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北海道文学館のたくらみ(38)

平原一良氏への公開質問状

○公開質問状とする理由
 今回は財団法人北海道文学館の副館長・平原一良氏に対する公開質問状としたい。
 理由は簡単明瞭である。平原一良副館長は裁判の「陳述書」において、亀井志乃の勤務状態が如何なるものであったか、縷々述べているが、その中で3回私のブログに言及している。そのブログは、一つは私のHP(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に再掲載した「文学館の見え方」であり、二つには、現在こうして書き進めている「北海道文学館のたくらみ」である。それ故、このブログを読んで下さっている人たちには、平原副館長の書くことと私の書くことのいずれが真であり、いずれが偽であるか、直ちに検証することができる。これが公開質問状とした第一の理由である。

 第二に、このブログにはコメント欄があり、また、「北海道文学館のたくらみ(26)」で述べたような事情により、直接私にメールを送ることができる。それ故、平原一良副館長が質問に答える上で、何ら煩瑣な手続きは要らない。ただ、「北海道文学館のたくらみ(26)」でことわっておいたように、答えがメールで送られてきた場合には、「当ブログの内容について頂戴した用件や意見は、名前と共に、当ブログに引用させてもらう場合があります」。

 第三に、平原一良副館長の「陳述書」は被告側の「準備書面(2)」の証拠物として書かれたものであり、上記の内容に相違ないことを誓います。」と結んで、署名し、捺印している。それ故、平原一良副館長の答えは、自分の「陳述書」に述べたことが真であることを、証拠を挙げて証明するだけでよい。それ以外の、弁解や事情説明は一切不要であり、回答としての意味を持たない。

 第四に、平原一良副館長の「陳述書」は、原告の亀井志乃が財団法人北海道文学館の嘱託として働いていた期間の勤務状態を述べたものであり、それ故私の質問に対する答えも、亀井志乃が嘱託として働いていた期間内の事柄に絞ることができる。また、そうしなければならない。その意味でも平原一良副館長が答えに要する労力は少なくて済むはずである。

○又しても平原一良の虚言
 さて、平原一良副館長は「陳述書」の中で3回私のブログに言及していたが、1回目の言及については、前回の「北海道文学館のたくらみ(37)」で検討し、彼の言うことが如何にいい加減であり、偽りであるかを明らかにしておいた。2回目は次のようであった。
《引用》
 このころ、幹部間の協議を経て、亀井志乃氏は学芸スタッフの座るブロックから、同じ事務室内の業務課のブロックへと席を移し、業務上の相談などは私が直接受けるという緊急避難的な対策がとられました。これ以上、事務室内の空気をおかしくしたくないと判断した結果でした。このような動きが内部で進むなか、亀井氏の父君による当財団への仮借ない糾弾がブログで再開されました。毛利館長が亀井志乃氏に訊ねたところ、同氏もそれを知っているとのことでした。更にブログでは、上記の「ハラスメント」問題についてばかりでなく、亀井志乃氏の任用問題などについても、父君によるあられもない言及がなされるようになりました。そこでアップされている情報のうちには、当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました(5ページ29~37行目)
 
 ここで平原副館長が言っている「このころ」とは、その前の段落との続きで言えば、「やがて、12月を迎え」、次年度(平成19年度)の職員募集要項が財団のHPに載せられた頃のことである。だが、ここでもまた彼は嘘を吐いている。亀井志乃の事務室における席が変わったのは、平成18年11月10日(金)、毛利館長(当時)および平原副館長と亀井志乃が話し合った結果であり、平原が言う「このころ」の1ヶ月以上も前のことであった。このことは「文学館のたくらみ・資料編」(http://fight-de-sports.txt-nifty.com/wagaya/)の「資料2」に載せた、「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」(平成19年1月22日掲載)を見てもらえれば、直ちに明らかだろう。
 また、同じく「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」を見れば、亀井志乃の席換えは決して「緊急避難的な対策」ではなかったことも分かるだろう。毛利館長と平原副館長が、亀井志乃の「自分の席を、学芸班の位置から、自分が所属している業務課の側の席に移してほしい」という要求を正当なものと認めた、その結果の席換えだったからである。
 
 亀井志乃は「11月10日に館長室にて行われた亀井志乃の質問状に対する意見交換とその結果決定された取り決めについて」を、毛利館長や平原副館長に渡したが、彼らは一言も訂正を要求してこなかった。この点も確認しておきたい。

○質問その①
 そのことを一つ確認し、さて私のブログの問題に進むならば、平原一良は「亀井氏の父君による当財団への仮借ない糾弾がブログで再開されました」と言う。この「ブログ」は現に私が掲載を継続している「北海道文学館のたくらみ」を指すものと思うが、私が掲載を始めたのは平成18年12月28日のことであって、「文学館の見え方」の再開ではない。平原一良は「当財団への仮借ない糾弾」「再開」されたのだ、と主張するかもしれないが、「文学館の見え方」と「北海道文学館のたくらみ」とはモティーフもテーマも異なっている。
 もともと亀井志乃が寺嶋弘道を告訴した裁判において、被告側証人の平原一良がその「陳述」の中で、私のブログを持ち出すのは筋違いなのである。まして平原が言う「「ハラスメント」問題ばかりでなく、亀井志乃氏の任用問題」に関する私のブログは、「北海道文学館のたくらみ」だけであり、それらの問題と関係ない時期に書かれた「文学館の見え方」まで持ち出すのは、お門違いもはなはだしい。そうであればこそ私は、議論が錯綜することを防ぐために、二つのブログを切り離すことにし、前回は「文学館の見え方」に関する平原一良の虚偽証言を取り上げた。そして今回は、「北海道文学館のたくらみ」に関する平原の陳述を分析、批判することにしたのである。
 そのことをことわった上で、さて、平原副館長に質問しよう。平成28年12月28日に始まった「北海道文学館のたくらみ」のどこが、当財団への仮借ない糾弾」なのか。平原一良は具体例を挙げて、私のブログにおける発言が「当財団(財団法人北海道文学館)に対する「仮借ない糾弾」であることを立証しなければならない。
 
○質問その②
 続けて平原副館長は、毛利館長が亀井志乃氏に訊ねたところ、同氏もそれを知っているとのことでした。」と言っているが、毛利館長が亀井志乃に対して、私のブログについて質問したのは、いつ、どのような場面においてであったか。また、平原副館長が毛利館長からそのことを聞いたのは、いつ、どのような場面においてであったか。それを明らかにしてもらいたい。

 実を言えば、平原副館長は何を言いたくて、毛利館長が亀井志乃氏に訊ねたところ、同氏もそれを知っているとのことでした。」という一文をここに書き込んだのか、その理由が私にはよく分からない。ただ、こういう文章がある以上、私はその真偽を判断しなければならないわけだが、私は毛利館長が亀井志乃に、私のブログに関して何事かを訊いた事実はなかったと思う。亀井志乃も記憶にないと言っているが、私がそう判断した理由はそれだけではない。私がそう判断した一番の理由は、平成19年1月17日、毛利館長自身が亀井志乃に次のような文章を渡しているからである。
《引用》
 こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけるあなたの行動は極めて不誠実であり、強く抗議します。
 平成19年1月17日

 この文章は、私の「北海道文学館のたくらみ(6)」(平成19年1月25日掲載)に引用しておいた。「文学館のたくらみ・資料編」の「資料7」(平成19年1月28日掲載)にも載せてある。それ故、こうした要求・質問を私どもに対し行い」という毛利館長の文言が何を指しているのかについての説明は省略するが、少なくとも平成19年1月17日の時点で、毛利館長は、「北海道文学館のたくらみ」というブログを書いているのは亀井志乃だという認識に立っていた。なぜなら毛利館長は、こうした要求・質問を私どもに対し行い、一方ではインターネット上の父親のブログで、父娘関係をあえて伏せたまま」から、名誉と人権を不当に傷つける」までを、全て「あなた(亀井志乃)の行動」と見なしているからである。
 
 毛利館長は、まるで亀井志乃が亀井秀雄署名のブログを隠れ蓑に使ってきたかのような関係妄想に基づいて、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけ」たと、亀井志乃に「強く抗議」している。だが、彼は「根拠のない誹謗・中傷をくりかえし」と断言する根拠を、何一つ具体的に明示していない。ということはすなわち、毛利館長のほうが亀井志乃に対して、根拠のない誹謗・中傷をしたことになるだろう。同時に、私に対してもそれは根拠のない誹謗・中傷となっている。なぜなら、具体的な事例に基づいて北海道文学館のあり方を論じてきた私のブログを、根拠のない誹謗・中傷をくりかえし、財団法人北海道文学館及び北海道立文学館並びに関係する個人の名誉と人権を不当に傷つけ」たと決めつけ、貶めたことになるからである。
 毛利館長はこの文書は冒頭に、財団と館の意思として申し上げます。」と書いてある。その意味では財団法人北海道文学館と道立文学館とが結託共謀して、亀井志乃に対して根拠のない誹謗と中傷を行い、私に対しても根拠なく誹謗と中傷を行ったわけである。
 
