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北海道文学館のたくらみ(44)

亀井志乃「陳述書」その2


【亀井志乃は平成20年8月11日、「陳述書」を札幌地方裁判所に提出した。8月29日の公判において、田口紀子裁判長の確認があり、被告代理人の太田三夫弁護士も「原告の『陳述書』として受理する」旨の発言があった。この手続きによって亀井志乃の「陳述書」は法的に有効なものとなったわけで、ここでは、本人の了解の下に、その「陳述書」を3回に分けて紹介する。道立文学館における組織と業務の実態や、被告・寺嶋弘道学芸主幹が駐在道職員として着任するに至った制度上の変化と、被告の着任後に生じた変化と混乱が具体的に述べられており、裁判の背景や、これまで私が書いてきたことの内的な関連をより具体的に理解して貰える。そう考えたからである。
 裁判はようやく証人尋問の段階に到達し、10月31日(金)の午後1時30分から、被告・寺嶋弘道と原告・亀井志乃の本人尋問が行われる予定だが、特に今回紹介する「陳述書」の内容は、尋問の応答と深い関わりが出てくるものと思われる。少し長い引用になるが、おつき合いをお願いする。
 なお、引用文における文字の色や、人名の表記に関する方針は、「その1」で説明した通りである。2008年10月26日0時25分】

《引用》
Ⅲ章 寺嶋学芸主幹の「着任」
1.いわゆる「北海道方式」について
 慣れ親しんだ8名もの同僚が一遍に異動・退職していった翌日、寺嶋弘道主幹が道立文学館に来ました。(この4月1日の出勤が〈着任〉ではない理由は、私の「準備書面(Ⅱ)―1」11ページ及び甲37号証の1・2・3参照)。寺嶋学芸主幹はその時の意気ごみを、「陳述書」(
乙1号証)において、以下のように述べています。
 
 
「平成18年4月から当館に導入された指定管理者制度は、公の施設の運営を民間に委ね、経費の効率的な執行とサービスの向上をめざす新しい制度です。しかしながら、年月を要す調査研究活動を基盤とし中長期的な運営が必要となる美術館や文学館などの博物館施設においてこの制度が有効かどうかが社会的な議論となり、北海道教育委員会では博物館に適した仕組みとするために、学芸部門の職員については直接配置するという駐在制を導入し、この年から実施に移されました。北海道方式とも呼ばれる新制度は全国から注目され、私が文学館に着任した時はまさに耳目を集める時期にあたっていました。
 注目された点の一つは、二つの組織が協働して施設運営を行うにあたり、それぞれの組織に属する職員の業務内容と指揮命令系統がどのように両立されるかという点にありました。つまり二つの組織によって一体的に運営される一つの博物館のあり方について関心が寄せられていたのです
。」(1ページ 下線は引用者)

 寺嶋学芸主幹は、指定管理者制度下の道立文学館の「全国的」な意義をこのように説明した上で、私が当館への着任にあたって最重要課題としたのは、指定管理者との連携・協働を円滑に進め、職員相互の理解を図り、組織体としての文学館の運営、とりわけ学芸業務に関して滞留なく遂行するということでした(1~2ページ)と、あたかも「北海道方式」推進のミッションを帯びて着任したかのように、自分の着任を意味づけていました。
 そこで早速、
指揮命令をどうするか、連携・協働をどう進めるかについては、毛利正彦館長(当時)とも4月当初から数度にわたって協議を行(2ページ)ったということになるわけですが、しかし、「北海道方式」という言葉は本当に上のような意味だったのか、寺嶋学芸主幹の立場がそのようなものであったのか、疑問がないわけではありません。
 
 まず寺嶋学芸主幹が「全国から注目され」「耳目を集め」ていたと語る「北海道方式とも呼ばれる新制度」についてですが、「北海道方式」という言葉は、平成17年12月15日の北海道新聞の記事(
甲114号証)では次のように使われていました。
 
 
「(前略)道立文化施設の場合、十月に道議会で改正された施設の設置条例には、道が引き続き学芸員を配置すると明記された。それでも不安をぬぐえないのは、条例や指定管理者の募集要項に学芸員の役割を縮小するような記述があるからだ。資料の収集・保管・展示・閲覧、展覧会開催などの業務は今後、指定管理者が主担当となり、学芸員は収蔵資料の『専門的、技術的な調査研究』『保管、展示に関する技術的研究』に徹する。指定管理者に対して『意見を述べる』『求めに応じて専門的事項を行う』という位置付けだ。
 学芸員と指定管理者の関係は
、今春すでに制度を導入した自治体ではどうか。島根県立美術館や岩手県立美術館では、指定管理者が任されたのは施設の管理業務のみ。県の学芸員が引き続き行う学芸業務と完全分離する方式をとった。道内の美術館・博物館でいち早く制度を導入し、地元のビル管理会社が指定管理者となった北見文化センターもこの方式。他方、長崎県と長崎市が出資する歴史文化博物館は、学芸員を含めて施設を丸ごと指定管理者に委ねた初めての例という。
 ほぼ全国一斉の制度導入で「正解」が見えにくいため、決め方は自治体により異なる。道条例は両極の中間的な形態で「北海道方式」とも言える。学芸員は施設運営の責任を負う指定管理者の指揮下ではないが、逆に学芸業務を監督する立場とも言えない。事業の方針が指定管理者との間で食い違う場合、学芸員の意見は尊重されるのか、という不安から、『学芸業務が分割されるだけで利点があるとは考えにくい』と断じる学芸員もいる。」

(平成17年12月15日『北海道新聞』夕刊 下線は引用者)
 
 この記事によれば、要するに「北海道方式」とは、施設の管理業務だけを指定管理者に任せて学芸業務は県の学芸員が引き続き行うという、島根県立美術館の完全分離方式に近いわけですが、ただ、「北海道方式」は指定管理者に運営業務をも任せる形になっており、その点が異なる。この点に注目して、北海道新聞は〈道立文学館に駐在する学芸員は、指定管理者の指揮下に入るわけではないけれども、指定管理者の運営業務の一環である学芸業務を監督する立場ではない。それ故、もし事業の方針が食い違った場合、果たして学芸員の意見が受け入れられるかどうか〉と問題点を指摘したわけです。
 北海道新聞のこの記事のもとになっていたのは、おそらく、道議会の質疑応答を記録した『北海道通信』だったと思われます。というのは、『北海道通信』平成17年10月4日号によれば、平成17年9月20日の道議会で、真下紀子議員が
「『専門的・技術的な事項に関するものは道教委直属で行う』としながら、専門家として配置されている司書も引き上げるとしている。/結局、専門的・技術的な事項についても縮小が懸念されるが、教育長の見解を伺う。」と質問し、それに対して相馬秋夫教育長(当時)が、制度の導入に当たっては、資料に関する調査研究や展示等に関する専門的・技術的事項については、道教委が学芸員を配置して行い、施設の管理運営のための要因については、指定管理者が確保することとし、文学館の設置の目的に沿った運営がなされるよう対応していく。」と答えているからです(甲115号証)。
 こうしてみると、先の北海道新聞の視点と懸念は、真下道議会議員の発言を踏まえたものと見ることができるわけですが、それに対して相馬秋夫教育長(平成14から17年まで教育長。平成18年から北海道立近代美術館館長、現在に至る)は、先のような回答と同じ趣旨のことを、更に2度も重ねて繰り返していました。教育委員会としては、ここが譲れぬ一線だったのでしょう。
 北海道教育委員会が提示した「北海道立博物館条例改正案(素案)」では、「指定管理者が行う業務」として①資料の収集、保管、展示及び閲覧に関すること。②展覧会、講演会等の開催、及び他の行うそれらの催しに協力することなど、8項目を挙げていました。が、大変に特徴的なことは、以上の8項目の下に、わざわざ「※教育委員会は、次の博物館が行う事業に関する業務を行う」という断りを書きをして、①資料に関する専門的、技術的な調査研究を行うこと。②資料の保管、展示等に関する技術的研究を行うこと、の2点を挙げていました
(この場合の「博物館」に道立文学館が含まれることは言うまでもありません)。
 
 教育委員会としてはまだ、それだけでは安心できなかったらしく、「北海道立博物館条例改正案(素案)」の末尾においても
「※ 教育委員会では、この施設が教育・学術・文化の振興を目指す教育機関として機能を円滑に発揮し、さらには、指定管理者制度導入後の施設の住民サービスにおける公平性・中立性を維持していくため、指定管理者が管理運営する博物館に専門的職員を配置し、調査研究等を実施するとともに事業の企画等に係る専門的・技術的な事項に関する業務を行うことを検討しております。」とことわっていました(甲116号証)。要するに相馬秋夫教育長は、道議会で、このような箇所をただ復誦していただけだったわけですが、結局はそれで押し切ってしまったのでしょう。『北海道公報』号外第19号(平成17年10月16日)に掲載された「北海道条例第115号 北海道立博物館条例の一部を改正する条例」の第5条は、相馬秋夫教育長の説明をそのまま生かした形になっています(甲117号証)。

2.財団の提案
 そうなりますと、それでは道が文学館に駐在させる学芸員の位置はどうなるのか、という疑問が生まれ、そこで北海道新聞のような「学芸員は施設運営の責任を負う指定管理者の指揮下ではないが、逆に学芸業務を監督する立場とも言えない」という解釈(あるいは不安、批判)が出てきたわけですが、その点に関して一つの解答を示したのが財団だったと言えそうです。なぜなら財団は、指定管理者として立候補するに当たり、
財団法人北海道文学館は、多くの専門研究員や実作者を組織的に擁しながら長年活動を続けてきた団体である利点を生かし、学芸員に対し最大限の専門的知見と必要な情報、またノウハウを提供することにより、文学館事業の水準を高度に保つべく、連携・協力関係を構築していく。(「北海道立文学館業務計画書」)と、学芸員に対する財団の指導性を強調していたからです(甲118号証)。
 もし、指定管理者選定委員会がこの提案を含む「業務計画書」を選ぶならば、〈道立文学館に駐在する学芸員は、財団の専門的知見と必要な情報、またノウハウの提供を受けつつ、資料に関する専門的、技術的な調査研究や、資料の保管、展示等に関する技術的研究を行うことになり、その業務は財団の運営事業に包摂される〉ことになるわけです。
 
 財団は、相馬教育長の意向に沿う形の組織を構想し、また、教育庁の局長と課長が加わっている指定管理者選定委員会がその構想を受け入れやすいように、組織上の配慮もしていました(
甲118号証参照)。
 1つ目には、財団側の職員であるO学芸員を司書に変えて、嘱託の研究員である亀井と組み合わせ、財団の業務課に属する〈学芸班〉とする。
 2つ目は、駐在の学芸員3人で〈道直轄組織〉を作る。この構想は、後日、A司書を学芸員に変え、S社会教育主事(平成17年度までは主任研究員)と、さらにもう1人、原田学芸課長の後任に当たる学芸員と組み合わせて一つのグループにする形で具体化されました(北海道教育庁の内部では、「文学館グループ」としてカテゴライズされています)。
 指定管理者選定委員会が財団を指定管理者に選び、道がその結論に従ったということは、以上のような財団の提案を北海道教育委員会が受け入れたことを意味します。こうして両者の合意の下に出来たのが、「財団法人北海道文学館(事務局)組織図」
(平成18年4月1日現在)甲2号証)でした。それを見れば分かるように、業務内容と命令指揮系統に混乱が起こらないように整備されています。
 
(それが、私が文学館を雇止めされた直後の平成19年4月1日付け組織図(甲119号証)からは、財団が雇用しているはずの学芸員と司書各1名が、あたかも〈学芸主幹〉の直属であるかのように、図が書き直されてしまっています。これが、平成20年度発行の年報(乙4号証)になると、さらに、財団の学芸員と司書が、財団の業務課と、「北海道教育庁文化・スポーツ課文学館グループ」の両方に属するかのように書き換えられています。)
 
