありますけれど、そういう言葉を使った質問にも答えなければいけませんか?」と訊いた。太田弁護士の尋問の前、田口裁判長の尋問の時、亀井志乃は予算執行について質問を受け、「各展覧会の予算は前年度の末に決まっており、その枠を超えない範囲であれば、主担当と副担当に予算の執行は任されていた」という意味の返事をしたばかりだった。太田弁護士はそれを〈勝手に〉と言い換え、亀井志乃に「はい」と返事をさせたかったらしいのだが、大上段に振りかぶったところを軽く躱されたみたいで、何とも気の毒だった。

○さて、亀井志乃「陳述書」その3に移ろう
 他方、寺嶋弘道被告の尋問は、まず太田弁護士の質問から始まったが、これが露骨な誘導尋問で、しかも段々その度合いがひどくなってゆく。多分、事前に打ち合わせしていたのだろう。寺嶋被告から引き出そうとする言葉は、亀井志乃が挙げた「事実」に対する反証ではなくて、あの時はどういう気持ちでそう言ったのか、どんなつもりだったのかなど、要するに言い訳ばかり。「ひどいわね」と妻が囁く。「いんだよあれで、どうせ次の反対尋問でボロを出してしまうんだから」。

 しかし、反対尋問を待つまでもなく。寺嶋弘道被告が嘘を言い始めた。そのため田口裁判長の尋問にはしどろ、もどろ。声も急にトーンダウンしてしまった。亀井志乃の質問については、質問の意味がつかめないらしく、返事が堂々巡りをし、自分の言うことが矛盾していることに気がつかない。宣誓しての嘘、間違いだから、これは偽証罪ものだな。
 私はそんなふうに聞いていたのだが、ただし、それらのことは亀井志乃と裁判記録を検討し、その上で亀井志乃が「最終準備書面」で具体的に指摘することになるだろう。

 そのことを予告して、さて、亀井志乃「陳述書」その3の紹介に移りたい。2008年11月1日】

《引用》
Ⅴ章 寺嶋学芸主幹について
1.期待と失望
 私は、平成18年度の3月に、道立近代美術館から学芸員が着任するという話を聞いて以来、ある意味で、館の誰よりもそのことを楽しみにしていました。その理由は、既に述べたように、私の研究テーマは、文学(史)と美術(史)との関係を明らかにすることにあったからです。専門的な知識の交換を通して、文学館の様々な事業にも新たな可能性が拓けるのではないかと思い、クリエイティブな対話を期待していました。財団の職員と駐在道職員とが〈協働・連携〉の実績を挙げるためにも、当然、そうあるべきだったでしょう。

 ところがその期待は、早々に、驚きと失望に変わりました。寺嶋学芸主幹が平成18年4月4日(火)に着任してからわずか4日目の4月7日(金)、私が「近々道立近代美術館へ行って、木田金次郎の作品を見せてもらい、学芸員の話を聞かせてもらいたいと思っているところです」と予定を話したところ、主幹は突然、「いきなり訪ねていったって、美術館の学芸員は忙しいんだ。ただ話をだらだらしたって、相手になってくれる人間はいないよ。そんな時間はないんだ」と高飛車に決めつけてきました。あたかも、私が相手側の都合も考えずに自分の一人合点で行動してしまう人間だと、一方的に決めてかかっている口調でした。 
 この日の経緯について、寺嶋学芸主幹は被告「準備書面(2)」で、
自分は)むしろ調査が適切に遂行されるように指導する立場であった。」「当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告(寺嶋学芸主幹)は着任したのである(2ページ)と主張しています。それが根拠のない主張であることは、私の方の「準備書面(Ⅱ)-1」で明らかにしておきました。
 ただ、その時言及しなかったことを1つ挙げるならば、寺嶋学芸主幹は、ついに最後まで、「では、自分からもK学芸員に連絡を取って、出来るだけ便宜を図ってもらうようにしましょう」とか、「道立近代美術館のシステムはこうだから、こういう形でお願いしてみるほうがいいと思います」とか、そういう協力的な言葉を口にすることはありませんでした。常識的に考えれば、これらの言葉は、新たに協働して仕事をすることになった同僚から、自分の前の勤務先について訊かれた時、ごく当たり前に出てくる言葉だと思います。しかし、私は寺嶋学芸主幹からそういう言葉を、ついに一度も聞くことはありませんでした。
 