 亀井志乃は「神谷忠孝理事長の責任ある回答を要求する」(平成19年1月21日付け)の中で、毛利館長のこの文章に対する批判と反論を行い、「文学館のたくらみ・資料編」の「資料7」(平成19年1月28日掲載)に載せた。私も「北海道文学館のたくらみ(6)」に引用しておいた。だが、それだけでこの問題は決着したわけではない。毛利館長が財団法人北海道文学館と道立文学館の名において、――あるいは財団法人北海道文学館と道立文学館が結託共謀し、毛利館長を通して――亀井志乃に対して根拠なき誹謗と中傷の人格権侵害を行った事実は、依然として残っている。私に関する誹謗と中傷の人格権侵害に関しても同断である。
 
 それにしても、平原副館長の亀井志乃の人格と能力に関する、虚偽証言を交えた、根拠なき中傷と、私のブログを引き合いに出すやり方は、毛利館長のあの文章に驚くほどよく似ている。ひょっとしたら同一人物の作文かもしれない。もしそうでないとしても、財団法人北海道文学館という組織は平気で虚偽証言をし、根拠なき中傷・誹謗によって、自分たちに都合の悪い人間を排除してしまう体質を濃厚に持っている。そう判断して差し支えないだろう。

○質問その③
 更に平原副館長は、更にブログでは、上記の「ハラスメント」問題についてばかりでなく、亀井志乃氏の任用問題などについても、父君によるあられもない言及がなされるようになりました。」と言っているが、亀井志乃の任用問題に関する私の言及はどのようなものであり、なぜそれは「あられもない言及」なのか。その点を明らかにしてもらいたい。
 
 念のために、私が「北海道文学館のたくらみ」を書くに至った経緯を説明しておこう。
 亀井志乃は平成18年10月31日、寺嶋弘道学芸主幹の度重なる嫌がらせに耐えかねて、彼のパワー・ハラスメントを財団の幹部職員にアピールした。だがその時期、私はブログに書く意志を持っていなかった。
 また亀井志乃は平成18年12月2日、川崎業務課長より、12月6日(水)に毛利館長による職員面接があるからと、「自己申告書」というマル秘マークの文書を渡され、12月5日、必要な事項を記入して川崎業務課長に提出した。亀井志乃としては次年度も雇用が続くための必要な手続きと思っていたが、翌12月6日、館長室における毛利館長との面談において、館長から「来年は、財団としては嘱託職員を任用する意向がない」という意味のことを告げられた。これはダマシ討ちに類するやり方だが、亀井志乃は「納得できない」旨の返事をして退出した。その上で、毛利館長との面接を「面談記録」の形にまとめ、「毛利正彦館長が通告した「任用方針」の撤回を要求する」(平成18年12月12日付け)と一緒に、神谷理事長、毛利館長以下、財団の幹部職員に渡した。(平成19年1月22日掲載の「文学館のたくらみ・資料編」の「資料3」を参照)
 もちろん私はその間の事情を亀井志乃から聞いていたが、ブログを書く意志は持たなかった。
 
 しかし、平成18年12月27日、毛利正彦文学館長と平原一良副館長が亀井志乃に対して、極めて不誠実な「回答書」を返してきた(平成19年1月24日掲載「文学館のたくらみ・資料編」の「資料5」参照)。その翌日、私は直ちにブログでハラスメント問題を取り上げることにしたのである。
 私は次のように書き出している。
《引用》
 北海道文学館では現在、常識では考えられない不当なことが行なわれている。
 道立北海道文学館のTという50歳台の学芸主幹が、女性の嘱託職員に対して、侮蔑的な言動による、執拗ないやがらせを続けた。嘱託職員はついに堪りかねて、これは〈人権侵害のパワー・ハラスメントに当たる行為ではないか〉と、Tに対してだけでなく、神谷忠孝理事長や毛利正彦館長、平原一良副館長、K業務課長にもアピールした。これだけでも無視できない、――無視してはならない――大きな問題であるが、神谷以下の幹部たちはその問題をまともに取り上げることをしなかった。その代わりに、毛利正彦の口を通して、被害を訴える嘱託職員の解雇を通告してきた。
 いわば加害者のTのほうを庇い、嘱託職員を文学館から排除してしまう形で、問題の揉み消しを図ったのである
(「北海道文学館のたくらみ(1)」平成18年12月28日掲載)
 
 私はこのように書き始め、これ以後は、基本的には亀井志乃のアピール文や「面談記録」を紹介し、その内容を分析する形で進めてきた。そのどこが「仮借ない糾弾」なのか。また、このような表現のどこが、亀井志乃の任用問題に関する「あられもない言及」なのか。
 
 ちなみに亀井志乃が財団から解雇されるまでの期間、私が亀井志乃の任用問題に言及した頻度と内容・表現は、僅かに次のような程度のものでしかなかった。
《引用》
 しかし、K嘱託職員のアピールは正当に取り扱われることがなく、逆にアピールに対する報復としか考えられない解雇通知を、毛利正彦文学館長から告げられた。そこでK嘱託職員は、「駐在道職員の高圧的な態度について」ほか、幾つかの記録文を、理事や評議員に(住所の分かる範囲で)配布することにした。道立北海道文学館のなかで何が起っているかをアピールするためである(「北海道文学館のたくらみ(3)」平成19年1月4日掲載)

 それ以前から、寺嶋に侮蔑的な言葉を吐きかけられ、大学図書館へ閲覧に出かけるだけでも文書の書き直しをさせられる。これはパワー・ハラスメントではないかとアピールし、職場環境の改善を求めたところ、12月の6日、文学館長の毛利正彦から突然、来年度は雇用しない「方針」を言い渡された。展示の準備が胸突き八丁に指しかかった時期である(「北海道文学館のたくらみ(9)」平成19年2月20日掲載」)

 私が思い当るのは以上だけであるが、もちろん私の見落としということもあり得る。それ故、平原副館長は遠慮なく私の見落とした箇所をも指摘して、その上で、私の書き方のどこが「あられもない言及」なのか、この質問に答えてもらいたい。

 平原副館長は「いや、自分が問題にしたのは亀井志乃が辞めるまでのブログ記事だけでない。それ以後の記事も含めてのことなのだ」と主張するかもしれない。だったら、もちろん遠慮は不要。この「北海道文学館のたくらみ(38)」に至るまで、私が亀井志乃の任用問題に言及した箇所において、その表現のどこが「あられもない」のか、平原副館長は明確に答えるべきである。

○質問その④
 平原副館長は更に、先の文章の中で、そこでアップされている情報のうちには、当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました。」と言っているが、道立文学館という職場の中で「亀井志乃しか知り得ない情報」とは何か。亀井志乃しか知り得ない情報であるならば、なぜ平原副館長はそれを「亀井志乃しか知り得ない情報」と知ることができたのか。

 平原副館長としては、いやそういう意味ではなくて、亀井家の中では「亀井志乃しか知り得ない情報」という意味なのだ、と訂正を求めるかもしれない。もちろんそれならば、それでもいい。ただ、私は当時、財団法人北海道文学館の理事だった。だけでなく、財団法人北海道文学館の理事や評議員の中には私の知人もいれば、北大教師時代の教え子もいる。同じく、北海道教育委員会の中にも、道立近代美術館の職員の中にも知人もいれば、教え子もいる。私がそういう人たちを通して得ているかもしれない情報を計算に入れて、それでもなお亀井の家では「亀井志乃しか知り得ない情報」とは何か。平原副館長に答えてもらいたいのは、その点である。

 おそらく平原副館長は「当館に勤務する同氏しか知り得ない情報も含まれていました。」という言い方で、「亀井志乃は守秘義務を守らず、道立文学館の中で部外秘とされていることを父親に洩らしていたのだ」という印象を裁判官に与えるつもりだったのであろう。
 何とも姑息な企みであるが、しかし、勤務中に知ったことが何から何まで守秘義務の対象になるわけではない。実際に守秘義務として守らなければならない事柄はかなり限定されており、それらは「実質秘」または「形式秘」と呼ばれている。では、「実質秘」や「形式秘」の範囲と性質はどのようなものか。私は「北海道文学館のたくらみ(11)」(平成19年3月14日掲載)で検討しておいた。平原副館長にはそれらのことを踏まえた上で、次の問いに答えてもらいたい。私は寺嶋弘道の亀井志乃に対するハラスメントの実態と、亀井志乃のアピールを受けた後の財団幹部職員の対応、及び亀井志乃の任用問題に関して、このブログの中で何回か言及してきたが、その文言の中で、当館に勤務する同氏(亀井志乃)しか知り得ない情報」に基づいていると判断できる表現は、具体的にはどの個所なのか。
 
 平原副館長はこの点に関して、証拠を挙げて答えなければならない。もしそれをしない/できないならば、当然彼は亀井秀雄のみならず、亀井志乃をも中傷したことになる。

○またまた平原一良の事実隠蔽的虚言
 平原副館長が「陳述書」の中で3回、私のブログに言及したわけだが、3回目の個所は次のようであった。
《引用》
 この種の持ち込み貸し館の企画は珍しいことではなく、過去にも例のあることでしたが、そのへんの事情を十分に知らない亀井志乃氏は、(父君のブログによりますと)これを寺嶋氏による「自分の展示」への妨害だと受け取ったようでした(6ページ10~11行目)