 ちなみに、平成18年4月1日以降、指定管理者制度を導入した道立の博物館施設は、釧路芸術館〔NTT北海道グループ(テルウェル北海道・NTT―F北海道)〕と、北方民族博物館〔財団法人北方文化振興協会〕と、文学館〔財団法人北海道文学館〕の3つでしたが、釧路芸術館(
甲120号証)においても、北方民族博物館(甲121号証)においても、指定管理者の組織と駐在道職員とは決して一体的にまとめられてはいません。むしろ、平成20年の今日(こんにち)に至るまで、完全に切り離した形で記されています。たとえば北方民族博物館では、財団法人北方文化振興協会の方にも「博物館課」はありますが、道職員が上司・財団職員が部下といった序列関係がつけられていたりはしません。
 
 そのようなわけで、以上の経緯に照らしてみるかぎり、学芸員(駐在道職員)の位置づけと任務について、相馬教育長(道教委)と財団との間に理解の食い違いはなかったと思われます。『北海道立文学館の管理に関する協定書』(以下、『協定書』と略)の別紙には、「(学芸員が)指定管理者の求めに応じて行う専門的事項」が明記されていますが、当然これも両者の合意の下に決められたことだったと思われます(
甲35号証)。
 別な言い方をすれば、両者の合意の下に、学芸員(駐在道職員)の立場は「指定管理者の求めに応ずる」立場と規定され、その業務は「専門的事項」に限定されていたことになります。
 1つ、ポイントとして押さえておきたいのは、これまで紹介した議論のどの段階においても、寺嶋学芸主幹が言う
「二つの組織が協働して施設運営を行うにあたり、それぞれの組織に属する職員の業務内容と指揮命令系統がどのように両立されるか」というような問題が論じられた形跡は、少なくとも私の知るかぎり、どこにも見当たらなかったということです。
 北海道新聞は、「学芸員は施設運営の責任を負う指定管理者の指揮下ではないが、逆に学芸業務を監督する立場とも言えない」と、学芸員の位置づけを問題にしていましたが、どうやらフォーマルな形での議論にはならなかったようです。多分財団の提案や、『協定書』の合意事項によって問題は解消した、と見なされたからでしょう。
 なぜなら、北海道教育委員会の職階制における〈主幹〉は、〈グループリーダー〉として位置づけられているからです(
甲122号証)。それ故、道の学芸員である学芸主幹は、同じく道立文学館に駐在する〈文学館グループ〉の学芸員らが、財団の求めに応じた「専門的事項」の業務を遂行するにあたってのグループリーダーでありさえすれば、それで任務は充分に果たしているはずだからです。
 この原則に立つならば、〈文学館グループ〉の業務内容や方針が、財団のそれらとバッティングして、指揮命令系統の問題が起こったりするはずがありません。
 
 なお、念のため付言しますが、先ほどの北海道新聞の記事における「指定管理者に対して『意見を述べる』『求めに応じて専門的事項を行う』という位置づけだ」という文章の前半、「指定管理者に対して『意見を述べる』」は、誤解を招くおそれがないでもありません。なぜなら、このまま額面通り受け取りますと、駐在道職員の学芸員は業務課の仕事や施設の運営と管理に関しても、指定管理者(この場合は財団)に「意見を述べる」ことができることになるからです。しかし、この「意見を述べる」には、『協定書』の第14条によって、次のような縛りがかけられることになりました。
 
「甲(道)は、本施設の事業を円滑に実施するため、乙(財団)が行う文学資料の収集、保管、展示、その他これと関連する事業に関する専門的事項について意見を述べるものとする。」第14条 下線は引用者)甲35号証
 つまり、学芸員が「意見を述べる」ことができるのは、あくまでも「乙(財団)が行う文学資料の収集、保管、展示、その他これと関連する事業に関する専門的事項」に関してであり、財団の組織や、財団の業務課が所管する事項はその範囲には入っていないわけです。
 
3.裏付けのない「北海道方式」
 寺嶋学芸主幹が言う「北海道方式」が、財団と北海道教育委員会とで合意されたものと同じであったならば、寺嶋学芸主幹の立場と任務は既に決まっていました。それは、〈道立文学館に駐在する学芸員は財団の専門的知見と必要な情報、またノウハウの提供を受けつつ、資料に関する専門的、技術的な調査研究や、資料の保管、展示等に関する技術的研究を行う〉ことであり、それ以外でも、それ以上でもなかったはずです。
 ところが寺嶋学芸主幹は、平成18年4月4日に着任するや、まず取りかかったのが「指揮命令をどうするか、連携・協働をどう進めるかについては、毛利正彦館長(当時)とも4月当初から数度にわたって協議を行い、」(乙1号証「陳述書」2ページ)という、組織いじりともいうべき組織介入でした。  
 寺嶋学芸主幹の立場から言えば、“この変革なくして「北海道方式」の実現なし”、ということになるのかもしれませんが、しかしこの組織介入には、ある重要な前提が欠けていました。それは前年度までのやり方に関する評価です。
 
 前にも述べましたように、平成17年度まで、派遣道職員と財団職員との連携・協働は十分にうまく行っていました。また、「平成16年度学芸課事務分掌表」(乙9号証)や「2005年度学芸課事務分掌(案)」(同前)を見れば分かるように、職員が2人1組になって、それぞれの分掌の業務を担当していました。この2人1組のチームは、他のチームとも互いに連絡を取りあい、時には手助けしながら各自の業務を遂行していて、その間、「指揮命令をどうするか」などという問題が起こったことはありませんでした。また、「平成18年度 学芸部門事務分掌」(甲60号証)は平成17年度の末には既に出来ていたものですが、それ以前のものと較べて分かるように、財団業務課学芸班の職員と道の学芸員との組み合わせをさらに一そう有機的なものとしており、連携・協働がスムーズに行われるように配慮されています。
 ですから、もし寺嶋学芸主幹が、“従来のやり方には不都合な点が多かった”、また、“従来のやり方を発展させた「平成18年度 学芸部門事務分掌」には問題点が多い”、と判断したならば、まずそれらの点を具体的に明示しておく必要があったはずです。それらの点を具体的に示しもせずに、駐在の学芸員がいきなり組織改変に着手するなどというのは、越権的独走の謗りを免れません。
 寺嶋学芸主幹はどのように過年度のやり方を理解し、どのような不都合があったと判断したのでしょうか。
 
 寺嶋学芸主幹の組織介入は、その前提となるべき重要な条件を無視して、いきなり「指揮命令をどうするか、連携・協働をどう進めるかについて」、毛利正彦館長(当時)とトップ交渉に入ったと称していますが、なぜそんなに焦ったのか。多分その動機をみずから暴露してしまったのが、被告側の「準備書面(2)」の「着任日には、被告(寺嶋学芸主幹)は平原一良学芸副館長(当時)から平成18年度の事務事業について説明を受けており、「二組のデュオ展」を含め当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである。」(2ページ)という文章です。
 ここで問題なのは、寺嶋学芸主幹が「当該年度に計画されたいずれの事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである。」と自分の立場(あるいは身分、地位)を主張しているにもかかわらず、この主張を裏づけとなるものが、被告側の「準備書面(2)」はもちろん、太田弁護士によって提出された「証拠物写」(乙第1号証~乙第12号証)のどこにも存在しないことです。
 いや、「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」(乙2号証)がある。寺嶋学芸主幹はそう反論するかもしれません。
 しかし、この文書は非合法な文書です。なぜなら、手続き的には「財団法人北海道文学館事務局組織等規程」の第7条に違反しており、しかも法的、制度的な観点から見れば、地方公務員の二重身分(北海道教育委員会の公務員が民間の財団の職員の上司となること)を認める、違法なものだったからです。そしてもう一つ、この「財団法人北海道文学館事務局組織等規程の運用について」なる文書は、寺嶋学芸主幹自身が「陳述書」(2ページ)で認めているように4月18日に慌ただしく作文されたものであり、ですから「着任日」には、実はまだ存在しなかったということになります。
 
 その意味で、「当該年度に計画されたいずれも事業をも着実に推進すべく指揮監督する立場に被告は着任したのである。」という寺嶋学芸主幹の主張は、裏づけを欠いたものでしかなかった可能性が極めて高いと言えます。さらに遡って言えば、私が当館への着任にあたって最重要課題としたのは、指定管理者との連携・協働を円滑に進め、職員間の理解を図り、組織体としての文学館の運営、とりわけ学芸業務に関して滞留なく遂行するということでした」というミッションも、北海道教育委員会から与えられたフォーマルなものではなく、寺嶋学芸主幹が自分の立場と任務を逸脱してしまった事実をとりつくろうための作文だった可能性が高い。なぜなら、平成18年度の1年間に、寺嶋学芸主幹はどれだけ「指定管理者との連携・協働を円滑に進め」たか、どのように「職員間の理解を図り」、「学芸業務に関して滞留なく遂行」したか、そう問うてみた時、肯定的な答えを見出すことはほとんどできないからです。
 また、先ほど整理しておいた、道と財団とによって合意された学芸員(駐在道職員)の立場と任務に関して言えば、寺嶋学芸主幹は業務課の仕事にまで越権的に介入し、しかし「資料に関する専門的又は技術的な調査研究」や「保管、展示等に関する技術的な研究」(「北海道条例」第115号)等の任務に集中している様子は一向に見られませんでした。

Ⅳ章 平成18年度の新たな状況
 指定管理者という新しい制度の実施と共に、私には理解しがたい、不都合な事態が幾つか起こって来ました。その代表的なものを以下、4点紹介します。
 
1.きめ細かな対応の低下
 その1つは、先に述べましたように、主に受付を担当していた4名の女性職員が職を失ったことです。日常面・接客面における館の状況をもっともよく把握し、しかも小回りの利く立場だった4名を欠いたことで、以降、文学館は、様々な業務の支障に直面せざるを得なくなりました。
 財団は新たに民間の派遣会社に依頼して、4名の受付係を派遣してもらうことにしました。と言うと、一応数的には従前と変わりなく見えますが、それまで1日3名・1つの時間帯毎に受付2名のローテーションだったのに対し、新年度からは1日2名・1つの時間帯毎に受付1名
(ただし昼前後の2時間程のみ2人の勤務が重なる)に変わってしまいました。これは、化粧室にもおちおち行けないような最少人数のシフトです。
 派遣されて来た人たちは、人柄や応対の良さこそ以前の受付係と遜色ありませんでしたが、如何せん、前年度までの文学館のシステムや業務内容に通じているわけではありません。来館者からの質問にとまどい、事務室に内線で問い合わせてくることも少なくありませんでした。また、文学館の方としても、契約内容の範囲が〈受付業務〉に限られていたため、もう受付係の人にイベントを手伝ってもらったり、細かい事務仕事をお願いすることは不可能になってしまいました。
 
 このように、指定管理者制度導入のために〈受付〉の体制を変えたことで、結果的には他の職員が多大な業務のしわよせと負担をこうむることとなり、きめ細かな来客サービスの提供も困難になってしまったわけですが、なぜかこういう点に関しては、寺嶋学芸主幹も、館長・副館長も、対策の一つも講じず、問題提起すらしようとしませんでした。のみならず、いつの間にか、受付業務も他のメンテナンス業務と同じく、年度変わりには“公平に”入札を行い、違う派遣会社から新たな人たちを派遣してもらう、という形式が採られることになってしまいました。こうした入札方式を採る限り、今後、受付係の人が1年以上の経験や知識を蓄積することは、まず、望むべくもないということになってしまいます。文化施設にとって〈受付〉とは、外部の方々と間近に接してご質問・ご意見等を真っ先に受けるセクションであり、その責務は学芸員に匹敵するほど重要だと思うのですが、結局、文学館は、そこで“ベテラン”は育たないように、システムを改変してしまったわけです。
 
2.合意的事項の破棄
 2つ目は、それまでに職員間で合意されていたことが、合理的な説明もなく、簡単に破棄される事態が起こってきたことです。
 平成17年度の学芸課長だったH氏は、転出に際して、何点か早急に解決すべき事項を挙げましたが、その中に「資料について、受入手続・薫蒸・リスト作成・装備の済んだものから、図書分類に従って順次配架していく(現在の配架位置の変更が必要)」、「重複の明確な資料については、原則として資料番号を抹消し廃棄する手続きをとる。」という提案がありました
(「引き継ぎ事項について」 平成18年3月29日 課内打合せ書類)甲47―1号証)。何故そのような提案がなされたかと言えば、従来の道立文学館の図書資料の配架方法はジャンル別の配架だったため、様々に不便な点があったからです。
 
