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「北海道文学館のたくらみ(32)

雉も鳴かずば撃たれまい(中)

○もう一つのすり替え例
 平成18年度の展覧会事業で、ミスらしいミスのない展覧会は、亀井志乃が主担当の「二組のデュオ」展だけだった。平原一良や寺嶋弘道にしてみれば、何としてでもケチをつけて、亀井志乃の信用を落としたい。そういう衝動が抑えがたかったのであろう、平原一良は「陳述書」の中で、「二組のデュオ」展が採用された経緯にまで遡って、いかに亀井志乃の行動が常識を欠いていたか、こんなふうに描いている。
《引用》

 同氏の担当する文学碑データベース作成作業も一段落するころ、学芸課内では平成18(2006)年度以降の事業素案を検討するためたびたび課内ミーティングが行われました。同年度から導入される指定管理者制度下における新たな展開を想定し、4ヵ年間の事業素案の作成作業を進める必要があり、私も参加しながら、学芸課長以下のスタッフで協議を重ね、幾つかの展示メニューが用意されました。これらの案は当財団の企画検討委員会(理事・評議員十余名で構成、財団スタッフも参加)における検討を経て煮詰められていくのですが、そのメニューのなかに亀井志乃氏の企画展「二組のデュオ」案も含まれていました。このテーマは近代文学研究者の立場にもあった同氏がかねてから構想をあたためていたものと思われます。
 事業素案検討のため、上記の委員会が開催されたのは平成17年9月29日のことでした。会議の席上、「学芸課の素案は個々の案についての説明文が不十分であり、粗い」との苦言がひとりの委員から厳しい口調で呈されました。その直後にとった亀井志乃氏の行動が私の印象に強く残っています。同氏は突然挙手し、「私の案は詳しい内容ができています。今コピーをとってきて、ご覧にいれます」と発言し、その場を出てコピーを用意して戻り、委員をはじめ出席者全員に配布しはじめたのです。予定にない同氏の行動は、私の目にはずいぶんと奇矯なものに映りました。会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。しかし、困った行動ではあるが一部の研究者にはありがちなことだと私は思い、あえて同氏に注意を促すことは控えました。猛忙を極めていた時期でしたから、不要なトラブルは避けるべきだと判断したわけです。この種のエピソードはこれ以上多く言及はしませんが、自分の欠点や失点について少しでも指摘されることを潔しとしない人なのだとの印象が、私の中では強くなっていきました。企画展「二組のデュオ」案は亀井志乃氏のみが詳しい内容を知る案でしたから、当時の学芸課内では、この企画展についての担当は同氏であろうとの認識が支配的でした。

 ここでも平原一良は巧妙なすり替えと、曖昧化を行っている。
 亀井志乃は2005年6月8日の学芸課打合せ会の席上、当時のH学芸課長から、指定管理制度導入を視野に入れた、次年度以降の展示案作りの話を聞いた。とにかく4年分の企画がすぐにも必要だ、という。亀井志乃は打合せの後で、H課長に、嘱託の自分も案を出してもいいか、と訊いたところ、「ええ、構いませんよ、なるべく沢山欲しいところなので」という返事だったので、6月16日に8点の企画書を出してみた。H課長はその後も、自分でも案を練る一方で、7月20日、8月25日に開かれた打合せ会において、再三他の学芸職員に企画の提出を促しており、9月16日の打合せ会では、集まったアイデアの一覧表を示し、「企画検討委員会提出プラン」に向けて、皆で検討をした。その時点では44本の企画案があったが、絞り込みを経て、企画検討委員会の段階では36案になっていた。
 9月29日の企画検討委員会では、「2006(H18)年度の展示事業候補案」と「(参考)2007年~09年度までの3年間の展示プラン案」が示されたわけだが、それを諮ったのは平原一良である。それを見て、「個々の展示案の説明が簡略すぎて、判断のしようがない」と言い出したのは、理事の工藤正廣北大教授(当時)だった。
 もし工藤正廣の苦言が、平原一良の言うように、「欠点や失点」の指摘だったとするならば、それは亀井志乃に対してのものではない。提案者の平原一良に向けられたものだったのである。

