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北海道文学館のたくらみ(31)

雉も鳴かずば撃たれまい(上)

○後戻りできない「陳述書」
 私は前回、「すごい裁判になりそうな悪感!」と書き、「平原一良さん、大丈夫かな」と書いた。4月16日の第3回公判に出て、幸か不幸か、予想が的中してしまった。あんまり見事に的中したので、我ながら驚いている。
 
 4月16日、11時から公判が始まったが、裁判長が田口紀子裁判官に変わった。4月に人事異動があったためかもしれない。まず双方の「準備書面」の訂正があり、太田三夫弁護士の被告側「準備書面(2)」の訂正は11個所、亀井志乃の「準備書面」の訂正は1個所だった。
 この日漸く、太田弁護士から「準備書面(2)」に対応する証拠物が12点出された。その中には、被告・寺嶋弘道の「陳述書」と、平原一良副館長の「陳述書」が入っている。裁判長が、「では、この通りに陳述しますか」と質問し、太田弁護士は「はい」と返事をした。この瞬間、「準備書面(2)」だけでなく、寺嶋の「陳述書」も平原の「陳述書」も法廷で陳述したことになる。以後、遠慮なく引用させてもらう。
 特に平原の「陳述書」は「上記の内容に相違ないことを誓います。」と結び、署名捺印してある。ということはつまり、その内容に偽りがあった場合、「あっ! そこは勘違いでした」と訂正する程度のことでは済まされない。偽証罪に問われることになるのである。
 
 次回の公判は5月23日(金)の午後1時半から、と決まった。被告側「準備書面(2)」及び寺嶋、平原の「陳述書」に対する亀井志乃の反論は、裁判長がゴールデン・ウィークを配慮して、5月14日(水)までに提出することになった。
 亀井志乃は「では、5月14日までに原告の「準備書面」を提出して、5月23日はどのようなことが行われるのでしょうか」と訊いてみた。田口紀子裁判長の返事は、「今日初めて「陳述書」が出て、原告はまだお読みになっていないわけですね。原告がそれをお読みになってから、原告側の「準備書面」を出していただくわけですから、次回はその「準備書面」を見た上で、争点をもっと明確にするために「準備書面」の交換を続けるか、それとも双方の尋問に入るかを決めたいと思います」ということだった。
 太田弁護士は被告・寺嶋弘道の本人尋問を申し出ている。被告本人もそれを前提としてだろう、平原のように「上記の内容に相違ないことを誓います」とは結んでいない。証言台で真実のみを述べることを誓うつもりなのである。
 
 公判は11時半に終わった。裁判長が「今日はこれで閉廷します」と言う前に、太田三夫弁護士はそそくさと出て行った。

○一体どちらが法律家の文章なのか。
 寺嶋の「陳述書」も、平原の「陳述書」も日付は4月8日になっている。それなのに、どうして太田弁護士は9日に、「準備書面(2)」と一緒にファックスで送ってこなかったのだろう。大通公園を散歩がてら帰りながら、私たちはそんな話をした。これも太田弁護士の引き延ばし作戦かもしれないね。

 それにしても、平原一良副館長は何故あんな「陳述書」を書いたのか。彼は被告じゃない。裁判の証人台に立つ予定はないらしい。太田弁護士の「証拠説明書(乙号証)」の説明によれば、平原の「陳述書」の立証趣旨は、「原告の財団での勤務態度が好ましいものではなかったこと」を証言するためだという。
 しかしそんなことを書いて何の役に立つのだろう。訴訟の焦点は、「北海道教育委員会の職員である寺嶋弘道という公務員が、駐在先の民間の財団法人で嘱託として働く亀井志乃という市民に人権侵害の言動を繰り返した」ということにある。
 太田弁護士の「準備書面(2)」はこの基本的な問題には全くふれずに、ただ「被告は原告の事実上の上司であり、被告の言動は部下に対する指導だから、まったく違法性はない」の一点張りで、法律の問題にも一言半句ふれていない。その代わりに、原告・亀井志乃の当時の言動や、「準備書面」主張を故意に曲解して、「常軌を逸している」と、原告個人に対する人格非難を繰り返している。おまけに、わずか12枚の「準備書面(2)」で訂正は11個所もあった。
 それに反して、亀井志乃の書き方は、前回や前々回の引用で分かるように、被告の人格を云々することは全くしていない。証拠に基づいて、被告の行為事実を挙げ、それがどのような法律に違反するかを指摘するにとどめている。
 一体どっちが法律家の文章なのか。
 
