北海道文学館のたくらみ(37)
怖い「なんとかする」話
○再び平原一良の偽証的発言
私は平成17(2005)年11月1日から、平成18(2006)年2月5日まで、12回、このブログに「文学館の見え方」という文章を載せた。
念のためにことわっておけば、それはこの「北海道文学館のたくらみ」とは書く動機も、テーマも異なっており、両者に直接的な関連はない。私はその連載に、「再掲載のための序文」(2006年3月16日)という文章をつけて、HP「亀井秀雄の発言」(http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せておいた。これから私が書くことに疑問を感じたならば、ぜひ参照してもらいたい。
なぜ私はそんなことをことわっておくのか。財団法人北海道文学館の副館長・平原一良が、被告の寺嶋弘道の側に立つ「陳述書」で次のようなことを書いているからである。
《引用》
平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました。その意図・目的が判然としない内容でしたが、物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容についての手厳しい言及が多く、当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました。(中略)
常設展示リニューアルについてまだ積み残しの問題が若干残っていたこともあり、また企画展「二組のデュオ」の担当者として位置づけざるを得なかったこともあって、2月中旬、亀井志乃氏について平成18年度の再任用が内定しました。父君のブログによる当財団と関係者に対する論難は、そのころ鎮静化し、3月が過ぎました。(3ページ13~24行目)
私の「北海道文学館のたくらみ」は平成18(2006)年12月28日から始まっている。だから、平原がここで言う「同氏の父君」、すなわち亀井秀雄のブログとは、「文学館の見え方」のほうを指すのであろう。
平原一良の「陳述書」の偽証性については既に何回か指摘してきたが、彼はここでもまたいい加減なことを書いている。初めに書いたように、私の「文学館の見え方」は常設展示のリニューアル・オープンが行われた平成17年11月2日の前日、11月1日から始まっており、決して平原が言うように「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろ」ではないからである。
○文学館と文学館の再検討
それに、もう一つ、私は「当財団の活動や関係者への攻撃的な言及」を意図して、「文学館の見え方」を書き始めたわけではない。九州大学の日本語文学会が主催するシンポジウムで、土屋忍という若い研究者が、私の論文に言及した。それはそれで結構なことなのだが、ただ困ったことに、土屋忍は、私がその論文の中で書いたことのない言葉を持ち出し、しかも私が小樽文学館の館長となった事実と関連させて、聴衆の「笑い」を取るような発言をしていた。そのシンポジウムの記録を載せた『九大日文 06』という雑誌が小樽文学館へ贈られて来て、私は別なことを調べるためにその雑誌を開いたのだが、たまたま土屋忍の発言に気がつき、「やな事をしてくれたな」。そうは思ったが、そのこと自体を咎めても何事も解決しない。むしろこれを機会に、私自身の進退に責任を持つためにも、10年ほど前から文学研究や歴史学の領域で新しく始まった問題意識、例えば「発明された伝統(invented tradition)」、「クロノトポス(chrono-topos)」、「ジャンルの植民(immigration of Genre))、「地名」などの問題意識に基づいて、私たちの文学観や、文学館というもののあり方を検討してみよう。そう考えて書き始めたのである。
○これがリニューアル?