 これは4月7日の時だけに限りません。寺島学芸主幹は着任して3ヶ月経ち、半年経ち、そして1年が終わろうとする時まで、私に対しては、学芸業務に関して協働・連携の関係を構築しようとする姿勢を示すことは一度もなく、もっぱら業務課関係のことに介入して高圧的に自分の言い分を押しつけようとするだけでした。ちなみに、もう1人の財団直属の学芸職員である岡本司書に対しても、少なくとも客観的に見た範囲では、何らかの形で協働・連携しようとした様子はなく、また業務上で協力した事実もありませんでした。

2.意識の違い ―ケータイ・フォトコンテスト問題の場合―
 私は平成18年5月2日(火)、館長室で、寺嶋学芸主幹が着想したケータイ・フォトコンテストに関して、主幹と平原学芸副館長と3人で話し合いました。どのような話し合いであったかは、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(以下「駐在道職員の高圧的な態度について」と略)(
甲17号証)で述べておきましたので、その詳細は省略します。ただ、ここでは、その際触れなかったことについて言及しておきたいと思います。
 それは、私から見ると、寺嶋学芸主幹には、〈文学碑データベース〉が実はどのような内容のものであるかについて、当初から正確に知ろうとせず、また、そうした自分の姿勢について、まったく自覚しなかったように見受けられることです。
 
 私は、道立文学館開館10周年記念行事(平成17年11月開催)の一環として「データベース 北海道の文学碑」(
甲68号証)の作成を担当しました。
 このデータベースは、北海道立文学館にとって、初の来館者向けデジタル検索コンテンツでした。常設展を見に来て下さるご来館者に、展示を見ながら、すぐに関連の文学碑についても知ることができるような、便利な機能を提供したい。しかも、検索することによって、さらに作者や作品の舞台等についても理解が深まるような、充実した内容の検索機にしたい。――このようなコンセプトのもとに、準備は開始されました。また、現行では検索機は単体で、どこにもリンクしていませんが、当時は、将来的にはデータをネットにつなぎ、館のどこからでも、また、館外部のパソコンからでも利用できるようにしたいという長期構想も計画されていました。この原案そのものは当時の平原学芸副館長から出たものであり、学芸課職員も業務課職員も、基本的には、長期構想も含めてこの計画に賛同し、協力してくれていました。ですから私自身も、非常に取り組み甲斐のあるプロジェクトだと思い、楽しんで仕事に取り組んでいましたし、検索ソフト作成を担当する業者の方とお会いした時も、機能の作り込み方によってはどのような可能性が広がるか、意見交換しては様々に夢を描いていたのです。

 ただ、データ公開に必要な情報を収集するうちに、一つ、難しい問題に直面することになりました。それは、各自治体に問い合わせてみても、碑のありかや建立のいきさつはある程度知ってはいても、碑の〈写真〉や〈画像〉のようなビジュアル資料をとり揃えている市町村は、意外に少ないということでした。
 事情を知れば、それも無理もありません。一般には、〈文学碑〉というと、すぐに函館・青柳公園の石川啄木碑や、札幌・大通公園の有島武郎碑などが連想されると思われますが、そういうわかりやすい場所に建っているのは、たいていは、ごく一握りのポピュラーな文学者の碑だけ、と言っても過言ではありません。
 むしろ、圧倒的に多いのは、それほど一般的に知られているとは言えない小説家や歌人・俳人の碑です。建立場所も、作品の舞台になった場所や、作家自身のお気に入りの景色が見える場所、もしくは、作家の生家跡(庭の中など)等が多い。勢い、そうした場所は、景色はいいが人はあまり行かない所――山の頂きや展望台、吊り橋のたもと、静かな湖のほとり、そして離島など――ということになりがちです。その他、出身地の寺社の境内等も多いのですが、そうした場所自体、アクセスが不便という場合が少なくありません。生家に建てられた碑はどうかというと、現在、土地家屋が第三者の所有になっている場合もあって、こちらも、いざ現物を確認するとなると、色々問題が生じそうです。
 こうした諸事情のため、文学碑の画像を地元がすべて収集・管理していることなど期待すべくもないし、また、仮に実際に担当者として自分が撮影にゆくことになったとしても、全データを採取するためには、のべ数ヶ月
(もしかすると数年)をかけて、出張を繰り返しながら撮影に当たらなければならないでしょう。私自身、すでに札幌の中心部や、普通に地下鉄・バスでゆける範囲の文学碑はほとんど(札幌・旭山記念公園にある文学碑を撮りに行った際には、標高137.5mの展望台を目指して、ちょっとした山登りまでして)撮影しましたので、これ以上遠い場所だと大変だということは、心から痛感しました。また、文学碑を紹介した本というものもないわけではありませんが、大抵は昭和期の出版で情報が古い上、今は著作権の関係上、安易に写真を流用するわけにもいきません。そうした実態を、私は、つぶさに知ることとなったのです。
 