 そんな感想が浮かんでくるほど書き方の差が大きいのだが、寺嶋弘道の「陳述書」や、平原一良の「陳述書」は太田弁護士の書き方に輪をかけて、もっぱら亀井志乃の人格非難にかまけていた。
 
○平原一良が描いた亀井志乃像
 ただし、平原一良の「陳述書」は一見筆を抑え、客観的な記述を心がけているかの如くであり、平成13年(2001)の初夏から初冬にかけて、亀井志乃にボランティアで寄贈資料の整理をしてもらったことがあるが、その時は、1階の和室を一人で使っていた。そのおかげで、財団の他のスタッフとはほとんど交渉がなく、
特記すべき人間関係上の軋轢もなく淡々と作業が進み、区切りのついた同年末に同氏(亀井志乃)と当財団との関係は終了しました」。
 こんなふうに彼は説き起こして、亀井志乃が人間関係上の問題を起こさなかったのは孤立した空間にいたおかげであると、まずそのことを確認し、――とはいえ、すでにこの中にも重要な間違いが含まれているのだが――やがて、平成16年7月に財団の嘱託職員に採用されて以後、次第に彼女の非協調的な言動が顕著になって、ついに次のように非常識で自己顕示的な行動を見せるに至った。これを読めば、平原一良の作話能力の水準がよく分かるだろう。
《引用》
 
企画展「二組のデュオ」の展示準備は学芸スタッフばかりでなく業務課スタッフの手も借りて進められました。直前まで展示パネルが仕上がっていませんでした。キャプションの打ち込みなども学芸スタッフが手伝うことでオープンに漕ぎつけたのです。亀井志乃氏にとっては初めてみずから手がける展示でしたから、無理もないことです。たった独りで設営に当たるなど、文学館を含むミュージアムの世界では、特別の事情がない限りあり得ません。
 
この企画展の会期半ば(3月9日)に、宮家からお二方のご来館があり、常設展示と企画展のそれぞれをご覧いただき、私が説明役の任に当たりました。事前に北海道警察本部との間でご来館時の流れを検討し、役割分担を毛利館長らとも打合せ、職員にも伝えてその時に臨みました。常設展示の説明が終わり、企画展へとお二方にお運びいただき、私が説明を開始した数分後に、警護官らが不自然な動きを見せたので、私はそちらへと目を向けました。すぐ間近に亀井氏が迫っており、警護官が動きかけたので、咄嗟に私は「当館の職員で、この担当を展示した者でございます」と説明して、その場をとりつくろいました。亀井氏は、その直後から上気した様子で一部のコーナー解説を始めるなど、最後まで展示室内にとどまりました。当初の予定にないと突然のことでした。自分の手がけた展示をなんとしてでも自分が説明したい、事前の打ち合わせなどこの際は関係ないと言わんばかりの不意打ちに近い行動で、私はもちろん幹部職員は冷や汗をかいたのでしたが、いま顧みると極めて非常識な行動であり、自らの業績を顕示したいとの欲求を抑制できない人物には、十分にあり得る出来事だったと思わざるを得ません。
 このあたりで、陳述を終わることにします。日常過程にあって問題解決を対話的に行うことを心得、職場などへの社会的な適応性を普通に備えた人物であれば、本件のような事態をもたらさないはずだと思うばかりです。
                                  ――以上――
 2008年4月8日
               上記の内容に相違ないことを誓います。
                      (財)北海道文学館 副館長・専務理事
                                        平原 一良    印

 「すごい裁判になりそうな悪感!」が的中してしまった。初めに私がそう書いておいた。その理由は、こんな「証言」が平原一良の口から飛び出てきたためであるが、この文章の第1段については、「北海道文学館のたくらみ(9)」を読んでもらえば、どんなことが職員総掛りで行われたか、直ちに分かってもらえると思う。特に悪質なのは、亀井志乃が展示の設営にかかる直前に、寺嶋弘道が「ロシア人のみた日本――シナリオ作家イーゴリのまなざし――」という展示を割り込ませて、特別展示室の入口を塞いでしまった。その事実に平原は全く言及していないことである。