 例えば伊藤整の文学的活動は詩・小説・評論・文学史・翻訳等、幾つものジャンルに及んでおり、そのため彼の著書は、それぞれ異なるジャンルの書架に別けて配架されています。他方、中野重治の『夜明け前のさよなら
(改造社 昭和5年)のように詩・短編小説・エッセイで編集されている単行本は、どのジャンルの棚に置くか、実は確たる基準がありません。さらには、〈個人文庫〉として、愛書家や研究者の蒐書が一括して置かれている書架が何本もあり、その中には幅広いジャンルの書物が混在しています。そのため、閲覧室勤務の職員が御客様の請求に応じて書物を取り出すのに手間どったり、逆に、新着図書を登録して、さて配架となった際に、どこに置くべきか、専門の司書でも悩むことがしばしばあり、職員の間では懸案となっていました。
 また、文学館には同じ作品が何冊も所蔵されている場合が多く(これは購入図書と寄贈・寄託資料とが重複することがあるため)、その上、棚には未整理の寄贈資料を入れたままの段ボール箱が何十となく押し込まれていて、スペースを圧迫していました。このままでは、数年を経ずして、深刻な収蔵問題に直面するのは明らかでした。
 H課長はそれらの問題を解決するために、収蔵庫のデッドスペースを徹底調査した上で、転出前の3月29日、課内打合せの席にて〈書庫内資料のリダクションの必要〉性を学芸課職員に提案しました(
甲123号証 甲47―1号証の続き)。提案の骨子は、主に、〈図書分類法に従って配架し直すこと〉と〈重複本は初版本・再版本など版の異なるものはそれぞれ1部ずつ残し、同じ版のものが複数存在する場合は重複するものを処分すること〉でした。提案は、学芸課の職員全員により了承されました。
 またそのためには、未整理の寄贈資料も組み込んだ、正確なデータベースの作成が不可欠です。H課長は、作業に必要な人員(アルバイト)・日数・費用を、未登録資料の概数に基づいて算出しました(
甲123号証参照)。また、業務課のK主査らは、H課長の調査結果を参照した上で、平成18年度予算の「資料収集保存等事業費」として9,220,000円(前年度予算額は6,485,000円)を計上しました(甲124号証)。付言しますと、この予算額は、単にH課長やK主査の判断のみで恣意的に配分されたわけではありません。もともと、指定管理者制度導入の第1年目は、館内の資料整理のために例年より多めの予算を確保することになっており、彼らは要するに、そこに調査の裏付けと根拠がある金額を割り振ったわけです。
 H課長が書庫内のリダクションを提案した打合せ会には平原学芸副館長も同席しており、甲123号証の資料に対して「これだけ詳しいものがあれば、実際の作業をする上でも大変参考になる。ありがとう、ありがとう」と何度も御礼を述べていました(
甲125号証)。
 ところが、それから16日後の4月14日(金)、私は、平原学芸副館長と寺嶋学芸主幹によって会議室に呼び出され、〈4月13日の打合会〉の結論として、「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」という事務分掌を手伝うように
(「準備書面(Ⅱ)-2」5ページ参照)依頼を受けましたが、その時、平原学芸副館長は「ここからは、雑談と思ってほしいんだけどね」との前置きで、突然、図書資料の配架替えに関する合意事項を「チャラにする」と言い出しました。その理由は、以下のようなものでした。
 「H君は、10進分類法で配架することを提案していたけれど、ここはあくまで文学館であって、図書館じゃないんだ。」
 「H君はね、去年、司書の資格を取りに行ったわけですよ。そして、司書のアタマになって帰って来たわけだ。それで、10進分類法が如何にすごいかって思って帰って来たわけなんだけど、ぼくは、10進分類法がそんなにいいものだ、なんて思っていないんだよね。」
 「ぼくは、Hさんのアイデアを聞いたとき、わかった、とは言ったが、いいよ、とは一つも言っていないわけよ。」
 しかし、文学館の配架方式とはどういう考え方に基づいているのか、なぜ文学館の業務にとっては現在の配架のほうが望ましいのか。また、この「チャラにする」方針が実際に〈4月13日の打合会〉で了承されたことなのかどうか。それらの事柄については、何らの説明もありませんでした。私は、“今年度は資料整理の予算が大幅についているが、来年にはそれはないと聞いていたので、どんな配架方式にせよ、今年はアルバイトを雇って資料整理をある程度進めた方がよいのではないだろうか”と尋ねてみましたが、平原氏は「今年整理しなくても、予算は4年間でついているのだから、金は来年以降も使える」と言い、再考する様子はありませんでした(以上、
甲125号証参照)。
 ところが寺嶋主幹は、ことが〈書籍資料の保管と活用〉という、学芸員にとっては最も重要な専門的事項の問題であったにも関わらず、一言の意見も述べることなく、平原氏と私のやりとりを、ただ側で黙って見ているだけでした。
 
 もう一例を挙げるならば、先述したように、財団法人北海道文学館は北海道教育委員会に『北海道立文学館業務計画書』を提出したわけですが、その計画によれば、平成19年度の特別企画展は「八木義徳と北海道の作家たち」と「作家は自然をどうとらえたか―『描かれた北海道』からの問い―」であり、企画展は「遥かなるサハリン~極北をめざした作家たち~」となっていました。ところが、道立文学館の幹部職員は平成18年の段階で、19年度の予定を「太宰治の青春~津島修治であったころ~」と「目で見る川柳250年」、及び「父・船山馨のDNA 船山滋生の彫刻と挿画」に代えてしまいました。
 八木義徳展やサハリン関連の展示は、指定管理者の選定委員会によって
「北海道にゆかりのふかい文学者や文芸作品を中心とした、時代を超えた多様な視点からの問題提起的で魅力的な文学に関する展示(平成18年度)、北方文学に影響を与えたサハリン関連文学に関する展示(平成19年度)を始めとする指定期間における展示計画などの提案内容が優れており」と評価された、いわば、財団が指定管理者に選ばれる決め手となった展示計画だったと言っても過言ではありません(甲126号証)。ところが、そのかなめというべき展示案が、北海道とはほとんどかかわりのない太宰治展や、川柳展に差し替えられてしまったのです。
 この変更は、複数の理事と評議員によって構成される企画検討委員会に諮られ、一応の手続きを経て承認されました。ですから、表面上は何の問題もなかったように見えますが、もし平成17年度までのやり方が守られていれば、当然こうした重要な変更は、何より先に、職員全体会議あるいは学芸課の課内打合せ会で諮られたはずでした。しかし、企画検討委員会に出席する幹部職員はその手順を踏まず、逆に、企画検討委員会の結論を職員に押しつける形を取ったのです。
 寺嶋学芸主幹は駐在道職員の最年長者であり、であればこそ本来は、道と財団が契約した展示計画の実現に最も力を尽くすべき立場の人であるはずです。ですから、例えば、このように安易な企画変更が行われそうになった場合にこそ、「教育委員会と道民に対する約束違反ではないか」と、財団の幹部職員か企画検討委員会の委員に対して、異議申し立てをするべきでした。またそれこそが、指定管理者に対して〈意見を述べる〉という役割の本旨だったはずです。私はそう考えますが、しかし、主幹はまったくそういう行動を取ることなく、財団の、道教委と道民に対する不誠実なやり方に同調してしまったようです。

3.意思決定プロセスのブラックボックス化
 以上のことからも分かるように、平成18年度には、職員の合意を形成する手続きがおろそかになり、文学館としての意思決定のプロセスがブラックボックス化されてしまいました。これが、3つ目の重大な問題点です。
 
 平成17年度までは、これまでにも「準備書面(Ⅱ)―3」や本陳述書で触れてきたように、毎月の学芸職員による打合せ会が持たれたのですが、平成18年度からはそれが廃止になり、毎週火曜日の〈朝の打合せ会〉に変更されてしまいました。
 当初、この変更については「打合せ会が毎月単位では、様々な変更があった場合に皆への周知がおいつかず、きめ細かな対応が出来ない。だから毎週打合せ会をもつことにして、誰もが仕事をかかえこむことなく、透明性が高く風通しのいいやり方にしてゆきたい」と、平原学芸副館長から説明されていました。私自身は、本陳述書Ⅰ章の3、およびⅢ章の3でも述べましたように、従来の在り方でなんらの不都合も感じたことはありませんでしたので、この変更を少し怪訝に思いましたが、それでも、以前よりよくなるのであれば構わないだろうと、黙って従っていました。
 ところで、業務スケジュールや業務内容の重要な変更などは、普通、そうそう1週間ごとに出てくるものではありません。従って最初のうちは、実際、各人の年休や出張の連絡があるくらいで、ほとんど打合せらしい打合せにはなりませんでした。
 ところが結果的には、いつしかそのやり方が、〈既定路線〉にすり替えられる口実を作ってしまっていたのでしょう。気がついた時には、寺嶋学芸主幹が
「打合せ会は、すでに決まったことを報告するところ」(原告「準備書面」15ページ)と平気で公言するまでに簡略な内容のものに変質してしまっていたのです。本当は、その時点でさえ、会の司会だったS社会教育主事が言うように「どんなことを言っていいとかいけないとか、何も決まりや申し合わせはありません」(同前 16ページ10~11行目)ということだったはずです。また決して「毎週1回5分程度の打合会がその週の日程確認を主とした連絡の場だからであって、事務事業に関して協議する場とはなっていなかった」(被告側「準備書面(2)」6ページ)というような時間制限などなかったはずなのですが、結局は、寺嶋学芸主幹の方針に押し切られた形となってしまいました。
 
 このような寺嶋学芸主幹のやり方は、〈決定過程のブラックボックス化(より正しくは、合意形成手続きの無視)による「決まったこと」の押しつけ〉と呼ぶことができると思います。寺嶋主幹は、平成18年10月28日、私に対して、5月2日の時点で私(亀井)が文学碑の写真を撮りに行くことに決まっていたなどと、そもそもその席で話題にすらならなかったことを持ち出し、私の「怠慢」を非難しましたが、これなどは、「決まったこと」として押しつけるやり方の、最も悪質な例と言えるでしょう。
 逆に、寺嶋主幹自身のことで言えば、主幹は自分が主担当の「聖と性、そして生」(平成19年1月13日~27日)という企画展を中止にしてしまいましたが、職員に対する経緯説明等は、一切行いませんでした。また、平成19年1月31日には、特別展示室の入口を塞いで「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」(2月3日~8日)という写真展を設営し、そのため私とA学芸員は「二組のデュオ」展(2月17日~3月18日)の準備期間を大幅に削られてしまいましたが、この時も、寺嶋主幹は、事前には何一つ職員に周知せず、写真展を開始した翌週火曜日の朝の打合せ会になって、やっと「写真展をやることになりました。……今、やっております」と、不明瞭な口調で報告したに過ぎませんでした。

4.恣意的な予算執行
 4番目には、出来るだけ決められた予算内で自分の仕事を進めようとする心がけが薄れ、他の事務分掌に割り当てられた予算を尊重するルールが失われたことです。
 
 平成18年5月12日(金)、寺嶋学芸主幹は私とA学芸員を呼んで、「『啄木展』のところで予算を大幅に超過している。『啄木展』と『池澤夏樹展』であとどれだけ予算が使えるかを出すために、急遽、支出予定の内訳を算定してもらわなければならない」と言い、来週までに「二組のデュオ」展の支出予定の内訳を文学館のサーバー内の所定の場所にアップしておくように、と指示しました(
甲27号証)。本来「啄木展」の担当はS社会教育主事と私だったのですが、主幹は私に一言のことわりもなく「啄木展」に介入して私を排除し、しかも、本来、平原学芸副館長か川崎業務課長が扱うべき予算面のことにまで介入して、自分と鈴木主事とが出した赤字を埋め合わせるため、私が主担当の「二組のデュオ」展の予算にまで手を出そうとする。そうした横暴なやり方が、まるで大義名分に基づいた正論であるかのようにまかり通るようになったわけです。
 