そして、第2回目は「発明された伝統(invented tradition)」の問題を取り上げる心づもりだったのだが、第1回目の「亀井秀雄の食言(?)」を掲載した翌日の11月2日、道立文学館へ出かけて驚いた。
この日は道立文学館の開館10周年記念のセレモニーがあり、常設展示のリニューアルもその記念事業の一環だったのだが、オープニング・セレモニーで平原学芸副館長が「今回の展示替えはリニューアルの第一期工事でしかない」という意味のことを言い、事実、常設展示室入口に立てたパネルにもそういう意味のことが書いてある。
この日、『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』(「北海道文学館のあゆみ」編集刊行委員会、平成17年11月)と、『ガイド 北海道の文学』(北海道立文学館/(財)北海道文学館、平成17年11月2日)という2種類の冊子が配布されたが、『ガイド 北海道の文学』にも「今回の更新は「第一期工事」であるにすぎないとの認識に立って」とあった。
しかし、待てよ。私の記憶では、常設展示のリニューアルにはかなりの予算を組んだはずであり、だがその時、今年のリニューアルは「第一期工事」だなんて話は出なかった。リニューアルの最終的な目標を語らずに、これは「第一期工事」でしかないとことわるのは、如何にも弁解めいている。では、「第二期工事」はいつ着手するのか。その説明もない。
そういう疑問を抱きながら、リニューアルした常設展示を見たのだが、これまでの展示と較べても一向に新鮮味がない。『ガイド 北海道の文学』はこの展示のガイドブックでもあるはずだが、常設展示との対応性がほとんど見られない。神谷忠孝を始めとする7人の「概説」と、「フォトガイド 北海道の文学」というグラビアの部分と、いずれもお手軽、お座なりで、おまけに相互の有機的な関連も見られない。つまり、ガイドブックの役割を果たしていないのである。
私は帰宅して、念のために、平成17年3月15日の理事会・評議会の資料を確認してみた。その資料の「平成17年度の重点課題と取り組」(平成17年2月26日)の第2に、「常設展の更新(平成17年11月予定)と特別企画展示等の一層の充実」が掲げられている。しかし、今回は「第一期工事」とする意味の説明はどこにもない。口頭で説明された記憶もない。
では、そのリニューアルのために、どのくらいの金額が使われたか。運悪く平成17年3月15日の理事会・評議会の「予算(案)」が見つからないので、ここは平成18年3月3日の理事会・評議員会で配布された「平成17年度収支予算表」に基づいて書くしかないのだが、その「収支予算表」によれば、平成17年度は、常設展に1,189,000円の支出を組んでいた。この金額の半分以上がリニューアルのために支出されたと考えられるわけだが、その作業の中心だった平原一良は一体どこに金をかけたのだろうか。
○振り切られた平原一良
こうして見ると、どうやら平原の発言はその場を取り繕うための発言でかなく、『ガイド 北海道の文学』もオープニングに間に合わせるための、やっつけ仕事でしかなかった。そう受け取らざるをえない。端的に言ってしまえば、この仕事の中心的な責任者の頭の中が全くリニューアルしていなかったのである。私はそう判断して、「発明された伝統(invented tradition)」以下、概念の刷新の問題と、北海道文学論の問題を関連させながら、「文学館の見え方」を進めることにした。
平原一良は「その意図・目的が判然としない内容でしたが」などととぼけたことを言っているが、私の意図・目的ははっきりしていたはずである。もし彼にとって「判然」としない側面があったとすれば、それは「発明された伝統」、「クロノトポス」「地名」などの概念に着いてくることができなかった、つまり、振り切られてしまったためであろう。
○「実名についての手厳しい言及」?