○事実の歪曲
 また、展覧会のオープニングまでに仕上げた『人生を奏でる二組のデュオ?―有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二――』(2007年2月17日)という図録(北海道立文学館発行)を見てもらえば、亀井志乃がどれだけ準備を重ねたか一目瞭然のはずである。
 この図録の原稿を何日ころ印刷会社へ渡したか。そう想定してみるだけでも、キャプションやパネルの準備がどの段階で終わっていたかも十分に推測できるはずであり、じじつ亀井志乃は展示関係資料235点のキャプションの打ち込みを、平成18年(2006年)の12月頃までに終わっていた。データベースはFileMakerで作成した。その中から展示に出す143点を絞り込み、図録用のキャプションもそこからセレクトした。図録用の原稿は平成19年(2007年)1月18日夕刻、印刷会社のアイワードに入稿している。
 それと前後して、副担当の阿部学芸員に頼んで、展示用キャプションの印刷用レイアウトを作ってもらい、その後間もなく刷り出した。あとはパネル用ボードに貼りつけるだけ、というところまで、この時点ですでに準備していたのである。
 
 平原一良はそういう準備状態を全く無視して書いている。ちょっと見には、いかにも亀井志乃に同情的だったような書き方をしているが、いかに悪意ある作為を施して事実をねじ曲げていたか、明らかだろう。

○平原一良の「冷や汗」
 先に引用した文章の第2段は、事実の歪曲がもっとはなはだしい。
 彼が言うところを、亀井志乃の側から事情説明をすれば、事実は以下の如くであった。
 
 2007年の3月9日、常陸宮ご夫妻が北海道立文学館を訪れた。事務室の留守居役1、2名を除いた職員一同がお迎えをし、まず常設展の展示室を案内して、平原一良副館長が説明役を務めた。文学館側からは神谷理事長と毛利館長が同行し、宮内庁の役人と警護の人たち、合せて5、6名の人も一緒に入って行った。
 予定された時間は45分。常設展の他に、もう一つ、特別展示室の企画展の「人生を奏でる二組のデュオ~有島武郎と木田金次郎 里見弴と中戸川吉二~」があるが、常設展の説明が終って、僅かに10分程度しか残っていない。亀井志乃はこの企画展を担当した立場上、特別展示室の案内には随いて行くことにして、一番後方に控えていた。
 展示物は時計の針と反対方向で回るように配置してあり、入口近くの右手の壁には、まず若き日の有島武郎の写真が掛かっていた。平原副館長は常陸宮ご夫妻をその前に案内し、「有島武郎はアメリカ留学から日本へ帰る途中、ロンドンでホイットマンと会った」という意味の説明をした。亀井志乃は小声ではあったが、思わず「えッ!?」と声を発してしまった。有島がロンドンで会ったのは、亡命中のロシアの無政府主義者・クロポトキンだったからである。これは少しでも有島の伝記に通じている者にとっては周知の事実であるが、長年北海道文学館の学芸員を務めてきた平原副館長は、信じられないほど初歩的なミスを犯してしまったのである。
 それに、アメリカの詩人ワルト・ホイットマンは有島より60年ほど前に生まれ、有島が留学する11年前に既に亡くなっていた。
 
 亀井志乃が「えッ!?」という声を発した理由はそれだけではない。
 彼女は有島の若き日の写真や、有島が描いた絵の傍らに、誰の目にも負担がかからないように、大きめな文字で、解説パネルをつけておいた。ホイットマンの生没年(1819~1892)は言うまでもなく、有島がホイットマンの詩集『草の葉』を知ったきっかけもちゃんと説明してある
「有島武郎は、ハーバード大学大学院の聴講生となった一九〇五年(明治三八)、ボストンに部屋を間借りさせてくれた弁護士、フレデリック・ウィリアム・ピーボディが夕食後に『草の葉』を朗唱するのを聞き、「長く長く遥かに望みつゝありし一のオアシス」(『観想録』)に巡り合ったかのように感動した。ちなみに、当時は、アメリカ国内でもまだホイットマンの詩に対する評価は確立していなかった。」と。
 常陸宮ご夫妻は現にその時、パネルのすぐ前にお立ちになり、解説もご覧になっている。にもかかわらず平原副館長は、常陸宮ご夫妻の目にも明らかな、とんちんかんな説明をしてしまったのである。
 だが、彼は自分の失敗に気がつかないらしい。ただ、何かおかしなことを言ったかもしれない。そんな不安が一瞬よぎったらしく、自信なさそうな表情で亀井志乃のほうを振りかえった。宮様ご夫妻も振り向いていらっしゃる。そこで彼女はこころもち歩を前に進めて、「…あの、有島武郎はホイットマンの詩と出会ったのです…」と、キャプションに即して簡潔に説明した。
 