 しかし、観点を変えれば、〈文学碑〉のデータベースなのですから、まずは碑の文面が正確にわかりさえすれば、少なくとも、確実に、その文学者の作品の一端には触れることになります。そこが、“現物の姿がわからなければ始まらない”動物・植物など自然科学系の検索機と違うところです(ちなみに、検索ソフト担当の業者は、これまで各地の博物館のデータ検索機をいくつも手がけてきた方でしたが、その方も、そう言って私を励ましてくれました)。また、作品と作者の関係、碑と建立者の関係など、調べてゆけば、それぞれドラマチックであることがわかります。また、700件以上のデータがありますから、地方ごと、町ごとの文学碑一覧を出して見るだけでも、意外な作家が訪れていることがわかるなど、興味深い発見があります。
(むろん、建立場所やアクセス方法が正確にわかることは大前提です。)
 そのように、提供する情報と検索機能の関連性と、そこから見えてくる多様な検索パターンを考えると、碑の写真の問題は、最終的にはすべて揃うのが理想だとしても、それほど焦ることはないと、私は思うようになりました。常設展リニューアルはひとまず済んだとしても、データベースの構想自体は長期的なもののはずです。ならば、後は、少しじっくりと時間をかけて、信頼性の高いデータ
(写真画像を含む)を集めてゆくことにしよう。私は、そのように考えていたのです。

 ですから、あの5月2日の時も、発言のチャンスをもらえさえすれば、私は、そうした〈文学碑〉の状況や〈文学碑データ〉の特色について説明したはずでした。またその上で、ただ単に〈文学碑のケータイ・フォト・コンテスト〉といっても、集まるのは圧倒的に、観光地近くにある有名な文学碑ばかりになる可能性が高いことや、だからといって“珍しい碑の写真がほしい”と文学館側が勝手に条件をつけ、人をわざわざ交通が不便な場所や、余り知られていない場所に駆り立てるわけにはいかないだろうということも、ちゃんと説明しようと心づもりをしていました(甲14号参照)。
 ところが、まだ私が本題にふれるとば口にも立たないうちに、寺嶋学芸主幹から浴びせられたのは、「そういう立場って、いったいどういう事だ。最後までちゃんと言ってみなさい!」という高飛車な罵声でした。
 そもそも、“文学碑のデータベースで画像がないものについては、文学碑のケータイ・フォトコンテストをやって集めればよい”というアイデアを思いついたのは寺嶋主幹自身でした。それに、寺嶋主幹は館に来たばかりで、文学碑データベースが実はどういうテーマを持ったコンテンツなのか、まだほとんど知らなかったはずです。ならば、データベースの担当者(亀井)にまずは詳しく内容を聞き、その上で自分が起案して、学芸関係の職員に企画の中身について図ってみるべきだったでしょう。どだい、『ガイド 北海道の文学』末尾の表(
甲68号証)をざっと見ても747件の文学碑データがあり、一方で、碑の画像は、全道の市町村の協力を仰いでさえもまだ76件分(平成18年3月時点)だという現実を知れば、収集を徒らに急ぐより、まずは方策そのものを練ることが先決だと、普通は判断するところでしょう。ところが、主幹は何を焦ったのか、状況を正確に把握しようともせず、むりやり〈文学碑データベース〉と〈普及事業(寺嶋弘道「陳述書」4ページ)という概念を結びつけて、怒鳴りつけてでも私にそれをやらせようとしたわけです。
 そればかりか、10月28日の時には、いきなり「文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの?もう、雪降っちゃうよ」と言い出して、私が反論しなければ、本当に、初冬の季節にカメラ1台を持たせて私を写真撮りに館の外へ出しかねない勢いで咎め立てました。しかし、それではあの時寺嶋主幹は、これから撮影しなければならない文学碑は、札幌市周辺だけでもいったいどれだけあるか、それはここからどれだけ遠く、時間や交通費はどれだけかかるのか、多少なりとも考えた上で言っていたのでしょうか。

