北海道文学館のたくらみ(27)
告訴の具体例
○亀井志乃の原告側「準備書面」
亀井志乃は3月5日、「準備書面」を札幌地方裁判所に出してきた。前回の「訴状」は10ページだったが、今回は33ページ。3倍以上の詳細な記述になったが、これはやむを得ない。被告側の太田三夫弁護士の要望と、阿部雅彦裁判長の指示に従って、時系列的に事実を挙げ、その違法性を指摘する書き方に改めたところ、記述内容が大幅に増えてしまったのである。
この記述を裏づける証拠物は、「訴状」の段階では29点だったが、今回新たに11点を追加し、合計40点となった。
○やっと出てきた被告側「準備書面〈1〉」
2回目の公判は3月14日(金)に開かれる。被告側としてはあの内容の一つ一つに反論するのはかなり難しいだろうな。そう考えていたところ、13日になってもまだ何も届かない。
前回、裁判長は、〈次回は原告が出した証拠の原本確認を行います〉という意味のことを言っていた。被告側の反論が出ないかぎり、争点がはっきりしないわけで、具体的な論議に入ることができない。被告側の太田弁護士もその辺を計算しているのだろう。そんなふうに考えていると、14日の朝、九時過ぎ、太田弁護士から電話が来た。
太田さん、私が電話に出るとは思わなかったらしく、やや慌てたふうで、挨拶も抜きに、「弁護士の太田ですが、これから被告側の「準備書面」を送りたいのですが、ファックスが使えますか」と訊く。「ええ、この電話番号で届きます。何枚くらいになりそうですか」。もし被告側「準備書面」が20~30枚になるようだったら、ファックスの用紙を補充しなければならない。だが、太田さんの返事は「5枚です」。「そうですか。それでは、どうぞお送り下さい」。
こうして、5枚分のファックスが届いたわけだが、1枚は「送付書」だから、実質は4枚。「なんだ、これなら、当日の朝、慌てて送るまでもない。裁判所で渡せばいいじゃないか」。そう思ったが、太田さんとしては〈少なくとも裁判所に入る前に、被告側の反論は原告に届けておいたのだ〉という実績が必要だったのだろう。
○一つの収穫
そんなわけで、被告側の「準備書面(1)」は私が最初に見たわけだが、「どんなことを言ってきたの?」と訊く家族と一緒に読んでみると、例えば原告が「平成18年4月7日(金曜日)」について述べた事柄に関しては、〈原告が挙げた「被害の事実」のうち、原告の亀井志乃と被告の寺嶋弘道との間で、原告が北海道立近代美術館訪問予定の話をしたことは認める。但し、細部については否認する。また、原告が指摘する、被告の言動の「違法性」については、「争う」〉。
こんな内容のことが、15項目にわたってずらずらと並べてある。
要するに具体的な反論は一つもなく、反論を裏づける証拠物も提出されず、結局は前回の「答弁書」とさほど変らない内容だったわけだが、収穫が全くなかったわけではない。
その一つは、亀井志乃が「被害の事実」として挙げた15の事柄の全てについて、被告側はその「事実」があったこと自体は認めていることである。つまり「事実の存否」に関するかぎり、被告側は〈原告が指摘した事実が存在した/することは認める〉ということである。
○否認と不知
被告側は事実の存在を認めた上で、「ただし、細部については否認ないし不知である」と言い、または「細部については否認ないし争う」と言うわけであるが、否認するにせよ、「不知(相手の主張を知らない)」と突き放すにせよ、いずれも証拠によって裏づけなければならない。
なぜなら、そんなことは認めないと主張するには、主張を裏づける証拠が必要だからである。「不知」の場合も、民事訴訟法第159条第2項――「相手方の主張した事実を知らない旨の陳述をした者は、その事実を争ったものと推定する。」――により、やはり証拠調べによる確定が必要となる。
民事事件の裁判記録を見ていると、時々「否認ないし不知である」という表現を見かける。要するに「証拠調べによって事実の確定を争う」という意味なのであって、「では、証拠を出して下さい」と対応しておくことにしよう。
ついでに、法律に素人の私が言うのは釈迦に説法に類することだろうが、裁判における「事実」は、かつて実際にあった事柄を挙げるだけではまだ十分ではない。かつてこれこれのことがあったという主張を裏づける証拠物を出し、その証拠調べによって確定した事柄を「事実」と呼ぶらしい。
ということはつまり、寺嶋弘道被告と太田三夫弁護士は、自分の側の証拠物を出して、亀井志乃が提出した40点の証拠が無効であることを証明し、亀井志乃の主張を覆さなければならないわけだが、さて、二人はどんな証拠物を出してくるのだろうか。
○もう一つの収穫
もう一つは、〈被告は次回期日までに、原告の主張に対する反論の準備書面及び査証の提出(陳述書)及び人証の申し出(1ないし2名)を行う予定だ〉と約束していることである。
「原告の主張に対する反論の準備書面」は多分太田弁護士が作成するだろうが、被告の寺嶋弘道は「陳述書」を出すらしい。おまけに、物証(物的証拠)ならぬ、人証(じんしょう/裁判で、人の供述内容を証拠とするもの)を出すという。
