« 幕間劇(2) | トップページ | 北海道文学館のたくらみ(24) »

 幕間劇(3)

大江健三郎の混迷

○リアリズム不足の新聞
 昨年暮れの12月26日、「幕間劇(2)」を載せた。別にタイミングを見計らったわけではないが、ちょうどこの日文部科学省が、いわゆる集団自決に関する記述について、各教科書会社の訂正申請を承認した。27日(木)の新聞が一斉に、トップ記事でその問題を取り上げている。
 この日私は小樽へ出かけたので、キオスクで3紙ほど新聞を求め、一通り目を通してみたが、「新聞社なんて、気楽なもんだな」。
 毎日新聞の社説がこんなことを言っていた。
《引用》
 
今春の検定結果発表に沖縄県民や県内各議会が強く反発したのも、「本土は沖縄が戦争で強いられた多大な犠牲を認識していないのではないか」という不信と失望が底にある。
 その意味で、十分とはいえないまでも、今回の訂正検定で沖縄戦の実態や背景の説明を前より増やしたことは歓迎すべきだ。集団自決を不本意に強いられたものという意味で「強制集団死」とする見方がある。それを紹介する記述も認めるなど、さまざまな考え方を反映させようとする姿勢は見える。いいことだ。

 
この見方をさらに深め、沖縄戦やその戦後を軸にした近現代史、戦争と平和、国際化、文化、風俗などさまざまな分野、テーマで学校教育の中に位置づけてはどうだろうか。(中略)
 
私たちは、高校レベルの教科書なら検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた。今回の問題もそれを提起してはいないだろうか。

 この社説を書いた人は、高等学校の日本史の授業は一年に何時間くらい行なわれるのか。自分がこの教科書を持って高校の教壇に立つとしたら、どんな授業を行なうか。そういうことを、おそらく一度も考えたことがなかったのであろう。
 私の見るところ、山川出版社のシンプルな記述が最も扱いやすい。先生の関心と裁量で、いろんな肉づけができるからである。
 
 それ以外の教科書では、たちまちこんな質問が飛び交うことになるだろう。「先生、この教科書では『強制的な状況』(実教出版社)となってますが、友達の学校で使っている教科書では『日本軍の関与』(三省堂)と書いてるそうです。『強制的な状況』と『関与』は同じですか」、「『強制的な状況』と『強制』とは違うんですか」、「『追いやられた』『追いこまれた』って書いてあるけど、無差別爆撃をやったアメリカ軍が追いつめたってことはなかったんですか」。多分このような質問を受けて、的確に説明できる先生は、そう沢山はいない。
 まして、「それじゃあ先生、それを『強制』『命令』って呼んでもいいんじゃないですか。」、「もし『強制』『命令』と言いきれないんなら、『命令はなかった』と主張している人の意見が正しいことになるんじゃないですか」などと質問されたら、もうお手上げだろう。
 なぜなら、その次に出てくる質問はこのようなものになる可能性が高いからである。「すると先生、先生の試験では『命令』と答えると間違いで、『関与』と『強制的な状況』の二つが正解なんですか」、「先生の試験はそれでいいかもしれないけれど、大学の入学試験ではどう答えたらいいんですか。『軍命令はあった』と考える教授の大学の入学試験と、『軍命令を裏づける証拠はない』と主張する教授の大学では、入試の内容も正解も違ってくると思うんですけど……」。
 
 毎日新聞の社説は
、「沖縄戦やその戦後を軸にした近現代史、戦争と平和、国際化、文化、風俗などさまざまな分野、テーマで学校教育の中に位置づけてはどうだろうか。」と、一見まことに結構な提言をしていたが、高校の授業は学会のシンポジュウムでもなければ、2単位半年間の大学院のゼミでもない。実際の授業はおそらく先ほどのように展開し、仮に一ヶ月分の日本史の授業時間を使ったとしても、テーマのトバ口に入ることさえおぼつかないであろう。

○高等学校は授業をパス
 大学センター試験や大学入試の出題委員会も、似たような問題に直面するはずである。「まさか初めから複数の正解を想定した問題を出すなんてことはできないでしょう」、「それもありますが、入試の後、必ず高校の教育現場や予備校から正解についての質問が出てきますよ。それに応えて正解を公表すれば、高校の現場や予備校だけじゃない、他所の大学の研究者やマスメディア、場合によっては政治家を巻き込む社会問題になりかねない」、「そうですね、まあ、火中の栗を拾うようなことは止めときましょう」。
 そんな議論の末、結局この箇所は入試の出題範囲から外されてしまう。
 
 じつは高校の先生方もその辺の事情はお見通しで、日本史担当の先生の教科会議では、「まあ、年間の授業計画の中で、戦争末期まで授業が進むとすれば、学年末の2、3月の頃ですよネ。ところが、授業時間が足りない現状から見て、近現代史はせいぜい明治の終わりか、大正デモクラシーと米騒動くらいまで。……どうせ大学の入試に出るはずもないし、パスしてしまっていいんじゃないですか。生徒には、もし時間の余裕があったら一応目を通しておくよう、指示しておくことにして」。
 
 もちろん先生の中には、歴史認識の使命感をもってこの時期を取り上げる人もいるだろう。ただ、とかくそういう先生の授業は特定の時代、特定の事件に集中して、教科全体のバランスを欠いてしまう。そういうマニヤックな授業は生徒から敬遠されてしまう公算が大きい。

○念のために
 私はそういう印象受けたのだが、〈しかし、大学入試や授業時間の問題を取り上げて、「集団自決」の記述を云々するのは、本末?倒ではないか〉。そういう批判が聞えてきそうな気がする。
 しかし私の考えでは、民族感情やら、国民感情やら、県民感情やらを政治問題化して教科書いじりをし、中途半端な記述を盛り込ませて、〈まあ、一定程度文科省側も譲歩したのだから、後は教室でどう取り上げるか、先生方に工夫してもらいましょう〉みたいな「良識」のほうが、よっぽど無責任なのである。
 生徒と先生にとって一番大切なものは、つまり教育の基本は、石橋を叩いて渡るほどにも慎重に物事を確かめる態度と、そのような態度によって集積された知識それ自体に対する敬意であること、それを忘れてはいけない。

○検定という「タガ」を外したら
 次に、検定制度に関して言えば、朝日新聞の社説は、
検定制度のいい加減さを知った。その苦い教訓を今後に生かしたい」と言い、毎日新聞は「検定というタガを外してしまったらどうか」という意味のことを書いていた。
 歴史という教科に関する限り、私も検定は不要だと思う。
 検定は不要だということは、つまり、〈軍命令によって集団自決が起こったと書こうが、その反対に、軍命令があった証拠はないと書こうが、それは教科書会社の書き手の判断に任せるべきで、高校の先生は自分の意見に適う教科書を自由に選べばよい〉ということである。更に言えば、〈沖縄戦を取り上げるか否かについても、もちろん教科書執筆者の判断に任せられる〉ということでもある。
 
 その考えを更に突き詰めて行けば、時代をどのように区切り、その時代をどのように呼ぶか。年代の書き方は日本の元号に従うか、西洋暦を借りるか、それともいっそ皇紀2千6百何十年でいくか、などの問題についても、各教科書の執筆者の歴史観によることになるだろう。
 なぜなら、「時代」という観念自体がヨーロッパ近代の産物であって、極めて虚構性の高い観念でしかないからである。その辺の事情については、韓国の大学の講演「『小説』のイデオロギー」や、「文学史の語り方」で語ったことがあり、私のHP「亀井秀雄の発言」(
http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/)に載せておいた。

 ともあれ、前述したような次第で、もし歴史教科書の検定を廃止するならば、皇国史観も自虐史観も自由主義史観も何でもありの状態となり、大学の入学試験から歴史科目を外さざるをえない。それだけではない。中学校、高等学校における歴史の授業はアナーキー状態に陥って、教科として崩壊してしまう。「教科書なんて要らないよ。俺は司馬遼太郎で日本史を教える」という先生も出てくるだろう。
 ということはつまり、個別史としての文学史や権力史や法制史や戦争史や軍事史などは、まだそれなりに学問として成立する可能性を持っているのだが、一般的な通史としての日本史や東洋史や西洋史などは、しょせん学問ではあり得ないのである。
 そこまで突き詰めた上で、そこから逆照射して言えば、検定制度というタガがあるおかげで、日本史や世界史という教科が成り立っている。そのことを百も承知の上で、毎日新聞は
「検定というタガを外すことを検討してはどうかと提言してきた」のであろう。もちろん私は、歴史という教科を廃止するしかなくなるだろうことを百も承知の上で、検定の廃止を考えているのである。

