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北海道文学館のたくらみ(35)

雉も鳴かずば撃たれまい(下)

○笑える話
 平原一良副館長の書き方と、寺嶋弘道学芸主幹の書き方が奇妙に似ていることは、前回に指摘しておいた。ただ、相手を笑わせる語り口では、平原一良のほうがレベルが高い。その代表例は、「北海道文学館のたくらみ(31)」で紹介した、常陸宮ご夫妻が訪館された時のエピソードであるが、あれはもう「笑い」を越えて、ただただ平原個人の醜態――当日の醜態と、「陳述書」の中で自分の失態を亀井志乃に押しつける醜態という、二重の醜態――をさらけ出した、「悲惨」な虚言(そらごと)でしかなかった。これでは、慰める言葉を掛けようもない。それに較べると、前回に紹介した、亀井志乃の閲覧室勤務に関する、年度の勘違いなどは、「平原さん、大丈夫?」と気軽に声をかけられる程度のご愛敬だった。今回はそのレベルの作り話で、もうちょっと笑える嘘を紹介しよう。
《引用》
 
夏の特別企画展が終了した8月末から9月にかけて、秋以降の事業準備にとりかかろうとスタッフが考え始めたころ、火曜日朝のミーティング(館のスタッフが事務連絡やその週の動向を伝え合います)の場で、亀井氏が「明日ニセコに調査のため出張に行ってきます」と切り出し、私を含むスタッフは困惑しました。事前の打ち合わせなどがないままでしたので、その場で亀井氏を叱責することなどはせず、後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました(4ページ33~5ページ2行目)

 平原一良は例によって日時をぼかす書き方をしているが、「火曜日朝のミーティング」において亀井志乃がニセコ行きの申し出をしたのは、平成18年8月29日(火)のことである。だから、平原が書いたエピソードも8月29日の出来事と考えて差し支えないだろう。
 平原一良はいかにも良識人ぶった口ぶりで、亀井志乃の身勝手な行動に困惑したかのように書いているが、ところがギッチョン、大笑い。平原副館長はこの日、文学館に出ていなかったのである。
 このことについては、既に亀井志乃が3月5日付けの「準備書面」で、「その日、平原副館長(安藤副館長の退職後、学芸副館長から昇任)は急な怪我で、たまたま欠勤していた」と書いている。平原一良はその「準備書面」を読まず、自分の行動をメモ類で確かめることもなく、この個所を得々と書いたのであろう。

○二人の平原一良
 なぜ平原一良はこの日、休まざるを得なかったのか。
 亀井志乃が平原一良に怪我見舞いのメールを送り、それに対して平原一良がメールを返してきた。亀井志乃は5月14日(水)に、平原に対する反論「準備書面(Ⅱ)-3」を裁判所に提出し、平原のメールを
甲44号証として一緒に届けた。この反論は5月23日(金)の第4回公判で、亀井志乃の陳述として受理され、だからその証拠物たる平原のメールをここに引用してもよいのだが、もとは平原個人の私信であり、その点を尊重して、内容を要約して紹介したい。平原自身が亀井志乃に告げたところによれば、事情は次のようであった。
《要旨》
 
8月28日の月曜日は休館日だったが、馬場あき子から「たっての希望」があったので、平原が館を開けて待っていた。馬場あき子の一行が着き、平原が迎えに出ようとしたところ、折悪しくバスからお年寄りが降りてきたので、避けようと身をかわした際に、チェーンに引っかかって前のめりに倒れこんでしまった。左ひざや顎を打撲し、右腕関節の靱帯を傷め、前歯が欠け、口中を切ってしまったが、勢いよく転んだわりには軽傷だったので、昨日(8月31日)から出勤している。「ご心配をおかけしました」。

 もし馬場あき子たちが、「たっての希望」で、8月28日の月曜休館日に文学館を開けて欲しいと望んだとしたら、それは馬場あき子たちが我儘で、非常識だったと思う。その辺の事情は分からないが、とにかく平原副館長は休館日にもかかわらず文学館を開け、馬場あき子の一行を出迎えようとしたところ、気の毒に、チェーンに足を取られ、右腕関節の靱帯を傷め、前歯が欠け、口中を切ってしまって、病院へ運ばれ、手当を受ける羽目となってしまったのである。

 ただ、以上のようなメールのやり取りを見るかぎり、この頃、平原副館長と亀井志乃との間は決してぎくしゃくしてはいなかった。ところが、平原一良は「陳述書」の中で、嘘、でたらめを書き連ね、ひたすら亀井志乃の人格を貶めることにこれ努めている。何か理由があって彼の感情がそんなふうにこじれてしまったのか、それとも表裏の使い分けを得意とする性格なのか、その辺の事情は分からないが、亀井志乃は、平原の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-3」の中で、次のように書いた。
《引用》
 