 「北海道文学館のたくらみ(9)」(平成19年2月20日掲載)で紹介したように、亀井志乃を主担当とする「人生を奏でる二組のデュオ」展(平成19年2月17日~3月18日)が展示の設営準備に入ろうとした直前、寺嶋弘道が突然、何のことわりもなしに「ロシア人のみた日本 シナリオ作家イーゴリのまなざし」(平成19年2月3日~2月8日)という展示を割り込ませ、「二組のデュオ」展の準備を大幅に遅らせてしまった。
 亀井志乃はやむを得ず、2月の11日(日)、12日(月)、15日(木)の非出勤日を返上する形で出勤し、14日(水)、15日(木)、16日(金)の3日間は、作業は午後10時近くまで及んだ。特に14日と15日の夜は、その年2月最大の低気圧通過による猛吹雪だったため、JRのダイヤの混乱を懸念して、札幌市のホテルに泊まることになった。当然のことながら亀井志乃は、寺嶋弘道による「イーゴリ」展の割り込みを、「二組のデュオ」展の準備に対する業務妨害と考え、寺嶋弘道に対する「訴状」の中に加えた。
 それに対して寺嶋弘道は、太田弁護士署名の「準備書面(2)」と、自分自身の署名を附した「陳述書」の中で、業務妨害ではないと主張し、その理由を縷々述べていた。だが、その内容と、それに対する亀井志乃の反論については、機会を改めて紹介したい。
 
 ただ、平原副館長の主張だけは、次の質問の必要上、ここに紹介することにしたわけだが、彼は上記引用の如く、「イーゴリ」展は貸し館企画であり、この種の持ち込み貸し館の企画は珍しいことではなく、過去にも例のあることでした」と、寺嶋擁護を試みている。つまり、彼は貸し館論一般にすり替えることで、寺嶋弘道が特別展示室の入口を塞ぎ、特別展示室の一部を「イーゴリ」展に使い、次の「二組のデュオ」展の準備を大幅に遅らせてしまった事実を隠しているわけだが、彼の証言のウソ臭さはそれだけではない。
 彼が狙っていたのは、亀井志乃に関して次のような印象を与えることだったのだろう。つまり、「亀井志乃は自分が主担当の役割を与えられ『二組のデュオ』展に執着して、『自分の展示』として私物化し、他方、貸し館の企画に関しては前例や慣例を知ろうともしない、そういう自己中心的な人間だったのだ」と。
 
 だが、「イーゴリ」展のやり方は、果たして貸し館の前例に倣っていたかどうか。まずその問題から検討してみよう。
 その点に関して、亀井志乃は平原の「陳述書」に対する反論、「準備書面(Ⅱ-3)」の中で、次のように指摘している。
《引用》
 年度当初の予定にない外部からの持ち込みの〈貸し館〉展覧会が存在することは、私も充分承知しています。例を挙げれば、工藤正廣理事が持ち込んだ「タンザニアの美と詩」展(平成17年6月21~30日。主催:タンザニア連合共和国大使館、タンザニア文化交流実行委員会)や、原子修理事が企画を持ち込んだ「~北の潮騒が聞こえる~ 利尻…詩と海藻押し葉展」(平成18年1月21日~2月5日。主催:利尻海藻おしばの里づくり実行委員会、NPO法人アーティスティック・アコード・アソシエーション)などがあります。
 特に「海藻押し葉展」の方は、真冬の閑散期で来館者も少なかったので、私は担当者ではなかったものの、「海藻押し葉しおり作り」イベントに自ら参加し、観客に作成を勧めるなどの協力もしてきました。
 それと共に私は、業務の進捗状況を知らない財団理事らが年間予定にない展覧会を突然持ち込んでくる事で、学芸職員も業務課も口には出さねどどれほど迷惑に思っていたか。そういう現場の状況をつぶさに目撃してきました。
 ただし、どんなに「突然」だと皆が困惑するような持ち込み企画でも、平成17年度までは、少なくとも10日から2週間以上前には皆に知らされていたし、段取りも話し合われていました。「タンザニアの美と詩」展は開催13日前(6月8日)に学芸課内打合せの議題に挙
がっていた(甲104号証。「海藻押し葉展」は、前の月の課内打合せ(平成17年12月27日)ですでに事業予定に入っていました(甲59号証参照。また、開催月の「行事予定表」にも組み込まれていました(甲105・106号証
 ですから、「イーゴリ展」のように、開催日(平成18年2月3日)の4日前に作成・配布された「行事予定表
(甲21号証)にも記されておらず、次回展覧会の主担当にも副担当にも一言のことわりもなく設営されてしまった「持ち込み貸し館の企画」は、平原氏の言うところの「珍しいことではなく」どころではありません。むしろ、展示企画の入れ方としては前代未聞のことだったのです。
 
 こうしてみると、貸し館の実態を知らなかったのは、どうやら平原副館長のほうだった。が、それはともあれ、平原副館長の貸し館論に対する反論としては、十分に委曲を尽くした反論と言えるだろう。平原副館長はここでもまた虚偽の証言をしていたのである。
 
○質問その⑤
 ただし、私がその点について質問しようとしたわけではない。私が訊いてみたかったのは、先の文言に続く「そのへんの事情を十分に知らない亀井志乃氏は、(父君のブログによりますと)これを寺嶋氏による『自分の展示』への妨害だと受け取ったようでした。」という個所についてであった。一体どの箇所で私は、亀井志乃が「二組のデュオ」展を「自分の展示」と呼んでいるような書き方をしていたか。
 亀井志乃も同じ疑問を感じたらしく、「準備書面(Ⅱ-3)」で次のように反論している。
《引用》
 もう一つ、細かい点ですが、私は「人生を奏でる二組のデュオ展」のことを、「自分の展示」などと公私混同した表現で言いあらわしたことはありません。私は、例え企画原案自体は自分が作ったものでも、展示事業の実行自体は道立文学館から委嘱されたものだという事をわきまえて仕事を進めてきました。また、平原氏の文章中には、「(父君のブログによりますと)」とありますが、亀井秀雄が執筆したブログの中で、そのような短絡的な表現が用いられた箇所は一つもないはずです。
 私が確かめた限りでいえば、
「それまで亀井志乃の構想や準備の進め方には関心がなく、展示予定のリストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきた。その連中が、急に〈展示は皆のものだから〉と言い出し、では、手助けをするかと言えば、そうではない。依然として構想や内容には関心を示すことなく、だが、まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉を織り交ぜながら、杓子定規に「決まり」を適用して、彼女の行動や経費に細かいチェックを入れてくる。」(「北海道文学館のたくらみ(9)」)
と書いているだけでした。

 「まるで亀井志乃が自分の仕事を抱え込んでしまっているみたいな、トゲのある言葉」という表現から分かるように、平原氏たちのほうが公私混同的に私の仕事ぶりを評していたわけです。私が展示予定のリストを見せて意見を求めても、ただパラパラとめくるだけで、突き返してきたのは、言うまでもなく平原氏でした。
 平原氏の私の仕事に対する高括りと、自らの不勉強が宮様の前で恥を晒す結果となった。それが3月9日の事件だったと言えるでしょう。

 
 私も亀井志乃の言うとおりだと思う。私は、平原副館長の言うごとく「亀井志乃氏は、(父君のブログによりますと)これを寺嶋氏による『自分の展示』への妨害だと受け取ったようでした。」と解釈されるような書き方をした記憶を持たない。念のため「北海道文学館のたくらみ」を読み直してみたが、該当するような表現は見当たらなかった。
 そこで、平原副館長への質問だが、私の「北海道文学館のたくらみ」のどこに、亀井志乃氏は、(父君のブログによりますと)これを寺嶋氏による『自分の展示』への妨害だと受け取ったようでした。」と解釈できる表現があるのか、それを明示してもらいたい。

 もしこのブログを読んでくれている人や裁判官、いやそれだけでなく、平原一良自身が、インターネットのGoogleに「北海道文学館のたくらみ」と「「自分の展示」」という言葉を入れ、検索してみたらどうなるだろう。案外ヒットするのは、今回私が引用した平原一良の文章だけだったということになれば、これはもう大笑いだろう。

○念のために
 私の平原副館長に対する質問は、以上の5点である。
 亀井志乃は「訴状」や「準備書面(Ⅰ)」「準備書面(Ⅱ)」の中で、私のブログには一言半句言及していない。裁判の争点はあくまでも、北海道教育委員会の公務員である寺嶋弘道が民間人の亀井志乃に対して繰り返し人格権侵害の違法行為を働いた事実の確定と、その行為の違法性の指摘にあるからである。
 ところが、平原副館長はその「陳述書」の中で、敢えて私のブログに言及し、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました」、「このような動きが内部で進むなか、亀井氏の父君による当財団への仮借ない糾弾がブログで再開されました」と、自分たちのほうが被害者であるかのような言い回しで、私のブログをあげつらった。そうである以上、この「平原一良氏への公開質問状」も目にするはずであり、いや、質問状なんて知らなかった、気がつかなかったなどと言い出したとすれば、それは責任回避の言い逃れとしか見られないであろう。
 そのような次第で、平原副館長が必ず回答することを、私は要求する。平原副館長によってああいう書き方をされたからには、私には回答を求める権利があり、平原副館長には答える義務と責任がある。

