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「北海道文学館のたくらみ(32)

雉も鳴かずば撃たれまい(中)

○もう一つのすり替え例
 平成18年度の展覧会事業で、ミスらしいミスのない展覧会は、亀井志乃が主担当の「二組のデュオ」展だけだった。平原一良や寺嶋弘道にしてみれば、何としてでもケチをつけて、亀井志乃の信用を落としたい。そういう衝動が抑えがたかったのであろう、平原一良は「陳述書」の中で、「二組のデュオ」展が採用された経緯にまで遡って、いかに亀井志乃の行動が常識を欠いていたか、こんなふうに描いている。
《引用》

 同氏の担当する文学碑データベース作成作業も一段落するころ、学芸課内では平成18(2006)年度以降の事業素案を検討するためたびたび課内ミーティングが行われました。同年度から導入される指定管理者制度下における新たな展開を想定し、4ヵ年間の事業素案の作成作業を進める必要があり、私も参加しながら、学芸課長以下のスタッフで協議を重ね、幾つかの展示メニューが用意されました。これらの案は当財団の企画検討委員会(理事・評議員十余名で構成、財団スタッフも参加)における検討を経て煮詰められていくのですが、そのメニューのなかに亀井志乃氏の企画展「二組のデュオ」案も含まれていました。このテーマは近代文学研究者の立場にもあった同氏がかねてから構想をあたためていたものと思われます。
 事業素案検討のため、上記の委員会が開催されたのは平成17年9月29日のことでした。会議の席上、「学芸課の素案は個々の案についての説明文が不十分であり、粗い」との苦言がひとりの委員から厳しい口調で呈されました。その直後にとった亀井志乃氏の行動が私の印象に強く残っています。同氏は突然挙手し、「私の案は詳しい内容ができています。今コピーをとってきて、ご覧にいれます」と発言し、その場を出てコピーを用意して戻り、委員をはじめ出席者全員に配布しはじめたのです。予定にない同氏の行動は、私の目にはずいぶんと奇矯なものに映りました。会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。しかし、困った行動ではあるが一部の研究者にはありがちなことだと私は思い、あえて同氏に注意を促すことは控えました。猛忙を極めていた時期でしたから、不要なトラブルは避けるべきだと判断したわけです。この種のエピソードはこれ以上多く言及はしませんが、自分の欠点や失点について少しでも指摘されることを潔しとしない人なのだとの印象が、私の中では強くなっていきました。企画展「二組のデュオ」案は亀井志乃氏のみが詳しい内容を知る案でしたから、当時の学芸課内では、この企画展についての担当は同氏であろうとの認識が支配的でした。

 ここでも平原一良は巧妙なすり替えと、曖昧化を行っている。
 亀井志乃は2005年6月8日の学芸課打合せ会の席上、当時のH学芸課長から、指定管理制度導入を視野に入れた、次年度以降の展示案作りの話を聞いた。とにかく4年分の企画がすぐにも必要だ、という。亀井志乃は打合せの後で、H課長に、嘱託の自分も案を出してもいいか、と訊いたところ、「ええ、構いませんよ、なるべく沢山欲しいところなので」という返事だったので、6月16日に8点の企画書を出してみた。H課長はその後も、自分でも案を練る一方で、7月20日、8月25日に開かれた打合せ会において、再三他の学芸職員に企画の提出を促しており、9月16日の打合せ会では、集まったアイデアの一覧表を示し、「企画検討委員会提出プラン」に向けて、皆で検討をした。その時点では44本の企画案があったが、絞り込みを経て、企画検討委員会の段階では36案になっていた。
 9月29日の企画検討委員会では、「2006(H18)年度の展示事業候補案」と「(参考)2007年~09年度までの3年間の展示プラン案」が示されたわけだが、それを諮ったのは平原一良である。それを見て、「個々の展示案の説明が簡略すぎて、判断のしようがない」と言い出したのは、理事の工藤正廣北大教授(当時)だった。
 もし工藤正廣の苦言が、平原一良の言うように、「欠点や失点」の指摘だったとするならば、それは亀井志乃に対してのものではない。提案者の平原一良に向けられたものだったのである。

○凹んだ工藤正廣
 ただ、その時工藤正廣は、「2006(H18)年度の展示事業候補案」に選ばれていた亀井志乃の「二組のデュオ」案を取り上げ、「こんなもんやっても、人なんか来るはずがないんだよ」と頭ごなしに決めつけた。そこで亀井志乃は、手を挙げて発言の許可を求め、「その案についてはもっと詳しい説明が可能ですから、少しお待ち下さい」と言って、素案作成時に提出しておいた「二組のデュオ」案の説明文をコピーして配布した。それに対して別に異論が出たわけではなく、工藤正廣はバツが悪くなったのか、会議途中で中座してしまった。
 もし平原のところに後から苦情が寄せられたとすれば、必ずや苦情を寄せた人間の一人は工藤正廣であっただろう。

○屈折する平原一良
 ちなみに、「2006(H18)年度の展示事業候補案」には、亀井志乃の「二組のデュオ」展のほか、特別企画展案「石川啄木――貧苦と挫折を越えて―」、同「福永武彦/池澤夏樹――父子2代作家展――」、企画展案「遥かなるサハリン――極北をめざした作家たち―」が挙がっていた。平成17年9月の時点で、「石川啄木」と「福永武彦/池澤夏樹」を手掛けていたのは、当時の学芸副館長・平原一良だった。「遥かなるサハリン」を着想したのはB・Aさん(道職員の学芸員)だったと思う。Aさんは寒川光太郎について、地味だが、腰の据わった研究を重ねていたからである。だがAさんは、この時点では、既に北海道教育委員会の生涯学習部文化課へ転出していた。
 分かるように、平原一良が言う「ひとりの委員」から苦言が呈された時、説明責任を負っていたのは平原一良と亀井志乃だったのである。

 ところが平原は説明責任を果たさなかった。あるいは果たす準備をしていなかった。
 工藤正廣と平原一良は、いわば「肝胆相照らす」仲であり、啄木展の企画には評議員(当時)の立花峰夫北海道情報大学教授も加わっていたであろう。平成19年は啄木が北海道に来た100年目に当たり、函館、小樽、釧路の文学館が記念の企画を立てる公算が大きい。当然、札幌の道立文学館も連携して平成19年の道内文学館合同の啄木展を実施する発想もありえたはずだが、平原一良や立花峰夫たちはどうやら抜け駆けの功名を狙ったらしく、――事実、ほかの場面で私が質問をした時、平原一良は「日本近代文学館からのオファーがあったからだ」と主体性の欠片もないことを言うのみで、筋の通った説明はできなかった。――平成18年に単独で啄木展を開催することにした。企画検討委員会の中には複数の賛成者がおり、もし誰かが疑問を呈しても、潰されることはない。そんなふうに安心して、不用意だったのかもしれない。
 じじつ工藤は、啄木展や池澤展について疑義を呈さず、亀井志乃の企画案だけを批判した。亀井志乃がそれに答えるのは、当然の対応だろう。ところが平原一良によれば
「他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。」こんなふうに、良識人ぶった口調で、暗に亀井志乃の非常識をあげつらっているが、自分が準備不足だったことを誤魔化しているにすぎない。まともに説明できなかった自分の不手際を、亀井志乃の非常識にすり替えてしまったわけで、前回紹介した、常陸宮ご夫妻の前での失態を誤魔化した手口を、ここでも繰り返したわけである。
 彼はまた
「会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。」などと言っているが、もしスタッフの中から、「あれはスタンドプレーだ」という声が上がったとすれば、それは必ずや平原一良自身だったにちがいない。
  
 亀井志乃が自分の原案をゴリ押ししたわけではない。このことは、『業務計画書』における平成20年度の企画にも彼女の案が2つ採用されていることからも明らかであろう(「北海道文学館のたくらみ(30)」)。他方、「遥かなるサハリン」については、『業務計画書』では平成19年度に組んでいたが、平成19年度には実施せず、平成20年度の事業計画からも外してしまった。
 
 平原一良は
「ひとりの委員」とか「数人の委員やスタッフ」とかいう曖昧な言い方をしているが、こういう思わせぶりな言い方はやめた方がいい。裁判における「陳述書」は具体的な名前を挙げ、どのような批評あるいは批判だったかを明記しなければ、証言としての効力を持たないのである。

○口裏合わせ
 ただ、平原一良が
「会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。」と、わざわざ「スタンドプレー」云々という言葉を挿入した理由は分からないでもない。

 亀井志乃は平成18年8月29日の朝の打合せ会で、「翌30日にニセコの有島記念館に出張し、展覧会の勉強のため展示品を見ておきたい」旨の希望を述べ、出席職員の了解を得た。ところが、打合せ会が終わるや否や、寺嶋弘道がそのことを咎め始め、「スタンドプレーと言われないようにしなさい」と叱りつけた。亀井志乃は「準備書面」の中でそのことにも言及しておいたが、被告側の「準備書面(2)」は有効な反論ができていない。(おまけに「出張」を「主張」と誤記し、4月16日の訂正の時も自分の誤記に気がついていなかった。)
 そこで平原一良は、亀井志乃がスタンドプレーと言われやすい人間であることを印象づけ、寺嶋弘道の言動を庇おうとしたのである。

○寺嶋弘道の思わせぶり
 さて、その「二組のデュオ」展の設営と後始末の問題であるが、寺嶋弘道はその「陳述書」の中で、自分が「イーゴリ展」を割り込ませ、亀井志乃が展示設営作業を遅延させた事実は棚に上げて、――しかし、なぜか彼は全て「イゴーリ」と表記している――平原一良と口裏を合わせる形で、亀井志乃の準備が
「滞留していた」と言う。さらに彼の言うところによれば、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢することになったが、しかし「原告(亀井志乃)は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった」そうである。
 これもまた事実を偽った人格非難でしかないのだが、他人を引き合いに出す手口も、平原一良そっくりだった。
《引用》
 
また、この「二組のデュオ展」では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。このように原告は実際のところ学芸業務について経験が乏しかったにもかかわらず、「文学館の仕事にキャリアを持つ」(訴状)と自負するほど自尊心の強い性格だったと思います。

 こうして彼は亀井志乃の人格批判を積み重ねていくわけだが、この書き方における誤魔化しの急所は「道内美術館」「当該美術館」という曖昧な言い方にある。亀井志乃が絵画を借用した「道内美術館」は、木田金次郎美術館と道立近代美術館とであるが、寺嶋弘道が「お詫びの電話を入れた」のはいずれの美術館であるか、その電話の相手は何という名前の職員であったかを明らかにしていない。それに、そもそも一体誰から「後日そのことを伝え聞いた」のか、その日時、氏名、伝え聞いた経緯と内容が明らかではない。
 こういう書き方は裁判における証言としての効力はなく、むしろ寺嶋弘道という被告が如何に名誉毀損の人格的中傷を繰り返しやすい人物であるかを証明するだけであろう。

○寺嶋弘道、道立近代美術館学芸員を中傷する
 美術館から作品を借りる場合には、「借用書」を持参する。亀井志乃は木田金次郎美術館と近代道立美術館から木田金次郎の作品を借用したわけだが、もちろんいずれの場合も「借用書」を持っていった。
 木田金次郎美術館の借用の際には、O学芸員が「収蔵作品管理ファイル」のコピーを持っていて、亀井志乃と一緒に作品の現状におけるシミ、汚れ等を点検し、管理ファイルに書き込んだあと、更にそれをコピーしたものを亀井志乃に渡した。
 返却に当たっても、亀井志乃は「収蔵作品管理ファイル」のコピーを持参し、O学芸員とそれに従って細部を確認し、「はい、大丈夫です」という返事を聞き、「貴重なものをお貸しいただき、おかげさまで充実した展示をすることができました。どうもありがとうございました」とお礼を述べて帰ってきた。
 道立近代美術館の場合には、T学芸員からメールで「借用書」のフォーマットが送られてきた。だが
「作品図版カード」については何の言及もなかった。2月9日に借用に訪れた際にも、T学芸員から「作品図版カード」を持参したか否かの確認はなかった。木田美術館の時のようなファイルのコピーを渡されることもなかった。返却に当たってはT学芸員に細かいところまでチェックしてもらい、「大丈夫です」という返事をもらい、お礼を述べて帰ってきた。
 