つまり平原副館長は、8月28日月曜日、バスで到着した団体客の前で、右腕の靱帯を傷め、前歯が欠け、顔面からも口中からも血が流れ出るほどの傷を負って(目撃していた職員談による)、即刻病院に運び込まれて治療を受け、同月29日・30日の2日間、文学館を欠勤していました。当然の帰結として、29日の朝の打合せ会(ミーティング)には出席してはいなかったし、それ故、私の言動に困惑することは出来るはずもありませんでした(中略)
 
そのようなわけで、もし平原一良氏が、あくまでも自分の陳述書(乙12号証)末尾にあるように「上記の内容に相違ないことを誓い」つつ、「突然ニセコ行きの話を持ち出した亀井に困惑した」と主張するならば、前日に顔面および腕を打撲して館を欠勤し、その後私に物わかりのよい上司としてメールを打っていた〈平原 一良〉と、火曜日朝のミーティングで私のふるまいに困惑し叱責したい衝動をこらえていた平原一良とは、どのようにして同一人物としてアイデンティファイすることが可能なのだろうか。もし29日の朝、平原一良氏が出勤していたとして、氏は文学館事務室のどのあたりに存在していたのだろうか。私は、この日、平原副館長の姿を見た記憶がない! そんなドッペルゲンガー・ミステリー的な疑問に囚われざるをえません。
 こうした私の疑問に対し、平原氏が合理的な説明をもって答えることはかなり大変なことと思いますが、平原氏が以上のように主張するからには、それなりの根拠があるのでしょう。ぜひ合理的な説明が聞きたいと思います
(18ページ1~22行目)

 亀井志乃としては、こうとでも書くしかなかったのであろう。他の場合ならば、見え透いた嘘! と笑って済ますこともできる。だが、裁判の証言に関しては、一つひとつ嘘を潰して行くより他はないからである。

○改めて寺嶋弘道のハラスメントを確認
 では、8月29日の出来事とは、具体的にどういうことだったのか。
 その頃、ニセコ町の有島武郎記念館が「有島武郎肉筆手紙展」という特別企画展(6月10日~9月3日)を行っており、亀井志乃は一度見学をしておきたいと考えていた。ところが彼女は、「石川啄木」展の主担当だった鈴木社会教育主事から、啄木展が終わる8月27日頃、釧路在住の啄木研究家・K氏より借用した金田一京助の色紙の返却に行って欲しいと依頼され、同氏に問い合わせたところ、9月1日(金)が都合がよいとの返事だった。そこで、彼女はその日に訪れる約束をした。
 有島記念館の企画展の終わりも近づいており、亀井志乃は釧路出張とニセコ出張(日帰りの外勤)が続くのを避けたいと考え、ニセコ出張を8月30日に繰り上げることにして、8月29日の朝の打合せ会で、以上のような事情を説明し、職員の了解を得た。
 
 ところが打合せ会が終わるやいなや、寺嶋弘道が自席から、「そのことは平原さんは知ってるの」と原告に質問した。しかしその日、平原副館長は先ほども述べたような事情で、休んで自宅にいた。そこで亀井志乃が「平原さんは知りません」と答えると、寺嶋は「平原さんが知らなければ、誰があなたに対して、そういう動きをしていいと承認するの」と問い詰め始めた。要するに寺嶋としては、なぜ俺にことわらなかったのだ、と言いたかったのだろう。
 しかし、財団法人北海道文学館においては、通常、展覧会の主担当が高額の出張旅費を要さない日帰り程度の出張をする場合は、朝の打合せ会で事前にその旨を告げ、出席者が特に文学館業務に差し支えないと考え、了解するならば、それで手続きが済んだことになっていた。この日以前、他の職員もそうしてきた。
 また、出張手続きについても、学芸関係の職員が出張を希望する場合、出張の概要を書いた「出張用務願」(特に書式は決まっていない)を業務課に提出し、業務課がその内容を見て問題ないと判断すれば、「分かりました」と受理する。業務課では、財団の書式である「旅行命令(又は依頼)簿 兼旅費概算(又は清算)請求書」に、職員が提出した「出張用務願」の内容に基づいて、Na主査が日程と経路から旅費を算出し、「用務」「用務地」「日程」「旅費」等の欄に必要な事項を記入して、原告に確認を求める。原告は確認して捺印する。これで出張手続きは完了するのである。
 それゆえ、出張の予定を告げた職員が、他の職員から「そのことについては事前に誰が知っているのか」と問われること自体、きわめて異例のことだった。亀井志乃が知っている限りでは、かつてないことであった。
 そして現に8月29日の場合も、川崎業務課長が、亀井志乃の予定を了解し、「それでは出張計画を出して下さい」と言った。ということはつまり、川崎業務課長がNa主査に対し、亀井志乃の出張計画に基づいて出張旅費の計算にするよう指示したことにほかならない。