だがそれはともかく、平原一良は私のブログに言及する段になると、何故か平静でいられないらしい。「物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容についての手厳しい言及が多く」と、妙な言い方をしていた。「物故者を含む当財団関係者の実名」という言葉は、一体どの言葉に続くのか。まさか「手厳しい言及が多く」に続くのではあるまい。「実名についての手厳しい言及」なんてことはあり得ないことだからである。
思うに、平原一良は、「原告の父親である亀井秀雄は、物故者への礼儀をわきまえず、実名を挙げて手厳しい批判を加える人間だ」、つまり死者に鞭打つような人間だ、という印象を裁判官に与えたかった。そこでつい焦って、こんな舌足らずな言い方をしてしまったのだろう。
だが、「文学館の見え方」を書いている時点で、私が実名を挙げた財団関係の物故者は和田謹吾と小笠原克だった。この二人はよく知られた文学研究者であり、自分の「実名」を付した著書を、彼ら自身の意志によって、何冊も出している。その著書に言及する時、わざわざ実名を伏せて、『描写の時代』を書いたW・K 氏とか、『野間宏論』のO・M氏なんて書き方をしたとすれば、かえって不自然であり、二人に対して失礼でもあるだろう。平原一良はその辺の事情を見落として、「物故者を含む当財団関係者の実名……についての手厳しい言及が多く」などと書き、かえって自分の非常識を曝け出してしまったわけだが、さてそれでは、この二人についての私の取り上げ方のどこが「手厳しい言及」なのか。平原一良は責任をもってそれを証明しなければなるまい。
○「手厳しい言及」
ただし、「物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容について」ではなく、財団の経営と実績に関してならば、私の文章の中にも「手厳しい言及」がなかったわけではない。
《引用》
(前略)ただ、収支計算書総括表をみると、必ずしも将来は楽観できない。平成十六年度には、道からの管理運営受託事業費が一億七千四百万余、札幌市等からの補助金が二百九十万円、これらをあわせた収入が一億九千万余だが、そのうち事業収入は三百七十八万円余にすぎない。つまり、収入の中、事業収入は二パーセントに足りない。道庁からの管理運営受託費、補助金も前年度に比べると漸減傾向にある。一方、支出をみると、維持運営費が九千八百万円余、管理費が五千九百万円余、事業費は二千八百万円余である。維持運営費は電気・燃料代等の建物の維持管理の費用であり、管理費は職員費、会議費等である。運営受託費、補助金の減少に見合って、これらの費用も若干節減されているが、目立つのは事業費が前年は三千万円を越していたのに一割近く減少していることである。
これは自治体が直接、間接に運営している全国の文学館にもみられる現象だが、自治体の財政が逼迫し、年々運営委託費等の名目で支出していた助成金が削減されても、建物の維持管理費はほとんど節減できないし、人件費等の節減も限度がある。その結果、事業費が大幅に削られることとならざるをえない。しかも、事業費を年々削減していけば、事業そのものを充実させるのが難しくなることは目に見えている。道立文学館の年報によれば、来館者は年間ほぼ一万五千人ないし二万人の水準で推移しているようだが、全国的にみれば、これはそう恥ずかしい数字ではない。年間五万人を越える来館者のある文学館は数えるほどしかないのが実状である。それでも、事業費支出二千八百万円余に対し事業収入が三百七十八万円、一億九千万円を越える支出に対し来館者が一万五千人から二万人ということからみれば、費用対効果は惨憺たるものといわざるをえない。