 ただし、亀井志乃はT学芸員が不親切だったとも、手を抜いたとも考えていない。第1に、借用する作品は、木田金次郎がハガキに描いた小品で、額装も表面がきちんとガラスにおおわれた状態だった。――木田美術館から借用した作品は油絵で、表面がガラスでおおわれてはいなかった。文学館の展示では、用心のため、額ごとガラスケースに入れた。―
 第2に、亀井志乃は11月末頃からT学芸員と連絡を取り合い、1月16日には、図録掲載用に、同作品のスライドフィルムを借用していた。そのことを勘案して、T学芸員は、わざわざ「収蔵作品管理ファイル」のコピーを渡すまでもない、と考えたのであろう。
 
 分かるように、亀井志乃はいずれの学芸員とも、借用の依頼から返却の際しての打合せに至るまで、メールやファックスで連絡を取っている。もし亀井志乃に手落ちがあり、迷惑をかけたならば、O学芸員とT学芸員のいずれか、あるいは両方からその旨を伝えられたはずである。亀井志乃本人に直接伝えるのを避ける必要があったとは考えることができない。

 そのことを確認した上で、先ほどの寺嶋弘道の文章にもどってみよう。確かに亀井志乃は2月9日、道立近代美術館と岩内の木田金次郎美術館に、美専車(美術品運搬専用車)をチャーターして集荷に出かけた。寺嶋弘道は、この時亀井志乃が「作品図版カード」を持参しなかったことをあげつらっているわけだが、そうである以上、寺嶋は、亀井が道立文学館を出る前に、「借用書」の他に「作品図版カード」なるものを準備すべきだったと考えていたことになる。
 見方を変えれば、木田美術館も道立近代美術館も、それぞれ膨大な収蔵作品の全てに関する
「作品図版カード」を揃えて、道立文学館は言うまでもなく、全国のミュージアムに配布し、「本館所蔵の作品を借りる時は、「借用書」と一緒に「作品図版カード」を持参して下さい」と条件づけていたし、現在も条件づけている。寺嶋弘道はそう主張したことになるわけである。(それだけではない。寺嶋弘道の理屈を詰めて行けば、全国のミュージアムの全てが互いに「作品図版カード」を交換してなければならない道理となる。)
 
 ただ、木田美術館のほうは「収蔵作品管理ファイル」を用意し、貸出の時も返却の時も必要な確認作業を行っている。してみるならば、寺嶋弘道は
「当該美術館」などと思わせぶりに曖昧な言い方をしているが、彼がお詫びの電話を入れたという相手方は道立近代美術館のT学芸員であった。その可能性は極めて高い。
 この人は亀井志乃に
「作品図版カード」の持参を確かめたことはなく、「収蔵作品管理ファイル」のコピーも渡さなかった。そうしてみると、道立近代美術館のT学芸員は、作品図版カード」については事前に連絡もせず、当日も確認はしなかったけれども、亀井志乃が持参しなかったのは非常識だと、寺嶋弘道に苦情を言った。あるいは道立近代美術館のT学芸員は、亀井志乃が「作品図版カード」を持参しなかったという理由で、亀井志乃は学芸業務のイロハさえも知らない人間だと言いふらし、それが寺嶋弘道の耳に入った。彼が言うところを詰めて行けば、どうしてもそういう結論にならざるをえない。
 もしそうならば、道立近代美術館のT学芸員が亀井志乃を中傷したことになるわけだが、じつは寺嶋弘道がT学芸員を中傷したことにもなるだろう。なぜなら、寺嶋弘道は法廷の証言台において、
当該美術館」及び電話の相手の名前を明らかにせざるをえず、当然それはT学芸員が上記のような人物であることを証言するのと同じ意味を持ってしまうからである。

○寺嶋弘道の道づれ作戦
 このように寺嶋弘道は、かつて同僚だった人に対する中傷となることも顧みず、根拠の曖昧な、思わせぶりなエピソードを作文して、
原告(亀井志乃)は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった「このように原告は実際のところ学芸業務について経験が乏しかったにもかかわらず、「文学館の仕事にキャリアを持つ」(訴状)と自負するほど自尊心の強い性格だったと思います」と、亀井志乃の人格を貶めようとした。確かに亀井志乃は「文学館の仕事にキャリアを持つ」(「訴状」)と書いたが、美術館の仕事にキャリアも持つと書いたわけではない。ところが彼は、そのケジメもつけられず、自分が作文した思わせぶりのエピソードを理由として、亀井志乃は学芸業務の基本さえ弁えていなかったとこじつけ「自尊心の強い性格だったと思います」などと性格批評を披歴してみせたわけである。
 
 だが実際は、彼はこういう書き方によって、いかに彼自身が人格侵害、名誉毀損のパワー・ハラスメントを引き起こしやすい人間であるかを証明してしまった、と言うべきであろう。
 それだけではない。彼はこういう書き方によって
「道内美術館」の学芸員に、亀井志乃非難の一端を担わせようとした。つまり亀井志乃を中傷し、名誉を毀損する仲間に引き込み、責任を負わせようとしたのである。

 寺嶋弘道は被告側「準備書面(2)」においても、道立近代美術館のK学芸員の名前を挙げて、この人が寺嶋に〈亀井志乃の手紙で困惑を感じている〉旨の相談をした、と書いている。
 寺嶋弘道は誰彼かまわずに裁判に巻き込むつもりらしく、道立近代美術館のKさんにも、同じく道立近代美術館のTさんにも、そしてひょっとしたら木田金次郎美術館のOさんにも、平原一良と同様に「陳述書」を書いてくれ、と頼みに行くだろう。

○文学館の皆さんはくれぐれもご用心を
 いや、その前に、亀井志乃の行動に強い非難の声をあげたらしい
「駐在職員2名のほか財団職員2名」のところに、「陳述書」の話を持って行くかもしれない。それというのも「この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった」という表現は、どんな人たちが渦巻くほど強い非難の声をあげたのかを、微妙にぼかしているからである。案外非難の声を上げたのは寺嶋弘道自身だったかもしれない。だが、内容的に見れば先ほどの4人、あるいはその中の誰かが、亀井志乃の行動を口にしなければ、非難の声は渦巻かない。その意味では、まず非難の声をあげたのは先ほどの4人、またはその中の誰かだったことになる。結局寺嶋弘道はここでも「当該美術館」と同じ言葉のトリックを使い、亀井志乃を中傷した責任を先ほどの4人、またはその中の誰かに押しつけわけである。
 
 オープニング直前の会場設営は、作品を展示したり、キャプションのパネルを添えたり、もちろん一人で出来ることではなく、何人もの職員が手を貸してくれる。これは「二組のデュオ」展だけでなく、大がかりな展覧会の設営は常にそうして来た。ただ、「二組のデュオ」展の場合は、亀井志乃が責任者と見られていた。それ故、彼女が警備員に「今日の作業は終わった」旨の挨拶をし、それを受けて警備員が展示室のシャッターを閉め、職員入口の施錠をする。そういう手順になっていた。
 そんなわけで、亀井志乃が他の職員を残して、さっさと先に帰ってしまうことなどあり得ないはずだが、――じじつ亀井志乃はオープニングの前夜の2月16日には、設営を完了して、午後11時過ぎに帰宅できた。だが、その前は札幌に2泊して作業に当らざるをえなかったし、手を貸してくれた人とは一緒に館を出ている。――しかし寺嶋弘道によれば
「原告(亀井志乃)は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった」そうである。
 では、それは何日の夜のことだったのか。そういう具体的なことになると、先ほどの
「当該美術館」と同様、急に曖昧になってしまう。平原の「ひとりの委員」や、数人の委員やスタッフ」と同じやり方である。
 しかし「渦巻く」ほどに「強い非難の声」をあげたらしい
「駐在職員2名のほか財団職員2名」が、――少なくとも強い非難の声を渦巻かせるきっかけを作った「駐在職員2名のほか財団職員2名」が――誰と誰か、4人の名前は簡単に特定できる。
 ふ~ん、あの人たちも渦巻く非難の声に加わっていたんだ。どんな非難だったか、私も一度聞いてみたいものだな。
 
○空証文でも罪だけは残る
 道立近代美術館のKさんと、道立近代美術館のTさんは、かつて寺嶋弘道と同僚だったおかげで、どうやら彼の作文の証人に仕立てられてしまうらしい。これまでの行きがかり上、引き受けざるをえないかもしれないが、ただ一つ警告をしておけば、決して嘘は書かないように。とくにKさんは、亀井志乃の手紙を証拠として、どんな迷惑を蒙ったのかを証明しなければならないわけで、これはかなり困ったことになりそうだ。
 先ほども言ったように、法廷で問題になるのは被告の行為事実の確認と、法律の適用の是非だけである。これまで引用した平原一良や寺嶋弘道のような書き方は、遊女の空証文みたいなもので、何の効力も持たない。
 何の効力も持たないが、しかし人格非難の名誉毀損を行ったことや、偽証した事実は、名誉毀損罪や偽証罪の証拠として残る。もちろん太田弁護士が作成した「準備書面(2)」も、その責任を免れることはできない。
 
 それにしても、太田弁護士はなぜ平原一良や寺嶋弘道の「陳述書」を出してきたのであろうか。二人の「陳述書」の事実関係は亀井志乃がチェックしているが、確実な証拠よって、それぞれ10箇所近く、虚偽を指摘できるという。平原一良は「陳述書」だけで、法廷には出ないらしいから、偽証罪にまでは至らないかもしれない。だが、名誉毀損罪に問われる公算は大きい。寺嶋弘道が証人台に立てば、多分両方の罪が問われることになる。
 ひょっとしたら太田さんは、それを百も承知の上で、4月16日、二人の「陳述書」を出し、「人証の申出(被告本人。尋問時間60分)」をしたのかもしれない。
 
 

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北海道文学館のたくらみ(31)

雉も鳴かずば撃たれまい(上)

○後戻りできない「陳述書」
 私は前回、「すごい裁判になりそうな悪感!」と書き、「平原一良さん、大丈夫かな」と書いた。4月16日の第3回公判に出て、幸か不幸か、予想が的中してしまった。あんまり見事に的中したので、我ながら驚いている。
 
 4月16日、11時から公判が始まったが、裁判長が田口紀子裁判官に変わった。4月に人事異動があったためかもしれない。まず双方の「準備書面」の訂正があり、太田三夫弁護士の被告側「準備書面(2)」の訂正は11個所、亀井志乃の「準備書面」の訂正は1個所だった。
 この日漸く、太田弁護士から「準備書面(2)」に対応する証拠物が12点出された。その中には、被告・寺嶋弘道の「陳述書」と、平原一良副館長の「陳述書」が入っている。裁判長が、「では、この通りに陳述しますか」と質問し、太田弁護士は「はい」と返事をした。この瞬間、「準備書面(2)」だけでなく、寺嶋の「陳述書」も平原の「陳述書」も法廷で陳述したことになる。以後、遠慮なく引用させてもらう。
 特に平原の「陳述書」は「上記の内容に相違ないことを誓います。」と結び、署名捺印してある。ということはつまり、その内容に偽りがあった場合、「あっ! そこは勘違いでした」と訂正する程度のことでは済まされない。偽証罪に問われることになるのである。
 
 次回の公判は5月23日(金)の午後1時半から、と決まった。被告側「準備書面(2)」及び寺嶋、平原の「陳述書」に対する亀井志乃の反論は、裁判長がゴールデン・ウィークを配慮して、5月14日(水)までに提出することになった。
 亀井志乃は「では、5月14日までに原告の「準備書面」を提出して、5月23日はどのようなことが行われるのでしょうか」と訊いてみた。田口紀子裁判長の返事は、「今日初めて「陳述書」が出て、原告はまだお読みになっていないわけですね。原告がそれをお読みになってから、原告側の「準備書面」を出していただくわけですから、次回はその「準備書面」を見た上で、争点をもっと明確にするために「準備書面」の交換を続けるか、それとも双方の尋問に入るかを決めたいと思います」ということだった。
 太田弁護士は被告・寺嶋弘道の本人尋問を申し出ている。被告本人もそれを前提としてだろう、平原のように「上記の内容に相違ないことを誓います」とは結んでいない。証言台で真実のみを述べることを誓うつもりなのである。
 
