北海道文学館のたくらみ(45)
亀井志乃「陳述書」その3
【○10月31日の裁判
昨日(10月31日)、原告と被告の本人尋問があった。このことを踏まえて、原告・被告の双方が12月12日までに、「最終準備書面」を出し、12月19日に結審となる。結審は双方の「最終準備書面」の主張を確認して審理そのものを終わりとすることであり、判決ではない。判決は来年となるだろう。
何人かの人が傍聴に来て下さっていた。
昨日、太田弁護士の尋問を見ていて、なるほど弁護士という稼業はこういう世知辛いやり方でお足を稼ぐものなのかと、いたく感銘した。
亀井志乃の本人尋問は、田口裁判長にお願いした。亀井志乃は場馴れしないためか、考え考え、訥々と返事をしている。準備していたことの5分の1も話すことができないうちに、予定の時間が経ってしまい、見ていて歯がゆかった。田口裁判長も、「もっと言うべきことがあるでしょう」といった表情をしていたが、もちろん裁判長は中立の立場だから、原告に何を答えるべきか示唆するようなことは言わない。そういう制約の内で、必要なことをきちんと質問してくれている。私は感謝しながら見ていた。
亀井志乃自身にも不本意な点の多い応答だったようだが、しかし本人尋問は、これまで「準備書面」や「準備書面(Ⅱ)1,2、3」で述べてきたことが事実であるか否かを確認することが目的であり、その間新しい事実が出てきたらそれも勘案して、判決の資料とする。だから、亀井志乃が考え考え、訥々と話して、もたついている印象を与えたとしても、一向に差し支えない。真実を述べ、嘘を吐かなければいいのである。
○太田弁護士のパフォーマンス
それに対して、太田弁護士はテレビドラマに描かれる「切れる弁護士」がそのまま登場したみたいに、ジェスチャーたっぷりのパフォーマンスで、矢継ぎ早に質問を繰り出して、イエスかノーで答えさせる。
例えば亀井志乃は「訴状」で、「原告は、事が、自分の雇用や勤務の在り方にまで発展しかねないと思ったので、机の中に入れていた録音機を取り出し、『話の詳細を心覚えに記録させていただきますので、どうぞお話し下さい』と言った。すると被告は、今度は話を続けることなく、急に『あんたひどいね、ひどい』、『あんた、普通じゃない』と、あたかも申立人が普通でない(アブノーマル)人間であるかのような、誹謗中傷の言葉を言い始めた。」と書いた。おそらく太田弁護士はそこのところを念頭に置いてだろう、それまでの質問から急に話題を変え、いわば不意打ちを狙った形で、亀井志乃に、「被告は原告に対して『アブノーマル』と言いましたか」と聞く。先の引用で分かるように、亀井志乃が自分の文章(地の文)の中で「アブノーマル」という言葉を使っただけで、寺嶋弘道がそういう言葉を使ったとは書いていない。そのため彼女は、太田弁護士が急にその問題を持ち出した文脈をつかみ、自分が書いた文章の文脈を説明するため、ほんのちょっと返答に間を置かざるをえなかったが、太田弁護士はすかさず「私は、被告が『アブノーマル』という言葉を使ったかどうかを聞いているのです。『はい』か『いいえ』で答えて下さい」と畳みかける。
もちろん寺嶋弘道の言い方は「あんた、普通じゃない」であり、亀井志乃がそれを「あたかも原告が普通でない(アブノーマル)人間であるかのように」と説明したわけだから、太田弁護士の質問に「はい」「いいえ」で答えるとすれば、「いいえ」と答えるしかない。すると太田弁護士は、さあ1点勝ち取ったぞと言わんばかりの得意そうな表情で、「では、被告は原告に『アブノーマル』とは言わなかったのですね」と念を押し、次の質問に移って行く。要するに太田弁護士としては、裁判長や傍聴人に、〈亀井志乃は、寺嶋弘道が亀井志乃のことを『アブノーマル』と呼んで、侮辱したと書いているが、実はそんなことはなかった。亀井志乃が嘘を書いて寺嶋弘道を貶めようとしたのだ〉という印象を与えたかったのであろう。
○亀井志乃の対応
私は「へ~え、北海道にはまだこんな大時代的な、芝居がかった弁護士がいるんだ」と呆れながら見ていたが、亀井志乃は「しまった、相手の弁護士に言質を取られた」と思っている様子でもない。それはそうだろう。田口裁判長は既に「訴状」の該当箇所を読んでおり、亀井志乃が録音機を取り出さざるをえなかった理由や、「アブノーマル」を寺嶋弘道の発話として引用したわけではないことを承知している。もし自分の記憶が曖昧だと思ったら、該当箇所を読み直すだろうし、たちまち太田弁護士の小汚い言葉のすり替えを見抜いてしまうはずである。
そんなわけで、亀井志乃は、「ここに落とし穴がありそうだな」と直感した時は、「そういう短絡的な質問には『はい』『いいえ』で答えるのはむずかしいのですが」と言い、裁判長に「答えなければいけませんか?」と訊いてから、その指示を待って答えることにした。太田弁護士はかなりやりにくかっただろう。
特におかしかったのは、太田弁護士が「原告は自分が主担当の企画展の予算は〈勝手に〉使っていいと考えていたのじゃないか」と言う意味の質問をした時のことである。亀井志乃が裁判長に「質問の中に〈勝手に〉という言葉がありますけれど、そういう言葉を使った質問にも答えなければいけませんか?」と訊いた。太田弁護士の尋問の前、田口裁判長の尋問の時、亀井志乃は予算執行について質問を受け、「各展覧会の予算は前年度の末に決まっており、その枠を超えない範囲であれば、主担当と副担当に予算の執行は任されていた」という意味の返事をしたばかりだった。太田弁護士はそれを〈勝手に〉と言い換え、亀井志乃に「はい」と返事をさせたかったらしいのだが、大上段に振りかぶったところを軽く躱されたみたいで、何とも気の毒だった。
○さて、亀井志乃「陳述書」その3に移ろう