要するに財団法人北海道文学館は、平成16年度には、道から1億7千4百万円、札幌市から2百90万円を頂戴し、自己資金を1千3百万円ほど上乗せして、合わせて1億9千万円ほどの資金を投入しながら、年間の入館者は、多目に見ても2万人程度でしかない。単純計算すれば、来館者1人につき、9,500円も掛けていることになる。換言すれば、来館者1人から400円(常設展観覧料)なり、600円(特別企画展観覧料)なりを頂戴するために、その22倍から15倍もの税金を使っているわけで、財団にはいろいろ言い分、言い訳もあるだろうが、「費用対効果は惨憺たるものといわざるをえない」。
財団にしてみれば、あまりあからさまに言ってほしくない、「手厳しい」指摘ではあっただろう。ただし、この指摘は私がしたのではない。道立文学館開館10周年の記念式典に合わせて出版された、『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』の中で、全国文学館協議会会長の中村稔が寄稿した「お祝いのことば」を、私が「文学館の見え方」に引用した。上記の引用は中村稔の文章だったのである。
○非常識と腰ぬけ
私に共感がなかったわけではない。市立小樽文学館に関係している私の目からすれば、札幌の人口は小樽の10倍以上もあり、予算規模も道立文学館は小樽文学館の10倍を超え、観光客も札幌は小樽とは桁違いに多く、道立文学館のロケーションは決して悪くはない。読書人口や読書環境の厚みもまた桁違いに大きい。高等教育の施設や文化施設も札幌に集中している。それ故、小樽文学館の実績から見て、道立文学館は年間10万人以上の来館者があって当然なのだが、2万人に達するかどうかに低迷している。運営の発想が間違っているのである。
しかし私は先に引用した中村稔の文章を読み、共感よりも、むしろ憤慨してしまった。中村稔の非常識にあきれ、財団の幹部職員のふがいなさに腹が立ったのである。
『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』には、北海道知事の高橋はるみや、札幌市長の上田文雄、北海道新聞社代表取締役社長の菊池育夫が「お祝いのことば」を寄せていた。いずれも通りいっぺんの、ありきたりな社交辞令ばかりで、特に読み応えがあるわけでない。ひょっとしたら秘書が作文したものかもしれない。だが、財団の幹部職員にとっては、こういう肩書の人からお祝いの挨拶をもらうことが大事なのであろう。
中村稔はこれらの人たちと並び、全国文学館協議会会長の肩書で「お祝い(?)のことば」を書いているわけだが、私の見るところ、彼は日本近代文学館の理事長の立場で、道立文学館の立ち上げにかかわり、神谷忠孝の前の財団法人北海道文学館の理事長の澤田誠一などはすっかり中村稔をアテにしていた。何かの拍子に、中村稔が「小樽文学館の展示には温かみがある」という意味のことを洩らしたらしい。澤田誠一が小樽へ来た時、文学館に立ち寄って、「中村先生が小樽文学館を褒めていたよ」と教えてくれた。中村稔の片言隻句は、澤田誠一にとってそれほどの重みがあったのである。中村稔のほうも道立文学館を北海道における文学館の拠点と考え、何かと世話を焼いてきたのだろう。
ところが、その中村稔が、――本人としては心安立てのつもりだったのかもしれないが――お祝いの場という場所柄もわきまえずに、祝われるべき財団法人北海道文学館の「惨憺たる」状態を、数字を挙げて克明に暴き立てる。この「惨憺たる」失敗に、自分は無関係だったかのような、まるで他人ごとみたいな口調で……。
私は中村稔のそういう態度に憤慨し、それと同時に、そんな文章を唯々諾々10周年記念誌に載せてしまった、財団の理事長や幹部職員のふがいなさにも腹を立てた。中村稔の書き方は「苦言を呈する」というレベルを超えているからである。
○本末転倒
私の「文学館の見え方」はそんなふうに進んで行ったのだが、平原一良によれば、「当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました」。