 公判は11時半に終わった。裁判長が「今日はこれで閉廷します」と言う前に、太田三夫弁護士はそそくさと出て行った。

○一体どちらが法律家の文章なのか。
 寺嶋の「陳述書」も、平原の「陳述書」も日付は4月8日になっている。それなのに、どうして太田弁護士は9日に、「準備書面(2)」と一緒にファックスで送ってこなかったのだろう。大通公園を散歩がてら帰りながら、私たちはそんな話をした。これも太田弁護士の引き延ばし作戦かもしれないね。

 それにしても、平原一良副館長は何故あんな「陳述書」を書いたのか。彼は被告じゃない。裁判の証人台に立つ予定はないらしい。太田弁護士の「証拠説明書(乙号証)」の説明によれば、平原の「陳述書」の立証趣旨は、「原告の財団での勤務態度が好ましいものではなかったこと」を証言するためだという。
 しかしそんなことを書いて何の役に立つのだろう。訴訟の焦点は、「北海道教育委員会の職員である寺嶋弘道という公務員が、駐在先の民間の財団法人で嘱託として働く亀井志乃という市民に人権侵害の言動を繰り返した」ということにある。
 太田弁護士の「準備書面(2)」はこの基本的な問題には全くふれずに、ただ「被告は原告の事実上の上司であり、被告の言動は部下に対する指導だから、まったく違法性はない」の一点張りで、法律の問題にも一言半句ふれていない。その代わりに、原告・亀井志乃の当時の言動や、「準備書面」主張を故意に曲解して、「常軌を逸している」と、原告個人に対する人格非難を繰り返している。おまけに、わずか12枚の「準備書面(2)」で訂正は11個所もあった。
 それに反して、亀井志乃の書き方は、前回や前々回の引用で分かるように、被告の人格を云々することは全くしていない。証拠に基づいて、被告の行為事実を挙げ、それがどのような法律に違反するかを指摘するにとどめている。
 一体どっちが法律家の文章なのか。
 
 そんな感想が浮かんでくるほど書き方の差が大きいのだが、寺嶋弘道の「陳述書」や、平原一良の「陳述書」は太田弁護士の書き方に輪をかけて、もっぱら亀井志乃の人格非難にかまけていた。
 
○平原一良が描いた亀井志乃像
 ただし、平原一良の「陳述書」は一見筆を抑え、客観的な記述を心がけているかの如くであり、平成13年(2001)の初夏から初冬にかけて、亀井志乃にボランティアで寄贈資料の整理をしてもらったことがあるが、その時は、1階の和室を一人で使っていた。そのおかげで、財団の他のスタッフとはほとんど交渉がなく、
特記すべき人間関係上の軋轢もなく淡々と作業が進み、区切りのついた同年末に同氏(亀井志乃)と当財団との関係は終了しました」。
 こんなふうに彼は説き起こして、亀井志乃が人間関係上の問題を起こさなかったのは孤立した空間にいたおかげであると、まずそのことを確認し、――とはいえ、すでにこの中にも重要な間違いが含まれているのだが――やがて、平成16年7月に財団の嘱託職員に採用されて以後、次第に彼女の非協調的な言動が顕著になって、ついに次のように非常識で自己顕示的な行動を見せるに至った。これを読めば、平原一良の作話能力の水準がよく分かるだろう。
《引用》
 
企画展「二組のデュオ」の展示準備は学芸スタッフばかりでなく業務課スタッフの手も借りて進められました。直前まで展示パネルが仕上がっていませんでした。キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことでオープンに漕ぎつけたのです。亀井志乃氏にとっては初めてみずから手がける展示でしたから、無理もないことです。たった独りで設営に当たるなど、文学館を含むミュージアムの世界では、特別の事情がない限りあり得ません。
 
この企画展の会期半ば(3月9日)に、宮家からお二方のご来館があり、常設展示と企画展のそれぞれをご覧いただき、私が説明役の任に当たりました。事前に北海道警察本部との間でご来館時の流れを検討し、役割分担を毛利館長らとも打合せ、職員にも伝えてその時に臨みました。常設展示の説明が終わり、企画展へとお二方にお運びいただき、私が説明を開始した数分後に、警護官らが不自然な動きを見せたので、私はそちらへと目を向けました。すぐ間近に亀井氏が迫っており、警護官が動きかけたので、咄嗟に私は「当館の職員で、この担当を展示した者でございます」と説明して、その場をとりつくろいました。亀井氏は、その直後から上気した様子で一部のコーナー解説を始めるなど、最後まで展示室内にとどまりました。当初の予定にないと突然のことでした。自分の手がけた展示をなんとしてでも自分が説明したい、事前の打ち合わせなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動で、私はもちろん幹部職員は冷や汗をかいたのでしたが、いま顧みると極めて非常識な行動であり、自らの業績を顕示したいとの欲求を抑制できない人物には、十分にあり得る出来事だったと思わざるを得ません。
 このあたりで、陳述を終わることにします。日常過程にあって問題解決を対話的に行うことを心得、職場などへの社会的な適応性を普通に備えた人物であれば、本件のような事態をもたらさないはずだと思うばかりです。
                                  ――以上――
 2008年4月8日
               上記の内容に相違ないことを誓います。
                      (財)北海道文学館 副館長・専務理事
                                        平原 一良    印

 「すごい裁判になりそうな悪感!」が的中してしまった。初めに私がそう書いておいた。その理由は、こんな「証言」が平原一良の口から飛び出てきたためであるが、この文章の第1段については、「北海道文学館のたくらみ(9)」を読んでもらえば、どんなことが職員総掛りで行われたか、直ちに分かってもらえると思う。特に悪質なのは、亀井志乃が展示の設営にかかる直前に、寺嶋弘道が「ロシア人のみた日本――シナリオ作家イーゴリのまなざし――」という展示を割り込ませて、特別展示室の入口を塞いでしまった。その事実に平原は全く言及していないことである。

○事実の歪曲
 また、展覧会のオープニングまでに仕上げた『人生を奏でる二組のデュオ?―有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二――』(2007年2月17日)という図録(北海道立文学館発行)を見てもらえば、亀井志乃がどれだけ準備を重ねたか一目瞭然のはずである。
 この図録の原稿を何日ころ印刷会社へ渡したか。そう想定してみるだけでも、キャプションやパネルの準備がどの段階で終わっていたかも十分に推測できるはずであり、じじつ亀井志乃は展示関係資料235点のキャプションの打ち込みを、平成18年(2006年)の12月頃までに終わっていた。データベースはFileMakerで作成した。その中から展示に出す143点を絞り込み、図録用のキャプションもそこからセレクトした。図録用の原稿は平成19年(2007年)1月18日夕刻、印刷会社のアイワードに入稿している。
 それと前後して、副担当の阿部学芸員に頼んで、展示用キャプションの印刷用レイアウトを作ってもらい、その後間もなく刷り出した。あとはパネル用ボードに貼りつけるだけ、というところまで、この時点ですでに準備していたのである。
 
 平原一良はそういう準備状態を全く無視して書いている。ちょっと見には、いかにも亀井志乃に同情的だったような書き方をしているが、いかに悪意ある作為を施して事実をねじ曲げていたか、明らかだろう。

○平原一良の「冷や汗」
 先に引用した文章の第2段は、事実の歪曲がもっとはなはだしい。
 彼が言うところを、亀井志乃の側から事情説明をすれば、事実は以下の如くであった。
 
 2007年の3月9日、常陸宮ご夫妻が北海道立文学館を訪れた。事務室の留守居役1、2名を除いた職員一同がお迎えをし、まず常設展の展示室を案内して、平原一良副館長が説明役を務めた。文学館側からは神谷理事長と毛利館長が同行し、宮内庁の役人と警護の人たち、合せて5、6名の人も一緒に入って行った。
 予定された時間は45分。常設展の他に、もう一つ、特別展示室の企画展の「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二~」があるが、常設展の説明が終って、僅かに10分程度しか残っていない。亀井志乃はこの企画展を担当した立場上、特別展示室の案内には随いて行くことにして、一番後方に控えていた。
 展示物は時計の針と反対方向で回るように配置してあり、入口近くの右手の壁には、まず若き日の有島武郎の写真が掛かっていた。平原副館長は常陸宮ご夫妻をその前に案内し、「有島武郎はアメリカ留学から日本へ帰る途中、ロンドンでホイットマンと会った」という意味の説明をした。亀井志乃は小声ではあったが、思わず「えッ!?」と声を発してしまった。有島がロンドンで会ったのは、亡命中のロシアの無政府主義者・クロポトキンだったからである。これは少しでも有島の伝記に通じている者にとっては周知の事実であるが、長年北海道文学館の学芸員を務めてきた平原副館長は、信じられないほど初歩的なミスを犯してしまったのである。
 それに、アメリカの詩人ワルト・ホイットマンは有島より60年ほど前に生まれ、有島が留学する11年前に既に亡くなっていた。
 
 亀井志乃が「えッ!?」という声を発した理由はそれだけではない。
 彼女は有島の若き日の写真や、有島が描いた絵の傍らに、誰の目にも負担がかからないように、大きめな文字で、解説パネルをつけておいた。ホイットマンの生没年(1819~1892)は言うまでもなく、有島がホイットマンの詩集『草の葉』を知ったきっかけもちゃんと説明してある
「有島武郎は、ハーバード大学大学院の聴講生となった一九〇五年(明治三八)、ボストンに部屋を間借りさせてくれた弁護士、フレデリック・ウィリアム・ピーボディが夕食後に『草の葉』を朗唱するのを聞き、「長く長く遥かに望みつゝありし一のオアシス」(『観想録』)に巡り合ったかのように感動した。ちなみに、当時は、アメリカ国内でもまだホイットマンの詩に対する評価は確立していなかった。」と。
 常陸宮ご夫妻は現にその時、パネルのすぐ前にお立ちになり、解説もご覧になっている。にもかかわらず平原副館長は、常陸宮ご夫妻の目にも明らかな、とんちんかんな説明をしてしまったのである。
 だが、彼は自分の失敗に気がつかないらしい。ただ、何かおかしなことを言ったかもしれない。そんな不安が一瞬よぎったらしく、自信なさそうな表情で亀井志乃のほうを振りかえった。宮様ご夫妻も振り向いていらっしゃる。そこで彼女はこころもち歩を前に進めて、「…あの、有島武郎はホイットマンの詩と出会ったのです…」と、キャプションに即して簡潔に説明した。
 
 亀井志乃はこの日の午前中は、いつもの通り、新着雑誌類を閲覧室や書庫に配架する仕事をしていたが、11時半頃、展示資料を貸して下さったY・Hさんご夫妻がわざわざ千葉から訪ねて来られたので、企画展の特別展示室に案内して、説明をしたり、ロビーでお話をうかがったりした。常陸宮ご夫妻がお見えになったのは、Y・Hさんご夫妻が帰られて間もなくの、午後2時45分頃のことだった。
 亀井志乃は宮様ご夫妻に随って常設展の展示室に入ることはせず、入口を入ってすぐの所に立って、平原副館長がどのように説明しているのか、聞いていた。すると、「昨年、高円宮様がお見えになった時……」という平原副館長の声が聞こえてきた。昨年(2006年)、道立文学館を訪ねたのは桂宮であって、高円宮ではない。高円宮は平成14年(2002)11月に亡くなっている。ずいぶん失礼な間違いだが、平原副館長は気がつかないらしく、また同じ勘違いを繰り返した。宮様ご夫妻はどのようなお気持ちで聞いていらっしゃるのか、亀井志乃はハラハラしながら聞いていた。
 その時の常陸宮ご夫妻の表情はもちろん知る由もないが、有島武郎の説明の失策の際には、ただ黙って微笑んでいらっしゃった。
 
 その後も平原副館長が、それこそ「冷や汗」を拭き拭き説明を続け、やがて案内は里見弴と中戸川吉二のコーナーへと進んだ。お二方は中戸川吉二の『イボタの蟲』の引用パネルや、中戸川が自分の愛馬と撮った写真などを興味深そうにご覧になっている。中戸川吉二は割合に早く小説の筆を折ったが、競馬が好きで、競馬随筆のジャンルを開き、菊池寛たち競馬好きの文士が誕生するきっかけをつくった。亀井志乃はそれを説明するパネルもつけておいたのだが、平原副館長は中戸川や里見弴が苦手らしく、このコーナーの後半からは、しぶしぶ説明役を亀井志乃に譲る形になった。皇族の競馬好きは有名であるが、常陸宮ご夫妻も例外ではないらしい。興味を持って耳を傾けておられた。

