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 幕間劇(3)

大江健三郎の混迷

○リアリズム不足の新聞
 昨年暮れの12月26日、「幕間劇(2)」を載せた。別にタイミングを見計らったわけではないが、ちょうどこの日文部科学省が、いわゆる集団自決に関する記述について、各教科書会社の訂正申請を承認した。27日(木)の新聞が一斉に、トップ記事でその問題を取り上げている。
 この日私は小樽へ出かけたので、キオスクで3紙ほど新聞を求め、一通り目を通してみたが、「新聞社なんて、気楽なもんだな」。
 毎日新聞の社説がこんなことを言っていた。
《引用》
 
今春の検定結果発表に沖縄県民や県内各議会が強く反発したのも、「本土は沖縄が戦争で強いられた多大な犠牲を認識していないのではないか」という不信と失望が底にある。
 その意味で、十分とはいえないまでも、今回の訂正検定で沖縄戦の実態や背景の説明を前より増やしたことは歓迎すべきだ。集団自決を不本意に強いられたものという意味で「強制集団死」とする見方がある。それを紹介する記述も認めるなど、さまざまな考え方を反映させようとする姿勢は見える。いいことだ。

 
この見方をさらに深め、沖縄戦やその戦後を軸にした近現代史、戦争と平和、国際化、文化、風俗などさまざまな分野、テーマで学校教育の中に位置づけてはどうだろうか。(中略)
 
私たちは、高校レベルの教科書なら検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた。今回の問題もそれを提起してはいないだろうか。

 この社説を書いた人は、高等学校の日本史の授業は一年に何時間くらい行なわれるのか。自分がこの教科書を持って高校の教壇に立つとしたら、どんな授業を行なうか。そういうことを、おそらく一度も考えたことがなかったのであろう。
 私の見るところ、山川出版社のシンプルな記述が最も扱いやすい。先生の関心と裁量で、いろんな肉づけができるからである。
 
 それ以外の教科書では、たちまちこんな質問が飛び交うことになるだろう。「先生、この教科書では『強制的な状況』(実教出版社)となってますが、友達の学校で使っている教科書では『日本軍の関与』(三省堂)と書いてるそうです。『強制的な状況』と『関与』は同じですか」、「『強制的な状況』と『強制』とは違うんですか」、「『追いやられた』『追いこまれた』って書いてあるけど、無差別爆撃をやったアメリカ軍が追いつめたってことはなかったんですか」。多分このような質問を受けて、的確に説明できる先生は、そう沢山はいない。
 まして、「それじゃあ先生、それを『強制』『命令』って呼んでもいいんじゃないですか。」、「もし『強制』『命令』と言いきれないんなら、『命令はなかった』と主張している人の意見が正しいことになるんじゃないですか」などと質問されたら、もうお手上げだろう。
 なぜなら、その次に出てくる質問はこのようなものになる可能性が高いからである。「すると先生、先生の試験では『命令』と答えると間違いで、『関与』と『強制的な状況』の二つが正解なんですか」、「先生の試験はそれでいいかもしれないけれど、大学の入学試験ではどう答えたらいいんですか。『軍命令はあった』と考える教授の大学の入学試験と、『軍命令を裏づける証拠はない』と主張する教授の大学では、入試の内容も正解も違ってくると思うんですけど……」。
 
 毎日新聞の社説は
、「沖縄戦やその戦後を軸にした近現代史、戦争と平和、国際化、文化、風俗などさまざまな分野、テーマで学校教育の中に位置づけてはどうだろうか。」と、一見まことに結構な提言をしていたが、高校の授業は学会のシンポジュウムでもなければ、2単位半年間の大学院のゼミでもない。実際の授業はおそらく先ほどのように展開し、仮に一ヶ月分の日本史の授業時間を使ったとしても、テーマのトバ口に入ることさえおぼつかないであろう。

○高等学校は授業をパス
 大学センター試験や大学入試の出題委員会も、似たような問題に直面するはずである。「まさか初めから複数の正解を想定した問題を出すなんてことはできないでしょう」、「それもありますが、入試の後、必ず高校の教育現場や予備校から正解についての質問が出てきますよ。それに応えて正解を公表すれば、高校の現場や予備校だけじゃない、他所の大学の研究者やマスメディア、場合によっては政治家を巻き込む社会問題になりかねない」、「そうですね、まあ、火中の栗を拾うようなことは止めときましょう」。
 そんな議論の末、結局この箇所は入試の出題範囲から外されてしまう。
 
 じつは高校の先生方もその辺の事情はお見通しで、日本史担当の先生の教科会議では、「まあ、年間の授業計画の中で、戦争末期まで授業が進むとすれば、学年末の2、3月の頃ですよネ。ところが、授業時間が足りない現状から見て、近現代史はせいぜい明治の終わりか、大正デモクラシーと米騒動くらいまで。……どうせ大学の入試に出るはずもないし、パスしてしまっていいんじゃないですか。生徒には、もし時間の余裕があったら一応目を通しておくよう、指示しておくことにして」。
 