 だが、寺嶋弘道はそういう慣例を無視して、「そういう動きは、前もって私に言うべきだ」とか、「私が学芸班内における動きをしらないというのはおかしい」と言い募り、亀井志乃が「では、どういう手続きを取ったらいいのか」と質問したところ、「手続きがどうのこうのという問題じゃない」、「組織で働く人間として、そもそもなっていない」、「スタンドプレーと言われないようにしなさい」と論点をずらしながら、亀井志乃に対する人格中傷の言葉を吐きかけ、亀井志乃がさらに「では、今回の出張に、私はこれから一体どういう手続きをとったら行けるのか」と質問を続けると、被告は結局、「行ってはいけないとは言っていない。行っていいんだ」という、投げ遣りで、無責任な言葉で怒鳴りつけた。
 
 平原一良は
「後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました。」と、見てきたような嘘を書いているが、実態は以上の如くであり、当然のことながら亀井志乃は「訴状」(平成19年12月21日付け)及び「準備書面」(平成20年3月5日付け)の中で、以上のような寺嶋弘道の嗜虐的な言いがかりを、人格権侵害行為の一つに挙げた。

○太田弁護士の相撲部屋リンチ的論理
 その訴えに対して、寺嶋弘道の代理人・太田三夫弁護士は次のように反論している(被告側「準備書面(2)5~6ページ。4月9日付け」
《引用》
 
原告は資料調査のため有島記念館へ主張(出張?)する計画を前日の打合せ会において初めて申し立てていることから、こうした突然の出張の申し出は事務の円滑な流れを妨げることになるので、被告はこの日の朝の打ち合わせ後、原告に対して事前に上司と相談しあらかじめ必要な協議を行い、命令を受ける必要がある旨指導したのであって、当然の行為であり、非難されるべきものではない。
 
 これは太田弁護士の作文だと思うが、彼に限らず、寺嶋弘道も平原一良も、亀井志乃が挙げた具体的な事実に関して、決して自分たちの側の証拠に基づいて反論しない。先に述べたごとく、亀井志乃が急きょ予定を変更せざるを得なかったのは、鈴木社会教育主事が
「突然」釧路まで行って来て欲しいと言い出したからであり、このことに関する亀井志乃の事情説明を他の職員は了解した。事務上の手続きも慣例通り順調に進むはずだった。それを妨害したのが寺嶋弘道だったのであるが、太田弁護士は「こうした突然の出張の申し出は事務の円滑な流れを妨げることになるので」と、事実のすり替えをやっている。
 しかも寺嶋弘道の嗜虐的な言いがかりを弁護する、太田弁護士の理屈に至っては、これはもう、若い力士の両太股がはれ上がるほど竹刀で折檻しておきながら、「あれは指導だったのだ」と開き直る、相撲部屋の理屈そのものであろう。
 
 これ以上は話題が逸れるので、ここでは指摘しておくにとどめるが、北海道教育委員会の職員たる寺嶋弘道も、北海道教育委員会に信用されているらしい太田三夫弁護士も、上記のごとき相撲部屋的な理屈の持ち主であること、この点はしっかりと確認しておきたい。
 それと同時に、先ほどの文章における
「事前に上司と相談しあらかじめ必要な協議を行い」「上司」が、もし寺島弘道を意味するならば、北海道教育委員会の職員たる寺嶋弘道と、北海道教育委員会に信用されているらしい太田三夫弁護士は、何のためらいもなく、北海道の公務員たる寺嶋弘道が民間人の亀井志乃の「上司」であったと強弁して、平然と地方公務員法違反を肯定是認していた。この点もしっかりと記憶しておきたい。

○平原一良の共犯的作文
 ともあれ寺嶋弘道と太田弁護士は、以上のように事実のすり替えとハラスメント肯定の理屈を述べ立てているのであるが、実は亀井志乃は8月29日の件について、平原一良に送った怪我見舞いのメールの中で、
結果的に事後承諾の形となり、申し訳ございませんでした」と謝罪し、平原一良は「余計な前置きはともかく、今回のことについては、どうかあまり気にせずに、と申し上げておきます」と返事を送ってきた。
 これを見る限り、平原一良副館長はまさしく物わかりのいい上司だったわけだが、それから1年半後、寺嶋弘道が告訴されたと分かるや、自分が8月29日に休んだことなぞコロッと忘れ(?)、掌を返すように、
亀井氏が『明日ニセコに調査のため出張に行ってきます』と切り出し、私を含むスタッフは困惑しました(中略)後刻寺嶋氏から、十分に時間的な余裕をみて業務課長らにもあらかじめ相談の上、出張計画を出すようにとのアドバイスがなされました。」と嘘を並べ立てている。この見事な表裏の使い別け。一つだけ共通しているのは、いずれも良識人ぶりっ子。これが平原流なのかもしれない。