○テクストに関する疑問
 さて、だいぶ遠回りをしたが、いや、この「幕間劇」そのものが一種の遠回りなのであるが、じつは以上のような足踏みをしながら、私は曽野綾子の『ある神話の背景』が手に入るのを待っていたのである。
 「愛・蔵太の少し調べて書く日記」というブログに紹介された、産経の「沖縄集団自決訴訟の詳報」によれば、2007年11月9日の法廷で、大江健三郎自身が、原告側代理人の質問を受けて
「(曽野綾子の『ある神話の背景』は)発刊されてすぐ。出版社の編集者から『大江さんを批判している部分が3ヶ所あるから読んでくれ』と発送された。それで、急いで通読した」と答えている。
 原告側代理人は続けて
「本の中には『命令はなかった』という2人の証言があるが」と質問し、大江はそれを受けて「私は、その証言は守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたものだと思った。ニュートラルな証言とは考えなかった。なので、自分の『沖縄ノート』を検討する材料とはしなかった」と答え、更に彼は「ニュートラルでないと判断した理由は」と訊かれて「他の人の傍証があるということがない。突出しているという点からだ」と返事をしている。

 私はその箇所を読んで、「そうだったかな?」と疑問を覚えた。曽野綾子の『集団自決の真実』(ワック株式会社、2006年3月初版発行)は、『ある神話の背景』(文芸春秋社、1973年)を改訂したものだが、私の記憶では、曽野綾子は2度しか『沖縄ノート』に言及していなかったからである。
 曽野が紹介した
「『命令はなかった』という2人の証言」も、守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたもの」という印象はなかった。大江は「ニュートラルな証言」ではない、「他の人の傍証があるということがない」と言うが、曽野の『集団自決の真実』自体が十分に傍証たりえている。むしろニュートラルでなく、傍証を欠いているのは、『沖縄ノート』のほうではないか。この弱点を指摘したのが『集団自決の真実』なのだが、大江はそれを正面から受け止めることを回避してしまった。
 私はそういう心証を抱いたのだが、しかし結論は急がないでおこう。曽野綾子は出版社を文芸春秋社から変えるに際して、大幅な書き換えをしたかもしれない。

 他方、幾つかのブログが指摘しているところによれば、曽野綾子は『ある神話の背景』の初版では、『沖縄ノート』の「罪の巨塊」という表現を正確に引用していたのだが、出版社が変った時、罪の巨魁」と誤記している。『集団自決の真相』では、ご丁寧にも「罪の巨魂」と誤記を重ねてしまった。
 これは恥の上塗りみたいなもので、私はその辺の経緯も確かめたかったのである。
 
○選集版『ある神話の背景』と『集団自決の真実』の間
 そして漸く『ある神話の背景』を手にすることができたわけだが、残念ながらそれは文芸春秋社版ではなく、読売新聞社発行の『曽野綾子選集Ⅱ』の第2巻(第1刷、昭和59年6月)に収められた『ある神話の背景』だった。
 そんなわけで、まだ初版との照合は済んでいないのだが、選集版『ある神話の背景』と『集団自決の真実』との間には、改訂と言えるほどの大きな変更はなかった。本文の改行が多くなったほかは、例えば「二百」という漢数字を「二〇〇」と変えたり、「シナ」を「支那」に変え、山田義時という人物との対談における「沖縄本土」を「沖縄対本土」と訂正する程度だった。
 
 ただ、「石田郁夫氏」という人名を「I氏」と変えたところに、改訂の一番の主眼があったのかもしれない。この人が『サンデー毎日』創刊50周年記念特集(1972年4月25日)に書いた「渡嘉敷島住民集団自決の真相」は、大江の守備隊長批判を一段と推し進め、政治策謀的な深読みで染め上げた趣きがあり、曽野綾子の批判も大江健三郎に対するよりは、この文章に対する批判のほうがずっと手厳しい。その後、配慮すべき何らかの経緯があって、曽野はこの人の名前に限りイニシアル表記に改めたのであろう。

 他方「罪の巨塊」に関して言えば、選集版『ある神話の背景』も『集団自決の真実』も「罪の巨魂」だった。

○大江健三郎の「土民」をめぐって
 以上のような次第で、まだテクスト確認の作業は終っていないのだが、私は選集版『ある神話の背景』と『集団自決の真実』を照合しながら、沖縄戦に関する引用文も丁寧に読み直してみた。すると、曽野綾子の書き方ではなく、むしろ大江健三郎の書き方の問題点が改めて見えてきた。それはこういうことである。
《引用》
 
日本本土の政治家が、民衆が、沖縄とそこに住む人々をねじふせて、その異議申立ての声を押しつぶそうとしている。そのようなおりがきたのだ。ひとりの戦争犯罪者にもまた、かれ個人のやりかたで沖縄をねじふせること、事実に立った異議申立ての声を押しつぶすことがどうしてできぬだろう? あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時、まさにわれわれは、一九四五年の渡嘉敷島で、どのような意識構造の日本人が、どのようにして人々を集団自決へと追いやったかの、およそ人間のなしうるものと思えぬ決断の、まったく同一のかたちでの再現の現場に立ちあっているのである(P,211~212)
  
 これは前回に引用した文章に続く箇所であるが、大江健三郎は、先には渡嘉敷島の元守備隊長を
「屠殺者」と呼び、ここでは「戦争犯罪者」と呼んでいる。彼はどのような基準と判断によってこの人物を「戦争犯罪者」と規定したのか。この言葉は、次に彼がアイヒマンを持ち出してくることと関連する、重要なキーワードなのであるが、その問題は後に取り上げることにして、まず注意を促したいのは、「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか」という表現である。
 この箇所は、大江が元守備隊長の意識内容(内的な想念)を暴露的に描き出した表現であるが、とするならば、この人物はかつて渡嘉敷島の人たちを
「土民」と呼んだことがあり、大江はその言葉を引用する形で、土民」と括弧づきで使ったことになる。だが、果して元守備隊長がそういう言葉を使っていたのだろうか。
 
 大江のこの文章(第9章「「本土」は実在しない」)の末尾に、「七〇年四月」と書いてある。しかしこの文章が岩波書店の『世界』に載ったのは、1970年6月号であり、それ故「七〇年四月」は原稿を完成した年月を示したものと見て差し支えないだろう。
 
 他方、渡嘉敷島の元守備隊長たる赤松嘉次の言葉がマスメディアに登場したのは、私の知る限り、『週刊新潮』1968年4月8日号の「戦記に告発された赤松大尉/沖縄渡嘉敷島処刑二十三年目の真相」という記事の中だった。ただしそれは彼の手記ではなく、インターヴュに答えた言葉だった。
 この記事を知った『琉球新報』は直ちに「渡嘉敷島の集団自決/“悪夢の惨事”二つの真相?」(4月8日)という特集を組み、赤松元守備隊長と、敗戦当時の村長だった人のインターヴュを載せた。しかし『週刊新潮』『琉球新報』のいずれのインターヴュでも、赤松元守備隊長は
「土民」という言葉を使っていない。
 次に赤松元守備隊長の言葉がマスメディアに取り上げられるのは、言うまでもなく昭和45(1970)年3月、渡嘉敷島で行われる「二十五周年忌慰霊祭」に招かれた赤松元守備隊長が、渡嘉敷島に渡ることを拒否された時のことである。だが、その状況を報道した『琉球新報』(3月28日)、『沖縄タイムス』(同前)の記事においても、赤松元守備隊長が
「土民」という言葉を発した事実を見つけることはできない。
 その意味で、1970年4月の時点で、大江健三郎が使った
「土民」という言葉は、大江自身の言葉だった可能性が高いのである。〔1970年4月以降には、赤松嘉次は「私たちを信じてほしい」(『青い海』1971年6月号)、「私は自決を命令していない」(『潮』1971年11月号)を書いている。だが、それらにも「土民」という言葉はない]。
 
 そんなわけで、大江健三郎は元守備隊長の意識内容を暴露的に描き出そうとして、ついうっかり自分の意識(「土民」という言葉にこめられた差別的蔑視)を露呈してしまったのかもしれない。もう一度
「あの渡嘉敷島の「土民」のようなかれらは、若い将校たる自分の集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者だったではないか、とひとりの日本人が考えるにいたる時」という箇所を思い出しながら、次の文章を読んでみよう。
《引用》
 
住民にとって、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の終結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし、赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。
 『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。
 住民の間に動揺が起った。しかし、自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節であるなら、死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに従順な住民たちは、一家がひとかたまりになり、赤松大尉から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた
(ゴチック体は亀井)

 これは曽野綾子によって引用された、上地一史の『沖縄戦史』の一節である。赤松元守備隊長のインターヴュ発言や文章はまだ他にもあるかもしれない。それ故、土民」という言葉は赤松元守備隊長に由来するものではないとは断言できないのだが「土民」という言葉に、集団自決の命令を受けいれるほどにおとなしく、穏やかな無抵抗の者」という、受身で従順な、主体性のない島民のイメージを与えたのは、これは大江健三郎であり、おそらく彼は上のような記述に示唆されていた。そう考えることは十分に可能だろう。上地の『沖縄戦史』は、大江が沖縄戦に関する資料として書名を挙げていた、ほとんど唯一のテクストだったからである。