 特別展示室を出たお二方は、館長たちとエレベーターで1階のロビーに上がられた。亀井志乃は階段を上がっていった。エレベーターの開閉に若干時間がかかったらしく、階段を使った亀井志乃のほうが早く上に着き、宮様方がエレベーターから出ていらっしゃるのをお待ちする形となった。その前を通りかかられた時、華子様が「ありがとう」と亀井志乃に声をかけた。その様子を見ていた川崎業務課長が、あとで、「華子様、亀井さんに「ありがとう」っておっしゃたね!」と言った。

○これはもう仕方がない
 当日の夜、私はそれを聞いて、「これが戦後でよかったな。戦前、もし宮様の名前を間違えたりしたら、平原の首はたちまちぶっ飛んでしまうよ」と笑った。
 亀井志乃は「でも、あの人にとっては恥ずかしい話だから、まあ書かずにいたほうがネ……。それに、宮様方とのことは大切にしたい思い出でもあるし」。そう言って、口外を慎んでいたのだが、平原一良自身が先ほどのような形で持ち出し、自分の失態を亀井志乃にすり替えている。私は前回、〈変更したものある〉という平原の言い訳を紹介したが、またしてもやったのである。これはもう仕方がない。実際にあったことを明らかにするほかはないだろう。
 
○三文劇画の見過ぎ?
 この二つの記述のどちらにリアリティを感ずるかは、これを読んだ人の判断に任せるよりほかはない。
 
 ただ
「私が説明を開始した数分後に、警護官らが不自然な動きを見せたので、私はそちらへと目を向けました。すぐ間近に亀井氏が迫っており、警護官が動きかけたので、」という平原一良の記述は、どうもいただけない。
 平原一良としては、〈亀井志乃は一行の後ろにいて機をうかがっていた〉、あるいは〈一行の後を追うようにして入口から入ってきて、平原が説明を始めるや警護官を押しのけて前へ出ようとした〉と裁判官が受け取るように、亀井志乃の行動を描写したつもりなのであろう。だが実際問題として、彼が描写したようなことはあり得ないと思う。
 
 展示は入り口の右手の壁に有島武郎関係のものを並べ、それと向かい合う位置に移動壁で壁面を作って木田金次郎関係のものを並べ、二つの壁の間の通路は2メートル20センチしかない。ただし随所にガラスケースが置いてあり、身体感覚的に言えば、1メートル半程度の幅しかなかったことになる。そこへ、文学館の館長ら3人と、宮内庁の職員や警護の人が、常陸宮ご夫妻に身体を近づけすぎないように立っている。しかし、まさか「警護員デース」みたいな格好や、関係者以外の人間を寄せつけない物々しい雰囲気で、常陸宮ご夫妻を取り囲んでいたわけでもあるまい。
 そんなわけで、その人たちが亀井志乃を文学館の職員と認知していれば、仮に亀井志乃が前に出ようとしても、阻止するような動きをするはずがない。いま説明している副館長をサポートするつもりなのだ、という程度にしか受け取らないであろう。そもそも平原副館長は、宮様と共に、有島武郎の写真や絵を見ながら説明していたはずで、その後ろから随き従っている「警護官らの不自然な動き」が、彼の視野に入るはずがない。
 平原一良は三文劇画の見過ぎではないか。
 
○平原一良、3つの誤算
 2007年3月9日、道立文学館は平常通り開館していた。常陸宮ご夫妻がお見えになるからという理由で、一般の来観者をシャット・アウトはしていなかった。現にY・Hさんご夫妻も来館している。現在の皇族や宮内庁が一番懸念していることは、一般来館者をシャット・アウトするような仰々しい警備体制を敷き、そのため国民の心が皇室から離れてしまうことである。警察の人が警備に当たることは言うまでもないが、実際は前日のうちに、植木鉢の中や、館内のロッカーなど、危険物が隠されていそうな所を入念にチェックし、当日は私服姿で、目立たない位置に控えている。
 それに、警護の人は午前中早くから館の1階ロビーで待機しており、亀井志乃は図書を持って閲覧室に出入りしたり、手洗いに行ったりして、その人たちと何度か会釈を交わしていた。警護官はその日の午後までには、すでに十分、亀井志乃を「館の職員」と認識していたのである。
 
 平原一良は、「役割分担を毛利館長らとも打合せ、職員にも伝え」た会合(もしそういう会合を持ったとすれば、の話であるが)に亀井志乃を呼ばず、当日は、文学館職員であることを示すバッジを亀井志乃にだけは渡さなかった
「亀井氏は、その直後から上気した様子で一部のコーナー解説を始めるなど、最後まで展示室内にとどまりました。当初の予定にない突然のことでした」。この平原の一文が、はからずも彼の本音を露呈してしまったように、彼は常陸宮ご夫妻の応接業務の一切から、亀井志乃を排除してしまうつもりだった。亀井志乃が自分の手がけた展示室に入ることも、最後まで展示室にとどまることも、平原一良は「当初の予定」から外していたのである。
 ところが、宮内庁の人たちは、バッジをつけていない/配られなかった亀井志乃が特別企画室に入るのを咎めるわけでもなく、常陸宮ご夫妻は亀井志乃の説明に耳を傾けていた。これが平原一良の第一の誤算であろう。
 
 平原一良のもう一つの誤算は、自分がとんでもない無知を曝け出してしまったことだった。
 
 私は2002年の3月17日、アメリカのUCLAから客員教授に招かれ、ロサンゼルスに向かった。小樽市長や教育委員会へ事情説明に出かけたり、講義の原稿を作ったりしているころだったが、1月31日、紀宮さまが来館された。私は初めにごく簡単に挨拶を申し上げただけで、館内の案内と展示の説明は学芸員の玉川さんに任せた。
 いま手帳をめくってみると、その前年(2001年)の12月19日、宮内庁の紀宮さまつきの役人が文学館の下見にやってきた。道警本部と小樽市警の警察官も一緒だった。その後も、警察の人が1、2度、挨拶にやってきたが、雑談の折、私のホームページ(「亀井秀雄の発言」)の「歴史教科書問題」を読んだと言い、「たいていの人は、『新しい歴史教科書を作る会』の側に立つか、それに反対する会の側につくか、どちらかの立場で書いていますけれど、館長さんは「反対する会」も批判するけど、小林よしのりも批判している。小林よしのりをああいう形で批判しているところは面白かったですよ」と評価してくれた。
 私は警察の警備担当がどこまで調べるかについては何も知らない。ただ、こう言っては紀宮さまには失礼かもしれないが、皇位継承順位をもつ常陸宮の警護はもっと念入りな準備が行われたと思う。インターネットで「北海道立文学館」を検索し、ヒットしたものには一通り目を通して置く。それくらいの手間は、惜しまなかったであろう。
 ということはつまり、警備の担当者も宮内庁の職員も、「人生を奏でる二組のデュオ」展がどういう経緯でオープンにまで漕ぎつけたか、十分に承知していた公算が極めて大きいということである。
 その点も平原一良の誤算であっただろう。

 

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北海道文学館のたくらみ(30)

まるで某一党独裁国家の聖火リレー報道みたい

○すごい裁判になりそうな悪寒!
 被告側は、物証(物的証拠)の他、人証(人的証拠物)を1人または2人用意しているらしいが、1人は被告の寺嶋弘道自身だとして、もう1人は平原一良副館長だろうね。
 そんなふうに私たち家族は予想していた。「北海道文学館のたくらみ(27)」で、原告・亀井志乃の「準備書面」の一部を紹介したが、ああいう箇所から分かるように、被告の言動に一番深くかかわっていたのは平原副館長だったからである。

 そうこうしているうちに、4月9日(水)、被告代理人・太田三夫弁護士から「準備書面(2)」が届いた。この日、私は小樽へ出ていたので、帰ってから見たのだが、家族の話では、「これから文書を送りたい」ということわりの電話もなしに、いきなりファックスで届いたという。枚数は12枚。
 3月14日(金)の第2回公判で、太田弁護士は4月8日に提出すると確言していたが、結局は1日遅れ。しかも「準備書面(2)」以外に、被告の「陳述書」や証拠物も提出するはずだったのだが、それらは附いていなかった。あるいは4月16日(水)の第3回公判に持ってくるつもりかもしれない。
 たしか私の記憶によれば、太田弁護士は、〈4月8日には証拠物を出すつもりだが、その後は出す予定はない〉という意味のことを明言していた。ところが、4月9日のファックスには証拠物はなし。もし4月16日に持ってこなかったとすれば、被告側の証拠物は全くなし、ということになる。2ちゃんねるふうに言えば、何だかすごい裁判になりそうな悪寒!。

○太田弁護士のスタイル
 ということから推測できるように、4月9日の被告側「準備書面(2)」は、亀井志乃の原告側「準備書面」に対する逆ねじと揚げ足取りに終始していた。太田弁護士は労働審判の時も財団法人北海道文学館の代理人をしていたが、その時の「答弁書」と併せ考えてみるに、これが太田さんの得意技、弁護スタイルであるらしい。
 その詳細は4月16日の第3回公判が終ってから紹介したいと思うが、ともあれその書き方は、証拠に基づく裏づけなしに、もっぱら亀井志乃の人格を貶めることが中心だった。その間、平原一良副館長の名前が頻繁に出て来る。川崎業務課長の名前も、永野キエ主査の名前も出て来る。道立近代美術館の職員の名前も挙っている。どうやら証拠物の代りに、証人を立て、亀井志乃の人格論をやってもらうつもりらしい。――もっとも、裁判では人間も証拠物なのだが、――ただ、名前が出てくる頻度から見て、まず平原副館長が証人台に上がることになるだろう。

 しかし、平原一良さん、裁判の証人台に立って大丈夫かな。

○またしても道民に対する裏切り行為
 平原一良さん、証人台に立って大丈夫かな。
 平原さんには余計なお世話かもしれないが、ついそんな心配が出てしまった。それと言うのも、3月7日(金)に開かれた、財団法人北海道文学館の「平成19年度第2回理事会・評議員会」の記憶が鮮明に残っていたためである。

 この日の議題は3つあり、第1号議案は「平成19年度一般会計補正予算(案)について」であるが、どんな内容か、ここでは省略する。

 第2号議案は「平成20年度事業計画(案)について」であり、私は原案に反対を表明した。展示企画が次のようになっていたからである。
特別企画展「黄金の書物の庭~吉増剛造展」(仮題)
企画展「馬―加藤多一と4つのお話 北を描いた挿絵と原画」(仮題)
企画展「鳥のことば・人のことば 加藤幸子の見つめる世界」(仮題)、
企画展「文士の素顔 八木義徳の世界展」(仮題)

 私はこれらの企画のどれかを取り上げて反対したわけではない。しかし、財団法人北海道文学館が指定管理者に選ばれるに当って、道(北海道教育委員会)に提出した『北海道立文学館 業務計画書』によれば、平成20年度の展示企画は次のようになっていた。
特別企画展「親子で読む100冊の本」
特別企画展「「作家以前」の作家たち~書き手を育てた近代北海道の「職業」~」
企画展「山と牧場と草花の詩 坂本直行」
企画展「わが心のうた~童謡・唱歌展~」

 較べて分かるように、道(北海道教育委員会)と約束した、つまり道民と約束した企画とは似ても似つかない企画が、会議で提案されたのである。(ちなみに、平成20年度の特別企画展「「作家以前」の作家たち」と、企画展「坂本直行」は、亀井志乃が提案し、それが『業務計画書』に盛り込まれていたのであるが、財団は亀井志乃を出してしまった。多分このことと、企画の大幅な変更とは無関係ではない)。

 ただし、こうしたことは今回が初めてではなかった。財団法人北海道文学館が平成19年度に実施した展覧会は以下のようであった。
企画展「父・船山馨のDNA 船山滋生の彫刻と挿絵」
特別企画展「太宰治の青春 津島修治であったころ」
特別企画展「目で識る川柳250年展」
企画展「新発見! 100年前の児童雑誌」
企画展「探求者の魂 山田昭夫の書斎から」

