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北海道文学館のたくらみ(35)

雉も鳴かずば撃たれまい(下)

○笑える話
 平原一良副館長の書き方と、寺嶋弘道学芸主幹の書き方が奇妙に似ていることは、前回に指摘しておいた。ただ、相手を笑わせる語り口では、平原一良のほうがレベルが高い。その代表例は、「北海道文学館のたくらみ(31)」で紹介した、常陸宮ご夫妻が訪館された時のエピソードであるが、あれはもう「笑い」を越えて、ただただ平原個人の醜態――当日の醜態と、「陳述書」の中で自分の失態を亀井志乃に押しつける醜態という、二重の醜態――をさらけ出した、「悲惨」な虚言(そらごと)でしかなかった。これでは、慰める言葉を掛けようもない。それに較べると、前回に紹介した、亀井志乃の閲覧室勤務に関する、年度の勘違いなどは、「平原さん、大丈夫?」と気軽に声をかけられる程度のご愛敬だった。今回はそのレベルの作り話で、もうちょっと笑える嘘を紹介しよう。
《引用》
 
夏の特別企画展が終了した8月末から9月にかけて、秋以降の事業準備にとりかかろうとスタッフが考え始めたころ、火曜日朝のミーティング(館のスタッフが事務連絡やその週の動向を伝え合います)の場で、亀井氏が「明日ニセコに調査のため出張に行ってきます」と切り出し、私を含むスタッフは困惑しました。事前の打ち合わせなどがないままでしたので、その場で亀井氏を叱責することなどはせず、後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました(4ページ33~5ページ2行目)

 平原一良は例によって日時をぼかす書き方をしているが、「火曜日朝のミーティング」において亀井志乃がニセコ行きの申し出をしたのは、平成18年8月29日(火)のことである。だから、平原が書いたエピソードも8月29日の出来事と考えて差し支えないだろう。
 平原一良はいかにも良識人ぶった口ぶりで、亀井志乃の身勝手な行動に困惑したかのように書いているが、ところがギッチョン、大笑い。平原副館長はこの日、文学館に出ていなかったのである。
 このことについては、既に亀井志乃が3月5日付けの「準備書面」で、「その日、平原副館長(安藤副館長の退職後、学芸副館長から昇任)は急な怪我で、たまたま欠勤していた」と書いている。平原一良はその「準備書面」を読まず、自分の行動をメモ類で確かめることもなく、この個所を得々と書いたのであろう。

○二人の平原一良
 なぜ平原一良はこの日、休まざるを得なかったのか。
 亀井志乃が平原一良に怪我見舞いのメールを送り、それに対して平原一良がメールを返してきた。亀井志乃は5月14日(水)に、平原に対する反論「準備書面(Ⅱ)-3」を裁判所に提出し、平原のメールを
甲44号証として一緒に届けた。この反論は5月23日(金)の第4回公判で、亀井志乃の陳述として受理され、だからその証拠物たる平原のメールをここに引用してもよいのだが、もとは平原個人の私信であり、その点を尊重して、内容を要約して紹介したい。平原自身が亀井志乃に告げたところによれば、事情は次のようであった。
《要旨》
 
8月28日の月曜日は休館日だったが、馬場あき子から「たっての希望」があったので、平原が館を開けて待っていた。馬場あき子の一行が着き、平原が迎えに出ようとしたところ、折悪しくバスからお年寄りが降りてきたので、避けようと身をかわした際に、チェーンに引っかかって前のめりに倒れこんでしまった。左ひざや顎を打撲し、右腕関節の靱帯を傷め、前歯が欠け、口中を切ってしまったが、勢いよく転んだわりには軽傷だったので、昨日(8月31日)から出勤している。「ご心配をおかけしました」。

 もし馬場あき子たちが、「たっての希望」で、8月28日の月曜休館日に文学館を開けて欲しいと望んだとしたら、それは馬場あき子たちが我儘で、非常識だったと思う。その辺の事情は分からないが、とにかく平原副館長は休館日にもかかわらず文学館を開け、馬場あき子の一行を出迎えようとしたところ、気の毒に、チェーンに足を取られ、右腕関節の靱帯を傷め、前歯が欠け、口中を切ってしまって、病院へ運ばれ、手当を受ける羽目となってしまったのである。

 ただ、以上のようなメールのやり取りを見るかぎり、この頃、平原副館長と亀井志乃との間は決してぎくしゃくしてはいなかった。ところが、平原一良は「陳述書」の中で、嘘、でたらめを書き連ね、ひたすら亀井志乃の人格を貶めることにこれ努めている。何か理由があって彼の感情がそんなふうにこじれてしまったのか、それとも表裏の使い分けを得意とする性格なのか、その辺の事情は分からないが、亀井志乃は、平原の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-3」の中で、次のように書いた。
《引用》
 
つまり平原副館長は、8月28日月曜日、バスで到着した団体客の前で、右腕の靱帯を傷め、前歯が欠け、顔面からも口中からも血が流れ出るほどの傷を負って(目撃していた職員談による)、即刻病院に運び込まれて治療を受け、同月29日・30日の2日間、文学館を欠勤していました。当然の帰結として、29日の朝の打合せ会(ミーティング)には出席してはいなかったし、それ故、私の言動に困惑することは出来るはずもありませんでした(中略)
 
そのようなわけで、もし平原一良氏が、あくまでも自分の陳述書(乙12号証)末尾にあるように「上記の内容に相違ないことを誓い」つつ、「突然ニセコ行きの話を持ち出した亀井に困惑した」と主張するならば、前日に顔面および腕を打撲して館を欠勤し、その後私に物わかりのよい上司としてメールを打っていた〈平原 一良〉と、火曜日朝のミーティングで私のふるまいに困惑し叱責したい衝動をこらえていた平原一良とは、どのようにして同一人物としてアイデンティファイすることが可能なのだろうか。もし29日の朝、平原一良氏が出勤していたとして、氏は文学館事務室のどのあたりに存在していたのだろうか。私は、この日、平原副館長の姿を見た記憶がない! そんなドッペルゲンガー・ミステリー的な疑問に囚われざるをえません。
 こうした私の疑問に対し、平原氏が合理的な説明をもって答えることはかなり大変なことと思いますが、平原氏が以上のように主張するからには、それなりの根拠があるのでしょう。ぜひ合理的な説明が聞きたいと思います
(18ページ1~22行目)

 亀井志乃としては、こうとでも書くしかなかったのであろう。他の場合ならば、見え透いた嘘! と笑って済ますこともできる。だが、裁判の証言に関しては、一つひとつ嘘を潰して行くより他はないからである。

○改めて寺嶋弘道のハラスメントを確認
 では、8月29日の出来事とは、具体的にどういうことだったのか。
 その頃、ニセコ町の有島武郎記念館が「有島武郎肉筆手紙展」という特別企画展(6月10日~9月3日)を行っており、亀井志乃は一度見学をしておきたいと考えていた。ところが彼女は、「石川啄木」展の主担当だった鈴木社会教育主事から、啄木展が終わる8月27日頃、釧路在住の啄木研究家・K氏より借用した金田一京助の色紙の返却に行って欲しいと依頼され、同氏に問い合わせたところ、9月1日(金)が都合がよいとの返事だった。そこで、彼女はその日に訪れる約束をした。
 有島記念館の企画展の終わりも近づいており、亀井志乃は釧路出張とニセコ出張(日帰りの外勤)が続くのを避けたいと考え、ニセコ出張を8月30日に繰り上げることにして、8月29日の朝の打合せ会で、以上のような事情を説明し、職員の了解を得た。
 
 ところが打合せ会が終わるやいなや、寺嶋弘道が自席から、「そのことは平原さんは知ってるの」と原告に質問した。しかしその日、平原副館長は先ほども述べたような事情で、休んで自宅にいた。そこで亀井志乃が「平原さんは知りません」と答えると、寺嶋は「平原さんが知らなければ、誰があなたに対して、そういう動きをしていいと承認するの」と問い詰め始めた。要するに寺嶋としては、なぜ俺にことわらなかったのだ、と言いたかったのだろう。
 しかし、財団法人北海道文学館においては、通常、展覧会の主担当が高額の出張旅費を要さない日帰り程度の出張をする場合は、朝の打合せ会で事前にその旨を告げ、出席者が特に文学館業務に差し支えないと考え、了解するならば、それで手続きが済んだことになっていた。この日以前、他の職員もそうしてきた。
 また、出張手続きについても、学芸関係の職員が出張を希望する場合、出張の概要を書いた「出張用務願」(特に書式は決まっていない)を業務課に提出し、業務課がその内容を見て問題ないと判断すれば、「分かりました」と受理する。業務課では、財団の書式である「旅行命令(又は依頼)簿 兼旅費概算(又は清算)請求書」に、職員が提出した「出張用務願」の内容に基づいて、Na主査が日程と経路から旅費を算出し、「用務」「用務地」「日程」「旅費」等の欄に必要な事項を記入して、原告に確認を求める。原告は確認して捺印する。これで出張手続きは完了するのである。
 それゆえ、出張の予定を告げた職員が、他の職員から「そのことについては事前に誰が知っているのか」と問われること自体、きわめて異例のことだった。亀井志乃が知っている限りでは、かつてないことであった。
 そして現に8月29日の場合も、川崎業務課長が、亀井志乃の予定を了解し、「それでは出張計画を出して下さい」と言った。ということはつまり、川崎業務課長がNa主査に対し、亀井志乃の出張計画に基づいて出張旅費の計算にするよう指示したことにほかならない。