 もちろん先生の中には、歴史認識の使命感をもってこの時期を取り上げる人もいるだろう。ただ、とかくそういう先生の授業は特定の時代、特定の事件に集中して、教科全体のバランスを欠いてしまう。そういうマニヤックな授業は生徒から敬遠されてしまう公算が大きい。

○念のために
 私はそういう印象受けたのだが、〈しかし、大学入試や授業時間の問題を取り上げて、「集団自決」の記述を云々するのは、本末?倒ではないか〉。そういう批判が聞えてきそうな気がする。
 しかし私の考えでは、民族感情やら、国民感情やら、県民感情やらを政治問題化して教科書いじりをし、中途半端な記述を盛り込ませて、〈まあ、一定程度文科省側も譲歩したのだから、後は教室でどう取り上げるか、先生方に工夫してもらいましょう〉みたいな「良識」のほうが、よっぽど無責任なのである。
 生徒と先生にとって一番大切なものは、つまり教育の基本は、石橋を叩いて渡るほどにも慎重に物事を確かめる態度と、そのような態度によって集積された知識それ自体に対する敬意であること、それを忘れてはいけない。

○検定という「タガ」を外したら
 次に、検定制度に関して言えば、朝日新聞の社説は、
検定制度のいい加減さを知った。その苦い教訓を今後に生かしたい」と言い、毎日新聞は「検定というタガを外してしまったらどうか」という意味のことを書いていた。
 歴史という教科に関する限り、私も検定は不要だと思う。
 検定は不要だということは、つまり、〈軍命令によって集団自決が起こったと書こうが、その反対に、軍命令があった証拠はないと書こうが、それは教科書会社の書き手の判断に任せるべきで、高校の先生は自分の意見に適う教科書を自由に選べばよい〉ということである。更に言えば、〈沖縄戦を取り上げるか否かについても、もちろん教科書執筆者の判断に任せられる〉ということでもある。
 
 その考えを更に突き詰めて行けば、時代をどのように区切り、その時代をどのように呼ぶか。年代の書き方は日本の元号に従うか、西洋暦を借りるか、それともいっそ皇紀2千6百何十年でいくか、などの問題についても、各教科書の執筆者の歴史観によることになるだろう。
 なぜなら、「時代」という観念自体がヨーロッパ近代の産物であって、極めて虚構性の高い観念でしかないからである。その辺の事情については、韓国の大学の講演「『小説』のイデオロギー」や、「文学史の語り方」で語ったことがあり、私のHP「亀井秀雄の発言」(
http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せておいた。

 ともあれ、前述したような次第で、もし歴史教科書の検定を廃止するならば、皇国史観も自虐史観も自由主義史観も何でもありの状態となり、大学の入学試験から歴史科目を外さざるをえない。それだけではない。中学校、高等学校における歴史の授業はアナーキー状態に陥って、教科として崩壊してしまう。「教科書なんて要らないよ。俺は司馬遼太郎で日本史を教える」という先生も出てくるだろう。
 ということはつまり、個別史としての文学史や権力史や法制史や戦争史や軍事史などは、まだそれなりに学問として成立する可能性を持っているのだが、一般的な通史としての日本史や東洋史や西洋史などは、しょせん学問ではあり得ないのである。
 そこまで突き詰めた上で、そこから逆照射して言えば、検定制度というタガがあるおかげで、日本史や世界史という教科が成り立っている。そのことを百も承知の上で、毎日新聞は
「検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた」のであろう。もちろん私は、歴史という教科を廃止するしかなくなるだろうことを百も承知の上で、検定の廃止を考えているのである。

○テクストに関する疑問
 さて、だいぶ遠回りをしたが、いや、この「幕間劇」そのものが一種の遠回りなのであるが、じつは以上のような足踏みをしながら、私は曽野綾子の『ある神話の背景』が手に入るのを待っていたのである。
 「愛・蔵太の少し調べて書く日記」というブログに紹介された、産経の「沖縄集団自決訴訟の詳報」によれば、2007年11月9日の法廷で、大江健三郎自身が、原告側代理人の質問を受けて
「(曽野綾子の『ある神話の背景』は)発刊されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんを批判している部分が3ヶ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」と答えている。
 原告側代理人は続けて
「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」と質問し、大江はそれを受けて「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」と答え、更に彼は「ニュートラルでないと判断した理由は」と訊かれて「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」と返事をしている。