この「当財団内部」を構成するのは神谷忠孝理事長、毛利正彦館長(当時)、安藤孝次郎副館長(当時)、そして平原学芸副館長(当時)だったと思うが、どうやらこの人たちは問題を取り違え、あるいはすり替えていたらしい。まず彼らが真剣に考えなければならなかったのは、中村稔にあれほど屈辱的な「お祝いのことば」を書かれ、それを「なんとかすべきではないか」という問題だったはずである。むしろそれ以上に、中村稔に指摘された「惨憺たる」経営状態を「なんとかすべきではないか」という問題だったはずである。
ところが平原一良の書き方から察するに、彼らはもっぱら私が中村稔の書き方に憤慨したことのほうを重視して、寄り寄り集まっては「あれはなんとかすべきではないか」などと話題にしていた。
本末転倒もこれより甚だしきはなし、というところだろう。
○理不尽な「削除」要求
もしこの推定が正しいならば、当時の財団の幹部はこんなふうに、「顧みて他を言う」類の、責任逃ればかり考えている人間が揃っていたことになるわけだが、残念ながら、実態はどうやらそういうものだったらしい。
これは、「文学館の見え方」をHPに再掲載するに際して、「再掲載のための序文」でも書いたことだが、平成18年の3月3日、私は理事会・評議員会の後、毛利館長に足止めされて、「文学館の見え方」を私のブログから削除してくれと言われた。ただ、その理由が明確ではない。毛利館長は「あのブログで書かれたことは、自分たちにとってはなはだ都合が悪い。だから削除してくれ」。この一点張りで、1時間半近くも私を引き止めた。
言うまでもなく私は削除を断った。断った理由は「再掲載のための序文」に書いておいたので、ここでは繰り返さないが、とにかく毛利正彦という人物は、自分の名前を明らかにし、自分の責任においてものを言ってきた人間にとって、自分の言葉がいかに大切か、その重さが全く理解できなかったらしい。つまり彼の頭の中には「自分たちの都合」しかなかったわけだが、今考えてみれば、平原一良も、「自分たちに都合の悪いことは削除させよう」と諮った人間の一人だったのであろう。
そして今年の5月、平原たちは「自分たちに都合の悪い発言をする理事は排除してしまおう」と企んで、私の名前を理事の名簿から削ってしまった。彼らは私が書くことには反論をしない。私には何一つ明確な理由説明もしない。そして私の存在、私の言葉を消してしまおうとする。彼らのやろうとしたことは、あの時とこの時とそっくり同じなのである。
○わが粗忽
ただし、中村稔の「お祝いのことば」に関して言えば、思いがけず滑稽な副産物が生まれた。
平成18年2月1日、私が小樽文学館へ出ると、次のような、匿名の手紙が届いていた。
《引用》
亀井秀雄様
この世の眺め―亀井秀雄のアングル―を拝読いたしましたが、2005年11月3日の「文学館の見え方(その2)」にあなたの勘違いによる記述がありますので、指摘させて頂きます。
それは、中ほどに「中村稔のお祝いの言葉はこれで終わりである。」とありますが、その裏のページのつづきを読み落としています。
全国文学館協議会会長の中村稔氏や北海道文学館の皆様に失礼です。訂正のうえ謝るべきと考えます。
それにしても、「財団の文学館運営が破産の惨状を呈していることを暴きたてる無神経に驚き、手の平を返すようなニベもない引導の渡し方に他人ごとながら憤慨する」あなたが、何故インターネットであのような発言をなさるのか理解に苦しみます。
確かに、この匿名氏から指摘されたとおり、私には迂闊なところがあった。『北海道文学館のあゆみ 道立文学館10周年によせて』に寄稿した北海道知事の高橋はるみや、札幌市長の上田文雄、北海道新聞社代表取締役社長の菊池育夫の「お祝いのことば」は、いずれも1ページの短い文章であり、ところが中村稔の文章だけは2ページにわたっていた。私は中村稔の文章も1ページだと思いこみ、2ページ目の文章が1ページ目の文章の裏に載っていることに気がつかなかったのである。
なぜそんな粗忽をやってしまったのか。「文学館の見え方」の補足1、「訂正とお詫びと補足」で書いたように、私は(平成17年の)11月2日、北海道文学館開館10周年のセレモニーからの帰り、電車のなかで『あゆみ』を開き、中村稔の文章を読んで、これが「お祝いのことば」なのかと呆れて、その夜のうちに印象を書き始め、日付けが3日に変った深夜、ブログに載せた。そういうせっかちな書き方をしたため、恥ずかしい失敗を犯してしまったわけである。