 だが、寺嶋弘道はそういう慣例を無視して、「そういう動きは、前もって私に言うべきだ」とか、「私が学芸班内における動きをしらないというのはおかしい」と言い募り、亀井志乃が「では、どういう手続きを取ったらいいのか」と質問したところ、「手続きがどうのこうのという問題じゃない」、「組織で働く人間として、そもそもなっていない」、「スタンドプレーと言われないようにしなさい」と論点をずらしながら、亀井志乃に対する人格中傷の言葉を吐きかけ、亀井志乃がさらに「では、今回の出張に、私はこれから一体どういう手続きをとったら行けるのか」と質問を続けると、被告は結局、「行ってはいけないとは言っていない。行っていいんだ」という、投げ遣りで、無責任な言葉で怒鳴りつけた。
 
 平原一良は
「後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました。」と、見てきたような嘘を書いているが、実態は以上の如くであり、当然のことながら亀井志乃は「訴状」(平成19年12月21日付け)及び「準備書面」(平成20年3月5日付け)の中で、以上のような寺嶋弘道の嗜虐的な言いがかりを、人格権侵害行為の一つに挙げた。

○太田弁護士の相撲部屋リンチ的論理
 その訴えに対して、寺嶋弘道の代理人・太田三夫弁護士は次のように反論している(被告側「準備書面(2)5~6ページ。4月9日付け」
《引用》
 
原告は資料調査のため有島記念館へ主張(出張?)する計画を前日の打合せ会において初めて申し立てていることから、こうした突然の出張の申し出は事務の円滑な流れを妨げることになるので、被告はこの日の朝の打ち合わせ後、原告に対して事前に上司と相談しあらかじめ必要な協議を行い、命令を受ける必要がある旨指導したのであって、当然の行為であり、非難されるべきものではない。
 
 これは太田弁護士の作文だと思うが、彼に限らず、寺嶋弘道も平原一良も、亀井志乃が挙げた具体的な事実に関して、決して自分たちの側の証拠に基づいて反論しない。先に述べたごとく、亀井志乃が急きょ予定を変更せざるを得なかったのは、鈴木社会教育主事が
「突然」釧路まで行って来て欲しいと言い出したからであり、このことに関する亀井志乃の事情説明を他の職員は了解した。事務上の手続きも慣例通り順調に進むはずだった。それを妨害したのが寺嶋弘道だったのであるが、太田弁護士は「こうした突然の出張の申し出は事務の円滑な流れを妨げることになるので」と、事実のすり替えをやっている。
 しかも寺嶋弘道の嗜虐的な言いがかりを弁護する、太田弁護士の理屈に至っては、これはもう、若い力士の両太股がはれ上がるほど竹刀で折檻しておきながら、「あれは指導だったのだ」と開き直る、相撲部屋の理屈そのものであろう。
 
 これ以上は話題が逸れるので、ここでは指摘しておくにとどめるが、北海道教育委員会の職員たる寺嶋弘道も、北海道教育委員会に信用されているらしい太田三夫弁護士も、上記のごとき相撲部屋的な理屈の持ち主であること、この点はしっかりと確認しておきたい。
 それと同時に、先ほどの文章における
「事前に上司と相談しあらかじめ必要な協議を行い」「上司」が、もし寺島弘道を意味するならば、北海道教育委員会の職員たる寺嶋弘道と、北海道教育委員会に信用されているらしい太田三夫弁護士は、何のためらいもなく、北海道の公務員たる寺嶋弘道が民間人の亀井志乃の「上司」であったと強弁して、平然と地方公務員法違反を肯定是認していた。この点もしっかりと記憶しておきたい。

○平原一良の共犯的作文
 ともあれ寺嶋弘道と太田弁護士は、以上のように事実のすり替えとハラスメント肯定の理屈を述べ立てているのであるが、実は亀井志乃は8月29日の件について、平原一良に送った怪我見舞いのメールの中で、
結果的に事後承諾の形となり、申し訳ございませんでした」と謝罪し、平原一良は「余計な前置きはともかく、今回のことについては、どうかあまり気にせずに、と申し上げておきます」と返事を送ってきた。
 これを見る限り、平原一良副館長はまさしく物わかりのいい上司だったわけだが、それから1年半後、寺嶋弘道が告訴されたと分かるや、自分が8月29日に休んだことなぞコロッと忘れ(?)、掌を返すように、
亀井氏が『明日ニセコに調査のため出張に行ってきます』と切り出し、私を含むスタッフは困惑しました(中略)後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました。」と嘘を並べ立てている。この見事な表裏の使い別け。一つだけ共通しているのは、いずれも良識人ぶりっ子。これが平原流なのかもしれない。

 この嘘つき作文の後半は、先の引用した太田弁護士作文の後半と符節を合わせたごとくであり、多分平原一良は亀井志乃の「準備書面」(3月5日付け)を読まず、太田弁護士作文の「準備書面(2)」(4月9日付け)だけを読んで、いそいそと共犯的な作文に励んだのであろう。ただ、一つ違いがあるとすれば、寺嶋弘道の代理人・太田弁護士は何のためらいもなく、命令を受ける必要がある旨指導したのであって、」と断言しているが、平原一良は「アドバイス」と言い換える慎重さを残していた。
 しかしそれにしても、平原一良がそこまで寺嶋弘道を庇い立てする、いや、忠義立てする理由は、一体何なのだろうか。
 
○平原お得意の、匿名の「声」
 このように、平原一良の「陳述書」は、――この点は寺嶋弘道の「陳述書」も、太田弁護士の「準備書面(2)」も同様だが――どこを切っても嘘が顔を出してくる。金太郎飴はどこを切っても金太さんの顔が出てきて、これはこれで大変に結構なのだが、嘘のほうはほどほどにしておかないと、それこそ命取りになりかねない。その嘘の中で、これまた笑えてしまう例を、平原一良副館長の「陳述書」からもう一つ挙げてみよう。
《引用》
 しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏の在り方について「異義あり」の声の届く頻度が高くなりました。博士号を有する研究者としてのプライドを備えた同氏への妬視が含まれていると判断し得る声もありましたが、必ずしもそうでないケースも認められました。ともかくも、常設展示リニューアルと道立文学館開館10周年記念行事を控えた大事な時期でしたから、そうした声を届けてくるスタッフを諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労した記憶があります。
 
常設展示のリニューアル作業が進む過程の大詰めの時期においては、学芸・業務両課スタッフ総動員で展示設営をこなし、同氏も最終段階では展示室での作業に加わるなど、積極的な参加の姿勢が見られました(2ページ12~20行目)
 
 ほらまた出てきた、
複数の女性スタッフから、同氏の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高くなりました」という曖昧な思わせぶり。平原一良や寺嶋弘道が匿名の「声」を利用する時は、嘘を吐き始める兆候であるが、まず簡単に事情を説明しておくならば、平成17(2005)年11月2日(水)に、北海道立文学館の開館10周年記念行事を開催され、その一環として、常設展をリニューアルすることとなった。彼が言う「リニューアル作業」とは、このことを指すのであろう。その主担当は平原一良学芸副館長(当時)であり、副担当が亀井志乃だった。

○常設展リニューアルに関する亀井志乃の担当
 この事務分掌に関連して、亀井志乃は、平原学芸副館長から
「見直し部会の先生方(協力者)から送られて来る見直し案をもとに、「常設展示『北海道文学の流れ』更新案」の年表を作成して欲しい」と依頼され、作業にとりかかった。見直し案は6月前後からぽつりぽつりと各所より届く程度であったが、亀井はそれらを詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表としてまとめた(甲86号証)。作業進行の過程では、そのつど平原学芸副館長にも目を通してもらった。
 また、平成17年春頃、亀井志乃は、リニューアルにともなって各コーナーのキャプションを日本語英語の二カ国語表記にしてはどうかと思い立ち、平原学芸副館長に提案した。学芸副館長もその時点では快諾し、英文は亀井が下書きすること・文章のチェックは「平原学芸副館長が知り合いの、大学の英語の先生にお願いする」ということに話がまとまったので、亀井は他の作業の傍ら、自分の作業を進めた(
甲87号証)。
 その他にも亀井志乃は、開館10周年記念行事の一環として、道内の文学碑に関するデータベース作りを割り当てられており、各町村にデータ収集の協力を依頼する一方、自分でも文学碑の写真を撮りに出かけ、11月2日までに、750近い文学碑のデータを検索可能な状態に整理し、併せて『ガイド 北海道の文学』(北海道立文学館、平成17年11月2日)に掲載した。
 もし平原一良が言うように、
複数の女性スタッフから、同氏の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高くなりました。」とすれば、それは以上のような亀井志乃の仕事ぶりに関してだと思うが、一体彼女の仕事のどこに「異議あり」という声を挙げさせる要因があったのか。平原一良は全く説明していない。
 
○平原一良にも反論のチャンスあり
 亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)-3」において、以上のように証拠物を挙げて事態を説明しておいた。
 次回の公判は7月9日(水)の午後2時に開かれる。第4回公判の5月23日から1ヶ月半ほど時間を取ることになったが、太田弁護士署名の「準備書面(2)」に対する亀井志乃の反論「準備書面(Ⅱ)-1」はA4版で49ページ、寺嶋の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-2」は46ページ、平原の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-3」は39ページとなり、合計すれば400字原稿用紙480枚ほどになる。証拠物は150点を越えた。
 5月23日の公判は、亀井志乃の証拠物の原本調べが終わらないうちに予定の時間が過ぎてしまい、田口紀子裁判長は「次回はもっと時間を取るように致します。原告の準備書面がかなり大部なので、じっくりと読ませていただくことにします」と言って、1ヶ月半ほどの余裕を取ることにしたのである。
 太田三夫弁護士も「私のほうも、新しく反論を出すかどうかの検討を含めて、じっくりと読ませてもらいます」と言った。田口裁判長は、「では、反論を出すことになるようでしたら、1週間前の7月2日までに裁判所に届けて下さい」。
 
