« 北海道文学館のたくらみ(41) | トップページ | 北海道文学館のたくらみ(43) »

北海道文学館のたくらみ(42)

「裏」話の数々

○黒古一夫さんのブログ
 市立小樽文学館は今年で、開館30周年を迎える。その記念事業の一環として記念誌を出すことになり、私はこの3ヶ月ほど、30年の記録の整理と、小樽文学年表の作成に集中していた。その間、釧路の大学の仕事があり、小樽俳句協会で「アメリカにおける俳句」という話をし、文学館の企画展のために「文学における〈故郷〉」の話をしたり、文学散歩でニセコから岩内を回ってきたり、かなり忙しかった。だが、幸い亀井志乃の裁判のテンポが間延びするほどゆっくりしていたので、心煩わされることなく、仕事に集中することができた。
 
 釧路へ出かけたのは9月12日だったが、その直前だったと思う。講義の準備のため、ある言葉を検索していて、たまたま黒古一夫さんが裁判について書いていることに気がついた。これまでのつき合いに免じて、勝手ながら全文を紹介させてもらう。
《引用》
 
朝から雨模様。10時に旧知の批評家北村巌氏と会い、喫茶店で近況報告が寺(がてら?)雑談(議論)。札幌在住の北村氏とは、彼が学校職員をしていた20年ほど前に、僕が『祝祭と修羅―全共闘文学論』(彩流社刊)を出したことからコンタクトを取ってきて、小樽文学館で「小林多喜二」について講演した際に会って以来の間柄で、彼が北海道庁職員として北海道立文学館の学芸員であったとき、僕を文学館に呼んでくれ、「北海道の文学―三浦綾子を中心に」という内容で話したこともあった。現在彼は定年前に退職し、批評一筋の生活をしている。『島木健作論』で北海道新聞文学賞も受賞している「文学の徒」とも言うべき人である。午前中に彼と会ったのは、昼に会う約束をしていた北海道新聞文化部の編集委員の佐藤孝雄氏に紹介するということがあったからである。
 話は、今裁判で係争中の道立文学館における「パワハラ」問題に及び、さすが元道立文学館の学芸員、僕がインターネットで知っているのとは別な見解を出してくれ、「なるほど」と思うことが多かった。しかし、午後3時に道立文学館で「三浦綾子資料」を見せていただき、理事長の神谷忠孝氏(元北大教授)とも旧交を温める予定の僕としては、当然裁判の話に及ぶであろうことを思うと、複雑な気持ちになったのも事実である。
 というのも、この道立文学館における「パワハラ」問題は、訴えた本人はまったく知らない女性なのだが、彼女の父親はまだまだ僕が駆け出しの批評家だった時代から、実家が僕の家から500メートルしか離れていないということもあって、(僕としては)親しく付き合ってきたつもりの著名な近代研究者(批評家)の亀井秀雄氏で、彼のブログで裁判の経緯を見守ってきたということがあり、何が何だか「他人」にはよくわからない部分がたぶんに存在すると思っていたからに他ならない(詳細を知りたい人は、ネットで「亀井秀雄」を検索し、「この世の眺め」という亀井氏のブログを読んでほしい)。昨日会った北海道新聞文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに、「触らぬ神にたたりなし」といった態度であったことも頭に残っており、僕としては「関心」はあるが、そのことに直接「関わらない」と態度に決めていたのである。
 案の定、昼を北海道新聞の佐藤氏、北村氏とラーメンを食べ、コーヒーを飲みながら情報交換をした後、道立文学館を訪ねると、約束の時間より30分も前から待っていてくれた神谷氏と副館長の平原氏とを交えて、結局は「パワハラ」裁判の話になり、なるほど「当事者」はこのように考えるのか、「情報」というのは、当たり前だが「表」と「裏」があり、一筋縄ではいかないものだということを痛感させられた。僕としては、亀井氏の側にも訴えられた平原氏はじめ道立文学館の側にも加担するつもりはなく、半可通の意見ほど危険なことはないと思って、文学館側の意見をもっぱら聞き、そして主目的であった「三浦綾子資料」を見せていただき、2時間ほどの文学館訪問を終わったのだが、正直に言って「疲れた」。
 夜は、前から会いたかった北海学園大学の准教授田中綾さんと午前中に会った北村氏の三人で会食。田中さんは、面白い短歌論や歌人論を書く学者(批評家)で、僕のところに著書や論文をよく送ってくれていたので、旧知の間柄という北村氏が会わせてくれたのである。物静かな女性で、僕と北村氏が結局道立文学館の「パワハラ」問題で喧々諤々の議論をしているのを見守っていただけだが、僕のよく知る批評家の「知られざる情報」を聞き、ここでも「なるほど」と納得し、心地よい疲れの中、ホテルに帰って熟睡。
 疲れた。