 私はその箇所を読んで、「そうだったかな?」と疑問を覚えた。曽野綾子の『集団自決の真実』(ワック株式会社、2006年3月初版発行)は、『ある神話の背景』(文芸春秋社、1973年)を改訂したものだが、私の記憶では、曽野綾子は2度しか『沖縄ノート』に言及していなかったからである。
 曽野が紹介した
「『命令はなかった』という2人の証言」も、守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたもの」という印象はなかった。大江は「ニュートラルな証言」ではない、「他の人の傍証があるということがない」と言うが、曽野の『集団自決の真実』自体が十分に傍証たりえている。むしろニュートラルでなく、傍証を欠いているのは、『沖縄ノート』のほうではないか。この弱点を指摘したのが『集団自決の真実』なのだが、大江はそれを正面から受け止めることを回避してしまった。
 私はそういう心証を抱いたのだが、しかし結論は急がないでおこう。曽野綾子は出版社を文芸春秋社から変えるに際して、大幅な書き換えをしたかもしれない。

 他方、幾つかのブログが指摘しているところによれば、曽野綾子は『ある神話の背景』の初版では、『沖縄ノート』の「罪の巨塊」という表現を正確に引用していたのだが、出版社が変った時、罪の巨魁」と誤記している。『集団自決の真相』では、ご丁寧にも「罪の巨魂」と誤記を重ねてしまった。
 これは恥の上塗りみたいなもので、私はその辺の経緯も確かめたかったのである。
 
○選集版『ある神話の背景』と『集団自決の真実』の間
 そして漸く『ある神話の背景』を手にすることができたわけだが、残念ながらそれは文芸春秋社版ではなく、読売新聞社発行の『曽野綾子選集Ⅱ』の第2巻(第1刷、昭和59年6月)に収められた『ある神話の背景』だった。
 そんなわけで、まだ初版との照合は済んでいないのだが、選集版『ある神話の背景』と『集団自決の真実』との間には、改訂と言えるほどの大きな変更はなかった。本文の改行が多くなったほかは、例えば「二百」という漢数字を「二〇〇」と変えたり、「シナ」を「支那」に変え、山田義時という人物との対談における「沖縄本土」を「沖縄対本土」と訂正する程度だった。
 
 ただ、「石田郁夫氏」という人名を「I氏」と変えたところに、改訂の一番の主眼があったのかもしれない。この人が『サンデー毎日』創刊50周年記念特集(1972年4月25日)に書いた「渡嘉敷島住民集団自決の真相」は、大江の守備隊長批判を一段と推し進め、政治策謀的な深読みで染め上げた趣きがあり、曽野綾子の批判も大江健三郎に対するよりは、この文章に対する批判のほうがずっと手厳しい。その後、配慮すべき何らかの経緯があって、曽野はこの人の名前に限りイニシアル表記に改めたのであろう。

 他方「罪の巨塊」に関して言えば、選集版『ある神話の背景』も『集団自決の真実』も「罪の巨魂」だった。

○大江健三郎の「土民」をめぐって
 以上のような次第で、まだテクスト確認の作業は終っていないのだが、私は選集版『ある神話の背景』と『集団自決の真実』を照合しながら、沖縄戦に関する引用文も丁寧に読み直してみた。すると、曽野綾子の書き方ではなく、むしろ大江健三郎の書き方の問題点が改めて見えてきた。それはこういうことである。
《引用》
 
日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである(P,211~212)
  
 これは前回に引用した文章に続く箇所であるが、大江健三郎は、先には渡嘉敷島の元守備隊長を
「屠殺者」と呼び、ここでは「戦争犯罪者」と呼んでいる。彼はどのような基準と判断によってこの人物を「戦争犯罪者」と規定したのか。この言葉は、次に彼がアイヒマンを持ち出してくることと関連する、重要なキーワードなのであるが、その問題は後に取り上げることにして、まず注意を促したいのは、「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか」という表現である。
 この箇所は、大江が元守備隊長の意識内容(内的な想念)を暴露的に描き出した表現であるが、とするならば、この人物はかつて渡嘉敷島の人たちを
「土民」と呼んだことがあり、大江はその言葉を引用する形で、土民」と括弧づきで使ったことになる。だが、果して元守備隊長がそういう言葉を使っていたのだろうか。
 
 大江のこの文章(第9章「「本土」は実在しない」)の末尾に、「七〇年四月」と書いてある。しかしこの文章が岩波書店の『世界』に載ったのは、1970年6月号であり、それ故「七〇年四月」は原稿を完成した年月を示したものと見て差し支えないだろう。
 