○「戦争犯罪者」という汚名について
 さて、そこで改めて、
戦争犯罪者」という言葉にもどるが、大江健三郎は元守備隊長とアイヒマンとを較べる伏線として、この言葉を使ったのであろう。ただ、一人の市民をあえて「犯罪者」呼ばわりした以上、大江健三郎はそれを裏づける事実と、犯罪と判断する基準とを明確に持っていたはずである。

 当時「戦犯」とか「戦争犯罪人」とかいう言葉は、確かによく用いられていた。その根拠となったのは、昭和21(1946年)1月19日、マッカーサー司令部が出した「極東国際軍事裁判所設置条例」であって、次の三つを戦争犯罪としていた。

A「戦争の計画、準備、開始および遂行」、そのための「共同計画もしくは共同謀議への参加」による「平和に対する罪」
B「通常の戦争犯罪」
C「非戦闘員に加えられた殺人、虐殺、奴隷化もしくは追放」等の「人道に対する犯罪」

 これらのうち、A項に該当する容疑で、つまりA級戦犯として、東条英機ら18名が起訴され、同年5月3日に、いわゆる東京裁判が始まった。このことはよく知られている。
 それに対して、B項、C項に該当する、いわゆるB級戦犯、C級戦犯の場合は、横浜、グアム(以上はアメリカ軍)、シンガポール、香港(以上はイギリス軍)、ラバウル、モロタイ(以上はオーストラリア軍)、バタビア、メナド(以上はオランダ軍)、北京、上海(以上は中華民国軍)、サイゴン、マニラ(以上はフィリピン軍)などの各地で、戦勝国の軍隊が軍事委員会を設置して裁判を行った。
 A級戦犯の場合も、「平和に対する罪」とはどのような罪か、それを裁く法はあったのか、果して戦勝国側は「平和に対する罪」を免れ得るのか、などの問題があるが、B級戦犯、C級戦犯の裁判に至っては冤罪、暴行、拷問等による取調べと、公判時間は平均して2時間強という、まるで無茶苦茶な裁判によって有罪宣告を受け、処刑された旧日本軍将兵も多かった。
 昭和33(1958)年、この悲劇を取り上げたテレビ・ドラマ『わたしは貝になりたい』(橋本忍脚色、フランキー堺主演)が放映され、大きな話題となった。最近リメイクされ、まだ記憶に新しい人も多いと思う。
 私個人としては、木下順二の戯曲『神と人とのあいだ』(講談社、昭和47年)をぜひ一読してもらいたい。
 
 それ以外にも、マッカーサーの司令部は昭和21(1946年)1月4日、日本国政府に、軍国主義指導者の公職追放を指示し、その結果、政治、経済、出版、教育、言論などの分野で軍国主義に協力し、その影響力が大きかった(と見られる)人たちが公職を追われ、社会的な活動を制限された。これらの人たちも、俗にセンパンと呼ばれた。
 
 それらのことがまだ生々しく記憶に残っている時代に、あえて大江健三郎は元守備隊長に
「戦争犯罪者」の汚名を与えたのである。
 『週刊新潮』1968年4月8日号の「戦記に告発された赤松大尉/沖縄渡嘉敷島処刑二十三年目の真相」のインターヴュで、赤松元守備隊長は、
渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じた」ことを認めている。更に、投降を勧告にきた日本人6名に自死を求め、やはり投降を勧告にきた二人の少年に「あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人だから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい」と言い、結果的にその言葉が二人を自殺に追い詰めたことも認めている。
 だが、私は自分が手に入れた限りの文献を読み直してみたが、赤松元守備隊長がB級戦犯やC級戦犯の判決を受けた様子はない。また、公職追放の結果、故郷で肥料店を営むことになったわけではないらしい。
 もし大江が、それらの事実だけでも十分に「戦争犯罪」を構成すると考えたのならば、それを彼自身の手で立証しておく必要があっただろう。
 
○アイヒマン問題について
 他方、旧ナチス党員のアードルフ・アイヒマンについて言えば、1960年代の日本で、彼の名前は、ヒットラー、ゲッペルスに次いで、よく知られていた。国家保安本部Ⅳ局(ゲシュタポ)ユダヤ人課の課長として、ヨーロッパ各地のユダヤ人をポーランドの強制収容所に送り込む最高責任者となり、ユダヤ人の大量虐殺に関与したからである。

 ただし、戦争中の日本では、彼の名前はほとんど知られていなかったと思う。彼の階級は親衛隊中佐で、高位高官とは言えず、ユダヤ人強制収容所の存在は外国に対して隠されていたからである。ところが1845年、ヒトラーのナチス・ドイツが敗北し、彼はアメリカ軍に拘束され、自分の名前を偽っていたが、同年11月、ニュルンベルグで主要戦争犯罪人の裁判が始まるや、彼の名前が頻繁に挙げられるようになった。その裁判の主要な罪状の一つに「人類に対する罪」があり、ユダヤ人の大量虐殺に責任ある人間への追求が始まったからである。そのため、身の危険を感じたアイヒマンは捕虜仲間の協力を得て捕虜収容所を脱走し、ハンブルグの南方の荒地で伐木人夫となって、オットー・へニンガーと名乗っていた。
 その後彼は、1950年の5月、オーストリアを経てイタリアへ行き、リヒャルト・クレメントという名前で亡命者旅券を手に入れて、アルゼンチンのブエノス・アイリスに渡った。その土地で彼は名前をリカルド・クレメントと変えて、クリーニング屋や養兎場の従業員となって生活費を稼ぎ、ドイツから妻と子供を呼び寄せてひっそりと暮らしていたが、ついにイスラエル秘密警察のつきとめるところとなり、1960年5月11日に逮捕された。果してイスラエル政府にドイツ人亡命者を逮捕する権利があるか否か。裁判はドイツ(当時の西ドイツ政府)で行うべきか、イスラエルで行うべきか。現在でも議論の別れるところであるが、ともあれ、イスラエルの秘密工作員はアイヒマンをドイツに引き渡さず、イスラエルへ拉致して、そこで裁判にかけることにした。アイヒマン自身もイスラエルで裁かれることを望んだ、と言われている。

 アイヒマンの発見と逮捕は、このように極めて劇的であったため、アイヒマン裁判の成り行きを含めて、彼の名前は日本でも大きな話題となった。
 もちろん私も関心を持っていた。そして私たちを驚かせたのは、アイヒマンは検事が挙げる事実を率直に認めながら、しかし罪の意識に悩んでいる様子を全く見せなかったことである。報道の伝えるところによれば、彼はユダヤ人の国の法廷で死刑の宣告を受けるだろうことを承知していながら、裁判に関しては極めて協力的だった。だが彼は、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳。みすず書房、1969年)の言葉を借りて言えば、
アイヒマンは自分は今告発されている罪の遂行を〈幇助および教唆〉したことだけは認めるが、決して自分では犯行そのものをおこなっていないとこれまで一貫して主張していた。更にハンナ・アーレントによれば、彼は次のように主張していたという。
《引用》

 自分は決してユダヤ人を憎む者ではなかったし、人間を殺すことを一度も望みはしなかった。自分の罪は服従のためであるが、服従は美徳として讃えられている。自分の美徳はナツィの指導者に悪用されたのだ。しかし自分は支配層には属していなかった。自分は犠牲者なのだ。そして指導者たちのみが罰に価するのだ。中略)
 
私は皆に言われているような冷酷非情の怪物ではありません。

 事実彼は、小柄な優男で、上司の命令にはあくまでも忠実な、中間管理職的な能吏の印象を与える人物だったらしい。この、どこの職場でも見かけるような、平凡な一小市民が、「服従という美徳」故に、ユダヤ人の強制収容所送りを積極的に遂行し、だが、収容所の中で起こったことについては責任がないと主張し、罪の意識すら見せない。そのことに私たちは衝撃を受けたのである。
 
 国家が一種自律的な意志をもって、官僚機構の機能性や効率性のみを追及して、ついに全体主義に至った時、アイヒマンのようなタイプが随所に現れて、実務レベルの実権を握り、「服従の美徳」に精神を昂揚させながら、人々に同じ昂揚を強制しはじめる。
 私はアイヒマン問題をこのように捉えてみた。それは、割合に早くから私は、『憑かれた人々』(新潮社、昭和24年)を始めとする竹山道雄の著作に親しみ、そのような捉え方を教えられたからである。――機会があれば、私は竹山道雄論を書きたいと思っている――その後、マックス・ピカートの『神よりの逃亡』(坂田徳男・佐野利勝・森口美都男共訳。みすず書房、昭和38年)や、『沈黙の世界』(佐野利勝訳。みすず書房)に惹かれていった。そのこともあって、ピカートの『われわれ自身のなかのヒトラー』(佐野利勝訳。みすず書房、昭和40年)などを通して、ナチズムやアイヒマン問題に関心を抱いていたのである。

