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北海道文学館のたくらみ(43)

亀井志乃「陳述書」その1

【亀井志乃は平成20年8月11日、「陳述書」を札幌地方裁判所に提出した。8月29日の公判において、田口紀子裁判長の確認があり、被告代理人の太田三夫弁護士も「原告の『陳述書』として受理する」旨の発言があった。この手続きによって亀井志乃の「陳述書」は法的に有効なものとなったわけで、ここでは、本人の了解の下に、その「陳述書」を3回に分けて紹介する。道立文学館における組織と業務の実態や、被告・寺嶋弘道学芸主幹が駐在道職員として着任するに至った制度上の変化と、被告の着任後に生じた変化と混乱が具体的に述べられており、裁判の背景や、これまで私が書いてきたことの内的な関連をより具体的に理解して貰える。そう考えたからである。
 なお、これまで私は引用文を赤字で表記してきたが、そのやり方を踏襲すると、以下の紹介は全て赤字となり、読んで下さる人の目に過大な負担をかけることになりかねない。その点を考慮して、亀井志乃の「陳述書」の紹介にかぎり、文字の色は、全て裁判所に提出したままとした。
 ただし人名については、財団法人北海道文学館の管理職、及び駐在道職員の被告の名前は明記したが、それ以外の人の名前は頭文字のみに変えた。地名も頭文字のみに変えた。理解しにくい箇所もあるかもしれないが、ご了解をお願いする。2008年10月21日】

《引用》
 今般の原告・亀井志乃の訴えの趣旨については、平成20年3月5日付「準備書面」にほぼ全容を記し、また被告側の反論に対する再反論については、平成20年5月14日付「準備書面」(Ⅱ)-1」「準備書面(Ⅱ)-2」「準備書面(Ⅱ)-3」の3通の書面においてほぼ尽くしております。
 そこで、このたびの本陳述書におきましては、これまでの被告との書面のやりとりでは触れることが出来なかった、私が平成16年に勤務し始めてから平成19年3月末日に雇止めされるまでの、北海道立文学館の状況の変化を中心に、
 Ⅰ章 平成16年度及び17年度の状況 (1ページ)
 Ⅱ章 指定管理者決定前後 (6ページ)
 Ⅲ章 寺嶋学芸主幹の「着任」 (9ページ)
 Ⅳ章 平成18年度の新たな状況 (16ページ)
 Ⅴ章 寺嶋学芸主幹について (23ページ)
 Ⅵ章 パワー・ハラスメントのアピール以後 (31ページ)
 Ⅶ章 おわりに (33ページ)
の順序で申し述べさせていただきたいと思います。

Ⅰ章 平成16年度及び17年度の状況
1.勤務を始めた頃の文学館
 平成16年7月16日、私が財団法人北海道文学館の研究員の職に就いた時、文学館の業務は、セクションとしては〈学芸課〉(学芸事務担当)と〈業務課〉(一般事務担当)に分かれ、また職員構成としては〈財団職員〉(財団法人北海道文学館が雇用)と〈道職員〉(北海道教育委員会が派遣した職員)とが混在する形で行われておりました。(
甲111号証) 
 この頃、道職員は、北海道教育委員会が財団法人北海道文学館に〈派遣〉するという形をとっておりました。そのため、道職員は〈学芸課長〉〈業務課長〉といった財団職員の役職名を担い、内部的にはなんらの矛盾も生じることなく、業務にあたっていました。
 なお、話の前提として重要なので説明しておきますと、私が文学館に勤め出した時期は、実は、館の内部組織が一つ大きく転換した時期でもありました。もちろん、私自身は、ずっと後になってから知ったことです。
 まず、課の名称が変更になりました。平成16年5月まで、内部には〈事業課〉と〈管理課〉という2つの課があったのですが、6月から〈事業課〉が〈学芸課〉、〈管理課〉が〈業務課〉と呼び方が変わりました。(
甲111号証参照)
 同時に、管理体系も変わりました。それまでは、組織の上から順に館長・副館長、そして副館長の下に事業課長と管理課長がいて、それぞれ〈事業課〉(学芸部門)と〈管理課〉(一般事務部門)のまとめ役を果たしていました。そのうち事業課のほうには、2人の道派遣学芸員と1人の道派遣司書、2人の財団直属学芸員(うち1人は平成16年3月末に退職)、そして、平原一良事業課長が所属していたわけです。
 ところが、5月末に課の名称が変更になると同時に、平原事業課長が昇格する形で〈学芸副館長〉となり、A学芸員が〈学芸課長〉となりました。実はそれまで学芸副館長という役職はなかったのですが、この時初めて副館長と比肩するポストとして新設されたのです。
 その結果、組織図は、毛利正彦館長の下に安藤孝次郎副館長と平原一良学芸副館長が並び立ち、そして副館長の下に業務課長―業務課職員、学芸副館長の下に学芸課長―学芸課職員が配置される形となりました。(
甲112号証
 私が平原学芸副館長からメールで声をかけられ、北海道立文学館で働くことになったのは、こうした組織改編があった直後の6月12日のことでした。(
甲113号証