しかし、寺嶋弘道被告はまさか「陳述書」をもって物的証拠に代えるつもりではあるまい。物的な証拠を伴わない「陳述書」など、裁判の場では単なる愚痴っぽい言い訳としてしか扱われず、一山なんぼの空証文程度の役にしか立たないのである。
それに、太田弁護士は、物証ならぬ人証として、どんな人間を証人台に立たせるつもりのだろうか。
なかなか興味深い展開となりそうだな。
○「事実」の一例
それにしても、被告側が否認すると言う「細部」とは、どんな細部なんだろうね。そんなことを話しながら、私たち3人は裁判所に向った。
亀井志乃が原告側「準備書面」のために、改めて整理したところ、寺嶋弘道の亀井志乃に対する嫌がらせは、寺嶋弘道が駐在道職員として道立文学館に着任してから僅か4日目の4月7日(金)に始まった。
それ以来、彼の嫌がらせは時間を追って執拗に、しかも程度がひどくなっていったわけだが、ここでは5月2日の「事実」に関する亀井志乃の記述を紹介したい。
このブログをずっと読んで下さった人は、「ああ、亀井志乃が寺嶋弘道から受けた、いわれのないサボタージュ非難の、あの発端となった出来事だな」と思い当たるだろう(「北海道文学館のたくらみ(3)~(5)参照」)。そういう人にも、もう一度お付合いを願いたい。
《引用》
(2)平成18年5月2日(火曜日)
(a)被害の事実(甲13号証を参照のこと)
原告は平成17年度、平原一良学芸副館長(当時、のち副館長)の依頼で、北海道の文学碑に関するデータベースを作った。平成18年4月7日、(1)の事柄があった直前、原告は被告に文学碑データ検索機を見せたが、その時被告は「ケータイ(携帯端末機)で一般の人たちに写真を撮ってもらい、いい写真をえらんで、検索機にのせますからどんどん募集して下さいと言って、画像を集めればよい」、「そうすれば、館の人間がわざわざ写真を撮りに行かなくとも、画像は向こうから集まってくる」というアイデアを口にした。
それから約1ヶ月後の5月2日(火曜日)、原告は被告から「文学碑の写真のことについて話をしとかなきゃいけない」と声をかけられ、館長室で、学芸副館長を交え、三人で話し合った。被告が持ち出した話は「文学碑検索機のデータベースの、画像がないものについて写真を集めたい。原告が企画書を書き、中心となって、その仕事を進めて欲しい」という内容で、写真の集め方は明らかにケータイ・フォトコンテストを前提にしていた。
しかし、そのデータベースは市販のパソコンソフトを利用したものではなく、業者に発注してプログラミングしてもらったものであり、使用画像の大きさ・画素数や、データ1件の画像数を1枚とする等のフォーマットが、あらかじめ決まっていた。
フォトコンテストを行なうとすれば、まだ画像のない文学碑のフォトだけでなく、むしろ人気の高い文学碑のフォトがたくさん集まる可能性が高い。また、携帯端末機に付随する写真機の性能によっては、画像の画素数もまちまちとなる。それらの応募画像を検索機に載せることになれば、再び業者にフォーマットを作り変えてもらわなければならず、少なからぬ経費が必要となる。また、コンテスト自体、おそらく文学館にとって大きなイベントとなり、予算をつけなければならない。(以上、この段落の内容については甲14号証を参照のこと)
原告には、果たして嘱託職員の自分がそういう企画の中心的なポジションにつくことが出来る立場なのかどうか、という疑問があり、念のため予算問題やスケジュール問題を確認しておこうと、「私はそういうことが出来る立場では…」と言いかけた。
ところが、その途端、被告が原告の言葉を遮り、「そういう立場って、いったいどういうことだ。最後までちゃんと言ってみなさい!」 と問い詰めはじめた。原告は、自分の立場は嘱託職員であることを説明した。だが被告は、「職員ではないとはどういうことか。立派な職員ではないか。財団の一員ではないか」と主張をした。
原告は学芸副館長に、原告の立場を被告に説明してくれるように頼んだ。学芸副館長は「前年度までは確かにそうだったが、この春からは、亀井さんは館のスタッフとなった。そして我々は仕事の上で明確に《道》だ《財団》だという線引きはせず、みんなで一緒にやろう、一緒に負担をしようということになった」と言った。しかし原告は、前年度の3月に、安藤副館長から、従来通りの嘱託員に関する規約を示され、「亀井さんは、実績さえあげてくれればいい人だから」と言われ、それ以後誰からも、原告の身分が変わったと伝えられたことはなかった。学芸副館長がいう「スタッフ」という役職名は財団法人北海道文学館の規程のどこにも見られない。その意味で、学芸副館長の説明は嘱託職員の実態を適切に説明したものとは言えなかった。