 付言すれば、寺嶋主幹の言う〈普及事業〉も、その意味するところは何かと突き詰めようとすると、非常に曖昧な概念だと言わざるを得ません。
 主幹は今般「陳述書」を書く時点においても、まだ
「原告は……『文学碑データベース』の写真公募のようなイベント性を伴う普及事業経験もありませんでした(4ページ 下線は引用者)という言い方をしていました。では主幹は、そもそも、その〈文学碑データベース〉は誰が、どのような過程を経て作成したと思っているのだろうか。これは、そう反問したくなるほどの無神経な一文ですが、あきれるのは、それだけではありません。「文学碑データベース」は情報提供サービスであって「写真公募のようなイベント性を伴う普及事業」とは性質が異なることを、寺嶋学芸主幹が、いまだに理解していないらしいということです。
 寺嶋学芸主幹が言う〈普及事業〉は、正しくは〈教育普及事業〉のことだと思いますが、現行の〈教育普及事業〉とは、文学館においては、〈文芸セミナー〉や〈ウィークエンドカレッジ〉等の市民講座、或いは青少年対象の〈文学道場〉、親子参加型の〈わくわく子どもランド〉や〈ファミリー文学館〉(展覧会)などを指します。対象年齢は、壮年期以上と、幼児~青少年までとに大別されますが、いずれも基本的には、事業を応援してくれる文学者または館の職員が、講座やイベントを通じて来館者と交流しつつ、人々の文学に対する関心を拡げ、深めてもらおうとする取り組みです。〈生涯学習〉が、その活動の根幹をなすキーワードです。
 そのコンセプトに照らして見れば、要するに“文学碑の写真を撮って応募してください、いい写真には賞品をあげます”というだけのフォトコンテストは、〈教育普及事業〉には当たりません。また、単に〈普及事業〉だとして、それが本当の意味で道民の文学に対する関心を啓発する〈普及〉イベントになるかどうか、その点も疑問です。
 それに、主幹は〈イベント性〉を重視しているようですが、もし、本当に応募者が楽しくイベントに参加することが大切だと考えるなら、旅先などでみんな仲良く文学碑と一緒に写り込んでいる写真についても、当然許容しなければならないことになります。しかし、そうした写真を、将来にわたって、コンテストの事も何も知らない第三者が〈文学資料〉として参照し続けるデータベースの画像として用いることが果たして妥当かどうか、主幹は、一度でも考えたことがあるのでしょうか。端的に言えば、〈普及〉が大事か、〈資料収集〉が大事か。そして、それをいっぺんに実現するというイベントに、矛盾はないのでしょうか。
 しかし、残念ながら、寺嶋主幹が発想する〈普及事業〉は、自分自身に対するそうした問いかけのない地点にとどまっているようです。

3.意識の違い ―同僚の能力への無関心―
 こうして様々なシーンを思い返してみても、改めて思うのは、寺嶋学芸主幹は、道立文学館に異動して来て以来、研究員である私に対して「亀井さんは、もともと何が専門分野ですか」「これまで、主にどんな仕事をしてきたのですか」といった類の質問は一切したことがなかった、ということです。
 また、およそ私が知る限りでは、他の職員たちに対しても、上記のような事柄――その人の専門や得意分野、関心の広がりや趣味・特技など――について関心を持って話しかけたり、質問したりしているのを耳にしたこともありません。

 寺嶋学芸主幹のこの無関心ぶりは、その「陳述書」(乙1号証)によってもよく知ることができます。というのは、寺嶋学芸主幹が「陳述書」の中で言及している私の業務は、実は私が「訴状」と「準備書面」に書いた業務だけであって、それ以外の私の業務には何の関心も示していないからです。
 例えば、寺嶋学芸主幹は「陳述書」の2ページ目で、「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在)が、実際には4月13日に学芸関係職員全員の合意によって決まったのだ、と言いつくろうために、
毛利館長の訓辞に先立つ4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団職員2名」と、私の非出勤日に、私が文学館に出ていたかのように書いてしまっていました。主幹は、「準備書面(2)」の「『(3)平成18年5月10日(水曜日)』について」の項では、この日の翌日が原告(亀井)の勤務日ではない(原告の勤務日は火曜日、水曜日、金曜日、土曜日とされていた)ことから4ページ)と、私の早退の件に絡んで退勤時間を超えて足止めをした理由を説明しておきながら、「陳述書」の方で上記のように私の非出勤日をまったく無視する書き方をしてしまったために、折角のごまかしを、自分自身で台無しにしてしまったのです。これは、本当はいかに私の業務について無関心であったかということの、明らかな証拠と言えるでしょう。
 また、寺嶋学芸主幹は、
確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え乙1号証「陳述書」3ページ)とか「『文学館の仕事にも実績を持っている』と記していますが、それは文学館業務の一部分である整理研究業務についてのみ言えることで…(中略)…したがって渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり(同上 4~5ページ)などと、根拠のないことを縷々述べ立てていましたが、結果的には、その事によって、平成18年3月25日に発行された(そして、異動してきた寺嶋学芸主幹にも1部配られていたはずの)『2006 資料情報と研究』や、「二組のデュオ」展の図録、そして全職員に回覧された展覧会の事業報告書に至るまで、ろくに目も通さなかったという事実を露わにしてしまいました。
 あるいは、寺嶋主幹は、この指摘に対して「いや、目は通していた」と反論するかも知れません。しかしそうなると、上記の記述は、私の業績に対する完全に意図的なネグレクトだったということになり、さらに悪質な侮辱行為を犯していたことになってしまいます。
 