2.雇用の経緯
 平原氏のメール(
甲113号証)にもあらまし書かれておりますように、当時、私は、私が雇用されたのは学芸職員が1人抜けたためであり、ただ、財団には今金銭的な余裕がないので、申し訳ないが、正職員ではなく嘱託という待遇でしか雇うことが出来ないのだとの説明を受けていました。
 それでも私は、2つの理由で満足でした。1つは、平成14年にアメリカから帰国して以来、私には、北海道教育大学釧路校で集中講義の非常勤講師を勤める以外には収入の道がほとんど途絶えていたので、毎月報酬がいただけるお話は何よりありがたいことでした。
 そしてもう1つは、学芸員になるのが、大学院の頃からの私の夢だったからです。
 
 私は10代の頃から文学と美術の両面に常に関心を持ち、博士論文のテーマは『明治芸術思想研究 幕末~明治二十年代・〈芸術〉思想の発生』でした。幕末から明治へと時代が移行し、西洋からの文物が否応なく流入する時期に、日本の知識人がAesthetic やArtの観念をどのように理解し、翻訳していたか。また他方では、日本の絵師や仏師など、〈美術〉や〈芸術〉などの観念とは無縁に生きてきた職人たちが、西洋の絵画や彫刻に接してどのような衝撃を受け、いかに自分たちの技術でその表現に肉薄しようと工夫を重ねていたかについて、調査・研究を行いました。同時にこの時期には、日本の工芸品や絵画を西洋に紹介するという新たな役割を担う人々も輩出するわけですが、彼らがどのような試行錯誤を経ながら西洋の博覧会や博物館・美術館の制度を理解し、日本に実現しようとしたか、等についても調査を重ねました。そして、以上のリサーチに基づき、日本における〈芸術思想〉の諸相を明らかにしようと試みたのです。
 その後私は、『白樺』という、文学史だけでなく美術史の面でも重要な役割を果たした明治~大正期の雑誌の研究へと進みましたが、その過程で、〈白樺派〉の主要メンバーが育った〈学習院〉という教育機関の内部構造に着目しました。〈学習院〉は、当時の日本の中でも最も多種多様な階層の子弟が集まる、異種混淆的(ハイブリッド)な空間でした。そして、そういう空間だからこそ、その中で友情を育んだ学生たちの間に、互いの個性を尊重する志向が生まれてきたのだと言えます。私は、そうした志向を共有した学習院の青年たちの芸術運動と、ドイツにおけるユーゲントシュティールの芸術運動との類似性に注目し、それを〈世界的同時性〉という観点から捉えかえす試みを行いました(「学習院の青年たち(ユーゲント)」 『文学』平成14年11月・第3巻第6号掲載 岩波書店)。
 このように研究を進めてきた私にとって、文学と絵画との関係を〈展示〉というアトラクティブな形で表現でき、しかも教育普及に生かせるという学芸員の仕事は、非常に魅力的に思えたのです。
 私が「人生を奏でる二組のデュオ ―有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二展―」(以下、「二組のデュオ」展と省略)という展示を構想したのも、〈白樺派〉に属する有島武郎と里見弴という兄弟を縦軸とし、有島武郎と木田金次郎との子弟関係、里見弴と中戸川吉二の友情という二組の組み合わせを横軸として、当時の〈北海道〉という場が有していた創造力のポテンシャルを明らかにしたいと思ったからでした。
 