 この「啄木展」は、当初は3,712,000円を組んであったのですが、最終的には5,399,027円を支出し、180万円ほど超過してしまいました。その一番の原因は、日本近代文学館から資料を借りる資料借入費が当初の見積りでは100万円だったところ、実際には315万円に跳ね上がったためです(
甲28号証)。
 この大幅な増額については、他の職員も、当然疑問を感じたのでしょう。平成18年6月7日には、平原副館長(当時)・S社会教育主事・川崎業務課長・N主査らが集まり、事務室において、啄木展予算に関する打合せ会を行いました
(なお、私は「啄木展」から疎外されてしまった立場で、この時もまったく声がかかりませんでしたので、参加はしませんでしたが、自席で業務を続けながら聞くともなしに聞いておりました。打合せ会は事務室中心部の来客ソファーがある場所で行われましたので、彼らには、内容を極秘にする意図はなかったと思われます。)
 
 この時、平原副館長は、「当初予算の3,712,000円という見積り額は、前年度2月頃の段階で、当時のK主査が決めてしまった額だ」と言い、「貸借料の315万円は高いようだが、アイデア料も、キャプションの文案も、パネルもすべて込みの金額で、決して高くない」と説明していました(
甲127号証)。
 しかし、一般に博物館(文学館・美術館を含む)同士で資料の貸し借りをする場合は、基本的に貸借料は無料です。文化施設同士は文化振興のためには資料協力等を惜しまない、という精神がベースにあるからです。そのため、貸借の際には、通常、輸送の最中および展示中の万一の事故のための保険料がかかる程度です。
 ただ、財団法人日本近代文学館は元々地方自治体などの支援を受けておらず、手持ちの資料を、単価いくらという有料で貸し出して運営資金としています。そのため、道立文学館も貸借に際してある程度まとまった金額を支払うことになったわけですが、それにしても、アイデア料やキャプションの文案代まで込みで支払うなど、常識的にはあり得ない話です。
 平原副館長は、日本近代文学館から借りる資料の多くが〈本道初公開〉の〈お宝〉であることをしきりに強調していました。しかし、実は、その半数以上が、昭和61年に市立小樽文学館が開催した「石川啄木・小樽―北の旅」展で既に公開されていたものでした。当時、それらの資料はさる啄木研究家の個人蔵だったのですが、後に、それらがまとまって日本近代文学館の手に渡りました。それを今度は、道立文学館が、常識外の金額で日本近代文学館から借りることになったわけです。
 なお、後日のことですが、N主査はさすがに長年経理事務に携わってきた人ですから、6月28日にも、「貸借でこれだけ料金がかかるからには、明細はちゃんとあるのでしょう?」としきりに気にして寺嶋学芸主幹に問いかけていました。しかし、寺嶋主幹は、“それは要するにパッケージ代だ”“同じ展覧会を他の文学館が日本近代文学館から借りてやっていたとしても、ケースバイケースだから、皆(料金の)条件は違う”と質問をかわし、挙げ句の果てには
(この時の啄木展のパッケージについて)それは、要するに、デパートなんかでやる展覧会と一緒で、全部一まとめにしてお貸しするから、頭を使う必要はないですよ、っていう事の自嘲を込めて(当館が)言っていることじゃあないですか?」と、平原副館長が採用したパッケージ方式そのものを鼻先であしらうような言い方をして、N主査を黙り込ませていました(甲128号証)。
 
 再び、話を6月7日の啄木展予算に関する打合せ会の時に戻しますが、この時平原副館長は、さらに講演料に関しても、「今までは年に2つの特別企画展に14万円の講師料がつき、1回(1人)につき7万円だったが、しかし、『なぜ7万円か』という問題も起こる。3段階くらい、ランク付けを行わないとならない。『啄木展』で講演してもらうのは、日本近代文学館の理事長・中村稔氏なので、15万円。『池澤夏樹展』の池澤夏樹氏は“バリバリの現役”だから、当然それより高い。また、高い金額でないと来てくれない」と主張し、結局、その言い分が通ってしまいました(
甲127号証)。また、この時の合意をもとに新しい「財団法人北海道文学館の事業等に係る講師等謝礼(金)等の基準」(甲129号証)という文書が作られましたが、その日付の箇所には「平成18年4月1日理事長決定(ゴチは引用者)と記されています。しかし、実際の作成月日は6月7日以降であり、また、私の知る限り、決定過程に神谷理事長は関わっていません。多分、知らせたとしても、事後承諾だったと思われます。
 
 このように、平成18年度の道立文学館の中では、極めてご都合主義的・恣意的に出費の方針を決めてしまう体質が生まれ、「人生を奏でる二組のデュオ」展の主担当だった私も、否応なくその渦中に巻き込まれてゆきました。「二組のデュオ展」の予算も、当初は1,516,000円という金額がついていたのですが、結局は、その半分近くにまで予算執行を抑えざるを得ませんでした。余った金額は、おそらく他の展覧会の赤字補填にまわったのだと思われます。
 しかしながら、「二組のデュオ」展からまわすことが出来た金額は、僅かに70万円強にすぎません。多分、それ以外は「資料収集保存等事業費」から流用したのではないかと思います。なぜなら、先に「2.合意的事項の破棄」で述べたように、平成18年度は図書資料整理のため、小松主査が算段して、前年度よりも270万円ほど多い922万円を「資料収集保存等事業費」に当てていたからです。ところが一方、4月14日の時点で、平原学芸副館長(当時)は、寺嶋主幹同席のもと、私に面と向かって、図書資料の配架替えは「チャラにする」と宣言しました。おそらく、既に2人は、早くもこの時、「資料収集保存等事業費」に目を付けていたのでしょう。
 
 ちなみに、平成18年2月23日(木)の理事会・評議員会で決定された、平成18年度「指定管理業務特別会計
(『北海道文学館報』第65号 平成18年4月25日発行)甲124号証)によれば、
 「資料収集保存等事業費」の予算額は9,220,000円(前年度予算額は6,485,000円)、
 特別企画展①(啄木展)の予算額は3,712,000円(前年度予算額は3,034,000円)、
 特別企画展②(池澤展)の予算額は3,612,000円(前年度予算額は3,052,000円)、
 企画展(二組のデュオ展)の予算額は1,516,000円(前年度予算額は1,141,000円)
となっていました。
 ところが「平成18年度収支計算書(指定管理業務特別会計)」
(『北海道文学館報』第69号 平成19年6月15日発行)甲130号証)によれば、
 「資料収集保存等事業費」の予算額は7,620,000円(決算額は6,564,748円)
 特別企画展①(啄木展)の予算額は5,490,000円(決算額は5,399,027円)
 特別企画展②(池澤展)の予算額は3,630,000円(決算額は3,574,012円)
 企画展(二組のデュオ展)の予算額は820,000円(決算額は778,301円)
となっています。つまり、平成18年度直前に決まった予算額と、平成18年度後の収支計算書における当初予算額とは大幅に異なっており、数字の操作が行われたことは明らかです。この誤魔化しによって、文学館は、対外的に、当初の予算額をオーバーすることなく支出が行われたかのように装うことが出来たのだと言えるでしょう。
         《「その2」の引用終わり。なお、本文中傍点の箇所はゴチック体に改めた》
 

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北海道文学館のたくらみ(43)

亀井志乃「陳述書」その1

【亀井志乃は平成20年8月11日、「陳述書」を札幌地方裁判所に提出した。8月29日の公判において、田口紀子裁判長の確認があり、被告代理人の太田三夫弁護士も「原告の『陳述書』として受理する」旨の発言があった。この手続きによって亀井志乃の「陳述書」は法的に有効なものとなったわけで、ここでは、本人の了解の下に、その「陳述書」を3回に分けて紹介する。道立文学館における組織と業務の実態や、被告・寺嶋弘道学芸主幹が駐在道職員として着任するに至った制度上の変化と、被告の着任後に生じた変化と混乱が具体的に述べられており、裁判の背景や、これまで私が書いてきたことの内的な関連をより具体的に理解して貰える。そう考えたからである。
 なお、これまで私は引用文を赤字で表記してきたが、そのやり方を踏襲すると、以下の紹介は全て赤字となり、読んで下さる人の目に過大な負担をかけることになりかねない。その点を考慮して、亀井志乃の「陳述書」の紹介にかぎり、文字の色は、全て裁判所に提出したままとした。
 ただし人名については、財団法人北海道文学館の管理職、及び駐在道職員の被告の名前は明記したが、それ以外の人の名前は頭文字のみに変えた。地名も頭文字のみに変えた。理解しにくい箇所もあるかもしれないが、ご了解をお願いする。2008年10月21日】

《引用》
 今般の原告・亀井志乃の訴えの趣旨については、平成20年3月5日付「準備書面」にほぼ全容を記し、また被告側の反論に対する再反論については、平成20年5月14日付「準備書面」(Ⅱ)-1」「準備書面(Ⅱ)-2」「準備書面(Ⅱ)-3」の3通の書面においてほぼ尽くしております。
 そこで、このたびの本陳述書におきましては、これまでの被告との書面のやりとりでは触れることが出来なかった、私が平成16年に勤務し始めてから平成19年3月末日に雇止めされるまでの、北海道立文学館の状況の変化を中心に、
 Ⅰ章 平成16年度及び17年度の状況 (1ページ)
 Ⅱ章 指定管理者決定前後 (6ページ)
 Ⅲ章 寺嶋学芸主幹の「着任」 (9ページ)
 Ⅳ章 平成18年度の新たな状況 (16ページ)
 Ⅴ章 寺嶋学芸主幹について (23ページ)
 Ⅵ章 パワー・ハラスメントのアピール以後 (31ページ)
 Ⅶ章 おわりに (33ページ)
の順序で申し述べさせていただきたいと思います。

Ⅰ章 平成16年度及び17年度の状況
1.勤務を始めた頃の文学館
 平成16年7月16日、私が財団法人北海道文学館の研究員の職に就いた時、文学館の業務は、セクションとしては〈学芸課〉(学芸事務担当)と〈業務課〉(一般事務担当)に分かれ、また職員構成としては〈財団職員〉(財団法人北海道文学館が雇用)と〈道職員〉(北海道教育委員会が派遣した職員)とが混在する形で行われておりました。(
甲111号証) 
 この頃、道職員は、北海道教育委員会が財団法人北海道文学館に〈派遣〉するという形をとっておりました。そのため、道職員は〈学芸課長〉〈業務課長〉といった財団職員の役職名を担い、内部的にはなんらの矛盾も生じることなく、業務にあたっていました。
 なお、話の前提として重要なので説明しておきますと、私が文学館に勤め出した時期は、実は、館の内部組織が一つ大きく転換した時期でもありました。もちろん、私自身は、ずっと後になってから知ったことです。
 まず、課の名称が変更になりました。平成16年5月まで、内部には〈事業課〉と〈管理課〉という2つの課があったのですが、6月から〈事業課〉が〈学芸課〉、〈管理課〉が〈業務課〉と呼び方が変わりました。(
甲111号証参照)
 同時に、管理体系も変わりました。それまでは、組織の上から順に館長・副館長、そして副館長の下に事業課長と管理課長がいて、それぞれ〈事業課〉(学芸部門)と〈管理課〉(一般事務部門)のまとめ役を果たしていました。そのうち事業課のほうには、2人の道派遣学芸員と1人の道派遣司書、2人の財団直属学芸員(うち1人は平成16年3月末に退職)、そして、平原一良事業課長が所属していたわけです。
 ところが、5月末に課の名称が変更になると同時に、平原事業課長が昇格する形で〈学芸副館長〉となり、A学芸員が〈学芸課長〉となりました。実はそれまで学芸副館長という役職はなかったのですが、この時初めて副館長と比肩するポストとして新設されたのです。
 その結果、組織図は、毛利正彦館長の下に安藤孝次郎副館長と平原一良学芸副館長が並び立ち、そして副館長の下に業務課長―業務課職員、学芸副館長の下に学芸課長―学芸課職員が配置される形となりました。(
甲112号証
 私が平原学芸副館長からメールで声をかけられ、北海道立文学館で働くことになったのは、こうした組織改編があった直後の6月12日のことでした。(
甲113号証

2.雇用の経緯
 平原氏のメール(
甲113号証)にもあらまし書かれておりますように、当時、私は、私が雇用されたのは学芸職員が1人抜けたためであり、ただ、財団には今金銭的な余裕がないので、申し訳ないが、正職員ではなく嘱託という待遇でしか雇うことが出来ないのだとの説明を受けていました。
 それでも私は、2つの理由で満足でした。1つは、平成14年にアメリカから帰国して以来、私には、北海道教育大学釧路校で集中講義の非常勤講師を勤める以外には収入の道がほとんど途絶えていたので、毎月報酬がいただけるお話は何よりありがたいことでした。
 そしてもう1つは、学芸員になるのが、大学院の頃からの私の夢だったからです。
 