 私の業務に対する無関心。そして、その無関心と底通しているかのような、私のこれまでの実績に対する無視と否定。〈未経験〉〈独りよがり〉〈被害妄想〉と執拗に決めつけ続ける侮辱的な言い回しは、「準備書面(Ⅱ)―2」末尾の「Ⅱ、被告の『陳述書』において新たに行われた原告に対する人格権の侵害の指摘」に挙げておきましたので、ここでは繰り返しません。それにしても、よくここまで人の人格を攻撃する言葉が次々と出てくるものだと、正直、唖然とせざるを得ません。
 その根底にあるのは、自分を裁断者の高みに置いて、相手は何も知らない奴だ、何もできない奴だと決めつける、権力者意識だと言えるでしょう。寺嶋主幹は「準備書面(2)」において、私が「準備書面」で挙げたパワー・ハラスメントの事実に関しては何一つ具体的な証拠に基づいた反論が出来なかったにもかかわらず、ただ自分を「上司」の高みに置いて、“亀井を指導してやったのだ”と、声高な主張を繰り返すだけでした。
 
 ここで念のために、平成18年度における寺嶋学芸主幹の立場を確認しておきたいと思います。
 すでに述べたように、平成18年度の新体制発足時には、学芸部門でまったくの新来者なのは、実は、寺嶋学芸主幹ただ1人でした。
 本当は、組織上は同格の業務課長、例えば平成17年度のM課長だけでも、ここ数年の館の様子を把握している人が1人残っていてくれれば、職員一同としても非常に心強かったはずなのですが、(財団の言い分によると)北海道教育委員会はそういう措置をしませんでした。その代わりに、寺嶋主幹と同じ駐在職員となるメンバーとして、2年目のS社会教育主事と2年半目のA学芸員が残ることになりました。財団・道のどちらが言い出した措置かはわかりませんが、いずれにせよ、それが、文学館に初めて入る寺嶋学芸主幹を駐在道職員の最年長者として迎えるための特段の配慮であったことは、想像に難くありません。

 〈文学館〉という施設は、日本の文化施設の中では少数派です。明治期以来、西洋の影響を受けて次々設立された〈美術館〉とは異なり、日本の文学館は、昭和38(1963)年の日本近代文学館(東京)の創立が嚆矢と言われています。
 数的にも、現在、全国の美術館は1000館以上。それに対して、「文学館」の名前を持つ施設は一応550館程度と言われていますが、これは私設の個人記念ギャラリーや文学者の生家、さらには〈○○文庫〉といった資料館も含めての数です。業務内容も、対象とする時代(古典か近代か)、表現ジャンル(小説・詩・短歌等)などによって著しく異なりますので、博物館研究の分野においてさえ、“これが文学館の仕事だ”と言えるような共通項をくくり出すのは困難だと言われています。
 そうした状況の中で、公立の文学館は、さらに少数派の部類に入ります。ですから、学芸員の異動にしても、“仕事の流れがわかっている職員が外部から異動してくる”というケースは、そもそも想定されていません。ひるがえって北海道を見れば、道が所管する「文学館」は北海道立文学館ただ1つです。だからこそ、道立文学館の学芸職員同士は、互いをほぼ同格の専門職として尊重しつつ、新しく来た人にはさし当たりの日常業務をこなしてもらいながら、ゆるやかに慣れていってもらうという方式をとってきました。
 故に、このような背景を勘案するならば、まずは寺嶋学芸主幹のほうこそが、まず新しい職場での様々な事柄を学び、もとから居た学芸職員に状況を聞きながら仕事を進める、着実な姿勢が必要だったのではないでしょうか。
 しかしながら、少なくとも私が見聞した範囲では、寺嶋学芸主幹は、他の駐在道職員はおろか、古参の財団職員に対してさえも、「それで、君は(あなたは)どう思う?」といったような、相手と対等な立場に立っての〈相談〉や〈意見交換〉をしていた様子は見受けられませんでした。
 もっとも、「陳述書」に
「実際、学芸業務を統括する私の役割の一つは事務文書の点検と校正であり、原告以外の学芸職員の起案文書にも不備があれば逐次修正していたことは改めて触れるまでもありません(6ページ)と記し、何かにつけて、自分の役割は「指導・統括」だと主張している寺嶋学芸主幹のことです。主幹にとって、他の職員は皆、〈点検〉し〈修正〉する対象に過ぎなかったのかもしれません。