 ただ、私が〈学芸員〉という進路の可能性に気づいたのは北海道大学の大学院修士課程の頃でした。以前に在籍していた藤女子大学には、学芸員の単位を履修するコースがなかったためです。そのため当該コースの受講が他の学生より遅く、また当時の北大文学部の事務が学部学生のほうを優先して学芸員実習の割当をする方針を取っていた事情もあり、実習単位のみ未履修のまま大学院を終えることになりました。しかし、その他の単位はすべて履修しましたし、他方、専攻分野では修士号および博士号の両方を取得しました。ですから自分としては、たとえ期限に定めのある雇用であっても、実習相当の単位ないし業績の裏書きをしてくれる文化施設で働く機会を得たいと、ずっと心がけて探していたのです。そんな私にとって、道立文学館研究員の仕事の話は、願ってもないチャンスでした。

3.文学館の雰囲気
 そして私は文学館に通い始めたのですが、当時の私の目から見ると、その頃の道立文学館は、業務が非常にスムーズに進められている、和気靄々とした職場のように見受けられました。私は以前、ボランティアとしてデータベース作りを手伝ったことがあり、その時何人かの方たちと顔見知りになっていましたが、そのことを差し引いて考えても、事務室の雰囲気は心地よいものでした。
 その基となっていた一番の要素が、職員同士の協力体制の緊密さです。学芸課5人、業務課4人という小人数な所帯だけに、互いの話もすぐ通じやすかったのです。それに学芸課には、毎月下旬頃に必ず〈課内打合せ〉があり、平原学芸副館長も交えながら、今後1ヶ月間の見通しと各人担当範囲の必要事項を伝達し合っていました。次の打合せ会までの間に生じた細かい変更点も、昼休みや仕事の合間に交わす雑談の中で、自然に皆に伝わるようになっていました。
 また、その頃中心となっていた学芸員諸氏は、皆、道立文学館の成長と共に歩んできた人たちでした。そのため、文学館に関する知識やノウハウが豊富でした。
 道立文学館が開館9年目を迎えた平成16年当時、たしか、A課長(年齢は50代)とO司書(30代)がほぼ勤続9年、H学芸員(40代)が勤続6年目だったと記憶しております。文学館展示室の構造と機能に即した展示のノウハウ、各業務の手順の構築方法、各界の文化人や業者との間の協力関係等は、道立文学館発足以来、この人たちが時間をかけて築き上げてきたものでした。それに彼らは、自分たちが単に“文学館の学芸員(ないしは司書)である”だけに留まらず、“博物館相当館におけるプロフェッショナルの学芸員であり、またそれを目指さなければならない”という自覚を明確に持っておりました。この人たちと一緒にいられた期間は、結果的には短かったのですが、学芸員の心構えから、日常的な業務・作業の心得事に至るまで、教えられることが非常に多かったと感謝しています。
 他方、もともと2人いた財団直属の学芸課職員のうち、M学芸員は春に退職していましたから、私が勤めた頃はO学芸員のみでした。O学芸員(50代後半)は、財団法人北海道文学館の立ち上げ(昭和42年)の頃から、その中心的メンバーに協力する形で関わり続けてきた職員で、道派遣の学芸員とは異なるスタンスを持ち、そのためか、関心はやや自分の専門範囲に集中しているきらいがありました。しかし、北海道文学研究の過去から現在にわたって様々な事情を熟知しているという点で、O学芸員の存在もまた貴重でした。
 