 黒古さんにはよほど刺激が強かったのだろう、「疲れた」を3回も繰り返している。本当にお疲れさま。黒古さんにはもう10年以上も会っていないが、あの大柄な黒古さんのくたびれきった表情を想像して、気の毒やら、おかしいやら、おまけに色んなことが分かって面白かった。どうもありがとう。
 ちなみに、この文章の日付は「2008-08-26」である。

○どこかおかしい、「裁判」の理解
 黒古さんには10年以上も会ったことがないが、もちろん面識はある。親しい感情も持っている。ただし、北村巌さんとはほとんど面識がない。ごく若い頃、何かの会合で顔を合わせたことはあったかもしれないが、親しく言葉を交わす機会はなかった。その北村さんが、亀井志乃が起こした裁判に並々ならぬ関心を持っているらしく、黒古さんが滞在中、2度も話題に出し、
喧々諤々」情熱的に論じていたという。ふ~ん、北海道の文学関係者にはそれほど知れ渡っていたのか。
 なるほど、これでは、神谷忠孝や平原一良が黒古さんをつかまえて、「裏」の話を縷々説明せずにはいられなかったはずだ。
 おまけに、黒古さんによれば、
北海道新聞文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに、『触らぬ神にたたりなし』といった態度であった」という。北海道新聞の記者の間でも周知の出来事なのだろう。
 
 しかし、黒古さんの文章が伝えていることの全体は、どこかおかしい。
 亀井志乃は、〈道立文学館に駐在する寺嶋弘道という公務員によって人格権を侵害された〉とする裁判を起こしたが、道立文学館を訴えたわけでもなければ、神谷忠孝や平原一良を訴えたわけではない。私のブログを普通に読んでいれば、その点の違いはすぐに理解できるはずだが、黒古さんは
「僕としては、亀井氏の側にも訴えられた平原氏はじめ道立文学館側にも加担するつもりはなく」とか、約束の時間より30分も前から待っていてくれた神谷氏と副館長の平原氏を交えて、結局は「パワハラ」裁判の話になり、なるほど「当事者」はこのように考えるのか、(中略)一筋縄ではいかないものだということを痛感させられた」などと書いている。
 すると、どうやら黒古さんは、亀井志乃が「平原氏はじめ北海道文学館」を訴えたと思い込んでいるらしい。それだけではない。北村巌さんや、北海道新聞の文化部の記者たちや、神谷や平原たち自身も、黒古さんが自分の間違いに気がつくような言い方を一度もしなかったことになる。つまり、北村さんも、道新の記者たちも、〈亀井志乃がパワハラの問題で平原一良や道立文学館を訴えた〉という前提でものを言っていた。神谷や平原に至っては、自分たちが「当事者」の立場でものを言っていたことになるわけである。
 
 この、とんでもない勘違い人間たちが語る「裏」話とは、一体どんな話だったのだろうか。

○北海道新聞文化部の態度
 それに、
昨日会った北海道新聞文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに、『触らぬ神にたたりなし』といった態度であった」云々も変な話しだ。
 裁判の性質からして、これは社会部の扱いだろう。
 仮に文化部が関心を持ったとしても、亀井志乃は道新の書き手であったことはなく、文化部の記者が
「触らぬ神にたたりなし」と気をつかう必要があるとは思えない。それ故、もし道新文化部の態度が黒古さんの言う通りだとするならば、道新文化部にとって寺嶋弘道はあまり感情を刺激したくない、重要な存在なのだろう。もちろん道新文化部の人たちも新聞記者である以上、労を惜しまずに、札幌地方裁判所に申請して、寺嶋側の「準備書面(2)」や「陳述書」、亀井志乃の「準備書面」や「準備書面(2)―2」や「陳述書」を取り寄せて、読み比べてみたはずである。そうであるからこそ、黒古さんは「北海道新聞文化部の文化部の記者たちも、裁判の双方をよく知るがゆえに」と書いた。私はそう受け取ったのだが、どうやら道新文化部の記者たちは、両者を読み比べたにもかかわらず、寺嶋弘道と亀井志乃のどちらが筋の通ったことを書いているか、判断を保留することにしたらしい。