 そんなわけで、平原一良にまだ言い分があるならば、反論を出すチャンスがある。ただし、亀井志乃のように証拠物に裏づけられた主張を書く必要があるだろう。

○またまたセカンド・ハラスメント
 ただし、先に引用した平原一良の文章の問題はまだ終わらない。
 平原一良は、亀井志乃が平原から依頼されて作った「詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表」を、結局握りつぶしてしまった。
 平原一良は、亀井志乃が用意した英文キャプションについて、リニューアルオープンを間近に控えた同年10月16日(日)、突然、「英語チェックをするはずだった先生は、ご家庭内に事情が生じたため、チェックは出来なくなった」と言って、キャプション作成作業を中止させてしまった。
 平原一良は、亀井志乃がリニューアルオープンに間に合うように作った、文学碑データベース作成には全く言及せず、黙殺している。
 つまり、常設展リニューアル作業の最終段階まで、亀井志乃は何もしていなかったと印象づけて、
複数の女性スタッフ……『異義あり』の声」にリアリティを与えようと、事実の隠蔽を行っていたのである。

 これは寺嶋弘道が亀井志乃の翻刻実績を無視して、文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え」と決めつけた(前回参照)と同じセカンド・ハラスメントであるが、平原はそれに加えて、博士号を有する研究者としてのプライドを備えた同氏への妬視が含まれていると判断し得る声もありましたが、必ずしもそうでないケースも認められました。」と、どのようにでも言い訳が出来る逃げ道を用意しながら、鼬の最後っ屁みたいな嫌味を語っている。

 その理由は分からないでもない。昨年の労働審判の時、平原一良副館長をはじめ、財団の幹部職員は、「要するに亀井志乃はアルバイトに毛の生えた程度の仕事しかしなかった。契約期間が終わるので、次年度からの仕事はないと通告しただけで、違法性はない」という理屈を立て、自分たちの正当性を主張した。ところが労働審判委員会が、亀井志乃は課程博士の学位を有し、実務経験も2年以上持つ、高度な専門性を備えた嘱託職員だったと判断した。そのため、――それだけが理由ではないが――平原たち財団側の主張はあっさりと退けられてしまった。
 そこで平原は方針を一転し、亀井志乃を、〈博士の学位を鼻にかけ、研究者的エゴイズムに凝り固まって、周囲の人たちから浮いてしまった人間〉と描くことにしたのであろう。一見中立的な見方を装いながら、
他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。しかし、困った行動ではあるが一部の研究者にはありがちなことだと私は思い、あえて同氏に注意を促すことは控えました。(3ページ2~5行目)とか、いま顧みると極めて非常識な行動であり、自らの業績を顕示したいとの欲求を抑制できない人物には、十分にあり得る出来事だったと思わざるを得ません。(7ページ1~3行目)とか、繰り返し亀井志乃の非常識を印象づけ、裁判官に対するサブリミナル効果を狙うことにしたのである。
 嘘で固めた「陳述書」の中に、こういう人格非難的な言葉を書きこんでゆく。そういう書き方自体がセカンド・ハラスメントであること、言うまでもない。
 
○またしても笑える話
 ただし、先ほど引用した平原一良の文章にも、思わず笑えてしまう嘘がないわけでなく、それは
「リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから」という個所である。
 平成17年度の夏から秋にかけて、亀井志乃は先に紹介したような仕事をしていたわけだが、主担当の平原一良に関する部分ではほとんど全く動きがなかった。
 まずその発端から辿ってみれば、早くも平成16年12月22日(水)に、常設展示見直し部会(第1回)が開かれ(
甲85号証 部会資料抜粋)、平原一良学芸副館長(当時)が中心となって参加者に趣旨説明をしたが(甲85号証より、 「常設展見直し部会の皆さまにご協力いただきたい事柄」)しかし、見直し部会はこの1回きりで、その後、二度と再び開かれることはなかった。
 
 平成17年度に入っても、具体的な常設展プロジェクトは何も動かず、亀井及びH学芸課長(当時)・Ko業務主査(当時)がしばしば平原学芸副館長に進捗状況を問い合わせたが、いつも「○○先生からの展示案がまだなので、僕から連絡しておくからちょっと待って」等という返事が戻って来るだけであった。見直し部会も開かれなかった。
 9月17日(土)に平原学芸副館長から、常設展の内照パネル(内側からライトで照らすタイプのプラスチック写真パネル)に使う写真数枚に関する指示が出(
甲88号証)、同月22日に漸く常設展の具体的な準備が始まった(甲84号証)。しかしその時も、亀井に、内照パネルの写真に合うような文学作品のテキストを抜粋しておくよう指示が出ただけだった。
 そして9月29日(木)の課内打合せで、やっと展示替えの作業分担案が平原学芸副館長から示された
甲80号証「常設展示室替えに関わる作業と分担について」及び「常設展示室 展示換え作業について」)。
 
 実際の動きはこのように鈍く、とうてい
「リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから」などと言える状態ではなかったのである。
 平原一良はこの
「夏ごろ、何をやって「佳境を迎え」ていたのであろうか。

○平原一良の凄まじい欠勤、遅刻、早退
 以後、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)-3」の中で、自分の記録に基づいて整理した常設展リニューアルまでの動きを追ってみよう。なお、平成17年度の亀井志乃の出勤日は水、木、土、日であった。
 
 10月4日(火)に常設展示室がクローズとなり、展示設営が開始されることとなった。この月、職員勤務割振(
甲89号証)で予定されていた学芸副館長の勤務日は21日間だった。だが、この頃、平原学芸副館長は図録『ガイド 北海道の文学』の執筆編集を理由にして、道立文学館に出勤しないことが時々あり、出勤日にも勤務時間中フルにいることは少なかった。現場への指示も滞りがちだった(以下の記録は、甲90号証 2005年度原告手帖の記述に基づく)。
10月 5日(水)平原学芸副館長が午前は外勤、午後は会議だったため、課内打合せ延期。
同  8日(土)平原学芸副館長、3時頃に一旦出勤してすぐにまた退出。H学芸課長打合せ出来ず。
同  9日(日)平原学芸副館長欠勤。指示来ず。学芸課作業停止。
同12日(水)平原学芸副館長・H学芸課長・O学芸員(当時。平成18年度は司書)・亀井の4人で作業打合せ。しかし、学芸副館長とO学芸員が話を前へ進めないので、途中から学芸課長が進行役をつとめる。
同15日(土)平原学芸副館長、サードワーク(検索機業者)にアポイントを忘れていたので、代わりに亀井が連絡をとる。
同16日(日)亀井、学芸副館長より「英語チェックのK先生、家庭の事情で×」と告げられる。英語キャプション作業実質停止。(前述)
同18日(火)亀井、非出勤日。A司書(当時。平成18年度は学芸員)より「みんな少し壊れてきています」(作業進捗しないため)との携帯メール受ける(
甲91号証)。
同19日(水)学芸副館長午前中休み。午後から出勤するも、「短歌・俳句の出品リストが先生方から来ていない」との理由で作業停止。
同20日(木)学芸副館長外勤、出勤は夕方。朝、「今日の展示作業はストップ」とH学芸課長に指示あり。
同22日(土)学芸副館長、午前11時頃に出勤。鈴木社会教育主事に「今日は特に常設展の動きはなし」と指示。
同23日(日)学芸副館長欠勤。「自宅で図録の校正をする」と連絡。
同26日(水) 学芸副館長、午後3時前頃に出勤。学芸課職員、この日はじめて、学芸副館長より展示壁面設計を渡される。学芸副館長は、図録校正で徹夜した事を理由に午後4時半に帰宅。
同27日(木)学芸副館長、午前10時前に昌文堂(業者)と打合せ予定。しかし遅刻。
同29日(土)学芸副館長、昼前頃出勤。常設展の指示を出して夕方前に帰宅。
同31日(月)この日は休館日だったが、現場の状況があまりにも切迫していたため、亀井も出勤。亀井がデータを作成した文学碑検索機、サードワーク(業者)により常設展示室に設置。サードワークO氏は午後1時に文学館に到着、しかし学芸副館長は45分の遅刻。また、O氏・亀井と共に検索機を試用した平原学芸副館長は、O氏の前で「まぁ、こんなもの、こけおどかしだけどな。じいさまたち(北海道文学館理事ら)が喜ぶんだよな」と発言。
11月 1日(火)展示準備最終日。亀井はこの日は非出勤日だったが、出勤して展示設営を行った。亀井は午後9時まで、他の職員は午後11時まで残って作業にあたった。学芸副館長は時折現場に来て指示を出していたが、夕方からは小説家の吉村昭氏を出迎えにゆき、そのまま接待にあたり、直帰した。

 こうして道立文学館は、翌日の11月2日、開館10周年記念のセレモニーを迎えたのである。

○平原一良は一体どこで何をやっていたのか?
 分かるように、リニューアル作業が「佳境」に入ったのは平成17年夏頃ではなく、リニューアルオープン直前の10月26日からだったのである。
 しかも当時の平原一良学芸副館長の出勤状況は変則的であり、10月4日から11月1日までの間には、欠勤・遅刻・早退した日がきわめて多かった。
 だがその間、亀井志乃は、水・木・土・日の勤務曜日にフルに出勤し、他の学芸職員とも携帯メールで緊密に連絡を交わしながら(
甲91・92号証 A司書メール)、準備作業および現場作業を手伝っていた。平原学芸副館長の代わりに外部業者との連絡・応対に当たることもあった。10月31日(月)・11月1日(火)は、現場の状況があまりにも切迫していたため、休日出勤して作業に当たった。通常は嘱託職員の時間外勤務についてチェックが厳しい業務課職員も、この時ばかりは亀井志乃の休日返上や時間外勤務について異論をはさまなかった。
 
 平原一良のすさまじい「働きぶり」であるが、さすがの彼も、亀井志乃が休日と非出勤日を返上し、残業までした事実を隠すことはできなかったのであろう。
常設展示のリニューアル作業が進む過程の大詰めの時期においては、学芸・業務両課スタッフ総動員で展示設営をこなし、同氏(亀井志乃)も最終段階では展示室での作業に加わるなど、積極的な参加の姿勢が見られました。」
 しかし平原さん、あなた自身はこの時期、一体どこで何をやっていたのですか?
 
 亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)-3」で、次のように書いている。
《引用》
 
当時の実態は以上の如くです。それゆえ、平原現副館長の記すところの「リニューアル作業が佳境を迎える」頃に「複数の女性スタッフから、同氏(亀井氏)の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高く」なったのは、夏ではなく同年10月以降(正確には26日以降)のはずです。また、平原学芸副館長(当時)が「そうした声」を受け、猛忙を極めていたはずの「スタッフ」を「諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労」していた場所は、実際の状況に即すれば、道立文学館内であるという可能性はきわめて低い。とするならば、外勤先か、あるいは平原氏の自宅においてだったことになるわけですが、その点は極めて曖昧です。
 もし、平原現副館長があくまでも「上記の内容に相違ないことを誓います」(
乙12号証末尾)と主張するのであれば、平原氏自身の記録と書証に基づいて、正確に、いつ、誰から、どのようなシチュエーションにおいて、私に対する「異議あり」の声が平原学芸副館長(当時)に届いたのかを明らかにしなければなりません。それが出来ないならば、平原氏は根拠の曖昧な不特定の人の風評に基づいて、私の人格を貶めたことになります(7ページ31行目~8ページ7行目)

 こうしてみると、どうやら平原一良さん、あなたが言う「複数の女性スタッフの『異議あり』という声」は、亀井志乃が休日や非出勤日を返上して働き、残業までしたことに対する非難だったことになりそうですが、実際にそういうことがあり得たのですか。
 それにもう一つ、平原さんが言う「佳境」とは、複数の女性スタッフを諌めたり、なだめたり、落ち着かせることであったらしい。大変な「佳境」でしたネ。

○平原一良の立証責任
 ところが、平原一良は「陳述書」でこんなことも書いている。
《引用》
 
(亀井志乃が主担当だった)企画展『二組のデュオ』の展示準備は学芸スタッフばかりでなく業務課のスタッフの手も借りて進められました。直前まで展示パネルが仕上がっていませんでしたし、キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことでオープンに漕ぎ着けたのです(6ページ21~22行目)
 
 あれっ?! 平原は一体誰のことを書いてるんだ。
 平原は、寺嶋弘道が妨害的に『イゴーリ展』を割り込ませて、『二組のデュオ』展の準備を遅らせたことなど?(おくび)にも出さずに、ぬけぬけとこんな嘘を書いているわけだが、亀井志乃も呆れたらしく、
私はこの箇所を、平成17年度の常設展リニューアル作業における平原氏自身のパロディとして読んでしまいました(「準備書面(Ⅱ)-3」)と書いている。
 しかし笑って看過してはならない。これが裁判の鉄則であって、少なくとも亀井志乃は
「キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことで」に関して、平原に事実の証明を求める権利があり、平原はそれに答える責任がある。
 
 ここは、少し長いが、亀井志乃の反論を紹介しよう。
《引用》
 
私は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していました(甲75号証の1)。人物紹介や作品解説のテキストも、パソコンへの打ち込みは完了していました。そして、それらのテキストを、解説パネルやコーナーサインにも流用しています。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと、私があらかじめ配慮したからです。それ故に、図録のキャプション及び解説と、実際の展示で使用されたキャプション(カード)及びパネルの解説とは、ほとんど同じ内容となっています(甲75号証の2・3参照)。写真図版にしても同様です。図録で用いられた写真と展示写真とは、サイズが違うだけで、全く同一の画像です。
 
また、私は、平成19年2月8日以前の段階では、展示設計もほぼ終えていたし(甲74号証参照)、キャプションもすでに刷り上がっていました。キャプションもコーナーサインも、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるばかりとなっていました。
 
ですから実際には、「直前まで」(これも、平原氏はいつの時点を指して言っているのか不明ですが)「展示パネルが仕上がっていませんでしたし」ということはありませんでした。第一、すでに同年1月18日にアイワードに入稿してしまっているキャプションについて(甲48号証の2参照)、「学芸スタッフ」が改めて「打ち込み」を「手伝」ったという説明もリアリティに欠けています。仮に万が一キャプション(カード)作成作業が遅れていたとしても、デジタルテキストさえ手元にあれば、それをそのまま刷り出す方が、改めて「打ち込み」をするよりはるかに早く出来上がるはずだからです。
 もし平原氏が、あくまで「亀井の担当展覧会は作業
が大幅に遅れ、パネルもキャプションもほとんど他の学芸スタッフが作ったようなものだ」と主張するのならば、当然私が作成・準備していた図録原稿と実際の展示キャプションは大きく相違するはずなので、その違いを指摘する必要があります。
 展覧会で作成・使用した展示キャプションとパネルは、現在、北海道立文学館2階の機械室の奥にすべて保管されています(どの展覧会においても、文学館内で作成・使用されたパネル類は保管される)。それらのテキストと図録のテキストとをひき較べれば、同一人物または同一コンセプトのもとで作成されたか、それとも多くの人の手が加わった雑多な性質のものなのか、一目で分かります。平
原氏はその方法で、自説の真実性を簡単に証明することが出来るはずです。
 
なお(中略)図録校正は2月14日に終わっていました。校正刷りは、それ以前に、とうに回収されて印刷所に渡されていました。製本された図録が納品されたのは展覧会オープン当日の2月17日のことです。この事実から分かるように、平原氏や被告(寺嶋弘道)が主張するごとく、もし私が徒らに作業を遅らせるばかりで、パネル作成も何もせず、しかも他の職員を残して早帰りするほど非協力的だったとするのならば、他の「学芸スタッフ」が図録原稿どおりにテキストを打ち込むことは、まず不可能に近かったはずです。平原氏は、この点を十分に勘案した上で、自説の合理的な説明を試みられたい。どのような説明が得られるか、私は期待して待っています(33ページ7行目~34ページ6行目)

 亀井志乃はこのように平原一良の反論を待っている。
 前にも言ったように、亀井志乃が5月14日に裁判所に提出した「準備書面(Ⅱ)-1」、「準備書面(Ⅱ)-2」、「準備書面(Ⅱ)-3」は、その写しが、150点を越える証拠物と一緒に、太田三夫弁護士を介して、平原一良にも渡っているはずである。反論を7月2日に裁判所に届けるまで、十分に時間はある。
 平原一良に求められるのは、言い訳ではない。自分の証拠物に基づいて亀井志乃の主張を覆し、平原自身の「陳述書」が真実のみを述べていたことを証明することである。それが出来なければ、平原一良は「陳述書」で偽証した事実が残ってしまう。
 いや、それだけでは済まないかもしれない。太田弁護士は平原一良や寺嶋弘道の「陳述書」を、裁判の「証拠物」として提出した。ここは私自身、もう少し研究しなければならないのだが、「証拠物」がこれだけ嘘に満ちている以上、これは証拠の捏造になるのではないか。もしそうなれば、偽証の上に証拠の捏造という罪が重なるわけである。

 平原一良はそれだけの覚悟をもって、平原自身の「陳述書」が真実のみを述べていたことを証明する反論を書かなければならないわけだが、まず北海道立文学館2階の機械室の奥に保管されているという展示キャプションとパネルと、『人生を奏でる二組のデュオ』展の図録における亀井志乃のキャプションとの比較から始めるべきだろう。
 平原一良としては二度と見たくないかもしれない。
 だが、ひょっとしたら、運よくそのパネルに、「有島武郎はロンドンでホイットマンと会った」という意味のキャプションが載っているかもしれないではないか。呵々。

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北海道文学館のたくらみ(34)

雉も鳴かずば撃たれまい(中―3)

○「指示」と「依頼」の間
 ところで、さて、寺嶋学芸主幹が平成18年4月13日に作ったと主張する「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日付け)と、実際には既に平成18年の3月中に出来ていた「平成18年度 学芸部門事務分掌」との違いに関する、亀井志乃のかかわりはどうであったか。今回はその点を手掛かりに、寺嶋弘道と平原一良の嘘の吐き方を検討してみたい。