 この嘘つき作文の後半は、先の引用した太田弁護士作文の後半と符節を合わせたごとくであり、多分平原一良は亀井志乃の「準備書面」(3月5日付け)を読まず、太田弁護士作文の「準備書面(2)」(4月9日付け)だけを読んで、いそいそと共犯的な作文に励んだのであろう。ただ、一つ違いがあるとすれば、寺嶋弘道の代理人・太田弁護士は何のためらいもなく、命令を受ける必要がある旨指導したのであって、」と断言しているが、平原一良は「アドバイス」と言い換える慎重さを残していた。
 しかしそれにしても、平原一良がそこまで寺嶋弘道を庇い立てする、いや、忠義立てする理由は、一体何なのだろうか。
 
○平原お得意の、匿名の「声」
 このように、平原一良の「陳述書」は、――この点は寺嶋弘道の「陳述書」も、太田弁護士の「準備書面(2)」も同様だが――どこを切っても嘘が顔を出してくる。金太郎飴はどこを切っても金太さんの顔が出てきて、これはこれで大変に結構なのだが、嘘のほうはほどほどにしておかないと、それこそ命取りになりかねない。その嘘の中で、これまた笑えてしまう例を、平原一良副館長の「陳述書」からもう一つ挙げてみよう。
《引用》
 しかし、期限の切られたリニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから、複数の女性スタッフから、同氏の在り方について「異義あり」の声の届く頻度が高くなりました。博士号を有する研究者としてのプライドを備えた同氏への妬視が含まれていると判断し得る声もありましたが、必ずしもそうでないケースも認められました。ともかくも、常設展示リニューアルと道立文学館開館10周年記念行事を控えた大事な時期でしたから、そうした声を届けてくるスタッフを諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労した記憶があります。
 
常設展示のリニューアル作業が進む過程の大詰めの時期においては、学芸・業務両課スタッフ総動員で展示設営をこなし、同氏も最終段階では展示室での作業に加わるなど、積極的な参加の姿勢が見られました(2ページ12~20行目)
 
 ほらまた出てきた、
複数の女性スタッフから、同氏の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高くなりました」という曖昧な思わせぶり。平原一良や寺嶋弘道が匿名の「声」を利用する時は、嘘を吐き始める兆候であるが、まず簡単に事情を説明しておくならば、平成17(2005)年11月2日(水)に、北海道立文学館の開館10周年記念行事を開催され、その一環として、常設展をリニューアルすることとなった。彼が言う「リニューアル作業」とは、このことを指すのであろう。その主担当は平原一良学芸副館長(当時)であり、副担当が亀井志乃だった。

○常設展リニューアルに関する亀井志乃の担当
 この事務分掌に関連して、亀井志乃は、平原学芸副館長から
「見直し部会の先生方(協力者)から送られて来る見直し案をもとに、「常設展示『北海道文学の流れ』更新案」の年表を作成して欲しい」と依頼され、作業にとりかかった。見直し案は6月前後からぽつりぽつりと各所より届く程度であったが、亀井はそれらを詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表としてまとめた(甲86号証)。作業進行の過程では、そのつど平原学芸副館長にも目を通してもらった。
 また、平成17年春頃、亀井志乃は、リニューアルにともなって各コーナーのキャプションを日本語英語の二カ国語表記にしてはどうかと思い立ち、平原学芸副館長に提案した。学芸副館長もその時点では快諾し、英文は亀井が下書きすること・文章のチェックは「平原学芸副館長が知り合いの、大学の英語の先生にお願いする」ということに話がまとまったので、亀井は他の作業の傍ら、自分の作業を進めた(
甲87号証)。
 その他にも亀井志乃は、開館10周年記念行事の一環として、道内の文学碑に関するデータベース作りを割り当てられており、各町村にデータ収集の協力を依頼する一方、自分でも文学碑の写真を撮りに出かけ、11月2日までに、750近い文学碑のデータを検索可能な状態に整理し、併せて『ガイド 北海道の文学』(北海道立文学館、平成17年11月2日)に掲載した。
 もし平原一良が言うように、
複数の女性スタッフから、同氏の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高くなりました。」とすれば、それは以上のような亀井志乃の仕事ぶりに関してだと思うが、一体彼女の仕事のどこに「異議あり」という声を挙げさせる要因があったのか。平原一良は全く説明していない。
 