○亀井志乃の美術(史)論
 それが、佐藤孝雄さんをはじめとする、北海道新聞文化部の見識であるとするならば、それはそれで仕方がないことだが、この場を借りて一つお願いをしておこう。
 
 道新文化部の人たちだけでなく、北村さんや黒古さんも、神谷忠孝や平原一良も、そしてこのブログを読んで下さる人たちも、念のため、googleに「亀井志乃」と「HUSCAP」という言葉を入れて、検索をしてみてもらいたい。「〈思想画〉としての情景――外山正一『日本絵画の未来』について―」という論文と、「〈美文天皇〉と〈観音〉――坪内逍遙対森?外〈没理想論争〉について―」という論文がヒットする。この2本の論文は亀井志乃が北大文学部の言語情報講座の助手をしている間に、『北海道大学文学部紀要』に発表したものであるが、一つ目の論文は美術史に関する論考と言えるだろう。その他にも彼女には、「フェノロサと『浮世絵史考』」(明治美術学会『近代画説』第9号)という、美術史に関する論文がある。
 
 寺嶋弘道は、平成18年度、亀井志乃が財団法人北海道文学館に勤めている間、彼女を無知な人間扱いにしてきた。更に裁判の「陳述書」において、寺嶋弘道は20数ヶ所に及ぶ嘘を並べ立てながら、亀井志乃の知識と経験を否定し、人格権を侵害した。だが、亀井志乃は文学研究だけでなく、美術(史)研究の領域においても、どの程度の質と量の業績を揚げてきたか、上記の論文でよく分かるはずである。
 
 ちなみに寺嶋弘道には、工藤欣弥との共著『三岸好太郎――夭折のモダニスト―』(北海道新聞社)という、新書版の著書がある。読み比べてみれば、二人の力量と研究実績の違いは一目瞭然だろう。

○非常勤講師という仕事をめぐって
 田中綾さんについて言えば、私は彼女の授業を持ったことがある。北海学園大学が日本文学関係の大学院講座を作り、私は非常勤講師を依頼されたのだが、彼女はその時の受講生だった。

 私は名古屋大学や東京都立大学などから集中講義を頼まれたことがあり、もちろん出張の許可を得て講義に出かけた。だが、札幌市やその近郊の大学へ非常勤講師を引き受けることはしなかった。理由は幾つかあるが、一番大きな理由は、私が国文学講座という大学院講座の担任だったからである。この講座には助手や、博士課程の大学院生など、研究者の予備軍がいる。私は、自分に非常勤講師の依頼があった場合、相手の大学に事情を説明して、助手や博士課程の院生を非常勤講師に使ってもらうことにした。たとえ非常勤の形であったとしても、大学で教えているというキャリアは、その人たちの就職活動に有利な条件となるからである。時には、知り合いが勤めている大学にお願いして、講義種目を増やしてもらい、博士課程の院生を非常勤で使ってもらったこともある。
 
 和田謹吾や神谷忠孝や高橋世織といった同僚は、3つも、4つもの大学へ、非常勤講師で出かけていた。この人たちは大学院講座の担任ではなく、教養教育の教官だったから、助手や大学院生の就職の心配をする必要がない。北大教官の役得みたいな感覚で、あちこちの大学で講師料をいただいていたのであろう。
 しかし、あまり度が過ぎれば、誰かが注意しなければならない。だが、学部長が部長室に呼んで注意をすれば角が立つ。そこで私が学部長に頼まれて、神谷忠孝と高橋世織に「少し減らしたほうがいいのではないか」と話をしたことがある。二人は何の反論もしなかったが、腹の中では面白くなかっただろう。神谷忠孝が熱弁を古い、北村巌さんたちが伝播に努めているらしい「裏」話は、大方こんなことから始まるのである。
 