 亀井志乃はこの日の午前中は、いつもの通り、新着雑誌類を閲覧室や書庫に配架する仕事をしていたが、11時半頃、展示資料を貸して下さったY・Hさんご夫妻がわざわざ千葉から訪ねて来られたので、企画展の特別展示室に案内して、説明をしたり、ロビーでお話をうかがったりした。常陸宮ご夫妻がお見えになったのは、Y・Hさんご夫妻が帰られて間もなくの、午後2時45分頃のことだった。
 亀井志乃は宮様ご夫妻に随って常設展の展示室に入ることはせず、入口を入ってすぐの所に立って、平原副館長がどのように説明しているのか、聞いていた。すると、「昨年、高円宮様がお見えになった時……」という平原副館長の声が聞こえてきた。昨年(2006年)、道立文学館を訪ねたのは桂宮であって、高円宮ではない。高円宮は平成14年(2002)11月に亡くなっている。ずいぶん失礼な間違いだが、平原副館長は気がつかないらしく、また同じ勘違いを繰り返した。宮様ご夫妻はどのようなお気持ちで聞いていらっしゃるのか、亀井志乃はハラハラしながら聞いていた。
 その時の常陸宮ご夫妻の表情はもちろん知る由もないが、有島武郎の説明の失策の際には、ただ黙って微笑んでいらっしゃった。
 
 その後も平原副館長が、それこそ「冷や汗」を拭き拭き説明を続け、やがて案内は里見弴と中戸川吉二のコーナーへと進んだ。お二方は中戸川吉二の『イボタの蟲』の引用パネルや、中戸川が自分の愛馬と撮った写真などを興味深そうにご覧になっている。中戸川吉二は割合に早く小説の筆を折ったが、競馬が好きで、競馬随筆のジャンルを開き、菊池寛たち競馬好きの文士が誕生するきっかけをつくった。亀井志乃はそれを説明するパネルもつけておいたのだが、平原副館長は中戸川や里見弴が苦手らしく、このコーナーの後半からは、しぶしぶ説明役を亀井志乃に譲る形になった。皇族の競馬好きは有名であるが、常陸宮ご夫妻も例外ではないらしい。興味を持って耳を傾けておられた。

 特別展示室を出たお二方は、館長たちとエレベーターで1階のロビーに上がられた。亀井志乃は階段を上がっていった。エレベーターの開閉に若干時間がかかったらしく、階段を使った亀井志乃のほうが早く上に着き、宮様方がエレベーターから出ていらっしゃるのをお待ちする形となった。その前を通りかかられた時、華子様が「ありがとう」と亀井志乃に声をかけた。その様子を見ていた川崎業務課長が、あとで、「華子様、亀井さんに「ありがとう」っておっしゃたね!」と言った。

○これはもう仕方がない
 当日の夜、私はそれを聞いて、「これが戦後でよかったな。戦前、もし宮様の名前を間違えたりしたら、平原の首はたちまちぶっ飛んでしまうよ」と笑った。
 亀井志乃は「でも、あの人にとっては恥ずかしい話だから、まあ書かずにいたほうがネ……。それに、宮様方とのことは大切にしたい思い出でもあるし」。そう言って、口外を慎んでいたのだが、平原一良自身が先ほどのような形で持ち出し、自分の失態を亀井志乃にすり替えている。私は前回、〈変更したものある〉という平原の言い訳を紹介したが、またしてもやったのである。これはもう仕方がない。実際にあったことを明らかにするほかはないだろう。
 
○三文劇画の見過ぎ?
 この二つの記述のどちらにリアリティを感ずるかは、これを読んだ人の判断に任せるよりほかはない。
 
 ただ
「私が説明を開始した数分後に、警護官らが不自然な動きを見せたので、私はそちらへと目を向けました。すぐ間近に亀井氏が迫っており、警護官が動きかけたので、」という平原一良の記述は、どうもいただけない。
 平原一良としては、〈亀井志乃は一行の後ろにいて機をうかがっていた〉、あるいは〈一行の後を追うようにして入口から入ってきて、平原が説明を始めるや警護官を押しのけて前へ出ようとした〉と裁判官が受け取るように、亀井志乃の行動を描写したつもりなのであろう。だが実際問題として、彼が描写したようなことはあり得ないと思う。
 