○凹んだ工藤正廣
 ただ、その時工藤正廣は、「2006(H18)年度の展示事業候補案」に選ばれていた亀井志乃の「二組のデュオ」案を取り上げ、「こんなもんやっても、人なんか来るはずがないんだよ」と頭ごなしに決めつけた。そこで亀井志乃は、手を挙げて発言の許可を求め、「その案についてはもっと詳しい説明が可能ですから、少しお待ち下さい」と言って、素案作成時に提出しておいた「二組のデュオ」案の説明文をコピーして配布した。それに対して別に異論が出たわけではなく、工藤正廣はバツが悪くなったのか、会議途中で中座してしまった。
 もし平原のところに後から苦情が寄せられたとすれば、必ずや苦情を寄せた人間の一人は工藤正廣であっただろう。

○屈折する平原一良
 ちなみに、「2006(H18)年度の展示事業候補案」には、亀井志乃の「二組のデュオ」展のほか、特別企画展案「石川啄木――貧苦と挫折を越えて―」、同「福永武彦/池澤夏樹――父子2代作家展――」、企画展案「遥かなるサハリン――極北をめざした作家たち―」が挙がっていた。平成17年9月の時点で、「石川啄木」と「福永武彦/池澤夏樹」を手掛けていたのは、当時の学芸副館長・平原一良だった。「遥かなるサハリン」を着想したのはB・Aさん(道職員の学芸員)だったと思う。Aさんは寒川光太郎について、地味だが、腰の据わった研究を重ねていたからである。だがAさんは、この時点では、既に北海道教育委員会の生涯学習部文化課へ転出していた。
 分かるように、平原一良が言う「ひとりの委員」から苦言が呈された時、説明責任を負っていたのは平原一良と亀井志乃だったのである。

 ところが平原は説明責任を果たさなかった。あるいは果たす準備をしていなかった。
 工藤正廣と平原一良は、いわば「肝胆相照らす」仲であり、啄木展の企画には評議員(当時)の立花峰夫北海道情報大学教授も加わっていたであろう。平成19年は啄木が北海道に来た100年目に当たり、函館、小樽、釧路の文学館が記念の企画を立てる公算が大きい。当然、札幌の道立文学館も連携して平成19年の道内文学館合同の啄木展を実施する発想もありえたはずだが、平原一良や立花峰夫たちはどうやら抜け駆けの功名を狙ったらしく、――事実、ほかの場面で私が質問をした時、平原一良は「日本近代文学館からのオファーがあったからだ」と主体性の欠片もないことを言うのみで、筋の通った説明はできなかった。――平成18年に単独で啄木展を開催することにした。企画検討委員会の中には複数の賛成者がおり、もし誰かが疑問を呈しても、潰されることはない。そんなふうに安心して、不用意だったのかもしれない。
 じじつ工藤は、啄木展や池澤展について疑義を呈さず、亀井志乃の企画案だけを批判した。亀井志乃がそれに答えるのは、当然の対応だろう。ところが平原一良によれば
「他のスタッフはともかく自分はぬかりなく展示内容を用意している、と同氏は主張したかったのでしょうが、唐突で会議の場には馴染まない行動でした。」こんなふうに、良識人ぶった口調で、暗に亀井志乃の非常識をあげつらっているが、自分が準備不足だったことを誤魔化しているにすぎない。まともに説明できなかった自分の不手際を、亀井志乃の非常識にすり替えてしまったわけで、前回紹介した、常陸宮ご夫妻の前での失態を誤魔化した手口を、ここでも繰り返したわけである。
 彼はまた
「会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。」などと言っているが、もしスタッフの中から、「あれはスタンドプレーだ」という声が上がったとすれば、それは必ずや平原一良自身だったにちがいない。
  