 ただし、私のやり方がいつも上手く機能してくれたわけではない。
 助手や大学院生の就職が決まったならば、非常勤の仕事は一たん私に返してもらい、私なりの判断で、キャリア作りが必要な助手や、生活が苦しい大学院生にその仕事をまわす。私はそういう方針でいたのだが、札幌大学の非常勤講師をしていたNは、札幌の他の大学に就職が決まった時、札幌大学の仕事も持っていってしまった。
 Nの前に札幌大学へ出ていたのはMであるが、Mが東京の大学に就職が決まって、Nへ仕事を引く継ぐ際、これまでの慣例を伝えるのを忘れてしまったのかもしれない。あるいはNは慣例を承知の上で、自分の既得権は手放したくないと考えたのかもしれない。
 
○田中綾さんたちの思い出
 「非常勤講師」という言葉を私の頭の中で検索すると、こんな記憶が出てくるわけだが、ともあれ私は、従来の「禁」を破って、北海学園大学の大学院の非常勤講師を引き受けることにした。千葉宣一さんからもっと大事な話があったのだが、思うところがあって、私は断ってしまった。だが、千葉さんには、北大の国文学会の運営などで、色々配慮してもらった。せめてこの程度のことは引き受けないと、仁義に悖る。第一、大学院の講義を助手や院生に任せることは出来ないだろう。そう考えて引き受けたのだが、日中、北大を空けて出かけることはしたくない。そこで、午後の5時過ぎに始まる講義を持たせてもらうことにしたわけだが、その講義に田中綾さんが出ていたのである。

 田中さんたちは新設の大学院の1期生で、大半の人がすでに職についていた。高等学校の先生をしているのだが、管理職に進むためには大学院修士課程修了の学歴が必要だ。そういう動機の人もいたらしい。その意味で、就職の心配を抱えている人たちはいないようだったが、私の印象では、誰もが自信なく、不安そうな雰囲気だった。学歴上の肩書きをもらうことはできるとしても、さて、大学院を終えて研究職に就くことができるだろうか。北大の大学院と比較されることはやむを得ないが、では、北海学園大学の大学院修了者を、社会がどの程度に評価してくれるか。そういう心許ない思いを抱えていたのだろう。

 私自身は、将来的には北大と北海学園大学の単位を互換し、北大の院生が北海学園大の大学院の講義を受講し、北海学園大学の院生が北大の大学院の講義を受けられるようにしたいと考えていた。それだけに、この人たちの心許なそうな雰囲気がどうも気になる。
 様子を聞いてみると、研究会を作り、それを土台にして北海学園大学の学会を作るといった、将来構想がない。山根対助も菱川善夫も千葉宣一も、そういう未来図が語ったことがないらしい。それじゃあ、一体何のために大学院を作ったのだ。
 もう一つ驚いたのは、構造主義以来の文学理論や概念をほとんど知らない。言葉を聞いたことはあるが、それはどういう方法的概念なのか、ごく曖昧にしか知らない。これでは、北大の大学院とギャップが大きすぎるだけでなく、全国の大学の院生たちと討論する場面があったとしても、自信をもって発言することができないのではないか。
 私はその人たちが気の毒になり、ちょうど『「小説」論』(岩波書店、1999年)や『明治文学史』(岩波書店、2000年)を書いていた時期でもあり、それらから適当な材料を選び、かなりムキになって基本的な理論と概念の説明をした。要するに入れ込んでしまったのである。

 そんなこともあって、学期が終わる毎に、私のほうから声をかけて、田中さんたちとコンパを開いた。別にハッパをかけるつもりはなかったが、1期生のレベルがその後の大学院の質を決めてしまう傾向がある。1期生の責任は大きいが、それだけにやりがいもある。1期生のほうから教授に働きかけて学会を組織したほうがいいのではないか。1期生の中から、将来北海学園の学問を背負って立つ教員が育ち、その人を中心に後輩を育てるシステムを作ることができるならば、それが一番望ましい。雑談交じりに、いや、雑談の形を借りて、そんな話をした記憶がある。