他方、寺嶋弘道被告の尋問は、まず太田弁護士の質問から始まったが、これが露骨な誘導尋問で、しかも段々その度合いがひどくなってゆく。多分、事前に打ち合わせしていたのだろう。寺嶋被告から引き出そうとする言葉は、亀井志乃が挙げた「事実」に対する反証ではなくて、あの時はどういう気持ちでそう言ったのか、どんなつもりだったのかなど、要するに言い訳ばかり。「ひどいわね」と妻が囁く。「いんだよあれで、どうせ次の反対尋問でボロを出してしまうんだから」。
しかし、反対尋問を待つまでもなく。寺嶋弘道被告が嘘を言い始めた。そのため田口裁判長の尋問にはしどろ、もどろ。声も急にトーンダウンしてしまった。亀井志乃の質問については、質問の意味がつかめないらしく、返事が堂々巡りをし、自分の言うことが矛盾していることに気がつかない。宣誓しての嘘、間違いだから、これは偽証罪ものだな。
私はそんなふうに聞いていたのだが、ただし、それらのことは亀井志乃と裁判記録を検討し、その上で亀井志乃が「最終準備書面」で具体的に指摘することになるだろう。
そのことを予告して、さて、亀井志乃「陳述書」その3の紹介に移りたい。2008年11月1日】
《引用》
Ⅴ章 寺嶋学芸主幹について
1.期待と失望
私は、平成18年度の3月に、道立近代美術館から学芸員が着任するという話を聞いて以来、ある意味で、館の誰よりもそのことを楽しみにしていました。その理由は、既に述べたように、私の研究テーマは、文学(史)と美術(史)との関係を明らかにすることにあったからです。専門的な知識の交換を通して、文学館の様々な事業にも新たな可能性が拓けるのではないかと思い、クリエイティブな対話を期待していました。財団の職員と駐在道職員とが〈協働・連携〉の実績を挙げるためにも、当然、そうあるべきだったでしょう。
ところがその期待は、早々に、驚きと失望に変わりました。寺嶋学芸主幹が平成18年4月4日(火)に着任してからわずか4日目の4月7日(金)、私が「近々道立近代美術館へ行って、木田金次郎の作品を見せてもらい、学芸員の話を聞かせてもらいたいと思っているところです」と予定を話したところ、主幹は突然、「いきなり訪ねていったって、美術館の学芸員は忙しいんだ。ただ話をだらだらしたって、相手になってくれる人間はいないよ。そんな時間はないんだ」と高飛車に決めつけてきました。あたかも、私が相手側の都合も考えずに自分の一人合点で行動してしまう人間だと、一方的に決めてかかっている口調でした。
この日の経緯について、寺嶋学芸主幹は被告「準備書面(2)」で、「(自分は)むしろ調査が適切に遂行されるように指導する立場であった。」「当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告(寺嶋学芸主幹)は着任したのである」(2ページ)と主張しています。それが根拠のない主張であることは、私の方の「準備書面(Ⅱ)-1」で明らかにしておきました。
ただ、その時言及しなかったことを1つ挙げるならば、寺嶋学芸主幹は、ついに最後まで、「では、自分からもK学芸員に連絡を取って、出来るだけ便宜を図ってもらうようにしましょう」とか、「道立近代美術館のシステムはこうだから、こういう形でお願いしてみるほうがいいと思います」とか、そういう協力的な言葉を口にすることはありませんでした。常識的に考えれば、これらの言葉は、新たに協働して仕事をすることになった同僚から、自分の前の勤務先について訊かれた時、ごく当たり前に出てくる言葉だと思います。しかし、私は寺嶋学芸主幹からそういう言葉を、ついに一度も聞くことはありませんでした。
これは4月7日の時だけに限りません。寺島学芸主幹は着任して3ヶ月経ち、半年経ち、そして1年が終わろうとする時まで、私に対しては、学芸業務に関して協働・連携の関係を構築しようとする姿勢を示すことは一度もなく、もっぱら業務課関係のことに介入して高圧的に自分の言い分を押しつけようとするだけでした。ちなみに、もう1人の財団直属の学芸職員である岡本司書に対しても、少なくとも客観的に見た範囲では、何らかの形で協働・連携しようとした様子はなく、また業務上で協力した事実もありませんでした。
2.意識の違い ―ケータイ・フォトコンテスト問題の場合―
私は平成18年5月2日(火)、館長室で、寺嶋学芸主幹が着想したケータイ・フォトコンテストに関して、主幹と平原学芸副館長と3人で話し合いました。どのような話し合いであったかは、「去る10月28日に発生した〈文学碑データベース作業サボタージュ問題〉についての説明 及び北海道立文学館内における駐在道職員の高圧的な態度について」(以下「駐在道職員の高圧的な態度について」と略)(甲17号証)で述べておきましたので、その詳細は省略します。ただ、ここでは、その際触れなかったことについて言及しておきたいと思います。
それは、私から見ると、寺嶋学芸主幹には、〈文学碑データベース〉が実はどのような内容のものであるかについて、当初から正確に知ろうとせず、また、そうした自分の姿勢について、まったく自覚しなかったように見受けられることです。
私は、道立文学館開館10周年記念行事(平成17年11月開催)の一環として「データベース 北海道の文学碑」(甲68号証)の作成を担当しました。
このデータベースは、北海道立文学館にとって、初の来館者向けデジタル検索コンテンツでした。常設展を見に来て下さるご来館者に、展示を見ながら、すぐに関連の文学碑についても知ることができるような、便利な機能を提供したい。しかも、検索することによって、さらに作者や作品の舞台等についても理解が深まるような、充実した内容の検索機にしたい。――このようなコンセプトのもとに、準備は開始されました。また、現行では検索機は単体で、どこにもリンクしていませんが、当時は、将来的にはデータをネットにつなぎ、館のどこからでも、また、館外部のパソコンからでも利用できるようにしたいという長期構想も計画されていました。この原案そのものは当時の平原学芸副館長から出たものであり、学芸課職員も業務課職員も、基本的には、長期構想も含めてこの計画に賛同し、協力してくれていました。ですから私自身も、非常に取り組み甲斐のあるプロジェクトだと思い、楽しんで仕事に取り組んでいましたし、検索ソフト作成を担当する業者の方とお会いした時も、機能の作り込み方によってはどのような可能性が広がるか、意見交換しては様々に夢を描いていたのです。