 寺嶋弘道はその「陳述書」の中で出席者は私を含む駐在職員3名、原告(亀井志乃)を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名」の打合会によって、「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日付け)が決まったと主張したわけだが、亀井志乃はこの日は非出勤日で文学館には出ていない。もちろん寺嶋が言う打合会は知らなかった。このことは前回、指摘しておいた。
 翌日の4月14日、亀井志乃が出勤したところ、10時30分頃に、平原学芸副館長に呼ばれた。部屋に入ると、寺嶋弘道学芸主幹が同席している。
 平原学芸副館長はその場で、――のちに寺嶋弘道が大嘘を吐くことになるとは予想もせずに――「昨日、課内での話し合いがあったので、今日はその『おさらい』として亀井さんにも伝える」という意味のことを言い、事務分掌の中の「新刊図書の収集・整理・保管に関すること」を手伝って欲しい、と言った。
 亀井志乃の記憶によると、平原一良という人間はこういう場合、決して「手伝うように」と指示を出したり、命令を下したりする言い方はしない。つまり、後でそのことが問題になった時は「私は命令したわけではない」とか「指示を与えたわけではない」と言い抜けることができるように、あくまでも「依頼する」といったニュアンスの言葉づかいで仕事を言いつける。
 ただし亀井志乃としては、他の職員の仕事を手伝って欲しい、手を貸してやって欲しいと頼まれて、これを否む理由はない。嫌がる理由もない。ただ、少々怪訝な気がした。

○閲覧室勤務の事情
 この時亀井志乃の頭の中にあった事務分掌表は、もちろん3月段階で出来ていた「平成18年度 学芸部門事務分掌」のほうであって、――4月14日には平原も寺嶋も「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日付け)を亀井志乃には渡さなかった。そういうものが新たに出来たとも言わなかった――その「収集保管」分野の項目と担当者は次のようになっていた。
 
4、新刊図書の収集、整理、保管に関すること(主担当はA学芸員、副担当はO 司書)
5、古書、寄贈図書の収集、整理、保管に関すること(主担当はO司書、副担当はA学芸員)
6、特別資料の収集、整理、保管に関すること(主担当はA学芸員、副担当はO司書)
7、著作権の管理に関すること(主担当はO司書、副担当は寺嶋学芸主幹)

 つまり、亀井志乃は「4」に関する業務を手伝って欲しいと依頼されたわけだが、平原学芸副館長は、亀井志乃に依頼する理由として、「O司書にはキャパシティとアビリティの問題があるから」と言った。
 亀井志乃は自分が閲覧室勤務に就くようになった経緯を説明する証拠物として、この前後の日記を裁判所に提出したが、その日記に平原のこの言葉がメモされている。平原のO司書に対する侮辱とも言える言葉に強い印象を覚えたのである。
 
 そして4月18日(火)、亀井志乃は「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日付け)を渡されたわけだが、その「収集保管」の分野には、次の二つが追加されていた。別の言い方をすれば、3月段階の「平成18年度 学芸部門事務分掌」と、4月13日に決まったと寺嶋が言う「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日付け)との違いは、後者に次の2項目が追加されただけであり、言わばO司書とA学芸員と亀井志乃の仕事が増えただけなのである。

※ 購入図書情報の収集および選書に関すること(主担当はO司書、副担当はA学芸員)
※ 定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること(主担当はA学芸員、副担当は亀井志乃)

 このような経緯があって、亀井志乃は年度当初の予定になかった、新刊図書の収集・整理・保管というO司書とA学芸員の毎日のルーティンワークの一部を肩代わり(具体的には寄贈雑誌のデータベース登録作業)することになった。更には、以上のような変更との絡みで、結果的には、閲覧室における来客対応をA学芸員・O司書との3交代で手伝うこととなったのである。

○平原一良副館長の大ポカ
 ところが、平原一良は次のような大ポカをやってしまったのである。
 平原一良の記述によれば、平成17年11月2日に常設展示室をリニューアルオープンした頃、亀井志乃について、好ましからぬ噂を聞くようになったという。
《引用》
 
ただ、学芸課内での分掌をめぐって、同氏に委ねた寄贈資料の開封整理作業や閲覧室番業務(ローテーションに従い複数で担当)に不満を覚えているとの話は、一部学芸課員から耳にしていました(3ページ18~20行目)
 
 彼もまた寺嶋弘道と同様、「一部学芸員」などと曖昧で思わせぶりな書き方をしているが、いま指摘したいのはそのことだけではない。もう一度言えば、平原はここで平成17年度、つまり寺嶋が美術館から文学館に異動してくる前の年度のこととして、亀井志乃の勤務ぶりを上のように書いたのである。
 しかし、平原一良には気の毒だが、亀井志乃はこの年度は「閲覧室番業務」に就いてはいなかった。就いてもいない業務について「不満」を語るなんて、そんな器用なことができるはずがない。もっと正確に言えば、平成17年度に亀井志乃は「閲覧室番」の勤務に就いていなかっただけではなく、そもそも誰も「閲覧室番」の勤務には就いていなかったのである。
 
 亀井志乃の手元にある「2005年度学芸課事務分掌(案)」という文書をみると、「閲覧室運営に関すること」という分掌があり、A司書(当時、平成18年度は学芸員)が主担当に、H学芸課長(当時)が副担当に当てられていた。だが、A司書は図書の登録作業に追われ、H学芸課長は特別企画展一つと、企画展を二つ抱えて、閲覧室は事実上、無人状態だった。ただ、全くお客様に対応できないということがないように、学芸職員がいない時は、ロビーの受付職員(道から派遣された業務主事4名)が、合間を見ては、何とかカバーをしてくれていた。
 H学芸課長はそのことに責任感を覚えていたのであろう。平成17年度一杯で他の部署(道教委の)に転出するに当たって、「引き継ぎ事項について」という文書を残していったが、その中で次のような問題点を指摘していた。
閲覧室対応:現状は無人であり、必要時に内線電話を受けて職員が赴くという形になっている。しかし、4月(平成18年)より1階ロビーが完全無人化となり、来館者へのサービス(含・コピー料金支払い)という観点で考えると、職員が常駐すべきであると考えられる。資料の窃盗、PCへのいたずらなどを考えると現状は危険であり、早急な対応が望まれる。(中略)なお、無人状態は試行的にH14から始めたものであり、以前は昼休みを含め職員が常駐していた。」
 分かるように、平成17年度の「閲覧室番業務」は亀井志乃が就いていなかっただけでなく、誰も就いてはいなかったのである。H学芸課長の上のような指摘を受けて、平成18年度にはO司書(主担当)とA学芸員(副担当)が閲覧室勤務に就くことになった。それを亀井志乃が手助けすることになったのである。

 平原一良が亀井志乃の閲覧室勤務の年度を1年繰り上げてしまったのは、単なる物忘れか、それとも「亀井志乃は「不満」を口にしやすい性格であって、それが早くも平成17年度から現われていた」ことを仄めかす、意図的な操作だったのか、その理由は分からない。ただ、いずれにせよ、亀井志乃を貶めるためにはなりふり構わず嘘を吐いていたことだけは明らかであろう。

○「与謝野晶子百首屏風」の翻刻
 平原一良はもう一つ、平成17年度、亀井志乃が「寄贈資料の開封整理作業」という事務分掌を担当し、これにも「不満」を抱いていたかのように書いている。だが、これも真っ赤な嘘であって、そもそも「2005年度学芸課事務分掌(案)」に「寄贈資料の開封整理作業」という項目はなかった。平原は多分、各年度の分掌表を確認することもなく、うろ覚えで「陳述書」を書いたのであろう。先の引用文で彼が書いているのは、常設展示のリニューアル作業が済み、平成17年11月2日に道立文学館10周年記念行事が行われた時期のことなのであるが、その頃亀井志乃が取り組んでいたのは、与謝野晶子百首屏風の翻刻だった。
 
 「与謝野晶子百首屏風」というのは、平出修(作家・弁護士。大逆事件で幸徳秋水の弁護を引き受けた)の後輩にあたる人物が、平出の所持していた屏風を買い取り、それを北海道立文学館に寄託してくれたのである。文学館は開館10周年記念行事の一環としてその屏風を常設展示室において一般公開し、その後、同年12月17日に研修室(1階和室)に一時的に収納することになった。
 屏風はそれまで未公表・未公開のものであり、晶子の直筆で103首の短歌が散らし書きされているが、その筆字は所持者によっても、文学館の職員によっても、未だ解読されていなかった。平原一良学芸副館長(当時)は屏風を収納する際、「屏風はいったん展示から引き下げるが、寄託して下さった方の厚意に応えるためにも、字はきちんと解読し、その上で改めて展示し直さなければならない」と、亀井志乃に解読・翻刻作業を依頼した。当時は亀井志乃がもっぱら肉筆資料の解読や翻刻に当たっていたからである。
 そこで亀井志乃はデジタルカメラでその全表面を撮影し、外勤で藤女子大学図書館に通い、しばしば現物の屏風そのものも参照しながら、約3ヶ月かけて103首の与謝野晶子短歌すべてを解読し、あとは、その研究内容の発表をどのような形で行うかを決定するだけというところにまで、作業を進めて行った。
 亀井志乃はこのような作業が嫌いでなく、むしろこういう仕事ができることを文学館で働く楽しみの一つとして、喜んで翻字をやっていた。「不満」を口にすることなど、思いもよらぬことだったのである。

 そして、その作業がほぼ終わった頃に年度が変わり、4月1日(土)に寺嶋弘道が顔を出した時は、A学芸員(17年度までは司書)と一緒に館内を案内し、「与謝野晶子百首屏風」についても説明して、これから再公開する必要がある旨を告げておいた。その数日後、亀井志乃は事務室で、平原一良に作業の進捗状態を説明して、屏風の小冊子(パンフレット)案を記した書類を渡した。その時は寺嶋弘道も平原学芸副館長のそばにおり、当然のことながら亀井志乃と平原とのやりとりを聞いていたはずである。