 それが田中綾さんたちにどんな印象を与えたか、私は知らない。ただ、その後、田中綾さんから学会発表のレジュメが送られてきたことがあり、それを一読しただけでも、田中さんの問題意識と方法が菱川善夫を凌いでいることが分かり、嬉しかった。私のお節介もまんざら無駄ではなかったらしい。

 ただ、田中綾さんが亀井志乃の仕事や人となりを知っているとは思えない。だから、田中さんが黒古さんや北村さんに話した「知られざる情報」とは、私に関する事柄だったと思う。田中さんも、神谷忠孝や平原一良が語る「裏」話に耳を傾けることが多かったのだろう。

○黒古さんの書き方への疑問
 しかし、私には「裏」も「表」もない。
 私はこのブログの途中で、3回ほど、「幕間劇」と題して、大江健三郎の『沖縄ノート』の表現を分析した。読んで下さった人はよく分かると思うが、私は大江健三郎が裁判で訴えられた、問題の箇所を取り上げ、言語表現それ自体としての構造と内容がどうなっているか、かなり念入りに検討を加えた。言語テクストを論ずる場合は、けっして裏読みなどせずに、あくまでも言語表現それ自体の構造を解明する。それが私の方法だからである。
 黒古さんのブログに関して、和気さんがコメントをつけており、面映ゆくなるほど私を高く評価してくれている。ただ、もし和気さんが言うように、私の文体が一般の人になじみにくいとすれば、それは先のような私の方法に由来するだろう。
 
 その意味で私の書き方は、明らかに黒古さんとも異なる。
 黒古さんのブログを、少し遡って読んでみたところ、『沖縄ノート』裁判の判決について、こんなことを書いていた。
《引用》
 
そもそも、この裁判は、原告(訴えた側)の守備隊長が肝心の「沖縄ノート」を読んでおらず、誰からか吹き込まれた「伝聞」によって訴訟を起こしたこと(という表面的な理由)に象徴されるように、ある「政治的思惑」があって起こされた裁判に他ならなかった。つまり、この裁判は、「改革」という美名を掲げて長期政権を維持したネオ・ファシストの小泉純一郎と、その後釜に据えられた「お坊ちゃん右翼」安倍晋三といった「タカ派=ネオ・ナショナリスト」勢力台頭の勢いに乗った「自由主義史観派」の「悪のり」の結果であって、あのアジア・太平洋戦争敗北の反省を礎に始まった「戦後(民主主義)」的価値観の伝統は、未だ「健全」であったということである。「反戦」「ヒューマニズム」「対等・平等」「自由」といった思想を獲得した「戦後」的価値観は、60年以上経った今日でも「有効」だった、ということに他ならない。
 それにしても、小泉-安倍政権の「勢い」に乗って(あるいは、その意を汲んで)、まさか「美しい国」造り構想などという観念の産物でしかない「妄想」が実現して「ネオ・ナショナリズム」が国是となるような国が実現すると思ってではないと思うが、先走って高校の歴史教科書から沖縄戦における「集団自決」の項目を削らせた文科省の目論見は、周知のように沖縄県民の反撃にあって脆くも崩れ去ったが、恐らく教科書を書き換えさせようとする勢力(自由主義史観派、ネオ・ファシストたち)は、今回の「大江裁判」で敗北したとは言え、原告側が即時控訴したように、依然として大江健三郎に代表される「戦後民主主義派」への攻撃は続くものと思われる。
 73歳になった大江健三郎にはもう少し頑張ってもらうわねば(もらわねば?)ならないことになったが、この「大江裁判」に沈黙を守り続けている文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界は、一体全体どうなっているのかと思わざるを得ない。先般「環境問題と社会正義」というテーマで若手の研究者が侃々諤々の議論をしていたアメリカ(ケンタッキー州立大学)のことを思い出すと、なおさら現在の文学者たち(作家や研究者たち)の「自閉傾向」が気になって仕方がない
(「大江裁判に、一言」2008―3-30)