ただ、データ公開に必要な情報を収集するうちに、一つ、難しい問題に直面することになりました。それは、各自治体に問い合わせてみても、碑のありかや建立のいきさつはある程度知ってはいても、碑の〈写真〉や〈画像〉のようなビジュアル資料をとり揃えている市町村は、意外に少ないということでした。
事情を知れば、それも無理もありません。一般には、〈文学碑〉というと、すぐに函館・青柳公園の石川啄木碑や、札幌・大通公園の有島武郎碑などが連想されると思われますが、そういうわかりやすい場所に建っているのは、たいていは、ごく一握りのポピュラーな文学者の碑だけ、と言っても過言ではありません。
むしろ、圧倒的に多いのは、それほど一般的に知られているとは言えない小説家や歌人・俳人の碑です。建立場所も、作品の舞台になった場所や、作家自身のお気に入りの景色が見える場所、もしくは、作家の生家跡(庭の中など)等が多い。勢い、そうした場所は、景色はいいが人はあまり行かない所――山の頂きや展望台、吊り橋のたもと、静かな湖のほとり、そして離島など――ということになりがちです。その他、出身地の寺社の境内等も多いのですが、そうした場所自体、アクセスが不便という場合が少なくありません。生家に建てられた碑はどうかというと、現在、土地家屋が第三者の所有になっている場合もあって、こちらも、いざ現物を確認するとなると、色々問題が生じそうです。
こうした諸事情のため、文学碑の画像を地元がすべて収集・管理していることなど期待すべくもないし、また、仮に実際に担当者として自分が撮影にゆくことになったとしても、全データを採取するためには、のべ数ヶ月(もしかすると数年)をかけて、出張を繰り返しながら撮影に当たらなければならないでしょう。私自身、すでに札幌の中心部や、普通に地下鉄・バスでゆける範囲の文学碑はほとんど(札幌・旭山記念公園にある文学碑を撮りに行った際には、標高137.5mの展望台を目指して、ちょっとした山登りまでして)撮影しましたので、これ以上遠い場所だと大変だということは、心から痛感しました。また、文学碑を紹介した本というものもないわけではありませんが、大抵は昭和期の出版で情報が古い上、今は著作権の関係上、安易に写真を流用するわけにもいきません。そうした実態を、私は、つぶさに知ることとなったのです。
しかし、観点を変えれば、〈文学碑〉のデータベースなのですから、まずは碑の文面が正確にわかりさえすれば、少なくとも、確実に、その文学者の作品の一端には触れることになります。そこが、“現物の姿がわからなければ始まらない”動物・植物など自然科学系の検索機と違うところです(ちなみに、検索ソフト担当の業者は、これまで各地の博物館のデータ検索機をいくつも手がけてきた方でしたが、その方も、そう言って私を励ましてくれました)。また、作品と作者の関係、碑と建立者の関係など、調べてゆけば、それぞれドラマチックであることがわかります。また、700件以上のデータがありますから、地方ごと、町ごとの文学碑一覧を出して見るだけでも、意外な作家が訪れていることがわかるなど、興味深い発見があります。(むろん、建立場所やアクセス方法が正確にわかることは大前提です。)
そのように、提供する情報と検索機能の関連性と、そこから見えてくる多様な検索パターンを考えると、碑の写真の問題は、最終的にはすべて揃うのが理想だとしても、それほど焦ることはないと、私は思うようになりました。常設展リニューアルはひとまず済んだとしても、データベースの構想自体は長期的なもののはずです。ならば、後は、少しじっくりと時間をかけて、信頼性の高いデータ(写真画像を含む)を集めてゆくことにしよう。私は、そのように考えていたのです。
ですから、あの5月2日の時も、発言のチャンスをもらえさえすれば、私は、そうした〈文学碑〉の状況や〈文学碑データ〉の特色について説明したはずでした。またその上で、ただ単に〈文学碑のケータイ・フォト・コンテスト〉といっても、集まるのは圧倒的に、観光地近くにある有名な文学碑ばかりになる可能性が高いことや、だからといって“珍しい碑の写真がほしい”と文学館側が勝手に条件をつけ、人をわざわざ交通が不便な場所や、余り知られていない場所に駆り立てるわけにはいかないだろうということも、ちゃんと説明しようと心づもりをしていました(甲14号参照)。
ところが、まだ私が本題にふれるとば口にも立たないうちに、寺嶋学芸主幹から浴びせられたのは、「そういう立場って、いったいどういう事だ。最後までちゃんと言ってみなさい!」という高飛車な罵声でした。
そもそも、“文学碑のデータベースで画像がないものについては、文学碑のケータイ・フォトコンテストをやって集めればよい”というアイデアを思いついたのは寺嶋主幹自身でした。それに、寺嶋主幹は館に来たばかりで、文学碑データベースが実はどういうテーマを持ったコンテンツなのか、まだほとんど知らなかったはずです。ならば、データベースの担当者(亀井)にまずは詳しく内容を聞き、その上で自分が起案して、学芸関係の職員に企画の中身について図ってみるべきだったでしょう。どだい、『ガイド 北海道の文学』末尾の表(甲68号証)をざっと見ても747件の文学碑データがあり、一方で、碑の画像は、全道の市町村の協力を仰いでさえもまだ76件分(平成18年3月時点)だという現実を知れば、収集を徒らに急ぐより、まずは方策そのものを練ることが先決だと、普通は判断するところでしょう。ところが、主幹は何を焦ったのか、状況を正確に把握しようともせず、むりやり〈文学碑データベース〉と〈普及事業〉(寺嶋弘道「陳述書」4ページ)という概念を結びつけて、怒鳴りつけてでも私にそれをやらせようとしたわけです。