 他方、渡嘉敷島の元守備隊長たる赤松嘉次の言葉がマスメディアに登場したのは、私の知る限り、『週刊新潮』1968年4月8日号の「戦記に告発された赤松大尉/沖縄渡嘉敷島処刑二十三年目の真相」という記事の中だった。ただしそれは彼の手記ではなく、インターヴュに答えた言葉だった。
 この記事を知った『琉球新報』は直ちに「渡嘉敷島の集団自決/“悪夢の惨事”二つの真相?」(4月8日)という特集を組み、赤松元守備隊長と、敗戦当時の村長だった人のインターヴュを載せた。しかし『週刊新潮』『琉球新報』のいずれのインターヴュでも、赤松元守備隊長は
「土民」という言葉を使っていない。
 次に赤松元守備隊長の言葉がマスメディアに取り上げられるのは、言うまでもなく昭和45(1970)年3月、渡嘉敷島で行われる「二十五周年忌慰霊祭」に招かれた赤松元守備隊長が、渡嘉敷島に渡ることを拒否された時のことである。だが、その状況を報道した『琉球新報』(3月28日)、『沖縄タイムス』(同前)の記事においても、赤松元守備隊長が
「土民」という言葉を発した事実を見つけることはできない。
 その意味で、1970年4月の時点で、大江健三郎が使った
「土民」という言葉は、大江自身の言葉だった可能性が高いのである。〔1970年4月以降には、赤松嘉次は「私たちを信じてほしい」(『青い海』1971年6月号)、「私は自決を命令していない」(『潮』1971年11月号)を書いている。だが、それらにも「土民」という言葉はない]。
 
 そんなわけで、大江健三郎は元守備隊長の意識内容を暴露的に描き出そうとして、ついうっかり自分の意識(「土民」という言葉にこめられた差別的蔑視)を露呈してしまったのかもしれない。もう一度
「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時」という箇所を思い出しながら、次の文章を読んでみよう。
《引用》
 
住民にとって、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の終結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし、赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。
 『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。
 住民の間に動揺が起った。しかし、自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節であるなら、死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに従順な住民たちは、一家がひとかたまりになり、赤松大尉から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた
(ゴチック体は亀井)

 これは曽野綾子によって引用された、上地一史の『沖縄戦史』の一節である。赤松元守備隊長のインターヴュ発言や文章はまだ他にもあるかもしれない。それ故、土民」という言葉は赤松元守備隊長に由来するものではないとは断言できないのだが「土民」という言葉に、集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」という、受身で従順な、主体性のない島民のイメージを与えたのは、これは大江健三郎であり、おそらく彼は上のような記述に示唆されていた。そう考えることは十分に可能だろう。上地の『沖縄戦史』は、大江が沖縄戦に関する資料として書名を挙げていた、ほとんど唯一のテクストだったからである。

○「戦争犯罪者」という汚名について
 さて、そこで改めて、
戦争犯罪者」という言葉にもどるが、大江健三郎は元守備隊長とアイヒマンとを較べる伏線として、この言葉を使ったのであろう。ただ、一人の市民をあえて「犯罪者」呼ばわりした以上、大江健三郎はそれを裏づける事実と、犯罪と判断する基準とを明確に持っていたはずである。

 当時「戦犯」とか「戦争犯罪人」とかいう言葉は、確かによく用いられていた。その根拠となったのは、昭和21(1946年)1月19日、マッカーサー司令部が出した「極東国際軍事裁判所設置条例」であって、次の三つを戦争犯罪としていた。

A「戦争の計画、準備、開始および遂行」、そのための「共同計画もしくは共同謀議への参加」による「平和に対する罪」
B「通常の戦争犯罪」
C「非戦闘員に加えられた殺人、虐殺、奴隷化もしくは追放」等の「人道に対する犯罪」

 これらのうち、A項に該当する容疑で、つまりA級戦犯として、東条英機ら18名が起訴され、同年5月3日に、いわゆる東京裁判が始まった。このことはよく知られている。
 それに対して、B項、C項に該当する、いわゆるB級戦犯、C級戦犯の場合は、横浜、グアム(以上はアメリカ軍)、シンガポール、香港(以上はイギリス軍)、ラバウル、モロタイ(以上はオーストラリア軍)、バタビア、メナド(以上はオランダ軍)、北京、上海(以上は中華民国軍)、サイゴン、マニラ(以上はフィリピン軍)などの各地で、戦勝国の軍隊が軍事委員会を設置して裁判を行った。
 A級戦犯の場合も、「平和に対する罪」とはどのような罪か、それを裁く法はあったのか、果して戦勝国側は「平和に対する罪」を免れ得るのか、などの問題があるが、B級戦犯、C級戦犯の裁判に至っては冤罪、暴行、拷問等による取調べと、公判時間は平均して2時間強という、まるで無茶苦茶な裁判によって有罪宣告を受け、処刑された旧日本軍将兵も多かった。
 昭和33(1958)年、この悲劇を取り上げたテレビ・ドラマ『わたしは貝になりたい』(橋本忍脚色、フランキー堺主演)が放映され、大きな話題となった。最近リメイクされ、まだ記憶に新しい人も多いと思う。
 私個人としては、木下順二の戯曲『神と人とのあいだ』(講談社、昭和47年)をぜひ一読してもらいたい。
 