 初めにも書いたように、平原副館長はこれらの問いに答える上で、格別の労力は必要としない。彼が必要とする証拠物は「北海道文学館のたくらみ」と題したこの連載記事のみであり、彼は回答をこのブログのコメント欄に書く。それだけで十分に用は足りるはずである。
 そこで改めて念を押しておくならば、言い訳や事情説明は全く不要である。裁判において、上記の内容に相違ないことを誓います。」と誓った以上、私の質問に対して、自分の「陳述書」の内容が真であることを証明する。それが彼のなすべきことの全てである。
 
 もし平原副館長が、彼自身の「陳述」について、それが真であることを証明できなかった場合、彼は裁判において虚偽の証言を行っただけでなく、亀井秀雄を根拠なく中傷し、名誉を傷つけたことになる。平原副館長はそのことを十分に承知した上で、亀井秀雄のブログにも言及し、確固たる自信をもって「上記の内容に相違ないことを誓います。」と誓ったはずである。それならば、回答をためらう理由はどこにもないであろう。

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北海道文学館のたくらみ(37)

怖い「なんとかする」話

○再び平原一良の偽証的発言
 私は平成17(2005)年11月1日から、平成18(2006)年2月5日まで、12回、このブログに「文学館の見え方」という文章を載せた。
 念のためにことわっておけば、それはこの「北海道文学館のたくらみ」とは書く動機も、テーマも異なっており、両者に直接的な関連はない。私はその連載に、「再掲載のための序文」(2006年3月16日)という文章をつけて、HP「亀井秀雄の発言」(
http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せておいた。これから私が書くことに疑問を感じたならば、ぜひ参照してもらいたい。
 
 なぜ私はそんなことをことわっておくのか。財団法人北海道文学館の副館長・平原一良が、被告の寺嶋弘道の側に立つ「陳述書」で次のようなことを書いているからである。
《引用》
 
平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました。その意図・目的が判然としない内容でしたが、物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容についての手厳しい言及が多く、当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました。中略)
 
常設展示リニューアルについてまだ積み残しの問題が若干残っていたこともあり、また企画展「二組のデュオ」の担当者として位置づけざるを得なかったこともあって、2月中旬、亀井志乃氏について平成18年度の再任用が内定しました。父君のブログによる当財団と関係者に対する論難は、そのころ鎮静化し、3月が過ぎました(3ページ13~24行目)

 私の「北海道文学館のたくらみ」は平成18(2006)年12月28日から始まっている。だから、平原がここで言う「同氏の父君」、すなわち亀井秀雄のブログとは、「文学館の見え方」のほうを指すのであろう。
 平原一良の「陳述書」の偽証性については既に何回か指摘してきたが、彼はここでもまたいい加減なことを書いている。初めに書いたように、私の「文学館の見え方」は常設展示のリニューアル・オープンが行われた平成17年11月2日の前日、11月1日から始まっており、決して平原が言うように
「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろ」ではないからである。
 
○文学館と文学館の再検討
 それに、もう一つ、私は
「当財団の活動や関係者への攻撃的な言及」を意図して、「文学館の見え方」を書き始めたわけではない。九州大学の日本語文学会が主催するシンポジウムで、土屋忍という若い研究者が、私の論文に言及した。それはそれで結構なことなのだが、ただ困ったことに、土屋忍は、私がその論文の中で書いたことのない言葉を持ち出し、しかも私が小樽文学館の館長となった事実と関連させて、聴衆の「笑い」を取るような発言をしていた。そのシンポジウムの記録を載せた『九大日文 06』という雑誌が小樽文学館へ贈られて来て、私は別なことを調べるためにその雑誌を開いたのだが、たまたま土屋忍の発言に気がつき、「やな事をしてくれたな」。そうは思ったが、そのこと自体を咎めても何事も解決しない。むしろこれを機会に、私自身の進退に責任を持つためにも、10年ほど前から文学研究や歴史学の領域で新しく始まった問題意識、例えば「発明された伝統(invented tradition)」、「クロノトポス(chrono-topos)」、「ジャンルの植民(immigration of Genre))、「地名」などの問題意識に基づいて、私たちの文学観や、文学館というもののあり方を検討してみよう。そう考えて書き始めたのである。

○これがリニューアル?
 そして、第2回目は「発明された伝統(invented tradition)」の問題を取り上げる心づもりだったのだが、第1回目の「亀井秀雄の食言(?)」を掲載した翌日の11月2日、道立文学館へ出かけて驚いた。
 この日は道立文学館の開館10周年記念のセレモニーがあり、常設展示のリニューアルもその記念事業の一環だったのだが、オープニング・セレモニーで平原学芸副館長が「今回の展示替えはリニューアルの第一期工事でしかない」という意味のことを言い、事実、常設展示室入口に立てたパネルにもそういう意味のことが書いてある。
 この日、『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』(「北海道文学館のあゆみ」編集刊行委員会、平成17年11月)と、『ガイド 北海道の文学』(北海道立文学館/(財)北海道文学館、平成17年11月2日)という2種類の冊子が配布されたが、『ガイド 北海道の文学』にも「今回の更新は
「第一期工事」であるにすぎないとの認識に立って」とあった。
 しかし、待てよ。私の記憶では、常設展示のリニューアルにはかなりの予算を組んだはずであり、だがその時、今年のリニューアルは「第一期工事」だなんて話は出なかった。リニューアルの最終的な目標を語らずに、これは「第一期工事」でしかないとことわるのは、如何にも弁解めいている。では、「第二期工事」はいつ着手するのか。その説明もない。
 
 そういう疑問を抱きながら、リニューアルした常設展示を見たのだが、これまでの展示と較べても一向に新鮮味がない。『ガイド 北海道の文学』はこの展示のガイドブックでもあるはずだが、常設展示との対応性がほとんど見られない。神谷忠孝を始めとする7人の「概説」と、「フォトガイド 北海道の文学」というグラビアの部分と、いずれもお手軽、お座なりで、おまけに相互の有機的な関連も見られない。つまり、ガイドブックの役割を果たしていないのである。
 私は帰宅して、念のために、平成17年3月15日の理事会・評議会の資料を確認してみた。その資料の「平成17年度の重点課題と取り組」(平成17年2月26日)の第2に、「常設展の更新(平成17年11月予定)と特別企画展示等の一層の充実」が掲げられている。しかし、今回は「第一期工事」とする意味の説明はどこにもない。口頭で説明された記憶もない。
 では、そのリニューアルのために、どのくらいの金額が使われたか。運悪く平成17年3月15日の理事会・評議会の「予算(案)」が見つからないので、ここは平成18年3月3日の理事会・評議員会で配布された「平成17年度収支予算表」に基づいて書くしかないのだが、その「収支予算表」によれば、平成17年度は、常設展に1,189,000円の支出を組んでいた。この金額の半分以上がリニューアルのために支出されたと考えられるわけだが、その作業の中心だった平原一良は一体どこに金をかけたのだろうか。
 
○振り切られた平原一良
 こうして見ると、どうやら平原の発言はその場を取り繕うための発言でかなく、『ガイド 北海道の文学』もオープニングに間に合わせるための、やっつけ仕事でしかなかった。そう受け取らざるをえない。端的に言ってしまえば、この仕事の中心的な責任者の頭の中が全くリニューアルしていなかったのである。私はそう判断して、「発明された伝統(invented tradition)」以下、概念の刷新の問題と、北海道文学論の問題を関連させながら、「文学館の見え方」を進めることにした。
 
 平原一良は
「その意図・目的が判然としない内容でしたが」などととぼけたことを言っているが、私の意図・目的ははっきりしていたはずである。もし彼にとって「判然」としない側面があったとすれば、それは「発明された伝統」、「クロノトポス」「地名」などの概念に着いてくることができなかった、つまり、振り切られてしまったためであろう。

○「実名についての手厳しい言及」?
 だがそれはともかく、平原一良は私のブログに言及する段になると、何故か平静でいられないらしい
物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容についての手厳しい言及が多く」と、妙な言い方をしていた物故者を含む当財団関係者の実名」という言葉は、一体どの言葉に続くのか。まさか「手厳しい言及が多く」に続くのではあるまい。「実名についての手厳しい言及」なんてことはあり得ないことだからである。
 思うに、平原一良は、「原告の父親である亀井秀雄は、物故者への礼儀をわきまえず、実名を挙げて手厳しい批判を加える人間だ」、つまり死者に鞭打つような人間だ、という印象を裁判官に与えたかった。そこでつい焦って、こんな舌足らずな言い方をしてしまったのだろう。
 だが、「文学館の見え方」を書いている時点で、私が実名を挙げた財団関係の物故者は和田謹吾と小笠原克だった。この二人はよく知られた文学研究者であり、自分の「実名」を付した著書を、彼ら自身の意志によって、何冊も出している。その著書に言及する時、わざわざ実名を伏せて、『描写の時代』を書いたW・K 氏とか、『野間宏論』のO・M氏なんて書き方をしたとすれば、かえって不自然であり、二人に対して失礼でもあるだろう。平原一良はその辺の事情を見落として、
物故者を含む当財団関係者の実名……についての手厳しい言及が多く」などと書き、かえって自分の非常識を曝け出してしまったわけだが、さてそれでは、この二人についての私の取り上げ方のどこが「手厳しい言及」なのか。平原一良は責任をもってそれを証明しなければなるまい。