そればかりか、10月28日の時には、いきなり「文学碑のデータベースを充実させるのは、あんたの仕事でしょ。どうするの?もう、雪降っちゃうよ」と言い出して、私が反論しなければ、本当に、初冬の季節にカメラ1台を持たせて私を写真撮りに館の外へ出しかねない勢いで咎め立てました。しかし、それではあの時寺嶋主幹は、これから撮影しなければならない文学碑は、札幌市周辺だけでもいったいどれだけあるか、それはここからどれだけ遠く、時間や交通費はどれだけかかるのか、多少なりとも考えた上で言っていたのでしょうか。
付言すれば、寺嶋主幹の言う〈普及事業〉も、その意味するところは何かと突き詰めようとすると、非常に曖昧な概念だと言わざるを得ません。
主幹は今般「陳述書」を書く時点においても、まだ「原告は……『文学碑データベース』の写真公募のようなイベント性を伴う普及事業の経験もありませんでした」(4ページ 下線は引用者)という言い方をしていました。では主幹は、そもそも、その〈文学碑データベース〉は誰が、どのような過程を経て作成したと思っているのだろうか。これは、そう反問したくなるほどの無神経な一文ですが、あきれるのは、それだけではありません。「文学碑データベース」は情報提供サービスであって、「写真公募のようなイベント性を伴う普及事業」とは性質が異なることを、寺嶋学芸主幹が、いまだに理解していないらしいということです。
寺嶋学芸主幹が言う〈普及事業〉は、正しくは〈教育普及事業〉のことだと思いますが、現行の〈教育普及事業〉とは、文学館においては、〈文芸セミナー〉や〈ウィークエンドカレッジ〉等の市民講座、或いは青少年対象の〈文学道場〉、親子参加型の〈わくわく子どもランド〉や〈ファミリー文学館〉(展覧会)などを指します。対象年齢は、壮年期以上と、幼児~青少年までとに大別されますが、いずれも基本的には、事業を応援してくれる文学者または館の職員が、講座やイベントを通じて来館者と交流しつつ、人々の文学に対する関心を拡げ、深めてもらおうとする取り組みです。〈生涯学習〉が、その活動の根幹をなすキーワードです。
そのコンセプトに照らして見れば、要するに“文学碑の写真を撮って応募してください、いい写真には賞品をあげます”というだけのフォトコンテストは、〈教育普及事業〉には当たりません。また、単に〈普及事業〉だとして、それが本当の意味で道民の文学に対する関心を啓発する〈普及〉イベントになるかどうか、その点も疑問です。
それに、主幹は〈イベント性〉を重視しているようですが、もし、本当に応募者が楽しくイベントに参加することが大切だと考えるなら、旅先などでみんな仲良く文学碑と一緒に写り込んでいる写真についても、当然許容しなければならないことになります。しかし、そうした写真を、将来にわたって、コンテストの事も何も知らない第三者が〈文学資料〉として参照し続けるデータベースの画像として用いることが果たして妥当かどうか、主幹は、一度でも考えたことがあるのでしょうか。端的に言えば、〈普及〉が大事か、〈資料収集〉が大事か。そして、それをいっぺんに実現するというイベントに、矛盾はないのでしょうか。
しかし、残念ながら、寺嶋主幹が発想する〈普及事業〉は、自分自身に対するそうした問いかけのない地点にとどまっているようです。
3.意識の違い ―同僚の能力への無関心―
こうして様々なシーンを思い返してみても、改めて思うのは、寺嶋学芸主幹は、道立文学館に異動して来て以来、研究員である私に対して「亀井さんは、もともと何が専門分野ですか」「これまで、主にどんな仕事をしてきたのですか」といった類の質問は一切したことがなかった、ということです。
また、およそ私が知る限りでは、他の職員たちに対しても、上記のような事柄――その人の専門や得意分野、関心の広がりや趣味・特技など――について関心を持って話しかけたり、質問したりしているのを耳にしたこともありません。
寺嶋学芸主幹のこの無関心ぶりは、その「陳述書」(乙1号証)によってもよく知ることができます。というのは、寺嶋学芸主幹が「陳述書」の中で言及している私の業務は、実は私が「訴状」と「準備書面」に書いた業務だけであって、それ以外の私の業務には何の関心も示していないからです。
例えば、寺嶋学芸主幹は「陳述書」の2ページ目で、「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在)が、実際には4月13日に学芸関係職員全員の合意によって決まったのだ、と言いつくろうために、「毛利館長の訓辞に先立つ4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団職員2名」と、私の非出勤日に、私が文学館に出ていたかのように書いてしまっていました。主幹は、「準備書面(2)」の「『(3)平成18年5月10日(水曜日)』について」の項では、「この日の翌日が原告(亀井)の勤務日ではない(原告の勤務日は火曜日、水曜日、金曜日、土曜日とされていた)ことから」(4ページ)と、私の早退の件に絡んで退勤時間を超えて足止めをした理由を説明しておきながら、「陳述書」の方で上記のように私の非出勤日をまったく無視する書き方をしてしまったために、折角のごまかしを、自分自身で台無しにしてしまったのです。これは、本当はいかに私の業務について無関心であったかということの、明らかな証拠と言えるでしょう。
また、寺嶋学芸主幹は、「確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え」(乙1号証「陳述書」3ページ)とか、「『文学館の仕事にも実績を持っている』と記していますが、それは文学館業務の一部分である整理研究業務についてのみ言えることで…(中略)…したがって渉外事務や経費支出を要する業務については未経験であり」(同上 4~5ページ)などと、根拠のないことを縷々述べ立てていましたが、結果的には、その事によって、平成18年3月25日に発行された(そして、異動してきた寺嶋学芸主幹にも1部配られていたはずの)『2006 資料情報と研究』や、「二組のデュオ」展の図録、そして全職員に回覧された展覧会の事業報告書に至るまで、ろくに目も通さなかったという事実を露わにしてしまいました。