 それ以外にも、マッカーサーの司令部は昭和21(1946年)1月4日、日本国政府に、軍国主義指導者の公職追放を指示し、その結果、政治、経済、出版、教育、言論などの分野で軍国主義に協力し、その影響力が大きかった(と見られる)人たちが公職を追われ、社会的な活動を制限された。これらの人たちも、俗にセンパンと呼ばれた。
 
 それらのことがまだ生々しく記憶に残っている時代に、あえて大江健三郎は元守備隊長に
「戦争犯罪者」の汚名を与えたのである。
 『週刊新潮』1968年4月8日号の「戦記に告発された赤松大尉/沖縄渡嘉敷島処刑二十三年目の真相」のインターヴュで、赤松元守備隊長は、
渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じた」ことを認めている。更に、投降を勧告にきた日本人6名に自死を求め、やはり投降を勧告にきた二人の少年に「あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人だから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい」と言い、結果的にその言葉が二人を自殺に追い詰めたことも認めている。
 だが、私は自分が手に入れた限りの文献を読み直してみたが、赤松元守備隊長がB級戦犯やC級戦犯の判決を受けた様子はない。また、公職追放の結果、故郷で肥料店を営むことになったわけではないらしい。
 もし大江が、それらの事実だけでも十分に「戦争犯罪」を構成すると考えたのならば、それを彼自身の手で立証しておく必要があっただろう。
 
○アイヒマン問題について
 他方、旧ナチス党員のアードルフ・アイヒマンについて言えば、1960年代の日本で、彼の名前は、ヒットラー、ゲッペルスに次いで、よく知られていた。国家保安本部Ⅳ局(ゲシュタポ)ユダヤ人課の課長として、ヨーロッパ各地のユダヤ人をポーランドの強制収容所に送り込む最高責任者となり、ユダヤ人の大量虐殺に関与したからである。

 ただし、戦争中の日本では、彼の名前はほとんど知られていなかったと思う。彼の階級は親衛隊中佐で、高位高官とは言えず、ユダヤ人強制収容所の存在は外国に対して隠されていたからである。ところが1845年、ヒトラーのナチス・ドイツが敗北し、彼はアメリカ軍に拘束され、自分の名前を偽っていたが、同年11月、ニュルンベルグで主要戦争犯罪人の裁判が始まるや、彼の名前が頻繁に挙げられるようになった。その裁判の主要な罪状の一つに「人類に対する罪」があり、ユダヤ人の大量虐殺に責任ある人間への追求が始まったからである。そのため、身の危険を感じたアイヒマンは捕虜仲間の協力を得て捕虜収容所を脱走し、ハンブルグの南方の荒地で伐木人夫となって、オットー・へニンガーと名乗っていた。
 その後彼は、1950年の5月、オーストリアを経てイタリアへ行き、リヒャルト・クレメントという名前で亡命者旅券を手に入れて、アルゼンチンのブエノス・アイリスに渡った。その土地で彼は名前をリカルド・クレメントと変えて、クリーニング屋や養兎場の従業員となって生活費を稼ぎ、ドイツから妻と子供を呼び寄せてひっそりと暮らしていたが、ついにイスラエル秘密警察のつきとめるところとなり、1960年5月11日に逮捕された。果してイスラエル政府にドイツ人亡命者を逮捕する権利があるか否か。裁判はドイツ(当時の西ドイツ政府)で行うべきか、イスラエルで行うべきか。現在でも議論の別れるところであるが、ともあれ、イスラエルの秘密工作員はアイヒマンをドイツに引き渡さず、イスラエルへ拉致して、そこで裁判にかけることにした。アイヒマン自身もイスラエルで裁かれることを望んだ、と言われている。

 アイヒマンの発見と逮捕は、このように極めて劇的であったため、アイヒマン裁判の成り行きを含めて、彼の名前は日本でも大きな話題となった。
 もちろん私も関心を持っていた。そして私たちを驚かせたのは、アイヒマンは検事が挙げる事実を率直に認めながら、しかし罪の意識に悩んでいる様子を全く見せなかったことである。報道の伝えるところによれば、彼はユダヤ人の国の法廷で死刑の宣告を受けるだろうことを承知していながら、裁判に関しては極めて協力的だった。だが彼は、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳。みすず書房、1969年)の言葉を借りて言えば、
アイヒマンは自分は今告発されている罪の遂行を〈幇助および教唆〉したことだけは認めるが、決して自分では犯行そのものをおこなっていないとこれまで一貫して主張していた。更にハンナ・アーレントによれば、彼は次のように主張していたという。
《引用》

 自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望みはしなかった。自分の罪は服従のためであるが、服従は美徳として讃えられている。自分の美徳はナツィの指導者に悪用されたのだ。しかし自分は支配層には属していなかった。自分は犠牲者なのだ。そして指導者たちのみが罰に価するのだ。中略)
 