原告は嘱託職員の立場を、「一定の専門的な能力を評価され、時間契約によって文学館の業務を手伝い、あるいは文学館の業務の一部を請け負って、求められた成果を挙げる」立場と理解していた。そのため、改めてその立場を確認しながら、「原告の立場で(前年度から文学碑データベースの作成を請け負ってきたものとして)意見を言えばいいのか」と聞いた。だが、学芸副館長と被告は、「意見」ではなく、「アイデア」を出してほしいと言い、「アイデア」だけでなく「プラン」も立ててほしいと言った。しかし結局、副館長と被告の主張は、概念規定も曖昧なまま「テーブルプラン」「アイデアのコンテンツ」など言葉の言い換えに終始し、何をどこまで原告にしてもらいたいのか曖昧なまま、話し合いは終わった。
以上は全15項目のうち、序論の部分に当たり、少しゆったりとした書き方になっているが、もちろん原告の亀井志乃は、以上の事柄を「事実」として主張し得る証拠物(「甲13号証」)を出している。
○「事実」のすり替え
この事実に関して、被告代理人の太田三夫弁護士は、「被告は原告との間で、文学碑データベースの話をしたことは認める。ただし、細部については否認ないし不知である」と言うわけだが、しかし正確には「被告は原告との間で、文学碑データベースの画像がないものについて、ケータイ・フォトコンテストによって写真を集める話をしたことは認める」と言うべきだろう。寺嶋弘道と亀井志乃とは文学碑データベース一般について話をしたわけではないからである。
その意味で、被告代理人弁護士・太田三夫の「事実」の認め方は不正確だったと言わざるをえない。なぜなら、太田弁護士は「被告は原告との間で、文学碑データベースの話をしたこと」に関しては、証拠物をもって争わない、つまり「事実」として認めるというポーズを取りながら、実は、「文学碑データベースの画像がないものについて、ケータイ・フォトコンテストによって写真を集める話をしたこと」という「事実」を、さりげなく抜き取ってしまったからである。
それでは、彼は、被告の寺嶋弘道がケータイ・フォトコンテストを口にしていたという「細部」については、これを否認するつもりなのだろうか。
それとも、否認するに足るだけの証拠物を提出することができないため、「事実」から取り去ってしまおうとしたのであろうか。
○太田弁護士の作戦
このように疑問点を整理してみると、被告代理人・太田三夫弁護士の一つの作戦が浮かんで来る。
被告代理人・太田三夫弁護士は、ケータイ・フォトコンテストに関する被告の固執には言及せず、「文学碑データベース」一般についての話しかしなかったかのごとく「事実」を抽象化した。これは、10月28日、寺嶋弘道が亀井志乃にサボタージュという言いがかりをつけて非難した、その事実を寺嶋弘道のために正当化する伏線と言えるだろう。
なぜなら、5月2日の話題は、もっぱら「文学碑データベースの画像がないものについて、ケータイ・フォトコンテストによって写真を集めること」が中心であり、しかも、その作業を誰がやるかについては、決まっていなかったからである。にもかかわらず、10月28日、寺嶋弘道は亀井志乃に対して、「5月2日の話し合いで、原告がデータベースをより充実させ、問題点があれば見直しをはかり、さらに、原告が碑の写真を撮ってつけ加えてゆく作業をすることにきまった」と、事実無根のことを口実として、「これらは、原告が主体となって執り行なうべき業務である。それを現在まで行わなかったのは、原告のサボタージュだ」と、これまた事実無根の「業務」を口実に、原告を非難した。
これは明らかに被告・寺嶋弘道の原告・亀井志乃に対する人格権侵害の違法行為なのであるが、更に被告・寺嶋弘道は道立文学館という施設に「駐在」する北海道教育委員会の公務員であり、他方、原告・亀井志乃は道立文学館の運営を任された民間の財団法人で嘱託として働く一市民である事実を踏まえてみるならば、公務員たる被告の違法性は一そう明らかであろう。ところが、被告代理人・太田三夫弁護士はそのことを隠蔽して、被告の言動を正当化するために、早くも5月2日の時点における「事実」を、「文学碑データベースの話をした」という曖昧、抽象的な言い方にすり替えておこうと企んだわけである。
こうしてみると、原告の亀井志乃は、被告代理人・太田三夫弁護士が「……は認める」と明言したからといって、その点に関するかぎり「事実」が確定したと安心しているわけにはいかない。太田弁護士が「認める」という事実のその認め方や範囲・内容もチェックしていかなければならず、その点でも被告側「準備書面」ではどんな反論を展開するつもりなのか、いよいよ楽しみになってきた。
○辞闘戦新根(ことばのたたかいあたらしいのね)
もっとも、私たちは3月14日、私たちは裁判所に行くまで、以上のようなことを話していたわけではない。「江戸時代の黄表紙に、恋川春町という戯作者が絵と文を書いた『辞闘戦新根(ことばのたたかいあたらしいのね)』という作品があってネ。裁判の物語ではないけれど、江戸時代って意外なほど証拠とか理屈とかいうことが大切にされたんだ。まあ、今回も、黄表紙仕立てに見ているのも一興だな」。そんなことを話しながら、少し早めに裁判所に入った。
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