あるいは、寺嶋主幹は、この指摘に対して「いや、目は通していた」と反論するかも知れません。しかしそうなると、上記の記述は、私の業績に対する完全に意図的なネグレクトだったということになり、さらに悪質な侮辱行為を犯していたことになってしまいます。
私の業務に対する無関心。そして、その無関心と底通しているかのような、私のこれまでの実績に対する無視と否定。〈未経験〉〈独りよがり〉〈被害妄想〉と執拗に決めつけ続ける侮辱的な言い回しは、「準備書面(Ⅱ)―2」末尾の「Ⅱ、被告の『陳述書』において新たに行われた原告に対する人格権の侵害の指摘」に挙げておきましたので、ここでは繰り返しません。それにしても、よくここまで人の人格を攻撃する言葉が次々と出てくるものだと、正直、唖然とせざるを得ません。
その根底にあるのは、自分を裁断者の高みに置いて、相手は何も知らない奴だ、何もできない奴だと決めつける、権力者意識だと言えるでしょう。寺嶋主幹は「準備書面(2)」において、私が「準備書面」で挙げたパワー・ハラスメントの事実に関しては何一つ具体的な証拠に基づいた反論が出来なかったにもかかわらず、ただ自分を「上司」の高みに置いて、“亀井を指導してやったのだ”と、声高な主張を繰り返すだけでした。
ここで念のために、平成18年度における寺嶋学芸主幹の立場を確認しておきたいと思います。
すでに述べたように、平成18年度の新体制発足時には、学芸部門でまったくの新来者なのは、実は、寺嶋学芸主幹ただ1人でした。
本当は、組織上は同格の業務課長、例えば平成17年度のM課長だけでも、ここ数年の館の様子を把握している人が1人残っていてくれれば、職員一同としても非常に心強かったはずなのですが、(財団の言い分によると)北海道教育委員会はそういう措置をしませんでした。その代わりに、寺嶋主幹と同じ駐在職員となるメンバーとして、2年目のS社会教育主事と2年半目のA学芸員が残ることになりました。財団・道のどちらが言い出した措置かはわかりませんが、いずれにせよ、それが、文学館に初めて入る寺嶋学芸主幹を駐在道職員の最年長者として迎えるための特段の配慮であったことは、想像に難くありません。
〈文学館〉という施設は、日本の文化施設の中では少数派です。明治期以来、西洋の影響を受けて次々設立された〈美術館〉とは異なり、日本の文学館は、昭和38(1963)年の日本近代文学館(東京)の創立が嚆矢と言われています。
数的にも、現在、全国の美術館は1000館以上。それに対して、「文学館」の名前を持つ施設は一応550館程度と言われていますが、これは私設の個人記念ギャラリーや文学者の生家、さらには〈○○文庫〉といった資料館も含めての数です。業務内容も、対象とする時代(古典か近代か)、表現ジャンル(小説・詩・短歌等)などによって著しく異なりますので、博物館研究の分野においてさえ、“これが文学館の仕事だ”と言えるような共通項をくくり出すのは困難だと言われています。
そうした状況の中で、公立の文学館は、さらに少数派の部類に入ります。ですから、学芸員の異動にしても、“仕事の流れがわかっている職員が外部から異動してくる”というケースは、そもそも想定されていません。ひるがえって北海道を見れば、道が所管する「文学館」は北海道立文学館ただ1つです。だからこそ、道立文学館の学芸職員同士は、互いをほぼ同格の専門職として尊重しつつ、新しく来た人にはさし当たりの日常業務をこなしてもらいながら、ゆるやかに慣れていってもらうという方式をとってきました。
故に、このような背景を勘案するならば、まずは寺嶋学芸主幹のほうこそが、まず新しい職場での様々な事柄を学び、もとから居た学芸職員に状況を聞きながら仕事を進める、着実な姿勢が必要だったのではないでしょうか。
しかしながら、少なくとも私が見聞した範囲では、寺嶋学芸主幹は、他の駐在道職員はおろか、古参の財団職員に対してさえも、「それで、君は(あなたは)どう思う?」といったような、相手と対等な立場に立っての〈相談〉や〈意見交換〉をしていた様子は見受けられませんでした。
もっとも、「陳述書」に「実際、学芸業務を統括する私の役割の一つは事務文書の点検と校正であり、原告以外の学芸職員の起案文書にも不備があれば逐次修正していたことは改めて触れるまでもありません」(6ページ)と記し、何かにつけて、自分の役割は「指導・統括」だと主張している寺嶋学芸主幹のことです。主幹にとって、他の職員は皆、〈点検〉し〈修正〉する対象に過ぎなかったのかもしれません。
10月7日(土)、寺嶋学芸主幹は自分の休暇日だったにもかかわらず、私の退勤時間が迫った4時頃に文学館に現れて、私を足止めし、「教えてあげるから、ちょっとおいで」と自席に呼びつけ、「職員派遣願」の書き直しをさせました。この傲慢な態度について、寺嶋学芸主幹は、「準備書面(2)」において「財団では、文書の作成に当たっては、『分かりやすく、親しみのある表現』によることとしており、事実上の上司である被告の上記のような指導は適切かつ必要な行為であり」、「被告の指導は文書事務について初歩的・基本的な知識のない原告に対する適切な行為であり」(8ページ)と、自己正当化を試みていました。
しかしこの時私が作成しておいた「職員派遣願」は、私の3月5日付「準備書面」21ページで説明しておいたように、文学館のサーバーに残されていた書類を参考にし、しかも下書きの段階でN業務主任と川崎業務課長に目を通してもらい、さらに、N業務主査にも添削してもらっていました。(それぞれの添削過程を通った下書き書類も、証拠として「準備書面」に添付しておきました。)