 だが、財団が『業務計画書』で約束した平成19年度の展示企画は次のようなものだったのである。
特別企画展「八木義徳と北海道の作家たち」
特別企画展「作家は自然をどうとらえたか~「描かれた北海道」からの問い~」
企画展「遥かなるサハリン~極北をめざした作家たち~」
企画展「雑誌はタイムマシン~明治から昭和初期児童雑誌展~」

 これまた大幅な変更だったことが分かるだろう。

 これらの中で、それなりに関連を見出すことができるのは、企画展「雑誌はタイムマシン」展が、企画展「100年前の児童雑誌」と変ったらしいことであるが、念のために説明しておけば、展覧会事業の予算的裏づけは2種類ある。そしてこれは、財団の自主財源による、つまり財団自身の会計に基づく企画事業だった。(後に追加した山田昭夫展も同じ)。
 それに対して、『業務計画書』の2つの特別企画展と1つの企画展は「道負担金」、つまり道が支出した税金に依る事業だったわけだが、それが全く異なる内容に変えられてしまったのである。

 平成19年度と言えば、指定管理者制度になってわずかに2年目。にもかかわらず、道民との約束である『業務計画書』の内容をこんなふうに変更していいのか。しかも、より北海道の文学に迫る企画に代り、それなりの正当な理由に基づく変更ならば、まだしも納得ができる。だが、北海道出身の八木義徳展が太宰治展に、「描かれた北海道」展が川柳250年展に、サハリン関連の企画が船山滋生展へと、指定管理者制度の趣旨を裏切る方向に変わってしまった。これは道民に対する約束違反ではないか。私は平成19年度の事業計画(案)の時、そう指摘した。ところが、平成20年度の事業計画(案)でも同じ約束違反をやろうとしている。「こういうことはあってはならない。そういう意味で私は反対です」。これが私の反対理由だった。

○某一党独裁国家の聖火リレー報道みたいな説明
 それに対する平原一良副館長の釈明はおおむね次のようなものであった。
 〈たしかに変更したものもある。しかしその中には、読み替えて欲しいものもある。4年間の計画について、全てきっちりと決められるわけではない。事情によっては変えることがあることは、「申請書」にも明記してある〉。

 彼は何か心にやましいことがある場合、そういう癖が出るらしいのだが、太宰治展の時も〈太宰治も北海道へ来たことがあるかもしれなせんよね〉と、何度も〈かも〉に力を入れた言い方をし、まわりの人は ? というような怪訝な顔をしていた。今度も何度か〈変更したものある〉と、〈〉を強調する言い方をしていたが、〈ある〉なんて段じゃない。上に紹介した如く、〈変更したものばかり〉なのである。
 ただ、一つ取柄があるとすれば、平成19年度にキャンセルしてしまった
特別企画展「八木義徳と北海道の作家たち」を、平成20年度で,企画展「文士の素顔 八木義徳の世界展」(仮題)という形で復活させることだろう。強いて意味づけるならば、〈読み替え〉とはこのことを指す、と言えなくもない。平成20年度の八木義徳展は町田文学館との共催で行う予定だという。八木義徳と言えば、室蘭の「港の文学館」に充実したコレクションがある。平成19年度の特別企画展(5~6月)をキャンセルし、平成20年度の企画展(平成21年1月31日~3月29日)に変えたことと、協力の相手として「港の文学館」ではなく、町田文学館を選んだことは、何か関係があるのかもしれない。

 しかし私がいま強調したいのはそのことではない。財団法人北海道文学館が道(北海道教育委員会)へ提出した『北海道立文学館 業務計画書』には、〈事情によっては(展示企画を)変えることがある〉などという意味の言葉は、一言も記載されていないのである。
 もちろん平成17年に作成した『業務計画書』であるため、平成20年度や21年度に予定している講演タイトルは「仮題」とあり、講師は「未定」になっている箇所も多い。だが、特別企画展や企画展には一つも「仮題」がない。つまり『業務計画書』で約束した展示は全てそのまま実施することが大前提だったのである。
 このことは、財団と道との間で結ばれた『北海道立文学館の管理に関する協定書』の次の表現からも明らかだろう。
《引用》
 
第17条 乙(財団法人北海道文学館)は、指定期間の各年度毎に、甲(道)と協議の上、指定管理者指定申請書(以下「申請書」という。)に添付した業務計画書及び年次収支計画書の内容を踏まえた年次業務計画書及び収支計画書を作成し、前年度の2月末までに(ただし、指定期間の最初の年度にあたっては、本協定の締結後速やかに)甲に提出し、その承認を得るものとする。

 要するに、財団は可能なかぎり年次業務計画書を踏まえた事業を行う「協定」を結んでいるのである。仮に平原副館長が言う「申請書」に、〈やむを得ない事情がある時は、一部変更もある〉という意味の文言が盛り込まれていたとしても、平成19年度、20年度の変更みたいに、いけしゃあしゃあと全面変更してしまっていい理由にはならない。「申請書」に平原副館長が言うような文言が書き込まれていたとしても、実際に財団が誠意をもって実現しなければならないのは『業務計画書』であり、それを義務づけているのが『協定書』のはずだからである。
 
 ただし、『業務計画書』の内容や、『協定書』の内容に無関心な理事や評議員にとっては、平原副館長の釈明は何の問題もなく聞えたらしい。例によって、ケソッとした顔で聞いている。彼もその辺は計算済みだったのだろう。
 この手口、最近話題になっている、某一党独裁国家の聖火リレー報道に似ているな。私はそんな感想を持っているのだが、しかし彼が裁判の証人台に立った場合もそんなふうに巧くやれるかどうか。これは保証の限りではない

○財布は一つ?
 さて、3月7日の会議の第3号議案は「平成20年度収支予算(案)について」であったが、私が関心を持ったのは、「道負担金」1億4千万円強の使い方に関する「指定管理業務特別会計(案)」の、「展覧会事業費」の箇所であった。
 今年は「展覧会事業費が」として、8,774,000円が一括計上されていた。
 これまでは、各展覧会毎に予算を組んでいたのだが、平成20年度からは細分化せず、一括して計上することにした、という。備考欄には、一応、常設展484,000円、吉増剛造展3,198,000円、加藤多一展1,773,000円、加藤幸子展1,414,000円、八木義徳展1,905,000円と、大まかな割り振りがなされているが、これはあくまでも目安であって、事情に応じて柔軟に対応する、という説明だった。
 ははあ、財布は一つという理屈だな。私は、亀井志乃が原告「準備書面」で次のように書いていたことを思い出し、何となくおかしかった。
《引用》

(4)平成18年5月12日(金曜日)
(a)被害の事実(甲27号証・甲28号証を参照のこと)
 この日、閲覧室で勤務していた原告は、内線電話で、被告から「今年担当の展覧会について打合せをしたい」と呼ばれ、事務室に向かった。打合せには、阿部かおり学芸員(駐在道職員のうちの1人)が同席した。なお、原告は企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の主担当であり、阿部学芸員は副担当だった。
 それゆえ、原告は企画展に関する打合せと思っていたが、実際はそうではなく、被告より一方的な形で展覧会事業の予算配分の変更を通告された。その理由は、概略すれば、次の2点だった。

① 現在、「写・文交響―写真家・綿引幸造の世界から」展(期間・平成18年4月29日~6月4日 以下、「綿引展」と略)、「デルス・ウザーラ―絵物語展」(期間・平成18年6月10日~7月9日)、「啄木展」(期間・平成18年7月22日~8月27日)についてはすでに予算が執行されているが、「啄木展」のところで予算を大幅に超過している。
② 指定管理者制度の下では、予算は4年間の間に使い回ししてよいことになっていたが、やはり単年度計算でなくてはならないということに一昨日(5月10日)に決まった。そのため、特別企画展「啄木展」と「池澤夏樹のトポス」展(期間・平成18年10月14日~11月26日 以下、「池澤展」と略)とであとどれだけ予算が使えるかを出すために、急遽、他の展示の担当者たちに、支出予定の内訳を算定してもらわなければならない。

 被告はそういう事情説明をした上で、「支出予定の内訳は、来週までに作成し、文学館のサーバー内の所定の場所にアップしておくように」と原告らに命令した(甲29号証)。
 だが、平成18年4月1日の日付を持つ「平成18年度 学芸業務の事務分掌」に明記されている如く、特別企画展「啄木展」の主担当は鈴木浩社会教育主事(駐在道職員のうちの1人)であり、原告が副担当だった。ところが被告は、原告に何のことわりもなく、主担当の鈴木社会教育主事と準備に取りかかり、日本近代文学館からの展示資料の借用などの主要な業務を、原告を全く無視する形で進めた。その結果、「啄木展」の当初予算の3,712,000円を大幅に超過してしまった(甲28号証)。
 原告は「啄木展」の業務からほとんど疎外されており、予算超過についても、この時まで一切知らされていなかった。だが被告は、予算超過の事情を説明することはなかった。被告はまた「池澤展」の主担当であり、その展示事業費として3,612,000円の予算がついていたが、なぜ「啄木展」の予算超過を「池澤展」の予算で調整しないのか、その点の説明もなかった。
 そして被告は、「〈企画展〉の財布は一つしかない。だから、原告が主担当の『人生を奏でる二組のデュオ』展の予算1,516,000円は、他の2つの展示『書房の余滴―中山周三旧蔵資料から』(期間・平成18年12月9日~24日 以下、「中山展」と略)と『聖と性、そして生―栗田和久写真コレクションから』(期間・平成19年1月13日~1月27日 以下、「栗田展」と略)とでシェアしなければならない」と主張した。

(b)違法性
、被告は嘱託という契約職員である原告の重要な業務の一つを奪った。これは北海道教育委員会の公務員(被告)が、民間の財団法人北海道文学館に嘱託で働いている市民(原告)に対して行った、「刑法」第234条に該当する業務妨害であると共に、原告と財団との間に結ばれた契約を侵害する「地方公務員法」第29条、第32条に該当する違法な越権行為である。

、北海道教育委員会の職員である被告は、4月11日、自分が副担当の「綿引幸造」展で、ポスター作成に失敗して、ポスター300枚の作り直しをし(甲30号証)、啄木展では5月12日の段階ですでに当初予算を大幅に超える支出を行うなど、「地方公務員法」第33条に違反し、「地方公務員法」第28条または第29条に問われるべき失敗を重ねた。
 もし年間の展覧会事業に割り当てられた予算の再配分が必要ならば、財団職員の副館長あるいは業務課長からその必要性と理由の説明がなされるべきである。ところが被告は、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱し、自らが再配分の権利を持っているかのごとき言い方で、原告の企画展に割り当てられ予算の支出に干渉した。これは「北海道職員の公務員倫理に関する条例」第3条~第7条に違反する行為である。
 また、被告は敢えて倫理規程の違反を犯してでも原告の予算の一部を流用して自己の失敗を隠蔽し、自分の責任が問われることを回避しようとした。これは原告に対してなされた、「刑法」第233条、234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である。
 その結果原告は当初予算を切り詰め、展示構想を縮小するという不当な実害を蒙った。

 この箇所に関する、被告代理人・太田三夫弁護士の被告「準備書面(2)」の反論はまるで的外れ、文章の読み違いではないかと思われる箇所もあったが、その紹介は次回以降に廻す。
 
○「呼び屋」的な企画
 私がここで注意を促したいのは、次の3点である。
①北海道教育委員会の公務員である寺嶋弘道は、自分が主担当でもなければ副担当でもない「石川啄木」展に介入し、本来の副担当である財団嘱託の亀井志乃を業務から排除してしまった。
②「石川啄木」展は7月22日から始まる予定だったが、駐在道職員の寺嶋弘道と鈴木浩は早くも5月12日の段階で、当初予算3,712,000円を大幅に超過する支出をしてしまった。(最終的な支出は約1,5倍の5,399,027円。「北海道文学館のたくらみ(15)」参照)
③展覧会事業の財布は2つあり、企画展「写真家・綿引幸造」展、企画展「〈デルス・ウザーラ〉絵物語展」、企画展「中山周三旧蔵資料」展、企画展「栗田和久・写真コレクション」展(結局これは寺嶋弘道が中止してしまったが)は、財団企画事業だった。それに対して特別企画展「啄木展」と同「池澤夏樹」展、および企画展「人生を奏でる二組のデュオ」展は道負担金事業だった。つまり資金の出所は2箇所あり、会計上厳密に区別されるべきであるが、寺嶋弘道はそれらを一緒くたにすることによって、「啄木展」の大幅な支出超過を糊塗しようとした。