 亀井志乃が自分の原案をゴリ押ししたわけではない。このことは、『業務計画書』における平成20年度の企画にも彼女の案が2つ採用されていることからも明らかであろう(「北海道文学館のたくらみ(30)」)。他方、「遥かなるサハリン」については、『業務計画書』では平成19年度に組んでいたが、平成19年度には実施せず、平成20年度の事業計画からも外してしまった。
 
 平原一良は
「ひとりの委員」とか「数人の委員やスタッフ」とかいう曖昧な言い方をしているが、こういう思わせぶりな言い方はやめた方がいい。裁判における「陳述書」は具体的な名前を挙げ、どのような批評あるいは批判だったかを明記しなければ、証言としての効力を持たないのである。

○口裏合わせ
 ただ、平原一良が
「会議終了後、数人の委員やスタッフから、唐突な氏の行動を是としない(例えば「あれはスタンドプレーに等しいではないか」)との声が寄せられました。」と、わざわざ「スタンドプレー」云々という言葉を挿入した理由は分からないでもない。

 亀井志乃は平成18年8月29日の朝の打合せ会で、「翌30日にニセコの有島記念館に出張し、展覧会の勉強のため展示品を見ておきたい」旨の希望を述べ、出席職員の了解を得た。ところが、打合せ会が終わるや否や、寺嶋弘道がそのことを咎め始め、「スタンドプレーと言われないようにしなさい」と叱りつけた。亀井志乃は「準備書面」の中でそのことにも言及しておいたが、被告側の「準備書面(2)」は有効な反論ができていない。(おまけに「出張」を「主張」と誤記し、4月16日の訂正の時も自分の誤記に気がついていなかった。)
 そこで平原一良は、亀井志乃がスタンドプレーと言われやすい人間であることを印象づけ、寺嶋弘道の言動を庇おうとしたのである。

○寺嶋弘道の思わせぶり
 さて、その「二組のデュオ」展の設営と後始末の問題であるが、寺嶋弘道はその「陳述書」の中で、自分が「イーゴリ展」を割り込ませ、亀井志乃が展示設営作業を遅延させた事実は棚に上げて、――しかし、なぜか彼は全て「イゴーリ」と表記している――平原一良と口裏を合わせる形で、亀井志乃の準備が
「滞留していた」と言う。さらに彼の言うところによれば、駐在職員2名のほか財団職員2名が加勢することになったが、しかし「原告(亀井志乃)は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった」そうである。
 これもまた事実を偽った人格非難でしかないのだが、他人を引き合いに出す手口も、平原一良そっくりだった。
《引用》
 
また、この「二組のデュオ展」では、2月9日(金)の道内美術館からの作品借用業務において、通常、作品図版カードを持参して双方職員による点検を行うところ、原告はこれを持参せず、後日そのことを伝え聞いた私は当該美術館にお詫びの電話を入れ、原告にとっては初めての美術品借用であった旨を伝えて釈明したのでした。このように原告は実際のところ学芸業務について経験が乏しかったにもかかわらず、「文学館の仕事にキャリアを持つ」(訴状)と自負するほど自尊心の強い性格だったと思います。

 こうして彼は亀井志乃の人格批判を積み重ねていくわけだが、この書き方における誤魔化しの急所は「道内美術館」「当該美術館」という曖昧な言い方にある。亀井志乃が絵画を借用した「道内美術館」は、木田金次郎美術館と道立近代美術館とであるが、寺嶋弘道が「お詫びの電話を入れた」のはいずれの美術館であるか、その電話の相手は何という名前の職員であったかを明らかにしていない。それに、そもそも一体誰から「後日そのことを伝え聞いた」のか、その日時、氏名、伝え聞いた経緯と内容が明らかではない。
 こういう書き方は裁判における証言としての効力はなく、むしろ寺嶋弘道という被告が如何に名誉毀損の人格的中傷を繰り返しやすい人物であるかを証明するだけであろう。