○握りつぶされた成果
 ところが、「与謝野晶子百首屏風」の件は、その後、平原と寺嶋によって完全に無視された形となり、そして屏風自体、いつの間にか、亀井志乃に一言の連絡もなく、梱包されて収蔵庫にしまい込まれてしまった。
 つまり、亀井志乃の翻刻の成果は握りつぶされてしまったわけだが、それだけではない。寺嶋弘道は「陳述書」の中で次のように書き、亀井志乃を非協調的で、怠慢な人間として印象づけようとしたのである。
《引用》
 
今般の訴状において、原告が自分の業務成果として記している第(5)項の企画展「人生を奏でる二組のデュオ」はそのうちの一業務にすぎず、担当者として主体的に取り組まなければならない主担当業務だけを取り上げても、第(6)項の収蔵目録・報告書の発行、および第(8)項の文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、平成19年3月に当館を退職しているというのが実情です(3ページ15~20行目)
 
 寺嶋弘道はここでもまた真っ赤な嘘を吐いている。第一に、亀井志乃は「訴状」の中で自分の業務成果を挙げたりはしていない。なぜなら、前回にも言ったように、今度の裁判の争点は、北海道の公務員である寺嶋弘道が、駐在先の文学館において、民間の財団法人で働く市民の亀井志乃に対して名誉毀損や業務妨害のハラスメントを繰り返したことにある。それ故亀井志乃の「訴状」と「準備書面」は、寺嶋弘道の行為事実の確定と、その違法性の指摘に集中していたからである。
 
 ただ、彼がうっかりこう書いてしまった動機は、分からないでもない。
 彼は文学館に着任して最初に手掛けた写真家の綿引幸造の展覧会(4月19日~6月4日)のポスター作成でポカをやり、300枚を刷り直した。4月の11日と12日、彼は主担当の鈴木社会教育主事とあたふたと走りまわり、そして彼の主張によれば、翌13日に
「私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名」で打合会を開き、2時間も議論したことになっているが、少なくとも原告(亀井志乃)が出席していたというのは大嘘である。
 続いて彼は、「石川啄木展」(7月22日~8月27日)の副担当だった亀井志乃を押しのけて、自分が主担当の鈴木社会教育主事と準備を進めてしまい、早くも5月12日の段階で、啄木展の当初予算(3,712,000円)を大幅に超過する支出をしてしまった。彼はこのことを、亀井志乃の「準備書面」で指摘されて、ポスター作り直しの件については、彼自身の「準備書面(2)」(亀井の「準備書面」に対する反論)のなかで、「増刷り」などと言葉のすり替えをやっていた。だが、「増刷り」とは完成したポスターを追加印刷することである。綿引幸造からクレームがつき、慌てて作り直したのとは意味が違う。
 こんなふうに彼は、実にキメ細かく嘘を吐いているわけだが、ともかく彼は、亀井志乃から痛いところを衝かれ、苦しい言い逃れを考えていた。そうこうしているうちに、たぶん彼は、亀井志乃の「二組のデュオ展」の業績によって自分が追い詰められている錯覚に陥ってしまったのであろう。
 
 だが、それはともかく、寺嶋が吐いた第二の嘘は、亀井志乃が「与謝野晶子百首屏風」を翻刻したことを無視、黙殺したことだけではない。亀井志乃が「人生を奏でる二組のデュオ」展に伴って刊行した図録(2007年2月17日)においても、未発表の書簡資料10点を翻刻し、また、これまで部分的にしか紹介されていなかった書簡資料3点の全文翻刻と、全集未収録の有島武郎の書簡1点の翻刻も行った。寺嶋弘道はこの事実もまた無視、黙殺して、
確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、」と決めつけたのである。

○寺嶋弘道のセカンド・ハラスメント
 寺嶋弘道は自分が主担当だった「池澤夏樹展」では、『koyote』という市販雑誌の池澤夏樹特集号をまとめ買いして、これを図録に代えるという、姑息なやり方でお茶を濁してきた。そんな引け目も手伝って、亀井志乃がA学芸員の協力を得て作成した『人生を奏でる二組のデュオ』という図録を開いてみる勇気がなかったのだろう。
 ただ、その動機が何であれ、他人の業績を無視し、黙殺して、業績などなかったことにしてしまうことは、それもまたハラスメントなのである。先に引用したごとく、彼は、平成18年度に彼が亀井志乃に対して繰り返し行ったハラスメントを誤魔化すために、亀井志乃はやるべきことをやらなかったという言い方で、彼女の成果を無化してしまった。これは裁判の過程で加えられた、新たなハラスメント、すなわちセカンド・ハラスメントと言うべきであろう。
 
 それに、寺嶋弘道は、自分が主担当だった「池澤夏樹展」の「実施報告書」を未だに出していない。実施報告がないまま、もう2年近く経っている。一体どういうつもりなんだ。そういう自分の手落ちを隠して、
確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え、平成19年3月に当館を退職しているというのが実情です」と亀井志乃を決めつける。これは「顧みて他を言う」類の、最も恥ずべき行為と言わねばならない。

○「批難」したのは誰か
 では、寺嶋弘道が亀井志乃の閲覧室業務をどう見ていたか、次にはその点を確認しておきたい。
《引用》
 
前年度までの仕事が主に別室で進められていたという習慣もあってのことか、原告は18年4月以降も事務室内の学芸班の自席で執務することが少なく、そのため職員との会話の機会もまばらであったという日常でしたが、やがて同年の夏頃には原告(亀井志乃)の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました(6ページ20~23行目)
 
 この文章の前半もこれまた真っ赤な嘘であって、平成17年度の亀井志乃の仕事はほとんど事務室内で行われた。「別室」で行っていたわけではない。
 そして平成18年度初頭から、亀井志乃は閲覧室と収蔵庫で仕事をすることが多くなったが、これは先ほど説明したように、平原一良から「4、新刊図書の収集、整理、保管に関すること」を手伝って欲しいと頼まれたからにほかならない。その場には寺嶋も同席していた。忘れたわけではあるまい。
 ただ、実際に「新刊図書の収集、整理、保管に関すること」を通して司書に仕事を行っていれば(A学芸員も前年度までは司書だった)、おのずから閲覧室・共同研究室の運営や文学資料の閲覧に関する業務にもかかわらざるをえない。結局A学芸員とO 司書と亀井志乃の3人が相談して、ローテンションを組んで閲覧室業務に当たることになった。A学芸員がそのローテンションを一覧表化した「閲覧室担当表」を作り、3人がそれぞれ持っているだけでなく、事務室に貼っておいた。職員ならば誰でもその事情を知っているはずである。
 ただ、O 司書は平成18年度一杯で定年退職することが決まっており、特に年度の後半は「私は目いっぱい年休を使わせてもらうわ」と休むことが多く、そういう時は主に亀井志乃が彼女の肩代わりをした。
 その意味では、年度の後半、亀井志乃が閲覧室に詰めている日が多かったわけだが、その種のことは事務室では、誰もが知っている、ごく当たり前の動きにすぎなかった。亀井志乃が閲覧室勤務に就く時には、Na主査が開けてくれた金庫の中から、必ずコピー用のお釣りが入った箱を取り出して、「それでは、下におりています」と挨拶して、閲覧室に向かう。当然のことながらNa主査は亀井志乃の用向きを知っていたはずなのだが、寺嶋弘道によれば、
やがて同年の夏頃には原告の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始め」たのだそうである。
 
 寺嶋は例によって、誰が非難の声をあげたのか、曖昧にぼかして書いているが、亀井志乃にローテンションに入ってもらったA学芸員とO 司書が、そのことで亀井志乃を非難するとは思えない。では、非難の声を挙げたのは誰だったのだろうか。
 可能性として考えられるのは、鈴木社会教育主事と、業務課の川崎業務課長及びNa 主査とNi主任であるが、「なるほどなあ、あの人たちが、事情を知っていながら、寺嶋弘道をつかまえて亀井志乃を非難していたわけだ。Naさんも含めてね、……とても信じられないけれど、人は見かけによらないもんだな。」

○御殿女中式
 まるで御殿女中の世界だな。私は二人の「陳述書」を読んで、ほとほと感心してしまった。
会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。」、「一部学芸課員から耳にしていました」。これが平原一良の書き方である。やがて同年の夏頃には原告(亀井志乃)の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。」、「この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまったというのが実際の状況でした」。これが寺嶋弘道の書き方である。彼らは申し合わせたように同じ口調で、亀井志乃に関する非難・悪口に耳を傾け、得々とそれを取り次いでみせる。この二人の精神構造が御殿女中的なのである。
 
 言葉を換えれば、平原と寺嶋は自分と一緒に仕事をしている人間を、匿名の存在に変えてしまった。名前を奪い、実体を消去し、単なる集合的な非難・悪口の声そのものに変えてしまったのである。
 もちろんそれは、平原や寺嶋が同僚の「声」を装って、亀井志乃を中傷・誹謗するためであり、逆に言えば、平原や寺嶋は亀井志乃に対する中傷・誹謗の責任を同僚に押しつけてしまったわけであるが、結局平原と寺嶋にとって文学館で働く職員はそれ以外の存在ではなかったのであろう。
 
 分かるように、平原や寺嶋がああいう御殿女中式を始めたならば、それは彼らが嘘を吐こうとしている兆候なのであって、「では、寺嶋さん、亀井志乃の自席不在が非難を招くようになったとすれば、彼女が一体どこで、何をやっていたからなのですか」。そういう質問に答えられるように、彼は書いていない。書いていないのは、書く根拠を持っていないからなのである。
 もし、亀井志乃が自席を離れて行なっていることが、正当な業務であり、非難に値しないことであるならば、誰も彼女が自席を離れていることを非難はしないだろう。とするならば、寺嶋弘道は
「やがて同年の夏頃には原告(亀井志乃)の自席不在の執務態度を非難する声が聞こえ始めました。」と書いた以上、当然彼は具体的に、亀井志乃が自席以外の場所で行なっていたのはどういう行為だったのか、なぜその行為は非難に値することだったのかを証明しなければならない。だが、彼はそれをしていない。それをしていない陳述など、裁判においては一文の価値もないのである。
 