○「手厳しい言及」
 ただし、
物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容について」ではなく、財団の経営と実績に関してならば、私の文章の中にも「手厳しい言及」がなかったわけではない。
《引用》
(前略)
ただ、収支計算書総括表をみると、必ずしも将来は楽観できない。平成十六年度には、道からの管理運営受託事業費が一億七千四百万余、札幌市等からの補助金が二百九十万円、これらをあわせた収入が一億九千万余だが、そのうち事業収入は三百七十八万円余にすぎない。つまり、収入の中、事業収入は二パーセントに足りない。道庁からの管理運営受託費、補助金も前年度に比べると漸減傾向にある。一方、支出をみると、維持運営費が九千八百万円余、管理費が五千九百万円余、事業費は二千八百万円余である。維持運営費は電気・燃料代等の建物の維持管理の費用であり、管理費は職員費、会議費等である。運営受託費、補助金の減少に見合って、これらの費用も若干節減されているが、目立つのは事業費が前年は三千万円を越していたのに一割近く減少していることである。
 これは自治体が直接、
間接に運営している全国の文学館にもみられる現象だが、自治体の財政が逼迫し、年々運営委託費等の名目で支出していた助成金が削減されても、建物の維持管理費はほとんど節減できないし、人件費等の節減も限度がある。その結果、事業費が大幅に削られることとならざるをえない。しかも、事業費を年々削減していけば、事業そのものを充実させるのが難しくなることは目に見えている。道立文学館の年報によれば、来館者は年間ほぼ一万五千人ないし二万人の水準で推移しているようだが、全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない。年間五万人を越える来館者のある文学館は数えるほどしかないのが実状である。それでも、事業費支出二千八百万円余に対し事業収入が三百七十八万円、一億九千万円を越える支出に対し来館者が一万五千人から二万人ということからみれば、費用対効果は惨憺たるものといわざるをえない。
 
 要するに財団法人北海道文学館は、平成16年度には、道から1億7千4百万円、札幌市から2百90万円を頂戴し、自己資金を1千3百万円ほど上乗せして、合わせて1億9千万円ほどの資金を投入しながら、年間の入館者は、多目に見ても2万人程度でしかない。単純計算すれば、来館者1人につき、9,500円も掛けていることになる。換言すれば、来館者1人から400円(常設展観覧料)なり、600円(特別企画展観覧料)なりを頂戴するために、その22倍から15倍もの税金を使っているわけで、財団にはいろいろ言い分、言い訳もあるだろうが、
費用対効果は惨憺たるものといわざるをえない

 財団にしてみれば、あまりあからさまに言ってほしくない、「手厳しい」指摘ではあっただろう。ただし、この指摘は私がしたのではない。道立文学館開館10周年の記念式典に合わせて出版された、『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』の中で、全国文学館協議会会長の中村稔が寄稿した「お祝いのことば」を、私が「文学館の見え方」に引用した。上記の引用は中村稔の文章だったのである。

○非常識と腰ぬけ
 私に共感がなかったわけではない。市立小樽文学館に関係している私の目からすれば、札幌の人口は小樽の10倍以上もあり、予算規模も道立文学館は小樽文学館の10倍を超え、観光客も札幌は小樽とは桁違いに多く、道立文学館のロケーションは決して悪くはない。読書人口や読書環境の厚みもまた桁違いに大きい。高等教育の施設や文化施設も札幌に集中している。それ故、小樽文学館の実績から見て、道立文学館は年間10万人以上の来館者があって当然なのだが、2万人に達するかどうかに低迷している。運営の発想が間違っているのである。

 しかし私は先に引用した中村稔の文章を読み、共感よりも、むしろ憤慨してしまった。中村稔の非常識にあきれ、財団の幹部職員のふがいなさに腹が立ったのである。
 
 『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』には、北海道知事の高橋はるみや、札幌市長の上田文雄、北海道新聞社代表取締役社長の菊池育夫が「お祝いのことば」を寄せていた。いずれも通りいっぺんの、ありきたりな社交辞令ばかりで、特に読み応えがあるわけでない。ひょっとしたら秘書が作文したものかもしれない。だが、財団の幹部職員にとっては、こういう肩書の人からお祝いの挨拶をもらうことが大事なのであろう。
 中村稔はこれらの人たちと並び、全国文学館協議会会長の肩書で「お祝い(?)のことば」を書いているわけだが、私の見るところ、彼は日本近代文学館の理事長の立場で、道立文学館の立ち上げにかかわり、神谷忠孝の前の財団法人北海道文学館の理事長の澤田誠一などはすっかり中村稔をアテにしていた。何かの拍子に、中村稔が「小樽文学館の展示には温かみがある」という意味のことを洩らしたらしい。澤田誠一が小樽へ来た時、文学館に立ち寄って、「中村先生が小樽文学館を褒めていたよ」と教えてくれた。中村稔の片言隻句は、澤田誠一にとってそれほどの重みがあったのである。中村稔のほうも道立文学館を北海道における文学館の拠点と考え、何かと世話を焼いてきたのだろう。

 ところが、その中村稔が、――本人としては心安立てのつもりだったのかもしれないが――お祝いの場という場所柄もわきまえずに、祝われるべき財団法人北海道文学館の「惨憺たる」状態を、数字を挙げて克明に暴き立てる。この「惨憺たる」失敗に、自分は無関係だったかのような、まるで他人ごとみたいな口調で……。
 私は中村稔のそういう態度に憤慨し、それと同時に、そんな文章を唯々諾々10周年記念誌に載せてしまった、財団の理事長や幹部職員のふがいなさにも腹を立てた。中村稔の書き方は「苦言を呈する」というレベルを超えているからである。

○本末転倒
 私の「文学館の見え方」はそんなふうに進んで行ったのだが、平原一良によれば、
当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました」
 この「当財団内部」を構成するのは神谷忠孝理事長、毛利正彦館長(当時)、安藤孝次郎副館長(当時)、そして平原学芸副館長(当時)だったと思うが、どうやらこの人たちは問題を取り違え、あるいはすり替えていたらしい。まず彼らが真剣に考えなければならなかったのは、中村稔にあれほど屈辱的な「お祝いのことば」を書かれ、それを「なんとかすべきではないか」という問題だったはずである。むしろそれ以上に、中村稔に指摘された「惨憺たる」経営状態を「なんとかすべきではないか」という問題だったはずである。
ところが平原一良の書き方から察するに、彼らはもっぱら私が中村稔の書き方に憤慨したことのほうを重視して、寄り寄り集まっては「あれはなんとかすべきではないか」などと話題にしていた。
本末転倒もこれより甚だしきはなし、というところだろう。
 
○理不尽な「削除」要求
 もしこの推定が正しいならば、当時の財団の幹部はこんなふうに、「顧みて他を言う」類の、責任逃ればかり考えている人間が揃っていたことになるわけだが、残念ながら、実態はどうやらそういうものだったらしい。
 これは、「文学館の見え方」をHPに再掲載するに際して、「再掲載のための序文」でも書いたことだが、平成18年の3月3日、私は理事会・評議員会の後、毛利館長に足止めされて、「文学館の見え方」を私のブログから削除してくれと言われた。ただ、その理由が明確ではない。毛利館長は「あのブログで書かれたことは、自分たちにとってはなはだ都合が悪い。だから削除してくれ」。この一点張りで、1時間半近くも私を引き止めた。
 言うまでもなく私は削除を断った。断った理由は「再掲載のための序文」に書いておいたので、ここでは繰り返さないが、とにかく毛利正彦という人物は、自分の名前を明らかにし、自分の責任においてものを言ってきた人間にとって、自分の言葉がいかに大切か、その重さが全く理解できなかったらしい。つまり彼の頭の中には「自分たちの都合」しかなかったわけだが、今考えてみれば、平原一良も、「自分たちに都合の悪いことは削除させよう」と諮った人間の一人だったのであろう。
 
 そして今年の5月、平原たちは「自分たちに都合の悪い発言をする理事は排除してしまおう」と企んで、私の名前を理事の名簿から削ってしまった。彼らは私が書くことには反論をしない。私には何一つ明確な理由説明もしない。そして私の存在、私の言葉を消してしまおうとする。彼らのやろうとしたことは、あの時とこの時とそっくり同じなのである。

○わが粗忽
 ただし、中村稔の「お祝いのことば」に関して言えば、思いがけず滑稽な副産物が生まれた。
 平成18年2月1日、私が小樽文学館へ出ると、次のような、匿名の手紙が届いていた。
《引用》