○関心のずれ
 大江健三郎は裁判で、『沖縄ノート』の意図を、
普通の人間が、大きな軍の中で非常に大きい罪を犯しうるというのを主題にしている」と説明している。私は上述のような時代の雰囲気を思い出しつつ、そのモティーフを理解した。
 ただ、私個人は先のような書物を通して、大江の関心とは反対の側面、つまり過酷な戦争体験をした人たちが復員し、一見平凡な一市民としての日常生活にもどり得ている事実にも関心を持ち、畏怖の念さえ抱いていた。現在でも私は、元兵士だった人の回想記などを好んで読むが、それは、〈軍隊や戦場にもそれなりの日常がある。その日常を将兵はどのように過し、何を大切にしていたのか。この日常と戦後の日常の間に底流するものは何だろうか〉という関心があるからにほかならない。
 
 しかし、どうやら大江は、アイヒマンを元守備隊長とダブらせることによって、元守備隊長を〈目立たない一市民を装う「戦争犯罪者」〉として描き出す方向を選んだようである。

○大江健三郎の「だまし絵」的レトリック
 またしても寄り道をしてしまった。それというのも、次に引用する文章は、先ほど「○大江健三郎の「土民」をめぐって」の箇所で引用した文章に続く文章であるが、そのつながりを理解してもらいたい、そのためには大江がどのようなアイヒマンの言葉を念頭に置いていたかを示しておく必要があったからである。
《引用》
 
罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化、にせの被害者意識、それらのうえに、なお奇怪な恐怖をよびおこすものとして、およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感がある。すでにその一節をひいたハンナ・アーレントのアイヒマン裁判にかかわる書物は、次のようなアイヒマン自身の主張を収録していた。「或る昂揚感」とともにアイヒマンは語ったのである。
 
《およそ一年半ばかり前〔すなわち一九五九年の春〕、ちょうどドイツを旅行して帰って来た一人の知人から私は或る罪責感がドイツの青年層の一部を捉えているということを聞きました……そしてこの罪責コンプレックスという事実は私にとっては、謂うならば人間をのせた最初のロケットの月への到着がそうであるのと同じくらい、一つの画期的な事件となったのです。この事実は、それを中心に多くの思想が結晶する中心点となりました。私が……捜索班が私に迫りつつあるのを知ったとき……逃げなかったのはそのためです。私にこれほど深い印象を与えたドイツ青年のあいだの罪責感についてのこの会話の後では、もはや自分に姿をくらます権利があるとは私には思えなかった。これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するようにと提案した理由です。私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった。なぜならこの若い人々は何といってもこの前の戦争中のいろいろな出来事や父親の行動に責任がないのですから。》P,212~213)
 
 元守備隊長を主題とする大江の文章を読んできた読者は、文脈のごく自然な流れとして、
罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化」という言葉もまた、大江が元守備隊長を批判した表現だと受け取るだろう。
 ところが、次に
にせの被害者意識」という言葉が唐突に出て来る。「えっ? これ以前のどこかで、大江は、元守備隊長の態度や発言に関して、『にせの被害者意識』と呼びうるようなことを指摘していたっけ?」。読者は一瞬、そういう戸惑いを覚えるだろうが、実はこれは大江のだまし絵みたいなレトリックであって、アーレントのアイヒマン論に引用された、自分の美徳はナツィの指導者に悪用されたのだ。……自分は犠牲者なのだ」というアイヒマンの自己弁明に対する、大江の批判なのである。
 そのことを示すために、私は先ほど、アーレントのアイヒマン論からアイヒマンの自己弁明を引用しておいたわけだが、大江健三郎はそれを引用せず、隠し球みたいに伏せておいて、自己弁明に対する批判のほうだけをいきなり読者に提示した。元守備隊長について創り上げたイメージをさりげなくアイヒマンに横滑りさせる。つまり、元守備隊長に対する批判と読めてしまうような、
罪をおかした人間の開きなおり、自己正当化」という言葉を列挙し、次に何のことわりもなく、アイヒマン批判のにせの被害者意識」という言葉を並べて、両者をオーバーラップさせた。まことに巧妙なレトリックだと言えるだろう。

  また、この引用文中、 》の中の言葉は、アーレントが引用したアイヒマンの言葉であり、大江健三郎がそれを再引用したわけだが、この言葉だけを見ると、アイヒマンはドイツ青年の罪責感を取除くため、自己犠牲的に、イスラエルの法廷に自分の裁きを委ねたように聞える。
 だが、アーレントは一見ヒロイックな、この自己犠牲的な贖罪の意図を、
すべては無意味なおしゃべり」としりぞけてしまった。本当に自己犠牲の精神があったのならば、イスラエルの秘密警察に発見されるのを待つまでもなく、自ら名乗り出て「イスラエル政府に時間も手段も省かせてやれたはずだ」というわけである。アイヒマンのような男には、その死に臨んでも如何なる自己正当化の口実を与えてはならず、一片の自己慰藉も許してやる必要はない、と言いたかったのであろう。
 大江健三郎はアーレントのこの視点を借り、しかしアーレントの文章は引用することなく、自分自身の観点による言葉として、
およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感」と評したのである。

○〈見立てアイヒマン〉にされた元守備隊長
 大江健三郎の文章はこのあたりから、かなり奇妙な様相を呈してくる。彼は《 》内に、長々とアイヒマンの言葉を引用しながら、それについて何のコメントもつけない。いわば読者の前に、アイヒマンの言葉だけをポンと投げ出しておいて、話題を急に一転させ、再び元守備隊長の問題にもどって行ったのである。
《引用》
 
おりがきたとみなして那覇空港に降りたった、旧守備隊長は、沖縄の青年たちに難詰されたし、渡嘉敷島に渡ろうとする埠頭では、沖縄のフェリイ・ボートから乗船を拒まれた。かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろうが、永年にわたって怒りを持続しながらも、穏やかな表現しかそれにあたえぬ沖縄の人々は、かれを拉致しはしなかったのである。それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ。かれが日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したいと、「或る昂揚感」とともに語る法廷の光景を、へどをもよおしつつ詳細に思い描く、想像力のにがい自由をもつ(P,213)
 
 一体何が大江健三郎を駆り立てて、このように不謹慎なことを言わせたのだろう。
 沖縄の人たちはイスラエルのユダヤ人のように独立した政府を持ち、他国人を裁く権限を主張できるわけではない。渡嘉敷島は強制収容所だったわけではなく、赤松守備隊長は沖縄の人を強制的に渡嘉敷島へ送り込む、最高責任者だったわけではない。集団自殺と、強制収容所におけるガス殺害とは、もちろん同日に論じることはできない。
 このことはあまりにも自明なことであって、今更指摘するまでもないだろう。そう言って済ますこともできそうだが、私はそういう常識論では済まされないものを感ずる。沖縄をイスラエルになぞらえ、赤松守備隊長をアイヒマンに見立てること自体があまりにも不見識、双方に対して不謹慎なのである。
 
 さすがに大江は、
かれ(元守備隊長)はじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」という主張の不謹慎さには気がついたらしく、沖縄の人たちの「穏やかさ」を口実に、それ以上の主張は謹んでいる。
 だが、元守備隊長を日本のアイヒマンに仕立てたい動機を捨てることはできなかったのだろう。今度は、
われわれは、……想像力の自由をもつ」という口実の下に、架空の沖縄法廷に元守備隊長を立たせて、アイヒマンと同様の台詞を言わせようとした。江戸文学的に言えば、これは元守備隊長をアイヒマンに見立てることであるが、その元守備隊長に、日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したい」という〈見立てアイヒマン〉の役割を演じさせる。大江はそういう場面を、へどをもよおしつつ」しかし「詳細に」思い描いてみたかったのである。

○冒涜的想像力
 ここで改めて、大江健三郎が言いたいらしいことを整理してみよう。
①あのアイヒマンでさえ、
これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するようにと提案した理由です。私はドイツ青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった」と、贖罪の決意を語っている。
②だが、その贖罪の決意は、
およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感」以外の何物でもない。
③ところが、渡嘉敷島の元守備隊長は贖罪の決意さえ語っていない。
④では、この元守備隊長に、虚構の沖縄法廷で、
これがまた、この取調がはじまったときに私が書面によって……私を公衆の前で絞首するようにと提案した理由です。私は日本青年の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった」と語ってもらおう。
⑤語ってもらった上で、それが
「およそ倫理的想像力に欠けた人間の、異様に倒錯した使命感」以外の何物でもないことを暴き、その「倒錯した使命感」に反吐をもよおしてやろう。
 
 私は、一人の実在する人物について、このような想像的場面を語ること自体が、その人の人格を貶め、尊厳を傷つける、冒涜的な行為だと思うが、大江の
「倫理的想像力」とはそういうものだったのであろう。

○大江健三郎の論理的錯乱
 大江健三郎が思い描く沖縄法廷よりも、彼の想像力のほうがずっとグロテスクだ。私にはそう思われるのだが、彼は多分そんなふうに自分を顧みることなく、得々として書いている。
《引用》
 