 10月7日(土)、寺嶋学芸主幹は自分の休暇日だったにもかかわらず、私の退勤時間が迫った4時頃に文学館に現れて、私を足止めし、教えてあげるから、ちょっとおいで」と自席に呼びつけ、「職員派遣願」の書き直しをさせました。この傲慢な態度について、寺嶋学芸主幹は、「準備書面(2)」において「財団では、文書の作成に当たっては、『分かりやすく、親しみのある表現』によることとしており、事実上の上司である被告の上記のような指導は適切かつ必要な行為であり」、「被告の指導は文書事務について初歩的・基本的な知識のない原告に対する適切な行為であり(8ページ)と、自己正当化を試みていました。
 しかしこの時私が作成しておいた「職員派遣願」は、私の3月5日付「準備書面」21ページで説明しておいたように、文学館のサーバーに残されていた書類を参考にし、しかも下書きの段階でN業務主任と川崎業務課長に目を通してもらい、さらに、N業務主査にも添削してもらっていました。(それぞれの添削過程を通った下書き書類も、証拠として「準備書面」に添付しておきました。)
 ですから、もしその文書が、寺嶋学芸主幹の目に
「文書事務についての初歩的・基本的な知識のない」人間の文書と映り、また今年「準備書面(2)」を書く段階でも依然としてそのように考えているのだとしたら、それは、寺嶋主幹にとって、業務課の職員3人は、揃いも揃って「文書事務についての初歩的・基本的な知識のない」事務員だったことになってしまいます。つまりは、業務課職員は全員、財団では、文書の作成に当たっては、『分かりやすく、親しみのある表現』によることとしており」という方針を守らなかったことになってしまう(しかも、この年の業務課職員は全て財団職員なのです!)。しかし、それでは誰が、一体いつ「文書の作成に当たっては、『分かりやすく、親しみのある表現』によることとしており」という方針を立て、どんなお手本をもとに、どのような方法でそれを皆に周知させたというのでしょう。これもまた、意志決定プロセスのブラックボックス化による〈「決まったこと」の押しつけ〉の一例と言えるのではないでしょうか。そう考えると、寺嶋主幹の先のような自己正当化の理論は、依って立つ根拠がきわめて薄弱だと言えそうです。
 
 しかし、見方を換えれば、寺嶋学芸主幹は敢えてそういう苦しい言い訳をしながらも、とにかく私を
「文書事務についての初歩的・基本的な知識のない」人間に仕立てたかった。逆に言えば、寺嶋学芸主幹はそれほど自分を「上司」に仕立てたかったわけで、この自称「上司」の寺嶋学芸主幹の序列意識から見れば、自分はどの学芸職員よりも業務課職員よりも、業務課長よりも上であり、逆に嘱託職員などは一番地位が低い。一番地位が低い人間は、当然、一番何も知らず、何もできない奴だ、ということになったのでしょう。それが例えば、あの10月7日に、教えてあげるから、ちょっとおいで」という傲慢な態度として、露骨に表れたのだと思われます。

Ⅵ章 パワー・ハラスメントのアピール以後
 私は平成18年10月31日、寺嶋学芸主幹のパワーハラスメントをアピールする「駐在道職員の高圧的な態度について」を寺嶋学芸主幹自身と、毛利館長・平原副館長・川崎業務課長に手渡し、神谷忠孝財団理事長に送付しました。これに対する寺嶋学芸主幹と財団の幹部職員の態度ほど、私にとって不可解な対応はありませんでした。