 私は10代の頃から文学と美術の両面に常に関心を持ち、博士論文のテーマは『明治芸術思想研究 幕末~明治二十年代・〈芸術〉思想の発生』でした。幕末から明治へと時代が移行し、西洋からの文物が否応なく流入する時期に、日本の知識人がAesthetic やArtの観念をどのように理解し、翻訳していたか。また他方では、日本の絵師や仏師など、〈美術〉や〈芸術〉などの観念とは無縁に生きてきた職人たちが、西洋の絵画や彫刻に接してどのような衝撃を受け、いかに自分たちの技術でその表現に肉薄しようと工夫を重ねていたかについて、調査・研究を行いました。同時にこの時期には、日本の工芸品や絵画を西洋に紹介するという新たな役割を担う人々も輩出するわけですが、彼らがどのような試行錯誤を経ながら西洋の博覧会や博物館・美術館の制度を理解し、日本に実現しようとしたか、等についても調査を重ねました。そして、以上のリサーチに基づき、日本における〈芸術思想〉の諸相を明らかにしようと試みたのです。
 その後私は、『白樺』という、文学史だけでなく美術史の面でも重要な役割を果たした明治~大正期の雑誌の研究へと進みましたが、その過程で、〈白樺派〉の主要メンバーが育った〈学習院〉という教育機関の内部構造に着目しました。〈学習院〉は、当時の日本の中でも最も多種多様な階層の子弟が集まる、異種混淆的(ハイブリッド)な空間でした。そして、そういう空間だからこそ、その中で友情を育んだ学生たちの間に、互いの個性を尊重する志向が生まれてきたのだと言えます。私は、そうした志向を共有した学習院の青年たちの芸術運動と、ドイツにおけるユーゲントシュティールの芸術運動との類似性に注目し、それを〈世界的同時性〉という観点から捉えかえす試みを行いました(「学習院の青年たち(ユーゲント)」 『文学』平成14年11月・第3巻第6号掲載 岩波書店)。
 このように研究を進めてきた私にとって、文学と絵画との関係を〈展示〉というアトラクティブな形で表現でき、しかも教育普及に生かせるという学芸員の仕事は、非常に魅力的に思えたのです。
 私が「人生を奏でる二組のデュオ ―有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二展―」(以下、「二組のデュオ」展と省略)という展示を構想したのも、〈白樺派〉に属する有島武郎と里見弴という兄弟を縦軸とし、有島武郎と木田金次郎との子弟関係、里見弴と中戸川吉二の友情という二組の組み合わせを横軸として、当時の〈北海道〉という場が有していた創造力のポテンシャルを明らかにしたいと思ったからでした。
 
 ただ、私が〈学芸員〉という進路の可能性に気づいたのは北海道大学の大学院修士課程の頃でした。以前に在籍していた藤女子大学には、学芸員の単位を履修するコースがなかったためです。そのため当該コースの受講が他の学生より遅く、また当時の北大文学部の事務が学部学生のほうを優先して学芸員実習の割当をする方針を取っていた事情もあり、実習単位のみ未履修のまま大学院を終えることになりました。しかし、その他の単位はすべて履修しましたし、他方、専攻分野では修士号および博士号の両方を取得しました。ですから自分としては、たとえ期限に定めのある雇用であっても、実習相当の単位ないし業績の裏書きをしてくれる文化施設で働く機会を得たいと、ずっと心がけて探していたのです。そんな私にとって、道立文学館研究員の仕事の話は、願ってもないチャンスでした。

3.文学館の雰囲気
 そして私は文学館に通い始めたのですが、当時の私の目から見ると、その頃の道立文学館は、業務が非常にスムーズに進められている、和気靄々とした職場のように見受けられました。私は以前、ボランティアとしてデータベース作りを手伝ったことがあり、その時何人かの方たちと顔見知りになっていましたが、そのことを差し引いて考えても、事務室の雰囲気は心地よいものでした。
 その基となっていた一番の要素が、職員同士の協力体制の緊密さです。学芸課5人、業務課4人という小人数な所帯だけに、互いの話もすぐ通じやすかったのです。それに学芸課には、毎月下旬頃に必ず〈課内打合せ〉があり、平原学芸副館長も交えながら、今後1ヶ月間の見通しと各人担当範囲の必要事項を伝達し合っていました。次の打合せ会までの間に生じた細かい変更点も、昼休みや仕事の合間に交わす雑談の中で、自然に皆に伝わるようになっていました。
 また、その頃中心となっていた学芸員諸氏は、皆、道立文学館の成長と共に歩んできた人たちでした。そのため、文学館に関する知識やノウハウが豊富でした。
 道立文学館が開館9年目を迎えた平成16年当時、たしか、A課長(年齢は50代)とO司書(30代)がほぼ勤続9年、H学芸員(40代)が勤続6年目だったと記憶しております。文学館展示室の構造と機能に即した展示のノウハウ、各業務の手順の構築方法、各界の文化人や業者との間の協力関係等は、道立文学館発足以来、この人たちが時間をかけて築き上げてきたものでした。それに彼らは、自分たちが単に“文学館の学芸員(ないしは司書)である”だけに留まらず、“博物館相当館におけるプロフェッショナルの学芸員であり、またそれを目指さなければならない”という自覚を明確に持っておりました。この人たちと一緒にいられた期間は、結果的には短かったのですが、学芸員の心構えから、日常的な業務・作業の心得事に至るまで、教えられることが非常に多かったと感謝しています。
 他方、もともと2人いた財団直属の学芸課職員のうち、M学芸員は春に退職していましたから、私が勤めた頃はO学芸員のみでした。O学芸員(50代後半)は、財団法人北海道文学館の立ち上げ(昭和42年)の頃から、その中心的メンバーに協力する形で関わり続けてきた職員で、道派遣の学芸員とは異なるスタンスを持ち、そのためか、関心はやや自分の専門範囲に集中しているきらいがありました。しかし、北海道文学研究の過去から現在にわたって様々な事情を熟知しているという点で、O学芸員の存在もまた貴重でした。
 
 さらに特筆すべきは、その頃の学芸課と業務課のコンビネーションのよさと、職員全体の仲のよさでしょう。業務課の構成は、当時、道派遣職員の課長(平成16年度・N課長/平成17年度・M課長)・主査(平成16年度・M主査/平成17年度・K主査)・主任(Y主任)が各1人ずつと、財団職員のN主任(50代)の計4名。この課では、道派遣の職員同士も、互いに率直に言いたいことを言い合うという開放的な関係にありましたが、もう1人、業務課唯一の財団職員で一番年長のN主任(O学芸員と同じ頃から文学館に関わっていた)の存在は大きかったと思われます。N主任は、普段から、到来物のお菓子でちょっとしたティーブレイクを演出したり、レクリエーションの企画などを立てては、学芸課・業務課のへだてなく、皆の気持ちを結びつけていました。また、N主任とY主任(30代)とが、年の差を越えて非常に親しかったことも、職場の雰囲気を盛りあげる上では大切な要因だったと思われます。
 ここで忘れてはならないのは、その当時いた4人の道派遣の受付職員諸嬢のことです(NR主事・M主事・S主事・NS主事)。彼女たちは、立場こそ非常勤職員でしたが、しかし最も勤続が長い人は文学館の発足以来、また一番短くても約3年と、それぞれ、相応の年月を道立文学館と共に送ってきた人たちでした。これら、若くて明るく(20~30代)、文学館に関する知識が豊富で、しかも気働きのいい受付職員は、文学館を利用するお客様方に絶大な人気がありました。また、彼女らはN主任が企画する子供向けイベントにも積極的に参加し、絵本の語り聞かせや人形劇に協力していました。その傍ら、展覧会の看板・標識作りや入場券のナンバリング、印刷物の送付など、日常業務につきもののこまごまとした雑事にも嫌がらずにてきぱきと対処し、言わば小回りの利く遊撃手的な役割も果たしてくれましたので、他の職員は、業務課・学芸課を問わず、どれほど助けられていたか知れません。
 
 時々は私も、こうした元気な皆さんに誘われて、退勤後に日本ハムファイターズの応援に行ったりしました。安藤孝次郎副館長が大のファイターズファンだということも、この時に知りました。(なお、「皆さん」といっても、毛利正彦館長や平原学芸副館長は、こうした折にはほとんど同行しなかったことを付記しておきたいと思います。)
 また、時にはケーキバイキングに繰り出すこともありました。忘れられないのは、平成17年9月29日、企画検討委員会で私の案が工藤正廣理事に「こんなもの」と決めつけられた時のことです(原告側「準備書面(Ⅱ)―3」9~11ページ参照)。この日は、ちょうど、N主任やA司書ら若い女性陣と誘い合わせて、道・札幌市・商工会議所等が主催の大規模なスイーツバイキングに行く日と重なっていたのです。私にとって委員会の後味は悪いものでしたが、この時の同行メンバーはほとんど会議に出席していなかったので何も知りませんでしたし、それに、いざバイキング会場に着いて、みんなでお皿に山盛りに取ったお菓子を比べあい、賑やかに分け合って食べているうちに、嫌な気分などいつのまにか消し飛んでしまいました。皆の明るさが、心を晴々させてくれました。
 今、このように記していても、私の耳の奥には、その時の皆の笑いさざめきがよみがえってくるような気がいたします。
 
 なお、ここでいったん当時の事務室の職員構成を整理しておきますと、副館長が常に事務室にいて、他には学芸課5名・業務課4名・受付4名(所属は業務課。毎日3名が出勤し時間帯ごとに交代)の計14名。平原学芸副館長のみは、もっぱら廊下をへだてて離れた会議室で業務を行っていました。

 今から考えて、私にとって非常にありがたかったことは、普段、自分の依託された業務をこなしながらも、その合間に皆の会話に耳を傾けてさえいれば、様々な知識が、徐々に、だが確実に自分のものになっていったということです。誰も、私が新参者だからといって、ことさら呼びつけて〈指導〉したり、行動にチェックを入れたりする人はいませんでした。その点は、私の後から館に異動してきたA司書(当時。平成18年度より学芸員)やS主任研究員(当時。平成18年度より社会教育主事)に対しても、何ら変わりがありませんでした。
 道所管の文化施設には、道立文学館の他に文学館はなく、その意味では、異動してきた人はすべて〈文学館〉について素人なのだと言えなくもありません。その点に関するかぎりA氏・H氏にしても同様であって、二人の前職はまったく異なる分野でした(A氏の専門は北方民族文化研究。H氏の専門は社会学で、前職は教員)。
 しかし、別の面からみれば、皆には、基本的に“学芸員の資格を有する”という共通項があります。その基盤に立った上で、北海道立文学館の主要資料である〈北海道の文学〉に関しては、誰もが、実務をこなす過程で前職との接点を模索し、自分なりのアプローチを試みながら、文学館職員としての専門知識を深めるようにしておりました(例えば、A氏はサハリンをテーマにした文学を中心に研究していた、等)。各人が前職で積み重ねてきた知識・経験を尊重する。それがまた、文学の見方を多面的に、豊かにしてゆく。道立文学館の職員の姿勢は、そのような方向性で貫かれていました。
 そして私もまた、知識ばかりでなく、そのような姿勢を身につけられるようにしたいと思うようになり、文学館の仕事自体にも誇りと愛着を持つようになっていきました。
 