○平原一良にも反論のチャンスあり
 亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)-3」において、以上のように証拠物を挙げて事態を説明しておいた。
 次回の公判は7月9日(水)の午後2時に開かれる。第4回公判の5月23日から1ヶ月半ほど時間を取ることになったが、太田弁護士署名の「準備書面(2)」に対する亀井志乃の反論「準備書面(Ⅱ)-1」はA4版で49ページ、寺嶋の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-2」は46ページ、平原の「陳述書」に対する反論「準備書面(Ⅱ)-3」は39ページとなり、合計すれば400字原稿用紙480枚ほどになる。証拠物は150点を越えた。
 5月23日の公判は、亀井志乃の証拠物の原本調べが終わらないうちに予定の時間が過ぎてしまい、田口紀子裁判長は「次回はもっと時間を取るように致します。原告の準備書面がかなり大部なので、じっくりと読ませていただくことにします」と言って、1ヶ月半ほどの余裕を取ることにしたのである。
 太田三夫弁護士も「私のほうも、新しく反論を出すかどうかの検討を含めて、じっくりと読ませてもらいます」と言った。田口裁判長は、「では、反論を出すことになるようでしたら、1週間前の7月2日までに裁判所に届けて下さい」。
 
 そんなわけで、平原一良にまだ言い分があるならば、反論を出すチャンスがある。ただし、亀井志乃のように証拠物に裏づけられた主張を書く必要があるだろう。

○またまたセカンド・ハラスメント
 ただし、先に引用した平原一良の文章の問題はまだ終わらない。
 平原一良は、亀井志乃が平原から依頼されて作った「詩・小説・俳句・短歌・児童文学・書誌研究等の分野別年表」を、結局握りつぶしてしまった。
 平原一良は、亀井志乃が用意した英文キャプションについて、リニューアルオープンを間近に控えた同年10月16日(日)、突然、「英語チェックをするはずだった先生は、ご家庭内に事情が生じたため、チェックは出来なくなった」と言って、キャプション作成作業を中止させてしまった。
 平原一良は、亀井志乃がリニューアルオープンに間に合うように作った、文学碑データベース作成には全く言及せず、黙殺している。
 つまり、常設展リニューアル作業の最終段階まで、亀井志乃は何もしていなかったと印象づけて、
複数の女性スタッフ……『異義あり』の声」にリアリティを与えようと、事実の隠蔽を行っていたのである。

 これは寺嶋弘道が亀井志乃の翻刻実績を無視して、文学資料の解読・翻刻については何一つ職場内で打合せをすることもなく、確たる成果や業務報告のないまま年度末を迎え」と決めつけた(前回参照)と同じセカンド・ハラスメントであるが、平原はそれに加えて、博士号を有する研究者としてのプライドを備えた同氏への妬視が含まれていると判断し得る声もありましたが、必ずしもそうでないケースも認められました。」と、どのようにでも言い訳が出来る逃げ道を用意しながら、鼬の最後っ屁みたいな嫌味を語っている。

 その理由は分からないでもない。昨年の労働審判の時、平原一良副館長をはじめ、財団の幹部職員は、「要するに亀井志乃はアルバイトに毛の生えた程度の仕事しかしなかった。契約期間が終わるので、次年度からの仕事はないと通告しただけで、違法性はない」という理屈を立て、自分たちの正当性を主張した。ところが労働審判委員会が、亀井志乃は課程博士の学位を有し、実務経験も2年以上持つ、高度な専門性を備えた嘱託職員だったと判断した。そのため、――それだけが理由ではないが――平原たち財団側の主張はあっさりと退けられてしまった。
 そこで平原は方針を一転し、亀井志乃を、〈博士の学位を鼻にかけ、研究者的エゴイズムに凝り固まって、周囲の人たちから浮いてしまった人間〉と描くことにしたのであろう。一見中立的な見方を装いながら、
他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。しかし、困った行動ではあるが一部の研究者にはありがちなことだと私は思い、あえて同氏に注意を促すことは控えました。(3ページ2~5行目)とか、いま顧みると極めて非常識な行動であり、自らの業績を顕示したいとの欲求を抑制できない人物には、十分にあり得る出来事だったと思わざるを得ません。(7ページ1~3行目)とか、繰り返し亀井志乃の非常識を印象づけ、裁判官に対するサブリミナル効果を狙うことにしたのである。
 嘘で固めた「陳述書」の中に、こういう人格非難的な言葉を書きこんでゆく。そういう書き方自体がセカンド・ハラスメントであること、言うまでもない。
 
○またしても笑える話
 ただし、先ほど引用した平原一良の文章にも、思わず笑えてしまう嘘がないわけでなく、それは
「リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから」という個所である。
 平成17年度の夏から秋にかけて、亀井志乃は先に紹介したような仕事をしていたわけだが、主担当の平原一良に関する部分ではほとんど全く動きがなかった。
 まずその発端から辿ってみれば、早くも平成16年12月22日(水)に、常設展示見直し部会(第1回)が開かれ(
甲85号証 部会資料抜粋)、平原一良学芸副館長(当時)が中心となって参加者に趣旨説明をしたが(甲85号証より、 「常設展見直し部会の皆さまにご協力いただきたい事柄」)しかし、見直し部会はこの1回きりで、その後、二度と再び開かれることはなかった。
 