○寺嶋弘道、道立近代美術館学芸員を中傷する
 美術館から作品を借りる場合には、「借用書」を持参する。亀井志乃は木田金次郎美術館と近代道立美術館から木田金次郎の作品を借用したわけだが、もちろんいずれの場合も「借用書」を持っていった。
 木田金次郎美術館の借用の際には、O学芸員が「収蔵作品管理ファイル」のコピーを持っていて、亀井志乃と一緒に作品の現状におけるシミ、汚れ等を点検し、管理ファイルに書き込んだあと、更にそれをコピーしたものを亀井志乃に渡した。
 返却に当たっても、亀井志乃は「収蔵作品管理ファイル」のコピーを持参し、O学芸員とそれに従って細部を確認し、「はい、大丈夫です」という返事を聞き、「貴重なものをお貸しいただき、おかげさまで充実した展示をすることができました。どうもありがとうございました」とお礼を述べて帰ってきた。
 道立近代美術館の場合には、T学芸員からメールで「借用書」のフォーマットが送られてきた。だが
「作品図版カード」については何の言及もなかった。2月9日に借用に訪れた際にも、T学芸員から「作品図版カード」を持参したか否かの確認はなかった。木田美術館の時のようなファイルのコピーを渡されることもなかった。返却に当たってはT学芸員に細かいところまでチェックしてもらい、「大丈夫です」という返事をもらい、お礼を述べて帰ってきた。
 
 ただし、亀井志乃はT学芸員が不親切だったとも、手を抜いたとも考えていない。第1に、借用する作品は、木田金次郎がハガキに描いた小品で、額装も表面がきちんとガラスにおおわれた状態だった。――木田美術館から借用した作品は油絵で、表面がガラスでおおわれてはいなかった。文学館の展示では、用心のため、額ごとガラスケースに入れた。―
 第2に、亀井志乃は11月末頃からT学芸員と連絡を取り合い、1月16日には、図録掲載用に、同作品のスライドフィルムを借用していた。そのことを勘案して、T学芸員は、わざわざ「収蔵作品管理ファイル」のコピーを渡すまでもない、と考えたのであろう。
 
 分かるように、亀井志乃はいずれの学芸員とも、借用の依頼から返却の際しての打合せに至るまで、メールやファックスで連絡を取っている。もし亀井志乃に手落ちがあり、迷惑をかけたならば、O学芸員とT学芸員のいずれか、あるいは両方からその旨を伝えられたはずである。亀井志乃本人に直接伝えるのを避ける必要があったとは考えることができない。

 そのことを確認した上で、先ほどの寺嶋弘道の文章にもどってみよう。確かに亀井志乃は2月9日、道立近代美術館と岩内の木田金次郎美術館に、美専車(美術品運搬専用車)をチャーターして集荷に出かけた。寺嶋弘道は、この時亀井志乃が「作品図版カード」を持参しなかったことをあげつらっているわけだが、そうである以上、寺嶋は、亀井が道立文学館を出る前に、「借用書」の他に「作品図版カード」なるものを準備すべきだったと考えていたことになる。
 見方を変えれば、木田美術館も道立近代美術館も、それぞれ膨大な収蔵作品の全てに関する
「作品図版カード」を揃えて、道立文学館は言うまでもなく、全国のミュージアムに配布し、「本館所蔵の作品を借りる時は、「借用書」と一緒に「作品図版カード」を持参して下さい」と条件づけていたし、現在も条件づけている。寺嶋弘道はそう主張したことになるわけである。(それだけではない。寺嶋弘道の理屈を詰めて行けば、全国のミュージアムの全てが互いに「作品図版カード」を交換してなければならない道理となる。)
 