 さらに特筆すべきは、その頃の学芸課と業務課のコンビネーションのよさと、職員全体の仲のよさでしょう。業務課の構成は、当時、道派遣職員の課長(平成16年度・N課長/平成17年度・M課長)・主査(平成16年度・M主査/平成17年度・K主査)・主任(Y主任)が各1人ずつと、財団職員のN主任(50代)の計4名。この課では、道派遣の職員同士も、互いに率直に言いたいことを言い合うという開放的な関係にありましたが、もう1人、業務課唯一の財団職員で一番年長のN主任(O学芸員と同じ頃から文学館に関わっていた)の存在は大きかったと思われます。N主任は、普段から、到来物のお菓子でちょっとしたティーブレイクを演出したり、レクリエーションの企画などを立てては、学芸課・業務課のへだてなく、皆の気持ちを結びつけていました。また、N主任とY主任(30代)とが、年の差を越えて非常に親しかったことも、職場の雰囲気を盛りあげる上では大切な要因だったと思われます。
 ここで忘れてはならないのは、その当時いた4人の道派遣の受付職員諸嬢のことです(NR主事・M主事・S主事・NS主事)。彼女たちは、立場こそ非常勤職員でしたが、しかし最も勤続が長い人は文学館の発足以来、また一番短くても約3年と、それぞれ、相応の年月を道立文学館と共に送ってきた人たちでした。これら、若くて明るく(20~30代)、文学館に関する知識が豊富で、しかも気働きのいい受付職員は、文学館を利用するお客様方に絶大な人気がありました。また、彼女らはN主任が企画する子供向けイベントにも積極的に参加し、絵本の語り聞かせや人形劇に協力していました。その傍ら、展覧会の看板・標識作りや入場券のナンバリング、印刷物の送付など、日常業務につきもののこまごまとした雑事にも嫌がらずにてきぱきと対処し、言わば小回りの利く遊撃手的な役割も果たしてくれましたので、他の職員は、業務課・学芸課を問わず、どれほど助けられていたか知れません。
 
 時々は私も、こうした元気な皆さんに誘われて、退勤後に日本ハムファイターズの応援に行ったりしました。安藤孝次郎副館長が大のファイターズファンだということも、この時に知りました。(なお、「皆さん」といっても、毛利正彦館長や平原学芸副館長は、こうした折にはほとんど同行しなかったことを付記しておきたいと思います。)
 また、時にはケーキバイキングに繰り出すこともありました。忘れられないのは、平成17年9月29日、企画検討委員会で私の案が工藤正廣理事に「こんなもの」と決めつけられた時のことです(原告側「準備書面(Ⅱ)―3」9~11ページ参照)。この日は、ちょうど、N主任やA司書ら若い女性陣と誘い合わせて、道・札幌市・商工会議所等が主催の大規模なスイーツバイキングに行く日と重なっていたのです。私にとって委員会の後味は悪いものでしたが、この時の同行メンバーはほとんど会議に出席していなかったので何も知りませんでしたし、それに、いざバイキング会場に着いて、みんなでお皿に山盛りに取ったお菓子を比べあい、賑やかに分け合って食べているうちに、嫌な気分などいつのまにか消し飛んでしまいました。皆の明るさが、心を晴々させてくれました。
 今、このように記していても、私の耳の奥には、その時の皆の笑いさざめきがよみがえってくるような気がいたします。
 
 なお、ここでいったん当時の事務室の職員構成を整理しておきますと、副館長が常に事務室にいて、他には学芸課5名・業務課4名・受付4名(所属は業務課。毎日3名が出勤し時間帯ごとに交代)の計14名。平原学芸副館長のみは、もっぱら廊下をへだてて離れた会議室で業務を行っていました。