○中村稔の本音
中村さんには申し訳ないことをした。お詫びのために、まず私が見落とした文章を全文紹介しよう。そう考えて、私は「文学館の見え方」の補足1、「訂正とお詫びと補足」に、次のような箇所を引用した。
《引用》
だが、こうした費用対効果の問題は道立文学館に限ったことではない。財団法人北海道文学館の寄附行為第三条に「この法人は、北海道にゆかりのある文学資料を収集保存し、広く道民の利用に供するとともに北海道の風土に根ざした文学の振興に必要な事業を行い、もって北海道の文化の創造と発展に寄与することを目的とする」とある。僅か三千万円足らずの事業費で、文学資料の収集保存、風土に根ざした文学の振興、北海道の文化の創造と発展などを語ることは夢想にひとしい。そもそも文化の創造と発展といったことは一年、二年といった短期間でできる事業ではない。長期間にわたる粘り強い、地道な活動を必要とする。文化の創造と発展には遠い将来に開花するような投資が必須である。財政が逼迫しているとはいえ、建物の維持管理、人件費等の節減に限りがある以上、文化の創造、発展にはそれなりの投資、このばあい事業費をもっと潤沢にすることが必要なのだ、ということを道庁、道議会の方々のご理解頂きたい、と私は切望している。
他方、文学館が費用対効果を無視してよい、とは私は考えない。前述の寄付行為が「北海道の風土に根ざした文学」、「北海道の文化の創造と発展」という言葉にみられるような、北海道という地方性を強調していることに危惧を感じる。先年「知里幸恵とアイヌ神謡集」展は全国各地の文学館に巡回し、大きな話題を呼んだ。道立文学館は北海道が生んだすぐれた文学の全国に向けた発信基地となってもよいのではないか。それがまた、全国の文学愛好者に北海道の文学に対する関心を喚起し、やがては道立文学館の来館者の増加にもつながるのではないか。逆に、北海道にゆかりのない文学者であっても、その業績の展観をつうじて文学への興味を感じ、北海道にゆかりをもつ文学者の業績に興味をもつ呼び水ともなるのではないか。徒らに北海道にとらわれない、全国的文学館活動の発信基地かつ受信基地となることに道立文学館の未来がひらかれるのではないか。全国文学館協議会はそうした提携を確立する場となるだろう、と私は信じている。
中村稔はこのようなことを書いていたわけだが、私は引用しながら、「あの匿名氏は、藪をつついて、かえって蛇を出してしまったな」。そんな気がしてきた。
なぜなら、中村稔は「そもそも文化の創造と発展といったことは一年、二年といった短期間でできる事業ではない。長期間にわたる粘り強い、地道な活動を必要とする」という一般論を語っているだけで、既に10年を経過した北海道文学館の、「粘り強い、地道な活動」や、その成果については、ほとんど何も語っていないからである。
それだけではない。私は、事業費だけでも年間に3千万円近く使うことができ、しかも10年の時間を貸してもらえるならば、相当に大きな事業の実現も――「夢想」ではなく――可能だ、と確信している。
しかし中村稔は、「僅か三千万円足らずの事業費で、文学資料の収集保存、風土に根ざした文学の振興、北海道の文化の創造と発展などを語ることは夢想にひとしい」と言い、一見これは、北海道文学館に同情し、励ました言葉と見えなくもない。だが、結びの段落と関連させるならば、彼の文章は明らかに、「北海道の風土に根ざした文学」、「北海道の文化の創造と発展」など、「北海道という地方性を強調して」きたことの限界、行き詰まりを指摘している。そう読めてしまう。
結局これは、「費用対効果」の惨憺たる状態を、別な言葉で、つまり「「北海道」の名前を冠した理念は既に破産してしまった」と言い換えただけではないか。