Ⅱ章 指定管理者決定前後
1.変化の予兆
 このように、当時の北海道立文学館は、私がこれまで経験した中でもっとも勤め甲斐のある職場でしたが、しかし思い返しますと、実のところ、私が入った直後からすでに、或る変化の兆しが始まっていたように思われます。
 まず、私が勤務を始めて1ヶ月半後の9月末日、学芸課の職員の中では一番勤続年数が長く、書籍資料に関して最も知悉していたO司書が、北海道立図書館に異動することになりました。後任にはA司書(当時20代後半)が入ることになりました。前職は、C市立図書館の司書とのことでした。
 その年度末には、O司書と同様に勤続の長かったA学芸課長が、北海道教育委員会生涯学習部文化課主査として転出することになりました。これは、北方民族博物館(A市)・北海道立文学館という2つの館の学芸員を歴任したベテランの学芸課長が、文化課の一般事務職に異動させられるという人事であり、他の職員は少しいぶかしく思ったようでした。なお、平成17年度からの課長職はH学芸員が引き継ぎ、人員が空いたところへは、S主任研究員(40代)が新たに配置されました。前職は、T市の高校の国語教諭ということでした。
 指定管理者制度への移行の可能性が、表だって取り沙汰されるようになったのもこの頃です。自然、事務室においては、今後の館の行く末がしばしば話題になりました。「これまでは道の学芸員は専門職として長くその施設にいられたが、今後は学芸員とはいえ差別なく、他の事務職並みに3年毎に異動させられることになる。だから、H課長もあと1年の移行措置の後には異動させられる。また、今いる学芸課職員も、業務課職員も、もし財団が指定管理者に選ばれることになれば、いったんすべて道に引き上げとなる。これは道教委の方針だ」といった内容の話題が、平原学芸副館長をはじめ、皆の口にのぼるようになりました。
 私自身は、道のシステムをよくは知りませんので、そのようなものかと思うしかありませんでしたが、内心、もしそれが本当ならば、ずいぶんと機械的な措置だと考えておりました。もし実際に新体制に移行せざるを得なくなったとして、道職員が総入れ替えになってしまったら、仕事の継続性はどうなるのだろう。移行期という微妙な期間に、業務を支障なく進めることが果たしてできるのだろうか。そう思わずにはいられませんでした。

2.指定管理決定以降の内部変動
 さて、平成17年12月末に財団法人北海道文学館が北海道立文学館の指定管理者に選定されてからの数ヶ月間は、館の内部が、人事で大きく揺れ動いた時期といってよいでしょう。
 なかでも一番印象が強かったのが、受付係4人の解雇です。毛利館長は、指定管理者選定前から「財団が指定管理者の候補に名乗りを上げるからには、業務を見直し、経営をスリム化しなければならない。いままでは4名の道派遣職員に受付を担当してもらっていたが、これからは、民間の派遣業者から受付係を派遣してもらうことにし、今いる4名は退職してもらう。しかし、行く先については、私が責任を持って探す」という旨のことを公言していました。この説明を受けて4人は皆納得し、退職に同意していました。12月末の仕事納めの挨拶でも、館長は、4人の就職口については責任を持つと宣言していました。
 ところが、平成18年が明けてまもなく、毛利館長は突然前言を翻し、「行き先を探して心当たりをあたってみたが、やはり今は雇用状況が難しく、仕事はみつからなかった。だから、後はそれぞれの自己責任で探してもらいたい」と、4人に一方的に通告しました。彼女たちは、行き先があると思うからこそ退職にも同意したのだと思われますが、これでは、単に突然解雇されるのと何ら異なりません。彼女たちは揃って館長に抗議したとのことですが、一旦は退職に同意している上、現にもう指定管理制度に向けて動き出した財団の方針は今さら変えられないとのことで、結局、全員退職せざるを得ませんでした。彼女らのうち、2人は札幌に仕事を見つけることが出来ましたが、どちらも、短期で雇用が更新される不安定な職場でした。1人は、兄を頼って横浜に出ざるを得ませんでした。もう1人は、働くこと自体を諦めてしまいました。
 
 3月に入ると、業務課の職員たちは全員が道の教育庁に引き上げられることに決定しました。M課長(40代)・Y主任(30代)ら、数年にわたって文学館の事務を中心的に担っていた人々や、K主査(40代)のように経理面を熟知していた人が去ってしまうことになりました。
 他方、学芸課のH学芸課長(40代)は、道の出先機関である〈生涯学習推進センター〉の〈附属視聴覚センター〉への配属が決まりました。こちらもA前課長と同様、学芸員から一般事務職への人事であり、しかもこの視聴覚センターは、当時、次年度一杯で廃止になると言われていたセクションでした。7年間にわたって学芸員としての実績を積み重ねていた〈学芸課長〉の処遇としては、何とも解しがたいものでした。
 その一方で、A司書(20代)とS主任研究員(40代)については、そのまま勤務するということに、いつの間にか決まっていました。ただ、現実的にみれば、もし、この2人までもが館からいなくなってしまったら、学芸職員5名のうち半数以上の3名が文学館未経験者ということになり、業務が回らなくなってしまったことでしょう。
 
 では、H学芸課長の転出した後に、どのような人物が着任するのだろうか。それが、平成17年度末(平成18年1~3月)における、職員たちの主要な関心事でした。
 この点については、すでに平成17年の暮れ頃から「業務課長にも、学芸課長にも、退職した道職員が財団に再就職する形で入る。おそらく学芸課長には、この春、他の美術館の館長を定年退職する人がやって来るはずだ」という噂が流れはじめていました。
 ちなみに、平成18年度に業務課に入った川崎信雄課長とN主査は、いずれも道を退職して財団に入る形を取りましたので、業務課職員はすべて一応〈財団職員〉ということになりました。従って年齢構成も、N主任を含めて50~60代と、前年度までよりだいぶ高くなりました。
 ですから、誰もが、H学芸課長の後任も、そうした退職者が着任するだろうと思っていたのです。職員たちは「もう60歳も越した人が来るなら、H課長と違って、とても現場は担当してもらえないね」と笑って話していました。
 ところが、たしか3月も半ばにかかる頃、急に「実は、道立近代美術館から、現役の学芸員が異動して来ることになった」という新たな情報が入ってきました。職員は、この変更にやや驚いたものの、「これで年齢構成も予定よりこころもち若くなるし、現場にも入ってもらえそうだ」と前向きに捉えていました。私としても、元々美術に関心があり、美術館の学芸員を志望していた時期もあったので、新しく来る主幹とはどんな人だろう、どのあたりが専門分野なのだろうか、等について、様々に思い描いておりました。
 再びまとめますと、平成18年度からの事務室は、学芸課5名(うち1名が転入者)・業務課3名(うち2名が転入者)の8名。安藤副館長は5月一杯で退職し、平原学芸副館長が副館長に昇格。同時に学芸副館長という役職は消滅。このような組織構成となったのです。                           《「その1」の引用終わり》

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北海道文学館のたくらみ(42)

「裏」話の数々

○黒古一夫さんのブログ
 市立小樽文学館は今年で、開館30周年を迎える。その記念事業の一環として記念誌を出すことになり、私はこの3ヶ月ほど、30年の記録の整理と、小樽文学年表の作成に集中していた。その間、釧路の大学の仕事があり、小樽俳句協会で「アメリカにおける俳句」という話をし、文学館の企画展のために「文学における〈故郷〉」の話をしたり、文学散歩でニセコから岩内を回ってきたり、かなり忙しかった。だが、幸い亀井志乃の裁判のテンポが間延びするほどゆっくりしていたので、心煩わされることなく、仕事に集中することができた。
 
 釧路へ出かけたのは9月12日だったが、その直前だったと思う。講義の準備のため、ある言葉を検索していて、たまたま黒古一夫さんが裁判について書いていることに気がついた。これまでのつき合いに免じて、勝手ながら全文を紹介させてもらう。
《引用》
 
朝から雨模様。10時に旧知の批評家北村巌氏と会い、喫茶店で近況報告が寺(がてら?)雑談(議論)。札幌在住の北村氏とは、彼が学校職員をしていた20年ほど前に、僕が『祝祭と修羅―全共闘文学論』(彩流社刊)を出したことからコンタクトを取ってきて、小樽文学館で「小林多喜二」について講演した際に会って以来の間柄で、彼が北海道庁職員として北海道立文学館の学芸員であったとき、僕を文学館に呼んでくれ、「北海道の文学―三浦綾子を中心に」という内容で話したこともあった。現在彼は定年前に退職し、批評一筋の生活をしている。『島木健作論』で北海道新聞文学賞も受賞している「文学の徒」とも言うべき人である。午前中に彼と会ったのは、昼に会う約束をしていた北海道新聞文化部の編集委員の佐藤孝雄氏に紹介するということがあったからである。
 話は、今裁判で係争中の道立文学館における「パワハラ」問題に及び、さすが元道立文学館の学芸員、僕がインターネットで知っているのとは別な見解を出してくれ、「なるほど」と思うことが多かった。しかし、午後3時に道立文学館で「三浦綾子資料」を見せていただき、理事長の神谷忠孝氏(元北大教授)とも旧交を温める予定の僕としては、当然裁判の話に及ぶであろうことを思うと、複雑な気持ちになったのも事実である。
 というのも、この道立文学館における「パワハラ」問題は、訴えた本人はまったく知らない女性なのだが、彼女の父親はまだまだ僕が駆け出しの批評家だった時代から、実家が僕の家から500メートルしか離れていないということもあって、(僕としては)親しく付き合ってきたつもりの著名な近代研究者(批評家)の亀井秀雄氏で、彼のブログで裁判の経緯を見守ってきたということがあり、何が何だか「他人」にはよくわからない部分がたぶんに存在すると思っていたからに他ならない(詳細を知りたい人は、ネットで「亀井秀雄」を検索し、「この世の眺め」という亀井氏のブログを読んでほしい)。昨日会った北海道新聞文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに、「触らぬ神にたたりなし」といった態度であったことも頭に残っており、僕としては「関心」はあるが、そのことに直接「関わらない」と態度に決めていたのである。
 案の定、昼を北海道新聞の佐藤氏、北村氏とラーメンを食べ、コーヒーを飲みながら情報交換をした後、道立文学館を訪ねると、約束の時間より30分も前から待っていてくれた神谷氏と副館長の平原氏とを交えて、結局は「パワハラ」裁判の話になり、なるほど「当事者」はこのように考えるのか、「情報」というのは、当たり前だが「表」と「裏」があり、一筋縄ではいかないものだということを痛感させられた。僕としては、亀井氏の側にも訴えられた平原氏はじめ道立文学館の側にも加担するつもりはなく、半可通の意見ほど危険なことはないと思って、文学館側の意見をもっぱら聞き、そして主目的であった「三浦綾子資料」を見せていただき、2時間ほどの文学館訪問を終わったのだが、正直に言って「疲れた」。
 夜は、前から会いたかった北海学園大学の准教授田中綾さんと午前中に会った北村氏の三人で会食。田中さんは、面白い短歌論や歌人論を書く学者(批評家)で、僕のところに著書や論文をよく送ってくれていたので、旧知の間柄という北村氏が会わせてくれたのである。物静かな女性で、僕と北村氏が結局道立文学館の「パワハラ」問題で喧々諤々の議論をしているのを見守っていただけだが、僕のよく知る批評家の「知られざる情報」を聞き、ここでも「なるほど」と納得し、心地よい疲れの中、ホテルに帰って熟睡。
 疲れた。

 黒古さんにはよほど刺激が強かったのだろう、「疲れた」を3回も繰り返している。本当にお疲れさま。黒古さんにはもう10年以上も会っていないが、あの大柄な黒古さんのくたびれきった表情を想像して、気の毒やら、おかしいやら、おまけに色んなことが分かって面白かった。どうもありがとう。
 ちなみに、この文章の日付は「2008-08-26」である。

○どこかおかしい、「裁判」の理解
 黒古さんには10年以上も会ったことがないが、もちろん面識はある。親しい感情も持っている。ただし、北村巌さんとはほとんど面識がない。ごく若い頃、何かの会合で顔を合わせたことはあったかもしれないが、親しく言葉を交わす機会はなかった。その北村さんが、亀井志乃が起こした裁判に並々ならぬ関心を持っているらしく、黒古さんが滞在中、2度も話題に出し、
喧々諤々」情熱的に論じていたという。ふ~ん、北海道の文学関係者にはそれほど知れ渡っていたのか。
 なるほど、これでは、神谷忠孝や平原一良が黒古さんをつかまえて、「裏」の話を縷々説明せずにはいられなかったはずだ。
 おまけに、黒古さんによれば、
北海道新聞文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに、『触らぬ神にたたりなし』といった態度であった」という。北海道新聞の記者の間でも周知の出来事なのだろう。
 