この法廷をながれるものはイスラエル法廷のそれよりもっとグロテスクだ。なぜなら「日本青年」一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背おっていないからである。ハーレントのいうとおり、実際はないも悪いことをしていないとき、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。この旧守備隊長が、応分の義務を果す時、実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)人間のにせの罪責の感覚が、取除かれる。「日本青年」は、あたかも沖縄にむけて慈悲でもおこなったかのような、さっぱりした気分になり、かつて真実に罪障を感じる苦渋をあじわったことのないまま、いまは償いまですませた無垢の自由のエネルギーを充満させて、沖縄の上に無邪気な顔をむける。その時かれらは、現にいま、自分が沖縄とそこに住む人々にたいして犯している犯罪について夢想だにしない、心の安定をえるであろう。それはそのまま、将来にかけて、かれらの新世代の内部における沖縄への差別の復興の勢いに、いかなる歯どめをも見出せない、ということではないか(P,213~214)

 大江健三郎は一体何を言いたいのだろう。
 彼は
「「日本青年」一般は、じつは、その心に罪責の重荷を背おっていない」と決めつけているが、何を根拠にそう断定したのか。まずそこのところが分らない。
 そもそも「日本青年」一般とはどういう存在なのだろうか。

 それに、もし「日本青年」一般はその心に罪責の重荷を背負っていなとするならば、どうして彼ら「日本青年」一般が、〈見立てアイヒマン〉の「私はドイツ青年、いや、「日本青年」一般の心から罪責の重荷を取除くのに応分の義務を果したかった」という台詞を聞いて、さっぱりした気分」になれるのか。その心理的な経緯も分らない。
 それとも大江は、沖縄法廷という虚構の舞台を前提として、こんなドラマを構想していたのだろうか。つまり、「日本青年」一般は〈見立てアイヒマン〉が行った罪業の数々を知って「その心に罪責」を喚起されるが、最後に〈見立てアイヒマン〉の自己犠牲的な台詞を聞いてカタルシスに達し、
にせの罪責の感覚が、取除かれ」て、じつに「さっぱりした気分になる」と。
 これが一番妥当な解釈だと、私は思うが、とするならば、次のようになるだろう。つまり、〈「日本青年」一般の罪責感が、大江の言うように「にせの罪責感」でしかないならば、その理由は、虚構の沖縄法廷における演劇効果でしかなかったからにほからなない〉。
 しかしそれならば、この虚構の沖縄法廷が演じられる空間の中で、「日本青年」一般はどこに位置するのだろうか。

 しかし、どうやら大江健三郎は、自分が思い描いた沖縄法廷の演劇効果を主眼に、この箇所を書いたわけではないらしい。彼が問題にしたかったのは、彼なりに考える現実の日本の青年のあり方だったのであろう。
 それは分るのだが、そうすると、再び元の問題にもどってしまう。彼が言う「日本青年」一般とは実態的に存在した/するのか。
 なぜ「日本青年」一般は、その心に罪責を背負っていないと断定できるのか。
 当然のことながら、当時の日本には、
実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)」にもかかわらず、それとは別な次元で、沖縄の問題に無関心でいることができず、罪責感を抱える青年も存在したと思うが、大江はその罪責感を「本物」と見ているのか、それもまた「にせ」に過ぎないのか。

○軽率なハンナ・アーレント依存
 大江健三郎のこのような混乱は、ハンナ・アーレントをよく理解しないまま、それを下敷きにして、分ったふうな理屈を弄んだためだった。
 ハンナ・アーレントによれば、ヘブライ大学の教授で、『我と汝』の著者、マルティン・ブーバーは、アイヒマンの処刑を聞いて、
歴史的な規模の失策」と批判したという。その理由は、ドイツの多くの青年たちが感じていた罪責を解消するに役立つ」ことになるからだ、ということであるが、アーレントはその言葉を紹介した上で、次のように論じていた。
《引用》
 
何も悪いことをしていないときに罪責を感ずるというのはまことに人を満足させることなのだ。何と高潔なことか! それに反して、罪責を認めて悔いることはむしろ苦しいこと、そしてたしかに気のめいることである。ドイツの青年層は職業や階級を問わず、事実大きな罪を犯していながら一向にそんなことを感じていない権威ある地位の人々や公職にある人々に取巻かれている。こうした事態に対する正常な反応は怒りであるはずだが、しかし怒ることは甚だ危険であろう――別に生命や身体にとっての危険ではなくとも、履歴のなかでのハンディキャップになるに違いない。時々――『アンネ・フランクの日記』をめぐる騒ぎやアイヒマン裁判などの場合に――われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれるドイツのあの若い男女たちは、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼らは現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。

 分るように、アーレントは罪責感などというもので事を論ずることの不毛さ、あるいは無効性を語ったのであり、その中にはマルティン・ブーバーへの批判もこめられている。当然のことだが、この罪責感を「本物」と「にせ」とに別けて考えたりはしていない。大江健三郎はそういう発想のポイントを外したまま、言葉を受け売りしていたわけだが、大変逆説的なことに、アーレントの文章の結びはそのまま大江健三郎の批判として読めてしまうのである。「われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれる大江健三郎は、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼は現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである」。

 

|

« 幕間劇(2) | トップページ | 北海道文学館のたくらみ(24) »

コメント

私が思うに、パワハラは悪いことではないと思います。日常社会生活を営んでいる常識人は少なからず、国家や社会、地域で生活をしていれば、そんな事は、日常茶飯事です。そのことにいちいち、目くじらを立てていると時間のロスであり、そのことに対して人権侵害などと言われても構っていられません。本当におかしい事がこの世の中まかり通っているのは、いたし方がないことです、いまや、国家の首脳でさえ、パワハラに対して威厳ある態度で発言できない世の中です。権威ある人達ができないのに一般の人ができるわけがありません。パワハラと捉えられてもいたし方がない物言いの仕方や、態度など、実際その人間が今までに生きてきた教養や知性の表現方法なのですから、今から直せと言っても無理な話なのです。諦めが肝心です。

投稿: kameda | 2008年1月28日 (月) 17時08分

枝葉末節のちっぽけな言葉をとらえて、だらだらと書く人だ。論になっていないし、そもそも自分の立場をはっきりさせるのが先だろうに。
曽野といった人間性なき害虫について云々しても意味のないこと。

投稿: | 2008年2月 2日 (土) 12時20分

はじめまして。亀井先生の、どのようなテーマに対しても、簡単に結論を出さず、丹念に資料に当たって、もつれた糸を解きほぐすような学問的姿勢には、以前から敬服しております。毎回楽しみにしてます。

投稿: イナゴ | 2008年2月 5日 (火) 02時39分

大変詳細な大江批判・分析に敬服いたします。
いわゆる一般読者としても、あの「沖縄ノート」はおかしなレトリック満載と断じます。「あいまいな日本」とはノーベル文学賞作家・大江自身のことと理解していました。

さて。
>大変逆説的なことに、アーレントの文章の結びはそのまま大江健三郎の批判として読めてしまうのである。「われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれる大江健三郎は、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼は現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである」。(引用終わり)

大江のみならず、より若い世代のサヨク的知識人も、同様の感覚であろう。
高橋哲哉の「歴史/修正主義」(岩波新書)を読んで感じたことであった。
とにかく自身は「似非正義」の高みに置き、日本人及び日本の歴史を侮辱する物言いをおこなう輩である。
侵略者に向かって真っ先に白旗を振り、隠れ家を教え、仲間を裏切るタイプの、
自虐史観の持ち主というよりは、くもの糸を真っ先に伝い上がろうとするエゴイストなのである。

投稿: 中年z | 2008年3月 6日 (木) 18時16分

「曽野が紹介した「『命令はなかった』という2人の証言」も、「守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたもの」という印象はなかった。大江は「ニュートラルな証言」ではない、「他の人の傍証があるということがない」と言うが、曽野の『集団自決の真実』自体が十分に傍証たりえている。」

文学者だそうで、細かい議論をやっていますが、「ある神話の背景」で古波藏村長と安里巡査に対して曽野綾子が恩納河原に関して取材している内容がおかしいとは感じられなかったのですか。  あの問答から安里巡査に対する曽野綾子の取材が先行していることは明らかです。  

私は、「ある神話の背景」の嘘を多数見つけているので「ある神話の背景」は謀略文書と考えているのですが、他の曽野綾子擁護者同様、オーナーさんは論争を回避されますか。 それとも「ある神話の背景」の内容が真実だと個々の事項に関して具体的に説明して貰えますか。

投稿: 和田 | 2010年2月23日 (火) 14時25分

一年余り待ちましたが、削除されることも回答もありません。 
個別事項の摘示がないということであれば把握している一部だけでも摘示しましょう。 

大江の「沖縄ノート」での渡嘉敷自決に関する記述は本土の日本人と沖縄という視点からのエピソードとして7頁ほど書かれたものであり、本来「沖縄ノート」は渡嘉敷の事実調査の記載を横糸にさえしていません。 
だから、渡嘉敷の出来事をドキュメント風に書いた曽野綾子の「ある神話の背景」と同一に論じることは出来ませんが、私の以下の摘示は自身で諸文献などから総合的に判断したものであり、事実や証拠により論じられるはずのものです。