そして最後に彼は、「北海道にゆかりのない文学者であっても、その業績の展観をつうじて文学への興味を感じ、北海道にゆかりをもつ文学者の業績に興味をもつ呼び水ともなるのではないか。徒らに北海道にとらわれない、全国的文学館活動の発信基地かつ受信基地となることに道立文学館の未来がひらかれるのではないか。全国文学館協議会はそうした提携を確立する場となるだろう、と私は信じている」と結んでいる。
ここのキーワードは、「北海道にゆかりのない文学者であっても」、「徒らに北海道にとらわれない」ということであろう。要するに彼が言っているのは、日本近代文学館をキイステーションとする全国の文学館のネットワークに繰り込まれ、その一端を担い、日本近代文学館のアイデアと資料を借りる以外に、道立文学館の生き残る道はありませんよ、ということだからでる。
○平原一良の仕事ぶり
さて、平成18年の2月1日には以上のような匿名の手紙があり、3月3日には毛利館長からブログの削除を求められ、そしていま改めて「文学館の見え方」に目を通してみて、もう一つ、あることに思い当った。
平原一良は「陳述書」で、「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました」と書いており、これがいい加減な記述であることは既に指摘しておいた。
そして彼が言う「12月ごろ」には、私の「文学館の見え方」はすでに第7回(「ジャンルの植民」2006年12月2日掲載)にまで進んでいた。つまり、ここでもまた平原はいい加減なことを書いていたわけだが、考えてみれば、その10日ほど前、第6回「おかしな啄木像」(2005年11月21日掲載)の結びで、私は次のようなことを書いた。それが平原一良に強い印象を残したのであろう。
《引用》
こんなわけで、『ガイド 北海道の文学』は、神谷忠孝の「北海道の小説・評論」をはじめ、山名康郎や原子修の説明も、あやふやな記述が多く、とてもガイドたりえない。
おまけに、それらの説明文の後に、「北海道文学史略年表」があり、次に「フォトガイド 北海道の文学」と題する図版のページが来る。そういう編集のため、ひどく分かりにくい。しかも、説明、年表、図版の内容に有機的な関連がない。
よほど時間に追われていたのか、あるいは書き手も編集者も、やる気や責任感を失っていたのか。本当にリニューアルを唱うのならば、まずこれを全面的に改訂するだけの覚悟と取り組みが必要だろう。
私はこう書いた時、誰が『ガイド 北海道の文学』を編集したのか、正確なところは知らなかった。
だが、最近、亀井志乃が平原の「陳述書」に反論するため、自分の記録に基づいて常設展リニューアルの経緯を整理した(「北海道文学館のたくらみ(35)」参照)。私はそれを読み、リニューアルに至るまでの平原一良の仕事ぶりを知ったわけだが、彼は『ガイド 北海道の文学』の編集と校正を口実に、常設展示リニューアルの作業を遅らせていた。なるほどこれでは、「第一期工事だ」などと、苦しい言い訳をするしかなかったわけだ。だが、正確に言えば「手抜き工事」じゃないか。そう思いつつ、改めて『ガイド 北海道の文学』を開いてみると、これまたひどい手抜き工事だった。
何しろ、亀井志乃が作成した「データベース 北海道の文学碑」の12ページを除いてしまえば、神谷忠孝をはじめ7人が執筆した「概説」は、7人分を合せてわずかに14ページ。それに3ページの「北海道文学史略年表」がつき、たぶん平原自身が手がけたと思われる「フォトガイド 北海道の文学」というグラビア部分が出てくるわけだが、メリもハリもなく、ただ文学者の顔写真や、原稿の写真や、文学碑の写真がべたべたと貼ってあるだけで、ページも打っていない(実際には7ページ)。これ以上入稿が遅れれば、リニューアルのオープン・セレモニーに間に合わない。そういうぎりぎりのところまで印刷所を待たせておき、ばたばたと写真を割りつけて、入稿する。そういう様子がありありと目に見えるような、お粗末な、やっつけ仕事だった。
平原一良副館長はこの程度の図録を作るために欠勤したり、早退したりしていたのか?!