 しかし、黒古さんの文章が伝えていることの全体は、どこかおかしい。
 亀井志乃は、〈道立文学館に駐在する寺嶋弘道という公務員によって人格権を侵害された〉とする裁判を起こしたが、道立文学館を訴えたわけでもなければ、神谷忠孝や平原一良を訴えたわけではない。私のブログを普通に読んでいれば、その点の違いはすぐに理解できるはずだが、黒古さんは
「僕としては、亀井氏の側にも訴えられた平原氏はじめ道立文学館側にも加担するつもりはなく」とか、約束の時間より30分も前から待っていてくれた神谷氏と副館長の平原氏を交えて、結局は「パワハラ」裁判の話になり、なるほど「当事者」はこのように考えるのか、(中略)一筋縄ではいかないものだということを痛感させられた」などと書いている。
 すると、どうやら黒古さんは、亀井志乃が「平原氏はじめ北海道文学館」を訴えたと思い込んでいるらしい。それだけではない。北村巌さんや、北海道新聞の文化部の記者たちや、神谷や平原たち自身も、黒古さんが自分の間違いに気がつくような言い方を一度もしなかったことになる。つまり、北村さんも、道新の記者たちも、〈亀井志乃がパワハラの問題で平原一良や道立文学館を訴えた〉という前提でものを言っていた。神谷や平原に至っては、自分たちが「当事者」の立場でものを言っていたことになるわけである。
 
 この、とんでもない勘違い人間たちが語る「裏」話とは、一体どんな話だったのだろうか。

○北海道新聞文化部の態度
 それに、
昨日会った北海道新聞文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに、『触らぬ神にたたりなし』といった態度であった」云々も変な話しだ。
 裁判の性質からして、これは社会部の扱いだろう。
 仮に文化部が関心を持ったとしても、亀井志乃は道新の書き手であったことはなく、文化部の記者が
「触らぬ神にたたりなし」と気をつかう必要があるとは思えない。それ故、もし道新文化部の態度が黒古さんの言う通りだとするならば、道新文化部にとって寺嶋弘道はあまり感情を刺激したくない、重要な存在なのだろう。もちろん道新文化部の人たちも新聞記者である以上、労を惜しまずに、札幌地方裁判所に申請して、寺嶋側の「準備書面(2)」や「陳述書」、亀井志乃の「準備書面」や「準備書面(2)―2」や「陳述書」を取り寄せて、読み比べてみたはずである。そうであるからこそ、黒古さんは「北海道新聞文化部の文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに」と書いた。私はそう受け取ったのだが、どうやら道新文化部の記者たちは、両者を読み比べたにもかかわらず、寺嶋弘道と亀井志乃のどちらが筋の通ったことを書いているか、判断を保留することにしたらしい。

○亀井志乃の美術(史)論
 それが、佐藤孝雄さんをはじめとする、北海道新聞文化部の見識であるとするならば、それはそれで仕方がないことだが、この場を借りて一つお願いをしておこう。
 
 道新文化部の人たちだけでなく、北村さんや黒古さんも、神谷忠孝や平原一良も、そしてこのブログを読んで下さる人たちも、念のため、googleに「亀井志乃」と「HUSCAP」という言葉を入れて、検索をしてみてもらいたい。「〈思想画〉としての情景――外山正一『日本絵画の未来』について―」という論文と、「〈美文天皇〉と〈観音〉――坪内逍遙対森?外〈没理想論争〉について―」という論文がヒットする。この2本の論文は亀井志乃が北大文学部の言語情報講座の助手をしている間に、『北海道大学文学部紀要』に発表したものであるが、一つ目の論文は美術史に関する論考と言えるだろう。その他にも彼女には、「フェノロサと『浮世絵史考』」(明治美術学会『近代画説』第9号)という、美術史に関する論文がある。
 
 寺嶋弘道は、平成18年度、亀井志乃が財団法人北海道文学館に勤めている間、彼女を無知な人間扱いにしてきた。更に裁判の「陳述書」において、寺嶋弘道は20数ヶ所に及ぶ嘘を並べ立てながら、亀井志乃の知識と経験を否定し、人格権を侵害した。だが、亀井志乃は文学研究だけでなく、美術(史)研究の領域においても、どの程度の質と量の業績を揚げてきたか、上記の論文でよく分かるはずである。
 
 ちなみに寺嶋弘道には、工藤欣弥との共著『三岸好太郎――夭折のモダニスト―』(北海道新聞社)という、新書版の著書がある。読み比べてみれば、二人の力量と研究実績の違いは一目瞭然だろう。

○非常勤講師という仕事をめぐって
 田中綾さんについて言えば、私は彼女の授業を持ったことがある。北海学園大学が日本文学関係の大学院講座を作り、私は非常勤講師を依頼されたのだが、彼女はその時の受講生だった。

 私は名古屋大学や東京都立大学などから集中講義を頼まれたことがあり、もちろん出張の許可を得て講義に出かけた。だが、札幌市やその近郊の大学へ非常勤講師を引き受けることはしなかった。理由は幾つかあるが、一番大きな理由は、私が国文学講座という大学院講座の担任だったからである。この講座には助手や、博士課程の大学院生など、研究者の予備軍がいる。私は、自分に非常勤講師の依頼があった場合、相手の大学に事情を説明して、助手や博士課程の院生を非常勤講師に使ってもらうことにした。たとえ非常勤の形であったとしても、大学で教えているというキャリアは、その人たちの就職活動に有利な条件となるからである。時には、知り合いが勤めている大学にお願いして、講義種目を増やしてもらい、博士課程の院生を非常勤で使ってもらったこともある。
 
 和田謹吾や神谷忠孝や高橋世織といった同僚は、3つも、4つもの大学へ、非常勤講師で出かけていた。この人たちは大学院講座の担任ではなく、教養教育の教官だったから、助手や大学院生の就職の心配をする必要がない。北大教官の役得みたいな感覚で、あちこちの大学で講師料をいただいていたのであろう。
 しかし、あまり度が過ぎれば、誰かが注意しなければならない。だが、学部長が部長室に呼んで注意をすれば角が立つ。そこで私が学部長に頼まれて、神谷忠孝と高橋世織に「少し減らしたほうがいいのではないか」と話をしたことがある。二人は何の反論もしなかったが、腹の中では面白くなかっただろう。神谷忠孝が熱弁を古い、北村巌さんたちが伝播に努めているらしい「裏」話は、大方こんなことから始まるのである。
 
 ただし、私のやり方がいつも上手く機能してくれたわけではない。
 助手や大学院生の就職が決まったならば、非常勤の仕事は一たん私に返してもらい、私なりの判断で、キャリア作りが必要な助手や、生活が苦しい大学院生にその仕事をまわす。私はそういう方針でいたのだが、札幌大学の非常勤講師をしていたNは、札幌の他の大学に就職が決まった時、札幌大学の仕事も持っていってしまった。
 Nの前に札幌大学へ出ていたのはMであるが、Mが東京の大学に就職が決まって、Nへ仕事を引く継ぐ際、これまでの慣例を伝えるのを忘れてしまったのかもしれない。あるいはNは慣例を承知の上で、自分の既得権は手放したくないと考えたのかもしれない。
 
○田中綾さんたちの思い出
 「非常勤講師」という言葉を私の頭の中で検索すると、こんな記憶が出てくるわけだが、ともあれ私は、従来の「禁」を破って、北海学園大学の大学院の非常勤講師を引き受けることにした。千葉宣一さんからもっと大事な話があったのだが、思うところがあって、私は断ってしまった。だが、千葉さんには、北大の国文学会の運営などで、色々配慮してもらった。せめてこの程度のことは引き受けないと、仁義に悖る。第一、大学院の講義を助手や院生に任せることは出来ないだろう。そう考えて引き受けたのだが、日中、北大を空けて出かけることはしたくない。そこで、午後の5時過ぎに始まる講義を持たせてもらうことにしたわけだが、その講義に田中綾さんが出ていたのである。

 田中さんたちは新設の大学院の1期生で、大半の人がすでに職についていた。高等学校の先生をしているのだが、管理職に進むためには大学院修士課程修了の学歴が必要だ。そういう動機の人もいたらしい。その意味で、就職の心配を抱えている人たちはいないようだったが、私の印象では、誰もが自信なく、不安そうな雰囲気だった。学歴上の肩書きをもらうことはできるとしても、さて、大学院を終えて研究職に就くことができるだろうか。北大の大学院と比較されることはやむを得ないが、では、北海学園大学の大学院修了者を、社会がどの程度に評価してくれるか。そういう心許ない思いを抱えていたのだろう。

 私自身は、将来的には北大と北海学園大学の単位を互換し、北大の院生が北海学園大の大学院の講義を受講し、北海学園大学の院生が北大の大学院の講義を受けられるようにしたいと考えていた。それだけに、この人たちの心許なそうな雰囲気がどうも気になる。
 様子を聞いてみると、研究会を作り、それを土台にして北海学園大学の学会を作るといった、将来構想がない。山根対助も菱川善夫も千葉宣一も、そういう未来図が語ったことがないらしい。それじゃあ、一体何のために大学院を作ったのだ。
 もう一つ驚いたのは、構造主義以来の文学理論や概念をほとんど知らない。言葉を聞いたことはあるが、それはどういう方法的概念なのか、ごく曖昧にしか知らない。これでは、北大の大学院とギャップが大きすぎるだけでなく、全国の大学の院生たちと討論する場面があったとしても、自信をもって発言することができないのではないか。
 私はその人たちが気の毒になり、ちょうど『「小説」論』(岩波書店、1999年)や『明治文学史』(岩波書店、2000年)を書いていた時期でもあり、それらから適当な材料を選び、かなりムキになって基本的な理論と概念の説明をした。要するに入れ込んでしまったのである。

 そんなこともあって、学期が終わる毎に、私のほうから声をかけて、田中さんたちとコンパを開いた。別にハッパをかけるつもりはなかったが、1期生のレベルがその後の大学院の質を決めてしまう傾向がある。1期生の責任は大きいが、それだけにやりがいもある。1期生のほうから教授に働きかけて学会を組織したほうがいいのではないか。1期生の中から、将来北海学園の学問を背負って立つ教員が育ち、その人を中心に後輩を育てるシステムを作ることができるならば、それが一番望ましい。雑談交じりに、いや、雑談の形を借りて、そんな話をした記憶がある。

 それが田中綾さんたちにどんな印象を与えたか、私は知らない。ただ、その後、田中綾さんから学会発表のレジュメが送られてきたことがあり、それを一読しただけでも、田中さんの問題意識と方法が菱川善夫を凌いでいることが分かり、嬉しかった。私のお節介もまんざら無駄ではなかったらしい。

 ただ、田中綾さんが亀井志乃の仕事や人となりを知っているとは思えない。だから、田中さんが黒古さんや北村さんに話した「知られざる情報」とは、私に関する事柄だったと思う。田中さんも、神谷忠孝や平原一良が語る「裏」話に耳を傾けることが多かったのだろう。

○黒古さんの書き方への疑問
 しかし、私には「裏」も「表」もない。
 私はこのブログの途中で、3回ほど、「幕間劇」と題して、大江健三郎の『沖縄ノート』の表現を分析した。読んで下さった人はよく分かると思うが、私は大江健三郎が裁判で訴えられた、問題の箇所を取り上げ、言語表現それ自体としての構造と内容がどうなっているか、かなり念入りに検討を加えた。言語テクストを論ずる場合は、けっして裏読みなどせずに、あくまでも言語表現それ自体の構造を解明する。それが私の方法だからである。
 黒古さんのブログに関して、和気さんがコメントをつけており、面映ゆくなるほど私を高く評価してくれている。ただ、もし和気さんが言うように、私の文体が一般の人になじみにくいとすれば、それは先のような私の方法に由来するだろう。
 
 その意味で私の書き方は、明らかに黒古さんとも異なる。
 黒古さんのブログを、少し遡って読んでみたところ、『沖縄ノート』裁判の判決について、こんなことを書いていた。
《引用》
 