曽野綾子が語ったことを最初に、私が判断したことを()で記します。

曽野は、司法制度審議会・正論・willなどで「ある神話の背景」の取材において赤松隊の隊員と一人一人個別に会ったと主張する(青い海の写真などから、大阪とは別に名古屋・東京で複数の赤松隊隊員と会合)。 赤松隊の泛水途中で潮位が干潮へと変わった(当日の那覇は0時干潮、6時満潮で嘘)。 出撃しようとする際、富野が先頭だったがエンジンが故障した(本人の証言で知念が先頭だった)。 大町大佐はクリ船での沖縄帰還を考慮した。(すでに徴用した漁船(鰹船)の安否を問うたが既に米軍爆撃で消失)。 3/26に安里巡査が赤松を訪問した(安里本人を含めすべての証言は3/27)。 赤松は大町大佐来島前にマルレ1/3泛水(軍事研究2005/3月号での1963年皆本回想では大町大佐面談まで出撃命令を知らず、軍夫が含まれる特水勤などは偵察で集まるのが遅れふだん1時間半で出来たことが5時間かかった。1/3泛水ありえず)。 大町大佐は巡視のため、3/22那覇を出航し、阿嘉島から渡嘉敷に向かった。(3/19台湾への陽動爆撃終了により、20日大本営は米軍の目標を沖縄と断定。21日沖縄軍再編命令。このような状況下で大町大佐が巡視だけの目的で那覇を出航するわけがない。それほど日本軍が無能だったとは信じられない。同乗の7/15が通信兵であり、通信兵の多くは15人に入らない鈴木元基地隊隊長などと共に出撃準備のため各島に先行配備されたとみるのが至当。大町大佐は阿嘉から沖縄に向かう途中米軍に襲撃され、やむなく渡嘉敷に避難。)  3/25第一中隊は泛水不可能(泛水していた)。

なお「ある神話の背景」に関連はないが、私は吉川嘉勝・伊礼蓉子・金城武徳が証言する古波蔵村長に耳打ちした防衛隊の伝令・手榴弾自爆で死亡した防衛隊・北山移動命令の伝令は同一人物である可能性が高く(通称、松川の兄さん)彼が自決命令を伝達したと考えている。

「ある神話の背景」は赤松と曽野綾子による謀略本です。 沖縄軍は沖縄住民を公的にも「土民」と呼んでいました。 屠殺は南京屠殺と同じ文脈です。 東京裁判当時、南京攻略軍の生き残りは多かったのに、松井石根大将をB級戦犯ではなく、無罪だとする大きな国民運動は起きませんでした。(フィリピン関連での運動は良く知られていますが)。 つまり1970年からの百人斬り・ネッソス向井・野田を理由とする南京虐殺否定論は後出しじゃんけんです。

赤松と曽野綾子はネッソス向井・野田を凌ぐ卑劣な自作自演を演じたのです。

もう一つ、自決時に阿波連住民は二手に分かれ、一方は助かり、一方は渡嘉敷ホームページにより死亡率が非常に高く高齢者・一人世帯の死亡者が多い。 このことは15才未満・40才前後の者が爺さん・婆さんを手にかけたことを意味し、そのことと血縁の薄い者が援護金をもらったことを理由に赤松等は、儒教思想に染まったままの住民を脅した。現在、秦郁彦などが金城牧師を非難するのと同じ手口だ。 

狼魔人は新城兵事主任が強制されて嘘の手榴弾配布証言をしたように語るが「ある神話の背景」で谷本小次郎は、子供にまで勲章を与えたと新城をなじっている。 「青年の家」招致や上記の理由から赤松と行動を共にした新城だが既にその頃から不協和音は生じていたのだ。 ささやかな勲章請求まで非難するくらいだから、隊員は違うが、富野の「清らかな死」発言は心にもない嘘だ。 「民族の叙事詩」などとんでもない。 靖国への殉死の強要でしかない。

投稿: 和田 | 2011年3月 9日 (水) 17時40分

あなたが私に答えない理由は北海道文学館のたくらみ(42)にある以下に表現されているようです。

    「言語テクストを論ずる場合は、けっして裏読みなどせずに、あくまでも言語表現それ自体の構造を解明する。それが私の方法だからである。・・・・」ところが和田という者は「政治現象の上っ面を撫でただけの二項対立の図式」で私(亀井さん)を論じている。 それでは論点が絶対に噛み合うはずがないから無視するまでのことだ。
それでは、そのような観点も取り入れて論評します。 一つ一つ微細に検証することにやぶさかではありません。

あなたは、「沖縄ノート」と「ある神話の背景」を平等に(けっして裏読みなどせずに、あくまでも言語表現それ自体の構造を解明)評価などしていない。

幕間劇(3)にはこうある。曽野綾子の「集団自決の真実」について「 曽野が紹介した「『命令はなかった』という2人の証言」も、「守備隊長を熱烈に弁護しようと行われたもの」という印象はなかった。大江は「ニュートラルな証言」ではない、「他の人の傍証があるということがない」と言うが、曽野の『集団自決の真実』自体が十分に傍証たりえている。」と何の証拠も根拠も示さず、単に曽野の語ることを信じて傍証たり得ていると断定し、評価している。

一方で大江については「赤松元守備隊長は、「渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じた」ことを認めている。・・・・だが、私は自分が手に入れた限りの文献を読み直してみたが、赤松元守備隊長がB級戦犯やC級戦犯の判決を受けた様子はない。また、公職追放の結果、故郷で肥料店を営むことになったわけではないらしい。
 もし大江が、それらの事実だけでも十分に「戦争犯罪」を構成すると考えたのならば、それを彼自身の手で立証しておく必要があっただろう。」と評価する。 
 沖縄ノートを言語表現自体で判断したとして、赤松が戦犯として判決を受けているという表現はどこにも見出すことはできない。 大江は本土の日本人と沖縄を論ずる傍論で、赤松のことを持ち出したのであり、文章の流れからいって、戦争犯罪を立証する必然性はなくそれまでの大江の文体同様法律的な論議をしているのではなくて、本土と沖縄との関係のたとえの一つとして論じていることは誰が読んでも明らかである。

一方「集団自決の真実」そしてその前身である「ある神話の背景」は渡嘉敷の集団自決の(神話)を検証するという明確な目的をもってドキュメンタリー風に書かれていることも言語表現それ自体の構造から明らかである。 両者は性格の違う言語テクストなのであり、「ある神話の背景」は実際には集団自決について嘘と隠蔽を散りばめ、人々を騙す明確な意図をもって書かれたものではあるが、ノンフィクションの体裁をとっていることは誰も否定できない。

  あなたは、「集団自決の真実」が傍証たり得ているというが、それはいかなる理由からであろうか。  その時点で誰もが、もしくは大多数の者が曽野綾子の「ある神話の背景」を真実だと評価しているわけでも、赤松の軍命令がないことが証明されていたわけでもない。 あなたは、「ある神話の背景」に書かれたことを事実と認定する人達と共同主観を共にしているに過ぎない。

そして、大江が沖縄ノートを連載している頃、渡嘉敷の集団自決において多数の人に信じられていたのは「鉄の暴風」の記述であったことも否定できない事実である。
大江は「鉄の暴風」などの記述を共同主観として信じていたことは事実だろう。 しかしあなたが1970年において大江が信じた共同主観を難じる一方で、大多数の共同主観となっていない「ある神話の背景」を真実と断定する根拠は何なのか、私はそこが問われるべきだと思う。 

そもそも、俳句や短歌など字数が限られる詩歌の解釈では想定や裏読みが避けられない。法廷での弁論では裏読みや想定は出来るだけ避けるべきであるが実際には避けられない。

そういうわけで、言語表現それ自体の構造を解明する作業は必要だが、表現しきれない部分や表現者をとりまく状況にも触れざるを得ないのが文学だと思うがそうではないのでしょうか。 文学より歴史、歴史より社会学、社会学より法廷に提出される準備書面のほうが言語表現それ自体の構造で客観的に事実を表記すべきであるが、実際にはその人物がどんなに公明正大な人物であろうとも、各人の環境により持ち込まれる共同主観や志向性などにより、事実を見誤ることもありうる。 そのような見誤りやバイアスはやはり、指摘されるべきであろう。   

もちろん曽野綾子のように(少なくとも赤松隊の一人一人と個別に会ったという嘘と泛水中満潮から潮位が変化したという嘘は完全無欠な嘘と考えるがそれさえも否定されますか)初めから謀略的意図を持った言語テクストなど論外なのであるが。