 ただ、木田美術館のほうは「収蔵作品管理ファイル」を用意し、貸出の時も返却の時も必要な確認作業を行っている。してみるならば、寺嶋弘道は
「当該美術館」などと思わせぶりに曖昧な言い方をしているが、彼がお詫びの電話を入れたという相手方は道立近代美術館のT学芸員であった。その可能性は極めて高い。
 この人は亀井志乃に
「作品図版カード」の持参を確かめたことはなく、「収蔵作品管理ファイル」のコピーも渡さなかった。そうしてみると、道立近代美術館のT学芸員は、作品図版カード」については事前に連絡もせず、当日も確認はしなかったけれども、亀井志乃が持参しなかったのは非常識だと、寺嶋弘道に苦情を言った。あるいは道立近代美術館のT学芸員は、亀井志乃が「作品図版カード」を持参しなかったという理由で、亀井志乃は学芸業務のイロハさえも知らない人間だと言いふらし、それが寺嶋弘道の耳に入った。彼が言うところを詰めて行けば、どうしてもそういう結論にならざるをえない。
 もしそうならば、道立近代美術館のT学芸員が亀井志乃を中傷したことになるわけだが、じつは寺嶋弘道がT学芸員を中傷したことにもなるだろう。なぜなら、寺嶋弘道は法廷の証言台において、
当該美術館」及び電話の相手の名前を明らかにせざるをえず、当然それはT学芸員が上記のような人物であることを証言するのと同じ意味を持ってしまうからである。

○寺嶋弘道の道づれ作戦
 このように寺嶋弘道は、かつて同僚だった人に対する中傷となることも顧みず、根拠の曖昧な、思わせぶりなエピソードを作文して、
原告(亀井志乃)は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった「このように原告は実際のところ学芸業務について経験が乏しかったにもかかわらず、「文学館の仕事にキャリアを持つ」(訴状)と自負するほど自尊心の強い性格だったと思います」と、亀井志乃の人格を貶めようとした。確かに亀井志乃は「文学館の仕事にキャリアを持つ」(「訴状」)と書いたが、美術館の仕事にキャリアも持つと書いたわけではない。ところが彼は、そのケジメもつけられず、自分が作文した思わせぶりのエピソードを理由として、亀井志乃は学芸業務の基本さえ弁えていなかったとこじつけ「自尊心の強い性格だったと思います」などと性格批評を披歴してみせたわけである。
 
 だが実際は、彼はこういう書き方によって、いかに彼自身が人格侵害、名誉毀損のパワー・ハラスメントを引き起こしやすい人間であるかを証明してしまった、と言うべきであろう。
 それだけではない。彼はこういう書き方によって
「道内美術館」の学芸員に、亀井志乃非難の一端を担わせようとした。つまり亀井志乃を中傷し、名誉を毀損する仲間に引き込み、責任を負わせようとしたのである。

 寺嶋弘道は被告側「準備書面(2)」においても、道立近代美術館のK学芸員の名前を挙げて、この人が寺嶋に〈亀井志乃の手紙で困惑を感じている〉旨の相談をした、と書いている。
 寺嶋弘道は誰彼かまわずに裁判に巻き込むつもりらしく、道立近代美術館のKさんにも、同じく道立近代美術館のTさんにも、そしてひょっとしたら木田金次郎美術館のOさんにも、平原一良と同様に「陳述書」を書いてくれ、と頼みに行くだろう。

○文学館の皆さんはくれぐれもご用心を
 いや、その前に、亀井志乃の行動に強い非難の声をあげたらしい
「駐在職員2名のほか財団職員2名」のところに、「陳述書」の話を持って行くかもしれない。それというのも「この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった」という表現は、どんな人たちが渦巻くほど強い非難の声をあげたのかを、微妙にぼかしているからである。案外非難の声を上げたのは寺嶋弘道自身だったかもしれない。だが、内容的に見れば先ほどの4人、あるいはその中の誰かが、亀井志乃の行動を口にしなければ、非難の声は渦巻かない。その意味では、まず非難の声をあげたのは先ほどの4人、またはその中の誰かだったことになる。結局寺嶋弘道はここでも「当該美術館」と同じ言葉のトリックを使い、亀井志乃を中傷した責任を先ほどの4人、またはその中の誰かに押しつけわけである。
 