亀井秀雄様
この世の眺め―亀井秀雄のアングル―を拝読いたしましたが、2005年11月3日の「文学館の見え方(その2)」にあなたの勘違いによる記述がありますので、指摘させて頂きます。
それは、中ほどに「中村稔のお祝いの言葉はこれで終わりである。」とありますが、その裏のページのつづきを読み落としています。
全国文学館協議会会長の中村稔氏や北海道文学館の皆様に失礼です。訂正のうえ謝るべきと考えます。
それにしても、「財団の文学館運営が破産の惨状を呈していることを暴きたてる無神経に驚き、手の平を返すようなニベもない引導の渡し方に他人ごとながら憤慨する」あなたが、何故インターネットであのような発言をなさるのか理解に苦しみます。

 確かに、この匿名氏から指摘されたとおり、私には迂闊なところがあった。『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』に寄稿した北海道知事の高橋はるみや、札幌市長の上田文雄、北海道新聞社代表取締役社長の菊池育夫の「お祝いのことば」は、いずれも1ページの短い文章であり、ところが中村稔の文章だけは2ページにわたっていた。私は中村稔の文章も1ページだと思いこみ、2ページ目の文章が1ページ目の文章の裏に載っていることに気がつかなかったのである。
 なぜそんな粗忽をやってしまったのか。「文学館の見え方」の補足1、「訂正とお詫びと補足」で書いたように、私は(平成17年の)11月2日、北海道文学館開館10周年のセレモニーからの帰り、電車のなかで『あゆみ』を開き、中村稔の文章を読んで、これが「お祝いのことば」なのかと呆れて、その夜のうちに印象を書き始め、日付けが3日に変った深夜、ブログに載せた。そういうせっかちな書き方をしたため、恥ずかしい失敗を犯してしまったわけである。

○中村稔の本音
 中村さんには申し訳ないことをした。お詫びのために、まず私が見落とした文章を全文紹介しよう。そう考えて、私は「文学館の見え方」の補足1、「訂正とお詫びと補足」に、次のような箇所を引用した。
《引用》
 
だが、こうした費用対効果の問題は道立文学館に限ったことではない。財団法人北海道文学館の寄附行為第三条に「この法人は、北海道にゆかりのある文学資料を収集保存し、広く道民の利用に供するとともに北海道の風土に根ざした文学の振興に必要な事業を行い、もって北海道の文化の創造と発展に寄与することを目的とする」とある。僅か三千万円足らずの事業費で、文学資料の収集保存、風土に根ざした文学の振興、北海道の文化の創造と発展などを語ることは夢想にひとしい。そもそも文化の創造と発展といったことは一年、二年といった短期間でできる事業ではない。長期間にわたる粘り強い、地道な活動を必要とする。文化の創造と発展には遠い将来に開花するような投資が必須である。財政が逼迫しているとはいえ、建物の維持管理、人件費等の節減に限りがある以上、文化の創造、発展にはそれなりの投資、このばあい事業費をもっと潤沢にすることが必要なのだ、ということを道庁、道議会の方々のご理解頂きたい、と私は切望している。
 他方、文学館が費用対効果を無視してよい、とは私は考えない。前述の寄付行為が「北海道の風土に根ざした文学」、「北海道の文化の創造と発展」という言葉にみられるような、北海道という地方性を強調していることに危惧を感じる。先年「知里幸恵とアイヌ神謡集」展は全国各地の文学館に巡回し、大きな話題を呼んだ。道立文学館は北海道が生んだすぐれた文学の全国に向けた発信基地となってもよいのではないか。それがまた、全国の文学愛好者に北海道の文学に対する関心を喚起し、やがては道立文学館の来館者の増加にもつながるのではないか。逆に、北海道にゆかりのない文学者であっても、その業績の展観をつうじて文学への興味を感じ、北海道にゆかりをもつ文学者の業績に興味をもつ呼び水ともなるのではないか。徒らに北海道にとらわれない、全国的文学館活動の発信基地かつ受信基地となることに道立文学館の未来がひらかれるのではないか。全国文学館協議会はそうした提携を確立する場となるだろう、と私は信じている。

 中村稔はこのようなことを書いていたわけだが、私は引用しながら、「あの匿名氏は、藪をつついて、かえって蛇を出してしまったな」。そんな気がしてきた。
 なぜなら、中村稔は
「そもそも文化の創造と発展といったことは一年、二年といった短期間でできる事業ではない。長期間にわたる粘り強い、地道な活動を必要とする」という一般論を語っているだけで、既に10年を経過した北海道文学館の、粘り強い、地道な活動」や、その成果については、ほとんど何も語っていないからである。
 
 それだけではない。私は、事業費だけでも年間に3千万円近く使うことができ、しかも10年の時間を貸してもらえるならば、相当に大きな事業の実現も――「夢想」ではなく――可能だ、と確信している。
 しかし中村稔は、
僅か三千万円足らずの事業費で、文学資料の収集保存、風土に根ざした文学の振興、北海道の文化の創造と発展などを語ることは夢想にひとしい」と言い、一見これは、北海道文学館に同情し、励ました言葉と見えなくもない。だが、結びの段落と関連させるならば、彼の文章は明らかに、北海道の風土に根ざした文学北海道の文化の創造と発展」など、北海道という地方性を強調して」きたことの限界、行き詰まりを指摘している。そう読めてしまう。
 結局これは、「費用対効果」の惨憺たる状態を、別な言葉で、つまり「「北海道」の名前を冠した理念は既に破産してしまった」と言い換えただけではないか。
 
 そして最後に彼は、
北海道にゆかりのない文学者であっても、その業績の展観をつうじて文学への興味を感じ、北海道にゆかりをもつ文学者の業績に興味をもつ呼び水ともなるのではないか。徒らに北海道にとらわれない、全国的文学館活動の発信基地かつ受信基地となることに道立文学館の未来がひらかれるのではないか。全国文学館協議会はそうした提携を確立する場となるだろう、と私は信じている」と結んでいる。
 ここのキーワードは、「
北海道にゆかりのない文学者であっても徒らに北海道にとらわれない」ということであろう。要するに彼が言っているのは、日本近代文学館をキイステーションとする全国の文学館のネットワークに繰り込まれ、その一端を担い、日本近代文学館のアイデアと資料を借りる以外に、道立文学館の生き残る道はありませんよ、ということだからでる。

○平原一良の仕事ぶり
 さて、平成18年の2月1日には以上のような匿名の手紙があり、3月3日には毛利館長からブログの削除を求められ、そしていま改めて「文学館の見え方」に目を通してみて、もう一つ、あることに思い当った。
 平原一良は「陳述書」で、
平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました」と書いており、これがいい加減な記述であることは既に指摘しておいた。
 そして彼が言う
「12月ごろ」には、私の「文学館の見え方」はすでに第7回(「ジャンルの植民」2006年12月2日掲載)にまで進んでいた。つまり、ここでもまた平原はいい加減なことを書いていたわけだが、考えてみれば、その10日ほど前、第6回「おかしな啄木像」(2005年11月21日掲載)の結びで、私は次のようなことを書いた。それが平原一良に強い印象を残したのであろう。
《引用》
 
こんなわけで、『ガイド 北海道の文学』は、神谷忠孝の「北海道の小説・評論」をはじめ、山名康郎や原子修の説明も、あやふやな記述が多く、とてもガイドたりえない。
 おまけに、それらの説明文の後に、「北海道文学史略年表」があり、次に「フォトガイド 北海道の文学」と題する図版のページが来る。そういう編集のため、ひどく分かりにくい。しかも、説明、年表、図版の内容に有機的な関連がない。
 よほど時間に追われていたのか、あるいは書き手も編集者も、やる気や責任感を失っていたのか。本当にリニューアルを唱うのならば、まずこれを全面的に改訂するだけの覚悟と取り組みが必要だろう。

 私はこう書いた時、誰が『ガイド 北海道の文学』を編集したのか、正確なところは知らなかった。
 だが、最近、亀井志乃が平原の「陳述書」に反論するため、自分の記録に基づいて常設展リニューアルの経緯を整理した(「北海道文学館のたくらみ(35)」参照)。私はそれを読み、リニューアルに至るまでの平原一良の仕事ぶりを知ったわけだが、彼は『ガイド 北海道の文学』の編集と校正を口実に、常設展示リニューアルの作業を遅らせていた。なるほどこれでは、「第一期工事だ」などと、苦しい言い訳をするしかなかったわけだ。だが、正確に言えば「手抜き工事」じゃないか。そう思いつつ、改めて『ガイド 北海道の文学』を開いてみると、これまたひどい手抜き工事だった。
 
 何しろ、亀井志乃が作成した「データベース 北海道の文学碑」の12ページを除いてしまえば、神谷忠孝をはじめ7人が執筆した「概説」は、7人分を合せてわずかに14ページ。それに3ページの「北海道文学史略年表」がつき、たぶん平原自身が手がけたと思われる「フォトガイド 北海道の文学」というグラビア部分が出てくるわけだが、メリもハリもなく、ただ文学者の顔写真や、原稿の写真や、文学碑の写真がべたべたと貼ってあるだけで、ページも打っていない(実際には7ページ)。これ以上入稿が遅れれば、リニューアルのオープン・セレモニーに間に合わない。そういうぎりぎりのところまで印刷所を待たせておき、ばたばたと写真を割りつけて、入稿する。そういう様子がありありと目に見えるような、お粗末な、やっつけ仕事だった。
 
 平原一良副館長はこの程度の図録を作るために欠勤したり、早退したりしていたのか?! 