 私はこういう書き方を決してしない。私のみるところ、大江健三郎は大江健三郎以外の何ものでもない。他方、「戦後民主主義派」などという「派」(group?  school?  side?)が、実体的に存在しているわけではない。つまり、大江健三郎を「戦後民主主義派」の「代表」と規定する、どのような客観的な根拠もありはしないのである。

 ところが黒古さんは、大江健三郎を「戦後民主主義派」の代表、つまりrepresentative に仕立てることによって、大江健三郎が裁判に訴えられた事実を、大江によってrepresentされる「戦後民主主義派」への攻撃と見なしている。そうすることによって、黒古さんは「戦後民主主義派」を実体化し、自分をその一員に数える。更に戦後民主主義派/自由主義史観派(あるいはネオ・ファシスト)という二項対立の政治図式を使って「『大江裁判』に沈黙を守り続けている文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界」を批判する自分の立場を確保しようとしたわけである。
 だが、黒古さんのこのロジックは、先のような私の見方からすれば、認識の順序が逆立ちしている。
 それだけではない。もし黒古さんが言うように、「文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界」が「大江裁判」に関して沈黙していたとすれば、私のみるところ、それは、政治現象の上っ面を撫でただけの二項対立の図式で自分の発言が解釈されることを警戒していたからにほかならない。
 私が「幕間劇」で『沖縄ノート』の該当箇所を分析していた頃は、1日のアクセス数が3,000を超えることもあった。ずいぶん沢山の人が関心を持っているのだな。私は驚いた。私は疾うの昔から、「戦後民主主義派/自由主義史観派(あるいはネオ・ファシスト)」みたいな政治的二項対立を無視する立場で評論や論文を書いてきた。私のブログを読んでくれた人が、全て私の分析に共鳴したわけでなく、異議ありと思った人も多かったと思うが、二項対立の政治図式に当てはめて云々するような反応(書き込み)は一つもなかった。私の分析に関する賛否はそれとして、少なくとも私の姿勢自体には納得できるところがあったからだろう。
 そんな次第で、私から見れば、「文壇=現代文学の世界や学会=文学研究の世界」が「大江裁判」に関して沈黙しているのは、それこそ「触らぬ神にたたりなし」と、洞ヶ峠の筒井順慶を決め込んでいるだけのことであって、そもそもそんな「世界」の連中に何かを期待するほうが間違っているのである。
 
 私はそう考えているのだが、しかし視点を一つ変えれば、大江健三郎という固有名詞を何らかの「集合」の代表=representation=表象として操作する、黒古さんのような政治的裏読みは、北海道新聞のみならず、大手マスメディアには好まれやすい。これからもその種の文章が紙面を飾ることになるだろう。

○神谷忠孝の「裏」話?
 ところで、さて、黒古さんが旧交を温めたという神谷忠孝は、財団法人北海道文学館の理事長をつとめている。だが彼は、財団の嘱託職員の亀井志乃から、北海道教育委員会の公務員によってパワーハラスメントの人権侵害を受けた旨のアピールを受け取ったにもかかわらず、自分の責任で事態を把握しようとはしなかった。
 財団法人北海道文学館の理事長である神谷忠孝は、財団の嘱託職員の亀井志乃からパワーハラスメントの調査委員会を作ってほしいという要求を受けながら、これを黙殺してしまった。
 そして、神谷忠孝が理事長を務める財団法人北海道文学館は、正職員を採用するという理由で、亀井志乃に次年度の雇用契約の打ち切りを通告し、その上、亀井志乃が正職員の公募に応募しようとしても、それが出来ない年齢制限を設けてしまった。
 この年齢制限は、高年齢者雇用安定法や雇用対策法に反する、法律違反の行為だった(「北海道文学館のたくらみ(18)」)。
 財団法人北海道文学館理事長の神谷忠孝は、亀井志乃から、どのような意志決定のプロセスを経て次年度の方針が決まったのか、教えてほしいという要求を受けながら、これも黙殺してしまった。
 亀井志乃は、神谷忠孝が理事長を勤める財団法人北海道文学館を相手に、解雇権乱用を訴える労働審判を起こしたが、神谷忠孝は責任をもって対応することを避け、川崎業務課長を財団の代表者に仕立てて、ついに一度も自分は姿を現さなかった。
 つまり神谷忠孝は、終始一貫して、当事者としての責任から逃げていたのである。
 