投稿: 和田 | 2011年3月11日 (金) 18時38分

亀井様
私が前回やっていることは、あなたが大江「沖縄ノート」に対して難詰めしたことと同じ手法を用いて、曽野綾子「ある神話の背景」に対して難詰めしている、そのことは理解頂けたと思います。  ところで、私自身はこのことについて、あなたの回答をもらうことを目的としておりません。 私自身は「ある神話の背景」の記載と諸文献を比較対照検証する作業を3年以上続けているので「ある神話の背景」が謀略文書であることに何ら疑問を持たず、だからこそ安んじて曽野綾子を、あばずれ、毒婦、劣女と侮ることができるわけです。

もっとも、私が再発見した「ある神話の背景」の嘘と隠蔽30項目くらいあっても、共謀の当事者達-曽野綾子・赤松・皆本・富野・谷本・遠藤幸雄等-に身に覚えのある嘘と隠蔽総数の半数に満たないことを恐れます。  まず、あなた自身があまり「ある神話の背景」に書かれた事実関係を照合することなく、何らかの予断をもって、「ある神話の背景」に書かれたことは正しいという心証を得たことは、大江が「鉄の暴風」などの情報に基づき、赤松を悪く書いた(これは事実であり、大江の証言は弁護士サイドの法廷技術上の要請で持説を曲げたきらいはあると考えています)ことと同様(実際にはそれ以上なのだが)であり、あなたも現象的には反対の立場であっても論理的には同じ事をしていることは否定できません。

私自身は、あなたが検証無しにそのような心証を得るに至った事情を日本というより、東アジアあるいはロシアを含めた前近代性に求めたいのです。

そのことを検討する前にあらかじめ私の考えは、あなたに一致し、叉は近い部分もあることをはっきりさせておきます。方向性としては縦軸・横軸に限らず高さ軸等もあり、全ベクトルが真反対の人間などありえないと思います。 「中韓は日本の永遠の敵」などと主張するサイトもあるが、過去に友好的な関係を結んだこともあるのであれば、そのようなことは言えないはずです。また国民の考えは多様であり、教科書は自由化すれば良いと考えます。 またマラソンをすれば一番から最下位まで順位がつけられ、棄権者も出るので高校全入とか、通学の便を無視した総合選抜とかのみせかけ平等に反対です。 さらに農業就業人口がGDP比と同じ0.5%に近づくことが、農業が産業として自立する道と考えいわゆる保護主義に反対です。 また、特定時期の特定地域は、一色でなく多様でなければならないと考えています。 しかし、あなたは徹底せず、前近代的な考えに囚われている。


最初に問題となるのが、あなたがニューヨークタイムスの1945/3/21の慶留間島住民に対して軍人が自決話(暫定的表現です)をしたという事実に対して原告のtellを「命令ではなく、単に親切で言ったにすぎない」という主張に同調し、それが「ある神話の背景」の内容を信じる要因の一つになっているらしいことです。  「言語表現それ自体の構造を解明する」といっても話された地域と状況を離れて解明できません。 現況英訳ソフトは直訳で支離滅裂な和訳になることがあります。 原告の解釈の他、米軍とジャーナリストは軍に自決命令を出す権限があると夢想だに出来ずtellと英訳した、住民が自決命令を伝達されたという状況をtellと英訳したという想定もありえるのだが、あなたの脳裏には浮かばなかった。 親切だという、原告の主張を含む解釈があなたの「ある神話の背景」の事実照合性の心証に寄与したというのなら、あなたは無理心中という前近代的な人間の私物化に近親性を感じていることになる。

  戦前の皇国史観の公認解説書などにやたらと「一体」という語が頻出する。 親子一体・夫婦一体などをダシにして天皇と臣民の一体性を説き、深遠な概念だから批判は許さぬと思考停止を求め、錬成に邁進させる。 あなたは、少年時のそのような雰囲気に親近感を憶えていたから、それに親和性のある「ある神話の背景」が真実であると感じただけではないのか。

投稿: 和田 | 2011年3月25日 (金) 16時12分

私が曽野綾子の「ある神話の背景」に対して、自作自演の疑念を抱いたのは太田・曽野論争http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060918/sono01より曽野言動引用(そういうわけで私は今、太田良博氏の「沖縄戦に“神話”はない」に反論するにもっともふさわしくない心情にいる。沖縄戦そのものは重大なことだが、太田良博氏の主張も、それに反ばくすることも、私の著作も、現在の地球的な状況の中では共(とも)にとるに足りない小さなことになりかけていると感じるからである。)
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060920/sono03 より曽野言動引用(太田氏は、「『赤松証言』に曽野綾子氏は重点を置いている」と言うが、私は赤松氏とは、ほかの人ほど接触しなかった。こういう場合の当事者が何をいttも弁解だということになることは目に見えているから、私はむしろエネルギーを省きたかったのである。はっきりしておきたいのは、私が赤松氏をかばう理由は何もないということだ。私は赤松氏の親類でもない。取材の時に一度訪問したことはあるが、それ以来遺族との交渉もない。)

前記曽野の反論に対して私は、これは嘘の可能性が高いと感じた。 私の父母は大嘘つきでこのパターンの反論は嘘であることが多いことを経験的に知っていたからである。 まず、アフリカの問題を持ち出して話をそらす必要はない。 自決問題は、人類が血縁的差別と血縁的隷属の観念により、他民族を虐殺し、自民族にも自決を強いることがあったのか、なかったのかという、これ以上重大なテーマはないくらい深刻な問題である。 それを何故他の事案にすり替えるような態度をとるのか。 次に赤松との接触は別にあってもかまわないが、赤松証言を検証する根拠と論理ではなく、赤松をかばう理由がないという論証不可能な反論をする論者は自作自演をしていることを隠してそのような言動をしていることを経験的に私は身にしみて知っている。

しかし、反論にふさわしくない言い分に違和感を感じたと、しても曽野綾子の嘘と隠蔽は何一つわかっていなかった。  以外に早く赤松の雑誌投稿の写真で、赤松隊の隊員と一人一人個別に会ったという証拠に出会った。 その後は文献や証言と付き合わせ、たぶん嘘だろうと考えた事項はことごとく嘘だったことがわかった。

さて、あなたが「ある神話の背景」の記述を事実であると安易に信じたのはあなたの主観のせいである。 高市早苗という前衆議院議員は「私は戦後生まれだから戦争責任など感じない」と語った。 私は大筋で正当だと思っているが、高市はその一方で自虐史観などと新しい歴史教科書を作る会に荷担する。 二枚舌であろう。戦争責任を感じないなら自虐も何もない。
そこであなただが、http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/dojidai/history_2_14.htmlで語っていることと高市早苗との類似性を見出すことができた。 引用しよう。 ( 一方では、自分が手を汚したわけではないという無実の意識を持ちながら、他方では、「日本人」というナショナリティで括られて、汚名性を負わされ、その間のギャップを調整できない。そのために、かえって自分にスティグマを見出すかもしれない人たちに対して、そのストレスのはけ口を求め、攻撃的な行動に出てしまう。もしそうでないとすれば、自分のナショナリティにスティグマを見出し、パニックに陥って、大急ぎで自分をスティグマのない無垢な人間に仕立て、「戦争中だけでなく、今でも日本のしたことを否定したり、隠そうとする人」にスティグマを押しつけずにはいられない。)
スティグマの反面が自虐と言っているのだろうが、戦後生まれの日本人が戦前の出来事に対して自虐感を持つとすれば、戦前の日本人と自分を重ね合わせているから出来るのだろう。 実際、私は天皇の臣民として死ぬことなど、インカ王やファラオのような神の化身に忠誠を誓わされ、軍人精神注入帽で虐待されることを喜ぶことであり、これこそ正真正銘の自虐と思っているので戦前の日本がやったことに自虐など全然感じない。
もはや明らかだろう。 あなたは近代主義を装ってはいるが、前近代的な血縁的差別と血縁擬制の欺瞞的一体化たる血縁擬制序列を前近代的なものとして否定しない。 キリスト教は血縁とは無縁の愛を説くが、儒教は五倫五常という血縁的差別に基づく愛を説く。 最も儒教は仁という別の愛をも説いており、殷等の純粋血縁擬制序列の系譜から離脱して構造主義的な変換あるいはもっと大規模な意味転換により、普遍的な何かに発展する可能性はあるのかもしれない。 
私は曽野綾子の集団死を尊厳死とする考えは戦犯を殉難死とする靖国思想に近く、これに輪をかけているのが徳永弁護士の「民族の叙事詩」論と思う。  私はあなたが靖国思想に共鳴したからこそ曽野綾子の嘘を見抜けなかったのではないかと思う。
あなたはゲマインシャフトに郷愁を感じ、歴史、文化、伝統の三位一体的解釈と政治への干渉を容認し、和魂洋才に惹かれる前近代精神の持ち主であり、近代主義を偽装しているに過ぎないのではないか。

投稿: 和田 | 2011年4月22日 (金) 17時00分

曽野綾子と北一輝
北一輝は怪文書を乱造していたことで知られる。 曽野綾子の「ある神話の背景」が自作自演の怪文書であることは既に証明されている。 ここでは、テロリスト朝日平吾の「死の叫び声」が朝日平吾自作だったのか、北一輝の創作だったかを検討する。