 いや、一文の価値もないだけではない。彼は裁判の「陳述書」という取り消し不可能な文書の中で、嘘、でたらめを書き連ね、同僚の「声」を装って亀井志乃を中傷し誹謗した。この事実だけは、それこそ取り消し不可能な形で、しっかりと残るのである。
 
 

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北海道文学館のたくらみ(33)

雉も鳴かずば撃たれまい(中―2)
 
○又しても二つの偽証
 裁判はたしかに辛気臭いが、面白みがないわけではない。相手側が争点をずらして泥仕合化するために、なりふり構わず嘘を書きたてて、亀井志乃の人格を貶めようとする。その策略に付き合い続けるのは、気骨が折れる作業だが、嘘のパターンを見出してしまえば、対策はちゃんと立つのである。
 被告の寺嶋弘道の「陳述書」から一例を挙げてみょう。
 彼は平成18年4月4日に道立文学館に着任したわけだが、彼の「陳述書」によれば、4月13日、次のような打合会があったという。
《引用》
 
毛利館長の訓辞に先立つ4月13日(木)には、学芸部門の職員による打合会がもたれました。出席者は私を含む駐在職員3名、原告を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名で、協議内容は平成18年度の学芸部門の事務分掌について意見を交換し、問題点等を整理することでした。2時間を超えた会議では一人ひとりの担当業務を確認し、その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。  
 原告も確認し、組織決定されたこの事務分掌表に明記された私の職務の第一は、「学芸部門の統括および業務課との調整」です。学芸庶務、収集保管、展示、資料の利用、教育普及、出版、対外協力、調査研究の学芸業務の各分野にわたって、必要な調整を行い統括することが私の役割です。
(2ページ、29~38行目)
 
 ここには二つの嘘が含まれている。一つは、この日、4月13日の木曜日は、原告の亀井志乃の非出勤日であり、もちろん文学館には出ていなかった
「出席者は私を含む駐在職員3名、原告(亀井志乃)を含む財団学芸職員2名、平原学芸副館長の計6名」などということはあり得なかったのである。亀井志乃はこの年度の勤務割振表と、同年4月の学芸職員の勤務割当表を持っており、寺嶋の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-2」に添えて、裁判所に提出した。寺嶋の陳述の虚偽を証明するためである。寺嶋がこの反論を再反論するためには、彼がいう「打合会」の時間、場所、議題、結論等を書いた議事録を提出し、この会合に亀井志乃が出席していた事実を証明しなければならないだろう。
 しかし、そもそも4月13日に、2時間にも及ぶ打合会が実際に持たれたのだろうか。この疑問は二つ目の嘘と関係する。

 寺嶋弘道によれば「協議内容は平成18年度の学芸部門の事務分掌について意見を交換し、問題点等を整理することでした。2時間を超えた会議では一人ひとりの担当業務を確認し、その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」というわけだが、ちょっと待ってもらいたい。道立文学館は月曜日が休館日だから、4月1日の土曜日も、4月2日の日曜日ももちろん開館していた。「そうすると寺嶋さん、あれですか、道立文学館は4月1日から13日まで、誰がどの事務分掌を担当するかも決めないで開館してきたわけですか。」
 一読して、私も亀井志乃もこの記述のおかしさに気がついたわけだが、公共の文学館や美術館に関係する者ならば、誰でも真っ先に抱く疑問だろう。寺嶋弘道という人は長年道立の美術館の学芸員を勤めて、すでに50歳を越えている。だったら、もう少ししっかりした嘘を吐くことができそうなものだが、とても学芸員をやってきた/やっている人とは思えない、ちゃちな嘘を吐いている。本人としては、これで裁判官を誤魔化せるとタカを括ったのかもしれないが、こんなに失礼な話はない。
 それに第一、4月13日に決めた事務分掌を4月1日に遡って施行するなんて、そんな摩訶不思議な芸当を、いったい誰がどうやって出来るのだろうか。

○法は既往に遡及せず
 もう50年以上も前のことだが、私が大学に入った頃、「日本国憲法」という必修科目があった。松沢先生という、クラーク博士を尊敬して止まない法学博士の教授が担当だったが、私は中央講堂で松沢先生から、「法は既往に遡及せず」という言葉を聞き、「ああ、俺は大学に入ったんだ」と新鮮な感動を覚えた。その感動は今も消えないで残っている。要するに、ある法律が新たに制定されたとして、その法律を過去に遡って適用することはしないという意味だが、群馬県の高等学校で『ファーブル昆虫記』や『中谷宇吉郎随筆集』や『大菩薩峠』などを読み耽っていた私にとって、この言葉は「なるほど、法律というのはこういう考え方で自己を律するものなんだな」と、目からウロコが落ちるような感動だった。松沢先生からは、更に、「ただし、その法律の被適用者に利益を与える場合はその限りではない」という考え方を教わり、これまた痛く感銘を受けた。
 
 そんなわけで私は、2004年(平成16年)、韓国で「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」という法律が成立したことをニュースで知り、韓国の人たちの法感覚に深刻な不信感を覚え、この不信感は今でも消えない。韓国の若い研究者の中には、文学者だった祖父の研究をしていたところ、その祖父が「親日派」のレッテルを貼られたため、国内での研究が難しくなり、アメリカへ渡った人がいる。アメリカで自国の韓国文学を研究しているわけで、一般論的に言えば、アメリカへ渡って日本文学の研究を続けている日本の研究者と変わらないわけだが、しかしそれとこれとでは同一に論じられない。自国の研究者をこんなふうに追い詰める法律はよくないと、私は今でも腹を立てているのである。
 韓国のこの特別法は「法は既往に遡及せず」という大原則から見ても、「ただし、その法律の被適用者に利益を与える場合はその限りではない」という精神から見ても、悪法だと私は思うが、しかし翻って考えるならば、法律というものは過去に遡って施行することもあり得る。しかし、4月13日に決まった事務分掌を4月1日に遡って施行するとは、一体どういうことなんだろう。

○日付のトリック
 実際には、平成18年4月1日以前、既に事務分掌表は出来ていたのである。
 いまその経緯を、亀井志乃の手元にある証拠物によって説明すれば、平成17年12月27日(火)に「課内打ち合わせ」の会議が開かれた。「2006年度学芸課事務分掌(案)」という文書を叩き台にして、平成18(2006)年度の事務分掌をどのように組み、どの係が担当するか、を相談するためである。この言い方は少し分かりにくいかもしれない。正確に言えば、この時点では、道から派遣されていた学芸職員は全員が異動されられることが前提となっていた。そのため、財団職員のO学芸員(当時、平成18年度からは司書)と亀井志乃だけは次年度も業務に就くことがほぼ確実だったが、その他は新たに着任するだろう駐在道職員を「学芸員」「司書」「学芸課長」等と想定しながら、業務の割振りを相談したのである。
 ともあれ、その会議の意見を基に「平成18年度 学芸部門事務分掌」が作られて、3月末までに職員に配布されていた。4月1日からの開館に支障が生じなかったのは、この分掌表があったからにほかならない。
 
 そして、3月中に作られた「平成18年度 学芸部門事務分掌」と、寺嶋弘道がいう「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日)とを較べてみると、前者には日付が入ってないだけで、ほとんど両者に違いはない。ただ、後者には新たに事務分掌が2項目だけ追加されている。――この2項目の意味については次回にふれる――だから正確を期するならば、寺嶋弘道がいう「平成18年度学芸業務の事務分掌」の日付は、「平成18年4月1日施行。平成18年4月13日、一部改正」とすべきだった。ところが寺嶋弘道は、4月13日に決まった文書に「平成18年4月1日」の日付を入れ、
4月1日にさかのぼって施行されています。」と説明したのである。
 なぜ、彼はそんなに手の混んだことをやらなければならなかったのだろうか。

○匂いづけ
 たぶんその狙いは
原告も確認し、組織決定されたこの事務分掌に明記された私の職務の第一は、「学芸部門の統括および業務課との調整」です。学芸庶務、収集保管、展示、資料の利用、教育普及、出版、対外協力、調査研究の学芸業務の各分野にわたって、必要な調整を行い統括することが私の役割です。」という主張をもっともらしく見せかけることにあった。
 寺嶋弘道は
「原告も確認し」と言うが、亀井志乃は4月13日には出ていなかったのだから、これが寺嶋の嘘であることは言うまでもない。
 それに
組織決定された」とはどういうことなのか、どうも意味が不明である。
 ただ、「平成18年度学芸業務の事務分掌」の第1項目が、「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」であったことは間違いなく、その事務分掌の主担当は寺嶋、副担当は鈴木社会教育主事(道駐在職員)となっていた。ただし、3月段階で決まっていた「平成18年度 学芸部門事務分掌」も、その点では同じだったのである。
 