 そのアピール文をごく普通の注意力をもって読めば分かるように、私は、寺嶋学芸主幹を処罰してほしいとか、寺嶋学芸主幹は処罰されるべきだとかいう要求はどこにも書いていません。私は、ただ事実を整理して、パワー・ハラスメントの定義を述べているだけです(「駐在道職員の高圧的な態度について」11~12ページ)。また、その上で私は、職場環境の問題点に注意を喚起しただけです(同前 12ページ)。
 ですから、この時点で考えられる限り最も常識的かつ妥当な対応は、神谷理事長と財団の幹部職員が寺嶋学芸主幹と私を呼んで双方の事情説明を聞き、寺嶋学芸主幹に改めるべきところは改めさせ、私に反省すべき点は反省させ、その上で、職員全員に対して職場環境の改善に向けて注意を促すことだったと思います。それが一番、事態をシンプルに収める方策であったはずです。
 また、もし寺嶋学芸主幹がみずからを顧みて一点のやましさもないならば、むしろ自分から進んでそのような場を設けるよう幹部職員に働きかけ、その場で正々堂々と私と対決すべきだったでしょう。
 
 ところが、寺嶋学芸主幹は私のアピールに対する返答さえもすることなく、自分が解決に取り組むことから逃げ続けました。例えば「準備書面(2)」においては、そのことについて
「財団においては、被告の説明を認め、かつ、複数の職員からも事情聴取した結果、パワーハラスメントがあったとは考えられないと判断し、館長及び副館長から直接原告に対しその旨回答したものと思われる。なお、原告のアピールに対する財団の対応については、被告の責任の及ばざるところである。(10ページ)と、まるで他人ごとのような言い方で、対応の責任を財団に押しつけてしまっています。しかもこの責任回避については、さらに主幹自身の「陳述書」の中で「この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることとなり、私は直接の接触を控えるよう毛利館長から指示を受けていました。/ゆえに突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました。」8ページ)と、自己の態度を合理化しようとしています。
 要するに寺嶋学芸主幹は、このように、自分と亀井志乃との問題を、あたかも〈財団と亀井志乃との問題〉であるかのようにすりかえ、押しつけて、自分は陰に隠れてしまったわけですが、ここで指摘しておきたいのはその点だけではありません。
 もしも寺嶋学芸主幹が、語の正しい意味で、本当に私の「上司」だったとすれば、たとえ毛利館長の指示があったとしても
「突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました」というような立場に甘んずるはずがありません。それはまさに「上司」としての権限を奪われ、あるいは「上司」としての責任を放棄することを意味するからです。
 ところが、寺嶋学芸主幹は、その点について何の疑問も感じなかったらしく、
業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので」と、自分の無責任を、まるで当然のことでもあるかのようにあっさりと自認しています。つまりそういう形で、寺嶋学芸主幹は、如何なる意味においても私の「上司」ではなかったことを、ここで自ら雄弁に物語っていたわけです。
 
Ⅶ章 おわりに
 最後に、この陳述の締めくくりとして、私には、ぜひ申し述べておきたいことがあります。それは、平成18年秋から翌19年2月の「イーゴリ展」の不意打ち開催に至るまでの約半年、雇い止めの通告や「二組のデュオ展」の準備の妨害などを受けならがら、なぜ、私が担当の展覧会を開催することが可能だったかという点についてです。

 平成17年もすでに雪の季節となり、そろそろ、指定管理者も決定されるという時期だったでしょうか。ある日、私は、事務室の職員らとを色々な話をしていたのですが、その時ふと、A司書が、「亀井さんには、本のことも含めて、文学館のことをいろいろ知っておいて欲しいんですよね」と私に話しかけてきました。
 「なぜ?」と尋ねると、「亀井さんは、これからもずっと、この文学館にいらっしゃると思うからです」。私が「そりゃわかりませんよ。何せ、嘱託というのは不安定な立場ですから」と笑いましたところ、A司書はいたって真面目に、「でも、もし新体制になれば、これから確実に異動させられてゆくのは、私たち道職員の方ですから。H課長も春にはいなくなりますし、道職員が3年で異動となれば、私もあと1年半、Sさんも2年ほどしかいられません。それに比べて、亀井さんは、そうした異動の年限というのはないわけですから。……Oさんは来年退職ですし、だから、私たちが異動した後に色んなことを新しい人に伝えてくれるのは、亀井さんだけだと思うんです」との答えです。
 なるほど、それも一理あります。当時の道派遣職員は、とにかく、常に〈新体制〉と〈異動〉の不安にさらされていましたので、あの時点で、A司書がそう考えたとしても、まったく無理はありません。
 それに、その時事務室にいた職員らも、A司書の考えは否定せず、「そうだよ。それに指定管理者を請け負うとなれば期間は4年だし、その間は、財団職員は基本的に動かさないはずだからね」と言ってくれました。
 そうか。ならばこれからは、及ばずながら、自分が1本の〈メモリスティック〉になろう。文学館の職員が知っておかなければならない事柄を、自分の頭に叩き込んでおくことにしよう。――その時から、そのことが、私の新たな仕事のモチーフになりました。
 収蔵庫における書籍の位置。分類方法。特別収蔵庫の中の貴重資料の数々。データベースソフトの使いこなし方。冊子類のテキスト入稿に関する心得。覚えることは山ほどありました。また、展示の現場に降りれば、壁面の設計の仕方や視線の高さの取り方、掛け釘の打ち付け方、キャプションの文字の大きさについての配慮、等々…。すでに若くはない私の記憶力に限界はありましたが、しかし〈いつか誰かに伝えるために〉というテーマを持っていたことで、集中力はそれなりに持続したように思えます。
 また、業務課の人たちは、紀要を編集する私の予算執行をサポートしながら、業者に見積もりを依頼する時の心得を教えてくれました。もっと日常的な細々した動きについては、4人の受付係の人たちも、親切に教えてくれました。そして最後の半月ほどは、資料写真の撮影法の特訓でした。最終的に指導が終了したのは、平成18年3月30日のことです。