ですから、もしその文書が、寺嶋学芸主幹の目に「文書事務についての初歩的・基本的な知識のない」人間の文書と映り、また今年「準備書面(2)」を書く段階でも依然としてそのように考えているのだとしたら、それは、寺嶋主幹にとって、業務課の職員3人は、揃いも揃って「文書事務についての初歩的・基本的な知識のない」事務員だったことになってしまいます。つまりは、業務課職員は全員、「財団では、文書の作成に当たっては、『分かりやすく、親しみのある表現』によることとしており」という方針を守らなかったことになってしまう(しかも、この年の業務課職員は全て財団職員なのです!)。しかし、それでは誰が、一体いつ「文書の作成に当たっては、『分かりやすく、親しみのある表現』によることとしており」という方針を立て、どんなお手本をもとに、どのような方法でそれを皆に周知させたというのでしょう。これもまた、意志決定プロセスのブラックボックス化による〈「決まったこと」の押しつけ〉の一例と言えるのではないでしょうか。そう考えると、寺嶋主幹の先のような自己正当化の理論は、依って立つ根拠がきわめて薄弱だと言えそうです。
しかし、見方を換えれば、寺嶋学芸主幹は敢えてそういう苦しい言い訳をしながらも、とにかく私を「文書事務についての初歩的・基本的な知識のない」人間に仕立てたかった。逆に言えば、寺嶋学芸主幹はそれほど自分を「上司」に仕立てたかったわけで、この自称「上司」の寺嶋学芸主幹の序列意識から見れば、自分はどの学芸職員よりも業務課職員よりも、業務課長よりも上であり、逆に嘱託職員などは一番地位が低い。一番地位が低い人間は、当然、一番何も知らず、何もできない奴だ、ということになったのでしょう。それが例えば、あの10月7日に、「教えてあげるから、ちょっとおいで」という傲慢な態度として、露骨に表れたのだと思われます。
Ⅵ章 パワー・ハラスメントのアピール以後
私は平成18年10月31日、寺嶋学芸主幹のパワーハラスメントをアピールする「駐在道職員の高圧的な態度について」を寺嶋学芸主幹自身と、毛利館長・平原副館長・川崎業務課長に手渡し、神谷忠孝財団理事長に送付しました。これに対する寺嶋学芸主幹と財団の幹部職員の態度ほど、私にとって不可解な対応はありませんでした。
そのアピール文をごく普通の注意力をもって読めば分かるように、私は、寺嶋学芸主幹を処罰してほしいとか、寺嶋学芸主幹は処罰されるべきだとかいう要求はどこにも書いていません。私は、ただ事実を整理して、パワー・ハラスメントの定義を述べているだけです(「駐在道職員の高圧的な態度について」11~12ページ)。また、その上で私は、職場環境の問題点に注意を喚起しただけです(同前 12ページ)。
ですから、この時点で考えられる限り最も常識的かつ妥当な対応は、神谷理事長と財団の幹部職員が寺嶋学芸主幹と私を呼んで双方の事情説明を聞き、寺嶋学芸主幹に改めるべきところは改めさせ、私に反省すべき点は反省させ、その上で、職員全員に対して職場環境の改善に向けて注意を促すことだったと思います。それが一番、事態をシンプルに収める方策であったはずです。
また、もし寺嶋学芸主幹がみずからを顧みて一点のやましさもないならば、むしろ自分から進んでそのような場を設けるよう幹部職員に働きかけ、その場で正々堂々と私と対決すべきだったでしょう。
ところが、寺嶋学芸主幹は私のアピールに対する返答さえもすることなく、自分が解決に取り組むことから逃げ続けました。例えば「準備書面(2)」においては、そのことについて「財団においては、被告の説明を認め、かつ、複数の職員からも事情聴取した結果、パワーハラスメントがあったとは考えられないと判断し、館長及び副館長から直接原告に対しその旨回答したものと思われる。なお、原告のアピールに対する財団の対応については、被告の責任の及ばざるところである。」(10ページ)と、まるで他人ごとのような言い方で、対応の責任を財団に押しつけてしまっています。しかもこの責任回避については、さらに主幹自身の「陳述書」の中で、「この問題に対する原告への対応は毛利館長があたることとなり、私は直接の接触を控えるよう毛利館長から指示を受けていました。/ゆえに突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました。」(8ページ)と、自己の態度を合理化しようとしています。
要するに寺嶋学芸主幹は、このように、自分と亀井志乃との問題を、あたかも〈財団と亀井志乃との問題〉であるかのようにすりかえ、押しつけて、自分は陰に隠れてしまったわけですが、ここで指摘しておきたいのはその点だけではありません。
もしも寺嶋学芸主幹が、語の正しい意味で、本当に私の「上司」だったとすれば、たとえ毛利館長の指示があったとしても「突然の文書抗議があった11月以降、業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので、原告とはまったく話をすることもなく、日々が過ぎていきました」というような立場に甘んずるはずがありません。それはまさに「上司」としての権限を奪われ、あるいは「上司」としての責任を放棄することを意味するからです。
ところが、寺嶋学芸主幹は、その点について何の疑問も感じなかったらしく、「業務の如何に関わらず私は原告との接触や一切の関与を断ちましたので」と、自分の無責任を、まるで当然のことでもあるかのようにあっさりと自認しています。つまりそういう形で、寺嶋学芸主幹は、如何なる意味においても私の「上司」ではなかったことを、ここで自ら雄弁に物語っていたわけです。
Ⅶ章 おわりに
最後に、この陳述の締めくくりとして、私には、ぜひ申し述べておきたいことがあります。それは、平成18年秋から翌19年2月の「イーゴリ展」の不意打ち開催に至るまでの約半年、雇い止めの通告や「二組のデュオ展」の準備の妨害などを受けならがら、なぜ、私が担当の展覧会を開催することが可能だったかという点についてです。