 これらはいずれも寺嶋弘道が公務員としての分限を越え、かつ、「事務分掌」の範囲を超えた違法行為であり、そのこともあって亀井志乃は、「人生を奏でる二組のデュオ」展の当初予算1,516,000円を、その半額の778,301円にまで切り詰めることを余儀なくされてしまった(「北海道文学館のたくらみ(15)」参照)。
 これを寺嶋弘道の違法行為と見るかどうか。それもまた裁判で争われることになるわけだが、ともあれ以上のように整理してみれば、平成20年度の「展覧会事業費」を一括して計上した理由がよく分かるだろう。
 
 ただし、正確に言えば、平成20年度の展覧会企画はいずれも「道負担金」(指定管理業務特別会計)の事業であって、財団の自主財源によるものは一つもない。逆に言えば、財団はもはや自主財源による企画展を組む力もないほどジリ貧状態に陥ってしまったことになる。ただ、平成20年度の展覧会企画はいずれも「道負担金」(指定管理業務特別会計)の事業であるという意味では、確かに「財布は一つ」となったわけである。
 
 そのことを一つことわり、その上で、平成20年度の展覧会事業の「備考」欄を見るならば、吉増剛造展には他の企画展の2倍から1,5倍の支出を予定し、別格扱いになっている。その事業内容は2度のトーク・セッションと、2度のゼミと、1回の朗読パフォーマンスを組み、もちろん吉増剛造には1週間ほど滞在してもらうことになるだろうが、展覧会オープニングの6月28日のトーク・セッションには、吉増剛造自身は言うまでもなく、四方田犬彦(明治学院大学教授)と高橋世織(東京工業大学特任教授)を東京から呼び、地元からは工藤正廣(北海道大学名誉教授)が加わる。こうして見ると、全体にかなり金のかかる企画であり、320万円の範囲内で収まる保証はない。平成20年度の予算を一括計上の形にした理由もここにあったのだろう。

 池澤夏樹展以来、道立文学館のやり方は、明らかに「呼び屋」的な当て込みの発想に囚われている。
 今年(平成20年度)の展覧会事業は、加藤多一、吉増剛造、加藤幸子と現役の文学者に関する企画が続くわけだが、公立の文学館が現役の作家をテーマにする危うさについては、「北海道文学館のたくらみ(28)」のコメント欄の、「文学館ファン」さんに対する返事の中で書いておいた。併せて読んでもらえればありがたい。

○泥棒が追い銭を欲しがるような話
 5月7日の会議では、もう一つ私の関心を惹いたことがある。それは理事の1人が、税金など払うことはないと言い出したことである。この理事は、今年(平成20年度)の企画展に取り上げてもらう「文学者」であるらしい。
 
 平成20年度の「指定管理者特別会計(案)」には、消費税、法人税として、計460万円が計上してある。
 財団は財団として冊子やグッズなどの物品販売で収益を上げ、消費税を払ってきたわけだが、道立文学館の指定管理者として年に1億4千万円以上の「道負担金」(税金)を貰い、展覧会事業などを行う。当然のことながら、一定の収益がある。その収益はせいぜい年に1千万円程度しか見込めないのだが、それにかかるだろう法人税300万円を見込んでおいた。
 ところが先の理事はその点にこだわり、そんな税金を払う必要はないと言い出したのである。

 その理屈が何ともおかしい。〈財団が税金を払わなければ、税務署は差し押さえに出るだろうが、財団が差し押さえを拒否すれば、文学館の問題が社会問題になる〉。そういうことを、くどくどとぐずぐずと諦めわるく繰り返している。
 どうやらこの理事が言いたいのは、〈文学館が税金の払いを拒み続ければ、新聞やテレビが取り上げる。そうなれば「文学館のような文化事業の団体から税金を取るのはおかしい」という世論が起こるだろう。財団はその世論を味方につければ、税金を払わなくても済むようになるはずだ〉。風が吹けば桶屋がもうかるみたいな理屈だが、彼はそう言いたかったのだろう。
 私はまことに身勝手な、蟲のいい理屈に驚いた。ところが、それに賛成する理事もいる。私は更に驚いた。

 私は文学とか芸術とか文化とかいうものが、何か特別な、保護されねばならないものとは考えていない。文学や芸術や文化は、決して特権的な聖域ではないし、また、そう扱ってはならない。私はそういう考え方で文学部の教師をやってきた。市立小樽文学館の館長となってからもその考えでやってきた。いや、館長となって益々その考えが強まってきたと言えるだろう。

 私から見れば、財団法人北海道文学館の、〈年に1億4千万円以上も道民の税金を使わせてもらい、1千万円程度の事業収益を挙げればいい〉というあり方自体、こんなに恵まれた条件はない。しかもその収益は道財政の収入に繰り込まれるわけではなく、財団が次年度の運営資金に繰り越すことができる。
 ずいぶん結構な話じゃないか、と私は思うのだが、理事の中にはまだ物足らず、収益に課せられる税金を拒否しようと言いだす人間がいる。
 どんなに蟲のいい泥棒でも、〈泥棒に追い銭をしてくれ〉とゴネるなんて話は滅多にあることじゃない。まあ、事柄の性質はちょっと違うようだが。私はそんなことを考えながら、ほとんど感心して聞いていた。
 しかし、さすがに館長もこの提案には賛成しかねたらしい。それはそうだろう。脱税を見込んだ予算を組むなんてことは前代未聞の違法行為だからである。北海道教育庁の文化・スポーツ課は、事業計画の約束違反のほうはかなり大目に見過ごしているようだが、さすがにお金のことともなれば、「指定管理者制度だから金の使い方はご自由に」と鷹揚に構えていられるはずがない。まして財団法人が税金を納めず、差し押さえも拒否して、もし社会問題になるとすれば、〈そんな財団は道立文学館の指定管理者からはずせ〉という声のほうが圧倒的に高くなる。

 使い古された言い方だが、改めてつくづく思う。財団法人北海道文学館の理事・評議員や職員には「他者」も存在しなければ、「外部」もない。仲間内だけの理屈を正論化して、誤魔化せるところは出来るだけ誤魔化そう。そういう人間たちが現在の道立文学館を仕切っているのである。
 
 

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北海道文学館のたくらみ(29)

駐在道職員の業務実態とその違法性

○「違法性」の問題
 ところで、亀井志乃が原告「準備書面」に挙げていた「被害の事実」のうち、平成18年5月2日に起った「事実」については、前々回(「北海道文学館のたくらみ(27)」)に紹介しておいた。彼女はそのことについて、次のように、被告・寺嶋弘道の違法性を指摘している。
《引用》

(b)違法性
、北海道教育委員会の駐在道職員である被告が思いついたケータイ・フォトコンテストは、平成18年度の過密スケジュールに追われている財団法人北海道文学館の業務課と学芸班の両方に大きな負担を強いる企画である。駐在道職員の被告は、年度途中に、財団法人北海道文学館の嘱託である原告に、原告が業務を担当することを前提として、企画作りを強圧的な態度で要求した。これは、財団に対しては、北海道教育委員会が駐在道職員に指示した業務事項を逸脱して、「地方公務員法」第32条に反して行われた干渉行為であり、他の業務を抱えた原告に対しては業務強制の人権侵害の違法行為である。

、財団法人北海道文学館の「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在)によれば、特別企画展「石川啄木―貧苦と挫折を越えて」(期間・平成18年7月22日~8月27日 以下、「啄木展」と略)の主担当は鈴木浩社会教育主事であり、副担当は原告であった。被告はその「事務分掌」を無視して「啄木展」に介入し、原告を疎外し、他方、自分が思いついたケータイ・フォトコンテストの企画作り(原告の実施を前提とする)を原告に押しつけようとした。これは前項で指摘した規律違反であるだけでなく、原告に対しては業務の不当なすり替えであると共に、「啄木展」副担当という責任を原告に果たさせまいとした点で、「刑法」第234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である

 亀井志乃は更に2つ、被告・寺嶋弘道の違法性を挙げているが、ここでは省略する。少しくどい印象を受けた人がいるかもしれないが、太田弁護士が求めるように、「事実」と「違法性」とを別け、一つ々々の事実に関してその違法性を指摘するならば、当然こういう書き方にならざるをえないのである。

○過密スケジュール
 被告・寺嶋弘道と太田三夫弁護士はこの違法性の指摘については「争う」、つまり寺嶋弘道の行為は法的に見て格別の問題はなかったと主張するつもりらしい。その主張がどんな内容か、まだ分からないので、ここでは原告が言及している事柄について二つ、三つ補足的に説明しておきたい。

 まず、項で言う「平成18年度の過密スケジュール」のことであるが、年間を通して次のようなことが企画されていた。
企画展「写・文 交響~写真家・綿引幸造の世界から~」(平成18年4月29日~6月4日)
企画展「〈デルス・ウザーラ〉絵物語展」(6月1日~7月9日)
特別企画展「石川啄木~貧苦と挫折を超えて~」(7月22日~8月28日)
特別企画展「池澤夏樹のトポス~旅する作家と世界の出会い~」(10月14日~11月26日)企画展「書房の余滴~中山周三旧蔵資料から~」(12月9日~同24日)
企画展「聖と性、そして生~栗田和久・写真コレクションから~」(平成19年1月13日~同27日)
企画展「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎・里見弴と中戸川吉二~」(2月17日~3月18日)
このように行事が続き、その間、ファミリー文学館「知床の自然を描く~関屋敏隆原画展~」(平成18年9月9日~10月1日)が組まれていた。
 その他、子供対象の「―わくわく―こどもランド」が11回組まれ、「映像作品鑑賞のつどい」が4回ある。
 
 そしてこれは絶対に書き落としてはならないことだが、新たに購入または寄贈された資料の整理、登録、利用希望者への対応、そして文学資料の解読と翻刻、調査研究報告書の編集と発行など、文学館の根幹にかかわる学芸業務を日常的に行わなければならない。
 これだけの膨大な業務を、財団に所属する岡本司書と亀井研究員、駐在道職員の3人の計5人でこなさなければならなかったのである。

 こういう状態のなかで、「さあケータイ・フォトコンテストもやりましょう」などと言い出すことが、どんなに無謀なことか。少しでも想像力があれば、直ちに分かることであろう。

○学芸業務・事務分掌の実態
 ただし、被告の寺嶋弘道学芸主幹に限っていえば、それだけの時間的な余裕があったと言えるかもしれない。というのは、地味ではあるが日常的に根気よく処理して行かなければならない文学館の基幹的な学芸業務を、彼は免除されていたからである。

 先ほど引用した「(b)違法性」の項で、亀井志乃は「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在)に言及していたが、この「事務分掌」は全部で37項目あり、例えば13の特別企画展「石川啄木」の主担当は鈴木(社会教育主事/駐在道職員)、副担当は亀井(研究員)となっている。
 つまり道立文学館の業務は、各分掌ごとに、主担当1人、副担当1人を割り当て、2人1組で分掌業務を遂行するシステムになっていたのである。
 その分掌表の中で、原告の亀井志乃は、
28「収蔵資料目録、調査研究報告書の編集、発行に関すること」の主担当(副担当は岡本司書)
34「文学資料の解読、翻刻に関すること」の主担当(副担当は阿部学芸員/駐在道職員)となっていた。実際問題として、書簡や色紙、短冊などの肉筆文献を解読、翻刻できるのは亀井志乃だけであった。
 そして8「定期刊行物、同人誌、他館情報資料の収受、登録、整理、保管に関すること」は、阿部学芸員が主担当、亀井志乃が副担当だったが、しかし、
20「閲覧室・共同研究室の運営および文学資料の閲覧に関すること」(主担当は岡本司書、副担当は阿部学芸員)
21「文学資料の貸し出しおよび特別利用に関すること」(同前)に関しても、平原学芸副館長(当時)の依頼により、4月中旬から協力することになった。
 
 その上で亀井志乃は、18の企画展「人生を奏でる二組のデュオ」の主担当(副担当は阿部学芸員)を勤め、13の特別企画展「石川啄木」の副担当(主担当は鈴木社会教育主事)だったわけである。