 結局、私が〈文学館業務のノウハウを新来の職員に伝える役割〉を果たすことは、ついに出来ませんでした。寺嶋学芸主幹は、その「陳述書」を見ても分かる通り、私が文学館や文学研究に関して何か役に立つ、耳を傾けるべき知識を持っていることなど全く認めることはなく、その可能性さえも、今なお徹底的に否定している有様です。
 それに、道立文学館は、平成19年度から新たに採用することになった2人を、3月中に文学館に呼ぶことは一度もなく、私からの業務の引き継ぎを一切させませんでした。これは、定年退職するO司書についても同様で、最後まで引き継ぎはなかったようです。
 3月の末頃、O司書は私に言いました。「私ね、だいぶ前に、毛利館長に、来年度は新しい人に仕事を引き継いで行くことになるんだから、できれば1年か半年前から、後任の人と一緒に仕事をさせてほしいって頼んだことがあるの。そしたら、毛利館長は『いや、それはいいんだ』って言うのよね。…『いいんだ』って、どういうことかしらね」。そしてぽつりと「ここも、どうなるのかしらねぇ」と独り言のようにつぶやきました。
 私には、答える言葉がありませんでした。
 
 それでも私は、平成17年度のうちに元の職員から沢山の事を教えてもらっていたおかげで、展示の下準備も余裕をもって始めておくことができましたし、前もってキャプションデータを少しずつ用意しておくことも出来ました。資料写真も自分で撮る目途がたっていましたから、横槍が入っても、そう慌てることはありませんでした。
 ですから、私が「二組のデュオ」展の開催まで漕ぎ着けることができたのは、別にミラクルでも何でもありません。また「私一人の力だ」と、見得を切るつもりもありません。まして、結局他の職員に丸投げした挙げ句に仕上げてもらったのだろう、などという揣摩憶測は、その人の品性を疑わせるだけのことです。私を助けてくれたのは、指定管理者制度導入前に文学館に勤務していた全ての人たちです。(もちろん、後に残った人たちも、財団職員・道職員を問わず、数少ない機会に、様々な形でサポートしてくれたのは言うまでもありません。)この人たちの力が、おぼつかない足取りの私を、展示の最終段階まで何とかたどり着かせてくれたのだと思っております。また、私がそこまで行き着いたからこそ、準備期間の最後の3日間は、学芸職員も、業務課職員も、皆、力を合わせて手助けしてくれたのでしょう。
 私は、元の職員も含めた同僚たちが、皆、本当は私をどう思っていたのかについては、今さら忖度(そんたく)する気はありません。少しでも好意をもってくれていたのか、それとも大いに不満があったか。各人が心の中にたたんでいることを徒らに推し量ろうとするのは、不遜なことですらあると考えます。ただ、私にとっては、〈助けてくれた〉という、その瞬間の事実だけあれば充分です。そして、そのことには、今でも心から感謝しています。
 
 また、それとは逆に、展示について最後まで絶対に手を貸そうとしなかったのは、原告である寺嶋学芸主幹と、平原副館長のみでした。このことについては、改めて、深く心に銘記しておきたいと思っております。
 
 以上、指定管理者制度導入を境にした、北海道立文学館の内実の変化を中心に、当時の私の状況を述べさせていただきました。この陳述によって、寺嶋学芸主幹が文学館に着任して以来、何が変質してしまったのかを明らかにすると同時に、それ以前の状況について伝えることが出来ましたならば幸いです。
平成20年8月11日
                 《引用終わり。原文傍点の箇所はゴチック体とした》
 
 
 

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