 平成17年度に入っても、具体的な常設展プロジェクトは何も動かず、亀井及びH学芸課長(当時)・Ko業務主査(当時)がしばしば平原学芸副館長に進捗状況を問い合わせたが、いつも「○○先生からの展示案がまだなので、僕から連絡しておくからちょっと待って」等という返事が戻って来るだけであった。見直し部会も開かれなかった。
 9月17日(土)に平原学芸副館長から、常設展の内照パネル(内側からライトで照らすタイプのプラスチック写真パネル)に使う写真数枚に関する指示が出(
甲88号証)、同月22日に漸く常設展の具体的な準備が始まった(甲84号証)。しかしその時も、亀井に、内照パネルの写真に合うような文学作品のテキストを抜粋しておくよう指示が出ただけだった。
 そして9月29日(木)の課内打合せで、やっと展示替えの作業分担案が平原学芸副館長から示された
甲80号証「常設展示室替えに関わる作業と分担について」及び「常設展示室 展示換え作業について」)。
 
 実際の動きはこのように鈍く、とうてい
「リニューアル作業が佳境を迎える夏ごろから」などと言える状態ではなかったのである。
 平原一良はこの
「夏ごろ、何をやって「佳境を迎え」ていたのであろうか。

○平原一良の凄まじい欠勤、遅刻、早退
 以後、亀井志乃が「準備書面(Ⅱ)-3」の中で、自分の記録に基づいて整理した常設展リニューアルまでの動きを追ってみよう。なお、平成17年度の亀井志乃の出勤日は水、木、土、日であった。
 
 10月4日(火)に常設展示室がクローズとなり、展示設営が開始されることとなった。この月、職員勤務割振(
甲89号証)で予定されていた学芸副館長の勤務日は21日間だった。だが、この頃、平原学芸副館長は図録『ガイド 北海道の文学』の執筆編集を理由にして、道立文学館に出勤しないことが時々あり、出勤日にも勤務時間中フルにいることは少なかった。現場への指示も滞りがちだった(以下の記録は、甲90号証 2005年度原告手帖の記述に基づく)。
10月 5日(水)平原学芸副館長が午前は外勤、午後は会議だったため、課内打合せ延期。
同  8日(土)平原学芸副館長、3時頃に一旦出勤してすぐにまた退出。H学芸課長打合せ出来ず。
同  9日(日)平原学芸副館長欠勤。指示来ず。学芸課作業停止。
同12日(水)平原学芸副館長・H学芸課長・O学芸員(当時。平成18年度は司書)・亀井の4人で作業打合せ。しかし、学芸副館長とO学芸員が話を前へ進めないので、途中から学芸課長が進行役をつとめる。
同15日(土)平原学芸副館長、サードワーク(検索機業者)にアポイントを忘れていたので、代わりに亀井が連絡をとる。
同16日(日)亀井、学芸副館長より「英語チェックのK先生、家庭の事情で×」と告げられる。英語キャプション作業実質停止。(前述)
同18日(火)亀井、非出勤日。A司書(当時。平成18年度は学芸員)より「みんな少し壊れてきています」(作業進捗しないため)との携帯メール受ける(
甲91号証)。
同19日(水)学芸副館長午前中休み。午後から出勤するも、「短歌・俳句の出品リストが先生方から来ていない」との理由で作業停止。
同20日(木)学芸副館長外勤、出勤は夕方。朝、「今日の展示作業はストップ」とH学芸課長に指示あり。
同22日(土)学芸副館長、午前11時頃に出勤。鈴木社会教育主事に「今日は特に常設展の動きはなし」と指示。
同23日(日)学芸副館長欠勤。「自宅で図録の校正をする」と連絡。
同26日(水) 学芸副館長、午後3時前頃に出勤。学芸課職員、この日はじめて、学芸副館長より展示壁面設計を渡される。学芸副館長は、図録校正で徹夜した事を理由に午後4時半に帰宅。
同27日(木)学芸副館長、午前10時前に昌文堂(業者)と打合せ予定。しかし遅刻。
同29日(土)学芸副館長、昼前頃出勤。常設展の指示を出して夕方前に帰宅。
同31日(月)この日は休館日だったが、現場の状況があまりにも切迫していたため、亀井も出勤。亀井がデータを作成した文学碑検索機、サードワーク(業者)により常設展示室に設置。サードワークO氏は午後1時に文学館に到着、しかし学芸副館長は45分の遅刻。また、O氏・亀井と共に検索機を試用した平原学芸副館長は、O氏の前で「まぁ、こんなもの、こけおどかしだけどな。じいさまたち(北海道文学館理事ら)が喜ぶんだよな」と発言。
11月 1日(火)展示準備最終日。亀井はこの日は非出勤日だったが、出勤して展示設営を行った。亀井は午後9時まで、他の職員は午後11時まで残って作業にあたった。学芸副館長は時折現場に来て指示を出していたが、夕方からは小説家の吉村昭氏を出迎えにゆき、そのまま接待にあたり、直帰した。