○おぞましいレトリック
 平原一良としては、その点を突かれるのが、一番痛いところだったのであろう。
 
「しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏(亀井志乃)の在り方について「異義あり」の声の届く頻度が高くなりました。ひどい話だ。平原一良は寺嶋弘道のために「陳述書」を書きながら、実はその機会を自分のために利用し、自分が非難されるべき怠慢、失態、醜態を隠すために、亀井志乃のほうに問題があったかのように事態をすり替え、誤魔化そうとしたのである。それだけではない。そういう偽証性によって、太田弁護士署名の「準備書面(2)」の信用を失墜させてしまったのである。
 
 
「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました。その意図・目的が判然としない内容でしたが、物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容についての手厳しい言及が多く、当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました。ひどい話だ。平原一良は自分の仕事の杜撰さが指摘されたことを隠すために、「物故者」などという持って回った言い方をして、「物故者」の立場を守るポーズを取り、その意味では「物故者」を利用しながら、亀井秀雄が死者に鞭打つような人間である印象を与えようとする。そのためには日時の誤魔化しさえやっているのである。
 彼が作ったストーリーの中では、常設展示のリニューアル作業中は亀井志乃に手を焼き、漸くリニューアル・オープンまで漕ぎつけて、ほっと一息ついたのも束の間、今度は亀井秀雄のブログに悩まされた、ということになっているのだろう。
 でもネ、平原さん、
リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろ」から、平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけ」るまで、ずいぶん時間がかかったようですが、まさか常設展示室はずっと臨時休館にして、皆でかかり切りになっていたわけではないでしょうね? その間、亀井志乃はどんなことのために「異議あり」と言われ、またその間、平原さん自身はどんな仕事を担当していたのですか? 
 
 
「常設展示リニューアルについてまだ積み残しの問題が若干残っていたこともあり、また企画展「二組のデュオ」の担当者として位置づけざるを得なかったこともあって、2月中旬、亀井志乃氏について平成18年度の再任用が内定しました。父君のブログによる当財団と関係者に対する論難は、そのころ鎮静化し、3月が過ぎました。おぞましい虚言癖。平原は、亀井志乃の再任用が決まったのは平成18年の2月中旬だったことにしているが、これもまた真っ赤な嘘であって、「北海道文学館のたくらみ(33)」の中で私は、平成17年12月27日の「課内打ち合わせ」で、「2006年度学芸課事務分掌(案)」が検討された事実を挙げておいた。この時点で既に、亀井志乃が平成18年度も雇用されることは決まっていたのである。
 
 しかし平原一良としては、敢えて上のような嘘を吐きながら、亀井志乃の雇用問題と亀井秀雄のブログとの関係を仄めかしておきたかったのだろう。「亀井秀雄は娘の雇用を継続させるために、ブログで財団に圧力をかけ、娘の再任用が内定したのを知って攻撃の筆を納めたのだ」と。
 しかし、一人の父親が、身分の不安定な娘が引き続き雇用されることを願って、娘の勤め先に関しては批判がましい発言を差し控え、何事も見て見ぬ振りをしている。そういうこともあり得るのではないか。
 私はそういうケースのほうが多いと思うが、ともかくそういうケースと対比させながら、平原一良が描いた亀井秀雄像を捉えて見るならば、そこには中村稔も三舎を避けるほど非常識で、押しつけがましい人間の姿が浮かんでくる。
 平原一良はそういう表現効果を狙ったのであろう。

○平原一良の対決相手
 しかしこの世には、あの父親象とは異なり、平原が狙う「亀井秀雄像」とも異なり、全く別な次元で発想するタイプの父親がおり、親娘が存在する。そういう人間と、平原一良は対決しているのである。
 
 
 
 

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北海道文学館のたくらみ(36)

これぞ北海道文学館の悪だくみ

○ズルイ勝ち
 ズルイ勝ちという言葉がある。相撲や野球で、普段は滅多に使わないトリック・プレーで勝ちを拾う場合であるが、それはまだズルイ勝ちの範囲には入らない。滅多に使わないプレーではあるが、少なくともルールブックの上では許容されるプレーだからである。
 そうではなくて、どう見てもずる賢い、フェアでないやり方ではあるが、ルールブックの禁止項目には書かれていない。いわばルールの盲点を利用して、自分たちに有利に事を運んでゆく。勝った側にしてみれば、あいつを巧くハメてやったと、横手を打ってホクソ笑んでいるところだろう。

 5月30日、財団法人北海道文学館の理事会・評議員会が開かれた。私のところにも事前に会議案内があり、会議資料も送られてきた。もちろん私は出席し、「順調に」議事が進行して、最後、ふと気がついてみると、私は理事から外されている。つまり、私は理事会から排除されていたわけで、私がそこに座っている権利はない。私は黙って会議場を出、評議員の出村さんと2,3言葉を交わした後、5時半頃、道立文学館を後にした。
 財団の幹部職員や理事たちは今頃、「亀井のやつ、うまく引っかかったな」と悦に入っているだろう。確かにウマい手をつかったな。私は彼らのズルイ勝ちにほとんど感心をしてしまった。しかしその反面、彼らは今日の議事録をどんなふうに整理するのだろうか。余計なお節介のようだが、私はそんなことを考えながら、地下鉄の駅に向かった。

○どんな手を打ってくるか
 今年の3月7日、平成19年度最後の理事会・評議員会が開かれた。その時の様子は、「北海道文学館のたくらみ(30)」に書いたが、会議の終了間際に事務局から、「平成20年度は理事や評議員の改選期に当たっている。これまで財団の委員会の委員をやってもらってきた理事や評議員の何人かに選考をお願いし、平成20年度の最初の理事会・評議員会で原案を検討してもらう」という意味のアナウンスがあった。
 私はそれを聞きながら、「多分財団の幹部職員は私が理事にもう一度選ばれることは望んでいないだろう」と思った。彼らはどんなやり方で私を排除するだろうか。むしろ私の関心はそこにあり、「北海道文学館のたくらみ(30)」のなかで次のように書いておいた。
《引用》
 
使い古された言い方だが、改めてつくづく思う。財団法人北海道文学館の理事・評議員には「他者」も存在しなければ、「外部」もない。仲間内だけの理屈を正論化して、誤魔化せるところは出来るだけ誤魔化そう。そういう人間たちが現在の道立文学館を仕切っているのである。

 私はもう愛想が尽きていた。ただ愛想が尽きることは、必ずしも直ちに自分から理事を辞めたいと表明することには繋がらない。
 彼らはどのような理屈と手口で、私を排除するだろうか。もし彼らが、「理事会における亀井の発言は不都合だ、理事としての資格に欠けている」と判断するならば、そう判断する事例を挙げなければならない。また、もし彼らが、「亀井のブログにおける文学館問題の取り上げ方は不都合だ、理事としての自覚に欠けている」と判断するならば、そう判断する事例を挙げなければならないだろう。
 ただし、仮に彼らがそういう事例を挙げることができたとしても、だからと言って直ちに理事を辞めさせることはできない。私に理事を辞めさせるには、それ相応の正当な手続きが必要だからである。

 それらを見極めてから、自分の態度を決めよう。私はそう考えていた。

○郵送資料のカラクリ
 ところが、3月が終わり、4月に入っても、財団からは何も言って来ない。前回の理事改選の場合は、引き続き理事をやってもらいたい旨の手紙が来たのだが、それが来ない。同じく前回のやり方を踏まえるならば、「平成19年度一杯で、あなたには理事を辞めてもらうことになった」という意味の手紙が来てもいいはずなのだが、それも来ないのである。

 そうこうしているうちに5月となり、5月30日に開催予定の理事会・評議員会の通知が来た。私は出席の返事を出した。そして、これは恒例通りなのだが、5月30日の1週間ほど前(正確には平成20年5月23日付け)、次の3種類の会議資料が送られてきた。
1 議案第1号 平成19年度事業報告・収支決算報告について
2 議案第2号 基本財産の管理運営について
3 議案第3号 役員(理事、監事)の選任について<評議員会議議決案件について>
        評議員の選出について<理事会議決議案件>

 この第3号議案の資料には、<理事会議決議案件>である、「評議員の選出について」だけが送られてきており、次期選出候補者66名(再任者59名、新任7名)の名前が挙がっている。<参考>として、これまで評議員だった人69名の名前も載っていた。私が気がついた範囲で言えば、中山昭彦と藪禎子が辞め、片山晴夫が新たに評議員の候補者となっている。

 だが、その第3号議案の資料には、<評議員会議議決案件について>である「役員(理事・監事)の選任について」がついていない。つまり、理事や監事の選任は評議員会で行うわけだが、どんな人たちが理事や監事の候補に挙がっているか、その一覧表が送られて来なかったのである。