 だからその点に関するかぎり、何もわざわざ4月13日に打合会を開くような、二重手間をかける必要はなかったはずなのだが、3月段階の「平成18年度 学芸部門事務分掌」における「学芸部門の統括および業務課との調整に関すること」の意味は、平成17年12月27日以来の議論の流れからして、「学芸関系の職員のまとめ役と業務課との調整役」というほどの意味だった。
 もちろんそれで問題は全くないはずであり、実際4月1日から「平成18年度 学芸部門事務分掌」によって文学館の業務は始動している。ところが寺嶋弘道は、自分と平原学芸副館長(当時)とが会議を主催し、自分も決定に参加し、自分の意思が反映したものとして、「平成18年度 学芸業務の事務分掌」に作り直させた。つまり、自分の立場を
「学芸庶務、収集保管、展示、資料の利用、教育普及、出版、対外協力、調査研究の学芸業務の各分野にわたって、必要な調整を行い統括すること」という強力な立場に見せかけ、「学芸部門は俺が統括し、仕切っているんだ」という形にしたかったのである。
 動物学的に見れば、これは匂いづけの一種だろう。
 ……う~ん、そうすると、副担当の鈴木社会教育主事がその後を随いて行くわけか。
 
 亀井志乃としては、自分の知らない打合会に出席していたことにされるのは、迷惑この上もない。その上「原告も確認し」などと、自分が知らない内に承諾までしていたことにさせられるなんて、まっぴら御免である。

○裁判の面白さ
 裁判というのは、こんなふうに相手側の嘘を、証拠物に基づいて一つひとつ潰して行かなければならない。初めに「裁判は辛気臭い」と言ったのは、こういう手間がかかることを指してのことだが、亀井志乃が自分の証拠物に照らして見出した嘘や事実の歪曲は、寺嶋弘道の「陳述書」で27箇所、平原一良の「陳述書」で21箇所もあったという。まるで嘘で固めたような「陳述書」だったわけだが、「なに、見え透いた嘘を言ってるんだろう」と笑いながら放っておくと、やっかいなことになる。相手側の弁護士が、「原告が反論をしなかったのは被告の言い分を認めたことからだ」などと言い出しかねないからである。そこで煩を厭わず、嘘を一つひとつ潰して行くことになるわけだが、そうしていると相手側の嘘のパターンが見えてくる。そこが裁判の「面白い」ところなのである。

 先ほどの寺嶋弘道の文章の中で言えば、2時間を超えた会議で一人ひとりの担当業務を確認し、その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」という会議が、何時から何時までかかったのか、それが書いてない。つまり、肝心なところを曖昧にぼかしてしまう。これが彼の――そして平原一良の――基本的な手口であって、そもそも開館時間中に、つまり観覧者も来れば業者も来る時間帯に、学芸関系の職員が全員各自の持ち場を離れて、2時間も会議をやっている。そんな非常識を、彼らは本当にやっていたのか。多分「打合会」の実態は、平原一良と寺嶋弘道が駐在道職員の二人と、財団のO司書を呼んで、自分たちの考えを押しつけ、早々に切り上げる、そんな程度のことであっただろう。それとも、閉館後、全員が残って、2時間も議論したのだろうか。
 この疑問をクリアするためにも、はやり寺嶋弘道は4月13日の会議の記録を提出し、かつ、亀井志乃が出席していたことを証明しなければならないだろう。
 
 もう一例を挙げてみよう。
《引用》
 
また、この「二組のデュオ展」では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告(亀井志乃)はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。

 これは前回も引用した、寺嶋弘道の「陳述書」の一節であるが、これが事実無根であることを証明することは、特に難しいことではない。亀井志乃は平成19年2月9日に、岩内の木田金次郎美術館と、道立近代美術館に、作品の借用に出かけたわけだが、借用の交渉の過程で二つの美術館の学芸員と交わしたメールの記録や、「借用書」や「収蔵作品管理ファイル」のコピーを証拠物として、法廷に提出する。それで、寺嶋の「陳述書」のこの個所に対する反論は済むのである。
 それに対して、寺嶋弘道は自分の陳述が真実であることを証明するためには、まず「道内美術館」なる美術館がこの世に存在することを証明しなければならない。次に彼は、彼がお詫びの電話を入れたという「道内美術館」の関係者を明らかにしなければならない。その上で彼は、その「道内美術館」から出ているらしい「作品図録カード」なるものを提出しなければならない。真実のみを述べることを誓った「陳述書」において、「道内美術館」なる美術館が存在することを前提として、彼は上記の如く書いたはずである。そうである以上、寺嶋弘道は自分の言葉に責任を持たなければならない。
 もし彼が「道内美術館」なる美術館の存在を証明できなければ、彼は偽証をしたことになる。事実に関して厳しい態度を要求される裁判において、具体的な事実を指示できない、曖昧な言い方を選んで、亀井志乃の経験と知識の欠如をほのめかし、亀井志乃の学芸員としての能力を貶めようと企んだ。当然彼はそれだけの責任を負わなければならないのである。

○脇が甘い
 それにしても、なぜ太田三夫弁護士は、以上のような「陳述書」を証拠物として提出したのだろうか。

 その狙い自体は、分からないでもない。多分太田弁護士の策戦としては、裁判の争点をずらし、人格非難の泥試合に持ち込んでしまうことにあったのだろう。
 これまで述べてきたことの繰り返しになるが、この裁判で争われているのは、北海道の公務員である寺嶋弘道が、駐在先の文学館において、民間の財団法人で働く市民の亀井志乃に対して名誉毀損や業務妨害のハラスメントを繰り返した事実を確定することと、その違法性を判断することである。仮に寺島弘道と亀井志乃が同じ組織に属して、上司と部下の関係にあったとしても、寺嶋弘道が亀井志乃に対して行ってきた名誉毀損や業務妨害は、明らかに人格権侵害のハラスメントと言える。しかし今回のケースは、寺嶋弘道と亀井志乃は法的、制度的、組織的に見て決して上司と部下の関係たり得ない、また、もし寺島弘道が自分と亀井志乃との関係を上司と部下の関係に擬制したとすれば、それだけで寺嶋弘道は地方公務員法を犯したことになってしまう。そういう関係の下で起こった人格権侵害のハラスメントなのである。
 太田弁護士としては、何としてでも地方公務員の民間人に対する人格権侵害の側面は隠してしまいたい。それと同時に、寺嶋弘道が亀井志乃に対して取った態度はハラスメントではなくて、上司としての指導だったのだと言いくるめてしまいたい。このあたりの狙いは、北海道教育委員会の内々の意向でもあるのだろう。
 
 ともあれ彼は、たぶん上のような計算によって、「準備書面(2)」では、地方公務員の民間人に対する人格権侵害の側面には全く言及せず、ひたすら頬かぶりしてすり抜けようと、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいる。また、上司と部下の関係について言えば、うっかり寺嶋弘道は亀井志乃の上司だったと断言してしまえば、これまた地方公務員法違反を認めてしまうことになる。彼はそこを何とか言い抜けようと、もっぱら亀井志乃の「準備書面」の揚げ足取りに終始し、法律問題には一切踏み込もうとしない。
 そして、おそらくその策戦の一環として、寺嶋弘道と平原一良に亀井志乃の人格と能力を貶める「陳述書」を書かせたのであろう。もし亀井志乃がそれに吊られて、寺嶋や平原に対する人格非難を開始したら、争点を拡散させ、水掛け論の泥試合に引きずりこむことができる。
 しかし、あまりにもその下心が見え見えなので、その手は桑名の焼き蛤。亀井志乃は太田三夫弁護士作文の「準備書面(2)」に対しては「準備書面(Ⅱ)-1」を書いて、徹底的に争点の闡明に集中した。寺嶋弘道と平原一良の「陳述書」に対しては「準備書面(Ⅱ)-2」と「準備書面(Ⅱ)-3」を書き、証拠に基づく事実の確定に議論を限定して、彼らの虚偽と事実の歪曲を明らかにし、5月14日(水)、3通の準備書面を裁判所に届けてきた。その3通に添えて、新たに提出した「証拠物」は112点。前回までに提出した証拠と合わせると、その数は155点に及ぶ。
 
 太田弁護士が寺嶋と平原に「陳述書」を書いてもらった意図は、おそらく以上のようなものだったと思うが、しかし、いま一つすらりと飲み込めないことがある。なぜ彼はこんなに不出来な「陳述書」を証拠物として提出したのか。
 証拠物というのは、亀井志乃の側で言えば、平成18年度の「勤務割振表」や、「平成18年度 学芸部門事務分掌」と「平成18年度学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日)のように、客観的な証拠として自分の主張を裏づけ得る文書類のことである。ところが太田弁護士は自分が署名した「準備書面(2)」の主張を裏づける証拠物として、寺嶋や平原の「陳述書」を出してきた。その証拠物が客観的に見て嘘っぱちに満ちており、とするならば、太田弁護士署名の「準備書面(2)」もまた客観的に見て嘘っぱちばかりということになってしまう。
 「太田さんは、二人の「陳述書」をロクに読まないで、証拠物に使ってしまったのかな」。
 「まさかそんなことはないでしょう。太田さんとしては、よもや二人がこんなに嘘ばかり書いているとは思わなかった。その点は二人を信用していたんじゃないかしら。信用が裏目に出てしまったわけネ」。
 「そうかも知れない。でもネ、仮にも太田さんは弁護士だからナ
その結果は「平成18年度学芸業務の事務分掌」として4月1日にさかのぼって施行されています。」なんて書き方を読んだら、こいつは怪しいぜって気がついたはずだよ」。
 そんなふうに私たちは不思議がったが、一つ言えることは、「準備書面(2)」の雑っぽい書き方から見て、太田弁護士はこの裁判に気が入っていない。そんなことを言うと、太田さん、ムッとするかもしれないが、とにかく素人の私から見ても、その仕事ぶりはどうも脇が甘いように思う。

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