そもそも、この裁判は、原告(訴えた側)の守備隊長が肝心の「沖縄ノート」を読んでおらず、誰からか吹き込まれた「伝聞」によって訴訟を起こしたこと(という表面的な理由)に象徴されるように、ある「政治的思惑」があって起こされた裁判に他ならなかった。つまり、この裁判は、「改革」という美名を掲げて長期政権を維持したネオ・ファシストの小泉純一郎と、その後釜に据えられた「お坊ちゃん右翼」安倍晋三といった「タカ派=ネオ・ナショナリスト」勢力台頭の勢いに乗った「自由主義史観派」の「悪のり」の結果であって、あのアジア・太平洋戦争敗北の反省を礎に始まった「戦後(民主主義)」的価値観の伝統は、未だ「健全」であったということである。「反戦」「ヒューマニズム」「対等・平等」「自由」といった思想を獲得した「戦後」的価値観は、60年以上経った今日でも「有効」だった、ということに他ならない。
 それにしても、小泉-安倍政権の「勢い」に乗って(あるいは、その意を汲んで)、まさか「美しい国」造り構想などという観念の産物でしかない「妄想」が実現して「ネオ・ナショナリズム」が国是となるような国が実現すると思ってではないと思うが、先走って高校の歴史教科書から沖縄戦における「集団自決」の項目を削らせた文科省の目論見は、周知のように沖縄県民の反撃にあって脆くも崩れ去ったが、恐らく教科書を書き換えさせようとする勢力(自由主義史観派、ネオ・ファシストたち)は、今回の「大江裁判」で敗北したとは言え、原告側が即時控訴したように、依然として大江健三郎に代表される「戦後民主主義派」への攻撃は続くものと思われる。
 73歳になった大江健三郎にはもう少し頑張ってもらうわねば(もらわねば?)ならないことになったが、この「大江裁判」に沈黙を守り続けている文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界は、一体全体どうなっているのかと思わざるを得ない。先般「環境問題と社会正義」というテーマで若手の研究者が侃々諤々の議論をしていたアメリカ(ケンタッキー州立大学)のことを思い出すと、なおさら現在の文学者たち(作家や研究者たち)の「自閉傾向」が気になって仕方がない
(「大江裁判に、一言」2008―3-30)

 私はこういう書き方を決してしない。私のみるところ、大江健三郎は大江健三郎以外の何ものでもない。他方、「戦後民主主義派」などという「派」(group?  school?  side?)が、実体的に存在しているわけではない。つまり、大江健三郎を「戦後民主主義派」の「代表」と規定する、どのような客観的な根拠もありはしないのである。

 ところが黒古さんは、大江健三郎を「戦後民主主義派」の代表、つまりrepresentative に仕立てることによって、大江健三郎が裁判に訴えられた事実を、大江によってrepresentされる「戦後民主主義派」への攻撃と見なしている。そうすることによって、黒古さんは「戦後民主主義派」を実体化し、自分をその一員に数える。更に戦後民主主義派/自由主義史観派(あるいはネオ・ファシスト)という二項対立の政治図式を使って「『大江裁判』に沈黙を守り続けている文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界」を批判する自分の立場を確保しようとしたわけである。
 だが、黒古さんのこのロジックは、先のような私の見方からすれば、認識の順序が逆立ちしている。
 それだけではない。もし黒古さんが言うように、「文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界」が「大江裁判」に関して沈黙していたとすれば、私のみるところ、それは、政治現象の上っ面を撫でただけの二項対立の図式で自分の発言が解釈されることを警戒していたからにほかならない。
 私が「幕間劇」で『沖縄ノート』の該当箇所を分析していた頃は、1日のアクセス数が3,000を超えることもあった。ずいぶん沢山の人が関心を持っているのだな。私は驚いた。私は疾うの昔から、「戦後民主主義派/自由主義史観派(あるいはネオ・ファシスト)」みたいな政治的二項対立を無視する立場で評論や論文を書いてきた。私のブログを読んでくれた人が、全て私の分析に共鳴したわけでなく、異議ありと思った人も多かったと思うが、二項対立の政治図式に当てはめて云々するような反応(書き込み)は一つもなかった。私の分析に関する賛否はそれとして、少なくとも私の姿勢自体には納得できるところがあったからだろう。
 そんな次第で、私から見れば、「文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界」が「大江裁判」に関して沈黙しているのは、それこそ「触らぬ神にたたりなし」と、洞ヶ峠の筒井順慶を決め込んでいるだけのことであって、そもそもそんな「世界」の連中に何かを期待するほうが間違っているのである。
 
 私はそう考えているのだが、しかし視点を一つ変えれば、大江健三郎という固有名詞を何らかの「集合」の代表=representation=表象として操作する、黒古さんのような政治的裏読みは、北海道新聞のみならず、大手マスメディアには好まれやすい。これからもその種の文章が紙面を飾ることになるだろう。

○神谷忠孝の「裏」話?
 ところで、さて、黒古さんが旧交を温めたという神谷忠孝は、財団法人北海道文学館の理事長をつとめている。だが彼は、財団の嘱託職員の亀井志乃から、北海道教育委員会の公務員によってパワーハラスメントの人権侵害を受けた旨のアピールを受け取ったにもかかわらず、自分の責任で事態を把握しようとはしなかった。
 財団法人北海道文学館の理事長である神谷忠孝は、財団の嘱託職員の亀井志乃からパワーハラスメントの調査委員会を作ってほしいという要求を受けながら、これを黙殺してしまった。
 そして、神谷忠孝が理事長を務める財団法人北海道文学館は、正職員を採用するという理由で、亀井志乃に次年度の雇用契約の打ち切りを通告し、その上、亀井志乃が正職員の公募に応募しようとしても、それが出来ない年齢制限を設けてしまった。
 この年齢制限は、高年齢者雇用安定法や雇用対策法に反する、法律違反の行為だった(「北海道文学館のたくらみ(18)」)。
 財団法人北海道文学館理事長の神谷忠孝は、亀井志乃から、どのような意志決定のプロセスを経て次年度の方針が決まったのか、教えてほしいという要求を受けながら、これも黙殺してしまった。
 亀井志乃は、神谷忠孝が理事長を勤める財団法人北海道文学館を相手に、解雇権乱用を訴える労働審判を起こしたが、神谷忠孝は責任をもって対応することを避け、川崎業務課長を財団の代表者に仕立てて、ついに一度も自分は姿を現さなかった。
 つまり神谷忠孝は、終始一貫して、当事者としての責任から逃げていたのである。
 
 現在、亀井志乃が北海道教育委員会の学芸員・寺嶋弘道を相手に起こした裁判は、単にパワーハラスメントだけでなく、業務妨害やプライバシーへの干渉などを含む、人格権侵害の違法行為に関する裁判であって、如何なる意味でも神谷忠孝は当事者ではない。ところが神谷忠孝は、黒古さんに対して、現在の裁判に関する「当事者」として、「情報」や「裏」話を語っていたらしい。
 もし黒古さんの言うところが本当ならば、これは奇妙奇天烈な言動と言うしかない。
 
 それにしても、パワー・ハラスメント問題から労働審判に至るまで、終始一貫「当事者責任」から逃げていた人間が語る「情報」や「裏」話に、どのような正当性があり得るのだろうか。

○平原一良のセカンド・ハラスメント
 他方、平原一良は、亀井志乃から訴えられたわけではないにもかかわらず、寺嶋弘道の側に立って「陳述書」を書き、「上記の内容に相違ないことを誓います。」と誓って、署名捺印をした。言わば自分から「当事者」に志願したわけだが、その「内容」は20数ヶ所に及ぶ虚偽を含んでいる。
 そういう人間が語る「情報」または「裏」話はどのようなものであったか。多分それは、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―3」(乙12号証 平原一良「陳述書」への反論)で分析し、指摘した、次のようなものであっただろう。なお、次に引用する文中の「乙1号証」とは、寺嶋弘道の「陳述書」のことである。
《引用》
  
以上のように検証してみると、平原一良道立文学館副館長の「陳述書」(乙12号証)の内容には、事実と異なる記述が数多く見られます。そしてそれは単純な記憶違いと言って済まされない事柄ばかりです。
 なぜなら平原氏の記述は、私が文学館の職員としてきわめて能力が低く、しかも社会的にも不適応な人間であったと読む者に思わせるようにと、文脈的に一貫して整えられているからです。
 その顕著な例としては、私がいわゆる今風の〈ひきこもり〉であり、人格障害者的な人物であるかのように記述を畳みかけてゆく手法を挙げることができます。平原氏の陳述によれば、私は当初からその父によって「家に居る娘を仕事に使ってくれ」と押しつけられた人間であり(1ページ9~14行目)、もともと人と接する事は少なく(同16~19行目)、嘱託職員として働き始めるとまもなく「非協調的」として一部スタッフから不満の声があがり(2ページ9~10行目)、常設展リニューアルの頃には、周囲のスタッフからますます私を非難の声があがって平原氏がなだめるのに苦労するほどであり(同14~16行目)、自分の欠点を指摘される事は絶対的に拒否し(2ページ31行目~3ページ9行目)、自分の職務に対する認識力もなく(4ページ17行目)、職場の規律も守らず、周囲の空気も読めず(4ページ33行目~5ページ2行目)、職場の雰囲気をおかしくし(5ページ28~31行目)、担当の展示業務を満足にこなす能力もなく(6ページ13~24行目)、しかし自己肥大的なプライドだけは高く、ついに皇室の方々に、はしたなくも不敬なふるまいをするまでに至る(6ページ30行目~7ページ3行目)。人格描写のポイントをピックアップしてゆくと、実に典型的な境界性人格障害者、あるいは自己愛性人格障害者の像が浮かんで来る。
 平原氏は「大学や大学院で研究者・職員としての経験のみを有する人物にはままありがち」(5ページ3~4行目)などと、一見、私の学歴・職歴の高さも一定程度評価している振りはしていますが、これは要するに、社会通念の中での〈挫折したエリートの人格障害者〉のステレオタイプなイメージを、そっくりなぞっているに過ぎません。また、こうしたイメージは、被告の「陳述書」における「原告にとって研究とは個人の研究を意味し」(乙1号証8ページ1行目)・「自らの研究と自らの関心ある業務だけを行い」(同9ページ17行目)といった箇所のイメージと密接につながっている。その意味では、乙1号証と乙12号証は、きわめて緊密な相互補完的関係にあると言えます。

 ただし、本準備書面のこれまでの部分で反論してきたように、以上に挙げた平原一良氏の記述は、すべて虚偽であるか、または証拠の裏づけがない。これは、乙1号証にしても同様です。

 それ故、もしも平原氏が以上の私の反論に対して再反論し、しかも有効な書証あるいは人証をもって主張の内容の信憑性を裏付けることが出来なければ、平原一良氏は、「以上の内容に相違ないことを誓います。」と明記して署名捺印した「陳述書」において、虚偽を記載し、私に対して事実無根の悪質な人格誹謗と中傷を行い、単に私の裁判における敗訴を企図したのみならず、被告と共謀して、私が重度の人格障害者として今後永久に社会的に葬り去られん事を積極的に画策したのだと結論せざるをえません
 私は、この点について強く指摘し、もし平原氏が自己の主張の裏づけを果たせなかった場合には、氏の「陳述書」を私に対する法廷における悪質なセカンド・ハラスメントと見なし、その違法性を追求してゆく所存です。
引用、終わり)

 つまり平原一良は、僅かにA4判6枚強の「陳述書」の中で、20 数ヶ所に及ぶ虚偽の証言を行い、10回も亀井志乃の人格・能力を中傷誹謗する発言を繰り返したわけだが、しかし彼は、平原「陳述書」の虚偽に関する亀井志乃の指摘に反論することもなければ、悪質なセカンド・ハラスメント」の告発に対する反論もできなかった。私の公開質問(「北海道文学館のたくらみ(38)」)に答えることもできなかった。
 おそらく平原一良には亀井志乃の指摘に反論できなかったストレスが溜まっており、暴かれた嘘を取り繕うための嘘を重ねて、饒舌止まることがなかったのであろう。黒古さん曰く、
僕としては、亀井氏の側にも訴えられた平原氏はじめ道立文学館の側にも加担するつもりはなく、半可通の意見ほど危険なことはないと思って、文学館側の意見をもっぱら聞き、そして主目的であった『三浦綾子資料』を見せていただき、2時間ほどの文学館訪問を終わったのだが、正直に言って『疲れた』」。本当にお疲れさま。
 黒古さんも結局は
「触らぬ神にたたりなし」を選んだわけだが、せめて裁判の性格だけでも、もう少し正確に認識して下さい。

 

 
 

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