私は皆に言われているような冷酷非情の怪物ではありません。

 事実彼は、小柄な優男で、上司の命令にはあくまでも忠実な、中間管理職的な能吏の印象を与える人物だったらしい。この、どこの職場でも見かけるような、平凡な一小市民が、「服従という美徳」故に、ユダヤ人の強制収容所送りを積極的に遂行し、だが、収容所の中で起こったことについては責任がないと主張し、罪の意識すら見せない。そのことに私たちは衝撃を受けたのである。
 
 国家が一種自律的な意志をもって、官僚機構の機能性や効率性のみを追及して、ついに全体主義に至った時、アイヒマンのようなタイプが随所に現れて、実務レベルの実権を握り、「服従の美徳」に精神を昂揚させながら、人々に同じ昂揚を強制しはじめる。
 私はアイヒマン問題をこのように捉えてみた。それは、割合に早くから私は、『憑かれた人々』(新潮社、昭和24年)を始めとする竹山道雄の著作に親しみ、そのような捉え方を教えられたからである。――機会があれば、私は竹山道雄論を書きたいと思っている――その後、マックス・ピカートの『神よりの逃亡』(坂田徳男・佐野利勝・森口美都男共訳。みすず書房、昭和38年)や、『沈黙の世界』(佐野利勝訳。みすず書房)に惹かれていった。そのこともあって、ピカートの『われわれ自身のなかのヒトラー』(佐野利勝訳。みすず書房、昭和40年)などを通して、ナチズムやアイヒマン問題に関心を抱いていたのである。

○関心のずれ
 大江健三郎は裁判で、『沖縄ノート』の意図を、
普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている」と説明している。私は上述のような時代の雰囲気を思い出しつつ、そのモティーフを理解した。
 ただ、私個人は先のような書物を通して、大江の関心とは反対の側面、つまり過酷な戦争体験をした人たちが復員し、一見平凡な一市民としての日常生活にもどり得ている事実にも関心を持ち、畏怖の念さえ抱いていた。現在でも私は、元兵士だった人の回想記などを好んで読むが、それは、〈軍隊や戦場にもそれなりの日常がある。その日常を将兵はどのように過し、何を大切にしていたのか。この日常と戦後の日常の間に底流するものは何だろうか〉という関心があるからにほかならない。
 
 しかし、どうやら大江は、アイヒマンを元守備隊長とダブらせることによって、元守備隊長を〈目立たない一市民を装う「戦争犯罪者」〉として描き出す方向を選んだようである。

○大江健三郎の「だまし絵」的レトリック
 またしても寄り道をしてしまった。それというのも、次に引用する文章は、先ほど「○大江健三郎の「土民」をめぐって」の箇所で引用した文章に続く文章であるが、そのつながりを理解してもらいたい、そのためには大江がどのようなアイヒマンの言葉を念頭に置いていたかを示しておく必要があったからである。
《引用》
 
罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化、にせの被害者意識、それらのうえに、なお奇怪な恐怖をよびおこすものとして、およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感がある。すでにその一節をひいたハンナ・アーレントのアイヒマン裁判にかかわる書物は、次のようなアイヒマン自身の主張を収録していた。「或る昂揚感」とともにアイヒマンは語ったのである。
 
《およそ一年半ばかり前〔すなわち一九五九年の春〕、ちょうどドイツを旅行して帰って来た一人の知人から私は或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えているということを聞きました……そしてこの罪責コンプレックスという事実は私にとっては、謂うならば人間をのせた最初のロケットの月への到着がそうであるのと同じくらい、一つの画期的な事件となったのです。この事実は、それを中心に多くの思想が結晶する中心点となりました。私が……捜索班が私に迫りつつあるのを知ったとき……逃げなかったのはそのためです。私にこれほど深い印象を与えたドイツ青年のあいだの罪責感についてのこの会話の後では、もはや自分に姿をくらます権利があるとは私には思えなかった。これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するようにと提案した理由です。私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。》P,212~213)
 
 元守備隊長を主題とする大江の文章を読んできた読者は、文脈のごく自然な流れとして、
罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化」という言葉もまた、大江が元守備隊長を批判した表現だと受け取るだろう。
 ところが、次に
にせの被害者意識」という言葉が唐突に出て来る。「えっ? これ以前のどこかで、大江は、元守備隊長の態度や発言に関して、『にせの被害者意識』と呼びうるようなことを指摘していたっけ?」。読者は一瞬、そういう戸惑いを覚えるだろうが、実はこれは大江のだまし絵みたいなレトリックであって、アーレントのアイヒマン論に引用された、自分の美徳はナツィの指導者に悪用されたのだ。……自分は犠牲者なのだ」というアイヒマンの自己弁明に対する、大江の批判なのである。
 そのことを示すために、私は先ほど、アーレントのアイヒマン論からアイヒマンの自己弁明を引用しておいたわけだが、大江健三郎はそれを引用せず、隠し球みたいに伏せておいて、自己弁明に対する批判のほうだけをいきなり読者に提示した。元守備隊長について創り上げたイメージをさりげなくアイヒマンに横滑りさせる。つまり、元守備隊長に対する批判と読めてしまうような、
罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化」という言葉を列挙し、次に何のことわりもなく、アイヒマン批判のにせの被害者意識」という言葉を並べて、両者をオーバーラップさせた。まことに巧妙なレトリックだと言えるだろう。