 今から考えて、私にとって非常にありがたかったことは、普段、自分の依託された業務をこなしながらも、その合間に皆の会話に耳を傾けてさえいれば、様々な知識が、徐々に、だが確実に自分のものになっていったということです。誰も、私が新参者だからといって、ことさら呼びつけて〈指導〉したり、行動にチェックを入れたりする人はいませんでした。その点は、私の後から館に異動してきたA司書(当時。平成18年度より学芸員)やS主任研究員(当時。平成18年度より社会教育主事)に対しても、何ら変わりがありませんでした。
 道所管の文化施設には、道立文学館の他に文学館はなく、その意味では、異動してきた人はすべて〈文学館〉について素人なのだと言えなくもありません。その点に関するかぎりA氏・H氏にしても同様であって、二人の前職はまったく異なる分野でした(A氏の専門は北方民族文化研究。H氏の専門は社会学で、前職は教員)。
 しかし、別の面からみれば、皆には、基本的に“学芸員の資格を有する”という共通項があります。その基盤に立った上で、北海道立文学館の主要資料である〈北海道の文学〉に関しては、誰もが、実務をこなす過程で前職との接点を模索し、自分なりのアプローチを試みながら、文学館職員としての専門知識を深めるようにしておりました(例えば、A氏はサハリンをテーマにした文学を中心に研究していた、等)。各人が前職で積み重ねてきた知識・経験を尊重する。それがまた、文学の見方を多面的に、豊かにしてゆく。道立文学館の職員の姿勢は、そのような方向性で貫かれていました。
 そして私もまた、知識ばかりでなく、そのような姿勢を身につけられるようにしたいと思うようになり、文学館の仕事自体にも誇りと愛着を持つようになっていきました。
 

Ⅱ章 指定管理者決定前後
1.変化の予兆
 このように、当時の北海道立文学館は、私がこれまで経験した中でもっとも勤め甲斐のある職場でしたが、しかし思い返しますと、実のところ、私が入った直後からすでに、或る変化の兆しが始まっていたように思われます。
 まず、私が勤務を始めて1ヶ月半後の9月末日、学芸課の職員の中では一番勤続年数が長く、書籍資料に関して最も知悉していたO司書が、北海道立図書館に異動することになりました。後任にはA司書(当時20代後半)が入ることになりました。前職は、C市立図書館の司書とのことでした。
 その年度末には、O司書と同様に勤続の長かったA学芸課長が、北海道教育委員会生涯学習部文化課主査として転出することになりました。これは、北方民族博物館(A市)・北海道立文学館という2つの館の学芸員を歴任したベテランの学芸課長が、文化課の一般事務職に異動させられるという人事であり、他の職員は少しいぶかしく思ったようでした。なお、平成17年度からの課長職はH学芸員が引き継ぎ、人員が空いたところへは、S主任研究員(40代)が新たに配置されました。前職は、T市の高校の国語教諭ということでした。
 指定管理者制度への移行の可能性が、表だって取り沙汰されるようになったのもこの頃です。自然、事務室においては、今後の館の行く末がしばしば話題になりました。「これまでは道の学芸員は専門職として長くその施設にいられたが、今後は学芸員とはいえ差別なく、他の事務職並みに3年毎に異動させられることになる。だから、H課長もあと1年の移行措置の後には異動させられる。また、今いる学芸課職員も、業務課職員も、もし財団が指定管理者に選ばれることになれば、いったんすべて道に引き上げとなる。これは道教委の方針だ」といった内容の話題が、平原学芸副館長をはじめ、皆の口にのぼるようになりました。
 私自身は、道のシステムをよくは知りませんので、そのようなものかと思うしかありませんでしたが、内心、もしそれが本当ならば、ずいぶんと機械的な措置だと考えておりました。もし実際に新体制に移行せざるを得なくなったとして、道職員が総入れ替えになってしまったら、仕事の継続性はどうなるのだろう。移行期という微妙な期間に、業務を支障なく進めることが果たしてできるのだろうか。そう思わずにはいられませんでした。