立花隆は「天皇と東大」の中で名前を挙げず「死の叫び声」は北一輝作だとする。おそらく自分の意見である。ただ文体が北のものだといいながら具体的な類似表現は挙げていない。同書で立花は、正真正銘の言論抑圧魔、蓑田胸喜を精神異常者と断じている。 どちらも、朝日・蓑田のようなテロリストを糾弾したいがための早すぎる断定の感がある。これに反し、あなたが関係した北海道大学の中島岳志は、北作成説は当初から存在したが、何の証拠もない憶説に過ぎないとする。

私は、北一輝の文体から「死の叫び声」は北一輝作という結論に達した。文体はあなたの得意分野ですね。 死の叫び声Aは下記に掲載されている。
http://shinkoku.exblog.jp/10012543/
一方、死刑宣告された北一輝の実子として育てた養子に対する本物の遺書Bを下記に示す。
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~yasunaga/contents.4.html
Aは怒りと扇動の文書であり、Bは悲しみと慈しみの文書で相当に文書表現は異なっているが遺書という形式を同じくしている。 そして、「なり」と「べし」という語尾が多用されていることがわかる。特にBに甚だしい。 そうすると、朝日平吾がこれほど「なり」と「べし」を多用していたという証拠がない限り、北一輝作成説を持ちたい。

そのように考えると思い当たる筋が多々ある。 まず、朝日が北一輝に傾倒していたことは周知の事実であり、テロを実行するほどの人物が死ぬ前に傾倒者に一度も会わなかったということは考えにくい。 北一輝は朝日の安田テロに対して実行前夜、夢に現れた人物が朝日その人であったとの霊告を告げているが、商売シャーマンが客席にサクラを配置し悩みをあらかじめ聞き出した上で霊告を与える手法を思わせる。 そう、自作自演。
さらに、中島の著作に引用された朝日の親友奥野の「嗚呼、朝日平吾」によれば、朝日はテロ決行一月ほど前、ひどく憔悴し世をはかなんでいる様子だという。 9.11の実行主犯アタは「着陸訓練などいらない」というほど前のめりであったし、血盟団のテロリストにもテロを躊躇していた様子はない。 赤松隊の結城伍長は知念によれば、マルレ自沈を命ぜられても「出撃する」といって聞かず船を沈められても操縦桿を離さないほど自爆に前のめりになっていた。 朝日は自分の発想で、心から望んだテロではなく、北と密会し「テロの先駆者になれば名を残すぞ」と扇動され実行したにすぎないから前のめりでなかったのではないか。

こういう人もあろう。朝日はテロ決行直後自決した。これこそ、朝日がテロに前のめりであった証拠である。 実は朝日以後のテロは血盟団を含め、テロ直後自決したケースがほとんどない。浅沼を殺した山口二矢は収監後、かなり時間を経た自決。 朝日以前のテロリストに直後の自決が多いのは、奸物を殺害しても大官は大官。 身分の低いものが高い者を殺害することは罪が重いとの自責=儒教的血縁序列発想から自決していた。 朝日は皇道派同様、血縁序列派ではなく、一君万民・天皇の赤子という血縁擬制派であり、大官を身分的に尊重する気配はまったくないから、自決する理由に乏しい。通常は、磯部淺一のように自決することなく、血縁序列派を呪詛し、自己の主張の正当性を宣伝し続けるものなのだ。
要するに、自決せず生きていれば、北との関係がバレテしまうから自決したのではないか。

朝日には「斬奸状」Cというもう一通の遺書があった。通常、遺書は一通。
http://binder.gozaru.jp/heigo.htm
AとCを比較するとCのほうが後筆であるのに文書が退行しており、推考の後が見られない。北創作の「死の叫び声」だけだと朝日個人の遺書が世に残らないことを懸念し、朝日平吾自身がAを真似て作ったのが「斬奸状」ではないか。出来が悪いのは、朝日の知性のなさのせい。 通信事情の悪い時代だったにも関わらず、「死の叫び声」は急速に世に普及したという。 これは、あらかじめ北と朝日が準備していたから出来たことではないか。

ともあれ、私は曽野綾子の「ある神話の背景」を「死の叫び声」のようなテロ誘発を招く存在にすることは、ためにならないと考えている。

投稿: 和田 | 2011年5月 7日 (土) 15時23分

朝日の日本人と人間
藤原正彦が「国家の品格」などで「論理より情緒のほうが、価値が高い」との主張をしている。 無条件に論理より情緒のほうが、価値が高いという命題が真実といえるのか。このような東アジアに根強い観念が災いと停滞をもたらしているのではないか。 未だにフレイザー「金枝編」の記述のように天変地異を天の怒りで、王が生贄になれば災いが避けられるというような思考が続いているのではないか。

なるほど、芸術では論理より情緒のほうが重要であろう。しかし、王より飛車をかわいがると結果が悪い分野はある。それだけで、その命題は分野によって真実性が異なることがわかる。 次にある人間叉は集団の情緒と他の人間叉は集団のそれらとが異なる、あるいは対立する場合、どのような基準でどちらが、価値が高いといえるのか。 そのような場合には、所詮、情緒の価値とは我欲を肯定する感情に過ぎないことがわかるだろう。

数学や物理法則が美しい形になっている場合があったとしてもその法則が単純か、シントメリーであるか、撹乱要素が少ないからであろう。 社会事象は関連要素が多いため、撹乱要素も多い。 そのような雑然として不透明で、不確実な事象は頭が混乱するので汚いと感じ避けるように人間は進化したのではないか。
論理を行為、情緒を思いと言い替えれば、アジアに根強い心情主義の前近代性が見えてくる。

歴史的に考えると呪術の本質は行為であり、祭祀の本質は思いである。 確かに現象としては、祭祀は共同主観を踏まえた象徴行為であり、祈願・祈念などの行為が不可分な要素としてある。しかし、アフリカの乾燥過程のために人類が進化し、動物の骨髄を食べ、狩猟を開始したことが自然からの離脱の始まりでそこから呪術は発生した。 呪術とは似非(擬似)技術であり、現実には無い法則を共同主観として有ると考えることを前提として、「偽の法則」の意識的適用、叉は「偽の法則」の物的集約-機械化を企図するもの。

呪術には行為だけでなく結果が重要。そのことから同じ行為を繰り返し(物理量の増加や少しだけ方法の変更をしても)、失敗し続けると、この行為を続けても無駄ではないかとの認識が生まれうる。呪術は錬金術を中間項として、実験→近代科学へと進化する可能性を秘めていた。

しかし、祭祀はそうとは限らない。 象徴行為を続けて失敗続きであったとしても「私(達)の思いが不足しているから」ということで思いを強めることに専念する人達がいる。 祭祀を棚上げにして、実際にはプラグマチックな対応をする場合には、まだ救いがある。 しかし、自分たちが思いを強めるだけでなく、他に強要し、あるいは自分たちの共同主観が唯一正しいものだとするに至ってはそのような者達は世の中に災いしかもたらすまい。

原始、近親婚による人体劣化を防ぎ異集団の物品を交換し、技術交流を行うという目的から、集団間で配偶者の交換が行われ、共通の祖先を持つという血縁擬制を核として氏族が創設された。ということで氏族の始まりは、異集団を共同視することにより共通の利益を得ることにあった。 しかし、時代が下るに連れ、部族の中でも序列が生まれ、異民族は禽獣扱い。 血縁イデオロギーはむしろ血縁的差別を本質とするようになる。

 東アジアでは、律令制-公地公民を奴隷制ではなく、意識では半ば平等な血縁擬制序列と把握したために、その後も氏神信仰などの血縁擬制が再生し、明治維新は大和民族の宗家である天皇による復古とされた。

総力戦体制を準備した平泉澄の「真の日本人」は、血縁擬制序列にとどまらず、錬成によるプラグマチィズムにより、大和民族の拡大我欲を満足させようとした。 平泉の「真の日本人」アイデアが生まれたのは、朝日平吾の「死の叫び声」に書かれた「真正の日本人」より10年程度後のことである。橋川文三は、朝日の「真正の日本人」概念は、むしろ「真正の人間」というべき普遍的なものとする。 そうであるためには朝日(あるいは朝日からの聞き取りを北一輝が微妙に意味変換をしている可能性があるが)は、中国・朝鮮住民などへの民族蔑視がなく、「天皇の赤子」概念を血縁的にではなく、儒教的義理としてのみ把握していることが必要と思われるがどうであろうか。

故郷を失い、流浪する青年が土地に結びついた共同性を失い、自我を発見すると共に普遍的な「真正の人間」を希求したというのが橋川文三説であるが、それは橋川自身の日本浪漫派体験をなぞった-投影した-ものであり、朝日平吾にも当てはまるとは限らない。

投稿: 和田 | 2011年6月17日 (金) 16時08分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/127704/17786681

この記事へのトラックバック一覧です:  幕間劇(3):

« 幕間劇(2) | トップページ | 北海道文学館のたくらみ(24) »