 オープニング直前の会場設営は、作品を展示したり、キャプションのパネルを添えたり、もちろん一人で出来ることではなく、何人もの職員が手を貸してくれる。これは「二組のデュオ」展だけでなく、大がかりな展覧会の設営は常にそうして来た。ただ、「二組のデュオ」展の場合は、亀井志乃が責任者と見られていた。それ故、彼女が警備員に「今日の作業は終わった」旨の挨拶をし、それを受けて警備員が展示室のシャッターを閉め、職員入口の施錠をする。そういう手順になっていた。
 そんなわけで、亀井志乃が他の職員を残して、さっさと先に帰ってしまうことなどあり得ないはずだが、――じじつ亀井志乃はオープニングの前夜の2月16日には、設営を完了して、午後11時過ぎに帰宅できた。だが、その前は札幌に2泊して作業に当らざるをえなかったし、手を貸してくれた人とは一緒に館を出ている。――しかし寺嶋弘道によれば
「原告(亀井志乃)は応援に加わった職員らを展示室に残したまま先に帰ってしまい、この、仲間意識を踏みにじる原告の行動に対して強い非難の声が渦巻いてしまった」そうである。
 では、それは何日の夜のことだったのか。そういう具体的なことになると、先ほどの
「当該美術館」と同様、急に曖昧になってしまう。平原の「ひとりの委員」や、数人の委員やスタッフ」と同じやり方である。
 しかし「渦巻く」ほどに「強い非難の声」をあげたらしい
「駐在職員2名のほか財団職員2名」が、――少なくとも強い非難の声を渦巻かせるきっかけを作った「駐在職員2名のほか財団職員2名」が――誰と誰か、4人の名前は簡単に特定できる。
 ふ~ん、あの人たちも渦巻く非難の声に加わっていたんだ。どんな非難だったか、私も一度聞いてみたいものだな。
 
○空証文でも罪だけは残る
 道立近代美術館のKさんと、道立近代美術館のTさんは、かつて寺嶋弘道と同僚だったおかげで、どうやら彼の作文の証人に仕立てられてしまうらしい。これまでの行きがかり上、引き受けざるをえないかもしれないが、ただ一つ警告をしておけば、決して嘘は書かないように。とくにKさんは、亀井志乃の手紙を証拠として、どんな迷惑を蒙ったのかを証明しなければならないわけで、これはかなり困ったことになりそうだ。
 先ほども言ったように、法廷で問題になるのは被告の行為事実の確認と、法律の適用の是非だけである。これまで引用した平原一良や寺嶋弘道のような書き方は、遊女の空証文みたいなもので、何の効力も持たない。
 何の効力も持たないが、しかし人格非難の名誉毀損を行ったことや、偽証した事実は、名誉毀損罪や偽証罪の証拠として残る。もちろん太田弁護士が作成した「準備書面(2)」も、その責任を免れることはできない。
 
 それにしても、太田弁護士はなぜ平原一良や寺嶋弘道の「陳述書」を出してきたのであろうか。二人の「陳述書」の事実関係は亀井志乃がチェックしているが、確実な証拠よって、それぞれ10箇所近く、虚偽を指摘できるという。平原一良は「陳述書」だけで、法廷には出ないらしいから、偽証罪にまでは至らないかもしれない。だが、名誉毀損罪に問われる公算は大きい。寺嶋弘道が証人台に立てば、多分両方の罪が問われることになる。
 ひょっとしたら太田さんは、それを百も承知の上で、4月16日、二人の「陳述書」を出し、「人証の申出(被告本人。尋問時間60分)」をしたのかもしれない。
 
 

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