○被告・寺嶋弘道学芸主幹の業務ぶり
 文学館で最も目立つ業務は展覧会事業であり、外部の関心と評価もそこに向けられやすい。被告の寺嶋主幹は主にこの分野を担当し、
11の企画展「写・文 交響」の副担当(主担当は鈴木社会教育主事)
12の企画展「〈デルス・ウザーラ〉絵物語展」の主担当(副担当は阿部学芸員)
15の特別企画展「池澤夏樹」の主担当(副担当は鈴木社会教育主事)
17の企画展「栗田和久・写真コレクション」の主担当(副担当は鈴木社会教育主事)だった。

 こうしてみると、寺嶋弘道学芸主幹はずいぶん沢山の展示を手がけていたようだが、しかし少しでも文学館業務の実態を知る者ならば、いかに寺嶋学芸主幹が手厚い配慮を受けていたか、直ちに察しただろう。
 なぜなら、12の企画展は、北海道北方博物館交流協会という財団法人が主催し、何を展示品として出すか等についてはあらかじめ決まっており、文学館の学芸員は展示の手伝いをするだけだったからである。
 11は写真家・綿引幸造がこれまで撮りためていた写真の展示であり、いずれも既にフレームに入った状態になっていた。学芸員はポスターとチラシを作り、作品搬入と会場設営を手伝うだけだった。
 15の特別企画展は前年度中に、平原学芸副館長(当時)と池澤夏樹との間で交渉が進み、基本的な構想の合意ができていた。
 17の企画展「栗田和久・写真コレクション」も、11に近い状態だった。
 
 被告の寺嶋弘道はこれだけ楽な仕事を回してもらいながら、11の写真展では、ポスターの作成に失敗して慌てて刷り直すという、美術館畑を歩いてきた学芸員らしからぬミスを犯した。
 おまけに彼は、17の企画展「栗田和久・写真コレクション」を中止してしまったのである(「北海道文学館のたくらみ(5)」参照)。
 
 これは、職員が〈今年はこれこれの展示をやろうか〉と内々で申し合わせていた企画の一つを中止したという、そんな程度の軽いミスではない。年度当初、文学館の年間行事として、パンフレットやホーム・ページを通して広く市民に対する周知をはかってきた。その行事を取りやめてしまったのであり、これはもう前代未聞の失態と言うほかはないだろう。

 しかも以上のことは、単に一人の学芸員が幾つかのミスを犯したということではない。その本質は、財団に駐在する北海道教育委員会の職員、つまり公務員が、財団の求めに応じて手がけた専門的事項で失敗を仕出かして、財団に損失をかけ、コレクション提供者との信頼関係を損ない、財団の信用を傷つけたということなのである。

○北海道教育委員会職員による二重の業務妨害
 当然のことながら彼は、公務員として始末書や進退伺いを書かなければならない失態を犯したことになる。
 しかし彼は、自分の分掌に責任を持ち、他の人の分掌を尊重するという、公務員としての自覚に欠けるところがあったのだろう。彼は年度が始まって間もなく、自分が主担当でもなければ副担当でもない特別企画展の「石川啄木」展に手を出し、副担当の亀井志乃には何のことわりもなく、主担当の鈴木社会教育主事と啄木展の仕事を進めてしまった。
 しかも、彼自身が思いついたケータイ・フォトコンテストについては、自分が責任をもって起案し、他の職員にその計画の承認を求めることをせずに、企画の立案から実施までを亀井志乃に押しつけようとしたのである。
 
 それに対して亀井志乃は、「一定の専門的な能力を評価され、時間契約によって文学館の業務を手伝い、あるいは文学館の業務の一部を請け負って、求められた成果を挙げる」嘱託の立場にあった。
 被告・寺嶋弘道はそういう立場の亀井志乃から業務の一つを奪い、他方では、年間スケジュールにない仕事を亀井志乃の業務に割り込ませようとした。
 言うまでもなくこれは、北海道教育委員会職員である公務員が、民間の財団で働く嘱託職員の業務を奪い、つまり業務を妨害したことにほかならない。その点を取り上げて、原告の亀井志乃は
「原告に対しては業務の不当なすり替えであると共に、「啄木展」副担当という責任を原告に果たさせまいとした点で、「刑法」第234条に該当する、極めて悪質な業務妨害の違法行為である」と指摘したのである。
 
○主担当の役割
 では、文学館の事務分掌における主担当と副担当はどういう関係なのか。先ほどの紹介でも分かるように、それは上司と部下との関係ではない。副担当のほうがより経験を積んでおり、業務をリードしてゆく場合もあるからである。

 ただ、展覧会業務の場合、慣例として、その展覧会のテーマを提案した学芸員が主担当となる。テーマ提案者のコンセプトと構想なしには準備を進めることがむずかしいからである。
 亀井志乃は嘱託の研究員の立場だったが、平成17年度に「亀井さんも案を出して下さい」と言われて、平成18年度の展覧会案としては「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎・里見弴と中戸川吉二~」を提案し、企画検討委員会で採用された。
 有島武郎と木田金次郎との関係は、これまで研究や文学館で何回か取り上げられてきた。だが、有島武郎と里見弴という兄弟と北海道とのかかわりに注目し、更に釧路で育った小説家・中戸川吉二と里見弴との関係にまで視野を拡げて、広域的・多元的視野で北海道の表現者たちに照明を当てる。その意味でオリジナリティに富む企画だったと言えるが、その実現が提案者に任されたのである。

 亀井志乃はこうして一つの企画展の主担当となり、もちろん副担当と相談し、サポートしてはもらうが、基本的には自分が責任を持つコンセプトを実現するため、必要な資料(書簡や軸物の書、写真、絵画、初版本、初出雑誌や新聞など)の所在を調査し、資料の所蔵者(他の文学館、美術館、図書館、個人など)とアポイントメントを取って、実際に足を運んで見せてもらう。
 その間、新たに得た情報を基に、それまで予定になかった資料の所蔵者と連絡を取って、また足を運んで見せてもらい、それによって展示の全体構想を修正し、密度と精度を高め、特別展示室のスペースの下図を書いて展示品の配置を決める。
 
 それと並行して、資料の所蔵者に貸与をお願いし、図録用の画像を選択する。また、道立文学館に所蔵されている関係資料の写真を撮っておく。その一方で、展示テーマに関係の深い人に原稿を依頼し、自分も原稿を書く。こうして編集した図録の写真と原稿を印刷所に渡して、見本刷りの写真や絵画の色構成や色調を検討し、原稿の校正を綿密に行って、展覧会のオープンまでに『図録』を完成する。もちろんポスターやチラシは早めに作って、配布しておく。
 更にまたその間、貸してもらえる資料の集荷に出かけ、集まった資料を実際に展示し、パネルやキャプションを作って観覧者の理解に供する。
 それは体力だけでなく神経も磨り減るような作業であった。

○「嘱託職員の権利」を無視
 そのような仕事に較べれば、特別企画展「石川啄木」の副担当という立場は、気持の上でも、体力的にも負担はそれほど大きくない。一応そうは言えるわけだが、亀井志乃は以前、小樽啄木会から講演を依頼されたことがある。その関係もあって、5月9日の朝の打ち合わせ会で、「5月13日に小樽の啄木忌の行われる講演会に出席するため、午後から早退したい」意向を述べて、職員の了解をえた。副担当として、当然の心がけであろう。
 
 ところが、被告の寺嶋弘道は翌日の10日、原告の亀井志乃をつかまえて、「何時間、年休を取るのか」「何のために年休を取るのか」と、しつっこく問い詰めはじめた。亀井志乃は〈嘱託職員には年休がないから、早退させてもらうのだ〉という意味の説明をしたのだが、寺嶋弘道はなかなか納得しない。やむを得ず彼女は、安藤副館長(当時)に頼んで説明をしてもらわなければならなかった。
 すると、被告の寺嶋弘道は話題を変えて、5月2日と同じく、「(原告は)財団の立派な職員だ。財団の一員だ」と言い始め、時間契約で働いている亀井志乃の退勤時間が来たにもかかわらず、30分も足止めをして説教を続けたのである。まるで自分が財団の管理職であるかのような口調で……(「北海道文学館のたくらみ(3)」参照)。
 
 しかし亀井志乃には、「一定の専門的な能力を評価され、時間契約によって文学館の業務を手伝い、あるいは文学館の業務の一部を請け負って、求められた成果を挙げる」嘱託としての誇りがある。この誇りは自分の分をきちんと守り、期待された以上の成果を挙げることから生れ、維持される。その意味で嘱託には嘱託としての責任と権利があり、その尊重を相手に求める権利もある。そのことを無視して、「財団の立派な職員だ」とか、「館のスタッフだ」(平原学芸副館長)とかいう概念の曖昧な言葉で、なしくずしにケジメを失わせてしまう。これは亀井志乃の責任と権利の侵害にほかならない。
 嘱託の亀井志乃には年休がなく、ボーナスもつかず、労災にも入っていない。だが、その代わり、契約時間外の行動について、財団から干渉は受けない。まして北海道教育委員会の公務員が干渉できる筋合いではない。契約時間外の時間をどのように使おうと、本人の自由であり、それは嘱託職員の権利なのである。
 北海道教育委員会の公務員たる被告の寺嶋弘道はそういう考え方、人間の生き方が全く理解できなかったのだろう。彼はこの時以外にも亀井志乃を退勤時間外まで拘束し、亀井志乃の業務には不必要な書類の作成を強制した。これも亀井志乃の権利の侵害にほかならない。彼女は「訴状」や、原告「準備書面」でそれを指摘したのだが、被告の寺嶋弘道も太田三夫弁護士も「争う」と言う。
 どうやら彼らは基本的な人権の主張に対して「争う」つもりらしい。
 
 それも興味あるところだが、もう一度今回の主題にもどるならば、被告の寺嶋弘道は、啄木に関して知見を増やそうとする亀井志乃の姿勢がが、よほど気になったのだろう。
 
○再び被告・寺嶋弘道学芸主幹の業務ぶり
 さて、事情説明が少し長くなったが、およそ以上が、5月2日のケータイ・フォトコンテスト問題に関する、業務システム上の背景だった。この問題一つを取り上げただけでも、初めに紹介したような法律上の問題が幾つか浮かんで来る。
 被告の寺嶋弘道も、太田三夫弁護士も、その問題について「争う」と言うわけだが、しかし私がこれまで紹介した『北海道文学館の管理に関する協定書』以下、「平成18年度 学芸業務の事務分掌」(平成18年4月1日現在)などの文書の存在を「否認」することは、これはとうていできないだろう。では、それらの文書から論理的に帰結する制度的、業務システム的原則について「否認」は可能だろうか。
 彼らの反論のポイントはこの辺にありそうだが、これ以上の推測は控え、最後に一つだけ、被告の寺嶋弘道学芸主幹が勝手に手を出した「石川啄木」展と、彼自身が主担当だった特別企画展の「池澤夏樹」展はどうであったか、簡単に紹介しておきたい。
 
 「石川啄木」展に関しては、コンセプト作りも資料調査も必要がないという、全く安易なやり方だった。日本近代文学館が運営資金稼ぎのため、啄木関係の手持ち資料をセット化して、高知県立文学館や姫路文学館に貸し出した。寺嶋弘道学芸主幹と鈴木社会教育主事は、その資料と構成をそのまま借りることにしたからである。
 この場合、寺嶋弘道学芸主幹と鈴木社会教育主事のどちらがイニシアティヴを取っていたか、よく分からないが、ともかく学芸員としての見識も誇りもない、まことに安直なやり方だった。ついでに図録用の画像も借り、説明文まで借用する。要するに出来合いの啄木像をなぞるだけで、新しい資料の発掘すら見られない。市販の文学アルバムに毛が生えた程度、いや、市販の文学アルバムに毛が3本足りない、猿真似みたいなものでしかなかった。
 
 また、「池澤夏樹」展に関して言えば、先ほども言ったように、平原学芸副館長(当時)と池澤夏樹との間で交渉が進み、基本的な構想の合意ができていた。私の記憶によれば、もともとこの企画は福永武彦と池澤夏樹の親子の文学業績を取り上げる予定だったはずだが、いつの間にか池澤夏樹が中心化され、彼が世界各地で取った、セミプロ程度の写真が、ただ地域別に配列してあるだけ。文学史的には父親の福永武彦のほうが遥かに重要なのだが、ほんの添え物程度の扱いでしかなく、推理小説作家・加田伶太郎や、SF作家・船田学の側面にはほとんど目が向いていなかった。
 おまけに、図録はなし。当時たまたま『coyote(コヨーテ)』という市販雑誌が池澤夏樹の特集号を出した。それを500部購入して、「図録」に代える。そういう、信じられないような出鱈目さだった。
 財団法人北海道文学館は『北海道立文学館の管理に関する協定書』に基づいて、毎年、年に4回、道に「業務報告書」を出すことになっている。平成18年度の「報告書」では、各展覧会の「実施報告書」が附いているのだが、「池澤夏樹」展については、それも見当たらないのである。