 私は念のため、前回の改選が行われた、「平成18年度第1回 理事会・評議員会」(平成18年5月30日)の資料を出してみた。
 その議案第2号の資料としては、次期評議員候補者の一覧表と一緒に、次期役員(理事・監事)候補者の一覧表も送られて来ていた。
 会議の場でも「財団法人北海道文学館役員予定者名簿」(平成18年5月30日現在)も配られ、当然のことながら、理事、監事、評議員の名前が全部明記してある。

 今回は、「次期役員(理事・監事)候補者の一覧表」が省かれている。カラクリがあるとすれば、この辺かな。私はそう思った。

○不思議な手続き
 さて、5月30日の理事会・評議員会であるが、議案第1号と議案第2号については、格別な意見も反対もなく、言わば「順調に」進んだ。
 そして、議案第3号に入る時、「次に、役員(理事、監事)の選任に入るが、これは<評議員会議議決案件>なので、理事と監事は一たん退席して、ロビーで待機してほしい」旨のアナウンスがあった。

 理事と監事が立ち上がった。私も立って、ロビーに移った。
 前回の平成18年5月の会議では、次期評議員候補者の一覧表と、次期役員(理事・監事)候補者の一覧表は一括して送られていたから、わざわざこんな手間をかける必要はなかった。
 それに、前回の議事の進め方は、まず理事会による評議員の選出があり、その後、評議員会が役員(理事・監事)を選任するという、そういう順序だった。理事会が財団の最高決定機関である以上、順序は当然そうあるべきだろう。
 ところが今回は、評議員会が先に次期役員(理事・監事)を選任するという。手続き的に言えば、この評議員会のメンバーはまだ理事会によって承認されていない。つまり、まだ承認されていない評議員候補者が評議員会を開いて、何事かを決定する。そんなことが可能だろうか。
 
 実を言えば、私はロビーで待機している間、手続き上の問題にまでは頭が廻らなかった。ただ、財団の幹部職員と神谷忠孝理事長ほか数人の理事たちは、この評議員会で、私には送って来なかった「次期役員(理事・監事)候補者の一覧」の内容を決定させようとしているらしい。そのことは、私にも察しがついていた。
 もし後日、私に一言の連絡もなく、私の意見を聞くことなく、私を理事会から排除したことが問題になったとしても、彼らは一方的な排除決定の責任を評議員会に押しつけるだろう。その程度のことは、見当がついたのである。

○数のカラクリ
 第一、今日出席した評議員はわずかに14名。全評議員の20%強でしかない。
 にもかかわらず評議員会が成立する。第3者から見ればずいぶん不思議な会議体に思えるだろうが、書面によって議案の賛否の意志を表明した評議員が26名。他の評議員に賛否を委任した評議員が5名。計55名となって、全評議員の過半数を超え、評議員会は成立したことになるのである。
 理事のほうは、現象的にはもう少し出席率がよく、今回は全22名のうち、15名が出ていた。だが、清原館長は副理事長を兼ね、平原副館長は専務理事を兼ね、川崎業務課長は常務理事を兼ねており、神谷忠孝は理事長だから、実際にはこの4名を除く11名が出ていたにすぎない。
 
 とにかく以上のような数字の操作が、これが財団法人北海道文学館の意志決定のカラクリであり、総会屋が跋扈した時代の株主総会そのままのやり方を踏襲してきたわけだが、今回のわずか14名の評議員のなかで、財団の幹部職員や数人の理事に同調する人間が何人かいれば、疑問も反対もなく、あっさりと決まってしまうわけだ。
 
○無言のダマシ討ち
 しばらくして評議員会は終わり、理事が呼ばれた。その理事会で、新評議員の経歴や業績が簡単に紹介され、承認された。
 そこで、神谷忠孝理事長が理事会の終了を告げ、一瞬私は、ン? これでいいのかな、と不審に思ったが、とにかく理事会が終わった以上、グズグズしている理由はない。私は会議資料を鞄にしまって、立ち上がろうとした。すると、「これから新理事会により、理事長と副理事長の互選を行います」とアナウンスがあり、川崎業務課長が紙を配っている。私にも渡したので、見ると、「新理事会資料」(H20, 5, 30)として「新理事の氏名」が紹介されており、私の名前はない。
 そうか、そういう仕掛けだったのか。
 
 この「新理事の氏名」は、事前の会議資料として、評議員には送られていたのか。それとも会議室の受付で評議員に渡された封筒の中に入っていたのか。その辺の事情は分からないが、とにかく先ほどの評議員会で承認された資料に、「新理事会資料」とタイトルを付けて刷り出し、配布する。このやり方によって、今までの理事会の延長ではなく、会議の性格を「新理事会」に切り替えてしまえば、私はこれ以上出席している権利を持たないし、発言もできないことになる。まるでダマシ討ちだな。
 
 こうして財団の幹部職員と神谷忠孝ほかの理事たちは、私が出席している場では一度も私の理事問題を議題にすることもなく、話題に上せることもない。言い方を換えれば、私に発言のチャンスを全く与えないという、まことに巧妙なやり方で私を理事会メンバーから削除し、財団法人北海道文学館から排除してしまったのである。
 
 私は黙って立ち上がり、会議室を出た。

○摩訶不思議な会議運営
 さて、そこで場面は、今回の最初のところにもどるわけだが、私は北海道文学館から中島公園の地下鉄駅へ向かう途中で、会議運営の順序問題にも思い当った。もっと早く気がついていれば、会議の場で切り込むこともできたはずであり、その点に関するかぎり私は抜かったことになるが、いずれにせよ、財団はただの一度も自分たちの意向と理由を伝えることなく、また、相手の意見を聞くこともなく、だまし討ち、闇うちみたいな汚いやり方で、一人の理事を排除してしまった。この卑劣なやり方の説明責任は神谷忠孝理事長にあるはずだが、彼は多分その責任を負うことはしないだろう。
 
 そうすると、やはり川崎業務課長が平原副館長と相談しながら、議事録を何とか誤魔化すしかないだろうな。なにしろ評議員候補者が集まって、先に役員(理事、監査)を選んでしまい、その役員によって自分たちを評議員として承認してもらう、そんなアクロバットみたいな議事運営をやったのだから……。手続き的にはまだ村会議員でもない人たちが、先に村長や助役や収入役を選任しておいて、その村長や助役や収入役によって自分たちを村会議員に選出してもらう。こういう珍妙、摩訶不思議なやり方は、日本中どこの地方自治体でもやらないだろうが、さすがは北海道の文学者たち、市民社会の民主主義のルールを平気で破っておいて、しかし多分、「それを禁止する条文はありませんし、罰則もありませんからネ」と開き直ってしまう。さて、その開き直りの理屈を川崎さんや平原さんはどうひねり出すか。
 たしか今回の議事録の署名人は前川公美夫と八子政信のはずだから、何とか知恵を出してくれるかもしれない。
 私に代わって理事になった内田弘も、かねてから財団幹部寄りの良識人発言をしてきた人物で、この人も頼りになりそうだ。

 それと、もう一つ。平成20年5月30日の理事会・評議員会において、亀井秀雄はどの段階まで理事だったのか。換言すれば、亀井秀雄が理事でなくなったにもかかわらず、亀井が参加していた決定事項は、規程上無効なのではないか。そんな疑問もないではない。
 まだ評議員として選出を承認されていない人たちが、先に亀井秀雄を理事会から外す決定をしてしまう。これが手続き的におかしいことは先ほども指摘した。ただ、取りあえずそれを認めたとしても、次の理事会で、神谷理事長は「先の評議員候補者の集まりにおいて亀井秀雄を理事から外すことが決定された。そのことを理事会で承認するか否か」を諮らなかった。ということはつまり、神谷理事長は先の評議員候補者の集まりにおける決定をそのまま承認し、それを前提として、次の理事会に入ったわけで、とするならば、理事ではなくなった亀井秀雄が参加していた理事会における決定(新評議員会メンバーの承認)は無効のはずである。
 川崎業務課長や平原副館長と、前川公美夫や八子政信は、どんな理屈で、理事会決定を有効とするのだろうか。

 この二つの疑問点は、何時かきちんと説明を聞いてみたいな。そんなことを考えながら、私は地下鉄の駅を降りていった。

○手がかりは平原一良の「陳述書」
 以上のような経緯により、ついに私は、財団法人北海道文学館が私を理事会から排除する理由を聞くことができなかった。見方を換えれば、財団法人北海道文学館は私に理事を辞めさせる正当な理由を持たなかったことを、みずから証明してしまったわけである。
 しかし私には、財団が隠している「不当な理由」を探る手がかりがないわけではない。
 平原一良は裁判の「陳述書」で、何回か私のブログに言及している。裁判の本筋から見れば、平原一良が私のブログを取り上げるのはお門違いの場違いで、見当違いの筋違い、本質的な意味は全くない。要するに単なる悪口でしかないのだが、平原一良にはそうせずにはいられない動機があったのだろう。
 すでに指摘しておいたように、彼の「陳述書」は俗に言う「千三つ」みたいなもので、私のブログに関する個所も虚言を含み、思わせぶりをまぶして人目を欺こうとしている書き方をしているが、それを丁寧に腑別けして行けば、私を追い出したがった本心の一端が見えてくるはずである。

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