 こうして道立文学館は、翌日の11月2日、開館10周年記念のセレモニーを迎えたのである。

○平原一良は一体どこで何をやっていたのか?
 分かるように、リニューアル作業が「佳境」に入ったのは平成17年夏頃ではなく、リニューアルオープン直前の10月26日からだったのである。
 しかも当時の平原一良学芸副館長の出勤状況は変則的であり、10月4日から11月1日までの間には、欠勤・遅刻・早退した日がきわめて多かった。
 だがその間、亀井志乃は、水・木・土・日の勤務曜日にフルに出勤し、他の学芸職員とも携帯メールで緊密に連絡を交わしながら(
甲91・92号証 A司書メール)、準備作業および現場作業を手伝っていた。平原学芸副館長の代わりに外部業者との連絡・応対に当たることもあった。10月31日(月)・11月1日(火)は、現場の状況があまりにも切迫していたため、休日出勤して作業に当たった。通常は嘱託職員の時間外勤務についてチェックが厳しい業務課職員も、この時ばかりは亀井志乃の休日返上や時間外勤務について異論をはさまなかった。
 
 平原一良のすさまじい「働きぶり」であるが、さすがの彼も、亀井志乃が休日と非出勤日を返上し、残業までした事実を隠すことはできなかったのであろう。
常設展示のリニューアル作業が進む過程の大詰めの時期においては、学芸・業務両課スタッフ総動員で展示設営をこなし、同氏(亀井志乃)も最終段階では展示室での作業に加わるなど、積極的な参加の姿勢が見られました。」
 しかし平原さん、あなた自身はこの時期、一体どこで何をやっていたのですか?
 
 亀井志乃は「準備書面(Ⅱ)-3」で、次のように書いている。
《引用》
 
当時の実態は以上の如くです。それゆえ、平原現副館長の記すところの「リニューアル作業が佳境を迎える」頃に「複数の女性スタッフから、同氏(亀井氏)の在り方について『異義あり』の声の届く頻度が高く」なったのは、夏ではなく同年10月以降(正確には26日以降)のはずです。また、平原学芸副館長(当時)が「そうした声」を受け、猛忙を極めていたはずの「スタッフ」を「諫め、なだめ、落ち着かせるのに苦労」していた場所は、実際の状況に即すれば、道立文学館内であるという可能性はきわめて低い。とするならば、外勤先か、あるいは平原氏の自宅においてだったことになるわけですが、その点は極めて曖昧です。
 もし、平原現副館長があくまでも「上記の内容に相違ないことを誓います」(
乙12号証末尾)と主張するのであれば、平原氏自身の記録と書証に基づいて、正確に、いつ、誰から、どのようなシチュエーションにおいて、私に対する「異議あり」の声が平原学芸副館長(当時)に届いたのかを明らかにしなければなりません。それが出来ないならば、平原氏は根拠の曖昧な不特定の人の風評に基づいて、私の人格を貶めたことになります(7ページ31行目~8ページ7行目)

 こうしてみると、どうやら平原一良さん、あなたが言う「複数の女性スタッフの『異議あり』という声」は、亀井志乃が休日や非出勤日を返上して働き、残業までしたことに対する非難だったことになりそうですが、実際にそういうことがあり得たのですか。
 それにもう一つ、平原さんが言う「佳境」とは、複数の女性スタッフを諌めたり、なだめたり、落ち着かせることであったらしい。大変な「佳境」でしたネ。

○平原一良の立証責任
 ところが、平原一良は「陳述書」でこんなことも書いている。
《引用》
 
(亀井志乃が主担当だった)企画展『二組のデュオ』の展示準備は学芸スタッフばかりでなく業務課のスタッフの手も借りて進められました。直前まで展示パネルが仕上がっていませんでしたし、キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことでオープンに漕ぎ着けたのです(6ページ21~22行目)
 
 あれっ?! 平原は一体誰のことを書いてるんだ。
 平原は、寺嶋弘道が妨害的に『イゴーリ展』を割り込ませて、『二組のデュオ』展の準備を遅らせたことなど?(おくび)にも出さずに、ぬけぬけとこんな嘘を書いているわけだが、亀井志乃も呆れたらしく、
私はこの箇所を、平成17年度の常設展リニューアル作業における平原氏自身のパロディとして読んでしまいました(「準備書面(Ⅱ)-3」)と書いている。
 しかし笑って看過してはならない。これが裁判の鉄則であって、少なくとも亀井志乃は
「キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことで」に関して、平原に事実の証明を求める権利があり、平原はそれに答える責任がある。
 