 現在、亀井志乃が北海道教育委員会の学芸員・寺嶋弘道を相手に起こした裁判は、単にパワーハラスメントだけでなく、業務妨害やプライバシーへの干渉などを含む、人格権侵害の違法行為に関する裁判であって、如何なる意味でも神谷忠孝は当事者ではない。ところが神谷忠孝は、黒古さんに対して、現在の裁判に関する「当事者」として、「情報」や「裏」話を語っていたらしい。
 もし黒古さんの言うところが本当ならば、これは奇妙奇天烈な言動と言うしかない。
 
 それにしても、パワー・ハラスメント問題から労働審判に至るまで、終始一貫「当事者責任」から逃げていた人間が語る「情報」や「裏」話に、どのような正当性があり得るのだろうか。

○平原一良のセカンド・ハラスメント
 他方、平原一良は、亀井志乃から訴えられたわけではないにもかかわらず、寺嶋弘道の側に立って「陳述書」を書き、「上記の内容に相違ないことを誓います。」と誓って、署名捺印をした。言わば自分から「当事者」に志願したわけだが、その「内容」は20数ヶ所に及ぶ虚偽を含んでいる。
 そういう人間が語る「情報」または「裏」話はどのようなものであったか。多分それは、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)―3」(乙12号証 平原一良「陳述書」への反論)で分析し、指摘した、次のようなものであっただろう。なお、次に引用する文中の「乙1号証」とは、寺嶋弘道の「陳述書」のことである。
《引用》
  
以上のように検証してみると、平原一良道立文学館副館長の「陳述書」(乙12号証)の内容には、事実と異なる記述が数多く見られます。そしてそれは単純な記憶違いと言って済まされない事柄ばかりです。
 なぜなら平原氏の記述は、私が文学館の職員としてきわめて能力が低く、しかも社会的にも不適応な人間であったと読む者に思わせるようにと、文脈的に一貫して整えられているからです。
 その顕著な例としては、私がいわゆる今風の〈ひきこもり〉であり、人格障害者的な人物であるかのように記述を畳みかけてゆく手法を挙げることができます。平原氏の陳述によれば、私は当初からその父によって「家に居る娘を仕事に使ってくれ」と押しつけられた人間であり(1ページ9~14行目)、もともと人と接する事は少なく(同16~19行目)、嘱託職員として働き始めるとまもなく「非協調的」として一部スタッフから不満の声があがり(2ページ9~10行目)、常設展リニューアルの頃には、周囲のスタッフからますます私を非難の声があがって平原氏がなだめるのに苦労するほどであり(同14~16行目)、自分の欠点を指摘される事は絶対的に拒否し(2ページ31行目~3ページ9行目)、自分の職務に対する認識力もなく(4ページ17行目)、職場の規律も守らず、周囲の空気も読めず(4ページ33行目~5ページ2行目)、職場の雰囲気をおかしくし(5ページ28~31行目)、担当の展示業務を満足にこなす能力もなく(6ページ13~24行目)、しかし自己肥大的なプライドだけは高く、ついに皇室の方々に、はしたなくも不敬なふるまいをするまでに至る(6ページ30行目~7ページ3行目)。人格描写のポイントをピックアップしてゆくと、実に典型的な境界性人格障害者、あるいは自己愛性人格障害者の像が浮かんで来る。
 平原氏は「大学や大学院で研究者・職員としての経験のみを有する人物にはままありがち」(5ページ3~4行目)などと、一見、私の学歴・職歴の高さも一定程度評価している振りはしていますが、これは要するに、社会通念の中での〈挫折したエリートの人格障害者〉のステレオタイプなイメージを、そっくりなぞっているに過ぎません。また、こうしたイメージは、被告の「陳述書」における「原告にとって研究とは個人の研究を意味し」(乙1号証8ページ1行目)・「自らの研究と自らの関心ある業務だけを行い」(同9ページ17行目)といった箇所のイメージと密接につながっている。その意味では、乙1号証と乙12号証は、きわめて緊密な相互補完的関係にあると言えます。