 展示は入り口の右手の壁に有島武郎関係のものを並べ、それと向かい合う位置に移動壁で壁面を作って木田金次郎関係のものを並べ、二つの壁の間の通路は2メートル20センチしかない。ただし随所にガラスケースが置いてあり、身体感覚的に言えば、1メートル半程度の幅しかなかったことになる。そこへ、文学館の館長ら3人と、宮内庁の職員や警護の人が、常陸宮ご夫妻に身体を近づけすぎないように立っている。しかし、まさか「警護員デース」みたいな格好や、関係者以外の人間を寄せつけない物々しい雰囲気で、常陸宮ご夫妻を取り囲んでいたわけでもあるまい。
 そんなわけで、その人たちが亀井志乃を文学館の職員と認知していれば、仮に亀井志乃が前に出ようとしても、阻止するような動きをするはずがない。いま説明している副館長をサポートするつもりなのだ、という程度にしか受け取らないであろう。そもそも平原副館長は、宮様と共に、有島武郎の写真や絵を見ながら説明していたはずで、その後ろから随き従っている「警護官らの不自然な動き」が、彼の視野に入るはずがない。
 平原一良は三文劇画の見過ぎではないか。
 
○平原一良、3つの誤算
 2007年3月9日、道立文学館は平常通り開館していた。常陸宮ご夫妻がお見えになるからという理由で、一般の来観者をシャット・アウトはしていなかった。現にY・Hさんご夫妻も来館している。現在の皇族や宮内庁が一番懸念していることは、一般来館者をシャット・アウトするような仰々しい警備体制を敷き、そのため国民の心が皇室から離れてしまうことである。警察の人が警備に当たることは言うまでもないが、実際は前日のうちに、植木鉢の中や、館内のロッカーなど、危険物が隠されていそうな所を入念にチェックし、当日は私服姿で、目立たない位置に控えている。
 それに、警護の人は午前中早くから館の1階ロビーで待機しており、亀井志乃は図書を持って閲覧室に出入りしたり、手洗いに行ったりして、その人たちと何度か会釈を交わしていた。警護官はその日の午後までには、すでに十分、亀井志乃を「館の職員」と認識していたのである。
 
 平原一良は、「役割分担を毛利館長らとも打合せ、職員にも伝え」た会合(もしそういう会合を持ったとすれば、の話であるが)に亀井志乃を呼ばず、当日は、文学館職員であることを示すバッジを亀井志乃にだけは渡さなかった
「亀井氏は、その直後から上気した様子で一部のコーナー解説を始めるなど、最後まで展示室内にとどまりました。当初の予定にない突然のことでした」。この平原の一文が、はからずも彼の本音を露呈してしまったように、彼は常陸宮ご夫妻の応接業務の一切から、亀井志乃を排除してしまうつもりだった。亀井志乃が自分の手がけた展示室に入ることも、最後まで展示室にとどまることも、平原一良は「当初の予定」から外していたのである。
 ところが、宮内庁の人たちは、バッジをつけていない/配られなかった亀井志乃が特別企画室に入るのを咎めるわけでもなく、常陸宮ご夫妻は亀井志乃の説明に耳を傾けていた。これが平原一良の第一の誤算であろう。
 
 平原一良のもう一つの誤算は、自分がとんでもない無知を曝け出してしまったことだった。
 
 私は2002年の3月17日、アメリカのUCLAから客員教授に招かれ、ロサンゼルスに向かった。小樽市長や教育委員会へ事情説明に出かけたり、講義の原稿を作ったりしているころだったが、1月31日、紀宮さまが来館された。私は初めにごく簡単に挨拶を申し上げただけで、館内の案内と展示の説明は学芸員の玉川さんに任せた。
 いま手帳をめくってみると、その前年(2001年)の12月19日、宮内庁の紀宮さまつきの役人が文学館の下見にやってきた。道警本部と小樽市警の警察官も一緒だった。その後も、警察の人が1、2度、挨拶にやってきたが、雑談の折、私のホームページ(「亀井秀雄の発言」)の「歴史教科書問題」を読んだと言い、「たいていの人は、『新しい歴史教科書を作る会』の側に立つか、それに反対する会の側につくか、どちらかの立場で書いていますけれど、館長さんは「反対する会」も批判するけど、小林よしのりも批判している。小林よしのりをああいう形で批判しているところは面白かったですよ」と評価してくれた。
 私は警察の警備担当がどこまで調べるかについては何も知らない。ただ、こう言っては紀宮さまには失礼かもしれないが、皇位継承順位をもつ常陸宮の警護はもっと念入りな準備が行われたと思う。インターネットで「北海道立文学館」を検索し、ヒットしたものには一通り目を通して置く。それくらいの手間は、惜しまなかったであろう。
 ということはつまり、警備の担当者も宮内庁の職員も、「人生を奏でる二組のデュオ」展がどういう経緯でオープンにまで漕ぎつけたか、十分に承知していた公算が極めて大きいということである。
 その点も平原一良の誤算であっただろう。

 

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