 ここは、少し長いが、亀井志乃の反論を紹介しよう。
《引用》
 
私は、資料研究をしながら、自力で半年程かけて資料キャプション235点分の打ち込みを完成していました(甲75号証の1)。人物紹介や作品解説のテキストも、パソコンへの打ち込みは完了していました。そして、それらのテキストを、解説パネルやコーナーサインにも流用しています。これは、図録と展示との説明内容が齟齬しないようにと、私があらかじめ配慮したからです。それ故に、図録のキャプション及び解説と、実際の展示で使用されたキャプション(カード)及びパネルの解説とは、ほとんど同じ内容となっています(甲75号証の2・3参照)。写真図版にしても同様です。図録で用いられた写真と展示写真とは、サイズが違うだけで、全く同一の画像です。
 
また、私は、平成19年2月8日以前の段階では、展示設計もほぼ終えていたし(甲74号証参照)、キャプションもすでに刷り上がっていました。キャプションもコーナーサインも、あとはのり付きパネルに貼って仕上げるばかりとなっていました。
 
ですから実際には、「直前まで」(これも、平原氏はいつの時点を指して言っているのか不明ですが)「展示パネルが仕上がっていませんでしたし」ということはありませんでした。第一、すでに同年1月18日にアイワードに入稿してしまっているキャプションについて(甲48号証の2参照)、「学芸スタッフ」が改めて「打ち込み」を「手伝」ったという説明もリアリティに欠けています。仮に万が一キャプション(カード)作成作業が遅れていたとしても、デジタルテキストさえ手元にあれば、それをそのまま刷り出す方が、改めて「打ち込み」をするよりはるかに早く出来上がるはずだからです。
 もし平原氏が、あくまで「亀井の担当展覧会は作業
が大幅に遅れ、パネルもキャプションもほとんど他の学芸スタッフが作ったようなものだ」と主張するのならば、当然私が作成・準備していた図録原稿と実際の展示キャプションは大きく相違するはずなので、その違いを指摘する必要があります。
 展覧会で作成・使用した展示キャプションとパネルは、現在、北海道立文学館2階の機械室の奥にすべて保管されています(どの展覧会においても、文学館内で作成・使用されたパネル類は保管される)。それらのテキストと図録のテキストとをひき較べれば、同一人物または同一コンセプトのもとで作成されたか、それとも多くの人の手が加わった雑多な性質のものなのか、一目で分かります。平
原氏はその方法で、自説の真実性を簡単に証明することが出来るはずです。
 
なお(中略)図録校正は2月14日に終わっていました。校正刷りは、それ以前に、とうに回収されて印刷所に渡されていました。製本された図録が納品されたのは展覧会オープン当日の2月17日のことです。この事実から分かるように、平原氏や被告(寺嶋弘道)が主張するごとく、もし私が徒らに作業を遅らせるばかりで、パネル作成も何もせず、しかも他の職員を残して早帰りするほど非協力的だったとするのならば、他の「学芸スタッフ」が図録原稿どおりにテキストを打ち込むことは、まず不可能に近かったはずです。平原氏は、この点を十分に勘案した上で、自説の合理的な説明を試みられたい。どのような説明が得られるか、私は期待して待っています(33ページ7行目~34ページ6行目)

 亀井志乃はこのように平原一良の反論を待っている。
 前にも言ったように、亀井志乃が5月14日に裁判所に提出した「準備書面(Ⅱ)-1」、「準備書面(Ⅱ)-2」、「準備書面(Ⅱ)-3」は、その写しが、150点を越える証拠物と一緒に、太田三夫弁護士を介して、平原一良にも渡っているはずである。反論を7月2日に裁判所に届けるまで、十分に時間はある。
 平原一良に求められるのは、言い訳ではない。自分の証拠物に基づいて亀井志乃の主張を覆し、平原自身の「陳述書」が真実のみを述べていたことを証明することである。それが出来なければ、平原一良は「陳述書」で偽証した事実が残ってしまう。
 いや、それだけでは済まないかもしれない。太田弁護士は平原一良や寺嶋弘道の「陳述書」を、裁判の「証拠物」として提出した。ここは私自身、もう少し研究しなければならないのだが、「証拠物」がこれだけ嘘に満ちている以上、これは証拠の捏造になるのではないか。もしそうなれば、偽証の上に証拠の捏造という罪が重なるわけである。

 平原一良はそれだけの覚悟をもって、平原自身の「陳述書」が真実のみを述べていたことを証明する反論を書かなければならないわけだが、まず北海道立文学館2階の機械室の奥に保管されているという展示キャプションとパネルと、『人生を奏でる二組のデュオ』展の図録における亀井志乃のキャプションとの比較から始めるべきだろう。
 平原一良としては二度と見たくないかもしれない。
 だが、ひょっとしたら、運よくそのパネルに、「有島武郎はロンドンでホイットマンと会った」という意味のキャプションが載っているかもしれないではないか。呵々。

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