 ただし、本準備書面のこれまでの部分で反論してきたように、以上に挙げた平原一良氏の記述は、すべて虚偽であるか、または証拠の裏づけがない。これは、乙1号証にしても同様です。

 それ故、もしも平原氏が以上の私の反論に対して再反論し、しかも有効な書証あるいは人証をもって主張の内容の信憑性を裏付けることが出来なければ、平原一良氏は、「以上の内容に相違ないことを誓います。」と明記して署名捺印した「陳述書」において、虚偽を記載し、私に対して事実無根の悪質な人格誹謗と中傷を行い、単に私の裁判における敗訴を企図したのみならず、被告と共謀して、私が重度の人格障害者として今後永久に社会的に葬り去られん事を積極的に画策したのだと結論せざるをえません
 私は、この点について強く指摘し、もし平原氏が自己の主張の裏づけを果たせなかった場合には、氏の「陳述書」を私に対する法廷における悪質なセカンド・ハラスメントと見なし、その違法性を追求してゆく所存です。
引用、終わり)

 つまり平原一良は、僅かにA4判6枚強の「陳述書」の中で、20 数ヶ所に及ぶ虚偽の証言を行い、10回も亀井志乃の人格・能力を中傷誹謗する発言を繰り返したわけだが、しかし彼は、平原「陳述書」の虚偽に関する亀井志乃の指摘に反論することもなければ、悪質なセカンド・ハラスメント」の告発に対する反論もできなかった。私の公開質問(「北海道文学館のたくらみ(38)」)に答えることもできなかった。
 おそらく平原一良には亀井志乃の指摘に反論できなかったストレスが溜まっており、暴かれた嘘を取り繕うための嘘を重ねて、饒舌止まることがなかったのであろう。黒古さん曰く、
僕としては、亀井氏の側にも訴えられた平原氏はじめ道立文学館の側にも加担するつもりはなく、半可通の意見ほど危険なことはないと思って、文学館側の意見をもっぱら聞き、そして主目的であった『三浦綾子資料』を見せていただき、2時間ほどの文学館訪問を終わったのだが、正直に言って『疲れた』」。本当にお疲れさま。
 黒古さんも結局は
「触らぬ神にたたりなし」を選んだわけだが、せめて裁判の性格だけでも、もう少し正確に認識して下さい。

 

 
 

|

« 北海道文学館のたくらみ(41) | トップページ | 北海道文学館のたくらみ(43) »

「文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

 私が信頼している人で、北海道文学館の事情にも通じている方から、今回のことについてお話を聞きました。
 出る杭は打たれるという形で、将来も能力もある「志野さん」が人格的な攻撃まで受けている状態に、その方は怒っていました。裁判も傍聴しているそうです。
 私も同様に憤慨しています。
 大変でしょうが、どうかくじけずに頑張ってください。

投稿: 今川かおる | 2008年10月13日 (月) 02時26分

苦手な女性のタイプは自分の事をかわいいと思っている人です。

投稿: 福山雅治 | 2008年10月13日 (月) 09時25分

今川かおる様

道立文学館で起こったことについて、ずっと注目をして下さって、ありがたく存じます。お言葉に励まされました。

志乃はその後、大学の集中講義に呼ばれたり、翻刻の仕事を頼まれたりして、それなりに充実しているようですが、この際、時間の余裕があるからと、英語の能力アップのために速読や発音の教室に通ったり、古文書の講習会に出たりしています。

古文書については、妻も私も一緒に勉強しています。私の育った家に、江戸時代初期の訴訟文書が少し残っており、一度「名主追放」というタイトルで、タイプ印刷して配布したことがあります。歴史の専門家の目から見ると、割合に貴重な資料だったようで、好評でした。要するに江戸時代の裁判の記録なのですが、これを機会に、改めて解読し直して、解説つきの形で活字化しておきたいと考えています。

それやこれや、志乃も私たちも気力充実。それを持続しながら裁判に対応して行くつもりです。

10月15日
亀井 秀雄

投稿: 亀井 秀雄 | 2008年10月15日 (水) 09時08分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/127704/42745616

この記事へのトラックバック一覧です: 北海道文学館のたくらみ(42):

« 北海道文学館のたくらみ(41) | トップページ | 北海道文学館のたくらみ(43) »