  また、この引用文中、 》の中の言葉は、アーレントが引用したアイヒマンの言葉であり、大江健三郎がそれを再引用したわけだが、この言葉だけを見ると、アイヒマンはドイツ青年の罪責感を取除くため、自己犠牲的に、イスラエルの法廷に自分の裁きを委ねたように聞える。
 だが、アーレントは一見ヒロイックな、この自己犠牲的な贖罪の意図を、
すべては無意味なおしゃべり」としりぞけてしまった。本当に自己犠牲の精神があったのならば、イスラエルの秘密警察に発見されるのを待つまでもなく、自ら名乗り出て「イスラエル政府に時間も手段も省かせてやれたはずだ」というわけである。アイヒマンのような男には、その死に臨んでも如何なる自己正当化の口実を与えてはならず、一片の自己慰藉も許してやる必要はない、と言いたかったのであろう。
 大江健三郎はアーレントのこの視点を借り、しかしアーレントの文章は引用することなく、自分自身の観点による言葉として、
およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感」と評したのである。

○〈見立てアイヒマン〉にされた元守備隊長
 大江健三郎の文章はこのあたりから、かなり奇妙な様相を呈してくる。彼は《 》内に、長々とアイヒマンの言葉を引用しながら、それについて何のコメントもつけない。いわば読者の前に、アイヒマンの言葉だけをポンと投げ出しておいて、話題を急に一転させ、再び元守備隊長の問題にもどって行ったのである。
《引用》
 
おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由をもつ(P,213)
 
 一体何が大江健三郎を駆り立てて、このように不謹慎なことを言わせたのだろう。
 沖縄の人たちはイスラエルのユダヤ人のように独立した政府を持ち、他国人を裁く権限を主張できるわけではない。渡嘉敷島は強制収容所だったわけではなく、赤松守備隊長は沖縄の人を強制的に渡嘉敷島へ送り込む、最高責任者だったわけではない。集団自殺と、強制収容所におけるガス殺害とは、もちろん同日に論じることはできない。
 このことはあまりにも自明なことであって、今更指摘するまでもないだろう。そう言って済ますこともできそうだが、私はそういう常識論では済まされないものを感ずる。沖縄をイスラエルになぞらえ、赤松守備隊長をアイヒマンに見立てること自体があまりにも不見識、双方に対して不謹慎なのである。
 
 さすがに大江は、
かれ(元守備隊長)はじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」という主張の不謹慎さには気がついたらしく、沖縄の人たちの「穏やかさ」を口実に、それ以上の主張は謹んでいる。
 だが、元守備隊長を日本のアイヒマンに仕立てたい動機を捨てることはできなかったのだろう。今度は、
われわれは、……想像力の自由をもつ」という口実の下に、架空の沖縄法廷に元守備隊長を立たせて、アイヒマンと同様の台詞を言わせようとした。江戸文学的に言えば、これは元守備隊長をアイヒマンに見立てることであるが、その元守備隊長に、日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したい」という〈見立てアイヒマン〉の役割を演じさせる。大江はそういう場面を、へどをもよおしつつ」しかし「詳細に」思い描いてみたかったのである。

○冒涜的想像力
 ここで改めて、大江健三郎が言いたいらしいことを整理してみよう。
①あのアイヒマンでさえ、
これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するようにと提案した理由です。私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった」と、贖罪の決意を語っている。
②だが、その贖罪の決意は、
およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感」以外の何物でもない。
③ところが、渡嘉敷島の元守備隊長は贖罪の決意さえ語っていない。
④では、この元守備隊長に、虚構の沖縄法廷で、
これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するようにと提案した理由です。私は日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった」と語ってもらおう。
⑤語ってもらった上で、それが
「およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感」以外の何物でもないことを暴き、その「倒錯した使命感」に反吐をもよおしてやろう。
 
 私は、一人の実在する人物について、このような想像的場面を語ること自体が、その人の人格を貶め、尊厳を傷つける、冒涜的な行為だと思うが、大江の
「倫理的想像力」とはそういうものだったのであろう。

○大江健三郎の論理的錯乱
 大江健三郎が思い描く沖縄法廷よりも、彼の想像力のほうがずっとグロテスクだ。私にはそう思われるのだが、彼は多分そんなふうに自分を顧みることなく、得々として書いている。
《引用》
 