○おぞましいレトリック
平原一良としては、その点を突かれるのが、一番痛いところだったのであろう。
「しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏(亀井志乃)の在り方について「異義あり」の声の届く頻度が高くなりました」。ひどい話だ。平原一良は寺嶋弘道のために「陳述書」を書きながら、実はその機会を自分のために利用し、自分が非難されるべき怠慢、失態、醜態を隠すために、亀井志乃のほうに問題があったかのように事態をすり替え、誤魔化そうとしたのである。それだけではない。そういう偽証性によって、太田弁護士署名の「準備書面(2)」の信用を失墜させてしまったのである。
「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけました。一段落ついた時点で、12月ごろから同氏の父君によるブログを通じての当財団の活動や関係者への攻撃的な言及が開始されました。その意図・目的が判然としない内容でしたが、物故者を含む当財団関係者の実名や常設展の内容についての手厳しい言及が多く、当財団内部でもなんとかすべきではないかと幹部間の話題になりました」。ひどい話だ。平原一良は自分の仕事の杜撰さが指摘されたことを隠すために、「物故者」などという持って回った言い方をして、「物故者」の立場を守るポーズを取り、その意味では「物故者」を利用しながら、亀井秀雄が死者に鞭打つような人間である印象を与えようとする。そのためには日時の誤魔化しさえやっているのである。
彼が作ったストーリーの中では、常設展示のリニューアル作業中は亀井志乃に手を焼き、漸くリニューアル・オープンまで漕ぎつけて、ほっと一息ついたのも束の間、今度は亀井秀雄のブログに悩まされた、ということになっているのだろう。
でもネ、平原さん、「リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろ」から、「平成17年11月2日、常設展示のリニューアル・オープンにこぎつけ」るまで、ずいぶん時間がかかったようですが、まさか常設展示室はずっと臨時休館にして、皆でかかり切りになっていたわけではないでしょうね? その間、亀井志乃はどんなことのために「異議あり」と言われ、またその間、平原さん自身はどんな仕事を担当していたのですか?
「常設展示リニューアルについてまだ積み残しの問題が若干残っていたこともあり、また企画展「二組のデュオ」の担当者として位置づけざるを得なかったこともあって、2月中旬、亀井志乃氏について平成18年度の再任用が内定しました。父君のブログによる当財団と関係者に対する論難は、そのころ鎮静化し、3月が過ぎました」。おぞましい虚言癖。平原は、亀井志乃の再任用が決まったのは平成18年の2月中旬だったことにしているが、これもまた真っ赤な嘘であって、「北海道文学館のたくらみ(33)」の中で私は、平成17年12月27日の「課内打ち合わせ」で、「2006年度学芸課事務分掌(案)」が検討された事実を挙げておいた。この時点で既に、亀井志乃が平成18年度も雇用されることは決まっていたのである。
しかし平原一良としては、敢えて上のような嘘を吐きながら、亀井志乃の雇用問題と亀井秀雄のブログとの関係を仄めかしておきたかったのだろう。「亀井秀雄は娘の雇用を継続させるために、ブログで財団に圧力をかけ、娘の再任用が内定したのを知って攻撃の筆を納めたのだ」と。
しかし、一人の父親が、身分の不安定な娘が引き続き雇用されることを願って、娘の勤め先に関しては批判がましい発言を差し控え、何事も見て見ぬ振りをしている。そういうこともあり得るのではないか。
私はそういうケースのほうが多いと思うが、ともかくそういうケースと対比させながら、平原一良が描いた亀井秀雄像を捉えて見るならば、そこには中村稔も三舎を避けるほど非常識で、押しつけがましい人間の姿が浮かんでくる。
平原一良はそういう表現効果を狙ったのであろう。
○平原一良の対決相手
しかしこの世には、あの父親象とは異なり、平原が狙う「亀井秀雄像」とも異なり、全く別な次元で発想するタイプの父親がおり、親娘が存在する。そういう人間と、平原一良は対決しているのである。
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コメント
以前から文学館があるのは知っていたが、ごく最近トイレ拝借で入館して驚いた!
建物の立派さ、そして静か(?)…トイレは勿論きれい! 公園内の他の施設に比べて、利用者は極端に少ない! もったいない建物。
“道立ということは??”と思ったが、「矢張り!」…
税金の無駄使いは明らかです。
もっと市民が利用できる施設にリニュアールしたら如何?たとえば地下鉄で行ける図書館(北海道文学に限らず)として出直したら? 市とか道とかで違うのかも知れないが、税金を無駄使い許さない(--〆)
投稿: リンゴママ | 2012年8月31日 (金) 23時36分