2.指定管理決定以降の内部変動
 さて、平成17年12月末に財団法人北海道文学館が北海道立文学館の指定管理者に選定されてからの数ヶ月間は、館の内部が、人事で大きく揺れ動いた時期といってよいでしょう。
 なかでも一番印象が強かったのが、受付係4人の解雇です。毛利館長は、指定管理者選定前から「財団が指定管理者の候補に名乗りを上げるからには、業務を見直し、経営をスリム化しなければならない。いままでは4名の道派遣職員に受付を担当してもらっていたが、これからは、民間の派遣業者から受付係を派遣してもらうことにし、今いる4名は退職してもらう。しかし、行く先については、私が責任を持って探す」という旨のことを公言していました。この説明を受けて4人は皆納得し、退職に同意していました。12月末の仕事納めの挨拶でも、館長は、4人の就職口については責任を持つと宣言していました。
 ところが、平成18年が明けてまもなく、毛利館長は突然前言を翻し、「行き先を探して心当たりをあたってみたが、やはり今は雇用状況が難しく、仕事はみつからなかった。だから、後はそれぞれの自己責任で探してもらいたい」と、4人に一方的に通告しました。彼女たちは、行き先があると思うからこそ退職にも同意したのだと思われますが、これでは、単に突然解雇されるのと何ら異なりません。彼女たちは揃って館長に抗議したとのことですが、一旦は退職に同意している上、現にもう指定管理制度に向けて動き出した財団の方針は今さら変えられないとのことで、結局、全員退職せざるを得ませんでした。彼女らのうち、2人は札幌に仕事を見つけることが出来ましたが、どちらも、短期で雇用が更新される不安定な職場でした。1人は、兄を頼って横浜に出ざるを得ませんでした。もう1人は、働くこと自体を諦めてしまいました。
 
 3月に入ると、業務課の職員たちは全員が道の教育庁に引き上げられることに決定しました。M課長(40代)・Y主任(30代)ら、数年にわたって文学館の事務を中心的に担っていた人々や、K主査(40代)のように経理面を熟知していた人が去ってしまうことになりました。
 他方、学芸課のH学芸課長(40代)は、道の出先機関である〈生涯学習推進センター〉の〈附属視聴覚センター〉への配属が決まりました。こちらもA前課長と同様、学芸員から一般事務職への人事であり、しかもこの視聴覚センターは、当時、次年度一杯で廃止になると言われていたセクションでした。7年間にわたって学芸員としての実績を積み重ねていた〈学芸課長〉の処遇としては、何とも解しがたいものでした。
 その一方で、A司書(20代)とS主任研究員(40代)については、そのまま勤務するということに、いつの間にか決まっていました。ただ、現実的にみれば、もし、この2人までもが館からいなくなってしまったら、学芸職員5名のうち半数以上の3名が文学館未経験者ということになり、業務が回らなくなってしまったことでしょう。
 
 では、H学芸課長の転出した後に、どのような人物が着任するのだろうか。それが、平成17年度末(平成18年1~3月)における、職員たちの主要な関心事でした。
 この点については、すでに平成17年の暮れ頃から「業務課長にも、学芸課長にも、退職した道職員が財団に再就職する形で入る。おそらく学芸課長には、この春、他の美術館の館長を定年退職する人がやって来るはずだ」という噂が流れはじめていました。
 ちなみに、平成18年度に業務課に入った川崎信雄課長とN主査は、いずれも道を退職して財団に入る形を取りましたので、業務課職員はすべて一応〈財団職員〉ということになりました。従って年齢構成も、N主任を含めて50~60代と、前年度までよりだいぶ高くなりました。
 ですから、誰もが、H学芸課長の後任も、そうした退職者が着任するだろうと思っていたのです。職員たちは「もう60歳も越した人が来るなら、H課長と違って、とても現場は担当してもらえないね」と笑って話していました。
 ところが、たしか3月も半ばにかかる頃、急に「実は、道立近代美術館から、現役の学芸員が異動して来ることになった」という新たな情報が入ってきました。職員は、この変更にやや驚いたものの、「これで年齢構成も予定よりこころもち若くなるし、現場にも入ってもらえそうだ」と前向きに捉えていました。私としても、元々美術に関心があり、美術館の学芸員を志望していた時期もあったので、新しく来る主幹とはどんな人だろう、どのあたりが専門分野なのだろうか、等について、様々に思い描いておりました。
 再びまとめますと、平成18年度からの事務室は、学芸課5名(うち1名が転入者)・業務課3名(うち2名が転入者)の8名。安藤副館長は5月一杯で退職し、平原学芸副館長が副館長に昇格。同時に学芸副館長という役職は消滅。このような組織構成となったのです。                           《「その1」の引用終わり》

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