平成17年もすでに雪の季節となり、そろそろ、指定管理者も決定されるという時期だったでしょうか。ある日、私は、事務室の職員らとを色々な話をしていたのですが、その時ふと、A司書が、「亀井さんには、本のことも含めて、文学館のことをいろいろ知っておいて欲しいんですよね」と私に話しかけてきました。
「なぜ?」と尋ねると、「亀井さんは、これからもずっと、この文学館にいらっしゃると思うからです」。私が「そりゃわかりませんよ。何せ、嘱託というのは不安定な立場ですから」と笑いましたところ、A司書はいたって真面目に、「でも、もし新体制になれば、これから確実に異動させられてゆくのは、私たち道職員の方ですから。H課長も春にはいなくなりますし、道職員が3年で異動となれば、私もあと1年半、Sさんも2年ほどしかいられません。それに比べて、亀井さんは、そうした異動の年限というのはないわけですから。……Oさんは来年退職ですし、だから、私たちが異動した後に色んなことを新しい人に伝えてくれるのは、亀井さんだけだと思うんです」との答えです。
なるほど、それも一理あります。当時の道派遣職員は、とにかく、常に〈新体制〉と〈異動〉の不安にさらされていましたので、あの時点で、A司書がそう考えたとしても、まったく無理はありません。
それに、その時事務室にいた職員らも、A司書の考えは否定せず、「そうだよ。それに指定管理者を請け負うとなれば期間は4年だし、その間は、財団職員は基本的に動かさないはずだからね」と言ってくれました。
そうか。ならばこれからは、及ばずながら、自分が1本の〈メモリスティック〉になろう。文学館の職員が知っておかなければならない事柄を、自分の頭に叩き込んでおくことにしよう。――その時から、そのことが、私の新たな仕事のモチーフになりました。
収蔵庫における書籍の位置。分類方法。特別収蔵庫の中の貴重資料の数々。データベースソフトの使いこなし方。冊子類のテキスト入稿に関する心得。覚えることは山ほどありました。また、展示の現場に降りれば、壁面の設計の仕方や視線の高さの取り方、掛け釘の打ち付け方、キャプションの文字の大きさについての配慮、等々…。すでに若くはない私の記憶力に限界はありましたが、しかし〈いつか誰かに伝えるために〉というテーマを持っていたことで、集中力はそれなりに持続したように思えます。
また、業務課の人たちは、紀要を編集する私の予算執行をサポートしながら、業者に見積もりを依頼する時の心得を教えてくれました。もっと日常的な細々した動きについては、4人の受付係の人たちも、親切に教えてくれました。そして最後の半月ほどは、資料写真の撮影法の特訓でした。最終的に指導が終了したのは、平成18年3月30日のことです。
結局、私が〈文学館業務のノウハウを新来の職員に伝える役割〉を果たすことは、ついに出来ませんでした。寺嶋学芸主幹は、その「陳述書」を見ても分かる通り、私が文学館や文学研究に関して何か役に立つ、耳を傾けるべき知識を持っていることなど全く認めることはなく、その可能性さえも、今なお徹底的に否定している有様です。
それに、道立文学館は、平成19年度から新たに採用することになった2人を、3月中に文学館に呼ぶことは一度もなく、私からの業務の引き継ぎを一切させませんでした。これは、定年退職するO司書についても同様で、最後まで引き継ぎはなかったようです。
3月の末頃、O司書は私に言いました。「私ね、だいぶ前に、毛利館長に、来年度は新しい人に仕事を引き継いで行くことになるんだから、できれば1年か半年前から、後任の人と一緒に仕事をさせてほしいって頼んだことがあるの。そしたら、毛利館長は『いや、それはいいんだ』って言うのよね。…『いいんだ』って、どういうことかしらね」。そしてぽつりと「ここも、どうなるのかしらねぇ」と独り言のようにつぶやきました。
私には、答える言葉がありませんでした。
それでも私は、平成17年度のうちに元の職員から沢山の事を教えてもらっていたおかげで、展示の下準備も余裕をもって始めておくことができましたし、前もってキャプションデータを少しずつ用意しておくことも出来ました。資料写真も自分で撮る目途がたっていましたから、横槍が入っても、そう慌てることはありませんでした。
ですから、私が「二組のデュオ」展の開催まで漕ぎ着けることができたのは、別にミラクルでも何でもありません。また「私一人の力だ」と、見得を切るつもりもありません。まして、結局他の職員に丸投げした挙げ句に仕上げてもらったのだろう、などという揣摩憶測は、その人の品性を疑わせるだけのことです。私を助けてくれたのは、指定管理者制度導入前に文学館に勤務していた全ての人たちです。(もちろん、後に残った人たちも、財団職員・道職員を問わず、数少ない機会に、様々な形でサポートしてくれたのは言うまでもありません。)この人たちの力が、おぼつかない足取りの私を、展示の最終段階まで何とかたどり着かせてくれたのだと思っております。また、私がそこまで行き着いたからこそ、準備期間の最後の3日間は、学芸職員も、業務課職員も、皆、力を合わせて手助けしてくれたのでしょう。
私は、元の職員も含めた同僚たちが、皆、本当は私をどう思っていたのかについては、今さら忖度(そんたく)する気はありません。少しでも好意をもってくれていたのか、それとも大いに不満があったか。各人が心の中にたたんでいることを徒らに推し量ろうとするのは、不遜なことですらあると考えます。ただ、私にとっては、〈助けてくれた〉という、その瞬間の事実だけあれば充分です。そして、そのことには、今でも心から感謝しています。
また、それとは逆に、展示について最後まで絶対に手を貸そうとしなかったのは、原告である寺嶋学芸主幹と、平原副館長のみでした。このことについては、改めて、深く心に銘記しておきたいと思っております。