○次回は4月16日
 さて、3月14日の第2回公判の開廷は午後1時半からだったが、実際に始まったのは1時50分だった。
 太田弁護士は今回は遅刻しなかったが、被告は姿を見せず。開始早々、太田弁護士は4月8日までに、原告の「準備書面」に対する答弁(被告側「準備書面」)を裁判所に届けることを約束した。
 阿部雅彦裁判長はそれを聞いて、〈被告の答弁書を読んで、更に原告からの反論が必要かどうかを判断させてもらう〉という意味のことを言った。
 ただし、被告側から反論らしい反論が出るのは、5月8が初めてなわけで、それに対する再反論のチャンスを原告に与えないということはあり得ないだろう。もっとも、被告側の反論なり陳述書なりが箸にも棒にもかからない内容だったならば、これはまた別な話になるだろうが……。
 
 そんなふうに考えながら私は傍聴していたわけだが、裁判長はてきぱきと話を進め、原告と、被告代理人の双方の都合を確かめ、次回の公判は4月16日(水)の午前11時からと決めた。
 原告はそれが決まった後、裁判長に、〈被告の準備書面(答弁・反論)を見て、こちらの反論を4月16日までに用意すべきかどうか〉という意味のことを訊いてみた。それに対する裁判長の答えは、「いや、反論をするか否かを考え、気持を固めてくるだけでいいです。実際問題として、被告側が(4月8日に)出した書面に、(4月16日までに)反論を書くのはむずかしいでしょう。原告側の反論は次の次の回になると思います」ということだった。
 
 そんなわけで、この日の公判は、原告が出した証拠40点の原本調べのみで終った。2時08分。被告側からはまだ1つも証拠物が出されていないが、もし4月8日に出るならば、4月16日にはその原本調べも行われるだろう。

 

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北海道文学館のたくらみ(28)

駐在道職員とは何者か

○「駐在道職員」という制度
 「あなたのブログを読んでいると、時々「駐在道職員」という言い方が出てきますが、駐在道職員の寺嶋弘道学芸主幹ていう人は、財団法人北海道文学館の管理職なんですか」。
 そう訊かれたことがある。「いえ、いえ、とんでもない。もしそんなことになったら、それこそ自分で自分の首を絞めるようなものですよ」。
 そう答えたが、そう言えば、駐在道職員とは何者か、きちんと説明していなかったな。そんな反省が湧いてきた。
 
 なぜ財団法人北海道文学館が指定管理者として管理と運営に当っている道立文学館に、北海道教育委員会の職員(公務員)が駐在しているのだろうか。
 
 今更念を押す必要はないかもしれないが、財団法人北海道文学館はいわゆる道の外郭団体ではない。道立文学館の管理と運営のために、道から1年に1億4千万円以上の「道負担金」(道民の税金)を受け取っている。だが、財団はもちろん財団としての財産を持ち、会員からの会費収入等に基づく自主財源によって朗読会やウイークエンド・カレッジなどの事業を行って、事業収入をはかり、公課費(消費税)を払っている。
 ただし、この自主財源による年間予算は、平成17年度は1,150万円、平成18年度は990万円、平成19年度は800万円、平成20年度は760万円と、右肩下がりの傾向が続いている。
 
 つまり、それだけ道から受け取る「道負担金」に対する依存度が高くなってきたわけであるが、しかし財団法人北海道文学館は北海道教育委員会から独立した事業体であり、道立文学館の管理と運営の主体であることに変りはない。その道立文学館に、北海道教育委員会が職員を「駐在」させている。
 ある意味で、今回の裁判の根本的な原因はそこにあったのだが、なぜ「駐在」などという制度を作ったのか。
 財団法人北海道文学館と道との間に交わされた『北海道文学館の管理に関する協定書』の中に、次のような条文があるからである。
《引用》
 第14条 甲(北海道)は、本施設の事業を円滑に実施するため、乙(財団法人北海道文学館)が行う文学資料の収集、保管、展示、その他これと関連する事業に関する専門的事項について意見を述べるものとする。
 2 乙は前項の規定による意見を尊重するものとする。この場合において、乙は、甲に対し、当該専門的事項に関する業務の遂行について協力を求めることができる。
 3 甲は、乙から前項の協力を求められたときは、本施設に配置する学芸員に当該専門的事項に関する業務の全部又は一部を遂行させることができる。この場合において、乙は、当学芸員が遂行する業務に係る経費を負担するものとする。
 4 乙は、指定管理業務の遂行に当たり、甲が行う調査研究が円滑に行われるよう配慮するものとする。
5 前各項までに定めるもののほか、本施設の事業を円滑に実施するために必要な事項は、甲及び乙が、別記6に定める方法により定期に協議して定める。

 
 ちなみに、この第
5項で言う「別記6」とは「日常的な各部門間の情報の共有化や定期的な職員全体会議(職員全員参加)の開催により、円滑な館の管理運営を行っていくほか、必要に応じて適宜協議の場をもち、協働連携を図ることとする。」となっている。
 ところが、道立文学館という施設に配置された、北海道教育委員会の職員・寺嶋弘道は
「日常的な各部門間の情報の共有化や定期的な職員全体会議(職員全員参加)」というルールを全く無視して「日常的な各部門間の情報の共有化」を心がける亀井志乃のやり方に難癖をつけ続けたのである。

○駐在道職員の立場
 ともあれ、以上のような約束に基づいて、財団法人北海道文学館の神谷忠孝理事長が北海道教育委員会教育長に
「別添に掲げる業務に関して、北海道教育委員会が駐在させる学芸員に協力を求めたいので、その可否について回答願います」という協力要請の文書を送った。北海道教育委員会教育長はそれを受けて、従来から道立文学館に学芸員相当として派遣していた鈴木社会教育主事(道職員)をそのまま駐在させ、ついでに阿部司書(道職員)を「学芸員」に変えた。その上更に、寺嶋弘道学芸主幹を道立近代美術館から移して、学芸員として駐在させることにしたわけである。

 以上のような事情から分かるように、駐在道職員は道立文学館の中ではで何をやっても許される、というわけではない。神谷理事長が言う「別添の業務」を示す別紙を見ると、17の項目が挙げられており、それは「指定管理者の求めに応じて行う専門的事項」と表現されている。つまり、駐在道職員はあくまでも財団法人北海道文学館が求める専門的事項に関して協力をする立場にあり、当然のことながら、財団の業務課の仕事に干渉していいなんてことは一言も書かれていない。いわんや財団の職員に向って上司かぜを吹かせてもいいとか、怒鳴りつけてもいいとか、そんなことが許されるはずもなかった。

 しかも、もう一枚の別紙、「主な業務内容」の一覧表には76項目が挙げられているが、駐在の教育委員会職員がかかわることができるのは36項目であり、そのうち駐在の教育委員会職員も「業務主体」となり得るのは僅かに12項目のみ。残る24項目は、「業務協力」と位置づけられている。
 特に注目すべきは
「主な業務内容」「収集業務」に、「作品台帳・データベースの作成・更新」という項目があり、だが駐在道職員の学芸員はその「業務主体」として位置づけられていなかった。「業務協力」としてさえも位置づけられていなかったのである。

 要するに、文学碑のデータベース管理や更新、画像の収集などの業務は寺嶋弘道が口を挟む事柄ではなかった。もし彼が、本当にケータイ・フォトコンテストによって画像の収集に協力したかったならば、自分できっちりと企画を立て「定期的な職員全体会議(職員全員参加)の開催により、円滑な館の管理運営を行っていくほか、必要に応じて適宜協議の場をもち、協働連携を図ることとする。」という手順を経て、皆に提案すべきであっただろう。

○財団北海道文学館の条例違反
 ちなみに、私は北海道情報公開条例の手続きに従って、北海道教育庁総務政策局総務課から『北海道文学館の管理に関する協定書』を手に入れた。
 本来ならば財団に請求しても、同じ公文書を開示してもらえるはずなのだが、毛利正彦館長(当時)も平原一良副館長も川崎信雄業務課長も見せたがらない。毛利正彦は「開示した情報の適正使用のこともありますし、私どもは情報管理の責任がございまして」などと、情報公開法の趣旨に反することをぬけぬけと喋っていた。北大教授(当時)の工藤正廣も「どんなことに使われるか分からない心配がある時、(情報の)使用目的を確かめるのは当たり前ではないか」などと一党独裁国家の官僚みたいなことを言って、財団の幹部職員の隠蔽工作に手を貸していた(「北海道文学館のたくらみ(12)」参照)。

 こういう手合いが北海道では自称文学者としてまかり通っているんだからな……。私はあきれ返って、北海道教育庁総務政策局総務課を通して欲しい情報を手に入れることにしたわけだが、『北海道文学館の管理に関する協定書』の第30条は、こうなっている。
《引用》
第30条 乙(財団法人北海道文学館)は、北海道情報公開条例(平成10年北海道条例第28号。)第27条の2の規定に基づき、乙が管理している文書等の公開に努めるとともに、当該文書の公開の申出があったときは、同条第2項の規定により甲(道)が定める要綱等に基づき、当該申出に対し適切に対応するものとする。
 
 要するに財団法人北海道文学館は、道のやり方に準じて公文書の開示請求に応ずる約束をしているわけだが、財団は『協定書』の約束を無視してきた。残念ながら財団法人北海道文学館は平気で道との約束を踏みにじり、北海道の条例に違反することをやってきたのである。

 なお、『協定書』を開示してもらう時、私は係の人に、「道は駐在職員を任命する時は特別な権限を与えるとか、何かそういう種類の特例を設けているのですか。もしそうだったら、そのことを定めた文書も開示してもらいたのですが、……」と訊いてみた。係の人の返事は、「いいえ、駐在道職員と言っても、要するに仕事の机が駐在先にあるというだけのことで、他の道職員と何も変りはありません」ということだった。

○寺嶋弘道被告の自己認識
 そのことを一つことわって、その上で更にもう一つ情報を提供するならば、財団法人北海道文学館は道立文学館の指定管理者に選ばれるため、北海道教育委員会に「北海道立文学館業務計画書」を提出したわけだが、その中の「学芸員との協働・連携についての考え方」で、次のようなことを述べていた。
《引用》
 
指定博物館としての文学館にあっては、……美術館や歴史系・民族学系博物館の学芸員とは異なる職務内容も多く含まれる。(中略)このことを踏まえ、財団法人北海道文学館は、多くの専門研究者や実作者を組織的に擁しならが長年活動を続けてきた団体である利点を生かし、学芸員に対し最大限の専門的知見と必要な情報、またノウハウを提供することにより、文学館事業の水準を高度に保つべく、連携・協力関係を構築していく。
 
 この「学芸員」が、文学館内に駐在する北海道教育委員会の職員を指すことは言うまでもない。
 
 この提案が前提となって、先ほど紹介した『北海道文学館の管理に関する協定書』の第14条の取り決めが出来た、と考えられるわけだが、分かるように、美術館関係の仕事をしてきた寺嶋弘道学芸主幹は文学館業務のノウハウの提供を受けるために道立文学館に駐在することになった。そう考えるべきだろう。
 少なくとも彼は道立文学館に駐在するに当って、『北海道文学館の管理に関する協定書』を読み
「指定管理者の求めに応じて行う専門的事項」「主な業務内容」の一覧表を手渡されていたはずである。それによって自分の立場と、業務範囲を弁えていたはずだが、5月2日「文学碑データベースの画像がないものについて、ケータイ・フォトコンテストによって写真を集める話をした」場面では、亀井志乃に対して、まるで財団法人北海道文学館の幹部職員みたいな口の利きかたをしていたのである(北海道文学館のたくらみ(28)参照)。
 この人は何か根本的な勘違いをしているらしい。

 そのような人間がどんなことを仕出かしたか。亀井志乃が指摘する、この人物の「違法性」と、それはどんなふうに絡んでいたか。次はその点を紹介したい。

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