この法廷をながれるものはイスラエル法廷のそれよりもっとグロテスクだ。なぜなら「日本青年」一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背おっていないからである。ハーレントのいうとおり、実際はないも悪いことをしていないとき、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。この旧守備隊長が、応分の義務を果す時、実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)人間のにせの罪責の感覚が、取除かれる。「日本青年」は、あたかも沖縄にむけて慈悲でもおこなったかのような、さっぱりした気分になり、かつて真実に罪障を感じる苦渋をあじわったことのないまま、いまは償いまですませた無垢の自由のエネルギーを充満させて、沖縄の上に無邪気な顔をむける。その時かれらは、現にいま、自分が沖縄とそこに住む人々にたいして犯している犯罪について夢想だにしない、心の安定をえるであろう。それはそのまま、将来にかけて、かれらの新世代の内部における沖縄への差別の復興の勢いに、いかなる歯どめをも見出せない、ということではないか(P,213~214)

 大江健三郎は一体何を言いたいのだろう。
 彼は
「「日本青年」一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背おっていない」と決めつけているが、何を根拠にそう断定したのか。まずそこのところが分らない。
 そもそも「日本青年」一般とはどういう存在なのだろうか。

 それに、もし「日本青年」一般はその心に罪責の重荷を背負っていなとするならば、どうして彼ら「日本青年」一般が、〈見立てアイヒマン〉の「私はドイツ青年、いや、「日本青年」一般の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった」という台詞を聞いて、さっぱりした気分」になれるのか。その心理的な経緯も分らない。
 それとも大江は、沖縄法廷という虚構の舞台を前提として、こんなドラマを構想していたのだろうか。つまり、「日本青年」一般は〈見立てアイヒマン〉が行った罪業の数々を知って「その心に罪責」を喚起されるが、最後に〈見立てアイヒマン〉の自己犠牲的な台詞を聞いてカタルシスに達し、
にせの罪責の感覚が、取除かれ」て、じつに「さっぱりした気分になる」と。
 これが一番妥当な解釈だと、私は思うが、とするならば、次のようになるだろう。つまり、〈「日本青年」一般の罪責感が、大江の言うように「にせの罪責感」でしかないならば、その理由は、虚構の沖縄法廷における演劇効果でしかなかったからにほからなない〉。
 しかしそれならば、この虚構の沖縄法廷が演じられる空間の中で、「日本青年」一般はどこに位置するのだろうか。

 しかし、どうやら大江健三郎は、自分が思い描いた沖縄法廷の演劇効果を主眼に、この箇所を書いたわけではないらしい。彼が問題にしたかったのは、彼なりに考える現実の日本の青年のあり方だったのであろう。
 それは分るのだが、そうすると、再び元の問題にもどってしまう。彼が言う「日本青年」一般とは実態的に存在した/するのか。
 なぜ「日本青年」一般は、その心に罪責を背負っていないと断定できるのか。
 当然のことながら、当時の日本には、
実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)」にもかかわらず、それとは別な次元で、沖縄の問題に無関心でいることができず、罪責感を抱える青年も存在したと思うが、大江はその罪責感を「本物」と見ているのか、それもまた「にせ」に過ぎないのか。

○軽率なハンナ・アーレント依存
 大江健三郎のこのような混乱は、ハンナ・アーレントをよく理解しないまま、それを下敷きにして、分ったふうな理屈を弄んだためだった。
 ハンナ・アーレントによれば、ヘブライ大学の教授で、『我と汝』の著者、マルティン・ブーバーは、アイヒマンの処刑を聞いて、
歴史的な規模の失策」と批判したという。その理由は、ドイツの多くの青年たちが感じていた罪責を解消するに役立つ」ことになるからだ、ということであるが、アーレントはその言葉を紹介した上で、次のように論じていた。
《引用》
 
何も悪いことをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させることなのだ。何と高潔なことか! それに反して、罪責を認めて悔いることはむしろ苦しいこと、そしてたしかに気のめいることである。ドイツの青年層は職業や階級を問わず、事実大きな罪を犯していながら一向にそんなことを感じていない権威ある地位の人々や公職にある人々に取巻かれている。こうした事態に対する正常な反応は怒りであるはずだが、しかし怒ることは甚だ危険であろう――別に生命や身体にとっての危険ではなくとも、履歴のなかでのハンディキャップになるに違いない。時々――『アンネ・フランクの日記』をめぐる騒ぎやアイヒマン裁判などの場合に――われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれるドイツのあの若い男女たちは、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼らは現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。

 分るように、アーレントは罪責感などというもので事を論ずることの不毛さ、あるいは無効性を語ったのであり、その中にはマルティン・ブーバーへの批判もこめられている。当然のことだが、この罪責感を「本物」と「にせ」とに別けて考えたりはしていない。大江健三郎はそういう発想のポイントを外したまま、言葉を受け売りしていたわけだが、大変逆説的なことに、アーレントの文章の結びはそのまま大江健三郎の批判として読めてしまうのである。「われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれる大江健三郎は、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼は現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである」。

 

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