以上、指定管理者制度導入を境にした、北海道立文学館の内実の変化を中心に、当時の私の状況を述べさせていただきました。この陳述によって、寺嶋学芸主幹が文学館に着任して以来、何が変質してしまったのかを明らかにすると同時に、それ以前の状況について伝えることが出来ましたならば幸いです。
平成20年8月11日
《引用終わり。原文傍点の箇所はゴチック体とした》
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コメント
ずっと読ませていただいてます。
間もなく結審になるとのことですが、
原告の方にも、道民の文学館にも、
よい結果がでますよう。
結審しましたら、
1つお願いがあります。
財団が文学館を担うようになる前後で、
学芸員の実習にきた学生たちの扱いが、
どのように変わっていったのかを、
お聞かせ願えないでしょうか。
私の友人は、
文学館へ実習に行ったことを、
あまり話したがらないのです。
ぶしつけなお願いですが、
機会を得ましたら幸いです。
投稿: | 2008年11月 9日 (日) 00時09分
ずっとご注目いただき、ありがとうございます。
志乃が道立文学館で働いたのは、平成16年度半ばから18年度一杯の約2年半でした。ですからその間の様子しか分からないわけですが、平成17年度までは、実習生の受け入れは、期間を決めて、2~3名程度。当時の学芸課長さん(学芸副館長ではありません)が、“学芸員として何を学んでほしいか”を中心にカリキュラム(プログラム)を組んでいたそうです。文学館の業務は業務、実習生のためのカリキュラムはカリキュラムとして、もちろん関連はありますが、きちんと目的を別けて考えられていたとのことです。
実際の指導は、カリキュラムに基づいて、毎日担当職員が代わり、色んな業務をまんべんなくレクチャーするやり方でした。実習生の受入数が少なかったのは、手を抜かずに指導する方針のためだったのでしょう。
ところが、平成18年度、その学芸課長さんが他へ転出し、寺嶋弘道学芸主幹が入ってからは、彼の意見によって、実習生はなるべく多く――平成18年度は11人――を受け入れ、一人ずつ来てもらう方針に変わりました。そのため、実習生を受け入れている期間は8ヶ月にもわたることになりました。
指導についても、カリキュラムらしいものは何も考えられておらず、その時々の文学館の都合によって、「させたい」(寺嶋主幹の言葉)仕事を与える、というやり方に変わりました。書庫の整理などは、本来ならば、アルバイトの人に来てもらって行わなければならない業務なのですが、実習生に「やらせれば」、アルバイト代を払わなくても済む。そんなふうに寺嶋主幹は、実習生制度を利用することを思いついたわけで、寺嶋主幹自身がそのような言い方をしていたそうです。
実習生には、一応〈担当〉の職員もついていましたが、職員全体との交流はほとんど考えられていない。“仕事を手伝ってもらい、では、さようなら”という感じに近い扱いだったそうです。
私も、志乃の手元にある「2005年 北海道立文学館学芸員実習について」と、「平成18年度 北海道立文学館博物館実習」を見ましたが、実習プログラムの組み立て(構想)も、きめ細かさ(密度)も、まるで違っていました。驚いたことに、前者は「日程、○○日間」という表現を用いていましたが、後者は「実働、○○日間」となっています。「学んでもらう」意識から、「やらせる、働かせる」意識への変化が、端的に露出した表現と言えるでしょう。
11月9日
亀井 秀雄
投稿: 亀井 秀雄 | 2008年11月 9日 (日) 10時47分
詳細をありがとうございます。私の友達は、
「そうか」と言って、黙って読み返して
おりました。
>平成17年度までは、実習生の受け入れは、
>期間を決めて、2~3名程度。当時の学芸課
>長さん(学芸副館長ではありません)が、
>“学芸員として何を学んでほしいか”を中
>心にカリキュラム(プログラム)を組んで
>いたそうです。
実は私の方でも、北海道文学館が近年、
実習生を急に、積極的に多数受け入れ始めた
ということは、聞き及んでおりました。
それ以前がどうだったかは、分からなかった
のですが、今回、色々と考えてくださって
いたことを知りました。
>ところが、平成18年度、その学芸課長さん
>が他へ転出し、寺嶋弘道学芸主幹が入って
>からは、彼の意見によって、実習生はなる
>べく多く――平成18年度は11人――を受け
>入れ、一人ずつ来てもらう方針に変わりま
>した。
実習生を急に多く取り出したというのは、
実習生をかかえる大学にとって、嬉しい
ことだと思いますが、どういう意図でかに
ついてまでは、知る由もないのでしょう。
>指導についても、カリキュラムらしいもの
>は何も考えられておらず、その時々の文学
>館の都合によって、「させたい」(寺嶋主
>幹の言葉)仕事を与える、というやり方に
>変わりました。
このことを事前に知っていたら、私は友達に、
行くなと忠告したでしょう。
実習生を沢山取るということは、数字の
上で、公への貢献になります。しかも、
お金を払ってまで手伝いに来てくれるのです
から、ありがたい。
>“仕事を手伝ってもらい、では、さような
>ら”という感じに近い扱いだったそうです。
私自身は博物館の資格を持っておりませんし、
会社と同じように考えてはいけないかも
しれませんが、将来への繋がりというのは、
考慮されていなかったのでしょうか。
働かされて、お金まで払って、これでは
実習生が可哀想です。
>実働、○○日間
驚きました。とんでもないことです。
担当業者の入札は来年でしたか。
こうしたことが、
入札に際して少しでも考慮されることを、
道民の一人として、願ってやみません。
今回も匿名で書き込ませていただきした。
ご無礼お許しください。
投稿: | 2008年12月14日 (日) 20時11分